はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、漢中の戦いから最後までだよ。
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 3
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 4
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 5
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 6
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 7 ← この記事だよ
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
漢中へ
劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。
劉備は、張飛、馬超、呉蘭たちを下弁に駐屯させたよ。曹操は曹洪に対抗させたよ。
反乱を討伐する
二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,(註130)必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。(註131)(註132)(註133)
建安23年(218年)、春の正月、漢の太医令の吉本が、少府の耿紀、司直の韋晃たちと一緒に反乱を起こして、許を攻撃したよ。彼らは丞相長史の王必の陣営を焼いたけど、王必は潁川の典農中郎将の厳匡と一緒に彼らを討って斬ったんだ。
魏武故事載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌乆未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」
『魏武故事』によると、曹操は命令を下してこう言ったよ。
「長史の王必は、私が困難を押しのけてきた時からの役人だよ。忠実で能力があって、心は鉄石みたいで、国にとって優れた役人だよ。彼がつまずいたり、誤った道に入ったりしたことはなかったけど、私は優れた馬を放ってそれに乗らないで、改めて求めることをするの? だから、彼をふたたび使って、適切な役職を与えて、前と同様に長史の職務を継続させることとするよ」
三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。
『三輔決録』の注によると、ある時、京兆の出身の金禕という人がいたんだ。字は徳禕だよ。彼は漢の臣下の家の出身で、金日磾が馬何羅を討伐して忠誠心を示して、名声を築いていたんだって。彼は漢の王朝が衰えることを感じて、自分がその運命を変えられると信じて、耿紀、韋晃、吉本、吉本の息子の吉邈と吉邈の弟の吉穆たちと一緒に計画を練ったんだって。
耿紀は、字は季行で、幼い頃から評判が良かったんだって。彼は丞相掾として仕えて、曹操は彼をとても尊重して、後に侍中に任命して、少府を担当させたよ。
吉邈は、字は文然で、吉穆は、字は思然だよ。金禕と同じで金日磾みたいな性格だったんだって。彼らは王必とも仲が良くて、この関係を利用して、王必を殺したら天子を支配して魏を攻撃して、さらに劉備を支援しようと考えていたんだ。
時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,必竟以創死。
その時、関羽は勢いづいていて、曹操は鄴にいたよ。王必は許の兵を管理する任務を担当していたよ。吉邈たちは使用人たちを率いて、夜に門を焼いて、王必を攻撃したんだ。金禕は内部から協力者を送って、王必の肩を射抜いたよ。王必は誰が攻撃しているのかわからなかったんだ。彼は以前から金禕とは親しい間柄だったから、金禕のもとに逃げ込んだよ。夜になって、王必は「徳禕」と呼んだけど、金禕の家族は王必なのか分からなくて、吉邈たちだと思っていたんだ。だから、彼らは混乱した返答をしたよ。
「王長史(王必)はもう亡くなったの? あなたたちの事は成功したよ!」
王必は別の道を駆けて逃げたよ。
他の説では、王必は金禕のもとに逃げようとしたけど、彼の部下の指揮官が王必に尋ねたよ。
「今日の事は誰の門かわからないのに(誰のところが安全かわからないのに)、どうして彼の家に逃げるの?」
彼は王必を助けて、南の城に向かったよ。夜が明けると王必はまだ生きていたけど、吉邈たちは散り散りになって逃げて、敗北しちゃった。十数日後に、王必は矢創が原因で亡くなったんだ。
獻帝春秋曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。
『献帝春秋』によると、耿紀や韋晃たちが捕らえられて、斬られる寸前に、耿紀は曹操の名を呼んだよ。
「私が自分の意志で行動していれば、これほどまでに子供たちに騙されることはなかったのに!」
韋晃は頭を下げて地面に叩きつけて、死んでしまったの。
山陽公載記曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。衆人以為救火者必無罪,皆附左;王以為「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。
『山陽公載記』によると、曹操は王必の死を聞いてすごく怒って、漢の百官を鄴に呼び寄せたよ。彼は、消火に協力した人を左側に、協力しない人を右側に立たせたよ。たくさんの人たちは、協力した人は罪を犯していないと考えて、みんな左側に集まったよ。でも、曹操は「火を消さない者が乱を助けているのではなくて、火を消す者が実際には敵だ」と考えたんだ。そして、彼らをみんな殺してしまったの。
曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。
曹洪は呉蘭を破って、将の任夔たちを斬ったよ。三月、張飛と馬超は漢中に逃げたんだ。そして、陰平の氐族の強端が呉蘭を斬って、首を届けたよ。
夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。(註134)
夏の四月、代郡と上谷の烏丸族の無臣氐たちが反乱を起こしたよ。鄢陵侯の曹彰に彼らを討伐させて、反乱を鎮圧したよ。
魏書載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興于外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」
『魏書』によると、曹操は命令を下してこう言ったよ。
「昨年の冬、疫病が発生して、民は苦しんでいるよ。外では軍を興しているから、農地の開墾が減少していて、私はとても心配しているよ。そこで、役人や民に伝えるよ。70歳以上で夫や子供がいない女性、12歳以下で両親や兄弟のいない子供、目が見えなかったり、手が使えなかったり、足が動けなかったり、妻や子供や両親や兄弟も財産もない人には、食料を国が支給するよ。幼い人は12歳になったら支給を停止するよ。自分で生計を立てられない貧しい人には、人口に応じて援助するよ。また、年老いて養われる必要があって90歳以上の人は、一家で1人の課税と労働を免除するよ」
生前の墓について
六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容。」
六月、曹操は命令を下してこう言ったよ。
「昔の墓は、痩せた地に作られていたんだって。だから、西門豹の祠の西の平原の上に寿陵(生前の墓)を作ってね。その高い場所を利用して、土を盛ったり木を植えたりしないでね。『周礼』によると、墓を管理する人がいて、諸侯は左右の前方に、卿や大夫は後方に埋葬されていたんだって。漢の制度でも、これを陪陵と呼んでいるんだよ。卿や大夫、功績のある将たちは、功績のある人たちは寿陵に沿って埋葬されるべきだから、広い土地にして、収容できるようにしてね」
西門豹は、戦国時代初期の魏の政治家だよ。彼が悪い風習を滅ぼして、灌漑事業を頑張って、鄴を発展させたから、魏は大きくなったんだよ。詳しくは『史記』「滑稽列伝」を見てね。
「古之葬者,因高為基,不封不樹」は、『日本書紀』に引用されているよ。『日本書紀』卷第二十五(孝徳天皇)の「甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。~」の後に続く文章。
劉備を討ちに西へ
秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。
秋の七月、曹操は軍を整えて、劉備に向けて西に出発したよ。九月、長安に着いたよ。
冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。
冬の十月、宛を守る将の侯音たちが反乱を起こしたんだ。南陽太守を捕まえて、役人と民を脅して、宛を占領したんだ。最初に曹仁が関羽を討つために樊城にいたんだけど、この月に曹仁に宛を包囲するように命令したよ。
二十四年春正月,仁屠宛,斬音。(註135)
建安24年(219年)、春の正月、曹仁は宛で攻撃して壊滅させて、侯音を斬ったよ。
曹瞞傳曰:是時南陽間苦繇役,音於是執太守東里襃,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共戮力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。
『曹瞞伝』によると、この頃、南陽の地域では過酷な労役に苦しんでいたんだって。侯音は南陽太守(郡の長官)の東里袞を捕らえて、役人や民たちと一緒に反乱を起こしたんだ。そして、彼は関羽と連携したよ。南陽の功曹の宗子卿は、侯音にこう言ったよ。
「あなたは民の心に応じて、大きな事を成し遂げているよね。遠くの人たちも近くの人たちもみんな、あなたの成功を待ち望んでいるよ。でも、今あなたが郡の将を捕らえたのは逆効果で、利益が無いよ。どうして彼を追い出さないの? 私たちはあなたと一緒に力を合わせて戦うよ。曹操の軍が来れば、関羽の軍も着くだろうね」
侯音はそれに従って、東里袞を釈放したよ。宗子卿は夜に城を脱出して、その後、東里袞と一緒に残った人たちを集めて侯音を包囲したよ。そして、曹仁の軍勢が着いて、一緒に侯音たちを撃破したの。
夏侯淵與劉備戰於陽平,為備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平。備因險拒守。(註136)
夏侯淵は劉備と陽平で戦ったけど、劉備に討たれちゃった。三月、曹操が長安から斜谷を出て、漢中に向けて進軍して、陽平に着いたんだ。劉備は険しい場所に守りを固めていたよ。
九州春秋曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」
『九州春秋』によると、曹操は帰りたがっていて、「雞肋」という言葉を出したよ。役人たちはその意味がわからなかったんだ。主簿(書記官)の楊脩は帰る準備をしたよ。人たちは驚いて楊脩に尋ねたんだ。
「どうして知っているの?」
楊脩は答えたよ。
「雞肋とは、捨てるには惜しいものだけど、食べても得るものがないもののことだよ。それを漢中に例えていて、曹操が帰るのを望んでいると知ったんだ」
夏五月,引軍還長安。
夏の五月、曹操は軍を率いて、長安に帰ってきたよ。
樊城の戦い
秋七月,以夫人卞氏為王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。
秋の七月、夫人の卞氏を王后にしたよ。
于禁に曹仁を援助させて、関羽を攻撃したよ。八月、漢水が氾濫して、于禁の軍が水に浸かっちゃった。関羽は于禁を捕らえて、曹仁を包囲したんだ。だから、徐晃に救援させたよ。
九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。(註137)
九月、相国の鍾繇が西曹掾の魏諷と一緒に反乱を企てたとして、職を辞めさせられたよ。
世語曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。
『世語』によると、魏諷は、字は子京で、沛の出身で、人を惑わせる才能を持っていて、鄴都で尊敬されていたよ。鍾繇が彼を見出したんだって。大軍がまだ帰ってきていなかった時、魏諷はこっそりと仲間を集めて、長楽衛尉の陳禕と企んで鄴を襲撃しようとしたよ。でも、計画を実行する前に、陳禕は怖くなっちゃって、太子(曹丕)に告発したよ。魏諷は処刑されて、関わった数十人が死刑にされちゃった。
王昶の家訓には「済陰の出身の魏諷」とあるけど、ここでの記述では沛の出身とされていて、詳しいことはわかっていないの。
冬十月,軍還洛陽。(註138)孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。(註139)(註140)(註141)(註142)
冬の十月、軍は洛陽に帰ったよ。孫権が使者を送って上表して、関羽の討伐に参加すると誓ったよ。曹操は洛陽を出発して、南に向かって関羽を攻める途中、徐晃が関羽を攻撃して、打ち破ったよ。関羽は逃げて、曹仁の包囲が解かれたよ。曹操は摩陂に進軍したよ。
曹瞞傳曰:王更脩治北部尉廨,令過於舊。
『曹瞞伝』によると、曹操は、北部尉の役所を改修したよ。その命令は前よりも厳しいものだったよ。
魏略曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運乆已盡,歷數乆已終,非適今日也。是以桓、靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生注望,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以為虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」
『魏略』によると、孫権は上書して、臣下を自称して、天命について述べたよ。曹操は孫権の書を外に示して、こう言ったよ。
「こいつは私を炉火の上に置きたがっているの!?」
侍中の陳羣と尚書の桓階が奏上したよ。
「安帝の時代から、漢の政治は公室から遠ざかって、国家の統一は長く続かないで、今に至っては名前だけが残って、土地も人たちもすでに漢のものではなくなっちゃった。時の運は尽きて、天道の終わりが近づいているのは、今日のことに限ったことではないよ。桓帝と霊帝の時代の間に、知識に明るい人たちは『漢の運気は尽きて、黄家が興るだろう』と語っていたんだって。殿下(曹操)はその期待に応えて、天下の十分の九を有しながら漢に仕えているから、民たちが期待して、怨みと嘆きの声が上がっているんだよ。だから、孫権は遠くにいても臣下を自称しているよ。これは天と人の意志にかなったもので、異なる声がひとつになっているよ。私の意見では、虞(舜)と夏は辞退しないで、殷と周は罪を恐れずに処罰したよ。天の意志を畏れて、己の運命に従うべきで、譲る必要なんてないんだ」
炉火は、火は五行説で漢を表していて「漢の上に立つ」と言えるし、「まるで火の上に身を置くみたいな厳しい状況になる」とも解釈できるね。
魏氏春秋曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害為百姓所歸者,即民主也。今殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施於有政,是亦為政』。若天命在吾,吾為周文王矣。」
『魏氏春秋』によると、夏侯惇は曹操にこう言ったよ。
「天下の人たちは、漢の統治はもう終わって、新しい時代が始まることを知っているよ。昔から、民の害を取り除いて、民から支持される人こそが、民の主だよ。今、あなたは30年以上も戦って、その功績は民に広く認められていて、天下の人たちの希望になっているんだ。天の意に応じて、民のために尽くすのが、私たちの運命だよ。だから、疑う事なんてないよ!」
曹操はこう言ったよ。
「『(政治に直接かかわらなくても)政治に影響を及ぼしているなら、政治と言える』って言うよね。もし天命が私にあるなら、私は周の文王となるかもね」
『施於有政,是亦為政』は、『論語』「為政」から。
周の文王になるってことは、皇帝になるのは自分ではなく息子ってことを言いたいのかも。
曹瞞傳及世語並云桓階勸王正位,夏侯惇以為宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及至王薨,惇追恨前言,發病卒。
『曹瞞伝』と『世語』によると、桓階は曹操に帝位につくよう勧めたけど、夏侯惇は、まず蜀を滅ぼすべきと主張したんだって。蜀が滅びたら、呉も服従できると考えていたんだって。2つの地域が平定されたら、舜や禹のような道(子ではない人物に位を譲る)に従って進むことができるよ。曹操はそれに従ったよ。でも、曹操が亡くなると、夏侯惇は前に言ったことを悔やんで、病にかかっちゃったの。
孫盛評曰:夏侯惇恥為漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,世語為妄矣。
孫盛の評によると、夏侯惇は漢の官職に就くことを恥じて、魏の印綬を求めたよ。一方で、桓階は夏侯惇とは異なって、義直な性格を持っていたよ。彼の伝記を考えると、『世語』は大げさな話だと言えるよ。
二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。
建安25年(220年)、春の正月、曹操は洛陽に着いたよ。孫権は関羽を討って、その首を曹操に届けたよ。
曹操の死
庚子,王崩于洛陽,年六十六。(註143)(註144)
庚子の日、曹操は洛陽で亡くなったよ。享年66だったよ。
世語曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。
『世語』によると、曹操が漢中から洛陽に戻って、建始殿を建てたよ。濯龍祠で樹を切ったら、樹から血が噴き出る出来事が起きたんだって。
曹瞞傳曰:王使工蘇越徙美棃,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寑疾。
『曹瞞伝』によると、曹操が建築士の蘇越に美しい棃の木を移動させたんだって。蘇越が掘ると、根が傷ついちゃって、血が噴き出したんだって。蘇越はびっくりして曹操に報告したけど、曹操は自らそれを見て嫌な感じがして、不吉と考えて、それから病気になって寝込むようになっちゃった。
遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」謚曰武王。二月丁卯,葬高陵。(註145)(註146)(註147)(註148)(註149)
遺言はこう書かれているよ。
「天下はまだ安定していなから、(自分の葬儀は)古いやり方に従うことはできないよ。葬儀が終わったら、みんな喪服を脱ぎ捨ててね。軍を指揮して、守備についている者はその地を離れたらダメだよ。役人はそれぞれの仕事を果たしてね。葬儀は適切な時期に行って、金や宝石、宝物を隠さないでね」
諡は「武王」だよ。二月の丁卯の日、高陵に葬られたよ。
いろいろな逸話
多才な曹操
魏書曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手為節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陣,意思安閑,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。
『魏書』によると、曹操は国内を統治して、悪人や反乱者を鎮圧したよ。彼の軍事行動は、孫子や呉子の兵法に基づいていて、状況に応じて奇策を使って、敵を欺いて勝利を収めたよ。彼は兵法書を作って、内容は10万語以上にもなるよ。彼の将たちは、この新しい兵法書に基づいて戦いに挑んだんだって。彼の対処はいつも慎重で、命令に従う者は必ず成功して、命令に逆らう者は失敗に終わったよ。敵と対峙する時には、彼は穏やかな心を持って、まるで戦いたくないみたいに振る舞っていたんだ。でも、一度戦闘が始まれば、彼は勝利を決める絶好の機会を捉えて、勢いに乗って、気迫に満ち溢れていたよ。だから、毎回の戦いで勝利を収めて、彼の軍は偶然の勝利に頼ることはなかったよ。
知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。是以刱造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。
彼は人の心をよく理解していて、偽りに惑わされることがなかったんだって。于禁や楽進を軍の中から抜擢して、張遼や徐晃を敵の中からも引き抜いて、その功績から名高い将として評価されたんだよ。他にもたくさんの卑しい身分からも人を見抜いて、州や県の牧守として登用された人も数えきれないほどいるよ。だから、彼はすごい大業を創り上げたんだ。文と武の両方に優れていて、30年以上にわたって軍を指揮し続けたよ。彼は書物から手を離すことがなくて、昼は戦略を研究して、夜は経典を読み込んで、高所に登ると必ず賦を詠んで、新しい詩を作ると、それは楽として演奏されて、音楽の章となったんだ。
才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,甞於南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不為之法則,皆盡其意。雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。
彼の才能と力は人たちを上回っていて、矢を手から放てば飛ぶ鳥を射落として、自ら猛獣を狩ることができたよ。ある日、彼は南皮で狩りをして、63羽もの雉を一日で捕らえたんだって。それに、彼は宮殿や施設を建てる時や、道具を整える時にも、すべて彼の考えに従って設計したよ。彼は優雅で質素で、華やかなものを好まなかったんだって。後宮の衣服は錦や刺繍を飾らないで、侍御の履物も特別な柄や色ではなかったよ。帷帳や屏風は傷ついた場合、修繕されて、寝具は温かさを求めて選ばれて、装飾はなかったよ。
攻城拔邑,得靡麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分豪不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。
彼は都市を攻略して、城を陥れた時に、美しいものを手に入れると、それを功績のある者たちに贈ったんだって。功績ある者に適切に報いて、勤労は報いに値すると考えて、たくさんの金銭を惜しまずに払って、功績のない者には分け与えなかったよ。彼は四方からの贈り物を臣下たちと共有したよ。葬儀で、服装についてたくさんの制約があるけど、それは煩雑になるだけで利益にはならないから、彼は自身の死後に着る衣服を制限して、4つの衣装箱だけで十分だと考えたよ。
魏書では評価上げ上げ。
贅沢は好まない
傅子曰:太祖愍嫁娶之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。
『傅子』によると、曹操は結婚式の贅沢さに心を痛めて、公女たちが嫁ぐときはみんな、黒い帳を使って、侍女も10人を超えていなかったよ。
書や囲碁に強くて薬学にも詳しい
張華博物志曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華他、甘陵甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。
張華の『博物志』によると、漢の時代には安平の出身の崔瑗と子の崔寔、弘農の出身の張芝と弟の張昶が草書に優れていたけど、曹操も彼らに負けないくらいの草書の技術を持っていたんだって。
桓譚や蔡邕は音楽に優れていて、馮翊の出身の山子道、王九真、郭凱たちは囲碁が得意で、曹操は彼らと互角に競い合うことができたよ。
それに、曹操は自身の健康にも気を配って、医学や方薬にも通じていたんだよ。彼はその知識を持つ人たちを引き寄せて、廬江の出身の左慈、譙郡の出身の華他、甘陵の出身の甘始、陽城の出身の郤倹などたくさんの人たちが集まったよ。さらに、彼は野生の葛を一尺まで噛んで食べたり、時には毒の入った酒を飲んだりもしたんだって。
機能的な服が好き
傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、崔豹之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。
『傅子』によると、漢の末期、王公たちは王服を捨てて、頭巾を着けることが優雅とされていたんだって。だから、袁紹や崔豹たちは、軍の指揮官なのに、絹の頭巾を身に着けていたんだ。でも、曹操は当時、天下が乱れて資金や財産が足りなかったから、古代の皮の冠にならって、絹や麻の織物を使って頭巾を作って、簡素ですぐに時勢に合わせたものとして、色で身分を区別したよ。今もこの様式が採用されているけど、軍の装いとすべきで、国の正装ではないと言えるよ。
きまぐれで残虐
曹瞞傳曰:太祖為人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賔客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡恱大笑,至以頭沒柸案中,肴膳皆沾洿巾幘,其輕易如此。
『曹瞞伝』によると、曹操は気まぐれで威厳に欠ける人だったんだって。音楽が好きで、いつも芸人を身近に置いて、日が暮れるまで遊んでいたんだって。
彼は軽い絹の服を身に着けて、小さな鞄を持っていて、手拭きや小さな物を入れていたよ。時には帽子を冠としてかぶって、客と会ったよ。彼は人と話すとき、冗談や言葉遊びをして、何も隠さずに話して、楽しみや喜びで大声で笑って、時には頭を机に突っ込んで、料理が服や帽子についてしまうほどだったよ。彼の軽率さはこうしたものだったんだ。
然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活。初,袁忠為沛相,甞欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兖州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家。忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守止燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之。
でも、彼は法を守ることに厳しくて、自分よりも優れた計画を持っている将を見つけると、法に基づいて処刑したよ。昔の友人でも怨みがあったら、残さずに法に従って処刑したよ。彼が処刑する人に対しては、涙を流して痛みを嘆いたけど、最終的には誰も生かしておくことはなかったよ。
初め、袁忠は沛国の相になって、法によって曹操を裁こうとしたよ。沛国の出身の桓邵も彼を軽視していたよ。曹操が兗州にいた時、陳留の出身の辺譲は議論で曹操を侮辱したよ。曹操は彼を殺して、その家族も処刑したんだ。袁忠と桓邵は一緒に交州に逃れたけど、曹操は使者を送って、太守(郡の長官)の止燮を通じて彼らを完全に根絶やしにするように指示したんだ。
桓邵が出頭して、庭で頭を下げて謝った時、曹操は彼に対して言ったよ。
「ひざをつけば死刑を免れると思っているの?」
そして彼を殺したよ。
甞出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相付,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤為軍帥,不可自殺,請自刑。」因援劔割髮以置地。
曹操は進軍した時、麦畑を通り抜ける途中で命令を出したよ。
「兵は麦を傷つけたらダメだよ、犯した者は死刑だよ」
騎兵はみんな馬を降りて、麦を抑えながら進んだよ。その時、曹操の馬が麦畑に入っちゃって、曹操は主簿に罪を議論させたよ。主簿は『春秋』の義に従って、高位の者には罰を与えないべきだと答えたんだ。でも、曹操はこう言ったよ。
「自分で法を制定して自分で違反するなら、どうして下を統率できるの? でも、私は軍の指導者で、自殺はできないから、自分を罰しよう」
そして剣を取って、髪を切って地に置いたんだ。
又有幸姬常從晝寢,枕之卧,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖卧安,未即寤,及自覺,棒殺之。
曹操は寵姫を昼寝に付き合わせて、横になって、彼女に「少しして私を起こしてほしい」と頼んだよ。寵姫は曹操が安らかに寝ているのを見て、すぐに起こさなかったんだ。でも、曹操は自分で目を覚ましてから、彼女を棒で殺しちゃったの。
常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆,太祖謂主者曰:「特當借君死以猒衆,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐,皆此之類也。
敵を討伐していた時、食料が不足していたから、曹操は担当者に尋ねたよ。
「どうしよう?」
担当者はこう答えたよ。
「小さな斛を使えば満足できると思うよ」
曹操はこう答えたよ。
「それはいい案だね」
でも、後で、軍の中で曹操が人々を欺いているという噂が広まっちゃった。曹操は担当者にこう言ったよ。
「あなたの死を借りてみんなを抑えよう。そうしなければ問題が解決しないから」
そして担当者を斬って、首を掲げて示して、こう言ったよ。
「小さな斛を持ち出して、役人の穀物を盗んだ罪で軍門で斬ったんだ」
彼の非情さ、残忍さ、人を騙す計略は、すべてこのような例ばかりだったよ。
陳寿の評価
評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任筭,不念舊惡,終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。
評すると、天下が大乱に陥っていた漢の末期、英雄たちが次々と現れたよ。袁紹は4つの州を支配して、すごく強大で誰も敵う者がいなかったね。でも、曹操は戦略を考えて、内部を取りまとめて、申不害や商鞅の知恵を活かして、韓信や白起の奇策を使ったよ。彼は役人に才能を与えて、器に応じて仕事を任せて、過去の悪を忘れて、最終的には皇帝の権威を統制して、大業を成し遂げたよ。彼の明晰な戦略は、とても優れたものだったね。曹操は、「非常に卓越した人物」「時代を超越した偉大な人物」であったと言えるよ!
申不害は、戦国時代の韓の政治家だよ。商鞅は、戦国時代の魏と秦の政治家だよ。彼らは変法(もともとある「法」を新しく「変」える)をして、土地の制度を整えて、富国強兵を目指したよ。
韓信は、秦の末期~漢時代の武将だよ。劉邦の配下で活躍したよ。白起は戦国時代の秦の武将だよ。生き埋めが得意だよ。彼らの最期は主君によって……。
以上、武帝紀を読み終わったよ!