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正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹(そう)操(そう) について書かれているよ!

本文中で曹(そう)操(そう)さんは「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹(そう)操(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

長いから記事を分けたよ。この記事は、漢(かん)中(ちゅう)の戦いから最後までだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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漢中へ

本文

劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。

劉(りゅう)備(び)は、張(ちょう)飛(ひ)、馬(ば)超(ちょう)、呉(ご)蘭(らん)たちを下(か)弁(べん)にとどめて守らせたよ。曹(そう)操(そう)は曹(そう)洪(こう)を送り、これを防がせたよ。

反乱を討伐する

本文

二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,(註133)必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。(註134)(註135)(註136)

建(けん)安(あん)二十三年(218年)、春の正月、漢(かん)の太(たい)医(い)令(れい)の吉(きつ)本(ほん)は、少(しょう)府(ふ)の耿(こう)紀(き)や司(し)直(ちょく)の韋(い)晃(こう)たちと一緒に反乱を起こしたよ。そして許(きょ)を攻めて、丞(じょう)相(しょう)の長(ちょう)史(し)の王(おう)必(ひつ)の陣営を焼いたんだ。でも、王(おう)必(ひつ)は潁(えい)川(せん)の典(てん)農(のう)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)の厳(げん)匡(きょう)と一緒に彼らを討ち取ったよ。

(註133)

魏武故事載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌乆未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」

『魏(ぎ)武(ぶ)故(こ)事(じ)』によると、曹(そう)操(そう)は命令してこう言ったよ。
「長(ちょう)史(し)を兼ねる王(おう)必(ひつ)は、私が苦しい中で道を切り開いていたころから仕えている役人だよ。忠があって、よく働いて、その心は鉄や石みたいに固くて、国にとってすぐれた役人だよ。これまで長いあいだ使ってこなかったのは、私は千里を駆ける駿馬を持っているのに乗らないみたいなもので、どうしてあわててほかに求める必要があるの? だから、彼をふたたび使って、すでにふさわしい役目に任命したよ。これからも長(ちょう)史(し)として、これまでどおり仕事をまとめさせてね」

(註134)

三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。

『三(さん)輔(ぽ)決(けつ)録(ろく)注(ちゅう)』によると、このとき、京(けい)兆(ちょう)の出身の金(きん)禕(い)という人がいたよ。字(あざな)は徳(とく)禕(い)だよ。漢(かん)の臣下の家の出身で、金(きん)日(じつ)磾(てい)が馬(ば)何(か)羅(ら)を討って、その忠ははっきりと知られて、名声や節義が代々受け継がれてきたよ。
金(きん)禕(い)は、漢(かん)がもうすぐ終わって、天命がほかの者に移りそうなのを見て、これをふたたび盛り返すことができると思って、深くため息をついて決意したよ。そして、耿(こう)紀(き)、韋(い)晃(こう)、吉(きつ)本(ほん)、吉(きつ)本(ほん)の子の吉(きつ)邈(ばく)とその弟の吉(きつ)穆(ぼく)たちと一緒に計画を立てたんだ。
耿(こう)紀(き)は、字(あざな)は季(き)行(こう)で、若いころから評判がよかったよ。丞(じょう)相(しょう)の掾(えん)になって、曹(そう)操(そう)は彼を高く評価して特別に大切に使って、侍(じ)中(ちゅう)に昇進させて、少(しょう)府(ふ)を兼ねさせたよ。
吉(きつ)邈(ばく)は、字(あざな)は文(ぶん)然(ぜん)で、吉(きつ)穆(ぼく)は、字(あざな)は思(し)然(ぜん)だよ。金(きん)禕(い)と同じで金(きん)日(じつ)磾(てい)みたいな気風があるんだって。彼らは王(おう)必(ひつ)と仲が良くて、この関係を利用してこっそりと計画を進めて、もし王(おう)必(ひつ)を殺せたら天子を連れて魏(ぎ)に攻め込んで、南では劉(りゅう)備(び)の助けを借りようと考えていたんだ。

(註134)

時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,必竟以創死。

このとき関(かん)羽(う)はとても勢いが強くて、曹(そう)操(そう)は鄴(ぎょう)にいたよ。王(おう)必(ひつ)を都の許(きょ)に残して、兵をあずけて町のことをまとめさせていたよ。吉(きつ)邈(ばく)たちはいろいろな人や自分の家の召使いたち1,000人以上を率いて、夜に門に火を放って、王(おう)必(ひつ)を攻めたんだ。金(きん)禕(い)は中で協力する人を送って、王(おう)必(ひつ)の肩に矢を当てたよ。王必は誰が攻めてきたのかわからなくて、前から親しかった金(きん)禕(い)を頼って逃げ込んで、夜に「徳(とく)禕(い)」と呼びかけたよ。でも、金(きん)禕(い)の家族の人は、それが王(おう)必(ひつ)だと気づかなくて、吉(きつ)邈(ばく)たちの仲間だと思ったから、こう答えたよ。
「王(おう)長(ちょう)史(し)(王(おう)必(ひつ))はもう死んだの? あなたたちの計画はうまくいったね!」」
これを聞いた王(おう)必(ひつ)は別の道から逃げたよ。
別の話では、王(おう)必(ひつ)が金(きん)禕(い)を頼ろうとすると、その帳(ちょう)下(か)督(とく)は王(おう)必(ひつ)にこう尋ねたよ。
「今の状況で、誰の門かわからないのに(誰のところが安全かわからないのに)、どうして彼の家に逃げるの?」
こうして王(おう)必(ひつ)を支えて南の城へ逃げたよ。夜が明けると、王(おう)必(ひつ)はまだ生きていて、吉(きつ)邈(ばく)たちの仲間はばらばらに散ったから、計画は失敗したんだ。その後、十日くらい経って、王(おう)必(ひつ)は傷のせいで亡くなったんだ。

(註135)

獻帝春秋曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。

『献(けん)帝(てい)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、耿(こう)紀(き)や韋(い)晃(こう)たちは捕らえられ、これから処刑されようとするとき、耿(こう)紀(き)は曹(そう)操(そう)の名を呼んでこう言ったよ。
「私が自分の意志で行動していれば、こんな子供みたいな者たちに騙されなかったのに!」
韋(い)晃(こう)は、頭を地面につけて何度も謝って、自分のほおを打ち続けて、そのまま死んでしまったんだ。

(註136)

山陽公載記曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。衆人以為救火者必無罪,皆附左;王以為「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。

『山(さん)陽(よう)公(こう)載(さい)記(き)』によると、曹(そう)操(そう)は王(おう)必(ひつ)が死んだと聞いて、すごく怒ったよ。そして漢(かん)の朝廷の役人を鄴(ぎょう)に呼び集めて、「火事を消そうとした者は左へ、消さなかった者は右へ行け」と命令したよ。たくさんの人たちは、「火を消した者は罪がないはず」と考えて、みんな左に集まったよ。でも、曹(そう)操(そう)は「火を消さない者は反乱に加わっていないけど、火を消した者こそ実は敵を助けた」と考えたんだ。そして、左に行った者たちをみんな殺したんだ。

本文

曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。

曹(そう)洪(こう)は呉(ご)蘭(らん)を打ち破って、その将の任(じん)夔(き)たちを討ち取ったよ。
三月、張(ちょう)飛(ひ)と馬(ば)超(ちょう)は漢(かん)中(ちゅう)へ逃げたんだ。そして、陰(いん)平(ぺい)の氐(てい)の強(きょう)端(たん)が呉蘭を討ち取って、その首を送り届けたよ。

本文

夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。(註137)

夏の四月、代(だい)郡と上(じょう)谷(こく)で、烏(う)丸(がん)の無(む)臣(しん)氐(てい)たちが反乱を起こしたよ。鄢(えん)陵(りょう)侯(こう)の曹(そう)彰(しょう)を送って彼らを討って打ち破ったよ。

(註137)

魏書載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興于外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、曹(そう)操(そう)は命令してこう言ったよ。
「去年の冬、疫病が広がって、民は苦しんでいるんだ。さらに外での戦いが続いて、田畑を開くことも少なくなっちゃった。私はこのことをとても心配しているの。そこで、役人や民に命令するよ。男も女も、70歳以上で夫や子供がいない女性、12歳以下で両親や兄弟のいない子供、目が見えなかったり、手が使えなかったり、足が動かなかったり、さらに妻や子、父や兄、財産もない人には、一生のあいだ食べ物を支給するよ。子供は12歳までこれを続けるよ。貧しくて自分で生活できない者には、その人数に応じて食べ物や金を貸すよ。さらに、とても年をとって人の助けが必要な者で、90歳以上の者については、働かせないで、その家の中の一人分の仕事を免除するよ」

墓について

本文

六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容。」

六月、曹(そう)操(そう)は命令してこう言ったよ。
「昔の人の葬り方では、やせた土地を選んで墓を作ったんだって。だから、西(せい)門(もん)豹(ひょう)の祠の西にある原の上を、自分の寿(じゅ)陵(りょう)(生きているうちに作る墓)にするよ。高い場所をそのまま土台として使って、大きく土を盛り上げたり木を植えたりしないでね。『周(しゅ)礼(らい)』によると、冢(ちょう)人(じん)という役人が公の墓を管理して、諸侯は左右と前、公(こう)卿(けい)や大(たい)夫(ふ)は後ろも埋葬されていたんだって。漢(かん)の制度でも、これを陪(ばい)陵(りょう)と呼んでいるよ。公(こう)卿(けい)や重要な臣下、功績のある将たちは、この寿(じゅ)陵(りょう)に付き従う墓を作るのがいいよ。そのための土地も広く定めて、みんな入れるようにしてね」

西(せい)門(もん)豹(ひょう)は、戦国時代初期の魏(ぎ)の政治家だよ。曹操さんが尊敬した西門豹ってどんな人?
「古之葬者,因高為基,不封不樹」は、『日本書紀』に引用されているよ。『日本書紀』卷第二十五(孝徳天皇)の「甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。~」の後に続く文章。

劉備を討ちに西へ

本文

秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。

秋の七月、曹(そう)操(そう)は兵を整えて、劉(りゅう)備(び)を討つために西へ軍を進めたよ。九月、長(ちょう)安(あん)に着いたよ。

本文

冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。

冬の十月、宛(えん)を守る将の侯(こう)音(おん)たちが反乱を起こして、南(なん)陽(よう)太(たい)守(しゅ)を捕らえて、役人や民から物を奪って、宛(えん)に立てこもったんだ。もともと曹(そう)仁(じん)は関(かん)羽(う)を討つために樊(はん)城(じょう)にいたけど、この月に曹(そう)操(そう)は曹(そう)仁(じん)に命令して宛(えん)を包囲させたよ。

本文

二十四年春正月,仁屠宛,斬音。(註138)

建(けん)安(あん)二十四年(219年)、春の正月、曹(そう)仁(じん)は宛(えん)を攻めて滅ぼして、侯(こう)音(おん)を討ち取ったよ。

(註138)

曹瞞傳曰:是時南陽間苦繇役,音於是執太守東里襃,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共戮力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。

『曹(そう)瞞(まん)伝(でん)』によると、このとき南(なん)陽(よう)では、人々が重い労役に苦しんでいたんだ。そこで侯(こう)音(おん)は南(なん)陽(よう)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の東(とう)里(り)袞(こん)を捕らえて、役人や民たちと一緒に反乱を起こして、関(かん)羽(う)と手を結んだよ。
南(なん)陽(よう)の功(こう)曹(そう)(人事官)の宗(そう)子(し)卿(けい)は、侯(こう)音(おん)のもとに行って説得してこう言ったよ。
「あなたは民の心に応じて大きな行動を起こして、遠くの人たちも近くの人たちもみんな、あなたの成功を待ち望んでいるよ。でも、今あなたが郡の将を捕らえたままでは道にそむいていて、よいことはないんだ。どうして解放しないの? 私もあなたと一緒に力を合わせて戦うよ。そのうち曹(そう)操(そう)の軍が来るし、関(かん)羽(う)の軍も着くだろうね」
侯(こう)音(おん)はこれに従って、すぐに東(とう)里(り)袞(こん)を解放したよ。宗(そう)子(し)卿(けい)はその夜、城をこっそり抜け出して逃げ出して、東(とう)里(り)袞(こん)と一緒に残った人たちを集めて侯(こう)音(おん)を包囲したよ。そこに曹(そう)仁(じん)の軍が着いて、一緒に侯(こう)音(おん)たちを滅ぼしたよ。

本文

夏侯淵與劉備戰於陽平,為備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平。備因險拒守。(註139)

夏(か)侯(こう)淵(えん)は劉(りゅう)備(び)と陽(よう)平(へい)で戦ったけど、劉(りゅう)備(び)に討ち取られたんだ。
三月、曹(そう)操(そう)は長(ちょう)安(あん)から斜(や)谷(こく)を出て、大事な場所をおさえながら進んで、漢(かん)中(ちゅう)に向かって、陽(よう)平(へい)に着いたよ。劉(りゅう)備(び)は、険しい地形を利用して守りを固めたよ。

(註139)

九州春秋曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」

『九(きゅう)州(しゅう)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、曹(そう)操(そう)は引き返そうと考えて、命令してこう言ったよ。
「雞(けい)肋(ろく)」
役人たちはその意味がわからなかったんだ。主(しゅ)簿(ぼ)(書記官)の楊(よう)脩(しゅう)だけすぐに荷物をまとめて出発の準備をしたよ。周りの人はびっくりして楊(よう)脩(しゅう)にこう尋ねたよ。
「どうしてわかるの?」
楊(よう)脩(しゅう)はこう答えたよ。
「鶏のあばら骨は、捨てるのは惜しいけれど、食べてもあまり得るものがないんだ。それを漢(かん)中(ちゅう)にたとえていて、引き返そうとしているとわかったよ」

楊(よう)脩(しゅう)さんについては、「魏書陳思王植伝」を見てね。

本文

夏五月,引軍還長安。

夏の五月、曹(そう)操(そう)は軍を引き返して、長(ちょう)安(あん)に帰ったよ。

樊城の戦い

本文

秋七月,以夫人卞氏為王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。

秋の七月、夫人の卞(べん)氏(し)を王后にしたよ。
于(う)禁(きん)に曹(そう)仁(じん)を助けさせて関(かん)羽(う)を攻めたよ。八月、漢水があふれて、于(う)禁(きん)の軍は水にのまれたんだ。関(かん)羽(う)は于(う)禁(きん)を捕らえて、さらに曹(そう)仁(じん)を包囲したんだ。そこで徐(じょ)晃(こう)に助けさせたよ。

本文

九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。(註140)

九月、相(しょう)国(こく)の鍾(しょう)繇(よう)は、西(せい)曹(そう)掾(えん)の魏(ぎ)諷(ふう)の反乱に関わったとして、辞めさせられたよ。

(註140)

世語曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。

『世(せい)語(ご)』によると、魏(ぎ)諷(ふう)は、字(あざな)は子(し)京(けい)で、沛(はい)の出身だよ。人々を惑わせる才能があって、鄴(ぎょう)の都を大きく動揺させたんだ。だから鍾(しょう)繇(よう)は彼を招いたよ。
大軍がまだ帰っていないころ、魏(ぎ)諷(ふう)はこっそりと仲間を集めて、長(ちょう)楽(らく)衛(えい)尉(い)の陳(ちん)禕(い)と一緒に、鄴(ぎょう)を襲う計画を立てたよ。でも、計画を実行する前に、陳(ちん)禕(い)は怖くなっちゃって、太子(曹(そう)丕(ひ))にこのことを知らせたよ。魏(ぎ)諷(ふう)は処刑されて、関わった数十人も命を落としたんだ。
王(おう)昶(ちょう)の『家(か)誡(かい)』よると、済(せい)陰(いん)の出身の魏(ぎ)諷(ふう)とあるけど、『世(せい)語(ご)』では沛(はい)の出身とされていて、どちらが正しいかははっきりしていないんだ。

本文

冬十月,軍還洛陽。(註141)孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。(註142)(註143)(註144)(註145)

冬の十月、曹(そう)操(そう)の軍は洛陽に戻ったよ。
孫(そん)権(けん)は使者を送って上表して、「関(かん)羽(う)を討って役に立つよ」と誓ったよ。曹(そう)操(そう)は洛(らく)陽(よう)から関(かん)羽(う)を討つために南へ軍を進めて、まだ着かないうちに、徐(じょ)晃(こう)が関(かん)羽(う)を攻めて打ち破ったよ。関(かん)羽(う)は逃げて、曹(そう)仁(じん)の包囲も解けたよ。曹(そう)操(そう)の軍は摩(ま)陂(は)にとどまったよ。

(註141)

曹瞞傳曰:王更脩治北部尉廨,令過於舊。

『曹(そう)瞞(まん)伝(でん)』によると、曹(そう)操(そう)は、北(ほく)部(ぶ)尉(い)の役所を新しく作り直して、前よりも立派なものにしたよ。

(註142)

魏略曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運乆已盡,歷數乆已終,非適今日也。是以桓、靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生注望,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以為虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、孫権は上書して、自分は臣下になると言って、天命についていろいろ伝えたよ。曹(そう)操(そう)は孫(そん)権(けん)の手紙を外の人たちに見せて、こう言ったよ。
「この小僧は私を炉火の上に座らせようというの!」
侍(じ)中(ちゅう)の陳(ちん)羣(ぐん)と、尚(しょう)書(しょ)の桓(かん)階(かい)が上奏してこう言ったよ。
「漢(かん)は安(あん)帝(てい)の時代から、政治の力が皇帝の家から離れて、国の正しい流れは何度も途切れてきたんだ。今では名前だけが残っているだけで、土地も民もすでに漢(かん)のものではなくなったんだ。長い年月の運命もすでに尽きていて、これは今日になって急にそうなったのではないよ。桓(かん)帝(てい)や霊(れい)帝(てい)の時代には、未来を占う人たちはみんな『漢(かん)の運は尽き、黄の家が興るだろう』と言っていたんだって。殿下(曹(そう)操(そう))ははその時にかなって現れて、天下の10に分けたらその9を持っているのに、漢(かん)に仕えているよ。民が期待して、遠くでも近くでも不満や嘆きの声が上がっているんだ。
だから遠くにいる孫(そん)権(けん)は臣下になると言い出したよ。これは天と人の心が一致したしるしだね。私たちの意見では、虞(ぐ)(舜(しゅん))や夏(か)の時代は辞退する言葉にこだわらないで、殷(いん)と周(しゅう)の時代も悪い君主をためらわないで退けたよ。天をおそれて、その命を知るなら、もはや遠慮してゆずる必要はないんだ」

炉火は、火は五行説で漢(かん)を表していて「漢(かん)の上に立つ」と言えるし、「まるで火の上に身を置くみたいな厳しい状況になる」とも解釈できるね。

(註143)

魏氏春秋曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害為百姓所歸者,即民主也。今殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施於有政,是亦為政』。若天命在吾,吾為周文王矣。」

『魏(ぎ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、夏(か)侯(こう)惇(とん)は曹(そう)操(そう)にこう言ったよ。
「天下の人たちは、漢(かん)の王朝の運がすでに尽きて、新しい時代が始まろうとしていることを知っているよ。昔から、人々の苦しみを取り除いて、民に頼られる者こそが、国の主になるんだ。今、あなたはすでに30年以上も戦って、その功績と徳は民にはっきりと知られていて、天下の人々はみんな頼りにしているよ。天の意に応じて、民の気持ちにも合っているのだから、何を迷うことがあるの!」
曹(そう)操(そう)はこう言ったよ。
「『(政治に直接かかわらなくても)政治に影響を及ぼしているなら、政治と言える』と言うよ。もし天命が私にあるなら、私は周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)みたいになるかもね」

『施於有政,是亦為政』は、『論(ろん)語(ご)』「為政」から。
周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)になるってことは、皇帝になるのは自分ではなく息子ってことを言いたいのかも。

(註144)

曹瞞傳及世語並云桓階勸王正位,夏侯惇以為宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及至王薨,惇追恨前言,發病卒。

『曹(そう)瞞(まん)伝(でん)』と『世(せい)語(ご)』によると、桓(かん)階(かい)は曹(そう)操(そう)に皇帝に即位するように勧めたよ。一方、夏(か)侯(こう)惇(とん)は「まず蜀(しょく)を滅ぼすべきだよ。蜀(しょく)が滅びたら、呉(ご)も従うだろうね。この2つの勢力が平定されてから、舜(しゅん)や禹(う)のようなのやり方(子ではない人に位をゆずる)にならうべきだよ」と主張したよ。曹(そう)操(そう)はこれに従ったよ。
その後、曹(そう)操(そう)が亡くなると、夏(か)侯(こう)惇(とん)は前に言ったことを悔やんで、病気になって亡くなったんだ。

(註145)

孫盛評曰:夏侯惇恥為漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,世語為妄矣。

孫(そん)盛(せい)の評によると、夏(か)侯(こう)惇(とん)は漢(かん)の官職に就くことを恥じて、魏(ぎ)の印を受けることを求めたよ。一方、桓(かん)階(かい)は夏(か)侯(こう)惇(とん)に対して、正しい道を守る立派な節義を持っていたよ。これらの伝記を考えると、『世(せい)語(ご)』はでたらめなんだ。

本文

二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。

建(けん)安(あん)二十五年(220年)、春の正月、曹(そう)操(そう)は洛(らく)陽(よう)に着いたよ。孫(そん)権(けん)は関(かん)羽(う)を討ち取って、その首を曹(そう)操(そう)に送り届けたよ。

曹操の死

本文

庚子,王崩于洛陽,年六十六。(註146)(註147)

庚子の日、曹(そう)操(そう)は洛(らく)陽(よう)で亡くなったんだ。このとき66歳だったよ。

(註146)

世語曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。

『世(せい)語(ご)』によると、曹(そう)操(そう)は漢(かん)中(ちゅう)から洛(らく)陽(よう)に帰ると、建(けん)始(し)殿(でん)を建てたよ。そして濯(たく)龍(りゅう)祠(し)を取りこわして木を植えたら、そこから血が出たんだって。

(註147)

曹瞞傳曰:王使工蘇越徙美棃,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寑疾。

『曹(そう)瞞(まん)伝(でん)』によると、曹(そう)操(そう)は職人の蘇(そ)越(えつ)に命令して、立派な梨の木を移し替えさせたよ。でも、それを掘り起こすと、根が傷ついて、血のようなものが流れ出たんだ。蘇(そ)越(えつ)がそのことを報告すると、曹(そう)操(そう)は自分でそれを見に行って、これを気味が悪いと感じて、そのまま病気になっちゃった。

本文

遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」謚曰武王。二月丁卯,葬高陵。(註148)(註149)(註150)(註152)(註152)

曹(そう)操(そう)は亡くなる前に、遺言を残してこう言ったよ。
「天下はまだ安定していなから、(自分の葬式は)昔のやり方どおりにはできないよ。葬式が終わったら、みんな喪服を脱いでね。軍を率いて守りについている者は、その持ち場を離れてはならないよ。役人はそれぞれ自分の仕事をきちんとしてね。遺体は普通の服で棺に入れて、金や玉(ぎょく)などの宝物は一緒に入れないでね」
武(ぶ)王(おう)の諡号を贈られたよ。二月、丁卯の日、高(こう)陵(りょう)に葬られたよ。

いろいろな話

多才な曹操

(註148)

魏書曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手為節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陣,意思安閑,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、曹(そう)操(そう)は天下を治めてから、たくさんの悪い者たちを打ち倒したよ。その軍の動かし方や戦い方は、大きくは孫(そん)子(し)や呉(ご)子(し)の兵法に従っているけど、その場に応じて工夫をこらして、敵をあざむいて勝ちを得て、その変化はまるで神みたいだよ。
自分で兵法の書物を10万字以上も作って、将たちは戦いに出るとき、みんなその新しい書物に従って行動したよ。さらに実際の戦いの場では、自分で細かく指示を出したよ。その命令に従った者は勝って、逆らった者は負けたんだって。
敵と向かい合っているときでも、心は落ち着いていて、まるで戦いたくないように見えたんだ。でも、いざ決断して攻めるときには勢いがあふれ出たよ。だから、戦えば必ず勝って、まぐれで勝つことはなかったよ。

(註148)

知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。是以刱造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。

曹(そう)操(そう)は人を見る目がすぐれていて、よく見抜けるから、嘘で騙すことは難しい人だよ。于(う)禁(きん)や楽(がく)進(しん)を戦場の中から見いだして、張(ちょう)遼(りょう)や徐(じょ)晃(こう)をもともと敗れて捕らえられていた中から引き抜いたよ。彼らはみんな新しい王朝を立てた功績のある臣下となって、名高い将として評価されたんだ。
ほかにも身分の低いところから人を見抜いて、州や県の牧(ぼく)(州の長官)や太(たい)守(しゅ)(郡の長官)にまで出世させた者は、数えきれないほどいるよ。
このようにして大きな事業を創り上げたんだ。文と武のどちらもすぐれていて、30年以上にわたって軍を指揮し続けたけど、手から本を離さなかったよ。昼は戦いの方法を学んで、夜は経書やその注釈書を考えたよ。高いところに登ると必ず賦(ふ)を詠んで、さらに新しい詩を作って、それを音楽に合わせて、どれも立派な楽曲に仕上げたよ。

(註148)

才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,甞於南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不為之法則,皆盡其意。雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。

才能や力は人よりずっとすぐれていて、矢を手から放てば飛ぶ鳥を射落として、自ら猛獣を狩ることができたよ。あるとき南(なん)皮(ぴ)で狩りをして、1日のうちに63羽もの雉(きじ)を射止めたんだって。
それに、宮殿を建てたり、道具や武器を整えたりするときには、すべて自分で決まりややり方を考えて、細かいところまで気を配ったよ。
普段の性格は質素で、華やかなものは好まなかったんだって。後宮の人々の服も、美しい刺繍のある高価なものではなくて、身近に仕える人のくつも、色をいくつも使った派手なものではなかったよ。帷帳やついたては、こわれたらつくろって使って、寝具はあたたかさを大切にするだけで、飾りはほとんどなかったんだ。

(註148)

攻城拔邑,得靡麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分豪不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。

城を攻めて町を取ると、美しいものを手に入れても、それを功績のある人たちに与えたよ。功績に応じて賞を与えるべきと考えて、たくさんの金でも惜しまないで与えたけど、功績のない人が求めても、少しも分け与えなかったよ。各地からの贈り物を臣下たちと一緒に分けて使ったよ。
葬式のやり方や位に応じた衣服の数などは、無駄に多くて役に立たないうえに、世間ではそれが行きすぎていると考えていたよ。そこで、自身のための衣服もあらかじめ決めておいて、たった4つの箱に入る分だけにしたんだ。

『魏(ぎ)書(しょ)』では評価上げ上げ。

ぜいたくは好まない

(註149)

傅子曰:太祖愍嫁娶之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。

『傅(ふ)子(し)』によると、曹(そう)操(そう)は、結婚のときに身分を越えてぜいたくをすることを心配していたんだ。そこで、自分の娘が嫁ぐときには、みんな黒い帳を使わせて、女の召使いも10人を超えないようにさせたよ。

書や囲碁に強くて薬学にも詳しい

(註150)

張華博物志曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華他、甘陵甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。

張(ちょう)華(か)の『博(はく)物(ぶつ)志(し)』によると、漢(かん)の時代に、安(あん)平(ぺい)の出身の崔(さい)瑗(えん)やその子の崔(さい)寔(しょく)、弘(こう)農(のう)の出身の張(ちょう)芝(し)やその弟の張(ちょう)昶(ちょう)は、みんな草書がとても上手だけど、曹(そう)操(そう)も彼らに負けないくらいの腕前だよ。
桓(かん)譚(たん)や蔡(さい)邕(よう)は音楽が得意で、馮(ひょう)翊(よく)の出身の山(さん)子(し)道(どう)、王(おう)九(きゅう)真(しん)、郭(かく)凱(がい)たちは囲碁が上手だけど、曹(そう)操(そう)も彼らと同じくらいの力を持っているよ。
さらに、曹(そう)操(そう)は体を健康に保つ方法にも興味を持って、医学や方薬にも詳しいよ。いろいろな不思議な術を使う人たちを呼び出して、廬(ろ)江(こう)の出身の左(さ)慈(じ)、譙(しょう)郡の出身の華(か)他(だ)、甘(かん)陵(りょう)の出身の甘(かん)始(し)、陽(よう)城(じょう)の出身の郤(げき)倹(けん)など、たくさんの人が集まったよ。さらに、彼は野生の葛(かつ)(毒のある植物)を食べることも試して、1尺くらいの量まで慣れて、毒の入った酒も少しなら飲めるようになったんだって。

機能的な服が好き

(註151)

傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、崔豹之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。

『傅(ふ)子(し)』によると、漢(かん)の時代の終わりごろ、王や公といった身分の高い人たちの多くが、正式な服装をやめて、頭巾を上品なものとしていたんだって。だから、袁(えん)紹(しょう)や崔(さい)豹(ひょう)たちは、軍の指揮官なのに、絹の頭巾を身につけていたんだ。
でも、曹(そう)操(そう)は、天下が乱れて物が足りなくなっていることを考えて、昔の皮の冠をまねして、絹の布を切って簡単な頭巾を作らせたよ。そして、簡単でその時代に合ったやり方にかなうようにして、色によって身分の高い低いを区別したよ。このやり方は今でもされているけど、これは軍の中での身なりで、正式な国の服装ではないと言えるね。

きまぐれで残虐

(註152)

曹瞞傳曰:太祖為人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賔客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡恱大笑,至以頭沒柸案中,肴膳皆沾洿巾幘,其輕易如此。

『曹(そう)瞞(まん)伝(でん)』によると、曹(そう)操(そう)は気まぐれで重々しい威厳をあまり見せない人だよ。音楽が好きで、芸人や役者をそばに置いて、朝から晩まで楽しんでいることもあったんだって。
服装も軽い絹のものを着て、自分で小さな鞄を持っていて、手拭きや小さな物を入れていたよ。時には帽子を冠としてかぶって客と会ったよ。
人と話すとき、ふざけたり言葉遊びをしたりして、思っていることを隠さず話したよ。楽しくなると大笑いして、頭を机にぶつけるくらいで、食べ物や汁が頭巾にかかって汚れることもあったの。その軽い振る舞いはこのようなものだったんだ。

(註152)

然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活。初,袁忠為沛相,甞欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兖州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家。忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守止燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之。

でも、彼は法を守ることに厳しいよ。将たちの中で、自分よりすぐれた作戦を立てて成功した者がいると、後でその人を法によって処刑したんだ。昔の友人でも怨みがあったら、法に従って処刑したんだ。処刑するときには、その人を前にして涙を流して、悲しそうにため息をつくこともあったけど、それでも助けなかったよ。
昔、袁(えん)忠(ちゅう)は沛(はい)国(こく)相(しょう)(国の長官)になって、法によって曹(そう)操(そう)を裁こうとしたよ。沛(はい)国の出身の桓(かん)邵(しょう)も曹(そう)操(そう)を軽く見ていたよ。曹(そう)操(そう)が兗(えん)州にいたころ、陳(ちん)留(りゅう)の出身の辺(へん)譲(じょう)が言葉で曹(そう)操(そう)を批判して、曹(そう)操(そう)は辺(へん)譲(じょう)を殺して、その家族もみんな処刑したんだ。袁(えん)忠(ちゅう)と桓(かん)邵(しょう)は一緒に交(こう)州に逃げたけど、曹(そう)操(そう)は使者を送って、太(たい)守(しゅ)(郡の太守)の士(し)燮(しょう)に命令して、彼らの一族もすべて殺させたんだ。
桓(かん)邵(しょう)はひとりだけ逃げて出てきて、庭の中でひざをついて謝ったよ。曹(そう)操(そう)は彼にこう言ったよ。
「ひざをつけば死なないですむと思うの?」
そのまま彼を殺したんだ。

(註152)

甞出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相付,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤為軍帥,不可自殺,請自刑。」因援劔割髮以置地。

曹(そう)操(そう)は軍を出して進んでいるとき、麦の畑の中を通って、命令を出してこう言ったよ。
「兵は麦をふみ荒らしたらいけないよ、もし破った者は死罪とするね」
騎兵はみんな馬を降りて、麦をふまないように気をつけて進んだよ。でも、曹(そう)操(そう)の馬が走り出して、麦の畑に入っちゃった。
曹(そう)操(そう)は主(しゅ)簿(ぼ)(書記官)に命令して、自分の罪をどうするべきか考えさせたよ。主(しゅ)簿(ぼ)は『春(しゅん)秋(じゅう)』の教えに従って、「身分の高い人には罰をそのまま当てはめることはしない」と答えたよ。でも、曹(そう)操(そう)はこう言ったよ。
「自分で決めた法を自分で破ってしまっては、どうして下を率ることができるの? でも、私は軍の指揮官で、自分で命を絶つことはできないから自分で罰を受けよう」
そして剣を取って、自分の髪を切って地に置いて、罪の代わりとしたよ。

(註152)

又有幸姬常從晝寢,枕之卧,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖卧安,未即寤,及自覺,棒殺之。

あるとき曹(そう)操(そう)はお気に入りの女性を昼寝に付き合わせいたよ。曹(そう)操(そう)はその女性のひざを枕にして横になって、彼女に「少ししたら私を起こしてほしい」と頼んだよ。でも女性は曹(そう)操(そう)が気持ちよさそうに眠っているのを見て、すぐには起こさなかったんだ。曹(そう)操(そう)が自分で目を覚ますと、怒ってその女性を打ち殺したんだ。

(註152)

常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆,太祖謂主者曰:「特當借君死以猒衆,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐,皆此之類也。

いつも敵を討つ戦いをしていたから、穀物が足りなくなったんだ。曹(そう)操(そう)は担当者に尋ねたよ。
「どうしよう?」
担当者はこう答えたよ。
「量る斛を少し小さくして、足りるように見せよう」
曹(そう)操(そう)はこう答えたよ。
「それはいい案だね」
でも後で、軍の中で「曹(そう)操(そう)が人々をだましている」といううわさが広まっちゃった。曹(そう)操(そう)は担当者にこう言ったよ。
「人々の不満をしずめるために、あなたの命を借りることにするよ。そうしなければ事は収まらないから」
そして担当者を斬って、その首を掲げて示して、こう言ったよ。
「小さな斛を持ち出して、役人の穀物を盗んだ罪で、軍門で処刑したよ」
このように、きびしく残酷な性格や、人をだます作戦は、すべてこのようなことばかりだったよ。

陳寿の評

本文

評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任筭,不念舊惡,終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。

評すると、漢(かん)の時代の終わりごろ、天下が大きく乱れると、英雄たちが次々と立ち上がったよ。袁(えん)紹(しょう)は4つの州(青(せい)州・冀(き)州・幽(ゆう)州・并(へい)州)をおさえて、とても強くて誰も敵う者がいなかったんだ。でも、曹(そう)操(そう)はよく考えて作戦を立てて、天下にその力を振るったよ。申(しん)不(ふ)害(がい)や商(しょう)鞅(おう)のような法律や政治の方法を取り入れて、韓(かん)信(しん)や白(はく)起(き)のようなすぐれた戦いの作戦もあわせて使ったよ。
それに、人の才能に合わせて仕事を任せて、それぞれの力をうまく生かしたよ。自分の気持ちをおさえて計算をして、昔のうらみも気にしなかったよ。こうしてついに国家の大事なしくみをまとめ上げて、大きな事業を成しとげることができたよ。そのすぐれた知恵と判断力がとてもすぐれていたからだね。曹(そう)操(そう)は、まさに普通ではない人で、時代を超えてすぐれた人だと言えるよ!

申(しん)不(ふ)害(がい)は、戦国時代の韓(かん)の政治家だよ。商(しょう)鞅(おう)は、戦国時代の魏(ぎ)と秦(しん)の政治家だよ。彼らは変(へん)法(ぽう)(もともとある「法」を新しく「変」える)をして、土地の制度を整えて、富国強兵を目指したよ。
韓(かん)信(しん)は、秦(しん)の末期から漢(かん)時代の武将だよ。劉(りゅう)邦(ほう)の配下で活躍したよ。白(は)起(くき)は戦国時代の秦(しん)の武将だよ。生き埋めが得意だよ。

「魏書武帝紀」は以上だよ!