正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その7

正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(そう) について書かれているよ!

本文中で(そう)(そう)は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「(そう)(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、(かん)(ちゅう)の戦いから最後までだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

漢中へ

本文

劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。

(りゅう)()は、(ちょう)()()(ちょう)()(らん)たちを()(べん)に駐屯させたよ。(そう)(そう)(そう)(こう)に対抗させたよ。

反乱を討伐する

本文

二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,(註130)必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。(註131)(註132)(註133)

建安23年(218年)、春の正月、(かん)(たい)()(れい)(きつ)(ほん)が、(しょう)()(こう)()()(ちょく)()(こう)たちと一緒に反乱を起こして、(きょ)を攻撃したよ。彼らは(じょう)(しょう)(ちょう)()(おう)(ひつ)の陣営を焼いたけど、(おう)(ひつ)(えい)(せん)(てん)(のう)(ちゅう)(ろう)(しょう)(げん)(きょう)と一緒に彼らを討って斬ったんだ。

(註130)

魏武故事載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌乆未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」

()()()()』によると、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
(ちょう)()(おう)(ひつ)は、私が困難を押しのけてきた時からの役人だよ。忠実で能力があって、心は鉄石みたいで、国にとって優れた役人だよ。彼がつまずいたり、誤った道に入ったりしたことはなかったけど、私は優れた馬を放ってそれに乗らないで、改めて求めることをするの? だから、彼をふたたび使って、適切な役職を与えて、前と同様に(ちょう)()の職務を継続させることとするよ」

(註131)

三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。

(さん)()(けつ)(ろく)』の注によると、ある時、(けい)(ちょう)の出身の(きん)()という人がいたんだ。(あざな)(とく)()だよ。彼は(かん)の臣下の家の出身で、(きん)(じつ)(てい)()()()を討伐して忠誠心を示して、名声を築いていたんだって。彼は(かん)の王朝が衰えることを感じて、自分がその運命を変えられると信じて、(こう)()()(こう)(きつ)(ほん)(きつ)(ほん)の息子の(きつ)(ばく)(きつ)(ばく)の弟の(きつ)(ぼく)たちと一緒に計画を練ったんだって。
(こう)()は、(あざな)()(こう)で、幼い頃から評判が良かったんだって。彼は(じょう)(しょう)(えん)として仕えて、(そう)(そう)は彼をとても尊重して、後に()(ちゅう)に任命して、(しょう)()を担当させたよ。
(きつ)(ばく)は、(あざな)(ぶん)(ぜん)で、(きつ)(ぼく)は、(あざな)()(ぜん)だよ。(きん)()と同じで(きん)(じつ)(てい)みたいな性格だったんだって。彼らは(おう)(ひつ)とも仲が良くて、この関係を利用して、(おう)(ひつ)を殺したら天子を支配して()を攻撃して、さらに(りゅう)()を支援しようと考えていたんだ。

(註131)

時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,必竟以創死。

その時、(かん)()は勢いづいていて、(そう)(そう)(ぎょう)にいたよ。(おう)(ひつ)(きょ)の兵を管理する任務を担当していたよ。(きつ)(ばく)たちは使用人たちを率いて、夜に門を焼いて、(おう)(ひつ)を攻撃したんだ。(きん)()は内部から協力者を送って、(おう)(ひつ)の肩を射抜いたよ。(おう)(ひつ)は誰が攻撃しているのかわからなかったんだ。彼は以前から(きん)()とは親しい間柄だったから、(きん)()のもとに逃げ込んだよ。夜になって、(おう)(ひつ)は「(とく)()」と呼んだけど、(きん)()の家族は(おう)(ひつ)なのか分からなくて、(きつ)(ばく)たちだと思っていたんだ。だから、彼らは混乱した返答をしたよ。
「王長史((おう)(ひつ))はもう亡くなったの? あなたたちの事は成功したよ!」
(おう)(ひつ)は別の道を駆けて逃げたよ。
他の説では、(おう)(ひつ)(きん)()のもとに逃げようとしたけど、彼の部下の指揮官が(おう)(ひつ)に尋ねたよ。
「今日の事は誰の門かわからないのに(誰のところが安全かわからないのに)、どうして彼の家に逃げるの?」
彼は(おう)(ひつ)を助けて、南の城に向かったよ。夜が明けると(おう)(ひつ)はまだ生きていたけど、(きつ)(ばく)たちは散り散りになって逃げて、敗北しちゃった。十数日後に、(おう)(ひつ)は矢創が原因で亡くなったんだ。

(註132)

獻帝春秋曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(こう)()()(こう)たちが捕らえられて、斬られる寸前に、(こう)()(そう)(そう)の名を呼んだよ。
「私が自分の意志で行動していれば、これほどまでに子供たちに騙されることはなかったのに!」
()(こう)は頭を下げて地面に叩きつけて、死んでしまったの。

(註133)

山陽公載記曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。衆人以為救火者必無罪,皆附左;王以為「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。

(さん)(よう)(こう)(さい)()』によると、(そう)(そう)(おう)(ひつ)の死を聞いてすごく怒って、漢の百官を(ぎょう)に呼び寄せたよ。彼は、消火に協力した人を左側に、協力しない人を右側に立たせたよ。たくさんの人たちは、協力した人は罪を犯していないと考えて、みんな左側に集まったよ。でも、(そう)(そう)は「火を消さない者が乱を助けているのではなくて、火を消す者が実際には敵だ」と考えたんだ。そして、彼らをみんな殺してしまったの。

本文

曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。

(そう)(こう)()(らん)を破って、将の(にん)()たちを斬ったよ。三月、(ちょう)()()(ちょう)(かん)(ちゅう)に逃げたんだ。そして、(いん)(ぺい)(てい)族の(きょう)(たん)()(らん)を斬って、首を届けたよ。

本文

夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。(註134)

夏の四月、(だい)郡と(じょう)(こく)烏丸(うがん)族の()(しん)(てい)たちが反乱を起こしたよ。(えん)(りょう)(こう)(そう)(しょう)に彼らを討伐させて、反乱を鎮圧したよ。

(註134)

魏書載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興于外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」

()(しょ)』によると、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「昨年の冬、疫病が発生して、民は苦しんでいるよ。外では軍を興しているから、農地の開墾が減少していて、私はとても心配しているよ。そこで、役人や民に伝えるよ。70歳以上で夫や子供がいない女性、12歳以下で両親や兄弟のいない子供、目が見えなかったり、手が使えなかったり、足が動けなかったり、妻や子供や両親や兄弟も財産もない人には、食料を国が支給するよ。幼い人は12歳になったら支給を停止するよ。自分で生計を立てられない貧しい人には、人口に応じて援助するよ。また、年老いて養われる必要があって90歳以上の人は、一家で1人の課税と労働を免除するよ」

生前の墓について

本文

六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容。」

六月、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「昔の墓は、痩せた地に作られていたんだって。だから、西(せい)(もん)(ひょう)の祠の西の平原の上に寿(じゅ)(りょう)(生前の墓)を作ってね。その高い場所を利用して、土を盛ったり木を植えたりしないでね。『(しゅ)(らい)』によると、墓を管理する人がいて、諸侯は左右の前方に、卿や大夫は後方に埋葬されていたんだって。(かん)の制度でも、これを(ばい)(りょう)と呼んでいるんだよ。卿や大夫、功績のある将たちは、功績のある人たちは寿陵に沿って埋葬されるべきだから、広い土地にして、収容できるようにしてね」

西(せい)(もん)(ひょう)は、戦国時代初期の()の政治家だよ。彼が悪い風習を滅ぼして、灌漑事業を頑張って、(ぎょう)を発展させたから、()は大きくなったんだよ。詳しくは『()()』「(こっ)(けい)(れつ)(でん)」を見てね。
「古之葬者,因高為基,不封不樹」は、『日本書紀』に引用されているよ。『日本書紀』卷第二十五(孝徳天皇)の「甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。~」の後に続く文章。

劉備を討ちに西へ

本文

秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。

秋の七月、(そう)(そう)は軍を整えて、(りゅう)()に向けて西に出発したよ。九月、(ちょう)(あん)に着いたよ。

本文

冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。

冬の十月、(えん)を守る将の(こう)(おん)たちが反乱を起こしたんだ。(なん)(よう)(たい)(しゅ)を捕まえて、役人と民を脅して、(えん)を占領したんだ。最初に(そう)(じん)(かん)()を討つために(はん)(じょう)にいたんだけど、この月に(そう)(じん)(えん)を包囲するように命令したよ。

本文

二十四年春正月,仁屠宛,斬音。(註135)

建安24年(219年)、春の正月、(そう)(じん)(えん)で攻撃して壊滅させて、(こう)(おん)を斬ったよ。

(註135)

曹瞞傳曰:是時南陽間苦繇役,音於是執太守東里襃,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共戮力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。

(そう)(まん)(でん)』によると、この頃、(なん)(よう)の地域では過酷な労役に苦しんでいたんだって。(こう)(おん)(なん)(よう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(とう)()(こん)を捕らえて、役人や民たちと一緒に反乱を起こしたんだ。そして、彼は(かん)()と連携したよ。(なん)(よう)(こう)(そう)(そう)()(きょう)は、(こう)(おん)にこう言ったよ。
「あなたは民の心に応じて、大きな事を成し遂げているよね。遠くの人たちも近くの人たちもみんな、あなたの成功を待ち望んでいるよ。でも、今あなたが郡の将を捕らえたのは逆効果で、利益が無いよ。どうして彼を追い出さないの? 私たちはあなたと一緒に力を合わせて戦うよ。(そう)(そう)の軍が来れば、(かん)()の軍も着くだろうね」
(こう)(おん)はそれに従って、(とう)()(こん)を釈放したよ。(そう)()(きょう)は夜に城を脱出して、その後、(とう)()(こん)と一緒に残った人たちを集めて(こう)(おん)を包囲したよ。そして、(そう)(じん)の軍勢が着いて、一緒に(こう)(おん)たちを撃破したの。

本文

夏侯淵與劉備戰於陽平,為備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平。備因險拒守。(註136)

()(こう)(えん)(りゅう)()(よう)(へい)で戦ったけど、(りゅう)()に討たれちゃった。三月、(そう)(そう)(ちょう)(あん)から()(こく)を出て、(かん)(ちゅう)に向けて進軍して、(よう)(へい)に着いたんだ。(りゅう)()は険しい場所に守りを固めていたよ。

(註136)

九州春秋曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」

(きゅう)(しゅう)(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)(そう)は帰りたがっていて、「(けい)(ろく)」という言葉を出したよ。役人たちはその意味がわからなかったんだ。(しゅ)簿()(書記官)の(よう)(しゅう)は帰る準備をしたよ。人たちは驚いて(よう)(しゅう)に尋ねたんだ。
「どうして知っているの?」
(よう)(しゅう)は答えたよ。
(けい)(ろく)とは、捨てるには惜しいものだけど、食べても得るものがないもののことだよ。それを(かん)(ちゅう)に例えていて、(そう)(そう)が帰るのを望んでいると知ったんだ」

本文

夏五月,引軍還長安。

夏の五月、(そう)(そう)は軍を率いて、(ちょう)(あん)に帰ってきたよ。

樊城の戦い

本文

秋七月,以夫人卞氏為王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。

秋の七月、夫人の(べん)()を王后にしたよ。
()(きん)(そう)(じん)を援助させて、(かん)()を攻撃したよ。八月、(かん)(すい)が氾濫して、()(きん)の軍が水に浸かっちゃった。(かん)()()(きん)を捕らえて、(そう)(じん)を包囲したんだ。だから、(じょ)(こう)に救援させたよ。

本文

九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。(註137)

九月、(しょう)(こく)(しょう)(よう)西(せい)(そう)(えん)()(ふう)と一緒に反乱を企てたとして、職を辞めさせられたよ。

(註137)

世語曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。

()()』によると、()(ふう)は、(あざな)()(けい)で、(はい)の出身で、人を惑わせる才能を持っていて、(ぎょう)()で尊敬されていたよ。(しょう)(よう)が彼を見出したんだって。大軍がまだ帰ってきていなかった時、()(ふう)はこっそりと仲間を集めて、(ちょう)(らく)(えい)()(ちん)()と企んで(ぎょう)を襲撃しようとしたよ。でも、計画を実行する前に、(ちん)()は怖くなっちゃって、太子((そう)())に告発したよ。()(ふう)は処刑されて、関わった数十人が死刑にされちゃった。
(おう)(ちょう)の家訓には「(さい)(いん)の出身の()(ふう)」とあるけど、ここでの記述では(はい)の出身とされていて、詳しいことはわかっていないの。

本文

冬十月,軍還洛陽。(註138)孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。(註139)(註140)(註141)(註142)

冬の十月、軍は(らく)(よう)に帰ったよ。(そん)(けん)が使者を送って上表して、(かん)()の討伐に参加すると誓ったよ。(そう)(そう)(らく)(よう)を出発して、南に向かって(かん)()を攻める途中、(じょ)(こう)(かん)()を攻撃して、打ち破ったよ。(かん)()は逃げて、(そう)(じん)の包囲が解かれたよ。(そう)(そう)()()に進軍したよ。

(註138)

曹瞞傳曰:王更脩治北部尉廨,令過於舊。

(そう)(まん)(でん)』によると、(そう)(そう)は、(ほく)()()の役所を改修したよ。その命令は前よりも厳しいものだったよ。

(註139)

魏略曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運乆已盡,歷數乆已終,非適今日也。是以桓、靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生注望,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以為虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」

()(りゃく)』によると、(そん)(けん)は上書して、臣下を自称して、天命について述べたよ。(そう)(そう)(そん)(けん)の書を外に示して、こう言ったよ。
「こいつは私を炉火の上に置きたがっているの!?」
()(ちゅう)(ちん)(ぐん)(しょう)(しょ)(かん)(かい)が奏上したよ。
(あん)(てい)の時代から、(かん)の政治は公室から遠ざかって、国家の統一は長く続かないで、今に至っては名前だけが残って、土地も人たちもすでに(かん)のものではなくなっちゃった。時の運は尽きて、天道の終わりが近づいているのは、今日のことに限ったことではないよ。(かん)(てい)(れい)(てい)の時代の間に、知識に明るい人たちは『(かん)の運気は尽きて、黄家が興るだろう』と語っていたんだって。殿下((そう)(そう))はその期待に応えて、天下の十分の九を有しながら(かん)に仕えているから、民たちが期待して、怨みと嘆きの声が上がっているんだよ。だから、(そん)(けん)は遠くにいても臣下を自称しているよ。これは天と人の意志にかなったもので、異なる声がひとつになっているよ。私の意見では、()(しゅん))と()は辞退しないで、(いん)(しゅう)は罪を恐れずに処罰したよ。天の意志を畏れて、己の運命に従うべきで、譲る必要なんてないんだ」

炉火は、火は五行説で(かん)を表していて「(かん)の上に立つ」と言えるし、「まるで火の上に身を置くみたいな厳しい状況になる」とも解釈できるね。

(註140)

魏氏春秋曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害為百姓所歸者,即民主也。今殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施於有政,是亦為政』。若天命在吾,吾為周文王矣。」

()()(しゅん)(じゅう)』によると、()(こう)(とん)(そう)(そう)にこう言ったよ。
「天下の人たちは、(かん)の統治はもう終わって、新しい時代が始まることを知っているよ。昔から、民の害を取り除いて、民から支持される人こそが、民の主だよ。今、あなたは30年以上も戦って、その功績は民に広く認められていて、天下の人たちの希望になっているんだ。天の意に応じて、民のために尽くすのが、私たちの運命だよ。だから、疑う事なんてないよ!」
(そう)(そう)はこう言ったよ。
「『(政治に直接かかわらなくても)政治に影響を及ぼしているなら、政治と言える』って言うよね。もし天命が私にあるなら、私は(しゅう)(ぶん)(おう)となるかもね」

『施於有政,是亦為政』は、『(ろん)()』「為政」から。
(しゅう)(ぶん)(おう)になるってことは、皇帝になるのは自分ではなく息子ってことを言いたいのかも。

(註141)

曹瞞傳及世語並云桓階勸王正位,夏侯惇以為宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及至王薨,惇追恨前言,發病卒。

(そう)(まん)(でん)』と『()()』によると、(かん)(かい)(そう)(そう)に帝位につくよう勧めたけど、()(こう)(とん)は、まず(しょく)を滅ぼすべきと主張したんだって。(しょく)が滅びたら、()も服従できると考えていたんだって。2つの地域が平定されたら、(しゅん)()のような道(子ではない人物に位を譲る)に従って進むことができるよ。(そう)(そう)はそれに従ったよ。でも、(そう)(そう)が亡くなると、()(こう)(とん)は前に言ったことを悔やんで、病にかかっちゃったの。

(註142)

孫盛評曰:夏侯惇恥為漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,世語為妄矣。

(そん)(せい)の評によると、()(こう)(とん)(かん)の官職に就くことを恥じて、()の印綬を求めたよ。一方で、(かん)(かい)()(こう)(とん)とは異なって、義直な性格を持っていたよ。彼の伝記を考えると、『()()』は大げさな話だと言えるよ。

本文

二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。

建安25年(220年)、春の正月、(そう)(そう)(らく)(よう)に着いたよ。(そん)(けん)(かん)()を討って、その首を(そう)(そう)に届けたよ。

曹操の死

本文

庚子,王崩于洛陽,年六十六。(註143)(註144)

庚子の日、(そう)(そう)(らく)(よう)で亡くなったよ。享年66だったよ。

(註143)

世語曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。

()()』によると、(そう)(そう)(かん)(ちゅう)から(らく)(よう)に戻って、(けん)()殿(でん)を建てたよ。(たく)(りゅう)()で樹を切ったら、樹から血が噴き出る出来事が起きたんだって。

(註144)

曹瞞傳曰:王使工蘇越徙美棃,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寑疾。

(そう)(まん)(でん)』によると、(そう)(そう)が建築士の()(えつ)に美しい(なし)の木を移動させたんだって。()(えつ)が掘ると、根が傷ついちゃって、血が噴き出したんだって。()(えつ)はびっくりして(そう)(そう)に報告したけど、(そう)(そう)は自らそれを見て嫌な感じがして、不吉と考えて、それから病気になって寝込むようになっちゃった。

本文

遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」謚曰武王。二月丁卯,葬高陵。(註145)(註146)(註147)(註148)(註149)

遺言はこう書かれているよ。
「天下はまだ安定していなから、(自分の葬儀は)古いやり方に従うことはできないよ。葬儀が終わったら、みんな喪服を脱ぎ捨ててね。軍を指揮して、守備についている者はその地を離れたらダメだよ。役人はそれぞれの仕事を果たしてね。葬儀は適切な時期に行って、金や宝石、宝物を隠さないでね」
諡は「武王」だよ。二月の丁卯の日、(こう)(りょう)に葬られたよ。

いろいろな逸話

多才な曹操

(註145)

魏書曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手為節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陣,意思安閑,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。

()(しょ)』によると、(そう)(そう)は国内を統治して、悪人や反乱者を鎮圧したよ。彼の軍事行動は、(そん)()()()の兵法に基づいていて、状況に応じて奇策を使って、敵を欺いて勝利を収めたよ。彼は兵法書を作って、内容は10万語以上にもなるよ。彼の将たちは、この新しい兵法書に基づいて戦いに挑んだんだって。彼の対処はいつも慎重で、命令に従う者は必ず成功して、命令に逆らう者は失敗に終わったよ。敵と対峙する時には、彼は穏やかな心を持って、まるで戦いたくないみたいに振る舞っていたんだ。でも、一度戦闘が始まれば、彼は勝利を決める絶好の機会を捉えて、勢いに乗って、気迫に満ち溢れていたよ。だから、毎回の戦いで勝利を収めて、彼の軍は偶然の勝利に頼ることはなかったよ。

(註145)

知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。是以刱造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。

彼は人の心をよく理解していて、偽りに惑わされることがなかったんだって。()(きん)(がく)(しん)を軍の中から抜擢して、(ちょう)(りょう)(じょ)(こう)を敵の中からも引き抜いて、その功績から名高い将として評価されたんだよ。他にもたくさんの卑しい身分からも人を見抜いて、州や県の牧守として登用された人も数えきれないほどいるよ。だから、彼はすごい大業を創り上げたんだ。文と武の両方に優れていて、30年以上にわたって軍を指揮し続けたよ。彼は書物から手を離すことがなくて、昼は戦略を研究して、夜は経典を読み込んで、高所に登ると必ず賦を詠んで、新しい詩を作ると、それは楽として演奏されて、音楽の章となったんだ。

(註145)

才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,甞於南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不為之法則,皆盡其意。雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。

彼の才能と力は人たちを上回っていて、矢を手から放てば飛ぶ鳥を射落として、自ら猛獣を狩ることができたよ。ある日、彼は(なん)()で狩りをして、63羽もの雉を一日で捕らえたんだって。それに、彼は宮殿や施設を建てる時や、道具を整える時にも、すべて彼の考えに従って設計したよ。彼は優雅で質素で、華やかなものを好まなかったんだって。後宮の衣服は錦や刺繍を飾らないで、侍御の履物も特別な柄や色ではなかったよ。帷帳や屏風は傷ついた場合、修繕されて、寝具は温かさを求めて選ばれて、装飾はなかったよ。

(註145)

攻城拔邑,得靡麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分豪不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。

彼は都市を攻略して、城を陥れた時に、美しいものを手に入れると、それを功績のある者たちに贈ったんだって。功績ある者に適切に報いて、勤労は報いに値すると考えて、たくさんの金銭を惜しまずに払って、功績のない者には分け与えなかったよ。彼は四方からの贈り物を臣下たちと共有したよ。葬儀で、服装についてたくさんの制約があるけど、それは煩雑になるだけで利益にはならないから、彼は自身の死後に着る衣服を制限して、4つの衣装箱だけで十分だと考えたよ。

()(しょ)では評価上げ上げ。

贅沢は好まない

(註146)

傅子曰:太祖愍嫁娶之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。

()()』によると、(そう)(そう)は結婚式の贅沢さに心を痛めて、公女たちが嫁ぐときはみんな、黒い帳を使って、侍女も10人を超えていなかったよ。

書や囲碁に強くて薬学にも詳しい

(註147)

張華博物志曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華他、甘陵甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。

(ちょう)()の『(はく)(ぶつ)()』によると、(かん)の時代には(あん)(へい)の出身の(さい)(えん)と子の(さい)(しょく)(こう)(のう)の出身の(ちょう)()と弟の(ちょう)(ちょう)が草書に優れていたけど、(そう)(そう)も彼らに負けないくらいの草書の技術を持っていたんだって。
(かん)(たん)(さい)(よう)は音楽に優れていて、(ひょう)(よく)の出身の(さん)()(どう)(おう)(きゅう)(しん)(かく)(がい)たちは囲碁が得意で、(そう)(そう)は彼らと互角に競い合うことができたよ。
それに、(そう)(そう)は自身の健康にも気を配って、医学や方薬にも通じていたんだよ。彼はその知識を持つ人たちを引き寄せて、()(こう)の出身の()()(しょう)郡の出身の()()(かん)(りょう)の出身の(かん)()(よう)(じょう)の出身の(げき)(けん)などたくさんの人たちが集まったよ。さらに、彼は野生の葛を一尺まで噛んで食べたり、時には毒の入った酒を飲んだりもしたんだって。

機能的な服が好き

(註148)

傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、崔豹之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。

()()』によると、(かん)の末期、王公たちは王服を捨てて、頭巾を着けることが優雅とされていたんだって。だから、(えん)(しょう)(さい)(ひょう)たちは、軍の指揮官なのに、絹の頭巾を身に着けていたんだ。でも、(そう)(そう)は当時、天下が乱れて資金や財産が足りなかったから、古代の皮の冠にならって、絹や麻の織物を使って頭巾を作って、簡素ですぐに時勢に合わせたものとして、色で身分を区別したよ。今もこの様式が採用されているけど、軍の装いとすべきで、国の正装ではないと言えるよ。

きまぐれで残虐

(註149)

曹瞞傳曰:太祖為人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賔客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡恱大笑,至以頭沒柸案中,肴膳皆沾洿巾幘,其輕易如此。

(そう)(まん)(でん)』によると、(そう)(そう)は気まぐれで威厳に欠ける人だったんだって。音楽が好きで、いつも芸人を身近に置いて、日が暮れるまで遊んでいたんだって。
彼は軽い絹の服を身に着けて、小さな鞄を持っていて、手拭きや小さな物を入れていたよ。時には帽子を冠としてかぶって、客と会ったよ。彼は人と話すとき、冗談や言葉遊びをして、何も隠さずに話して、楽しみや喜びで大声で笑って、時には頭を机に突っ込んで、料理が服や帽子についてしまうほどだったよ。彼の軽率さはこうしたものだったんだ。

(註149)

然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活。初,袁忠為沛相,甞欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兖州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家。忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守止燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之。

でも、彼は法を守ることに厳しくて、自分よりも優れた計画を持っている将を見つけると、法に基づいて処刑したよ。昔の友人でも怨みがあったら、残さずに法に従って処刑したよ。彼が処刑する人に対しては、涙を流して痛みを嘆いたけど、最終的には誰も生かしておくことはなかったよ。
初め、(えん)(ちゅう)(はい)国の(しょう)になって、法によって(そう)(そう)を裁こうとしたよ。(はい)国の出身の(かん)(しょう)も彼を軽視していたよ。(そう)(そう)(えん)州にいた時、(ちん)(りゅう)の出身の(へん)(じょう)は議論で(そう)(そう)を侮辱したよ。(そう)(そう)は彼を殺して、その家族も処刑したんだ。(えん)(ちゅう)(かん)(しょう)は一緒に(こう)州に逃れたけど、(そう)(そう)は使者を送って、(たい)(しゅ)(郡の長官)の()(しょう)を通じて彼らを完全に根絶やしにするように指示したんだ。
(かん)(しょう)が出頭して、庭で頭を下げて謝った時、(そう)(そう)は彼に対して言ったよ。
「ひざをつけば死刑を免れると思っているの?」
そして彼を殺したよ。

(註149)

甞出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相付,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤為軍帥,不可自殺,請自刑。」因援劔割髮以置地。

(そう)(そう)は進軍した時、麦畑を通り抜ける途中で命令を出したよ。
「兵は麦を傷つけたらダメだよ、犯した者は死刑だよ」
騎兵はみんな馬を降りて、麦を抑えながら進んだよ。その時、(そう)(そう)の馬が麦畑に入っちゃって、(そう)(そう)(しゅ)簿()に罪を議論させたよ。(しゅ)簿()は『(しゅん)(じゅう)』の義に従って、高位の者には罰を与えないべきだと答えたんだ。でも、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「自分で法を制定して自分で違反するなら、どうして下を統率できるの? でも、私は軍の指導者で、自殺はできないから、自分を罰しよう」
そして剣を取って、髪を切って地に置いたんだ。

(註149)

又有幸姬常從晝寢,枕之卧,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖卧安,未即寤,及自覺,棒殺之。

(そう)(そう)は寵姫を昼寝に付き合わせて、横になって、彼女に「少しして私を起こしてほしい」と頼んだよ。寵姫は(そう)(そう)が安らかに寝ているのを見て、すぐに起こさなかったんだ。でも、(そう)(そう)は自分で目を覚ましてから、彼女を棒で殺しちゃったの。

(註149)

常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆,太祖謂主者曰:「特當借君死以猒衆,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐,皆此之類也。

敵を討伐していた時、食料が不足していたから、(そう)(そう)は担当者に尋ねたよ。
「どうしよう?」
担当者はこう答えたよ。
「小さな斛を使えば満足できると思うよ」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
「それはいい案だね」
でも、後で、軍の中で(そう)(そう)が人々を欺いているという噂が広まっちゃった。(そう)(そう)は担当者にこう言ったよ。
「あなたの死を借りてみんなを抑えよう。そうしなければ問題が解決しないから」
そして担当者を斬って、首を掲げて示して、こう言ったよ。
「小さな斛を持ち出して、役人の穀物を盗んだ罪で軍門で斬ったんだ」
彼の非情さ、残忍さ、人を騙す計略は、すべてこのような例ばかりだったよ。

陳寿の評価

本文

評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任筭,不念舊惡,終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。

評すると、天下が大乱に陥っていた漢の末期、英雄たちが次々と現れたよ。(えん)(しょう)は4つの州を支配して、すごく強大で誰も敵う者がいなかったね。でも、(そう)(そう)は戦略を考えて、内部を取りまとめて、(しん)()(がい)(しょう)(おう)の知恵を活かして、(かん)(しん)(はく)()の奇策を使ったよ。彼は役人に才能を与えて、器に応じて仕事を任せて、過去の悪を忘れて、最終的には皇帝の権威を統制して、大業を成し遂げたよ。彼の明晰な戦略は、とても優れたものだったね。(そう)(そう)は、「非常に卓越した人物」「時代を超越した偉大な人物」であったと言えるよ!

(しん)()(がい)は、戦国時代の(かん)の政治家だよ。(しょう)(おう)は、戦国時代の()(しん)の政治家だよ。彼らは(へん)(ぽう)(もともとある「法」を新しく「変」える)をして、土地の制度を整えて、富国強兵を目指したよ。
(かん)(しん)は、(しん)の末期~(かん)時代の武将だよ。(りゅう)(ほう)の配下で活躍したよ。()(くき)は戦国時代の(しん)の武将だよ。生き埋めが得意だよ。彼らの最期は主君によって……。

以上、武帝紀を読み終わったよ!

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