
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、官渡の戦いから冀州の平定までだよ。
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その3 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その4
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その5
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その6
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080406官渡の戦い
五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也。今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必為後患。(註59)袁紹雖有大志,而見事遟,必不動也。」
建安五年(200年)、春の正月、董承たちの反乱の計画がもれて、関わった人たちはみんな処刑されたよ。曹操は劉備を討つために自ら東に向かおうとしたけど、将たちはみんなこう言ったよ。
「あなたが天下を争う相手は袁紹だよ。今、袁紹が攻めてこようとしているのに、それを放って東へ向かうのは危いよ。袁紹が後ろから攻めてきたら、どうするの?」
曹操はこう答えたよ。
「劉備はただの人ではないから、今、彼を攻めないと、必ず後で大きな心配になっちゃう。袁紹は志は大きいけど、決めるのが遅いから、きっとすぐには動かないだろうね」
孫盛魏氏春秋云:荅諸將曰:「劉備,人傑也,將生憂寡人。」
孫盛の『魏氏春秋』によると、曹操は将たちにこう言ったよ。
「劉備はただの人ではないから、将来の心配になるかも」
「將生憂寡人」は、『春秋左氏伝』「哀公二十年」にある呉王の夫差の言葉「句踐將生憂寡人,寡人死之不得矣」から。
臣松之以為史之記言,旣多潤色,故前載所述有非實者矣,後之作者又生意改之,於失實也,不亦彌遠乎!凡孫盛製書,多用左氏以易舊文,如此者非一。嗟乎,後之學者將何取信哉?且魏武方以天下勵志,而用夫差分死之言,尤非其類。
裴松之の見解としては、歴史書に書かれている言葉は、後からきれいに言い直されたりすることが多くて、前に書かれているものにも事実でないものがあるんだ。さらに後の人が自分の考えで書きかえると、ますます事実から遠くなってしまうよ! そもそも孫盛は書物を作ると、『春秋左氏伝』の書き方をまねて、もとの文章を変えてしまうことが多くて、このような例は一つではないよ。ああ、後の学ぶ人たちは、いったい何を信じればいいの? それに、曹操はちょうど天下を取ろうと志していた時なのに、夫差が死を覚悟したときのような言い方を使ったとするのは、合わないよね。
郭嘉亦勸公,遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博。備走奔紹,獲其妻子。備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降。昌狶叛為備,又攻破之。公還官渡,紹卒不出。
郭嘉も曹操に勧めたから、こうして曹操は東に向かって劉備を攻めて、打ち破って、劉備の将の夏侯博を生け捕りにしたよ。劉備は袁紹のもとに逃げ込んで、曹操は劉備の妻と子供たちを捕らえたよ。劉備の将の関羽は下邳にとどまっていたけど、曹操がさらに攻めると、関羽は降伏したよ。
その後、昌狶が反乱を起こして劉備に味方したけど、曹操はこれも攻めて破ったよ。曹操は官渡に戻ったけど、袁紹は結局出てこなかったんだ。
白馬の戦い
二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延於白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。
二月、袁紹は郭図、淳于瓊、顔良を送って、東郡太守の劉延を白馬で攻めさせたよ。袁紹も自ら兵を率いて黎陽に進んで、黄河を渡ろうとしたよ。
夏の四月、曹操は劉延を助けるために北へ向かったよ。荀攸が曹操に説得してこう言ったよ。
「今は兵が少なくて袁紹には敵わないかも。敵の力を分けさせることが大切だよ。あなたが延津に行って、黄河を渡って敵の後ろを攻めるように見せれば、袁紹はきっと西へ兵を動かすよ。そのすきに軽い装備の兵で白馬を急に襲えば、油断している顔良を捕らえられるよ」
曹操はこの作戦に従ったよ。
紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。使張遼、關羽前登,擊破,斬良。遂解白馬圍,徙其民,循河而西。紹於是渡河追公軍,至延津南。
袁紹は曹操の兵が黄河を渡ろうとしていると聞くと、すぐに兵を分けて西に向かわせたよ。そこで曹操は軍を率いて急いで白馬へ向かったよ。あと十里くらいまで近づくと、顔良はすごくびっくりして、迎え撃ってきたんだ。曹操は、張遼と関羽に先に進ませて攻撃させると、顔良を討ち取ったよ。こうして白馬の包囲を解いて、そこにいた人々を移して、黄河に沿って西へ進んだよ。袁紹はそこで黄河を渡って曹操の軍を追いかけて、延津の南まで進んだよ。
公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。」公曰:「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道。諸將以為敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」
曹操は兵をまとめて、南の坂の下に陣を置いたよ。そして見張りを壁に登らせて敵の様子を見させたよ。見張りはこう言ったよ。
「500から600の騎兵が見えるよ」
しばらくすると、また報告してこう言ったよ。
「騎兵はだんだん増えて、歩兵は数えきれないくらいいるよ」
曹操はこう言ったよ。
「もう報告しなくていいよ」
そして騎兵に命令して馬の鞍を外して馬を休ませたよ。このとき白馬から運ばれてきた荷物が道に並んでいたよ。将たちは敵の騎兵が増えているから、「いったん陣に戻って守るほうがいいよ」と考えたんだ。荀攸はこう言ったよ。
「これは敵をおびきよせるためのしかけだよ。どうしてここでやめるの!」
紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜、良。醜、良皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。
すると、袁紹の騎兵の将の文醜と、劉備の騎兵5,000から6,000騎くらいが前からも後ろからもやって来たんだ。将たちはふたたびこう言ったよ。
「馬に乗るべきだよ」
でも、曹操はこう言ったよ。
「まだだよ」
しばらくすると、敵の騎兵がどんどん増えて、その一部は荷物のほうへ向かったよ。すると曹操はこう言ったよ。
「よし、今だ」
そして、みんなは馬に乗ったよ。このとき騎兵は600にも満たなかったけど、曹操はそのまま攻めて、敵を大きく打ち破ったよ。文醜を討ち取って、(すでに討たれていた)顔良とあわせて、袁紹の名将を二人とも失わせたよ。ふたたび戦ってもみんな捕らえられて、袁紹の軍は大きく動揺したんだ。曹操は軍を率いて官渡へ戻ったよ。袁紹は陽武に進んで守ったよ。
一方、関羽は劉備のもとへ帰っていったんだ。
弱音を吐く
八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十里。公亦分營與相當,合戰不利。(註60)
八月、袁紹が陣をだんだん前に進めて、砂の丘にそって陣地を築いて、東西に数十里にも広がったよ。曹操もまた陣を分けてこれに向かい合ったけど、戦いはうまくいかなかったんだ。
習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。
習鑿歯の『漢晋春秋』によると、許攸は袁紹に説得してこう言ったよ。
「どうか曹操と正面から戦わないで。すぐに軍を分けて守りを固めて、そのうえで別の道からまっすぐ天子を迎えに行けば、成功するよ」
でも、袁紹はこれに従わないで、こう言ったよ。
「まずは曹操を包囲して攻め落とすんだ」
これを聞いて許攸は怒っちゃった。
時公兵不滿萬,傷者十二三。(註61)
このとき曹操の兵は1万人にも満たなくて、2割から3割が傷ついていたんだ。
臣松之以為魏武初起兵,已有衆五千,自後百戰百勝,敗者十二三而已矣。但一破黃巾,受降卒三十餘萬,餘所吞并,不可悉紀;雖征戰損傷,未應如此之少也。夫結營相守,異於摧鋒決戰。本紀云:「紹衆十餘萬,屯營東西數十里。」魏太祖雖機變無方,略不世出,安有以數千之兵,而得逾時相抗者哉?以理而言,竊謂不然。
裴松之の見解としては、曹操が兵をあげたばかりのとき、すでに5,000人くらいの兵がいたよ。その後はたくさんの戦いでほとんど勝ち続けて、負けたのは2割から3割くらいだよ。黄巾を一度打ち破ったときには、30万以上の兵を降伏させているし、その後も取り込んだ兵は数えきれないよね。なのに、戦いで失ったとしても、兵がこんなに少なくなるはずはないよ。
そもそも陣を築いて向かい合う戦いは、正面から一気にぶつかる戦いとは違うよ。本紀(武帝紀)には「袁紹の兵は10万人以上で、陣は東西に数十里にも広がった」と書かれているよ。曹操は、機転がきいて、作戦もすぐれていたけど、それでも数千の兵だけで長いあいだ敵と対抗できるの? 理屈で考えれば、私はこの話は事実ではないと思うよ。
紹為屯數十里,公能分營與相當,此兵不得甚少,一也。紹若有十倍之衆,理應當悉力圍守,使出入斷絕,而公使徐晃等擊其運車,公又自出擊淳于瓊等,揚旌往還,曾無抵閡,明紹力不能制,是不得甚少,二也。諸書皆云公坑紹衆八萬,或云七萬。夫八萬人奔散,非八千人所能縛,而紹之大衆皆拱手就戮,何緣力能制之?是不得甚少,三也。將記述者欲以少見奇,非其實錄也。
袁紹が数十里にもわたって陣を築いていたのに対して、曹操は陣を分けてそれに対抗していたよ。これができたということは、兵がそれほど少ないはずがないよね。これが1つ目だよ。
もし袁紹が10倍もの兵を持っていたら、全力で包囲して出入りを断つはず。でも曹操は徐晃たちに敵の補給の車を攻撃させて、自分も出て淳于瓊たちを攻めて、旗を立てながら行ったり来たりしたよ。それでも何も邪魔されないで帰れたのは、袁紹はそれを止める力がなかったの。兵がとても少ないとは言えないよね。これが2つ目だよ。
いろいろなさまざまな書物には、「曹操が袁紹の8万人の兵を生き埋めにした」や「7万人」と書かれているよ(『献帝起居注』)。でも、8万人の兵がばらばらに逃げるのを、8,000人で捕らえられるはずがないよね。なのに袁紹の大軍がみんな抵抗しないで殺されたというのは、どんな力を使ったのかな? だから、兵がとても少ないとは言えないよね。これが3つ目だよ。
つまり、これらを書いた人たちは、兵が少ないことで曹操のすごさを強調しようとしたもので、実際の出来事とは違うのだろうね。
按鍾繇傳云:「公與紹相持,繇為司隷,送馬二千餘匹以給軍。」本紀及世語並云公時有騎六百餘匹,繇馬為安在哉?
「鍾繇伝」には「曹操と袁紹がにらみ合っていたとき、鍾繇は司隷として、2,000匹以上の馬を送って軍に与えた」とあるよ。でも、本紀と『世語』には、このとき曹操の騎兵は600くらいの馬しか持っていなかったとあって、鍾繇の送った馬の多くは、いったいどこへ行ってしまったの?
紹復進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,衆大懼。時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以為「紹悉衆聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至彊,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。
袁紹はさらに進んで官渡に近づいて、土を積み上げた高い陣や地下の道を作ったよ。曹操も陣の内側に同じようなものを作って、対抗したよ。袁紹の軍は、陣営の中に矢を射って、雨のように降り注いだよ。人々は盾で身を守りながら動いて、兵たちはみんなすごく怖がったんだ。このとき曹操は食糧が少なくなっていて、荀彧に手紙を送って、許に引き返そうかと相談していたよ。でも、荀彧は手紙を送ってこう言ったよ。
「袁紹はすべての軍を官渡に集めて、あなたと決着をつけようとしているよ。あなたは弱い兵で強い敵に向かっているけど、ここで抑えきれなければ、必ず敵に攻めこまれちゃう。これは天下の大きな分かれ目だよ。それに袁紹はただの民から出た英雄で、人を集められても、それをうまく活かせないよ。一方、あなたのすぐれた力と知恵に大きな正しい流れが加わったら、何が起きてもうまくいくさ!」
曹操はこれに従ったよ。
荀彧さんのすばらしいフォロー。
許の周りでは
孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,為刺客所殺。
孫策は、曹操と袁紹がにらみ合っていると聞いて、許を襲おうと計画したよ。でも、出発する前に、刺客に殺されたんだ。
汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。
汝南で降伏した敵の劉辟たちがふたたび反乱を起こして、袁紹に応じて許の近くを奪い取ったんだ。袁紹は劉備を送って劉辟を助けさせたけど、曹操は曹仁を送ってこれを打ち破ったよ。劉備は逃げ去って、劉辟の陣も攻め落とされたよ。
作戦を使って勝つ
袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然衆少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「却十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。
袁紹は数千台もの穀物を運ぶ車を送ったよ。曹操は荀攸の作戦を使って徐晃と史渙を送って待ち伏せて攻撃して、大きく打ち破って、車をすべて焼き払ったよ。
その後も曹操と袁紹は何ヶ月もにらみ合いを続けたんだ。戦いのたびに敵の将を討ち取ってはいたけど、兵は少なくて、食糧も尽きて、兵たちは疲れきっていたの。そこで、曹操は食糧を運ぶ者たちにこう言ったよ。
「あと15日耐えてくれれば、私は袁紹を打ち破ってやる。もう苦労させないよ」
冬の十月、袁紹はふたたび穀物を運ぶために車を送って、淳于瓊たち5人の将に1万人以上の兵をつけてそれを守らせたよ。袁紹の陣の北40里のところに宿営したよ。袁紹の知恵のある臣下の許攸は金に欲が深くて、袁紹はそれを満たしてあげられなかったから、許攸は曹操のもとに逃げてきて、そして淳于瓊たちを攻めるように勧めたんだ。
左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之。」公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。(註62)
周りの人たちは許攸を疑ったけど、荀攸と賈詡が曹操に勧めたよ。そこで曹操は曹洪を残して守らせて、自ら歩兵と騎兵合わせて5,000人を率いて、夜のうちに出発して、夜が明けるころに着いたよ。
淳于瓊たちは曹操の兵が少ないのを見て、陣の外に出て戦いに来たよ。曹操はすぐに攻めて、淳于瓊は陣に退いて守ったよ。曹操はそのまま攻め続けたよ。袁紹は騎兵を送って淳于瓊を助けようとしたよ。曹操の周りの人がこう言ったよ。
「敵の騎兵が近づいてくるよ、兵を分けて防ごうよ」
でも、曹操は怒ってこう言ったよ。
「敵が後ろに来たら言って!」
兵たちはみんな必死になって戦って、大きく打ち破って、淳于瓊たちををみんな討ち取ったよ。
曹瞞傳曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」旣入坐,謂公曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」公曰:「尚可支一歲。」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!」公曰:「向言戲之耳。其實可一月,為之柰何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」
『曹瞞伝』によると、曹操は許攸が来たと聞くと、はだしで外へ出て迎えて、手を叩いて笑ってこう言ったよ。
「あなたが遠くから来てくれて、私たちの事はうまくいくよ!」
許攸は中に入って座ると、曹操にこう尋ねたよ。
「袁紹の軍はとても強いけど、どうやって対抗するの? 今、食糧はどれくらいあるの?」
曹操はこう答えたよ。
「1年はもつよ」
すると許攸はこう言ったよ。
「それは違うよね。もう一度言って」
曹操は言い直したよ。
「半年はもつよ」
許攸はさらにこう言ったよ。
「あなたは袁紹を打ち破る気がないの? どうして本当のことを言わないの!」
曹操はこう言ったよ。
「さっきのは冗談だよ。本当は1ヶ月しかもたないんだ。どうしたらいいの?」
許攸はこう言ったよ。
「あなたは少ない軍で守っていて、外からの助けもなくて、しかも食糧も尽きかけていて、これはとても危ないんだ。でも今、袁紹の補給の荷物は1万台以上もあって、故市や烏巣に置かれているよ。そこを守る軍は、守りがそれほど厳しくないよ。だから、軽い兵でそこを急に襲って、油断しているところをついて、その蓄えを焼き払えば、3日もしないうちにに袁紹の軍は自分から崩れてしまうだろうね」
公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備。」聞者信以為然,皆自若。旣至,圍屯,大放火,營中驚亂。大破之,盡燔其糧穀寶貨,斬督將眭元進、騎督韓莒子、呂威璜、趙叡等首,割得將軍淳于仲簡鼻,未死,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍。將士皆怛懼。時有夜得仲簡,將以詣麾下,公謂曰:「何為如是?」仲簡曰:「勝負自天,何用為問乎!」公意欲不殺。許攸曰:「明且鑒於鏡,此益不忘人。」乃殺之。
曹操はすごく喜んで、精鋭の歩兵と騎兵を選んで、みんな袁紹の軍の旗を使わせて、馬の口に枚をくわえさせて縛って音を立てないようにして、夜のうちに間道を通って出発して、兵には薪を束ねて持ち運ばせたよ。道の途中で人に出会って、何をしているのかと聞かれると、こう答えたよ。
「袁紹は曹操が後ろを襲うのを心配して、兵を送って守りを固めているの」
これを聞いた人は本当だと信じて、そのまま疑わなかったよ。
曹操の兵が目的地に着くと、陣を取り囲んで一斉に火を放ったよ。陣の中は大混乱になっちゃった。そして、敵を大きく打ち破って、食糧や財宝をすべて焼き払ったよ。さらに、督将の眭元進、騎督の韓莒子、呂威璜、趙叡たちを討ち取ったよ。将の淳于瓊の鼻を切り落として、生かしたままにしておいたんだ。さらに兵を1000人以上も殺して、みんな鼻を切り取って、牛や馬の唇や舌も切って、証拠として袁紹の軍に見せつけたんだ。これを見て、将や兵たちはみんな怖くなっちゃった。夜に淳于瓊は捕まって、曹操のもとに連れて行かれたよ。曹操は彼にこう尋ねたよ。
「どうしたこんなことになったの?」
淳于瓊はこう答えたよ。
「勝ち負けは天が決めるから、どうして聞く必要があるの!」
曹操はこれを聞いて、彼を殺さないつもりだったけど、許攸はこう言ったよ。
「明るくなってから鏡を見たら、このこと(曹操への怨み)を忘れられなくなるだろうね」
こうして淳于瓊を殺したよ。
紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珎寶,虜其衆。(註63)
袁紹は初めに、曹操が淳于瓊たちを攻めたと聞いて、長子の袁譚にこう言ったよ。
「彼らが淳于瓊たちを攻めているあいだ、私たちは彼らの陣営を攻め落とそう。そうすれば、彼らはどこにも帰れなくなるよ!」
そして、張郃と高覧に命令して、曹洪を攻めさせたよ。でも、張郃たちは淳于瓊がすでに敗れたと聞くと、そのまま曹操に降伏したんだ。
こうして袁紹の軍は大混乱になって、袁紹と袁譚は軍を捨てて逃げ出して、黄河を渡ったよ。曹操は追いかけたけど追いつけなかったんだ。袁紹の軍の荷物や書物、宝物をすべて手に入れて、たくさんの兵を捕らえたよ。
獻帝起居注曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與兾州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,為說命錄之數。又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立。』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敘與紹書云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重。便欲送璽,會曹操斷道。』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至於此。輙勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」
『献帝起居注』によると、曹操は上奏してこう言ったよ。
「大将軍で鄴侯の袁紹は、前に冀州牧(州の長官)の韓馥と一緒に、昔の大司馬の劉虞を皇帝に立てようとして、皇帝の金の印を勝手に作って、任県長(県の長官)の畢瑜を劉虞のもとへ送って、天命について説かせたよ。それに、袁紹は私に手紙を送って、『都を鄄城に移して、新しく皇帝を立てるべきだ』と言ったんだ。さらに金や銀の印を勝手に作って、孝廉や計吏(会計官)たちもみんな彼のもとに集まったよ。彼の従弟で済陰太守の袁敍は、袁紹に手紙を送ってこう言ったよ。
『今、天下は乱れて、天の意志は私たちの一族にあるよ。神のしるしも現れていて、それは尊い兄(袁紹)にあるはず。南の兄(袁術)の臣下たちは彼に即位してほしいと勧めているけど、袁術の言うとおり、年齢は袁紹が上で、地位も袁紹が上だよ。そこで印を送ろうとしたけど、曹操に道をふさがれているんだ』
袁紹の一族は、代々国から大きな恩を受けてきたのに、道理に反してこのようなことをするなんて、ひどいよね。そこで私はすぐに兵率いて官渡で戦って、天子の威光を受けて、袁紹の大将の淳于瓊たち8人の首を討ち取って、大きく打ち破ったよ。袁紹は、子の袁譚と一緒に軽装で逃げていったよ。討ち取った敵は7万以上にもなって、荷物や財宝もすごくたくさん手に入ったよ」
公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。(註64)兾州諸郡多舉城邑降者。
曹操は袁紹の軍の手紙を回収して、その中に許や曹操の軍にいる人たちの手紙があったけど、すべて燃やしたよ。そして、冀州のたくさんの州や県が降伏したよ。
魏氏春秋曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況衆人乎!」
『魏氏春秋』によると、曹操はこう言ったよ。
「袁紹の強さにぶつかったとき、私でも不安だったんだ。他の人たちはなおさらだよね!」
初,桓帝時有黃星見於楚、宋之分,遼東殷馗(註65)善天文,言後五十歲當有真人起於梁、沛之閒,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。
昔、桓帝の時代(147~167年)、楚と宋のあたりの空に黄色い星が現れたよ。遼東の出身の殷馗は天文に詳しくて、こう言ったよ。
「50年後に梁と沛のあいだに、偉大な人物(真人)が現れるよ。その勢いは誰も止められないだろうね」
そして50年後、その予言のとおり、曹操が袁紹を破って、天下に敵はいなくなったよ。
殷馗が予言した「真人」とは、英雄や偉人のことを指す言葉で、その人物が現れると天下に大きな変化が起こるとされていたの。そして、この50年後に曹操さんが袁紹さんを破って、その後の三国時代へと続く大きな変革が訪れたとされているんだ。
馗,古逵字,見三蒼。
馗は、古い字体では逵で、『三蒼』に書かれているよ。
倉亭の戦い
六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,復收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。
建安六年(201年)、夏の四月、曹操は黄河のほとりに兵を進めて、袁紹の倉亭の軍を攻めて、これを打ち破ったよ。袁紹はいったん帰って、散り散りになった兵を集め直して、反乱していた郡や県を攻めておさめたよ。
九月、曹操は許に帰ったよ。
袁紹がまだ敗れていなかったころ、劉備に命令して汝南を奪い取らせたよ。汝南の賊の共都たちも協力したよ。曹操は蔡揚に共都を攻めさせたけど、うまくいかなくて、逆に打ち破られたんだ。曹操は劉備を討つために南へ軍を進めたよ。劉備は曹操が自ら来ると聞くと、劉表のもとに逃げて、共都たちもみんな散り散りになったよ。
橋玄をまつる
七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,為天下除暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授上田,官給耕牛,置學師以教之。為存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使以太牢祀橋玄。(註66)進軍官渡。
建安七年(202年)、春の正月、曹操は譙に軍を進めたよ。曹操は命令してこう言ったよ。
「私は義のための兵をあげて、天下の乱れや悪をなくそうとしてきたよ。でも、昔からの土地の人たちは、戦いでほとんど死んでしまって、国の中を一日中歩いても、知っている人に会えないんだ。それを思うと、私はとても悲しくて、胸が痛むの。これまで義のために戦ってきた兵の中には、子供がいない者もたくさんいるんだ。そのような者については、親戚の中から後継ぎを選んで、良い田畑を与えて、役所が耕すための牛も与えるよ。そして先生を置いて学ばせるよ。それに、生き残った人たちのためには、廟祖先をまつるためのを建てて、先祖をまつるようにさせるよ。もし魂に霊があるなら、私が100年後にどんな悔いもないようにしたい!」
その後、曹操は浚儀に着いて、睢陽渠(水路)を整えたよ。さらに、使者を送って太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて橋玄をまつったよ。そして、軍を進めて官渡へ向かったよ。
襃賞令載公祀文曰:「故太尉橋公,誕敷明德,汎愛博容。國念明訓,士思令謨。靈幽體翳,邈哉晞矣!吾以幼年,逮并堂室,特以頑鄙之姿,為大君子所納。增榮益觀,皆由獎助,猶仲尼稱不如顏淵,李生之厚歎賈復。士死知己,懷此無忘。
『褒賞令』によると、曹操は祭りの文を捧げて、こう言ったよ。
「昔の太尉の橋公(橋玄)は、すぐれた徳を広く示して、誰にでも分けへだてなく愛を注いで、心も広く受け入れる人だったよ。国はその教えを大切に思って、士人たちははその立派な考えを慕っているね。今はその魂は遠くに去って、その姿を見ることもできないんだ。なんて遠くて、もう会えないの!
私は若いころ、彼と同じ屋敷に出入りできたよ。もともと私は未熟で愚かな人だったのに、このような偉大な君子に受け入れてもらえたの。私が名誉や評価が高まったのは、すべて彼にほめられて助けられたからだよ。昔、仲尼(孔子)が『自分は顔淵には及ばない』と言って、李生が賈復をすごくたたえたように、人は自分をわかってくれる人のために命を惜しまないんだね。私はこの恩を決して忘れないよ。
又承從容約誓之言:『殂逝之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹痛勿怪!』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯為此辭乎?匪謂靈忿,能詒己疾,懷舊惟顧,念之悽愴。奉命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其尚饗!」
ゆったりと語り合ったときに、こんな約束の言葉もあったよ。
『自分が死んだ後、もしあなたがこの道を通りかかることがあったら、1斗の酒と1羽の鶏くらいでもいいから供えてね。もしそれをしないで通りすぎたら、車が3歩も進まないうちに、あなたの腹が痛くなっても不思議に思わないでね!』
これはその場の冗談の言葉だと思うけど、本当に親しくて深い信頼がなかったら、どうしてこんなことが言えるの? もちろん霊が怒って私を病気にするとは思わないよ。でも、ただ昔を思い出して振り返ると、胸がしめつけられるくら悲しくなるの。今、私は天子の命令を受けて東に軍を進めて、この故郷の地に軍をとどめているよ。北を見て、あなたの故郷と墓を思い出したんだ。ささやかな供え物を持ってきたから、ぜひ召し上がってね!」
袁紹の死
紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。
袁紹は軍が敗れてから病気になって、血を吐くようになったんだ。そして、夏の五月に亡くなったんだ。その後、小子の袁尚が後を継いで、兄弟の袁譚は自分で車騎将軍と名乗って、黎陽に陣を置いたよ。
秋の九月、曹操はこれを討つために兵を出して、続けて戦ったよ。袁譚と袁尚は何度も敗れて退いて、城にこもってしっかり守ったよ。
華北統一を目指して
八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚、尚夜遁。夏四月,進軍鄴。五月還許,留賈信屯黎陽。
建安八年(203年)、春の三月、曹操が城の外側の囲いを攻めると、袁譚と袁尚は城から出て戦ったけど、大きく打ち破られて、夜のうちに逃げたんだ。
夏の四月、曹操たちは鄴に軍を進めたよ。五月、許へ帰って、賈信を黎陽にとどめて守らせたよ。
己酉,令曰:「司馬法『將軍死綏』,(註67)故趙括之母,乞不坐括。是古之將者,軍破於外,而家受罪於內也。自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也。其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵。」(註68)
己酉の日、曹操は命令してこう言ったよ。
「『司馬法』には『将軍は退いたら死ぬべき』とあるよ。だから、昔、趙括の母は『子の罪に自分まで関わらないでほしい』と願い出たよ。これは昔の将は、外で軍が敗れたら、家族が内で罪を受けたということを示しているんだ。でも、私が将を任命して戦いに行かせるときには、功績に賞を与えるけど、罪を罰しないというのでは、国の土台になる決まりとして正しくないよね。だから命令するよ。これから将たちが戦いに出て、軍を敗れさせた者は罪に問うよ。戦いで失敗した者は、官位や爵位を取り上げるよ」
司馬法は、司馬穰苴が作った兵法書だよ。司馬穰苴は、春秋時代の斉の将軍だよ。
趙括は、戦国時代の趙の武将だよ。母の話は『史記』「廉頗藺相如列伝」を見てね。
魏書云:綏,却也。有前一尺,無却一寸。
『魏書』によると、綏とは却という意味で、1尺の前進はあっても1寸の退却はないことを表しているよ。
魏書載庚申令曰:「議者或以軍吏雖有功能,德行不足堪任郡國之選,所謂『可與適道,未可與權』。管仲曰:『使賢者食於能則上尊,鬬士食於功則卒輕於死,二者設於國則天下治。』未聞無能之人,不鬬之士,並受祿賞,而可以立功興國者也。故明君不官無功之臣,不賞不戰之士;治平尚德行,有事賞功能。論者之言,一似管窺虎歟!」
『魏書』によると、庚申の日、曹操は命令してこう言ったよ。
「話し合いの中には、『軍の役人は功績があっても、徳が足りない者は郡や国の長にはふさわしくない』という意見があるよ。『正しい道についていくことはできても、大事な判断を任せることはできない』ということだよね。でも、管仲はこう言ったよ。
『賢い者たちが能力によって食べられるようになると、上(主君)の者は尊ばれるよ。勇敢に戦う者がその功績によって食べられるようになると、兵たちは死を恐れないで戦うよ。この2つを国にしたら、天下は治まるよ』
能力のない人や戦おうとしない者にまで、同じように俸禄や賞を与えて、国を立て直したり発展させたりできるなんて話は、聞いたことがないよ。だから賢い君主は、功績のない人を官職に任命しないし、戦わない兵には俸禄や賞を与えないよ。平和なときには徳や行いを大切にするけど、戦いなどの危機のときには功績や能力に応じて賞を与えるんだ。このように考えると、先ほどの話し合いは、管を使って虎を覗き見るようなもので、ほんのちょっとの見方で大きなことを判断しているだけで、視野が狭いよね!」
『可與適道,未可與權』は、『論語』「子罕」の「可與共學,未可與適道;可與適道,未可與立;可與立,未可與權。」から。
管仲(管夷吾)は、春秋時代の斉の国の政治家だよ。斉の桓公を支えて覇者にした人だよ。詳しくは『管子』、『春秋左氏伝』、『国語』「斉語」を見てね。
秋七月,令曰:「喪亂已來,十有五年,後生者不見仁義禮讓之風,吾甚傷之。其令郡國各修文學,縣滿五百戶置校官,選其鄉之俊造而教學之,庶幾先王之道不廢,而有以益於天下。」
秋の七月、曹操は命令してこう言ったよ。
「戦乱が起きてから、すでに15年経って、そのあいだに生まれた若い人たちは、仁や義、礼儀やゆずり合いといった大切な心を見ないまま育ってしまって、私はとても悲しいの。そこで命令するよ。それぞれの郡や国で、学問を整えてね。500戸以上ある県には校官(学校の役人)を置いて、その土地のすぐれた若者を選んで教育してね。そうすれば、昔の天子の教えがすたれなくて、天下のためにも役に立つだろうね」
袁譚と袁尚の分裂
八月,公征劉表,軍西平。公之去鄴而南也,譚、尚爭兾州,譚為尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,(註69)公乃引軍還。
八月、曹操は劉表を討つために兵を出して、西平に軍を進めたよ。曹操が鄴を離れて南へ向かうと、袁譚と袁尚が冀州をめぐって争ったんだ。袁譚は袁尚に敗れて、平原に逃げ込んだよ。袁尚は袁譚を激しく攻めたから、袁譚は辛毗を使者として曹操に送って降伏して助けを求めたんだ。将たちはみんな疑ったけど、荀攸は曹操に受け入れるように勧めたから、曹操は軍を引き返したよ。
魏書曰:公云:「我攻呂布,表不為寇,官渡之役,不救袁紹,此自守之賊也,宜為後圖。譚、尚狡猾,當乘其亂。縱譚挾詐,不終束手,使我破尚,徧收其地,利自多矣。」乃許之。
『魏書』によると、曹操はこう言ったよ。
「私が呂布を攻めたとき、劉表は攻めてこなかったよ。それに、官渡の戦いでは、袁紹を助けなかったよ。劉表は自分を守るだけの敵だから、後にしても問題ないね。それよりも袁譚と袁尚はずる賢いから、今はその争いを利用するべきだよ。たとえ袁譚がだましてきたとしても、最後までおとなしくしていることはないだろうね。でも私が袁尚を打ち破ったら、その土地をすべて手に入れられるし、大きな利益になるよね」
こうして、曹操は袁譚を受け入れたよ。
冬十月,到黎陽,為子整與譚結婚。(註70)尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其衆降,封為列侯。(註71)
冬の十月、曹操は黎陽に着いて、子の曹整と袁譚のあいだで結婚の約束を結んだよ。
一方、袁尚は曹操が北へ来たと聞いたから、平原の包囲を解いて、鄴へ引き返したよ。東平の出身の呂曠と呂翔が袁尚にそむいて反乱を起こして、陽平に陣を置いたよ。そしてその兵を率いて曹操に降伏して、彼らは列侯に封ぜられたよ。
臣松之案:紹死至此,過周五月耳。譚雖出後其伯,不為紹服三年,而於再朞之內以行吉禮,悖矣。魏武或以權宜與之約言;今云結婚,未必便以此年成禮。
裴松之が調べたところ、袁紹が死んでからここまで、5ヵ月しか経っていないよ。袁譚は伯父の後を継いだけど、それでも袁紹のために3年の喪に服するべきなんだ。なのに、わずか1年のうちに吉日を選んで結婚を進めすのは、道理に反しているよね。曹操は、そのときの事情に応じて、ひとまず結婚の約束をしただけかもね。ここで結婚と書かれていても、この年のうちに婚礼までしたとは限らないね。
魏書曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠。曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也。欲使我攻尚,得以其閒略民聚衆,比尚之破,可得自彊以乘我弊也。尚破我盛,何弊之乘乎?」
『魏書』によると、袁譚は包囲が解かれると、こっそりと将軍の印綬を呂曠に与えたんだ。呂曠はその印を持って、曹操に届けたよ。曹操はこう言ったよ。
「私は袁譚の小さな企みを知っているよ。私に袁尚攻めさせて、そのあいだに自分は民を集めて力を蓄えて、袁尚が敗れたころには自分が強くなって、私が弱ったところを攻めようとしているんだ。でも、袁尚が破れるなら、私たちが強くなっているよね。どんな弱ったところを攻められるの?」
鄴の戦い
九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚復攻譚,留蘇由、審配守鄴。公進軍到洹水,由降。旣至,攻鄴,為土山、地道。武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道。夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還。尚將沮鵠守邯鄲,(註72)又擊拔之。易陽令韓範、涉長梁岐舉縣降,賜爵關內侯。
建安九年(204年)、春の正月、曹操は黄河を渡って、淇水の流れをせき止めて白溝へ引き入れて、食糧を運ぶ道を通じさせたよ。
二月、袁尚はふたたび袁譚を攻めて、蘇由と審配を鄴に残して守らせたよ。曹操が軍を進めて洹水まで来ると、蘇由は降伏したんだ。そして、鄴に着いて攻めて、土を積んだ山や地下の通路を作ったよ。武安県長の尹楷は毛城に陣を置いて、上党からの食糧を運ぶ道をつないだよ。
夏の四月、曹操は曹洪を残して鄴を攻めさせて、自分は尹楷を討ちに行って、これを打ち破って戻ったよ。袁尚の将の沮鵠が邯鄲を守っていたけど、曹操はこれも攻め落としたよ。さらに、易陽県令の韓範と涉県長の梁岐は県をあげて降伏したから、関内侯の爵位を与えられたよ。
沮音菹,河朔閒今猶有此姓。鵠,沮授子也。
沮の発音は菹で、河北には今でも沮という姓があるんだって。沮鵠は沮授の子だよ。
五月,毀土山、地道,作圍壍,決漳水灌城;城中餓死者過半。秋七月,尚還救鄴,諸將皆以為「此歸師,人自為戰,不如避之」。公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,臨滏水為營。(註73)
五月、曹操はこれまで作っていた土を積んだ山や地下の通路を壊して、新しく城を取り囲む堀を作ったよ。そして、漳水の水を引き入れて、城の中へ流し込んだよ。城の中では食べ物がなくなって、半分以上の人が餓えて亡くなったんだ。城の中で半数以上の人が飢えて命を落としたんだ。
秋の七月、袁尚は鄴を助けるために戻ってきたよ。曹操の将たちはみんなこう言ったよ。
「これは帰ってくる軍だから、兵は必死に戦おうとするよ。いったん避けたほうがいいよ」
でも、曹操はこう言ったよ。
「袁尚が大きな道から来るなら避けるべきだけど、もし西の山道を通って来るなら、捕らえることができるよ」
そして実際に袁尚は西の山道から来て、滏水のほとりに陣を置いたよ。
曹瞞傳曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」。公大喜,會諸將曰:「孤已得兾州,諸君知之乎?」皆曰:「不知。」公曰:「諸君方見不乆也。」
『曹瞞伝』によると、曹操は何組もの偵察の者をこれまでに送って、様子を探らせたよ。彼らはみんなこう言ったよ。
「袁尚はたしかに西の道を通って、すでに邯鄲に来ているよ」
これを聞いた曹操はすごく喜んで、将たちを集めてこう言ったよ。
「私はすでに冀州を手に入れたの。みんなはわかる?」
将たちはみんな「わからない」と答えたよ。曹操はこう言ったよ。
「みんなもすぐにわかるよ」
夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營。未合,尚懼。故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,為圍益急。尚夜遁,保祁山,追擊之。其將馬延、張顗等臨陣降,衆大潰,尚走中山。盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮。八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。(註74)
夜になると、袁尚の軍は包囲を破ろうとして攻めてきたけど、曹操はこれを迎え撃って打ち破って、逃げさせたよ。そしてそのまま袁尚の陣を包囲したよ。
まだ戦う前、袁尚は怯えていたの。豫州刺史の陰夔と陳琳が降伏を願い出たけど、曹操は受け入れなくて、さらに包囲を厳しくしたよ。そして、袁尚は夜のうちに逃げて、祁山に立てこもったけど、曹操が追いかけて攻めたよ。そのとき袁尚の将の馬延や張顗たちが戦場で降伏して、袁尚の軍は大混乱になったんだ。袁尚は中山へ逃げたよ。
曹操は敵の荷物をすべて手に入れて、袁尚の印綬や、節と鉞も手に入れたよ。そして降伏した者にそれを家族に見せさせると、城の中の人たちはすっかり気力を失っちゃった。
八月、審配の兄の子の審栄が、夜に城の東門を内側から開けて兵を引き入れたよ。審配はこれに対して戦ったけど敗れて、生け捕りにされて処刑されたんだ。こうして鄴は平定されたよ。
その後、曹操は袁紹の墓の前に行って、声をあげて涙を流して泣いたんだ。そして袁紹の妻をねぎらって、その家族の財産を返して、さらに絹や綿を渡して、食糧も与えたよ。
孫盛云:昔者先王之為誅賞也,將以懲惡勸善,永彰鑒戒。紹因世艱危,遂懷逆謀,上議神器,下干國紀。荐社汙宅,古之制也。而乃盡哀於逆臣之冢,加恩於饕餮之室,為政之道,於斯躓矣。夫匿怨友人,前哲所恥,稅驂舊館,義無虛涕,苟道乖好絕,何哭之有!昔漢高失之於項氏,魏武遵謬於此舉,豈非百慮之一失也。
孫盛によると、昔の天子は賞と罰を決めるのは、悪をこらしめて善を勧めるためで、長く人々への教えとするためだよ。袁紹は世の中が乱れているのに乗じて、反逆の企みを抱いて、上では皇帝の位をうかがって、下では国の決まりを乱したんだ。本来なら、その一族や家は厳しく処分されるべきで、これは昔からの決まりだよ。
なのに、逆らった臣下の袁紹の墓ですごく悲しんで、欲深い者の家にまで恩を与えるのは、政治のやり方として正しいとは言えないよ。ここに大きな誤りがあるんだ。
そもそも恨みを持つ相手を友のように扱うことは、昔の賢い人たちが恥としたことだよ。昔なじみの場所に立ち寄って涙を流すとしても、それは本当の義理があるときだけだよ。もし道理に合わなくて、すでに関係も断たれているのに、どうして泣く必要があるの?
昔、漢の高祖(劉邦)は項羽に対して同じような過ちをしたけど、曹操も同じ失敗をしちゃったんだ。たくさんの考えの中での一つの失敗と言えるだろうね。
土地よりも人と道を大切にする
初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之衆,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。」(註75)
昔、袁紹と曹操が一緒に兵をあげると、袁紹は曹操にこう尋ねたよ。
「もしも事がうまくいかなかったら、どのあたりを頼りにすればいいかな?」
曹操は逆にこう尋ねたよ。
「あなたの考えは?」
袁紹はこう言ったよ。
「私は南では黄河を頼りにして、北では燕や代の地形に守られて、さらに異民族の兵も合わせて力を蓄えるよ。そして、南へ向かって天下を争ったら、うまくいくのではないかな?」
曹操はこう答えたよ。
「私は天下の人たちの知恵と力を使って、正しい道によって彼らを導こう。そうすれば、どんなことでもできるはずさ」
傅子曰:太祖又云:「湯、武之王,豈同上哉?若以險固為資,則不能應機而變化也。」
『傅子』によると、曹操はさらにこう言ったよ。
「殷の湯王や周の武王が天下を取ったのは、ただ地形のよさに頼ったからではないよ。もし険しい土地や守りやすさだけを頼りにするなら、状況に応じてうまく変わることができないだろうね」
税の改革
九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼并之法,百姓喜恱。(註76)天子以公領兾州牧,公讓還兖州。
九月、曹操は命令してこう言ったよ。
「河北の人たちは袁氏の争いによって大きな苦しみを受けたんだ。今年の税は取らないよ!」
さらに、力の強い者が土地や財産をむやみに取り込むことを厳しく取りしまる法を重ねて出したから、民はすごく喜んだよ。
天子は曹操に冀州牧(州の長官)に兼ねさせて、曹操は代わりに兗州牧を辞退したよ。
魏書載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼并;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,為逋逃主。欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、緜二斤而已,他不得擅興發。郡國守相明檢察之,無令彊民有所隱藏,而弱民兼賦也。」
『魏書』によると、曹操は命令してこう言ったよ。
「国や家を治めるときは、物が少ないことよりも公平ではないことを心配して、貧しいことよりも安定していないことを心配すべきだよ。袁氏の政治では、力の強い者たちが勝手なことをして、親戚同士で土地や財産を取り合っていたんだ。弱い民は貧しくなって、代わりに税を負担させられて、家の財産を売ってもまだ命令に応じきれなかったんだ。さらに審配は袁氏で、罪のある人を隠して、逃げた者の隠れ場所にまでなっていたんだ。
こんな状況で、民がが心から従って、軍が強くなるなんて、どうしてできるの! これからは、田畑の税は1畝あたり4升の穀物、戸ごとに絹2匹と綿2斤を出すだけにして、それ以上を勝手に取り立ててはならないよ。郡や太守や国の相は、しっかりと調べて取りしまってね。強い者が隠してごまかしたり、弱い者に余分な税を押しつけたりさせないようにしてね」
公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河閒。尚敗,還中山。譚攻之,尚奔故安,遂并其衆。公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。譚懼,拔平原,走保南皮。十二月,公入平原,略定諸縣。
曹操が鄴を包囲していたとき、袁譚は甘陵、安平、勃海、河間を次々と攻め取っていったよ。一方、袁尚は敗れて中山に戻ったけど、袁譚がこれを攻めたから、袁尚は故安に逃げて、そこで兵をまとめて勢力を立て直したよ。
曹操は袁譚に手紙を送って、「約束を破った」と責めて、結婚の約束を取り消して、娘を連れ戻したよ。そして軍を進めたよ。袁譚は恐くなって平原を捨てて、南皮に逃げて守ったよ。十二月、曹操は平原に入って、周りの県をどんどん平定したよ。