正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その3

正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(そう) について書かれているよ!

本文中で(そう)(そう)は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「(そう)(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、官渡の戦いから冀州の平定までだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

官渡の戦い

本文

五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也。今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必為後患。(註58)袁紹雖有大志,而見事遟,必不動也。」

建安5年(200年)、春の正月、(とう)(しょう)たちの反乱の計画が漏れて、彼らはみんな処刑されちゃった。(そう)(そう)(りゅう)()を倒すために東に向かうつもりだったけど、将たちはみんな言ったよ。
「あなたが天下を争う相手は(えん)(しょう)だよ。今、(えん)(しょう)が攻めてきてるけど、私たちは東に進軍しているよね。(えん)(しょう)が後ろから追いかけて来ることになっちゃうけど、どうするの?」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
(りゅう)()は優れた人物だよ。今、彼を攻めないと、後で困るかも。一方で、(えん)(しょう)は大志を抱いているけど、事を見るのが遅いから、動かないと思うよ」

(註58)

孫盛魏氏春秋云:荅諸將曰:「劉備,人傑也,將生憂寡人。」

(そん)(せい)の『()()(しゅん)(じゅう)』によると、将たちにこう言ったよ。
(りゅう)()は優れた人物だから、将来の心配事になるかも」

「將生憂寡人」は、『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』「哀公二十年」にある呉王の()()の言葉「句踐將生憂寡人,寡人死之不得矣」から。

(註58)

臣松之以為史之記言,旣多潤色,故前載所述有非實者矣,後之作者又生意改之,於失實也,不亦彌遠乎!凡孫盛製書,多用左氏以易舊文,如此者非一。嗟乎,後之學者將何取信哉?且魏武方以天下勵志,而用夫差分死之言,尤非其類。

(はい)(しょう)()の見解としては、歴史書に書かれた言葉は、誇張されたり加工されているから、記述の中には事実ではないものが含まれているだろうね。後の作者たちも、文章を意図的に変えて、事実とは異なる情報を伝えているかもしれなくて、正しい歴史を知ることはますます遠くなっちゃうよ!
(そん)(せい)が本を書くときは、『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』を使って文を変えることが多くて、このようなことは一度だけではないんだ。後の学者たちは、どの情報を信じていいか悩むことになっちゃう。それに、(そう)(そう)は、天下を統一するためにいろいろな言葉を使ったけど、()()の死ぬと決まった時の言葉を使うことは彼には合わないよ。

本文

郭嘉亦勸公,遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博。備走奔紹,獲其妻子。備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降。昌狶叛為備,又攻破之。公還官渡,紹卒不出。

(かく)()(そう)(そう)に勧めて、(そう)(そう)は東に向かって(りゅう)()を攻めて、打ち破って、(りゅう)()の将の()(こう)(はく)を生け捕りにしたよ。(りゅう)()(えん)(しょう)のもとに逃げ込んたよ。(そう)(そう)は、(りゅう)()の妻や子供を捕らえたよ。(りゅう)()の将の(かん)()()()に駐屯していたけど、(そう)(そう)が攻めたから降伏したよ。その後、(しょう)()(りゅう)()に味方をして反逆したけど、(そう)(そう)は彼を打ち破ったよ。その後、(そう)(そう)(かん)()に戻って、(えん)(しょう)は結局動くことはなかったんだ。

白馬の戦い

本文

二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延於白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。

二月、(えん)(しょう)(かく)()(じゅん)()(けい)(がん)(りょう)を送って、(とう)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(りゅう)(えん)(はく)()で攻撃したよ。(えん)(しょう)(れい)(よう)まで進軍して、黄河を渡ろうとしたよ。
夏の四月、(そう)(そう)(りゅう)(えん)を助けるために北に向かったよ。(じゅん)(ゆう)(そう)(そう)に進言したよ。
「今は兵が少なくて(えん)(しょう)にはかなわないかもしれないから、敵の勢力を分けるべきだよ。あなたが(えん)(しん)に着いたら、一部の兵に黄河を渡らせて敵の背後に回らせると、(えん)(しょう)は必ず西に向かって応戦すると思うよ。その時、軽装の兵を使って(はく)()を急襲して、準備していなかったところを攻めれば、(がん)(りょう)を捕まえられるよ」
(そう)(そう)(じゅん)(ゆう)の言葉に従って、その作戦を実行することにしたよ。

本文

紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。使張遼、關羽前登,擊破,斬良。遂解白馬圍,徙其民,循河而西。紹於是渡河追公軍,至延津南。

(えん)(しょう)は、(そう)(そう)の兵が黄河を渡ったと聞いて、すぐに兵を分けて西に向かわせたよ。その間に、(そう)(そう)は兵を率いて急いで(はく)()に向かったよ。十数里手前に着いたところで、(がん)(りょう)がとても驚いて、戦いを挑んできたんだ。(そう)(そう)は、(ちょう)(りょう)(かん)()を前に出して戦って、(がん)(りょう)を斬ったの!
こうして(はく)()の包囲を解いて、住民を移住させて、黄河に沿って西へ進んだよ。(えん)(しょう)はこの時、黄河を渡って(そう)(そう)の軍を追いかけて、(えん)(しん)の南まで進んだよ。

本文

公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。」公曰:「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道。諸將以為敵騎多,不如還保營。

(そう)(そう)は兵を連れて南の坂の下に陣地を張って、見張りを塁に登らせて敵の様子を見させたよ。見張りはしばらくして報告したよ。
「500か600くらいの騎兵がいるよ」
しばらくして、また報告があったよ。
「敵の騎兵が増えていて、歩兵は数では勝てないくらいいるよ」
(そう)(そう)は「もう報告しなくていい」と言って、騎兵に馬の鞍を外して馬を放たせたよ。この時、(はく)()の道には補給物資が並んでいたよ。将たちは敵の騎兵が増えているから不安を感じて、陣に戻るべきだと提案したよ。

本文

荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜、良。醜、良皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。

(じゅん)(ゆう)はこう言ったよ。
「これが敵をおびき寄せる機会だよ。どうやって逃げるの!」
すると、(えん)(しょう)の騎将の(ぶん)(しゅう)(りゅう)()の将たちが、5000から6000騎くらいを率いて前後からやってきたんだ。将たちがふたたび「馬に乗るべきだよ」と言ったけど、(そう)(そう)は「まだだよ」と答えたよ。
しばらくすると、敵の騎兵がますます増えて、一部が補給物資に向かって分かれて進んで行ったよ。すると、(そう)(そう)は言ったよ。
「よし、今だ」
みんなが馬に乗ったよ。騎兵は600にも満たない数だったけど、(そう)(そう)は兵を解き放って攻撃して、大勝利を収めて、(ぶん)(しゅう)を斬ったよ。(ぶん)(しゅう)(がん)(りょう)は、(えん)(しょう)の名将だったけど、ふたたび戦ってもみんな捕らえられて、(えん)(しょう)の軍は動揺しちゃった。(そう)(そう)は軍を(かん)()に引き返したよ。(えん)(しょう)(よう)()に進んで守ったよ。
一方、(かん)()は逃げて(りゅう)()のもとに帰ったの。

弱音を吐く曹操

本文

八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十里。公亦分營與相當,合戰不利。(註59)

八月、(えん)(しょう)の軍が陣営を前進させて、(しゃ)(つい)に拠点を置いて、その範囲は東西に数十里にもなったよ。(そう)(そう)も軍を分けて対抗する位置に陣を取ったけど、合戦は有利に進まなかったんだ。

(註59)

習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。

(しゅう)(さく)()の『(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(きょ)(ゆう)(えん)(しょう)にこう言ったよ。
(そう)(そう)と直接対決はしないで、急いで軍を分けて彼を抑えて、別の道から天子を迎えに行った方がいいよ。そうすれば成功するよ」
でも、(えん)(しょう)は聞かないで、こう言ったよ。
「私はまずは曹操を包囲して撃破するよ」
それで、(きょ)(ゆう)は怒っちゃった。

本文

時公兵不滿萬,傷者十二三。(註60)

この時、(そう)(そう)の兵は1万人にも満たなくて、2割から3割が負傷しちゃったの。

(註60)

臣松之以為魏武初起兵,已有衆五千,自後百戰百勝,敗者十二三而已矣。但一破黃巾,受降卒三十餘萬,餘所吞并,不可悉紀;雖征戰損傷,未應如此之少也。夫結營相守,異於摧鋒決戰。本紀云:「紹衆十餘萬,屯營東西數十里。」魏太祖雖機變無方,略不世出,安有以數千之兵,而得逾時相抗者哉?以理而言,竊謂不然。

(はい)(しょう)()の見解としては、(そう)(そう)が兵を起こしたばかりの時、すでに5000人の兵を率いていたんだって。その後、百戦百勝して、負けたのはわずか2割から3割程度だよ。彼が黄巾賊を打ち破った時、30万以上の兵が降伏したんだよ。その後もたくさんの地域を併合したのは書ききれないほどだよね。戦闘で負傷しても、こんなに少ないはずはないよ。包囲戦や持久戦といった戦術は、突破戦や決戦とは異なるよ。
本紀(武帝紀)には「(えん)(しょう)の兵は10万人以上で、陣営は東西に何十里も広がっていた」と書かれているよ。(そう)(そう)がたとえ知略に富んでいて、戦略を立てる才が他の人にはかなわないほどだったとしても、どうして数千の兵で長期にわたって相手に抵抗し続けられたのかな? 論理的に考えれば、これはありえないんじゃないかな。

(註60)

紹為屯數十里,公能分營與相當,此兵不得甚少,一也。紹若有十倍之衆,理應當悉力圍守,使出入斷絕,而公使徐晃等擊其運車,公又自出擊淳于瓊等,揚旌往還,曾無抵閡,明紹力不能制,是不得甚少,二也。諸書皆云公坑紹衆八萬,或云七萬。夫八萬人奔散,非八千人所能縛,而紹之大衆皆拱手就戮,何緣力能制之?是不得甚少,三也。將記述者欲以少見奇,非其實錄也。

(えん)(しょう)の陣地が数十里に渡って広がっていても、(そう)(そう)は兵をうまく分けて配置できたんだよ。だからそれほど少ない兵力ではなかったはず。これが1つ目の理由だよ。
もし(えん)(しょう)が10倍の兵を持っていたら、理にかなって全力で包囲して、出入りを断ち切るはず。(そう)(そう)(じょ)(こう)たちに運搬車を攻撃させて、自分も(じゅん)()(けい)たちを攻撃して旗を振りながら行ったり来たりしたけど、何の抵抗も受けずに帰ることができたよ。(えん)(しょう)は制御する力が足りなかったんだから、兵がとても少ないとは言えないよね。これが2つ目の理由だよ。
いろいろな書物の記述は一致しなくて、「(そう)(そう)(えん)(しょう)の軍8万人を生き埋めにした」とあれば、「7万人」とするものもあるよ(『(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』)。もし、8万人の兵が散り散りに逃げちゃった状況では、8,000人でその多くを捕らえることは難しいよね。なのに、(えん)(しょう)の大軍が抵抗しないで降参するのは、どんな力で制したのかな? だから、兵がとても少ないとは言えないよね。これが3つ目の理由だよ。
書いた人たちは、少ないことを見せて、すごいことを言いたがるけど、実際の出来事とは違うよ。

(註60)

按鍾繇傳云:「公與紹相持,繇為司隷,送馬二千餘匹以給軍。」本紀及世語並云公時有騎六百餘匹,繇馬為安在哉?

(しょう)(よう)伝」に、「(そう)(そう)(えん)(しょう)が戦っている時、(しょう)(よう)()(れい)として、2000頭以上の馬を軍に送った」とあるよ。でも、本紀と『世語』の両方に、(そう)(そう)はこの時、馬を600頭くらいしか持っていなかったとあって、(しょう)(よう)の送った馬はどこにあるのかな?

本文

紹復進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,衆大懼。時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以為「紹悉衆聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至彊,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。

(えん)(しょう)はふたたび(かん)()に進軍して、土山を起こして地下道を掘ったんだ。(そう)(そう)も同じように内側で工事をして、それに対応したよ。(えん)(しょう)の軍からは、矢が雨のように降り注いで、通る人は盾で身を守らなきゃいけなくて、みんなはすごく怖がったよ。
この時、(そう)(そう)は食糧が足りなくて、(じゅん)(いく)と手紙を書き合って、(きょ)に引き返すことを相談していたんだ。(じゅん)(いく)は手紙にこう書いたよ。
(えん)(しょう)はすべての兵を(かん)()に集めて、あなたと勝敗を決めるつもりだよ。あなたは最も弱い状態で最も強力な相手に立ち向かうことになるんだ。もし制することができなかったら、(えん)(しょう)に乗り越えられちゃうよ。これは天下を動かす大きな機会だね。(えん)(しょう)はただの普通の人で、人を集めることはできても、それを活かすことはできないよ。でも、あなたは武勇と明智を持っていて、大義名分で天子を補佐しているんだ。だから、何が起きてもうまくいくさ!」
(そう)(そう)は彼の意見に従ったよ。

(じゅん)(いく)さんのナイスフォロー。

周りでは

本文

孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,為刺客所殺。

(そん)(さく)は、(そう)(そう)(えん)(しょう)が戦っていることを聞いて、(きょ)を襲おうと考えていたんだけど、実行する前に暗殺されちゃった。

本文

汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。

(じょ)(なん)で降伏した敵の(りゅう)(へき)たちが、(えん)(しょう)に協力して(きょ)の周りを侵略したよ。(えん)(しょう)(りゅう)()(りゅう)(へき)を助けさせたけど、(そう)(そう)(そう)(じん)に彼らを撃破させたよ。(りゅう)()は逃げて、(りゅう)(へき)たちの陣営も破られたよ。

策を使って勝つ!

本文

袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然衆少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「却十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。

(えん)(しょう)が穀物の運搬車を何千両も率いてやってきたけど、(そう)(そう)(じゅん)(ゆう)の策略を使って(じょ)(こう)()(こう)を送って待ち伏せて襲撃したよ。大勝利を収めて、すべての車を焼き尽くしちゃったの。
(そう)(そう)(えん)(しょう)は、数ヶ月にわたって向かい合って戦ったんだ。何度も戦って、敵将を斬ったりもしたけど、(そう)(そう)の兵たちは食糧が足りなくて疲れ果てていたよ。そこで、(そう)(そう)は運搬役に対してこう言ったよ。
「15日以内で(えん)(しょう)を破ってやる。それからはもう苦労しないですむよ」
冬の十月、(えん)(しょう)は穀物を運ぶために車両を送って、(じゅん)()(けい)たち5人の将が1万人以上の兵と一緒にそれを護衛して、(えん)(しょう)の駐屯地の北に40里先に宿営を置いたよ。(えん)(しょう)の策士の(きょ)(ゆう)は財を貪って、(えん)(しょう)に満足できなくて、脱走したんだ。そして、彼は(そう)(そう)の元に逃げてきて、(じゅん)()(けい)たちを攻めるように勧めたの。

本文

左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。(註61)

周りの人たちは疑ったけど、(じゅん)(ゆう)()()(そう)(そう)を説得したよ。(そう)(そう)(そう)(こう)に守りを任せて、自ら歩兵と騎兵合わせて5,000人を率いて夜に出発して、明け方に着いたよ。(じゅん)()(けい)たちは、(そう)(そう)の兵が少ないのを見て、陣営の外に出てきたよ。(そう)(そう)は急いで攻めかかって、(じゅん)()(けい)は撤退して守ったけど、(そう)(そう)は攻め続けたよ。(えん)(しょう)は騎兵を送って(じゅん)()(けい)を救援したよ。
(そう)(そう)の周りの人の中にこう言った人がいたよ。
「敵の騎兵が近づいてくるよ、兵を分けて防がなきゃ」
でも、(そう)(そう)は怒ってこう言ったんだ。
「敵は後ろにいるのに、どうしてそんなことを言うの!」
兵たちはみんな命を懸けて戦って、(じゅん)()(けい)たちを破って、彼らをみんな斬ったんだ。

(註61)

曹瞞傳曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」旣入坐,謂公曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」公曰:「尚可支一歲。」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!公曰:「向言戲之耳。其實可一月,為之柰何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」

(そう)(まん)(でん)』によると、(そう)(そう)は許攸がやって来たと聞いて、はだしで出迎えて、手を叩いて笑ってこう言ったんだ。
「あなたが遠くから来てくれて、私たちの事は成功したよ!」
(きょ)(ゆう)が中に入って、座ってから(そう)(そう)に尋ねたよ。
(えん)()の勢いは強いし大きいけど、どう対処するの? 今はどれくらいの食糧があるの?」
(そう)(そう)は答えたよ。
「1年は持ちこたえられるよ」
すると、(きょ)(ゆう)はこう言ったよ。
「それは違うよね。もう一度言って」
(そう)(そう)は言い直したよ。
「半年は持つよ」
(きょ)(ゆう)は反論したよ。
「あなたは(えん)()を倒すつもりがないの? どうして本当の事を隠すの!」
(そう)(そう)は答えたよ。
「さっきの言葉は冗談だよ。本当は1ヶ月分ぐらいしかないんだ。どうしたらいいの?」
(きょ)(ゆう)はこう言ったよ。
「あなたは孤軍で守っているよね。外からの救援を期待できなくて、しかも食糧が底をついているよ。これは危険な状況だよ。今、(えん)()の補給物資は1万両以上あって、()()()(そう)に留っているけど、軍は十分には防備していないんだ。だから、軽装の兵を使って奇襲して、積み上げた食糧を焼き尽くしたら、3日以内に(えん)()は自滅するよ」

(註61)

公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備。」聞者信以為然,皆自若。旣至,圍屯,大放火,營中驚亂。大破之,盡燔其糧穀寶貨,斬督將眭元進、騎督韓莒子、呂威璜、趙叡等首,割得將軍淳于仲簡鼻,未死,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍。將士皆怛懼。時有夜得仲簡,將以詣麾下,公謂曰:「何為如是?」仲簡曰:「勝負自天,何用為問乎!」公意欲不殺。許攸曰:「明且鑒於鏡,此益不忘人。」乃殺之。

(そう)(そう)は大喜びして、精鋭の歩兵と騎兵を選んで、みんな(えん)()の旗を使って、馬の口に枚(声を出さないためにくわえさせる木片)をくわえさせて、夜に間道を通って出発したよ。彼らは薪を束ねて持ち運んで、道を歩いている途中で人に聞かれると、「(えん)(しょう)(そう)(そう)の襲撃に備えて、兵を送ったんだよ」と答えたんだ。聞いた人はこれを信じて、みんな落ち着いていたよ。
(そう)(そう)の兵が着くと、敵の陣営を包囲して、火を放って、敵の陣営は混乱したんだ。そして、彼らを破って、財宝や食糧をすべて燃やしたの。さらに、督将の(すい)(げん)(しん)、騎督の(かん)(きょ)()(りょ)()(こう)(ちょう)(えい)たちの首を斬ったよ。将の(じゅん)()(けい)の鼻を斬って、彼は生かしたままにしておいたんだ。兵を1000人以上も殺して、鼻を斬って、牛や馬の唇や舌を斬って、証拠として(えん)(しょう)の軍に示したんだよ。将や兵たちはみんな怯えたよ。夜に(じゅん)()(けい)は捕まって、(そう)(そう)のもとに連れて行かれちゃった。(そう)(そう)は彼に尋ねたよ。
「どうしたこんなことになったの?」
(じゅん)()(けい)は答えたよ。
「勝ち負けはすべて天が決めるから、問う必要なんかないよね」
(そう)(そう)は彼を殺さないつもりだったけど、(きょ)(ゆう)がこう言ったよ。
「明るくなってから鏡を見たら、このこと((そう)(そう)への怨み)を忘れられなくなるだろうね」
こうして、(じゅん)()(けい)は殺されたよ。

本文

紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珎寶,虜其衆。(註62)

(えん)(しょう)が最初、(そう)(そう)(じゅん)()(けい)たちを攻めたと聞いて、長子の(えん)(たん)にこう言ったよ。
「彼らが(じゅん)()(けい)たちを攻めている間に、私たちは彼らの陣営を攻め落とそう。彼らはどこにも帰れなくなるよ!」
そして、(ちょう)(こう)(こう)(らん)(そう)(こう)を攻撃させたよ。でも、彼らは(じゅん)()(けい)が敗れたことを聞くと、(そう)(そう)に投降しちゃった。(えん)(しょう)の軍は大混乱して、(えん)(しょう)(えん)(たん)は軍を捨てて逃げ出して、黄河を渡っちゃった。(そう)(そう)たちは追撃したけど追いつけなくて、(えん)(しょう)の軍の補給物資や書物、財宝をすべて奪って、兵も捕虜にしたよ。

(註62)

獻帝起居注曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與兾州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,為說命錄之數。又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立。』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敘與紹書云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重。便欲送璽,會曹操斷道。』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至於此。輙勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」

(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』によると、(そう)(そう)は上奏してこう言ったよ。
「大将軍で(ぎょう)侯の(えん)(しょう)は前に、()(しゅう)(ぼく)(かん)(ふく)と一緒に、かつての(だい)()()(りゅう)()を立てて、金印を作って、かつての(じん)(けん)(ちょう)(ひつ)()(りゅう)()のところに送って、天命を説いたよ。それに、(えん)(しょう)は私に手紙を送って、『(けん)(じょう)を都にしよう、立てるべき人がいるよ』と書いていたんだ。彼は金や銀の印を勝手に作って、孝廉や計吏たちはみんな彼のもとに行っちゃった。彼の従弟で(さい)(いん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(えん)(じょ)は、(えん)(しょう)に手紙を送ってこう書いたよ。
『今、国中が混乱しているけど、天の意志は実は私たちの家にあるみたいで、神のしるしがあるかも。それは、尊い兄((えん)(しょう))にあるはずだよね。(えん)(じゅつ)の臣下たちは(えん)(じゅつ)に即位してほしいと言っているけど、(えん)(じゅつ)の言うとおり、年齢は(えん)(しょう)が上で、地位も(えん)(しょう)が上だよね。だから、印を(えん)(しょう)に届けたいけど、(そう)(そう)に道を塞がれているんだ』
(えん)(しょう)の一族は、代々、国から大きな恩を受けていたのに、彼らは残忍で悪いことをして、最終的にこのような結末になっちゃったね。私はすぐに兵や馬を集めて、(かん)()で戦って、皇帝の威光を借りて、(えん)(しょう)の大将の(じゅん)()(けい)たち8人の首を討ち取って、(えん)(しょう)の軍を破ったんだ。(えん)(しょう)は、子の(えん)(たん)と一緒に軽装で逃げていったよ。合計で7万人以上の敵兵を討ち取って、たくさんの補給物資や財宝を手に入れたんだ」

本文

公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。(註63)兾州諸郡多舉城邑降者。

(そう)(そう)(えん)(しょう)の軍の手紙を回収して、その中に(きょ)(そう)(そう)の軍の中の人たちの手紙があったけど、全部燃やしたよ。そして、()州のたくさんの州や県が降伏したよ。

(註63)

魏氏春秋曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況衆人乎!」

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)(そう)はこう言ったよ。
(えん)(しょう)が強かった時、私でも不安だったんだ。他の人たちはなおさらだよね!」

本文

初,桓帝時有黃星見於楚、宋之分,遼東殷馗(註64)善天文,言後五十歲當有真人起於梁、沛之閒,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。

昔々のお話だけど、天文現象の黄星があったの。それが出たら、何か大きな変化が起こるんだって。(かん)(てい)の時代(147~167年)に、()(そう)の境目に黄星が現れたんだよ。(りょう)(とう)(いん)()は、50年後に(りょう)と沛のあいだで偉大な人物が現れて、その力には誰もかなわないだろうって予言したんだって。そして、その予言通り、50年後、(そう)(そう)(えん)(しょう)を破って、天下には敵がいなくなったんだって!

(いん)()が予言した「真人」とは、英雄や偉人のことを指す言葉で、その人物が現れると天下に大きな変化が起こるとされていたの。そして、この 50 年後に(そう)(そう)(えん)(しょう)を破って、その後の三国時代へと続く大きな変革が訪れたとされているんだ。

(註64)

馗,古逵字,見三蒼。

()」とは、古い字体では「()」と書かれていて、『(さん)(そう)』という書物に見られる文字だよ。

倉亭の戦い

本文

六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,復收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。

建安6年(201年)、夏の四月、(そう)(そう)は黄河で兵を挙げて、(えん)(しょう)(そう)(てい)の軍を攻めて、見事に打ち破ったよ。(えん)(しょう)は撤退して、散った兵たちをふたたび集めて、反乱を起こした郡と県を攻めて平定したよ。
九月、(そう)(そう)(きょ)に帰ったよ。(えん)(しょう)の軍がまだ破れる前、(りゅう)()(じょ)(なん)を襲わせたよ。(じょ)(なん)には賊の(きょう)()たちが(りゅう)()に協力したよ。(そう)(そう)(さい)(よう)(きょう)()を攻めさせたけど、不利になっちゃって、(きょう)()によって破られちゃった。(そう)(そう)(りゅう)()を討つために南に進軍したよ。(りゅう)()(そう)(そう)の進軍を知って、(りゅう)(ひょう)のもとに逃げて、(きょう)()たちも散り散りになったよ。

橋玄を祀る

本文

七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,為天下除暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授上田,官給耕牛,置學師以教之。為存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使以太牢祀橋玄。(註65)進軍官渡。

建安7年(202年)、春の正月、(そう)(そう)の軍は(しょう)へ向かったよ。(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「私が義兵を起こしたのは、天下から暴虐をなくすためだよ。故郷の住民たちは、殺されて、家族を失って、国の中を日々さまよい歩いて、見知った顔を見ることがないよ。私はそれを見るたびにとても悲しくなるんだ。私が義兵を挙げてから、将や兵で後継者が絶えていない人は、親族を探し出して、土地を与えて、耕牛を与えて、教師を置いて教育するよ。生き残った人たちのために廟を建てて、先祖を祀ろうよ。彼らの魂が安らかになって、私が100年後にどのような後悔もしないようにしたい!」
(そう)(そう)(しゅん)()まで進軍して、(すい)(よう)(きょ)を整備して、使者を送って太牢を捧げて(きょう)(げん)を祀ったよ。そして、(かん)()に進軍したんだ。

(すい)(よう)(きょ)は、運河のひとつで、現在の河南省南部を流れる睢水と、現在の安徽省北部を流れる淮河を結ぶ運河だよ。
太牢は、牛・羊・豚などのお供え物だよ。

(註65)

襃賞令載公祀文曰:「故太尉橋公,誕敷明德,汎愛博容。國念明訓,士思令謨。靈幽體翳,邈哉晞矣!吾以幼年,逮并堂室,特以頑鄙之姿,為大君子所納。增榮益觀,皆由獎助,猶仲尼稱不如顏淵,李生之厚歎賈復。士死知己,懷此無忘。

襃賞令の(そう)(そう)は祀ってこう言ったよ。
(たい)()(きょう)(げん)は、生まれながらにとても立派な人で、優しくて広い心を持っていたんだよ。国は彼の明確な善い教えを慕って、士人は彼の善い策を思ったよ。彼はもう霊になって、身体は埋葬されちゃって、遠くに離れて、亡くなっちゃった。私が幼い頃、(きょう)(げん)に会いに行くたびに、いやしい姿だったんだけど、彼は私を部屋に入れてくれて、認めてくれたんだ。私が成長して、たくさんの名声と敬意を集められたのは、すべて彼にほめられて励まされたからだよ。まるで(こう)()(がん)(かい)に及ばないと言ったことや、()(せい)()(ふく)の厚意に感心したみたいに、士人は亡くなって自分を知る人を失ったよ。私はこのことを忘れられないよ。

(註65)

又承從容約誓之言:『殂逝之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹痛勿怪!』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯為此辭乎?匪謂靈忿,能詒己疾,懷舊惟顧,念之悽愴。奉命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其尚饗!」

落ち着いていた時に、彼からこんな約束をいただいていたよ。
『私が死んだ後、あなたが墓の近くを通りかかることがあって、それなのに1斗の酒と1羽の鶏を供えてくれないようなことがあったら、車が三3進んだところで、あなたのお腹が痛くなっても驚かないでね!』
その場の冗談だと思うけど、親しい仲ではなかったら、どうしてこのような言葉が出せるの? 霊が私に病気を起こせるとは思わないけど、昔の友を思い出して、悲しみに包まれるよ。天子に命じられて東に遠征して、故郷に駐屯した時、北にあるあなたの故郷を見て、墓を心に思ったんだ。ささやかな供え物を持ってきたから、ぜひ召し上がってね!」

袁紹の死

本文

紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。

(えん)(しょう)は、軍が負けた後に、病気を発症して血を吐いたんだ。そして、夏の五月に亡くなったよ。彼の子の(えん)(しょう)が後を継いで、兄弟の(えん)(たん)は自分を(しゃ)()(しょう)(ぐん)と称して、(れい)(よう)に駐屯したよ。
秋の九月、(そう)(そう)は彼を攻撃して、戦闘は連戦となったよ。(えん)(たん)(えん)(しょう)は敗北して、守りを固めたよ。

華北統一を目指して

本文

八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚、尚夜遁。夏四月,進軍鄴。五月還許,留賈信屯黎陽。

建安8年(203年)、春の三月、(そう)(そう)(れい)(よう)を攻めて城郭で戦ったけど、(えん)(たん)(えん)(しょう)が出て戦ったところ、(そう)(そう)たちが大勝利! (えん)(たん)(えん)(しょう)は夜に逃げちゃった。
夏の四月、(そう)(そう)たちは(ぎょう)に進軍したよ。五月、()(しん)(れい)(よう)に駐屯させて、(きょ)に帰ったよ。

本文

己酉,令曰:「司馬法『將軍死綏』,(註66)故趙括之母,乞不坐括。是古之將者,軍破於外,而家受罪於內也。自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也。其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵。」(註67)

己酉の日、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「司馬法に『将軍は退却したら罰せられるべき』とあるよ。(ちょう)(かつ)の母が(ちょう)(かつ)の罪を負わないように願ったのは、昔の将は、外で敵軍に負けると家族が内で罰せられることがあったからだって。将を任命して征戦に行かせる時、功績に賞を与えるだけでなくて、失敗を罰するべきだよ。国家の法に従って、出征した将軍が敗れた場合は罰して、敗北した場合は官職と爵位を剥奪するよ」

司馬法は、()()(じょう)(しょ)が作った兵法書だよ。()()(じょう)(しょ)は、春秋時代の(せい)の将軍だよ。
(ちょう)(かつ)は、戦国時代の(ちょう)の武将だよ。彼の母のエピソードは、詳しくは『()()』「(れん)()(りん)(しょう)(じょ)(れつ)(でん)」を見てね。

(註66)

魏書云:綏,却也。有前一尺,無却一寸。

()(しょ)』によると、「綏」とは「却」という意味で、一尺の前進はあっても一寸の退却は無いことを表しているよ。

(註67)

魏書載庚申令曰:「議者或以軍吏雖有功能,德行不足堪任郡國之選,所謂『可與適道,未可與權』。管仲曰:『使賢者食於能則上尊,鬬士食於功則卒輕於死,二者設於國則天下治。』未聞無能之人,不鬬之士,並受祿賞,而可以立功興國者也。故明君不官無功之臣,不賞不戰之士;治平尚德行,有事賞功能。論者之言,一似管窺虎歟!」

()(しょ)』によると、庚申の日、命令を下してこう言ったよ。
「議論する人たちの中に、軍の役人たちがたとえ能力があっても、徳のある行いが足りなくて郡や国を統治するにはふさわしくないと主張する人がいるよ。言い換えると、『一緒に道を進むことはできても、一緒に権力を持つことはできない』ということだよね。でも、(かん)(ちゅう)はこう言ったよ。
『賢明な人たちが彼らの能力によって食べられるようになると、上(主君)が尊ばれるよ。戦士たちが功績によって食べられるようになると、兵たちは死ぬことを恐れずに戦うよ。国がこのように整ったら、天下は治まるよ』
能力のない人や戦わない兵が同じように賞を受け取って、そんな状況で功績を上げて国を興す例は聞いたことがないよ。だから、賢明な君主は功績のない人を官職に任命しないで、戦わない兵には封禄と賞を与えないよ。平和な時には徳を尊んで、危機の時には能力を評価するべきだよ。議論する人の言葉は、管を使って虎を覗き見るみたいなものだよね!(視野が狭いよね!)」

『可與適道,未可與權』は、『(ろん)()』「()(かん)」の「可與共學,未可與適道;可與適道,未可與立;可與立,未可與權。」から。
(かん)(ちゅう)(かん)()())は、春秋時代の(せい)の国の宰相だよ。

本文

秋七月,令曰:「喪亂已來,十有五年,後生者不見仁義禮讓之風,吾甚傷之。其令郡國各修文學,縣滿五百戶置校官,選其鄉之俊造而教學之,庶幾先王之道不廢,而有以益於天下。」

秋の七月、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「混乱が15年間も続いていて、後の世の人たちには仁や義や礼儀の気風を見られないから、私はとても悲しいよ。そこで、それぞれの郡や国に、文学の教育を修めさせて、500戸以上の県には校官を置くように命令するよ。その土地の優れた人を選んで教育しよう。そうすれば、先王の道を廃れさせないで、天下に貢献できるよ」

袁譚と袁尚の分裂

本文

八月,公征劉表,軍西平。公之去鄴而南也,譚、尚爭兾州,譚為尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,(註68)公乃引軍還。

八月、(そう)(そう)(りゅう)(ひょう)を討つために西(せい)(へい)へ進軍したよ。(そう)(そう)(ぎょう)を離れて南へ向かうと、(えん)(たん)(えん)(しょう)()州を争うようになったよ。(えん)(たん)(えん)(しょう)に敗れちゃって、(へい)(げん)に逃げ込んだよ。(えん)(しょう)(えん)(たん)を追い詰めて、(えん)(たん)(しん)()(そう)(そう)に送って投降を求めたんだ。でも、将たちはみんな疑ったよ。(じゅん)(ゆう)(そう)(そう)に許すように勧めたから、(そう)(そう)は軍を引き返したの。

(註68)

魏書曰:公云:「我攻呂布,表不為寇,官渡之役,不救袁紹,此自守之賊也,宜為後圖。譚、尚狡猾,當乘其亂。縱譚挾詐,不終束手,使我破尚,徧收其地,利自多矣。」乃許之。

()(しょ)』によると、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「私は(りょ)()を攻めた時、(りゅう)(ひょう)は侵攻しなかったよね。それに、(かん)()の戦いでは、(えん)(しょう)を助けなかったよね。(りゅう)(ひょう)は自分を守るだけの敵だから、後にしても問題ないな。(えん)(たん)(えん)(しょう)は狡猾だから、その混乱を利用するべきだよ。(えん)(たん)がずるい技を使おうとしても、最終的に手を縛ることはなくても、私たちが(えん)(しょう)を破ってその土地を制圧したら、利益もたくさん得られるの」
こうして、(そう)(そう)は許したんだって。

本文

冬十月,到黎陽,為子整與譚結婚。(註69)尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其衆降,封為列侯。(註70)

冬の十月、(れい)(よう)に着いて、(そう)(そう)は子供の(そう)(せい)(えん)(たん)の結婚式を開いたよ。
一方、(えん)(しょう)(そう)(そう)が北に向かったと聞いたから、(へい)(げん)を放棄して(ぎょう)に戻ったよ。
その後、(とう)(へい)(りょ)(こう)(りょ)(しょう)(えん)(しょう)に背いて、(よう)(へい)を拠点にして、兵たちと一緒に(そう)(そう)に投降して、彼らは列侯に封ぜられたよ。

(註69)

臣松之案:紹死至此,過周五月耳。譚雖出後其伯,不為紹服三年,而於再朞之內以行吉禮,悖矣。魏武或以權宜與之約言;今云結婚,未必便以此年成禮。

(はい)(しょう)()が調べたところ、(えん)(しょう)の死から、わずか1年と5ヵ月が過ぎただけなんだって。それなのに、(えん)(たん)は伯父の後を継いだけど、(えん)(しょう)が亡くなってからまだ3年の喪の期間がおわっていないのに、縁談を進めて吉日を選ぶのは、おかしいよね。それか、(そう)(そう)は、あくまでも結婚の約束をしただけかもね。この結婚の話だけど、結婚式を挙げたのは、この年ではなくてもう少し先かもしれないよね。

(註70)

魏書曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠。曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也。欲使我攻尚,得以其閒略民聚衆,比尚之破,可得自彊以乘我弊也。尚破我盛,何弊之乘乎?」

()(しょ)』によると、(えん)(たん)が包囲を解いた後、こっそりと将軍の印綬を(りょ)(こう)に授けたことがあったの。(りょ)(こう)が受け取って、(そう)(そう)に届けたよ。(そう)(そう)はこう言ったよ。
「私は(えん)(たん)の小さな策略を知っているよ。彼は私たちに(えん)(しょう)を攻めさせたいんだね。その隙に民を集めて、(えん)(しょう)が破れるまでに自分を強くして、私たちが弱ったところ攻撃できるよね。でも、(えん)(しょう)が破れるのは私たちが強くなった時だよ。どんな弱ったところを攻められるの?」

鄴を攻める

本文

九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚復攻譚,留蘇由、審配守鄴。公進軍到洹水,由降。旣至,攻鄴,為土山、地道。武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道。夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還。尚將沮鵠守邯鄲,(註71)沮音菹,河朔閒今猶有此姓。鵠,沮授子也。又擊拔之。易陽令韓範、涉長梁岐舉縣降,賜爵關內侯。

建安9年(204年)、春の正月、(そう)(そう)は黄河を渡って、()(すい)を遮って(はく)(こう)へ水を入れたよ。二月、(えん)(しょう)はふたたび(えん)(たん)を攻めて、()(ゆう)(しん)(ぱい)(ぎょう)の守りを任せたよ。(そう)(そう)は軍を進めて(えん)(すい)に着いて、()(ゆう)は降伏したんだ。そして、(ぎょう)を攻撃して、土山や地道を築いたよ。()(あん)(ちょう)(いん)(かい)(もう)(じょう)に駐屯して、(じょう)(とう)への補給路を確保したよ。
夏の四月、(そう)(そう)(そう)(こう)(ぎょう)を攻めるために留まらせて、自ら(いん)(かい)を攻撃して、彼を破って帰ったよ。(えん)(しょう)()(こく)(かん)(たん)を守らせたけど、(そう)(そう)はまた攻撃して撃破したよ。(えき)(よう)(れい)(かん)(はん)(しょう)(けん)(ちょう)(りょう)()は県を挙げて(そう)(そう)に降伏して、(かん)(だい)(こう)の爵位を授けられたよ。

(註71)

沮音菹,河朔閒今猶有此姓。鵠,沮授子也。

()(さく)には、まだ今でも「()」という姓があるんだって。()(こく)()(じゅ)の子だよ。

本文

五月,毀土山、地道,作圍壍,決漳水灌城;城中餓死者過半。秋七月,尚還救鄴,諸將皆以為「此歸師,人自為戰,不如避之」。公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,臨滏水為營。(註72)

五月、土山や地下道を壊して、城壁を築いて、(しょう)(すい)を決壊させて城を水浸しにしたよ。城の中で飢え死ぬ人が半数を越えたんだ。
秋の七月、(えん)(しょう)(ぎょう)を救援するために戻ってきたよ。(そう)(そう)の将たちはみんなこう言ったよ。
「これは帰る軍だから、人々は自分たちで必死に戦おうとするよ。避ける方がいいよ」
でも、(そう)(そう)はこう言ったよ。
(えん)(しょう)が大道から来た場合は避けるべきだけど、もし西(せい)(ざん)から来た場合は、簡単に捕まえられるよ」
実際に、(えん)(しょう)西(せい)(ざん)を通って来て、()(すい)の近くに陣を置いたよ。

(註72)

曹瞞傳曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」。公大喜,會諸將曰:「孤已得兾州,諸君知之乎?」皆曰:「不知。」公曰:「諸君方見不乆也。」

(そう)(まん)(でん)』によると、偵察隊が調査した結果、「(えん)(しょう)は西道を通って、すでに(かん)(たん)にいる」と報告があったよ。(そう)(そう)は大喜びして、将たちにこう言ったよ。
「私はすでに()州を手に入れたの。みんなは知っている?」
将たちは「知らない」と答えたよ。(そう)(そう)はこう言ったよ。
「みんなは今、それを知ることになるよ」

本文

夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營。未合,尚懼。故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,為圍益急。尚夜遁,保祁山,追擊之。其將馬延、張顗等臨陣降,衆大潰,尚走中山。盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮。八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。(註73)

夜、(えん)(しょう)の軍が兵を送って(そう)(そう)の陣に侵入させたけど、(そう)(そう)は逆襲して追い払ったよ。そして、(そう)(そう)がその陣を包囲したよ。包囲ができる前に、(えん)(しょう)の軍は怯えていたの。だから、()(しゅう)()()(州の長官)の(いん)()(ちん)(りん)が降伏を求めたけど、(そう)(そう)は受け入れなくて、包囲をより厳しくしたよ。そんな中、(えん)(しょう)は夜に逃げて、()(ざん)に逃げ込んだんだけど、(そう)(そう)が追撃したんだよ。その時、敵将の()(えん)(ちょう)()たちが戦って降伏して、(えん)(しょう)の軍は大混乱しちゃった。(えん)(しょう)は中山に逃げちゃった。軍からはたくさんの補給物資が手に入って、(えん)(しょう)の印綬や、権威の象徴である節と鉞も手に入って、(えん)(しょう)から降伏した人を送ってそれを示したら、城の中は混乱したよ。
八月、(しん)(ぱい)の兄の子の(しん)(えい)が夜に城の東の門を開放して、(そう)(そう)の兵を城内に入れたよ。(しん)(ぱい)は抵抗して戦ったけど敗れて、生け捕りにされちゃった。(そう)(そう)(しん)(ぱい)を斬って、(ぎょう)を制圧したよ。
その後、(そう)(そう)(えん)(しょう)の墓に参拝して、涙を流して喪に服したよ。そして、(えん)(しょう)の妻を慰めて、家族の財産を返して、さらに絹や綿を渡して、食糧も与えたんだ。

(註73)

孫盛云:昔者先王之為誅賞也,將以懲惡勸善,永彰鑒戒。紹因世艱危,遂懷逆謀,上議神器,下干國紀。荐社汙宅,古之制也。而乃盡哀於逆臣之冢,加恩於饕餮之室,為政之道,於斯躓矣。夫匿怨友人,前哲所恥,稅驂舊館,義無虛涕,苟道乖好絕,何哭之有!昔漢高失之於項氏,魏武遵謬於此舉,豈非百慮之一失也。

(そん)(せい)によると、昔の先王たちは賞と罰を行って、悪をこらしめて、善を勧めて、いつも教えと戒めを示していたよ。(えん)(しょう)は世の中が困難で危険な状況になったから、逆らった計画を立てて、上は帝位について議論して、下は国の規律を乱したんだ。
「荐社汙宅」は、古代からの慣習で、神聖な場所を清めて、邪悪を排除するためのものだったよ。でも、今では逆に、反逆者の墓に対して哀悼の情を尽くして、贅沢な人に対して恩恵を与えるのは、政治は誤った方向に進んでいるよね。友人に対して憎しみをこっそり抱くのは賢人が恥じることだよ。古代の王たちは節制して古い宮殿や馬車を使用して、無駄に涙を流すことはなかったんだ。道が正しくない場合、泣くことに何の意味があるの? 昔、(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))は(こう)()に対して同じ誤った対応をしたけど、(そう)(そう)も同じ失敗を犯したね。まさに、百に一つの誤りを犯したということだね。

袁紹の言っていたこと

本文

初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之衆,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。」(註74)

前に、(えん)(しょう)(そう)(そう)が一緒に兵を起こした時、(えん)(しょう)(そう)(そう)に尋ねたの。
「もしも事がうまくいかなかったら、どこを拠点にしたらいいの?」
(そう)(そう)は答えたよ。
「あなたの考えは?」
(えん)(しょう)はこう言ったよ。
「私は南では黄河を拠点に、北では(えん)(だい)を防いで、さらに胡や狄(異民族)の兵を取り入れて、南に向かって天下を争うことができるよ、どうかな?」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
「私は、天下の知恵と力を信じて、道によって彼らを守ろう。そうすれば、どんなことでもできるはずさ」

(註74)

傅子曰:太祖又云:「湯、武之王,豈同上哉?若以險固為資,則不能應機而變化也。」

()()』によると、(そう)(そう)はこう言ったよ。
(いん)(とう)(しゅう)()(おう)も、それぞれ同じところにいたわけではないよ。もし険しい場所を要塞として利用するなら、変化に対応できないよ」

税の改革

本文

九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼并之法,百姓喜恱。(註75)天子以公領兾州牧,公讓還兖州。

九月、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「河北は(えん)()の混乱に苦しんでいるから、今年の租税を免除するよ!」
有力者たちによる土地の合併を禁止する法を厳しくしたから、民は大喜びだったよ。天子は、(そう)(そう)()(しゅう)(ぼく)の地位を与えたけど、(そう)(そう)はそれを辞退して、(えん)州に戻ったんだ。

(註75)

魏書載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼并;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,為逋逃主。欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、緜二斤而已,他不得擅興發。郡國守相明檢察之,無令彊民有所隱藏,而弱民兼賦也。」

()(しょ)』によると、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「国や家がある人は、貧しさよりも平等ではないことを心配して、貧しさよりも安定を心配しているの。(えん)()の統治では、有力者が勝手に振る舞って、親族が土地を合併したよ。民は貧しくて、租税を権力者の代わりに払って、家財を売り払っても足りなくて、命令に応えるには不十分だったんだ。(しん)(ぱい)(えん)()の親族だったけど、彼は罪のある人を隠して、逃げ出した人たちの主になったよ。こんな状況で、民が国に従って軍備を増やそうと望んでも、得られるわけないよね! 田畑の租税は、1畝あたり4升の穀物、戸ごとに絹2匹と綿2斤だけで、他の課税は要らないよ。郡や国の相たちは厳密に監視して、豪族たちに何かを隠させたり、貧しい者たちに倍の税を課してはならないよ」

本文

公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河閒。尚敗,還中山。譚攻之,尚奔故安,遂并其衆。公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。譚懼,拔平原,走保南皮。十二月,公入平原,略定諸縣。

(そう)(そう)(ぎょう)を包囲した時、(えん)(たん)(かん)(りょう)(あん)(へい)(ぼっ)(かい)()(かん)を取ったよ。一方で、(えん)(しょう)は敗北して、(ちゅう)(ざん)に戻ったよ。(えん)(たん)(えん)(しょう)を攻めたら、(えん)(しょう)()(あん)に逃げて、そのまま軍を合流させたよ。(そう)(そう)(えん)(たん)に手紙を送って、約束を破ったことを責めたよ。結婚を解消して、(えん)(たん)の娘を送り返して、進軍したよ。(えん)(たん)は恐れて(へい)(げん)を放棄して、(なん)()に逃げちゃった。十二月、(そう)(そう)(へい)(げん)に入って、周りのいくつかの県を制圧したよ。

冀州の平定

本文

十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,兾州平。(註76)下令曰:「其與袁氏同惡者,與之更始。」令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之於法。

建安10年(205年)、春の正月、(そう)(そう)(えん)(たん)を攻めて、彼を打ち破ったよ。(えん)(たん)は斬られて、彼の妻や子供も処刑されて、()州は平定されたよ。(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
(えん)()と同じく悪事を働く者たちも、新しい統治を始めるよ」
民には私的な報復をしないように命令して、豪華な葬儀を禁止して、みんな法に従うようにしたよ。

(註76)

魏書曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷。

()(しょ)』によると、(そう)(そう)(えん)(たん)を攻めたけど、朝から昼まで攻めても決着がつかなかったんだって。そこで、(そう)(そう)は、自分で太鼓を持って、兵たちを奮い立たせたんだよ。そうしたら、城を破ることができたんだ。

本文

是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封為列侯。初討譚時,民亡椎冰,(註77)令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:「聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。」民垂泣而去;後竟捕得。

この月、(えん)()の大将の(しょう)(しょく)(ちょう)(なん)たちが反乱して、(えん)()(えん)(しょう)は三郡の()(がん)族のもとへ逃げたんだ。(しょう)(しょく)たちは、自分たちの領地を(そう)(そう)に提供して降伏して、列侯に封ぜられたんだ。(えん)(たん)を討ったばかりの頃、民が凍った水を割ることから逃げちゃった。命令して逃走した民が投降できないないようにしたよ。ある時、逃げた民が門に来て、(そう)(そう)は彼にこう言ったよ。
「もし私があなたを聞き入れるなら、法を犯すことになっちゃう。もしあなたを殺すなら自首した人を成敗することになっちゃう。あなたは身を隠して、役人に捕まらないようにしてね」
その逃亡者は涙を流しながら去ったけど、後で捕まっちゃった。

(註77)

臣松之以為討譚時,川渠水凍,使民椎冰以通舩,民憚役而亡。

(はい)(しょう)()の見解としては、(えん)(たん)を討つ時、川や水路が凍っていて、民に氷を割って船を通すように命令したんだ。民はこの仕事を嫌がって、どんどん逃げちゃった。

続き → 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 4

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