はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、青洲兵を手に入れてから官渡の戦いの直前までだよ。
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2 ← この記事だよ
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 3
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- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 6
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
袁術を倒す
袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。
袁術と袁紹は仲たがいしていたんだ。袁術は公孫瓚に援軍を求めたよ。公孫瓚は劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させて、袁紹を追い詰めたんだ。曹操は袁紹と一緒に戦って、敵をみんな破ったんだ。
「武帝紀」での劉備さん初登場。
四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。
初平4年(193年)、春、曹操の軍は鄄城にいたよ。荊州牧の劉表は袁術の補給路を断ち切ったんだ。そこで袁術は軍を陳留に進めて、封丘に駐屯して、さらに黒山賊や於夫羅の支援を受けたんだ。袁術は劉詳を匡亭に駐屯させたんだけど、曹操が劉詳を攻めたから、袁術は救援に向かったよ。戦って、曹操は大勝利したよ!
袁術は退却して封丘を守っていたから、曹操は彼らを包囲したよ。包囲が完了する前に、袁術は襄邑に逃げたよ。曹操は袁術を追撃して太寿まで追いついたよ。そして、運河を決壊させて城を水浸しにしたんだ。袁術はさらに寧陵に逃げたけど、曹操もまた追撃して、最終的には袁術は九江まで逃げたよ。夏になって、曹操は軍を定陶に帰したよ。
下邳闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。
下邳の闕宣が数千人を集めて、自分を「天子」と称しちゃった。その後、彼は徐州牧の陶謙と一緒に兵を挙げて、泰山の華と費を占拠して、任城を奪ったよ。秋に、曹操は陶謙を討伐して、十数の城を制圧したけど、陶謙は城の守りを固めて、出て来なかったんだ。
是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東。
この年、孫策は袁術の命令で、長江を渡って、数年間で江東を支配するようになったよ。
徐州征伐
興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。(註40)(註41)
興平元年(194年)、春、曹操は徐州から帰ってきたよ。
それより前に、曹操の父の曹嵩が官職から離れて譙に帰って、董卓の乱が起こった時には琅邪国に避難していたんだ。でも、陶謙によって曹嵩が殺されちゃったから、曹操は復讐のために東の徐州へ遠征することを志したよ。
世語曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以為劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定兾州,劭時已死。
『世語』によると、曹嵩は泰山の華にいたんだって。曹操は泰山太守(郡の長官)の応劭に命令して、曹嵩の家族を兗州に送るように命令したよ。でも、応劭の兵がまだ着く前に、陶謙がこっそり数千の騎兵を送って曹嵩の家を襲撃しちゃった。曹嵩の家族は、応劭が迎えに来ると思っていたから、用心してなかったんだ。
陶謙の兵が来た時、曹操の弟の曹徳が門の中で殺されちゃった。曹嵩は怖くなって、後ろの垣根を抜けて、まずは側室を脱出させて逃がそうとしたんだ。でも、側室は太っていたから、なかなか出られなかったんだって。曹嵩は便所に逃げ込んで隠れたけど、側室と一緒に殺されちゃって、家族全員が死んじゃった。
応劭は恐れて、官職を捨てて袁紹のもとに逃げたよ。後に曹操が冀州を征服すると、応劭はすでに亡くなっていたんだ。
韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。
韋曜の『呉書』によると、曹操は曹嵩を迎えるために、100両以上の補給物資を持っていたんだって。陶謙は都尉の張闓を送って、200人の騎兵で曹嵩を護衛したよ。張闓は、泰山の華と費の間で曹嵩を襲撃して、彼を殺して財物を奪って淮南に逃げちゃった。曹操はこれを陶謙のせいだと考えて、彼を攻撃したよ。
夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。(註42)
夏、曹操は荀彧と程昱に鄄城を守らせて、陶謙をふたたび攻めたよ。5つの城を奪って、そして東海まで領土を拡げたよ。その後、郯を通ると、陶謙の将の曹豹と劉備が郯の東に駐屯して、曹操を待ち受けていたよ。曹操は彼らを撃破して、襄賁を攻略したよ。彼の軍は、通過した場所で、たくさんの戦闘と破壊を行ったんだ。
孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣。
孫盛によると、罪を罰して、民を慰めることは、古代の正しい規範だよ。でも、陶謙に罪があるとしても、関係のない人たちを傷つけることは、過ちだよね。
兗州での呂布との戦い
會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。(註43)
張邈と陳宮が反乱して呂布を迎えて入れて、兗州の郡や県はみんな呂布についちゃった。荀彧と程昱が鄄城を守って、范県と東阿県を固く守っていたよ。曹操は徐州から兵を引き返したよ。呂布は、鄄城を攻撃しても落とせなくて、西の濮陽に駐屯したよ。曹操はこう言ったよ。
「呂布は一度、1つの州を手に入れても、東平に拠点を築けていないし、亢父や泰山の道を断って険しい地形に駐屯しても、私たちを窮地に追い込めないで、濮陽に陣営を置いたんだ。彼が何も成し遂げないことはわかっているよ」
そして、曹操は進軍して呂布を攻めたよ。呂布は兵を出撃させて、最初に騎兵で青州兵を襲ったよ。青州兵は負けて逃げちゃった。曹操の陣は混乱しちゃって、曹操は馬で火の中を突っ走ったけど、馬から落ちて、左手の掌をやけどしちゃったんだ。そこで、司馬の樓異が曹操を馬に乗せて救助して、一緒に去ったんだよ。
袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反閒,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。
袁暐の『献帝春秋』によると、曹操は濮陽を包囲したよ。濮陽の豪族の田氏が反乱を起こしたから、曹操は城に入ることができたよ。彼は東門を燃やして反乱の意思がないことを示したんだ。でも、戦いが始まると、曹操の軍は敗れちゃった。
呂布の騎兵が曹操を捕らえたけど、曹操を知らなかったから、「曹操はどこにいるの?」と尋ねたんだ。曹操は「黄色い馬に乗って逃げている人が彼だよ」と答えたよ。すると、騎兵は曹操を解放して、黄色い馬を追いかけたよ。そのとき、東門の火がまだ燃えていたから、曹操は火をかいくぐって脱出したよ。
未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。
曹操たちが陣営に着く前、将たちは曹操が見当たらないからみんな怖がっていたの。曹操は陣営に帰ると、自ら兵を鼓舞して、急いで攻撃の準備をさせて、ふたたび攻撃を仕掛けたよ。曹操と呂布の軍は100日以上も向き合ったよ。
ある時、イナゴの大群が発生して、民は大飢餓に陥っちゃった。呂布の兵糧も尽きたから、結局、どちらの軍も撤退したよ。
秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兖州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。
秋の九月、曹操は鄄城に帰ったよ。一方で、呂布は乗氏に着いたけど、その県の李進に撃破されて、東の山陽に駐屯したよ。この時、袁紹は使者を送って曹操と同盟を望んだの。曹操は兗州を失ったばかりで軍の食糧も尽きていたから、同盟を受け入れようと思ったんだ。でも、程昱が曹操を止めて、曹操は彼の意見に従ったんだ。
冬の十月、曹操は東阿に着いたよ。
是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。
この年は穀物が一斛50万以上の値になったんだ。人々は飢えに苦しんでお互いに食べあうようになっちゃって、新しく採用した役人や兵を解雇することになったよ。そして、陶謙は亡くなったから、劉備が後を継いだよ。
二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布復從東緍與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。(註44)
興平2年(195年)、春、曹操は定陶を襲撃したよ。済陰太守(郡の長官)の呉資が南城を守って、まだ落とせなかったんだ。そこに呂布がやってきたけど、曹操は呂布を撃ち破ったよ。夏、呂布の将の薛蘭と李封が鉅野に駐屯していたけど、曹操は攻撃したよ。呂布は薛蘭を助けるために駆けつけたけど、薛蘭たちは負けて、呂布は逃げちゃったから、曹操は薛蘭たちを斬ったよ。
その後、呂布はふたたび東緍から陳宮と1万人以上の兵を率いて攻めて来たけど、曹操の兵は少なかったから、伏兵を使って、奇襲で攻撃して、大勝利したよ。
魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其龍車,追至其營而還。
『魏書』によると、この時期、兵はみんな麦を採取していたから、残っている兵は1,000人にも満たなくて、陣営の守りは十分ではなかったんだ。曹操は女性たちに城壁を守らせて、兵を率いて敵に立ち向かったよ。陣営の西には大きな堤防があって、南には木々が茂っていたんだって。呂布は、伏兵がいるかもしれないと疑って、兵たちと話し合ってこう言ったよ。
「曹操はいろいろな策略を持っているから、伏兵に入らないように」
そして、軍を南に十数里退かせたよ。
次の日、曹操は敵がまた攻撃してくると予測して、兵を堤防の裏に隠して、半分の兵を堤防の外に出したよ。呂布が進軍してきたから、曹操は軽装の兵を戦わせたよ。戦闘が始まると、隠れていた兵たちは全員が堤防を駆け上って、歩兵と騎兵が一斉に進撃して打ち破ったよ。敵の龍車を手に入れて、彼らを追撃してその陣地に戻ったよ。
布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兖州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,為其衆所殺,兖州平,遂東略陳地。
呂布は夜に逃げ出して、曹操はふたたび攻めて、定陶を攻略して、兵をそれぞれの県に置いたよ。呂布は劉備を頼って東に逃げて、張邈は呂布に同行して、彼の弟の張超に家族を守らせて、雍丘に向かったよ。
秋の八月、曹操は雍丘を包囲したよ。
冬の十月、天子が曹操を兗州牧に任命したよ。十二月、雍丘が陥落して、張超は自ら命を絶って、張邈の一族は処刑されたんだ。張邈は袁術のところに救援を求めに行ったけど、袁術の軍に殺されちゃった。こうして、兗州は平定されて、その後、陳地を東に進軍したよ。
是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。
この年には、長安が混乱して、天子は東(洛陽)に移動したよ。曹陽で敗れて、黄河を渡って安邑に避難したよ。
天子を迎え入れる
建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。
建安元年(196年)、春の正月、曹操の郡が武平に着いたよ。袁術が置いた陳国相の袁嗣が降伏したよ。
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
曹操は天子を迎えることを考えたけど、将たちの中は疑問を持つ人がいたよ。荀彧と程昱が曹操を説得して、曹洪に兵を率いて西へ向かわせたよ。一方で、衛将軍の董承と袁術の将の萇奴は組んで要所を守って、曹洪を進軍させないようにしたよ。
汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,衆各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,(註45)奉別屯梁。
汝南や潁川には、黄巾賊の何儀、劉辟、黄邵、何曼たちがいて、それぞれの軍勢は数万だったんだ。彼らははじめは袁術に従っていたけど、後に孫堅についたよ。
二月、曹操は進軍して彼らを倒したよ。劉辟や黄邵たちを斬って、何儀とその部下たちは降伏したんだよ。天子は曹操に建徳将軍に任命したよ。
夏の六月、曹操は鎮東将軍に任命されて、費亭侯に封ぜられたよ。
秋の七月、楊奉と韓暹が天子を洛陽に送り返して、楊奉は梁に留まったよ。
獻帝春秋曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。
『献帝春秋』によると、天子が洛陽に着いた当初、城の西側にある昔の中常侍の趙忠の家に行ったんだ。張楊によって宮殿の修復が行われて、その宮殿を揚安殿と名付けたよ。八月、天子はそこに移住したんだ。
太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。(註46)洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。(註47)
曹操はそのまま洛陽に着いて、都を守ったよ。韓暹は逃げちゃった。天子は曹操に節と鉞を与えて、録尚書事(天子の側近事務)を任せることにしたよ。洛陽は荒れ果てていて、董昭たちは曹操に許を都にすることを勧めたよ。九月、天子の車は轘轅関へ出発して東へ向かって、曹操を大将軍に任命して、武平侯に封じたよ。天子が西へ移ってから、朝廷は混乱の日々を送っていたけど、この時期に宗廟と社稷制度が整備されることになったよ。
宗廟は君主の祖先を祭る建物だよ。社稷は土地の神と五穀の神を祭った建物だよ。宗廟と社稷を整えることは、国家を立て直すということだね。
獻帝紀曰:又領司隷校尉。
『献帝春秋』によると、曹操はさらに司隷校尉(都近郊の監察や治安維持)を兼任したよ。
張璠漢紀曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言於帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠於朝廷,然天道深遠,幸勿多言。」
張璠の『漢紀』によると、前に、天子が曹陽で敗れちゃって、黄河を渡って東へ行こうとしたの。侍中の太史令(記録官)である王立がこう言ったよ。
「去年の春から金星が牛斗という星座をかすめたあと、土星に背いて、天津(銀河)を過ぎたよ。火星が北河を逆行するから、そこを通るのは良くないよ」
だから、天子は北へ渡らないで、軹関から東へ出ることにしたの。王立は宗正の劉艾にもこう言ったんだ。
「前に、金星が天関という星座にとどまって、火星と合流したよ。金と火が交わることは、変革の兆しだよ。漢の祝福は終わって、晋や魏の地に興隆が必ずあると思うの」
王立は帝に何度も言ったよ。
「天命は移り変わるし、五行はいつも栄えているわけではないよ。火の代わりに土が来るかも。漢の後継者は魏で、国を安定できるのは曹氏だけだよ」
曹操はこれを聞いて、使者を王立に送ってこう伝えたよ。
「あなたは朝廷に忠があるとわかるけど、天道は計り知れないから、あまり言いすぎないでね」
屯田制度の始まり
天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。於是以袁紹為太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。(註48)
天子が東に向かった時、楊奉が梁から向かったんだけど、間に合わなかったんだって。
冬の十月、曹操は楊奉を攻めたよ。楊奉は南にいる袁術のもとに逃げて、曹操はその後、楊奉がいた梁の拠点を攻略したよ。そして、袁紹が太尉に任命されたよ。袁紹は、自分の位が曹操の下だから恥ずかしくて、受け取ろうとしなかったんだ。曹操は辞退して、袁紹に大将軍の位を譲ったよ。天子は、曹操を司空にして、車騎将軍にも任命したんだ。この年には、棗祗や韓浩たちの提案で、屯田制度が始められたの。
屯田は、国が所有する土地に人を集団で住まわせて農作業に従事させて税を収めさせる制度だよ。農民としてだけではなくて、戦のときには兵として従軍させたよ。
魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀。諸軍並起,無終歲之計,饑則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北,軍人仰食桑椹。袁術在江、淮,取給蒲蠃。民人相食,州里蕭條。公曰:「夫定國之術,在於彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也。」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛。於是州郡例置田官,所在積穀。征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下。
『魏書』によると、荒れ果てた時代には、いつも食料不足に苦しんでいたんだって。軍は次々と起こるのに、長期間の計画を持っていなくて、食糧が足りない時には略奪をして、食糧が十分な時には余った食糧を捨てちゃって、軍はばらばらになっちゃって、敵の攻撃に勝てなくなることもなく自滅した人が数えきれないくらいいたんだって。袁紹が河北にいたとき、彼の兵たちは桑の実を食べていたんだって。袁術は長江や淮水にいたとき、ハマグリの一種を取って食べていたんだって。民たちはお互いに食べあうようになっちゃって、その州や郡はとても荒れ果てちゃった。
曹操はこう言ったよ。
「国を安定させる方法は、強い兵とたくさんの食糧があることにかかっているよ。秦の人たちは、急いで農業を発展させて、天下を統一したよ。漢の武帝(劉徹)は、屯田をして西域を平定させたよ。これらは、昔の良いお手本だよね」
この年、民を募って許の下で屯田をさせて、100万斛の穀物を手に入れたよ。それから、州や郡に田地の役人を置いて、穀物を蓄えたんだ。各地に出征するのに食糧を運ぶ手間を省いて、敵を討伐して、天下を閉廷できたんだよ。
劉備を…どうする?
呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得衆心,終不為人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」
呂布が劉備を襲撃して、下邳を奪っちゃった。劉備が逃げて来たよ。程昱は曹操にこう言ったんだ。
「劉備は優れた才能があって、民の心をつかんでいるの。彼は他人に従うことはないから、早めに排除するべきだよ」
でも、曹操はこう答えたよ。
「今こそ英雄を集める時だよね。彼を殺して天下の人たちの心を失うことはできないよ」
張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其衆。
張済は関中から南陽へ逃げちゃった。張済が亡くなると、彼の子の張繡が兵を率いたよ。
宛城の戦い
二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。(註49)
建安2年(197年)、春の正月、曹操は宛に着いたよ。張繡が降伏したけど、彼は後悔して、ふたたび反逆したんだ。曹操は戦ったけど軍は負けちゃった。流れ矢に当たっちゃって、長子の曹昂と、曹操の弟の子の曹安民が亡くなったんだ。
魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。
『魏書』によると、曹操が乗っていた馬の名前は「絶影」だよ。この馬も流れ矢に当たっちゃって、曹操は頬と足に傷を負って、右腕にも矢が当たったんだ。
世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。
『世語』によると、曹昂は馬に乗れなかったから、曹操は馬を曹昂に譲って、曹操は無事だったけど、曹昂は残念ながら亡くなっちゃった。
公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。(註51)
曹操は兵を引いて舞陰に帰ったよ。すると、張繡の将が騎兵を率いて襲ってきたけど、曹操は彼らを撃破したよ。張繡は穰に逃げて、劉表と合流したよ。曹操は将たちにこう言ったよ。
「私たちは張繡たちを降伏させたけど、人質を取ることを忘れちゃったから、今の状況につながったんだ。私は自分の敗北の原因をよく知っているの。みんな、よく見ていてね、これからはこれ以上敗北しないぞ」
そして、曹操は許に帰ったよ。
世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。
『世語』によると、昔の制度では、三公は兵を連れて天子に謁見する時に、戟を交差して首筋に当てて前に進んだんだって。ある時、曹操は張繡を討伐するために、天子に謁見することになって、このしきたりのとおりにしたんだよ。でもその後は、曹操は天子に謁見することはなかったよ。
袁術が皇帝を自称する
袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,為布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。
袁術が淮南で皇帝になろうとして、そのことを呂布に伝える使者を送ったよ。でも、呂布はその使者を捕まえて、使者が持っていた手紙を天子に上書したんだ。すると、袁術は怒って呂布を攻めたんだけど、呂布はこれを破ったよ。
秋の九月、袁術が陳を攻めたから、曹操は彼に対抗するため東へ出発したよ。袁術は曹操が来たことを聞いて、自分の軍を捨てて逃げ出しちゃった。でも、将の橋蕤、李豊、梁綱楽就は残ったよ。曹操が着くと、橋蕤たちを破って、全員を斬ったよ。袁術は淮河を渡って逃げて、曹操は許に帰ったよ。
張繍の反逆
公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。(註52)表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。
曹操が舞陰から戻ってきたら、南陽と章陵の県がふたたび張繡と手を組んで反逆したよ。曹操は曹洪を送って攻撃させたけど、うまくいかなかくて、葉に退却したよ。張繡と劉表に何度も攻められるようになっちゃった。
冬の十一月、曹操は南に出兵して、宛に着いたよ。劉表の将の鄧済が湖陽を占拠していたから、曹操は攻め落として、鄧済を生け捕りにして、湖陽を征服したよ。舞陰も攻め落としたんだ。
魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。
『魏書』によると、淯水で、亡くなった将や兵たちを祀ったよ。曹操は悲しみにむせび泣いて、その姿を見た人たちはみんな感動して涙を流したんだって。
三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。(註53)
建安3年(198年)、春の正月、曹操は許に戻ったよ。この時、初めて軍師祭酒の職を置いたよ。三月、曹操は張繡を穰で包囲したよ。
夏の五月、劉表は兵を送って張繡を救援して、曹操の軍の後ろを遮断しようとしたんだ。
軍師祭酒は、軍師の長?
獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。
『献帝春秋』によると、袁紹を裏切った兵が曹操のところに来て、こう言ったよ。
「田豊が袁紹に、許を早く襲撃するように勧めているよ。もし天子を人質に取って諸侯に命令できれば、国内は指揮に従って平定できるかも」
曹操はそれを聞いて張繡の包囲を解いちゃった。
公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破繡必矣。」到安衆,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」
曹操の将は引き返そうとしたけど、張繡の兵がやってきたよ。曹操の軍は進めなくなっちゃって、陣営を少しずつ前に進めたよ。曹操は荀彧に手紙を送ったよ。
「敵が追ってきて、数里ずつしか進めないよ。けど、私には策があるの。安衆に着いたら、そこで張繡を破ることができるよ」
安衆に着くと、張繡と劉表の兵が合流して険しい地形で守りを固めていて、曹操の軍は前後から攻撃されちゃったの。そこで、曹操は夜に地下道を掘って、補給物資をすべて運び出して、奇兵を置いたんだ。朝になると、敵は曹操が逃げたと思い込んで全軍で追いかけてきたよ。その時、曹操は奇兵を放って、歩兵と騎兵で敵を挟み撃ちして、大勝利を収めたよ。
秋の七月、曹操は許に帰ったよ。荀彧は曹操に尋ねたよ。
「前に敵を破る策を立てたけど、どんな策?」
曹操はこう答えたよ。
「敵は私たちが帰れないように塞いで、死地で戦おうとしたんだ。だから私は勝てると確信したんだよ」
下邳の戦い
呂布復為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。
呂布がふたたび袁術の使者として、高順に劉備を攻めさせたよ。曹操は夏侯惇を送って救援したけど、不利な戦況で、劉備は高順に敗れちゃった。
九月、曹操は呂布を攻めるために東へ進軍したよ。
冬の十月、彭城を攻め滅ぼして、相の侯諧を捕らえたよ。その後、下邳に進軍した時、呂布は自ら騎兵を率いて反撃してきたよ。でも、曹操は大勝利を収めて、呂布の勇将の成廉を捕らえたよ。追撃して城の下まで追い詰めたところで、呂布は怖くなって投降しようと思ったの。でも、陳宮たちがその計画を止めて、袁術に援軍を求めて呂布に戦うように勧めたんだ。でも呂布はまた負けちゃって、やっぱり城に籠っちゃった。攻める側も攻め落とせずにいたんだ。
時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌狶各聚衆。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附于海以委焉,分琅邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。
その時、曹操は連戦していたから、兵たちは疲れ果てていたの。帰ろうと考えていたけど、荀攸と郭嘉が考えた計略を使って、泗水と沂水を決壊させて城を水攻めにしたよ。1ヶ月くらいで、呂布の将の宋憲、魏続たちは陳宮を捕まえて、城を降伏させたよ。呂布と陳宮は生きたまま捕まえられて、後で処刑されたよ。
その後、太山の出身の臧覇、孫観、呉敦、尹礼、昌狶がそれぞれ兵を集めたよ。呂布が劉備を破った時、臧覇たちはみんな呂布に従ったよ。でも、呂布が敗れて、臧覇たちが捕らえられた後、曹操は彼らを受け入れて、青州と徐州を海の方に分けて支配したよ。さらに、琅邪、東海、北海のそれぞれの郡を城陽、利城、昌慮という郡に分けたんだ。
曹操の求める人
初,公為兖州,以東平畢諶為別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕。旣出,遂亡歸。及布破,諶生得,衆為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以為魯相。(註54)
前に、曹操は兗州牧になった時、東平の畢諶を別駕に任命したよ。張邈が反乱を起こした時、張邈は畢諶の母、弟、妻や子供を人質にとったよ。曹操は畢諶を辞めさせて、家族の元に送ろうとしてこう言ったよ。
「あなたの母親はあの地にいるから、行くといいよ」
畢諶は、頭を下げて心から同意して、曹操に忠誠を誓ったよ。曹操はそれをとても嬉しく思って、感動のあまり涙を流したんだ。でも、畢諶は出て行って逃げちゃった。そして、呂布が敗れた後、畢諶を生け捕りにして、人々は恐れたけど、曹操はこう言ったよ。
「親孝行な人が、主君に忠が無いわけがないよ! それが私が求めているものだよ」
こうして、畢諶を魯国の相に任命したんだ。
魏書曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自為之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,為庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以為公外託公義,內實離異,深懷怨望。臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。
『魏書』によると、袁紹は、昔の太尉の楊彪、大長秋の梁紹、少府の孔融と仲が悪くて、曹操に彼らの罪をでっち上げて処刑させるように企んでいたんだって。曹操はこう言ったよ。
「今、天下は混乱していて、力を持つ人たちが立ち上がって、君主を補佐する人たちは不満を持って、それぞれが自分のために行動しようとしているよ。これは上下がお互いを疑う時代で、害の無いつもりでもまだ信じられないことを恐れるよ。もし誰かを排除しちゃったら、誰もが自分自身の危険を感じることになるよね? それに、私たちは官位の無い身から立ち上がって、埃や泥にまみれて生きてきたよ。つまらない人たちに侮辱されることもあったよね。それをどうして忘れられるの? 高祖(劉邦)が雍歯の怨みを許して、民の心を安定させたよね。このことを忘れてはいけないよ」
袁紹は、曹操が外面では公正なふりをしているけど、内心では離反しようと強い不満と敵意を抱いていると考えていたよ。
臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。
裴松之の見解としては、楊彪も昔に曹操に苦しめられて、死に至るところまで行ったことがあるよね。孔融は結局は曹操に処刑されたよね。つまり、言葉だけでなく行動が重要なんだ。信じるべきは行動であって、言葉だけでは足りないよね。
袁紹との因縁
四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率衆降,封為列侯,還軍敖倉。以魏种為河內太守,屬以河北事。
建安4年(199年)、春の二月、曹操は昌邑に帰ったよ。張楊の将の楊醜が張楊を殺して、眭固が楊醜を殺しちゃった。眭固の兵たちは袁紹に従って、射犬に駐屯したよ。
夏の四月、曹操は黄河に進軍して、史渙と曹仁に黄河を渡らせて眭固を攻めさせたよ。眭固は、張楊の長吏(行政官)の薛洪と河内太守(郡の長官)の繆尚に守りを任せて、自分は兵を率いて北に向かって、袁紹に救援を求めたよ。でも、史渙や曹仁と犬城で遭遇しちゃって、彼らは眭固の軍を破って、眭固を斬ったよ。曹操は黄河を渡って射犬を包囲したよ。薛洪と繆尚は、兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。その後、曹操は敖倉に軍を帰したんだ。そして、魏种を河内太守に任命して、河北の政務を任せたよ。
初,公舉种孝廉。兖州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走越、北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。
最初は、曹操は魏种を孝廉に推挙したよ。兗州で反乱が起こった時、曹操はこう言ったよ。
「魏种だけが私を捨てないでついてきたの」
でも、魏种が逃げ出したことを知ると、曹操は怒ったよ。
「あなたが南の越や、北の胡に逃げない限り、私はお前を置いていかない!(探し出してやる!)」
射犬を攻め落とした後、魏种を生け捕りにしたよ。曹操は、こう言ったよ。
「この人の才能は本当にすばらしい!」
そして、彼を釈放して使ったんだ。
是時袁紹旣并公孫瓚,兼四州之地,衆十餘萬,將進軍攻許,諸將以為不可敵,公曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也。」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率衆降,封列侯。十二月,公軍官渡。
この頃、袁紹はすでに公孫瓚を従えていて、4つの州の領土を支配して、その軍は10万以上の兵を率いて許を攻めようとしていたの。曹操の軍の将たちはこれに立ち向かえないと考えていたけど、曹操はこう言ったよ。
「私は袁紹の性格を知っているよ。袁紹は志は大きいけど知恵は小さくて、口では厳しいけど実力は弱くて、嫉妬深くて威嚇ばかりして威厳はないし、兵をたくさん持っていても戦略が明確ではないし、将たちは驕っていて統治がぐちゃぐちゃだから、彼らを簡単に打ち負かせるよ。袁紹の領地は広くて、食糧も豊富だけど、私たちに捧げてくれているようなものだね」
秋の八月、曹操は黎陽へ進軍したよ。臧覇たちを青州に送って、斉、北海、東安を制圧して、その後、于禁たちを黄河に駐屯させたよ。九月、曹操は許に戻って、兵を分けて官渡を守ったよ。
冬の十一月、張繡が兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。十二月、曹操の軍は官渡に駐屯したよ。
また劉備を…どうする?
袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。(註55)(註56)(註57)
袁術は陳で敗れて困っていたんだけど、袁譚が青州から使者を送って迎えに来てくれたよ。袁術は下邳を北に抜けようとしたけど、曹操が劉備と朱霊に迎撃させたんだ。でも、袁術は病死しちゃった。
程昱と郭嘉は、曹操が劉備を送ったことを聞いて、曹操に「劉備を自由にしてはダメ」と言ったんだって。曹操は悔しがって、劉備を追いかけたけど追いつけなかったの。
劉備は東に行く前に、董承たちと内通して反乱を計画して、下邳に着いたよ。そこで、徐州刺史(州の長官)の車冑を殺して、兵を集めて沛に駐屯したんだ。曹操は劉岱と王忠を送って攻めたけど、勝てなかったの。
獻帝春秋曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」
『献帝春秋』によると、劉備は劉岱たちにこう言ったんだって。
「あなたみたいな人を100人集めても私には勝てないよ! 曹操が来たら、どうかわからないけどね!」
魏武故事曰:岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯。
『魏武故事』によると、劉岱は、字は公山で、沛国の出身だよ。司空長史として征伐に従って、功績をあげて列侯に封ぜられたよ。
魏略曰:王忠,扶風人,少為亭長。三輔亂,忠饑乏噉人,隨輩南向武關。值婁子伯為荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等仵逆擊之,奪其兵,聚衆千餘人以歸公。拜忠中郎將,從征討。五官將知忠甞噉人,因從駕出行,令俳取冢間髑髏繫著忠馬鞍,以為歡笑。
『魏略』によると、王忠は扶風の出身だよ。若い頃は亭長(警察の長)を務めていたんだよ。三輔で混乱が起きた時、王忠は飢えて、人を食べちゃったことがあったんだって。彼は仲間たちと一緒に南の武関に向かったよ。そこで、荊州にいた婁圭が、北方の客人(民)を迎えていたんだ。でも、王忠は行く気はなかったよ。王忠は仲間たちと一緒に婁圭を攻撃して、彼から兵を奪って、1,000人以上の軍勢を率いて曹操に従ったよ。
王忠は中郎将に任命されて、さまざまな戦闘に参加したよ。ある時、五官将(曹丕?)は、王忠が過去に人を食べたことを知って、芸人に命令して墓場から人の頭蓋骨を取って来させて、王忠の馬の鞍に結びつけて笑いものにしたの。
廬江太守劉勳率衆降,封為列侯。
廬江太守(郡の長官)の劉勲が率いる軍勢が降伏して、列侯に封ぜられたよ。