
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、青州兵を手に入れてから官渡の戦いの直前までだよ。
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1
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- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080406袁術を倒す
袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。
袁術は袁紹と仲が悪くなって、公孫瓚に助けを求めたよ。公孫瓚は劉備を高唐、単経を平原、陶謙を発干にそれぞれ置いて、袁紹をおさえようとしたよ。曹操は袁紹と協力して戦って、これらをすべて打ち破ったよ。
「魏書武帝紀」での劉備さん初登場。
四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。
初平四年(193年)、春、曹操の軍は鄄城にいたよ。荊州牧(州の長官)の劉表は袁術の食糧を運ぶ道を断ったよ。だから袁術は軍を率いて陳留に入って、封丘にとどまったよ。さらに黒山賊の残党や於夫羅たちもこれを助けたよ。
袁術は劉詳を匡亭に置いたけど、曹操が劉詳を攻めたよ。袁術はこれを助けに来たけど、戦って大きく打ち破られたんだ。
袁術は封丘に退いて守ったけど、曹操はこれを包囲したよ。まだ完全に取り囲む前に、袁術は襄邑へ逃げちゃった。曹操はこれを追って太寿まで行って、水路を切り開いて水を引き入れて、城を水攻めにしたよ。袁術はさらに寧陵に逃げたけど、曹操もまた追って、とうとう九江まで逃げたんだ。
夏、曹操は軍を定陶へ引き返したよ。
下邳闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。
下邳の闕宣は、数千人の人たちを集めて、自分を「天子」と名乗ったんだ。徐州牧(州の長官)の陶謙はこれに加わって兵をあげて、泰山の華と費を取って、任城を奪ったよ。
秋、曹操は陶謙を討つために兵を出して、10以上の城を攻め落としたけど、陶謙は城にこもったまま、出て戦おうとはしなかったんだ。
是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東。
この年、孫策は袁術の命令で、長江を渡って、数年のうちに江東の地を手に入れたよ。
徐州の戦い
興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。(註41)(註42)
興平元年(194年)、春、曹操は徐州から帰ってきたよ。
もともと、曹操の父の曹嵩は官職を辞めた後、譙に帰っていたけど、董卓の乱が起こると、難を避けて琅邪に行ったよ。でも、そこで陶謙に殺されちゃった。曹操は仇を討つために東の徐州へ攻める決意をしたよ。
世語曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以為劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定兾州,劭時已死。
『世語』によると、曹嵩は泰山郡華県にいたんだ。曹操は泰山太守の応劭に命令して、家族を兗州に送り届けさせようとしたよ。でも、応劭の兵がまだ着く前に、陶謙がこっそり数千の騎兵を送って曹嵩の家を襲ったんだ。曹嵩の家の人たちは応劭が迎えに来ると思っていたから、何も備えていなかったんだ。
陶謙の兵がやって来ると、曹操の弟の曹徳が門の中で殺されちゃった。曹嵩は怖くなって、裏の塀に穴をあけて逃げようとして、まずは側室を外へ出そうとしたけど、側室は太っていたから、なかなか出られなかったんだ。曹嵩は便所に逃げて隠れたけど、側室と一緒に殺されて、家族みんなが命を落としたんだ。応劭は怖くなって、官職を捨てて袁紹のもとに逃げたよ。
その後、曹操が冀州を平定すると、応劭はすでに亡くなっていたんだ。
韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。
韋曜の『呉書』によると、曹操は曹嵩を迎えようとして、たくさんの荷物を100両以上の車に積んだよ。陶謙は都尉の張闓に200人の騎兵をつけて曹嵩を守って送らせたよ。でも張闓は、泰山の華と費のあいだで曹嵩を殺して、物や金を奪って淮南に逃げちゃった。曹操はこれを陶謙のせいだと考えたから、討伐をしたんだ。
夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。(註43)
夏、曹操は荀彧と程昱に鄄城を守らせて、ふたたび陶謙を討つために兵を出したよ。そして5つの城を攻め落として、さらに東海まで攻め取ったよ。帰る途中、郯を通ると、陶謙の将の曹豹と劉備が郯の東に陣を置いて、曹操を待ち受けたんだ。曹操はこれを攻めて打ち破って、そのまま襄賁を攻め取ったよ。でも、その途中でたくさんの人たちを殺したんだ。
孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣。
孫盛によると、そもそも罪のある人を討って、民を助けるのが昔からの正しいやり方だよ。陶謙に罪があるとしても、その属官や民までたくさん殺したのは、やりすぎだよ。
呂布との戦い
會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。(註44)
そのころ、張邈と陳宮がそむいて呂布を迎えて入れて、兗州の郡や県もみんなこれに応じたんだ。荀彧と程昱は鄄城を守って、范と東阿をしっかり守ったよ。曹操は徐州から軍を引いて戻ったよ。
呂布がやって来て、鄄城を攻めたけど落とせなくて、西の濮陽にとどまったよ。曹操はこう言ったよ。
「呂布は、せっかく1つの州を手に入れたのに、東平をおさえて、亢父や泰山への道を断って、険しい地形を利用して私を攻めることもしないで、濮陽にとどまっているんだ。これでは大したことができないとわかるよね」
そして、曹操は軍を進めて呂布を攻めたよ。呂布は兵を出して戦って、まずは騎兵で青州兵を襲ったんだ。青州兵は逃げ出して、曹操の陣形は乱れちゃった。曹操は馬を走らせて火の中を突き抜けようとしたけど、馬から落ちて、左手のひらにやけどを負ったんだ。そこで、司馬の楼異は曹操を助けて馬に乗せて、そこから去ったよ。
袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反閒,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。
袁暐の『献帝春秋』によると、曹操が濮陽を包囲すると、濮陽の有力者の田氏が応じてくれて、曹操は城に入れたよ。そして、東門を燃やして「裏切るつもりはない」という合図を示したよ。でも、戦いになると、曹操の軍は敗れちゃった。呂布の騎兵が曹操を捕まえたけど、それが曹操とは気づかなくて、こう尋ねたよ。
「曹操はどこにいるの?」
曹操はこう答えたよ。
「黄色い馬に乗って逃げた人が彼だよ」
すると、騎兵は曹操を放して、黄色い馬を追いかけたよ。曹操はその火の中を突き抜けて逃げ出したよ。
未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。
曹操がまだ陣営に着く前、将たちは曹操が見当たらないからみんな怖がっていたの。そこで曹操は陣営に帰ると、自分から兵たちをねぎらって、軍の中で急いで攻撃の準備をさせて、ふたたび進んで攻撃したよ。曹操は呂布と100日以上もにらみ合いを続けたんだ。
いなごが大発生して、民はひどい飢えに苦しんだよ。呂布の食糧もとうとう尽きたから、お互いに軍を引いて去ったよ。
秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兖州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。
秋の九月、曹操は鄄城に帰ったよ。一方、呂布は乗氏に行ったけど、その県の李進に破られて、東の山陽にとどまったよ。
このとき袁紹は使者を送って曹操に話を持ちかけて、手を組んで仲よくしようとしたよ。曹操はちょうど兗州を失ったばかりで、軍の食糧もなくなっていたから、その話を受け入れようとしたんだ。でも、程昱がそれを止めて、曹操はその意見に従ったよ。
冬の十月、曹操は東阿に着いたよ。
是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。
この年は1斛の穀物が50万銭以上の値になったんだ。人々は飢えに苦しんでお互いに食べあうようになって、新しく採用した役人や兵を辞めさせたよ。
陶謙が亡くなったから、劉備が代わりに後を継いだよ。
二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布復從東緍與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。(註45)
興平二年(195年)、春、曹操は定陶を襲ったよ。済陰太守の呉資は南城にこもって守って、まだ落とせなかったんだ。そこへちょうど呂布がやって来て、曹操を攻めて打ち破ったよ。
夏、呂布の将の薛蘭と李封が鉅野にとどまったよ。曹操はこれを攻めて、呂布は薛蘭を助けに来たけど、薛蘭は敗れて、呂布は逃げちゃった。曹操は薛蘭たちを討ち取ったよ。その後、呂布はふたたび東緍から陳宮と一緒に1万人以上の兵を率いて戦いに来たよ。このとき曹操の兵は少なかったから、伏兵を使って、奇襲を使って攻撃して、大きく打ち破ったよ。
魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其龍車,追至其營而還。
『魏書』によると、このとき兵たちはみんな麦を取りに出ちゃって、陣営に残った兵は1,000人もいなくて、守りも十分ではなかったんだ。そこで曹操は、女性たちに城の上の見張り場所を守らせて、自分の兵をすべて率いて敵を防いだよ。陣の西には大きな堤があって、南には木が茂って薄暗くなっていたんだって。呂布は、そこに伏兵がいるかもと疑って、兵たちと話し合ってこう言ったよ。
「曹操はいろいろなだましを持っているから、伏兵に入らないようにしてね」
そして軍を引いて、南へ10里以上離れた場所に陣を置いたよ。
翌日、呂布はふたたび攻めてきて、曹操は兵を堤の内側に隠して、半分の兵だけを外に出したよ。呂布がさらに進んできたから、曹操は軽い装備の兵に戦いをしかけさせたよ。戦いが始まると、伏せていた兵が一斉に堤の上に出てきて、歩兵と騎兵が一緒に攻めかかって、敵を大きく打ち破ったよ。曹操は敵の龍車(立派な車)を手に入れて、さらに陣まで追いかけたけど、引き返したよ。
布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兖州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,為其衆所殺,兖州平,遂東略陳地。
呂布は夜に逃げ出したよ。曹操はさらに攻めて、定陶を攻め取って、兵を分けてそれぞれの県も平定したよ。呂布は東へ逃げて劉備を頼ったよ。張邈は呂布に従って、その弟の張超に家族を守らせて、雍丘に立てこもらせたよ。
秋の八月、曹操は雍丘を包囲したよ。
冬の十月、天子は曹操を兗州牧(州の長官)に正式に任命したよ。十二月、雍丘は陥落して、張超は自ら命を絶ったんだ。張邈の一族が処刑されたよ。張邈は袁術のもとへ行って、助けを求めたけど、袁術の部下たちに殺されちゃった。
こうして兗州は平定されて、曹操はさらに東の陳の地を攻めていったよ。
是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。
この年、長安が乱れて、天子は東(洛陽)に移ったよ。でも、曹陽で敗れて、黄河を渡って安邑に行ったよ。
天子を迎え入れる
建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。
建安元年(196年)、春の正月、曹操は軍を率いて武平に進んだよ。袁術が任命していた陳国相(国の長官)の袁嗣が降伏したよ。
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
曹操は天子を迎えようとしたけど、将たちの中は疑う人もいたんだ。荀彧と程昱が曹操に強く勧めたから、曹操は曹洪に兵を率いさせて西へ向かわせて、天子を迎えに行かせたよ。でも、衛将軍の董承と、袁術の将の萇奴が険しい場所にこもって防いだから、曹洪は進めなかったんだ。
汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,衆各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,(註46)奉別屯梁。
汝南や潁川では、黄巾の何儀、劉辟、黄邵、何曼たちが、それぞれ数万の兵を持っていたんだ。もともと袁術に従っていたけど、その後は孫堅についたんだって。
二月、曹操は軍を進めてこれらを討ち破って、劉辟や黄邵たちを討ち取ったよ。何儀とその兵たちはみんな降伏したよ。天子は曹操に建徳将軍に任命したよ。
夏の六月、曹操は鎮東将軍に昇進して、費亭侯に封ぜられたよ。
秋の七月、楊奉と韓暹は天子を連れて洛陽に帰ったよ。楊奉は別れて梁にとどまったよ。
獻帝春秋曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。
『献帝春秋』によると、天子が初めて洛陽に着くと、城の西にある、昔の中常侍の趙忠の家に行ったんだ。張楊に命令して宮殿を直して整えさせて、その建物を「揚安殿」と名づけたよ。八月、天子はそこへ移り住んだよ。
太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。(註47)洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。(註48)
曹操はそのまま洛陽に着いて、都を守ったよ。韓暹は逃げちゃった。天子は曹操に節と鉞を仮に与えて、録尚書事も任せたよ。
洛陽はすごく荒れ果てていて、董昭たちは曹操に、都を許に移すように勧めたよ。九月、天子は轘轅関を通って東へ向かって、曹操を大将軍にして、武平侯に封じたよ。天子が西(長安)へ移ってから、朝廷は日々乱れていたけど、このときになって宗廟(祖先の廟)や社稷(国の祭祀)、政治の仕組みが整えられ始めたよ。
宗廟は君主の祖先を祭る建物だよ。社稷は土地の神と五穀の神を祭った建物だよ。宗廟と社稷を整えることは、国家を立て直すということだね。
「封武平侯」の後から、本文中で曹操さんは「公」と呼ばれるよ。
獻帝紀曰:又領司隷校尉。
『献帝紀』によると、曹操はさらに司隷校尉を兼ねたよ。
張璠漢紀曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言於帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠於朝廷,然天道深遠,幸勿多言。」
張璠の『漢紀』によると、前に、天子は曹陽で敗れた後、黄河を渡って東へ行こうとしたよ。すると、侍中で太史令(記録官)の王立がこう言ったよ。
「去年の春から太白(金星)が鎮星(土星)に近づいて、牛斗のあたりでぶつかったよ。さらに天津(銀河)を過ぎて熒惑(火星)も逆に動いて北河にとどまっているんだ。だから、進んではいけないよ」
こういうことがあって天子は北へ黄河を渡るのをやめて、軹関から東へ出ようとしたよ。
さらに王立は、宗正の劉艾にこう言ったよ。
「前に、太白(金星)が天関にとどまって、熒惑(火星)と重なったよ。金と火の星が重なるのは、王朝が変わるしるしなんだ。漢の運命はもう終わって、晋や魏が必ず興るだろうね」
王立はその後も何度も天子にこう言ったよ。
「天命は去ったり来たりするもので、五行もずっと同じではないんだ。火の後を継ぐのは土で、漢を継ぐのは魏だよ。天下を安定させることができるのは、曹の一族で、ただ曹氏に任せるしかないんだ」
これを聞いた曹操は、使者を送って王立にこう伝えたよ。
「あなたは朝廷に忠があるとはわかるけど、天の道理はとても深くて遠いものだから、あまりたくさん言わないでね」
屯田制度の始まり
天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。於是以袁紹為太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。(註49)
天子が東(許)に向かうと、楊奉は梁から出て途中で迎えようとしたけど、間に合わなかったよ。
冬の十月、曹操は楊奉を攻めに行ったよ。楊奉は南へ逃げて袁術を頼ったよ。そこで曹操は楊奉がいた梁の陣を攻め取ったよ。
このとき、袁紹が太尉に任命されたけど、袁紹は自分が曹操の下の位になるのを恥ずかしく思って、これを受けなかったんだ。曹操は強く辞退して、袁紹に大将軍の位をゆずったよ。天子は曹操を司空に任命して、車騎将軍を代行させたよ。
この年、棗祗や韓浩たちの提案を採用して、屯田を始めたよ。
屯田は、国が所有する土地に人を集団で住まわせて農作業に従事させて税を収めさせる制度だよ。農民としてだけではなくて、戦のときには兵として従軍させたよ。
魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀。諸軍並起,無終歲之計,饑則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北,軍人仰食桑椹。袁術在江、淮,取給蒲蠃。民人相食,州里蕭條。公曰:「夫定國之術,在於彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也。」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛。於是州郡例置田官,所在積穀。征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下。
『魏書』によると、このころは戦乱が続いていたから、どこでも食糧が足りなかったんだ。あちこちで軍が立ち上がったけど、一年先までの計画もなくて、食べ物がなくなると略奪して、満腹になると残りを捨てていたんだ。だから人々はばらばらになってさまよって、敵と戦わなくても自然に滅びてしまう者が、数えきれないくらいいたよ。
袁紹が河北にいたとき、兵たちは桑の実を食べていたんだって。袁術が長江や淮河のあたりにいたとき、貝の一種を取って食べていたんだって。とうとう民はお互いに食べあうようになって、その州や郡はすごく荒れ果てたんだ。
曹操はこう言ったよ。
「国を安定させるためには、強い兵とたくさんの食糧があることにかかっているよ。秦の人たちは農業を発展させて天下をまとめて、漢の武帝は屯田をして西域を平定したよ。これらは昔のすぐれたやり方だね」
この年、曹操は民を集めて許のもとで屯田をさせて、100万斛の穀物を収穫したよ。そこで州や郡ごとに屯田官(農業を管理する役人)を置いて、穀物を蓄えたよ。こうして、四方へ戦いに出るときにも、食糧を運ぶ苦労がなくなって、こうしてたくさんの敵を討ち破って、天下を平定できたよ。
劉備をどうする?
呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得衆心,終不為人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」
呂布が劉備を攻めて、下邳を獲ったよ。劉備が逃げて来て、曹操を頼ったよ。程昱は曹操に説得してこう言ったよ。
「劉備にはすぐれた才能があって、たくさんの人の心をつかんでいるよ。彼は決して人の下につくような人ではないから、今のうちに対処したほうがいいよ」
でも、曹操はこう言ったよ。
「今は英雄たちを集める大事な時だよ。彼一人を殺して天下の人の心を失うわけにはいかないよ」
張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其衆。
張済は関中から南陽に逃げたよ。張済が亡くなると、おいの張繡が兵を引き継いだよ。
宛城の戦い
二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。(註50)(註51)
建安二年(197年)、春の正月、曹操は宛に着いたよ。張繡はいったん降伏したけど、すぐにそれを後悔してふたたび反乱を起こしたんだ。曹操は戦ったけど、軍は敗れて、流れ矢に当たって傷ついちゃった、長子の曹昂と、曹操の弟の子の曹安民が戦いの中で命を落としたんだ。
魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。
『魏書』によると、曹操が乗っていた馬の名前は「絶影」だよ。この馬も流れ矢に当たって、曹操は頬と足に傷を負って、右腕にも矢が当たったんだ。
世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。
『世語』によると、曹昂は馬に乗れなかったから、馬を曹操にあげたよ。曹操は無事だったけど、曹昂は亡くなったんだ。
公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。(註52)
曹操はそこで兵を引いて舞陰に帰ったよ。すると張繡は騎兵を率いて追いかけてきたけど、曹操はこれを撃ち破ったよ。張繡ちょうしゅう)は穰に逃げて、劉表と手を結んだよ。
曹操は将たちにこう言ったよ。
「私は張繡たちを降伏させたけど、人質を取らなかったから、こんな状況になっちゃった。どうして敗れたのか、もうわかっているよ。みんな、よく見ていてね、これから先は、もう同じ失敗はしないよ」
そして、そのまま許に帰ったよ。
世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。
『世語』によると、昔の決まりでは、三公が兵を率いて朝廷で天子に会うときは、兵はみんな戟を交差させて首の前に向ける形で進むことになっていたんだって。前に、曹操は張繡を討つために出発する前、天子に会いに行ったとき、この古い決まりがちょうど復活したばかりだったよ。曹操はこのことがあってから、二度と朝廷に出て天子に会わなくなったんだ。
袁術が皇帝を名乗る
袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,為布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。
袁術は淮南で皇帝を名乗ろうとして、そのことを呂布に知らせるために使者を送ったよ。でも、呂布はその使者を捕まえて、使者が持っていた手紙を天子に上書したんだ。すると袁術は怒って呂布を攻めたけど、逆に呂布に打ち破られたよ。
秋の九月、袁術は陳に攻め入ったよ。曹操は彼を討つために東へ軍を進めたよ。袁術は曹操が自ら来ると聞いて、軍を捨てて逃げ出して、将の橋蕤、李豊、梁綱、楽就を残したよ。曹操が着くと、橋蕤たちを破って、彼らをすべて討ち取ったよ。袁術は淮河を渡って逃げちゃった。曹操は許に帰ったよ。
張繍の反逆
公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。(註53)表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。
曹操が舞陰から戻ると、南陽と章陵のいくつかの県が反乱を起こして張繡に従ったんだ。曹操は曹洪を送って攻めさせたけど、うまくいかなかくて、葉に戻って陣を置いたよ。その後も何度も張繡と劉表に攻められたんだ。
冬の十一月、曹操は自ら南へ軍を進めて、宛に着いたよ。劉表の将の鄧済が湖陽をおさえていたから、曹操はこれを攻め落として、鄧済を生け捕りにして、湖陽は降伏したよ。さらに舞陰を攻めて、これも落としたよ。
魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。
『魏書』によると、淯水のほとりに来て、戦いで亡くなった将や兵たちをまつったよ。曹操は声をあげて泣いて、涙を流したの。その姿を見た人たちはみんな心を打たれて、すごく悲しんだよ。
三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。(註54)
建安三年(198年)、春の正月、曹操は許に帰ったよ。このとき初めて軍師祭酒という官職を置いたよ。三月、曹操は穰で張繡を包囲したよ。
夏の五月、劉表は兵を送って張繡を助けて、曹操の軍の後ろを断とうとしたんだ。
軍師祭酒は、軍師の長?
獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。
『献帝春秋』によると、袁紹の軍から逃げてきた兵が曹操にこう伝えたよ。
「田豊が袁紹に、早く許を襲うべきだと勧めているよ。もし天を手に入れて諸侯に命令したら、天下は思いのままに治められるだろうね」
これを聞いた曹操は、張繡への包囲を解いたんだ。
公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破繡必矣。」到安衆,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」
曹操は引き返そうとしたけど、張繡の軍が追ってきたから、思うように進めなかったんだ。それでも陣営を少しずつ前へ進めていったよ。曹操は荀彧に手紙を送ってこう言ったよ。
「敵が私を追ってきて、数里ずつしか進めないんだ。でも、私には作戦があるよ。安衆に着けば、必ず張繡を打ち破れるだろうね」
安衆に着くと、張繡は劉表の兵と合流して、険しい場所で守っていたよ。曹操の軍は、前と後ろの両方から敵に攻められたんだ。そこで曹操は、夜のうちに険しい地形を掘って抜け道を作って、荷物をすべて先に通して、奇襲のための兵を用意したよ。夜が明けると、敵は曹操が逃げたと思い込んで、全軍で追いかけてきたよ。そのとき曹操は奇襲の兵を放って、歩兵と騎兵で敵をはさみ撃ちにして、大きく打ち破ったよ。
秋の七月、曹操は許に帰ったよ。荀彧が曹操にこう尋ねたよ。
「前に、必ず敵に勝てると考えていたけど、どうして?」
曹操はこう答えたよ。
「敵は帰ろうとする私たちの軍をさえぎって、逃げ場のない場所で戦わせようとしたよ。だからこそ、必ず勝てるとわかっていたんだ」
下邳の戦い
呂布復為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。
呂布はふたたび袁術の使者として、高順に劉備を攻めさせたよ。曹操は夏侯惇を送って助けさせたけど、うまくいかなくて、劉備は高順に敗れちゃった。
九月、曹操は呂布を討つために東へ軍を進めたよ。
冬の十月、彭城を攻めて滅ぼして、相の侯諧を捕らえたよ。その後、下邳に着くと、呂布は自ら騎兵を率いて迎え撃ったんだ。でも、曹操はこれを大きく打ち破って、呂布の勇将の成廉を捕らえたよ。曹操はそのまま追撃して城の下まで追い詰めたよ。呂布は怖くなって降伏しようとしたけど、陳宮たちがこれを止めて、袁術に助けを求めて、さらに呂布に出て戦うように勧めたんだ。でも呂布は戦ってもまた敗れて、やっぱり城に戻ってしっかり守るしかなくなったよ。曹操はこれを攻めてもなかなか落とせなかったんだ。
時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌狶各聚衆。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附于海以委焉,分琅邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。
このとき曹操は戦いを続けていたから、兵たちは疲れきっていて、引き返そうとしたよ。でも、荀攸と郭嘉の作戦を使って、泗水と沂水の水を城に水を流し込んだよ。
1ヶ月くらいで、呂布の将の宋憲や魏続たちが陳宮を捕らえて、城をあげて降伏したよ。そして呂布と陳宮を生け捕りにして、二人とも処刑されたよ。
その後、太山の出身の臧覇、孫観、呉敦、尹礼、昌狶たちはそれぞれ兵を集めたよ。呂布が劉備を破ったとき、臧覇たちはみんな呂布に従っていたんだ。でも、呂布が敗れた後、曹操は彼らを捕らえたけど、手厚く迎え入れたよ。そして青州と徐州の海に近い地域を彼らに任せて、さらに琅邪、東海、北海の地を分けて、城陽、利城、昌慮という郡を新しく置いたよ。
曹操の求める人
初,公為兖州,以東平畢諶為別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕。旣出,遂亡歸。及布破,諶生得,衆為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以為魯相。(註55)
前に、曹操が兗州牧(州の長官)だったとき、東平の出身の畢諶を別駕(補佐官)に任命したよ。張邈が反乱を起こすと、張邈は畢諶の母や弟、妻や子供たちを人質に取ったんだ。曹操は畢諶に謝って帰ることを許して、こう言ったよ。
「あなたの母はあの地にいるから、行くといいよ」
畢諶は深く頭を下げて、曹操に「決して裏切らないよ」と誓ったよ。曹操はその心をほめて、涙を流したの。
でも、畢諶は外に出ると、そのまま逃げて帰っちゃった。そして呂布が敗れた後、畢諶は生け捕りにされたよ。人々は彼が殺されると心配したけど、曹操はこう言ったよ。
「親に孝行な人は、主君にも忠義を尽くすものだよ! 私が求めているのはそのような人だよ」
こうして畢諶を魯国相(国の長官)に任命したよ。
魏書曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自為之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,為庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以為公外託公義,內實離異,深懷怨望。
『魏書』によると、袁紹は、昔の太尉の楊彪、大長秋の梁紹、少府の孔融と仲が悪くて、曹操に別の罪を理由にして彼らを処刑させようとしたんだ。でも、曹操はこう言ったよ。
「今の天下は、土が崩れて瓦が割れるみたいに乱れていて、たくさん英雄たちが次々と立ち上がっているよ。君主を助ける者たちも、みんな心の中に不満を抱えていて、それぞれ自分の考えを持っているよ。これは上と下がお互いに疑い合っている時なんだ。たとえ疑いがなくても疑われることを恐れているのに、もし誰かを処罰すれば、誰が自分も危ないと思わないの? さらに、そもそも庶民から立ち上がって、人々から見下されたり苦しめられたりしたら、恨みはどれくらい大きくなるの? 高祖(劉邦)が雍歯の怨みを許して、民の心を安定させたよね。このことをどうして忘れられるの?」
袁紹はこれを見て、曹操が表向きでは公正なふりをしているけど、自分と心が離れているのだと思って、深く恨みを抱くようになったんだ。
臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。
裴松之の見解としては、楊彪も昔に曹操に苦しめられて、もうちょっとで命を落とすところだったんだ。孔融も、とうとう逃げられなくて、曹操に処刑されたよね。つまり、「まず自分で言ったことをして、その後で人を従わせる」ということができていると言えるの? 知ることが難しいのではなくて、それをすることこそが難しいとは、まさにそのとおりだね。
袁紹との因縁
四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率衆降,封為列侯,還軍敖倉。以魏种為河內太守,屬以河北事。
建安四年(199年)、春の二月、曹操は昌邑に帰ったよ。張楊の将の楊醜が張楊を殺して、さらに眭固が楊醜を殺しちゃった。眭固は兵を率いて袁紹に従って、射犬にとどまったよ。
夏の四月、曹操は軍を進めて黄河のほとりに着いて、史渙と曹仁に黄河を渡らせて、眭固を攻めさせたよ。眭固は、張楊の長史の薛洪と河内太守の繆尚に守りを任せて、自分は兵を率いて北へ向かって、袁紹に助けを求めに行ったよ。でも、犬城で史渙と曹仁の軍と出会ったんだ。戦いになると、曹操は眭固の軍を大きく打ち破って、眭固を討ち取ったよ。曹操はそのまま黄河を渡って射犬を包囲したよ。薛洪と繆尚は兵を率いて降伏したから、列侯に封ぜられたよ。その後、曹操は軍を敖倉に引き上げて、魏种を河内太守に任命して、河北のことを任せたよ。
初,公舉种孝廉。兖州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走越、北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。
前に、曹操は魏种を孝廉に推挙したよ。兗州で反乱が起こると、曹操はこう言ったよ。
「魏种だけはきっと私を見捨てないだろうね」
でも、魏种が逃げ出したと聞くと、曹操は怒ってこう言ったよ。
「あなたが南の越や、北の胡に逃げない限り、私はあなたを置いていかない(探し出してやる)!」
射犬を攻め落とした後、魏种を生け捕りにしたよ。曹操はこう言ったよ。
「この人の才能は本当にすばらしいね!」
そして縄を解いて、そのまま彼を使ったよ。
是時袁紹旣并公孫瓚,兼四州之地,衆十餘萬,將進軍攻許,諸將以為不可敵,公曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也。」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率衆降,封列侯。十二月,公軍官渡。
このとき袁紹はすでに公孫瓚を滅ぼして、4つの州(青州・冀州・幽州・并州)を持っていて、10万以上の兵を率いていたよ。そして許を攻めようとしていたの。
曹操の将たちは「とても敵わない」と思っていたけど、曹操はこう言ったよ。
「私は袁紹の性格をよく知っているよ。志は大きいけど知恵は小さくて、見た目は強そうだけど勇気がないし、嫉妬深くて威厳は少ないんだ。兵はたくさんいるけど、使い方がはっきりしていないし、将たちは威張っていて、命令がぐちゃぐちゃなんだ。領土は広くて、食糧も豊かだけど、それは結局、私たちに捧げてくれているようなものだね」
秋の八月、曹操は軍を進めて黎陽に入って、臧覇たちを青州に向かわせて、斉、北海、東安を攻めさせたよ。それに、于禁たちを黄河のほとりにとどめたよ。九月、曹操は許に戻って、兵を分けて官渡をを守らせたよ。
冬の十一月、張繡が兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。十二月、曹操は軍を率いて官渡に進んだよ。
また劉備をどうする?
袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。(註56)(註57)(註58)
袁術は陳で敗れてから、だんだん苦しくなっていったんだ。袁譚は青州から使者を送って、袁術を迎えようとしたよ。袁術が下邳を通って北へ行こうとしたから、曹操は劉備と朱霊を送っていく手をふさがせたよ。ちょうどそのとき、袁術は病気で亡くなったよ。
程昱と郭嘉は、曹操が劉備を送ったと聞いて、こう言ったよ。
「劉備を自由にしてはダメ」
曹操はそれを聞いて後悔して、劉備を追いかけたけど、間に合わなかったんだ。劉備はまだ東へ向かう前から、こっそりと董承たちと反乱の計画を立てていたよ。下邳に着くと、徐州刺史の車冑を殺して、兵をあげて沛にとどまったんだ。曹操は劉岱と王忠を送って攻めたけど、打ち破れなかったんだ。
獻帝春秋曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」
『献帝春秋』によると、劉備は劉岱たちにこう言ったよ。
「あなたみたいな人を100人集めても私には勝てないよ! 曹操が来たら、どうかわからないけどね!」
魏武故事曰:岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯。
『魏武故事』によると、劉岱は、字は公山で、沛国の出身だよ。司空の長史として戦いに従って、功績をあげて列侯に封ぜられたよ。
魏略曰:王忠,扶風人,少為亭長。三輔亂,忠饑乏噉人,隨輩南向武關。值婁子伯為荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等仵逆擊之,奪其兵,聚衆千餘人以歸公。拜忠中郎將,從征討。五官將知忠甞噉人,因從駕出行,令俳取冢間髑髏繫著忠馬鞍,以為歡笑。
『魏略』によると、王忠は扶風の出身だよ。若いころに亭長(警察の長)になったよ。三輔(長安の周り)が乱れると、王忠は食べ物がなくなって、人を食べちゃったことがあったんだって。そして仲間たちと一緒に南へ向かって、武関に行こうとしたよ。
その途中、婁子伯(婁圭)が荊州から北の人たちを迎えているのに出会ったよ。でも、王忠は行く気はなかったから、仲間を率いて攻撃して、彼から兵を奪って、1,000人以上を集めて曹操のもとに行ったよ。
王忠は中郎将に任命されて、さまざまな戦いに従ったよ。でも、五官将(曹丕)は、王忠が過去に人を食べたことを知っていて、芸人に命令して墓の中から人の頭蓋骨を取ってこさせて、それを王忠の馬の鞍に結びつけさせて、笑いものにしたんだ。
曹丕さんの性格悪いエピソード。
廬江太守劉勳率衆降,封為列侯。
廬江太守(郡の長官)の劉勲は兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。