正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その2

正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(そう) について書かれているよ!

本文中で(そう)(そう)は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「(そう)(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、青洲兵を手に入れてから官渡の戦いの直前までだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

袁術を倒す

本文

袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。

(えん)(じゅつ)(えん)(しょう)は仲たがいしていたんだ。(えん)(じゅつ)(こう)(そん)(さん)に援軍を求めたよ。(こう)(そん)(さん)(りゅう)()(こう)(とう)に、(ぜん)(けい)(へい)(げん)に、(とう)(けん)(はっ)(かん)に駐屯させて、(えん)(しょう)を追い詰めたんだ。(そう)(そう)(えん)(しょう)と一緒に戦って、敵をみんな破ったんだ。

「武帝紀」での(りゅう)()さん初登場。

本文

四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。

初平4年(193年)、春、(そう)(そう)の軍は(けん)(じょう)にいたよ。(けい)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(ひょう)(えん)(じゅつ)の補給路を断ち切ったんだ。そこで(えん)(じゅつ)は軍を(ちん)(りゅう)に進めて、(ふう)(きゅう)に駐屯して、さらに(こく)(さん)賊や()()()の支援を受けたんだ。(えん)(じゅつ)(りゅう)(しょう)(きょう)(てい)に駐屯させたんだけど、(そう)(そう)(りゅう)(しょう)を攻めたから、(えん)(じゅつ)は救援に向かったよ。戦って、(そう)(そう)は大勝利したよ!
(えん)(じゅつ)は退却して(ふう)(きゅう)を守っていたから、(そう)(そう)は彼らを包囲したよ。包囲が完了する前に、(えん)(じゅつ)(じょう)(ゆう)に逃げたよ。(そう)(そう)(えん)(じゅつ)を追撃して(たい)寿(じゅ)まで追いついたよ。そして、運河を決壊させて城を水浸しにしたんだ。(えん)(じゅつ)はさらに(ねい)(りょう)に逃げたけど、(そう)(そう)もまた追撃して、最終的には(えん)(じゅつ)(きゅう)(こう)まで逃げたよ。夏になって、(そう)(そう)は軍を(てい)(とう)に帰したよ。

本文

下邳闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。

()()(けっ)(せん)が数千人を集めて、自分を「天子」と称しちゃった。その後、彼は(じょ)(しゅう)(ぼく)(とう)(けん)と一緒に兵を挙げて、(たい)(ざん)()()を占拠して、(じん)(じょう)を奪ったよ。秋に、(そう)(そう)(とう)(けん)を討伐して、十数の城を制圧したけど、(とう)(けん)は城の守りを固めて、出て来なかったんだ。

本文

是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東。

この年、(そん)(さく)(えん)(じゅつ)の命令で、長江を渡って、数年間で(こう)(とう)を支配するようになったよ。

徐州征伐

本文

興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。(註40)(註41)

(こう)(へい)元年(194年)、春、(そう)(そう)(じょ)州から帰ってきたよ。
それより前に、(そう)(そう)の父の(そう)(すう)が官職から離れて(しょう)に帰って、(とう)(たく)の乱が起こった時には(ろう)()国に避難していたんだ。でも、(とう)(けん)によって(そう)(すう)が殺されちゃったから、(そう)(そう)は復讐のために東の(じょ)州へ遠征することを志したよ。

(註40)

世語曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以為劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定兾州,劭時已死。

()()』によると、(そう)(すう)(たい)(ざん)()にいたんだって。(そう)(そう)(たい)(ざん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(おう)(しょう)に命令して、(そう)(すう)の家族を(えん)州に送るように命令したよ。でも、(おう)(しょう)の兵がまだ着く前に、(とう)(けん)がこっそり数千の騎兵を送って(そう)(すう)の家を襲撃しちゃった。(そう)(すう)の家族は、(おう)(しょう)が迎えに来ると思っていたから、用心してなかったんだ。
(とう)(けん)の兵が来た時、(そう)(そう)の弟の(そう)(とく)が門の中で殺されちゃった。(そう)(すう)は怖くなって、後ろの垣根を抜けて、まずは側室を脱出させて逃がそうとしたんだ。でも、側室は太っていたから、なかなか出られなかったんだって。(そう)(すう)は便所に逃げ込んで隠れたけど、側室と一緒に殺されちゃって、家族全員が死んじゃった。
(おう)(しょう)は恐れて、官職を捨てて(えん)(しょう)のもとに逃げたよ。後に(そう)(そう)()州を征服すると、(おう)(しょう)はすでに亡くなっていたんだ。

(註41)

韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。

()(よう)の『()(しょ)』によると、(そう)(そう)(そう)(すう)を迎えるために、100両以上の補給物資を持っていたんだって。(とう)(けん)()()(ちょう)(がい)を送って、200人の騎兵で(そう)(すう)を護衛したよ。(ちょう)(がい)は、(たい)(ざん)()()の間で(そう)(すう)を襲撃して、彼を殺して財物を奪って(わい)(なん)に逃げちゃった。(そう)(そう)はこれを(とう)(けん)のせいだと考えて、彼を攻撃したよ。

本文

夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。(註42)

夏、(そう)(そう)(じゅん)(いく)(てい)(いく)(けん)(じょう)を守らせて、(とう)(けん)をふたたび攻めたよ。5つの城を奪って、そして(とう)(かい)まで領土を拡げたよ。その後、(たん)を通ると、(とう)(けん)の将の(そう)(ひょう)(りゅう)()(たん)の東に駐屯して、(そう)(そう)を待ち受けていたよ。(そう)(そう)は彼らを撃破して、(じょう)()を攻略したよ。彼の軍は、通過した場所で、たくさんの戦闘と破壊を行ったんだ。

(註42)

孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣。

(そん)(せい)によると、罪を罰して、民を慰めることは、古代の正しい規範だよ。でも、(とう)(けん)に罪があるとしても、関係のない人たちを傷つけることは、過ちだよね。

兗州での呂布との戦い

本文

會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。(註43)

(ちょう)(ばく)(ちん)(きゅう)が反乱して(りょ)()を迎えて入れて、(えん)州の郡や県はみんな(りょ)()についちゃった。(じゅん)(いく)(てい)(いく)(けん)(じょう)を守って、(はん)県と(とう)()県を固く守っていたよ。(そう)(そう)(じょ)州から兵を引き返したよ。(りょ)()は、(けん)(じょう)を攻撃しても落とせなくて、西の(ぼく)(よう)に駐屯したよ。(そう)(そう)はこう言ったよ。
(りょ)()は一度、1つの州を手に入れても、(とう)(へい)に拠点を築けていないし、(こう)()(たい)(ざん)の道を断って険しい地形に駐屯しても、私たちを窮地に追い込めないで、(ぼく)(よう)に陣営を置いたんだ。彼が何も成し遂げないことはわかっているよ」
そして、(そう)(そう)は進軍して(りょ)()を攻めたよ。(りょ)()は兵を出撃させて、最初に騎兵で青州兵を襲ったよ。青州兵は負けて逃げちゃった。(そう)(そう)の陣は混乱しちゃって、(そう)(そう)は馬で火の中を突っ走ったけど、馬から落ちて、左手の掌をやけどしちゃったんだ。そこで、()()(ろう)()(そう)(そう)を馬に乗せて救助して、一緒に去ったんだよ。

(註43)

袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反閒,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。

(えん)()の『(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)(そう)(ぼく)(よう)を包囲したよ。(ぼく)(よう)の豪族の(でん)()が反乱を起こしたから、(そう)(そう)は城に入ることができたよ。彼は東門を燃やして反乱の意思がないことを示したんだ。でも、戦いが始まると、(そう)(そう)の軍は敗れちゃった。
(りょ)()の騎兵が(そう)(そう)を捕らえたけど、(そう)(そう)を知らなかったから、「(そう)(そう)はどこにいるの?」と尋ねたんだ。(そう)(そう)は「黄色い馬に乗って逃げている人が彼だよ」と答えたよ。すると、騎兵は(そう)(そう)を解放して、黄色い馬を追いかけたよ。そのとき、東門の火がまだ燃えていたから、(そう)(そう)は火をかいくぐって脱出したよ。

本文

未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。

(そう)(そう)たちが陣営に着く前、将たちは(そう)(そう)が見当たらないからみんな怖がっていたの。(そう)(そう)は陣営に帰ると、自ら兵を鼓舞して、急いで攻撃の準備をさせて、ふたたび攻撃を仕掛けたよ。(そう)(そう)(りょ)()の軍は100日以上も向き合ったよ。
ある時、イナゴの大群が発生して、民は大飢餓に陥っちゃった。(りょ)()の兵糧も尽きたから、結局、どちらの軍も撤退したよ。

本文

秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兖州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。

秋の九月、(そう)(そう)(けん)(じょう)に帰ったよ。一方で、(りょ)()(じょう)()に着いたけど、その県の()(しん)に撃破されて、東の(さん)(よう)に駐屯したよ。この時、(えん)(しょう)は使者を送って(そう)(そう)と同盟を望んだの。(そう)(そう)(えん)州を失ったばかりで軍の食糧も尽きていたから、同盟を受け入れようと思ったんだ。でも、(てい)(いく)(そう)(そう)を止めて、(そう)(そう)は彼の意見に従ったんだ。
冬の十月、(そう)(そう)(とう)()に着いたよ。

本文

是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。

この年は穀物が一斛50万以上の値になったんだ。人々は飢えに苦しんでお互いに食べあうようになっちゃって、新しく採用した役人や兵を解雇することになったよ。そして、(とう)(けん)は亡くなったから、(りゅう)()が後を継いだよ。

本文

二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布復從東緍與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。(註44)

興平2年(195年)、春、(そう)(そう)(てい)(とう)を襲撃したよ。(さい)(いん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の()()が南城を守って、まだ落とせなかったんだ。そこに(りょ)()がやってきたけど、(そう)(そう)(りょ)()を撃ち破ったよ。夏、(りょ)()の将の(せつ)(らん)()(ほう)(きょ)()に駐屯していたけど、(そう)(そう)は攻撃したよ。(りょ)()(せつ)(らん)を助けるために駆けつけたけど、(せつ)(らん)たちは負けて、(りょ)()は逃げちゃったから、(そう)(そう)(せつ)(らん)たちを斬ったよ。
その後、(りょ)()はふたたび(とう)(びん)から(ちん)(きゅう)と1万人以上の兵を率いて攻めて来たけど、(そう)(そう)の兵は少なかったから、伏兵を使って、奇襲で攻撃して、大勝利したよ。

(註44)

魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其龍車,追至其營而還。

()(しょ)』によると、この時期、兵はみんな麦を採取していたから、残っている兵は1,000人にも満たなくて、陣営の守りは十分ではなかったんだ。(そう)(そう)は女性たちに城壁を守らせて、兵を率いて敵に立ち向かったよ。陣営の西には大きな堤防があって、南には木々が茂っていたんだって。(りょ)()は、伏兵がいるかもしれないと疑って、兵たちと話し合ってこう言ったよ。
(そう)(そう)はいろいろな策略を持っているから、伏兵に入らないように」
そして、軍を南に十数里退かせたよ。
次の日、(そう)(そう)は敵がまた攻撃してくると予測して、兵を堤防の裏に隠して、半分の兵を堤防の外に出したよ。(りょ)()が進軍してきたから、(そう)(そう)は軽装の兵を戦わせたよ。戦闘が始まると、隠れていた兵たちは全員が堤防を駆け上って、歩兵と騎兵が一斉に進撃して打ち破ったよ。敵の龍車を手に入れて、彼らを追撃してその陣地に戻ったよ。

本文

布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兖州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,為其衆所殺,兖州平,遂東略陳地。

(りょ)()は夜に逃げ出して、(そう)(そう)はふたたび攻めて、(てい)(とう)を攻略して、兵をそれぞれの県に置いたよ。(りょ)()(りゅう)()を頼って東に逃げて、(ちょう)(ばく)(りょ)()に同行して、彼の弟の(ちょう)(ちょう)に家族を守らせて、(よう)(きゅう)に向かったよ。
秋の八月、(そう)(そう)(よう)(きゅう)を包囲したよ。
冬の十月、天子が(そう)(そう)(えん)(しゅう)(ぼく)に任命したよ。十二月、(よう)(きゅう)が陥落して、(ちょう)(ちょう)は自ら命を絶って、(ちょう)(ばく)の一族は処刑されたんだ。(ちょう)(ばく)(えん)(じゅつ)のところに救援を求めに行ったけど、(えん)(じゅつ)の軍に殺されちゃった。こうして、(えん)州は平定されて、その後、陳地を東に進軍したよ。

本文

是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。

この年には、(ちょう)(あん)が混乱して、天子は東((らく)(よう))に移動したよ。(そう)(よう)で敗れて、黄河を渡って(あん)(ゆう)に避難したよ。

天子を迎え入れる

本文

建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。

(けん)(あん)元年(196年)、春の正月、(そう)(そう)の郡が()(へい)に着いたよ。(えん)(じゅつ)が置いた(ちん)(こく)(しょう)(えん)()が降伏したよ。

本文

太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。

(そう)(そう)は天子を迎えることを考えたけど、将たちの中は疑問を持つ人がいたよ。(じゅん)(いく)(てい)(いく)(そう)(そう)を説得して、(そう)(こう)に兵を率いて西へ向かわせたよ。一方で、(えい)(しょう)(ぐん)(とう)(しょう)(えん)(じゅつ)の将の(しょう)()は組んで要所を守って、(そう)(こう)を進軍させないようにしたよ。

本文

汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,衆各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,(註45)奉別屯梁。

(じょ)(なん)(えい)(せん)には、黄巾賊の()()(りゅう)(へき)(こう)(しょう)()(まん)たちがいて、それぞれの軍勢は数万だったんだ。彼らははじめは(えん)(じゅつ)に従っていたけど、後に(そん)(けん)についたよ。
二月、(そう)(そう)は進軍して彼らを倒したよ。(りゅう)(へき)(こう)(しょう)たちを斬って、()()とその部下たちは降伏したんだよ。天子は(そう)(そう)(けん)(とく)(しょう)(ぐん)に任命したよ。
夏の六月、(そう)(そう)(ちん)(とう)(しょう)(ぐん)に任命されて、()(てい)(こう)に封ぜられたよ。
秋の七月、(よう)(ほう)(かん)(せん)が天子を(らく)(よう)に送り返して、(よう)(ほう)(りょう)に留まったよ。

(註45)

獻帝春秋曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、天子が(らく)(よう)に着いた当初、城の西側にある昔の(ちゅう)(じょう)()(ちょう)(ちゅう)の家に行ったんだ。(ちょう)(よう)によって宮殿の修復が行われて、その宮殿を揚安殿と名付けたよ。八月、天子はそこに移住したんだ。

本文

太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。(註46)洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。(註47)

(そう)(そう)はそのまま(らく)(よう)に着いて、都を守ったよ。(かん)(せん)は逃げちゃった。天子は(そう)(そう)に節と鉞を与えて、(ろく)(しょう)(しょ)()(天子の側近事務)を任せることにしたよ。(らく)(よう)は荒れ果てていて、(とう)(しょう)たちは(そう)(そう)(きょ)を都にすることを勧めたよ。九月、天子の車は(かん)(えん)(かん)へ出発して東へ向かって、(そう)(そう)(だい)(しょう)(ぐん)に任命して、()(へい)(こう)に封じたよ。天子が西へ移ってから、朝廷は混乱の日々を送っていたけど、この時期に(そう)(びょう)(しゃ)(しょく)制度が整備されることになったよ。

宗廟は君主の祖先を祭る建物だよ。社稷は土地の神と五穀の神を祭った建物だよ。宗廟と社稷を整えることは、国家を立て直すということだね。

(註46)

獻帝紀曰:又領司隷校尉。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)(そう)はさらに()(れい)(こう)()(都近郊の監察や治安維持)を兼任したよ。

(註47)

張璠漢紀曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言於帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠於朝廷,然天道深遠,幸勿多言。」

(ちょう)(はん)の『(かん)()』によると、前に、天子が(そう)(よう)で敗れちゃって、黄河を渡って東へ行こうとしたの。()(ちゅう)(たい)()(れい)(記録官)である(おう)(りつ)がこう言ったよ。
「去年の春から金星が牛斗という星座をかすめたあと、土星に背いて、天津(銀河)を過ぎたよ。火星が北河を逆行するから、そこを通るのは良くないよ」
だから、天子は北へ渡らないで、()(かん)から東へ出ることにしたの。(おう)(りつ)(そう)(せい)(りゅう)(がい)にもこう言ったんだ。
「前に、金星が天関という星座にとどまって、火星と合流したよ。金と火が交わることは、変革の兆しだよ。(かん)の祝福は終わって、(しん)()の地に興隆が必ずあると思うの」
(おう)(りつ)は帝に何度も言ったよ。
「天命は移り変わるし、五行はいつも栄えているわけではないよ。火の代わりに土が来るかも。(かん)の後継者は()で、国を安定できるのは(そう)()だけだよ」
(そう)(そう)はこれを聞いて、使者を(おう)(りつ)に送ってこう伝えたよ。
「あなたは朝廷に忠があるとわかるけど、天道は計り知れないから、あまり言いすぎないでね」

屯田制度の始まり

本文

天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。於是以袁紹為太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。(註48)

天子が東に向かった時、(よう)(ほう)(りょう)から向かったんだけど、間に合わなかったんだって。
冬の十月、(そう)(そう)(よう)(ほう)を攻めたよ。(よう)(ほう)は南にいる(えん)(じゅつ)のもとに逃げて、(そう)(そう)はその後、(よう)(ほう)がいた(りょう)の拠点を攻略したよ。そして、(えん)(しょう)(たい)()に任命されたよ。(えん)(しょう)は、自分の位が(そう)(そう)の下だから恥ずかしくて、受け取ろうとしなかったんだ。(そう)(そう)は辞退して、(えん)(しょう)(だい)(しょう)(ぐん)の位を譲ったよ。天子は、(そう)(そう)()(くう)にして、(しゃ)()(しょう)(ぐん)にも任命したんだ。この年には、(そう)()(かん)(こう)たちの提案で、屯田制度が始められたの。

屯田は、国が所有する土地に人を集団で住まわせて農作業に従事させて税を収めさせる制度だよ。農民としてだけではなくて、戦のときには兵として従軍させたよ。

(註48)

魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀。諸軍並起,無終歲之計,饑則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北,軍人仰食桑椹。袁術在江、淮,取給蒲蠃。民人相食,州里蕭條。公曰:「夫定國之術,在於彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也。」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛。於是州郡例置田官,所在積穀。征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下。

()(しょ)』によると、荒れ果てた時代には、いつも食料不足に苦しんでいたんだって。軍は次々と起こるのに、長期間の計画を持っていなくて、食糧が足りない時には略奪をして、食糧が十分な時には余った食糧を捨てちゃって、軍はばらばらになっちゃって、敵の攻撃に勝てなくなることもなく自滅した人が数えきれないくらいいたんだって。(えん)(しょう)が河北にいたとき、彼の兵たちは桑の実を食べていたんだって。(えん)(じゅつ)は長江や淮水にいたとき、ハマグリの一種を取って食べていたんだって。民たちはお互いに食べあうようになっちゃって、その州や郡はとても荒れ果てちゃった。
(そう)(そう)はこう言ったよ。
「国を安定させる方法は、強い兵とたくさんの食糧があることにかかっているよ。(しん)の人たちは、急いで農業を発展させて、天下を統一したよ。(かん)の武帝((りゅう)(てつ))は、屯田をして西域を平定させたよ。これらは、昔の良いお手本だよね」
この年、民を募って(きょ)の下で屯田をさせて、100万斛の穀物を手に入れたよ。それから、州や郡に田地の役人を置いて、穀物を蓄えたんだ。各地に出征するのに食糧を運ぶ手間を省いて、敵を討伐して、天下を閉廷できたんだよ。

劉備を…どうする?

本文

呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得衆心,終不為人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」

(りょ)()(りゅう)()を襲撃して、()()を奪っちゃった。(りゅう)()が逃げて来たよ。(てい)(いく)(そう)(そう)にこう言ったんだ。
(りゅう)()は優れた才能があって、民の心をつかんでいるの。彼は他人に従うことはないから、早めに排除するべきだよ」
でも、(そう)(そう)はこう答えたよ。
「今こそ英雄を集める時だよね。彼を殺して天下の人たちの心を失うことはできないよ」

本文

張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其衆。

(ちょう)(せい)(かん)(ちゅう)から(なん)(よう)へ逃げちゃった。(ちょう)(せい)が亡くなると、彼の子の(ちょう)(しゅう)が兵を率いたよ。

宛城の戦い

本文

二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。(註49)

建安2年(197年)、春の正月、(そう)(そう)(えん)に着いたよ。(ちょう)(しゅう)が降伏したけど、彼は後悔して、ふたたび反逆したんだ。(そう)(そう)は戦ったけど軍は負けちゃった。流れ矢に当たっちゃって、長子の(そう)(こう)と、(そう)(そう)の弟の子の(そう)(あん)(みん)が亡くなったんだ。

(註49)

魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。

()(しょ)』によると、(そう)(そう)が乗っていた馬の名前は「(ぜつ)(えい)」だよ。この馬も流れ矢に当たっちゃって、(そう)(そう)は頬と足に傷を負って、右腕にも矢が当たったんだ。

(註50)

世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。

()()』によると、(そう)(こう)は馬に乗れなかったから、(そう)(そう)は馬を(そう)(こう)に譲って、(そう)(そう)は無事だったけど、(そう)(こう)は残念ながら亡くなっちゃった。

本文

公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。(註51)

(そう)(そう)は兵を引いて()(いん)に帰ったよ。すると、(ちょう)(しゅう)の将が騎兵を率いて襲ってきたけど、(そう)(そう)は彼らを撃破したよ。(ちょう)(しゅう)(じょう)に逃げて、(りゅう)(ひょう)と合流したよ。(そう)(そう)は将たちにこう言ったよ。
「私たちは(ちょう)(しゅう)たちを降伏させたけど、人質を取ることを忘れちゃったから、今の状況につながったんだ。私は自分の敗北の原因をよく知っているの。みんな、よく見ていてね、これからはこれ以上敗北しないぞ」
そして、(そう)(そう)(きょ)に帰ったよ。

(註51)

世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。

()()』によると、昔の制度では、(さん)(こう)は兵を連れて天子に謁見する時に、戟を交差して首筋に当てて前に進んだんだって。ある時、(そう)(そう)(ちょう)(しゅう)を討伐するために、天子に謁見することになって、このしきたりのとおりにしたんだよ。でもその後は、(そう)(そう)は天子に謁見することはなかったよ。

袁術が皇帝を自称する

本文

袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,為布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。

(えん)(じゅつ)(わい)(なん)で皇帝になろうとして、そのことを(りょ)()に伝える使者を送ったよ。でも、(りょ)()はその使者を捕まえて、使者が持っていた手紙を天子に上書したんだ。すると、(えん)(じゅつ)は怒って(りょ)()を攻めたんだけど、(りょ)()はこれを破ったよ。
秋の九月、(えん)(じゅつ)(ちん)を攻めたから、(そう)(そう)は彼に対抗するため東へ出発したよ。(えん)(じゅつ)(そう)(そう)が来たことを聞いて、自分の軍を捨てて逃げ出しちゃった。でも、将の(きょう)(ずい)()(ほう)(りょう)(こう)(がく)(しゅう)は残ったよ。(そう)(そう)が着くと、(きょう)(ずい)たちを破って、全員を斬ったよ。(えん)(じゅつ)は淮河を渡って逃げて、(そう)(そう)(きょ)に帰ったよ。

張繍の反逆

本文

公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。(註52)表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。

(そう)(そう)()(いん)から戻ってきたら、(なん)(よう)(しょう)(りょう)の県がふたたび(ちょう)(しゅう)と手を組んで反逆したよ。(そう)(そう)(そう)(こう)を送って攻撃させたけど、うまくいかなかくて、(よう)に退却したよ。(ちょう)(しゅう)(りゅう)(ひょう)に何度も攻められるようになっちゃった。
冬の十一月、(そう)(そう)は南に出兵して、(えん)に着いたよ。(りゅう)(ひょう)の将の(とう)(せい)()(よう)を占拠していたから、(そう)(そう)は攻め落として、(とう)(せい)を生け捕りにして、()(よう)を征服したよ。()(いん)も攻め落としたんだ。

(註52)

魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。

()(しょ)』によると、(いく)(すい)で、亡くなった将や兵たちを祀ったよ。(そう)(そう)は悲しみにむせび泣いて、その姿を見た人たちはみんな感動して涙を流したんだって。

本文

三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。(註53)

建安3年(198年)、春の正月、(そう)(そう)(きょ)に戻ったよ。この時、初めて(ぐん)()(さい)(しゅ)の職を置いたよ。三月、(そう)(そう)(ちょう)(しゅう)(じょう)で包囲したよ。
夏の五月、(りゅう)(ひょう)は兵を送って(ちょう)(しゅう)を救援して、(そう)(そう)の軍の後ろを遮断しようとしたんだ。

軍師祭酒は、軍師の長?

(註53)

獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(えん)(しょう)を裏切った兵が(そう)(そう)のところに来て、こう言ったよ。
(でん)(ぽう)(えん)(しょう)に、(きょ)を早く襲撃するように勧めているよ。もし天子を人質に取って諸侯に命令できれば、国内は指揮に従って平定できるかも」
(そう)(そう)はそれを聞いて(ちょう)(しゅう)の包囲を解いちゃった。

本文

公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破繡必矣。」到安衆,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」

(そう)(そう)の将は引き返そうとしたけど、(ちょう)(しゅう)の兵がやってきたよ。(そう)(そう)の軍は進めなくなっちゃって、陣営を少しずつ前に進めたよ。(そう)(そう)(じゅん)(いく)に手紙を送ったよ。
「敵が追ってきて、数里ずつしか進めないよ。けど、私には策があるの。(あん)(しゅう)に着いたら、そこで(ちょう)(しゅう)を破ることができるよ」
(あん)(しゅう)に着くと、(ちょう)(しゅう)(りゅう)(ひょう)の兵が合流して険しい地形で守りを固めていて、(そう)(そう)の軍は前後から攻撃されちゃったの。そこで、(そう)(そう)は夜に地下道を掘って、補給物資をすべて運び出して、奇兵を置いたんだ。朝になると、敵は(そう)(そう)が逃げたと思い込んで全軍で追いかけてきたよ。その時、(そう)(そう)は奇兵を放って、歩兵と騎兵で敵を挟み撃ちして、大勝利を収めたよ。
秋の七月、(そう)(そう)(きょ)に帰ったよ。(じゅん)(いく)(そう)(そう)に尋ねたよ。
「前に敵を破る策を立てたけど、どんな策?」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
「敵は私たちが帰れないように塞いで、死地で戦おうとしたんだ。だから私は勝てると確信したんだよ」

下邳の戦い

本文

呂布復為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。

(りょ)()がふたたび(えん)(じゅつ)の使者として、(こう)(じゅん)(りゅう)()を攻めさせたよ。(そう)(そう)()(こう)(とん)を送って救援したけど、不利な戦況で、(りゅう)()(こう)(じゅん)に敗れちゃった。
九月、(そう)(そう)(りょ)()を攻めるために東へ進軍したよ。
冬の十月、(ほう)(じょう)を攻め滅ぼして、相の(こう)(かい)を捕らえたよ。その後、()()に進軍した時、(りょ)()は自ら騎兵を率いて反撃してきたよ。でも、(そう)(そう)は大勝利を収めて、(りょ)()の勇将の(せい)(れん)を捕らえたよ。追撃して城の下まで追い詰めたところで、(りょ)()は怖くなって投降しようと思ったの。でも、(ちん)(きゅう)たちがその計画を止めて、(えん)(じゅつ)に援軍を求めて(りょ)()に戦うように勧めたんだ。でも(りょ)()はまた負けちゃって、やっぱり城に籠っちゃった。攻める側も攻め落とせずにいたんだ。

本文

時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌狶各聚衆。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附于海以委焉,分琅邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。

その時、(そう)(そう)は連戦していたから、兵たちは疲れ果てていたの。帰ろうと考えていたけど、(じゅん)(ゆう)(かく)()が考えた計略を使って、()(すい)()(すい)を決壊させて城を水攻めにしたよ。1ヶ月くらいで、(りょ)()の将の(そう)(けん)()(ぞく)たちは(ちん)(きゅう)を捕まえて、城を降伏させたよ。(りょ)()(ちん)(きゅう)は生きたまま捕まえられて、後で処刑されたよ。
その後、(たい)(ざん)の出身の(ぞう)()(そん)(かん)()(とん)(いん)(れい)(しょう)()がそれぞれ兵を集めたよ。(りょ)()(りゅう)()を破った時、(ぞう)()たちはみんな(りょ)()に従ったよ。でも、(りょ)()が敗れて、(ぞう)()たちが捕らえられた後、(そう)(そう)は彼らを受け入れて、(せい)州と(じょ)州を海の方に分けて支配したよ。さらに、(ろう)()(とう)(かい)(ほっ)(かい)のそれぞれの郡を(じょう)(よう)()(じょう)(しょう)(りょ)という郡に分けたんだ。

曹操の求める人

本文

初,公為兖州,以東平畢諶為別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕。旣出,遂亡歸。及布破,諶生得,衆為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以為魯相。(註54)

前に、(そう)(そう)(えん)(しゅう)(ぼく)になった時、(とう)(へい)(ひつ)(しん)(べつ)()に任命したよ。(ちょう)(ばく)が反乱を起こした時、(ちょう)(ばく)(ひつ)(しん)の母、弟、妻や子供を人質にとったよ。(そう)(そう)(ひつ)(しん)を辞めさせて、家族の元に送ろうとしてこう言ったよ。
「あなたの母親はあの地にいるから、行くといいよ」
(ひつ)(しん)は、頭を下げて心から同意して、(そう)(そう)に忠誠を誓ったよ。(そう)(そう)はそれをとても嬉しく思って、感動のあまり涙を流したんだ。でも、(ひつ)(しん)は出て行って逃げちゃった。そして、(りょ)()が敗れた後、(ひつ)(しん)を生け捕りにして、人々は恐れたけど、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「親孝行な人が、主君に忠が無いわけがないよ! それが私が求めているものだよ」
こうして、(ひつ)(しん)()(こく)(しょう)に任命したんだ。

(註54)

魏書曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自為之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,為庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以為公外託公義,內實離異,深懷怨望。臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。

()(しょ)』によると、(えん)(しょう)は、昔の(たい)()(よう)(ひょう)(だい)(ちょう)(しゅう)(りょう)(しょう)(しょう)()(こう)(ゆう)と仲が悪くて、(そう)(そう)に彼らの罪をでっち上げて処刑させるように企んでいたんだって。(そう)(そう)はこう言ったよ。
「今、天下は混乱していて、力を持つ人たちが立ち上がって、君主を補佐する人たちは不満を持って、それぞれが自分のために行動しようとしているよ。これは上下がお互いを疑う時代で、害の無いつもりでもまだ信じられないことを恐れるよ。もし誰かを排除しちゃったら、誰もが自分自身の危険を感じることになるよね? それに、私たちは官位の無い身から立ち上がって、埃や泥にまみれて生きてきたよ。つまらない人たちに侮辱されることもあったよね。それをどうして忘れられるの? (こう)()(りゅう)(ほう))が(よう)()の怨みを許して、民の心を安定させたよね。このことを忘れてはいけないよ」
(えん)(しょう)は、(そう)(そう)が外面では公正なふりをしているけど、内心では離反しようと強い不満と敵意を抱いていると考えていたよ。

(註54)

臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。

(はい)(しょう)()の見解としては、(よう)(ひょう)も昔に(そう)(そう)に苦しめられて、死に至るところまで行ったことがあるよね。(こう)(ゆう)は結局は(そう)(そう)に処刑されたよね。つまり、言葉だけでなく行動が重要なんだ。信じるべきは行動であって、言葉だけでは足りないよね。

袁紹との因縁

本文

四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率衆降,封為列侯,還軍敖倉。以魏种為河內太守,屬以河北事。

建安4年(199年)、春の二月、(そう)(そう)(しょう)(ゆう)に帰ったよ。(ちょう)(よう)の将の(よう)(しゅう)(ちょう)(よう)を殺して、(すい)()(よう)(しゅう)を殺しちゃった。(すい)()の兵たちは(えん)(しょう)に従って、(しゃ)(けん)に駐屯したよ。
夏の四月、(そう)(そう)は黄河に進軍して、()(かん)(そう)(じん)に黄河を渡らせて(すい)()を攻めさせたよ。(すい)()は、(ちょう)(よう)(ちょう)()(行政官)の(せつ)(こう)()(だい)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(りゅう)(しょう)に守りを任せて、自分は兵を率いて北に向かって、(えん)(しょう)に救援を求めたよ。でも、()(かん)(そう)(じん)(けん)(じょう)で遭遇しちゃって、彼らは(すい)()の軍を破って、(すい)()を斬ったよ。(そう)(そう)は黄河を渡って(しゃ)(けん)を包囲したよ。(せつ)(こう)(りゅう)(しょう)は、兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。その後、(そう)(そう)(ごう)(そう)に軍を帰したんだ。そして、()(ちゅう)()(だい)(たい)(しゅ)に任命して、河北の政務を任せたよ。

本文

初,公舉种孝廉。兖州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走越、北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。

最初は、(そう)(そう)()(ちゅう)を孝廉に推挙したよ。(えん)州で反乱が起こった時、(そう)(そう)はこう言ったよ。
()(ちゅう)だけが私を捨てないでついてきたの」
でも、()(ちゅう)が逃げ出したことを知ると、(そう)(そう)は怒ったよ。
「あなたが南の越や、北の胡に逃げない限り、私はお前を置いていかない!(探し出してやる!)」
(しゃ)(けん)を攻め落とした後、()(ちゅう)を生け捕りにしたよ。(そう)(そう)は、こう言ったよ。
「この人の才能は本当にすばらしい!」
そして、彼を釈放して使ったんだ。

本文

是時袁紹旣并公孫瓚,兼四州之地,衆十餘萬,將進軍攻許,諸將以為不可敵,公曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也。」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率衆降,封列侯。十二月,公軍官渡。

この頃、(えん)(しょう)はすでに(こう)(そん)(さん)を従えていて、4つの州の領土を支配して、その軍は10万以上の兵を率いて(きょ)を攻めようとしていたの。(そう)(そう)の軍の将たちはこれに立ち向かえないと考えていたけど、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「私は(えん)(しょう)の性格を知っているよ。(えん)(しょう)は志は大きいけど知恵は小さくて、口では厳しいけど実力は弱くて、嫉妬深くて威嚇ばかりして威厳はないし、兵をたくさん持っていても戦略が明確ではないし、将たちは驕っていて統治がぐちゃぐちゃだから、彼らを簡単に打ち負かせるよ。(えん)(しょう)の領地は広くて、食糧も豊富だけど、私たちに捧げてくれているようなものだね」
秋の八月、(そう)(そう)(れい)(よう)へ進軍したよ。(ぞう)()たちを(せい)州に送って、(せい)(ほっ)(かい)(とう)(あん)を制圧して、その後、()(きん)たちを黄河に駐屯させたよ。九月、(そう)(そう)(きょ)に戻って、兵を分けて(かん)()を守ったよ。
冬の十一月、(ちょう)(しゅう)が兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。十二月、(そう)(そう)の軍は(かん)()に駐屯したよ。

また劉備を…どうする?

本文

袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。(註55)(註56)(註57)

(えん)(じゅつ)(ちん)で敗れて困っていたんだけど、(えん)(たん)(せい)州から使者を送って迎えに来てくれたよ。(えん)(じゅつ)()()を北に抜けようとしたけど、(そう)(そう)(りゅう)()(しゅ)(れい)に迎撃させたんだ。でも、(えん)(じゅつ)は病死しちゃった。
(てい)(いく)(かく)()は、(そう)(そう)(りゅう)()を送ったことを聞いて、(そう)(そう)に「(りゅう)()を自由にしてはダメ」と言ったんだって。(そう)(そう)は悔しがって、(りゅう)()を追いかけたけど追いつけなかったの。
(りゅう)()は東に行く前に、(とう)(しょう)たちと内通して反乱を計画して、()()に着いたよ。そこで、(じょ)(しゅう)()()(州の長官)の(しゃ)(ちゅう)を殺して、兵を集めて(はい)に駐屯したんだ。(そう)(そう)(りゅう)(たい)(おう)(ちゅう)を送って攻めたけど、勝てなかったの。

(註55)

獻帝春秋曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(りゅう)()(りゅう)(たい)たちにこう言ったんだって。
「あなたみたいな人を100人集めても私には勝てないよ! (そう)(そう)が来たら、どうかわからないけどね!」

(註56)

魏武故事曰:岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯。

()()()()』によると、(りゅう)(たい)は、(あざな)(こう)(ざん)で、(はい)国の出身だよ。()(くう)(ちょう)()として征伐に従って、功績をあげて列侯に封ぜられたよ。

(註57)

魏略曰:王忠,扶風人,少為亭長。三輔亂,忠饑乏噉人,隨輩南向武關。值婁子伯為荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等仵逆擊之,奪其兵,聚衆千餘人以歸公。拜忠中郎將,從征討。五官將知忠甞噉人,因從駕出行,令俳取冢間髑髏繫著忠馬鞍,以為歡笑。

()(りゃく)』によると、(おう)(ちゅう)扶風(ふふう)の出身だよ。若い頃は亭長(警察の長)を務めていたんだよ。(さん)()で混乱が起きた時、(おう)(ちゅう)は飢えて、人を食べちゃったことがあったんだって。彼は仲間たちと一緒に南の()(かん)に向かったよ。そこで、(けい)州にいた(ろう)(けい)が、北方の客人(民)を迎えていたんだ。でも、(おう)(ちゅう)は行く気はなかったよ。(おう)(ちゅう)は仲間たちと一緒に(ろう)(けい)を攻撃して、彼から兵を奪って、1,000人以上の軍勢を率いて(そう)(そう)に従ったよ。
(おう)(ちゅう)(ちゅう)(ろう)(しょう)に任命されて、さまざまな戦闘に参加したよ。ある時、()(かん)(しょう)(そう)()?)は、(おう)(ちゅう)が過去に人を食べたことを知って、芸人に命令して墓場から人の頭蓋骨を取って来させて、(おう)(ちゅう)の馬の鞍に結びつけて笑いものにしたの。

本文

廬江太守劉勳率衆降,封為列侯。

()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(りゅう)(くん)が率いる軍勢が降伏して、列侯に封ぜられたよ。

続き → 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 3

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