
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、潼関の戦いだよ。
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その3
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その4
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その5 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その6
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080406潼関の戦い
十六年春正月,(註93)天子命公世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
建安十六年(211年)、春の正月、天子は曹操の子の曹丕を五官中郎将に任命したよ。さらにその下に役人たちを置いて、丞相の補佐役にしたよ。太原の出身の商曜たちが大陵で反乱を起こしたんだ。そこで、夏侯淵と徐晃を送って、これを包囲して打ち破ったよ。
それに、張魯が漢中をおさえていたよ。三月、鍾繇を送ってこれを討たせたよ。曹操は夏侯淵たちを黄河を渡って東へ進ませて、鍾繇と合流させたよ。
魏書曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戶。
『魏書』によると、庚辰の日、天子は命令してこう言ったよ。
「5,000戸減らして、それを3つの県に分けて、それぞれ1万5,000戸を曹操の3人の子たちに分け与えるよ」
こうして、曹植は平原侯、曹拠は范陽侯、曹豹は饒陽侯になって、それぞれ5,000戸の領地を与えられたよ。
是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關,公勑諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰。」
このとき関中の将たちは、鍾繇が自分たちをこっそり攻めようとしているのではないかと疑ったんだ。そこで、馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜たちと一緒に反乱を起こしたよ。
曹操は、曹仁を送ってこれを討たせたよ。馬超たちは潼関に陣を置いたよ。曹操は将たちにこう命令したよ。
「関西の兵は強くて勇ましいよ。しっかり守りを固めて、敵と戦わないでね」
関西は、函谷関から西の地域を指すよ。
秋七月,公西征,(註94)與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西為營。公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,(註95)循河為甬道而南。
秋の七月、曹操は西へ軍を進めて、そして潼関をはさんで、馬超たちと向かい合って陣を置いたよ。曹操は正面で敵を引きつけておきながら、こっそりと徐晃や朱霊たちを夜のうちに蒲阪津から黄河を渡らせて、河西に陣を築かせたよ。
その後、曹操自身も潼関の北から渡ろうとしたけど、まだ渡りきらないうちに、馬超が船に向かって激しく攻撃してきたんだ。校尉の丁斐が、牛や馬を放って敵をおびき寄せると、敵は混乱して牛や馬を取りに走ったから、そのすきに曹操は無事に渡れたよ。その後、川に沿って道を作りながら、南へ進んでいったよ。
魏書曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」
『魏書』によると、話し合いの中で多くの人はこう言ったよ。
「関西の兵はとても強くて、長い槍の扱いにも慣れているんだ。よく選ばれた精鋭の前衛でなければ、とても戦いに対抗できないよ」
でも、曹操は将たちにこう言ったよ。
「戦いの勝ち負けは、敵ではなくて、私たち次第だよ。敵は長い槍に慣れているけど、それを突くことができないようにしてやる。みんなはただそれを見ていればいいよ」
曹瞞傳曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起。張郃等見事急,共引公入船。河水急,北渡,流四五里,超等騎追射之,矢下如雨。諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。公大笑曰:「今日幾為小賊所困乎!」
『曹瞞伝』によると、曹操が黄河を渡ろうとしていて、前の部隊がちょうど渡り終えたところに、馬超たちが突然やって来たよ。それでも曹操は胡床といういすに座ったままで立ち上がろうとしなかったんだ。とても危ないのを見て、張郃たちは一緒に曹操を引き上げて、船の中へ入れたよ。水は流れがすごく速くて、北へ渡る途中で、4から5里も流されちゃった。馬超たちの騎兵が追いかけてきて、矢を雨のように射かけたよ。将たちは軍がくずれたのを見て、曹操がどこにいるのかわからなくて、みんなとても不安になったんだ。でも、曹操の姿を見つけると、悲しみと喜びが一緒になって、涙を流す者もいたんだって。曹操は大笑いしてこう言ったよ。
「今日はちょっと小さな敵に苦しめられるところだったな!」
賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,夜,分兵結營於渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許。九月,進軍渡渭。(註96)
敵は退いて、渭水の河口で守りを固めたよ。そこで曹操は、たくさんの見せかけの兵を置いて敵を惑わせたよ。こっそりと船で兵を渭水に送って、浮橋を作ったよ。夜になると、兵を分けて渭水の南に陣営を築いたよ。その夜、敵は陣営を攻めてきたけど、伏兵が攻撃して、これを打ち破ったよ。馬超たちは渭水の南にとどまって、使者を送って、「黄河の西側の土地を分けてほしい」と、仲よくする約束をしようとしたけど、曹操はこれを許さなかったんだ。九月、曹操は軍を進めて渭水を渡ったよ。
曹瞞傳曰:時公軍每渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。
『曹瞞伝』によると、このとき曹操の軍は、渭水を渡ろうとするたびに馬超の騎兵にぶつかられてしまって、なかなか陣営を作れなかったんだ。しかもその場所は砂だらけで、壁も築けなかったんだ。婁圭は曹操に説得してこう言ったよ。
「今はとても寒い時期だから、砂を積み上げて城を築いて、そこに水をかけて凍らせれば、一晩で完成するよ」
曹操はこれに従って、絹の袋をたくさん作って水を運んで、夜のうちに兵に命令して城を作らせたよ。夜が明けるころには城ができあがって、そのおかげで軍はすべて渭水を渡れたよ。
でも、この話については「この時期は九月で、水が凍るくらい寒いはずがないよね」と言われているんだ。
臣松之案魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!
裴松之が調べたところ、『魏書』から考えると、曹操の軍は八月に潼関に着いて、閏八月に黄河を渡ったとあって、その月に北へ渡っているよ。だから、こんなに寒くなるはずがないよね!
超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。旣罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。(註97)
馬超たちは何度も戦いをしかけてきたけど、曹操はこれに応じなかったよ。それに、彼らは領地を分けて、さらに人質を送るように頼んできたよ。そこで曹操は賈詡の作戦を使って、許したふりをしたよ。
韓遂は曹操に会いたいと言ったよ。曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉に選ばれていて、それに韓遂とも同じ時代に活躍した仲間だったんだ。そこで二人は馬に乗ったまま向かい合って、しばらく話をしたけど、軍のことにはまったく触れないで、都での昔の思い出話をして、手をたたいて笑い合ったよ。話し合いが終わった後、馬超たちは韓遂にこう尋ねたよ。
「曹操は何を話したの?」
韓遂はこう答えたよ。
「何も話していないよ」
馬超たちは韓遂を疑ったよ。
魏書曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可為木行馬以為防遏。」公然之。賊將見公,悉於馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「爾欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後大觀。又列鐵騎五千為十重陣,精光耀日,賊益震懼。
『魏書』によると、曹操はふたたび韓遂たちと会って話をしたよ。でも、将たちは曹操にこう言ったよ。
「あなたは敵と直接話しているけど、守りがないのはよくないよ。馬を防ぐ柵を作って、守りを固めるべきだよ」
曹操はそのとおりにしたよ。敵の将たちは曹操を見て、みんな馬の上から礼をしたよ。秦や胡の人たちも見に来て、前にも後ろにも重なって列を作ったよ。曹操は笑って彼らにこう言ったよ。
「あなたたちは曹操を見たいの? 私も普通の人と同じで、目が4つあるわけでも口が2つあるわけでもないよ。ただ、ちょっと知恵が多いだけだよ!」
胡の人たちは前にも後ろにも集まって、見ていたよ。さらに曹操は鉄のよろいを着た騎兵5,000人を並べて、10にも重ねた陣形を作ったよ、その光り輝く姿が太陽で照らされて、敵はますます震えちゃった。
他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良乆,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」
後の日、曹操はまた韓遂に手紙を送ったよ。その手紙には、たくさん書き直したあとがあって、まるで韓遂が自分で直したように見えるものだったんだ。これを見て、馬超たちはますます韓遂を疑うようになったよ。
その後、曹操は戦う日を決めて、まず軽装の兵で敵に戦いをしかけたよ。長いあいだ戦った後、精鋭の騎兵(虎騎)をいっせいに突撃させてはさみうちにして、敵を大きく打ち破ったよ。そして、成宜や李堪たちを討ち取ったよ。
韓遂と馬超たちは涼州に逃げて、楊秋は安定に逃げたんだ。こうして関中を平定したよ。
将たちの中のある人は、曹操にこう尋ねたよ。
「まず、敵は潼関を守っていて、渭水の北の道は通れなかったんだ。なのに、どうして黄河の東から馮翊を攻めないで、いったん潼関を守って、日が経ってから北に渡ったの?」
公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉衆南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。連車樹柵,為甬道而南,(註98)旣為不可勝,且以示弱。渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變化,固非一道也。」
曹操はこう答えたよ。
「敵が潼関を守っているとき、もし私が黄河の東へ入ったら、敵はきっと渡し場をすべて守っちゃう。そうなったら西河を渡れなくなるんだ。だから私はわざと大軍を潼関に向けたんだよ。すると敵は兵をすべて南に集めて守ったから、西河の守りは手薄になったよ。だから徐晃と朱霊の二人が、西河を自由に取れたの。その後、軍を率いて北から川を渡ったよ。敵が西河で私と争えなかったのは、この二人の軍がいたからだね。
そして、車を連ねて柵を作って、道を作って南に進んだのは、すでに負けない形を整えると同時に、わざと弱く見せるためでもあったよ。渭水を渡ってからは、しっかり守った陣を築いたよ。敵が来ても出て戦わなかったのは、敵をおごらせるためだよ。だから敵は陣地をしっかり作らないで、土地を分けてほしいと求めてきたんだ。私はそれに従うように見せて、許したふりをしたよ。これは敵の思いどおりにさせて安心させて、備えをしなくさせるためだよ。そのあいだに兵たちの力を蓄えて、一気に攻撃したよ。つまり、激しい雷が鳴るときは、耳をふさぐひまもないというようなものだね。戦いのやり方はさまざまで、一つの方法だけではないんだ」
(註98)臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也。」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。
裴松之が調べたところ、漢の高祖二年(前205年)、漢の高祖(劉邦)は滎陽の京と索のあいだで楚と戦ったとき、黄河に沿って道を作って、敖倉の穀物を運んで取ったよ。
応劭によると、敵に荷物を奪われるのを防ぐために、道のように壁を築いたのんだって。でも今、曹操は壁を築かないで、ただ車を並べて柵を立てて、両側からの攻撃を防いだんだ。
始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。公荅曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其衆雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,為功差易,吾是以喜。」
まず、敵の部隊が一つ来るたびに、曹操はいつも嬉しそうな顔をしていたよ。敵を打ち破った後、将たちはその理由を尋ねたよ。曹操はこう答えたよ。
「関中はとても広くて遠いよね。もし敵がそれぞれ険しい地形に立てこもっていたら、これを攻めても、1年や2年では平定できなかっただろうね。でも今は、敵がみんな集まってきたよ。たくさんの兵がいるけど、お互いに心から従い合っているわけではなくて、軍をまとめる中心の人物もいないんだ。だから、一度の戦いで一気に滅ぼせるし、功績をあげるのもその分だけ楽になるよ。だから私は喜んでいたの」
冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民人。(註99)十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安。
冬の十月、曹操の軍は楊秋を討つために長安から北に軍を進めて、安定を包囲したよ。楊秋は降伏したよ。曹操は彼の爵位を前のままにして、そのまま現地にとどめて、人々を治めさせたよ。十二月、曹操は安定から帰って、夏侯淵を長安に残してとどまらせたよ。
魏略曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終。
『魏書』によると、楊秋は黄初の年号の間(220~226年)に討寇将軍に昇進して、特進の位を受けて、臨涇侯に封ぜられたよ。老いて亡くなったんだって。
臣下の最高位になる
十七年春正月,公還鄴。天子命公贊拜不名,入朝不趨,劔履上殿,如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衞國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。
建安十七年(212年)、春の正月、曹操は鄴に帰ったよ。
天子は曹操に、名前を呼ばないで上奏することを許して、朝廷に入るときも小走りで進まなくてよくて、さらに剣を帯びたまま、くつをはいたまま宮殿に上がることも許したよ。これは昔の蕭何と同じ特別な扱いだね。
一方、馬超の残った兵たちは、梁興たちが藍田にとどまっていたんだ。そこで曹操は夏侯淵に命令してこれを攻めさせて、平定したよ。
河内郡の蕩陰、朝歌、林慮と、東郡の衛国、頓丘、東武陽、発干と、鉅鹿郡の廮陶、曲周、南和と、広平郡の任城と、趙の襄国、邯鄲、易陽の地をまとめて魏郡に加えたよ。
賛拝不名とは、敬意を表するために相手の名前を直接呼ばないで、間接的に尊敬の念を示す表現方法だよ。
入朝不趨とは、朝廷に出仕する際に小走りで駆けつけることなく、帝と同じように落ち着いて足を運ぶことだよ。普通は、帝に謁見するとき小走りをしなくてはいけないんだ。
劔履上殿とは、剣を帯びたまま朝廷に上ることだよ。普通は、武具を持って帝に会うのはダメだよ。つまり、身分が皇族と同じになったことを表しているんだね。
蕭何は、漢の劉邦の側近のひとりだよ。関中を安定させた功績から、上記の3つの特権を得た人だよ。『史記』「蕭相国世家」の「於是乃令蕭何,賜帶劍履上殿,入朝不趨。」から。
濡須口の戦い
冬十月,公征孫權。
冬の十月、曹操は孫権を討つために兵を出したよ。
十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。詔書并十四州,復為九州。夏四月,至鄴。
建安十八年(213年)、春の正月、曹操は濡須口に軍を進めたよ。孫権の長江の西の陣営を攻めて打ち破って、孫権の都督(軍の指揮官)の公孫陽を捕らえて、軍を引いて帰ったよ。
詔によって、それまでの14つの州をまとめて、ふたたび9つの州にしたんだ。
夏の四月、曹操は鄴に着いたよ。
魏公になる
五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公(註100)(註101)曰:朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷于唐、衞。當此之時,若綴旒然,(註102)宗廟乏祀,社稷無位;羣凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,即我高祖之命將墜于地。朕用夙興假寐,震悼于厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,(註103)其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育丞相,保乂我皇家,弘濟于艱難,朕實賴之。今將授君典禮,其敬聽朕命。
五月、丙申の日、天子は御史大夫の郗慮に命令して、節を持たせて、正式な文書で曹操を魏公にしたよ。詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が足りなくて、若いころに親(霊帝)が死ぬ大きな不幸に遭ったんだ。遠く西の地(長安)へ逃れて、唐(安邑)や衛(河内)へと移り住んだよ。そのころは、まるで旗のひもが切れかけているように危うくて、宗廟(祖先の廟)の祭りもできなくて、社稷は位を失っていて、たくさんの悪人たちがいて、国を分裂させて、人々もばらばらになって、私は民を守れなかったんだ。このままでは私の高祖(劉邦)の天命も地に落ちてしまうところだったんだ。私は朝早くから夜遅くまで心を痛めて、『ああ、先祖よ父よ、国を支えてくれる公卿や大夫は誰なの、誰が私を助けてくれるの?』と考えていたよ。そこで天の心に導かれるようにして、丞相であるあなた(曹操)が現れて、私たちの王家を守って、困難の中ですごく助けてくれたんだ。私は本当にあなたに頼ってきたんだね。これからあなたに大切な礼と位を授けるよ。どうかうやまって、私の命を聞いてね。
續漢書曰:慮字鴻豫,山陽高平人。少受業於鄭玄,建安初為侍中。
『続漢書』によると、郗慮は、字は鴻豫で、山陽郡高平県の出身だよ。若いころに鄭玄から教えを受けて、建安の年号の初めごろ(196年)、侍中になったよ。
虞溥江表傳曰:獻帝甞特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權。」慮舉笏曰:「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦。公以書和解之。慮從光祿勳遷為大夫。
虞溥の『江表伝』によると、献帝はあるとき、特別に郗慮と少府の孔融を呼び出して会ったよ。そして、孔融にこう尋ねたよ。
「郗慮は、どんなところがすぐれているの?」
孔融は答えたよ。
「正しい道について話し合えるけど、実際の政治の権限を任せるのは難しいだろうね」
これを聞いた郗慮は、笏を持ち上げてこう言ったよ。
「孔融は昔、北海を治めていたけど、政治は乱れて民は散り散りになったよね。その政治の権限はどこにあったというの?」
こうして二人はお互いの良いところや悪いところを言い合って、仲が悪くなっちゃった。そこで曹操は手紙を書いて、二人を仲直りさせたよ。郗慮は、光禄勲から御史大夫に昇進したよ。
「可與適道,未可與權。」は、『論語』「子罕」の「可與共學,未可與適道;可與適道,未可與立;可與立,未可與權。」から。孔融さんは自分の先祖である孔子の言葉を使ったんだね。性格悪っ。
公羊傳曰:「君若贅旒然。贅猶綴也。」何休云:「旒,旂旒也。以旒譬者,言為下所執持東西也。」
『春秋公羊伝』によると、「君主はまるでぶら下がったひものようなもので、ここでいう贅は綴(つなぎとめる)という意味」とあるよ。
何休は説明してこう言ったよ。
「旒とは旗のたれさがったひものことだよ。これにたとえるのは、下にいる人々に引っぱられて、東や西に動かされてしまうことを言っているんだね」
文侯之命曰:「亦惟先正。」鄭玄云:「先正,先臣。謂公卿大夫也。」
『書経』「文侯の命」によると、「これも先正だけを思う」とあるよ。
鄭玄は説明してこう言ったよ。
「先正とは、先に仕えていた臣下のことで、公卿や大夫を指すよ」
昔者董卓初興國難,羣后釋位以謀王室,(註104)君則攝進,首啟戎行,此君之忠于本朝也。
昔、董卓が初めて国に大きな混乱を起こすと、諸侯は自分の位を捨てて王室を助けようと相談したよ。あなたはそのとき先頭に立って軍を動かして、まず戦いを始めたよ。これはあなたの朝廷に対する忠を示しているよ。
左氏傳曰:「諸侯釋位以間王政。」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室。」
『春秋左氏伝』によると、「諸侯は自分の位を捨てて、王の政治を助ける」とあるよ。
服虔は説明してこう言ったよ。
「これは、諸侯が自分の国の政治をいったん離れて、王家を助けることを言っているよ」
後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之,以寧東夏,此又君之功也。
その後、黄巾が反乱を起こして世の中の決まりをくつがえして、私たちの3つの州(青州・冀州・兗州)を攻めて、さらに民まで巻き込まれたんだ。あなたはこれを打ち倒して、東の地域(洛陽)を安定させたよね。これもあなたの功績だよ。
韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物,天地鬼神於是獲乂,此又君之功也。
韓暹と楊奉が勝手に権力を振るったけど、あなたは彼らを討って、うまくその混乱を取り除いたよ。こうして都を許に移して、都の仕組みを整えて、役人や祭りの制度もきちんと定めて、昔からのやり方を失わなかったよ。だから、天と地の神々にも安らぎが訪れたよね。これもあなたの功績だよ。
袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也。
袁術が勝手に帝を名乗って逆らって、淮南でやりたい放題していたとき、彼はあなたの力を恐れていて、あなたはすぐれた作戦を使ったよ。蘄陽の戦いで、橋蕤は討ち取られて、あなたの威勢は南へ進んで、とうとう袁術は滅びたよ。これもあなたの功績だよ。
迴戈東征,呂布就戮,乘轅將返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也。
兵を引き返して東へ進んで、呂布を討ち取ったよ。車に乗って引き返したら、張楊は倒れて、眭固は罪を認めて、張繡は降伏したよね。これもあなたの功績だよ。
袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃其衆,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,(註105)俾我國家拯於危墜,此又君之功也。
袁紹は世の中の正しい決まりにそむいて大きな乱を起こして、国を危うくしようとしたんだ。彼はたくさんの兵を持っていたから、内側から国をあなどって攻めてきたよ。このとき天子の軍は少なくて弱かったから、天下の人たちが恐れて、しっかりした決意を持つ者はほとんどいなかったんだ。でも、あなたは大切な道義をしっかり守って、その志は太陽のように明らかだだよ。勇ましく立ち上がって、すぐれた作戦をめぐらせて、ついに官渡に進んで、敵の悪い者たちを大きく打ち破ったよ。そして、国を危機から救ったよね。これもあなたの功績だよ。
詩曰:「致天之屆,于牧之野。」鄭玄云:「屆,極也。」鴻範曰:「鯀則殛死。」
『詩経』によると、「天の果てまで至り、牧の野で戦う」とあるよ。
鄭玄は説明してこう言ったよ。
「屆とはきわまるという意味だよ」
『書経』「洪範」によると、「鯀はついに罰せられて死んだ」とあるよ。
濟師洪河,拓定四州,袁譚、高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也。
大軍を率いて黄河を渡って、4つの州(青州・冀州・幽州・并州)を広く平定したよ。袁譚と高幹はともに討たれて首を取られて、海賊を追い払って、黒山賊もおとなしく従ったよね。これもあなたの功績だよ。
烏丸三種,崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也。
烏丸の3つの部族は、2代にわたって乱を起こしていたけど、袁尚がこれを頼りにして北の国境に立てこもっていたんだ。でも、あなたは馬を止めて車を使って険しい道を進んで、ただ一度の遠征でこれらを滅ぼしたよね。これもあなたの功績だよ。
劉表背誕,不供貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也。
劉表は天子にそむいて朝廷に従わないで、貢ぎ物の務めも果たさなかったんだ。あなたの軍が進むと、その威勢は先に伝わって、100の城や8つの郡が腕を組んでひざをつくようにして降伏したよね。これもあなたの功績だよ。
馬超、成宜,同惡相濟,濵據河、潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也。
馬超と成宜は一緒に悪いことをして、力を合わせて、黄河や潼関のあたりをおさえて、自分たちの思いどおりに振る舞おうとしたんだ。でも、あなたは渭水の南でこれを打ち破って、万もの討ち取った敵の耳や首を捧げて、国境を安定させて、異民族たちとも仲よくしたよね。これもあなたの功績だよ。
鮮卑、丁零,重譯而至,箄于、白屋,請吏率職,此又君之功也。
鮮卑や丁零が通訳を重ねて遠くからやって来て、箄于や白屋も役人の指示に従いたいと願い出たよね。これもあなたの功績だよ。
君有定天下之功,重之以明德,班敘海內,宣美風俗,旁施勤教,恤慎刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也。
あなたは天下を安定させる大きな功績があって、さらに優れた立派な徳もそなえているよ。国内の人々の身分や役割をきちんと整えて、よい風習を広めて、たくさんの人に広く教育をして、刑罰にも心を配って慎重にしたよ。だから役人はひどい政治をしないで、民も悪い心を持たないよ。それに、皇帝の一族を大切にして、絶えていた家をふたたび続けさせて、昔のよい行いや功績のある人たちを、きちんと評価してそれぞれ俸禄や官位を与えたよ。たとえ伊尹の徳が天に届いて、周公の徳が天下に光を輝かせたとしても、それと比べてもあなたは見劣りしないくらいだね。
朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩衞王室,左右厥世也。
私は、昔の天子がすぐれた徳を持つ者を選んで、土地を与えて、人々を分け与えて、さらに高い地位や立派な礼や品物を授けた、と聞いているよ。これは、王の家を守って、その時代を支えさせるためだよ。
其在周成,管、蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登為侯伯,錫以二輅、虎賁、鈇鉞、秬鬯、弓矢,大啟南陽,世作盟主。故周室之不壞,繄二國是賴。
周の成王の時代、管叔鮮と蔡叔度が反乱を起こしたよ。そこで王は、そのような災いを戒めながら功績のある者を思って、召康公に命令して、斉の太公に領地を与えたよ。その領地は東は海、西は黄河、南は穆陵、北は無棣までに広がったよ。五侯九伯も、この斉の命令に従うことになって、太師(天子の補佐)を代々受け継いで、東の海(斉)の守りとなったよ。
その後、周の襄王の時代、楚の人たちが王の命令に従わなかったんだ(貢ぎ物を贈らなかった)。そこで王は、晋の文公を侯伯に任命して、2台の立派な車、虎賁(王の護衛)、鈇鉞(軍権のしるし)、秬鬯(祭りに使う酒)、弓矢を与えて、南陽を大きく拓いて、代々諸侯の盟主となったよ。このように周の王室が長く滅びなかったのは、この2つの国(斉と晋)に支えられたおかげだね。
今君稱丕顯德,明保朕躬,奉荅天命,導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,(註106)功高于伊、周,而賞卑於齊、晉,朕甚恧焉。朕以眇眇之身,託于兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉。
今、あなたはとてもすぐれた徳をたたえられて、私の身をしっかり守って、天命にこたえて、大きな功績を広めて、天下をやすらかに導いたよ。従わない人はいなくて、あなたの功績は伊尹や周公よりすごいくらいだよ。なのに、与えられる賞は斉や晋よりも少なくて、私はこれをとても恥ずかしく思っているの。私は小さな身だけど、たくさんの人たちの上に立つことを任されているよ。その大変さをいつも思って、深い淵や薄い氷の上を歩くような気持ちでいるんだ。もしあなたの助けがなければ、私はこの重い務めを果たせないよ。
盤庚曰:「綏爰有衆。」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其衆也。」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾。」率,循也。俾,使也。四海之隅,日出所照,無不循度而可使也。
『書経』「盤庚」によると、「たくさんの人たちを安らかにする」とあるよ。
鄭玄は説明してこう言ったよ。
「爰とは、『ここにおいて』という意味で、人々の中で安らかにさせることだよ」
『書経』「君奭」によると、「海の果て、日の出るところにまで、従わない者はいない」とあるよ。「率」とは周りに従って進むこと、「俾」とはさせることを意味するよ。つまり、世界のすみずみまで太陽の光が届くところでは、すべての人が道理に従って、導くことができる、という意味だよ。
今以兾州之河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原凡十郡,封君為魏公。錫君玄土,苴以白茅;爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公、毛公入為卿佐,周、邵師保出為二伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領兾州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。
今、冀州のうち、河東、河内、魏郡、趙国、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原の、合わせて10つの郡をあなたに与えて魏公にするよ。
あなたには黒い土を白い草で包んで授けるよ。亀の甲を使って占って、祖先の社を建てることを許すよ。
昔、周では、畢公と毛公が朝廷の卿として重い役目を助けて、周公や邵公といった天子の補佐は外に出て伯(諸侯の長)になったよ。内と外のどちらの役目も、あなたこそふさわしいよ。これまでどおり、丞相として、冀州牧(州の長官)も兼ねて務めてね。さらに、あなたには九錫を授けるよ。どうかつつしんで私の命令を受けてね。
黒い土は北の土だよ。土地の土を白い草で包むのは、領地にすることを示しているよ。土の色は、北は黒色(草原の土)、東は青色(海の近くの土)、南は赤色(長江中流域の土、赤壁もそれだね)、西は白色(砂漠の土)、中央が黄色(黄河流域、黄土高原の土)なんだって。
以君經緯禮律,為民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。
あなたは礼や法律をよく整えて、民の手本となっているから、それぞれが安心して仕事に励んで、心を変えて迷うことがないようにしたよ。だから、あなたに大輅(天子の乗る車)と戎輅(軍に使う車)をそれぞれ1つ、黒い雄馬を四頭立てにしたものを2組授けるよ。
君勸分務本,穡人昏作,(註107)粟帛滯積,大業惟興,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。
あなたは仕事の分担をすすめて、農業を大切にして、人々がはげんで働くようにしたよ。穀物や織物がたくさんたまって、国の大きな事業が盛んになったよ。だから、あなたに衮冕(天子の礼服)と、赤舄(赤いくつ)を授けるよ。
盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞。」鄭玄云:「昏,勉也。」
『書経』「盤庚」によると、「農業をおろそかにしないで、自ら安心して働いて、努力を怠らない」とあるよ。
鄭玄は説明してこう言ったよ。
「昏とは、はげむという意味だよ」
君敦尚謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞。
あなたは謙虚さやゆずりあいを大切にして、民にもそれをさせたよ。子供から大人まで礼を守って、上の者と下の者もみんな仲よくしたよ。だから、あなたに軒縣の楽器(音楽の道具)と六佾の舞(諸侯の踊り)を授けるよ。
君翼宣風化,爰發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居。
あなたはよい教えを助けて広めて、それを四方に行き渡らせたよ。遠くの人たちも心を入れかえて従って、国の中は豊かになったよ。だから、あなたに朱色の門のある家に住むことを許すよ。
君研其明哲,思帝所難,官才任賢,羣善必舉,是用錫君納陛以登。
あなたはすぐれた知恵を深くきわめて、昔の皇帝でも難しいと感じる人の登用をよく考えて、才能ある人に官職を任せて、よい行いをする人は必ず推挙して使ったよ。だから、あなたに宮殿の階段を登ることを特別に許すよ。
君秉國之鈞,正色處中,纖豪之惡,靡不抑退,是用錫君虎賁之士三百人。
あなたは国の大事な仕事をしっかりとにぎって、公平で正しい態度で中央に立って、どんな小さな悪でも見逃さないで、すべておさえて退けたよ。だから、あなたに虎賁(帝の護衛)の兵300人を授けるよ。
君糾虔天刑,章厥有罪,(註108)不誅殛,是用錫君鈇鉞各一。
あなたは天の法をつつしんで正して、罪のある者をはっきりさせて、法や規律をやぶる者はすべて処罰したよ。だから、あなたに鈇と鉞をそれぞれ1つずつ授けるよ。
「糾虔天刑」語出國語,韋昭注曰:「糾,察也。虔,敬也。刑,法也。」
「糾虔天刑」という言葉は、『国語』に出てくるよ。
韋昭は説明してこう言ったよ。
「糾とは調べること、虔とはうやまうこと、刑とは法だよ」
『国語』「魯語下」から。
君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千。
あなたは龍みたいに勢いよく進んで、虎みたいに鋭くにらんで、広く八方を見わたして、逆らう者や悪い者を討って、天下のあらゆるところで争いをおさめたよ。だから、あなたに赤い弓1本、赤い矢100本、黒い弓10本、黒い矢1,000本を授けるよ。
君以溫恭為基,孝友為德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。
あなたはやさしくつつしみ深い心を土台として、孝と友を徳として、正しく誠実で、その真心は私の心を動かしたよ。だから、あなたに秬鬯(祭りに使う酒)を入れた器1つと珪瓚(玉でできた杯)を授けるよ。
魏國置丞相已下羣卿百寮,皆如漢初諸侯王之制。往欽哉,敬服朕命!簡恤爾衆,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命!(註109)(註110)(註111)
そして、魏の国には、丞相以下のたくさんの役人や役所を置いて、その制度は漢の初めごろの諸侯の王と同じようにするよ。さあ、つつしんでこの命令を受けてね。人々をよくまとめて思いやって、時に応じてさまざまな仕事を明らかにして、あなたのすぐれた徳を最後まで成し遂げて、私の高祖(劉邦)の誇り高き命令にこたえて、その名を高くあげてね!
後漢尚書左丞潘勗之辭也。勗字元茂,陳留中牟人。
これは、漢の尚書左丞の潘勗の言葉だよ。潘勗は、字は元茂で、陳留郡中牟県の出身だよ。
魏書載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也。漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,刱定王業,其功至大,吾何可比之?」前後三讓。
『魏書』によると、曹操は命令してこう言ったよ。
「そもそも九錫を受けて、広く領地をひらいた人といえば、周公のような人だよ。漢の時代、皇帝と同じ一族ではない8人の王たちは高祖(劉邦)と同じ身分の低いところから立ち上がって、初めて王朝を打ち立てたよ。その功績はとても大きいけど、どうして私がそれと比べられるの?」
このように、これまで3回にわたって辞退したんだ。
「漢之異姓八王者」は、『史記』「恵景間侯者年表」に「昔高祖定天下,功臣非同姓疆土而王者八國。」と書いてあるよ。楚王の韓信、梁王の彭越、韓王の韓王信、長沙王の呉芮、淮南王の黥布、燕王の臧荼、趙王の張耳、燕王の盧綰。
於是中軍師王凌、謝亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜將軍華鄉侯劉勳、建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉展、建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程昱、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、都亭侯薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍國明亭侯曹洪、中領軍萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸等勸進曰:
だから、中軍師の王凌、謝亭侯の荀攸、前軍師で東武亭侯の鍾繇、左軍師の涼茂、右軍師の毛玠、平虜将軍で華郷侯の劉勳、建武将軍で清苑亭侯の劉若、伏波将軍で高安侯の夏侯惇、揚武将軍で都亭侯の王忠、奮威将軍で楽郷侯の劉展、建忠将軍で昌郷亭侯の鮮于輔、奮武将軍で安国亭侯の程昱、太中大夫で都郷侯の賈詡、軍師祭酒で千秋亭侯の董昭、都亭侯の薛洪、南郷亭侯の董蒙、関内侯の王粲、傅巽、祭酒の王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍で国明亭侯の曹洪、中領軍で万歳亭侯の韓浩、騎驍将軍を代行する安平亭侯の曹仁、護軍将軍を兼ねる王図、長史の万潜、謝奐、袁覇たちがたちが曹操にそろって位を進めることを願い出てこう言ったよ。
「自古三代,胙臣以土,受命中興,封秩輔佐,皆所以襃功賞德,為國藩衞也。徃者天下崩亂,羣凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言。明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已來,未有若此功者。
「昔から三代(夏・殷・周)の時代には、功績のある臣下に土地を与えて、天命を受けて国を立て直した者には、地位や爵位を授けて助ける役としたよ。これはみんな、その功績と徳をたたえて、国を守る支えとするためだったよ。でも最近、これまで天下は大きく乱れて、たくさんの悪い人たちや力を持つ者たちが次々に起こって、道理を外れて勝手に振る舞う危険な状態は、とても言葉では言い表せないくらいひどかったんだ。あなた(曹操)は命をかけて立ち上がって、その困難に立ち向かったよ。権力を奪う反逆をした袁紹と袁術を討って、黄巾のような反乱をしずめて、首となる悪者を滅ぼして、荒れた世の中をきれいにして、20年以上も霜や露にぬれながら戦い続けてきたよね。文字が使われるようになってから、これほどの功績をあげた人はいないよ。
昔周公承文、武之迹,受已成之業,高枕墨筆,拱揖羣后,商、奄之勤,不過二年,呂望因三分有二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國。周公八子,並為侯伯,白牡騂剛,郊祀天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也。
昔、周公は周の文王と武王の後を受けて、すでにできあがっていた国を引き継いだよ。ゆったりとかまえて政治をして、諸侯に礼をもってまとめたよ。商や奄を平定するのにも、2年もかからなかったよ。呂望は天下を3つに分けたうちの2つをすでに手にしたような有利な形と、800の諸侯の力があって、しばらくのあいだ軍を指揮して、すぐに命令して動かしたよ。
それでも彼らは広く領地を開いて、たくさんの州と国を支配したんだ。周公の8人の子供たちも、みんな侯や伯になったんだって。白い牛と赤い牛を使って天や地をまつって、録や制度、さまざまな品々も整えられて、王室とほとんど同じくらいの格式を持っていたよ。その栄誉と厚い待遇は、このようにすごく大きかったんだ。
逮至漢興,佐命之臣,張耳、吳芮,其功至薄,亦連城開地,南面稱孤。此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制。今比勞則周、呂逸,計功則張、吳微,論制則齊、魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也。
その後、漢の時代が始まると、新しい王朝を立てた功績のある臣下のうち、張耳や呉芮の功績はそれほど大きいものではなかったよ。それでも広い城や土地を与えられて、君主として振る舞ったよ。このようなことはみんな、すぐれた君主が上で導いて、賢い家臣が下でそれを受けるもので、三代(夏・殷・周)からの立派な制度で、漢の皇帝たちもはっきりとした決まりとしてしてきたことだよね。
今、苦労の大きさを比べれば、周公や呂望よりもあなたのほうが大きくて、功績を比べれば、張耳や呉芮よりもすごくすぐれているよ。制度の重さで見れば、斉(呂望)や魯(周公)のように重くて、土地の広さで言えば、長沙(呉芮)よりも多いよ。なのに、魏の国への土地や九錫の栄誉は、これまでと比べても、まるで宝の玉を持っているのに、ぼろの服を着ているようなもの(実際の価値に見合っていない)だよね。
且列侯諸將,幸攀龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡心,下失冠帶至望,忘輔弼之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也。」於是公勑外為章,但受魏郡。
さらに列侯や将たちは、幸いにもすぐれた主君(曹操)に従うことができて、わずかな功績であっても、それにあずかって紫色の服や黄色い帯を身につけている高い位の人が100人もいるよ。彼らもまた、その恩恵を受けて、後の世に伝えていくだろうね。なのに、あなたが上からの賞を辞退すると、下の人たちは心の中で落ち着かなくなっちゃうよ。上では朝廷の喜びにそむいて、下では官職のある人たちの大きな期待を失わせることになるんだ。そして、国を助ける大きな仕事を忘れ、ただ一人の人間としての小さなこだわりを大事にしてしまうことになるよ。これは、私たちがとても心配していることだよ」
それで、曹操は外に向けて文書を出すように命令して、ただ魏郡だけを受け取ったよ。
攸等復曰:「伏見魏國初封,聖朝發慮,稽謀羣寮,然後策命;而明公乆違上指,不即大禮。今旣虔奉詔命,副順衆望,又欲辭多當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也。昔齊、魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績。今魏國雖有十郡之名,猶減於曲阜,計其戶數,不能參半,以藩衞王室,立垣樹屏,猶未足也。且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是為,願明公恭承帝命,無或拒違。」公乃受命。
荀攸たちはふたたびこう言ったよ。
「魏の国が初めて封じられるとき、皇帝はよく考えて、たくさんの役人たちと相談したうえで、正式に任命したよ。でも、あなた(曹操)は長いあいだその意向に従わなくて、大きな礼をすぐには受けなかったんだ。今すでにつつしんで詔に従って命令を受け入れて、人々の望みにもかなっているのに、さらに多くを辞退して少しだけ受け取ろうとして、9つのうち1つだけを受けると言っているよね。まるで漢の朝廷が賞を与えなかったみたいで、私たちの願いもまだ受け入れられていないということなんだ。
昔、斉や魯が封ぜられると、東の海までを広く領地として、領地も税も整っていて、400万の家があったよ。もとがしっかりしていて領地も広かったから、功績をあげやすくて、だから天子の補佐や天下を正して治めるといった偉大な業績をできたよ。でも今の魏の国は10つの郡があるけど、曲阜(魯)よりも少ないし、その家の数を数えてみても半分にも届かないんだ。王室を守るための支えとして、垣や壁のような役目を果たすには、まだ十分とは言えないよ。
それに、今の皇帝は、秦が助ける者もいなくて滅びたことをよく知っていて、昔のように世の中が大きく揺れ動いた苦しみを戒めとして、忠義と賢さを持つ者に国を支えさせようとしているよ。どうかあなたがつつしんで帝の命令を受けて、どうかこれを拒まないでほしいんだ」
曹操はやっとその命令を受け入れたよ。
魏略載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郎署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達。會董卓作亂,義當死難,故敢奮身出命,摧鋒率衆,遂值千載之運,奉役目下。當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領。賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其間。
『魏略』によると、曹操は上書して感謝してこう言ったよ。
「私は先の皇帝(霊帝)から厚い恩を受けて、郎署に入り官職に就くことができたよ。でも、生まれつき怠けがちで、それでいて望みはすでに満たされていて、高い地位を求めて出世しようなんて思ってなかったんだ。でも、董卓が乱を起こして、義として国のために命をかけるべきだと思って、思い切って身を投げ出して、先頭に立って人々を率いたよ。こうして千年に一度ともいえるめぐりあわせに出会って、陛下(献帝)のそばで仕えることになったんだ。
袁紹と袁術の二人が激しく争って、こちらに攻めこんできたときには、陛下と私は一緒に不安になって、心配していたの。都(洛陽)を振り返りながら、強い敵に立ち向かって、いつも君主も臣下も危険なところに入って命を失うかわからないと、いつも恐れていたんだ。正直、自分がこうして無事に生き残れるとは思ってもいなかったよ。
国を建てた先祖の皇帝たちの霊が私たちに力をくれたおかげで、悪い敵は滅び去って、私のようなつまらない者でも、その中で名を得ることができたの。
陛下加恩,授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也。口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永無憂責。不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊、魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據。
陛下はさらに恩を与えて、私に高い位(丞相)を授けて、爵位や俸禄も与えてくれたよ。その厚い恵みはとても大きくて、私が一生のあいだに願っていたこと以上で、もともと望んでいたものではなかったんだ。私は心の中で、ただ罪をいただいて控えている者として、列侯の地位を守って、それを子や孫に残して、すぐれたこの時代に身をまかせて、長く心配も責めもないようにできればよいと考えていたんだ。なのに陛下は、すごく大きな気持ちを起して、国を開くくらいの厚い九錫を備えて、私のようなつまらない者に与えようとしたよ。斉(呂望)や魯(周公)に並ぶくらいで、礼の扱いも諸侯の王と同じなんだ。でも私は功績が足りなくて、もともとこのような地位を受けるべき者ではないよ。
歸情上聞,不蒙聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰偪迫。伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜退,令就初服。今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩。天威在顏,悚懼受詔。」
私の辞退の気持ちは許されなくて、きびしい命令が重ねて出されたんだ。だから、私の心は上を見ても下を見ても押しつめられるようで、とても苦しい思いをしているの。よく自分で考えてみると、私はすでに重要な臣下の一人として、王室のことを決める立場にあるよ。この身はもはや自分だけのものではないんだ。どうして自分のことだけを考えて、つまらない自分の考えを通し、かえって身を引いてしまうことができるの? 今、領地を受け取って、王室を守る役目を担うのだから、遠い先のことまで望むわけではないけど、後の世のことも考えているよ。そして、父と子で誓い合って、生涯を終えるまで、この身を尽くして命をささげて、厚い恩に応えるよ。天子の威厳ある姿を前にして、恐れつつしみながら、この命令を受けるね」
秋七月,始建魏社稷、宗廟。天子娉公三女為貴人,少者待年於國。(註112)九月,作金虎臺,鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月,分魏郡為東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、六卿。(註113)
秋の七月、魏の社稷(朝廷)と宗廟(祖先の廟)を建て始めたよ。天子は曹操の3人の娘を貴人として迎えたよ。そのうち年の若い娘は、年ごろになるまで魏の国で待つことになったよ。
九月、金虎台を築いて、運河を掘って漳水の水を白溝に引き入れて、黄河につなげたんだ。
冬の十月、魏郡を東と西の2つに分けて、それぞれに都尉を置いたよ。十一月、初めて尚書、侍中、六卿を置いたよ。
獻帝起居注曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納娉,介者五人,皆以議郎行大夫事,副介一人。
『献帝起居注』によると、使持節で太常を代行する大司農で安陽亭侯の王邑を使者として、玉や絹織物、黒と赤の絹、さらに5万匹の絹を持たせて、鄴に行って、婚礼の贈り物を納めさせたよ。付き添いは5人で、みんな議郎として大夫の仕事を代行して、さらに補佐の付き添いが1人いたよ。
魏氏春秋曰:以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽為侍中。
『魏氏春秋』によると、荀攸は尚書令、涼茂は僕射、毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔は尚書、王粲、杜襲、衛覬、和洽は侍中に任命されたよ。