はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、潼関の戦いだよ。
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 3
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- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 6
- 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
潼関の戦い
十六年春正月,(註91)天子命公世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
建安16年(211年)、春の正月、天子は曹操の世子の曹丕を五官中郎将に任命して、彼に役人を付けて、丞相の副官としたよ。太原の出身の商曜たちが大陵で反乱を起こして、その鎮圧のために夏侯淵と徐晃を送って、包囲して撃破したよ。それに、張魯が漢中を占拠していたから、三月に、鍾繇に彼を討たせたよ。曹操は夏侯淵たちを河東から出発させて、鍾繇と合流させたよ。
魏書曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戶。
『魏書』によると、庚辰の日、天子は命令を下してこう言ったよ。数を5,000戸減らして、3つの県の1万5,000戸を曹操の3人の子たちに分け与えて、曹植は平原侯、曹拠は范陽侯、曹豹は饒陽侯になったよ。それぞれ5,000戸の領地だよ。
是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關,公勑諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰。」
この時、関中の将たちは疑いを抱いて、鍾繇を攻撃しようと考えたよ。馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜たちと一緒に反乱を起こしたんだ。曹操は曹仁に彼らを討たせたよ。馬超たちは潼関に拠点を築いて、曹操は将たちにこう命令したよ。
「関西の兵は強いから、城壁を堅くして、敵と戦わないように」
関西は、函谷関から西の地域を指すよ。
秋七月,公西征,(註92)與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西為營。公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,(註93)循河為甬道而南。
秋の七月、曹操は西に進軍して、馬超たちと潼関を挟んで軍を展開したよ。曹操は激しく戦い合って、徐晃や朱霊たちを夜に蒲阪津を渡らせて、黄河の西側に陣営を張ったよ。
曹操自身も潼関を北に渡り始めたけど、まだ渡り切っていないところで、馬超が船に向かって急襲してきたの。校尉の丁斐が、牛や馬を放って敵をおびき寄せると、敵は乱れて牛や馬を奪いに行ったから、その間に曹操は渡れたんだよ。その後、河沿いを進んで、小道を作りながら南へ進んだんだよ。
魏書曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」
『魏書』によると、議論する人たちの多くはこう言ったよ。
「関西の兵は強力で長槍に熟練していて、選りすぐりの前衛部隊でなければ、対抗できないよ」
でも、曹操は将たちにこう言ったんだ。
「戦いは私たちにかかっているんだ。敵は長槍を熟練していても、私が刺せないようにしよう。みんなはただそれを見ていればいいよ」
曹瞞傳曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起。張郃等見事急,共引公入船。河水急,北渡,流四五里,超等騎追射之,矢下如雨。諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。公大笑曰:「今日幾為小賊所困乎!」
『曹瞞伝』によると、曹操が黄河を渡ろうとしていて、前線の部隊が渡り始めたところで、馬超たちが急襲してきたんだ。でも、曹操は胡牀(腰掛け)に座ったまま動こうとしなかったんだ。張郃たちは危機を感じて、曹操を船に引き入れたよ。水は流れが速くて、北へ渡るときに4から5里も流されちゃったの。馬超たちの騎兵が追いかけてきて矢を放って、雨みたいに降り注いだよ。将たちは軍が敗れたと見て、曹操がどこにいるのかわからなくて、みんな怖がっていたんだ。でも、曹操が現れると、彼らは喜んだり涙を流したりしたよ。すると曹操は大笑いしてこう言ったよ。
「今日はちょっと小さな敵に困らされてしまうところだったな!」
賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,夜,分兵結營於渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許。九月,進軍渡渭。(註94)
敵は退いて、渭水の河口で抵抗したよ。そこで、曹操はたくさんのおとりの兵を配置して、こっそりと船で兵を渭水に送って、浮橋を作ったよ。夜になって、兵を分けて渭水の南に陣営を張ったよ。敵は夜に陣営を襲撃してきたけど、伏兵がこれを撃破したよ。馬超たちは渭水の南に駐屯して、使者を送って、黄河の西側を分けて譲ることで和平を申し入れたけど、曹操はそれを拒否したよ。
九月、渭水を渡って進軍したんだ。
曹瞞傳曰:時公軍每渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。
『曹瞞伝』によると、当時、曹操の軍が渭水を渡るたびに、馬超の騎兵に妨害されちゃって、陣営を作れなくて、土地は砂だらけで、塁壁を築けなかったんだ。婁圭は曹操にこう提案したよ。
「今日は寒いから、砂を積み上げて城を築いて、水をかけて凍らせれば、一晩で完成するよ」
曹操はこれに従って、絹の袋をたくさん作って水を運んで、夜に兵たちが城を作ったよ。明け方には城が完成! 曹操の軍は渭水を渡れたよ。でも、この時期は九月で、「水が氷る季節ではないよね?」って、一部の人たちは不思議に思ったんだって。
臣松之案魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!
裴松之が調べたところ、『魏書』から考えると、曹操の軍は八月に潼関に着いて、閏月に黄河を渡ったとあって、その年は閏八月になるはず。だから、こんなに寒くなることはないよね!
超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。旣罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。(註95)
馬超たちは何度も戦いを挑んだけど、曹操は応じなかったの。彼らは領土を分けて、さらに人質を送るように頼んできたけど、曹操は賈詡の策略を使って、偽って承諾したよ。
韓遂が曹操に会うことを求めたよ。曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉になって、それに曹操は韓遂と同じ時期に活躍した仲間だったんだ。馬の上で時間を過ごして、軍事の話題は避けて、都の古い出来事や思い出話を楽しむことにして、手を叩いて笑ったよ。面会が終わった後、馬超たちは韓遂に尋ねたよ。
「曹操は何を話したの?」
韓遂は答えたよ。
「何も話していないよ」
馬超たちは韓遂を疑ったよ。
魏書曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可為木行馬以為防遏。」公然之。賊將見公,悉於馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「爾欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後大觀。又列鐵騎五千為十重陣,精光耀日,賊益震懼。
『魏書』によると、曹操はふたたび韓遂たちと会話したんだって。でも、将たちは曹操にこう提案したよ。
「あなたは敵と軽々しく話すべきではないよ。馬を防ぐ柵を作って、警戒しようよ」
曹操はすぐにこれに賛成したの。敵の将たちは曹操を見て、みんな馬の上で礼をしたよ。秦(関中)や胡族の見物人たちは前後に重なって列を作ったよ。曹操は笑って彼らにこう言ったよ。
「あなたたちは曹操を見たいの? 私もまた普通の人間で、4つの目や2つの口は持っていないよ。ただし、知恵が豊かなんだ!」
特に胡族の人たちは興味津々だったよ。さらに、曹操は鉄騎5,000人を並べて十重の陣を組んで、その光り輝く姿が太陽で照らされて、敵はますます震え上がっちゃった。
他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良乆,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。
ある日、曹操はさらに韓遂に手紙を送ったよ。手紙には、あちこちに手を加えたところがあって、韓遂が修正したように見せかけたんだ。このせいで、馬超たちはますます韓遂を疑ったんだ。
その後、曹操は日を決めて彼らと戦うことになったよ。最初に軽装の兵を前に進めて敵を挑発して、長い戦闘の後、虎騎(親衛隊)を放って包囲して、大勝利を収めたよ! 成宜や李堪たちを斬ったよ。韓遂と馬超たちは涼州に逃げちゃって、楊秋は安定に逃げたんだ。関中は平定されたよ。
諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉衆南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。連車樹柵,為甬道而南,(註96)旣為不可勝,且以示弱。渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變化,固非一道也。」
将たちの中に曹操に尋ねる人がいたよ。
「初めに、敵が潼関を守っていて、渭北の道がれていたよね。どうして河東から馮翊を攻撃しないで、逆に潼関を包囲して、日が経ってから北に渡ったの?」
曹操はこう答えたよ。
「敵が潼関の守りを固めている間に、もしも私たちが黄河の東に進攻したら、敵は必ず津に兵を引いて守りを固めちゃうよ。そうなったら黄河の西を渡ることは難しくなっちゃうよね。だから、私は兵を増やして潼関に向かったんだよ。敵は南を全軍で守って、西の守りが薄くなったよ。それで、2人の将が西を簡単に占拠できたんだ。その後、軍を北に渡したけど、敵が私たちと黄河の西で争うことができなかったのは、2人の将の軍があるからだよ。そして、戦車を連ねて、柵を設けて、小道を作って南に進んだよ。これで、私たちは先に敵が勝てないようにしただけではなくて、私たちの弱点を見せることもできたよ。私たちは渭河を渡る時、しっかりした防御を築いたから、敵が来ても出撃しなかったよ。このおかげで、敵を慢心させることができたよね。だから、敵は陣営を張らないで、代わりに領土を分けるように求めたんだ。私がその提案に従って、彼らの望みを受け入れたのは、彼らを安心させて、備えを怠らせるためだよ。そして、兵たちの力を蓄えて、一度に攻撃したよ。つまり、迅雷みたいに追いつけないほど速くて、軍事の変化はひとつの方法だけではないことを示したの」
臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也。」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。
裴松之が調べたところ、漢の高祖2年(前203年)に、滎陽の京と索の間で楚と戦った時、小道を築いて黄河を渡って、敖倉の粟を取った記録があるよ。応劭は「敵が補給物資を襲撃するのを恐れて、垣根や壁を街路みたいに作ったんだよ」と言っているよ。曹操は垣根や壁を築かないで、代わりに両側を防ぐために車をつないで柵を立てたんだよ。
始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。公荅曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其衆雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,為功差易,吾是以喜。」
はじめは、敵が着くたびに、曹操はいつも喜んでいたよ。敵が撃破された後、将たちがその理由を尋ねたんだ。曹操は答えたよ。
「関中は広くて、もし敵がそれぞれ堅固な場所に隠れて抵抗したら、これを攻め落とすには 1年から2年はかかっちゃう。でも、彼らがここに集まってきた今、たくさんの兵がいるけど、お互いに統率がなくて、軍には適した指導者もいないよ。だから、一気に彼らを撃破すれば、功績を得やすいよね。それが私の喜びの理由なの」
冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民人。(註97)十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安。
冬の十月、軍は長安から北に進軍して、楊秋を攻めて安定を包囲したよ。楊秋は降伏して、前と同じ爵位を与えられて、民をなだめるように命令されたよ。十二月、軍は安定から撤退して、夏侯淵を長安に駐屯させたよ。
魏略曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終。
『魏書』によると、楊秋は、黄初の年号の間(220~226年)に討寇将軍に昇進して、特進の位を得て、臨涇侯に封ぜられたよ。後に老齢で亡くなったよ。
臣下の最高位になる
十七年春正月,公還鄴。天子命公贊拜不名,入朝不趨,劔履上殿,如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衞國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。
建安17年(212年)、春の正月、曹操は鄴に帰ってきたよ。天子は曹操に、名前を呼ばないで奏上して、朝廷に入るときに小走りをしないで、剣を帯びたまま殿に上がらせるようにしたよ。蕭何の例にならったものだよ。
一方で、馬超の残党の梁興たちは、藍田に駐屯していたから、曹操は彼らを平定するために夏侯淵を送ったよ。
河内郡の蕩陰、朝歌、林慮と、東郡の衛国、頓丘、東武陽、発干と、鉅鹿郡の廮陶、曲周、南和、広平の任城と、さらに趙の襄国、邯鄲、易陽の地域を魏郡に加えたよ。
賛拝不名とは、敬意を表するために相手の名前を直接呼ばないで、間接的に尊敬の念を示す表現方法だよ。
入朝不趨とは、朝廷に出仕する際に小走りで駆けつけることなく、帝と同じように落ち着いて足を運ぶことだよ。普通は、帝に謁見するとき小走りをしなくてはいけないんだ。
劔履上殿とは、剣を帯びたまま朝廷に上ることだよ。普通は、武具を持って帝に会うのはダメだよ。つまり、身分が皇家と同じになったことを表しているんだね。
蕭何は、劉邦の側近のひとりだよ。関中を安定させた功績から、上記の 3 つの特権を得た人だよ。『史記』「蕭相国世家」の「於是乃令蕭何,賜帶劍履上殿,入朝不趨。」から。
濡須口の戦い
冬十月,公征孫權。
冬の十月、曹操は孫権を征伐するために出発したよ。
十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。詔書并十四州,復為九州。夏四月,至鄴。
建安18年(213年)、春の正月、曹操は濡須口に進軍したよ。孫権の軍が守る長江の西の陣営を撃破して、孫権の都督(軍の指揮官)の公孫陽を捕らえたよ。その後、軍を引き返したよ。詔書によって、14州を併せて、9州に再編成されたんだ。夏の四月、鄴に着いたよ。
魏公になる
五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公(註98)(註99)曰:朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷于唐、衞。當此之時,若綴旒然,(註100)宗廟乏祀,社稷無位;羣凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,即我高祖之命將墜于地。朕用夙興假寐,震悼于厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,(註101)其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育丞相,保乂我皇家,弘濟于艱難,朕實賴之。今將授君典禮,其敬聽朕命。
五月の丙申の日、天子は御史大夫の郗慮に節を持たせて、曹操に対して魏公の爵位を授ける詔を出したよ。詔にはこう述べられているよ。
「私は徳が無くて、幼い頃から災難に遭っていたんだ。西の土地(長安)に逃れて、唐や衛へと移り住むことになったよ。この時は、まるで飾りがついた旗みたいで、宗廟は祭祀ができなくて、社稷は位を失っていたよ。たくさんの悪人たちがいて、国は分裂して、国の民を率いていたけど、私は彼らを制する術がなかったんだ。私の高祖(劉邦)の命が果たされないまま、地に落ちようとしているよ。私は朝早くに起きて、寝ることを我慢して、心の底から悲しんでいたんだ。『祖先、父や母、私を助けて支え続ける臣下たち、誰が私のことを思ってくれるの?』って。そこで、天の意志が導いて、丞相を育てて、我が皇室を安定させて、困難な時に助けてくれたんだ。私は本当にあなたに感謝しているよ。今、私はあなたに典礼を授けるよ。私の命令を聞いてほしいな。
續漢書曰:慮字鴻豫,山陽高平人。少受業於鄭玄,建安初為侍中。
『続漢書』によると、郗慮は、字は鴻豫で、山陽郡高平県の出身だよ。幼い頃に鄭玄から教育を受けて、建安初年(196年)には侍中に任命されたんだ。
虞溥江表傳曰:獻帝甞特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權。」慮舉笏曰:「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦。公以書和解之。慮從光祿勳遷為大夫。
虞溥の『江表伝』によると、献帝は郗慮と少府の孔融を会わせたとき、孔融にこう尋ねたんだ。
「郗慮の長所は何?」
孔融は答えたよ。
「彼は一緒に道を進むことはできても、臨機応変には対応できないよ」
郗慮は笏を挙げて、こう言ったよ。
「孔融は昔、北海を治めていたけど、政治は混乱しちゃって、民は流れ散っていったよ。その政治手腕はどこにあるの?」
そして、ふたりはお互いに長所と短所を挙げ合って、仲が悪くなったんだ。後に、曹操が手紙を送って、和解させたよ。
郗慮は、光禄勲から御史大夫に昇進したよ。
「可與適道,未可與權。」は、『論語』「子罕」の「可與共學,未可與適道;可與適道,未可與立;可與立,未可與權。」から。孔融さんは自分の先祖である孔子の言葉を使ったんだね。
(註100)公羊傳曰:「君若贅旒然。贅猶綴也。」何休云:「旒,旂旒也。以旒譬者,言為下所執持東西也。」
『春秋公羊伝』によると、「君主は贅旒みたいだったよ。贅は飾り物だよ」とあるよ。
何休はこう言ったよ。
「旒とは旗のことだよ。贅は旗の飾りを意味していて、下の者たちが持つ旗みたいなものになったことを言ってるんだね」
文侯之命曰:「亦惟先正。」鄭玄云:「先正,先臣。謂公卿大夫也。」
『書経』「文侯之命」によると、「これもまた先正によるものだよ」とあるよ。
鄭玄はこう説明したよ。
「先正とは、先に立つ臣下たちのこと。つまり、公卿や大夫たちを指すんだ」
昔者董卓初興國難,羣后釋位以謀王室,(註102)君則攝進,首啟戎行,此君之忠于本朝也。
昔の話になるけど、董卓が初めて国難を起こした時、たくさんの諸侯たちが位を捨てて王室を助けようとしたよ。あなたは進んでその責務を引き受けて、戦いの指導者として立ち上がったよね。これはあなたの忠が朝廷に対してあることを示しているよ。
左氏傳曰:「諸侯釋位以間王政。」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室。」
『春秋左氏伝』によると、諸侯は位を捨てて、王朝の政治に介入したよ。服虔は、こう言ったよ。
「諸侯が自分たちの政治を捨てて、王朝を助けた」
後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之,以寧東夏,此又君之功也。
その後、黄巾の乱が起こって広がって、私たちの3つの州(青州、冀州、兗州)を脅かして、民まで巻き込まれたけど、あなたはそれを鎮圧して、東の地域を安定させたよね。これもあなたの功績だよ。
韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物,天地鬼神於是獲乂,此又君之功也。
韓暹や楊奉が権力を乱用したけど、あなたは彼らを討伐して、その困難をに勝ったよね。許に都を移して、私たちの都を整備して、官職を設けて、祭祀を行って、昔のもの(古い制度や物)を失うことなく、天と地の神霊は調和して、平和が訪れたよね。これもあなたの功績だよ。
袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也。
袁術は反乱して、淮南でやりたい放題していたけど、あなたの霊が立派な作戦をめぐらせることを恐れたよ。蘄陽の戦いで、橋蕤が首を差し出すなど、その威は南に広がって、袁術は敗れたよね。これもあなたの功績だよ。
迴戈東征,呂布就戮,乘轅將返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也。
東への遠征で、呂布を討伐したよね。車に乗って引き返す時に張楊も討たれて、眭固は罪に問われて、張繡も降伏したよね。これもあなたの功績だよ。
袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃其衆,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,(註103)俾我國家拯於危墜,此又君之功也。
袁紹が反乱して、天下に混乱をもたらして、国家を危うくしたよ。彼は、たくさんの兵を持っていて、侮っていたよ。その時、天子の軍は少なくて弱かったから、国家全体が危機に直面していたよ。でも、あなたは大節を持って、忠誠心を表して、怒りを振りかざして、神策を使って、官渡で悪者たちを滅ぼして、国を危機から救ったんだ。これもあなたの功績だよ。
詩曰:「致天之屆,于牧之野。」鄭玄云:「屆,極也。」鴻範曰:「鯀則殛死。」
『詩経』によると、「致天の極限に達し、野原に至る」という一節があるよ。
鄭玄によると、「屆」は「極限」という意味だよ。『書経』「鴻範」によると、「鯀」は誅殺されたという意味だよ。
濟師洪河,拓定四州,袁譚、高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也。
黄河を渡って、4つの州を平定して、袁譚と高幹の首を討ち取って、海賊を追い払って、黒山賊を従わせたよね。これもあなたの功績だよ。
烏丸三種,崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也。
烏丸の3種族は、2世代にわたって乱を続けて、袁尚はこれを利用して、北部の塞を占拠したよ。けれど、あなたは馬や車を使って、一度の遠征で烏丸族を滅ぼしたよね。これもあなたの功績だよ。
劉表背誕,不供貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也。
劉表は命令に背いて、貢ぎ物の義務を果たさなかったよ。だから、あなたの軍が進撃して、その威勢は先に進んだよ。100の城や8つの郡が降伏したよね。これもあなたの功績だよ。
馬超、成宜,同惡相濟,濵據河、潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也。
馬超と成宜は一緒に反乱を計画して、黄河と潼関に拠点を築いて、自分勝手な欲望を求めたよ。でも、あなたは彼らを渭南で撃破して、万もの討ち取った首を捧げて、国境を安定させて、異民族をおさめたよね。これもあなたの功績だよ。
鮮卑、丁零,重譯而至,箄于、白屋,請吏率職,此又君之功也。
鮮卑族や丁零族が何度も訪れて降伏してきたよね。箄于や白屋は役人を送って、朝廷の統治を受け入れたよ。これもあなたの功績だよ。
君有定天下之功,重之以明德,班敘海內,宣美風俗,旁施勤教,恤慎刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也。
あなたは、天下を安定させて、その上に徳を示して、国内の秩序を整えて、良い風習を広めて、教育を奨励して、刑罰を公平に適用して、役人に不当な政治をさせないで、民に邪悪な考えはなくなったよ。それに、帝を尊重して、絶えた家を再興して、昔の功績と美徳を適切に評価して官位を与えたよ。伊尹の徳が天に届いて、周公旦の徳が天下に光をもたらした例に並ぶよ。
朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩衞王室,左右厥世也。
聞いたんだけど、先代の君主たちは明徳がある人を並べて封建して、土地を授けて人に分け与えて、その恩恵を崇めて、礼の物をそろえたんだって。王室を守るために世を補佐させたんだ。
其在周成,管、蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登為侯伯,錫以二輅、虎賁、鈇鉞、秬鬯、弓矢,大啟南陽,世作盟主。故周室之不壞,繄二國是賴。
周の成王の時代、管叔と蔡叔が世を乱したよ。そこで功績を挙げるために邵康公(召公奭)は斉の太公(呂尚)に履物を与えて、東は海、西は黄河、南は穆陵、北は無棣まで、五侯九伯に対して征討できるようにしたんだ。これで、太師(天子の補佐)の称号を代々受け継いで、東海を統治して実績を示したよ。さらに、襄王の時代にも、楚の人たちが王の役割を果たさなかった(貢ぎ物を贈らなかった)から、晋の文公を侯伯に任命して、二輌の車、虎賁(王の護衛)、鈇鉞(大きな斧)、秬鬯(祭りの酒)、弓矢を与えたよ。それによって、南陽の領土を拡げて、世を超えて盟主として名を馳せたよ。周の王室が滅びなかったのは、このふたつの国に支えられたおかげだね。
今君稱丕顯德,明保朕躬,奉荅天命,導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,(註104)功高于伊、周,而賞卑於齊、晉,朕甚恧焉。朕以眇眇之身,託于兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉。
今、あなたの徳を高く評価して、私を守って、天命に従って、偉大な業績を挙げて、国の全土を平定したから、従わない人はいなくなったよ。あなたの功績は伊尹や周公旦と同じくらいすごいのに、賞は斉や晋のときよりも少なくて、私はすごく残念に思っているんだ。私は小さな存在でありながら、たくさんの人たちの上に託されて、いつも厳しい状況に挑んで、まるで凍った川を渡るみたいな思いでいるよ。あなたがいなかったら、私は無力だと思うよ。
盤庚曰:「綏爰有衆。」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其衆也。」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾。」率,循也。俾,使也。四海之隅,日出所照,無不循度而可使也。
『書経』「盤庚」によると、「綏爰にはたくさんの人々がいるよ」とあるよ。鄭玄によると、「爰」は、中で隠れて安全であることを意味するよ。
『書経』「君奭」によると、「海の端から日が昇って、誰もみんなが従って行動する」とあるよ。「率」は周りに従って進むことを意味するよ。「俾」は動きを与えることを意味するよ。四方の海岸線から太陽が昇ると、みんな周りに合わせて進むってことだね。
今以兾州之河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原凡十郡,封君為魏公。
今、冀州の河東、河内、魏郡、趙国、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原の合わせて10の郡の地域で、あなたを魏公に封じるよ。
錫君玄土,苴以白茅;爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公、毛公入為卿佐,周、邵師保出為二伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領兾州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。
あなたには黒い土を白い草で包んで授けよう。そこにあなたの祖先の墓を建てて、先祖の神を祀ろう。昔、周では、畢公と毛公が朝廷の補佐として活躍して、周公旦や召公奭といった天子の補佐が伯(諸侯の長)になったよ。外交と内政の両方の責務をあなたに託したいな。そして、あなたには九賜を授けるよ。私の命令を敬って従ってね。
黒い土は北の土だよ。土地の土を白い草で包むのは、領地にすることを示しているよ。土の色は、北は黒色(草原の土)、東は青色(海の近くの土)、南は赤色(長江中流域の土、赤壁もそれだね)、西は白色(砂漠の土)、中央が黄色(黄河流域、黄土高原の土)なんだって。
以君經緯禮律,為民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。
あなたは民のために礼法や法律を守って、民の規範になって、民に仕事と安定をもたらして、彼らの志を変えることなく導いたよ。だから、あなたに大輅(天子の乗る車)と戎輅(軍事に使う車)をそれぞれ1台と、黒い馬8頭を授けるよ。
君勸分務本,穡人昏作,(註105)粟帛滯積,大業惟興,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。
あなたは財産を分けて農業を奨励して、人たちが一生懸命働いて、穀物と織物を豊かに生み出すことで国家の繁栄を促進しているよ。だから、あなたに衮冕(天子の礼服)と、赤舄(赤い履物)を授けるよ。
盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞。」鄭玄云:「昏,勉也。」
『書経』「盤庚」によると、「農民は自分の土地で安心して働いて、怠けずに努力する」という一節があるよ。
鄭玄によると、「昏」は一生懸命に力を尽くして努めるという意味だよ。
君敦尚謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞。
あなたは謙虚で礼を勧めて、民にその振る舞いを促して、年長者も年少者がお互いに敬意を払って、上下の人々が調和し合うよう奨励しているよ。だから、あなたに軒縣の楽器と六佾の舞(六重の舞)を授けるよ。
君翼宣風化,爰發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居。
あなたは美しい風紀と文化を広めて、四方から人たちが感化されて、遠方の人たちが風習を改めて、中原を繁栄させているよ。だから、あなたに赤い戸を授けて住む場所を提供するよ。
君研其明哲,思帝所難,官才任賢,羣善必舉,是用錫君納陛以登。
あなたは深い知恵を磨いて、帝の難題を解決しようと努力して、官職には才能ある人を任命して、優れた人たちを必ず昇進させているよ。だから、あなたに登壇するための段を授けて殿上に登らせるよ。
君秉國之鈞,正色處中,纖豪之惡,靡不抑退,是用錫君虎賁之士三百人。
あなたは国の政治を率いて、公正な態度のままで、小さな悪に対しても抑止して、排除しているよ。だから、あなたに虎賁(帝の護衛)の兵300人を授けるよ。
君糾虔天刑,章厥有罪,(註106)不誅殛,是用錫君鈇鉞各一。
あなたは法に忠実で、罪がある人を明らかにして、法を破る人や規律を犯す人を容赦しないで処罰しているよ。だから、あなたに鉄と斧を1つずつ授けるよ。
「糾虔天刑」語出國語,韋昭注曰:「糾,察也。虔,敬也。刑,法也。」
「糾虔天刑」という言葉は、『国語』からの出典だよ。韋昭の注釈によると、「糾」は察する、調べること、「虔」は敬うこと、「刑」は法のことなんだって。
『国語』「魯語下」から。
君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千。
あなたは龍みたいに飛躍して、虎みたいに鋭い視線を持っていて、八方を見渡して、反逆者を討って、四方に勢力を広げたよ。だから、あなたに赤い弓1本、赤い矢100本、黒い弓10本、黒い矢1,000本を授けるよ。
君以溫恭為基,孝友為德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。
あなたは温和で謙虚で、孝と友を大切にして、聡明で誠実で、私の心は感動したよ。だから、あなたに秬鬯の酒を1つと珪瓚(玉製の杯)を授けるよ。
魏國置丞相已下羣卿百寮,皆如漢初諸侯王之制。往欽哉,敬服朕命!簡恤爾衆,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命!(註107)(註108)(註109)
魏国は、丞相から下の百官(官僚)を置いて、みんな漢の初め頃の諸侯王の制度に従うんだ。あなたたちはこれを聞いて、私の命令に敬意を表して、国を治める時には民を選んで、時には功績をたたえて、最終的にはあなたたちの優れた徳を示して、私の高祖(劉邦)の命令を受け継いで、誇り高き使命を果たしてね!」
後漢尚書左丞潘勗之辭也。勗字元茂,陳留中牟人。
後漢の尚書左丞の潘勗の言葉だよ。潘勗は、字は元茂で、陳留郡中牟県の出身だよ。
魏書載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也。漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,刱定王業,其功至大,吾何可比之?」前後三讓。
『魏書』によると、曹操は命令を下してこう言ったよ。
「九錫を受けて、広大な領土を拡げた、その人こそが周公旦だよ。漢の時代の姓の異なる8人の王たちは高祖(劉邦)と同じ庶民の身から台頭して、国をつくり上げたの。とてもすごい功績だけど、どうして私はそれに並ぶの?」
そして、3回にわたって辞退したんだ。
「漢之異姓八王者」は、『史記』「恵景間侯者年表」に「昔高祖定天下,功臣非同姓疆土而王者八國。」と記述があるよ。楚王の韓信、梁王の彭越、韓王の韓王信、長沙王の呉芮、淮南王の黥布、燕王の臧荼、趙王の張耳、燕王の盧綰。
於是中軍師王凌、謝亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜將軍華鄉侯劉勳、建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉展、建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程昱、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、都亭侯薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍國明亭侯曹洪、中領軍萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸等勸進曰:
だから、中軍師の王凌、謝亭侯の荀攸、前軍師で東武亭侯の鍾繇、左軍師の涼茂、右軍師の毛玠、平虜将軍で華郷侯の劉勳、建武将軍で清苑亭侯の劉若、伏波将軍で高安侯の夏侯惇、揚武将軍で都亭侯の王忠、奮威将軍で楽郷侯の劉展、建忠将軍で昌郷亭侯の鮮于輔、奮武将軍で安国亭侯の程昱、太中大夫で都郷侯の賈詡、軍師祭酒で千秋亭侯の董昭、都亭侯の薛洪、南郷亭侯の董蒙、関内侯の王粲、傅巽、祭酒の王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍で国明亭侯の曹洪、中領軍で万歳亭侯の韓浩、行騎驍将軍で安平亭侯の曹仁、領護軍将軍の王図、長史の万潜、謝奐、袁覇たちが曹操に勧めてこう言ったよ。
「自古三代,胙臣以土,受命中興,封秩輔佐,皆所以襃功賞德,為國藩衞也。徃者天下崩亂,羣凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言。明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已來,未有若此功者。
「古代の三代(夏・殷・周)の王朝で、権威を委ねられた臣下は土地を授かって、命を受けて国家の中興を担って、位や役職を授けられて、功績を評価されて、国を守る役割を果たしてきたよ。でも最近は、天下は乱れて、悪い人たちや権力者がたくさんいて、乱れ放題になっちゃって、言葉では言い表せないほど深刻な状況だよね。明公(曹操)は、自身を犠牲にして困難に立ち向かって、2人の袁氏(袁紹と袁術)の反乱者を討って、黄巾賊やその仲間たちを滅ぼして、反乱する敵を討伐して、荒廃を取り除くために、20年以上も霜や露の中で戦い続けてきたよね。その功績はこれまでにないもので、書物にも記録のない偉業だよ。
昔周公承文、武之迹,受已成之業,高枕墨筆,拱揖羣后,商、奄之勤,不過二年,呂望因三分有二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國。周公八子,並為侯伯,白牡騂剛,郊祀天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也。
昔、周公旦は周の文王と武王の業績を受け継いで、すでに完成した事業を引き継いだよ。彼は枕を高くして筆を執って、諸侯に礼を尽くして、殷と奄の征伐はたった2年で終わったよ。呂望(呂尚)は天下の三分の二を握って、800の侯たちの広大な領地を統一して、しばらく大国を指揮したよ。ふたりとも、国土を広げて、たくさんの州と国を支配したんだ。周公旦の8人の子供たちは、みんな侯や伯になったんだって。白い牛と赤い牛を使って天や地を祭って、政策や物資を整えて、王室に並ぶ位置になったよ。その栄光と繁栄はとても大きかったんだ。
逮至漢興,佐命之臣,張耳、吳芮,其功至薄,亦連城開地,南面稱孤。此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制。今比勞則周、呂逸,計功則張、吳微,論制則齊、魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也。
漢の興隆を考えると、天命を助けた臣下である張耳や呉芮の功績は薄かったかもしれないけど、城を築いたり土地を開墾したりして、南で君主になったよ。これらは、賢明な君主が上で指導して、賢明な臣下と聖明な宰相が下でそれを受け継ぐことによって成されたからで、三代(夏・殷・周)の優れた法典と、漢の帝の明確な制度に基づいているよ。
今、あなたの功績は、周公旦や呂望に並ぶほどで、張耳や呉芮には劣らないよ。制度的には斉(呂望)や魯(周公旦)が重要で、土地は長沙(呉芮)がたくさんの価値があるよね。だから、魏国への土地や賞や九錫の栄誉は、玉を抱えながら茶色い服を着ているようなものだね(才能を持っているのに粗末で足りないよね)。
且列侯諸將,幸攀龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡心,下失冠帶至望,忘輔弼之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也。」於是公勑外為章,但受魏郡。
列侯や将たちは、力のある人に付き従ってわずかな功績を得て、紫色の服を着て黄色い帯を締めているんだって。その数は100人ぐらいだよ。彼らはこれによって後世に伝えられることを望んでいるけど、明公(曹操)は賞を辞退しているよね。だから、下の人たちは不安になっちゃうし、上の人たちは帝の喜びを受けられなくなっちゃうし、尊敬を失うことになると思うよ。冠や帯を身につけたまま最高の地位に達することを忘れて、大業(国家の使命)を支えることを怠って、些細な行動に心を奪われることを、荀攸たち臣下はすごく心配しているよ」
それで、曹操は進言した人以外の人に上奏文を作るように命令して、魏郡だけを受け取ったよ。
攸等復曰:「伏見魏國初封,聖朝發慮,稽謀羣寮,然後策命;而明公乆違上指,不即大禮。今旣虔奉詔命,副順衆望,又欲辭多當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也。昔齊、魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績。今魏國雖有十郡之名,猶減於曲阜,計其戶數,不能參半,以藩衞王室,立垣樹屏,猶未足也。且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是為,願明公恭承帝命,無或拒違。」公乃受命。
荀攸たちはふたたびこう言ったよ。
「魏国が最初に封ぜられた時、帝は慎重に考えて、たくさんの議論がされた後に命令が出されたよ。でも、明公(曹操)は長い間反して、すぐに儀式を行わなかったよね。今、詔に忠実に従って、たくさんの人たちの期待に従ったけど、多くを少なくしたり、九つを受ける代わりに一つを受けたりしたいというのは、まるで漢の朝廷が賞を与えなかったみたいで、私たちの願いもまだ受け入れられていないということだよ。
昔、斉と魯が封ぜられた時、東海を所有して、広大な領土と課税を持っていて、400万の家が存在したよ。その基盤となる土地と資源は豊かで、簡単に功績を積み上げられたよ。だから、翼戴(天子の補佐)や一匡(天下を正して治めること)といった偉大な業績を達成できたんだ。今、魏国は10の郡を持っていると言っても、それは曲阜(魯)に比べて少ないし、人口を計算すると半分にも満たないほどだよ。王室を守って、領土を築いて、防衛するためには、まだ足りないんだ。それに、帝はかつての秦の滅亡と、助けがなかった苦難を振り返りって、忠実で賢明な臣下に託けて国を立て直して、衰退から救うことを望んでいるよね。明公(曹操)が帝の命令を受け入れて、拒否しないことを願うばかりだよ」
曹操はようやく命令を受けたよ。
魏略載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郎署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達。會董卓作亂,義當死難,故敢奮身出命,摧鋒率衆,遂值千載之運,奉役目下。當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領。賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其間。
『魏略』によると、曹操は上書してこう言ったよ。
「私は先帝(霊帝)から厚い恩を受けて、郎署を任されたの。でも、私は生まれ持った性格が怠け者で、望みは叶ったと満足していて、高い地位を望むつもりはなくて、出世したいわけでもなかったんだ。でも、董卓が乱を起こして、私は義をもって死を覚悟しなければならない状況になって、勇敢に身を投じて命を捧げて、敵の先頭を討ってたくさんの兵を率いて立ち向かったよ。偶然、機会に恵まれて、私に役目を託してくれたんだ。
それから、袁紹と袁術が勢いを増して侵略してきちゃって、陛下と私は一緒に心配と恐れを抱いていたの。都(洛陽)を見渡して、猛烈な敵に立ち向かったよ。いつも危険なところに入るのを恐れて、正直、自分では首領を守れるとは思っていなかったよ。先祖の霊が私たちに力をくれたおかげで、悪い人たちを討ち滅ぼして、私のような小さな存在が名を残せたの。
陛下加恩,授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也。口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永無憂責。不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊、魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據。
陛下は私に恩を与えて、私を上相(宰相)に任命してくれたの。爵位と豊かな恩恵と俸禄を授けてくれたよ。生涯の願いとしては、これほどの栄誉を望んだことはなかったんだ。言葉と心が合っていて、陛下の恩をちゃんと返せることを幸運に思って、列侯の地位を守って、後の世代に遺して、すぐれた天子の治める世に託して永遠に憂いなく過ごせるものと思っていたの。陛下が私に対して盛大な恩恵を与えて、国を開いて九錫を与えてくださるとは予想していなかったんだ。斉や魯の王たちに並ぶほどの礼遇を受けさせてくれたことは、私みたいに功績の無い人が受けるべきものではないよね。
歸情上聞,不蒙聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰偪迫。伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜退,令就初服。今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩。天威在顏,悚懼受詔。」
私の辞退の願いは許されなくて、厳しい詔勅が下されたんだ。私は謙遜と不安の中にあることを心から感じているよ。自身を省みると、臣下の一員として、王室の命令に従って、身は自分のものではないと自覚しているから、どうして私心を抱いて愚かな望みを達成できるの? だから辞退して、平民の地位に戻るつもりだったけど、今は国の土地を任されて、藩王の一員としての役割を果たすことになったよ。遠い未来を予見することはできないけど、父と子が一生を通して誓いを守って、命を尽くして厚い恩に報いる覚悟だよ。天子の威が目の前に輝いているから、恐れおののいて詔を受けるよ」
秋七月,始建魏社稷、宗廟。天子娉公三女為貴人,少者待年於國。(註110)九月,作金虎臺,鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月,分魏郡為東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、六卿。(註111)
秋の七月、魏の社稷と宗廟が建てられたよ。天子は曹操の3人の娘を貴人に迎えて、幼い人は年(適齢期)を待ちながら国内で過ごしたよ。
九月、金虎台を作ったよ。白溝まで続く運河を掘って、漳水を通して黄河につなげたんだ。冬の十月、魏郡を東西に分けて、都尉を置いたよ。十一月、初めて尚書、侍中、六卿を置いたよ。
獻帝起居注曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納娉,介者五人,皆以議郎行大夫事,副介一人。
『献帝起居注』によると、行太常、大司農で安陽亭侯の王邑に節を持たせて、玉器、白い布、黒紅い絹、絹を5万匹、鄴に納めたよ。仲介人は5人で、みんな議郎や大夫の役割を果たして、付添いが1人ついたよ。
魏氏春秋曰:以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽為侍中。
『魏氏春秋』によると、荀攸が尚書令に、涼茂が僕射に、毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔が尚書に、王粲、杜襲、衛覬、和洽が侍中に任命されたんだ。