
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、涼州を平定してから魏王になるまでだよ。
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その3
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その4
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その5
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その6 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その7
出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080406涼州の平定
馬超在漢陽,復因羌、胡為害,氐王千萬叛應超,屯興國。使夏侯淵討之。
馬超は漢陽にいて、ふたたび羌や胡と結びついて攻撃してきたんだ。氐の王の千万もそむいて馬超に味方して、興国に陣を置いたよ。曹操は夏侯淵に命令してこれを討たせたよ。
十九年春正月,始耕籍田。南安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平。淵與諸將攻興國,屠之。省安東、永陽郡。
建安十九年(214年)、春の正月、初めて籍田(国のための農地)を耕したよ。
南安の出身の趙衢と漢陽の出身の尹奉たちが馬超を討って、その妻や子供を捕らえて首をさらしたよ。馬超は漢中に逃げちゃった。
一方、韓遂は金城に移って、氐の王の千万のもとに入って、羌や胡の騎兵1万以上の部隊を率いて、夏侯淵と戦ったけど、攻められて大きく敗れて、西平へ逃げたよ。夏侯淵と将たちと一緒に興国を攻めて滅ぼしたよ。さらに、安東郡(南安郡?)と永陽郡を廃止したんだ。
籍田は、田を耕して、収穫した米を祖先に捧げる儀式だよ。
安定太守毌丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人徃。善人難得,必將教羌、胡妄有所請求,因欲以自利;不從便為失異俗意,從之則無益事。」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請為屬國都尉。公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳。」(註114)
安定太守の毌丘興が郡に向かうとき、曹操は注意してこう言ったよ。
「羌や胡が中原と交流したいなら、向こうから人を送ってくるはず。私たちから彼らへ使者を送ってはダメだよ。よい人はなかなか得られないのに、もし使者を送ったら、きっと羌や胡に余計なことを教えて、無理な要求をさせて、それを利用して自分の利益を得ようとする者が出てくるんだ。もしその要求に応じなければ、異民族の気持ちを損ねるし、応じたとしても役に立たないよ」
毌丘興が郡に着くと、校尉の范陵を羌へ送ったよ。范陵はやっぱり羌に教えて、自分たちから「属国都尉を置いてほしい」と願い出るようにさせたんだ。曹操はこう言ったよ。
「私は前からこうなるとわかっていたんだ。これは特別に賢いからではないよ。ただ、経験が多いだけさ」
獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將宂從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二人,與漢公卿並升殿宴。
『献帝起居注』によると、太常を代行する大司農で安陽亭侯の王邑と、宗正の劉艾を送って、二人とも節を持たせて、付き添いの者が5人いたよ。絹織物の束と四頭立ての馬を持たせて、さらに給事黄門侍郎、掖庭丞、中常侍を2人連れて、魏公の国へ行って、2人の貴人を迎えさせたよ。
二月、癸亥の日、あらためて魏の宗廟(祖先の廟)で、2人の貴人に印綬を授けたよ。
甲子の日、曹操の宮殿の延秋門へ行って、貴人を迎えて車に乗せたよ。魏の郎中令、少府、博士、御府、乗黄厩令、丞相の部下たちが付き添って、貴人を送ったよ。
癸酉の日、2人の貴人は洧倉に着いて、朝廷は侍中の丹に虎賁を前後に置いて、駱駝車で迎えに行かせたよ。
乙亥の日、2人の貴人は宮殿に入って、御史大夫や中二千石の地位の役人、大夫や議郎たちが宮殿に集まったよ。魏の二人の重臣と侍中、中郎の2人も加わって、漢の公卿たちと一緒に宮殿に上がって、宴会が開かれたよ。
三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠。(註115)
三月、天子は曹操を諸侯や王よりも上の位に置いて、新しく金の印や赤い綬、遠遊冠を授けたよ。
獻帝起居注曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。
『献帝起居注』によると、左中郎将の楊宣と亭侯の裴茂に節を持たせて、印綬を授けさせたよ。
秋七月,公征孫權。(註116)
秋の七月、曹操は孫権を討つために兵を出したよ。
九州春秋曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王道備矣。往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九。今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇山之阻,難以威服,易以德懷。愚以為可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功者勸,而天下知制矣。
『九州春秋』によると、参軍の傅幹はいさめてこう言ったよ。
「天下を治めるために大切なものは2つあるよ。それは文と武だよ。武を使うときにはまず威を先にして、文を使うときにはまず徳を先にするよ。威と徳がうまく助け合ってこそ、はじめて王の正しい政治が完成するよ。
これまで天下は大きく乱れて、上も下も秩序を失っていたけど、あなたは武を使ってこれをしずめて、10のうち9は平定できたよね。でも今、まだ王の命令に従っていないのは、呉と蜀だよ。呉には長江という天然の守りがあって、蜀には高い山々の険しさがあるよ。だから力で制するのは難しくて、徳で心を引きつけるほうが簡単だよ。私の考えでは、今はいったん兵を休めて戦いをやめて、軍を落ち着かせて兵を養って、土地を分けて封じて、功績に応じて賞を与えるべきだよ。そうすれば、内も外も人々の心はしっかりまとまって、功績のある人はさらにがんばるし、天下の人々も秩序を知るようになるだろうね。
然後漸興學校,以導其善性而長其義節。公神武震於四海,若修文以濟之,則普天之下,無思不服矣。今舉十萬之衆,頓之長江之濵,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈而敵心未能服矣。唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝。」公不從,軍遂無功。幹字彥材,北地人,終於丞相倉曹屬。有子曰玄。
それから、だんだんと学校を作って、人々のよい性質を導いて、正しい心を育てるべきだよ。あなたのすぐれた武の力は、すでに天下中にとどろいているよ。もしここに文を加えて広めるなら、天下のすみずみまで、心から従わない者はいなくなるだろうね。でも、今、10万人もの大軍を動かして、長江のほとりにとどめているんだ。もし敵が守りを固めて深くこもっったら、兵や馬は力を発揮できないし、奇策も使いどころがなくなっちゃう。そうなれば、大きな威勢も発揮できなくて、敵の心を本当に従わせることはできないんだ。どうかあなたは、虞舜が武器を持ちながらも争わないで舞って人々を従わせた、その意味をよく考えてほしいんだ。威を持っていて徳を育てて、正しい道によって勝つべきだよ」
でも、曹操は従わなくて、とうとう軍は功績をあげられなかったんだ。
傅幹は、字は彦材だよ。北地の出身で、丞相の倉曹属にまでなったよ。子は傅玄だよ。
倉曹属は、穀物の管理を担当する職だよ。
初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚衆枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。
昔、隴西の出身の宋建は自分を河首平漢王と名乗って、枹罕で人を集めて、年号を改めて、役人を置いて30年以上も治めていたんだ。そこで曹操は、夏侯淵を興国から送って、これを討たせたよ。冬の十月、枹罕を攻めて滅ぼして、宋建を討ち取って、涼州を平定したよ。
公自合肥還。
曹操は、合肥から帰ったよ。
皇后を……
十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法。(註117)
十一月、漢の皇后の伏氏は、昔、父で屯騎校尉の伏完に手紙を送って、「皇帝は董承が処刑されたことについて、曹操を恨んでいる」と書いて、その言葉がとてもひどい内容だったから、それが見つかると、皇后をやめさせられて殺されて、兄弟たちもみんな処刑されたよ。
曹瞞傳曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中。歆壞戶發壁,牽后出。帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也。」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是乎!」遂將后殺之,完及宗族死者數百人。
『曹瞞伝』によると、曹操が華歆に命令して兵を率いさせて、宮殿に入って皇后を捕らえさせたよ。でも、皇后は戸を閉じて、壁の中に隠れちゃった。華歆は戸を壊して壁をはがして、皇后を引きずり出したんだ。このとき皇帝は御史大夫の郗慮と座っていて、皇后は髪を乱してはだしでその前を通って、皇帝の手を取ってこう言ったよ。
「もう私を助けることはできないの?」
皇帝はこう言ったよ。
「私も自分の命がいつまであるのかわからないんだ」
皇帝は郗慮に向かってこう言ったよ。
「郗公(郗慮)、天下にこんなことがあっていいのか!」
そして、皇后は殺されて、伏完とその一族で死んだ者は数百人にもなったんだ。
十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。乙未,令曰:「夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也。陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱燕。由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣。」又曰:「夫刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之。其選明達法理者,使持典刑。」於是置理曹掾屬。
十二月、曹操は孟津に着いたよ。天子は曹操に、旄頭(帝の護衛の騎兵)を置くことを許して、宮殿には鐘や虡(鐘を吊す楽器台)を設けさせたよ。乙未の日、曹操は命令してこう言ったよ。
「徳のある人が、必ずしも自分から進んで功績をあげられるとは限らないし、功績をあげる人が、必ずしも徳をそなえているとも限らないんだ。陳平は立派な行いばかりの人だったの? 蘇秦はいつも約束を守る人だったの? それでも陳平は漢の事業を安定させて、蘇秦は弱かった燕を助けたよね。人にはそれぞれ短所があっても、それだけで見捨てていいのかな! 役人たちはこの意味をよく考えてね。そうすれば、有能な見落とされることはなくて、役所の仕事も止まらなくなるよ」
さらに、こう言ったよ。
「刑罰は民の命に関わる大切なものだよ。でも、軍の中で裁判を担当する者が、その役にふさわしくないこともあって、なのに軍の生死に関わることを任せてしまっているんだ。私はこれをとても心配しているの。だから、法をよくわかる、はっきりと判断できる者を選んで、刑罰を扱わせてね」
そこで、理曹(法務官)とその掾属(属官)を置いたよ。
陽平関の戦い
二十年春正月,天子立公中女為皇后。省雲中、定襄、五原、朔方郡,郡置一縣領其民,合以為新興郡。
建安二十年(215年)、春の正月、天子は曹操の娘を皇后に立てたよ。雲中郡、定襄郡、五原郡、朔方郡を廃止して、それぞれの郡に1つの県を置いて民をまとめて、これらを合わせて新興郡としたよ。
三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。夏四月,公自陳倉以出散關,至河池。氐王竇茂衆萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之。西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。(註118)(註119)
三月、曹操は張魯を討つために西へ軍を進めたよ。陳倉に着くと、武都から氐の地へ入ろうとしたけど、氐の人たちが道をふさいでしまったんだ。そこでまず、張郃や朱霊たちを先に送って、これを打ち破らせたよ。
夏の四月、曹操は陳倉から出て散関を越えて、河池に着いたよ。氐の王の竇茂が1万人以上の兵を頼みにして険しい地形にこもって、従おうとしなかったんだ。五月、曹操は彼らを攻めて滅ぼしたよ。それに、西平や金城の将たちの麴演や蒋石たちは、一緒に韓遂を討ち取ってその首を曹操に送ったよ。
典略曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州。章為督軍從事。遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸。會涼州宋揚、北宮玉等反,舉章、遂為主,章尋病卒,遂為揚等所劫,不得已,遂阻兵為亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣。
『典略』によると、韓遂は、字は文約で、同じ郡の出身の辺章と一緒に西の州で名を知られていたよ。辺章は督軍従事になったよ。
韓遂は計画を持って都に行って、何進は前からその名を聞いていたから、特別に会ったよ。韓遂は何進に宦官たちを討つように説得したよ。でも、何進は聞き入れなかったんだ。韓遂は帰りたいと願い出たよ。
ちょうどそのころ、涼州では宋揚や北宮玉たちが反乱を起こして、辺章と韓遂を主として立てたよ。辺章は病気で亡くなって、韓遂は宋揚たちに脅されて仕方なく従って、兵を率いて乱を起こしたんだ。それから32年ものあいだに戦いが続いて、とうとうこのとき韓遂は亡くなったんだ。年は70歳以上だったよ。
劉艾靈帝紀曰:章,一名元。
劉艾の『霊帝紀』によると、辺章は、もう一つの名は辺元だよ。
秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。公乃密遣解𢢼、高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。公軍入南鄭,盡得魯府庫珍寶。(註120)巴、漢皆降。復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽、西城為西城郡,置太守;分錫、上庸郡,置都尉。
秋の七月、曹操は陽平に着いたよ。張魯は、弟の張衛と将の楊昂たちに命令して、陽平関を守らせたよ。山にそって10里以上も城を築いて守っていたから、攻めてもなかなか落とせなくて、いったん軍は引き返したんだ。曹操はこっそりと解𢢼や高祚たちを送って、険しい道を進んで夜に奇襲させたよ。そして、敵を大きく打ち破って、将の楊任を討ち取ったよ。さらに張衛を攻めたけど、張衛たちは夜に逃げちゃって、張魯は敗れて巴中に逃げたんだ。
曹操の軍は南鄭に入って、張魯の倉庫からたくさんの宝物を手に入れたよ。巴や漢中もみんな降伏したよ。
そして、漢寧郡をもとの名の漢中郡に戻して、漢中の安陽や西城を分けて西城郡にして、太守(郡の長官)を置いたよ。さらに、錫郡や上庸郡を分けて、それぞれに都尉を置いたよ。
魏書曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞。
『魏書』によると、軍は武都山から千里もの道を進んで、上ったり下ったりしながら険しい山道を通ったから、兵たちはとても苦しんだの。だから曹操は大きな宴を開いて、兵たちはみんなその苦しさを忘れられたよ。
八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。
八月、孫権が合肥を包囲したけど、張遼と李典が攻めて打ち破ったよ。
九月,巴七姓夷王朴胡、賨邑侯杜濩舉巴夷、賨民來附,(註121)於是分巴郡,以胡為巴東太守,濩為巴西太守,皆封列侯。天子命公承制封拜諸侯守相。(註122)
九月、曹操は巴の七姓の異民族の王の朴胡と賨邑侯の杜濩が、巴の異民族や賨の民を率いて降伏してきたよ。そこで、巴郡を分けて、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守に任命したよ。二人とも列侯に封ぜられたよ。
天子は曹操に命令して、皇帝に代わって諸侯や役人を任命することを許したよ。
孫盛曰:朴音浮。濩音戶。
孫盛によると、朴の発音は浮だよ。濩の発音は戸だよ。
孔衍漢魏春秋曰:天子以公典任于外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故司馬法曰『賞不逾日』者,欲民速覩為善之利也。昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍祭酒李文為河東太守,來歙又承制拜高峻為通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也。其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已。況君秉任二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行蕃甸之外,失得在於斯須之間,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也。自今已後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相獎勵,勿有疑焉。」
孔衍の『漢魏春秋』によると、天子は曹操が外で大きな任務を担っているから、現場での賞はすばやく決めるべきだと考えたよ。そこで、曹操に命令して、皇帝の代わりに諸侯を封じたり官職を任命したりできるようにしたよ。皇帝は詔を下してこう言ったよ。
「軍の大切なことは、賞と罰だよ。よい行いをすすめて、悪い行いをこらしめるには、すぐにするのがいいよ。だから『司馬法』には『賞はその日のうちに与えるべきだ』とあるよ。これは、民にすぐに善い行いの利益を見せるためだね。
昔、光武帝(劉秀)が国を立て直したとき、鄧禹は関中に入って、皇帝の代わりに官職を任命して、軍祭酒の李文を河東太守、来歙も同じように、高峻を通路将軍に任命したよ。これらの記録を調べると、みんなあらかじめ許可を求めていなくて、その場で印を授けて任命しているよ。世祖(劉秀))がすぐれた判断で、状況に応じてうまくやり方を変え、大きな功績をあげたからだね。
『春秋』の教えでも、大夫が国の外に出たときには、自分で判断して命令することが許されているよ。それは、国をよくして、王室を安定させるためだんえ。ましてやあなたは二伯(周公と召公)の大きな役目を担っていて、すべての州を治めて、内と外の人たちをまとめているんだ。軍が遠い地へ進めば、よい結果になるか悪い結果になるかは、ほんのちょっとの時間で決まるよ。いちいち賞のために詔を待っていては、世の中の仕事が止まってしまうんだ。それは、私の望みではないよ。これからは、現場で選び出した人で、賞を与えるべき者には、その場ですぐに印を与えて任命してね。みんなが忠と義をお互いに励まし合えるようにしてね、ためらわないでね」
冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。(註123)
冬の十月、初めて名号侯から五大夫の爵位を定めたよ。これらはもともとあった列侯や関内侯と合わせて、全部で6つの等級となって、戦いの功績に応じて賞として与えられたよ。
魏書曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。臣松之以為今之虛封蓋自此始。
『魏書』によると、名号侯の位は18等級、関中侯は17級で、どちらも金の印と紫の綬が与えられたんだって。さらに、関内侯と関外侯は16級で、銅の印と亀の形のつまみがついて、黒い綬を使っていたよ。五大夫は15級で、銅の印に輪の形のつまみがついて、これも黒い綬だよ。これらの位の人たちは、土地からの税をもらえなかったんだ。これらの階級は、もともとの列侯や関内侯と合わせて、全部で6つの等級となっていたよ。
裴松之の見解としては、今のように、名前だけで実際の領地をもらえない位は、このときから始まったのだろうね。
十一月,魯自巴中將其餘衆降。封魯及五子皆為列侯。劉備襲劉璋,取益州,遂據巴中;遣張郃擊之。
十一月、張魯は巴中から残っていた兵を率いて降伏したよ。張魯とその5人の子供たちはみんな列侯に封ぜられたよ。
一方、劉備は劉璋を攻めて益州を奪って、巴中を支配したよ。そこで、曹操は張郃を送ってこれを攻撃させたよ。
十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中。(註124)
十二月、曹操は南鄭から帰って、夏侯淵を漢中にとどめたよ。
是行也,侍中王粲作五言詩以美其事,曰:「從軍有苦樂,但問所從誰。所從神且武,安得乆勞師?相公征關右,赫怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西牧邊地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」
この出兵のとき、侍中の王粲がたたえるために五言詩を作ったよ。
「軍に従うことには苦しさも楽しさもあるが、大事なのは誰に従うかだよ。もし従う者が神のような威を持っていて勇ましい人なら、どうしていつまでも軍を苦しめることがあるの? 私たちの相公(曹操)は関西に兵を出して、激しい怒りで天子の威を振るって、一度の戦いで匈奴を滅ぼして、ふたたび軍を進めて羌を従わせたよ。西の辺境の賊(張魯)を捕らえたけど、まるで地に落ちているものを拾うみたいに速かったね。その功績の賞は山や岳をこえるくらい高くて、酒や肉はなぎさを越えるくらいあふれて、軍は食べ物にあふれて、人も馬も満足したんだ。歩兵が戦車をたくさん連ねて帰って、足りなかったものも今は余るくらいだよ。こうして三千里にもわたって領土は広がって、行きも帰りもまるで飛ぶみたいに速かったよ。歌や舞を楽しみながら鄴城に入って、願いはすべて叶えられたの」
魏王になる
二十一年春二月,公還鄴。(註125)
建安二十一年(216年)、春の二月、曹操は鄴に帰ったよ。
魏書曰:辛未,有司以太牢告至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以為祠廟上殿當解履。吾受錫命,帶劔不解履上殿。今有事于廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也。又臨祭就洗,以手擬水而不盥。夫盥以絜為敬,未聞擬向不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也。
『魏書』によると、辛未の日、役人は太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて勝利を報告して、宗廟で功績を記録したよ。甲午の日、初めて春の祭りをしたよ、曹操は命令してこう言ったよ。
「話し合いでは、宗廟で祭りをするとき、正殿に上がる際にはくつを脱ぐべきだと言っているとね。でも私は天子から正式な命令を受けて、剣を帯びたまま、くつを脱がないで殿に上がったよ。今、宗廟でまつるときにくつを脱ぐというのは、先代を尊んで、天子の命を軽くすることになっちゃう。父や祖先をうやまっているけど、君主をおろそかにすることにもなるんだ。だから私は、くつを脱がないで殿に上がるんだ。
それに、祭りの前に手を水に濡らすけど、水に手を少し触れるだけで、しっかり洗わないやり方もあるけど、これはよくないんだ。手を洗うのは清めるためで、少し触れるだけで洗わないという礼は聞いたことがないよ。『論語』に『神を祭るときは、神がそこにいるかのようにするべき』とあって、だから私は、自分で水を受けて、きちんと手を洗うよ。
『祭神如神在』は、『論語』「八佾」から。
又降神禮訖,下階就幕而立,須奏樂畢竟,似若不愆,烈祖遲祭,不速訖也。故吾坐俟樂闋送神乃起也。受胙納神以授侍中,此為敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于神,終抱而歸也。仲尼曰『雖違衆,吾從下』,誠哉斯言也。」
それに、神を迎える儀式が終わった後、階段を下りて幕のところに立って、音楽の演奏がすべて終わるのを待つよ。これは礼にかなっていないように見えるけど、祖先に捧げる儀式は急がないでゆっくりとして、すぐに終わらせないんだよ。だから私は座って音楽が終わり、神を送り出すまで待ってから立ち上がるの。
さらに、神への供え物を受け取って、神を送り返すとき、それを侍中に渡すのは、敬意を表すためだけど、最後まで十分な敬意を尽くしているとはいえないよ。昔の人は、自分で祭りのことをしたよ。だから私は、自分で神に納めて、最後までしっかり抱えて持ち帰るよ。仲尼(孔子)は『たとえたくさんの人と違っていても、私は正しいと思うやり方に従う』と言ったよ。これは本当にそのとおりの言葉だね」
三月壬寅,公親耕籍田。(註126)夏五月,天子進公爵為魏王。(註127)(註128)(註129)
三月、壬寅の日、曹操は自ら籍田(国のための農地)を耕したよ。そして、夏の五月、天子は曹操の爵位を進めて魏王にしたよ。
魏王になった後から、本文中で曹操さんは「王」と呼ばれるよ。
魏書曰:有司奏:「四時講武於農隙。漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士為八陣進退,名曰乘之。今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名,下承漢制。」奏可。
『魏書』によると、役人たちは上奏してこう言ったよ。
「四季のそれぞれに、農作業の合間に武術の訓練をするべきだよ。漢は秦の制度を受け継いで、3つの季節(春、夏、秋)には訓練をしなくて、ただ冬の十月にだけ車や馬の訓練を試したよ。長水の南の門に行って、5つの部隊の兵を集めて、8つの陣形を組んで進んだり退いたりさせて、これを『乗之』と呼んだんだって。でも今は、まだ武具はしまわれていなくて戦いは終わっていないし、兵や民たちも日ごろから訓練に慣れているよ。これからは、四季ごとの訓練をしないで、ただ立秋のころにいい日を選んで大きな儀式をして、車や騎兵を集めようよ。これを『治兵』と呼んで、上では礼の名に合って、下では漢の制度を受け継ぐことにもなるよ」
この上奏は受け入れられたよ。
獻帝傳載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎襃崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延于子孫,庶姓之與親,豈有殊焉。昔我聖祖受命,刱業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣。歷世承平,臣主無事。世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異姓諸侯王之位。
『献帝伝』によると、皇帝は詔を下してこう言ったよ。
「昔から帝王は、名前や呼び方が変わることはあっても、位のしくみはさまざまだったよ。でも、大きな功績をあげた者を高く評価して、その功と徳をたたえて、一族を栄えさせてそれを子孫にまで伝えようとする点では、他の家の者であっても、身内と大きな違いはないよ。昔、聖祖(劉邦)は天命を受けて国を創って、国の基礎を築いて、この天下を作り上げたよ。そして昔と今の制度をよく考えて、位の違いを整えて、山や川までも広く領地を封じて国を守るしくみを作ったよ。そして異なる姓を持つ者や親族たちは、それぞれ土地を持って並び立って、国を治めて王となったよ。こうして天命を守って、子孫の代まで安定させたんだ。その後、長いあいだ平和な時代が続いて、臣下と君主の間に大きな問題はなかったよ。でも、世祖(劉秀)が国を立て直したころ、時代に難しさもあって、それから数百年のあいだ、異なる姓の諸侯王が立てられることはなかったんだ。
朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,羣兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約。當此之際,唯恐溺入于難,以羞先帝之聖德。賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙焉。君勤過稷、禹,忠侔伊、周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之固辭,故且懷志屈意,封君為上公,欲以欽順高義,須俟勳績。
私は徳が足りないまま、先祖の大きな事業を受け継いだけど、天下は別れて、たくさんの悪い者たちが勝手に乱を起こしたよ。西から東へと移って、つらい生活をしていたんだ。そのようなとき、私はただ災いに飲みこまれて、先帝のすぐれた徳をはずかしめてしまうのではないかと心配していたんだ。でも、天の助けのおかげで、あなたが正しい道を守って、身を奮い立たせて、神のようにすぐれた武勇で素早く行動して、私を困難から守ってくれたよ。おかげで宗廟(祖先の廟)を守って、中原に散らばっていた民が安心できるようにしてくれたね。あなたの恩を受けていない人はいないよ。あなたの努力は后稷や禹よりも上で、忠は伊尹や周公に並ぶよ。なのに、あなたはへりくだりの心でそれを隠し、ますます慎み深く振る舞っているんだ。
だから、魏の国が建てられると、あなたに土地を与えようとしたけど、あなたが命令に逆らうのではないか、それか固く辞退するのではないかと心配したんだ。だからひとまず自分の思いをおさえて、あなたを上公に封じて、高い義をうやまってそれに従って、さらに功績が重なるのを待とうとしたの。
韓遂、宋建,南結巴、蜀,羣逆合從,圖危社稷,君復命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖。曁至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區宇。
韓遂や宋建は、南で巴や蜀と手を結んで、たくさんの反逆者たちと力を合わせて、国を危うくしようとしたよ。でもあなたはふたたび将に命令して、龍みたいに威風を振りかざして、虎みたいに奮い立って戦って、彼らの首領を討ち取って、その根拠地を打ち滅ぼしたよ。さらに、西へ軍を進めて、陽平の戦いでは、あなた自らが鎧と兜を身につけて、険しい地形の中へ深く入り込んで、乱暴な敵を打ち払って、その悪い者たちをすべて滅ぼしたよ。こうして西の国境を安定させて、旗を万里も離れた遠い地にも掲げて、その威光と教えは遠くまで広がって、天下を安定させたんだ。
蓋唐、虞之盛,三后樹功,文、武之興,旦、奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以聖哲之君,事為己任,猶錫士班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以荅神祇慰萬方哉?
唐(堯)や虞(舜)のさかえた時代、三后(堯・舜・禹)が功績をあげたよ。周の文王と武王が興ったときには、周公旦や召公奭が助けとなったよ。二祖(劉邦と劉秀)が国の事業を成し遂げたときにも、たくさんのすぐれた人たちが助けて新しい王朝を立てた功績をあげたよ。このように、どんなにすぐれた君主であっても、自分ですべてをするのではなくて、功のある臣下に賞を与えて報いたの。ましてや私のような徳の少ない人が、あなたの力に頼って国を治めているのに、賞が十分でなければ、どうして神々に報いて、また天下の人たちの心を安心させるの?
今進君爵為魏王,使使持節行御史大夫、宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至十。君其正王位,以丞相領兾州牧如故。其上魏公璽綬符冊。敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命。」魏王上書三辭,詔三報不許。
今、あなたの爵位を進めて魏王にするよ。使持節で御史大夫を代行する宗正の劉艾に、詔と印、そして社(土地の神)をまつるための黒い土を持たせて、白い茅でこれを包ませるよ。それに、金の虎符は第一から第五まで、竹の使符は第一から第十まで授けるよ。あなたは王に正しく即位して、これまでどおり丞相と冀州牧を務めてね。魏公の印綬、符や文書はすべて返してね。つつしんで私の命令に従って、人々をよく選んで、民を思いやって、さまざまな功績をほめて、私の祖先のすぐれた命をさらに輝かせてね」
曹操は上書を3回出して辞退したけど、詔は3回ともこれを許さなかったんだ。
又手詔曰:「大聖以功德為高美,以忠和為典訓,故刱業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著。稷、契載元首之聦明,周、邵因文、武之智用,雖經營庶官,仰歎俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊,寤寐慨然,自忘守文之不德焉。今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心,而訓後世也。其抑志撙節,勿復固辭。」
さらに、直筆の詔を下してこう言ったよ。
「偉大な聖人は功績と徳を最もすぐれたものとして、忠と和を大切な教えとしたよ。だから、国を興して名を後の世に残して、百代の後までも人々が手本にできるんだ。それに正しい道を大切にして、礼や義を定めて、人々が努力してまねできるようにするよ。こうして功績は尽きないで、その光は大きくあらわれるんだ。
后稷や契は、君主(堯、舜)のすぐれた知恵を助けて、周公や召公も、周の文王や武王の知恵を生かしたよ。たくさんの役人を整えながら、上を仰いでは感心して、下を見ては考えたけど、彼らに比べても、あなたのような人がいるの? 私は、昔の人の功績をあのようにすばらしいものとしてたたえて、あなたの忠と努力の成果をこれほどまでに立派なものと思っているよ。だから、あなたのためにいつも特別な印や符を作って、めでたいしるしを授けて、正式な礼で文書を与えようと考えているよ。寝ても覚めてもその思いで胸がいっぱいとなって、自分の徳の足りなさを忘れてしまうくらいなんだ。なのに今、あなたは何度も私の命令にそむいて、強く辞退しているよね。これは私の心にかなうものではないし、後の世への手本ともならないんだ。どうか気持ちをおさえて、節度を守って、これ以上固く辞退しないようにしてね」
四體書勢序曰:梁鵠以公為北部尉。
『四体書勢』によると、梁鵠が曹操を北部尉にしたんだって。
曹瞞傳曰:為尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。建公名防,司馬宣王之父。
『曹瞞伝』によると、尚書右丞の司馬建公が曹操を推挙して北部尉にしたよ。そして、曹操が魏王になると、司馬建公を鄴に呼んで、一緒に楽しく酒を飲んだよ。曹操は司馬建公にこう言ったよ。
「私は今でも、もう一度、尉になれるかな?」
司馬建公はこう答えたよ。
「昔、あなたを推挙したときは、ちょうど尉になれるくらいだったよ」
曹操は大笑いしたよ。
司馬建公の名は司馬防で、司馬懿の父だよ。
臣松之案司馬彪序傳,建公不為右丞,疑此不然,而王隱晉書云趙王篡位,欲尊祖為帝,博士馬平議稱京兆府君昔舉魏武帝為北部尉,賊不犯界,如此則為有徵。
裴松之が司馬彪の『序伝』を調べたところ、司馬建公は右丞ではなかったから、この話は本当ではないのかも。
でも、王隠の『晋書』によると、趙王(司馬倫)が皇帝の位を奪うと、祖先を帝としてあがめようとして、博士の馬平が「京兆府君(司馬建公)は曹操を北部尉に推挙して、敵がその領域に侵入しなかった」と議論したんだって。このことから考えると、この話にも根拠があるといえるかも。
曹氏と司馬氏の関係を表すため?
代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。天子命王女為公主,食湯沐邑。秋七月,匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國。八月,以大理鍾繇為相國。(註130)
代郡の烏丸で単于(部族の王)を代行する普富盧が、その配下の侯王たちと一緒に朝廷にやって来て、あいさつをしたよ。
天子は曹操の娘を公主として、湯沐邑という領地を与えたよ。
秋の七月、南匈奴の単于(部族の王)の呼廚泉が、の名王たちを連れて朝廷にやって来たよ。客人の礼で丁寧にもてなして、そのまま魏にとどめて、右賢王の去卑に彼らの国を監督させたよ。
八月、大理の鍾繇を相国に任命したよ。
魏書曰:始置奉常宗正官。
『魏書』によると、初めて奉常と宗正の官職を置いたよ。
濡須口の戦い
冬十月,治兵,(註131)遂征孫權,十一月至譙。
冬の十月、兵を整えて、孫権を討つために兵を出して、十一月には譙に着いたよ。
魏書曰:王親執金鼔以令進退。
『魏書』によると、曹操は金鼔を手に取って、進むか退くかを指示したよ。
二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。
建安二十二年(217年)、春の正月、曹操は軍を率いて居巣に陣を置いたよ。二月、さらに軍を進めて長江の西の郝谿にとどまったよ。孫権は濡須口に城を築いて防いだけど、曹操はそこに迫って攻撃したから、孫権は退いて逃げたんだ。
三月、曹操は軍を引いて帰って、夏侯惇、曹仁、張遼たちを居巣に残して守らせたよ。
夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。五月,作泮宮。六月,以軍師華歆為御史大夫。(註132)
夏の四月、天子は曹操に、天子だけが使う旗を立てること、出入りのときには警蹕と呼ばれる合図を使うことを許したよ。
五月、泮宮という学びの場を作ったよ。
六月、軍師の華歆を御史大夫に任命したよ。
魏書曰:初置衞尉官。秋八月,令曰:「昔伊摯、傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興。蕭何、曹參,縣吏也,韓信、陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載。吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸,然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀。今天下得無有至德之人放在民間,及果勇不顧,臨敵力戰;若文俗之吏,高才異質,或堪為將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各舉所知,勿有所遺。」
『魏書』によると、初めて衛尉の官職を置いたよ。秋の八月、曹操は命令してこう言ったよ。
「昔、伊尹や傅説は身分の低いところから出てきたし、管仲はもともと斉の桓公の敵だったけど、彼らはみんな使われて、国を栄えさせたよ。さらに、蕭何や曹参はもともと県の役人で、韓信や陳平は悪い評判や恥ずかしい過去を持っていたけど、それでも最後には国を興すという大きな事業を成し遂げて、その名は長く後の世に伝わったよね。
呉起は欲深い将で、妻を殺してまで野心を示して、金をばらまいて官職を求めて、母が亡くなっても故郷に帰らなかったんだって。でも魏にいるときは(西を守っていたから)、秦は東へ攻められなくて、楚にいるときは、三晋(趙・魏・韓)は南へ攻められなかったんだ。
今の世にも、すぐれた徳を持っているのに民の中に埋もれている人や、勇気があって危険をかえりみないで敵に立ち向かう人がいるかも。それに役人の中にも、特にすぐれた才能を持っていて、将や守りの役に向いている者がいるかも。時には悪い評判や笑われるような行いがあったり、仁や孝にそむく者でも、国を治めたり軍を動かしたりするすぐれた力を持つ者もいるかも。だから、みんなが知っている有能な人を推挙して、決して見落とすことのないようにしてね」
冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕為魏太子。
冬の十月、天子は曹操に冕(冠)に十二の旒(たれ飾り)をつけることを許したよ。さらに金根車という特別な車に乗って、六頭の馬に引かせて、五時に応じた副車を備えることも許されたよ。五官中郎将の曹丕を魏の太子に任命したよ。