正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その6

正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(そう) について書かれているよ!

本文中で(そう)(そう)は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「(そう)(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、涼州を平定してから魏王になるまでだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

涼州平定

本文

馬超在漢陽,復因羌、胡為害,氐王千萬叛應超,屯興國。使夏侯淵討之。

()(ちょう)(かん)(よう)に駐屯して、ふたたび(きょう)族や()族を率いて攻撃したよ。(てい)族の王の(せん)(ばん)()(ちょう)に味方して、(こう)(こく)に駐屯したよ。(そう)(そう)は彼らを()(こう)(えん)に討たせたよ。

本文

十九年春正月,始耕籍田。南安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平。淵與諸將攻興國,屠之。省安東、永陽郡。

建安19年(214年)、春の正月、はじめて(せき)(でん)を耕したよ。
(なん)(あん)の出身の(ちょう)()(かん)(よう)の出身の(いん)(ほう)たちが()(ちょう)を討伐して、彼の妻や子供を捕らえて首をさらしたよ。()(ちょう)(かん)(ちゅう)に逃げちゃった。一方、(かん)(すい)(きん)(じょう)に移住して、(てい)族の王の(せん)(ばん)の部下に加わったよ。彼は(きょう)族や()族の1万人以上の部隊を率いて、()(こう)(えん)と戦ったけど大敗北して、西(せい)(へい)に逃げたよ。()(こう)(えん)と他の将たちは(こう)(こく)を攻撃して壊滅させたんだ。さらに、(あん)(とう)郡((なん)(あん)郡?)と(えい)(よう)郡を廃止したんだ。

(せき)(でん)は、田を耕して、収穫した米を祖先に捧げる儀式だよ。

本文

安定太守毌丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人徃。善人難得,必將教羌、胡妄有所請求,因欲以自利;不從便為失異俗意,從之則無益事。」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請為屬國都尉。公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳。」(註112)

(あん)(てい)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(かん)(きゅう)(こう)に、(そう)(そう)は警告したよ。
(きょう)族と()族が中国と交流したがっているなら、彼らから使者がやってくるべきで、私たちから彼らへ使者を送ってはダメ。良い人材は得難いものだよ。使者として送ったら、彼らに無理な要求を教えて、個人的な利益を図ろうとするかも。もしその要求に応じなければ(きょう)族と()族の心証を損なうし、応じたとしても何の利益にもならないよ」
(かん)(きゅう)(こう)が郡に着くと、(はん)(りょう)(きょう)族の地に送ったよ。(はん)(りょう)は実際に(きょう)族に教えを説いて、属国の()()になるように申し出させたんだよ。(そう)(そう)はこう言ったよ。
「私が予知できたのは、聖人だからではないよ。ただ、経験が多いだけさ」

(註112)

獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將宂從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二人,與漢公卿並升殿宴。

(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』によると、(こう)(たい)(じょう)()(だい)()(のう)(あん)(よう)(てい)(こう)(おう)(ゆう)(そう)(せい)(りゅう)(がい)は、みんなに節を持たせて、使者5人と一緒に、束ねた布と4頭の馬を持って、(こう)(もん)()(ろう)(えき)(てい)(じょう)と、中常侍(ちゅうじょうじ)を2人を連れて、()公国で2人の貴人を出迎えさせたよ。
二月、癸亥の日、(そう)(そう)の宗廟で2人の貴人に印綬を授けたよ。甲子の日、(そう)(そう)の宮殿の延秋門に行って、貴人を迎えて車に乗せたよ。魏の(ろう)(ちゅう)(れい)(しょう)()(はか)()(ぎょ)()(じょう)(こう)(きゅう)(れい)(じょう)(しょう)の直属の部下たちが、貴人を送るために集まったよ。癸酉の日、2人の貴人は()(そう)に着いて、朝廷は()(ちゅう)(たん)()(ほん)たちを前後に配置させて、駱駝車で迎えたよ。乙亥の日に、2人の貴人は宮殿に入って、(ぎょ)()(たい)()や、(ちゅう)()(せん)(せき)(たい)()()(ろう)を率いて殿中に集まったよ。()の二卿や()(ちゅう)(ちゅう)(ろう)の2人も、殿に登って(かん)の公卿たちと一緒に宴会をしたよ。

本文

三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠。(註113)

三月、天子は(そう)(そう)を諸侯や王たちの上の位に任命して、金璽(皇帝の印)を改めて授けて、赤い帯と(えん)(ゆう)(かん)を着用させたよ。

(註113)

獻帝起居注曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。

(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』によると、()(ちゅう)(ろう)(しょう)(よう)(せん)(てい)(こう)(はい)(ぼう)に節を持たせて、印綬を授けたよ。

本文

秋七月,公征孫權。(註114)

秋の七月、(そう)(そう)(そん)(けん)に進軍したよ。

(註114)

九州春秋曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王道備矣。往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九。今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇山之阻,難以威服,易以德懷。愚以為可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功者勸,而天下知制矣。

(きゅう)(しゅう)(しゅん)(じゅう)』によると、(さん)(ぐん)()(かん)はこう言ったよ。
「天下を治める要点はふたつあって、それは文と武だよ。武を使えば、まずは威を優先して、文を使えば、まずは徳を優先するよ。威と徳をうまく使い分けて補い合えば、王道が整うよ。
昔、天下は大混乱して秩序が乱れたけど、明公((そう)(そう))は武を使ってこれを鎮めたよ。10のうち9は平定できたよね。今、まだ王朝の命令を受け入れていないのは、()(しょく)だけ。()は長江の天然の防壁を持っていて、(しょく)は高山ばかりで、威で制するのは難しいけど、徳で人たちを惹きつけることはできるよ。私は、今は甲冑を脱いで兵を休めて、土地を分けて、功績に応じて賞を与えることがいいと思うの。そうすれば、内も外も人々は安心するしは安心するし、功績のある人は勧められるし、天下が制度を知るよ。

(註114)

然後漸興學校,以導其善性而長其義節。公神武震於四海,若修文以濟之,則普天之下,無思不服矣。今舉十萬之衆,頓之長江之濵,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈而敵心未能服矣。唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝。」公不從,軍遂無功。幹字彥材,北地人,終於丞相倉曹屬。有子曰玄。

それから、学校を作って、人の良さを導いて、道徳を育てようよ。(そう)(そう)の力は四方に響いているから、文化を広めていけば、天下の人たちはみんな従いたくないとは思わなくなるよ。でも、今、10万の兵を動かして、長江の岸辺に駐屯させても、敵が固い防御を築いているから、兵や馬は力を発揮できないよ。突然の変化に対処する力も使えなかったら、大きな威は抑えられて、敵を従わせることはできないんだ。()(しゅん)が干戚の義を舞ったみたいに、威を尽くして徳を養って、道で勝利を制するべきだと思っているよ」
でも、(そう)(そう)は従わなくて、結局軍は何の功績も挙げられなかったんだ。
()(かん)は、(あざな)(げん)(ざい)だよ。(ほく)()の出身で、最終的には(じょう)(しょう)(そう)(そう)(ぞく)として仕えたよ。彼には()(げん)という子がいたよ。

(そう)(そう)(ぞく)は、穀物の管理を担当する職だよ。

本文

初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚衆枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。

昔、(ろう)西(せい)の出身の(そう)(けん)()(しゅ)(へい)(かん)(おう)を自称して、(ほう)(かん)で人を集めて、年号を改めて、百官を置いて30年以上も統治していたんだ。(そう)(そう)は、()(こう)(えん)(こう)(こく)から送って、彼を討伐したよ。
冬の十月、(ほう)(かん)を攻撃して壊滅させて、(そう)(けん)を斬って、(りょう)州を平定したよ。

本文

公自合肥還。

(そう)(そう)は、(がっ)()から帰ったよ。

皇后を……

本文

十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法。(註115)

十一月、(かん)の皇后の(ふく)()が、父親で(とん)()(こう)()()(かん)と手紙を交わしていたことが発覚したんだ。手紙には、帝が(とう)(しょう)の処刑に怒って、(そう)(そう)を恨んでいて、ひどい言葉が書かれていたの。この手紙が(そう)(そう)に知られると、(ふく)()は廃位されて死罪になっちゃって、兄弟たちも処刑されたよ。

(註115)

曹瞞傳曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中。歆壞戶發壁,牽后出。帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也。」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是乎!」遂將后殺之,完及宗族死者數百人。

(そう)(まん)(でん)』によると、(そう)(そう)()(きん)に兵を率いて宮殿に入らせて、皇后を捕らえさせようとしたよ。でも、皇后は戸を閉じて、壁の中に隠れちゃった。()(きん)は戸を壊して壁をはがして、壁から皇后を引きずり出したんだ。この時、帝は(ぎょ)()(たい)()()(りょ)と一緒に座っていて、皇后は髪を乱して裸足で逃げようとして、帝の手を取ってこう言ったよ。
「私たちはもう一度一緒に生きることはできないの?」
帝は答えたよ。
「私も自分の命がいつ終わるのかわからないんだ」
帝は()(りょ)に向かってこう言ったよ。
()(りょ)、天下にこれほどのことがあるだろうか!」
そして、皇后は殺されて、彼女の一族の者たち数百人が殺されちゃったの。

本文

十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。乙未,令曰:「夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也。陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱燕。由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣。」又曰:「夫刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之。其選明達法理者,使持典刑。」於是置理曹掾屬。

十二月、(そう)(そう)(もう)(しん)に着いたよ。天子は(そう)(そう)に、(ぼう)(とう)(帝の護衛の騎兵)を置かせて、宮殿には(しょう)(きょ)(釣鐘)を設けるように命令したよ。乙未の日、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「徳が優れている人が必ずしも昇進できるとは限らないし、昇進できる人が必ずしも徳に優れているとは限らないよ。(ちん)(ぺい)は真摯な人格だったの? ()(しん)は信義を守っていたの? それでも(ちん)(ぺい)(かん)の統一に貢献して、()(しん)は弱い(えん)を支えたよね。このことから言えるのは、人には欠点があっても見捨てるべきではないよ! 役人たちがこの理念を理解したら、昇進できなかったりしないで、要らない官職がなくなるだろうね」
加えて、こう言ったよ。
「刑罰は民の命に関わるものだけど、軍中の刑務を担当する者に、適任でない人が任命されて、軍の生死にかかわる事務を任されていることがあって、私はとても心配しているよ。だから、法の理論に詳しい人を選んで、彼らに刑罰を担当させるべきだよ」
こうして、()(そう)(えん)(ぞく)(法務官)の職が配置されたよ。

陽平関の戦い

本文

二十年春正月,天子立公中女為皇后。省雲中、定襄、五原、朔方郡,郡置一縣領其民,合以為新興郡。

建安20年(215年)、春の正月、天子は(そう)(そう)の娘を皇后に立てたよ。そして、(うん)(ちゅう)郡、(てい)(じょう)郡、()(げん)郡、(さく)(ほう)郡を統合して、各郡に1つの県を置いてその住民をまとめて、(しん)(こう)郡として編成したんだ。

本文

三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。夏四月,公自陳倉以出散關,至河池。氐王竇茂衆萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之。西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。(註116)(註117)

三月、(そう)(そう)は西に遠征して、(ちょう)()を討伐しに行ったよ。(ちん)(そう)に着いて、そこから()()に向かおうとしたけど、途中で(てい)族の人たちが道を塞いでしまったの。そこで、(ちょう)(こう)(しゅ)(れい)たちを前衛に立てて彼らを攻撃して、道を突破したよ。
夏の四月、(そう)(そう)(ちん)(そう)から(さん)(かん)を出発して、()()に着いたよ。氐族の王の(とう)()が1万人以上の軍勢を率いて、険しい地形を利用して抵抗したけど、五月、(そう)(そう)は彼らを攻撃して壊滅させたよ。西(せい)(へい)(きん)(じょう)の将たちの(きく)(えん)(しょう)(せき)たちは、一緒に(かん)(すい)の首を斬って、(そう)(そう)に送り届けたよ。

(註116)

典略曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州。章為督軍從事。遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸。會涼州宋揚、北宮玉等反,舉章、遂為主,章尋病卒,遂為揚等所劫,不得已,遂阻兵為亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣。

(てん)(りゃく)』によると、(かん)(すい)は、(あざな)(ぶん)(やく)で、同じ郡の出身である(へん)(しょう)と一緒に西の州で名を挙げたよ。(へん)(しょう)(とく)(ぐん)(じゅう)()を務めていたんだ。
(かん)(すい)は会計を報告するために都に出向いて、()(しん)は彼の名を聞いて特別に会いに行ったよ・(かん)(すい)()(しん)に宦官たちを討つように勧めたんだって。でも、()(しん)は聞き入れなくて、(かん)(すい)は帰ることを求めたよ。
(りょう)州では、(そう)(よう)(ほっ)(きゅう)(ぎょく)たちが反乱を起こして、(へん)(しょう)(かん)(すい)を指導者として選んだよ。(へん)(しょう)は後に病死しちゃって、(かん)(すい)(そう)(よう)たちによって脅されて、兵を率いて乱を起こすことになったよ。32年間にわたって続いた後、(かん)(すい)は亡くなったよ。70歳以上だったんだって。

(註117)

劉艾靈帝紀曰:章,一名元。

(りゅう)(がい)の『(れい)(てい)()』によると、(へん)(しょう)は、別の名前は(へい)(げん)だよ。

本文

秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。公乃密遣解𢢼、高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。公軍入南鄭,盡得魯府庫珍寶。(註118)巴、漢皆降。復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽、西城為西城郡,置太守;分錫、上庸郡,置都尉。

秋の七月、(そう)(そう)(よう)(へい)(かん)に着いたよ。(ちょう)()は弟の(ちょう)(えい)と将の(よう)(こう)たちに(よう)(へい)(かん)を守らせて、山を横切って城壁を十数里にわたって築いたよ。攻撃してもなかなか陥落しなかったから、軍を引き上げることになったよ。敵は大軍が撤退するのを見て、守りを解いて散ったよ。
そこで、(そう)(そう)はこっそりと(かい)𢢼(ひょう)(こう)()たちに、夜に敵の陣地を奇襲させたよ。大勝利を収めて、その中で将の(よう)(じん)を斬ったよ。そして、(ちょう)(えい)を攻めたけど、彼らは夜に逃げちゃって、(ちょう)()()(ちゅう)に逃げたんだ。(そう)(そう)の軍は(なん)(てい)に進軍して、(ちょう)()の倉庫からたくさんの宝物を手に入れたよ。
()(かん)(ちゅう)がすべて降伏したよ。そして、(かん)(ねい)郡だった地域を(かん)(ちゅう)郡に戻して、(かん)(ちゅう)(あん)(よう)西(せい)(じょう)を分けて西(せい)(じょう)郡にして、(たい)(しゅ)(郡の長官)を置いたよ。(しゃく)(じょう)(よう)を分けて(じょう)(よう)郡として、()()を置いたんだ。

(註118)

魏書曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞。

()(しょ)』によると、軍は武都山から出発して千里の道を行って、険しい山道を上り下りして、兵たちは疲れ果てていたの。(そう)(そう)は宴を開いて、誰もがその苦労を忘れることはなかったんだって。

本文

八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。

八月、(そん)(けん)(がっ)()を包囲したけど、(ちょう)(りょう)()(てん)が攻撃して、打ち破ったよ!

本文

九月,巴七姓夷王朴胡、賨邑侯杜濩舉巴夷、賨民來附,(註119)於是分巴郡,以胡為巴東太守,濩為巴西太守,皆封列侯。天子命公承制封拜諸侯守相。(註120)

九月、(そう)(そう)()の七姓の夷王の()()(そう)(ゆう)(こう)()()が、()の異民族や(そう)の民を率いて降伏してきたよ。()(ぐん)を分けて、()()()(とう)(たい)(しゅ)()()()西(せい)(たい)(しゅ)に任命して、ふたりとも列侯に封じたんだ。
天子は(そう)(そう)に、制度に基づいて諸侯を封じて、守相の職務を委ねることを命令したよ。

(註119)

孫盛曰:朴音浮。濩音戶。

(そん)(せい)によると、「朴」の発音は「浮」だよ。「濩」の発音は「戶」だよ。

(註120)

孔衍漢魏春秋曰:天子以公典任于外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故司馬法曰『賞不逾日』者,欲民速覩為善之利也。昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍祭酒李文為河東太守,來歙又承制拜高峻為通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也。其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已。況君秉任二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行蕃甸之外,失得在於斯須之間,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也。自今已後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相獎勵,勿有疑焉。」

(こう)(えん)の『(かん)()(しゅん)(じゅう)』によると、天子は(そう)(そう)に外の任務を任せて、賞は速やかであるべきと考えていたんだって。だから(そう)(そう)は、制度に基づいて諸侯を封じたり、守相の職務を委ねたりしたんだよ。帝は詔を下してこう言ったよ。
「軍の大事は、善し悪しをすぐに賞罰で示すこと。だから、司馬法には『賞は一日を越えてはならない』と書かれているの。これは、善い行いの利益を早く民に示すためだよ。昔の話を振り返ってみると、(こう)()(てい)(りゅう)(しゅう))の中興の時代、(とう)()(かん)(ちゅう)に入った時、制度に基づいて(ぐん)(さい)(しゅ)()(ぶん)()(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命して、(らい)(きゅう)(こう)(しゅん)(つう)()(しょう)(ぐん)にすぐに任命したんだって。彼らの列伝を調べると、彼らが先に求めていたわけではなくて、事態に合わせて印章を刻んでいたんだよ。(せい)()(りゅう)(しゅう))が神明で、臨機応変に功績を考えたもので、すぐに制度を使って功績をたたえることができたんだよ。『(しゅん)(じゅう)』の義によると、大夫は国の境界を越えて、独断で特別な任務をすることがあるよ。それが国と人のためになるなら、許されるんだね。何しろ、あなたは二伯((しゅう)(こう)(たん)(しょう)(こう)(せき))の役目を担っていて、すべての州を任されているからなおさらだよ。征服に取り組んで異民族と戦って、軍が国境を越えた時、成果を得るにはちょっと時間がかかるかもしれないよね。報酬を待ってる間に時間を無駄にしちゃうと、国のことが遅れちゃうから、私はそうしたくないな。これからは、臨時の任命に対してはすぐに印章を刻んで授けてね。みんなが忠と義をお互いにたたえ合って、疑いを持たせないようにしてね!」

本文

冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。(註121)

冬の十月、功績に報いるために、新たに五大夫の爵位を設けて、これに古い列侯と(かん)(だい)(こう)を含めて合わせて6つの階級を定めたよ。

(註121)

魏書曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。臣松之以為今之虛封蓋自此始。

()(しょ)』によると、爵位は名号侯は18級、(かん)(ちゅう)(こう)は17級で、どちらも金の印と紫色の綬が与えられたんだって。それに、(かん)(だい)(がい)(こう)は16級で、銅の印と龜の紐、墨色の綬が与えられたんだって。五大夫は15級で、銅の印と環の紐、墨色の綬が授けられたんだって。これらの爵位の者たちは、租税を納める必要がなかったんだよ。これらの階級は、古い列侯と(かん)(だい)(こう)と合わせて、全部で6つの階級だったよ。
(はい)(しょう)()の見解としては、これによって今の中身の無い爵位制度が始まったのだと思うよ。

本文

十一月,魯自巴中將其餘衆降。封魯及五子皆為列侯。劉備襲劉璋,取益州,遂據巴中;遣張郃擊之。

十一月、(ちょう)()()(ちゅう)から残りの兵たちを率いて降伏したよ。(ちょう)()とその5人の子供たちはみんな列侯に封ぜられたよ。
一方、(りゅう)()(りゅう)(しょう)を攻撃して、(えき)州を奪って、その後に()(ちゅう)に駐屯したんだ。(ちょう)(こう)に彼を対抗させたよ。

本文

十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中。(註122)

十二月、(そう)(そう)(なん)(てい)から帰って、()(こう)(えん)(かん)(ちゅう)に駐屯させたよ。

(註122)

是行也,侍中王粲作五言詩以美其事,曰:「從軍有苦樂,但問所從誰。所從神且武,安得乆勞師?相公征關右,赫怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西牧邊地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」

この遠征で、()(ちゅう)(おう)(さん)がそのできごとをたたえるために五言詩を作ったよ。
「従軍には苦しみと喜びがあるけど、誰に従えばいいのかな。神みたいな武勇に優れた指導者に従えば、どうして軍隊が長く持ちこたえることになるの? あなたが関西へ遠征して、その威が天地を揺るがす中で、一挙に獯虜(異民族)を滅ぼして、(きょう)族を服従させたよ。西の辺境の敵は、まるで地を這って拾うみたいにすぐに手なずけられちゃったね。賞は山や岳を越えて、酒宴は川や丘を超えて、軍中は食糧に事欠くことがなくて、人も馬も十分に肥えているよ。歩兵も騎兵も帰る時、たくさんの資源があったよ。三千里にもわたって領土を拡げて、行きも帰りも飛ぶように速くて、歌と舞が(ぎょう)城に響き渡っていて、望んだものは間違いなく得られるんだ」

魏王になる

本文

二十一年春二月,公還鄴。(註123)

建安21年(216年)、春の二月、(そう)(そう)(ぎょう)に帰ってきたよ。

(註123)

魏書曰:辛未,有司以太牢告至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以為祠廟上殿當解履。吾受錫命,帶劔不解履上殿。今有事于廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也。又臨祭就洗,以手擬水而不盥。夫盥以絜為敬,未聞擬向不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也。

()(しょ)』によると、辛未の日、宮廷の役人が太牢の儀式を行って、その功績を祀ったよ。甲午の日になって、春の祭祀が始まって、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「議論する人は、廟の上殿では履物を脱ぐべきだと言っているの。でも、私は天子から命令を受けて、剣を帯びている身で、上殿では履物を脱がないこととされているんだよ。今、廟で儀式が行われている時に履物を脱ぐことは、先代を尊んで、王朝の命令を変えてしまうことで、祖先を尊重して君主を疎かにすることになっちゃうよ。だから私は、上殿で履物を脱ぐことはできないよ。それに、祭りの時には手を水に濡らすけど、実際には手を洗わないことがあるよね。洗うことで敬意を表すのに、手を水に浸さない礼は聞いたことがないよ。『神を祭るときは、神が実際にそこにいるかのように振舞わなければならない』という考えから、私は直接水を受けて手を洗うよ。

『祭神如神在』は、『(ろん)()』「(はち)(いつ)」から。

(註123)

又降神禮訖,下階就幕而立,須奏樂畢竟,似若不愆,烈祖遲祭,不速訖也。故吾坐俟樂闋送神乃起也。受胙納神以授侍中,此為敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于神,終抱而歸也。仲尼曰『雖違衆,吾從下』,誠哉斯言也。」

それから、祭りが終わった後、階段を降りて幕の下に立って、楽器の演奏が終わるまで静かに待つけど、祖先に捧げる儀式は急がないでゆっくりと行うんだ。これは、先祖への儀式が急がれてはならないためだよ。だから私は演奏が終わるのを座って待って、神を送ってから立つことにするよ。神への捧げ物を納めて、()(ちゅう)に渡すのは、敬意を表すためだけど、実際には敬意がないよね。古代の人たちは、自分で祭ることが一般的で、神に捧げ物を納めて、最後には抱えて帰るのが習慣だったんだ。(ちゅう)()(こう)())は『たくさんの人が逆らっても、私は正しい道を行く』と言って、これは本当に誠実な言葉だよね」

本文

三月壬寅,公親耕籍田。(註124)夏五月,天子進公爵為魏王。(註125)(註126)

三月、壬寅の日、(そう)(そう)は籍田を耕したよ。そして、夏の五月、天子は(そう)(そう)()(おう)に封じたよ!

(註124)

魏書曰:有司奏:「四時講武於農隙。漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士為八陣進退,名曰乘之。今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名,下承漢制。」奏可。

()(しょ)』によると、役人たちが上奏してこう言ったよ。
「四季のそれぞれの間、農作業の合間に武術の訓練を行っていたけど、(かん)(しん)の制度を引き継いで、三季(春、夏、秋)の間は訓練を行わなくて、冬の十月に車馬の試合を行ったんだよ。長水の南門で、5つの陣営の兵が8つの陣形を組んで進退したよ。これを『(じょう)()』と呼んだんだって。今のところ、まだ武具はしまわれていないし(戦いは終わっていないし)、兵や民たちも普段から訓練に慣れているから、今後は四季ごとの訓練を行わなくていいよね。立秋に縁起の良い日を選んで大規模な車馬の行列をやろうよ。これを『()(へい)』と呼んで、上では儀式に合わせて、下では(かん)の制度を継承することになるよ」
この上奏は承認されたよ。

(註125)

獻帝傳載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎襃崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延于子孫,庶姓之與親,豈有殊焉。昔我聖祖受命,刱業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣。歷世承平,臣主無事。世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異姓諸侯王之位。

(けん)(てい)(でん)』によると、詔を下してこう言ったよ。
「古来の帝たちは、称号や爵位が異なっていても、功績をほめたたえたり功績のある人を立てることで、一族を栄えさせて子孫に伝えることに、庶民との間には違いはないよね。昔、(せい)()(りゅう)(ほう))は天命を受けて、国を創って、基盤を築いたよ。古今の制度を見て、爵位の差を整えて、山や川を封じて領地を立てて、異なる姓を持つ親族たちに治めさせて彼らを王にしたよ。だから、天命を守って、長い間、世を安定できたんだね。
代々、平和が続いて、臣下と主君には争いごとがなかったよ。(せい)()(りゅう)(しゅう))の時代に中興したけど、また困難があって、数百年にわたって異なる姓を持つ諸侯王はいなくなったんだ。

(註125)

朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,羣兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約。當此之際,唯恐溺入于難,以羞先帝之聖德。賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙焉。君勤過稷、禹,忠侔伊、周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之固辭,故且懷志屈意,封君為上公,欲以欽順高義,須俟勳績。

私は徳が足りないと感じながら、先祖の大業を引き継いだけど、天下は崩壊して、悪い人たちが横行したよ。西から東へと移って、苦労と卑しい生活を送っていたんだ。このような時に、災難に飲み込まれないように恐れているだけで、先帝の素晴らしい徳を辱めることを恐れるばかりだったんだ。
幸いにも皇天の霊のおかげで、あなたが義を持って身を奮って、神武を振るって、困難から私を守って、宗廟を守って、民が安心できるようにしてくれたね。あなたの恩恵を受けていない人はいないよ。あなたの働きは(こう)(しょく)()よりも上で、忠は()(いん)(しゅう)(こう)(たん)に並ぶよね。それなのに、謙虚さで功績を隠して、恭しさで守ったよね。だから、初めて()国が建国された時、私は土地と領地をあなたに授けることになったけど、あなたが命に従わないことを恐れて、あなたが断ることを心配したんだ。私は志を抱いて謙虚な心で応じて、あなたを上公に封じて、高い義を尊重して、功績を待つ覚悟だよ。

(註125)

韓遂、宋建,南結巴、蜀,羣逆合從,圖危社稷,君復命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖。曁至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區宇。

(かん)(すい)(そう)(けん)が南方の()(しょく)と連携して、集団で反乱を企てて、国家を危険に晒したよ。あなたはふたたび将に命令して、龍みたいな威風を振りかざして、虎みたいに勇猛に戦って、勇敢に彼らの指導者を捕らえて、巣食っていた敵を攻め滅ぼしたよ。そして、西方への遠征に臨んで、(よう)(へい)の戦いでは、あなた自らが鎧を身にまとって、険しい地形に深く入り込んで、野蛮な敵と戦って、西の境を安定させて私たちの領土を守り抜いたよ。旗ははるか遠くにわたって掲げられて、名声と教えを遠くにも広めて、天下は平穏を取り戻したよ。

(註125)

蓋唐、虞之盛,三后樹功,文、武之興,旦、奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以聖哲之君,事為己任,猶錫士班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以荅神祇慰萬方哉?

(とう)(ぎょう))や()(しゅん))の時代が隆盛を誇ったのは、三后(堯、舜、禹)が功績を立てて、(しゅう)(ぶん)(おう)()(おう)の興隆は、(しゅう)(こう)(たん)(しょう)(こう)(せき)が補佐として活躍したからだよ。二祖((りゅう)(ほう)(りゅう)(しゅう))が国家の偉業を成し遂げたのは、英傑たちが助けたからだよ。聖賢の君主でさえ、事を自らの責任として、功のある臣下に対して賞を与えて報いたの。ましてや、私のような徳の少ない人いが、あなたたちの助力を仰いで事を成し遂げたにもかかわらず、賞が豊かでなければ、どうして神々に報いて、天下を慰められるの?

(註125)

今進君爵為魏王,使使持節行御史大夫、宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至十。君其正王位,以丞相領兾州牧如故。其上魏公璽綬符冊。敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命。」魏王上書三辭,詔三報不許。

今、あなたの爵位を進めて()(おう)にするよ。(ぎょ)()(たい)()(そう)(せい)(りゅう)(がい)を使者として、節を持たせて、策書と印璽と白茅で包んだ黒い土と、金虎符を第一から第五まで、竹使符を第一から第十まで授けるよ。あなたは王位をしっかりと確立して、(じょう)(しょう)として()(しゅう)(ぼく)の地位は引き続き務めてね。()(こう)の印綬と符冊は返してね。私の命令に従って、あなたの民をいたわって功績をほめて、私の祖先の栄光を伝えるために、努力してね」
(そう)(そう)は3回辞退したけど、詔が3回あって、辞退は許されなかったよ。

(註125)

又手詔曰:「大聖以功德為高美,以忠和為典訓,故刱業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著。稷、契載元首之聦明,周、邵因文、武之智用,雖經營庶官,仰歎俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊,寤寐慨然,自忘守文之不德焉。今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心,而訓後世也。其抑志撙節,勿復固辭。」

それに、直筆の詔にはこう書いてあるよ。
「徳の高い聖人は功績を高く美しいものとして、忠と和を教訓としているよ。だから、国を興して名声を築いて、後の世にも尊敬される存在になったよね。道徳を行って、義を施すことで、人々に力強い影響を与えたよ。その結果、功績は絶え間なく続いて、栄光は輝き続けたよ。
(こう)(しょく)(せつ)は、昔の元首((ぎょう)(しゅん))を上に敬って、(しゅう)(こう)(たん)(しょう)(こう)(せき)も、(ぶん)(おう)()(おう)の知恵を頼りにしたよ。彼らは役人として働きながら、広く尊敬されて、私はその功績を仰いで敬意を表すよ。あなたのような君主は彼らとは異なるよね。私はただ古代の偉人の功績を私は古代の偉人たちの功績を美しいものとしてたたえて、あなたの忠の業績を同じように評価しているの。だから、あなたのために特別な印綬や符冊を作るたびに、昼も夜も心を打たれて、自分の無力を痛感するんだ。今、あなたは私の命令に反していて、固く辞退する姿勢を見せているけど、それは私の心情に沿っていないよ。後の世に向けての教訓として、志を抑えて、謙虚に受け入れてね」

(こう)(しょく)は、(しゅう)の王朝の始祖とされる人だよ。農業が得意だよ。
()は、()の王朝の始祖だよ。治水が得意だよ。
(せつ)は、(いん)の王朝の始祖とされる人だよ。

(註126)

四體書勢序曰:梁鵠以公為北部尉。曹瞞傳曰:為尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。建公名防,司馬宣王之父。

()(たい)(しょ)(せい)』によると、(りょう)(こく)(そう)(そう)(ほく)()()にしたとあるよ。
(そう)(まん)(でん)』によると、(しょう)(しょ)()(じょう)()()(けん)(こう)の推薦で(ほく)()()になったとあるよ。そして、(そう)(そう)()(おう)になった時、()()(けん)(こう)(ぎょう)に招いて、一緒に楽しく酒を飲んだよ。(そう)(そう)()()(けん)(こう)に尋ねたよ。
「今日、もう一度()にすべきかな?」
すると、()()(けん)(こう)は答えたよ。
「昔、あなたを推薦した時は、()にふさわしかったんだ」
(そう)(そう)は大笑いしたよ。
()()(けん)(こう)の名は(ぼう)で、彼は()()()の父親だよ。

(註126)

臣松之案司馬彪序傳,建公不為右丞,疑此不然,而王隱晉書云趙王篡位,欲尊祖為帝,博士馬平議稱京兆府君昔舉魏武帝為北部尉,賊不犯界,如此則為有徵。

(はい)(しょう)()が調べたところ、()()(ひょう)の『(ぞく)(かん)(じょ)』の序文によると、()()(けん)(こう)()(じょう)に就いていなかったとあるけど、それは間違いじゃないかな。(おう)(いん)の『(しん)(じょ)』によると、趙王(()()(りん))が帝位を簒奪すると、祖先を帝として尊ぼうとしたとあるよ。(はか)()()(へい)(けい)(ちょう)()(くん)()()(けん)(こう))は(そう)(そう)(ほく)()()に推薦して、敵が領域を侵さなくなったと述べているよ。このような事例があるから、()()(けん)(こう)()(じょう)になって(そう)(そう)を推薦したことも十分可能性があると思われるよ。

曹氏と司馬氏の関係を表すため?

本文

代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。天子命王女為公主,食湯沐邑。秋七月,匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國。八月,以大理鍾繇為相國。(註127)

(だい)郡の()(がん)族の行単于の()()()とその侯王が貢物を持ってきたよ。天子は王女を公主にして、(とう)(もく)(ゆう)を与えたよ。秋の七月、(きょう)()の南単于の()(ちゅう)(せん)が名王を引き連れて貢物を持ってきたよ。彼を客としてもてなして、()に留まらせて、()(けん)(おう)(きょ)()に監督させたよ。
八月、(だい)()(しょう)(よう)(しょう)(こく)に任命したよ。

(註127)

魏書曰:始置奉常宗正官。

()(しょ)』によると、はじめて(ほう)(じょう)(そう)(せい)の官職を置いたよ。

濡須口の戦い

本文

冬十月,治兵,(註128)遂征孫權,十一月至譙。

冬の十月、軍を整えて、(そん)(けん)を討伐するために遠征して、十一月には(しょう)に着いたよ。

(註128)

魏書曰:王親執金鼔以令進退。

()(しょ)』によると、(そう)(そう)(きん)()を執って、進退を指示したよ。

金鼔は、楽器のひとつだよ。軍の行進や退却を指示するために使われたんだって。(そう)(そう)自ら指揮権を持って、進退を指示したことを表しているよ。

本文

二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。

建安22年(217年)、春の正月、(そう)(そう)の軍は(きょ)(そう)に駐屯して、二月、長江の西の(かく)谿(けい)に進軍したよ。(そん)(けん)(じゅ)(しゅ)(こう)に城を築いて抵抗したけど、(そう)(そう)は攻撃を仕掛けて、(そん)(けん)は撤退したよ。三月、(そう)(そう)は引き上げて、()(こう)(とん)(そう)(じん)(ちょう)(りょう)たちを(きょ)(そう)に駐屯させたよ。

本文

夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。五月,作泮宮。六月,以軍師華歆為御史大夫。(註129)

夏の四月、天子は(そう)(そう)に天子の旗を掲げて、出入りする時に(けい)(ひつ)をさせるように命令したよ。五月、(はん)(きゅう)が作られたよ。六月、(ぐん)()()(きん)(ぎょ)()(たい)()に任命されたんだ。

(けい)(ひつ)は、君主が外出する時に、先導する先駆者が警笛を鳴らして周囲の人々に注意を促して、道を開ける儀式だよ。
(はん)(きゅう)は、王室が祭祀を行う場所だよ。

(註129)

魏書曰:初置衞尉官。秋八月,令曰:「昔伊摯、傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興。蕭何、曹參,縣吏也,韓信、陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載。吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸,然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀。今天下得無有至德之人放在民間,及果勇不顧,臨敵力戰;若文俗之吏,高才異質,或堪為將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各舉所知,勿有所遺。」

()(しょ)』によると、初めて(えい)()の官職を置いたよ。秋の八月、命令を下してこう言ったよ。
「昔、()(いん)()(えつ)は身分の低い者から出てきたし、(かん)(ちゅう)(せい)(かん)(こう)の敵だったけど、彼らを使って隆盛したんだよ。(しょう)()(そう)(しん)は、元々は県の役人で、(かん)(しん)(ちん)(ぺい)も、はじめは汚名や被っていたよ。彼らは最終的には大業を成し遂げて、長い年月にわたってその名声は広まったんだよ。
()()は、欲深い将軍で、妻を殺して野心を示して、お金をばらまいて役人の地位を求めたりしたんだ。母親が亡くなったときも、故郷に帰らなかったんだって。でも、()では(西を守っていたから)(しん)の人で東に向かう人はいなくて、()では三晋((ちょう)()(かん))は南への陰謀をめぐらせることができなかったんだって。今、世の中には立派な徳を持つ人いても埋もれることがあってはならないよね。勇気を持って敵に立ち向かう者もいれば、文才に優れた人たちやすごい資質を持つ人たちもいるよ。時には名誉を傷つけられたり笑われたりすることもあっても、仁を欠く者や孝のない者であっても、国を治めて戦争を行う才能を持っているかもしれないよね。だから、みんなが知っている人を挙げてほしいな。何ひとつ見逃すことなく選ばれたらいいな」

本文

冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕為魏太子。

冬の十月、天子は(そう)(そう)に冠を着せて、冠の上に十二の飾りをつけさせて、金根車に乗せて、6頭の馬に引かせて、さらに5色の副車を設けて、()(かん)(ちゅう)(ろう)(しょう)(そう)()()の太子に任命したよ。

続き → 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 7

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