正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その4

正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(そう) について書かれているよ!

本文中で(そう)(そう)は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「(そう)(そう)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、(はく)(ろう)(ざん)の戦いと(せき)(へき)の戦いだよ。

出典

三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

黒山賊の降伏

本文

夏四月,黑山賊張燕率其衆十餘萬降,封為列侯。故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。(註78)秋八月,公征之,斬犢等,乃渡潞河救獷平,烏丸奔走出塞。

夏の四月、(こく)(さん)賊の(ちょう)(えん)が10万以上の兵を率いて降伏して、列侯に封ぜられたよ。その後、()(あん)(ちょう)(とく)(かく)()たちが(ゆう)(しゅう)()()(州の長官)や涿(たく)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)を殺しちゃった。そして、三郡の()(がん)族が(こう)(へい)(せん)()()を攻めたんだ。
秋の八月、(そう)(そう)は彼らを討って斬ったよ。その後、()()を渡って(こう)(へい)を救援して、()(がん)族は逃げ出して辺境を去ったよ。

(註78)

續漢書郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡。

(ぞく)(かん)(じょ)』「(ぐん)(こく)()」によると、「(こう)(へい)」は県の名前で、(ぎょ)(よう)郡に属しているよ。

本文

九月,令曰:「阿黨比周,先聖所疾也。聞兾州俗,父子異部,更相毀譽。昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;弟五伯魚三娶孤女,謂之撾婦翁;王鳳擅權,谷永比之申伯;王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白為黑,欺天罔君者也。吾欲整齊風俗,四者不除,吾以為羞。」冬十月,公還鄴。

九月、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「『()(とう)()(しゅう)』とは、個人的な利益のためにお互いにかばい合って党を作ることで、昔の聖人たちが望んでいなかったことだよ。()州の風習について聞くと、親子で違う勢力についたり、お互いに中傷しあったりするのだとか。
昔、(ちょく)()()という人は、兄がいなかったのに、世間では兄嫁を盗んだと言われていたみたい。(だい)()(はく)(ぎょ)(だい)()(りん))という人は、3度も父親のいない女性を娶ったから、世間では妻の父親を打ったと言われていたみたい。(おう)(ほう)は権力を乱用したけど、(こく)(えい)(しん)(はく)になぞらえたよ。(おう)(しょう)の忠からの話し合いは、(ちょう)(きょう)からは邪道と言われたよ。
これはみんな、白を黒と言い張って、天を欺いて君主を騙すものだよね。私は風習を整えたいけど、これら4つの問題を解決しなければならないよ」
冬の十月、(そう)(そう)(ぎょう)に帰ったよ。

(ちょく)()()は、(かん)の文帝~景帝時代の人だよ。『(かん)(じょ)』「(ばん)(せき)(ちょく)(しゅう)(ちょう)(でん)」や『()()』「(ばん)(せき)(ちょう)(しゅく)(れつ)(でん)」にあるよ。
(おう)(ほう)は、(かん)の元帝~成帝時代の大将軍だよ。(こく)(えい)が彼を(しん)(はく)になぞらえたのは、『(かん)(じょ)』「(こく)(えい)()(ぎょう)(でん)」にあるよ。(しん)(はく)は、西(せい)(しゅう)時代にあった(しん)という国の君主だよ。
(おう)(しょう)は、(かん)の成帝時代の人だよ。(ちょう)(きょう)に邪道と言われたのは、『(かん)(じょ)』「(おう)(しょう)()(たん)()()(でん)」にあるよ。

烏丸族を討つ

本文

初,袁紹以甥高幹領并州牧,公之拔鄴,幹降,遂以為刺史。幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。遣樂進、李典擊之,幹還守壺關城。

前に、(えん)(しょう)は甥の(こう)(かん)(へい)(しゅう)(ぼく)に任命したよ。(そう)(そう)(ぎょう)を攻め落としたら、(こう)(かん)は降伏して、後に()()(州の長官)に任命されたよ。
でも、(こう)(かん)()(がん)族を討つ話を聞くと、州を裏切って(じょう)(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)を捕らえて、兵を挙げて()(かん)口を守ったよ。(がく)(しん)()(てん)を送って攻撃したけど、(こう)(かん)()(かん)城を守ったままだったの。

本文

十一年春正月,公征幹。幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之。

建安11年(206年)、春の正月、(そう)(そう)(こう)(かん)を討つために出発したよ。(こう)(かん)はこれを聞くと、将を城に残して自分は(きょう)()に逃げて、単于(匈奴の君主)に救援を求めたけど、単于は受け入れなかったんだ。(そう)(そう)()(かん)を包囲して、三月に陥落させたよ。(こう)(かん)はその後、(けい)州に逃げたけど、(じょう)(らく)()()(おう)(えん)に捕らえられて斬られちゃった。

本文

秋八月,公東征海賊管承,至淳于,遣樂進、李典擊破之,承走入海島。割東海之襄賁、郯、戚以益琅邪,省昌慮郡。(註79)

秋の八月、(そう)(そう)が東に遠征して、海賊の(かん)(しょう)を討ったよ。(じゅん)()に着いて、(がく)(しん)()(てん)に彼を打ち破らせると、(かん)(しょう)は海の島に逃げたよ。(そう)(そう)(とう)(かい)(じょう)()(たん)()を併合して、(ろう)()を拡大して、(しょう)()郡を廃止したよ。

(註79)

魏書載十月乙亥令曰:「夫治世御衆,建立輔弼,誡在面從,詩稱『聽用我謀,庶無大悔』,斯實君臣懇懇之求也。吾充重任,每懼失中,頻年已來,不聞嘉謀,豈吾開延不勤之咎邪?自今已後,諸掾屬治中、別駕,常以月旦各言其失,吾將覽焉。」

()(しょ)』によると、十月、乙亥の日、命令を下してこう言ったよ。
「世を治めて、民を導くには、補佐役を立てることが大切だよ。ただし、口先だけの従順を戒めるべきだね。『詩経』にも『私の策を聞いて、大きな後悔をしないように』とあるんだ。これは君主と臣下の真剣な願いだよね。私は重い任務を担っているから、いつも道を外さないかと恐れているんだけど、ここ数年、良い意見を耳にしていないんだ。これは私が意見を求めるのに熱心でなかったからなの? 今後は、直属の()(ちゅう)(べつ)()は、毎月初めに過ちを報告してね。私はそれを確認するね」

本文

三郡烏丸承天下亂,破幽州,略有漢民合十餘萬戶。袁紹皆立其酋豪為單于,以家人子為己女,妻焉。遼西單于蹋頓尤彊,為紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞為害。公將征之,鑿渠,自呼沲入泒水,(註80)名平虜渠;又從泃河口(註81)鑿入潞河,名泉州渠,以通海。

三郡の()(がん)族たちが、天下の混乱を利用して、(ゆう)州を破って、(かん)の民を10万以上捕らえたんだ。(えん)(しょう)は、彼らの首長や有力者を単于に任命して、自分の娘と結婚させちゃった。(りょう)西(せい)の単于の(とう)(とん)はとても強くて、(えん)(しょう)とは友好的な関係だったよ。だから、(えん)(しょう)兄弟は彼に服従して、何度か国境に侵入して害を与えたよ。
(そう)(そう)はこれに対抗しようと、水路を整備したよ。彼は()()から()(すい)に水を入れて、「(へい)(りょ)(きょ)」と名付けたよ。さらに、(こう)()(こう)から()()に水を通して、「(せん)(しゅう)(きょ)」と名付けて、海とつながるようになったんだ。

(註80)

泒音孤。

「泒」の発音は「孤」だよ。

(註81)

泃音句。

「泃」の発音は「句」だよ。

白狼山の戦い

本文

十二月春二月,公自淳于還鄴。丁酋,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。(註82)

建安12年(207年)、春の二月、(そう)(そう)(じゅん)()から(ぎょう)に戻ったよ。丁酋の日、命令を下してこう言ったよ。
「私は義兵を挙げて暴乱を討伐してから、今で19年になるけど、征討するたびに必ず勝利を収めてきたよ。これは私の功績なの? いや、それは素晴らしい士人や大夫たちの力によるものだよ。天下はまだ完全には平定されていないけど、私は彼らと一緒に平定していくつもりだよ。そして、その功績をひとりで受けるなんて、私にはとてもできないよ! だから、功績を早く評価して、封賞を行うようにしてね」
そこで、功績を挙げた人たち20人以上がみんな列侯の位を受けたよ。他の人たちも順に封ぜられて、亡くなった人の家族には、亡くなった人のそれぞれの功績に応じて爵位や褒美を与えたよ。

(註82)

魏書載公令曰:「昔趙奢、竇嬰之為將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流聲。吾讀其文,未甞不慕其為人也。與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,羣士不遺其力,是以夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬。追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍於陳、蔡者,庶以疇荅衆勞,不擅大惠也。宜差死事之孤,以租穀及之。若年殷用足,租奉畢入,將大與衆人悉共饗之。」

()(しょ)』によると、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「昔、(ちょう)(しゃ)(とう)(えい)が将になった時、彼らは千金を受け取ったけど、すぐにそれをばらまいたんだって。だから、大きな功績を成し遂げて、永く世に名を残したんだ。私はその文を読むたびに、彼らの人となりを慕わずにはいられないの。
私は将や士大夫たちと一緒に戦って、幸いにも賢人たちが策を惜しまないで、臣下たちがその力を尽くしてくれたおかげで、険しい道を平定できて、混乱を鎮めることができたんだ。こうして、私は大きな賞を受けて、3万戸の領地を得たんだ。私は(とう)(えい)が金をばらまいた義を思い出して、今、受け取った租税を将や役人たち、昔に(ちん)(さい)を守っていた人たちに分け与えるよ。みんなの苦労に報いて、私だけで恩恵を独占しないようにしたいの。それに、戦いで亡くなった兵の孤児には、租税と穀物を与えるべきだね。もし収穫に余裕があって、たくさんの税が入ったら、みんなと分かち合って楽しみたいな」

(ちん)(さい)は、(こう)()が旅をしている途中で食料が尽きて苦しんだところだね。

本文

將北征三郡烏丸,諸將皆曰:「袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為尚用?今深入征之,劉備必說劉表以襲許。萬一為變,事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備,勸公行。

北方の三郡の()(がん)族を攻めに行くことになったんだけど、将たちはみんな言ったよ。
(えん)(しょう)は逃亡者だよ。異民族は貪欲で親しさがないから、(えん)(しょう)の頼りになる存在ではないよね。今、深入りして進軍すると、(りゅう)()(りゅう)(ひょう)を説得して(きょ)を襲うかも。もし予期していない事態が起これば、後悔することになっちゃう」
でも、(かく)()だけは、(りゅう)(ひょう)(りゅう)()を信じることができないと考えて、(そう)(そう)に進軍することを勧めたよ。

本文

夏五月,至無終。秋七月,大水,傍海道不通,田疇請為鄉導,公從之。引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃壍山堙谷五百餘里,經白檀,歷平岡,涉鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等,將數萬騎逆軍。

夏の五月、(そう)(そう)()(しゅう)に着いたよ。
秋の七月、大雨が降って、海沿いの道路が通行できなくなっちゃった。(でん)(ちゅう)が地元の案内役として申し出て、(そう)(そう)はそれを受け入れたよ。軍を率いて()(りゅう)塞を出発して、外との連絡路が途絶えちゃったから、山を切り開いて谷を埋めて、500里以上もの道を開拓したんだ。(びゃく)(だん)を通って、(へい)(こう)を過ぎて、(せん)()(てい)を渡って、東の(りゅう)(じょう)を目指したよ。
200里ほど進んだところで、敵がその動きを知ったみたい。(えん)(しょう)(えん)()(とう)(とん)、そして(りょう)西(せい)の単于の(ろう)(はん)()(ほく)(へい)の単于の(のう)(しん)(てい)()たちが率いる数万の騎兵が攻めて来たんだ。

本文

八月,登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。公車重在後,被甲者少,左右皆懼。公登高,望虜陳不整,乃縱兵擊之,使張遼為先鋒,虜衆大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸及遼西、北平諸豪,棄其種人,與尚、熙奔遼東,衆尚有數千騎。

八月、(はく)(ろう)(ざん)に登ったよ。そこで、敵と遭遇して、彼らはとても多くて勢いがあったんだ。(そう)(そう)の軍の物資は後方にあって、甲冑を身に着けた兵は少なかったから、周りの人たちはみんな恐れちゃった。でも、(そう)(そう)は高い場所に登って、敵の陣形が乱れているのを見て、兵たちに攻撃を命令したよ。先鋒に(ちょう)(りょう)を指名して、敵の軍勢を大きく崩したよ。(とう)(とん)や王たちを討ち取って、()(かん)の人たちは20万人以上も降伏したんだって。(りょう)(とう)の単于の(そく)(ぼく)(がん)(りょう)西(せい)(ほく)(へい)の豪族たちは、自分たちの民を捨てて、(えん)(しょう)(えん)()と一緒に(りょう)(とう)に逃げちゃった。彼らの軍にはまだ数千の騎兵が残っていたんだって。

本文

初,遼東太守公孫康恃遠不服。及公破烏丸,或說公遂征之,尚兄弟可禽也。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還,(註83)康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。

前に、(りょう)(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(こう)(そん)(こう)は、遠い所にいるから従わなかったんだ。(そう)(そう)()(がん)族を破った後、ある人が(そう)(そう)にこう言ったよ。
(りょう)(とう)に進軍して(えん)(しょう)兄弟を捕らえられるかも」
でも、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「私は、(こう)(そん)(こう)(えん)(しょう)(えん)()の首を斬らせて届けさせるつもりだから、兵を使わないでいいよ」
九月、(そう)(そう)は兵を引いて、(りゅう)(じょう)から帰ったよ。(こう)(そん)(こう)(そく)(ぼく)(がん)(りょう)(とう)の単于たちと一緒に(えん)(しょう)(えん)()を斬って、首を届けたんだ。

(註83)

曹瞞傳曰:時寒且旱,二百里無復水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈乃得水。旣還,利問前諫者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以為常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」

(そう)(まん)(でん)』によると、その時期は寒くて、干ばつも続いていて、200里にわたって水がなくて、軍は食糧が足りなかったから、馬を数千頭も殺して食糧にしたんだって。地中を30丈以上掘り進むと、やっと水を得られたんだ。帰った後、(そう)(そう)は出発前に忠告した人を調べて名を書いたよ。誰もその理由を知らなかったから、みんな恐れていたんだ。(そう)(そう)はみんなをとてもほめて、こう言ったよ。
「私が前に進んだのは、危険を乗り越えて幸運を求めたものだよ。それで成功したのは、天が助けたからだよ。でも、いつもこれではいけないよね。みんなの忠告は、良い作戦だから、厚く賞を与えるべきだよね。今後も遠慮しないで忠告してね」

本文

諸將或問:「公還而康斬送尚、熙,何也?」公曰:「彼素畏尚等,吾急之則并力,緩之則自相圖,其勢然也。」十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。

将の中に尋ねる人がいたよ。
(そう)(そう)が帰ったら、(こう)(そん)(こう)(えん)(しょう)(えん)()を斬ったのはどうして?」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
「彼は元から(えん)(しょう)(えん)()を恐れていて、私が激しく攻めれば彼らは力を合わせるだろうけど、ゆるめたらお互いに敵対するだろうね。そういう勢いがあったからね」
十一月、(えき)(すい)に着いて、(だい)郡の()(がん)族の行単于の()()()(じょう)郡の()(がん)族の行単于の()(ろう)が名王として訪れて祝ったよ。

丞相になる

本文

十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。(註84)漢罷三公官,置丞相、御史大夫。夏六月,以公為丞相。(註85)

建安13年(208年)、春の正月、(そう)(そう)(ぎょう)に帰って、「(げん)()()」と呼ばれる湖を作って水軍の訓練をしたよ。 (かん)の朝廷は(さん)(こう)の官職を廃止して、(じょう)(しょう)(ぎょ)()(たい)()の役職を置いたんだ。夏の六月、(そう)(そう)(じょう)(しょう)に任命されたよ!

(註84)

肄,以四反。三蒼曰:「肄,習也。」

「肄」とは、4回繰り返して行うことだよ。『(さん)(そう)』によると、「肄」とは「習う」ことを意味するんだって。

(註85)

獻帝起居注曰:使太常徐璆即授印綬。御史大夫不領中丞,置長史一人。先賢行狀曰:璆字孟平,廣陵人。少履清爽,立朝正色。歷任城、汝南、東海三郡,所在化行。被徵當還,為袁術所劫。術僭號,欲授以上公之位,璆終不為屈。術死後,璆得術璽,致之漢朝,拜衞尉太常;公為丞相,以位讓璆焉。

(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』によると、(たい)(じょう)(じょ)(きゅう)を送って印綬を授けたんだって。(ぎょ)()(たい)()(ちゅう)(じょう)を下に置かないで、代わりに(ちょう)()を1人配置したよ。
(せん)(けん)(ぎょう)(じょう)』によると、(じょ)(きゅう)は、(あざな)(もう)(へい)で、(こう)(りょう)の出身だよ。若い頃から清らかな心を持っていて、朝廷でも正直で誠実に振る舞っていたんだって。(じん)(じょう)(じょ)(なん)(とう)(かい)の3つの郡でさまざまな役職を歴任して、どこにいても立派な仕事をして人たちから慕われていたんだよ。朝廷に呼ばれたけど、(えん)(じゅつ)に拘束されちゃった。(えん)(じゅつ)は帝位を勝手に称して、上位の役職を授けようとしたけど、(じょ)(きゅう)はそれを断ったんだ。(えん)(じゅつ)が亡くなった後、(じょ)(きゅう)(えん)(じゅつ)(ぎょく)()を手に入れて、それを(かん)の朝廷に献上したよ。その結果、彼は(えい)()(たい)(じょう)に任命されたんだよ。(そう)(そう)(じょう)(しょう)だったけど、位を(じょ)(きゅう)に譲ったよ。

荊州へ

本文

秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂降,備走夏口。公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始。乃論荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將文聘為江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩、鄧義等。(註86)(註87)

秋の七月、(そう)(そう)(りゅう)(ひょう)を討つために南へ出発したよ。八月に(りゅう)(ひょう)が亡くなって、子の(りゅう)(そう)が後を継いで(じょう)(よう)に駐屯したよ。一方で、(りゅう)()(はん)に駐屯していたんだ。
九月、(そう)(そう)(しん)()に着いたよ。その結果、(りゅう)(そう)が降伏して、(りゅう)()()(こう)へ逃げたんだ。(そう)(そう)(こう)(りょう)に進軍して、(けい)州の役人や民に新しい統治の始まりを宣言したよ。そして、(けい)州が従った功績を評価して、15人を侯に封じたよ。(りゅう)(ひょう)の大将の(ぶん)(ぺい)(こう)()(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命して、(けい)州で名高い士人である(かん)(すう)(とう)()たちを引き入れたよ。

(註86)

衞恒四體書勢序曰:上谷王次仲善隷書,始為楷法。至靈帝好書,世多能者。而師宜官為最,甚矜其能,每書,輙削焚其札。梁鵠乃益為版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書。

(えい)(こう)の『()(たい)(しょ)(せい)』の序文によると、(じょう)(こく)の出身の(おう)()(ちゅう)は隷書が得意で、その書法は楷書の基礎になったんだって。(れい)(てい)は書道が好きで、書道が得意な人たちがたくさん現れたよ。中でも()()(かん)は、最も優れた書家で、自分が一番だと思っていたんだって。書くたびに、書法を真似されないように削ったり燃やしたりしていたみたいだよ。
(りょう)(こく)は、()()(かん)の書を真似して自分の書に取り入れるために、彼に酒を飲ませて、酔ったところで彼の書を盗んだよ。(りょう)(こく)はその書法を勉強して、最終的に(せん)()(しょう)(しょ)まで昇進したんだよ。

(註86)

於是公欲為洛陽令,鵠以為北部尉。鵠後依劉表。及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以勤書自効。公甞懸著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官。鵠字孟皇,安定人。魏宮殿題署,皆鵠書也。

(そう)(そう)は、(らく)(よう)の令になりたかったけど、(りょう)(こく)(ほく)()()になる方がいいと勧めたんだ。(りょう)(こく)はその後、(りゅう)(ひょう)に仕えたの。
(けい)州が平定された後、(そう)(そう)(りょう)(こく)を探したんだけど、(りょう)(こく)は怖くて自分を縛り付けて門に出向いたんだって。すると、(そう)(そう)は彼を軍の()()に任命して、秘書で働きながら献身的に書道の技術を向上させたんだよ。(そう)(そう)は彼の書を気に入って、帳の中に掲げて、釘で壁に打ち付けて、「()()(かん)よりも勝っている」とほめたんだ。
(りょう)(こく)は、(あざな)(もう)(こう)で、(あん)(てい)の出身だよ。()の宮殿の額の文字はすべて(りょう)(こく)の書なんだって。

(註87)

皇甫謐逸士傳曰:汝南王儁,字子文,少為范滂、許章所識,與南陽岑晊善。公之為布衣,特愛儁;儁亦稱公有治世之具。及袁紹與弟術喪母,歸葬汝南,儁與公會之,會者三萬人。公於外密語儁曰:「天下將亂,為亂魁者必此二人也。欲濟天下,為百姓請命,不先誅此二子,亂今作矣。」儁曰:「如卿之言,濟天下者,舍卿復誰?」相對而笑。儁為人外靜而內明,不應州郡三府之命。公車徵,不到,避地居武陵,歸儁者一百餘家。帝之都許,復徵為尚書,又不就。

(こう)()(ひつ)の『(いっ)()(でん)』によると、(じょ)(なん)の出身の(おう)(しゅん)は、(あざな)()(ぶん)だよ。幼い頃から(はん)(ぼう)(きょ)(しょう)と知り合いで、(なん)(よう)の出身の(しん)(しつ)とも仲がよかったんだって。(そう)(そう)は官位の無い身だった頃、特に(おう)(しゅん)を気に入って、(おう)(しゅん)(そう)(そう)が治世に必要な才能を持っていると評価していたんだよ。(えん)(しょう)とその弟の(えん)(じゅつ)が母を亡くして、(じょ)(なん)に帰って葬儀を行った時、(おう)(しゅん)(そう)(そう)と一緒に参加したよ。3万人が集まったらしいよ。この時、(そう)(そう)(おう)(しゅん)にこっそりとこう言ったよ。
「天下は乱れようとしているの。乱の先鋒となるのは、必ず彼らふたり((えん)(しょう)(えん)(じゅつ))だよ。天下を救って民のために尽くすつもりなら、まずは彼らふたりを討たなければ、今すぐ乱は起きちゃうよ」
(おう)(しゅん)はこう答えたよ。
「あなたの言うとおりなら、天下を救うのは、あなた以外に誰がいるの?」
彼らは笑い合ったよ。
(おう)(しゅん)は外面は静かで内面は明るい人物で、州や郡の役職には就かないで、(さん)(こう)の命令にも応じなかったんだって。公車(帝や諸侯が乗る車)を送って招いても応じなくて、()(りょう)に隠れ住むことを選んだよ。(おう)(しゅん)に従う人は100人以上もいたんだって。その後、帝が(きょ)に都を移した時にも、ふたたび(しょう)(しょ)に任命されたけど、受けないで辞退したよ。

(註87)

劉表見紹彊,陰與紹通,儁謂表曰:「曹公,天下之雄也,必能興霸道,繼桓、文之功者也。今乃釋近而就遠,如有一朝之急,遙望漠北之救,不亦難乎!」表不從。儁年六十四,以壽終于武陵,公聞而哀傷。及平荊州,自臨江迎喪,改葬于江陵,表為先賢也。

(りゅう)(ひょう)(えん)(しょう)の力を見て、(えん)(しょう)とこっそり通じていたんだよ。(おう)(しゅん)(りゅう)(ひょう)にこう言ったよ。
(そう)(そう)は天下でも有力な存在で、必ず覇道を築いて、(せい)(かん)(こう)(しん)(ぶん)(こう)の功績を継ぐ存在になると思うよ。今、近くの利益を捨てて遠いものに取り組むなんて、もしも危機が訪れたら、北の遠く((えん)(しょう))からの救援を望むのは簡単なことじゃないよ!」
(りゅう)(ひょう)は忠告を聞き入れなかったんだって。
(おう)(しゅん)は 64歳で亡くなって、()(りょう)で天寿を全うしたよ。(そう)(そう)はその知らせを聞いて悲しんだの。(けい)州が平定された後、(そう)(そう)は長江まで行って彼の棺を迎えて、墓を(こう)(りょう)に移したよ。(おう)(しゅん)は先賢として尊ばれたよ。

赤壁の戦い

本文

益州牧劉璋始受徵役,遣兵給軍。十二月,孫權為備攻合肥。公自江陵征備,至巴丘,遣張憙救合肥。權聞憙至,乃走。公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。備遂有荊州、江南諸郡。(註88)(註89)

(えき)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(しょう)は、最初に徴兵の命を受けて、兵を送って軍を支援したよ。十二月、(そん)(けん)(りゅう)()のを支援して(がっ)()を攻撃したんだ。(そう)(そう)(こう)(りょう)から(りゅう)()を攻めるために進軍して、()(きゅう)に着くと、(ちょう)()を送って(がっ)()を救援させたよ。(そん)(けん)は、(ちょう)()が着いたことを聞いて、撤退したんだ。 (そう)(そう)(せき)(へき)に着いて、(りゅう)()と戦ったけど、不利に終わったんだ。そして、大規模な疫病が発生しちゃって、たくさんの役人や兵が亡くなったから、(そう)(そう)は軍を引き返すことになったよ。
(りゅう)()はその後、(けい)州や(こう)(なん)のいくつかの郡を支配するようになったんだ。

負け戦だからかな、他の戦いの記述と比べるとあっさりだね。

(註88)

山陽公載記曰:公船艦為備所燒,引軍從華容道步歸,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。羸兵為人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚衆。軍旣得出,公大喜,諸將問之,公曰:「劉備,吾儔也。但得計少晚;向使早放火,吾徒無類矣。」備尋亦放火而無所及。

(さん)(よう)(こう)(さい)()』によると、(そう)(そう)の船が(りゅう)()に焼かれちゃった。だから、(そう)(そう)は兵たちを引き連れて歩いて()(よう)(どう)を通って帰ることになったの。でも、途中で道がどろどろになっていて、通れなくなっちゃった。それに、天気が悪くて、大風が吹き荒れていたんだって。(そう)(そう)は弱った兵たちに命令して草を運ばせて道を埋め立てて、やっと騎馬で通り抜けることができたんだ。残念ながら、草を運んで埋め立てた兵たちは、馬に踏みつけられて、泥に埋まって、たくさんの人が死んじゃった。
軍がついに脱出できて、(そう)(そう)はとても喜んだよ。将たちが(そう)(そう)に尋ねると、(そう)(そう)はこう答えたよ。
(りゅう)()は私と同じくらいの才能を持っているよ。ただ、計略が少し遅かっただけだね。もし早く火を放っていたら、私たちは敵わなかったかも」
その後、(りゅう)()が火を放ったけど、追いつくことはなかったよ。

(註89)

孫盛異同評曰:案吳志,劉備先破公軍,然後權攻合肥,而此記云權先攻合肥,後有赤壁之事。二者不同,吳志為是。

(そん)(せい)の『()(どう)(ひょう)』によると、『呉志』を見ると、(りゅう)()はまず(そう)(そう)の軍を破って、その後、(そん)(けん)(がっ)()を攻めたとあるよ。でも、この記録(武帝紀)には、(そん)(けん)(がっ)()を先に攻めて、その後に(せき)(へき)の戦いがあったと書かれているの。この2つの記述は矛盾しているけど、『呉志』が正しいとされているんだ。

合肥へ進軍する

本文

十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍。秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥。辛未,令曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存卹撫循,以稱吾意。」置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。

建安14年(209年)年、春の三月、(そう)(そう)の軍は(しょう)に着いて、軽舟を作って水軍を整えたよ。秋の七月、()(すい)から(わい)(すい)に進んで、()(すい)を出て、軍は(がっ)()に集結したんだ。辛未の日、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「最近、軍は何度も遠征して、ときには病気に襲われて、たくさんの役人や兵が亡くなって帰れなくて、その家族は悲しみに暮れて、民は散り散りになっているよ。仁のある人がどうしてこの状況を喜ぶの? やむを得ないことだったんだ。亡くなった人の家族が事業を失って生活できない場合、県の役人は食料を絶やさないように支援して、(ちょう)()(行政官)は彼らを見守って励まして、私の意向に応えてね」
(よう)州の各郡に(ちょう)()を任命して、(しゃく)()で農地を開いて屯田を始めたよ。十二月、軍は(しょう)に帰ったよ。

才能ある人集え!

本文

十五年春,下令曰:「自古受命及中興之君,曷甞不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也,曾不出閭巷,豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定,此特求賢之急時也。『孟公綽為趙、魏老則優,不可以為滕、薛大夫』。若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣於渭濵者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之。」冬,作銅爵臺。(註90)

建安15年(210年)年、春、曹操は命令を下してこう言ったよ。
「古から、天命を受けたり、国を立て直した君主たちは、賢人や君子たちと一緒に天下を治めてきたよね! その賢人を得るとき、庶民の中から出るもので、幸運に出会ったわけではないんだよ。上に立つ者が求めようとしなかっただけなの。今はまだ天下が平定されていなくて、まさに賢人を探す必要があるよね。『(もう)(こう)(しゃく)は、(ちょう)()の家老としては十分だけど、(とう)(せつ)の大夫にはふさわしくない』とあるよ。もし賢人を選ぶ時に必ず清廉な人物でなければ用いてはならないとすれば、(せい)(かん)(こう)はどうやって覇業を成し遂げたの? 今、天下には粗末な服を着て宝玉を抱いている人たち(才能や学を持っているのに身分が低い人たち)がいて、()(すい)のほとりで釣りをしている人((たい)(こう)(ぼう))や、兄嫁を盗んで賄賂を受け取ったものの()()()に会っていない人((ちん)(ぺい))がいるかもしれないよ。みんなは、私と一緒にそうした隠れた賢者を見つけ出して、ただ才能のみを重視して登用するように助けてほしいんだ。彼らを得て任せることができれば、私はそれで十分だよ」
冬に、銅雀台を作ったよ。

(もう)(こう)(しゃく)は、()の国の大夫だよ。『孟公綽為趙、魏老則優,不可以為滕、薛大夫』は、『(ろん)()』「(けん)(もん)」から。
(せい)(かん)(こう)は、清廉とは言えない(かん)(ちゅう)を登用したことで覇者になったよ。
(たい)(こう)(ぼう)は、(しゅう)(ぶん)(おう)に仕えた人だよ。(りょ)(しょう)だよ。
(ちん)(ぺい)は、(りゅう)(ほう)に仕えた人だよ。素行が悪いうわさがあったけど、才能がある人だよ。()()()に推薦されて(りゅう)(ほう)に仕えるようになったよ。『()()』「(ちん)(じょう)(しょう)(せい)()」を見てね。
()()()は、(りゅう)(ほう)に仕えた人だよ。(ちん)(ぺい)の才能を見抜いて、(りゅう)(ほう)に推薦した人だよ。
銅雀台は、宮殿だよ。今でも跡地が残っているよ。

(註90)

魏武故事載公十二月己亥令曰:「孤始舉孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐為海內人之所見凡愚,欲為一郡守,好作政教,以建立名譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選舉,違迕諸常侍。以為彊豪所忿,恐致家禍,故以病還。

()()()()』によると、十二月、己亥の日、(そう)(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「私が初めて孝廉に選ばれた時(20歳の時)、若かったから、私は山間の穴に住む名の知られた士人ではなくて、天下の人たちから凡人と見られるのが怖かったの。ひとつの郡の太守(郡の長官)となって、政治や教育に力を注いで、名声を築いて、世の中の人たちに自分の存在を認めてもらおうと思ったんだ。だから、(さい)(なん)にいた時、まずは不正を取り除いて、公平に人材を選んだら、よく宮廷の宦官の(じょう)()たちと対立しちゃったんだよね。それで、豪族たちの怒りを買って、家族に災いが及ぶことを恐れて、病気を理由に官職から離れて故郷へ帰ったの。

(註90)

去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名為老,內自圖之,從此却去二十年,待天下清,乃與同歲中始舉者等耳。故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以泥水自蔽,絕賔客往來之望,然不能得如意。後徵為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。

官職から離れた後、まだ若かったし、同じ年に官職に就いた者を見回すと、年齢が50歳でも老いたと言われない人もいたんだ。自分の将来を考えて、これから20年間は静かに過ごそうと思ったんだ。天下が落ち着くのを待っても、同年に挙げられた者たちと並ぶことにしようと考えていたからね。だから、四季を故郷で過ごしたくて、(しょう)の東に50里離れた場所に家を建てて、夏と秋は読書をして、冬と春は狩りを楽しむつもりだったの。泥水に覆われる低い土地で、客や訪問者を遠ざけるための場所を作ろうとしたの。だけど、望み通りにはならなかったんだ。
そして、招集されて()()になって、(てん)(ぐん)(こう)()に昇進したよ。考えを改めて、国家のために敵を討って功績を立てて、侯に封ぜられて、(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)となることを望んだよ。自分の墓に『漢のかつての(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)(そう)(こう)の墓』と刻んでほしいって当時は思っていたんだ。

(註90)

而遭值董卓之難,興舉義兵。是時合兵能多得耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,儻更為禍始。故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦復不過三千人,此其本志有限也。後領兖州,破降黃巾三十萬衆。

でも、私は(とう)(たく)の乱に遭遇しちゃったから、義兵を挙げたよ。その時は、兵をたくさん集められたけど、いつも自分を抑えて、兵をたくさん集めようとはしなかったんだ。どうしてかというと、たくさんの兵が集まると、戦意が高まって、強敵と争ってさらに災いが起こったらどうしようと思ったからなの。だから、(べん)(すい)の戦いでは数千人で戦って、その後に(よう)州に戻って、さらに兵を集めたけど、兵が3,000人を超えることはなかったよ。これは私の本来の志が限られていたからだよ。その後、(えん)州を統治して、黄巾賊の30万を破って降伏させたよ。

(註90)

又袁術僭號於九江,下皆稱臣,名門曰建號門,衣被皆為天子之制,兩婦預爭為皇后。志計已定,人有勸術使遂即帝位,露布天下,荅言『曹公尚在,未可也』。後孤討禽其四將,獲其人衆,遂使術窮亡解沮,發病而死。

加えて、(えん)(じゅつ)(きゅう)(こう)で帝を自称しちゃって、配下の者たちみんなが臣下として仕えて、特に名門の人は『(けん)(ごう)(もん)』と呼ばれて、衣服はすべて天子の制度に従って、2人の妻たちが皇后になろうと争うありさまだったんだ。彼の野心は固まっていて、誰かが彼に帝になって天下に宣言するよう勧めたけど、彼は『(そう)(そう)がまだ生きているから、今はできない』と答えたんだって。そして私は、彼の敵将4人を討ち取って、敵の兵を捕虜にして、彼を追い詰めたから、彼は病にかかって亡くなったんだ。

(註90)

及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但計投死為國,以義滅身,足垂於後。幸而破紹,梟其二子。

(えん)(しょう)が河北を占領して、彼の兵たちがとても強かった時、私は自分の情勢を見極めて、彼には敵わないことを理解したんだ。でも、私は国のために身を捧げて、義のために自分を犠牲にして、身を滅ぼす覚悟で後世に名を残そうとしたんだよ。幸運にも(えん)(しょう)を破って、彼の2人の子を討ち取ったよ。

(註90)

又劉表自以為宗室,包藏姧心,乍前乍却,以觀世事,據有當州,孤復定之,遂平天下。身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。今孤言此,若為自大,欲人言盡,故無諱耳。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王。或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿。

さらに、(りゅう)(ひょう)は自分を帝の一族と考えていて、心の中には陰謀を秘めていて、時に前に進んで、時に後ろに退いて、世の中の動きを見ていたんだ。彼は(けい)州を支配していたけど、私は彼をふたたび討伐して、こうして天下を平定したよ。私は宰相になって、臣下の最高の地位にいるから、望みはすでに超えたの。今、私がこの話をするのは、自分を過大評価をするためではなくて、みんながすべてを理解するために包み隠さずに話しているの。もし国家に私がいなかったら、どれだけの人が帝を自称したり、王を自称したのかわからないよね。ある人たちは、私が力を持っていると見て、そのうえ天命を信じない性格だと思って、私が私心を持っていて不敬な心を抱いていると疑うかもしれないね。彼らは無駄に推測をして、私はいつも心を煩わせているよ。

(註90)

齊桓、晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也。論語云『三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也。昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣,對曰:『臣事昭王,猶事大王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隷,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不敢辱先人之教以忘先王也。』孤每讀此二人書,未曾不愴然流涕也。

(せい)(かん)(こう)(しん)(ぶん)(こう)が今日までたたえられているのは、彼らが兵を拡大しても、(しゅう)の王室に仕えていたからだよ。『(ろん)()』には『天下を三分して、その二分を有していたけど、(いん)に仕えることで、(しゅう)の徳は最高の徳と言える』とあるよ。つまり、大国でありながら小国にも礼をもって交流することだね。
昔、(がく)()(えん)から(ちょう)に逃げた時、趙王は彼と一緒に(えん)を攻めようと相談したよ。でも、(がく)()はひざまづいて涙を流しながらこう言ったよ。
『私は天子に仕えているのと同じように思って、(えん)(しょう)(おう)に仕えていたよ。もし私が罪を犯して他の国に追放されたら、その後代まで罪を償わなければならないよ。(ちょう)の下僕として仕えることはできないし、(えん)の後継者と戦うなんて、なおさらできない!』
また、()(がい)(もう)(てん)を殺した時、(もう)(てん)はこう言ったよ。
『私の先祖から子孫にかけて、3世代にわたって(しん)に忠誠を積み重ねてきたよ。今、私は30万人以上の兵を率いているから、その勢力で反逆もできるけど、私は必ず死を迎えると知りながらも君主の義を守るのは、先祖の教えを汚さないで、先王を忘れないためだよ』
私は彼らの言葉を読むたびに、いつも心が痛んで、涙が流れちゃうの。

(註90)

孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信者矣,以及子桓兄弟,過於三世矣。孤非徒對諸君說此,也常以語妻妾,皆令深知此意。孤謂之言:『顧我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之。』孤此言皆肝鬲之要也。

私の祖父から私自身まで、みんな天子の側近や重んじられる任務を果たしてきたから、信頼されてきたと言えるよね。私の息子の()(かん)(そう)())やその兄弟たちも含めると、3世代を超えるね。私はこれをあなたたちだけに語るのではなくて、妻や側室にも話して、この考えを深く理解させているんだ。私が彼らにこう言ったよ。
『私が亡くなった後、あなたたちは結婚するだろうけど、私の心を次代に伝えてほしいな。他の人たちにもこれを知ってもらいたいな』
これらの言葉はすべて私の真心からのものだよ。

(註90)

所以勤勤懇懇敘心腹者,見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故。然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍也。旣為子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得為也。前朝恩封三子為侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以為榮,欲以為外援,為萬安計。

私がこうして一生懸命に心の内を語るのは、(しゅう)(こう)(たん)(きん)(とう)の書で自分を明らかにしたみたいに、私は人に自分の言葉を信じてもらえないかもしれないことを恐れたからなの。でも、私は今すぐに自分の兵を委ねて執政に戻って、()(へい)(こう)国に帰ることはできないの。どうしてかというと、自分が軍を離れると、他の人に襲われるかもしれないと心配しているからだよ。これまで子孫のために考えて、もし私自身が敗れたら、国家が危機に陥っちゃうから、ふさわしくない名声を追い求めて実際の災難を招くことはできないんだ。
前に、朝廷が私の3人の息子を諸侯に封じようとしたけど、私は固く辞退して受けなかったの。でも、今になって受けようと考えているよ。これは栄誉を求めるためではなくて、外部の支援を得て万全を期すためだよ。

(註90)

孤聞介推之避晉封。申胥之逃楚賞,未甞不捨書而歎,有以自省也。奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也。

私は、(かい)(すい)(かい)()(すい))が(しん)の爵位を避けた話を聞いたよ。それに、(しん)(しょ)()からの賞を逃れたことも聞いたことがあるよ。彼らはいつも名誉や報酬を捨てて、自分を省みているんだね。私は国の威厳と権力を奉じて(帝に代わって)、鉞を持って戦って、弱い者を推し進めて強い者に勝って、小さな勢力で大きな敵を打ち破ってきたよ。私の考えたことはすべて成功して、心配したこともすべて解決して、そのまま天下を平定して、主君の命令に背かずにすんだよ。これはまさに天が漢の王朝を助けたもので、人の力だけでは成し遂げられなかったよね。

(註90)

然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至於邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也。」

でも、4つの県を封ぜられて、3万戸から税を受け取っているんだけど、どんな徳がそれに堪えられるの? 江湖(南の方)がまだ平定されていないから、位を譲ることはできないけど、県や土地は辞退できるよね。(よう)()(しゃ)()の3つの県と2万戸を朝廷に返して、()(へい)の1万戸だけを受け取ろうと提案するよ。そうしたら、悪口や批判を和らげて私の責任を減らせるからね」

「赤壁の敗北の責任は取るぜ」の意味かな?

続き → 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 5

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