はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「武帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操は「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
武帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、青洲兵を手に入れるまでだよ。
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出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
曹操の生まれ
太祖武皇帝,沛國譙人也,姓曹,諱操,字孟德,漢相國參之後。(註1)
太祖武皇帝は、沛国の譙の出身だよ。姓は曹、名は操、字は孟徳っていうんだよ。漢の相国の曹参の末裔だよ。
曹参は、漢の建国者の劉邦に仕えた人だよ。
太祖一名吉利,小字阿瞞。王沈魏書曰:其先出於黃帝。當高陽世,陸終之子曰安,是為曹姓。周武王克殷,存先世之後,封曹俠於邾。春秋之世,與於盟會,逮至戰國,為楚所滅。子孫分流,或家于沛。漢高祖之起,曹參以功封平陽侯,世襲爵土,絕而復紹,至今適嗣國於容城。
曹操の別名は吉利で、幼名は阿瞞だよ。
王沈の『魏書』によると、その家系は黄帝から派生していて、高陽(顓頊)の時代には陸終の子である安が曹姓になったんだって。周の武王が殷を滅ぼした後、先祖の血統を存続させて曹侠が邾に封ぜられたんだよ。
春秋時代には曹氏は同盟を交わしたけど、戦国時代には楚に滅ぼされちゃった。その子孫は散り散りになっちゃって、沛に家を持つ人もいたんだよ。そして、漢の高祖(劉邦)が台頭した時、曹参は功績を挙げて平陽侯に封ぜられて、子孫は代々爵位と領土を受け継いだの。今も容城で曹氏の子孫は国を継承し続けているよ。
黄帝、高陽(顓頊)は、伝説上の君主だよ。詳しくは『史記』「五帝本紀」を見てね。彼らの名を出す目的は、統治の正当性を示すためだと思うよ。
桓帝世,曹騰為中常侍大長秋,封費亭侯。(註2)
桓帝の時代に、曹騰は中常侍、大長秋になって、費亭侯に封ぜられたよ。
司馬彪續漢書曰:騰父節,字元偉,素以仁厚稱。鄰人有亡豕者,與節豕相類,詣門認之,節不與爭;後所亡豕自還其家,豕主人大慙,送所認豕,并辭謝節,節笑而受之。由是鄉黨貴歎焉。長子伯興,次子仲興,次子叔興。
司馬彪の『続漢書』によると、曹騰の父は曹節で、字は元偉だよ。優しい人柄が評判なんだって。ある日、隣の人が豚を失くしちゃったんだけど、その豚が曹節の家の豚に似ていたんだ。その人は曹節の家を訪れて、その豚が自分のものだって言ったけど、曹節は口論しなかったんだよ。後で、失くした豚が自分の家に戻ってきて、その豚の主人はとても恥ずかしく思って、豚を送り返して、自分の豚と間違えちゃったことを曹節に詫びたんだって。曹節は笑ってそれを受け取ったんだよ。そういうことがあって、曹節の地元の人たちは彼をとても尊敬したんだって。
曹節には、長男の伯興、次男の仲興、三男の叔興がいたんだよ。
騰字季興,少除黃門從官。永寧元年,鄧太后詔黃門令選中黃門從官年少溫謹者,配皇太子書,騰應其選。太子特親愛騰,飲食賞賜與衆有異。順帝即位,為小黃門,遷至中常侍大長秋。在省闥三十餘年,歷事四帝,未甞有過。
曹騰の字は季興で、幼い頃から黄門従官の仕事をしていたんだって。永寧元年(120年)、鄧太后は詔を下して、黄門令に命令して、年が若くて温厚な黄門従官を選んで、皇太子に仕えさせるようにしたよ。それで、曹騰が選ばれたんだ。皇太子は特に曹騰を慕って、彼には周りとは異なる食べ物や賞が与えられたんだって。順帝が即位すると、曹騰は小黄門として仕えて、後に中常侍、大長秋まで昇進したよ。30年以上も宮中で働いて、4人の皇帝に仕えたけど、一度も過ちを犯すことはなかったんだ。
黄門は、黄色に塗った宮城の門のことで、そこに出入りできる宦官の官職だよ。
好進達賢能,終無所毀傷。其所稱薦,若陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等,皆致位公卿,而不伐其善。蜀郡太守因計吏修敬於騰,益州刺史种暠於函谷關搜得其牋,上太守,并奏騰內臣外交,所不當為,請免官治罪。
曹騰は、賢くて才能があって、有能な人たちを推薦するのが得意で、誹謗されることがなかったんだって。彼が推薦した人々の中には、陳留の出身の虞放や辺韶、南陽の出身の延固や張温、弘農の出身の張奐、潁川の出身の堂谿典たちがいたんだ。彼らはみんな公卿に昇進したけど、曹騰はその功績を自慢することはなかったの。
あるとき、蜀郡太守(郡の長官)が計吏(会計官)を通して曹騰に敬意を伝えようとしたんだけど、益州刺史(州の長官)の种暠が函谷関で手紙を見つけちゃったの。种暠は、曹騰が内臣なのに外交にかかわったことは本来なら行うべきでないことだとして、官職を辞めさせて罪に問うように求めたよ。
帝曰:「牋自外來,騰書不出,非其罪也。」乃寑暠奏。騰不以介意,常稱歎暠,以為暠得事上之節。暠後為司徒,語人曰:「今日為公,乃曹常侍恩也。」騰之行事,皆此類也。桓帝即位,以騰先帝舊臣,忠孝彰著,封費亭侯,加位特進。太和三年,追尊騰曰高皇帝。
でも、皇帝はこう言ったよ。
「手紙は外から来たもので、曹騰の手紙が広まったわけではないよ。だからそれは彼の罪ではないんだ」
そして、种暠の上奏を採用しなかったんだ。曹騰はこれを気にしないで、むしろ种暠をほめて、彼が上司に事を報告したことを高く評価したよ。後に、种暠は司徒に昇進して、人々に「今日私が公の地位にいるのは、曹常侍(曹騰)のおかげだよ」と語ったんだって。曹騰の行動はすべてこのようなものだったんだ。
桓帝が即位すると、曹騰は先帝の古い臣下として、その忠と孝が認められて、費亭侯に封ぜられて、特進の位ももらっちゃったの。太和3年(229年)には、曹騰は「高皇帝」の尊号を贈られたよ。
養子嵩嗣,官至太尉,莫能審其生出本末。(註3)(註4)嵩生太祖。
養子の曹嵩が継いで、太尉まで出世したよ。誰も彼の生い立ちをよく知らなかったんだって。曹嵩からは曹操が生まれたんだよ。
曹騰の養子が曹嵩、曹嵩の子が曹操だね。
續漢書曰:嵩字巨高。質性敦慎,所在忠孝。為司隷校尉,靈帝擢拜大司農、大鴻臚,代崔烈為太尉。黃初元年,追尊嵩曰太皇帝。
『続漢書』によると、曹嵩の字は巨高だよ。性格は穏やかで真面目で、どこにいても忠と孝を守ったんだよ。司隷校尉になって、霊帝の時代に、大司農と大鴻臚に昇進して、後に崔烈に代わって太尉に任命されたんだよ。黄初元年(220年)に、曹嵩は「太皇帝」の尊号を贈られたよ。
吳人作曹瞞傳及郭頒世語並云:嵩,夏侯氏之子,夏侯惇之叔父。太祖於惇為從父兄弟。
呉の人たちが作った『曹瞞伝』と郭頒の『世語』によると、曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父だったんだって。曹操は、夏侯惇と従父兄弟の関係だね。
曹操の出世
太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也;(註5)
曹操は若い頃からとても機転が利いて、巧みに権力を利用して謀にも長けていたけど、勇気があってやりたい放題な生活を送っていて、きちんと仕事をしなかったから、人からはあまり評価されていなかったんだ。
曹瞞傳云:太祖少好飛鷹走狗,游蕩無度,其叔父數言之於嵩。太祖患之,後逢叔父於路,乃陽敗面喎口;叔父怪而問其故,太祖曰:「卒中惡風。」叔父以告嵩。嵩驚愕,呼太祖,太祖口貌如故。嵩問曰:「叔父言汝中風,已差乎?」太祖曰:「初不中風,但失愛於叔父,故見罔耳。」嵩乃疑焉。自後叔父有所告,嵩終不復信,太祖於是益得肆意矣。
『曹瞞伝』によると、曹操は若い頃から鷹を飛ばしたり犬を走らせたりすること(狩り)が好きで、放蕩ぶりは人並外れていたんだって。だから、彼の叔父が何度も曹嵩に相談していたんだ。曹操はそれに悩んでいたんだよ。ある日、曹操は叔父と道で偶然出会って、顔を歪めたり口を曲げたりしたんだ。
叔父が不思議がって尋ねたよ。
「どうしたの?」
曹操ははこう言ったよ。
「風邪で調子悪いの」
叔父が心配して、曹嵩に伝えたよ。曹嵩は驚いて、曹操を呼び寄せたけど、曹操の様子は変わっていなかったんだ。
曹嵩が曹操に尋ねたよ。
「叔父が言っていた風邪は治ったの?」
曹操はこう答えたよ。
「最初から風邪じゃないよ。ただ、叔父に嫌われているから、言いがかりをつけられただけなんだ」
その後、曹嵩はついに叔父が何かを告げても信じなくなっちゃった。だから、曹操はますます自由に振る舞えるようになったんだよ。
惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」(註6)(註7)(註8)(註9)(註10)
ただ、梁国の出身の橋玄と南陽の出身の何顒だけは、曹操を普通ではないと思っていたんだ。橋玄は曹操を評価して、こう言ったよ。
「天下が乱れようとしていて、才能のある人でなければ治められないよ。安定できるのは、あなたしかいないよ!」
魏書曰:太尉橋玄,世名知人,覩太祖而異之,曰:「吾見天下名士多矣,未有若君者也!君善自持。吾老矣!願以妻子為託。」由是聲名益重。
『魏書』によると、太尉の橋玄は人を見る目があると知られていて、曹操を見てすごいと感じて、こう言ったよ。
「私はこれまでたくさんの名高い士人を見てきたけど、あなたのような人はいないよ! あなたは自分をしっかり持ってね。私はもう老いているから、妻や子供を託せたら幸いだよ」
これによって、曹操の名声はますます高まったよ。
續漢書曰:玄字公祖,嚴明有才略,長於人物。
『続漢書』によると、橋玄は、字は公祖で、厳格で才能があって、人を評価することが得意だったんだって。
張璠漢紀曰:玄歷位中外,以剛斷稱,謙儉下士,不以王爵私親。光和中為太尉,以乆病策罷,拜太中大夫,卒,家貧乏產業,柩無所殯。當世以此稱為名臣。
張璠の『漢紀』によると、橋玄は内外のいろいろな役職に任命されて、剛胆な決断力で信頼されていたよ。下の人たちにも優しく謙虚に接して、相手の王族の地位を利用して個人的に親しくすることはしなかったんだって。光和の年号の間(178~184年)に太尉になったけど、長い病気のために辞職しちゃって、太中大夫に任命されたよ。橋玄が亡くなった時、家には何も残っていなくて、葬儀も行われなかったけれど、当時の人たちからは名臣としてたたえられていたんだって。
世語曰:玄謂太祖曰:「君未有名,可交許子將。」太祖乃造子將,子將納焉,由是知名。
『世語』によると、橋玄が曹操にこう言ったよ。
「あなたはまだ無名だから、許劭と交流してみたらどうかな」
曹操はそのとおりに許劭と交流して、許劭は彼を受け入れたから、曹操は有名になったんだ。
孫盛異同雜語云:太祖甞私入中常侍張讓室,讓覺之;乃舞手戟於庭,踰垣而出。才武絕人,莫之能害。博覽群書,特好兵法,抄集諸家兵法,名曰接要,又注孫武十三篇,皆傳於世。甞問許子將:「我何如人?」子將不荅。固問之,子將曰:「子治世之能臣,亂世之姦雄。」太祖大笑。
孫盛の『異同雑語』によると、曹操は昔、中常侍の張譲の家にこっそりと入ったんだ。張譲は曹操を見つけたけど、曹操は庭で手に戟を取って振り回しながら、垣根を越えて逃げ出したよ。彼の武術はすごく優れていて、誰も彼に害を加えることはできなかったよ。
それに、曹操はたくさん書物を読んでいて、特に兵法を好んでいたよ。彼は諸家の兵法書から選りすぐりの内容を集めて、それを『接要』という書にまとめて、『孫武』の十三篇にも注釈をつけて、これらの書物を後世に伝えたよ。
ある時、曹操が許劭に「私はどんな人物だと思う?」と聞いたら、許劭は答えないで黙っていたんだ。曹操がしつこく尋ねると、許劭はこう答えたよ。
「あなたは治世においては優れた臣下、乱世においては狡猾な雄となる人物だよ」
曹操は大笑いしたんだって。
曹操さんの評価で有名な「治世の能臣、乱世の姦雄」だね。『後漢書』「郭符許列伝」では、「君清平之姦賊,亂世之英雄。」とあって、「乱世の英雄」になっているね。
年二十,舉孝廉為郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,(註11)徵拜議郎。(註12)
曹操は20歳の時、孝廉に推挙されて郎になって、洛陽北部の尉に任命されたんだよ。その後、頓丘令に昇進して、その後、朝廷に招集されて議郎に任命されたんだよ。
洛陽は、後漢の都だよ。漢の時代の表記は「雒陽」。
曹瞞傳曰:太祖初入尉廨,繕治四門。造五色棒,縣門左右各十餘枚,有犯禁者,不避豪彊,皆棒殺之。後數月,靈帝愛幸小黃門蹇碩叔父夜行,即殺之。京師斂迹,莫敢犯者。近習寵臣咸疾之,然不能傷,於是共稱薦之,故遷為頓丘令。
『曹瞞伝』によると、曹操が初めて尉廨(尉の役所)に入った時、4つの門を修理したよ。五色の棒を作って、尉廨の門の左右にそれぞれ十数本ずつ置いたんだ。禁じられたことをする者がいたら、彼はその身分や勢力を恐れないで、棒で殴り殺しちゃったんだって。
数ヶ月後、霊帝の気に入っている小黄門の蹇碩の叔父が、夜行の禁を破ったから、そのまま殺されちゃったの。この出来事で都の人たちは慎重になって、誰も禁を破る者はいなかったよ。霊帝の側近たちは曹操を嫌っていたけど、傷つけることはできなくて、逆に彼をほめたたえるようになったよ。彼らが推薦して、曹操は頓丘令に昇進したよ。
魏書曰:太祖從妹夫㶏彊侯宋奇被誅,從坐免官。後以能明古學,復徵拜議郎。先是大將軍竇武、太傅陳蕃謀誅閹官,反為所害。太祖上書陳武等正直而見陷害,姦邪盈朝,善人壅塞,其言甚切;靈帝不能用。是後詔書勑三府:舉奏州縣政理無效,民為作謠言者免罷之。三公傾邪,皆希世見用,貨賂並行,彊者為怨,不見舉奏,弱者守道,多被陷毀。太祖疾之。是歲以災異博問得失,因此復上書切諫,說三公所舉奏專回避貴戚之意。奏上,天子感寤,以示三府責讓之,諸以謠言徵者皆拜議郎。是後政教日亂,豪猾益熾,多所摧毀;太祖知不可匡正,遂不復獻言。
『魏書』によると、曹操の従妹の夫である㶏彊侯の宋奇が処刑されちゃって、曹操も一緒に罪を被って、官職を失っちゃった。でも、曹操は古典の学問をよく理解していたから、ふたたび招集されて議郎として復帰できたんだって。
昔、大将軍の竇武と太傅の陳蕃は宦官を誅殺することを計画したけど、逆に計画が漏れちゃって殺されちゃったんだって。それで、曹操は、「竇武たちは正直なのに陥れられて、悪い人たちが朝廷を支配していて、いい人たちが排除されている」と訴える上書をしたよ。その言葉は切実だったけど、霊帝は受け入れられなかったんだ。
その後、詔書が三公に対して出されたよ。州や県の政治で功績が無い人を挙げさせて、民に批判されている人を辞めさせるように命令したよ。でも、三公たちは邪悪で不正で、みんな出世を望んで賄賂が横行していて、強い者は民から恨まれても奏上されないのに、弱い者は道徳を守っていても誹謗中傷に遭っていたよ。曹操はこれをとても嫌っていたの。この年、災害が起きたから政治ついて広く問いただしていたよ。そこで、曹操が上書して、三公が貴族の不正をごまかしてるんじゃないかって厳しく非難したの。天子は感動して理解して、それを三公に示して責めたよ。その結果、悪い噂によって巻き込まれた人たち(道徳を守っていたのに誹謗中傷された人たち)をみんな議郎に任命したよ。でも、その後も政治はますます乱れて、悪い人たちがますますはびこって、たくさんの人が傷つけられちゃったの。曹操はこの状況を正せないって悟って、それからは意見を言わなくなっちゃった。
三公は、司徒、司空、太尉の 3 つの官職だよ。政治において、最高の地位だよ。
黄巾の乱
光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷為濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓污狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然。(註13)乆之,徵還為東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。(註14)
光和の末年(184年)に、黄巾の乱が起こったよ。曹操は騎都尉に任命されて、潁川の賊を討伐したんだ。その後、済南相(行政長官)に昇進したよ。この国には10以上の県があったんだけど、長吏(行政官)は貴族やその一族に媚びを売って不正なことをしていたよ。曹操はその8割を免職するよう上奏したんだ。それに、不正な宗教儀式を禁止して、悪い人たちは逃げ出して、郡内は秩序が取り戻されたの。
しばらくして、曹操は東郡太守(郡の長官)になるために呼び戻されたけど、就任しないで、病気を理由に故郷に帰っちゃった。
魏書曰:長吏受取貪饕,依倚貴勢,歷前相不見舉;聞太祖至,咸皆舉免,小大震怖,姦宄遁逃,竄入他郡。政教大行,一郡清平。初,城陽景王劉章以有功於漢,故其國為立祠,青州諸郡轉相倣效,濟南尤盛,至六百餘祠。賈人或假二千石輿服導從作倡樂,奢侈日甚,民坐貧窮,歷世長吏無敢禁絕者。太祖到,皆毀壞祠屋,止絕官吏民不得祠祀。及至秉政,遂除姦邪鬼神之事,世之淫祀由此遂絕。
『魏書』によると、長吏(行政官)は贈り物を受け取って、権力者にすがっていたから、前の相は彼らの不正を見逃していたんだ。でも、曹操が来た途端、彼らはみんな職を辞めさせられて、役人たちは驚いて、不正行為を働く人たちは逃げ出して、他の地方に身を隠したんだ。政治と教育がちゃんと行われるようになって、郡は平和になったよ。
昔、城陽景王の劉章が漢で功績を挙げたから、その国には祠が建てられたんだ。それ以来、青州の他の郡も次々と祠を建て始めて、特に済南では 600 以上の祠が建てられたんだって。商売人たちは、二千石の役人に似せた車や服を身に着けて、歌や踊りを楽しんだり、贅沢な生活を送るようになって、その贅沢はどんどん増していったよ。一方で、民は貧しくて苦しんでいたけど、過去の役人たちも、この悪習を禁止できなかったみたい。でも、曹操が着いた後は、祠を壊して、役人や民に祭祀を行わないようにしたんだよ。そして、彼が政治を担当するようになると、邪教や邪神を祀ることをやめて、不正な宗教儀式もなくなったんだ。
悪い風習をやめさせた西門豹を尊敬してのこと? 劉章を持ち上げるのは赤眉の乱の影響もあるのかな。
身分によって、着てはいけない服や、乗ってはいけない車があったみたい。商売人は役人に賄賂を与えたりして、豪華な服や車を楽しんだのかも。
魏書曰:於是權臣專朝,貴戚橫恣。太祖不能違道取容。數數干忤,恐為家禍,遂乞留宿衞。拜議郎,常託疾病,輙告歸鄉里;築室城外,春夏習讀書傳,秋冬弋獵,以自娛樂。
『魏書』によると、この時期、権力者たちが政治を独占して、貴族たちはやりたい放題だったんだ。曹操は正しい道を踏み外せなくて、何度か権力者に逆らったことがあるんだけど、家族に影響が及ぶのを心配して、宮廷に留まる許可を求めたんだ。彼は議郎に任命されて、よく病気を口実にして、故郷に帰ったんだよ。城の外に家を建てて、春と夏は書物を読んで過ごして、秋と冬は狩りを楽しんで、自分自身を楽しませたの。
合肥侯の擁立を拒否する
頃之,兾州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。(註15)(註16)
この頃、冀州刺史(州の長官)の王芬、南陽の出身の許攸、沛国の出身の周旌たちが豪族と協力して、霊帝を廃位して合肥侯を立てる陰謀を企てたよ。彼らは曹操にその計画を告げたけど、曹操はこれに反対したよ。結局、王芬たちは失敗しちゃった。
司馬彪九州春秋曰:於是陳蕃子逸與術士平原襄楷會於芬坐,楷曰:「天文不利宦者,黃門、常侍貴族滅矣。」逸喜。芬曰:「若然者,芬願驅除。」於是與攸等結謀。靈帝欲北巡河間舊宅,芬等謀因此作難,上書言黑山賊攻劫郡縣,求得起兵。會北方有赤氣,東西竟天,太史上言「當有陰謀,不宜北行」,帝乃止。勑芬罷兵,俄而徵之。芬懼,自殺。
司馬彪の『九州春秋』によると、この時、陳蕃の子の陳逸と、占い師で平原の出身の襄楷は、王芬のもとで会議を開いたよ。襄楷がこう言ったよ。
「天体の動きから、宦官や黄門、常侍の貴族たちは衰退する運命にあるよ」
陳逸は大喜びしたんだ。王芬もこう言ったよ。
「もしそうなら、私たちはそれを成し遂げよう」
そして、許攸たちと一緒に計画を立てたんだって。
一方で、霊帝が北へ巡察しようと、河間にある古い家に向かおうとしていたんだ。王芬たちはこの機会を利用して計画を立てて、上書して、黒山賊が郡や県を攻撃して略奪していると報告して、軍を起こす許可を求めたよ。
ある日、北方に赤い光が現れて、東から西まで天を覆ったの。天文官は「北へ行ってはいけない、不吉な予兆があるから」と言って陰謀の存在を伝えたんだ。霊帝は北へ行くのをやめたよ。黄門たちに兵を解散するよう命じて、しばらくして朝廷に呼び戻したよ。王芬は怖くなって自ら命を絶ったんだ。
魏書載太祖拒芬辭曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也。古人有權成敗計輕重而行之者,伊尹、霍光是也。伊尹懷至忠之誠,據宰臣之勢,處官司之上,故進退廢置,計從事立。及至霍光受託國之任,藉宗臣之位,內因太后秉政之重,外有羣卿同欲之勢,昌邑即位日淺,未有貴寵,朝乏讜臣,議出密近,故計行如轉圜,事成如摧朽。今諸君徒見曩者之易,未覩當今之難。諸君自度,結衆連黨,何若七國?合肥之貴,孰若吳、楚?而造作非常,欲望必克,不亦危乎!」
『魏書』によると、曹操が王芬を拒否してこう言ったよ。
「廃立は、天下にとって最も不吉なことだよ。昔の人々の中には、権力を持って成敗を計って、その重さを考えて行動した人がいたよ。伊尹や霍光がその例だよ。伊尹は誠実で忠誠心にあふれていて、宰臣の地位で、役人の上に立っていたよ。だから、進退や廃立を決めて、成し遂げたんだ。霍光は、国の重要な仕事を任されて、皇族の地位を利用して、内部では太后が政権を握っていることに頼って、外部ではたくさんの官僚たちが同じ志を持っていたよ。昌邑王(劉賀)は即位してまだ日が浅くて、貴族からの支持が得られていなくて、朝廷には意見を言える勇気のある人が少なくて、議論はこっそりと側近たちによって行われていたよ。計画は輪が転がるようにうまく進んで、事は朽ちた木が崩れるように成功したんだよ。今、あなたたちは昔の状況が簡単だったことしか見ていなくて、今の困難を理解していないよね。みんな自分自身を見つめ直してみて。仲間と連携したり結束したりしても、かつての七国と比べてどうかな? 合肥侯は呉や楚の王と比べてどうかな? こんな状況で、非常な行動をして必ず勝つことばかりを望むのは危ないことじゃないかな!」
伊尹は、殷の湯王を支えたとされる人だよ。詳しくは『史記』「殷本紀」を見てね。
霍光は、漢の政治家だよ。武帝を継いだ幼い昭帝を支えたよ。詳しくは『漢書』「霍光金日磾伝」を見てね。
董卓の台頭
金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,衆十餘萬,天下騷動。徵太祖為典軍校尉。會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后,(註17)卓未至而進見殺。
金城の辺章と韓遂が刺史(州の長官)や郡の太守(郡の長官)を殺して反乱を起こして、10万人以上の軍勢をまとめて天下を騒がせたんだ。そこで、曹操は典軍校尉として朝廷に呼び集められたよ。
その頃、霊帝が亡くなって、太子(少帝)が即位して、太后が政治を握ることになったよ。大将軍の何進は、袁紹と一緒に宦官を滅ぼそうと企んだけど、太后は聞き入れなかったんだ。それで、何進は太后を脅すために董卓を呼んだけど、董卓が来る前に何進は殺されちゃった。
魏書曰:太祖聞而笑之曰:「閹豎之官,古今宜有,但世主不當假之權寵,使至於此。旣治其罪,當誅元惡,一獄吏足矣,何必紛紛召外將乎?欲盡誅之,事必宣露,吾見其敗也。」
『魏書』によると、曹操はこの出来事を聞いて笑いながらこう言ったよ。
「宦官の役職は昔から今も存在しているけど、君主は彼らに権力と栄誉を与えすぎてはいけないよ。そうすれば、こういう事態になっちゃうんだね。彼らが罪を犯したら処理するべきだけど、元凶を処刑すればいいんだ。1人の獄官(刑務官)で十分だよね。どうしてわざわざ外の将(董卓)を呼び寄せる必要があるの? 全員処刑しようとすると、事実は必ず公表されるし、私は彼らが失敗するのが見えるよ」
卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。(註18)(註19)(註20)
董卓が着くと、少帝を廃位して弘農王に落として、献帝を即位させて、都が大混乱しちゃった。董卓は曹操を驍騎校尉に任命して、一緒に計画を立てようとしたんだけど、曹操は名前を変えて間道を通って東に帰ることにしたよ。
魏書曰:太祖以卓終必覆敗,遂不就拜,逃歸鄉里。從數騎過故人成臯呂伯奢;伯奢不在,其子與賔客共劫太祖,取馬及物,太祖手刃擊殺數人。
『魏書』によると、曹操は董卓が最終的に必ず失敗すると考えて、董卓の任命を拒否して、故郷に逃げ帰っちゃったの。数人の騎兵を従えて、昔からの知り合いである成臯の呂伯奢の家を訪ねたんだけど、留守だったよ。彼の子供やお客さんたちが、曹操の馬や荷物を奪おうとしたんだ。曹操は自分で刃を手にして、数人を殺して撃退しちゃった。
世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行,五子皆在,備賔主禮。太祖自以背卓命,疑其圖己,手劔夜殺八人而去。
『世語』によると、曹操が呂伯奢の家を訪ねた時、彼は外出していたけど、彼の5人の子供たちが出迎えてくれたんだ。彼らは曹操を歓迎して、客としてもてなしたんだ。でも、曹操は自分が董卓に逆らったから、呂伯奢の家族が自分を襲撃するかもと疑って、夜中に剣を手にして自分で8人を殺して去っていったんだって。
孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲,以為圖己,遂夜殺之。旣而悽愴曰:「寧我負人,毋人負我!」遂行。
孫盛の『雑記』によると、曹操は呂伯奢の家で食器の音を聞いて、彼らが何か企んでいると思い込んで、夜に彼とその家族を殺しちゃった。曹操は悲しみに暮れて、こう言ったよ。
「私が人を裏切ることはあっても、人が私を裏切るのは許さない!」
そして、旅立ったよ。
出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。(註21)
関を出て、中牟を通ると、亭長(警察の長)に疑われて捕まっちゃって、県まで連れて行かれちゃったの。でも、町の中で、曹操だと気づいてくれる人がいて、その人が頼んで、なんとか釈放してもらえたよ。
世語曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之。
『世語』によると、曹操は中牟で亡命者だと疑われて、県に連行されちゃった。この時、郡にもすでに董卓から手配書が出ていたけど、功曹(郡の人事官)だけがこっそり曹操だと気づいてくれて、世の乱れた状況を考えて、天下の英雄を拘束するべきではないと考えて、県令(県の長官)に解放してもらえるようにお願いしてくれたの。
卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,(註22)是歲中平六年也。
董卓が、太后と弘農王を殺しちゃった。曹操は陳留に着くと、自分の家の財産を使って志を同じくする兵たちを集めて、董卓を討つために軍を起こしたよ。冬の十二月、曹操は己吾で兵を起こしたよ。この年は中平6年(189年)だよ。
世語曰:陳留孝廉衞茲以家財資太祖,使起兵,衆有五千人。
『世語』によると、陳留の出身の孝廉である衛茲は自分の家の財産を使って曹操を支援して、5,000人の軍勢を起こしたんだって。
董卓を討つために
初平元年春正月,後將軍袁術、兾州牧韓馥、(註23)豫州刺史孔伷、(註24)兖州刺史劉岱、(註25)河內太守王匡、(註26)(註27)勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、(註28)山陽太守袁遺、(註29)(註30)濟北相鮑信(註31)同時俱起兵,衆各數萬,推紹為盟主。太祖行奮武將軍。
初平元年(190年)、春の正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北相の鮑信が同時に立ち上がって、数万人の兵を集めて、袁紹を推薦して盟主にしたよ。曹操は奮武将軍になったよ。
英雄記曰:馥字文節,潁川人。為御史中丞。董卓舉為兾州牧。于時兾州民人殷盛,兵糧優足。袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」
『英雄記』によると、韓馥は、字は文節で、潁川の出身だよ。彼は御史中丞として仕えていたんだ。後に、董卓によって冀州牧(州の長官)に任命されたよ。当時、冀州の人たちは裕福で、兵糧もたくさんあったみたい。袁紹が勃海にいたから、韓馥は袁紹が兵を起こすことを恐れて、数人の従事(補佐官)を送って彼を監視して、行動できないようにしたよ。
それに、東郡太守(郡の長官)の橋瑁は、都の三公が書いたと偽った手紙を州や郡に送ったんだ。その手紙には董卓の悪事が書かれていて、「困って困って、どうしていいかわからないの。義兵が現れるのを待ち望んで、国の危機を救おう」とも書いてあったんだ。
馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵為國,何謂袁、董!」馥自知言短而有慙色。子惠復言:「兵者凶事,不可為首;今宜往視他州,有發動者,然後和之。兾州於他州不為弱也,他人功未有在兾州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。
韓馥は手紙を受け取って、従事たちに相談したよ。
「今、袁紹を助けるべき? それとも、董卓を助けるべき?」
治中従事の劉子恵は、こう答えたよ。
「今は国のために兵を起こすべきで、袁紹とか董卓とか関係ないよ!」
それを聞いて韓馥は自分の言葉が浅いことに気づいて、恥じ入った顔をしたんだって。劉子恵はさらにこう言ったんだ。
「軍事は危険なことだから、最初に立ち上がるべきではないよ。今は他の州の様子を見て、軍を起こす人が現れたら協力しよう。冀州は他の州より弱いわけじゃないから、他の人の功績が冀州の右に出ることはないよ」
韓馥はこの提案に納得して、袁紹に手紙を送って董卓の悪事を伝えて、袁紹の挙兵を支持したよ。
治中従事は、刺史の補佐官で、文書の管理をする役職だよ。
英雄記曰:伷字公緒,陳留人。張璠漢紀,載鄭泰說卓云:「孔公緒能清談高論,噓枯吹生。」
『英雄記』によると、孔伷は、字は公緒で、陳留の出身だよ。
張璠の『漢紀』によると、鄭泰は董卓に「孔伷は難しい議論ができて、議論の中で批判を称賛に、称賛を批判に変えられるくらい口がうまいんだ」と語ったんだって。
岱,劉繇之兄,事見吳志。
劉岱は、劉繇の兄なんだって。このことは、『呉志』に書かれているよ。
英雄記曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發彊弩五百西詣京師。會進敗,匡還鄉里。起家,拜河內太守。
『英雄記』によると、王匡は、字は公節で、泰山の出身だよ。彼はお金をあまり大切にしないで、施しを好んで、人情に厚い性格で有名だったんだ。彼は大将軍の何進の役所に招かれて、徐州で強力な弓兵500人を集めて、ふたたび都に向かって西に進軍したんだ。でも、都に行く途中で何進が敗れちゃったから、王匡は故郷に戻ったんだ。その後、彼は河内太守(郡の長官)に任命されたんだよ。
謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善。其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖并勢,共殺匡。
謝承の『後漢書』によると、王匡は昔から蔡邕と仲良しだったんだって。ある年、王匡は董卓の軍に負けて、泰山に逃げ帰ったよ。そこで、彼は勇猛な数千人の兵を集めて、張邈と合流するつもりだったみたい。でも、王匡は昔に執金吾の胡母班を殺しちゃったんだって。胡母班の親族は怒りを抑えられなくて、曹操と手を組んで、王匡は殺されちゃった。
英雄記曰:瑁字元偉,玄族子。先為兖州刺史,甚有威惠。
『英雄記』によると、橋瑁は、字は元偉で、橋玄の一族だよ。彼は以前、兗州刺史(州の長官)になったことがあって、とても威厳があったみたいだよ。
遺字伯業,紹從兄。為長安令。河間張超甞薦遺于太尉朱儁,稱遺「有冠世之懿,幹時之量。其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔。」事在超集。
袁遺は、字は伯業で、袁紹の従兄だよ。長安の令をしていたんだ。ある時、河間の張超が、太尉の朱儁に袁遺を推薦したよ。張超は、袁遺をほめてこう言ったよ。
「袁遺は、世を冠する徳があるし、その能力は時代にふさわしいものだよ。その忠実と正直は、天が授けたものだよ。広い書籍を見て、諸子百家を理解して、高いところに登って賦を作って、物事を見ても理解できる能力は、今日の世に彼にかなう人はいないよ」
この話は『張超集』に記されているよ。
英雄記曰:紹後用遺為揚州刺史,為袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳。」語在文帝典論。
『英雄記』によると、袁紹は、袁遺を揚州刺史(州の長官)に任命したけど、袁術に敗れちゃった。
曹操は袁遺について、「成長しても学問に熱心な人は、私と袁伯業(袁遺)しかいない」と言ったんだって。この話は曹丕の『典論』に記されているよ。
信事見子勛傳。
鮑信については、彼の子の「鮑勛伝」に記されているよ。
汴水の戦い
二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。卓兵彊,紹等莫敢先進。
二月、董卓は兵が起きたと聞いて、天子を長安に移したよ。董卓は洛陽に留まって、宮殿を焼いちゃった。この時、袁紹は河内に、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯していたよ。袁術は南陽に、孔伷は潁川に、韓馥は鄴に駐屯したよ。董卓の軍勢はとても大きくて、袁紹たちは先に進めなかったんだ。
太祖曰:「舉義兵以誅暴亂,大衆已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足為患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。一戰而天下定矣,不可失也。」
曹操はこう言ったよ。
「暴乱を討つために義の兵を挙げて、たくさんの軍勢が集まったのに、あなたたちは何をためらうの? 董卓は山東の兵(袁紹たち)が起こるのを聞いて、王室の権威に頼って、2つの険しい場所に拠点を築いて、東に対抗して天下を支配しようとするよ。道理に反している行いをしていると言っても、脅威だと言えるよね。今、董卓は宮殿を焼き払って、天子を連れ去って、国中が大混乱して、誰もがどこに帰るべきかわからなくなっちゃってるんだ。これは、天が滅びようとしている時だよ。一戦で天下は定まるんだ。だから絶対に機会を逃さないようにしよう」
遂引兵西,將據成臯。邈遣將衞茲分兵隨太祖。到熒陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖為流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。
それで、曹操は兵を率いて西に進んで、成皋に布陣しようとしたんだ。張邈は将の衛茲を送って、曹操に従軍させたよ。そして、熒陽の汴水に着いた時、曹操は董卓の将である徐栄に遭遇して、戦闘に敗れちゃって、兵たちの死傷者がとてもたくさんいたんだ。曹操は矢に当たって、乗っていた馬も傷ついちゃったの。従弟の曹洪が自分の馬に曹操を乗せたから、夜に逃げることができたよ。徐栄は、曹操が少ない兵で力を尽くして戦っているのを見て、酸棗は攻めにくいと考えて、兵を引き返したんだ。
連合の分裂
太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因為謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之衆臨孟津,酸棗諸將守成臯,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊為諸君耻之!」邈等不能用。
曹操が酸棗に着くと、そこには兵が10万人以上いたんだって。でも、彼らは酒を飲んだり、宴会を開いたりして、進軍は考えてなかったんだ。曹操が怒って、こんな計画を言ったよ。
「みんな、私の計画を聞いて! 勃海の袁紹は、河内の兵を連れて孟津に攻め寄せよう。酸棗の将たちは成皋を守って、敖倉を占拠して轘轅関と太谷関を塞いで、険しい場所を制圧しちゃおう。袁術の軍は、南陽の兵を率いて丹水と析津を占拠して、武関に進軍して、三輔を揺るがすんだ。みんなで戦いには出ないで、高い壁と深い塁を築いて、敵とは戦わないで、偽の兵をたくさん増やして、天下の形勢を示して、反逆者を討って、平定させよう。今、義を持って兵を動かしてるのに、どうしてためらっていて前に進まないの? 天下の期待を裏切っているよ。私はあなたたちの行動を恥ずかしく思うよ」
だけど、張邈たちはこの計画を使えなかったんだ。
揚州での人材募集
太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。(註32)至銍、建平,復收兵得千餘人,進屯河內。
曹操の兵は少なかったから、夏侯惇と一緒に揚州に行って、兵を募集したよ。揚州刺史(州の長官)の陳温と丹陽太守(郡の長官)の周昕は4,000人以上の兵を差し出したよ。でも、龍亢に帰ったら、たくさんの兵が反乱を起こしちゃった。
その後、銍や建平に着いて、ふたたび1,000人以上の兵を集めて、河内に進軍したよ。
魏書曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劔殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。
『魏書』によると、夜中に兵たちが反乱を起こして、曹操の帳を燃やしちゃった。曹操は剣を手に数十人を斬って、他の兵たちはみんな散り散りになっちゃったけど、なんとか陣営を脱出できたよ。反乱しなかった兵は500人くらいだけだったんだ。
連合の崩壊
劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。
劉岱と橋瑁は、お互いに嫌っていて、劉岱が橋瑁を殺しちゃった。そして、王肱が東郡太守(郡の長官)に任命されたよ。
袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝,太祖拒之。(註33)
袁紹と韓馥は、幽州牧の劉虞を皇帝に立てることを計画したけど、曹操はこれに反対したよ。
魏書載太祖荅紹曰:「董卓之罪,暴於四海,吾等合大衆興義兵,遠近莫不響應,此以義動故也。今幼主微弱,制於姦臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向。」
『魏書』によると、曹操は袁紹にこう答えたよ。
「董卓の罪は、天下に広まったよ。私たちは大軍を集めて義兵を挙げて、遠くの地でも近くの地でも、応じない人はいなかったよね。これは義に動かされたからだよ。今、幼い君主は弱くて、悪い臣下に操られているよ。まだ昌邑王(劉賀)みたいに国が滅びるほどじゃないのに、一度皇帝を変えたら、天下は安定するの? みんなは北(幽州の劉虞)を向いてるけど、私は西(長安の献帝)を向いてるんだ」
紹又甞得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。(註34)
昔、袁紹は玉の印を手に入れて、曹操の前でそれを取り出して、曹操の肘にのせて自慢したんだよ。曹操は笑顔で応じたけど、心の中では袁紹を嫌いになったよ。
魏書曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹復使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵彊,二子已長,天下羣英,孰踰於此?」太祖不應。由是益不直紹,圖誅滅之。
『魏書』によると、曹操は大笑いしながら、こう言ったよ。
「あなたの言うことは聞けないよ」
袁紹はふたたび使者を送ってきて、曹操に言ったよ。
「今、袁紹の力は強大で兵も強力だよ。2人の子供たちも成長したよ。天下の英雄たちの中で、彼に勝てる人がいるの?」
曹操は返事をしなかったんだ。それで、袁紹に対して不信感を募らせて、彼を打倒する計画を立てたんだって。
二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。
初平2年(191年)、春、袁紹と韓馥は劉虞を皇帝に立てようとしたよ。でも、劉虞は最終的にはそれに応じなかったんだ。
夏四月,卓還長安。
夏の四月、董卓が長安に戻ってきたんだって。
秋七月,袁紹脅韓馥,取兾州。
秋の七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を取ったよ。
賊の討伐
黑山賊于毒、白繞、眭固等(註35)十餘萬衆略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。
黒山賊の于毒、白繞、眭固たちは10万人以上もの兵を率いて、魏郡と東郡を襲ったんだって。王肱は対処できなかったんだ。曹操は兵を率いて東郡に入って、濮陽で白繞たちを攻撃して破ったよ。袁紹は、曹操を東郡太守(郡の長官)に任命して、東武陽を治めさせたんだ。
眭,申隨反。
「眭」の発音は、「申」の子音に「隨」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。(註36)毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。(註37)
初平3年(192年)、春、曹操の軍は頓丘に駐屯して、于毒たちは東武陽を攻めたよ。曹操は兵を率いて西に向かって、于毒たちの本拠地を攻撃したよ。于毒はこのことを聞いて、東武陽を捨てて帰っちゃった。曹操は眭固を攻撃して、それに匈奴の於夫羅を内黄で攻撃して、どちらも大勝利だったの。
魏書曰:諸將皆以為當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。
『魏書』によると、将たちはみんな、撤退して自衛すべきだと考えていたんだ。でも、曹操はこう言ったんだ。
「孫臏は趙を救うために魏を攻めたんだよ。耿弇は西安へ逃れて臨菑を攻めたんだ。もし敵が私たちが西に向かって撤退すると聞いたら、武陽から撤退するに違いないよ。引き返さなかったら、私たちは敵の本拠地を攻撃するまでだよ。敵に武陽を奪われることはないよ」
そして、曹操は進軍することにしたよ。
孫臏は、戦国時代の斉の国の人だよ。詳しくは『史記』「孫子呉起列伝」を見てね。
耿弇は、劉秀の配下の将だよ。『後漢書』「耿弇列伝」から、張歩を攻めるときの話。
魏書曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其衆留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡為寇。
『魏書』によると、於夫羅は、南単于(匈奴の君主)の子だったんだよ。中平の年号の間(184~189年)、匈奴の軍隊を連れて漢のために戦ったんだって。でも、本国で反乱が起きて、南単于が殺されちゃったんだって。於夫羅はそのまま自分の軍勢を中国に留めたんだ。その後、天下が乱れると、西河の白波賊と手を組んで、太原や河内を攻撃して、各郡を荒らし回ったんだよ。
青洲兵を得る
夏四月,司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕、郭汜等殺允攻布,布敗,東出武關。傕等擅朝政。
夏の四月、司徒の王允が呂布と協力して董卓を殺したよ。董卓の将の李傕や郭汜たちは王允を殺して、呂布を攻撃したよ。呂布は敗れちゃって、武関を東に出て逃げたよ。李傕たちは勝手に政治を行ったんだ。
青州黃巾衆百萬入兖州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊衆百萬,百姓皆震恐,士卒無鬬志,不可敵也。觀賊衆羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士衆之力,先為固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果為所殺。(註38)
青州の黄巾賊たち100万人が兗州に入って、任城相の鄭遂を殺して、東平郡に進軍したよ。劉岱は黄巾賊たちを攻めようと思ったけど、鮑信は諫めてこう言ったよ。
「今、敵の兵はなんと100万人もいるんだって。民はみんな怖がっているし、兵も戦う気力を持っていないから、立ち向かうことはできないよ。でも、敵の兵はただ略奪しに集まってきただけで、補給物資はほとんど持ってないんだって。だから、今は兵を育てて守りを固める方がいいよ。彼らが戦いたくてもできなくて、攻撃もできないと感じると、必ず解散するよ。そうしたら、精鋭を選んで要所を攻撃すれば勝てるはずだよ」
でも、劉岱は従わないで戦いを挑んだ結果、敵に殺されちゃった。
世語曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」鮑信等亦謂之然。
『世語』によると、劉岱が亡くなった後、陳宮は曹操に言ったんだ。
「今、州には主がいなくなっちゃって、王の命令も途絶えているよ。私は州の人たちに説明して、明府(曹操)が州を統治することで、天下を統一する手助けをするよ。これが覇王の使命だよ」
陳宮は別駕や治中にこう言ったんだ。
「今、天下は分裂していて、州には主がいないよ。でも、曹東郡(曹操)は天下を治める才能があるんだ。もし彼を州の牧(長官)として迎え入れれば、民は必ず安定するよ」
鮑信たちも同じように思ってたみたい。
信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。遂進兵擊黃巾於壽張東。信力戰鬬死,僅而破之。(註39)
鮑信は、州の役人の万潜たちと一緒に東郡に着いて、曹操を出迎えて兗州牧に任命したよ。そして、彼らは進軍して寿張の東で黄巾賊を攻撃したんだ。鮑信は勇敢に戦って戦死したけど、やっと敵を破ったよ。
魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。賊尋前進。黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,衆乃復奮,承間討擊,賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太一同,似若知道,今更迷惑。漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。」太祖見檄書,呵之罪,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輙禽獲,賊乃退走。
『魏書』によると、曹操は1,000人以上の歩兵や騎兵たちを連れて戦場を視察して、敵の陣地に突入したよ。でも、戦いはうまくいかなくて、数百人の兵が戦死しちゃって、曹操は引き返したよ。すぐに敵が前進してきたんだ。
黄巾賊は長い間活動していて、たくさんの勝利を重ねて、兵はみんな強かったんだ。一方で、曹操が率いる兵は、古参の兵は少なくて、新参の兵は訓練が不足していて、みんな怖がっていたの。曹操はしっかり鎧を着込んで、自分から兵たちを鼓舞して、賞や罰を明確にしたよ。だから、兵たちはふたたび勇気を取り戻して、戦闘を続けて、少しずつ敵を後退させていったんだ。黄巾賊が曹操に手紙を送ったよ。手紙にはこう書かれていたよ。
「昔、あなたが済南にいたとき、神壇を壊したって聞いたよ。そのやりかたは、中黄太一と同じで、道を知っていると思ったけど、今になって迷っているみたいだね。漢の命運はすでに尽きて、黄家が立つべきなんだ。これは天の大運で、あなたの才能や力だけでは守ることはできないよ」
曹操はこの手紙を見て怒って、敵を非難して、降伏する方法を示したの。そして、奇襲や伏兵を使って、昼も夜も戦いまくったんだ。戦いのたびに捕虜を取って、結局は敵は逃げ出しちゃった。
購求信喪不得,衆乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵。
鮑信の遺体を求めても手に入らなかったから、民は鮑信の姿を木に刻んで、その像を祭って涙を流して追悼したよ。黄巾賊を追撃して済北まで追い詰めて、彼らに降伏を求めたよ。冬には、30万人以上の兵が降伏してきたんだ。男女合わせて100万人以上の人たちが一緒に来たよ。さらにその中から精鋭を集めて、彼らを「青州兵」と呼んだよ。