
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書武帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹操 について書かれているよ!
本文中で曹操さんは「太祖」「公」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹操」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、青州兵を手に入れるまでだよ。
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出典
三國志 : 魏書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹操の生まれ
太祖武皇帝,沛國譙人也,姓曹,諱操,字孟德,漢相國參之後。(註1)
太祖武皇帝は、沛国の譙の出身だよ。姓は曹、名は操、字は孟徳だよ。漢の相国の曹参の子孫だよ。
曹参は、漢の建国者の劉邦に仕えた人だよ。
太祖一名吉利,小字阿瞞。王沈魏書曰:其先出於黃帝。當高陽世,陸終之子曰安,是為曹姓。周武王克殷,存先世之後,封曹俠於邾。春秋之世,與於盟會,逮至戰國,為楚所滅。子孫分流,或家于沛。漢高祖之起,曹參以功封平陽侯,世襲爵土,絕而復紹,至今適嗣國於容城。
曹操のもう一つの名は吉利で、幼名は阿瞞だよ。
王沈の『魏書』によると、曹氏の先祖は黄帝の子孫だよ。高陽(顓頊)の時代、陸終の子供の安が曹という姓のはじまりになったんだって。周の武王が殷を滅ぼすと、昔の王の子孫を大切にして、曹侠を邾という国に封じたよ。
春秋時代、曹氏はほかの国と同盟を結んだりしたけど、戦国時代になると楚に滅ぼされちゃった。その子孫はあちこちに分かれて住むようになって、その中には沛に家を持つ人もいたんだよ。そして、漢の高祖(劉邦)が立ち上がると、曹参は功績をあげて、平陽侯に封ぜられたよ。その家は代々その位と領地を受け継いで、いったん途絶えた後、また続くようになって、今も容城で後継ぎがその地位を受け継いでいるよ。
黄帝、高陽(顓頊)は、伝説上の君主だよ。詳しくは『史記』「五帝本紀」を見てね。彼らの名を出す目的は、統治の正当性を示すためだと思うよ。
桓帝世,曹騰為中常侍大長秋,封費亭侯。(註2)
桓帝の時代、曹騰は中常侍大長秋になって、費亭侯に封ぜられたよ。
司馬彪續漢書曰:騰父節,字元偉,素以仁厚稱。鄰人有亡豕者,與節豕相類,詣門認之,節不與爭;後所亡豕自還其家,豕主人大慙,送所認豕,并辭謝節,節笑而受之。由是鄉黨貴歎焉。長子伯興,次子仲興,次子叔興。
司馬彪の『続漢書』によると、曹騰の父は曹節で、字は元偉で、もともとやさしくて思いやりのある人として知られていたよ。
あるとき、隣の人が豚をなくしちゃったんだけど、その豚が曹節の家の豚とよく似ていたんだ。その人は曹節の家に来て「これは自分の豚だ」と言ったよ。でも、曹節は言い争そうとしなかったんだ。その後、なくした豚が自然にその人の家へ帰ってきたから、豚の持ち主はとても恥ずかしく思って、豚を曹節に送り返して、自分の豚にしようとしたことを曹節に謝ったよ。曹節は笑ってそれを受け取ったよ。こういうことがあって、地元の人たちは曹節をとても尊敬したんだって。
曹節には3人の子供がいて、長子は伯興、次の子は仲興、その次の子は叔興だよ。
騰字季興,少除黃門從官。永寧元年,鄧太后詔黃門令選中黃門從官年少溫謹者,配皇太子書,騰應其選。太子特親愛騰,飲食賞賜與衆有異。順帝即位,為小黃門,遷至中常侍大長秋。在省闥三十餘年,歷事四帝,未甞有過。
曹騰は、字は季興で、若いころに黄門従官に新しく任命されたよ。
永寧元年(120年)、鄧太后は詔を下して黄門令に命令して、黄門従官の中から年が若くておだやかで慎重な者を選んで、皇太子に仕えて書物の仕事をさせるように言ったよ。それで、曹騰が選ばれたんだ。皇太子は特に曹騰をかわいがって、食事や賞も、ほかの人たちとは違うくらい特別に与えたよ。
順帝が皇帝に即位すると、曹騰は小黄門になって、後に中常侍大長秋にまで昇進したよ。宮中で30年以上も務めて、4人の皇帝に仕えたけど、一度も過ちを犯さなかったんだって。
黄門は、黄色に塗った宮城の門で、そこに出入りできる宦官の官職だよ。
好進達賢能,終無所毀傷。其所稱薦,若陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等,皆致位公卿,而不伐其善。蜀郡太守因計吏修敬於騰,益州刺史种暠於函谷關搜得其牋,上太守,并奏騰內臣外交,所不當為,請免官治罪。
曹騰は立派で才能のある人を進んで取り立てることが好きで、最後までその人たちを悪く言ったり傷つけたりすることはなかったよ。彼がほめて推薦した人たちの中には、陳留の出身の虞放や辺韶、南陽の出身の延固や張温、弘農の出身の張奐、潁川の出身の堂谿典たちがいたんだ。彼らはみんな公卿の官位にまでなったけど、曹騰はその功績を自分のものとして誇ることはしなかったんだって。
あるとき、蜀郡太守(郡の長官)が計吏(会計官)を通して曹騰に敬意を伝えようとしたけど、益州刺史(州の長官)の种暠が函谷関で手紙を見つけちゃった。种暠はそれを太守に送り返して、「曹騰は宮中の役人なのに、外の役人と私的に交わっていて、これはしてはいけないよ」と朝廷に上奏して、官職を辞めさせて罪に問うように求めたよ。
帝曰:「牋自外來,騰書不出,非其罪也。」乃寑暠奏。騰不以介意,常稱歎暠,以為暠得事上之節。暠後為司徒,語人曰:「今日為公,乃曹常侍恩也。」騰之行事,皆此類也。桓帝即位,以騰先帝舊臣,忠孝彰著,封費亭侯,加位特進。太和三年,追尊騰曰高皇帝。
でも、皇帝はこう言ったよ。
「この手紙は外から来たもので、曹騰が書いて外に出したわけではないよ。だから彼の罪ではないんだ」
そして、种暠の上奏を取り上げなかったよ。曹騰はこのことを気にしないで、普段から种暠をほめて、「君主に仕える者として正しい態度を持っている人だ」と評価していたの。その後、种暠は司徒になって、人々に語ってこう言ったよ。
「今、私が公の地位にいるのは、曹常侍(曹騰)のおかげだよ」
曹騰の行いは、どれもこのような立派なものだったよ。
桓帝が皇帝に即位すると、曹騰は先帝に仕えた古くからの臣下で、忠と孝がはっきりとあらわれているとして、費亭侯に封ぜられて、さらに特進という高い位も与えられたよ。
太和三年(229年)、曹騰は高皇帝の尊号を贈られたよ。
養子嵩嗣,官至太尉,莫能審其生出本末。(註3)(註4)嵩生太祖。
養子の曹嵩が後を継いで、太尉にまでなったよ。誰も彼の生い立ちをよく知らなかったんだって。曹嵩から曹操が生まれたんだよ。
曹騰の養子が曹嵩、曹嵩の子が曹操だね。
續漢書曰:嵩字巨高。質性敦慎,所在忠孝。為司隷校尉,靈帝擢拜大司農、大鴻臚,代崔烈為太尉。黃初元年,追尊嵩曰太皇帝。
『続漢書』によると、曹嵩は、字は巨高だよ。性格はまじめで慎重で、どこにいても忠と孝を大切にする人だよ。司隷校尉になって、霊帝に特別に選ばれて大司農と大鴻臚に任命されて、その後崔烈に代わって太尉になったよ。
黄初元年(220年)、曹嵩は太皇帝の尊号を贈られたよ。
吳人作曹瞞傳及郭頒世語並云:嵩,夏侯氏之子,夏侯惇之叔父。太祖於惇為從父兄弟。
呉の人が作った『曹瞞伝』と郭頒の『世語』によると、曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父だよ。曹操は夏侯惇と従父兄弟の関係だね。
曹操の出世
太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也;(註5)
曹操は若いころからとても機転が利いて、駆け引きや謀りごとも得意だけど、おとこ気があってやりたい放題な生活を送っていて、きちんと仕事をしなかったから、人からはすぐれた人だとは評価されていなかったんだ。
曹瞞傳云:太祖少好飛鷹走狗,游蕩無度,其叔父數言之於嵩。太祖患之,後逢叔父於路,乃陽敗面喎口;叔父怪而問其故,太祖曰:「卒中惡風。」叔父以告嵩。嵩驚愕,呼太祖,太祖口貌如故。嵩問曰:「叔父言汝中風,已差乎?」太祖曰:「初不中風,但失愛於叔父,故見罔耳。」嵩乃疑焉。自後叔父有所告,嵩終不復信,太祖於是益得肆意矣。
『曹瞞伝』によると、曹操は若いころ鷹を飛ばしたり犬を走らせたりして遊ぶこと(狩り)が好きで、気ままな暮らしぶりは人並外れていたんだって。だから、彼の叔父は何度も曹嵩に相談していて、曹操はそれに悩んでいたんだ。
あるとき曹操は道で叔父のに出会うと、わざと顔をゆがめて、口を曲げてみせたよ。叔父は不思議に思って尋ねると、曹操はこう言ったよ。
「急に悪い風にあたって病気になっちゃった」
叔父はそれを曹嵩に伝えたよ。曹嵩はびっくりして、曹操を呼んだけど、曹操の顔や口はもとのままだったんだ。曹嵩はこう尋ねたよ。
「叔父はあなたが病気になったと言っていたけど、もう治ったの?」
曹操はこう答えたよ。
「もともと病気になんてなっていないよ。ただ、叔父にかわいがられていないから、言いがかりをつけられただけなんだ」
曹嵩は叔父の言うことを疑うようになっちゃった。それからは、叔父が何か言いつけても、曹嵩はもう信じなくなり、曹操はますます自由に振る舞えるようになったの。
惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」(註6)(註7)(註8)(註9)(註10)
ただ、梁国の出身の橋玄と、南陽の出身の何顒だけは、曹操を普通ではないと思っていたんだ。橋玄は曹操を評価して、こう言ったよ。
「天下が乱れようとしていて、才能のある人でなければ救えないよ。安定させられるのは、あなたしかいないよ!」
魏書曰:太尉橋玄,世名知人,覩太祖而異之,曰:「吾見天下名士多矣,未有若君者也!君善自持。吾老矣!願以妻子為託。」由是聲名益重。
『魏書』によると、太尉の橋玄は人を見る目があることで世の中によく知られていて、曹操を見てすごいと感じて、こう言ったよ。
「私はこれまで天下の名のある立派な人たちをたくさん見てきたけど、あなたのような人はまだ一人もいないよ! どうか自分を大切にしてね。私はもう年をとってしまって、妻や子供をあなたに託したいと思うよ」
こういうことがあって、曹操の評判はますます高くなったよ。
續漢書曰:玄字公祖,嚴明有才略,長於人物。
『続漢書』によると、橋玄は、字は公祖で、厳しくて正しくて、才能や計略もすぐれていて、人を見分けることが得意だよ。
張璠漢紀曰:玄歷位中外,以剛斷稱,謙儉下士,不以王爵私親。光和中為太尉,以乆病策罷,拜太中大夫,卒,家貧乏產業,柩無所殯。當世以此稱為名臣。
張璠の『漢紀』によると、橋玄は宮中と地方のさまざまな役職を歴任して、決断力が強いことで知られていたよ。へりくだってつつましくて、身分の低い人にも礼儀正しく接して、地位や爵位を自分の身内のために勝手に使うことはなかったよ。
光和の年号の間(178~184年)、太尉になったけど、長いあいだ病気だったから、自分から辞めて、その後は太中大夫に任命されたよ。橋玄が亡くなると、家は貧しくて財産もほとんどなくて、棺を置く場所にも困るくらいだったの。当時の人たち、このことから橋玄を立派な名臣としてたたえたよ。
世語曰:玄謂太祖曰:「君未有名,可交許子將。」太祖乃造子將,子將納焉,由是知名。
『世語』によると、橋玄は曹操にこう言ったよ。
「あなたはまだ名が知られていないから、許劭と交流してみたらどうかな」
そこで曹操は許劭を訪ねて、許劭は彼を受け入れたよ。こういうことがあって、曹操は世の中に知られるようになったよ。
孫盛異同雜語云:太祖甞私入中常侍張讓室,讓覺之;乃舞手戟於庭,踰垣而出。才武絕人,莫之能害。博覽群書,特好兵法,抄集諸家兵法,名曰接要,又注孫武十三篇,皆傳於世。甞問許子將:「我何如人?」子將不荅。固問之,子將曰:「子治世之能臣,亂世之姦雄。」太祖大笑。
孫盛の『異同雑語』によると、曹操はあるとき、こっそりと中常侍の張譲の家に入ったけど、張譲に気づかれちゃった。曹操は庭で戟を手に取って振り回しながら、塀を飛びこえて外へ逃げ出したよ。その才能と武勇は人並みはずれていて、誰も彼に害を加えられなかったよ。
それに、曹操はたくさんの書物を広く読んでいて、特に兵法が好きで、いろいろな家の兵法をまとめて『接要』という書物を作ったよ。さらに孫武の十三篇にも注釈を入れて、これらはすべて後の世に伝えられたよ。
あるとき、曹操は許劭に「私はどんな人だと思う?」と聞いたら、許劭は答えなかったんだ。曹操がしつこく尋ねると、許劭はこう答えたよ。
「あなたは、平和な世の中では有能な臣下、乱れた世の中ではずる賢い英雄となる人だよ」
曹操は大笑いしたんだって。
曹操さんの評価で有名な「治世の能臣、乱世の姦雄」だね。『後漢書』「郭符許列伝」では、「君清平之姦賊,亂世之英雄。」とあって、「乱世の英雄」になっているね。
年二十,舉孝廉為郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,(註11)徵拜議郎。(註12)
曹操は20歳のとき、孝廉に推挙されて郎になって、洛陽の北部尉に任命されたよ。その後、頓丘県令(県の長官)に昇進して、その後、朝廷に呼ばれて議郎に任命されたよ。
洛陽は、後漢の都だよ。漢の時代の表記は「雒陽」。
曹瞞傳曰:太祖初入尉廨,繕治四門。造五色棒,縣門左右各十餘枚,有犯禁者,不避豪彊,皆棒殺之。後數月,靈帝愛幸小黃門蹇碩叔父夜行,即殺之。京師斂迹,莫敢犯者。近習寵臣咸疾之,然不能傷,於是共稱薦之,故遷為頓丘令。
『曹瞞伝』によると、曹操は、初めて尉の役所に入ると、4つの門をきちんと整えたよ。五色の棒を作って、門の左右にそれぞれ十数本ずつ置いたよ。もし禁令を破る者がいたら、身分の高い者であってもかまわないで、みんな棒で打ち殺したんだ。
数ヶ月後、霊帝にかわいがられていた小黄門の蹇碩の叔父が、夜に外を出歩いて禁令を破ったから、曹操は彼を殺したよ。このことから、都の人たちは慎重になって、だれも禁令を破ろうとする者はいなくなったよ。霊帝のそばで仕えるお気に入りの臣下たちはみんな曹操を憎んだよ。でも、曹操を傷つけられなくて、逆にみんなで彼をほめて推薦したから、曹操は頓丘県令(県の長官)に昇進したよ。
魏書曰:太祖從妹夫㶏彊侯宋奇被誅,從坐免官。後以能明古學,復徵拜議郎。先是大將軍竇武、太傅陳蕃謀誅閹官,反為所害。太祖上書陳武等正直而見陷害,姦邪盈朝,善人壅塞,其言甚切;靈帝不能用。是後詔書勑三府:舉奏州縣政理無效,民為作謠言者免罷之。三公傾邪,皆希世見用,貨賂並行,彊者為怨,不見舉奏,弱者守道,多被陷毀。太祖疾之。是歲以災異博問得失,因此復上書切諫,說三公所舉奏專回避貴戚之意。奏上,天子感寤,以示三府責讓之,諸以謠言徵者皆拜議郎。是後政教日亂,豪猾益熾,多所摧毀;太祖知不可匡正,遂不復獻言。
『魏書』によると、曹操の従妹の夫で㶏彊侯の宋奇が処刑されて、曹操も関わったとして官職を辞めさせられちゃった。でも、曹操は古い学問に詳しいことが認められて、ふたたび朝廷に呼び戻されて議郎に任命されたよ。
これより前、大将軍の竇武と太傅の陳蕃は宦官たちを討とうと計画したけど、逆に宦官たちに殺されたんだ。そこで、曹操は上書して「竇武たちみたいに正しくてまじめな人が逆におとしいれられて、悪い人たちが朝廷にあふれていて、いい人たちが活躍できないでいる」と伝えたよ。その言葉はとても強く心に訴えるものだったけど、霊帝は受け入れられなかったんだ。
この後、詔が出されて、三公の役所に「州や県の政治がうまくいっていないことについて、民が不満の歌を作っているなら、その責任者を調べて辞めさせてね」と命令したよ。でも、三公たちは心がゆがんでいて、世の流れに合わせて自分が使われようとするばかりで、わいろも広まっていたよ。力の強い者は民から怨まれても上奏されないのに、力の弱い者で正しい道を守る人はかえっておとしいれられることが多くあったんだ。曹操はこれをとても憎んだの。
この年、災いや不思議な出来事が起こったから、広く政治の良し悪しについて意見を求めたよ。そこで、曹操はもう一度上書を出して強くいさめて、三公が人を推挙するときに身分の高い親族をわざと避けていることを指摘したよ。天子はそれに心を動かされて、目が覚めたように感じて、その内容を三公の役所に示して責めたよ。そして、不満の歌によって巻き込まれた人たち(正しい道を守っていたのにおとしいれられた人たち)をみんな議郎に任命したよ。でも、その後も政治や教えはますます乱れて、悪いことをする強い者たちはさらに勢いを増して、たくさんの人が苦しめられたんだ。曹操はこの状況を正せないと知って、それからは意見を出さなくなっちゃった。
三公は、司徒、司空、太尉の3つの官職だよ。政治において、最高の地位だよ。
黄巾の乱
光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷為濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓污狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然。(註13)乆之,徵還為東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。(註14)
光和の年号の終わりごろ(184年)、黄巾が立ち上がったよ。曹操は騎都尉に任命されて、潁川の賊を討ったよ。その後、済南国相(国の長官)に昇進したよ。この国には10以上の県があったけど、長吏(行政官)の多くは身分の高い人たちに媚びを売って、わいろなどの不正がひどい状態だったんだ。曹操はそのうち8人を辞めさせるように上奏したよ。それに、正しくない祭りを禁止すると、悪いことをする人たちは逃げ出して、郡の中は長いあいだ落ち着いたよ。
しばらくして、曹操は朝廷から呼び戻されて東郡太守(郡の長官)に任命されたけど、就任しないで、病気だからと言って故郷に帰っちゃった。
魏書曰:長吏受取貪饕,依倚貴勢,歷前相不見舉;聞太祖至,咸皆舉免,小大震怖,姦宄遁逃,竄入他郡。政教大行,一郡清平。初,城陽景王劉章以有功於漢,故其國為立祠,青州諸郡轉相倣效,濟南尤盛,至六百餘祠。賈人或假二千石輿服導從作倡樂,奢侈日甚,民坐貧窮,歷世長吏無敢禁絕者。太祖到,皆毀壞祠屋,止絕官吏民不得祠祀。及至秉政,遂除姦邪鬼神之事,世之淫祀由此遂絕。
『魏書』によると、長吏(行政官)は贈り物を受け取って、身分の高い人の力をたよりにしていたけど、前の相(国の長官)たちは誰もそのことを取り上げて処罰しなかったんだ。でも曹操が来ると聞くと、彼らはみんな職を辞めさせられたよ。身分の高い者も低い者もみんな震えあがって、悪いことをする者は逃げ出して、ほかの郡へと逃げちゃった。こうして政治と教えはちゃんと行きわたって、郡はとても平和になったよ。
もともと、城陽景王の劉章が漢で功績をあげたから、その国にはほこらが建てられていたんだ。それから、青州のたくさんの郡もこれをまねして次々と祠を建てて、特に済南では600以上の祠が建てられていたんだって。商人の中には、二千石の地位の役人みたいに振る舞って、立派な車や服を使って、行列を作って歌や踊りを楽しんだり、ぜいたくは日に日にひどくなっていったよ。一方、民は貧しくて苦しんでいたけど、これまでの長吏(行政官)たちでこの悪い習慣を禁じる人は誰もいなかったんだ。でも、曹操が着くと、祠をすべて壊して、役人や民が祭りをしないようにしたよ。さらに、彼が政治を取り仕切るようになると、悪い神やでたらめな信仰をやめさせたよ。世の中のよくない祭りは、ここから完全になくなったの。
悪い風習をやめさせた西門豹を尊敬してのこと? 身分によって、着てはいけない服や乗ってはいけない車があったみたい。商売人は役人に賄賂を与えて、豪華な服や車を楽しんだのかも。
魏書曰:於是權臣專朝,貴戚橫恣。太祖不能違道取容。數數干忤,恐為家禍,遂乞留宿衞。拜議郎,常託疾病,輙告歸鄉里;築室城外,春夏習讀書傳,秋冬弋獵,以自娛樂。
『魏書』によると、このとき力のある臣下たちが朝廷の政治を握って、身分の高い親族たちも勝手な振る舞いをしていたんだ。曹操は正しい道にそむいてまで人に気に入られようとはしなかったよ。何度か人に逆らっちゃって、家に災いが及ぶことをおそれて、宮中の宿直の役にとどめてほしいと願い出たよ。そして議郎に任命されたけど、いつも病気だと言って、よく休みを願い出て故郷に帰ったんだ。城の外に家を建てて、春と夏は書物を読んで学んで、秋と冬は狩りをして、自分の楽しみとして過ごしていたよ。
陰謀には関わらない
頃之,兾州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。(註15)(註16)
このころ、冀州刺史の王芬、南陽の出身の許攸、沛国の出身の周旌たちが有力者と結びついて、霊帝をやめさせて合肥侯を皇帝に立てようと計画したよ。彼らはこの計画を曹操に知らせたけど、曹操はこれに反対したよ。結局、王芬たちは失敗しちゃった。
司馬彪九州春秋曰:於是陳蕃子逸與術士平原襄楷會於芬坐,楷曰:「天文不利宦者,黃門、常侍貴族滅矣。」逸喜。芬曰:「若然者,芬願驅除。」於是與攸等結謀。靈帝欲北巡河間舊宅,芬等謀因此作難,上書言黑山賊攻劫郡縣,求得起兵。會北方有赤氣,東西竟天,太史上言「當有陰謀,不宜北行」,帝乃止。勑芬罷兵,俄而徵之。芬懼,自殺。
司馬彪の『九州春秋』によると、この時、陳蕃の子の陳逸と、術士(占いや天文を見る人)で平原の出身の襄楷は、王芬のもとで会ったよ。襄楷はこう言ったよ。
「天の様子は宦官にとってよくないよ。黄門や常侍などの身分の高い者たちは滅びるだろうね」
陳逸は喜んだよ。王芬はこう言ったよ。
「もしそうなら、私たちはそれを成し遂げよう」
こうして許攸たちと一緒に計画を立てたんだ。
一方、霊帝は北の河間にある昔の宮殿へ行こうとしていたよ。王芬たちはこの機会を利用して事を起こそうと考えて「黒山賊が郡や県を襲っている」と上書して、兵をあげる許しを求めたよ。
ちょうどそのとき、北の空に赤い気が東西いっぱいに広がるという不思議な現象があったんだ。太史(天文官)は「陰謀があるはず、北へ行くべきではないよ」と伝えたよ。そこで霊帝は北へ行くのをやめたよ。そして、王芬たちに兵をやめるように命令して、すぐに朝廷に呼び戻したよ。王芬は怖くなって自ら命を絶ったんだ。
魏書載太祖拒芬辭曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也。古人有權成敗計輕重而行之者,伊尹、霍光是也。伊尹懷至忠之誠,據宰臣之勢,處官司之上,故進退廢置,計從事立。及至霍光受託國之任,藉宗臣之位,內因太后秉政之重,外有羣卿同欲之勢,昌邑即位日淺,未有貴寵,朝乏讜臣,議出密近,故計行如轉圜,事成如摧朽。今諸君徒見曩者之易,未覩當今之難。諸君自度,結衆連黨,何若七國?合肥之貴,孰若吳、楚?而造作非常,欲望必克,不亦危乎!」
『魏書』によると、曹操は王芬の誘いを断って、こう言ったよ。
「皇帝を立てたりやめさせたりすることは、天下にとって最も不吉だよ。昔には、うまく計画して成功させた人もいて、伊尹や霍光がその例だよ。伊尹は深い忠誠の心を持っていて、宰相としての大きな力を握って、役人たちの上に立っていたよ。だから、進めるか退かせるか、立てるかやめさせるかも、計画どおりに成し遂げたんだ。霍光は国を託される重い役目を受けて、皇族の地位をもっていて、宮中では太后が政治をする力に支えられて、外ではたくさんの官僚たちも同じ考えを持っていたよ。昌邑王(劉賀)は即位してまだ日が浅くて、貴族からの支持が得られていなくて、朝廷には正しく意見する者も少なくて、計画は身近なところから進められたよ。だから、物事はまるで丸いものが転がるように進んで、朽ちたものを押し倒すように簡単に成功したの。でも、今のあなたたちは昔の成功が簡単だったことばかり見ていて、今の難しさをわかっていないよね。みんな自分自身で考えてみて。仲間を集めて党を作る力は、かつての七国と比べてどうかな? 合肥侯は呉や楚の王と比べてどうかな? それなのに、普通ではない大きなことをしようとして、必ず成功すると思っているのは、すごく危ないよ!」
伊尹は、殷の湯王を支えたとされる人だよ。詳しくは『史記』「殷本紀」を見てね。
霍光は、漢の政治家だよ。武帝を継いだ幼い昭帝を支えたよ。詳しくは『漢書』「霍光金日磾伝」を見てね。
董卓の台頭
金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,衆十餘萬,天下騷動。徵太祖為典軍校尉。會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后,(註17)卓未至而進見殺。
金城の出身の辺章と韓遂が刺史(州の長官)や郡の太守(郡の長官)を殺して反乱を起こして、10万人以上の兵を集めて、天下は大きく乱れたんだ。そこで、曹操は朝廷に呼ばれて典軍校尉になったよ。
ちょうどそのころ、霊帝が亡くなって、太子(劉弁)が皇帝に即位して、太后が代わりに政治をしたよ。大将軍の何進は、袁紹と一緒に宦官を討とうと計画したけど、太后は聞き入れなかったんだ。それで、何進は董卓を呼んで、太后をおどして従わせようとしたけど、董卓が着く前に何進は殺されちゃった。
魏書曰:太祖聞而笑之曰:「閹豎之官,古今宜有,但世主不當假之權寵,使至於此。旣治其罪,當誅元惡,一獄吏足矣,何必紛紛召外將乎?欲盡誅之,事必宣露,吾見其敗也。」
『魏書』によると、曹操はこの話を聞いて、笑いながらこう言ったよ。
「宦官のような役人は、昔から今までいてもいいけど、君主が彼らに権力や特別な恩恵を与えすぎて、このような事態しちゃったのはよくないよね。すでにその罪をただすのなら中心となる悪い人だけを処罰すればよくて、牢の役人は1人で十分だよ。どうしてわざわざ外の将(董卓)を呼び寄せる必要があるの? すべてを処刑しようとすると、計画は必ず外にもれて、私は彼らが失敗するのが見えるよ」
卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。(註18)(註19)(註20)
董卓が都に来ると、少帝(劉弁)をやめさせて弘農王にして、献帝(劉協)を皇帝に即位させて、都は大きく乱れたんだ。董卓は上表して曹操を驍騎校尉に任命して、一緒に計画を立てようとしたよ。でも、曹操は名前を変えて身分を隠してこっそりと東へ帰っていったよ。
魏書曰:太祖以卓終必覆敗,遂不就拜,逃歸鄉里。從數騎過故人成臯呂伯奢;伯奢不在,其子與賔客共劫太祖,取馬及物,太祖手刃擊殺數人。
『魏書』によると、曹操は董卓が最後には必ず滅びるだろうと考えて、董卓の任命を受けないで、逃げて故郷へ帰ったよ。数人の騎兵を従えて、昔からの知り合いで成臯の呂伯奢の家を訪ねたよ。でも、呂伯奢は家にいなくて、彼の子供や客たちが一緒になって曹操の馬や持ち物を奪おうとしたんだ。だから曹操は自分で刀を取って、何人かを斬り殺したよ。
世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行,五子皆在,備賔主禮。太祖自以背卓命,疑其圖己,手劔夜殺八人而去。
『世語』によると、曹操が呂伯奢の家を訪ねると、彼は外に出かけていたけど、彼の5人の子供たちがいて、曹操を客としてもてなしたんだ。でも、曹操は自分が董卓の命令にそむいたから、呂伯奢の家族が自分を襲うかもと疑って、夜中に剣を手にして8人を殺して去ったんだって。
孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲,以為圖己,遂夜殺之。旣而悽愴曰:「寧我負人,毋人負我!」遂行。
孫盛の『雑記』によると、曹操は呂伯奢の家で食器の音を聞いて、彼らが何か企んでいると思い込んで、夜に彼とその家族を殺しちゃった。曹操はすごく悲しんで、こう言ったよ。
「私が人を裏切ることはあっても、人が私を裏切るのは許さない!」
こうして旅立ったよ。
3つの説があるね。『三国志演義』で採用されたのは『世語』と『雑記』の説だね。
出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。(註21)
関を出て、中牟を通ると、亭長(警察の長)に疑われて捕まって、県に連れて行かれちゃった。でも、町の中で曹操だと気づいてくれる人がいて、その人が頼んで解放してもらったよ。
世語曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之。
『世語』によると、中牟では曹操は逃げている者ではないかと疑われて、県で捕らえられちゃった。このとき掾もすでに董卓からの命令を受けたけど、功曹(郡の人事官)だけはこっそり曹操だと気づいて、「今は世の中が乱れていて、このようなすぐれた人を捕らえるべきではない」と考えて、県令(県の長官)に伝えて曹操を解放させたよ。
卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,(註22)是歲中平六年也。
董卓はとうとう太后と弘農王(劉弁)を殺したんだ。曹操は陳留に着くと、自分の家の財産を使って義のための兵を集めて、董卓を討とうとしたよ。
冬の十二月、曹操は己吾で初めて兵をあげたよ。この年は中平六年(189年)だよ。
世語曰:陳留孝廉衞茲以家財資太祖,使起兵,衆有五千人。
『世語』によると、陳留の出身で孝廉の衛茲は自分の家の財産を使って曹操を助けて、兵をあげさせて、5,000人の兵が集まったよ。
董卓を討つために
初平元年春正月,後將軍袁術、兾州牧韓馥、(註23)豫州刺史孔伷、(註24)(註25)兖州刺史劉岱、(註26)河內太守王匡、(註27)(註28)勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、(註29)山陽太守袁遺、(註30)(註31)濟北相鮑信(註32)同時俱起兵,衆各數萬,推紹為盟主。太祖行奮武將軍。
初平元年(190年)、春の正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北の相の鮑信が同時に兵をあげて、それぞれ数万人の兵を集めて、袁紹を推薦して盟主にしたよ。曹操は奮武将軍を代行したよ。
英雄記曰:馥字文節,潁川人。為御史中丞。董卓舉為兾州牧。于時兾州民人殷盛,兵糧優足。袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」
『英雄記』によると、韓馥は、字は文節で、潁川の出身だよ。御史中丞になったよ。董卓に推挙されて冀州牧(州の長官)になったよ。このとき冀州は人がたくさんいて豊かで、兵や食糧も十分にそろっていたよ。
一方、袁紹は勃海にいて、韓馥は袁紹が兵をあげることを恐れて、何人かの従事(補佐官)を送って彼を監視させて、勝手な行動ができないようにしたよ。
東郡太守の橋瑁は、都の三公が書いたと偽った手紙を州や郡に送ったんだ。その中で董卓の罪や悪事を伝えて、「私たちは困って困って、自分たちだけではどうすることもできないの。義のための兵が現れるのを待ち望んで、国の苦しみを救いたい」と書いたよ。
馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵為國,何謂袁、董!」馥自知言短而有慙色。子惠復言:「兵者凶事,不可為首;今宜往視他州,有發動者,然後和之。兾州於他州不為弱也,他人功未有在兾州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。
韓馥はその手紙を受け取ると、従事たちにこう尋ねたよ。
「今は袁紹を助けるべき? それとも董卓を助けるべき?」
治中従事(行政補佐官)の劉子恵はこう答えたよ。
「今、兵をあげるのは国のためだよ。どうして袁紹や董卓なんて言う必要があるの!」
これを聞いて韓馥は自分の言葉が浅いと気づいて、恥ずかしそうな顔をしたんだ。劉子恵はさらにこう言ったよ。
「戦いというものは危険なものだから、自分から先頭に立つべきではないよ。今はまず、ほかの州の様子を見て、動く人が現れたらそれに合わせるのがいいよ。冀州はほかの州より弱いわけではないし、まだどの州も冀州より大きな功績をあげているわけでもないんだ」
韓馥はこれをもっともだと思ったよ。そこで韓馥は袁紹に手紙を送って、董卓の悪事を伝えて、袁紹が兵を挙げることを認めたよ。
英雄記曰:伷字公緒,陳留人。
『英雄記』によると、孔伷は、字は公緒で、陳留の出身だよ。
張璠漢紀,載鄭泰說卓云:「孔公緒能清談高論,噓枯吹生。」
張璠の『漢紀』によると、鄭泰は董卓に説得してこう言ったよ。
「孔公緒(孔伷)はすぐれた議論ができて、批判を称賛に、称賛を批判に変えられるくらい口がうまいんだ」
岱,劉繇之兄,事見吳志。
劉岱は、劉繇の兄なんだって。このことは、「呉志」に書かれているよ。
「呉書劉繇伝」を見てね。
英雄記曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發彊弩五百西詣京師。會進敗,匡還鄉里。起家,拜河內太守。
『英雄記』によると、王匡は、字は公節で、泰山の出身だよ。金をあまり大切にしないで人に気前よく与えて、義理や人助けを大切にする人物として知られていたよ。彼は大将軍の何進の役所に招かれて符使(使者)になって、徐州で強い弩(強力な弓)を持つ兵を500人集めて、ふたたび西へ向かって都に行ったよ。でも、途中で何進が敗れたから、王匡は故郷に帰ったんだ。その後、河内太守に任命されたよ。
謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善。其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖并勢,共殺匡。
謝承の『後漢書』によると、王匡は若いころ、蔡邕と仲よくしていたよ。その年、王匡は董卓の軍に敗れて、泰山に逃げ帰ったんだ。そこで、強くて勇ましい兵を集めて数千人の軍をつくって、張邈と協力しようとしたよ。でも、王匡は昔に執金吾の胡母班を殺しちゃったんだ。胡母班の親族はすごく怒って、曹操と力を合わせて、王匡を殺したんだ。
英雄記曰:瑁字元偉,玄族子。先為兖州刺史,甚有威惠。
『英雄記』によると、橋瑁は、字は元偉で、橋玄の一族だよ。前に兗州刺史(州の長官)になって、とても威厳があるんだって。
遺字伯業,紹從兄。為長安令。河間張超甞薦遺于太尉朱儁,稱遺「有冠世之懿,幹時之量。其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔。」事在超集。
袁遺は、字は伯業で、袁紹の従兄だよ。長安県令(県の長官)になったよ。
河間の出身の張超が、袁遺を太尉の朱儁に推薦して、袁遺をほめてこう言ったよ。
「袁遺は、世の中でも特にすぐれた徳を持っていて、時代を支えるだけの器量を持っている人だよ。その忠義や誠実さ、明るくてまっすぐな人がらは、生まれつき備わっているものだよ。それに、たくさんの書物を広く学んで、さまざまな学説をまとめて、高いところに登れば賦を作って、物を見ればその本質を見抜くんだ。今の世の中でこのような人を探しても、ほとんど並ぶ者はいないの」
この話は『張超集』に書かれているよ。
英雄記曰:紹後用遺為揚州刺史,為袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳。」語在文帝典論。
『英雄記』によると、袁紹は袁遺を揚州刺史(州の長官)に任命したけど、袁術に敗れちゃった。
曹操は袁遺をほめてこう言ったよ。
「大人になってからも努力して学び続ける者は、私と袁伯業(袁遺)だけだね」
この話は曹丕の『典論』に書かれているよ。
信事見子勛傳。
鮑信については、彼の子の「鮑勛伝」に記されているよ。
汴水の戦い
二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。卓兵彊,紹等莫敢先進。
二月、董卓は兵があがったと聞いて、天子を長安に移して住まわせたよ。董卓は洛陽にとどまって陣を置いて、宮殿を焼いたんだ。このとき袁紹は河内、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗、袁術は南陽、孔伷は潁川、韓馥は鄴に陣を置いたよ。董卓の兵は強くて、袁紹たちは前に進めなかったんだ。
太祖曰:「舉義兵以誅暴亂,大衆已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足為患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。一戰而天下定矣,不可失也。」
曹操はこう言ったよ。
「義の兵をあげて乱暴で悪い者を討とうよ。すでにたくさんの人が集まっているのに、どうして迷うの? もし董卓が山東で兵(袁紹たち)があがったと聞いて、王室の権威を頼って、都の周りの2つの険しい場所をおさえて、東に向かって天下をにらんでいたら、たとえ道に外れたやり方でも、大きな脅威になっていただろうね。でも今は、董卓は宮殿を焼き払って、天子を無理やり移動させて、天下の人たちはすごく迷って、どうすればいいかわからなくなっているんだ。これはまさに、董卓が滅びる運命にあるときだよ。一度戦えば天下は定まるだろうから、この機会を逃してはならないよ」
遂引兵西,將據成臯。邈遣將衞茲分兵隨太祖。到熒陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖為流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。
そこで曹操は兵を率いて西に進んで、成皋をおさえようとしたよ。張邈は将の衛茲を送って、兵を分けて曹操に従わせたよ。
そして熒陽の汴水に着くと、曹操は董卓の将の徐栄に遭って、戦ったよ。でも、戦いはうまくいかなくて、たくさんの兵たちが死んだり傷ついたりしたんだ。曹操も矢に当たって、乗っていた馬も傷ついちゃった。従弟の曹洪は自分の馬に曹操を乗せたから、曹操は夜のうちに逃げられたよ。徐栄は曹操の兵が少ないのを見て、一日中激しく戦ったけど、酸棗を攻めるのは簡単ではないと考えて、兵を引いて帰ったよ。
連合の分裂
太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因為謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之衆臨孟津,酸棗諸將守成臯,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊為諸君耻之!」邈等不能用。
曹操が酸棗に着くと、集まった軍は10万人以上にもなっていたよ。でも、毎日のように酒を飲んで大きな宴会を開くだけで、前に進んで戦おうとはしなかったんだ。曹操は彼らを責めて、さらに作戦を立ててこう言ったよ。
「みんな、私の計画を聞いて! 勃海の軍(袁紹)には河内の兵を率いて孟津に進ませるんだ。そして、酸棗の将たちは成皋を守って、敖倉をおさえて轘轅関と太谷関といった険しい道をふさいで、その地の有利さを完全に支配しよう。さらに、袁術には南陽の兵を率させて丹水と析水に陣を置いて、武関から入って、三輔(長安の周り)を驚かせよう。
こうして、みんなで高い壁と深い堀を作って、むやみに戦わないで、偽の兵をたくさん増やして兵を多く見せて相手を惑わせるんだ。そして、天下にこちらの勢いを示して、正しい立場で逆らう者を討てば、すぐに天下は定まるだろうね。今、義のために兵を動かしているのに、迷って前に進まないのは、天下の期待を失うことだよね。私はこれをとても恥ずかしいと思っているよ!」
でも、張邈たちはこの計画を使えなかったんだ。
揚州で人を集める
太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。(註33)至銍、建平,復收兵得千餘人,進屯河內。
曹操は兵が少なかったから、夏侯惇たちと一緒に揚州に行って兵を集めたよ。揚州刺史の陳温と丹陽太守の周昕は4,000人以上の兵を与えてくれたよ。でも、そのあと帰る途中、龍亢に着くと、兵の多くが裏切って逃げちゃった。銍や建平に着いて、もう一度1,000人以上の兵を集めて、河内に進んで陣を置いたよ。
魏書曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劔殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。
『魏書』によると、兵士たちは反乱を計画して、夜に曹操の陣営に火をつけたんだ。曹操は自ら剣を取って、数十人を斬ったよ。ほかの兵たちはみんな怖くなって散り散りになって、曹操は陣営から脱出できたよ。裏切らなかった兵は500人くらいだけだったんだ。
連合の崩壊
劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。
劉岱と橋瑁は仲が悪くて、劉岱が橋瑁を殺したから、王肱が東郡太守を兼ねたよ。
袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝,太祖拒之。(註34)
袁紹と韓馥は幽州牧(州の長官)の劉虞を皇帝に立てようと計画したけど、曹操はこれに反対したよ。
魏書載太祖荅紹曰:「董卓之罪,暴於四海,吾等合大衆興義兵,遠近莫不響應,此以義動故也。今幼主微弱,制於姦臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向。」
『魏書』によると、曹操は袁紹に答えてこう言ったよ。
「董卓の罪は、天下に広く知られているよ。私たちはたくさんの人たちを集めて義のために兵をあげたら、遠くでも近くでも、みんな応じるだろうね。これは義によって人々が動くからだよ。今、今、幼い皇帝は力が弱くて、悪い臣下に支配されているけど、まだ昌邑王(劉賀)みたいに国が滅びるくらいの大きな問題が起きているわけではないよ。なのに、急に皇帝を取り替えたら、天下の人たちはどうして安心できるの? みんなは北(幽州の劉虞)へ向かうけど、私は西(長安の皇帝)に向かうよ」
紹又甞得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。(註35)
袁紹は、あるとき玉の印を手に入れて、曹操の前でそれを取り出して、曹操の肘にのせて見せびらかしたんだ。曹操はこれを見て笑ったけど、心の中では袁紹を嫌いになったよ。
魏書曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹復使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵彊,二子已長,天下羣英,孰踰於此?」太祖不應。由是益不直紹,圖誅滅之。
『魏書』によると、曹操は大笑いしてこう言ったよ。
「あなたの言うことは聞けないよ」
袁紹はさらに人を送って曹操を説得させてこう言ったよ。
「今、袁公(袁紹)は勢いが強くて、兵もたくさんいて、二人の子供もすでに成長しているよ。天下の英雄たちの中で、彼に勝てる人がいるの?」
曹操は答えなかったんだ。こういうことがあって、曹操はますます袁紹を正しい人物とは思わなくなって、彼を討ち滅ぼそうと考えるようになったよ。
二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。
初平二年(191年)、春、袁紹と韓馥は劉虞を皇帝に立てようとしたよ。でも、劉虞は最後まで応じなかったんだ。
夏四月,卓還長安。
夏の四月、董卓は長安に帰ったよ。
秋七月,袁紹脅韓馥,取兾州。
秋の七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を取ったんだ。
賊の討伐
黑山賊于毒、白繞、眭固等(註36)十餘萬衆略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。
黒山賊の于毒、白繞、眭固たちは、10万人以上の兵を率いて、魏郡と東郡を襲って奪い取ったんだ。東郡太守(郡の長官)の王肱はこれを防げなかったんだ。曹操は兵を率いて東郡に入って、濮陽で白繞を攻撃して、打ち破ったよ。袁紹は曹操を東郡太守にするように上表して、東武陽で政治をさせたよ。
眭,申隨反。
眭の発音は、申の子音に隨の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。(註37)毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。(註38)
初平三年(192年)、春、曹操は頓丘に軍をとどめていて、于毒たちは東武陽を攻めたよ。曹操は兵を率いて西の山の中へ入って、于毒たちの本拠地を攻撃したよ。于毒はこれを聞いて、東武陽を攻めるのをやめて引き返したんだ。曹操は眭固を待ち伏せして攻撃して、さらに匈奴の於夫羅を内黄で攻撃して、どちらも大きく打ち破ったよ。
魏書曰:諸將皆以為當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。
『魏書』によると、将たちは「いったん引き返して東武陽を助けるべきだ」と考えていたよ。でも、曹操はこう言ったよ。
「孫臏は趙を救うために魏を攻めて、耿弇は西安を救うために臨菑を攻めようとしたよ。もし敵に私たちが西に向かったと聞かれたら、彼らは引き返して、東武陽は自然に助かるだろうね。もし引き返さなかったら、私たちは敵の本拠地をを打ち破れるよ。そうなったら、敵が東武陽を落とすことは決してできないよ」
そして、そのまま作戦のとおりに動いたよ。
孫臏は、戦国時代の斉の国の人だよ。詳しくは『史記』「孫子呉起列伝」を見てね。
耿弇は、劉秀の将だよ。『後漢書』「耿弇列伝」から、張歩を攻めるときの話。
魏書曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其衆留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡為寇。
『魏書』によると、於夫羅は、南匈奴の単于(部族の王)の子だよ。
中平の年号の間(184~189年)、匈奴の兵を連れて漢を助けたよ。でも、本国で反乱が起こって、南匈奴の単于が殺されちゃった。於夫羅は自分の兵を率いたまま、中原にとどまったよ。その後、天下が乱れると、西河の白波賊と手を結んで、太原や河内を攻めて破って、たくさんの郡を襲って略奪をしたんだ。
青州兵を手に入れる
夏四月,司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕、郭汜等殺允攻布,布敗,東出武關。傕等擅朝政。
夏の四月、司徒の王允は呂布と協力して董卓を殺したよ。でも、董卓の将の李傕や郭汜たちは王允を殺して、呂布を攻めたんだ。呂布は敗れて、武関から東へ逃げたよ。李傕たちは朝廷の政治を独り占めして好き勝手にしたんだ。
青州黃巾衆百萬入兖州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊衆百萬,百姓皆震恐,士卒無鬬志,不可敵也。觀賊衆羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士衆之力,先為固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果為所殺。(註39)
青州の100万人くらいの黄巾の人たちが兗州に入って、任城国相(国の長官)の鄭遂を殺して、東平郡に進んだよ。劉岱はこれを攻めようとしたけど、鮑信はいさめてこう言ったよ。
「今、敵は100万人もいるんだって。民はみんな震えて怖がっているし、兵も戦う気持ちがなくて、とても戦って勝てる相手ではないよ。敵の様子を見ると、ただ群れになって動いているだけで、軍としての備えはなくて物資も持っていないんだ。ただ略奪で生きているだけだよね。だから今は、兵の力をたくわえて、しっかり守るべきだよ。敵は戦いたくてもできなくて、攻めようとしても攻めきれなくて、そうして自然にばらばらになるだろうね。その後で、精鋭の兵を選んで重要な場所をおさえて攻撃すれば、きっと打ち破れるよ」
でも、劉岱はこれに従わないで、戦いを挑んで、敵に殺されちゃった。
世語曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」鮑信等亦謂之然。
『世語』によると、劉岱が亡くなった後、陳宮は曹操にこう言ったよ。
「今、州には主がいなくなっちゃって、王朝の命令も行き届かなくなっているんだ。私は州の人たちを説得するから、あなたはすぐに来て牧(州の長官)になってよ。そしてこの地をもとにして天下をまとめれば、これは覇王となる大きな事業になるよ」
さらに陳宮は、別駕(補佐役)や治中に説得してこう言ったよ。
「今、天下はばらばらに分かれていて、この州には主がいないよ。でも、曹東郡(曹操)は時代にめぐまれたすぐれた人で、もし彼を迎えて州の牧にしたら、きっと民は安心して暮らせるようになるよ」
鮑信たちも同じように考えていたよ。
信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。遂進兵擊黃巾於壽張東。信力戰鬬死,僅而破之。(註40)
そこで鮑信は州の役人の万潜たちと一緒に東郡に行って、曹操を迎えて兗州牧(州の長官)を兼ねさせたよ。そして、軍を進めて寿張の東で黄巾を攻めたよ。鮑信は力を尽くして戦って亡くなったけど、なんとか敵を打ち破ったよ。
魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。賊尋前進。黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,衆乃復奮,承間討擊,賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太一同,似若知道,今更迷惑。漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。」太祖見檄書,呵之罪,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輙禽獲,賊乃退走。
『魏書』によると、曹操は歩兵と騎兵あわせて1,000人以上を率いて戦場の様子を見に行ったけど、偶然、敵の陣営にぶつかっちゃった。戦いはうまくいかなくて、数百人の将や兵が命を落としたから、引き返したよ。その後、敵はすぐに前進してきたんだ。
黄巾は長いあいだ戦い続けていて、何度も勝っていたから、兵はみんな強くて勇ましい人ばかりだよ。一方、曹操が率いる兵は、もともとの兵は少なくて、新しく集めた兵はまだ訓練が足りなかったから、軍はみんな怖がっていたの。そこで曹操はしっかり鎧を着てかぶとをかぶって、自分から兵たちを見回って、賞と罰をはっきり示して励ましたよ。だから、兵たちはふたたび勇気を出して、すきを見て攻撃をしかけて、敵はだんだん押されていったよ。
黄巾は曹操に手紙を送ってこう言ったよ。
「昔、あなたは済南で神の祭壇を壊したと聞いたよ。そのやり方は中黄太一(神の名)と同じで、道を知っているみたいだったけど、今は迷っているんだ。漢の運命はすでに尽きて、これからは黄の家が立つべきなんだ。天の大きな運命は、あなたの力ではどうすることもできないよ」
曹操はこの文を見て、敵を責めて、降伏する道を示したよ。そして、奇襲や伏兵を使って、昼も夜も戦い続けたんだ。戦うたびに敵を捕らえて、こうして敵は退いて逃げていったよ。
購求信喪不得,衆乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵。
鮑信の遺体を求めても手に入らなかったから、人々は木を削って鮑信の姿に似せたものを作って、それをまつって声をあげて泣いたよ。
その後、曹操は黄巾の軍を追って済北まで進んだよ。そこで黄巾の人たちは降伏を願い出たよ。
冬、30万人以上の兵が降伏してきて、男女合わせて100万人以上になったよ。曹操はその中から精鋭の兵を選んで、「青州兵」と名づけたよ。
