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正史『三国志』「蜀書劉焉伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「蜀書劉焉伝」をゆるゆる翻訳するよ!
劉(りゅう)焉(えん) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 蜀書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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益州へ行く

本文

劉焉字君郎,江夏竟陵人也,漢魯恭王之後裔,章帝元和中徙封竟陵,支庶家焉。焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。(註1)

劉(りゅう)焉(えん)は、字(あざな)は君(くん)郎(ろう)で、江(こう)夏(か)郡竟(けい)陵(りょう)県の出身で、漢(かん)の魯(ろ)恭(きょう)王(おう)(劉(りゅう)余(よ))の子孫だよ。章(しょう)帝(てい)の元(げん)和(わ)の年号の間(84~87年)、竟(けい)陵(りょう)へ領地を移されたから、その一族の分家はそこに住みついたんだって。
劉(りゅう)焉(えん)は若いころから州や郡に仕えて、皇室の一族だから中(ちゅう)郎(ろう)に任命されたよ。その後、師の祝(しゅく)公(こう)が亡くなったから、喪に服して役人を辞めたんだ。

(註1)

臣松之案:祝公,司徒祝恬也。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、祝(しゅく)公(こう)は司(し)徒(と)の祝(しゅく)恬(てん)のことだよ。

本文

居陽城山,積學教授,舉賢良方正,辟司徒府,歷雒陽令、兾州刺史、南陽太守、宗正、太常。焉覩靈帝政治衰缺,王室多故,乃建議言:「刺史、太守,貨賂為官,割剥百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」

劉(りゅう)焉(えん)は陽(よう)城(じょう)山(ざん)に住んで、たくさんの学問を身につけて、人々に教えたよ。賢良方正に推挙されて、司(し)徒(と)の役所に招かれたよ。その後、雒(らく)陽(よう)県(けん)令(れい)(県の長官)、冀(き)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)、南(なん)陽(よう)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)、宗(そう)正(せい)、太(たい)常(じょう)を歴任したんだ。劉(りゅう)焉(えん)は、霊(れい)帝(てい)の政治が衰えて、皇室では問題が次々と起きているのを見て、こう言ったよ。
「刺(し)史(し)(州の長官)や太(たい)守(しゅ)(郡の長官)は、お金や贈り物によって官職を手に入れているんだ。そして、民から厳しく税や財産を取り立てて苦しめているから、人々は朝廷から心が離れて、反乱を起こすようになっているよ。そこで、清らかな評判があって、人々から尊敬されている重要な臣下を選んで牧(ぼく)伯(はく)(州や郡の長官)に任命して、それぞれの地方をしっかり治めて、天下を安定させるべきだよ」

本文

焉內求交阯牧,欲避世難。議未即行,侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂,益州分野有天子氣。」焉聞扶言,意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾,(註2)謠言遠聞,而并州殺刺史張壹,涼州殺刺史耿鄙,焉謀得施。出為監軍使者,領益州牧,封陽城侯,當收儉治罪;(註3)(註4)

劉(りゅう)焉(えん)は心の中では交(こう)阯(し)牧(ぼく)(州の長官)になりたくて、世の中の大変なことから逃れたいと思っていたの。でも、この計画はまだ実行されていなかったんだ。そのころ、侍(じ)中(ちゅう)で広(こう)漢(かん)の出身の董(とう)扶(ふ)が、こっそりと劉(りゅう)焉(えん)にこう言ったよ。
「都はもうすぐ乱れるかも。益(えき)州では天子が現れる前ぶれがあるよ」
劉(りゅう)焉(えん)は董(とう)扶(ふ)の言葉を聞くと、益(えき)州へ行きたいという気持ちが強くなったんだ。
ちょうどそのころ、益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)の郤(げき)倹(けん)が、重い税や取り立てで人々を苦しめていたから、その悪いうわさは遠くまで広まっていたんだ。さらに并(へい)州では刺(し)史(し)の張(ちょう)壱(いつ)が殺されて、涼(りょう)州では刺(し)史(し)の耿(こう)鄙(ひ)も殺されたんだ。劉(りゅう)焉(えん)はこれをきっかけに、郤(げき)倹(けん)を討とうと考えるようになったんだ。劉(りゅう)焉(えん)は監(かん)軍(ぐん)使(し)者(しゃ)として赴任して、益(えき)州(しゅう)牧(ぼく)を兼ねて、さらに陽(よう)城(じょう)侯(こう)に封ぜられたよ。そして、郤(げき)倹(けん)を捕らえて、その罪を裁くように命令されたよ。

(註2)

儉,郤正祖也。

郤(げき)倹(けん)は郤(げき)正(せい)の先祖だよ。

(註3)

續漢書曰:是時用劉虞為幽州,劉焉為益州,劉表為荊州,賈琮為兾州。虞等皆海內清名之士,或從列卿尚書以選為牧伯,各以本秩居任。舊典:傳車參駕,施赤為帷裳。

『続(ぞく)漢(かん)書(じょ)』によると、このとき、劉(りゅう)虞(ぐ)は幽(ゆう)州(しゅう)刺(し)史(し)、劉(りゅう)焉(えん)は益(えき)州(しゅう)牧(ぼく)、劉(りゅう)表(ひょう)は荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)、賈(か)琮(そう)が冀(き)州(しゅう)刺(し)史(し)に任命されていたよ。劉(りゅう)虞(ぐ)たちは、みんな天下によく知られた評判の高い人だよ。ある者は九(きゅう)卿(けい)や尚(しょう)書(しょ)などの高い役職に就いていたけど、その中から州(しゅう)牧(ぼく)(州の長官)に選ばれて、それまでの身分のままで新しく赴任したよ。昔からの制度では、州(しゅう)牧(ぼく)が赴任するときには、駅馬車に3頭の馬をつないで、赤い布で飾られた車を使うことになっていたんだって。

(註3)

臣松之案:靈帝崩後,義軍起,孫堅殺荊州刺史王叡,然後劉表為荊州,不與焉同時也。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、霊(れい)帝(てい)が亡くなった後、各地で義のための兵があがって、孫(そん)堅(けん)が荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)の王(おう)叡(えい)を殺したんだ。その後、劉(りゅう)表(ひょう)が荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)になったよ。劉(りゅう)焉(えん)と同じ時期に任命されたわけではないよ。

王(おう)叡(えい)さんについては、「呉書破虜伝」を見てね。

(註4)

漢靈帝紀曰:帝引見焉,宣示方畧,加以賞賜,勑焉為益州刺史。前刺史劉儁、郤儉皆貪殘放濫,取受狼藉,元元無聊,呼嗟充野,焉到便收攝行法,以示萬姓,勿令漏露,使癰疽決潰,為國生梗。焉受命而行,以道路不通,住荊州東界。

『漢(かん)霊(れい)帝(てい)紀(き)』によると、霊(れい)帝(てい)は劉(りゅう)焉(えん)を呼んで会いって、これからどのように政治をするべきかを自ら説明したよ。さらに、たくさんの賞を与えて、劉(りゅう)焉(えん)に命令してこう言ったよ。
「あなたを益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)に任命するよ。これまでの益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)の劉(りゅう)儁(しゅん)や郤(げき)倹(けん)は、どちらも欲が深くて、残酷で、自分勝手な政治をしていたんだ。わいろや贈り物をたくさん受け取って、その悪事はすごくひどかったよ。だから、民は安心して暮らせなくて、嘆き悲しむ声が野原に満ちているんだ。劉(りゅう)焉(えん)が益(えき)州に着いたら、すぐに役人たちを取り締まって、法に従って処分して、そのことをすべての民に示してね。それに、その悪事を見逃してはならないよ。もし見逃せば、腫れ物が破れて膿が広がるみたいに、国に大きな害を残すことになっちゃうんだ」
劉(りゅう)焉(えん)はこの命令を受けて出発したよ。でも、戦乱で道が通れなくなっていたから、荊(けい)州の東の境まで来たところで足止めされたんだ。

本文

扶亦求為蜀郡西部屬國都尉,及太倉令會巴西趙韙去官,俱隨焉。(註5)

董(とう)扶(ふ)も、蜀(しょく)郡の西(せい)部(ぶ)属(ぞっ)国(こく)の都(と)尉(い)になりたいと願ったよ。太(たい)倉(そう)令(れい)で巴(は)西(せい)の出身の趙(ちょう)韙(い)も役人を辞めて、ふたりとも劉(りゅう)焉(えん)に従って益(えき)州へ向かったよ。

(註5)

陳壽益部耆舊傳曰:董扶字茂安。少從師學,兼通數經,善歐陽尚書,又事聘士楊厚,究極圖讖。遂至京師,游覽太學,還家講授,弟子自遠而至。永康元年,日有蝕之,詔舉賢良方正之士,策問得失。左馮翊趙謙等舉扶,扶以病不詣,遙於長安上封事,遂稱疾篤歸家。前後宰府十辟,公車三徵,再舉賢良方正、博士、有道皆不就,名稱尤重。

陳(ちん)寿(じゅ)の『益(えき)部(ぶ)耆(き)旧(きゅう)伝(でん)』によると、董(とう)扶(ふ)は、字(あざな)は茂(も)安(あん)だよ。董(とう)扶(ふ)は若いころから先生に学んで、いくつもの経書に詳しいよ。特に欧(おう)陽(よう)氏(し)の『尚(しょう)書(しょ)』をよく知っていて、学者の楊(よう)厚(こう)を師として図(と)讖(しん)(予言書)の学問を深く研究したよ。
その後、都の洛(らく)陽(よう)に行って、太学で学問を広く学んだよ。そして故郷へ帰ると、人々に学問を教えたため、遠くからもたくさんの弟子が集まってきたんだ。
永(えい)康(こう)元年(167年)、日食が起きたときに、皇帝は賢良方正の人を推薦するように命令して、政治の良い点や悪い点について意見を求めたよ。左(さ)馮(ひょう)翊(よく)の趙(ちょう)謙(けん)たちは董(とう)扶(ふ)を推挙したよ。でも、董(とう)扶(ふ)は病気を理由に都へ行かないで、長(ちょう)安(あん)へ上奏を送っただけで、「病気が重い」として故郷へ帰っちゃった。
その後も三(さん)公(こう)の役所から合わせて10回も招かれて、3回も朝廷から正式に招かれたよ。それに、賢良方正、博(はく)士(し)、有(ゆう)道(どう)の人として二度推挙されたけど、どれも役職に就かなかったんだ。だから、董(とう)扶(ふ)の名声はますます高くなったよ。

(註5)

大將軍何進表薦扶曰:「資游、夏之德,述孔氏之風,內懷焦、董消復之術。方今并、涼騷擾,西戎蠢叛,宜勑公車特召,待以異禮,諮謀奇策。」

大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の何(か)進(しん)は、董(とう)扶(ふ)を推薦して、上表してこう言ったよ。
「董(とう)扶(ふ)は、子(し)游(ゆう)や子(し)夏(か)みたいな立派な徳を持っていて、孔(こう)子(し)の教えを受け継いでいるよ。さらに、その心には焦(しょう)延(えん)寿(じゅ)や董(とう)仲(ちゅう)舒(じょ)みたいに、国の災いを防いで、世の中を立て直す学問を深く身につけているよ。今は、并(へい)州や涼(りょう)州が混乱していて、西の異民族も反乱を起こしちゃった。だから、公車を送って董(とう)扶(ふ)を都へ呼んで、特別な礼で迎えて、そのすぐれた考えやすばらしい策について意見を求めるべきだよ」

(註5)

於是靈帝徵扶,即拜侍中。在朝稱為儒宗,甚見器重。求為蜀郡屬國都尉。扶出一歲而靈帝崩,天下大亂。後去官,年八十二卒于家。始扶發辭抗論,益部少雙,故號曰致止,言人莫能當,所至而談止也。後丞相諸葛亮問秦宓以扶所長,宓曰:「董扶襃秋毫之善,貶纖芥之惡。」

そこで霊(れい)帝(てい)は董(とう)扶(ふ)を都へ呼び出して、すぐに侍(じ)中(ちゅう)に任命したよ。董(とう)扶(ふ)は朝廷では儒学者の第一人者として知られて、とても高く評価されて、大切にされたよ。
その後、董(とう)扶(ふ)は自ら願い出て、蜀(しょく)郡(ぐん)属(ぞっ)国(こく)の都(と)尉(い)となったよ。でも、董(とう)扶(ふ)が都を離れてから1年後に霊(れい)帝(てい)が亡くなって、天下は大きく乱れたんだ。その後、董(とう)扶(ふ)は役人を辞めて、82歳で自宅で亡くなったんだ。
董(とう)扶(ふ)は若いころから、自分の考えを堂々と言って、相手に遠慮しないで議論することが得意だよ。そのような人は益(えき)州ではほとんどいなくて、だから「致(ち)止(し)」と呼ばれたんだって。董(とう)扶(ふ)が話し始めると、誰も言い返せなくて、その場の議論が止まってしまうからだよ。
その後、丞(じょう)相(しょう)の諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)は、秦(しん)宓(みつ)に「董(とう)扶(ふ)は、どのような点がすぐれていたの?」と尋ねたよ。秦(しん)宓(みつ)はこう答えたよ。
「董(とう)扶(ふ)は、人のほんの少しの良いところでもしっかりほめて、反対に、ほんのわずかな悪いところでも見逃さないで戒める人だよ」

細かいことまで気にかけて、小さな問題にも気を配って、その能力が高く評価されていたという意味だよ。

黄巾の討伐

本文

是時梁州逆賊馬相、趙祗等於緜竹縣自號黃巾,合聚疲役之民,一二日中得數千人,先殺緜竹令李升,吏民翕集合萬餘人,便前破雒縣,攻益州殺儉,又到蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。

このとき、梁(りょう)州の反乱者の馬(ば)相(しょう)や趙(ちょう)祗(し)たちは、緜(めん)竹(ちく)で自分たちを「黄(こう)巾(きん)」と名乗ったよ。そして、苦しい仕事や重い負担に苦しんでいた人たちを集めると、たった1、2日のうちに数千人が集まったんだ。
彼らはまず、緜(めん)竹(ちく)県(けん)令(れい)(県の長官)の李(り)升(しょう)を殺したんだ。すると、役人や民も次々に加わって、その人数は1万人を超えたんだ。その勢いで雒(らく)県を攻め落として、さらに益(えき)州で、刺(し)史(し)(州の長官)の郤(げき)倹(けん)を殺したんだ。その後も蜀(しょく)郡や犍(けん)為(い)にまで進んで、わずか10日から1ヶ月くらいのあいだに、3つの郡を次々と攻め滅ぼしたよ。

本文

相自稱天子,衆以萬數。州從事賈龍素領兵數百人在犍為東界,攝斂吏民,得千餘人,攻相等,數日破走,州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治緜竹,撫納離叛,務行寬惠,陰圖異計。

馬(ば)相(しょう)は自分を天子と名乗って、その部下は数万人にまで増えていたんだ。
一方、益(えき)州の従(じゅう)事(じ)の賈(か)龍(りゅう)は、もともと数百人の兵を率いて、犍(けん)為(い)郡の東の境を守っていたよ。賈(か)龍(りゅう)は役人や民を集めて、1,000人以上の兵を集めると、馬(ば)相(しょう)たちを攻めたよ。そして、数日の戦いでこれを打ち破って、馬(ば)相(しょう)たちは逃げたから、益(えき)州の地域はふたたび平和になったよ。
その後、賈(か)龍(りゅう)は役人や兵を選んで、劉(りゅう)焉(えん)を迎えに行ったんだ。劉(りゅう)焉(えん)は緜(めん)竹(ちく)で政治をして、離れようとしていた人たちを受け入れて安心させて、人々には思いやりのある政治をするように努めたよ。
でも、こっそりと普通とは違う大きな計画を進めていたんだ。

本文

張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。(註6)

張(ちょう)魯(ろ)の母は、もともと鬼道の信仰をしていたんだ。それに、若々しくて美しい見た目で、いつも劉(りゅう)焉(えん)の家へ出入りしていたよ。だから、劉(りゅう)焉(えん)は張(ちょう)魯(ろ)を督(とく)義(ぎ)司(し)馬(ば)に任命して、漢(かん)中(ちゅう)に住まわせたよ。張(ちょう)魯(ろ)は、漢(かん)中(ちゅう)へ通じる谷や関所をふさいで交通を断って、朝廷から送られた使者を殺したんだ。
でも、劉(りゅう)焉(えん)は朝廷へ上表して、「米賊が道をふさいでいるから、連絡を取れないよ」と報告したんだ。さらに、劉(りゅう)焉(えん)は別の理由を口実として、州内で大きな力を持っていた王(おう)咸(かん)、李(り)権(けん)たち十数人を殺して、自分の威と法の厳しさを示したよ。

(註6)

益部耆舊雜記曰:李權字伯豫,為臨邛長。子福。見犍為楊戲輔臣贊。

『益部耆旧雑記(えきぶききゅうざっき)』によると、李(り)権(けん)は、字(あざな)は伯(はく)予(よ)で、臨(りん)邛(きょう)県(けん)長(ちょう)(県の長官)になったよ。その子の李(り)福(ふく)は、犍(けん)為(い)の出身の楊(よう)戯(ぎ)の書いた『輔(ほ)臣(しん)賛(さん)』に書かれているよ。

本文

為太守任岐及賈龍由此反攻焉,焉擊殺岐、龍。(註7)

犍(けん)為(い)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の任(じん)岐(き)と賈(か)龍(りゅう)は、このことがきっかけで劉(りゅう)焉(えん)に反抗たよ。二人は兵をあげて劉(りゅう)焉(えん)を攻めたけど、劉(りゅう)焉(えん)はこれを打ち破って、任(じん)岐(き)と賈(か)龍(りゅう)を討ち取ったよ。

(註7)

英雄記曰:劉焉起兵,不與天下討董卓,保州自守。犍為太守任岐自稱將軍,與從事陳超舉兵擊焉,焉擊破之。董卓使司徒趙謙將兵向州,說校尉賈龍,使引兵還擊焉,焉出青羌與戰,故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、劉(りゅう)焉(えん)は兵をあげたけど、天下の諸侯と一緒に董(とう)卓(たく)を討つ戦いには参加しないで、益(えき)州を守ることだけに力を注いだよ。一方、犍(けん)為(い)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の任(じん)岐(き)は自らを将軍と名乗って、従(じゅう)事(じ)の陳(ちん)超(ちょう)と一緒に兵をあげて劉焉を攻めたよ。でも、劉(りゅう)焉(えん)はこれを打ち破ったよ。
董(とう)卓(たく)は司(し)徒(と)の趙(ちょう)謙(けん)に軍を率いさせて益(えき)州へ向かわせたよ。趙(ちょう)謙(けん)は校(こう)尉(い)の賈(か)龍(りゅう)を説得して、軍を率いて引き返して、劉(りゅう)焉(えん)を攻めるように勧めたよ。でも、劉(りゅう)焉(えん)は青(せい)羌(きょう)の兵を出して戦わせて、賈(か)龍(りゅう)たちを打ち破って、討ち取ることができたんだ。
任(じん)岐(き)と賈(か)龍(りゅう)たちはみんな蜀(しょく)郡の出身だよ。

朝廷が任命した太(たい)守(しゅ)を殺すのは朝廷に対する反抗とみなされてもおかしくないよね。

益州を栄えさせる

本文

焉意漸盛,造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。時焉子範為左中郎將,誕治書御史,璋為奉車都尉,皆從獻帝在長安,(註8)惟小子別部司馬瑁素隨焉。獻帝使璋曉諭焉,焉留璋不遣。(註9)

劉(りゅう)焉(えん)はどんどん大きな野心を抱くようになって、天子だけが使うことのできる乗り物や道具を、1,000組以上も作らせたんだ。荊(けい)州(しゅう)牧(ぼく)(州の長官)の劉(りゅう)表(ひょう)は皇帝に、「劉(りゅう)焉(えん)の行いは、昔、子(し)夏(か)が西(せい)河(が)で孔(こう)子(し)の教えに疑いを持ったようなもので、朝廷にそむく気持ちがあるように見えるよ」と朝廷へ上表したんだ。
このとき、劉(りゅう)焉(えん)の子の劉(りゅう)範(はん)は左(さ)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)、劉(りゅう)誕(たん)は治(ち)書(しょ)御(ぎょ)史(し)、劉(りゅう)璋(しょう)は奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)として、三人とも献(けん)帝(てい)とともに長(ちょう)安(あん)にいたよ。でも、三番目の子の劉(りゅう)瑁(ぼう)だけは別(べつ)部(ぶ)司(し)馬(ば)として、劉(りゅう)焉(えん)のそばに従っていたんだ。献(けん)帝(てい)は劉(りゅう)璋(しょう)を使者として送って、劉(りゅう)焉(えん)を説得しようとしたよ。でも、劉(りゅう)焉(えん)は劉(りゅう)璋(しょう)を益(えき)州にとどめて、長(ちょう)安(あん)へ帰さなかったんだ。

孔(こう)子(し)が亡くなった後、子(し)夏(か)が西(せい)河(が)に行って教えを広めたんだ。けど、子(し)夏(か)は孔(こう)子(し)の教えを自分の手柄のように伝えて、西(せい)河(が)では子(し)夏(か)が孔(こう)子(し)だと思われていたみたい。つまり、劉(りゅう)表(ひょう)さんが皇帝に伝えたのは「劉(りゅう)焉(えん)さんが漢(かん)の王朝に取って代わろうとしているかも」ということ。

(註8)

英雄記曰:範父焉為益州牧,董卓所徵發,皆不至。收範兄弟三人,鏁械於郿塢,為陰獄以繫之。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、劉(りゅう)範(はん)の父の劉(りゅう)焉(えん)は益(えき)州(しゅう)牧(ぼく)(州の長官)だったけど、董(とう)卓(たく)が兵や物資を出すように命令しても、何も送らなかったよ。だから、董(とう)卓(たく)は劉(りゅう)範(はん)たち兄弟三人を捕らえて、郿(び)塢(う)に閉じ込めたんだ。三人は鎖と足かせを付けられて、人目につかない牢屋に入れられて監禁されたんだ。

(註9)

典略曰:時璋為奉車都尉,在京師。焉託疾召璋,璋自表省焉,焉遂留璋不還。

『典(てん)略(りゃく)』によると、このとき劉(りゅう)璋(しょう)は奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)として都にいたよ。劉(りゅう)焉(えん)は病気を理由にして劉(りゅう)璋(しょう)を呼び寄せたよ。劉(りゅう)璋(しょう)は自分から上表して劉(りゅう)焉(えん)を見舞いに行ったよ。でも、劉(りゅう)焉(えん)は劉(りゅう)璋(しょう)をそのまま益(えき)州にとどめて、都へ帰さなかったんだ。

本文

時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。範謀泄,奔槐里,騰敗,退還涼州,範應時見殺,於是收誕行刑。(註10)

このとき、征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の馬(ば)騰(とう)は郿(び)に陣を置いていたけど、反乱を起こしたんだ。劉(りゅう)焉(えん)と、その子の劉(りゅう)範(はん)は馬(ば)騰(とう)とこっそりと手を結んで、兵を率いて長(ちょう)安(あん)を襲おうとしたんだ。でも、計画が知られちゃった。劉(りゅう)範(はん)は槐(かい)里(り)に逃げたよ。馬(ば)騰(とう)は戦いに敗れて、涼(りょう)州に退いたんだ。劉(りゅう)範(はん)はそのとき捕らえられて殺されて、劉(りゅう)誕(たん)も捕らえられて処刑されたよ。

(註10)

英雄記曰:範從長安亡之馬騰營,從焉求兵。焉使校尉孫肇將兵往助之,敗於長安。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、劉(りゅう)範(はん)は長(ちょう)安(あん)から逃げ出して馬(ば)騰(とう)の陣営へ行って、劉(りゅう)焉(えん)に兵を送ってくれるように求めたよ。そこで劉(りゅう)焉(えん)は校(こう)尉(い)の孫(そん)肇(ちょう)に兵を率いさせて援軍として向かわせたよ。でも、長(ちょう)安(あん)で敗れたんだ。

本文

議郎河南龐羲與焉通家,乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城,車具蕩盡,延及民家。焉徙治成都,旣痛其子,又感祅灾,興平元年,癕疽發背而卒。

議(ぎ)郎(ろう)で河(か)南(なん)の出身の龐(ほう)羲(ぎ)は、劉(りゅう)焉(えん)と代々親しい付き合いのある家だよ。そこで龐(ほう)羲(ぎ)は人を集めて、劉(りゅう)焉(えん)の孫たちを蜀(しょく)へ連れて行ったんだ。
このとき、劉(りゅう)焉(えん)の城は火事になって、天子だけが使う乗り物や道具はすべて焼けて、その火は民の家にも燃え広がっちゃった。劉(りゅう)焉(えん)は役所を成(せい)都(と)へ移したよ。さらに、子の劉(りゅう)範(はん)と劉(りゅう)誕(たん)を失った悲しみもあって、この不吉な災いにも心を痛めたの。
興(こう)平(へい)元年(194年)、劉(りゅう)焉(えん)は背中にできた重い腫れ物が悪化して、亡くなったんだ。

本文

州大吏趙韙等貪璋溫仁,共上璋為益州刺史,詔書因以為監軍使者,領益州牧,以韙為征東中郎將,率衆擊劉表。(註11)

州の役人の趙(ちょう)韙(い)たちは、劉(りゅう)璋(しょう)の穏やかで思いやりのある人柄を好んで、劉(りゅう)璋(しょう)を益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)任命するように上表したよ。朝廷はその願いを受け入れて、詔書によって劉(りゅう)璋(しょう)を監(かん)軍(ぐん)使(し)者(しゃ)にして、益(えき)州(しゅう)牧(ぼく)を兼ねさせたよ。それに、趙(ちょう)韙(い)を征(せい)東(とう)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)に任命して、兵を率いて劉(りゅう)表(ひょう)を攻めるように命令したんだ。

(註11)

英雄記曰:焉死,子璋代為刺史。會長安拜潁川扈瑁為刺史,入漢中。荊州別駕劉闔,璋將沈彌、婁發、甘寧反,擊璋不勝,走入荊州。璋使趙韙進攻荊州,屯朐䏰。上蠢,下如振反。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、劉(りゅう)焉(えん)が亡くなると、その子の劉(りゅう)璋(しょう)が後を継いで、益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)になったよ。そのころ、長(ちょう)安(あん)では、潁(えい)川(せん)の出身の扈(こ)瑁(ぼう)が益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)に任命されて、漢(かん)中(ちゅう)までやってきたよ。荊(けい)州の別(べつ)駕(が)の劉(りゅう)闔(こう)は、劉(りゅう)璋(しょう)の将の沈(しん)弥(び)、婁(ろう)発(はつ)、甘(かん)寧(ねい)と一緒に反乱を起こして、劉(りゅう)璋(しょう)を攻めたよ。でも、敗れたから、荊(けい)州に逃げ込んだよ。そこで劉(りゅう)璋(しょう)は、趙(ちょう)韙(い)に荊(けい)州を攻撃させて、趙(ちょう)韙(い)は朐(く)䏰(じゅん)にとどまったんだ。上は落ち着かなくて、下は反乱が起こっていたんだね。

さりげなく登場する甘(かん)寧(ねい)さん。彼については「呉書甘寧伝」を見てね。

陳寿の評

「蜀書劉璋伝」に書いたよ。

「蜀書劉焉伝」は以上だよ!