正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ! その2

正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書諸葛亮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(しょ)(かつ)(りょう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

長いから記事を分けたよ。この記事は、北伐から最後までだよ。

出典

三國志 : 蜀書五 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

北伐へ

本文

六年春,揚聲由斜谷道取郿,使趙雲、鄧芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真舉衆拒之。亮身率諸軍攻祁山,戎陣整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。(註18)

建興六年(228年)、春、(しょ)(かつ)(りょう)()(こく)(どう)を通って()を取るといううわさを流して、(ちょう)(うん)(とう)()を偽りの兵として()(こく)に置いたよ。()(たい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)は軍を挙げてこれに対抗したよ。(しょ)(かつ)(りょう)は自ら軍を率いて()(ざん)を攻めたよ。軍は整っていて、賞罰は厳格で号令は明確だったんだ。(なん)(あん)(てん)(すい)(あん)(てい)の3つの郡が()に背いて(しょ)(かつ)(りょう)に応じたから、(かん)(ちゅう)が驚いたんだ。

偽りの兵を出して(そう)(しん)さんを誘い出す奇策。

(註18)

魏略曰:始,國家以蜀中惟有劉備。備旣死,數歲寂然無聞,是以略無備預;而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。

()(りゃく)』によると、もともと()は、(しょく)には(りゅう)()がいるだけだと考えていたんだって。(りゅう)()が亡くなってから数年間、何の動きもなかったから、特に備えをしなかったんだ。でも、(しょ)(かつ)(りょう)が出陣したという知らせが届くと、朝廷から庶民まで恐怖に包まれて、特に(ろう)(ゆう)()(ざん)はすごく恐れたんだ。こうして、(なん)(あん)(てん)(すい)(あん)(てい)の3つの郡が同時に(しょ)(かつ)(りょう)に応じたんだよ。

街亭の戦い

本文

魏明帝西鎮長安,命張郃拒亮,亮使馬謖督諸軍在前,與郃戰于街亭。謖違亮節度,舉動失宜,大為郃所破。亮拔西縣千餘家,還于漢中,(註19)戮謖以謝衆。

(そう)(えい)は西へ(ちょう)(あん)を落ち着かせて、(ちょう)(こう)(しょ)(かつ)(りょう)を防ぐように命令したよ。(しょ)(かつ)(りょう)()(しょく)を軍の督(司令官)として前線に置いて、(ちょう)(こう)(がい)(てい)で戦わせたよ。でも、()(しょく)(しょ)(かつ)(りょう)の指示を守らなくて、適切な行動を取らなかったから、(ちょう)(こう)に破られちゃった。(しょ)(かつ)(りょう)西(せい)県の1,000以上の家を攻め取って、(かん)(ちゅう)に戻って、()(しょく)を処刑して軍を慰めたんだ。

「泣いて()(しょく)を斬る」だよ。

本文

上疏曰:「臣以弱才,叨竊非據,親秉旄鉞以厲三軍,不能訓章明法,臨事而懼,至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失,咎皆在臣授任無方。臣明不知人,恤事多闇,春秋責帥,臣職是當。請自貶三等,以督厥咎。」於是以亮為右將軍,行丞相事,所總統如前。(註20)

(しょ)(かつ)(りょう)は上書してこう言ったよ。
「私は才能が乏しいのにふさわしくない高い地位をいただいて、(ぼう)(えつ)(軍権)を執って大軍を率いて戦に臨んだけど、法を明らかにして規律を教えることができなくて、事態に直面してはいつも恐れて、(がい)(てい)では命令に違反する過ちを犯して、()(こく)では油断して敗れるという失態を招いちゃったんだ。これはすべて私の任命が方針を誤ったことにあるよ。私は人を見る目がなくて、明晰さを欠いていたんだ。『(しゅん)(じゅう)』では指揮官を責めるとされているから、この責任は私が負うべきだよ。だから、私の責任を追及するために、私の官位を三等降格することを願い出るよ」
そして朝廷は(しょ)(かつ)(りょう)()(しょう)(ぐん)として、今までどおり(じょう)(しょう)の職務をさせて、全体の統率も前と同じようにしていたよ。

(註19)

郭沖四事曰:亮出祁山,隴西、南安二郡應時降,圍天水,拔兾城,虜姜維,驅略士女數千人還蜀。人皆賀亮,亮顏色愀然有戚容,謝曰:「普天之下,莫非漢民,國家威力未舉,使百姓困於犲狼之吻。一夫有死,皆亮之罪,以此相賀,能不為愧。」於是蜀人咸知亮有吞魏之志,非惟拓境而已。

(かく)(ちゅう)の言った4つ目によると、(しょ)(かつ)(りょう)()(ざん)に出陣すると、(ろう)西(せい)(なん)(あん)の2つの郡がすぐに降伏して、(てん)(すい)を包囲して()(じょう)を攻略して、(きょう)()を捕虜にして、数千人の男女を(しょく)に連れ帰ったんだ。人々はみんな(しょ)(かつ)(りょう)を祝ったけど、(しょ)(かつ)(りょう)の顔色は曇って、悲しそうな表情でこう答えたよ。
「天下の人たちはみんな(かん)の民で、国家の威力がまだ行き届かなくて、民は虎狼(())に苦しめられているんだ。1人でも命を落としたなら、それはすべて私の罪なの。そんなことを祝ってどうして恥ずかしく思わないの?」
こうして(しょく)の人たちは、(しょ)(かつ)(りょう)()を滅ぼそうとする大きな志を抱いていることを知って、単に領土を拡げるためではないことを理解したよ。

(註19)

難曰:亮有吞魏之志乆矣,不始於此衆人方知也,且于時師出無成,傷缺而反者衆,三郡歸降而不能有。姜維,天水之匹夫耳,獲之則於魏何損?拔西縣千家,不補街亭所喪,以何為功,而蜀人相賀乎?

反論すると、(しょ)(かつ)(りょう)()を滅ぼす志を抱いていたことはずっと前からで、この時に初めて知られたわけではないよ。それに、この時の軍の出撃は成果を上げられなくて、たくさんの兵が傷ついて、帰ったんだ。3つの郡が降伏しても領有していないし、(きょう)()(てん)(すい)のひとりの男に過ぎなくて、彼を捕らえても()にとって何の損失もなかったんだ。西(せい)県の1,000の家を奪ったことも(がい)(てい)での喪失を補うものではなくて、その何が功績となって(しょく)の人たちが祝うの?

(註20)

漢晉春秋曰:或勸亮更發兵者,亮曰:「大軍在祁山、箕谷,皆多於賊,而不能破賊為賊所破者,則此病不在兵少也,在一人耳。今欲減兵省將,明罰思過,校變通之道於將來;若不能然者,雖兵多何益!自今已後,諸有忠慮於國,但勤攻吾之闕,則事可定,賊可死,功可蹻足而待矣。」於是考微勞,甄烈壯,引咎責躬,布所失於天下,厲兵講武,以為後圖,戎士簡練,民忘其敗矣。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、ある人が(しょ)(かつ)(りょう)にさらに兵を動かすように勧めたけど、(しょ)(かつ)(りょう)はこう言ったよ。
「大軍は()(ざん)()(こく)にいて、どれも敵よりもたくさんいるのに敵を破れなくて、逆に敵に破られたのは、兵が少ないせいではなくて、原因はただひとりに問題があるからなんだ。今は兵を減らして将を省いて、罰を明らかにして過ちを反省して、今後のために変化に応じる道を学ばなきゃいけないよ。もしそれができなかったら、いくら兵がたくさんいても何の役に立つの! これから先、国に忠を尽くす者は、ただ私の欠点を責めてね。そうすれば物事は定まって、敵は討たれて、功績はすぐに現れるだろうから」
そこで、(しょ)(かつ)(りょう)は小さな功績も正しく評価して、勇敢さや忠節を表彰して、自分の過ちを認めて責任を引き受けて、自分の失敗を天下に示したよ。そして、兵を厳しく訓練して、武芸を講じて、次の計画に備えたよ。こうして、兵たちは鍛えられて、民も敗北を忘れるようになったよ。

(註20)

亮聞孫權破曹休,魏兵東下,關中虛弱。十一月,上言曰:「先帝慮漢賊不兩立,王業不偏安,故託臣以討賊也。以先帝之明,量臣之才,故知臣伐賊才弱敵彊也;然不伐賊,王業亦亡,惟坐待亡,孰與伐之?是故託臣而弗疑也。臣受命之日,寢不安席,食不甘味,思惟北征,宜先入南,故五月渡瀘,深入不毛,并日而食。臣非不自惜也,顧王業不得偏全於蜀都,故冒危難以奉先帝之遺意也,而議者謂為非計。今賊適疲於西,又務於東,兵法乘勞,此進趨之時也。

(しょ)(かつ)(りょう)は、(そん)(けん)(そう)(きゅう)を破って、()の兵が東に行って、関中(かんちゅう)が手薄になっていると聞いたよ。
十一月、(しょ)(かつ)(りょう)は上奏してこう言ったよ。
「先帝((りゅう)())は(かん)と敵(())が共存できなくて、王業は1つの地域に安住してはならないと考えて、私に敵を討つように託したんだ。彼の明察のおかげで、私の才能と賊の強さをよく量ったうえで、私が討伐に向いていなくて敵が強いことも知っていたはず。それでも敵を討たなかったら、王業は滅びるから、ただ黙って滅亡を待つのと、戦って滅びるのと、どちらが良いの? だから、私に託して疑わなかったの。
私が命令を受けた日から、寝ても安心できないし、食事もおいしく感じないんだ。ただ北へ軍を進めることを思って、まず南を平定すべきと考えて、五月に()(すい)を渡って、未開の地に深く入って、日に1度しか食べないで進軍したよ。私が自分を惜しまなかったわけではないけど、王業が(しょく)の都だけに偏っていれは守られないと考えて、危険を冒してでも先帝の遺志を守ったの。それなのに、議論する人たちはこれを無謀な策だと非難するんだ。
今、敵は西で疲れ果てて、さらに東でも忙しくしているから、兵法に『敵が疲れたときに攻める』とあるように、これこそが進軍すべき時だよね。

(註20)

謹陳其事如左:高帝明並日月,謀臣淵深,然涉險被創,危然後安。今陛下未及高帝,謀臣不如良、平,而欲以長計取勝,坐定天下,此臣之未解一也。劉繇、王朗各據州郡,論安言計,動引聖人,羣疑滿腹,衆難塞胷,今歲不戰,明年不征,使孫策坐大,遂并江東,此臣之未解二也。

謹んで事情をこう述べるよ。
(こう)(てい)(りゅう)(ほう))はその英明さは日や月みたいに輝いて、策士も深く考えて計画を立てていたけど、それでも危険を冒して傷を負って、苦しみを経てはじめて安定を得たんだよね。今、陛下((りゅう)(ぜん))はまだ高帝には及ばなくて、策士も(ちょう)(りょう)(ちん)(ぺい)ほどではないのに、長期的な計画で勝利して、安穏のうちに天下を平定しようとするのは、私には理解できない1つ目だよ。
(りゅう)(よう)(おう)(ろう)はそれぞれ州や郡を拠点して、平和について話して、聖人の教えを引き合いに出しながら計画を立てたよ。でも疑いばかりで、難題に満ちた状態だったんだ。この年には戦わなくて、次の年も征伐しなかったから、(そん)(さく)はその間に勢力を大きくして、そのまま(こう)(とう)をまとめたんだ。これが私には理解できない2つ目だよ。

(註20)

曹操智計殊絕於人,其用兵也,髣髴孫、吳,然困於南陽,險於烏巢,危於祁連,偪於黎陽,幾敗伯山,殆死潼關,然後偽定一時耳,況臣才弱,而欲以不危而定之,此臣之未解三也。曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,任用李服而李服圖之,委夏侯而夏侯敗亡,先帝每稱操為能,猶有此失,況臣駑下,何能必勝?此臣之未解四也。

(そう)(そう)は人並外れた知略を持っていて、兵の使い方も(そん)()()()に並ぶくらいだけど、(なん)(よう)で苦しんで((えん)(じょう)の戦い)、()(そう)で危機に陥って((かん)()の戦い)、()(れん)で危うくて((えん)(しょう)との戦い?)、(れい)(よう)で窮地に追い込まれて((えん)(たん)との戦い?)、北の山で敗北寸前になって、(どう)(かん)で死にかけたんだ((どう)(かん)の戦い)。そしてようやく一時の安定を得たにすぎないよ。ましてや私のように才が乏しい者が、危機もなくして天下を定めようとするなんて。これが私には理解できない3つ目だよ。
(そう)(そう)(しょう)()(しょう)())を5回も攻めても失敗して、(そう)()を4回越えようとして成し遂げられなくて、()(ふく)(おう)()(ふく))を使えば裏切られて、()(こう)に委ねれば敗れて亡くなったんだ。先帝((りゅう)())はいつも(そう)(そう)の能力をほめたたえていたけど、それでもこのような失敗があったんだよ。ましてや私のような能力が劣っている者が、どうして必ず勝てると言えるの? これが私には理解できない4つ目だよ。

(註20)

自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,突將無前。賨、叟、青羌散騎、武騎一千餘人,此皆數十年之內所糾合四方之精銳,非一州之所有,若復數年,則損三分之二也,當何以圖敵?此臣之未解五也。今民窮兵疲,而事不可息,事不可息,則住與行勞費正等,而不及虛圖之,欲以一州之地與賊持乆,此臣之未解六也。

私が漢中に着いてからすでに1年が経ったけど、(ちょう)(うん)(よう)(ぐん)()(ぎょく)(えん)()(てい)(りつ)(はく)寿(じゅ)(りゅう)(こう)(とう)(どう)たちを失って、それに部隊の長や駐屯する将たち70人以上が戦死したんだ。突撃して敵を恐れない精鋭の騎兵、(そう)族、(そう)族、(せい)(きょう)族の騎兵や武騎1,000以上も、彼らはみんな、数十年をかけて四方から集めた精鋭で、1つの州の力で得られるものではないよ。これがもしあと数年続くなら、3分の2を失うだろうね。そうなった場合、どうやって敵に対抗するの? これが私には理解できない5つ目だよ。
今、民は疲れてて兵も消耗しているけど、事態は休めるなくて、もし休めないのであれば、駐留しても出征しても労力や費用は同じくらいかかって、むなしい計画を描いても実現が難しいの。1つの州の地で敵と長く対抗し続けようとするのは無理があるよ。私が理解できない6つ目だよ。

(註20)

夫難平者,事也。昔先帝敗軍於楚,當此時,曹操拊手,謂天下以定。然後先帝東連吳、越,西取巴、蜀,舉兵北征,夏侯授首,此操之失計而漢事將成也。然後吳更違盟,關羽毀敗,秭歸蹉跌,曹丕稱帝。凡事如是,難可逆見。臣鞠躬盡力,死而後已,至於成敗利鈍,非臣之明所能逆覩也。」於是有散關之役。此表,亮集所無,出張儼默記。

そもそも困難なのは情勢のほうだよ。昔、先帝((りゅう)())が()で敗れると、(そう)(そう)は手を叩いて喜んで、これで天下は定まったと思っていたんだって。でもその後、先帝は東に()(えつ)と連携して、西に()(しょく)を取って、兵を挙げて北へ軍を進めて、()(こう)(えん)の首を斬ったよ。これは(そう)(そう)の計画の失敗で、(かん)の王朝が成し遂げられようとする兆しだったの。でもその後、()は盟約を破って、(かん)()が敗れて命を落として、()()で失敗して、とうとう(そう)()が皇帝になったんだ。情勢とはこんな風に、予測するのが難しいし、思いどおりにはならないものなの。私はただ、身を低くして力を尽くして、命ある限りがんばって全うするつもりだよ。でも、成功と失敗、利益や損失、鋭さや鈍さについては、私の知恵ではあらかじめ見通せないんだ」
こうして、(さん)(かん)の戦いが起こったんだ。
この表は、『(しょ)(かつ)(りょう)(しゅう)』にはなくて、(ちょう)(げん)の『(もく)()』に記されているよ。

陳倉の戦い

本文

冬,亮復出散關,圍陳倉,曹真拒之,亮糧盡而還。魏將王雙率騎追亮,亮與戰,破之,斬雙。七年,亮遣陳戒攻武都、陰平。魏雍州刺史郭淮率衆欲擊戒,亮自出至建威,淮退還,遂平二郡。詔策亮曰:「街亭之役,咎由馬謖,而君引愆,深自貶抑,重違君意,聽順所守。前年耀師,馘斬王雙;今歲爰征,郭淮遁走;降集氐、羌,興復二郡,威鎮凶暴,功勳顯然。方今天下騷擾,元惡未梟,君受大任,幹國之重,而乆自挹損,非所以光揚洪烈矣。今復君丞相,君其勿辭。」(註21)

冬、(しょ)(かつ)(りょう)はふたたび(さん)(かん)を出て、(ちん)(そう)を包囲したよ。(そう)(しん)がこれを防いで、(しょ)(かつ)(りょう)は食糧が尽きて引き返したんだ。()の将の(おう)(そう)が騎兵を率いて(しょ)(かつ)(りょう)を追撃したけど、(しょ)(かつ)(りょう)は彼らと戦って破って、(おう)(そう)を討ち取ったよ。
建興七年(229年)、(しょ)(かつ)(りょう)(ちん)(かい)()()(いん)(ぺい)を攻めさせたよ。()(よう)(しゅう)()()(かく)(わい)が兵を率いてこれを撃とうとしたけど、(しょ)(かつ)(りょう)が自ら(けん)()に出ると、(かく)(わい)は退却したよ。こうして2つの郡を平定したよ。
(りゅう)(ぜん)は詔を下して(しょ)(かつ)(りょう)をたたえてこう言ったよ。
(がい)(てい)の戦いは、()(しょく)の過ちによるものだったけど、あなたは自ら過ちの責任を引き受けて、深く身をへりくだって、自分を責めたんだ。その心は尊くて、守るに値するものだったね。前の年には軍を出して(おう)(そう)を討ち取って、今年も(かく)(わい)を退けたよ。(てい)族や(きょう)族が降伏して、2つの郡を復興させて、凶暴な者たちを鎮圧した功績は明らかだよ。今、天下はまだ混乱していて、元凶はまだ討たれていないんだ。あなたは大きな任務を受けて、国家の重い責任を担っているのに、長らく自らを低くして、身を引いていたよね。それは、あなたの大きな功績を輝かせるものとは言えないんだ。今、ふたたびあなたを(じょう)(しょう)に任命するよ。どうか辞退しないでね」

(註21)

漢晉春秋曰:是歲,孫權稱尊號,其羣臣以並尊二帝來告。議者咸以為交之无益,而名體弗順,宜顯明正義,絕其盟好。亮曰:「權有僭逆之心乆矣,國家所以略其釁情者,求掎角之援也。今若加顯絕,讎我必深,便當移兵東戍,與之角力,須并其土,乃議中原。彼賢才尚多,將相緝穆,未可一朝定也。頓兵相持,坐而須老,使北賊得計,非筭之上者。昔孝文卑辭匈奴,先帝優與吳盟,皆應權通變,弘思遠益,非匹夫之為分者也。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、この年、(そん)(けん)が皇帝になると、その臣下たちが2人の皇帝が並び立つことを知らせてきたんだ。議論する者たちはみんな、「この同盟は利益がなくて、名分も道理にもかなっていないから、正義を明らかに示して、正義を明らかにして盟約を断つべきだよ」と言ったんだ。(しょ)(かつ)(りょう)はこう言ったよ。
(そん)(けん)はずっと前から皇帝になろうという野心を持っていたよ。私たちの国((しょく))が彼の罪を見逃しているのは、敵(())に対抗するための挟撃の援助を求めるためなんだよ。今、もしこれを公然と非難して、盟約を断ったら、必ず孫権は私たちに対して敵意を深めて、兵を東に移して戦わなきゃいけなくなっちゃうの。その土地を併合してからでなければ、中原に進軍する議論なんてできなくなるよね。(そん)(けん)の下にはたくさんのすごい人がいて、将軍や宰相もよくまとまっているし、すぐに決着をつけることはできないんだ。兵を動かしてにらみ合ったら、お互いに疲れて、年老いるのをただ座って待つことになって、北の敵(())に得をさせて、それは良い策ではないんだ。昔、(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))は(きょう)()に対してへりくだった言葉を使って、先帝((りゅう)())も()との同盟を厚く扱ったよ。これらはみんな、情勢に応じて変化に対応して、遠い将来の利益を考えたもので、ひとりの男の一時の感情で判断したものではないよ。

(註21)

今議者咸以權利在鼎足,不能并力,且志望以滿,无上岸之情,推此,皆似是而非也。何者?其智力不侔,故限江自保;權之不能越江,猶魏賊之不能渡漢,非力有餘而利不取也。若大軍致討,彼高當分裂其地以為後規,下當略民廣境,示武於內,非端坐者也。若就其不動而睦於我,我之北伐,无東顧之憂,河南之衆不得盡西,此之為利,亦已深矣。權僭之罪,未宜明也。」乃遣衞尉陳震慶權正號。

今、議論する者たちはみんな、(そん)(けん)が鼎の足のひとつとして立っていて、私たちと力を合わせることができなくて、すでに志を遂げて満足していて、親密な関係を望んでいないと考えているよね。これを推論すると、一見正しそうに思えるけど、実際はそうではないよ。どうしてかと言うと、((そん)(けん)()では)その知略と兵は釣り合っていなくて、だからこそ長江を越えないで自分を守っているからだよ。(そん)(けん)が長江を越えられないのは、()の敵が(かん)(すい)を渡れないのと同じで、力が余っているのにあえて取らないのではなくて、力が足りないからなんだ。
もし私たちが大軍を送って討伐に向かえば、(そん)(けん)は上ではその地を分けて後の計略とするだろうし、下では民を従わせて領土を広げて、内に武を示すだろうね。決して、ただ座って見ている者ではないんだ。もし彼らが兵を動かさないで私たちと親しくするなら、私たちの北伐には東の心配がなくなって、(()の)()(なん)の兵がすべて西に向けることもできなくなるよ。この利はとても大きいの。だから今はまだ(そん)(けん)が皇帝を僭称した罪を明らかに示すべきではないよ」
そこで(えい)()(ちん)(しん)を送って、(そん)(けん)が正式に皇帝になったことを祝わせたよ。

祁山の戦い

本文

九年,亮復出祁山,以木牛運,(註22)糧盡退軍,與魏將張郃交戰,射殺郃。(註23)

建興九年(231年)、(しょ)(かつ)(りょう)はふたたび()(ざん)に出撃して、(ぼく)(ぎゅう)を使って物資を運んだよ。でも、食糧が尽きて退却したんだ。そのとき、()の将の(ちょう)(こう)と戦って、(ちょう)(こう)を射殺したよ。

(註22)

漢晉春秋曰:亮圍祁山,招鮮卑軻比能,比能等至故北地石城以應亮。於是魏大司馬曹真有疾,司馬宣王自荊州入朝,魏明帝曰:「西方事重,非君莫可付者。」乃使西屯長安,督張郃、費曜、戴陵、郭淮等。宣王使曜、陵留精兵四千守上邽,餘衆悉出,西救祁山。郃欲分兵駐雍、郿,宣王曰:「料前軍能獨當之者,將軍言是也;若不能當而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)()(ざん)を包囲すると、(せん)()族の()()(のう)を招いたよ。()()(のう)たちは(ほく)()(せき)(じょう)に着いて、(しょ)(かつ)(りょう)に応じたよ。
この頃、()(だい)()()(そう)(しん)は病気にかかっていたから、()()()(けい)州から朝廷に入ったよ。(そう)(えい)はこう言ったよ。
「西の情勢は重大だから、あなた以外に任せられる者はいないよ」
こうして()()()を西に送って(ちょう)(あん)に駐屯させて、(ちょう)(こう)()(よう)(たい)(りょう)(かく)(わい)たちを指揮したよ。
()()()()(よう)(たい)(りょう)に精鋭の兵4,000人を(じょう)(けい)に留めさせて、残りの兵をすべて出して西の()(ざん)を救うように命令したよ。(ちょう)(こう)は兵を分けて(よう)()に駐屯させようとしたけど、()()()はこう言ったよ。
「もし前軍が敵に単独で対抗できるのならあなたの提案は正しいけど、対抗できないのに軍を前後に分けたら、()の大軍が(げい)()に捕まったのと同じ結果になるだろうね」
こうして進軍したよ。

(註22)

亮分兵留攻,自逆宣王于上邽。郭淮、費曜等徼亮,亮破之,因大芟刈其麥,與宣王遇于上邽之東,斂兵依險,軍不得交,亮引而還。宣王尋亮至于鹵城。張郃曰:「彼遠來逆我,請戰不得,謂我利在不戰,欲以長計制之也。且祁山知大軍以在近,人情自固,可止屯於此,分為奇兵,示出其後,不宜進前而不敢偪,坐失民望也。今亮縣軍食少,亦行去矣。」宣王不從,故尋亮。旣至,又登山掘營,不肯戰。

(しょ)(かつ)(りょう)は留める兵と攻める兵を分けて、自分は()()()(じょう)(けい)で迎撃しようとしたよ。(かく)(わい)()(よう)たちは(しょ)(かつ)(りょう)を迎え撃ったけど、(しょ)(かつ)(りょう)はこれを破って、たくさんの麦を刈り取ったよ。そして、(じょう)(けい)の東で()()()と遭遇して、兵を集めて険しい場所を守って布陣したから、どちらの軍も戦わなかったんだ。そして、(しょ)(かつ)(りょう)は撤退したんだ。
()()()(しょ)(かつ)(りょう)を追撃して()(じょう)に着いたよ。(ちょう)(こう)はこう言ったよ。
「彼らは遠くから来て私たちを迎え撃とうとしたのに、戦いを挑んでも応じないから、私たちが戦わないことが有利と見て長期戦を仕掛けようとしているの。()(ざん)は大軍が近くにいることを知っているから、人々は自らを守るようになるよ。ここで兵を分けて奇襲を示しながら、後方を脅かすのが良いよ。前進して近づかないほうがいいよ。無理に追撃したら民の心を失っちゃうんだ。今、(しょ)(かつ)(りょう)の軍は食糧が少ないから、すぐに撤退するだろうね」
でも、()()()はこれに従わないで、(しょ)(かつ)(りょう)を追撃したんだ。着くと、さらに山に登って陣営を掘って、戦おうとはしなかったよ。

(註22)

賈栩、魏平數請戰,因曰:「公畏蜀如虎,柰天下笑何!」宣王病之。諸將咸請戰。五月辛巳,乃使張郃攻无當監何平於南圍,自案中道向亮。亮使魏延、高翔、吳班赴拒,大破之,獲甲首三千級、玄鎧五千領、角弩三千一百張,宣王還保營。

()()()(へい)は何度も戦うことを求めてこう言ったよ。
「あなたは(しょく)を虎みたいに恐れているけど、天下の笑い者になってもいいのか!」
()()()はこの言葉に悩んだの。将たちはみんな、戦うことを願い出たよ。
五月、辛巳の日、(ちょう)(こう)に命令して、南を囲んでいた()(とう)(かん)()(へい)を攻撃させて、自分は中道から(しょ)(かつ)(りょう)を攻めようとしたよ。(しょ)(かつ)(りょう)()(えん)(こう)(しょう)()(はん)を送って迎撃して、大勝利したよ。そして敵の戦死した兵の首3,000人分、黒い鎧5,000領、角弩3,100張を手に入れたよ。()()()は陣地に戻って守ったんだ。

(註23)

郭沖五事曰:魏明帝自征蜀,幸長安,遣宣王督張郃諸軍,雍、涼勁卒三十餘萬,潛軍密進,規向劒閣。亮時在祁山,旌旗利器,守在險要,十二更下,在者八万。時魏軍始陳,幡兵適交,參佐咸以賊衆彊盛,非力不制,宜權停下兵一月,以并聲勢。亮曰:「吾統武行師,以大信為本,得原失信,古人所惜;去者束裝以待期,妻子鶴望而計日,雖臨征難,義所不廢。」皆催遣令去。於是去者感恱,願留一戰,住者憤踊,思致死命。相謂曰:「諸葛公之恩,死猶不報也。」臨戰之日,莫不拔刃爭先,以一當十,殺張郃,却宣王,一戰大剋,此信之由也。

(かく)(ちゅう)の言った5つ目によると、(そう)(しょく)(しょく)を自ら討とうとして、(ちょう)(あん)に行幸したよ。()()()(ちょう)(こう)と軍を指揮させて、(よう)州や(りょう)州の精鋭の兵30万以上をこっそりと集めて進軍させて、(けん)(かく)を攻めようとしたんだ。そのとき(しょ)(かつ)(りょう)()(ざん)にいて、軍旗や兵器は整っていて、険しい場所で守っていたよ。10分の2を下山させて交代させて、残ったのは8万の兵だったよ。
ちょうど()の軍が布陣を始めて、旗と兵が交わったんだ。部下たちはみんな、敵の勢力が強くて大きいから、力で制圧するのは難しいと考えて、1ヶ月くらい出発を止めて勢力をまとめてから動くべきだと進言したよ。でも、(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「私は軍を統率することについて、最も重んじるのは絶対的な信義だよ。信義を失うのは古人が最も惜しんだことなんだ。今すでに去ろうとする者たちは装備を整えて、妻や子は遠くから日を数えて待っているの。たとえ難しい戦いに臨んでも、信義は捨ててはならないよ」
そして出発するように命令したよ。
すると、去る者は感謝して喜んで、「留まって一戦を交えてから行きたい」と言ったよ。残された者たちは奮い立って、「死をもって命に応えよう」と心に誓ったよ。みんなでこう言い合ったよ。
「諸葛公((しょ)(かつ)(りょう))の恩には、たとえ死んでも報いきれない」
戦いとなった日、誰もが剣を抜いて先陣を争って、10人を相手に1人で戦う勢いで、(ちょう)(こう)を討って、()()()を退けて、一戦して大勝利したよ。これは、信義の力によるものだね。

(註23)

難曰:臣松之案:亮前出祁山,魏明帝身至長安耳,此年不復自來。且亮大軍在關、隴,魏人何由得越亮徑向劒閣?亮旣在戰場,本無乆駐之規,而方休兵還蜀,皆非經通之言。孫盛、習鑿齒搜求異同,罔有所遺,而並不載沖言,知其乖剌多矣。

反論すると、(はい)(しょう)()の見解によると、(しょ)(かつ)(りょう)が前に()(ざん)に出ると、(そう)(えい)(ちょう)(あん)に赴いただけで、この年にはふたたび来ていないよ。それに、(しょ)(かつ)(りょう)の大軍が(かん)(ちゅう)(ろう)にいるのに、どうして()の人たちが(しょ)(かつ)(りょう)を越えて直接(けん)(かく)に行けたの? (しょ)(かつ)(りょう)はすでに戦場にいるのに、長く駐屯する計画があるわけでもないし、休戦して(しょく)に戻ることも、どちらも理にかなった話ではないよ。
(そん)(せい)(しゅう)(さく)()は異なる説を求めて詳しく調べて見落としていないはずだけど、(かく)(ちゅう)の言葉を記録していないのは、その多くが事実と違うとを知っていたからだよね。

五丈原の戦い

本文

十二年春,亮悉大衆由斜谷出,以流馬運,據武功五丈原,與司馬宣王對於渭南。亮每患糧不繼,使己志不申,是以分兵屯田,為乆駐之基。耕者雜於渭濵居民之間,而百姓安堵,軍無私焉。(註24)(註25)

建興十二年(234年)、春、(しょ)(かつ)(りょう)は大軍を率いて()(こく)を出発して、(りゅう)()を使って物資を運んで、()(こう)()(じょう)(げん)を拠点としたよ。そこでは()()()()(なん)で対峙したよ。(しょ)(かつ)(りょう)はいつも食糧が続かないことに悩んで、それが自身の志を達成できない原因だと考えていたんだ。だから、兵を分けて屯田を行って、長い間駐留するための基盤を作ろうとしたよ。農耕する人たちは()(すい)のほとりの住民と混じって耕作して、民は安心して暮らして、軍にも不満はなかったよ。

(註24)

漢晉春秋曰:亮自至,數挑戰。宣王亦表固請戰。使衞尉辛毗持節以制之。姜維謂亮曰:「辛佐治仗節而到,賊不復出矣。」亮曰:「彼本無戰情,所以固請戰者,以示武於其衆耳。將在軍,君命有所不受,苟能制吾,豈千里而請戰邪!」

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)は着いてから何度も敵に戦いを挑んだよ。()()()も上表して戦いを願い出たよ。でも、(そう)(えい)(えい)()(しん)()に節を持たせて()()()を止めさせたよ。(きょう)()(しょ)(かつ)(りょう)にこう言ったよ。
(しん)()()(しん)())が節を持って来たから、敵はもう出てこないよ」
(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「彼らはもともと戦う気がなくて、戦いを願い出たのも、ただ自分たちの軍に武威を示すためだけだよ。将が軍にいるなら、たとえ君主の命令でも従わないことがあるんだ。もし彼らが本当に私たちを制したいのなら、どうしてわざわざ千里も離れたところに戦いの許しを願う必要があるの!」

(註25)

魏氏春秋曰:亮使至,問其寢食及其事之煩簡,不問戎事。使對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十以上,皆親擥焉;所噉食不至數升。」宣王曰:「亮將死矣。」

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)の使者が着くと、彼の寝食や仕事の煩雑さについて尋ねたけど、軍事のことは尋ねまなかったよ。使者はこう答えたよ。
「諸葛公((しょ)(かつ)(りょう))は早朝から夜遅くまで起きていて、罰が20以上の場合は、すべて自分で処理しているよ。食事の量も数升に満たないくらいなんだ」
()()()はこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は死ぬだろうね」

本文

相持百餘日。其年八月,亮疾病,卒于軍,時年五十四。(註26)(註27)(註28)及軍退,宣王案行其營壘處所,曰:「天下奇才也!」(註29)

どちらの軍も100日以上も対峙したよ。その年の八月、(しょ)(かつ)(りょう)は病気にかかって、軍中で亡くなったんだ。この時、54歳だったよ。
軍が撤退した後、()()()(しょ)(かつ)(りょう)の陣地を調べて、こう言ったよ。
「天下の奇才だ!」

()()()さんがどんな顔で言ったのか気になるかも。

(註26)

魏書曰:亮糧盡勢窮,憂恚歐血,一夕燒營遁走,入谷,道發病卒。

()(しょ)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)は食糧が尽きて、情勢がとても厳しくなって、心配して血を吐いちゃったんだ。一夜で陣を焼いて逃げて、谷に入ったけど、その道中で病気にかかって亡くなったんだって。

(註27)

漢晉春秋曰:亮卒于郭氏塢。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)(かく)()()(砦)で亡くなったんだって。

(註28)

晉陽秋曰:有星赤而芒角,自東北西南流,投于亮營,三投再還,往大還小。俄而亮卒。

(しん)(よう)(しゅう)』によると、赤い星が光りながら、東北から西南へ流れて、(しょ)(かつ)(りょう)の陣地に落ちて、3回落ちてふたたび戻って、行くときは大きくて戻るときは小さかったんだって。その後に(しょ)(かつ)(りょう)が亡くなったよ。

(註28)

臣松之以為亮在渭濵,魏人躡迹,勝負之形,未可測量,而云歐血,蓋因亮自亡而自誇大也。夫以孔明之略,豈為仲達歐血乎?及至劉琨喪師,與晉元帝箋亦云「亮軍敗歐血」,此則引虛記以為言也。其云入谷而卒,緣蜀人入谷發喪故也。

(はい)(しょう)()の見解としては、(しょ)(かつ)(りょう)()(すい)のほとりにいたとき、()の人が後を追って、勝敗の形勢はまだ予測できなかったよ。それなのに血を吐いたとあるのは、(しょ)(かつ)(りょう)の死を大げさに記したにすぎないんだ。(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))みたいに知略を持つ人が、()()(ちゅう)(たつ)()()())に血を吐くまで追い詰められるとは思えないんだ。(りゅう)(こん)が軍を失って、(しん)(げん)(てい)()()(えい))に送った手紙にも「(しょ)(かつ)(りょう)の軍が敗れて血を吐いた」とあるけど、これは偽り記録を引き合いに出して記したものだよ。そして、「谷に入って亡くなった」とあるのは、(しょく)の人たちが谷に入って喪を発したことが由来だね。

(註29)

漢晉春秋曰:楊儀等整軍而出,百姓奔告宣王,宣王追焉。姜維令儀反旗鳴鼓,若將向宣王者,宣王乃退,不敢偪。於是儀結陣而去,入谷然後發喪。宣王之退也,百姓為之諺曰:「死諸葛走生仲達。」或以告宣王,宣王曰:「吾能料生,不便料死也。」

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(よう)()たちが軍を整えて撤退して、民が()()()に報告に走ったよ。()()()は追撃したけど、(きょう)()(よう)()に旗を反転させて太鼓を鳴らすように命令して、まるで()()()に向かってくるみたいだったの。()()()は退却して、近づけなかったんだ。(よう)()は陣をまとめて撤退して、谷に入ってから喪を発したよ。
それで、()()()が退すると、民はことわざを作ってこう言ったよ。
「死んだ(しょ)(かつ)が生きている(ちゅう)(たつ)を走らせた」
このことをある人が()()()に告げると、()()()はこう言ったよ。
「私は生きている人は予測できるけど、死んだ人は予測できないよ」

()()()さんの言い訳。
「死諸葛走生仲達。」は、よく知られている「死せる(こう)(めい)生ける(ちゅう)(たつ)を走らす」の原文だよ。「(かつ)」と「(たつ)」で韻を踏んでいるとか。

諸葛亮の死

本文

亮遺命葬漢中定軍山,因山為墳,冢足容棺,歛以時服,不須器物。詔策曰:「惟君體資文武,明叡篤誠,受遺託孤,匡輔朕躬,繼絕興微,志存靖亂;爰整六師,無歲不征,神武赫然,威鎮八荒,將建殊功於季漢,參伊、周之巨勳。如何不弔,事臨垂克,遘疾隕喪!朕用傷悼,肝心若裂。夫崇德序功,紀行命謚,所以光昭將來,刊載不朽。今使使持節左中郎將杜瓊,贈君丞相武鄉侯印綬,謚君為忠武侯。魂而有靈,嘉茲寵榮。嗚呼哀哉!嗚呼哀哉!」

(しょ)(かつ)(りょう)は遺言としてこう言ったよ。
(かん)(ちゅう)(てい)(ぐん)(ざん)に葬ってね。山をそのまま墓として使って、墓は棺が入る大きさにしてね。季節の服で遺体を包んでね。副葬品などは必要ないよ」
(りゅう)(ぜん)は詔を下してこう言ったよ。
「あなたは文と武の才を兼ね備えて、明察で誠実な人だったね。先帝((りゅう)())から遺命を受けて私を託されて、私を助けて支えて、滅びかけた王朝を立て直そうと努めて、乱れを治める志を持っていたよ。全軍を整えて、毎年のように戦いに出たんだ。優れた武の徳は盛んで威光は八方にとどろいて、季漢に大きな功績を建てようとして、()(いん)(しゅう)(こう)の偉大な功績に並ぶくらいだったよ。どうして不運にも、事が成る寸前に病気で倒れて亡くなってしまったの! 私は悲しみで胸が裂ける思いなんだ。
そもそも徳を崇めて功績をたたえて、その行いを記して謚を贈ることは、後の世に光を与えて、不朽のものとするためだよ。今、()(ちゅう)(ろう)(しょう)()(けい)に節を持たせて、あなたに(じょう)(しょう)()(きょう)(こう)の印綬を贈って、(ちゅう)()(こう)の諡号を授けるよ。もし魂に霊があるなら、この栄誉を喜んでね。ああ、なんて悲しいの! ああ、なんて悲しいの!」

本文

初,亮自表後主曰:「成都有桑八百株,薄田十五頃,子弟衣食自有餘饒。至於臣在外任,無別調度,隨身衣食,悉仰於官,不別治生,以長尺寸。若臣死之日,不使內有餘帛,外有贏財,以負陛下。」及卒,如其所言。

前に、(しょ)(かつ)(りょう)は自ら上表して(りゅう)(ぜん)にこう言ったよ。
(せい)()には桑の木が800株、痩せた田が15頃あって、子弟の衣食は余裕もあるよ。私が外で任務についている間は、別に調達する必要はなくて、身の回りの衣食はすべて官からの支給に頼っているよ。私的に生業を立てて財産も増やしていないよ。もし私が死ぬ日が来ても、家の中に余分な絹布や、外に余剰の財産残して劉禅に負担をかけるようなことはしないよ」
そして彼が亡くなると、この言葉のとおりだったんだ。

本文

亮性長於巧思,損益連弩,木牛流馬,皆出其意;推演兵法,作八陣圖,咸得其要云。(註30)(註31)亮言教書奏多可觀,別為一集。

(しょ)(かつ)(りょう)は工夫を凝らすことが得意で、(れん)()(ぼく)(ぎゅう)(りゅう)()の改良はすべて彼の考案だったよ。それに、兵法を研究して、(はち)(じん)()を作って、その要点をすべて把握していたらしいよ。(しょ)(かつ)(りょう)の教えや上奏の文章の多くは素晴らしくて、別に1つにまとめられているんだよ。

(註30)

魏氏春秋曰:亮作八務、七戒、六恐、五懼,皆有條章,以訓厲臣子。又損益連弩,謂之元戎,以鐵為矢,矢長八寸,一弩十矢俱發。

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)は「(はち)()」「(しち)(かい)」「(ろっ)(きょう)」「()()」を作って、それぞれに規則を作って臣下を訓練したんだって。それに、彼は(れん)()を改良して、これを「(げん)(じゅう)」と名付けたよ。元戎は鉄で矢を作って、矢の長さは8寸で、1つの弩から10本の矢を同時に発射できるものだよ。

(註31)

亮集載作木牛流馬法曰:「木牛者,方腹曲頭,一脚四足,頭入領中,舌著於腹。載多而行少,宜可大用,不可小使;特行者數十里,羣行者二十里也。曲者為牛頭,雙者為牛脚,橫者為牛領,轉者為牛足,覆者為牛背,方者為牛腹,垂者為牛舌,曲者為牛肋,刻者為牛齒,立者為牛角,細者為牛鞅,攝者為牛鞦䩜。牛仰雙轅,人行六尺,牛行四步。載一歲糧,日行二十里,而人不大勞。

(しょ)(かつ)(りょう)(しゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)が作った(ぼく)(ぎゅう)(りゅう)()の作り方が記されているよ。 「(ぼく)(ぎゅう)とは、四角い胴体に曲がった頭を持っていて、1本の脚に4本の足があるよ。頭は胴体の中に入って、舌は胴体にくっついているよ。たくさん運ぶことができて、移動は遅いけど、大量の荷物を運ぶのにぴったりだよ。小さな使い方はできないんだ。単独での移動は数十里くらい、群れでの移動は20里くらいだよ。曲がっている部分が牛の頭、2つが牛の脚、横にあるものが牛の首、回る部分が牛の足、覆っている部分が牛の背、四角い部分が牛の胴、垂れている部分が牛の舌、曲がっている部分が牛の肋骨、刻んである部分が牛の歯、立っている部分が牛の角、細い部分が牛の鞅、取り付ける部分が牛を引く部分だよ。牛が引く車は2本の横木を持っていて、人が歩くと6尺、牛が歩くと4歩進むよ。1年分の食糧を運ぶことができて、1日に20里進んで、人はあまり疲れないよ。

(註31)

流馬尺寸之數,肋長三尺五寸,廣三寸,厚二寸二分,左右同。前軸孔分墨去頭四寸,徑中二寸。前脚孔分墨二寸,去前軸孔四寸五分,廣一寸。前杠孔去前脚孔分墨二寸七分,孔長二寸,廣一寸。後軸孔去前杠分墨一尺五分,大小與前同。後脚孔分墨去後軸孔三寸五分,大小與前同。後杠孔去後脚孔分墨二寸七分,後載剋去後杠孔分墨四寸五分。前杠長一尺八寸,廣二寸,厚一寸五分。後杠與等版方囊二枚,厚八分,長二尺七寸,高一尺六寸五分,廣一尺六寸,每枚受米二斛三斗。從上杠孔去肋下七寸,前後同。上杠孔去下杠孔分墨一尺三寸,孔長一寸五分,廣七分,八孔同。前後四脚,廣二寸,厚一寸五分。形制如象,靬長四寸,徑面四寸三分。孔徑中三脚杠,長二尺一寸,廣一寸五分,厚一寸四分,同杠耳。」

(りゅう)()の寸法については、肋の長さが3尺5寸、幅が3寸、厚さが2寸2分で、左右対称だよ。前軸の穴は頭から4寸離れていて、直径は2寸だよ。前脚の穴は前軸の穴から2寸5分離れていて、幅が1寸だよ。前杠の穴は前脚の穴から2寸7分離れていて、穴の長さは2寸、幅は1寸だよ。後軸の穴は前杠の穴から1尺5分離れていて、前部と同じ大きさだよ。後脚の穴は後軸の穴から3寸5分離れていて、前部と同じ大きさだよ。後杠の穴は後脚の穴から2寸7分離れていて、後の荷物を固定する部分は後杠の穴から4寸5分離れているんだ。前杠の長さは1尺8寸、幅が2寸、厚さが1寸5分だよ。後杠は同じで、厚さが8分、長さが2尺7寸、高さが1尺6寸5分、幅が1尺6寸で、それぞれが米2斛3斗を収納できるんだ。上杠の穴は肋骨から7寸離れていて、前後同じだよ。上杠の穴は下杠の穴から1尺3寸離れていて、穴の長さは1寸5分、幅は7分だよ。8つの穴は同じなんだ。前後の4つの脚は幅が2寸、厚さが1寸5分だよ。形状は象に似ていて、革の長さは4寸、直径は4寸3分だよ。穴の直径は中くらいの脚杠で、長さが2尺1寸、幅が1寸5分、厚さが1寸4分で、耳の杠と同じだよ」

想像が難しいよ!

本文

景耀六年春,詔為亮立廟於沔陽。(註32)秋,魏鎮西將軍鍾會征蜀,至漢川,祭亮之廟,令軍士不得於亮墓所左右芻牧樵採。亮弟均,官至長水校尉。亮子瞻,嗣爵。(註33)

景耀六年(263年)、春、(りゅう)(ぜん)(しょ)(かつ)(りょう)のために(べん)(よう)に廟を建てるように命令したよ。秋、()(ちん)西(せい)(しょう)(ぐん)(しょう)(かい)(しょく)を征伐するために(かん)(せん)に着いて、(しょ)(かつ)(りょう)の廟で祭りをして、兵に対して(しょ)(かつ)(りょう)の墓の周りで草を刈ったり牛を飼ったり木を切ったりしないように命令したよ。
(しょ)(かつ)(りょう)の弟の(しょ)(かつ)(きん)は、(ちょう)(すい)(こう)()にまでなったよ。(しょ)(かつ)(りょう)の子の(しょ)(かつ)(せん)が爵位を継いだよ。

(註32)

襄陽記曰:亮初亡,所在各求為立廟,朝議以禮秩不聽,百姓遂因時節私祭之於道陌上。言事者或以為可聽立廟於成都者,後主不從。步兵校尉習隆、中書郎向充等共上表曰:「臣聞周人懷召伯之德,甘棠為之不伐;越王思范蠡之功,鑄金以存其像。自漢興以來,小善小德而圖形立廟者多矣。況亮德範遐邇,勳蓋季世,王室之不壞,實斯人是賴,而蒸甞止於私門,廟像闕而莫立,使百姓巷祭,戎夷野祀,非所以存德念功,述追在昔者也。今若盡順民心,則瀆而無典,建之京師,又偪宗廟,此聖懷所以惟疑也。臣愚以為宜因近其墓,立之於沔陽,使所親屬以時賜祭,凡其臣故吏欲奉祠者,皆限至廟。斷其私祀,以崇正禮。」於是始從之。

(じょう)(よう)()』によると、(しょ)(かつ)(りょう)が亡くなった直後、各地で廟を建てようという意見があったけど、朝廷の会議で礼制に反するとして許されなかったんだ。それでも民は季節の節目に、道端で(しょ)(かつ)(りょう)を私的に祭るようになったよ。その後、ある者が(せい)()に廟を建てることを提案したけど、(りゅう)(ぜん)はそれを認めなかったの。
()(へい)(こう)()(しゅう)(りゅう)(ちゅう)(しょ)(ろう)(しょう)(じゅう)たちが一緒に上表してこう言ったよ。
「私たちが聞くところによると、(しゅう)の人たちは(しょう)(はく)の徳を慕って、(かん)(とう)の木を切らなかったんだって。それに(えつ)(おう)(はん)(れい)の功績を思って、金で像を作ったんだって。(かん)の時代から、小さな善い行いや徳のある行いで、絵を描いたり廟を建てる例はたくさんあったよ。ましてや、(しょ)(かつ)(りょう)の徳と功績は遠くまで広まって、末の世を覆うくらい優れていたよ。王室が滅びないですんだのも、本当にこの人のおかげだよね。でも今、その供養は私宅でするだけで、廟も像も建てられていなくて、民は道で祭って、辺境の異民族までもが野外で祀っているんだ。これは徳を尊んで功をしのぶ正しい道ではないよね。民の心に従えば、礼にかなわなくて制度を乱すことになるんだ。でも都に建てたら宗廟(祖先の廟)に近いから不敬になっちゃう。これがあなたの迷っている点だよね。私たちの意見では、(しょ)(かつ)(りょう)の墓に近い(べん)(よう)に廟を建てて、親族が時を定めて祭祀をして、臣下や昔の役人が祀りたい場合は、みんな廟に来るようにすればいいと思うよ。私的な祀りをやめて、正しい礼で崇める意を示すべきだよ」
こうして、ようやく廟を建てることが許されたよ。

(註33)

襄陽記曰:黃承彥者,高爽開列,為沔南名士,謂諸葛孔明曰:「聞君擇婦;身有醜女,黃頭黑色,而才堪相配。」孔明許,即載送之。時人以為笑樂,鄉里為之諺曰:「莫作孔明擇婦,止得阿承醜女。」

(じょう)(よう)()』によると、(こう)(しょう)(げん)は、高潔で広く知られた人で、(べん)(なん)で名が知られていたよ。彼は(しょ)(かつ)(りょう)にこう言ったよ。
「あなたが妻を選んでいると聞いたよ。私には醜い娘がいるんだ。黄色い頭髪に黒い肌だけど、あなたにふさわしい才があるよ」
(しょ)(かつ)(りょう)はこれを受け入れて、すぐにその娘を送らせたよ。当時の人たちはこれを笑い話として、地元ではことわざを作ってこう言ったよ。
(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))みたいに妻を選んではいけない、ただ()(しょう)(こう)(しょう)(げん))の醜い娘を得るだけだ」

諸葛氏集

本文

諸葛氏集目錄
開府作牧第一權制第二
南征第三北出第四
計筭第五訓厲第六
綜覈上第七綜覈下第八
雜言上第九雜言下第十
貴和第十一兵要第十二
傳運第十三與孫權書第十四
與諸葛瑾書第十五與孟達書第十六
廢李平第十七法檢上第十八
法檢下第十九科令上第二十
科令下第二十一軍令上第二十二
軍令中第二十三軍令下第二十四
右二十四篇,凡十萬四千一百一十二字。

『諸葛氏集』目録
府を開いて牧となることについて(第一)
権限と制度について(第二)
南方への征伐(第三)
北方への出兵(第四)
計画と算術(第五)
訓練と厳格さ(第六)
総合的な審査・上(第七)
総合的な審査・下(第八)
諸言・上(第九)
諸言・下(第十)
和を尊ぶことについて(第十一)
軍事の要点(第十二)
輸送と補給(第十三)
孫権への書簡(第十四)
諸葛瑾への書簡(第十五)
孟達への書簡(第十六)
李平の罷免(第十七)
法律と検閲・上(第十八)
法律と検閲・下(第十九)
科条と命令・上(第二十)
科条と命令・下(第二十一)
軍令・上(第二十二)
軍令・中(第二十三)
軍令・下(第二十四)
以上、24篇、合計で104,112字。

本文

臣壽等言:臣前在著作郎,侍中領中書監濟北侯臣荀勗、中書令關內侯臣和嶠奏,使臣定故蜀丞相諸葛亮故事。亮毗佐危國,負阻不賔,然猶存錄其言,恥善有遺,誠是大晉光明至德,澤被無疆,自古以來,未之有倫也。輒刪除複重,隨類相從,凡為二十四篇,篇名如右。

(ちん)寿(じゅ)はこう言ったよ。私((ちん)寿(じゅ))が前に(ちょ)(さく)(ろう)だったとき、()(ちゅう)(ちゅう)(しょ)(かん)を兼ねる(せい)(ほく)(こう)(じゅん)(きょく)(ちゅう)(しょ)(れい)(かん)(だい)(こう)()(きょう)が上奏して、私にかつての(しょく)(じょう)(しょう)(しょ)(かつ)(りょう)の遺した文を整理させたよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は滅びゆく国を支えて、堅く守って降伏しなかったよ。それでもなお、彼の言葉を記録して善いことを遺すことを恥としなかったのは、まさに偉大な(しん)の光明に満ちた高い徳で、その恩恵は限りなく広がってる証だよ。古からこのような例はないよね。
そこで私は重複や雑な部分を削って、内容ごとに分類して、全部で24篇としたよ。篇の名は前に記したとおりだよ。

本文

亮少有逸羣之才,英霸之器,身長八尺,容貌甚偉,時人異焉。遭漢末擾亂,隨叔父玄避難荊州,躬耕于野,不求聞達。時左將軍劉備以亮有殊量,乃三顧亮於草廬之中;亮深謂備雄姿傑出,遂解帶寫誠,厚相結納。及魏武帝南征荊州,劉琮舉州委質,而備失勢衆寡,無立錐之地。亮時年二十七,乃建奇策,身使孫權,求援吳會。權旣宿服仰備,又覩亮奇雅,甚敬重之,即遣兵三萬人以助備。備得用與武帝交戰,大破其軍,乘勝克捷,江南悉平。

(しょ)(かつ)(りょう)は若い頃から人並外れた才能と、英雄や覇者の器量を持っていたんだよ。彼の身長は8尺もあって、見た目もとても立派だったから、当時の人たちは彼をただ者ではないと思っていたんだって。
(かん)の時代の終わり頃、天下が乱れると、彼は叔父の(しょ)(かつ)(げん)と一緒に(けい)州に避難して、そこで畑を耕しながら、名声を求めることもなく静かに暮らしていたんだ。
当時、()(しょう)(ぐん)(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)の優れた才能を知って、彼の草庵に3度も足を運んで訪ねたよ。(しょ)(かつ)(りょう)(りゅう)()の風格がとても優れていると深く感じて、帯を解いて誠意を表して、厚く親交を結んだの。
(そう)(そう)(けい)州を攻めるために南へ軍を進めると、(りゅう)(そう)は州をあげて降伏して、(りゅう)()は勢力を失って、わずかな兵しかいなくて、逃げ場を失っちゃった。(しょ)(かつ)(りょう)はそのとき27歳だったけど、奇策を立てて、自ら(そん)(けん)のもとへ行って援助を求めたよ。(そん)(けん)はもともと(りゅう)()を敬っていて、さらに(しょ)(かつ)(りょう)の素晴らしさを見てとても尊重して、すぐに3万人の兵を送って(りゅう)()を助けたの。(りゅう)()はこの助けを得て、(そう)(そう)の軍と戦って、大勝利だったよ。その勢いで勝ち続けて、(こう)(なん)を平定したよ。

本文

後備又西取益州。益州旣定,以亮為軍師將軍。備稱尊號,拜亮為丞相,錄尚書事。及備殂沒,嗣子幼弱,事無巨細,亮皆專之。於是外連東吳,內平南越,立法施度,整理戎旅,工械技巧,物究其極,科教嚴明,賞罰必信,無惡不懲,無善不顯,至於吏不容姧,人懷自厲,道不拾遺,彊不侵弱,風化肅然也。

後に、(りゅう)()は西に進軍して、(えき)州を取ったよ。(えき)州を平定すると、(しょ)(かつ)(りょう)(ぐん)()(しょう)(ぐん)に任命されたよ。(りゅう)()が皇帝になると、(しょ)(かつ)(りょう)(じょう)(しょう)に任命されて、(しょう)(しょ)の政務をまとめたよ。
(りゅう)()が亡くなると、後を継いだ子((りゅう)(ぜん))は幼くて弱くて、大きなことから小さなことまで、すべて(しょ)(かつ)(りょう)の手に委ねられたんだ。このような状況で、(しょ)(かつ)(りょう)は外では(とう)()と連携して、内では(なん)(えつ)を平定したよ。彼は法を立てて、制度を施行して、軍の規律を整理して、工芸や技術に詳しくなって、物事を極めて、教育と教訓を厳しくして、賞罰は必ず守ったよ。悪いことをした者は必ず罰せられて、善いことをした者は必ず明らかにされたの。だから、役人は不正ができなかったし、人々は自らを律して、道に落ちている物を拾わないくらい風紀が整って、強い者が弱い者を侵すこともなくて、社会は厳しく秩序が保たれたよ。

本文

當此之時,亮之素志,進欲龍驤虎視,苞括四海,退欲跨陵邊疆,震蕩宇內。又自以為無身之日,則未有能蹈涉中原、抗衡上國者,是以用兵不戢,屢耀其武。然亮才,於治戎為長,奇謀為短,理民之幹,優於將略。而所與對敵,或值人傑,加衆寡不侔,攻守異體,故雖連年動衆,未能有克。昔蕭何薦韓信,管仲舉王子城父,皆忖己之長,未能兼有故也。亮之器能政理,抑亦管、蕭之亞匹也,而時之名將無城父、韓信,故使功業陵遲,大義不及邪?蓋天命有歸,不可以智力爭也。

この時、(しょ)(かつ)(りょう)の心の中では、進んで龍みたいに飛んで、勇猛な虎みたいに鋭い目を持って、天下を統一しようとして、退いても国境をまたいで支配して、天下を震えさせようとする志があったんだ。彼は「自分がいなくなった後では、中原に踏み入って強国に対抗する者がいないだろう」と考えていたんだって。だから、彼は兵を使うことを止めないで、何度もその武を示したよ。
でも、(しょ)(かつ)(りょう)の才能は、軍事では整備と統制は得意だったけど、奇抜な戦略を使うことには短所があったんだ。そして、民を治める能力は、軍略よりも優れていたよ。そして対する敵が時には飛び抜けてすごい人で、兵の数も劣っていて、攻める側と守る側の状況も異なっていたんだ。だから、何年も軍を動かしても決定的な勝利を収められなかったんだ。
昔、(しょう)()(かん)(しん)を推薦して、(かん)(ちゅう)(おう)()(じょう)()を推挙したのは、それぞれが自分の長所を生かしていて、すべてを兼ね備えていたわけではなかったからだよね。(しょ)(かつ)(りょう)の政治と統治の才能は、(かん)(ちゅう)(しょう)()に次ぐくらいだったけど、その時代に彼を補うべき(おう)()(じょう)()(かん)(しん)みたいな名将がいなかったから、(しょ)(かつ)(りょう)の功績は遅れて、大義を成し遂げられなかったのだろうね。天命には帰するところがあって、智や力では争うことができないんだね。

本文

青龍二年春,亮帥衆出武功,分兵屯田,為乆駐之基。其秋病卒,黎庶追思,以為口實。至今梁、益之民咨述亮者,言猶在耳,雖甘棠之詠召公,鄭人之歌子產,無以遠譬也。孟軻有云:「以逸道使民,雖勞不怨;以生道殺人,雖死不忿。」信矣!

(せい)(りゅう)二年(234年)、春、(しょ)(かつ)(りょう)は軍を率いて()(こう)から出陣して、兵を分けて屯田させて、長い間駐留するための基盤を作ったよ。その秋、彼は病気で亡くなったんだ。民は彼を思い慕って、その功績を語り続けて、今でも、(りょう)州や(えき)州の人たちは彼について語っていて、その言葉は耳に残っているの。これは、(しゅう)(しょう)(こう)をたたえた(かん)(とう)の詩や、(てい)の人たちが()(さん)を歌ったよりも、さらにたとえようもないくらいだよ。(もう)()は「民を安心させる政治をしたら、たとえ労働させても怨まれないし、生きる道で殺したら、たとえ死んでも恨まれない」と言っているけど、本当にそのとおりだね。

本文

論者或怪亮文彩不豔,而過於丁寧周至。臣愚以為咎繇大賢也,周公聖人也,考之尚書,咎繇之謩略而雅,周公之誥煩而悉。何則?咎繇與舜、禹共譚,周公與羣下矢誓故也。亮所與言,盡衆人凡士,故其文指不及得遠也。然其聲教遺言,皆經事綜物,公誠之心,形于文墨,足以知其人之意理,而有補於當世。

議論する人の中には、「(しょ)(かつ)(りょう)の文は華やかではないけど、とても丁寧で細やか」と不思議に思う人もいるんだって。私((ちん)寿(じゅ))の意見では、(きゅう)(よう)はとても素晴らしい人で、(しゅう)(こう)は聖人だよ。『(しょ)(きょう)』を調べると、(きゅう)(よう)の言葉は簡潔で雅びで、(しゅう)(こう)の教えは詳しくて徹底しているよ。どうしてかな? それは、(きゅう)(よう)(しゅん)()と語り合って、(しゅう)(こう)は臣下たちと誓いを立てたからだよ。(しょ)(かつ)(りょう)が語った相手は、ほとんどが普通の人たちだから、その文章は遠く大きなものにまでは及ばなかったの。でも、彼の教えや遺した言葉は、すべての事に通じていて、誠実な心が文章に現れているの。それによって彼の考え方や理性を知ることができて、この世にとってもすごく役立つんだよ。

本文

伏惟陛下邁蹤古聖,蕩然無忌,故雖敵國誹謗之言,咸肆其辭而無所革諱,所以明大通之道也。謹錄寫上詣著作。臣壽誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。泰始十年二月一日癸巳,平陽侯相臣陳壽上。

伏して願うと、陛下(()()(えん))が古の聖人の足跡を踏みしめて、大らかで物事を包み込むような心を持っているから、たとえ敵の国の誹謗中傷の言葉でも、その言葉を尽く述べさせて、禁じないで、あえて正そうとはしないよ。これこそが、大道を明らかにするという道なの。謹んでこれを写し記して、著作(史官)に提出するね。
臣下の(ちん)寿(じゅ)は、本当に恐れ多くて、私ごときが皇帝陛下に愚見を述べてごめんなさい。
泰始十年(274年)、二月一日癸巳、(へい)(よう)(こう)(ちん)寿(じゅ)が上奏するよ。

(しょう)()は、(かん)(りゅう)(ほう)の側近のひとりだよ。『()()』「(しょう)(しょう)(こく)(せい)()」を見てね。
(かん)(しん)は、(しん)の末期~(かん)の時代の武将だよ。(りゅう)(ほう)の配下で活躍したよ。『()()』「(かん)(しん)()(わん)(れつ)(でん)」を見てね。
(ちん)寿(じゅ)さんほめすぎでしょ。

諸葛喬

本文

喬字伯松,亮兄瑾之第二子也,本字仲慎。與兄元遜俱有名於時,論者以為喬才不及兄,而性業過之。初,亮未有子,求喬為嗣,瑾啟孫權遣喬來西,亮以喬為己適子,故易其字焉。拜為駙馬都尉,隨亮至漢中。(註34)

(しょ)(かつ)(きょう)は、(あざな)(はく)(しょう)で、(しょ)(かつ)(りょう)の兄の(しょ)(かつ)(きん)の第二子だよ。もともとの(あざな)(ちゅう)(しん)だよ。兄の(げん)(そん)(しょ)(かつ)(かく))のふたりとも当時有名だったけど、議論する人たちは(しょ)(かつ)(きょう)の才能は兄に及ばないけど、その性格や行いは兄を超えていると考えていたんだって。
もともと、(しょ)(かつ)(りょう)には子供がいなかったから、(しょ)(かつ)(きょう)を養子に迎えようとしたよ。諸葛瑾(しょかつきん)(そん)(けん)にお願いして、(しょ)(かつ)(きょう)を西へ送ったよ。(しょ)(かつ)(りょう)(しょ)(かつ)(きょう)を自分の正式な子としたから、(しょ)(かつ)(きょう)(あざな)を変えたんだって。(しょ)(かつ)(きょう)()()()()に任命されて、(しょ)(かつ)(りょう)に従って(かん)(ちゅう)へ向かったよ。

(註34)

亮與兄瑾書曰:「喬本當還成都,今諸將子弟皆得傳運,思惟宜同榮辱。今使喬督五六百兵,與諸子弟傳於谷中。」書在亮集。

(しょ)(かつ)(りょう)は兄の(しょ)(かつ)(きん)に手紙を書いてこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(きょう)は本来(せい)()に戻るべきだったけど、今は他の将たちの子弟がみんな働いているから、一緒に誉れと辱めを分かち合うべきだと考えたんだ。そこで、(しょ)(かつ)(きょう)に500から600の兵を指揮させて、他の子弟たちと一緒に谷の中で任務をさせるよ」
この手紙は『(しょ)(かつ)(りょう)(しゅう)』に記されているよ。

本文

年二十五,建興元年卒。子攀,官至行護軍翊武將軍,亦早卒。諸葛恪見誅於吳,子孫皆盡,而亮自有冑裔,故攀還復為瑾後。

建興六年(228年)、(しょ)(かつ)(きょう)は25歳で亡くなったんだ。子の(しょ)(かつ)(はん)()(ぐん)(よく)()(しょう)(ぐん)にまで昇進したけど、彼も若いうちに亡くなったんだ。(しょ)(かつ)(かく)()で処刑されて、その子孫もすべて途絶えちゃったけど、(しょ)(かつ)(りょう)の血統は続いていたから、(しょ)(かつ)(はん)はふたたび(しょ)(かつ)(きん)の後を継ぐことになったよ。

諸葛瞻

本文

瞻字思遠。建興十二年,亮出武功,與兄瑾書曰:「瞻今已八歲而聦慧可愛,嫌其早成,恐不為重器耳。」年十七,尚公主,拜騎都尉。其明年為羽林中郎將,屢遷射聲校尉、侍中、尚書、尚書僕射,加軍師將軍。瞻工書畫,彊識念,蜀人追思亮,咸愛其才敏。每朝廷有一善政佳事,雖非瞻所建倡,百姓皆傳相告曰:「葛侯之所為也。」是以美聲溢譽,有過其實。

(しょ)(かつ)(せん)は、(あざな)()(えん)だよ。
(けん)(こう)十二年(234年)、(しょ)(かつ)(りょう)()(こう)に出陣すると、兄の(しょ)(かつ)(きん)に手紙を書いてこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(せん)は今8歳になって、聡明で可愛らしいけど、早く成長しすぎるのではないかと心配しているの。重い責務を担う器にはならないのではないかな」
(しょ)(かつ)(せん)は17歳で公主と結婚して、()()()に任命されたよ。翌年、()(りん)(ちゅう)(ろう)(しょう)となって、(しゃ)(せい)(こう)()()(ちゅう)(しょう)(しょ)(しょう)(しょ)(ぼく)()を経て、(ぐん)()(しょう)(ぐん)に昇進したよ。
(しょ)(かつ)(せん)は書画が得意で、記憶力が強くて、(しょく)の人たちは(しょ)(かつ)(りょう)を懐かしんで、その才と賢さを愛したよ。朝廷に善い政治や良い事があると、それが(しょ)(かつ)(せん)の提案でなくても、民は「これは諸葛侯のおかげだ」と伝えたんだ。だから、(しょ)(かつ)(せん)の名声は実際よりも高まったよ。

本文

景耀四年,為行都護衞將軍,與輔國大將軍南鄉侯董厥並平尚書事。六年冬,魏征西將軍鄧艾伐蜀,自陰平由景谷道旁入。瞻督諸軍至涪停住,前鋒破,退還,住緜竹。艾遣書誘瞻曰:「若降者必表為琅邪王。」瞻怒,斬艾使。遂戰,大敗,臨陣死,時年三十七。衆皆離散,艾長驅至成都。瞻長子尚,與瞻俱沒。(註35)(註36)次子京及攀子顯等,咸熈元年內移河東。(註37)(註38)

(けい)耀(よう)四年(261年)、(しょ)(かつ)(せん)()()(えい)(しょう)(ぐん)に任命されて、()(こく)(たい)(しょう)(ぐん)(なん)(きょう)(こう)(とう)(けつ)と一緒に(しょう)(しょ)の業務を担当したよ。
景耀六年(263年)、冬、()(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)(とう)(がい)(しょく)を攻めて、(いん)(ぺい)から(けい)(こく)(どう)のそばを通って入ったんだ。(しょ)(かつ)(せん)は軍を率いて()に着いて、そこで待機していたけど、前衛部隊が破れて後退して(めん)(ちく)に駐屯したよ。(とう)(がい)は手紙を送って降伏させようとして、こう言ったよ。
「降伏すれば(ろう)()(おう)に推挙するよ」
でも、(しょ)(かつ)(せん)は怒って(とう)(がい)の使者を斬ったんだ。そして戦いに挑んだけど、大きく負けちゃって、戦場で戦死したんだ。この時、(しょ)(かつ)(せん)は37歳だったよ。兵はみんな逃げ散って、(とう)(がい)はそのまま(せい)()に進軍したよ。 (しょ)(かつ)(せん)の長子の(しょ)(かつ)(しょう)(しょ)(かつ)(せん)と一緒に命を落としたんだ。次子の(しょ)(かつ)(けい)や、(しょ)(かつ)(はん)の子の(しょ)(かつ)(けん)たちは、(かん)()元年(264年)に()(とう)へ移されたよ。

(註35)

干寶曰:瞻雖智不足以扶危,勇不足以拒敵,而能外不負國,內不改父之志,忠孝存焉。

(かん)(ぽう)によると、(しょ)(かつ)(せん)は智恵が足りなくて国の危機を救えなくて、勇気も足りなくて敵を防げなかったんだ。でも、外では国を裏切らないで、内では父の志を忘れないで、忠と孝を全うしたよ。

(註36)

華陽國志曰:尚歎曰:「父子荷國重恩,不早斬黃皓,以致傾敗,用生何為!」乃馳赴魏軍而死。

()(よう)(こく)()』によると、(しょ)(かつ)(しょう)は嘆いてこう言ったよ。
「父も子も国の大きな恩を受けていながら、早く(こう)(こう)を斬らなかったから、このような大きな敗北を招いてしまったんだ。こんなことになって、生きている意味があるの!」
そして()の軍に駆け込んで戦死したんだ。

(註37)

案諸葛氏譜云:京字行宗。

(しょ)(かつ)()()』を調べたところ、(しょ)(かつ)(けい)は、(あざな)(こう)(そう)だよ。

(註38)

晉泰始起居注載詔曰:「諸葛亮在蜀,盡其心力,其子瞻臨難而死義,天下之善一也。」其孫京,隨才署吏,後為郿令。尚書僕射山濤啟事曰:「郿令諸葛京,祖父亮,遇漢亂分隔,父子在蜀,雖不達天命,要為盡心所事。京治郿自復有稱,臣以為宜以補東宮舍人,以明事人之理,副梁、益之論。」京位至江州刺史。

晋泰始起居注(しんたいききょちゅう)』によると、詔を下してこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(りょう)(しょく)で、心力を尽くしたよ。彼の子の(しょ)(かつ)(せん)は危機に臨んで義を守って戦死したんだ。これは天下の善のひとつだよね」
(しょ)(かつ)(りょう)の孫の(しょ)(かつ)(けい)は、その才能に応じて役人に任命されて、後に()(けん)(れい)となったよ。(しょう)(しょ)(ぼく)()(さん)(とう)は上奏してこう言ったよ。
()(けん)(れい)(しょ)(かつ)(けい)の祖父の(しょ)(かつ)(りょう)は、(かん)の乱で分断されちゃったけど、父も子も一緒に(しょく)にいて、たとえ天命には達しなかったとしても、心を尽くして職務にあたったよ。(しょ)(かつ)(けい)()をよく治めて評判が良いよ。私は、東宮の(しゃ)(じん)に任命するのがいいと思うよ。これは人に仕える道理を明らかにして、(りょう)州と(えき)州の人たちの評判に応えるものだよ」
(しょ)(かつ)(けい)(こう)(しゅう)()()(州の長官)にまで昇進したよ。

本文

董厥者,丞相亮時為府令史,亮稱之曰:「董令史,良士也。吾每與之言,思慎宜適。」徙為主簿。亮卒後,稍遷至尚書僕射,代陳祗為尚書令,遷大將軍,平臺事,而義陽樊建代焉。(註39)

(とう)(けつ)は、(しょ)(かつ)(りょう)(じょう)(しょう)の時代に府の(れい)()(記録官)として仕えていたよ。(しょ)(かつ)(りょう)は彼をほめてこう言ったよ。
(とう)(れい)()(とう)(けつ))は優れた人物だよ。彼と話すときはいつも慎重に適切に考えるべきだね」
その後、(しゅ)簿()に移されたよ。(しょ)(かつ)(りょう)が亡くなった後、どんどん昇進して(しょう)(しょ)(ぼく)()になって、(ちん)()に代わって(しょう)(しょ)(れい)に任命されて、(たい)(しょう)(ぐん)になって、朝廷の事務を握ったけど、()(よう)の出身の(はん)(けん)が彼に代わったんだ。

(註39)

案晉百官表:董厥字龔襲,亦義陽人。建字長元。

(しん)(ひゃっ)(かん)(ひょう)』を調べたところ、(とう)(けつ)は、(あざな)(きょう)(しゅう)で、()(よう)の出身だよ。(はん)(けん)は、(あざな)(ちょう)(げん)だよ。

本文

延熈十四年,以校尉使吳,值孫權病篤,不自見建。權問諸葛恪曰:「樊建何如宗預也?」恪對曰:「才識不及預,而雅性過之。」後為侍中,守中書令。自瞻、厥、建統事,姜維常征伐在外,宦人黃皓竊弄機柄,咸共將護,無能匡矯,(註40)然建特不與皓和好往來。蜀破之明年春,厥、建俱詣京都,同為相國參軍,其秋並兼散騎常侍,使蜀慰勞。(註41)

(えん)()十四年(251年)、(はん)(けん)(こう)()として()に送られたけど、(そん)(けん)は重い病気だったから自ら(はん)(けん)に会うことはなかったんだ。(そん)(けん)(しょ)(かつ)(かく)に尋ねたよ。
(はん)(けん)(そう)()と比べてどう?」
(しょ)(かつ)(かく)はこう答えたよ。
「才能と知識は(そう)()には及ばないけど、性格は勝っているよ」
その後、(はん)(けん)()(ちゅう)となって、(ちゅう)(しょ)(れい)を務めたよ。(しょ)(かつ)(せん)(とう)(けつ)(はん)(けん)が事務をまとめて、姜維(きょうい)はいつも外で戦っていたから、宦官の(こう)(こう)が権力を握って不正をしたんだ。彼らはみんなその状況を監視して正そうとしていたけど、誰も改められなかったんだ。(はん)(けん)は特に(こう)(こう)とは親しくなかったよ。
蜀(しょく)が滅びた翌年の春、(とう)(けつ)(はん)(けん)は一緒に都((らく)(よう))に行って、(しょう)(こく)(さん)(ぐん)となって、秋には(さん)()(じょう)()を兼ねて、(しょく)を慰めたよ。

(註40)

孫盛異同記曰:瞻、厥等以維好戰無功,國內疲弊,宜表後主,召還為益州刺史,奪其兵權;蜀長老猶有瞻表以閻宇代維故事。晉永和三年,蜀史常璩說蜀長老云:「陳壽甞為瞻吏,為瞻所辱,故因此事歸惡黃皓,而云瞻不能匡矯也。」

(そん)(せい)の『()(どう)()』によると、(しょ)(かつ)(せん)(とう)(けつ)たちは、(きょう)()が戦いを好んでいるのに功績をあげられなくて、国内が疲れ果てているから、(りゅう)(ぜん)に上表して彼を呼び戻して、(えき)(しゅう)()()に任命して、彼から軍の権限を奪うべきだとしたよ。(しょく)の長老たちは、(しょ)(かつ)(せん)が上表して(えん)()(きょう)()の代わりにしようと推薦したという話を伝えているよ。
(しん)の永和三年(347年)、(しょく)の歴史家の(じょう)(きょ)は、(しょく)の長老たちはこう言ったと記しているよ。
(ちん)寿(じゅ)は昔、(しょ)(かつ)(せん)の部下で、(しょ)(かつ)(せん)に辱めを受けたんだ。だから、この件について(こう)(こう)を悪く言って、(しょ)(かつ)(せん)が正せなかったと記したんだね」

(註41)

漢晉春秋曰:樊建為給事中,晉武帝問諸葛亮之治國,建對曰:「聞惡必改,而不矜過,賞罰之信,足感神明。」帝曰:「善哉!使我得此人以自輔,豈有今日之勞乎!」建稽首曰:「臣竊聞天下之論,皆謂鄧艾見枉,陛下知而不理,此豈馮唐之所謂『雖得頗、牧而不能用』者乎!」帝笑曰:「吾方欲明之,卿言起我意。」於是發詔治艾焉。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)」によると、(はん)(けん)(きゅう)()(ちゅう)だったとき、()()(えん)(しょ)(かつ)(りょう)の国の治め方について尋ねたよ。(はん)(けん)はこう答えたよ。
「((しょ)(かつ)(りょう)は)悪いことを聞けば必ず改めて、自分の過ちを誇らないし、賞罰の信義が天や神さえも感動させるくらいだったよ」
()()(えん)はこう言ったよ。
「いいね! もし私にこのような人がいて補佐してくれたら、どうして今日のような苦労があったのかな!」
(はん)(けん)は頭を下げてこう言ったよ。
「私はこっそりと聞いたところ、天下の人たちは、みんなが(とう)(がい)は不当に処刑されて、陛下(()()(えん))がそれを知っているのに正さないと言っているよ。(ふう)(とう)が言った『たとえ(れん)()()(ぼく)みたいな名将を得ても、彼らを使えないのと同じ』ということ?」
()()(えん)は笑ってこう言ったよ。
「私はちょうどそれを明らかにしようとしていたところなんだ。あなたの言葉で決意が固まったよ」
こうして詔を下して、(とう)(がい)の事を調べさせたよ。

陳寿の評価

本文

評曰:諸葛亮之為相國也,撫百姓,示儀軌,約官職,從權制,開誠心,布公道;盡忠益時者雖讎必賞,犯法怠慢者雖親必罰,服罪輸情者雖重必釋,游辭巧飾者雖輕必戮;善無微而不賞,惡無纖而不貶;庶事精練,物理其本,循名責實,虛偽不齒;終於邦域之內,咸畏而愛之,刑政雖峻而無怨者,以其用心平而勸戒明也。可謂識治之良才,管、蕭之亞匹矣。然連年動衆,未能成功,蓋應變將略,非其所長歟!(註42)(註43)(註44)(註45)

評すると、(しょ)(かつ)(りょう)(しょう)(こく)になると、民を慈しんで、儀礼や規範を示して、官職を簡素に整えて、情勢に応じて制度を定めて、誠実な心を開いて、公平な道を広めたよ。忠を尽くして時勢に役立つ人はたとえ敵でも必ず賞を与えて、法を犯して怠ける人はたとえ親しくても必ず罰して、罪を認めて心を改める人はたとえ重い罪でも許して、言葉巧みに飾り立てる人はたとえ軽い罪でも必ず処罰したよ。善い行いは小さくても賞をして、悪い行いは細かいものでも罰したの。すべての政務に詳しくて、物事の本質を理解して、名にふさわしい実を求めて、虚偽は排除したよ。だから国の内たちはみんな、彼を畏れながらも愛して、たとえ刑罰と政治が厳しくても不満を抱く者はいなかったんだ。それは彼の心が公平で、戒めと教えが明らかだったからだよね。彼はまさに治世を知る優れた人で、(かん)(ちゅう)(しょう)()に並ぶ人と言えるよ。でも、長年兵を動かしても成功しなかったのは、変化に対応する戦略が得意ではなかったからかもね。

袁子の評価

(註42)

袁子曰:或問諸葛亮何如人也,袁子曰:張飛、關羽與劉備俱起,爪牙腹心之臣,而武人也。晚得諸葛亮,因以為佐相,而羣臣恱服,劉備足信、亮足重故也。及其受六尺之孤,攝一國之政,事凡庸之君,專權而不失禮,行君事而國人不疑,如此即以為君臣百姓之心欣戴之矣。行法嚴而國人恱服,用民盡其力而下不怨。及其兵出入如賔,行不寇,芻蕘者不獵,如在國中。其用兵也,止如山,進退如風,兵出之日,天下震動,而人心不憂。亮死至今數十年,國人歌思,如周人之思召公也,孔子曰「雍也可使南靣」,諸葛亮有焉。

(えん)()(えん)(じゅん))』によると、ある人がこう尋ねたよ。
(しょ)(かつ)(りょう)はどんな人なの?」
(えん)()はこう言ったよ。
(ちょう)()(かん)()(りゅう)()と一緒に立ち上がって、爪牙(武力の支え)で、信頼できる臣下で、戦う武人でもあったよ。その後、(しょ)(かつ)(りょう)を得て、彼を補佐として使ったけど、臣下たちが喜んで従ったのは、(りゅう)()が信頼して、(しょ)(かつ)(りょう)が大切にされる人物だったからだよ。彼が6尺の幼い子を託されて、1つの国の政治を取り仕切ることになったよ。凡庸な君主((りゅう)(ぜん))に仕えながらも、専権して礼を失わないで、君主の事を代行しても国民に疑いを抱かせなかったんだ。そのようなあり方だから、君主と臣下や民は心から彼を喜んで敬うようになったの。
法を厳しく施いても国民は喜んで従って、民に力を尽くさせても下は怨まなかったんだって。彼が兵を出しても着脱しないで、まるで身分の高い人たちみたいに行軍して、薪を取る人も狩られなくて、まるで国の中にいるかのようだったんだ。彼が兵を使うときは、止まるときは山みたいに動かなくて、進退は風みたいに速かったよ。軍が動く日には天下が震れ動いたけど、人々の心には不安はなかったよ。
(しょ)(かつ)(りょう)の死から今まで数十年が経ったけど、国民は彼を歌って思い慕っているんだよ。まるで周の人たちが(しょう)(こう)を慕ったみたいにね。(こう)()は『(よう)(ちゅう)(きゅう))は南面させられる(人の上に立つ)』と言ったけど、(しょ)(かつ)(りょう)もまたそのような人だよ」

(註42)

又問諸葛亮始出隴右,南安、天水、安定三郡人反應之,若亮速進,則三郡非中國之有也,而亮徐行不進;旣而官兵上隴,三郡復,亮無尺寸之功,失此機,何也?袁子曰:蜀兵輕銳,良將少,亮始出,未知中國彊弱,是以疑而甞之;且大會者不求近功,所以不進也。曰:何以知其疑也?袁子曰:初出遲重,屯營重複,後轉降未進兵欲戰,亮勇而能鬬,三郡反而不速應,此其疑徵也。

さらに、ある人がこう質問したよ。
(しょ)(かつ)(りょう)が初めて(ろう)(ゆう)に出陣したとき、(なん)(あん)(てん)(すい)(あん)(てい)の3つの郡の人たちが(しょ)(かつ)(りょう)に応じて、(()に)反旗を翻したよ。もし(しょ)(かつ)(りょう)がすぐに進軍していたら、3つの郡は中原(())のものではなかったかも。でも、(しょ)(かつ)(りょう)はゆっくりと進軍して、すぐには進撃しなかったんだ。その後、()の軍が(ろう)に上ると3つの郡はふたたび()に戻っちゃった。(しょ)(かつ)(りょう)にはわずかな功績もなくなっちゃったし、この機会を逃したのはどうして?」
(えん)()はこう答えたよ。
(しょく)の兵は軽装で鋭いけど、優れた将軍は少ないんだ。(しょ)(かつ)(りょう)が出陣したばかりのとき、中原(())の強さと弱さがわからなかったから、慎重になって様子を見ていたの。それに、大きな目標を持つ人は目先の利益を求めないから、進軍しなかったの」
ある人がこう質問したよ。
「どうして彼が慎重になって様子を見ていたとわかるの?」
(えん)()はこう言ったよ。
「初めの出陣が遅くて慎重で、軍営の布陣も重ねて用心深くて、後に降伏する者が出てもすぐには軍を進めて戦おうとはしなくて、(しょ)(かつ)(りょう)は勇敢で戦えるけど、3つの郡が応じてもすぐに対応しなかったからね。これらが彼が慎重だった証拠だよ」

(註42)

曰:何以知其勇而能鬬也?袁子曰:亮之在街亭也,前軍大破,亮屯去數里,不救;官兵相接,又徐行,此其勇也。亮之行軍,安靜而堅重;安靜則易動,堅重則可以進退。亮法令明,賞罰信,士卒用命,赴險而不顧,此所以能鬬也。

ふたたびある人がこう質問したよ。
「どうして彼が勇敢で戦えるとわかるの?」
(えん)()はこう答えたよ。
(しょ)(かつ)(りょう)(がい)(てい)にいたとき、前線の軍が大きく敗れちゃったけど、(しょ)(かつ)(りょう)は数里離れたところに駐屯していて、救援に向かわなかったんだ。()の軍と交戦しても、彼は落ち着いて進軍したよ。これが彼の勇敢さだよ。(しょ)(かつ)(りょう)の行軍は安定していて慎重だったんだ。安定していればすぐに動けるし、慎重なら進退が自由だよね。(しょ)(かつ)(りょう)の法令は明確で、賞罰が信頼されていて、兵たちは命令に従って、危険に身を投じても恐れなかったの。これが彼が戦える理由なの」

(註42)

曰:亮帥數萬之衆,其所興造,若數十萬之功,是其奇者也。所至營壘、井竈、圊溷、藩籬、障塞皆應繩墨,一月之行,去之如始至,勞費而徒為飾好,何也?袁子曰:蜀人輕脫,亮故堅用之。曰:何以知其然也?袁子曰:亮治實而不治名,志大而所欲遠,非求近速者也。

ある人がこう質問したよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は数万の兵を率いていたけど、彼らの建てたものはまるで数十万の軍を動かしたかのような規模だったよね。これが彼のすごいところだね。彼の行く先々で、陣営、井戸やかまど、便所、柵、防壁などがすべて正確に整えられて、規則どおりだったよ。1ヶ月進軍しても、その地を去るときには、出発したばかりみたいに整っていたんだって。でも、これは労力と費用をかけて無駄に飾り立てているだけではないの? どうしてそうしたの?」
(えん)()はこう答えたよ。
「蜀の人たちは軽薄な性質があって、だからこそ(しょ)(かつ)(りょう)は彼らをしっかりと使ったんだ」
ふたたびある人がこう質問したよ。
「どうしてそれがわかるの?」
(えん)()はこう答えたよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は実質を重んじて、名声を追求めなくて、志は大きくて、遠い目標を持っていたんだ。彼は近くでの成果や素早い勝利を求める人ではなかったんだよ」

(註42)

曰:亮好治官府、次舍、橋梁、道路,此非急務,何也?袁子曰:小國賢才少,故欲其尊嚴也。亮之治蜀,田疇辟,倉廩實,器械利,蓄積饒,朝會不華,路無醉人。夫本立故末治,有餘力而後及小事,此所以勸其功也。

ある人がこう質問したよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は官庁、宿舎、橋、道などの建設を好んでいたけど、これは急ぎの仕事ではないのに、どうして?」
(えん)()はこう答えたよ。
「小さな国((しょく))では優れた才能を持つ人が少ないから、威厳と秩序を保つ必要があったんだ。(しょ)(かつ)(りょう)(しょく)を治めると、田畑を拓いて、倉庫には食料を満たして、器具や兵器は整備されて、蓄えも豊かだよ。天子に会う場は質素で、道には酔っ払いもいなかったんだよ。基本が整っているからこそ末端まで治められて、小さなことに手をかけるのも、まず土台が整ってからだよ。こうして、人々の努力を励ましたの」

(註42)

曰:子之論諸葛亮,則有證也。以亮之才而少其功,何也?袁子曰:亮,持本者也,其於應變,則非所長也,故不敢用其短。曰:然則吾子美之,何也?袁子曰:此固賢者之遠矣,安可以備體責也。夫能知所短而不用,此賢者之大也;知所短則知所長矣。夫前識與言而不中,亮之所不用也,此吾之所謂可也。

ある人がこう質問したよ。
「あなたの(しょ)(かつ)(りょう)についての論には証拠もあって筋が通っているよ。だけど、(しょ)(かつ)(りょう)は才能に比べてその功績が少ないのはどうして?」
(えん)()はこう答えたよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は基本を重んじる人だよ。状況に応じて変化に素早く対応するということには、得意ではなかったんだ。だから、自分の短所を使おうとはしなかったんだ」
ある人がこう質問したよ。
「それなら、どうしてあなたは(しょ)(かつ)(りょう)を高く評価するの?」
(えん)()はこう答えたよ。
「まさにそれこそ、賢者の深遠さで、あれこれ完璧を求めて責めることはできないよ。自分の短所を知って、それを使わないことが賢者の偉大なところだよ。自分の短所を知れば、長所も知ることができるよ。先を見通して語ったことが的を射ていないような場合、(しょ)(かつ)(りょう)はそれを使わなかったよ。これが私が彼を高く評価する理由だよ」

張儼の評価

(註43)

吳大鴻臚張儼作默記,其述佐篇論亮與司馬宣王書曰:漢朝傾覆,天下崩壞,豪傑之士,競希神器。魏氏跨中土,劉氏據益州,並稱兵海內,為世霸王。諸葛、司馬二相遭值際會,託身明主,或收功於蜀漢,或冊名於伊、洛。丕、備旣沒,後嗣旣統,各受保阿之任,輔翼幼主,不負然諾之誠,亦一國之宗臣,霸王之賢佐也。歷前世以觀近事,二相優劣,可得而詳也。

()(だい)(こう)()(ちょう)(げん)は『(もく)()』の中の『()(へん)』で、(しょ)(かつ)(りょう)()()()について論じてこう言ったよ。
(かん)の王朝が傾いて、天下が崩壊すると、豪傑たちが競って皇帝の位を手に入れようとしたよ。(ぎ))が中原を制して、(りゅう)()(えき)州を拠点として、それぞれが兵を挙げて世の中を制覇しようとしたんだ。(しょ)(かつ)(りょう)()()()のふたりの宰相は、このような時代に遭遇して、それぞれ明君にに仕えて身を託したよ。(しょ)(かつ)(りょう)(しょく)(かん)で功績を挙げて、()()()は伊洛((らく)(すい)()(すい)地方)で地位を得たよ。(そう)()(りゅう)()が亡くなった後、それぞれの後継者が統治を引き継いで、ふたりの相が若い主君を助ける任を受けて、誠実に助けて裏切らないで、その国の柱石となって、覇王たちの賢い補佐となったよ。過去を振り返って、近代の事と照らして見ると、彼らふたりの宰相の優劣を詳しく知ることができるよ。

(註43)

孔明起巴、蜀之地,蹈一州之土,方之大國,其戰士人民,蓋有九分之一也,而以貢贄大吳,抗對北敵,至使耕戰有伍,刑法整齊,提步卒數萬,長驅祁山,慨然有飲馬河、洛之志。仲達據天下十倍之地,仗兼并之衆,據牢城,擁精銳,無禽敵之意,務自保全而已,使彼孔明自來自去。若此人不亡,終其志意,連年運思,刻日興謀,則涼、雍不解甲,中國不釋鞌,勝負之勢,亦已決矣。昔子產治鄭,諸侯不敢加兵,蜀相其近之矣。方之司馬,不亦優乎!

(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))は()(しょく)の地から立ち上がって、1つの州の土地を踏んで国を支えたよ。その勢力は大国と比べると、その戦士や民はだいたい9分の1にすぎなかったんだ。でも、彼は()に貢ぎ物を送って、北の敵(())に対抗したよ。だから、民は農耕と戦いに従って、刑法は整って、数万の歩兵を率いて長い道のりを()(ざん)まで進んだよ。彼は黄河や洛水で馬に水を飲ませるという大きな志を抱いていたの。
一方、(ちゅう)(たつ)()()())は天下に10倍の領地があって、たくさんの兵を持っていて、堅い城を拠点にして、精鋭を抱えていたけど、敵を捕らえる意志はなくて、ただ自分を守ることに専念していたんだ。だから、(こう)(めい)は自由に動けたんだよ。もし(こう)(めい)が早くに亡くならないで、その志を最後まで貫いていたなら、長年にわたって思索を巡らせて、日に日に計略を立てただろうから、(りょう)州や(よう)州の兵は鎧を解かないで、中原の兵も鞍を外せなかったし、勝敗の形勢はすでに決まっていたに違いないよ。
昔、()(さん)(てい)を治めると、諸侯は兵を向けることができなかったよ。(しょく)の宰相((しょ)(かつ)(りょう))はその近くに達していたんだね。()()()と比べると、なおさら(しょ)(かつ)(りょう)が優れているのではないかな!

(註43)

或曰,兵者凶器,戰者危事也,有國者不務保安境內,綏靜百姓,而好開闢土地,征伐天下,未為得計也。諸葛丞相誠有匡佐之才,然處孤絕之地,戰士不滿五萬,自可閉關守險,君臣無事。空勞師旅,無歲不征,未能進咫尺之地,開帝王之基,而使國內受其荒殘,西土苦其役調。魏司馬懿才用兵衆,未易可輕,量敵而進,兵家所慎;若丞相必有以筭之,則未見坦然之勳,若無筭以裁之,則非明哲之謂,海內歸向之意也,余竊疑焉,請聞其說。

ある人がこう言ったよ。
「兵は凶器で、戦は危険なことだよ。国を持つ者は、まずは国内を安定させて民を穏やかに治めることに務めるべきで、むやみにを領土を広げたり、天下を征伐しようとするのは、決して得策ではないよね。(しょ)(かつ)(じょう)(しょう)(しょ)(かつ)(りょう))はたしかに補佐の才能があるけど、孤立した地にいて、戦士は5万人にも満たないのだから、本来は関を閉じて険しい地を守って、君主と臣下が無事でいるのがよいだろうね。なのに無駄に軍を動かして、毎年のように遠征を繰り返しながら、たった1寸の領土すら進めなくて、帝王の基盤を開くこともなかったから、国内は疲れ果てて、西の民は兵の取り立てに苦しむばかりだったんだ。
()()()()は兵を使う才があって、たくさんの兵を持っていて、侮るべき相手ではないよ。敵の強さを見極めて進退を決するのが兵法の慎みだよ。もし(じょう)(しょう)(しょ)(かつ)(りょう))がそれを計算に入れていたなら、今までに大きな成果が見えていないのはどうして? もし何の策もなく戦いを続けていたなら、それは賢明な人とは言えないし、天下の人たちが従う心を得られない道理だよね。私はこの点に疑問を持っているんだ。どうか意見を聞かせてほしいな」

(註43)

荅曰:蓋聞湯以七十里、文王以百里之地而有天下,皆用征伐而定之。揖讓而登王位者,惟舜、禹而已。今蜀、魏為敵戰之國,勢不俱王,自操、備時,彊弱縣殊,而備猶出兵陽平,禽夏侯淵。羽圍襄陽,將降曹仁,生獲于禁,當時北邊大小憂懼,孟德身出南陽,樂進、徐晃等為救,圍不即解,故蔣子通言彼時有徙許渡河之計,會國家襲取南郡,羽乃解軍。玄德與操,智力多少,士衆衆寡,用兵行軍之道,不可同年而語,猶能暫以取勝,是時又無大吳掎角之勢也。

こう答えるよ。
「そもそも(とう)(おう)は70里、(ぶん)(おう)は100里の地を持って天下を得たけど、みんな征伐をして平定したよ。譲られて王位に登ったのは、(しゅん)()だけだよ。今、(しょく)()は敵対して戦う国で、勢力が並び立ってどちらも王であるはずがないんだ。これは(そう)(そう)(りゅう)()の時から、強弱の差は明らかだったけど、それでも(りゅう)()(よう)(へい)に兵えを出して、()(こう)(えん)を捕えたよ。(かん)()(じょう)(よう)を包囲して、(そう)(じん)を降伏させようとして、()(きん)を生け捕りにしたよ。当時、北ではみんな不安におびえていて、(そう)(そう)(なん)(よう)に自ら出向いて、(がく)(しん)(じょ)(こう)たちを救援に向かわせたけど、包囲はすぐには解けなかったんだ。だから、(しょう)()(つう)(しょう)(せい))はその時『(きょ)()を移して、黄河を越えようとする計画すらあった』と語っているよ。でもちょうどその時、()(なん)郡を襲撃したから、(かん)()は軍を引いたの。(りゅう)()(そう)(そう)では、知力や勢力の大小、兵士の数や行軍の術も比べものにならなかったけど、それでも一時的には勝利を収めることができたよね。当時は、今のように()(しょく)が助け合って敵を挟撃するという有利な情勢もなかったのにね。

(註43)

今仲達之才,減於孔明,當時之勢,異於曩日,玄德尚與抗衡,孔明何以不可出軍而圖敵邪?昔樂毅以弱燕之衆,兼從五國之兵,長驅彊齊,下七十餘城。今蜀漢之卒,不少燕軍,君臣之接,信於樂毅,加以國家為脣齒之援,東西相應,首尾如蛇,形勢重大,不比於五國之兵也,何憚於彼而不可哉?夫兵以奇勝,制敵以智,土地廣狹,人馬多少,未可偏恃也。余觀彼治國之體,當時旣肅整,遺教在後,及其辭意懇切,陳進取之圖,忠謀謇謇,義形於主,雖古之管、晏,何以加之乎?

今、(ちゅう)(たつ)()()())の才能は(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))に劣っていて、当時の勢いも昔の日とは異なるよ。(りゅう)()はまだ敵と張り合えたけど、どうして(こう)(めい)は出兵して敵を討てなかったの? 昔、(がく)()は弱くて小さな(えん)の軍を率いて、5つの国の兵を合わせて強大な(せい)を攻めて、70以上の城を落としたよ。今、(しょく)(かん)の兵は(えん)の軍に少しも劣っていないし、君主と臣下の結びつきは(がく)()よりも固いものだよ。さらに、()は唇と歯の関係みたいに援護し合って、東西で応じ合って、頭と尾が蛇みたいに連携しているよ。この形勢は大きくて、5つの国の兵とは比べものにならないよ。だったら、どうして()を恐れて進めないの?
そもそも、兵は奇をもって勝って、敵を制するには智が必要だね。土地の広さや人と馬の多さだけを頼りにはできないんだ。(しょ)(かつ)(りょう)の国政の手法はすでに厳しく整っていて、後の世に残された教えも残っているよ。彼の言葉や意志は誠実で切実で、物事の計画を主張するときにも忠義に満ていて、その正義は君主の心にしっかりと訴えかけていたよ。これは古の(かん)(ちゅう)(あん)(えい)でも、どうしてこれに勝てるの?」

劉弘の表彰

(註44)

蜀記曰:晉永興中,鎮南將軍劉弘至隆中,觀亮故宅,立碣表閭,命太傅掾犍為李興為文曰:「天子命我于沔之陽,聽鼓鞞而永思,庶先哲之遺光,登隆山以遠望,軾諸葛之故鄉。蓋神物應機,大器無方,通人靡滯,大德不常。故谷風發而騶虞嘯,雲雷升而潛鱗驤;摯解褐於三聘,尼得招而褰裳,管豹變於受命,貢感激以回莊,異徐生之摘寶,釋卧龍於深藏,偉劉氏之傾蓋,嘉吾子之周行。夫有知己之主,則有竭命之良,固所以三分我漢鼎,跨帶我邊荒,抗衡我北面,馳騁我魏疆者也。

(しょく)()』によると、(しん)(えい)(こう)の年号の間(304~306年)、(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)(りゅう)(こう)(りゅう)(ちゅう)に着いて、(しょ)(かつ)(りょう)の住んでいた家を訪れて、石碑を立てて表彰して、(たい)()(えん)(けん)()の出身の()(こう)に命令して文を作らせたよ。
「天子は私に命令して(べん)(よう)へ行かせて、太鼓や(へい)の音を聞きながら、永く思いを巡らせたよ。(じょ)(しょ)の遺した輝きを仰ぎ見たくて、(りゅう)(ざん)に登って遠くを望んで、(しょ)(かつ)(りょう)の故郷を訪ねてみたんだ。神みたいな存在は機に応じて現れて、素晴らしい才能は絶えずに変化して、達した者はどこにもとどまらないで、美徳はめったに現れないよ。だから、東風が突然吹き荒れ、騶虞が鳴いて、雲と雷が鳴り響いて、潜んだ龍が深い所から姿を現すよ。()()(いん))は3度の招きに誠心をもって応じて衣を脱ぎ捨てて(官職に就いて)、(ちゅう)()(こう)())は招かれると裳を上げて、(かん)(ちゅう)は任命されて頭角を現して、(こう)()は深く感謝してふたたび仕えたよ。(じょ)(しょ)の宝を見つけて臥龍((しょ)(かつ)(りょう))を深い隠れ家から世に出させた力に驚いて、(りゅう)()(りゅう)())の出会いの素晴らしさに感動して、すばらしい行動をほめたたえるよ。理解してくれる主君があってこそ、命を尽くして仕える素晴らしい臣下も現れるよ。だから、(かん)の天下を3つに分けて、辺境を支配して、北の大国(())と対等に渡り合って、()の領土を駆けめぐることができたんだね。

(註44)

英哉吾子,獨含天靈。豈神之祇,豈人之精?何思之深,何德之清!異世通夢,恨不同生。推子八陣,不在孫、吳,木牛之奇,則非般模,神弩之功,一何微妙!千井齊甃,又何祕要!昔在顛、夭,有名無迹,孰若吾儕,良籌妙畫?臧文旣沒,以言見稱,又未若子,言行並徵。夷吾反坫,樂毅不終,奚比於爾,明哲守沖。臨終受寄,讓過許由,負扆莅事,民言不流。刑中於鄭,教美于魯,蜀民知恥,河、渭安堵。匪皐則伊,寧彼管、晏,豈徒聖宣,慷慨屢歎!

あなたはなんて卓越しているんだ、まさしく天の霊を一身に宿しているよ。それは神や人間の本質を上回っているの? その思いはなんて深くて、その徳はなんて清らかなの! 時代を越えて夢に通じるほどの存在なのに、私は同じ時に生きることができなかったのが残念なんだ。あなたの『八陣の法』は、(そん)()()()にも見られないもので、木牛や流馬の奇策は、もはや古にも見られないし、神弩の功績は置く深くて、1,000の井戸を一斉に築いたことも、何と秘められた美しさなの! 昔の(たい)(てん)(こう)(よう)は後の世に名を残したけど、記録が残っていないんだ。どうして私たちはあなたみたいに良い策を立てられるの? (ぞう)(ぶん)(ちゅう)は亡くなった後、その弁舌でたたえられたけど、それと比べてもあなたは、言葉と行いの両方で証明されていて、まさに並ぶ者のいない存在だね。(かん)()()(かん)(ちゅう))は杯を返して、(がく)()は志を遂げられなかったけど、どうしてあなたと比べられるの? あなたは明哲で謙虚さを守り抜いたよ。(りゅう)()が亡くなる時に後を託されて、功績を他人に譲ることは、許由みたいだったよ。皇帝の背後に控えて、政治を執り行って、民からの不満の声は上がらなかったよ。刑罰は(てい)のように正しくて、教えを広めることは()よりも美しくて、(しょく)の民は名誉と恥を知って、黄河や渭水の流域は安らかに暮らしていたよ。まさに(こう)(よう)や{伊尹|い|いん]と比べられるくらいで、どうして(かん)(ちゅう)(あん)(えい)みたいな良い臣下にとどまるの? だから、ただの聖人の評にとどまらなくて、あなたのことを思うと、私は何度も嘆かないではいられないの。

(註44)

昔爾之隱,卜惟此宅,仁智所處,能無規廓。日居月諸,時殞其夕,誰能不歿,貴有遺格。惟子之勳,移風來世,詠歌餘典,懦夫將厲。遐哉邈矣,厥規卓矣,凡若吾子,難可究已。疇昔之乖,萬里殊塗;今我來思,覿爾故墟。漢高歸魂於豐、沛,太公五世而反周,想魍魎以髣髴,兾影響之有餘。魂而有靈,豈其識諸!」

昔、あなたが隠れ住む地として選んだのは、まさにこの住まいだったんだ。仁と智を持つ者が住む場所で、計画が欠けていたわけがないよね。太陽は日々昇って、月はめぐって、時は流れて、やがて夕暮れを迎えて、誰もが死を免れることはできないけど、大切なのは後に残る徳だよ。あなたの功績は風を変えて、後の世を導いて、その残した教えや詩歌は、人々を奮い立たせて、弱き者さえも励ますだろうね。
あなたの高い徳は大きくて、まさにあなたのような人物は、凡人にはとうてい測り知れないね。昔、私は思いが分かれていて、はるか遠くのかなたにいて同じ道を歩めなかったけど、今こうして私は、あなたの旧い家を訪ねて、しみじみとあなたを思っているの。(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))の霊は(ほう)(はい)(りゅう)(ほう)の故郷)に帰って、(たい)(こう)(りょ)(しょう))の5世代は(しゅう)に葬られたんだ。今、霊を思い浮かべると、その姿や声が聞こえてくるようだね。もし魂に霊があったら、あなたは、これを感じ取ってくださっているかな!」

(註45)

王隱晉書云:李興,密之子;一名安。

(おう)(いん)の『(しん)(じょ)』によると、()(こう)()(みつ)の子だよ。別の名は()(あん)だよ。

(しょ)(かつ)(りょう)さん、大切な人のために世界を敵に回す人かな? 信念が強すぎる! でも、過労は本人だけがつらいのではなくて、周りの人もビビっちゃうからね。(しょ)(かつ)(りょう)さん、甘えるの下手そう。
(ちん)寿(じゅ)さんも(はい)(しょう)()さんも他の伝と比べて熱量が違うかも。すてきな人について語ると熱くなっちゃうのめっちゃわかる。

「蜀書諸葛亮伝」は以上だよ!

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