正史『三国志』呉書破虜伝をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』呉書破虜伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「破虜伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そん)(けん) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 吳書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

孫堅の出世

本文

孫堅字文臺,吳郡富春人,蓋孫武之後也。(註1)

(そん)(けん)は、(あざな)(ぶん)(だい)だよ。彼は()郡の()(しゅん)に生まれたんだよ。(そん)()の子孫なんだって。

(そん)()は、春秋戦国時代の武将・思想家だよ。兵法書『孫子』の著者だよ。

(註1)

吳書曰:堅世仕吳,家于富春,葬於城東。冢上數有光怪,雲氣五色,上屬於天,曼延數里。衆皆往觀視。父老相謂曰:「是非凡氣,孫氏其興矣!」及母懷姙堅,夢腸出繞吳昌門,寤而懼之,以告鄰母。鄰母曰:「安知非吉徵也。」堅生,容貌不凡,性闊達,好奇節。

()(しょ)』によると、(そん)(けん)の家系は()郡で仕えて、()(しゅん)に家があって、(じょう)(とう)に先祖が葬られていたんだよ。墓の上には不思議な光がいっぱい輝いて、空には五色の雲が昇って、広がって何里も続いていたんだって。みんなびっくりして見に行ったよ。年長者たちはお互いに話し合ったよ。
「これはすごいことが起こる予感だよ。(そん)()は興隆するよ!」
(そん)(けん)の母が妊娠している間、夢の中で腸が出て呉昌門を囲むのを見たんだよ。母は目を覚ますと驚いて、隣の母親に話したよ。
隣の母親はこう言ったよ。
「どうして良い兆しではないってわかるの?」
(そん)(けん)が生まれると、容姿は普通ではなくて、広い心を持っていて、好奇心旺盛だったんだって。

本文

少為縣吏。年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,舩不敢進。堅謂父曰:「此賊可擊,請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀。賊望見,以為官兵捕之,即委財物散走。堅追,斬得一級以還;父大驚。由是顯聞,府召署假尉。

(そん)(けん)はまだ若かったけど、県の役人になったよ。17歳の時、父と一緒に船に乗って、(せん)(とう)に行ったんだ。その途中で、海賊の()(ぎょく)たちが(ほう)()から上陸して商人の品物を奪って、岸で品物を分け合っていたんだ。旅人たちはみんな立ち止まってしまって、船は進めなくなっちゃった。
(そん)(けん)は父にこう言ったよ。
「この海賊たちをやっつけられると思うんだ! 私に討伐させて!」
でも、父は言ったよ。
「お前には無理だよ」
それでも、(そん)(けん)は剣を手にして岸に上がったんだ。彼は手を振って東西に指をさして、まるで人や兵を配置して賊を包囲しているみたいに見せかけたよ。賊たちがそれを見て、官兵に追われると思って、財物を捨てて逃げちゃったの。
(そん)(けん)は賊を追いかけて、首領を斬って首を持って帰ってきたの。父はとてもびっくりしたよ。このことが広まって、府の役人たちは彼を呼び寄せて、(かい)()に任命したんだ。

本文

會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,(註2)與其子韶扇動諸縣,衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歲,熹平元年也。刺史臧旻列上功狀,詔書除堅鹽瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞。(註3)

(かい)(けい)にいた妖賊(宗教的な指導者)の(きょ)(しょう)が「陽明皇帝」を自称して、子の(きょ)(しょう)と一緒に(こう)(しょう)から出て、数万人を扇動したよ。(そん)(けん)は郡の()()として、勇敢な人を募集して、1,000人以上を集めたんだ。そして、州や郡の力を合わせて、妖賊を打ち破ったよ。この年は()(へい)元年(172年)だよ。
()()(州の長官)の(ぞう)(びん)は功績を並べて詔書を出して、(そん)(けん)(えん)(とく)(じょう)に任命したよ。そして、数年後に盱眙(くい)(じょう)、更にその後に()()(じょう)に転任したんだよ。

(註2)

靈帝紀曰:昌以其父為越王也。

(れい)(てい)()』によると、(きょ)(しょう)は彼の父が(えつ)(おう)だから、その名を得たんだって。

(註3)

江表傳曰:堅歷佐三縣,所在有稱,吏民親附。鄉里知舊,好事少年,往來者常數百人,堅接撫待養,有若子弟焉。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)は3つの県で補佐官を務めたよ。その地域では、彼の評判が高くて、役人や民は彼に親しみを持っていたよ。彼の故郷では、昔から有名な存在で、若者たちが彼に憧れて訪ねてくることもあって、いつも数百人が行き来していたよ。(そん)(けん)は彼らを温かく迎えて、励まして育てて、まるで自分の子弟みたいに大事にしたんだよ。

黄巾賊の台頭

本文

中平元年,黃巾賊帥張角起於魏郡,託有神靈,遣八使以善道教化天下,而潛相連結,自稱黃天泰平。三月甲子,三十六萬一旦俱發,天下響應,燔燒郡縣,殺害長吏。(註4)

(ちゅう)(へい)元年(184年)、黄巾賊の首領の(ちょう)(かく)()郡で立ち上がったんだ。神から力を受けていると言って、良い道を天下に教えて導くために8人の使者を送って、こっそりと勢力を集めて、「(こう)(てん)(たい)(へい)(黄天が立って泰平が訪れること)」と名乗ったよ。三月の甲子の日、なんと36万人以上が一斉に行動を始めちゃって、天下に響き渡ったよ。彼らは郡や県を襲って火をつけたり、(ちょう)()(行政官)を殺したりしたんだ。

(註4)

獻帝春秋曰:角稱天公將軍,角弟寶稱地公將軍,寶弟梁稱人公將軍。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(ちょう)(かく)は「(てん)(こう)(しょう)(ぐん)」と自称して、(ちょう)(かく)の弟の(ちょう)(ほう)は「()(こう)(しょう)(ぐん)」、(ちょう)(ほう)の弟の(ちょう)(りょう)は「(じん)(こう)(しょう)(ぐん)」と名乗っていたんだって。

本文

漢遣車騎將軍皇甫嵩、中郎將朱儁將兵討擊之。儁表請堅為佐軍司馬,鄉里少年隨在下邳者皆願從。堅又募諸商旅及淮、泗精兵,合千許人,與儁并力奮擊,所向無前。(註5)

(かん)の朝廷は、(しゃ)()(しょう)(ぐん)(こう)()(すう)(ちゅう)(ろう)(しょう)(しゅ)(しゅん)に、兵を率いさせて、黄巾賊を討伐させたよ。(しゅ)(しゅん)が、(そん)(けん)佐軍司馬(さぐんしば)として推薦したよ。(そん)(けん)の故郷の若者や()()にいた人たちも、彼に従いたいって言ったんだ。(そん)(けん)は、商人たちや(わい)(すい)()(すい)地方の優れた兵を募集して、合わせて1,000人集めたよ。(しゅ)(しゅん)と力を合わせて戦ったら、どこにでも勝てちゃったの。

(註5)

吳書曰:堅乘勝深入,於西華失利。堅被創墮馬,卧草中。軍衆分散,不知堅所在。堅所騎騘馬馳還營,捂地呼鳴,將士隨馬於草中得堅。堅還營十數日,創少愈,乃復出戰。

()(しょ)』によると、(そん)(けん)は勢いに乗って深く敵陣に入っちゃって、西(せい)()で敗北しちゃった。(そん)(けん)は怪我をして、馬から落ちて、草の中で横たわっていたよ。軍勢は散り散りになっちゃって、(そん)(けん)の行方がわからなくなっちゃったの。でも、(そん)(けん)の乗っていた馬が陣営に戻ってきて、地面を蹴って鳴いたんだ。それを見た将や兵たちは馬に従って草の中で(そん)(けん)を見つけたんだよ。(そん)(けん)は陣営に戻ってから十数日間、だんだん傷も良くなって、ふたたび戦いに向かったよ。

本文

汝、潁賊困迫,走保宛城。堅身當一面,登城先入,衆乃蟻附,遂大破之。儁具以狀聞上,拜堅別部司馬。(註6)

敵は(じょ)(えい)(せん)に追い詰められて、(えん)(じょう)まで逃げちゃった。(そん)(けん)は先頭に立って、城を登って中に入ったよ。みんなも続いて攻撃して、敵に大勝利! (しゅ)(しゅん)はこの事を詳しく上に報告して、(そん)(けん)(べつ)()()()に任命したよ。

本文

(註6)續漢書曰:儁字公偉,會稽人,少好學,為郡功曹,察孝廉,舉進士。漢朝以討黃巾功拜車騎將軍,累遷河南尹。董卓見儁,外甚親納,而心忌之,儁亦陰備焉。關東兵起,卓議移都,儁輒止卓。卓雖憚儁,然貪其名重,乃表拜太僕以自副。

(ぞく)(かん)(じょ)』によると、(しゅ)(しゅん)は、(あざな)(こう)()で、(かい)(けい)の出身だよ。幼い頃から学ぶことが好きで、郡の(こう)(そう)として働いていたんだよ。彼は孝廉に選ばれて、進士として推挙されたよ。(かん)の朝廷は、(しゅ)(しゅん)を黄巾賊討伐の功績で(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命して、その後、()(なん)(いん)に昇進させたよ。
(とう)(たく)(しゅ)(しゅん)に会って、外面では親しく接していたけど、内心では警戒していたんだ。(しゅ)(しゅん)もまた、そんな(とう)(たく)に用心深く接していたよ。関東地方で兵乱が起こった時、(とう)(たく)は都を移すことを提案したけど、(しゅ)(しゅん)はその提案を食い止めたんだよ。(とう)(たく)(しゅ)(しゅん)を嫌っていたけど、彼の名声を利用しようとして、(たい)(ぼく)に任命して自分の副官にしようとしたんだ。

関東は(かん)(こく)(かん)より東を指すよ。

(註6)

儁被召不肯受拜,因進曰:「國不宜遷,必孤天下望,成山東之結,臣不見其可也。」有司詰曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,何也?」儁曰:「副相國,非臣所堪也。遷都非計,臣之所急也。辭所不堪,進臣所急,臣之所宜也。」

(しゅ)(しゅん)は呼び出されて職を受けることを拒んで、進言したよ。
「都を移すべきではないよ。必ず天下の期待を裏切って、山東((えん)(しょう)たち)の連携を成し遂げるだけで、私にはその利益がわからないんだ」
役人は彼に問い詰めたよ。
「あなたを呼んで(たい)(ぼく)を受けさせようとしているのに、あなたはそれを断ったよね。質問していないのに、都を移すことについて話し始めたのはどうして?」
(しゅ)(しゅん)は答えたよ。
「相国の副官は、私には務まらないよ。都を移すことの計画の無さは、気がかりだよ。私ができないことは避けて、気になることを進言するのは臣下としての本分だよ」

(註6)

有司曰:「遷都之事,初無此計也,就有,未露,何所受聞?」儁曰:「相國董卓為臣說之,臣聞之於相國。」有司不能屈,朝廷稱服焉。後為太尉。李傕、郭汜相攻,劫質天子公卿,儁性剛,即發病而卒。

役人はこう言ったよ。
「都を移す計画ははじめから存在しなかったんだ。もし存在するとしても、まだ明らかにされていないよ。どこで聞いたの?」
(しゅ)(しゅん)は答えたよ。
(しょう)(こく)(とう)(たく)が私に話してくれたよ。私は(しょう)(こく)から聞いたんだ」
役人は(しゅ)(しゅん)を屈服できなくて、朝廷は彼に従ったよ。その後、(しゅ)(しゅん)(たい)()になったよ。
()(かく)(かく)()が争いを起こして、天子や公卿を脅して人質に取ったら、(しゅ)(しゅん)は意志の固い性格だったから、病を発してすぐに亡くなったよ。

反乱軍の討伐

本文

邊章、韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年,遣司空張溫行車騎將軍,西討章等。溫表請堅與參軍事,屯長安。溫以詔書召卓,卓良乆乃詣溫。溫責讓卓,卓應對不順。

(へん)(しょう)(かん)(すい)(りょう)州で乱を起こしちゃった。それで、(ちゅう)(ろう)(しょう)(とう)(たく)が討伐に向かったんだけど、どうにもならなかったんだ。中平3年(186年)に、朝廷は()(くう)(ちょう)(おん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命して、(へん)(しょう)たちを討伐させたよ。(ちょう)(おん)(そん)(けん)を軍に加えて一緒に討伐に参加するように願い出て、(ちょう)(あん)に駐屯したよ。(ちょう)(おん)は詔書で(とう)(たく)を呼んだけど、(とう)(たく)はなかなか来なくて、やっと来た時、(ちょう)(おん)(とう)(たく)が遅れたことを責めたけど、(とう)(たく)は応じなかったんだ。

(りょう)州は、現在の甘粛省南部、青海省東部などを含む地域を指すよ。(そん)(けん)さんの生まれた()郡からはものすごく遠いね。

本文

堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之間,今日殺之,西行無依。」堅曰:「明公親率王兵,威震天下,何賴於卓?觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也。章、遂跋扈經年,當以時進討,而卓云未可,沮軍疑衆,二罪也。卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也。古之名將,仗鉞臨衆,未有不斷斬以示威者也,是以穰苴斬莊賈,魏絳戮楊干。今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發舉,乃曰:「君且還,卓將疑人。」堅因起出。

その時に(そん)(けん)も座っていて、前に進んで(ちょう)(おん)の耳元でこう言ったよ。
(とう)(たく)は罪を恐れないで威張って大きなことを言っているよ。呼んだのに時間どおりに来なかった理由で、軍法に従って斬るべきだよね」
でも、(ちょう)(おん)はこう言ったんだ。
(とう)(たく)は昔から(ろう)(しょく)の間で名を馳せている人物だから、殺しちゃうと西方に行くために頼りにする人がいなくなっちゃうよ」
それでも(そん)(けん)はこう言ったよ。
「あなたは王の兵を自ら率いて指揮して、天下に威を示しているわけだから、どうして(とう)(たく)に頼るの? (とう)(たく)が言っていることを見ると、あなたに頼らなくてもいいって思いあがって、上の人に対して礼が無いよね。これが1つ目の罪だよ。
(へん)(しょう)(かん)(すい)は長い間横暴を行っていたから、すぐに討つべきだったけど、(とう)(たく)は適切な時期ではないと言って、軍の信頼を落とした罪があるよね。これが2つ目の罪だよ。
それから、(とう)(たく)は任命されても功績が無くて、呼ばれても応じなくて、高慢な態度で自分勝手に行動した罪があるよね。これが3つ目の罪だよ。
古代の名将たちは、鉞を持って出征して、罪人を斬って威を示さなかった人はいないよ。(じょう)(しょ)()()(じょう)(しょ))が(そう)()を斬って、()(こう)(よう)(かん)を処刑したよね。今、あなたは(とう)(たく)に気をつけているのに、すぐに罰を与えないことは、威を失うことになっちゃうよ」
(ちょう)(おん)は耐えられなくて言ったよ。
「あなたはいったん帰ってくれ。(とう)(たく)が疑うから」
(そん)(けん)は立ち上がって出て行っちゃった。

()()(じょう)(しょ)は、春秋時代の将軍だよ。()()(じょう)(しょ)は、(そう)()が約束を破って遅れて来たために斬ったんだよ。
(そう)()は、春秋時代の人物だよ。
()(こう)は、春秋時代の人物だよ。()(こう)は、(よう)(かん)が軍列を乱したから処刑したんだよ。
(よう)(かん)は、春秋時代の人物だよ。

本文

章、遂聞大兵向至,黨衆離散,皆乞降。軍還,議者以軍未臨敵,不斷功賞,然聞堅數卓三罪,勸溫斬之,無不歎息。拜堅議郎。

(へん)(しょう)(かん)(すい)は大軍が迫ってくると聞いて、仲間たちは散り散りになって、降伏したいと言ったんだ。軍が帰ると、議論の中で、軍はまだ敵に接触していないのに功績や報酬を与えることはおかしいっていう声が上がったよ。でも、(そん)(けん)(とう)(たく)の3つの罪を数え上げて(ちょう)(おん)(とう)(たく)を斬るように勧めたと聞いて、みんなはため息をついちゃって、(そん)(けん)()(ろう)に任命したよ。

本文

時長沙賊區星自稱將軍,衆萬餘人,攻圍城邑,乃以堅為長沙太守。到郡親率將士,施設方略,旬月之閒,克破星等。(註7)

当時、(ちょう)()で、賊の(おう)(せい)が将軍を自称して、1万人以上の軍を率いて都市を攻撃したんだ。(そん)(けん)(ちょう)()(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命されたよ。郡に着くと、彼は将と兵を率いて、戦略を立てて、数週間の間に(おう)(せい)たちを打ち破ったよ。

(註7)

魏書曰:堅到郡,郡中震服,任用良吏。勑吏曰:「謹遇良善,治官曹文書,必循治,以盜賊付太守。」

()(しょ)』によると、(そん)(けん)(ちょう)()郡に着いたら、郡の中は恐れて、彼に従うようになって、優秀な役人たちが採用されたんだ。役人たちに勅令が下されたよ。
「善良な人たちに敬意を払って、役所の文書を正しく処理して、法律を必ず守ってね。盗賊を取り締まるためには、(たい)(しゅ)(そん)(けん))に任せてくれ」

本文

周朝、郭石亦帥徒衆起於零、桂,與星相應。遂越境尋討,三郡肅然。漢朝錄前後功,封堅烏程侯。(註8)

(しゅう)(ちょう)(かく)(せき)もたくさんの人たちを率いて(れい)(りょう)(けい)(よう)で反乱を起こして、(おう)(せい)と連携したんだ。(そん)(けん)は郡の境を越えて彼らを討って、3つの郡を沈静化したよ。(かん)の朝廷がその功績を記録して報酬を与えて、(そん)(けん)()(てい)(こう)に封じたよ。

(註8)

吳錄曰:是時廬江太守陸康從子作宜春長,為賊所攻,遣使求救於堅。堅整嚴救之。主簿進諫,堅荅曰:「太守無文德,以征伐為功,越界攻討,以全異國。以此獲罪,何媿海內乎?」乃進兵往救,賊聞而走之。

()(ろく)』によると、この時、()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(りく)(こう)の従子は()(しゅん)(ちょう)で、彼は賊に攻められていたんだ。彼は助けを求める使者を(そん)(けん)に送ったよ。(そん)(けん)は軍勢を整えて救援しようとしたよ。(しゅ)簿()(書記官)が進んで諫めたけど、(そん)(けん)は答えたよ。
(たい)(しゅ)(そん)(けん))には学問がなくて、征伐によって功績を立てて、国境を越えて攻め討つことで、他国を守っていると考えているよ。このような行動で罪を犯すことになっても、内外の人たちに恥じらうことはないよね」
こうして(そん)(けん)は進軍して救援に向かって、賊はこれを聞いて逃げちゃった。

董卓を討つために

本文

靈帝崩,卓擅朝政,橫恣京城。諸州郡並興義兵,欲以討卓。(註9)堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮,堅過殺之。(註10)(註11)

(れい)(てい)が亡くなって、(とう)(たく)が朝廷の政治を乱用して、都を荒らしちゃった。だから、州や郡から(とう)(たく)を討とうと義兵が立ち上がったんだ。(そん)(けん)も兵を起こしたよ。(けい)(しゅう)()()(州の長官)の(おう)(えい)は、(そん)(けん)に失礼な態度を取ったから、(そん)(けん)(けい)州を通過するときに彼を殺しちゃった。

(註9)

江表傳曰:堅聞之,拊膺歎曰:「張公昔從吾言,朝廷今無此難也。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)はそれを聞いて、胸をたたいて嘆いたよ。
「張公((ちょう)(おん))が昔、私の言うことを聞いてくれていれば、今の朝廷にこんな難しい問題はなかったのに」

(註10)

案王氏譜,叡字通耀,晉太保祥伯父也。

(おう)()の家系を調べたところ、(おう)(えい)は、(あざな)(つう)耀(よう)で、(しん)(たい)()(おう)(しょう)の伯父だよ。

(註11)

吳錄曰:叡先與堅共擊零、桂賊,以堅武官,言頗輕之。及叡舉兵欲討卓,素與武陵太守曹寅不相能,楊言當先殺寅。寅懼,詐作案行使者光祿大夫溫毅檄,移堅,說叡罪過,令收行刑訖,以狀上。堅即承檄勒兵襲叡。

()(ろく)』によると、(おう)(えい)は前に、(そん)(けん)と一緒に(れい)(りょう)(けい)(よう)の賊を攻撃したけど、(おう)(えい)(そん)(けん)を武官だからって軽く見ていたんだって。(おう)(えい)(とう)(たく)を討つために軍を起こすと、()(りょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(そう)(いん)とは仲が悪くて、先に(そう)(いん)を殺すと言っていたんだよ。(そう)(いん)は怖くなって、(あん)(こう)使()(しゃ)(こう)(ろく)(たい)()(おん)()の名を使って偽の命令書を作って、(そん)(けん)に届けたよ。(おう)(えい)の悪いことをたくさん書いて、彼を捕まえて処刑するように命令したよ。(そん)(けん)はその命令に従って、兵を連れて(おう)(えい)を襲いに行ったよ。

(註11)

叡聞兵至,登樓望之,遣問欲何為,堅前部荅曰:「兵乆戰勞苦,所得賞,不足以為衣服,詣使君更乞資直耳。」叡曰:「刺史豈有所吝?」便開庫藏,使自入視之,知有所遺不。兵進及樓下,叡見堅,驚曰:「兵自求賞,孫府君何以在其中?」堅曰:「被使者檄誅君。」叡曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知。」叡窮迫,刮金飲之而死。

(おう)(えい)は兵がやってくるのを聞いて、楼に登って覗いてみたんだ。(そん)(けん)に向かって、何を求めているか聞いたんだ。(そん)(けん)の前衛部隊の兵が答えたよ。
「兵は疲れていて、戦いに苦労しているけど、もらえる報酬では十分な衣服すら手に入らないから、あなたに資金を借りたいんだ」
(おう)(えい)はこう言ったよ。
()()(おう)(えい))が何を気にかけることがあるの?」
彼はすぐに倉庫を開けて、中を見せて、何も残っている物が無いことを示したよ。そのまま兵たちが楼の下へ進んできて、(おう)(えい)(そん)(けん)を見つけて驚いちゃった。(おう)(えい)は尋ねたよ。
「兵たちが報酬を求めに来たのに、あなたがどうしてここにいるの?」
(そん)(けん)は答えたよ。
「使者からの命令であなたを処罰するために来たんだよ」
(おう)(えい)は言ったよ。
「私に何の罪があるの?」
(そん)(けん)は答えたよ。
「座っていたから知らないということが罪だよ」
(おう)(えい)は追い詰められて、金を削って飲んで亡くなっちゃった。

本文

比至南陽,衆數萬人。南陽太守張咨聞軍至,晏然自若。(註12)(註13)

(そん)(けん)(なん)(よう)に着くと、数万の兵を引き連れていたよ。(なん)(よう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(ちょう)()は、(そん)(けん)の軍が近づいてきたと聞いても、平気な顔でいたよ。

(註12)

英雄記曰:咨字子議,潁川人,亦知名。

(えい)(ゆう)()』によると、(ちょう)()は、(あざな)()()で、(えい)(せん)の出身で、名を知られていたよ。

(註13)

獻帝春秋曰:袁術表堅假中郎將。堅到南陽,移檄太守請軍糧。咨以問綱紀,綱紀曰:「堅鄰郡二千石,不應調發。」咨遂不與。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(えん)(じゅつ)(そん)(けん)(ちゅう)(ろう)(しょう)の地位を授けるように上表したんだって。(そん)(けん)(なん)(よう)に着くと、(たい)(しゅ)(ちょう)())に知らせを送って軍糧を求めたよ。そこで(ちょう)()(こう)()(しゅ)簿())に相談したんだ。(こう)()は「(そん)(けん)は隣の郡((ちょう)())で二千石の官位を持っているから、人や物を与える必要はないよ」と答えて、(ちょう)()は軍糧を提供しなかったんだ。

本文

堅以牛酒禮咨,咨明日亦荅詣堅。酒酣,長沙主簿入白堅:「前移南陽,而道路不治,軍資不具,請收主簿推問意故。」咨大懼欲去,兵陳四周不得出。有頃,主簿復入白堅:「南陽太守稽停義兵,使賊不時討,請收出案軍法從事。」便牽咨於軍門斬之。郡中震慄,無求不獲。(註14)

(そん)(けん)は牛と酒を贈って(ちょう)()に敬意を表して、翌日に(ちょう)()(そん)(けん)を訪ねたよ。酒が進む中で、(ちょう)()(しゅ)簿()が入ってきて、(そん)(けん)に報告をしたよ。
(なん)(よう)に移動する途中で道が整備されていなくて、軍の物資も足りないんだ。郡の(しゅ)簿()にその理由を聞きたいな」
(ちょう)()は怖くなっちゃって逃げようとしたけど、兵たちが四方を囲んで出られなくなっちゃった。しばらくして、(しゅ)簿()がまた現れて、(そん)(けん)に伝えたよ。
(なん)(よう)(たい)(しゅ)(ちょう)())が義兵を動かすことを止めて、賊を討つことを遅らせているよ。軍法に従って、詳しく調査したいな」
すぐに(ちょう)()を引きずり出して、軍門で斬ったよ。郡内は震え上がって、(そん)(けん)は何でも求めると手に入れることができたんだ。

(註14)

吳歷曰:初堅至南陽,咨旣不給軍糧,又不肯見堅。堅欲進兵,恐有後患,乃詐得急疾,舉軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川。遣所親人說咨,言病困,欲以兵付咨。咨聞之,心利其兵,即將步騎五六百人詣營省堅。堅卧與相見。無何,卒然而起,按劒罵咨,遂執斬之。此語與本傳不同。

()(れき)』によると、(そん)(けん)(なん)(よう)に着いた頃、(ちょう)()は軍糧を供給しないし、(そん)(けん)と会おうともしなかったんだって。(そん)(けん)は兵を進めるつもりだったけど、後々のことを心配して、急病にみせかけることにしたの。軍勢は驚いて、巫女や医者を呼んで山や川に祈りを捧げたよ。(そん)(けん)は親しい人を(ちょう)()のところへ送って、(ちょう)()に「(そん)(けん)は病に苦しんでいて、兵を(ちょう)()に預けたいと思っているんだ」と伝えたよ。(ちょう)()はそれを聞いて、(そん)(けん)の兵を手に入れれば利益になると考えて、500から600人の歩兵と騎兵を率いて(そん)(けん)の陣営にやって来たよ。(そん)(けん)は寝たまま、(ちょう)()と会って話し始めたんだ。でも突然、(そん)(けん)は起き上がって剣を手に取って、(ちょう)()を非難したよ。そして(ちょう)()を斬っちゃったの。この話は本伝とは違うみたい。

本文

前到魯陽,與袁術相見。術表堅行破虜將軍,領豫州刺史。遂治兵於魯陽城。當進軍討卓,遣長史公仇稱將兵從事還州督促軍糧。施帳幔於城東門外,祖道送稱,官屬並會。卓遣步騎數萬人逆堅,輕騎數十先到。堅方行酒談笑,勑部曲整頓行陣,無得妄動。

前進して()(よう)に着いて、(えん)(じゅつ)と会ったよ。(えん)(じゅつ)は、(そん)(けん)()(りょ)(しょう)(ぐん)に推薦して、()(しゅう)()()(州の長官)に任命したよ。(そん)(けん)()(よう)城で兵を整えたよ。(とう)(たく)を討つために進軍する時、(ちょう)()(こう)(きゅう)(しょう)に兵を指揮させて、州に戻って軍糧を急いで取りまとめさせたよ。そして、城の東の門の外に帳幕を張って、(こう)(きゅう)(しょう)を見送るために、役人の部下たちが集まっていたんだ。
一方、(とう)(たく)は歩兵と騎兵を数万人も率いて、(そん)(けん)に向かって逆襲してきたよ。まずは数十人の軽騎兵が着いたよ。(そん)(けん)はちょうど酒盛りで楽しく談笑していたところだったけど、兵たちに陣を整えるように命令して、むやみに行動することは許さなかったよ。

本文

後騎漸益,堅徐罷坐,導引入城,乃謂左右曰:「向堅所以不即起者,恐兵相蹈藉,諸君不得入耳。」卓兵見堅士衆甚整,不敢攻城,乃引還。(註15)

騎兵がますます増えてきたから、(そん)(けん)はゆっくりと立ち上がって、城に入ったよ。そして、周りの人たちにこう言ったよ。
「さっきすぐに起き上がらなかったのは、兵たちが踏みつけ合ってしまって、あなたたちが入れなくなってしまうのを心配したからさ」
すると、(とう)(たく)の兵たちは(そん)(けん)の兵たちが整っているのを見て、攻めることができなくて、引き返したよ。

(註15)

英雄記曰:初堅討董卓,到梁縣之陽人。卓亦遣兵步騎五千迎之,陳郡太守胡軫為大督護,呂布為騎督,其餘步騎將校都督者甚衆。軫字文才,性急,預宣言曰:「今此行也,要當斬一青綬,乃整齊耳。」諸將聞而惡之。

(えい)(ゆう)()』によると、(そん)(けん)(とう)(たく)を討つために(りょう)県の(よう)(じん)に着いた時、(とう)(たく)も歩兵と騎兵合わせて5,000人で(そん)(けん)を迎え撃ったの。(ちん)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の()(しん)(だい)(とく)()として、(りょ)()が騎兵の指揮官として、他にも歩兵や騎兵や都督がたくさんいたよ。
()(しん)は、(あざな)(ぶん)(さい)で、性格は短気で、「今回の戦いは、要は青い紐((たい)(しゅ)の証)を持つ者を斬れば収まるだけだよ」と宣言しちゃったの。これを聞いた将たちは嫌な気持ちになったみたい。

(註15)

軍到廣成,去陽人城數十里。日暮,士馬疲極,當止宿,又本受卓節度宿廣成,秣馬飲食,以夜進兵,投曉攻城。諸將惡憚軫,欲賊敗其事,布等宣言「陽人城中賊已走,當追尋之;不然失之矣」,便夜進軍。城中守備甚設,不可掩襲。

()(しん)の軍は(こう)(せい)に着いて、(よう)(じん)城までは数十里の距離だよ。日も暮れて、みんな疲れているから、宿営しようと思ったんだ。(とう)(たく)の命令でも、(こう)(せい)で宿営して馬を養って食事をとって、夜中に進軍して、明け方に城を攻めるようにとあったんだ。でも、将たちは()(しん)を嫌っていて、敵に()(しん)の計画をつぶしてもらおうと思ってたよ。(りょ)()たちは宣言したよ。
(よう)(じん)城の中の敵はもう逃げちゃった。追いかけないと逃げられちゃうよ」
そして、夜に進軍しちゃった。でも、城の守りはすごく固くて、奇襲はできなかったの。

(註15)

於是吏士饑渴,人馬甚疲,且夜至,又無壍壘。釋甲休息,而布又宣言相驚,云「城中賊出來」。軍衆擾亂奔走,皆棄甲,失鞌馬。行十餘里,定無賊,會天明,便還,拾取兵器,欲進攻城。城守已固,穿壍已深,軫等不能攻而還。

だから、兵たちは飢えと渇きに苦しんで、人も馬もとても疲れちゃったんだ。しかも夜中だから、塹壕や堡塁もなかったし、甲冑を脱いで、休息したよ。すると、(りょ)()がまた「城の中の敵が出てきた!」って言ったの。軍は混乱して逃げ回ったよ。兵たちは甲冑を捨ててしまって馬も逃しちゃった。数十里進んだけど、実は敵はいなくて、夜が明けるとすぐに引き返して、武器を拾ってまた城を攻撃しようと思ったんだ。でも、城の守りは固くて、塹壕も深く掘られていて、()(しん)たちは攻めることができなくて引き返したよ。

陽人の戦い

本文

堅移屯梁東,大為卓軍所攻,堅與數十騎潰圍而出。堅常著赤罽幘,乃脫幘令親近將祖茂著之。卓騎爭逐茂,故堅從閒道得免。茂困迫,下馬,以幘冠冢閒燒柱,因伏草中。卓騎望見,圍繞數重,定近覺是柱,乃去。堅復相收兵,合戰於陽人,大破卓軍,梟其都督華雄等。是時,或閒堅於術,術懷疑,不運軍糧。(註16)

(そん)(けん)(りょう)(とう)に移動して駐屯すると、(とう)(たく)の軍に攻められて包囲されたよ。彼は数十騎と一緒に包囲を突破して逃げ出したよ。(そん)(けん)って、いつも赤い頭巾を着ているんだけど、彼はそれを自分で脱いで、隣にいた将の()()に渡したんだって。(とう)(たく)の騎兵たちが()()を追いかけたから、(そん)(けん)は他の道から逃げることができたよ。()()は逃げ道を失って、馬から降りて走って柱に頭巾をかぶせて草の中に隠れたんだ。(とう)(たく)の騎兵たちは柱が見えると、何重にも取り囲んだけど、近くで見て柱だとわかると去っていったよ。(そん)(けん)はふたたび兵を集めて、(よう)(じん)で戦って、(とう)(たく)の軍と戦って、大勝したよ。(とう)(たく)の軍の指揮官の()(ゆう)たちを捕らえて首をさらしたよ。
このとき、(えん)(じゅつ)(そん)(けん)を疑って、軍糧の補給を進めていなかったんだって。

(註16)

江表傳曰:或謂術曰:「堅若得洛,不可復制,此為除狼而得虎也」,故術疑之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、ある人が(えん)(じゅつ)にこう言ったよ。
「もし(そん)(けん)(らく)(よう)を手に入れたら、もう止められないよ。それは狼を除いて虎を手に入れたみたいなものだよ」
だから(えん)(じゅつ)(そん)(けん)を疑っているんだね。

本文

陽人去魯陽百餘里,堅夜馳見術,畫地計校,曰:「所以出身不顧,上為國家討賊,下慰將軍家門之私讎。堅與卓非有骨肉之怨也,而將軍受譖潤之言,還相嫌疑!」(註17)術踧踖,即調發軍糧。堅還屯。

(よう)(じん)から百数里も離れた()(よう)に行って、(そん)(けん)は夜に急いで袁術を訪ねたの。(そん)(けん)は地図を引いて計算しながら、こう言ったよ。
「私が身を投げ打っているのは、上は国のために敵を討って、下は将軍((えん)(じゅつ))の家の私怨を慰めるためだよ。私と(とう)(たく)は仇の関係ではないよ。それなのにあなたが悪い噂に惑わされて、私たちを疑うのはどうして?」
(えん)(じゅつ)は驚いて、すぐに軍糧を与えたよ。(そん)(けん)は帰ったよ。

(註17)

江表傳載堅語曰:「大勳垂捷而軍糧不繼,此吳起所以歎泣於西河,樂毅所以遺恨於垂成也。願將軍深思之。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)はこう語ったよ。
「大きな功績を挙げているけど軍糧が足りないんだ。これは、()()が西河で嘆いて泣いた理由だし、(がく)()が成功を前にして恨みを残した理由でもあるよ。あなたには深く考えてほしいな」

本文

卓憚堅猛壯,乃遣將軍李傕等來求和親,令堅列疏子弟任刺史、郡守者,許表用之。堅曰:「卓逆天無道,蕩覆王室,今不夷汝三族,縣示四海,則吾死不瞑目,豈將與乃和親邪?」復進軍大谷,拒雒九十里。(註18)

(とう)(たく)(そん)(けん)の勇猛さに怖がって、()(かく)という将軍を送って和平を求めてきたよ。(そん)(けん)に、子弟を()()(州の長官)や郡の太守などの地方官職に任命することを許したよ。でも、(そん)(けん)はこう言ったよ。
(とう)(たく)は天に逆らって、道を踏み外して、王室をないがしろにしたよな。今、私が(とう)(たく)と彼の一族を滅ぼして四方に罪を知らしめなければ、私は死んでも決して目を閉じることはできないよ。(とう)(たく)と和平を結ぶなんてありえないよ」
そして、(そん)(けん)はさらに(たい)(こく)(かん)まで進軍して、(らく)(よう)まで90里になったよ。

(註18)

山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之。孤昔與周慎西征,慎圍邊、韓於金城。孤語張溫,求引所將兵為慎作後駐。溫不聽。

(さん)(よう)(こう)(さい)()』によると、(とう)(たく)(ちょう)()(りゅう)(がい)にこう言ったよ。
「関東の軍勢((えん)(しょう)たち)は何度も敗れているよ。みんな私を怖がって、何もできないんだよ。でも、(そん)(けん)だけはちょっとした戦略家で、人材を上手に使えているみたい。将たちに知らせて、(そん)(けん)を警戒するようにしてね。
私は昔、(しゅう)(しん)と一緒に西に遠征したことがあって、(しゅう)(しん)(きん)(じょう)(へん)(しょう)(かん)(すい)を包囲したんだ。私は(ちょう)(おん)に頼んで、自分の指揮する兵を(しゅう)(しん)の後ろに配置してほしいって言ったんだ。でも、(ちょう)(おん)は聞いてくれなかったよ。

(註18)

孤時上言其形勢,知慎必不克。臺今有本末。事未報,溫又使孤討先零叛羌,以為西方可一時蕩定。孤皆知其不然而不得止,遂行,留別部司馬劉靖將步騎四千屯安定,以為聲勢。叛羌便還,欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也。虜謂安定當數萬人,不知但靖也。

私が当時、形勢を上に報告したのは、(しゅう)(しん)が必ず勝てないことを知っていたからだよ。(しょう)(しょ)(だい)には今も顛末の記録があるんだ。まだ報告していないうちに、(ちょう)(おん)はまた私に(せん)(れい)で反乱した(きょう)族を討つように命令して、これによって西方を一時的に平定できると思っていたんだって。私はそうならないことを知っていたけど、止められなくて、結局行動したよ。(あん)(てい)には、(べつ)()()()(りゅう)(せい)を留めて歩兵と騎兵合わせて4,000人を配置して、勢いを見せたよ。(きょう)族はすぐに引き返して帰り道を塞ごうとしたよ。でも、私は少し攻撃しただけで彼らは後退したんだ。(あん)(てい)に兵がいるのを怖がったからだよ。敵は、(あん)(てい)に数万人の兵がいると思っていたけど、実は(りゅう)(せい)だけだったのを知らなかったんだ。

(註18)

時又上章言狀,而孫堅隨周慎行,謂慎求將萬兵造金城,使慎以二萬作後駐,邊、韓城中無宿穀,當於外運,畏慎大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道,兒曹用必還羌谷中,涼州或能定也。溫旣不能用孤,慎又不用堅,自攻金城,壞其外垣,馳使語溫,自以克在旦夕,溫時亦自以計中也。而渡遼兒果斷蔡圍,慎棄輜重走,果如孤策。臺以此封孤都鄉侯。堅以佐軍司馬,所見與人同,自為可耳。」

その時、また私は状況を報告したよ。(そん)(けん)(しゅう)(しん)に従って行動していて、(しゅう)(しん)にこう話していたよ。
『((そん)(けん)が)1万の兵を(きん)(じょう)に送って、(しゅう)(しん)にはさらに2万の兵を後方に置いてほしいな。(へん)(しょう)(かん)(すい)の城内には穀物の蓄えがなくて、外から食糧を運び込む必要があるけど、(しゅう)(しん)の大軍を恐れて(そん)(けん)とは軽々しく戦おうとはしないと思う。(そん)(けん)の兵力は敵の運道を遮断できるほどだから』
彼らがこの作戦を使えば、(きょう)族は谷に戻って、(りょう)州も平定できるかもしれなかったのに。(ちょう)(おん)は私を使えなかったし、(しゅう)(しん)(そん)(けん)を使うことをしないで、(しゅう)(しん)は自分で(きん)(じょう)を攻めて外壁を破壊したんだ。急いで(ちょう)(おん)に使者を送って、自分が勝利するのは早ければ明日の夜明けまでだと考えていたみたい。(ちょう)(おん)も自分の計略が成功すると思っていたんだ。でも、その間に渡遼児((きょう)族たち)は果断に(さい)(えん)を包囲して、(しゅう)(しん)は補給物資を捨てて逃げたよ。まさに私の考えていたとおりになったよね。その結果、私は都郷侯の爵位を授かって、(そん)(けん)()(ぐん)()()になったよ。彼は他の人と同じように扱われていたけど、納得していたみたい」

(註18)

艾曰:「堅雖時見計,故自不如李傕、郭汜。聞在美陽亭北,將千騎步與虜合,殆死,亡失印綬,此不為能也。」卓曰:「堅時烏合義從,兵不如虜精,且戰有利鈍。但當論山東大勢,終無所至耳。」艾曰:「山東兒驅略百姓,以作寇逆,其鋒不如人,堅甲利兵彊弩之用又不如人,亦安得乆?」卓曰:「然,但殺二袁、劉表、孫堅,天下自服從孤耳。」

(りゅう)(がい)はこう言ったよ。
(そん)(けん)は時々計略を見せるけど、()(かく)(かく)()ほどではないよ。聞くところによると、彼は()(よう)(てい)の北にいて、千の騎兵と歩兵を率いて敵と戦っているみたいだけど、ほとんど死にかけていて、印綬も失ってしまったみたいだよ。これでは本当に能力があるとは言えないよね」
(とう)(たく)はこう言ったよ。
(そん)(けん)は烏合の衆と一緒に行動していて、彼の兵力は敵に比べて劣っているし、それに戦いには勝敗があるよ。山東の大局を考えると、最終的にはどうなるかわからないよ」
(りゅう)(がい)はこう言ったよ。
「山東の小僧どもは民を略奪して、賊として振る舞っているよ。彼らの戦力は他の人たちと比べても劣っているし、兵器や強弓の使い方も上手ではないよ。持ちこたえるのはできないよね?」
すると(とう)(たく)はこう答えたよ。
「そうだね。2つの袁((えん)(しょう)(えん)(じゅつ))、(りゅう)(ひょう)、そして(そん)(けん)を倒せば、天下は自然と私に服従するよ」

荒れ果てた洛陽へ

本文

卓尋徙都西入關,焚燒雒邑。堅乃前入至雒,脩諸陵,平塞卓所發掘。(註19)(註20)(註21)(註22)(註23)

(とう)(たく)はすぐに都を西に移して、関門を通り抜けて、(らく)(よう)を焼き払っちゃった。その後、(そん)(けん)(らく)(よう)に入って、陵墓を整備して、(とう)(たく)が発掘したところを塞いだよ。

(註19)

江表傳曰:舊京空虛,數百里中無煙火。堅前入城,惆悵流涕。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、昔の都((らく)(よう))は寂れていて、数百里にわたって煙火もなかったんだ。(そん)(けん)は都に入ると、深い悲しみに包まれて、涙を流したんだ。

(註20)

吳書曰:堅入洛,埽除漢宗廟,祠以太牢。堅軍城南甄官井上,旦有五色氣,舉軍驚恠,莫有敢汲。堅令人入井,探得漢傳國璽,文曰「受命于天,旣壽永昌」,方圜四寸,上紐交五龍,上一角缺。初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者以投井中。

()(しょ)』によると、(そん)(けん)(らく)(よう)に入ると、(かん)の宗廟を掃除して、太牢(牛や豚)で祭ったんだ。(そん)(けん)の軍勢は城の南側にある(しん)(かん)()(井戸)の近くに陣を取ったよ。ある朝に五色の不思議な光が現れたんだ。みんなはびっくりして、井戸の水を汲むのも怖くなっちゃった。(そん)(けん)は人を井戸に入らせて探索させたよ。すると、なんと(かん)(でん)(こく)()を見つけたんだ。その文面には「受命于天,旣壽永昌(天より命を受け、永遠に栄昌する)」と書かれていて、形は4寸の正方形で、上部(持ち手)には5匹の龍が絡み合っていて、上の一角が欠けていたんだ。前に、(こう)(もん)(ちょう)(じょう)たちが乱を起こして、天子を脅して逃亡した時に側近たちが散ってしまって、(でん)(こく)()を預かっていた人は井戸にそれを投げ込んだんだよ。

(註21)

山陽公載記曰:袁術將僭號,聞堅得傳國璽,乃拘堅夫人而奪之。

(さん)(よう)(こう)(さい)()』によると、(えん)(じゅつ)は勝手に皇帝になろうとして、(そん)(けん)(でん)(こく)()を手に入れたと聞いて、(そん)(けん)の妻を拘束してそれを奪ったんだって。

(註22)

江表傳曰:案漢獻帝起居注云「天子從河上還,得六璽於閣上」,又太康之初孫皓送金璽六枚,無有玉,明其偽也。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(かん)の『(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』には「天子が河上から帰ってきて、閣の上で6つの印璽を得た」とあるよ。また、(たい)(こう)初年(280年)、(そん)(こう)が((しん)に)6つの金の印璽を送ったけど、玉の印璽はないから、明らかそれは偽物だよ。

(註23)

虞喜志林曰:天子六璽者,文曰「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」。此六璽所封事異,故文字不同。獻帝起注云「從河上還,得六玉璽於閣上」,此之謂也。

()()の『()(りん)』によると、天子の6つの印璽は、「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」という文字が刻まれているよ。これらの6つの印璽はそれぞれ異なる役割を持っているから、文字も異なるの。『(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』の「天子が河上から帰ってきて、閣の上で6つの印璽を得た」っていうのは、これが言いたかったんだよね。

(註23)

傳國璽者,乃漢高祖所佩秦皇帝璽,世世傳受,號曰傳國璽。案傳國璽不在六璽之數,安得總其說乎?應氏漢官、皇甫世紀,其論六璽,文義皆符。漢宮傳國璽,文曰「受命于天,旣壽且康」。「且康」「永昌」,二字為錯,未知兩家何者為得。金玉之精,率有光氣,加以神器祕寶,輝耀益彰,蓋一代之奇觀,將來之異聞,而以不解之故,彊謂之偽,不亦誣乎!

(でん)(こく)()とは、(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))が(しん)の皇帝の璽を持っていたものだよ。代々伝承されてきたものだから、「(でん)(こく)()」と呼ばれているんだよ。だから(でん)(こく)()は6つの璽の中には含まれていなくて、それをまとめて語ることはできないよね。
応劭(おうしょう)の『(かん)(かん)()』と(こう)()(ひつ)の『(てい)(おう)(せい)()』で、6つの璽について論じた文言はすべて一致しているよ。『(かん)(かん)()』での(でん)(こく)()の文面は「受命于天,旣壽且康」だよ。『(かん)(かん)()』では「且康」、『()(しょ)』では「永昌」と、2文字が違っているけど、どっちが正しいかはわからないよ。光輝いていて、神聖な宝物だったら一段と輝かしくなって、これ(五色の不思議な光が現れたのは)はこの時代の奇跡で、将来には非凡な話として伝わるよ。それが不思議で理解できないからって、すぐに偽物って言っちゃうのはちょっと違うんじゃないかな。

(註23)

陳壽為破虜傳亦除此說,俱惑起居注,不知六璽殊名,與傳國為七者也。吳時無能刻玉,故天子以金為璽。璽雖以金,於文不異。吳降而送璽者送天子六璽,曩所得玉璽,乃古人遺印,不可施用。天子之璽,今以無有為難,不通其義者耳。

(ちん)寿(じゅ)が「破虜伝((そん)(けん)伝)」でこの説を除いたのは、彼もまた『(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』に惑わされていて、6つの璽に特有の名前と、(でん)(こく)()が7つ目だったことを知らなかったからだろうね。()の時代には玉を彫る技術がなかったから、天子は金で璽を作ったんだよ。璽は金で作られているけれど、文字は変わらないんだ。()が降伏して天子の六璽を送った時、(そん)(けん)が手に入れた玉璽は古代の遺印で実用はできないものだったんだよ。今では天子の璽が存在しないから問題視されているけど、その理由を知らないだけだよね。

(註23)

臣松之以為孫堅於興義之中最有忠烈之稱,若得漢神器而潛匿不言,此為陰懷異志,豈所謂忠臣者乎?吳史欲以為國華,而不知損堅之令德。如其果然,以傳子孫,縱非六璽之數,要非常人所畜,孫皓之降,亦不得但送六璽,而寶藏傳國也。受命于天,奚取於歸命之堂,若如喜言,則此璽今尚在孫門。匹夫懷璧,猶曰有罪,而況斯物哉!

(はい)(しょう)()の見解としては、(そん)(けん)は義を興した人たちの中で最も忠に溢れる人だと思っているの。もし彼が(かん)の神器を手に入れて隠し持っているとすれば、それは陰謀を抱いたことになっちゃうし、そんな人が忠の士と呼ばれるべきではないよ。()の史書は国家の栄華を示そうとしたけど、(そん)(けん)の立派な美徳を損ねたことに気付いていないよね。もしこの話が真実なら、(でん)(こく)()が子孫に伝えられるべきで、6つの璽の数にこだわる必要はないよね。それは一般の人たちが持つことのできない特別な宝物で、(そん)(こう)が降伏した時、6つの璽を送るだけではなくて、(でん)(こく)()も送られるべきだったよね。(でん)(こく)()にある「受命于天(天から命を受けて)」なら、(きめ)()(こう)(そん)(こう))から得られるわけがないよ。()()の言うとおりなら、この璽は今も孫家にあるのかもね。一般の人が玉璽を持っているだけでも罪になると言われるのに、なおさらこのような貴重な物品は大変な存在だよ。

(でん)(こく)()は、(りゅう)(ほう)(しん)()(えい)から授かった()(こう)(てい)の璽印だよ。(かん)の皇帝に代々受け継がれていったんだ。(かん)の皇帝は、即位するときに先帝の棺の前や(こう)()(りゅう)(ほう))の廟の前で(でん)(こく)()を受け取って、正統な後継者であることを示したよ。

本文

訖,引軍還,住魯陽。(註24)(註25)

(そん)(けん)は軍を引き上げて()(よう)に滞在したよ。

(註24)

吳錄曰:是時關東州郡,務相兼并以自彊大。袁紹遣會稽周㬂為豫州刺史,來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵,將救社稷。逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下。㬂字仁明,周昕之弟也。

()(ろく)』によると、この時は関東の州や郡はお互いに力を合わせて勢力を拡大していたよ。(えん)(しょう)(かい)(けい)(しゅう)()()(しゅう)()()(州の長官)に任命して、州を奪おうとしたんだ。(そん)(けん)は悲しみを込めて言ったよ。
「私たちは一緒に義兵を挙げて国を守ろうとしているの。反逆者が迫り来ているのに、それぞれがこんな風に振る舞うのかよ。私は誰と一緒に力を尽くすべきなの!」
(そん)(けん)は言葉を発して涙を流したよ。
(しゅう)()は、(あざな)(じん)(めい)で、(しゅう)(きん)の弟だよ。

(註25)

會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人要喁,㬂即收合兵衆,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,㬂往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。

(かい)(けい)(てん)(ろく)』によると、(そう)(そう)が義兵を興すと、使者を送って(しゅう)()を誘ったよ。(しゅう)()はすぐに兵を2,000人も集めて、(そう)(そう)の征伐に協力して、軍師として仕えたよ。でも、後に(そん)(けん)()州を争って、何度も戦いに負けちゃったの。ある時、(しゅう)()の兄の(きゅう)(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(しゅう)(こう)(えん)(じゅつ)に攻撃されちゃって、(しゅう)()は助けに向かったよ。でも、軍は敗れちゃって、彼は故郷に帰ったけど、(きょ)(こう)に殺されちゃった。

襄陽の戦い

本文

初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊,鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。(註26)(註27)(註28)

初平3年(192年)、(えん)(じゅつ)(そん)(けん)(けい)州へ送って、(りゅう)(ひょう)を攻撃させたんだ。(りゅう)(ひょう)(こう)()を送って、(はん)城と(とう)城の間で防衛させたよ。(そん)(けん)(こう)()を撃破して、(かん)(すい)を渡って追撃して、(じょう)(よう)を包囲したんだ。そこで、(けん)(ざん)をひとりで馬で駆け巡っていたけど、(こう)()の兵に射殺されちゃった。

(註26)

典略曰;堅悉其衆攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。

(てん)(りゃく)』によると、(そん)(けん)は兵を総動員して劉表(りゅうひょう)を攻めたけど、劉表(りゅうひょう)は門を閉めちゃった。夜になって将の(こう)()がこっそりと兵を連れて出て、兵を集めたよ。(こう)()は兵を率いて帰ろうとすると、(そん)(けん)が迎え撃ってきたよ。(こう)()は敗れて逃げて、(けん)(ざん)の中に身を潜めたよ。(そん)(けん)は勝ちに乗って、夜に(こう)()を追撃したけど、(こう)()の部下が竹や木の間から(そん)(けん)に矢を放って、(そん)(けん)は命を落としちゃった。

(註27)

吳錄曰:堅時年三十七。

()(ろく)』によると、(そん)(けん)はその時37歳だったよ。

(註28)

英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又云:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。

(えい)(ゆう)()』によると、(そん)(けん)は初平4年(193年)の正月の七日に亡くなったんだって。また、(りゅう)(ひょう)の将の(りょ)(こう)が山を進んで孫堅に向かってきたから、(そん)(けん)は軽騎兵を率いて山に向かって(りょ)(こう)を討ったんだって。(りょ)(こう)の兵は石を投げて、(そん)(けん)の頭に当たって脳が出て、命を落としちゃったんだって。この話は他の話とは違うんだよ。

(そん)(けん)が亡くなったのは、本伝の初平 3 年? 英雄記の初平 4 年? この疑問は(そん)(さく)の伝で触れられているよ。

本文

兄子賁,帥將士衆就術,術復表賁為豫州刺史。

(そん)(けん)の兄の子の孫賁(そんふん)が兵を率いて(えん)(じゅつ)の元へ行って、(えん)(じゅつ)はふたたび彼を()(しゅう)()()(州の長官)に任命したよ。

本文

堅四子:策、權、翊、匡。權旣稱尊號,謚堅曰武烈皇帝。(註29)(註30)

(そん)(けん)には4人の子供がいるんだ。名前は(そん)(さく)(そん)(けん)(そん)(よく)(そん)(きょう)だよ。(そん)(けん)が後に皇帝になると、(そん)(けん)()(れつ)(こう)(てい)の諡が贈られたよ。

(註29)

吳錄曰:尊堅廟曰始祖,墓曰高陵。

()(ろく)』によると、(そん)(けん)を尊ぶ廟は「始祖」と呼ばれていて、墓は「高陵」と言われているんだって。

(註30)

志林曰:堅有五子:策、權、翊、匡,吳氏所生;少子朗,庶生也,一名仁。

()(りん)』によると、(そん)(けん)には5人の子供がいるんだよ。(そん)(さく)(そん)(けん)(そん)(よく)(そん)(きょう)()()の子で、末子の(そん)(ろう)は庶出の子で、別名は「(そん)(じん)」と呼ばれていたんだって。

陳寿の評価

呉書討逆伝に併せて記載したよ。

破虜((そん)(けん))伝は以上だよ! 巻としては討逆((そん)(さく))伝と併せて呉書の 1 巻目だよ。

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