
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「呉書破虜伝」をゆるゆる翻訳するよ!
孫堅 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 吳書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

孫堅の出世
孫堅字文臺,吳郡富春人,蓋孫武之後也。(註1)
孫堅は、字は文台だよ。彼は呉郡富春県の出身だよ。孫武の子孫なんだって。
孫武は、春秋戦国時代の武将・思想家だよ。兵法書『孫子』の著者だよ。
吳書曰:堅世仕吳,家于富春,葬於城東。冢上數有光怪,雲氣五色,上屬於天,曼延數里。衆皆往觀視。父老相謂曰:「是非凡氣,孫氏其興矣!」及母懷姙堅,夢腸出繞吳昌門,寤而懼之,以告鄰母。鄰母曰:「安知非吉徵也。」堅生,容貌不凡,性闊達,好奇節。
『呉書』によると、孫堅の家は代々呉郡に仕えて、富春に住んでいて、先祖の墓は町の東にあったよ。あるとき、墓の上には不思議な光がいっぱい輝いて、空には五色の雲が昇って、何里も先まで長く続いていたんだって。みんなびっくりして見に行ったよ。年長者たちはは顔を見合わせてこう言ったよ。
「これは普通の空気や雲ではないんだ。きっと孫氏は、これから大きく栄えるにちがいないよ!」
そこで、孫堅の母が妊娠しているあいだ、夢の中で、自分の腸が体から出てきて、呉の昌門の周りをぐるぐると取り囲んでいたの。母は目を覚ますと、とてもびっくりして、その夢のことを隣の母に話したよ。
隣の母はこう言ったよ。
「もしかしたら、とてもよいことが起こる前ぶれかも」
孫堅が生まれると、は普通の人とは違う立派な顔つきをしていて、性格はおおらかで、すぐれたことや珍しいことが好きなんだって。
少為縣吏。年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,舩不敢進。堅謂父曰:「此賊可擊,請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀。賊望見,以為官兵捕之,即委財物散走。堅追,斬得一級以還;父大驚。由是顯聞,府召署假尉。
孫堅は、若いころ、県の役人をしていたよ。17歳のとき、父と一緒に船に乗って銭唐に行ったよ。その途中で、海賊の胡玉たちが匏里から陸に上がってきて、商人の物や金を奪って、岸で分け合っていたんだ。旅人たちはみんな立ち止まって、船も進めなくなっちゃった。孫堅は父にこう言ったよ。
「この海賊たちをやっつけられると思うんだ、私に退治させて!」
でも、父はこう言ったよ。
「お前には無理だよ」
それでも、孫堅は刀を持って船から降りて、岸へ上がったよ。そして、手を振って東西に指をさして、まるで人や兵に命令して海賊たちを取り囲もうとしているみたいに見せかけたよ。それを見た海賊たちは、役所の兵に追われると思って、物や金を捨てて逃げちゃった。
孫堅は海賊たちを追いかけて、そのうちの一人を斬って、その首を持って戻ってきたよ。父はとてもびっくりしたよ。このことが広まって、役所から呼ばれて、仮の尉に任命されたよ。
會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,(註2)與其子韶扇動諸縣,衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歲,熹平元年也。刺史臧旻列上功狀,詔書除堅鹽瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞。(註3)
会稽で妖賊(宗教的な指導者)の許昌が句章で兵をあげて、自分で陽明皇帝と名乗ったんだ。許昌は子の許韶と一緒に周りのいくつもの県をさそって仲間にしたんだ。その数は何万人にもなったんだ。
孫堅は郡の司馬として、勇敢で強い人たちを集めて、1,000人以上を集めたよ。そして、州や郡と力を合わせて、妖賊を打ち破ったよ。この年は熹平元年(172年)だよ。
刺史(州の長官)の臧旻はその功績を上奏して、詔によって孫堅は塩涜県丞に新しく任命されたよ。
数年後、盱眙県丞、さらにその後、下邳県丞になったよ。
靈帝紀曰:昌以其父為越王也。
『霊帝紀』によると、許昌は、自分の父を越王にしたよ。
江表傳曰:堅歷佐三縣,所在有稱,吏民親附。鄉里知舊,好事少年,往來者常數百人,堅接撫待養,有若子弟焉。
『江表伝』によると、孫堅は3つの県で役人として働いたよ。どの場所でもよい仕事をしたから、役人や民から信頼されたんだって。孫堅の故郷の知り合いや、昔からの友人、そして腕に自信のある若者たちが、いつも孫堅のところへやって来たの。その数は、いつも数百人くらいいたよ。孫堅は彼らを温かく迎えて、励まして育てて、まるで自分の子弟みたいに大切にしていたよ。
黄巾賊の台頭
中平元年,黃巾賊帥張角起於魏郡,託有神靈,遣八使以善道教化天下,而潛相連結,自稱黃天泰平。三月甲子,三十六萬一旦俱發,天下響應,燔燒郡縣,殺害長吏。(註4)
中平元年(184年)、黄巾賊の首領の張角が魏郡で兵をあげたんだ。張角は、自分には神の力があると言って、良い道を天下に教えて導くために8人の使者を送って、こっそりと仲間を集めて、「黄天泰平(黄天が立って泰平が訪れること)」と名乗ったよ。
三月、甲子の日、36万人もの人たちが一斉に立ち上がったんだ。これに各地の人々も応じて、反乱は天下に広がっていったんだ。彼らは郡や県を襲って火をつけたり、長吏(行政官)を殺したりしたんだ。
獻帝春秋曰:角稱天公將軍,角弟寶稱地公將軍,寶弟梁稱人公將軍。
『献帝春秋』によると、張角は天公将軍、張角の弟の張宝は地公将軍、張宝の弟の張梁は人公将軍と名乗ったよ。
漢遣車騎將軍皇甫嵩、中郎將朱儁將兵討擊之。儁表請堅為佐軍司馬,鄉里少年隨在下邳者皆願從。堅又募諸商旅及淮、泗精兵,合千許人,與儁并力奮擊,所向無前。(註5)
漢の朝廷は、車騎将軍の皇甫嵩と中郎将の朱儁に兵を率いさせて、黄巾賊を討伐させたよ。朱儁は上表して、孫堅を佐軍司馬にしたよ。孫堅の故郷の若者や下邳にいた人たちも、みんな孫堅について行きたいと言ったよ。そこで孫堅は、商人や旅人たちの中からも兵を集めて、さらに淮河や泗水の地方から精鋭の兵を集めたんだ。こうして合わせて1,000くらいの兵を集めて、朱儁と力を合わせて戦ったら、どこでも勝てたんだって。
吳書曰:堅乘勝深入,於西華失利。堅被創墮馬,卧草中。軍衆分散,不知堅所在。堅所騎騘馬馳還營,捂地呼鳴,將士隨馬於草中得堅。堅還營十數日,創少愈,乃復出戰。
『呉書』によると、孫堅は勢いに乗って、敵のいる場所へ深く入り込んで、西華で敗れたんだ。孫堅は戦いで傷を負って、馬から落ちて、草の中で倒れていたよ。兵たちは散り散りになって、孫堅がどこにいるのかわからなくなっちゃった。でも、孫堅の乗っていた青白い馬が陣営に戻ってきて、地面を踏み鳴らしながら、大きな声で鳴いたよ。それを見た将や兵たちは、馬の後を追って、草の中で孫堅を見つけたよ。
孫堅は陣営に戻ってから十数日間、だんだん傷もよくなって、ふたたび戦いに向かったよ。
汝、潁賊困迫,走保宛城。堅身當一面,登城先入,衆乃蟻附,遂大破之。儁具以狀聞上,拜堅別部司馬。(註6)
汝や潁川の黄巾賊は追い詰められて、宛城に逃げちゃった。孫堅は、先頭に立って、城を登って軍の中で最初に城の中に入ったよ。すると、みんなも次々と壁を登って城の中へ入って、こうして敵を大きく打ち破ったよ。朱儁はこのことを詳しく朝廷に報告したよ。孫堅は別部司馬に任命されたよ。
續漢書曰:儁字公偉,會稽人,少好學,為郡功曹,察孝廉,舉進士。漢朝以討黃巾功拜車騎將軍,累遷河南尹。董卓見儁,外甚親納,而心忌之,儁亦陰備焉。關東兵起,卓議移都,儁輒止卓。卓雖憚儁,然貪其名重,乃表拜太僕以自副。
『続漢書』によると、朱儁は、字は公偉で、会稽の出身だよ。幼いころから学ぶことが好きで、郡の功曹(人事官)になったよ。その後、孝廉に選ばれて、進士として推挙されたよ。
漢の朝廷は、黄巾賊を討伐した功績によって、朱儁を車騎将軍に任命したよ。その後、河南尹に昇進したよ。
董卓が朱儁に会うと、表向きはとても親しく接して、大切にしているように見せたよ。でも、心の中では朱儁を警戒して嫌っていたんだ。朱儁もまた、そんな董卓に用心深く接していたよ。
関東(函谷関の東)で兵があがると、董卓は都を移そうと考えたけど、朱儁はその提案を止めたよ。董卓は朱儁のことを恐れていたけど、朱儁が高く評価されていることも利用したいと思ったんだ。そこで董卓は、上表して朱儁を太僕に任命して、自分の副官にしようとしたんだ。
関東は函谷関より東を指すよ。
儁被召不肯受拜,因進曰:「國不宜遷,必孤天下望,成山東之結,臣不見其可也。」有司詰曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,何也?」儁曰:「副相國,非臣所堪也。遷都非計,臣之所急也。辭所不堪,進臣所急,臣之所宜也。」
朱儁は朝廷から呼び出されて太僕に任命されることになったけど、その任命を受けようとしなかったんだ。そして、こう言ったよ。
「都を移すべきではないよ。必ず天下の期待を失って、山東(袁紹たち)の人々が結びついて反乱する原因を作ってしまうんだ。私には、よい方法だとは思えないよ」
役人は朱儁に問いただして、こう言ったよ。
「あなたを呼び出して任命しようとしているのに、あなたはそれを断ったよね。都を移すことについて聞かれていないのに、どうしてその話をするの?」
朱儁はこう答えたよ。
「相国の副官は、私には務まらないよ。一方、都を移すことは、国にとって今すぐ考えなければならない大切な問題だから、そのことを言ったんだ。自分にはできない役目を断って、今すぐ必要なことを言うことが、臣下のするべきことだよ」
有司曰:「遷都之事,初無此計也,就有,未露,何所受聞?」儁曰:「相國董卓為臣說之,臣聞之於相國。」有司不能屈,朝廷稱服焉。後為太尉。李傕、郭汜相攻,劫質天子公卿,儁性剛,即發病而卒。
役人はこう言ったよ。
「都を移す計画ははじめから存在しなかったんだ。もし本当に計画があったとしても、まだ外には知られていないはず。どこで聞いたの?」
朱儁はこう答えたよ。
「相国の董卓が私に話してくれたよ。私は相国から直接聞いたんだ」
役人は、朱儁を言い負かせなくて、朝廷の人たちも感心したよ。
その後、朱儁は太尉になったよ。李傕と郭汜が争いを起こして、天子や公卿を脅して人質に取ったんだ。朱儁はもともと気が強くて、正しいと思ったことを曲げない性格で、病気になってそのまま亡くなったんだ。
反乱軍の討伐
邊章、韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年,遣司空張溫行車騎將軍,西討章等。溫表請堅與參軍事,屯長安。溫以詔書召卓,卓良乆乃詣溫。溫責讓卓,卓應對不順。
辺章と韓遂が涼州で乱を起こしたんだ。中郎将の董卓が討伐に向かったけど、どうにもならなかったんだ。
中平三年(186年)、朝廷は司空の張温を車騎将軍に任命して、辺章や韓遂たちを討つために西へ向かったよ。張温は上表して、孫堅を自分の参軍事として一緒に行くことを願い出たよ。孫堅は長安にとどまったよ。
張温は、詔書を使って董卓を呼んだけど、董卓はなかなか来なかったんだ。ようやく張温のもとへ来ると、張温は董卓が遅れたことを責めたけど、董卓は素直に答えないで、失礼な態度を取ったんだ。
涼州は、現在の甘粛省南部、青海省東部などを含む地域を指すよ。孫堅さんの生まれた呉郡からはものすごく遠いね。
堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之間,今日殺之,西行無依。」堅曰:「明公親率王兵,威震天下,何賴於卓?觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也。章、遂跋扈經年,當以時進討,而卓云未可,沮軍疑衆,二罪也。卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也。古之名將,仗鉞臨衆,未有不斷斬以示威者也,是以穰苴斬莊賈,魏絳戮楊干。今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發舉,乃曰:「君且還,卓將疑人。」堅因起出。
このとき、孫堅もその場に座っていたよ。孫堅は張温のそばへ行って、耳元でこう言ったよ。
「董卓は、自分が罪に問われることを恐れないで、まるで鳥が羽を大きく広げるみたいに、勝手なことを大声で言っているよ。呼び出されたのに時間どおりに来なかったという理由で、軍の決まりに従って董卓を斬るべきだよね」
でも、張温はこう言ったよ。
「董卓は隴と蜀のあたりでこれまで強い名声を得ているよ。今日ここで殺してしまったら、西へ進んで戦うときに頼れる人がいなくなっちゃう」
すると、孫堅はこう言ったよ。
「あなたは王の兵を自分で率いて、その威勢は天下に知れ渡っているよ。どうして董卓に頼るの?
董卓の今の言葉や態度を見ると、あなたの命令を聞こうとしていないよ。それどころか、皇帝の命令を軽く考えて、礼儀を守っていないんだ。これが1つ目の罪だよ。
辺章と韓遂は、長いあいだ勝手に振る舞っていて、本来なら、すぐに軍を進めて討つべきだよ。それなのに董卓は『まだ討つべきではない』と言って、軍の進むのを邪魔して、兵たちを迷わせているんだ。これが2つ目の罪だよ。
それから、董卓は命令を受けたのに功績がなくて、呼び出されてもすぐに来ないんだ。さらに自分が偉いかのように振る舞っているんだ。これが3つ目の罪だよ。
昔の有名な将たちは、鉞を持って軍を率いると、軍の規律を守るために、罪を犯した者を斬って、みんなに軍の決まりを示したよ。穰苴(司馬穰苴)は荘賈を斬って、魏絳は楊干を処刑したよね。今、あなたは董卓に気をつけているのに、すぐに処罰しようとしないのは、軍の威厳と規律を損なうことになっちゃうよ」
張温は決心がつかなくて、孫堅にこう言ったよ。
「あなたはいったん帰ってくれ。董卓があなたを疑うかも」
孫堅は立ち上がって出て行ったんだ。
司馬穰苴は、春秋時代の将軍だよ。司馬穰苴は、荘賈が約束を破って遅れて来たために斬ったんだよ。
荘賈は、春秋時代の人物だよ。
魏絳は、春秋時代の人物だよ。魏絳は、楊干が軍列を乱したから処刑したんだよ。
楊干は、春秋時代の人物だよ。
章、遂聞大兵向至,黨衆離散,皆乞降。軍還,議者以軍未臨敵,不斷功賞,然聞堅數卓三罪,勸溫斬之,無不歎息。拜堅議郎。
辺章と韓遂は、大軍が自分たちのところへ向かってくると聞いて、仲間たちは散り散りになって、降伏したいと言ったんだ。
軍が帰ると、話し合いの中で、「まだ敵と直接戦っていないのだから、功績を認めて賞を与えるべきではない」という意見が出たよ。でも、孫堅が董卓の3つの罪を数え上げて、張温に董卓を斬るように勧めたと聞いて、みんなはため息をついたんだ。孫堅は議郎に任命されたよ。
時長沙賊區星自稱將軍,衆萬餘人,攻圍城邑,乃以堅為長沙太守。到郡親率將士,施設方略,旬月之閒,克破星等。(註7)
このとき長沙で、賊の区星が将軍を名乗って、1万人以上を集めて町や城を攻めていたんだ。そこで、孫堅は長沙太守(郡の長官)に任命されたよ。孫堅は長沙に着くと、将と兵を率いて、いろいろな作戦を立てて、わずか1ヶ月で、区星たちを打ち破ったよ。
魏書曰:堅到郡,郡中震服,任用良吏。勑吏曰:「謹遇良善,治官曹文書,必循治,以盜賊付太守。」
『魏書』によると、孫堅が長沙に着くと、郡の人たちはみんな孫堅を恐れて、従うようになったよ。孫堅は、立派な役人を選んで仕事を任せたよ。そして、役人たちに命令してこう言ったよ。
「人々には、礼儀正しく親切に接してね。役所の文書を扱うときは、決まりをきちんと守ってね。盗賊については、太守(孫堅)に任せてくれ」
周朝、郭石亦帥徒衆起於零、桂,與星相應。遂越境尋討,三郡肅然。漢朝錄前後功,封堅烏程侯。(註8)
周朝と郭石も、それぞれたくさんの人たちを率いて零陵と桂陽で兵をあげて、区星と力を合わせたんだ。そこで、孫堅は郡の境を越えて彼らを討って、3つの郡はすっかりおとなしくなったよ。
漢の朝廷は、これまでの孫堅の功績を調べて認めて、孫堅を烏程侯に封じたよ。
吳錄曰:是時廬江太守陸康從子作宜春長,為賊所攻,遣使求救於堅。堅整嚴救之。主簿進諫,堅荅曰:「太守無文德,以征伐為功,越界攻討,以全異國。以此獲罪,何媿海內乎?」乃進兵往救,賊聞而走之。
『呉録』によると、このとき廬江太守(郡の長官)の陸康のおいが宜春県長(県の長官)で、賊に攻められていたんだ。彼は使者を孫堅のもとへ送って、助けを求めたよ。孫堅はすぐに兵を整えて助けに向かおうとしたよ。すると、主簿(書記官)がいさめたけど、孫堅はこう答えたよ。
「太守(孫堅)は政治で人々をよく治めたわけではないよ。これまで戦って功績を立ててきたの。自分の郡の境を越えて敵を討って、別の国の人たちを助けられるなら、それで罪に問われても、天下の人々に対して恥じることはないよ」
こうして孫堅は兵を進めて助けに行ったよ。賊はこれを聞いて逃げちゃった。
董卓を討つために
靈帝崩,卓擅朝政,橫恣京城。諸州郡並興義兵,欲以討卓。(註9)堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮,堅過殺之。(註10)(註11)
霊帝が亡くなると、董卓が朝廷の政治を勝手に動かすようになって、都で好き勝手に振る舞ったんだ。だから、各地の州や郡では、董卓を討とうとして義のための兵が立ち上がったんだ。孫堅も兵をあげたよ。荊州刺史(州の長官)の王叡は、孫堅に失礼な態度を取ったから、孫堅は荊州を通りかかったとき、彼を殺したんだ。
江表傳曰:堅聞之,拊膺歎曰:「張公昔從吾言,朝廷今無此難也。」
『江表伝』によると、孫堅はこれを聞いて、胸をたたいてため息をついて、こう言ったよ。
「張公(張温)が昔、私の言うことを聞いてくれていたら、今、朝廷がこのような大変なことにならなかったのに」
案王氏譜,叡字通耀,晉太保祥伯父也。
『王氏譜』を調べたところ、王叡は、字は通耀で、晋の太保の王祥の伯父だよ。
吳錄曰:叡先與堅共擊零、桂賊,以堅武官,言頗輕之。及叡舉兵欲討卓,素與武陵太守曹寅不相能,楊言當先殺寅。寅懼,詐作案行使者光祿大夫溫毅檄,移堅,說叡罪過,令收行刑訖,以狀上。堅即承檄勒兵襲叡。
『呉録』によると、王叡は前に、孫堅と一緒に零陵や桂陽の賊を討ったよ。でも、孫堅が武官だから、ちょっと軽く見ていたんだって。
そして、王叡は董卓を討つために兵をあげると、武陵太守(郡の長官)の曹寅とは仲が悪かったから、「まず曹寅を殺すべきだ」と周りの人に言ったんだ。曹寅は怖くなって、案行使者で光禄大夫の温毅の名を使って偽の命令書を作ったよ。その命令書を孫堅に送って、王叡がどんな悪いことをしたのかを説明して、「王叡を捕らえて処刑して、その結果を報告してね」と命令したんだ。孫堅はその命令に従って、兵を連れて王叡を急に攻めたよ。
叡聞兵至,登樓望之,遣問欲何為,堅前部荅曰:「兵乆戰勞苦,所得賞,不足以為衣服,詣使君更乞資直耳。」叡曰:「刺史豈有所吝?」便開庫藏,使自入視之,知有所遺不。兵進及樓下,叡見堅,驚曰:「兵自求賞,孫府君何以在其中?」堅曰:「被使者檄誅君。」叡曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知。」叡窮迫,刮金飲之而死。
王叡は兵たちがやって来たと聞くと、楼に登って様子を見たよ。そして、使者を送って、「何をしに来たの?」と尋ねたよ。孫堅の軍の先頭にいた兵がこう答えたよ。
「私たちは長いあいだ戦ってきたから、とても疲れているんだ。なのに、これまでにもらえる賞では服を買うこともできないよ。だから、もう少し金や物をもらいにきたんだ」
王叡はこう言ったよ。
「刺史がどうして惜しむの?」
そう言って倉庫を開けて、兵たちに中へ入って見せて、何も残っている物が無いことを示したよ。そのまま兵たちが楼の下へ進んできて、王叡は孫堅を見つけてびっくりしちゃった。王叡はこう尋ねたよ。
「兵たちが賞を求めに来たのに、あなたがどうしてここにいるの?」
孫堅はこう答えたよ。
「私は、あなたを処刑するようにという使者の命令書を受け取ったんだよ」
王叡はこう言ったよ。
「私に何の罪があるの?」
孫堅はこう答えたよ。
「何をしたのかも知らないという罪に問われているんだ」
王叡は追い詰められて、金を削って飲んで亡くなったんだ。
比至南陽,衆數萬人。南陽太守張咨聞軍至,晏然自若。(註12)(註13)
孫堅は南陽に着いたときには、兵は数万人にもなっていたよ。南陽太守(郡の長官)の張咨は、孫堅の軍がやって来たと聞いても、あわてないでいつもどおり落ち着いていたよ。
英雄記曰:咨字子議,潁川人,亦知名。
『英雄記』によると、張咨は、字は子議で、潁川の出身で、名を知られていたよ。
獻帝春秋曰:袁術表堅假中郎將。堅到南陽,移檄太守請軍糧。咨以問綱紀,綱紀曰:「堅鄰郡二千石,不應調發。」咨遂不與。
『献帝春秋』によると、袁術は上表して、孫堅は仮の中郎将に任命されたよ。
孫堅が南陽に着くと、太守(郡の長官)の張咨に知らせを送って軍の食糧を求めたよ。張咨は綱紀(主簿)に相談したんだ。綱紀はこう言ったよ。
「孫堅は隣の郡(長沙)で二千石の位を持っているから、こちらから応じる必要はないよ」
こうして張咨は、孫堅に軍の食糧を与えなかったんだ。
堅以牛酒禮咨,咨明日亦荅詣堅。酒酣,長沙主簿入白堅:「前移南陽,而道路不治,軍資不具,請收主簿推問意故。」咨大懼欲去,兵陳四周不得出。有頃,主簿復入白堅:「南陽太守稽停義兵,使賊不時討,請收出案軍法從事。」便牽咨於軍門斬之。郡中震慄,無求不獲。(註14)
孫堅は、牛や酒を用意して張咨をもてなしたよ。張咨も翌日、孫堅のところへやって来たよ。酒を飲んでいるとき、長沙の主簿が入って来て、孫堅にこう言ったよ。
「南陽に行くとき、道はきちんと整えられていなくて、軍の食糧や物資も用意されていなかったんだ。どうしてそうなったのか調べたいな」
張咨はこれを聞いて、とても怖くなって逃げようとしたよ。でも、兵たちが周りを取り囲んでいたから、逃げられなくなっちゃった。しばらくすると、主簿がもう一度、孫堅のところへ入って来て、こう言ったよ。
「南陽太守(張咨)が義のための兵を足止めしたから、賊をすぐに討てなかったんだ。どうか張咨を捕らえて調べて、軍の決まりに従って処罰させてほしいんだ」
張咨は軍の門まで連れて行かれて、そこで斬られたよ。郡の中は震え上がって、孫堅が求めるものは、何でも手に入るようになったよ。
吳歷曰:初堅至南陽,咨旣不給軍糧,又不肯見堅。堅欲進兵,恐有後患,乃詐得急疾,舉軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川。遣所親人說咨,言病困,欲以兵付咨。咨聞之,心利其兵,即將步騎五六百人詣營省堅。堅卧與相見。無何,卒然而起,按劒罵咨,遂執斬之。此語與本傳不同。
『呉歴』によると、最初に孫堅が南陽に着いたとき、張咨は軍の食糧を与えなかっただけでなくて、孫堅に会おうともしなかったんだ。孫堅は兵を進めようとしたけど、あとで問題が起こることを心配して、病気が急にひどくなったふりをしたよ。軍全体が大騒ぎになって、巫女や医者を呼んだり、山や川の神にお祈りをしたりしたよ。
そして、孫堅は親しい人を張咨のもとへ送って、張咨に「孫堅の病気はとても重くて、兵を張咨に任せたいと思っているんだ」と伝えたよ。張咨はそれを聞いて、孫堅の兵を手に入れれば利益になると考えて、500から600人の歩兵と騎兵を率いて孫堅の陣営にやって来たよ。孫堅は寝たまま、張咨と会ったよ。でも、孫堅は突然起き上がって、剣を手に取って、張咨を責めたよ。そして、そのまま張咨を捕らえて斬ったんだ。
この話は「破虜伝」本文とは違うみたい。
前到魯陽,與袁術相見。術表堅行破虜將軍,領豫州刺史。遂治兵於魯陽城。當進軍討卓,遣長史公仇稱將兵從事還州督促軍糧。施帳幔於城東門外,祖道送稱,官屬並會。卓遣步騎數萬人逆堅,輕騎數十先到。堅方行酒談笑,勑部曲整頓行陣,無得妄動。
孫堅は魯陽に着くと、袁術と会ったよ。袁術は上表して、孫堅を破虜将軍に任命して、豫州刺史(州の長官)を兼ねさせたよ。孫堅は魯陽の城で兵を整えたよ。
董卓を討つために軍を進めるとき、長史の公仇称に兵を率いさせて、州に戻って軍の食糧を急いで集めさせたよ。孫堅は、城の東の門の外に幕を張ったよ。公仇称が出発するとき、道の途中まで見送って、役人たちも集まったよ。
一方、董卓は数万人の歩兵と騎兵を孫堅に向かわせてきたんだ。まずは数十人の騎兵が着いたよ。でも、孫堅はちょうどそのとき、兵たちと酒を飲みながら話したり笑ったりしていたんだ。孫堅は敵が近づいていると知ってもあわてないで、部下たちに「軍の隊列をきちんと整えてね。勝手に動かないでね」と命令したよ。
後騎漸益,堅徐罷坐,導引入城,乃謂左右曰:「向堅所以不即起者,恐兵相蹈藉,諸君不得入耳。」卓兵見堅士衆甚整,不敢攻城,乃引還。(註15)
その後、敵の騎兵はだんだん増えていったんだ。孫堅はゆっくりと立ち上がって、城に入ったよ。そして、周りの人たちにこう言ったよ。
「さっき私がすぐに立ち上がらなかったのは、兵たちあわてて動いてお互いにぶつかったり踏みつけたりして、みんなが入れなくなってしまうのを心配したからだよ」
すると、董卓の兵たちは孫堅の兵たちが整っているのを見て、城を攻められなくて、引き返したんだ。
英雄記曰:初堅討董卓,到梁縣之陽人。卓亦遣兵步騎五千迎之,陳郡太守胡軫為大督護,呂布為騎督,其餘步騎將校都督者甚衆。軫字文才,性急,預宣言曰:「今此行也,要當斬一青綬,乃整齊耳。」諸將聞而惡之。
『英雄記』によると、最初に孫堅が董卓を討つために、梁県の陽人に着くと、董卓も5,000人の歩兵と騎兵で孫堅を迎え撃ったんだ。陳郡太守(郡の長官)の胡軫が大督護となって、呂布が騎督になって、他にも歩兵や騎兵や都督がたくさんいたよ。
胡軫は、字は文才で、気の短い性格だよ。胡軫は、戦いに出る前から、こう言ったよ。
「今回の戦いは、青い紐(太守の証)を持つ者(孫堅)を討ち取ればおさまるよ」
これを聞いた将たちは、胡軫のことを嫌うようになったんだ。
軍到廣成,去陽人城數十里。日暮,士馬疲極,當止宿,又本受卓節度宿廣成,秣馬飲食,以夜進兵,投曉攻城。諸將惡憚軫,欲賊敗其事,布等宣言「陽人城中賊已走,當追尋之;不然失之矣」,便夜進軍。城中守備甚設,不可掩襲。
胡軫の軍は広成まで進んで、陽人の城から数十里ほどのところまで来たよ。日も暮れて、兵も馬もすっかり疲れていたから、ここで止まって宿営するつもりだったんだ。もともと董卓からも、「広成で宿営して、馬にえさを与えて、兵たちに食事をさせてから、夜になって軍を進めて、夜明けに城を攻撃してね」と命令されていたよ。でも、将たちは胡軫を嫌っていたから、敵に胡軫の計画をつぶしてもらおうと思ったんだ。呂布たちは、わざとこう言ったよ。
「陽人の城の中にいた賊は、もう逃げちゃった。今すぐ追いかけないと、逃げられちゃうよ」
そして、夜のうちに軍を進めたよ。でも、城の守りはすごく固いから、突然攻撃して城を奪うことはできなかったんだ。
於是吏士饑渴,人馬甚疲,且夜至,又無壍壘。釋甲休息,而布又宣言相驚,云「城中賊出來」。軍衆擾亂奔走,皆棄甲,失鞌馬。行十餘里,定無賊,會天明,便還,拾取兵器,欲進攻城。城守已固,穿壍已深,軫等不能攻而還。
軍はそこで、兵たちは腹が減ってのども渇いて、人も馬もとても疲れていたんだ。しかも夜になってから着いたのに、守りのための土塁や堀もなかったんだ。兵たちは、鎧を脱いで休んだよ。すると、呂布がまたこう言ったよ。
「城の中の敵が出てきた!」
軍は大混乱になって、みんな逃げちゃった。だから、たくさんの兵が鎧を捨てて、馬や馬具まで失ったんだ。10里くらい進んだところで、賊がどこにもいないことがわかったんだ。ちょうど夜が明けたから、軍は引き返して、捨てた武器を拾い集めて、改めて城を攻めようとしたよ。でも、城の守りはしっかり整えられていて、堀も深く掘られていたから、胡軫たちは城を攻められなくて、引き返したんだ。
陽人の戦い
堅移屯梁東,大為卓軍所攻,堅與數十騎潰圍而出。堅常著赤罽幘,乃脫幘令親近將祖茂著之。卓騎爭逐茂,故堅從閒道得免。茂困迫,下馬,以幘冠冢閒燒柱,因伏草中。卓騎望見,圍繞數重,定近覺是柱,乃去。堅復相收兵,合戰於陽人,大破卓軍,梟其都督華雄等。是時,或閒堅於術,術懷疑,不運軍糧。(註16)
孫堅は軍を梁の東へ移したよ。すると、董卓の軍に激しく攻められて包囲されたんだ。孫堅は数十人の騎兵と一緒に敵の包囲を突破して、そこから逃げ出したよ。
孫堅はいつも赤い頭巾をかぶっていたよ。そこで、その頭巾を脱いで、親しくしていた武将の祖茂にかぶせたんだ。董卓の騎兵たちは、祖茂が孫堅だと思って、祖茂を追いかけたよ。そのおかげで、孫堅は別の道を通って逃げることができたの。
祖茂は追い詰められると、馬から降りて、孫堅の赤い頭巾を墓のそばにある焼けた柱にかぶせて、自分は草むらに隠れたよ。董卓の騎兵たちは、それを見つけると何重にも取り囲んだよ。でも、しばらく近くで見て、それが人ではなく柱だとわかると、立ち去ったんだ。
孫堅はふたたび兵を集めて、陽人で董卓の軍と戦って、大きく打ち破ったよ。董卓の都督の華雄たちの首を取ったよ。
このとき、誰かが孫堅について袁術に悪いことを言ったよ。だから、袁術は孫堅を疑うようになって、軍の食糧を送らなくなったんだ。
江表傳曰:或謂術曰:「堅若得洛,不可復制,此為除狼而得虎也」,故術疑之。
『江表伝』によると、ある人が袁術にこう言ったよ。
「もし孫堅が洛陽を手に入れたら、もう止められないよ。これは、狼を退治したと思ったら、今度は虎を手に入れてしまうようなものなんだ」
だから袁術は孫堅を警戒するようになったんだ。
陽人去魯陽百餘里,堅夜馳見術,畫地計校,曰:「所以出身不顧,上為國家討賊,下慰將軍家門之私讎。堅與卓非有骨肉之怨也,而將軍受譖潤之言,還相嫌疑!」(註17)術踧踖,即調發軍糧。堅還屯。
陽人は、魯陽から100里以上離れたところにあったよ。孫堅は夜に馬を走らせて袁術のところへ行って、地面に絵を描きながら、これまでの事情を説明して、こう言ったよ。
「私は自分の命を振り返らないで戦ってきたよ。上は国のために敵を討って、下は将軍(袁術)の家の個人的な怨みを晴らすためだよ。私と董卓は深い怨みあるわけではないよ。なのにあなたは悪いうわさを信じて、私のことを疑うようになったんだ!」
袁術は、気まずそうにして何も言えなかったよ。そして、すぐに軍の食糧を集めて渡するように命令したよ。孫堅は陣に帰ったよ。
江表傳載堅語曰:「大勳垂捷而軍糧不繼,此吳起所以歎泣於西河,樂毅所以遺恨於垂成也。願將軍深思之。」
『江表伝』によると、孫堅はこう言ったよ。
「大きな功績をあげてもうすぐ勝てそうなのに、軍の食糧が足りないんだ。これは、呉起が西河で嘆いて涙を流したことや、楽毅が、もう少しで成功するというところで無念な思いを残したことと同じだね。あなたはよく考えてほしいな」
卓憚堅猛壯,乃遣將軍李傕等來求和親,令堅列疏子弟任刺史、郡守者,許表用之。堅曰:「卓逆天無道,蕩覆王室,今不夷汝三族,縣示四海,則吾死不瞑目,豈將與乃和親邪?」復進軍大谷,拒雒九十里。(註18)
董卓は、孫堅がとても勇ましく強いから怖くなっちゃった。そこで、将軍の李傕たちを孫堅のもとへ送って、仲直りしようとしたよ。そして、孫孫堅に、自分の親族の中から刺史(州の長官)や郡の太守(郡の長官)になりたい者を名簿に書いて出せば、その人たちを任命するように上表する、と伝えたよ。でも、孫堅はこう言ったよ。
「董卓は天に逆らって道にはずれて、国の決まりを無視して、皇室をめちゃくちゃにした悪人だよ。今、董卓の一族を滅ぼして天下の人たちにその罪を示さなければ、私は死んでも目を閉じることができないんだ。そんな董卓と、どうして私が仲直りなんてできるの?」
そして、孫堅はさらに大谷まで軍を進めて、洛陽から90里くらい離れたところで、董卓の軍を迎え撃つ準備をしたよ。
山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之。孤昔與周慎西征,慎圍邊、韓於金城。孤語張溫,求引所將兵為慎作後駐。溫不聽。
『山陽公載記』によると、董卓は、長史の劉艾にこう言ったよ。
「関東(函谷関の東)の軍(袁紹たち)は何度も負けているよ。みんな私を怖がって、何もできないよ。でも、孫堅だけはちょっと向こう見ずなところがあるって、人をうまく使えるんだ。だから、将たちにこのことを知らせて、孫堅を警戒するようにさせなければならないんだ。
私は昔、周慎と一緒に西へ軍を進めて、周慎は金城で辺章と韓遂を包囲したよ。私は張温に『私が率いている兵を連れて行って、周慎の後ろを守る部隊として置かせてほしい』と頼んだよ。でも、張温は聞いてくれなかったんだ。
孤時上言其形勢,知慎必不克。臺今有本末。事未報,溫又使孤討先零叛羌,以為西方可一時蕩定。孤皆知其不然而不得止,遂行,留別部司馬劉靖將步騎四千屯安定,以為聲勢。叛羌便還,欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也。虜謂安定當數萬人,不知但靖也。
私はそのとき戦いの状況について朝廷に報告して、周慎がきっと勝てないだろうとわかっていたよ。尚書台にはまだこのことについての記録が残っていたよ。でも、報告への返事がまだ届かないうちに、張温はまた私に、先零の反乱した羌の人たちを討つよう命令したんだ。そして、『西の地方を一度に平定できるだろう』と考えていたんだって。私は、そんなに簡単にはいかないとわかっていたけど、命令に逆らえないから、出発したんだ。
そのとき、別部司馬の劉靖に歩兵と騎兵4,000人を率いさせて、安定にとどまらせて、大きな軍がいるように見せたよ。反乱した羌の人たちは、すぐに引き返して帰り道をふさごうとしたんだ。でも、私が少し攻撃すると、すぐに道を開けたよ。安定に大軍がいると思って、恐れたからだよ。敵は、安定には数万人の兵がいると思っていたよ。でも、実際にいたのは劉靖が率いる兵だけだったの。
時又上章言狀,而孫堅隨周慎行,謂慎求將萬兵造金城,使慎以二萬作後駐,邊、韓城中無宿穀,當於外運,畏慎大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道,兒曹用必還羌谷中,涼州或能定也。溫旣不能用孤,慎又不用堅,自攻金城,壞其外垣,馳使語溫,自以克在旦夕,溫時亦自以計中也。而渡遼兒果斷蔡圍,慎棄輜重走,果如孤策。臺以此封孤都鄉侯。堅以佐軍司馬,所見與人同,自為可耳。」
このときまた私は戦いの様子を朝廷に報告したよ。孫堅は周慎に従っていて、周慎にこう話していたよ。
『(孫堅が)1万の兵を金城に送って、周慎にはさらに2万の兵で後ろに置いて守ってほしいんだ。辺章と韓遂は、城の中に穀物をほとんど持っていないから、外から食糧を運び込まなければならないんだ。でも、周慎の大軍を率いてるから恐れて、簡単には孫堅の軍と戦おうとはしないだろうね。そうすれば、孫堅の軍が食糧を運ぶ道をふさげば、敵はきっと食糧を取りに羌の谷へ戻るはず。そうすれば、涼州を平定できるかも』
でも、張温は私の提案を使えなかったし、周慎も孫堅の意見を使わなかったんだ。周慎は自分で金城を攻めて、外の城壁を壊したよ。そして、使者を急いで張温のもとへ送って、『もうすぐ勝てる』と伝えたよ。張温も、この作戦はうまくいっていると思っていたよ。
でも、渡遼の兵たち(羌たち)が、周慎の包囲を断ち切りったんだ。周慎は武器や食糧などの荷物を捨てて逃げちゃった。結局、私が考えていたとおりになったよね。その結果、私は都郷侯に封ぜられたよ。孫堅は佐軍司馬として、ほかの人と同じように意見を言っただけ。自分の考えが正しいと思ったから、そう提案したんだ」
艾曰:「堅雖時見計,故自不如李傕、郭汜。聞在美陽亭北,將千騎步與虜合,殆死,亡失印綬,此不為能也。」卓曰:「堅時烏合義從,兵不如虜精,且戰有利鈍。但當論山東大勢,終無所至耳。」艾曰:「山東兒驅略百姓,以作寇逆,其鋒不如人,堅甲利兵彊弩之用又不如人,亦安得乆?」卓曰:「然,但殺二袁、劉表、孫堅,天下自服從孤耳。」
劉艾はこう言ったよ。
「孫堅は、ときどきよい作戦を考えることがあるけど、李傕や郭汜には及ばないんだ。聞いたところ、彼は美陽亭の北にいて、1,000人くらいの騎兵と歩兵を率いて敵と戦って、もう少しで死ぬところだったんだって。さらに、印綬も失ったんだって。これでは本当に能力があるとは言えないよね」
董卓はこう言ったよ。
「孫堅の軍は、急に集められた義のための兵で、敵の兵ほど強くないんだ。それに、戦いには勝つときも負けるときもあるよ。山東の軍全体の様子を見ると、結局、彼らは何も成し遂げられないだろうね」
劉艾はこう言ったよ。
「山東のの若者たちは、民を無理やり連れてきて軍に加えて、反乱を起こしているだけなんだ。戦う力も他の軍より強くないし、立派な鎧や鋭い武器、強い弓を使う力も、敵の軍には及ばないよ。そのような軍が、どうして長く戦い続けられるの?」
董卓はこう答えたよ。
「そうだね。ただ、袁紹、袁術、劉表、孫堅を殺せば、天下の人たちは自然に私に従うようになるだろうね」
荒れ果てた洛陽へ
卓尋徙都西入關,焚燒雒邑。堅乃前入至雒,脩諸陵,平塞卓所發掘。(註19)(註20)(註21)(註22)(註23)
董卓はすぐに都を西に移して、関門を通り抜けて、洛陽を焼き払ったんだ。そこで、孫堅は洛陽に入って、漢の皇帝たちの墓を修復して、董卓が掘り返したところを整えたよ。
江表傳曰:舊京空虛,數百里中無煙火。堅前入城,惆悵流涕。
『江表伝』によると、昔の都(洛陽)はすっかり荒れ果てて、数百里にわたって人の暮らしを示す煙さえ見えなかったんだ。孫堅が先頭に立って城の中へ入ると、悲しい気持ちになって、涙を流したよ。
吳書曰:堅入洛,埽除漢宗廟,祠以太牢。堅軍城南甄官井上,旦有五色氣,舉軍驚恠,莫有敢汲。堅令人入井,探得漢傳國璽,文曰「受命于天,旣壽永昌」,方圜四寸,上紐交五龍,上一角缺。初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者以投井中。
『呉書』によると、孫堅は洛陽に入ると、漢の皇帝の宗廟(先祖の廟)を掃除して、太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げてまつったよ。孫堅の軍が城の南にある甄官井(井戸)のそばに陣を置いたら、ある朝、井戸から五色の光のような気が立ちのぼったんだ。みんなびっくりして、誰も井戸から水をくもうとはしなかったよ。
そこで孫堅は、人を井戸に入らせて調べさせたよ。すると、漢の伝国璽が見つかったんだ。その印には、「受命于天,旣壽永昌(天命を受けて、永遠に長く栄える)」と刻まれていたんだ。形は四角くて、一辺が4寸くらいで、上には5匹の龍がからみ合った飾りがついていて、そのうち1つの角は欠けていたよ。
もともと、黄門の張譲たちが反乱を起こして、天子を連れ去って逃げたとき、皇帝のそばにいた人たちはばらばらになったんだ。そのとき、伝国璽を預かっていた人が、それを井戸の中へ投げ入れたの。
山陽公載記曰:袁術將僭號,聞堅得傳國璽,乃拘堅夫人而奪之。
『山陽公載記』によると、袁術は身分を越えて自分で皇帝と名乗ろうとすると、孫堅が伝国璽を手に入れたと聞いて、孫堅の妻を捕らえて、伝国璽を奪い取ったんだ。
江表傳曰:案漢獻帝起居注云「天子從河上還,得六璽於閣上」,又太康之初孫皓送金璽六枚,無有玉,明其偽也。
『江表伝』によると、漢の『献帝起居注』には「天子が黄河のほとりから戻ってきたとき、建物の上で6つの印を見つけた」と書かれているよ。
それに、太康の年号の初めごろ(280年)、孫皓が(晋に)金でできた6つの印を送ったんだ。その中には玉でできたものは一つもなかったよ。だから、孫堅が見つけたという伝国璽は、偽物だとはっきりしているよ。
虞喜志林曰:天子六璽者,文曰「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」。此六璽所封事異,故文字不同。獻帝起注云「從河上還,得六玉璽於閣上」,此之謂也。
虞喜の『志林』によると、天子の6つの印璽はそれぞれ、「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」と刻まれているよ。これらの6つの印璽はそれぞれ役割が違っているから、刻まれている文字もそれぞれ違っていたの。
『献帝起居注』の「皇帝が黄河のほとりから戻ってきたとき、建物の上で6つの玉でできた印を見つけた」と書かれているのは、この6つの印のことを指しているんだね。
傳國璽者,乃漢高祖所佩秦皇帝璽,世世傳受,號曰傳國璽。案傳國璽不在六璽之數,安得總其說乎?應氏漢官、皇甫世紀,其論六璽,文義皆符。漢宮傳國璽,文曰「受命于天,旣壽且康」。「且康」「永昌」,二字為錯,未知兩家何者為得。金玉之精,率有光氣,加以神器祕寶,輝耀益彰,蓋一代之奇觀,將來之異聞,而以不解之故,彊謂之偽,不亦誣乎!
伝国璽とは、漢の高祖(劉邦)が身につけていた、秦の始皇帝の印だよ。それが代々受け継がれたので、「伝国璽」と呼ばれるようになったよ。伝国璽は、先ほど説明した6つの印には含まれていないんだ。なのに、どうして6つの印と伝国璽を一つにまとめて説明できるの?
応劭の『漢官儀』と皇甫謐の『帝王世紀』によると、6つの印について説明しているけど、そこに書かれている内容はどちらもぴったりだね。漢の宮廷に伝わっていた伝国璽には、「受命于天、既寿且康」と刻まれているよ。『漢官儀』では「且康」、『呉書』では「永昌」と、2文字が違っているけど、どちらが正しいかはわからないよ。
金や玉のようなすぐれた宝物には、もともと光があるもので。皇帝が使う神聖な宝物である伝国璽なら、その輝きはさらに目立っただろうね。五色の不思議な光が現れたのはその時代にしか見られない珍しい光景で、後の時代の人たちにとっても、とても不思議でめずらしい出来事として伝わるものだよね。なのに、自分には理解できないという理由だけで、無理に「これは偽物だ」と決めつけてしまうのは、事実を曲げてしまうのではないかな!
陳壽為破虜傳亦除此說,俱惑起居注,不知六璽殊名,與傳國為七者也。吳時無能刻玉,故天子以金為璽。璽雖以金,於文不異。吳降而送璽者送天子六璽,曩所得玉璽,乃古人遺印,不可施用。天子之璽,今以無有為難,不通其義者耳。
陳寿は「破虜伝」を書くときにも、この説を取り上げなかったよ。これは、どちらも『献帝起居注』に惑わされて、6つの印にはそれぞれ別の名前があって、伝国璽を合わせると全部で7つになることを知らなかったからだろうね。
呉の時代には、玉を加工して印を作る技術がなかったから、天子は金で印を作ったよ。印が金でできていても、そこに刻まれている文字や使い方は、玉でできた印と変わらないよ。呉が降伏して、印を天子に送ったのは、天子が使う6つの印だよ。孫堅が手に入れた玉の印は昔の人が残した古い印だったから、天子が使うことはできなかったんだ。今、天子の印が存在しないと考えているのは、このことの意味を正しくわかっていないからだろうね。
臣松之以為孫堅於興義之中最有忠烈之稱,若得漢神器而潛匿不言,此為陰懷異志,豈所謂忠臣者乎?吳史欲以為國華,而不知損堅之令德。如其果然,以傳子孫,縱非六璽之數,要非常人所畜,孫皓之降,亦不得但送六璽,而寶藏傳國也。受命于天,奚取於歸命之堂,若如喜言,則此璽今尚在孫門。匹夫懷璧,猶曰有罪,而況斯物哉!
裴松之はこう考えるよ。孫堅は義のために兵を起こした人たちの中でも、特に忠実で勇ましい人として知られているよ。もし孫堅が漢の大切な宝である伝国璽を手に入れて、それを隠したまま誰にも言わなかったのだとしたら、それは心の中に別の考えを持っていたということになっちゃう。そのような人を、どうして忠のある臣下と呼べるの?
呉の歴史を書いた人は、孫堅を国の誇りとなる人物として描こうとしたのだろうけど、かえって孫堅の立派な人柄を傷つけてしまっているんだ。もし本当に孫堅が伝国璽を手に入れていたのなら、それを子孫に代々伝えたはず。たとえ伝国璽が6つの印の中に入らないとしても、普通の人が持ってよいものではないよね。
孫皓が降伏したとき、ただ六つの印だけを送って、伝国璽を大切に隠しておくなんてできなかったはず。伝国璽に「受命于天(天から命を受けて)」と刻まれていたのなら、帰命侯(孫皓)から得られるわけがないよ。もし虞喜が言っていることが正しいのなら、この伝国璽は今でも孫堅の一族のもとに残っていることになるんだ。普通の人でさえ、貴重な宝を隠し持っているだけで罪に問われるのに、ましてや皇帝の大切な宝である伝国璽なら、なおさらだよ。
伝国璽は、劉邦が秦の子嬰から授かった始皇帝の璽印だよ。漢の皇帝に代々受け継がれていったんだ。漢の皇帝は、即位するときに先帝の棺の前や高祖(劉邦)の廟の前で伝国璽を受け取って、正統な後継者だと示したよ。
訖,引軍還,住魯陽。(註24)(註25)
戦いが終わると、孫堅は軍を引き上げて、魯陽に戻ってとどまったよ。
吳錄曰:是時關東州郡,務相兼并以自彊大。袁紹遣會稽周㬂為豫州刺史,來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵,將救社稷。逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下。㬂字仁明,周昕之弟也。
『呉録』によると、このとき関東(函谷関の東)の州や郡では、それぞれ自分たちの勢力を強くするために、ほかの勢力を取り込もうとしていたよ。袁紹は会稽の周喁を豫州刺史(州の長官)に任命して、州を奪うために攻め込ませたんだ。孫堅は、それを知ると、深く嘆いてこう言ったよ。
「私たちは同じように義のために兵をあげて、国を救おうとしていたはず。なのに、今にも反逆者を打ち破れそうになっているのに、みんなこのように自分の勢力を広げようとしているんだ。これでは、私はいったい誰と力を合わせて戦えばいいの!」
そう言うと、孫堅は涙を流したんだ。
周喁は、字は仁明で、周昕の弟だよ。
會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人要喁,㬂即收合兵衆,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,㬂往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。
『会稽典録』によると、最初に曹操が義のために兵をあげると、使者を送って周喁を誘って仲間に加えようとしたよ。周喁はすぐに兵を2,000人も集めて、曹操に従って各地へ兵を出して、軍師として仕えたよ。
その後、周喁は孫堅と豫州をめぐって争って、何度も戦ったけど、負け続けたんだ。そのころ、周喁の兄で九江太守(郡の長官)の周昂が袁術に攻撃されたから、周喁は助けに向かったよ。でも、軍は負けちゃった。そこで故郷へ戻ったけど、許貢に殺されたんだ。
襄陽の戦い
初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊,鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。(註26)(註27)(註28)
初平三年(192年)、袁術は孫堅に荊州を攻めさせて、劉表を攻撃させたんだ。劉表は、黄祖に兵を率いさせて、樊と鄧のあいだで迎え撃たせたよ。孫堅は黄祖を打ち破って、そのまま追いかけて漢水を渡ったよ。そして、襄陽を包囲したよ。孫堅は一人で馬に乗って、峴山を進んでいたら、黄祖の兵が放った矢に射られて、命を落としたんだ。
典略曰;堅悉其衆攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。
『典略』によると、孫堅は、全軍を率いて兵を劉表を攻めたけど、劉表は城の門を閉めて守ったんだ。夜になると、劉表は将の黄祖をこっそりと城の外へ出して、兵を集めさせたよ。黄祖が兵を連れて戻ろうとすると、孫堅はそれを迎え撃って戦ったよ。黄祖の軍は負けて逃げて、峴山の中に隠れたんだ。孫堅は勝った勢いに乗って、夜に黄祖を追いかけたよ。すると、黄祖の兵たちは竹や木のあいだに隠れて、そこから矢を放ったよ。その矢に当たって、孫堅は命を落としたんだ。
吳錄曰:堅時年三十七。
『呉録』によると、このとき孫堅は37歳だったよ。
英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又云:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。
『英雄記』によると、孫堅は初平四年(193年)正月七日に亡くなったんだって。それに、劉表の将の呂公が兵を率いて、山に沿って進んで、孫堅のところへ向かったよ。孫堅は少数の騎兵だけを率いて呂公を追って、山の中へ入ったんだ。すると、呂公の兵たちは山の上から石を落として、その石が孫堅の頭に当たって脳が出て、命を落としたんだって。
このように、孫堅がどのように亡くなったのかについては、記録によって違うね。
孫堅さんが亡くなったのは、本文の初平三年(192年)? 『英雄記』の初平四年(193年)? この疑問は孫策の伝で触れられているよ。
兄子賁,帥將士衆就術,術復表賁為豫州刺史。
孫堅の兄の子の孫賁は、兵を率いて袁術のもとに行ったよ。袁術はふたたび上表して孫賁を豫州刺史(州の長官)に任命したよ。
堅四子:策、權、翊、匡。權旣稱尊號,謚堅曰武烈皇帝。(註29)(註30)
孫堅には4人の子供がいるよ。孫策、孫権、孫翊、孫匡だよ。孫権が皇帝に即位すると、孫堅には武烈皇帝の諡が贈られたよ。
吳錄曰:尊堅廟曰始祖,墓曰高陵。
『呉録』によると、孫堅の廟を始祖、墓を高陵と呼ぶんだって。
志林曰:堅有五子:策、權、翊、匡,吳氏所生;少子朗,庶生也,一名仁。
『志林』によると、孫堅には5人の子供がいるよ。孫策、孫権、孫翊、孫匡は、呉氏が産んだ子だよ。末子の孫朗は側室から生まれた子で、もう一つの名は孫仁だよ。
陳寿の評
「呉書討逆伝」に書いたよ。
「呉書破虜伝」は以上だよ!


