正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ! その1

正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書諸葛亮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(しょ)(かつ)(りょう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

長いから記事を分けたよ。この記事は、出師表までだよ。

出典

三國志 : 蜀書五 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

諸葛亮の生まれと流浪の日々

本文

諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也。漢司隷校尉諸葛豐後也。父珪,字君貢,漢末為太山郡丞。亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。(註1)

(しょ)(かつ)(りょう)は、(あざな)(こう)(めい)で、(ろう)()(よう)()県の出身だよ。(かん)の時代の()(れい)(こう)()(しょ)(かつ)(ほう)の子孫だよ。父は(しょ)(かつ)(けい)(あざな)(くん)(こう)で、(かん)の時代の終わり頃に太山(たいざん)郡の(じょう)を務めたんだって。(しょ)(かつ)(りょう)は幼い頃に父を亡くして孤児になっちゃった。
従父の(しょ)(かつ)(げん)(えん)(じゅつ)によって()(しょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命されたよ。(しょ)(かつ)(げん)(しょ)(かつ)(りょう)とその弟の(しょ)(かつ)(きん)を連れて行って官職に就いたよ。でも、(かん)の朝廷が(しょ)(かつ)(げん)の代わりに(しゅ)(こう)を任命したんだ。(しょ)(かつ)(げん)はもともと(けい)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(ひょう)と古い友人だったから、彼を頼ったの。

(註1)

獻帝春秋曰:初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。漢朝聞周術死,遣朱皓代玄。皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。此書所云,與本傳不同。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、もともと、()(しょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(しゅう)(じゅつ)が病気で亡くなると、(りゅう)(ひょう)(しょ)(かつ)(げん)()(しょう)(たい)(しゅ)にするように上表して、(なん)(しょう)で治めさせたよ。(かん)の朝廷は(しゅう)(じゅつ)の死を聞いて、(しゅ)(こう)(しょ)(かつ)(げん)の代わりに送ったの。(しゅ)(こう)(よう)(しゅう)()()(州の長官)の(りゅう)(よう)に兵を求めて(しょ)(かつ)(げん)を攻撃したよ。(しょ)(かつ)(げん)は退却して西(せい)(じょう)に駐屯して、(しゅ)(こう)(なん)(しょう)に入ったよ。
建安二年(197年)、正月、西(せい)(じょう)の住民が反乱を起こして(しょ)(かつ)(げん)を殺しちゃって、彼の首を(りゅう)(よう)に送ったんだ。
この書に記されていることは、「諸葛亮伝」とは異なるね。

荊州での日々

本文

玄卒,亮躬耕隴畒,好為梁父吟。(註2)身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂為信然。(註3)(註4)

(しょ)(かつ)(げん)が亡くなると、(しょ)(かつ)(りょう)は自分で畑を耕して、(りょう)()(ぎん)を好んで歌ったよ。(しょ)(かつ)(りょう)の身長は8尺あって、自分を(かん)(ちゅう)(がく)()にたとえていたけど、当時の人たちはそれを認めなかったんだ。でも、(はく)(りょう)の出身の(さい)(しゅう)(へい)と、(えい)(せん)の出身の(じょ)(しょ)(あざな)(げん)(ちょく)だけは(しょ)(かつ)(りょう)は彼と友達で、彼の言うことを信じていたの。

8 尺は、漢の尺では 184 ~ 185cm くらい、魏晋の尺では 192 ~ 193cm くらいかな? 現代の感覚でも背が高いね!
(かん)(ちゅう)(かん)()())は、春秋時代の(せい)の宰相だよ。(がく)()は、春秋戦国時代の(えん)の将軍だよ。(かん)(ちゅう)(がく)()も、居場所を失った身で、良い君主に拾われて功績を挙げた人だよ。

(註2)

漢晉春秋曰:亮家于南陽之鄧縣,在襄陽城西二十里,號曰隆中。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)(なん)(よう)(とう)県に住んだよ。そこは(じょう)(よう)(じょう)の西に20里のところにあって、「(りゅう)(ちゅう)」と呼ばれているんだって。

(註3)

案崔氏譜:州平,太尉烈子,均之弟也。

(さい)()()』を調べたところ、(さい)(しゅう)(へい)は、(たい)()(さい)(れつ)の子で、(さい)(きん)の弟だよ。

(註4)

魏略曰:亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。每晨夜從容,常抱膝長嘯,而謂三人曰:「卿諸人仕進可至郡守刺史也。」三人問其所志,亮但笑而不言。後公威思鄉里,欲北歸,亮謂之曰:「中國饒士大夫,遨游何必故鄉邪!」

()(りゃく)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)(けい)州にいたとき、(けん)(あん)の年号の初め頃(196年頃)、(えい)(せん)の出身の(せき)(こう)(げん)(せき)(とう))、(じょ)(げん)(ちょく)(じょ)(しょ))、(じょ)(なん)の出身の(もう)(こう)()(もう)(けん))たちと一緒に学問に励んだよ。3人は詳しくなろうと努めたけど、(しょ)(かつ)(りょう)は大まかな要点を理解することに専念したよ。朝から晩まで、ゆったりとした時間を過ごしながら、(しょ)(かつ)(りょう)はいつも膝を抱えて長く歌って、3人にこう言ったよ。
「あなたたちは郡の(たい)(しゅ)(郡の長官)や()()(州の長官)にまで昇進するだろうね」
3人が彼の志を尋ねると、(しょ)(かつ)(りょう)はただ笑って何も言わなかったんだ。
後に(もう)(けん)は故郷が恋しくなって、北に帰りたいと言ったけど、(しょ)(かつ)(りょう)は彼にこう言ったよ。
「中原にはたくさんの士大夫がいるよ。旅をするのに故郷にこだわる必要はないよ!」

(註4)

臣松之以為魏略此言,謂諸葛亮為公威計者可也,若謂兼為己言,可謂未達其心矣。老氏稱知人者智,自知者明,凡在賢達之流,固必兼而有焉。以諸葛之鑒識,豈不能自審其分乎?夫其高吟俟時,情見乎言,志氣所存,旣已定於其始矣。若使游步中華,騁其龍光,豈夫多士所能沈翳哉!委質魏氏,展其器能,誠非陳長文、司馬仲達所能頡頏,而況於餘哉!苟不患功業不就,道之不行,雖志恢宇宙而終不北向者,蓋以權御已移,漢祚將傾,方將翊贊宗傑,以興微繼絕克復為己任故也。豈其區區利在邊鄙而已乎!此相如所謂「鵾鵬已翔於遼廓,而羅者猶視於藪澤」者矣。公威名建,在魏亦貴達。

(はい)(しょう)()の見解としては、『()(りゃく)』のこの記述について、(しょ)(かつ)(りょう)(もう)(こう)()(もう)(けん))のために計画を立てたことはあり得るけど、それを自分自身に対しても言ったとするなら、その心を理解していないと言えるよ。(ろう)()が「人を知る者は智、自分を知る者は明」と言っているように、道理に通じる人たちはこの両方を兼ね備えているべきだよね。(しょ)(かつ)(りょう)の見識からすれば、自分自身の分を判断できないはずがないよ。彼が高らかに吟じて時を待っていたのは、その言葉に情熱が見えていて、その志がすでに定まっていたからなんだ。
もし中原を旅してその才能を発揮しても、たくさんの士人の中で埋もれることはなかったと思うよ! ()に仕えてその才能を開かせても、(ちん)(ちょう)(ぶん)(ちん)(ぐん))や()()(ちゅう)(たつ)()()())と対等に渡り合えたはずだよ。ましてや他の者においてはなおさらだよね! 功業に就かないで、道が行われないことを心配しなくて、その志は宇宙に広がっていても、決して北に向かわなかったのは、権力がすでに移って、(かん)の運命が傾いているから、彼は宗族の人物を助けて、わずかなものを興して、絶えたものを再興することを自分の任務としたからだよ。どうしてただ辺境の利益だけを追い求めるの? これは()()(しょう)(じょ)が言う「(こん)(ほう)はすでに広大な空を飛んでいるのに、鳥を捕る者はまだ沼沢地を見ているようなもの」ということだよ。
(もう)(こう)()の名は(もう)(けん)で、()でも高い地位だったよ。

(はい)(しょう)()さんの熱い言葉。

劉備との出会い

本文

時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,卧龍也,將軍豈願見之乎?」(註5)先主曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。

この時、(りゅう)()(しん)()に駐屯していたよ。(じょ)(しょ)(りゅう)()に会って、(りゅう)()は彼をとても才能があると思ったよ。(じょ)(しょ)(りゅう)()にこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))は()(りゅう)だよ。あなたは会いたくないの?」
(りゅう)()はこう答えたよ。
「あなたにも一緒に来てもらいたいなぁ」
だけど、(じょ)(しょ)はこう言ったよ。
「この人は訪ねて会うことはできるけど、無理に連れてくることはできないんだ。あなたが自分で足を運んで訪れるべきだよ」
それを聞いた(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)を訪ねることに決めて、3度目にしてやっと会えたよ!

「此の人就きて見るべし」と言われる場面だよ。
(じょ)(しょ)さんの言葉から察すると、(しょ)(かつ)(りょう)さんは州や郡から仕えるように言われたけどお断りしたのかな?

(註5)

襄陽記曰:劉備訪世事於司馬德操。德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」

(じょう)(よう)()』によると、(りゅう)()()()(とく)(そう)を訪ねて、世の中のことについて意見を求めたよ。()()(とく)(そう)はこう答えたよ。
「儒者や知識が少ない人がどうして時代の流れを知ることができるの? 時代の流れを知る人は優れた知性を持った人だよ。この地には(ふく)(りゅう)(ほう)(すう)がいるんだ」
(りゅう)()が「誰なの?」と尋ねると、()()(とく)(そう)はこう答えたよ。
(しょ)(かつ)(こう)(めい)(しょ)(かつ)(りょう))と(ほう)()(げん)(ほう)(とう))だよ」

卧龍や伏龍は眠れる龍、鳳雛は鳳凰のひな。

本文

因屏人曰:「漢室傾頹,姧臣竊命,主上蒙塵。孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖獗,至于今日。然志猶未已,君謂計將安出?」

(りゅう)()は周りの人を退けてこう言ったよ。
(かん)の王朝は傾いて、悪い臣下が権力を握って、皇帝は逃げたんだ。私は自分の徳と力を考えないで大義を天下に信じてもらおうとしたけど、浅い知恵と技でここまで来ちゃった。でもね、それでも私の志はまだまだ尽きていないんだ。あなたはどうすればいいと思う?」

本文

亮荅曰:「自董卓已來,豪傑並起,跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹,則名微而衆寡,然操遂能克紹,以弱為彊者,非惟天時,抑亦人謀也。今操已擁百萬之衆,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。孫權據有江東,已歷三世,國險而民附,賢能為之用,此可與為援而不可圖也。荊州北據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍,將軍豈有意乎?

(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
(とう)(たく)が来てから、豪傑が次々に現れて、州や郡を支配する人が数えられないくらいたくさんいるよね。(そう)(そう)(えん)(しょう)と比べて名声は弱くて兵も少なかったけど、(えん)(しょう)に勝てたんだ。弱い人が強い人になったのは、天の時だけではなくて、人の策略もあったからなんだよ。今はもう曹操は100万人の兵を持って、天子を後ろ盾として諸侯に命令しているんだ。これでは彼とは争えないよね。
(そん)(けん)(こう)(とう)を拠点にしていて、すでに3世代になっていて、国をしっかり守っていて民も従っているんだ。賢者たちが彼を支えてるから、協力はできるけど攻めるのは難しいね。 (けい)州は北に(かん)(すい)(べん)(すい)があって、(なん)(かい)まで利益を得ていて、東は()(かい)(けい)、西は()(しょく)に通じているの。(けい)州こそ戦う国だけど、その主((りゅう)(ひょう))では守れないんだよね。これは天があなたに与えたところなんだよ。あなたはどう思う?

本文

益州險塞,沃野千里,天府之土,高祖因之以成帝業。劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存卹,智能之士思得明君。將軍旣帝室之冑,信義著於四海,總攬英雄,思賢如渴,若跨有荊、益,保其巖阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫權,內脩政理;天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之衆出於秦川,百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎?誠如是,則霸業可成,漢室可興矣。」

(えき)州は険しい地形に守られていて、千里に渡る豊かな土地があって、まるで天からの宝みたいな場所だよ。(こう)()(りゅう)(ほう))はこの地を使って帝の統治を成し遂げたんだよね。((えき)(しゅう)(ぼく)の)(りゅう)(しょう)は愚かで弱くて、(ちょう)()が北にいて、民はたくさんいて国は豊かなのに、民をねぎらうことを知らないの。才能のある人たちは賢明な君主を求めているよ。
あなたは(かん)の王室の末裔で、その信義は天下に知られていて、英雄たちをまとめて、賢者を求めているよね。もし(けい)州と(えき)州を支配して、その険しい地形を守りながら、西の異民族と仲良くして、南のさまざまな異民族をなだめて、外は(そん)(けん)と手を組んで、内では政治をしっかり修めて、天下が変わったら、1人の上将に命令して(けい)州の軍を(えん)(らく)に向かわせて、あなた自身は(えき)州の軍を率いて(しん)(せん)に出陣すれば、民の中で食べ物や飲み物を持ってあなたを迎えない人はいるの? そうすれば、覇業を成して、(かん)の王室を興せるんだ」

「隆中策」や「天下三分の計」と言われる場面だよ。

本文

先主曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛等不恱,先主解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。(註6)

(りゅう)()は「よし!」と言って、それからは(しょ)(かつ)(りょう)との仲が日に日に深まっていったよ。(かん)()(ちょう)()は不満だったけど、(りゅう)()は彼らを諭してこう言ったよ。
「私にとって(こう)(めい)がいるのは、魚にとって水があるようなものだよ。どうか、あなたたちは二度と不満を言わないでね」
(かん)()(ちょう)()はそれを聞いて、不満を言うのをやめたよ。

水魚の交わりだね。

(註6)

魏略曰:劉備屯於樊城。是時曹公方定河北,亮知荊州次當受敵,而劉表性緩,不曉軍事。亮乃北行見備,備與亮非舊,又以其年少,以諸生意待之。坐集旣畢,衆賔皆去,而亮獨留,備亦不問其所欲言。備性好結毦,時適有人以髦牛尾與備者,備因手自結之。亮乃進曰:「明將軍當復有遠志,但結毦而已邪!」備知亮非常人也,乃投毦而荅曰:「是何言與!我聊以忘憂爾。」

()(りゃく)』によると、(りゅう)()(はん)(じょう)に駐屯していたよ。この時、(そう)(そう)()(ほく)を平定している最中で、(しょ)(かつ)(りょう)(けい)州が次に敵の攻撃を受けると知ったけど、(りゅう)(ひょう)はのんびりした性格で、軍事に詳しくなかったんだ。そこで(しょ)(かつ)(りょう)は北へ(りゅう)()に会いに行ったよ。(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)とは前からの知り合いではなくて、さらに彼が若かったこともあって、普通の学生みたいに扱ったよ。
集まりが終わって、他の客がみんな帰った後、(しょ)(かつ)(りょう)だけが残ったけど、(りゅう)()は彼が何を言いたいのか尋ねなかったの。(りゅう)()は飾り結びを作るのが好きで、ちょうどその時、誰かが毛の長い牛の尾を持ってきたから、(りゅう)()はそれを手で結んでいたよ。すると(しょ)(かつ)(りょう)が進み出てこう言ったよ。
「あなたは大きな志を持つべきなのに、ただ飾り結びを作るだけでいいの?」
(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)がただ者ではないと知って、飾り結びを投げ捨てて、こう答えたよ。
「なんという言い方なんだ! 私はただ心配を忘れようとしているだけだよ」

(註6)

亮遂言曰:「將軍度劉鎮南孰與曹公邪?」備曰:「不及。」亮又曰:「將軍自度何如也?」備曰:「亦不如。」曰:「今皆不及,而將軍之衆不過數千人,以此待敵,得無非計乎!」備曰:「我亦愁之,當若之何?」

(しょ)(かつ)(りょう)は話し始めたよ。
「あなたは(りゅう)(ちん)(なん)(りゅう)(ひょう))と(そう)(そう)を比べて、どちらが優れていると思う?」
(りゅう)()はこう答えたよ。
(りゅう)(ひょう)(そう)(そう)には及ばないよ」
(しょ)(かつ)(りょう)はさらに尋ねたよ。
「では、あなた自身はどう思うの?」
(りゅう)()はこう答えたよ。
「私も(そう)(そう)には及ばないよ」
(しょ)(かつ)(りょう)はこう言ったよ。
「今、ふたりとも(そう)(そう)に及ばなくて、あなたの兵も数千人に過ぎないから、このまま敵を待つのは無謀だよ!」
(りゅう)()はこう言ったよ。
「私もそれを心配しているけど、どうすればいいの?」

(註6)

亮曰:「今荊州非少人也,而著籍者寡,平居發調,則人心不恱;可語鎮南,令國中凡有游戶,皆使自實,因錄以益衆可也。」備從其計,故衆遂彊。備由此知亮有英略,乃以上客禮之。九州春秋所言亦如之。

(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「今、(けい)州には人が少ないのではなくて、戸籍に登録されている人が少ないんだ。平時に兵を取り立てたら、人々の心は不満に思うよね。(りゅう)(ひょう)に伝えて、国内のすべての登録していない人たちを自ら登録させて、その人数を増やすようにすればいいよ」
(りゅう)()はその計画に従って、兵の数は増えて、軍は強くなったよ。このことから(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)が優れた策略を持っていると知って、彼を尊重して上客として丁寧にもてなしたよ。
(きゅう)(しゅう)(しゅん)(じゅう)』にも同じことが記されているよ。

(註6)

臣松之以為亮表云「先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事」,則非亮先詣備,明矣。雖聞見異辭,各生彼此,然乖背至是,亦良為可怪。

(はい)(しょう)()の見解としては、(しょ)(かつ)(りょう)が上表で「先帝((りゅう)())は私がいやしい身分であるにもかかわらず、わざわざ自ら身を低くして、3度も私の草廬に足を運んで、世の中のことについて相談を受けたよ」と言っているから、(しょ)(かつ)(りょう)が先に(りゅう)()を訪れたわけではないことは明らかだよね。聞いたことや見たことが異なる場合、それぞれに違いが生じるのは当然だけど、ここまで大きく違うのはとても不思議だね。

徐庶と別れる

本文

劉表長子琦,亦深器亮。表受後妻之言,愛少子琮,不恱於琦。琦每欲與亮謀自安之術,亮輒拒塞,未與處畫。琦乃將亮游觀後園,共上高樓,飲宴之間,令人去梯,因謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口,入於吾耳,可以言未?」亮荅曰:「君不見申生在內而危,重耳在外而安乎?」琦意感寤,陰規出計。

(りゅう)(ひょう)の長子の(りゅう)()も、(しょ)(かつ)(りょう)をとても高く評価していたよ。でも、(りゅう)(ひょう)は後妻の言葉を聞き入れて、末子の(りゅう)(そう)を可愛がって、(りゅう)()を好まなかったんだ。(りゅう)()はいつも(しょ)(かつ)(りょう)に安心して暮らす方法を相談しようとしたけど、(しょ)(かつ)(りょう)はそれを拒否して、話し合わなかったんだ。
ある日、(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)を後園に連れ出して、一緒に高楼に登ったよ。(りゅう)()は宴会の最中に梯子を外させて、(しょ)(かつ)(りょう)に尋ねたよ。
「今日のことは、上は天に届かなくて、下は地に届かないから、あなたの言葉は私の耳に入るだけだよ。これで、何か話してほしいな?」
(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「あなたは(しん)(せい)が内にいて危なくて、(ちょう)()(しん)(ぶん)(こう))が外にいて安全だったことを知らないの?」
(りゅう)()はこの言葉を理解して、こっそりと脱出の計画を立てたよ。

(こう)(めい)、罠にはまる。(りゅう)()の言葉は自嘲なのかな? (しん)(せい)は、春秋時代の(しん)の太子だよ。
(ちょう)()は、春秋時代の(しん)の王子だよ。父の(しん)(けん)(こう)は、(しん)(せい)でも(ちょう)()でもない子を後継ぎにしようとして、(しん)(せい)を暗殺して、(ちょう)()は亡命したの。(ちょう)()は長い亡命生活の後に(しん)に帰国できて王に即位して、(しん)(ぶん)(こう)となったよ。

本文

會黃祖死,得出,遂為江夏太守。俄而表卒,琮聞曹公來征,遣使請降。先主在樊聞之,率其衆南行,亮與徐庶並從,為曹公所追破,獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣曹公。(註7)

ちょうどその頃、(こう)()が亡くなって、(りゅう)()は脱出できて、そして(こう)()(たい)(しゅ)(郡の長官)になったよ。その後すぐに(りゅう)(ひょう)が亡くなって、(りゅう)(そう)(そう)(そう)が攻めてくると聞いて、使者を送って降伏しちゃった。(りゅう)()(はん)でその知らせを聞いて、兵を率いて南へ行ったよ。(しょ)(かつ)(りょう)(じょ)(しょ)も一緒について行ったけど、(そう)(そう)に追撃されて敗れて、(じょ)(しょ)の母が捕まっちゃった。(じょ)(しょ)(りゅう)()に別れを告げて、自分の胸を指し示してこう言ったよ。
「本来ならあなたと一緒に王の覇業をこの小さな心で図ろうと思っていたけど、今、母を失って、乱れてしまったの。これでは何の役にも立てないよ。ここで別れさせてほしいんだ」
そして彼は(そう)(そう)のもとへ向かったんだ。

(註7)

魏略曰:庶先名福,本單家子,少好任俠擊劒。中平末,甞為人報讎,白堊突靣,被髮而走,為吏所得,問其姓字,閉口不言。吏乃於車上立柱維磔之,擊鼓以令於市鄽,莫敢識者,而其黨伍共篡解之,得脫。於是感激,棄其刀戟,更踈巾單衣,折節學問。始詣精舍,諸生聞其前作賊,不肯與共止。福乃卑躬早起,常獨掃除,動靜先意,聽習經業,義理精孰。遂與同郡石韜相親愛。

()(りゃく)』によると、(じょ)(しょ)は、もともとの名は(じょ)(ふく)で、身分の低い家の子で、若い頃から侠客や剣術が好きだよ。
(ちゅう)(へい)の年号の終わり頃(189年頃)、人のために復讐を果たして、白粉で顔を隠して、髪を乱して走ってたところを役人に捕まっちゃった。名前を尋ねられても黙って答えなかったんだ。役人は車の上に柱を立てて彼を縛り付けて、市場で太鼓を鳴らして人々に知らせたけど、誰も彼が何者かわからなかったんだ。そして、仲間たちが彼を助け出して、逃がしたよ。
この出来事に感激した(じょ)(しょ)は、刀や戟を捨てて、代わりに布の頭巾と裏地のない服を身に着けて、学問に専念したよ。精舎(学びの場所)に行ったばかりの頃、他の学生たちは彼が昔に賊だったと聞いて、一緒に過ごすのを拒んだんだ。でも(じょ)(しょ)は謙虚な態度で早起きして、ひとりで掃除をして、他の人の意向を先読みして行動したんだ。経典の学習にも一生懸命取り組んで、義と理を深く理解したんだよ。そして、同じ郡((えい)(せん))の出身の(せき)(とう)と親しくなったよ。

(註7)

初平中,中州兵起,乃與韜南客荊州,到,又與諸葛亮特相善。及荊州內附,孔明與劉備相隨去,福與韜俱來北。至黃初中,韜仕歷郡守、典農校尉,福至右中郎將、御史中丞。逮大和中,諸葛亮出隴右,聞元直、廣元仕財如此,嘆曰:「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」庶後數年病卒,有碑在彭城,今猶存焉。

(しょ)(へい)の年号の間(190~193年)、中原で兵が起こると、(じょ)(しょ)(せき)(とう)と一緒に南の(けい)州に行ったよ。そこで(しょ)(かつ)(りょう)と特に親しくなったよ。(けい)州が内から応じて(そう)(そう)の支配下に入ると、(しょ)(かつ)(りょう)(りゅう)()と一緒に行ったけど、(じょ)(しょ)(せき)(とう)は北の(そう)(そう)のもとへ向かったんだ。
(こう)(しょ)の年号の間(220年~226年)、(せき)(とう)は郡の(たい)(しゅ)(郡の長官)や(てん)(のう)(こう)()に任命されて、(じょ)(しょ)()(ちゅう)(ろう)(しょう)(ぎょ)()(ちゅう)(じょう)に昇進したよ。
(たい)()の年号の間(227~233年)に、(しょ)(かつ)(りょう)(ろう)(ゆう)に出陣すると、(げん)(ちょく)(じょ)(しょ))と(せき)(とう)の地位を聞いて、嘆いてこう言ったよ。
()は本当にたくさんの士人がいるね! どうして彼らふたりが使われないの?」
(じょ)(しょ)は数年後、病気で亡くなったんだ。(ほう)(じょう)には彼の碑があって、今も残っているよ。

赤壁の戦い

本文

先主至于夏口,亮曰:「事急矣,請奉命求救於孫將軍。」時權擁軍在柴桑,觀望成敗,亮說權曰:「海內大亂,將軍起兵據有江東,劉豫州亦收衆漢南,與曹操並爭天下。今操芟夷大難,略已平矣,遂破荊州,威震四海。英雄無所用武,故豫州遁逃至此。將軍量力而處之:若能以吳、越之衆與中國抗衡,不如早與之絕;若不能當,何不案兵束甲,北面而事之!今將軍外託服從之名,而內懷猶豫之計,事急而不斷,禍至無日矣!」

(りゅう)()()(こう)に着くと、(しょ)(かつ)(りょう)はこう言ったよ。
「緊急事態だよ。どうか私に命令を与えて、(そん)(しょう)(ぐん)(そん)(けん))のもとへ援軍を求めに行きたいんだ」
この時、(そん)(けん)は軍を(さい)(そう)に構えてどうするか見極めていたんだ。(しょ)(かつ)(りょう)(そん)(けん)に意見を言ったよ。
「天下は大きく乱れて、将軍((そん)(けん))は兵を起こして(こう)(とう)を掌握して、(りゅう)()(しゅう)(りゅう)())も(かん)の南の人たちを集めて、(そう)(そう)と天下を争っているの。今、(そう)(そう)は大きな困難を切り払って、すでにほぼ平定して、(けい)州を破ってその威勢は天下に響いているんだ。英雄たちはその武を振るう場を失って、だから(りゅう)()(しゅう)も逃れてここに来たの。あなたは自分の力を考えて対処すべきだよ。もし()(えつ)の兵で中原((そう)(そう))に対抗できると考えているなら、早く彼との関係を絶つべきだよ。もしそれができないなら、どうして兵を休ませて鎧を脱いで、北に向かって(臣下として)彼に仕えようとしないの? 今、あなたは表向きは従う姿勢を示しているけど、内心では迷っているみたい。事態は緊急なのに、まだ決断していないんだ。そうしているうちに、災いはすぐにやってきちゃうよ!」

本文

權曰:「苟如君言,劉豫州何不遂事之乎?」亮曰:「田橫,齊之壯士耳,猶守義不辱,况劉豫州王室之冑,英才蓋世,衆士慕仰,若水之歸海,若事之不濟,此乃天也,安能復為之下乎!」

(そん)(けん)がこう言ったよ。
「もしあなたの言うとおりなら、どうして(りゅう)()(しゅう)(りゅう)())は(そう)(そう)に従おうとしないの?」
(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
(でん)(おう)(せい)の壮士にすぎないけど、それでも義を守って辱めを受けなかったんだよ。ましてや(りゅう)()(しゅう)(りゅう)())は(かん)の王室の血を引く人で、優れた才能を持っていて、たくさんの士人が彼を仰いで慕っているんだ。それはまるで水が海に帰るみたいにね。もし事がうまくいかなくても、それは天命だよ。どうして彼が人の下につくなんてできるの!」

(でん)(おう)は、(しん)の末期の(せい)の人で、(こう)()を倒した(りゅう)(ほう)に屈しなかった人だよ。
(しょ)(かつ)(りょう)さんは(せい)がお好き?

本文

權勃然曰:「吾不能舉全吳之地,十萬之衆,受制於人。吾計決矣!非劉豫州莫可以當曹操者,然豫州新敗之後,安能抗此難乎?」亮曰:「豫州軍雖敗於長阪,今戰士還者及關羽水軍精甲萬人,劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之衆遠來疲弊,聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂『彊弩之末,勢不能穿魯縞』者也。故兵法忌之,曰『必蹶上將軍』。且北方之人,不習水戰;又荊州之民附操者,偪兵勢耳,非心服也。今將軍誠能命猛將統兵數萬,與豫州協規同力,破操軍必矣。操軍破,必北還,如此則荊、吳之勢彊,鼎足之形成矣。成敗之機,在於今日。」權大恱,即遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬,隨亮詣先主,并力拒曹公。(註8)

(そん)(けん)は怒ってこう言ったよ。
「私は()のすべての土地の10万の兵で、他人の支配を受けるなんてできないよ。私の決意は固まっているんだ! (そう)(そう)に対抗できるのは(りゅう)()(しゅう)(りゅう)())しかいないね。でも、彼は敗れたばかりで、どうしてこの困難に立ち向かえるの?」
(しょ)(かつ)(りょう)は答えたよ。
(りゅう)()(しゅう)の軍はたしかに(ちょう)(はん)で敗れちゃったけど、今も戦いから戻った兵と、(かん)()の率いる水軍の精鋭が1万人もいるんだよ。それに、(りゅう)()が率いる(こう)()の兵も1万人以上いるよ。対する(そう)(そう)の軍は遠くから来て疲れていて、(りゅう)()(しゅう)を追うために軽装の騎兵を1日に昼も夜も300里以上も進ませたと聞いたよ。これは兵法で『強弩でも、()の絹を突き通せない(勢いが尽きた弓矢では柔らかな絹さえ貫けない)』と言われる状況で、兵法でもこれを嫌って、『必ず上将軍はつまずく』とさえ言われているね。
さらに、北の人たちは水戦に慣れていないの。(けい)州の民も(そう)(そう)に従っているけど、それは兵の勢いに脅されたからで、心から従ってるわけではないんだ。今、もしあなたが勇猛な将に数万の兵を率いさせて、(りゅう)()(しゅう)と協力して力を合わせれば、(そう)(そう)の軍を必ず打ち破れるよ。(そう)(そう)の軍が敗れれば、必ず北へ退くだろうね。そうなれば、(けい)州と()の勢力は強まって、天下を鼎の足で分ける形が整うの。勝敗の分かれ目は、まさに今日にあるよ!」
(そん)(けん)はとても喜んで、すぐに(しゅう)()(てい)()()(しゅく)たちに3万の水軍を与えて、(しょ)(かつ)(りょう)と一緒に(りゅう)()のもとへ行かせて、力を合わせて(そう)(そう)に対抗したよ。

『彊弩之末,勢不能穿魯縞』は、『()()』「(かん)(ちょう)(じゅ)(れつ)(でん)」、『(かん)(じょ)』「(かん)(あん)(こく)(でん)」から。
『必蹶上將軍』は、『(そん)()』「(ぐん)(そう)」から。

(註8)

袁子曰:張子布薦亮於孫權,亮不肯留。人問其故,曰:「孫將軍可謂人主,然觀其度,能賢亮而不能盡亮,吾是以不留。」

(えん)()(えん)(じゅん))』によると、(ちょう)()()(ちょう)(しょう))が(しょ)(かつ)(りょう)(そん)(けん)に推薦したけど、(しょ)(かつ)(りょう)は留まろうとしなかったんだ。ある人がその理由を尋ねると、(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
(そん)(しょう)(ぐん)(そん)(けん))は人の主と呼ぶにふさわしい人だけど、彼の度量を見ると、私を優れた者として認めはしても、私を十分には活かせられないだろうね。だから私は留まらなかったの」

(註8)

臣松之以為袁孝尼著文立論,甚重諸葛之為人,至如此言則失之殊遠。觀亮君臣相遇,可謂希世一時,終始以分,誰能間之?寧有中違斷金,甫懷擇主,設使權盡其量,便當翻然去就乎?葛生行己,豈其然哉!關羽為曹公所獲,遇之甚厚,可謂能盡其用矣,猶義不背本,曾謂孔明之不若雲長乎!

(はい)(しょう)()の見解としては、(えん)(こう)()(えん)(じゅん))が文章を著して論を立てて、(しょ)(かつ)(りょう)の人柄をとても高く評価しているのはいいことだね。でも、この言葉に関しては大きく誤っていると感じるよ。(しょ)(かつ)(りょう)(りゅう)()の主君と臣下の関係はそれはまさに世に稀なめぐり逢いで、始めから終わりまで志は強くて固いもので、誰がその間を引き裂けるの? まさか、志を貫く者が途中で志を違えて恩義を絶って、新たに主を選び直すようなことがあるわけがないよ。もし(そん)(けん)(しょ)(かつ)(りょう)の才能をすべて活かせたとしても、(しょ)(かつ)(りょう)が心変わりして去ってしまうの? (しょ)(かつ)(りょう)の行いは、そんな軽々しいものではないよ! (かん)()(そう)(そう)に捕らえられて、とても厚くもてなされたけど、彼はまさに「用い尽くされた」と言ってもよいくらいの待遇を受けたけど、それでも義を守って(りゅう)()に背かなかったよ。それなのに、どうして(しょ)(かつ)(りょう)(かん)()に及ばないなんて言えるの!

(はい)(しょう)()さんの熱い言葉。解釈違いと言いたいのかな?

本文

曹公敗于赤壁,引軍歸鄴。先主遂收江南,以亮為軍師中郎將,使督零陵、桂陽、長沙三郡,調其賦稅,以充軍實。(註9)

(そう)(そう)(せき)(へき)で敗れて、軍を引き返して(ぎょう)に帰ったよ。(りゅう)()はこうして(こう)(なん)をまとめて、(しょ)(かつ)(りょう)(ぐん)()(ちゅう)(ろう)(しょう)に任命して、(れい)(りょう)(けい)(よう)(ちょう)()の3つの郡の軍を指揮させて、租税を取り立てて軍を充実させたよ。

(註9)

零陵先賢傳云:亮時住臨烝。

(れい)(りょう)(せん)(けん)(でん)』によると、この時、(しょ)(かつ)(りょう)(りん)(しょう)にいたよ。

益州へ

本文

建安十六年,益州牧劉璋遣法正迎先主,使擊張魯。亮與關羽鎮荊州。先主自葭萌還攻璋,亮與張飛、趙雲等率衆泝江,分定郡縣,與先主共圍成都。成都平,以亮為軍師將軍,署左將軍府事。先主外出,亮常鎮守成都,足食足兵。

建安十六年(211年)、(えき)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(しょう)(ほう)(せい)を送って(りゅう)()を迎えて、(ちょう)()を攻撃させたよ。(しょ)(かつ)(りょう)(かん)()(けい)州を守っていたよ。(りゅう)()()(ぼう)から戻って(りゅう)(しょう)を攻めると、(しょ)(かつ)(りょう)(ちょう)()(ちょう)(うん)たちと一緒に軍を率いて長江を遡って、郡や県を分けて治めて、(りゅう)()と一緒に(せい)()を包囲したよ。(せい)()を平定すると、(しょ)(かつ)(りょう)(ぐん)()(しょう)(ぐん)になって、左将軍府の仕事を担当したよ。(りゅう)()が外に出る時は、(しょ)(かつ)(りょう)はいつも(せい)()を守って、食糧と兵を十分に確保したの。

本文

二十六年,羣下勸先主稱尊號,先主未許,亮說曰:「昔吳漢、耿弇等初勸世祖即帝位,世祖辭讓,前後數四,耿純進言曰:『天下英雄喁喁,兾有所望。如不從議者,士大夫各歸求主,無為從公也。』世祖感純言深至,遂然諾之。今曹氏篡漢,天下無主,大王劉氏苗族,紹世而起,今即帝位,乃其宜也。士大夫隨大王乆勤苦者,亦欲望尺寸之功如純言耳。」

建安二十六年(221年)、臣下たちは(りゅう)()に皇帝に即位するように勧めたけど、(りゅう)()はまだ許さなかったんだ。そこで、(しょ)(かつ)(りょう)はこう説得したよ。
「昔、()(かん)(こう)(えん)たちが(せい)()(りゅう)(しゅう))に帝位に即くように勧めると、(せい)()はこれまでに4回も辞退したんだよ。でも、(こう)(じゅん)はこう進言したよ。
『天下の英雄たちはみんな、心をひとつにして、望みを託そうとしているんだ。もしこの議論に従わなかったら、士大夫たちはそれぞれの主を求めに帰っちゃって、あなたに従う人はいなくなっちゃう』
(せい)()(こう)(じゅん)の言葉に深く感動して、こうして皇帝に即位したんだよ。今、(そう)()(かん)の王朝を奪って、天下には正統な主がいないんだ。大王((りゅう)())は(りゅう)()の王家の一族で、代々の血統を継いで立ち上がったよ。今、皇帝に即位するのは、当然だよね。士大夫たちが大王に長らく仕えて苦労してきたのも、(こう)(じゅん)の言葉のように、わずかな功績でも報われることを願っているからなんだよ」

本文

先主於是即帝位,策亮為丞相曰:「朕遭家不造,奉承大統,兢兢業業,不敢康寧,思盡百姓,懼未能綏。於戲!丞相亮其悉朕意,無怠輔朕之闕,助宣重光,以照明天下,君其勗哉!」亮以丞相錄尚書事,假節。張飛卒後,領司隷校尉。(註10)

(りゅう)()は皇帝に即位して、(しょ)(かつ)(りょう)(じょう)(しょう)に任命してこう言ったよ。
「私は(かん)の家の不幸に遭って、帝位を受け継いだよ。いつも慎み深く、恐れ多くて安らかになれなくて、民のために力を尽くしたいと願ってきたけど、まだ安定させられていないのを恐れているんだ。ああ! (じょう)(しょう)(しょ)(かつ)(りょう)よ、私の思いをよく汲み取って、私に欠けたところを怠らないで補って、朝廷の光をさらに広めて、天下を照らすようにしてほしいんだ。どうか励んでね!」
(しょ)(かつ)(りょう)(じょう)(しょう)として(しょう)(しょ)の政務をまとめて、節を授かったよ。(ちょう)()が亡くなった後、()(れい)(こう)()を兼ねたよ。

(註10)

蜀記曰:晉初,扶風王駿鎮關中,司馬高平劉寶、長史熒陽桓隰諸官屬士大夫共論諸葛亮,于時譚者多譏亮託身非所,勞困蜀民,力小謀大,不能度德量力。金城郭冲以為亮權智英略,有踰管、晏,功業未濟,論者惑焉,條亮五事隱沒不聞於世者,寶等亦不能復難。扶風王慨然善冲之言。

(しょく)()』によると、(しん)の初め頃、()(ふう)(おう)()()駿(しゅん)(かん)(ちゅう)を鎮めていたとき、()()(こう)(へい)の出身の(りゅう)(ほう)(ちょう)()(けい)(よう)の出身の(かん)(しゅう)たち官僚や士大夫たちが(しょ)(かつ)(りょう)について話していたの。当時、たくさんの人が、(しょ)(かつ)(りょう)が仕えるべきではない相手((りゅう)())に身を託したことを非難して、それに蜀の民を苦しめたこと、力が小さいのに大きな望みを抱いたこと、そして自分の徳や能力を正しく見極めていなかったと批判していたんだ。でも、(きん)(じょう)の出身の(かく)(ちゅう)は、「(しょ)(かつ)(りょう)は権謀、才知、英知と戦略は、(かん)(ちゅう)(あん)(えい)も上回っているよ。功業が最後まで成し遂げられなかったから議論する人たちが誤解しているんだ」と言ったよ。そして、(しょ)(かつ)(りょう)について、世間に知られていない5つの功績を具体的に挙げて論じて、(りゅう)(ほう)たちも反論できなくなっちゃった。()()駿(しゅん)(かく)(ちゅう)の言葉をとてもほめたんだって。

(註10)

臣松之以為亮之異美,誠所願聞,然冲之所說,實皆可疑,謹隨事難之如左:其一事曰:亮刑法峻急,刻剥百姓,自君子小人咸懷怨歎,法正諫曰:「昔高祖入關,約法三章,秦民知德,今君假借威力,跨據一州,初有其國,未垂惠撫;且客主之義,宜相降下,願緩刑弛禁,以慰其望。」亮荅曰;「君知其一,未知其二。秦以無道,政苛民怨,匹夫大呼,天下土崩,高祖因之,可以弘濟。劉璋闇弱,自焉已來有累世之恩,文法羈縻,互相承奉,德政不舉,威刑不肅。蜀土人士,專權自恣,君臣之道,漸以陵替;寵之以位,位極則賤,順之以恩,恩竭則慢。所以致弊,實由於此。吾今威之以法,法行則知恩,限之以爵,爵加則知榮;榮恩並濟,上下有節。為治之要,於斯而著。」

(はい)(しょう)()の見解によると、(しょ)(かつ)(りょう)のすごい美点について聞くことは、とても望ましいことだけど、(かく)(ちゅう)が述べたことは、実際にはすべて疑わしいものだよ。その事柄に従って論じてみるね。
(かく)(ちゅう)の言う1つ目によると、(しょ)(かつ)(りょう)が刑罰を厳しくして、民にひどく取り立てたから、君子(立派な人)も小人(つまらない人)もみんな怨んで嘆いたよ。(ほう)(せい)が諫めてこう言ったよ。
「昔、(こう)()(りゅう)(ほう))が(かん)(ちゅう)に入ると、(ほう)(さん)(しょう)(殺人、傷害、盗み以外は罪としない)を約束して、(しん)の民はその徳を知ったよ。今、あなたは武力に頼って1つの州を支配して、国を得たばかりなのに、まだ恩恵を施して民を慰めていないんだ。それに、客と主の義では、相手に対して謙遜な姿勢を取るのが道義にかなっているよ。どうか刑罰をゆるめて禁令を和らげて、彼らの期待に応えてね」
(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「あなたは一端しか知らなくて、その次を知らないよね。(しん)は道に外れて、ひどい政治で民を苦しめて、ひとりの男が大声を上げると国は大きく崩れたよ。(こう)()(りゅう)(ほう))はその流れに乗って、天下を治めることができたんだ。(りゅう)(しょう)は愚かで弱くて、彼が支配してきた時代には代々の恩があって、法や制度でなんとか縛ってきたけど、徳による政治は行われなくて、威厳ある法も整っていなかったんだ。だから、(しょく)の人たちは勝手気ままにふるまって、君主と臣下の道はどんどん衰えちゃったんだ。地位があるからといって媚びを売っても、その地位が極まれば軽んじられて、恩をもって従わせようとすれば、その恩が尽きれば侮られるんだ。このような乱れが生じたのは、まさにそのような甘さに原因があるの。
だから私は今、法によって威を示しているんだ。法がきちんと施行されれば恩を知るようになって、爵位(地位)に制限を設ければ、爵を与えられたときにその名誉を知るようになるよ。名誉と恩が一緒に施されれば、上下の秩序は保たれるよ。これが治めるための要点で、この考えによって私は統治をしているんだよ」

「君知其一,未知其二」は、『()()』「(こう)()(ほん)()」から、(りゅう)(ほう)の言葉が元ネタだね。ちなみに、この後に続く言葉が「籌策を帷帳の中に運らし、勝を千里の外に決する(は、吾、()(ぼう)に如かず)」で、『三国志演義』で(りゅう)()さんが(しょ)(かつ)(りょう)さんをほめるときに引用した言葉の元ネタだよ。

(註10)

難曰:案法正在劉主前死,今稱法正諫,則劉主在也。諸葛職為股肱,事歸元首,劉主之世,亮又未領益州,慶賞刑政不出於己。尋沖所述亮荅,專自有其能,有違人臣自處之宜。以亮謙順之體,殆必不然。又云亮刑法峻急,刻剥百姓,未聞善政以刻剥為稱。

これに反論すると、(ほう)(せい)(りゅう)()が生きている間に死んでいることを考えると、「(ほう)(せい)が諫めた」と言うなら、(りゅう)()がまだ生きている時の出来事だよね。(しょ)(かつ)(りょう)は君主を支える臣下として職務を行って、事柄を元首((りゅう)())に委ねていたよ。(りゅう)()の時代、(しょ)(かつ)(りょう)はまだ(えき)州を統治していなくて、賞罰や政治の方針は彼自身から出たものではなかったんだ。
(かく)(ちゅう)が述べた(しょ)(かつ)(りょう)の答えを考えると、まるで(しょ)(かつ)(りょう)自身がすべての能力を持っているみたいで、臣下としての在り方に反しているよね。(しょ)(かつ)(りょう)の謙虚で従順な性格を考えると、ほとんどあり得ないよ。それに、(しょ)(かつ)(りょう)が刑法を厳しくして、民をひどく扱ったとあるけど、善い政治がひどい扱いによってほめられることは聞いたことがないよ。

(註10)

其二事曰:曹公遣刺客見劉備,方得交接,開論伐魏形勢,甚合備計。稍欲親近,刺者尚未得便會,旣而亮入,魏客神色失措。亮因而察之,亦知非常人。須臾,客如厠,備謂亮曰;「向得奇士,足以助君補益。」亮問所在,備曰:「起者其人也。」亮徐歎曰:「觀客色動而神懼,視低而忤數,姦形外漏,邪心內藏,必曹氏刺客也。」追之,已越墻而走。

(かく)(ちゅう)の言う2つ目によると、(そう)(そう)(りゅう)()を暗殺するために刺客を送り込んだよ。刺客は(りゅう)()に近づくと、()(そう)(そう))を討つための戦略について話して、内容は(りゅう)()の計画と一致していたんだって。どんどん親しく近づこうとしたけど、刺客はまだ機会を得られないでいたんだ。そのうちに(しょ)(かつ)(りょう)が入ってきたよ。刺客の顔色が変わって、(しょ)(かつ)(りょう)はそれを見て、その人が普通ではないと気がついたよ。しばらくして、その刺客が厠に行くと、(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)にこう言ったよ。
「さっきの優れた人はあなたの助けになると思うんだ」
(しょ)(かつ)(りょう)は彼の場所を尋ねて、(りゅう)()はこう言ったよ。
「今出ていった者がその人だよ」
(しょ)(かつ)(りょう)はゆっくりとため息を吐いて、嘆いてこう言ったよ。
「客の顔色が動揺して、内心に恐れが見えたし、目線は落ち着かなくて、言動にも不自然な点が多いよ。悪い気配が外に現れて、邪な心を内に秘めているんだ。これはきっと(そう)()の刺客に違いないよ」
急いで追いかけると、刺客はすでに塀を越えて逃げていたんだって。

(註10)

難曰:凡為刺客,皆暴虎馮河,死而無悔者也。劉主有知人之鑒,而惑於此客,則此客必一時之奇士也。又語諸葛云「足以助君補益」,則亦諸葛之流亞也。凡如諸葛之儔,鮮有為人作刺客者矣,時主亦當惜其器用,必不投之死地也。且此人不死,要應顯達為魏,竟是誰乎?何其寂蔑而無聞!

これに反論すると、刺客というものは、血気盛んで、無謀な危険をおかす死を恐れない者だよ。(りゅう)()は人を見抜く能力を持っているのに、この客に惑わされるということは、この客がこの時代の優れた人であるに違いないよ。それに、(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)に「あなたの助けになる」と言ったのだから、(しょ)(かつ)(りょう)と似た人でもあるよね。(しょ)(かつ)(りょう)みたいな人が刺客になることはとても稀なことで、(りゅう)()もその器量を惜しんで、決して死地に送ることはないはずだよ。さらに、この人物が死ななかった場合、()で出世するはずだけど、結局その人は誰なの? どうして世の中で彼の名を聞かないのかな!

解釈違いに立ち向かう(はい)(しょう)()さんの熱いお言葉。3 つ目以降は後述。

劉備の死

本文

章武三年春,先主於永安病篤,召亮於成都,屬以後事,謂亮曰:「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」亮涕泣曰:「臣敢竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死!」先主又為詔勑後主曰:「汝與丞相從事,事之如父。」(註11)

章武三年(223年)、春、(りゅう)()(えい)(あん)で病気が重くなって、(しょ)(かつ)(りょう)(せい)()から呼んで、後を託したんだ。(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)にこう言ったよ。
「あなたの才能は(そう)()の10倍はあるよ。きっと国を安定させて、大事を成し遂げられるだろうね。もし後継ぎの(りゅう)(ぜん)を助ける価値があるなら助けてやってほしいんだ。もしそうでないなら、あなたが自ら国を取ってね」
(しょ)(かつ)(りょう)は涙を流してこう言ったよ。
「私は心から支える臣下として、全力を尽くして、忠誠を守って、死ぬまで仕えるよ!」
そして、(りゅう)()(りゅう)(ぜん)に詔を出して、こう命令したよ。
「あなたは(じょう)(しょう)(しょ)(かつ)(りょう))を父みたいに敬って、一緒に事を成し遂げてね」

(註11)

孫盛曰:夫杖道扶義,體存信順,然後能匡主濟功,終定大業。語曰弈者舉棊不定猶不勝其偶,況量君之才否而二三其節,可以摧服彊鄰囊括四海者乎?備之命亮,亂孰甚焉!世或有謂備欲以固委付之誠,且以一蜀人之志。君子曰,不然;苟所寄忠賢,則不須若斯之誨,如非其人,不宜啟篡逆之塗。是以古之顧命,必貽話言;詭偽之辭,非託孤之謂。幸值劉禪闇弱,無猜險之性,諸葛威略,足以檢衞異端,故使異同之心無由自起耳。不然,殆生疑隙不逞之釁。謂之為權,不亦惑哉!

(そん)(せい)によると、そもそも道を支えて義を助けて、誠実さと従順を備えてこそ、主君を助けて功績を立てて、大業を成し遂げられるんだよ。ことわざに『囲碁で定めなかったら、相手に勝つことなんてできない』とあるけど、君主の才能を測らないで、節義をあいまいにして分けてするなら、どうして強い隣国を打ち破って、天下を統一できるの? (りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)に命令したことは、これ以上ないくらいの混乱を引き起こすものだよ! 世の中には、「(りゅう)()があえてあのように重々しく(しょ)(かつ)(りょう)に託したのは、(しょ)(かつ)(りょう)への信頼を強調して、また蜀の人たちの心をひとつにさせようとした」と言う者もいるよ。でも、君子は「そうではない」と言うよ。もし本当に忠義と賢明さを備えた者に委ねるのなら、そこまで言い聞かせる必要はないんだ。逆にもしそうでない者に託すなら、国を取ってもいいなんて反逆を促すべきではないよね。だから、昔の遺言には必ず真心からの言葉が込められていたんだ。ごまかしや偽りの言葉は、孤児(後継ぎ)を託すのにふさわしくないよね。幸い、(りゅう)(ぜん)は鈍くて、疑う心や危険な性質がなかったから、(しょ)(かつ)(りょう)の威と策略で異なる意見や反対派も抑えられたから、反乱が起きなかったんだね。でも、もしそうでなかったら、疑いや不満が生じる危険があったんだ。これを「権謀」(臨機応変の策)と呼ぶのは、間違いではないかな!

「語曰弈者舉棊不定猶不勝其偶」は、『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』「襄公二十五年」から。

本文

建興元年,封亮武鄉侯,開府治事。頃之,又領益州牧。政事無巨細,咸決於亮。南中諸郡,並皆叛亂,亮以新遭大喪,故未便加兵,且遣使聘吳,因結和親,遂為與國。(註12)

(けん)(こう)元年(223年)、(しょ)(かつ)(りょう)()(きょう)(こう)に封ぜられて、府を開いて政務をしたよ。その後、さらに(えき)(しゅう)(ぼく)も兼ねたよ。大きな事から小さな事まで、すべての政務は(しょ)(かつ)(りょう)が決定したよ。
(なん)(ちゅう)の郡がすべて反乱を起こしちゃったけど、(しょ)(かつ)(りょう)は大きな喪に遭ったばかりだから、すぐには軍を動かさないで、まずは使者を送って()と友好関係を結んで、同盟国としたよ。

(註12)

亮集曰:是歲,魏司徒華歆、司空王朗、尚書令陳羣、太史令許芝、謁者僕射諸葛璋各有書與亮,陳天命人事,欲使舉國稱藩。亮遂不報書,作正議曰:「昔在項羽,起不由德,雖處華夏,秉帝者之勢,卒就湯鑊,為後永戒。魏不審鑒,今次之矣;免身為幸,戒在子孫。而二三子各以耆艾之齒,承偽指而進書,有若崇、竦稱莽之功,亦將偪于元禍苟免者邪!

(しょ)(かつ)(りょう)(しゅう)』によると、この年、()()()()(きん)()(くう)(おう)(ろう)(しょう)(しょ)(れい)(ちん)(ぐん)(たい)()(れい)(きょ)()(えっ)(しゃ)(ぼく)()(しょ)(かつ)(しょう)がそれぞれ(しょ)(かつ)(りょう)に手紙を送って、天命や人事を述べて、国全体を()に従わせようとしたんだ。(しょ)(かつ)(りょう)はそれに返事をしないで、『正議』を作ってこう言ったよ。
「昔、(こう)()は徳に頼らないで立ち上がって、中原の地に帝位に迫る勢力を持っていたけど、最後は煮えたぎる釜の中に身を投げて滅んで、後の世への永遠の戒めとなったんだ。()はこれに学ばないで、今、そのあとを追っているんだ。自身が無事なだけでも幸いで、子孫に戒めを残すべきだよ。なのに、あなたたちは年長の立場を利用して偽の政権に従って手紙を送ったんだ。それはまるで(ちん)(すう)(ちょう)(しょう)(おう)(もう)の功績をほめたたえたようなもので、それでは元の災いを免れた者たちと同じ末路をたどるのではないかな!

(註12)

昔世祖之創迹舊基,奮羸卒數千,摧莽彊旅四十餘萬於昆陽之郊。夫據道討淫,不在衆寡。及至孟德,以其譎勝之力,舉數十萬之師,救張郃於陽平,勢窮慮悔,僅能自脫,辱其鋒銳之衆,遂喪漢中之地,深知神器不可妄獲,旋還未至,感毒而死。子桓淫逸,繼之以篡。

昔、(せい)()(りゅう)(しゅう))は、古い基盤に立ち返って、わずか数千の疲れた兵を率いて、(こん)(よう)の郊外で(おう)(もう)の40万の軍を打ち破ったよ。これは、道に従って邪悪を討てば、兵の多いか少ないかは問題ではないと示しているよ。(もう)(とく)(そう)(そう))が策略で勝つことを頼みとして、数十万の兵を動かして(よう)(へい)(ちょう)(こう)を救おうとしたけど、勢いは追い詰められて後悔して、かろうじて自ら脱出するだけで精一杯だったよね。彼の精鋭は辱めを受けて、こうして(かん)(ちゅう)を失ったんだ。これは、帝位を軽々しく手に入れられないと深く悟ったからだよ。彼は帰る前に病に倒れて、毒で亡くなったよね。その後を継いだ()(かん)(そう)())は思うままにふるまって、とうとう帝位を奪ったんだ。

(註12)

縱使二三子多逞蘇、張詭靡之說,奉進驩兜滔天之辭,欲以誣毀唐帝,諷解禹、稷,所謂徒喪文藻煩勞翰墨者矣。夫大人君子之所不為也。又軍誡曰:『萬人必死,橫行天下。』昔軒轅氏整卒數萬,制四方,定海內,況以數十萬之衆,據正道而臨有罪,可得干擬者哉!」

たとえあなたたちが()(しん)(ちょう)()のような詭弁を操って、(かん)(とう)のように天に逆らう言葉を進めて、(とう)の帝((ぎょう))を中傷して、()(しょく)の功績を軽んじようとしたところで、それはただ文筆を浪費して、無駄に労力を使うだけなんだよ。それは立派な人がするべきことではないよね。
それに、軍の戒めには『すべての人が死を覚悟すれば、天下を自由に行き来できる』とあるよ。昔、(けん)(えん)()(こう)(てい))は数万の兵を整えて四方を治めて、天下を定めたよ。ましてや今、数十万の兵を率いて正しい道に従って罪ある者に向けるのだから、どうしてそれに逆らう者がいるの!」

南中へ遠征する

本文

三年春,亮率衆南征,(註13)其秋悉平。軍資所出,國以富饒,(註14)乃治戎講武,以俟大舉。

建興三年(225年)、春、(しょ)(かつ)(りょう)は兵を率いて南へ軍を進めて、その秋にはすべて平定したよ。軍の資材が豊かになって、国も富んだよ。そこで戦の準備を整えて、大きな行動に備えたよ。

(註13)

詔賜亮金鈇鉞一具,曲蓋一,前後羽葆鼓吹各一部,虎賁六十人。事在亮集。

詔によって、(しょ)(かつ)(りょう)に金製の斧と鉞を1組、傘を1つ、前後の羽飾りと鼓吹(軍楽隊)をそれぞれ1部ずつ、()(ほん)60人が授けられたよ。この話は『(しょ)(かつ)(りょう)(しゅう)』に記されているよ。

(註14)

漢晉春秋曰:亮至南中,所在戰捷。聞孟獲者,為夷、漢所服,募生致之。旣得,使觀於營陣之間,曰:「此軍何如?」獲對曰:「向者不知虛實,故敗。今蒙賜觀看營陣,若祇如此,即定易勝耳。」亮笑,縱使更戰,七縱七禽,而亮猶遣獲。獲止不去,曰:「公,天威也,南人不復反矣。」遂至滇池。南中平,皆即其渠率而用之。或以諫亮,亮曰:「若留外人,則當留兵,兵留則無所食,一不易也;加夷新傷破,父兄死喪,留外人而無兵者,必成禍患,二不易也;又夷累有廢殺之罪,自嫌釁重,若留外人,終不相信,三不易也;今吾欲使不留兵,不運糧,而綱紀粗定,夷、漢粗安故耳。」

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(しょ)(かつ)(りょう)(なん)(ちゅう)に着くと、各地で戦いに勝ったよ。(もう)(かく)という人が異民族や(かん)の人たちから尊敬されていると聞いて、生け捕りにするように命令したよ。(しょ)(かつ)(りょう)(もう)(かく)を捕えた後、彼に陣営を見せてこう尋ねたよ。
「この軍はどう?」
(もう)(かく)はこう答えたよ。
「前は敵の情報がわからなかったから負けちゃったけど、今は陣営を見せてくれたから、これくらいなら簡単に勝てるよ」
(しょ)(かつ)(りょう)は笑って、ふたたび戦わせたよ。7度捕えて、7度逃がした後、(しょ)(かつ)(りょう)はふたたび(もう)(かく)を解放したよ。(もう)(かく)は去らないでこう言ったよ。
「あなたは天の威だね、南の人たちはもう反乱しないよ」
そして、(しょ)(かつ)(りょう)(てん)()に着いたよ。(なん)(ちゅう)が平定されると、捕えた指導者たちをそのまま使ったよ。ある人が(しょ)(かつ)(りょう)を諫めたけど、(しょ)(かつ)(りょう)はこう答えたよ。
「もし外の人を留めておくなら、兵を留めなければならないよね。兵を留めると食糧が足りなくなっちゃう。これが1つ目の困難だよ。それに、異民族は傷ついて破れたばかりだから、父や兄が亡くなっているんだ。外の人を留めて兵がいない場合、必ず災いとなるよ。これが2つ目の困難だね。さらに、異民族はこれまでに何度も殺戮をして、自分たちの罪を嫌っているよ。外の人を留めても、結局は信頼できないんだ。これが3つ目の困難だよ。今、私は兵を留めないで、食糧を運ばないで、秩序を保って、異民族と(かん)を安定させたいの」

(しち)(しょう)(しち)(きん)だよ。

出師表

本文

五年,率諸軍北駐漢中,臨發,上疏曰:先帝創業未半,而中道崩殂,今天下三分,益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣不懈於內,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇,欲報之於陛下也。誠宜開張聖聽,以光先帝遺德,恢弘志士之氣,不宜妄自菲薄,引喻失義,以塞忠諫之路也。宮中府中俱為一體,陟罰臧否,不宜異同。若有作姧犯科及為忠善者,宜付有司論其刑賞,以昭陛下平明之理,不宜偏私,使內外異法也。

建興五年(227年)、軍を率いて北の(かん)(ちゅう)に駐留したよ。出発の時に、(しょ)(かつ)(りょう)は上表してこう言ったよ。
「先帝((りゅう)())は事業を始められてまだ道半ばだったのに亡くなったんだ。今、天下は3つに分かれて、(えき)州は疲れ果てているよ。まさにこれは、国家が存続するか滅びるかの危機のときなんだ。でも、内では守る臣下たちが怠らないで務めて、外では忠義の士たちが身を振り返らないで奮闘しているよ。これは先帝から受けた特別な恩遇を思い慕って、これを陛下((りゅう)(ぜん))に報いようとするからなの。本当に、陛下には聖なる耳を広く開いて、先帝の遺した徳を輝かせて、志をもつ士たちの気概を奮い立たせてほしいんだ。むやみに自分を劣っているとしたり、道理に反する言い訳をして、忠のある臣下の諫めの言葉を封じるようなことはしてはいけないよ。宮中と政府は一体となるべきで、善と悪の判断や功と罪の評価について、内と外で異なる基準があってはいけないよ。もし不正を働く者や法律に背く者、または忠を尽くして善いことをする者がいれば、役人に任せてその罪や功に応じて処罰や賞を与えて、陛下の公平で明らかな政治を示すべきだよ。偏った私情で内と外で異なる法を使ってはいけないよ。

本文

侍中、侍郎郭攸之、費禕、董允等,此皆良實,志慮忠純,是以先帝簡拔以遺陛下。愚以為宮中之事,事無大小,悉以咨之,然後施行,必能裨補闕漏,有所廣益。將軍向寵,性行淑均,曉暢軍事,試用於昔日,先帝稱之曰能,是以衆議舉寵為督。愚以為營中之事,悉以咨之,必能使行陣和睦,優劣得所。親賢臣,遠小人,此先漢所以興隆也;親小人,遠賢臣,此後漢所以傾頹也。先帝在時,每與臣論此事,未甞不歎息痛恨於桓、靈也。侍中、尚書、長史、參軍,此悉貞良死節之臣,願陛下親之信之,則漢室之隆,可計日而待也。

()(ちゅう)()(ろう)(かく)(ゆう)()()()(とう)(いん)たちは、みんな誠実で実直で、心も思慮も忠義に満ちているから、先帝((りゅう)())は彼らを選び抜いて陛下((りゅう)(ぜん))に託したの。私の考えでは、宮中のことについては、大きいことも小さいこともすべて彼らに相談してから実行すべきだよ。そうすれば、足りない点を補って、広く利益をもたらすことができるだろうね。
将軍の(しょう)(ちょう)は、性格が穏やかで公平で、軍事に詳しくて、前に採用されたときにも、先帝は彼を『有能な人だ』とほめたんだよ。そこで、みんなは議論をして、彼を督(司令官)に推挙したの。私の考えでは、軍中のこともすべて彼に相談すべきだよ。そうすれば、必ず軍の内部が和やかになって、適材適所に人を配置できるだろうね。
賢明な臣下を親しんで、つまらない人を遠ざけること、これが(かん)が興隆した理由だよ。つまらない人を親しんで、賢明な臣下を遠ざけること、これが(かん)が衰退した理由だよ。先帝が生きている間、私とこのことについて語り合ったときにはいつも、(かん)(てい)(れい)(てい)について嘆いて、痛ましく思っていたんだ。
()(ちゅう)(しょう)(しょ)(ちょう)()(さん)(ぐん)たちはみんな節義を重んじて忠誠を尽くす臣下たちだよ。どうか陛下も彼らを親しんで信頼してね。そうすれば、(かん)の王室の隆盛は、日を数えるくらいの近さで訪れるよ。

本文

臣本布衣,躬耕於南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事,由是感激,遂許先帝以驅馳。後值傾覆,受任於敗軍之際,奉命於危難之間,爾來二十有一年矣。(註15)先帝知臣謹慎,故臨崩寄臣以大事也。

私はもともとは単なる庶民にすぎなくて、(なん)(よう)で農耕をして暮らしていたの。乱世でただ命を全うできればよいと願って、諸侯に知られようなんて思っていなかったんだ。でも、先帝((りゅう)())は私がいやしい身分であるにもかかわらず、わざわざ自ら身を低くして、3度も私の草廬に足を運んで、世の中のことについて相談を受けたよ。これに私は深く感激して、先帝のために奔走すると約束したんだよ。
その後、天下は傾いて覆される時になって、((ちょう)(はん)で)敗れた軍の中で任務を受けて、危機の最中で命令を受けてから、早くも今日まで21年が経ったよ。先帝は私が慎み深いことを知っていたから、亡くなる時に重大な国家を私に託したんだ。

本文

受命以來,夙夜憂歎,恐託付不效,以傷先帝之明,故五月渡瀘,深入不毛。(註16)今南方已定,兵甲已足,當獎率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除姧凶,興復漢室,還于舊都。此臣所以報先帝,而忠陛下之職分也。至於斟酌損益,進盡忠言,則攸之、禕、允之任也。

使命を受けてから、私は朝早くから夜遅くまで憂いて嘆いて、もしこの託された大任に応えられなければ、先帝((りゅう)())の明察を傷つけることになるのではないかと、いつも恐れているんだ。だから、五月に自ら軍を率いて()(すい)を渡って、荒れ果てた未開の地にまで深く進軍したよ。今、南方はすでに平定されて、兵も武器も整っていて、これからまさに大軍を励まして率いて、北へ軍を進めて中原を平定しようとしているよ。私の力は劣っているけど、それを尽くして邪悪な敵を取り除いて、(かん)の王室を復興させて、かつての都の(らく)(よう)へ帰還させたいんだ。これこそが私が先帝に報いて、陛下((りゅう)(ぜん))に忠義を尽くすためにやらなきゃいけない務めなんだ。政務の得失の調整や、忠言を尽くして進言することは、(かく)(ゆう)()()()(とう)(いん)たちの役目だよ。

本文

願陛下託臣以討賊興復之效;不效,則治臣之罪,以告先帝之靈;責攸之、禕、允等之慢,以彰其咎。陛下亦宜自謀,以諮諏善道,察納雅言,深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激,今當遠離,臨表涕零,不知所言。

陛下((りゅう)(ぜん))には私に敵(())を討って(かん)の王室を復興させるという役目を託してほしいんだ。もしそれを果たせなければ、どうか私を罰して、そのことを先帝((りゅう)())の霊に伝えてね。(かく)(ゆう)()()()(とう)(いん)たちが怠けていたら、彼らを責めて、その過ちを明らかにしてね。陛下自身もまた、策をよく考えて、良い道を求めて、正しい意見をよく聞き入れて、先帝の遺した詔を深く慕ってね。私はこのような大きな恩を受けて、感激して尽くせないくらいなんだ。今、遠く離れて任務に赴こうとしているけど、この上表をしながら、涙が止まらなくて、何を言っているのかわからなくなっちゃった」

なるべく原文を読んだがいいかも。国のためにというより、(りゅう)()さんへの恩返しが大きいのかな。

(註15)

臣松之案:劉備以建安十三年敗,遣亮使吳,亮以建興五年抗表北伐,自傾覆至此整二十年。然則備始與亮相遇,在敗軍之前一年時也。

(はい)(しょう)()が調べたところ、(りゅう)()は建安十三年(208年)に敗れて、(しょ)(かつ)(りょう)()に使者として送ったよ。(しょ)(かつ)(りょう)は建興五年(227年)に北伐の上表をしたよ。つまり、(りゅう)()の敗北から(しょ)(かつ)(りょう)が北伐を始めるまでの間は、ちょうど20年になるよね。だから、(りゅう)()(しょ)(かつ)(りょう)と初めて出会ったのは、軍が敗れた前の年だね。

(註16)

漢書地理志曰:瀘惟水出牂牁郡句町縣。

(かん)(じょ)』「()()()」によると、瀘惟水は(そう)()(こう)(ちょう)県から流れているんだって。

本文

遂行,屯于沔陽。(註17)

こうして出発して、(べん)(よう)に駐屯したよ。

(註17)

郭沖三事曰:亮屯于陽平,遣魏延諸軍并兵東下,亮惟留萬人守城。晉宣帝率二十萬衆拒亮,而與延軍錯道,徑至前,當亮六十里所,偵候白宣帝說亮在城中兵少力弱。亮亦知宣帝垂至,已與相偪,欲前赴延軍,相去又遠,回迹反追,勢不相及,將士失色,莫知其計。亮意氣自若,勑軍中皆卧旗息鼓,不得妄出菴幔,又令大開四城門,埽地却洒。宣帝常謂亮持重,而猥見勢弱,疑其有伏兵,於是引軍北趣山。明日食時,亮謂參佐拊手大笑曰:「司馬懿必謂吾怯,將有彊伏,循山走矣。」候邏還白,如亮所言。宣帝後知,深以為恨。

(かく)(ちゅう)の言った3つ目によると、(しょ)(かつ)(りょう)(よう)(へい)に駐屯すると、()(えん)たちの軍を送って兵を合わせて、東へ進軍させたよ。(しょ)(かつ)(りょう)はわずか1万人を残して城を守っていたんだ。
()()()は20万人の兵を率いて(しょ)(かつ)(りょう)を迎え撃とうとして、()(えん)の軍とは別の道を進んで、(しょ)(かつ)(りょう)の駐屯地の前方60里離れた地点に着いたよ。偵察兵は()()()に「(しょ)(かつ)(りょう)は城内にいて、兵も少なくて戦力も弱いんだ」と報告したよ。(しょ)(かつ)(りょう)()()()が迫っていると知っていたけど、すでに近くにいて、()(えん)の軍のもとへ向かおうとしても距離が遠くて、戻って合流するにも間に合わなくて、将や兵たちは恐れて顔色を失って、どうすべきかわからなくなっちゃった。
でも、(しょ)(かつ)(りょう)は落ち着いていて、軍に対して「旗を伏せて、鼓を鳴らさないで、むやみに陣幕の外に出ないで」と命令したんだ。さらに、城の四方の門をすべて大きく開けて、道を掃き、水を撒かせてきれいにしたよ。
()()()はいつも(しょ)(かつ)(りょう)が慎重な人だと考えていたから、突然に弱さを見せる状況を見て逆に疑って、「伏兵がいるに違いない」と考えて軍を北へ引き返して、山の方向へ退いたよ。
翌日、食事のとき、(しょ)(かつ)(りょう)は参謀たちに手を叩いて大笑いしてこう言ったよ。
()()()はきっと、私が怯えて伏兵を仕掛けたと思って、山沿いに逃げたに違いないよ」その後、偵察兵が戻ってきて、(しょ)(かつ)(りょう)の言ったとおりだと報告したよ。()()()は後になってこのことを知って、深く悔やんだの。

空城の計だね。

(註17)

難曰:案陽平在漢中。亮初屯陽平,宣帝尚為荊州都督,鎮宛城,至曹真死後,始與亮於關中相抗禦耳。魏甞遣宣帝自宛由西城伐蜀,值霖雨,不果。此之前後,無復有於陽平交兵事。就如沖言,宣帝旣舉二十萬衆,已知亮兵少力弱,若疑其有伏兵,正可設防持重,何至便走乎?案魏延傳云:「延每隨亮出,輒欲請精兵萬人,與亮異道會于潼關,亮制而不許;延常謂亮為怯,歎己才用之不盡也。」亮尚不以延為萬人別統,豈得如沖言,頓使將重兵在前,而以輕弱自守乎?且沖與扶風王言,顯彰宣帝之短,對子毀父,理所不容,而云「扶風王慨然善沖之言」,故知此書舉引皆虛。

反論すると、調べてみると(よう)(へい)(かん)(ちゅう)にあるよ。(しょ)(かつ)(りょう)が初めて(よう)(へい)に駐屯したとき、()()()はまだ(けい)(しゅう)()(とく)で、(えん)(じょう)に駐屯していたんだ。(そう)(しん)が亡くなった後、初めて(しょ)(かつ)(りょう)(かん)(ちゅう)で戦うことになったんだ。()はかつて()()()(えん)から西(せい)(じょう)を通って(しょく)を攻めさせたけど、大雨に見舞われて実行できなかったんだ。このような事情を考えれば、これまでに(よう)(へい)での戦いはなかったはず。
もし(かく)(ちゅう)の言うとおりでも、()()()が20万の軍勢を率いていて、(しょ)(かつ)(りょう)の兵が少なくて弱いとすでに知っていたのなら、伏兵を疑ったとしても、守りを固めて慎重に構えるべきで、いきなり退却するなんてあるのかな?
()(えん)(でん)」によると、()(えん)はいつも(しょ)(かつ)(りょう)と一緒に出陣して、よく1万人の精鋭を率いて(しょ)(かつ)(りょう)とは別の道を通って(どう)(かん)で合流しようと提案したけど、(しょ)(かつ)(りょう)はこれを許さなかったよ。()(えん)はいつも「(しょ)(かつ)(りょう)は臆病で、自分の才能が十分に発揮されない」と嘆いていたんだって。(しょ)(かつ)(りょう)()(えん)にすら1万人の別働隊を許さなかったのに、どうして(かく)(ちゅう)の言うように(しょ)(かつ)(りょう)が重兵を前線に出して自分はわずかな兵で後ろを守ったなんて言えるの?
さらに、(かく)(ちゅう)()()駿(しゅん)()()()の子)に言ったことは、明らかに()()()を非難する内容で、父をけなす発言を子がすることは道理に反するよ。なのに、「()()駿(しゅん)(かく)(ちゅう)の言葉をとてもほめた」とあるのは、この記述がすべて偽りであるとわかるよね。

解釈違いに立ち向かう(はい)(しょう)()さんの熱いお言葉。

続き → 正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 2

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