はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書諸葛亮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
諸葛亮 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、出師表までだよ。
- 正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 1 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「蜀書諸葛亮伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 2
出典
三國志 : 蜀書五 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

諸葛亮の生まれと流浪の日々
諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也。漢司隷校尉諸葛豐後也。父珪,字君貢,漢末為太山郡丞。亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。(註1)
諸葛亮は、字は孔明で、琅邪郡陽都県の出身だよ。漢の時代の司隷校尉の諸葛豊の子孫だよ。父は諸葛珪、字は君貢で、漢の時代の終わり頃に太山郡の丞を務めたんだって。諸葛亮は幼い頃に父を亡くして孤児になっちゃった。
従父の諸葛玄が袁術によって豫章太守(郡の長官)に任命されたよ。諸葛玄は諸葛亮とその弟の諸葛均を連れて行って官職に就いたよ。でも、漢の朝廷が諸葛玄の代わりに朱皓を任命したんだ。諸葛玄はもともと荊州牧の劉表と古い友人だったから、彼を頼ったの。
獻帝春秋曰:初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。漢朝聞周術死,遣朱皓代玄。皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。此書所云,與本傳不同。
『献帝春秋』によると、もともと、豫章太守(郡の長官)の周術が病気で亡くなると、劉表は諸葛玄を豫章太守にするように上表して、南昌で治めさせたよ。漢の朝廷は周術の死を聞いて、朱皓を諸葛玄の代わりに送ったの。朱皓は揚州刺史(州の長官)の劉繇に兵を求めて諸葛玄を攻撃したよ。諸葛玄は退却して西城に駐屯して、朱皓は南昌に入ったよ。
建安二年(197年)、正月、西城の住民が反乱を起こして諸葛玄を殺しちゃって、彼の首を劉繇に送ったんだ。
この書に記されていることは、「諸葛亮伝」とは異なるね。
荊州での日々
玄卒,亮躬耕隴畒,好為梁父吟。(註2)身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂為信然。(註3)(註4)
諸葛玄が亡くなると、諸葛亮は自分で畑を耕して、梁父吟を好んで歌ったよ。諸葛亮の身長は8尺あって、自分を管仲や楽毅にたとえていたけど、当時の人たちはそれを認めなかったんだ。でも、博陵の出身の崔州平と、潁川の出身の徐庶、字は元直だけは諸葛亮は彼と友達で、彼の言うことを信じていたの。
8 尺は、漢の尺では 184 ~ 185cm くらい、魏晋の尺では 192 ~ 193cm くらいかな? 現代の感覚でも背が高いね!
管仲(管夷吾)は、春秋時代の斉の宰相だよ。楽毅は、春秋戦国時代の燕の将軍だよ。管仲も楽毅も、居場所を失った身で、良い君主に拾われて功績を挙げた人だよ。
漢晉春秋曰:亮家于南陽之鄧縣,在襄陽城西二十里,號曰隆中。
『漢晋春秋』によると、諸葛亮は南陽郡鄧県に住んだよ。そこは襄陽城の西に20里のところにあって、「隆中」と呼ばれているんだって。
案崔氏譜:州平,太尉烈子,均之弟也。
『崔氏譜』を調べたところ、崔州平は、太尉の崔烈の子で、崔均の弟だよ。
魏略曰:亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。每晨夜從容,常抱膝長嘯,而謂三人曰:「卿諸人仕進可至郡守刺史也。」三人問其所志,亮但笑而不言。後公威思鄉里,欲北歸,亮謂之曰:「中國饒士大夫,遨游何必故鄉邪!」
『魏略』によると、諸葛亮は荊州にいたとき、建安の年号の初め頃(196年頃)、潁川の出身の石広元(石韜)、徐元直(徐庶)、汝南の出身の孟公威(孟建)たちと一緒に学問に励んだよ。3人は詳しくなろうと努めたけど、諸葛亮は大まかな要点を理解することに専念したよ。朝から晩まで、ゆったりとした時間を過ごしながら、諸葛亮はいつも膝を抱えて長く歌って、3人にこう言ったよ。
「あなたたちは郡の太守(郡の長官)や刺史(州の長官)にまで昇進するだろうね」
3人が彼の志を尋ねると、諸葛亮はただ笑って何も言わなかったんだ。
後に孟建は故郷が恋しくなって、北に帰りたいと言ったけど、諸葛亮は彼にこう言ったよ。
「中原にはたくさんの士大夫がいるよ。旅をするのに故郷にこだわる必要はないよ!」
臣松之以為魏略此言,謂諸葛亮為公威計者可也,若謂兼為己言,可謂未達其心矣。老氏稱知人者智,自知者明,凡在賢達之流,固必兼而有焉。以諸葛之鑒識,豈不能自審其分乎?夫其高吟俟時,情見乎言,志氣所存,旣已定於其始矣。若使游步中華,騁其龍光,豈夫多士所能沈翳哉!委質魏氏,展其器能,誠非陳長文、司馬仲達所能頡頏,而況於餘哉!苟不患功業不就,道之不行,雖志恢宇宙而終不北向者,蓋以權御已移,漢祚將傾,方將翊贊宗傑,以興微繼絕克復為己任故也。豈其區區利在邊鄙而已乎!此相如所謂「鵾鵬已翔於遼廓,而羅者猶視於藪澤」者矣。公威名建,在魏亦貴達。
裴松之の見解としては、『魏略』のこの記述について、諸葛亮が孟公威(孟建)のために計画を立てたことはあり得るけど、それを自分自身に対しても言ったとするなら、その心を理解していないと言えるよ。老子が「人を知る者は智、自分を知る者は明」と言っているように、道理に通じる人たちはこの両方を兼ね備えているべきだよね。諸葛亮の見識からすれば、自分自身の分を判断できないはずがないよ。彼が高らかに吟じて時を待っていたのは、その言葉に情熱が見えていて、その志がすでに定まっていたからなんだ。
もし中原を旅してその才能を発揮しても、たくさんの士人の中で埋もれることはなかったと思うよ! 魏に仕えてその才能を開かせても、陳長文(陳羣)や司馬仲達(司馬懿)と対等に渡り合えたはずだよ。ましてや他の者においてはなおさらだよね! 功業に就かないで、道が行われないことを心配しなくて、その志は宇宙に広がっていても、決して北に向かわなかったのは、権力がすでに移って、漢の運命が傾いているから、彼は宗族の人物を助けて、わずかなものを興して、絶えたものを再興することを自分の任務としたからだよ。どうしてただ辺境の利益だけを追い求めるの? これは司馬相如が言う「鵾鵬はすでに広大な空を飛んでいるのに、鳥を捕る者はまだ沼沢地を見ているようなもの」ということだよ。
孟公威の名は孟建で、魏でも高い地位だったよ。
裴松之さんの熱い言葉。
劉備との出会い
時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,卧龍也,將軍豈願見之乎?」(註5)先主曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。
この時、劉備は新野に駐屯していたよ。徐庶が劉備に会って、劉備は彼をとても才能があると思ったよ。徐庶は劉備にこう言ったよ。
「諸葛孔明(諸葛亮)は卧龍だよ。あなたは会いたくないの?」
劉備はこう答えたよ。
「あなたにも一緒に来てもらいたいなぁ」
だけど、徐庶はこう言ったよ。
「この人は訪ねて会うことはできるけど、無理に連れてくることはできないんだ。あなたが自分で足を運んで訪れるべきだよ」
それを聞いた劉備は諸葛亮を訪ねることに決めて、3度目にしてやっと会えたよ!
「此の人就きて見るべし」と言われる場面だよ。
徐庶さんの言葉から察すると、諸葛亮さんは州や郡から仕えるように言われたけどお断りしたのかな?
襄陽記曰:劉備訪世事於司馬德操。德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」
『襄陽記』によると、劉備は司馬徳操を訪ねて、世の中のことについて意見を求めたよ。司馬徳操はこう答えたよ。
「儒者や知識が少ない人がどうして時代の流れを知ることができるの? 時代の流れを知る人は優れた知性を持った人だよ。この地には伏龍と鳳雛がいるんだ」
劉備が「誰なの?」と尋ねると、司馬徳操はこう答えたよ。
「諸葛孔明(諸葛亮)と龐士元(龐統)だよ」
卧龍や伏龍は眠れる龍、鳳雛は鳳凰のひな。
因屏人曰:「漢室傾頹,姧臣竊命,主上蒙塵。孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖獗,至于今日。然志猶未已,君謂計將安出?」
劉備は周りの人を退けてこう言ったよ。
「漢の王朝は傾いて、悪い臣下が権力を握って、皇帝は逃げたんだ。私は自分の徳と力を考えないで大義を天下に信じてもらおうとしたけど、浅い知恵と技でここまで来ちゃった。でもね、それでも私の志はまだまだ尽きていないんだ。あなたはどうすればいいと思う?」
亮荅曰:「自董卓已來,豪傑並起,跨州連郡者不可勝數。曹操比於袁紹,則名微而衆寡,然操遂能克紹,以弱為彊者,非惟天時,抑亦人謀也。今操已擁百萬之衆,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。孫權據有江東,已歷三世,國險而民附,賢能為之用,此可與為援而不可圖也。荊州北據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍,將軍豈有意乎?
諸葛亮はこう答えたよ。
「董卓が来てから、豪傑が次々に現れて、州や郡を支配する人が数えられないくらいたくさんいるよね。曹操は袁紹と比べて名声は弱くて兵も少なかったけど、袁紹に勝てたんだ。弱い人が強い人になったのは、天の時だけではなくて、人の策略もあったからなんだよ。今はもう曹操は100万人の兵を持って、天子を後ろ盾として諸侯に命令しているんだ。これでは彼とは争えないよね。
孫権は江東を拠点にしていて、すでに3世代になっていて、国をしっかり守っていて民も従っているんだ。賢者たちが彼を支えてるから、協力はできるけど攻めるのは難しいね。
荊州は北に漢水と沔水があって、南海まで利益を得ていて、東は呉と会稽、西は巴と蜀に通じているの。荊州こそ戦う国だけど、その主(劉表)では守れないんだよね。これは天があなたに与えたところなんだよ。あなたはどう思う?
益州險塞,沃野千里,天府之土,高祖因之以成帝業。劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存卹,智能之士思得明君。將軍旣帝室之冑,信義著於四海,總攬英雄,思賢如渴,若跨有荊、益,保其巖阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫權,內脩政理;天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之衆出於秦川,百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎?誠如是,則霸業可成,漢室可興矣。」
益州は険しい地形に守られていて、千里に渡る豊かな土地があって、まるで天からの宝みたいな場所だよ。高祖(劉邦)はこの地を使って帝の統治を成し遂げたんだよね。(益州牧の)劉璋は愚かで弱くて、張魯が北にいて、民はたくさんいて国は豊かなのに、民をねぎらうことを知らないの。才能のある人たちは賢明な君主を求めているよ。
あなたは漢の王室の末裔で、その信義は天下に知られていて、英雄たちをまとめて、賢者を求めているよね。もし荊州と益州を支配して、その険しい地形を守りながら、西の異民族と仲良くして、南のさまざまな異民族をなだめて、外は孫権と手を組んで、内では政治をしっかり修めて、天下が変わったら、1人の上将に命令して荊州の軍を宛と洛に向かわせて、あなた自身は益州の軍を率いて秦川に出陣すれば、民の中で食べ物や飲み物を持ってあなたを迎えない人はいるの? そうすれば、覇業を成して、漢の王室を興せるんだ」
「隆中策」や「天下三分の計」と言われる場面だよ。
先主曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛等不恱,先主解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。(註6)
劉備は「よし!」と言って、それからは諸葛亮との仲が日に日に深まっていったよ。関羽と張飛は不満だったけど、劉備は彼らを諭してこう言ったよ。
「私にとって孔明がいるのは、魚にとって水があるようなものだよ。どうか、あなたたちは二度と不満を言わないでね」
関羽と張飛はそれを聞いて、不満を言うのをやめたよ。
水魚の交わりだね。
魏略曰:劉備屯於樊城。是時曹公方定河北,亮知荊州次當受敵,而劉表性緩,不曉軍事。亮乃北行見備,備與亮非舊,又以其年少,以諸生意待之。坐集旣畢,衆賔皆去,而亮獨留,備亦不問其所欲言。備性好結毦,時適有人以髦牛尾與備者,備因手自結之。亮乃進曰:「明將軍當復有遠志,但結毦而已邪!」備知亮非常人也,乃投毦而荅曰:「是何言與!我聊以忘憂爾。」
『魏略』によると、劉備は樊城に駐屯していたよ。この時、曹操は河北を平定している最中で、諸葛亮は荊州が次に敵の攻撃を受けると知ったけど、劉表はのんびりした性格で、軍事に詳しくなかったんだ。そこで諸葛亮は北へ劉備に会いに行ったよ。劉備は諸葛亮とは前からの知り合いではなくて、さらに彼が若かったこともあって、普通の学生みたいに扱ったよ。
集まりが終わって、他の客がみんな帰った後、諸葛亮だけが残ったけど、劉備は彼が何を言いたいのか尋ねなかったの。劉備は飾り結びを作るのが好きで、ちょうどその時、誰かが毛の長い牛の尾を持ってきたから、劉備はそれを手で結んでいたよ。すると諸葛亮が進み出てこう言ったよ。
「あなたは大きな志を持つべきなのに、ただ飾り結びを作るだけでいいの?」
劉備は諸葛亮がただ者ではないと知って、飾り結びを投げ捨てて、こう答えたよ。
「なんという言い方なんだ! 私はただ心配を忘れようとしているだけだよ」
亮遂言曰:「將軍度劉鎮南孰與曹公邪?」備曰:「不及。」亮又曰:「將軍自度何如也?」備曰:「亦不如。」曰:「今皆不及,而將軍之衆不過數千人,以此待敵,得無非計乎!」備曰:「我亦愁之,當若之何?」
諸葛亮は話し始めたよ。
「あなたは劉鎮南(劉表)と曹操を比べて、どちらが優れていると思う?」
劉備はこう答えたよ。
「劉表は曹操には及ばないよ」
諸葛亮はさらに尋ねたよ。
「では、あなた自身はどう思うの?」
劉備はこう答えたよ。
「私も曹操には及ばないよ」
諸葛亮はこう言ったよ。
「今、ふたりとも曹操に及ばなくて、あなたの兵も数千人に過ぎないから、このまま敵を待つのは無謀だよ!」
劉備はこう言ったよ。
「私もそれを心配しているけど、どうすればいいの?」
亮曰:「今荊州非少人也,而著籍者寡,平居發調,則人心不恱;可語鎮南,令國中凡有游戶,皆使自實,因錄以益衆可也。」備從其計,故衆遂彊。備由此知亮有英略,乃以上客禮之。九州春秋所言亦如之。
諸葛亮はこう答えたよ。
「今、荊州には人が少ないのではなくて、戸籍に登録されている人が少ないんだ。平時に兵を取り立てたら、人々の心は不満に思うよね。劉表に伝えて、国内のすべての登録していない人たちを自ら登録させて、その人数を増やすようにすればいいよ」
劉備はその計画に従って、兵の数は増えて、軍は強くなったよ。このことから劉備は諸葛亮が優れた策略を持っていると知って、彼を尊重して上客として丁寧にもてなしたよ。
『九州春秋』にも同じことが記されているよ。
臣松之以為亮表云「先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事」,則非亮先詣備,明矣。雖聞見異辭,各生彼此,然乖背至是,亦良為可怪。
裴松之の見解としては、諸葛亮が上表で「先帝(劉備)は私がいやしい身分であるにもかかわらず、わざわざ自ら身を低くして、3度も私の草廬に足を運んで、世の中のことについて相談を受けたよ」と言っているから、諸葛亮が先に劉備を訪れたわけではないことは明らかだよね。聞いたことや見たことが異なる場合、それぞれに違いが生じるのは当然だけど、ここまで大きく違うのはとても不思議だね。
徐庶と別れる
劉表長子琦,亦深器亮。表受後妻之言,愛少子琮,不恱於琦。琦每欲與亮謀自安之術,亮輒拒塞,未與處畫。琦乃將亮游觀後園,共上高樓,飲宴之間,令人去梯,因謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口,入於吾耳,可以言未?」亮荅曰:「君不見申生在內而危,重耳在外而安乎?」琦意感寤,陰規出計。
劉表の長子の劉琦も、諸葛亮をとても高く評価していたよ。でも、劉表は後妻の言葉を聞き入れて、末子の劉琮を可愛がって、劉琦を好まなかったんだ。劉琦はいつも諸葛亮に安心して暮らす方法を相談しようとしたけど、諸葛亮はそれを拒否して、話し合わなかったんだ。
ある日、劉琦は諸葛亮を後園に連れ出して、一緒に高楼に登ったよ。劉琦は宴会の最中に梯子を外させて、諸葛亮に尋ねたよ。
「今日のことは、上は天に届かなくて、下は地に届かないから、あなたの言葉は私の耳に入るだけだよ。これで、何か話してほしいな?」
諸葛亮はこう答えたよ。
「あなたは申生が内にいて危なくて、重耳(晋の文公)が外にいて安全だったことを知らないの?」
劉琦はこの言葉を理解して、こっそりと脱出の計画を立てたよ。
孔明、罠にはまる。劉琦の言葉は自嘲なのかな?
申生は、春秋時代の晋の太子だよ。
重耳は、春秋時代の晋の王子だよ。父の晋の献公は、申生でも重耳でもない子を後継ぎにしようとして、申生を暗殺して、重耳は亡命したの。重耳は長い亡命生活の後に晋に帰国できて王に即位して、晋の文公となったよ。
會黃祖死,得出,遂為江夏太守。俄而表卒,琮聞曹公來征,遣使請降。先主在樊聞之,率其衆南行,亮與徐庶並從,為曹公所追破,獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣曹公。(註7)
ちょうどその頃、黄祖が亡くなって、劉琦は脱出できて、そして江夏太守(郡の長官)になったよ。その後すぐに劉表が亡くなって、劉琮は曹操が攻めてくると聞いて、使者を送って降伏しちゃった。劉備は樊でその知らせを聞いて、兵を率いて南へ行ったよ。諸葛亮と徐庶も一緒について行ったけど、曹操に追撃されて敗れて、徐庶の母が捕まっちゃった。徐庶は劉備に別れを告げて、自分の胸を指し示してこう言ったよ。
「本来ならあなたと一緒に王の覇業をこの小さな心で図ろうと思っていたけど、今、母を失って、乱れてしまったの。これでは何の役にも立てないよ。ここで別れさせてほしいんだ」
そして彼は曹操のもとへ向かったんだ。
魏略曰:庶先名福,本單家子,少好任俠擊劒。中平末,甞為人報讎,白堊突靣,被髮而走,為吏所得,問其姓字,閉口不言。吏乃於車上立柱維磔之,擊鼓以令於市鄽,莫敢識者,而其黨伍共篡解之,得脫。於是感激,棄其刀戟,更踈巾單衣,折節學問。始詣精舍,諸生聞其前作賊,不肯與共止。福乃卑躬早起,常獨掃除,動靜先意,聽習經業,義理精孰。遂與同郡石韜相親愛。
『魏略』によると、徐庶は、もともとの名は徐福で、身分の低い家の子で、若い頃から侠客や剣術が好きだよ。
中平の年号の終わり頃(189年頃)、人のために復讐を果たして、白粉で顔を隠して、髪を乱して走ってたところを役人に捕まっちゃった。名前を尋ねられても黙って答えなかったんだ。役人は車の上に柱を立てて彼を縛り付けて、市場で太鼓を鳴らして人々に知らせたけど、誰も彼が何者かわからなかったんだ。そして、仲間たちが彼を助け出して、逃がしたよ。
この出来事に感激した徐庶は、刀や戟を捨てて、代わりに布の頭巾と裏地のない服を身に着けて、学問に専念したよ。精舎(学びの場所)に行ったばかりの頃、他の学生たちは彼が昔に賊だったと聞いて、一緒に過ごすのを拒んだんだ。でも徐庶は謙虚な態度で早起きして、ひとりで掃除をして、他の人の意向を先読みして行動したんだ。経典の学習にも一生懸命取り組んで、義と理を深く理解したんだよ。そして、同じ郡(潁川)の出身の石韜と親しくなったよ。
初平中,中州兵起,乃與韜南客荊州,到,又與諸葛亮特相善。及荊州內附,孔明與劉備相隨去,福與韜俱來北。至黃初中,韜仕歷郡守、典農校尉,福至右中郎將、御史中丞。逮大和中,諸葛亮出隴右,聞元直、廣元仕財如此,嘆曰:「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」庶後數年病卒,有碑在彭城,今猶存焉。
初平の年号の間(190~193年)、中原で兵が起こると、徐庶は石韜と一緒に南の荊州に行ったよ。そこで諸葛亮と特に親しくなったよ。荊州が内から応じて曹操の支配下に入ると、諸葛亮は劉備と一緒に行ったけど、徐庶と石韜は北の曹操のもとへ向かったんだ。
黄初の年号の間(220年~226年)、石韜は郡の太守(郡の長官)や典農校尉に任命されて、徐庶は右中郎将や御史中丞に昇進したよ。
大和の年号の間(227~233年)に、諸葛亮が隴右に出陣すると、元直(徐庶)と石韜の地位を聞いて、嘆いてこう言ったよ。
「魏は本当にたくさんの士人がいるね! どうして彼らふたりが使われないの?」
徐庶は数年後、病気で亡くなったんだ。彭城には彼の碑があって、今も残っているよ。
赤壁の戦い
先主至于夏口,亮曰:「事急矣,請奉命求救於孫將軍。」時權擁軍在柴桑,觀望成敗,亮說權曰:「海內大亂,將軍起兵據有江東,劉豫州亦收衆漢南,與曹操並爭天下。今操芟夷大難,略已平矣,遂破荊州,威震四海。英雄無所用武,故豫州遁逃至此。將軍量力而處之:若能以吳、越之衆與中國抗衡,不如早與之絕;若不能當,何不案兵束甲,北面而事之!今將軍外託服從之名,而內懷猶豫之計,事急而不斷,禍至無日矣!」
劉備が夏口に着くと、諸葛亮はこう言ったよ。
「緊急事態だよ。どうか私に命令を与えて、孫将軍(孫権)のもとへ援軍を求めに行きたいんだ」
この時、孫権は軍を柴桑に構えてどうするか見極めていたんだ。諸葛亮は孫権に意見を言ったよ。
「天下は大きく乱れて、将軍(孫権)は兵を起こして江東を掌握して、劉豫州(劉備)も漢の南の人たちを集めて、曹操と天下を争っているの。今、曹操は大きな困難を切り払って、すでにほぼ平定して、荊州を破ってその威勢は天下に響いているんだ。英雄たちはその武を振るう場を失って、だから劉豫州も逃れてここに来たの。あなたは自分の力を考えて対処すべきだよ。もし呉や越の兵で中原(曹操)に対抗できると考えているなら、早く彼との関係を絶つべきだよ。もしそれができないなら、どうして兵を休ませて鎧を脱いで、北に向かって(臣下として)彼に仕えようとしないの? 今、あなたは表向きは従う姿勢を示しているけど、内心では迷っているみたい。事態は緊急なのに、まだ決断していないんだ。そうしているうちに、災いはすぐにやってきちゃうよ!」
權曰:「苟如君言,劉豫州何不遂事之乎?」亮曰:「田橫,齊之壯士耳,猶守義不辱,况劉豫州王室之冑,英才蓋世,衆士慕仰,若水之歸海,若事之不濟,此乃天也,安能復為之下乎!」
孫権がこう言ったよ。
「もしあなたの言うとおりなら、どうして劉豫州(劉備)は曹操に従おうとしないの?」
諸葛亮はこう答えたよ。
「田横は斉の壮士にすぎないけど、それでも義を守って辱めを受けなかったんだよ。ましてや劉豫州(劉備)は漢の王室の血を引く人で、優れた才能を持っていて、たくさんの士人が彼を仰いで慕っているんだ。それはまるで水が海に帰るみたいにね。もし事がうまくいかなくても、それは天命だよ。どうして彼が人の下につくなんてできるの!」
田横は、秦の末期の斉の人で、項羽を倒した劉邦に屈しなかった人だよ。
諸葛亮さんは斉がお好き?
權勃然曰:「吾不能舉全吳之地,十萬之衆,受制於人。吾計決矣!非劉豫州莫可以當曹操者,然豫州新敗之後,安能抗此難乎?」亮曰:「豫州軍雖敗於長阪,今戰士還者及關羽水軍精甲萬人,劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之衆遠來疲弊,聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂『彊弩之末,勢不能穿魯縞』者也。故兵法忌之,曰『必蹶上將軍』。且北方之人,不習水戰;又荊州之民附操者,偪兵勢耳,非心服也。今將軍誠能命猛將統兵數萬,與豫州協規同力,破操軍必矣。操軍破,必北還,如此則荊、吳之勢彊,鼎足之形成矣。成敗之機,在於今日。」權大恱,即遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬,隨亮詣先主,并力拒曹公。(註8)
孫権は怒ってこう言ったよ。
「私は呉のすべての土地の10万の兵で、他人の支配を受けるなんてできないよ。私の決意は固まっているんだ! 曹操に対抗できるのは劉豫州(劉備)しかいないね。でも、彼は敗れたばかりで、どうしてこの困難に立ち向かえるの?」
諸葛亮は答えたよ。
「劉豫州の軍はたしかに長阪で敗れちゃったけど、今も戦いから戻った兵と、関羽の率いる水軍の精鋭が1万人もいるんだよ。それに、劉琦が率いる江夏の兵も1万人以上いるよ。対する曹操の軍は遠くから来て疲れていて、劉豫州を追うために軽装の騎兵を1日に昼も夜も300里以上も進ませたと聞いたよ。これは兵法で『強弩でも、魯の絹を突き通せない(勢いが尽きた弓矢では柔らかな絹さえ貫けない)』と言われる状況で、兵法でもこれを嫌って、『必ず上将軍はつまずく』とさえ言われているね。
さらに、北の人たちは水戦に慣れていないの。荊州の民も曹操に従っているけど、それは兵の勢いに脅されたからで、心から従ってるわけではないんだ。今、もしあなたが勇猛な将に数万の兵を率いさせて、劉豫州と協力して力を合わせれば、曹操の軍を必ず打ち破れるよ。曹操の軍が敗れれば、必ず北へ退くだろうね。そうなれば、荊州と呉の勢力は強まって、天下を鼎の足で分ける形が整うの。勝敗の分かれ目は、まさに今日にあるよ!」
孫権はとても喜んで、すぐに周瑜、程普、魯粛たちに3万の水軍を与えて、諸葛亮と一緒に劉備のもとへ行かせて、力を合わせて曹操に対抗したよ。
『彊弩之末,勢不能穿魯縞』は、『史記』「韓長孺列伝」、『漢書』「韓安国伝」から。
『必蹶上將軍』は、『孫子』「軍争」から。
袁子曰:張子布薦亮於孫權,亮不肯留。人問其故,曰:「孫將軍可謂人主,然觀其度,能賢亮而不能盡亮,吾是以不留。」
『袁子(袁準)』によると、張子布(張昭)が諸葛亮を孫権に推薦したけど、諸葛亮は留まろうとしなかったんだ。ある人がその理由を尋ねると、諸葛亮はこう答えたよ。
「孫将軍(孫権)は人の主と呼ぶにふさわしい人だけど、彼の度量を見ると、私を優れた者として認めはしても、私を十分には活かせられないだろうね。だから私は留まらなかったの」
臣松之以為袁孝尼著文立論,甚重諸葛之為人,至如此言則失之殊遠。觀亮君臣相遇,可謂希世一時,終始以分,誰能間之?寧有中違斷金,甫懷擇主,設使權盡其量,便當翻然去就乎?葛生行己,豈其然哉!關羽為曹公所獲,遇之甚厚,可謂能盡其用矣,猶義不背本,曾謂孔明之不若雲長乎!
裴松之の見解としては、袁孝尼(袁準)が文章を著して論を立てて、諸葛亮の人柄をとても高く評価しているのはいいことだね。でも、この言葉に関しては大きく誤っていると感じるよ。諸葛亮と劉備の主君と臣下の関係はそれはまさに世に稀なめぐり逢いで、始めから終わりまで志は強くて固いもので、誰がその間を引き裂けるの? まさか、志を貫く者が途中で志を違えて恩義を絶って、新たに主を選び直すようなことがあるわけがないよ。もし孫権が諸葛亮の才能をすべて活かせたとしても、諸葛亮が心変わりして去ってしまうの? 諸葛亮の行いは、そんな軽々しいものではないよ! 関羽は曹操に捕らえられて、とても厚くもてなされたけど、彼はまさに「用い尽くされた」と言ってもよいくらいの待遇を受けたけど、それでも義を守って劉備に背かなかったよ。それなのに、どうして諸葛亮が関羽に及ばないなんて言えるの!
裴松之さんの熱い言葉。解釈違いと言いたいのかな?
曹公敗于赤壁,引軍歸鄴。先主遂收江南,以亮為軍師中郎將,使督零陵、桂陽、長沙三郡,調其賦稅,以充軍實。(註9)
曹操は赤壁で敗れて、軍を引き返して鄴に帰ったよ。劉備はこうして江南をまとめて、諸葛亮を軍師中郎将に任命して、零陵、桂陽、長沙の3つの郡の軍を指揮させて、租税を取り立てて軍を充実させたよ。
零陵先賢傳云:亮時住臨烝。
『零陵先賢伝』によると、この時、諸葛亮は臨烝にいたよ。
益州へ
建安十六年,益州牧劉璋遣法正迎先主,使擊張魯。亮與關羽鎮荊州。先主自葭萌還攻璋,亮與張飛、趙雲等率衆泝江,分定郡縣,與先主共圍成都。成都平,以亮為軍師將軍,署左將軍府事。先主外出,亮常鎮守成都,足食足兵。
建安十六年(211年)、益州牧の劉璋は法正を送って劉備を迎えて、張魯を攻撃させたよ。諸葛亮と関羽は荊州を守っていたよ。劉備が葭萌から戻って劉璋を攻めると、諸葛亮は張飛、趙雲たちと一緒に軍を率いて長江を遡って、郡や県を分けて治めて、劉備と一緒に成都を包囲したよ。成都を平定すると、諸葛亮は軍師将軍になって、左将軍府の仕事を担当したよ。劉備が外に出る時は、諸葛亮はいつも成都を守って、食糧と兵を十分に確保したの。
二十六年,羣下勸先主稱尊號,先主未許,亮說曰:「昔吳漢、耿弇等初勸世祖即帝位,世祖辭讓,前後數四,耿純進言曰:『天下英雄喁喁,兾有所望。如不從議者,士大夫各歸求主,無為從公也。』世祖感純言深至,遂然諾之。今曹氏篡漢,天下無主,大王劉氏苗族,紹世而起,今即帝位,乃其宜也。士大夫隨大王乆勤苦者,亦欲望尺寸之功如純言耳。」
建安二十六年(221年)、臣下たちは劉備に皇帝に即位するように勧めたけど、劉備はまだ許さなかったんだ。そこで、諸葛亮はこう説得したよ。
「昔、呉漢や耿弇たちが世祖(劉秀)に帝位に即くように勧めると、世祖はこれまでに4回も辞退したんだよ。でも、耿純はこう進言したよ。
『天下の英雄たちはみんな、心をひとつにして、望みを託そうとしているんだ。もしこの議論に従わなかったら、士大夫たちはそれぞれの主を求めに帰っちゃって、あなたに従う人はいなくなっちゃう』
世祖は耿純の言葉に深く感動して、こうして皇帝に即位したんだよ。今、曹氏が漢の王朝を奪って、天下には正統な主がいないんだ。大王(劉備)は劉氏の王家の一族で、代々の血統を継いで立ち上がったよ。今、皇帝に即位するのは、当然だよね。士大夫たちが大王に長らく仕えて苦労してきたのも、耿純の言葉のように、わずかな功績でも報われることを願っているからなんだよ」
先主於是即帝位,策亮為丞相曰:「朕遭家不造,奉承大統,兢兢業業,不敢康寧,思盡百姓,懼未能綏。於戲!丞相亮其悉朕意,無怠輔朕之闕,助宣重光,以照明天下,君其勗哉!」亮以丞相錄尚書事,假節。張飛卒後,領司隷校尉。(註10)
劉備は皇帝に即位して、諸葛亮を丞相に任命してこう言ったよ。
「私は漢の家の不幸に遭って、帝位を受け継いだよ。いつも慎み深く、恐れ多くて安らかになれなくて、民のために力を尽くしたいと願ってきたけど、まだ安定させられていないのを恐れているんだ。ああ! 丞相の諸葛亮よ、私の思いをよく汲み取って、私に欠けたところを怠らないで補って、朝廷の光をさらに広めて、天下を照らすようにしてほしいんだ。どうか励んでね!」
諸葛亮は丞相として尚書の政務をまとめて、節を授かったよ。張飛が亡くなった後、司隷校尉を兼ねたよ。
蜀記曰:晉初,扶風王駿鎮關中,司馬高平劉寶、長史熒陽桓隰諸官屬士大夫共論諸葛亮,于時譚者多譏亮託身非所,勞困蜀民,力小謀大,不能度德量力。金城郭冲以為亮權智英略,有踰管、晏,功業未濟,論者惑焉,條亮五事隱沒不聞於世者,寶等亦不能復難。扶風王慨然善冲之言。
『蜀記』によると、晋の初め頃、扶風王の司馬駿が関中を鎮めていたとき、司馬で高平の出身の劉宝、長史で熒陽の出身の桓隰たち官僚や士大夫たちが諸葛亮について話していたの。当時、たくさんの人が、諸葛亮が仕えるべきではない相手(劉備)に身を託したことを非難して、それに蜀の民を苦しめたこと、力が小さいのに大きな望みを抱いたこと、そして自分の徳や能力を正しく見極めていなかったと批判していたんだ。でも、金城の出身の郭冲は、「諸葛亮は権謀、才知、英知と戦略は、管仲や晏嬰も上回っているよ。功業が最後まで成し遂げられなかったから議論する人たちが誤解しているんだ」と言ったよ。そして、諸葛亮について、世間に知られていない5つの功績を具体的に挙げて論じて、劉宝たちも反論できなくなっちゃった。司馬駿は郭冲の言葉をとてもほめたんだって。
臣松之以為亮之異美,誠所願聞,然冲之所說,實皆可疑,謹隨事難之如左:其一事曰:亮刑法峻急,刻剥百姓,自君子小人咸懷怨歎,法正諫曰:「昔高祖入關,約法三章,秦民知德,今君假借威力,跨據一州,初有其國,未垂惠撫;且客主之義,宜相降下,願緩刑弛禁,以慰其望。」亮荅曰;「君知其一,未知其二。秦以無道,政苛民怨,匹夫大呼,天下土崩,高祖因之,可以弘濟。劉璋闇弱,自焉已來有累世之恩,文法羈縻,互相承奉,德政不舉,威刑不肅。蜀土人士,專權自恣,君臣之道,漸以陵替;寵之以位,位極則賤,順之以恩,恩竭則慢。所以致弊,實由於此。吾今威之以法,法行則知恩,限之以爵,爵加則知榮;榮恩並濟,上下有節。為治之要,於斯而著。」
裴松之の見解によると、諸葛亮のすごい美点について聞くことは、とても望ましいことだけど、郭冲が述べたことは、実際にはすべて疑わしいものだよ。その事柄に従って論じてみるね。
郭冲の言う1つ目によると、諸葛亮が刑罰を厳しくして、民にひどく取り立てたから、君子(立派な人)も小人(つまらない人)もみんな怨んで嘆いたよ。法正が諫めてこう言ったよ。
「昔、高祖(劉邦)が関中に入ると、法三章(殺人、傷害、盗み以外は罪としない)を約束して、秦の民はその徳を知ったよ。今、あなたは武力に頼って1つの州を支配して、国を得たばかりなのに、まだ恩恵を施して民を慰めていないんだ。それに、客と主の義では、相手に対して謙遜な姿勢を取るのが道義にかなっているよ。どうか刑罰をゆるめて禁令を和らげて、彼らの期待に応えてね」
諸葛亮はこう答えたよ。
「あなたは一端しか知らなくて、その次を知らないよね。秦は道に外れて、ひどい政治で民を苦しめて、ひとりの男が大声を上げると国は大きく崩れたよ。高祖(劉邦)はその流れに乗って、天下を治めることができたんだ。劉璋は愚かで弱くて、彼が支配してきた時代には代々の恩があって、法や制度でなんとか縛ってきたけど、徳による政治は行われなくて、威厳ある法も整っていなかったんだ。だから、蜀の人たちは勝手気ままにふるまって、君主と臣下の道はどんどん衰えちゃったんだ。地位があるからといって媚びを売っても、その地位が極まれば軽んじられて、恩をもって従わせようとすれば、その恩が尽きれば侮られるんだ。このような乱れが生じたのは、まさにそのような甘さに原因があるの。
だから私は今、法によって威を示しているんだ。法がきちんと施行されれば恩を知るようになって、爵位(地位)に制限を設ければ、爵を与えられたときにその名誉を知るようになるよ。名誉と恩が一緒に施されれば、上下の秩序は保たれるよ。これが治めるための要点で、この考えによって私は統治をしているんだよ」
「君知其一,未知其二」は、『史記』「高祖本紀」から、劉邦の言葉が元ネタだね。ちなみに、この後に続く言葉が「籌策を帷帳の中に運らし、勝を千里の外に決する(は、吾、子房に如かず)」で、『三国志演義』で劉備さんが諸葛亮さんをほめるときに引用した言葉の元ネタだよ。
難曰:案法正在劉主前死,今稱法正諫,則劉主在也。諸葛職為股肱,事歸元首,劉主之世,亮又未領益州,慶賞刑政不出於己。尋沖所述亮荅,專自有其能,有違人臣自處之宜。以亮謙順之體,殆必不然。又云亮刑法峻急,刻剥百姓,未聞善政以刻剥為稱。
これに反論すると、法正が劉備が生きている間に死んでいることを考えると、「法正が諫めた」と言うなら、劉備がまだ生きている時の出来事だよね。諸葛亮は君主を支える臣下として職務を行って、事柄を元首(劉備)に委ねていたよ。劉備の時代、諸葛亮はまだ益州を統治していなくて、賞罰や政治の方針は彼自身から出たものではなかったんだ。
郭冲が述べた諸葛亮の答えを考えると、まるで諸葛亮自身がすべての能力を持っているみたいで、臣下としての在り方に反しているよね。諸葛亮の謙虚で従順な性格を考えると、ほとんどあり得ないよ。それに、諸葛亮が刑法を厳しくして、民をひどく扱ったとあるけど、善い政治がひどい扱いによってほめられることは聞いたことがないよ。
其二事曰:曹公遣刺客見劉備,方得交接,開論伐魏形勢,甚合備計。稍欲親近,刺者尚未得便會,旣而亮入,魏客神色失措。亮因而察之,亦知非常人。須臾,客如厠,備謂亮曰;「向得奇士,足以助君補益。」亮問所在,備曰:「起者其人也。」亮徐歎曰:「觀客色動而神懼,視低而忤數,姦形外漏,邪心內藏,必曹氏刺客也。」追之,已越墻而走。
郭冲の言う2つ目によると、曹操が劉備を暗殺するために刺客を送り込んだよ。刺客は劉備に近づくと、魏(曹操)を討つための戦略について話して、内容は劉備の計画と一致していたんだって。どんどん親しく近づこうとしたけど、刺客はまだ機会を得られないでいたんだ。そのうちに諸葛亮が入ってきたよ。刺客の顔色が変わって、諸葛亮はそれを見て、その人が普通ではないと気がついたよ。しばらくして、その刺客が厠に行くと、劉備は諸葛亮にこう言ったよ。
「さっきの優れた人はあなたの助けになると思うんだ」
諸葛亮は彼の場所を尋ねて、劉備はこう言ったよ。
「今出ていった者がその人だよ」
諸葛亮はゆっくりとため息を吐いて、嘆いてこう言ったよ。
「客の顔色が動揺して、内心に恐れが見えたし、目線は落ち着かなくて、言動にも不自然な点が多いよ。悪い気配が外に現れて、邪な心を内に秘めているんだ。これはきっと曹氏の刺客に違いないよ」
急いで追いかけると、刺客はすでに塀を越えて逃げていたんだって。
難曰:凡為刺客,皆暴虎馮河,死而無悔者也。劉主有知人之鑒,而惑於此客,則此客必一時之奇士也。又語諸葛云「足以助君補益」,則亦諸葛之流亞也。凡如諸葛之儔,鮮有為人作刺客者矣,時主亦當惜其器用,必不投之死地也。且此人不死,要應顯達為魏,竟是誰乎?何其寂蔑而無聞!
これに反論すると、刺客というものは、血気盛んで、無謀な危険をおかす死を恐れない者だよ。劉備は人を見抜く能力を持っているのに、この客に惑わされるということは、この客がこの時代の優れた人であるに違いないよ。それに、劉備が諸葛亮に「あなたの助けになる」と言ったのだから、諸葛亮と似た人でもあるよね。諸葛亮みたいな人が刺客になることはとても稀なことで、劉備もその器量を惜しんで、決して死地に送ることはないはずだよ。さらに、この人物が死ななかった場合、魏で出世するはずだけど、結局その人は誰なの? どうして世の中で彼の名を聞かないのかな!
解釈違いに立ち向かう裴松之さんの熱いお言葉。3 つ目以降は後述。
劉備の死
章武三年春,先主於永安病篤,召亮於成都,屬以後事,謂亮曰:「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」亮涕泣曰:「臣敢竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死!」先主又為詔勑後主曰:「汝與丞相從事,事之如父。」(註11)
章武三年(223年)、春、劉備は永安で病気が重くなって、諸葛亮を成都から呼んで、後を託したんだ。劉備は諸葛亮にこう言ったよ。
「あなたの才能は曹丕の10倍はあるよ。きっと国を安定させて、大事を成し遂げられるだろうね。もし後継ぎの劉禅を助ける価値があるなら助けてやってほしいんだ。もしそうでないなら、あなたが自ら国を取ってね」
諸葛亮は涙を流してこう言ったよ。
「私は心から支える臣下として、全力を尽くして、忠誠を守って、死ぬまで仕えるよ!」
そして、劉備は劉禅に詔を出して、こう命令したよ。
「あなたは丞相(諸葛亮)を父みたいに敬って、一緒に事を成し遂げてね」
孫盛曰:夫杖道扶義,體存信順,然後能匡主濟功,終定大業。語曰弈者舉棊不定猶不勝其偶,況量君之才否而二三其節,可以摧服彊鄰囊括四海者乎?備之命亮,亂孰甚焉!世或有謂備欲以固委付之誠,且以一蜀人之志。君子曰,不然;苟所寄忠賢,則不須若斯之誨,如非其人,不宜啟篡逆之塗。是以古之顧命,必貽話言;詭偽之辭,非託孤之謂。幸值劉禪闇弱,無猜險之性,諸葛威略,足以檢衞異端,故使異同之心無由自起耳。不然,殆生疑隙不逞之釁。謂之為權,不亦惑哉!
孫盛によると、そもそも道を支えて義を助けて、誠実さと従順を備えてこそ、主君を助けて功績を立てて、大業を成し遂げられるんだよ。ことわざに『囲碁で定めなかったら、相手に勝つことなんてできない』とあるけど、君主の才能を測らないで、節義をあいまいにして分けてするなら、どうして強い隣国を打ち破って、天下を統一できるの? 劉備が諸葛亮に命令したことは、これ以上ないくらいの混乱を引き起こすものだよ! 世の中には、「劉備があえてあのように重々しく諸葛亮に託したのは、諸葛亮への信頼を強調して、また蜀の人たちの心をひとつにさせようとした」と言う者もいるよ。でも、君子は「そうではない」と言うよ。もし本当に忠義と賢明さを備えた者に委ねるのなら、そこまで言い聞かせる必要はないんだ。逆にもしそうでない者に託すなら、国を取ってもいいなんて反逆を促すべきではないよね。だから、昔の遺言には必ず真心からの言葉が込められていたんだ。ごまかしや偽りの言葉は、孤児(後継ぎ)を託すのにふさわしくないよね。幸い、劉禅は鈍くて、疑う心や危険な性質がなかったから、諸葛亮の威と策略で異なる意見や反対派も抑えられたから、反乱が起きなかったんだね。でも、もしそうでなかったら、疑いや不満が生じる危険があったんだ。これを「権謀」(臨機応変の策)と呼ぶのは、間違いではないかな!
「語曰弈者舉棊不定猶不勝其偶」は、『春秋左氏伝』「襄公二十五年」から。
建興元年,封亮武鄉侯,開府治事。頃之,又領益州牧。政事無巨細,咸決於亮。南中諸郡,並皆叛亂,亮以新遭大喪,故未便加兵,且遣使聘吳,因結和親,遂為與國。(註12)
建興元年(223年)、諸葛亮は武郷侯に封ぜられて、府を開いて政務をしたよ。その後、さらに益州牧も兼ねたよ。大きな事から小さな事まで、すべての政務は諸葛亮が決定したよ。
南中の郡がすべて反乱を起こしちゃったけど、諸葛亮は大きな喪に遭ったばかりだから、すぐには軍を動かさないで、まずは使者を送って呉と友好関係を結んで、同盟国としたよ。
亮集曰:是歲,魏司徒華歆、司空王朗、尚書令陳羣、太史令許芝、謁者僕射諸葛璋各有書與亮,陳天命人事,欲使舉國稱藩。亮遂不報書,作正議曰:「昔在項羽,起不由德,雖處華夏,秉帝者之勢,卒就湯鑊,為後永戒。魏不審鑒,今次之矣;免身為幸,戒在子孫。而二三子各以耆艾之齒,承偽指而進書,有若崇、竦稱莽之功,亦將偪于元禍苟免者邪!
『諸葛亮集』によると、この年、魏の司徒の華歆、司空の王朗、尚書令の陳羣、太史令の許芝、謁者僕射の諸葛璋がそれぞれ諸葛亮に手紙を送って、天命や人事を述べて、国全体を魏に従わせようとしたんだ。諸葛亮はそれに返事をしないで、『正議』を作ってこう言ったよ。
「昔、項羽は徳に頼らないで立ち上がって、中原の地に帝位に迫る勢力を持っていたけど、最後は煮えたぎる釜の中に身を投げて滅んで、後の世への永遠の戒めとなったんだ。魏はこれに学ばないで、今、そのあとを追っているんだ。自身が無事なだけでも幸いで、子孫に戒めを残すべきだよ。なのに、あなたたちは年長の立場を利用して偽の政権に従って手紙を送ったんだ。それはまるで陳崇と張竦が王莽の功績をほめたたえたようなもので、それでは元の災いを免れた者たちと同じ末路をたどるのではないかな!
昔世祖之創迹舊基,奮羸卒數千,摧莽彊旅四十餘萬於昆陽之郊。夫據道討淫,不在衆寡。及至孟德,以其譎勝之力,舉數十萬之師,救張郃於陽平,勢窮慮悔,僅能自脫,辱其鋒銳之衆,遂喪漢中之地,深知神器不可妄獲,旋還未至,感毒而死。子桓淫逸,繼之以篡。
昔、世祖(劉秀)は、古い基盤に立ち返って、わずか数千の疲れた兵を率いて、昆陽の郊外で王莽の40万の軍を打ち破ったよ。これは、道に従って邪悪を討てば、兵の多いか少ないかは問題ではないと示しているよ。孟徳(曹操)が策略で勝つことを頼みとして、数十万の兵を動かして陽平で張郃を救おうとしたけど、勢いは追い詰められて後悔して、かろうじて自ら脱出するだけで精一杯だったよね。彼の精鋭は辱めを受けて、こうして漢中を失ったんだ。これは、帝位を軽々しく手に入れられないと深く悟ったからだよ。彼は帰る前に病に倒れて、毒で亡くなったよね。その後を継いだ子桓(曹丕)は思うままにふるまって、とうとう帝位を奪ったんだ。
縱使二三子多逞蘇、張詭靡之說,奉進驩兜滔天之辭,欲以誣毀唐帝,諷解禹、稷,所謂徒喪文藻煩勞翰墨者矣。夫大人君子之所不為也。又軍誡曰:『萬人必死,橫行天下。』昔軒轅氏整卒數萬,制四方,定海內,況以數十萬之衆,據正道而臨有罪,可得干擬者哉!」
たとえあなたたちが蘇秦や張儀のような詭弁を操って、驩兜のように天に逆らう言葉を進めて、唐の帝(堯)を中傷して、禹や稷の功績を軽んじようとしたところで、それはただ文筆を浪費して、無駄に労力を使うだけなんだよ。それは立派な人がするべきことではないよね。
それに、軍の戒めには『すべての人が死を覚悟すれば、天下を自由に行き来できる』とあるよ。昔、軒轅氏(黄帝)は数万の兵を整えて四方を治めて、天下を定めたよ。ましてや今、数十万の兵を率いて正しい道に従って罪ある者に向けるのだから、どうしてそれに逆らう者がいるの!」
南中へ遠征する
三年春,亮率衆南征,(註13)其秋悉平。軍資所出,國以富饒,(註14)乃治戎講武,以俟大舉。
建興三年(225年)、春、諸葛亮は兵を率いて南へ軍を進めて、その秋にはすべて平定したよ。軍の資材が豊かになって、国も富んだよ。そこで戦の準備を整えて、大きな行動に備えたよ。
詔賜亮金鈇鉞一具,曲蓋一,前後羽葆鼓吹各一部,虎賁六十人。事在亮集。
詔によって、諸葛亮に金製の斧と鉞を1組、傘を1つ、前後の羽飾りと鼓吹(軍楽隊)をそれぞれ1部ずつ、虎賁60人が授けられたよ。この話は『諸葛亮集』に記されているよ。
漢晉春秋曰:亮至南中,所在戰捷。聞孟獲者,為夷、漢所服,募生致之。旣得,使觀於營陣之間,曰:「此軍何如?」獲對曰:「向者不知虛實,故敗。今蒙賜觀看營陣,若祇如此,即定易勝耳。」亮笑,縱使更戰,七縱七禽,而亮猶遣獲。獲止不去,曰:「公,天威也,南人不復反矣。」遂至滇池。南中平,皆即其渠率而用之。或以諫亮,亮曰:「若留外人,則當留兵,兵留則無所食,一不易也;加夷新傷破,父兄死喪,留外人而無兵者,必成禍患,二不易也;又夷累有廢殺之罪,自嫌釁重,若留外人,終不相信,三不易也;今吾欲使不留兵,不運糧,而綱紀粗定,夷、漢粗安故耳。」
『漢晋春秋』によると、諸葛亮が南中に着くと、各地で戦いに勝ったよ。孟獲という人が異民族や漢の人たちから尊敬されていると聞いて、生け捕りにするように命令したよ。諸葛亮は孟獲を捕えた後、彼に陣営を見せてこう尋ねたよ。
「この軍はどう?」
孟獲はこう答えたよ。
「前は敵の情報がわからなかったから負けちゃったけど、今は陣営を見せてくれたから、これくらいなら簡単に勝てるよ」
諸葛亮は笑って、ふたたび戦わせたよ。7度捕えて、7度逃がした後、諸葛亮はふたたび孟獲を解放したよ。孟獲は去らないでこう言ったよ。
「あなたは天の威だね、南の人たちはもう反乱しないよ」
そして、諸葛亮は滇池に着いたよ。南中が平定されると、捕えた指導者たちをそのまま使ったよ。ある人が諸葛亮を諫めたけど、諸葛亮はこう答えたよ。
「もし外の人を留めておくなら、兵を留めなければならないよね。兵を留めると食糧が足りなくなっちゃう。これが1つ目の困難だよ。それに、異民族は傷ついて破れたばかりだから、父や兄が亡くなっているんだ。外の人を留めて兵がいない場合、必ず災いとなるよ。これが2つ目の困難だね。さらに、異民族はこれまでに何度も殺戮をして、自分たちの罪を嫌っているよ。外の人を留めても、結局は信頼できないんだ。これが3つ目の困難だよ。今、私は兵を留めないで、食糧を運ばないで、秩序を保って、異民族と漢を安定させたいの」
七縦七擒だよ。
出師表
五年,率諸軍北駐漢中,臨發,上疏曰:先帝創業未半,而中道崩殂,今天下三分,益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣不懈於內,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇,欲報之於陛下也。誠宜開張聖聽,以光先帝遺德,恢弘志士之氣,不宜妄自菲薄,引喻失義,以塞忠諫之路也。宮中府中俱為一體,陟罰臧否,不宜異同。若有作姧犯科及為忠善者,宜付有司論其刑賞,以昭陛下平明之理,不宜偏私,使內外異法也。
建興五年(227年)、軍を率いて北の漢中に駐留したよ。出発の時に、諸葛亮は上表してこう言ったよ。
「先帝(劉備)は事業を始められてまだ道半ばだったのに亡くなったんだ。今、天下は3つに分かれて、益州は疲れ果てているよ。まさにこれは、国家が存続するか滅びるかの危機のときなんだ。でも、内では守る臣下たちが怠らないで務めて、外では忠義の士たちが身を振り返らないで奮闘しているよ。これは先帝から受けた特別な恩遇を思い慕って、これを陛下(劉禅)に報いようとするからなの。本当に、陛下には聖なる耳を広く開いて、先帝の遺した徳を輝かせて、志をもつ士たちの気概を奮い立たせてほしいんだ。むやみに自分を劣っているとしたり、道理に反する言い訳をして、忠のある臣下の諫めの言葉を封じるようなことはしてはいけないよ。宮中と政府は一体となるべきで、善と悪の判断や功と罪の評価について、内と外で異なる基準があってはいけないよ。もし不正を働く者や法律に背く者、または忠を尽くして善いことをする者がいれば、役人に任せてその罪や功に応じて処罰や賞を与えて、陛下の公平で明らかな政治を示すべきだよ。偏った私情で内と外で異なる法を使ってはいけないよ。
侍中、侍郎郭攸之、費禕、董允等,此皆良實,志慮忠純,是以先帝簡拔以遺陛下。愚以為宮中之事,事無大小,悉以咨之,然後施行,必能裨補闕漏,有所廣益。將軍向寵,性行淑均,曉暢軍事,試用於昔日,先帝稱之曰能,是以衆議舉寵為督。愚以為營中之事,悉以咨之,必能使行陣和睦,優劣得所。親賢臣,遠小人,此先漢所以興隆也;親小人,遠賢臣,此後漢所以傾頹也。先帝在時,每與臣論此事,未甞不歎息痛恨於桓、靈也。侍中、尚書、長史、參軍,此悉貞良死節之臣,願陛下親之信之,則漢室之隆,可計日而待也。
侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允たちは、みんな誠実で実直で、心も思慮も忠義に満ちているから、先帝(劉備)は彼らを選び抜いて陛下(劉禅)に託したの。私の考えでは、宮中のことについては、大きいことも小さいこともすべて彼らに相談してから実行すべきだよ。そうすれば、足りない点を補って、広く利益をもたらすことができるだろうね。
将軍の向寵は、性格が穏やかで公平で、軍事に詳しくて、前に採用されたときにも、先帝は彼を『有能な人だ』とほめたんだよ。そこで、みんなは議論をして、彼を督(司令官)に推挙したの。私の考えでは、軍中のこともすべて彼に相談すべきだよ。そうすれば、必ず軍の内部が和やかになって、適材適所に人を配置できるだろうね。
賢明な臣下を親しんで、つまらない人を遠ざけること、これが漢が興隆した理由だよ。つまらない人を親しんで、賢明な臣下を遠ざけること、これが漢が衰退した理由だよ。先帝が生きている間、私とこのことについて語り合ったときにはいつも、桓帝と霊帝について嘆いて、痛ましく思っていたんだ。
侍中、尚書、長史、参軍たちはみんな節義を重んじて忠誠を尽くす臣下たちだよ。どうか陛下も彼らを親しんで信頼してね。そうすれば、漢の王室の隆盛は、日を数えるくらいの近さで訪れるよ。
臣本布衣,躬耕於南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事,由是感激,遂許先帝以驅馳。後值傾覆,受任於敗軍之際,奉命於危難之間,爾來二十有一年矣。(註15)先帝知臣謹慎,故臨崩寄臣以大事也。
私はもともとは単なる庶民にすぎなくて、南陽で農耕をして暮らしていたの。乱世でただ命を全うできればよいと願って、諸侯に知られようなんて思っていなかったんだ。でも、先帝(劉備)は私がいやしい身分であるにもかかわらず、わざわざ自ら身を低くして、3度も私の草廬に足を運んで、世の中のことについて相談を受けたよ。これに私は深く感激して、先帝のために奔走すると約束したんだよ。
その後、天下は傾いて覆される時になって、(長坂で)敗れた軍の中で任務を受けて、危機の最中で命令を受けてから、早くも今日まで21年が経ったよ。先帝は私が慎み深いことを知っていたから、亡くなる時に重大な国家を私に託したんだ。
受命以來,夙夜憂歎,恐託付不效,以傷先帝之明,故五月渡瀘,深入不毛。(註16)今南方已定,兵甲已足,當獎率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除姧凶,興復漢室,還于舊都。此臣所以報先帝,而忠陛下之職分也。至於斟酌損益,進盡忠言,則攸之、禕、允之任也。
使命を受けてから、私は朝早くから夜遅くまで憂いて嘆いて、もしこの託された大任に応えられなければ、先帝(劉備)の明察を傷つけることになるのではないかと、いつも恐れているんだ。だから、五月に自ら軍を率いて瀘水を渡って、荒れ果てた未開の地にまで深く進軍したよ。今、南方はすでに平定されて、兵も武器も整っていて、これからまさに大軍を励まして率いて、北へ軍を進めて中原を平定しようとしているよ。私の力は劣っているけど、それを尽くして邪悪な敵を取り除いて、漢の王室を復興させて、かつての都の洛陽へ帰還させたいんだ。これこそが私が先帝に報いて、陛下(劉禅)に忠義を尽くすためにやらなきゃいけない務めなんだ。政務の得失の調整や、忠言を尽くして進言することは、郭攸之、費禕、董允たちの役目だよ。
願陛下託臣以討賊興復之效;不效,則治臣之罪,以告先帝之靈;責攸之、禕、允等之慢,以彰其咎。陛下亦宜自謀,以諮諏善道,察納雅言,深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激,今當遠離,臨表涕零,不知所言。
陛下(劉禅)には私に敵(魏)を討って漢の王室を復興させるという役目を託してほしいんだ。もしそれを果たせなければ、どうか私を罰して、そのことを先帝(劉備)の霊に伝えてね。郭攸之、費禕、董允たちが怠けていたら、彼らを責めて、その過ちを明らかにしてね。陛下自身もまた、策をよく考えて、良い道を求めて、正しい意見をよく聞き入れて、先帝の遺した詔を深く慕ってね。私はこのような大きな恩を受けて、感激して尽くせないくらいなんだ。今、遠く離れて任務に赴こうとしているけど、この上表をしながら、涙が止まらなくて、何を言っているのかわからなくなっちゃった」
なるべく原文を読んだがいいかも。国のためにというより、劉備さんへの恩返しが大きいのかな。
臣松之案:劉備以建安十三年敗,遣亮使吳,亮以建興五年抗表北伐,自傾覆至此整二十年。然則備始與亮相遇,在敗軍之前一年時也。
裴松之が調べたところ、劉備は建安十三年(208年)に敗れて、諸葛亮を呉に使者として送ったよ。諸葛亮は建興五年(227年)に北伐の上表をしたよ。つまり、劉備の敗北から諸葛亮が北伐を始めるまでの間は、ちょうど20年になるよね。だから、劉備が諸葛亮と初めて出会ったのは、軍が敗れた前の年だね。
漢書地理志曰:瀘惟水出牂牁郡句町縣。
『漢書』「地理志」によると、瀘惟水は牂牁郡句町県から流れているんだって。
遂行,屯于沔陽。(註17)
こうして出発して、沔陽に駐屯したよ。
郭沖三事曰:亮屯于陽平,遣魏延諸軍并兵東下,亮惟留萬人守城。晉宣帝率二十萬衆拒亮,而與延軍錯道,徑至前,當亮六十里所,偵候白宣帝說亮在城中兵少力弱。亮亦知宣帝垂至,已與相偪,欲前赴延軍,相去又遠,回迹反追,勢不相及,將士失色,莫知其計。亮意氣自若,勑軍中皆卧旗息鼓,不得妄出菴幔,又令大開四城門,埽地却洒。宣帝常謂亮持重,而猥見勢弱,疑其有伏兵,於是引軍北趣山。明日食時,亮謂參佐拊手大笑曰:「司馬懿必謂吾怯,將有彊伏,循山走矣。」候邏還白,如亮所言。宣帝後知,深以為恨。
郭沖の言った3つ目によると、諸葛亮は陽平に駐屯すると、魏延たちの軍を送って兵を合わせて、東へ進軍させたよ。諸葛亮はわずか1万人を残して城を守っていたんだ。
司馬懿は20万人の兵を率いて諸葛亮を迎え撃とうとして、魏延の軍とは別の道を進んで、諸葛亮の駐屯地の前方60里離れた地点に着いたよ。偵察兵は司馬懿に「諸葛亮は城内にいて、兵も少なくて戦力も弱いんだ」と報告したよ。諸葛亮も司馬懿が迫っていると知っていたけど、すでに近くにいて、魏延の軍のもとへ向かおうとしても距離が遠くて、戻って合流するにも間に合わなくて、将や兵たちは恐れて顔色を失って、どうすべきかわからなくなっちゃった。
でも、諸葛亮は落ち着いていて、軍に対して「旗を伏せて、鼓を鳴らさないで、むやみに陣幕の外に出ないで」と命令したんだ。さらに、城の四方の門をすべて大きく開けて、道を掃き、水を撒かせてきれいにしたよ。
司馬懿はいつも諸葛亮が慎重な人だと考えていたから、突然に弱さを見せる状況を見て逆に疑って、「伏兵がいるに違いない」と考えて軍を北へ引き返して、山の方向へ退いたよ。
翌日、食事のとき、諸葛亮は参謀たちに手を叩いて大笑いしてこう言ったよ。
「司馬懿はきっと、私が怯えて伏兵を仕掛けたと思って、山沿いに逃げたに違いないよ」その後、偵察兵が戻ってきて、諸葛亮の言ったとおりだと報告したよ。司馬懿は後になってこのことを知って、深く悔やんだの。
空城の計だね。
難曰:案陽平在漢中。亮初屯陽平,宣帝尚為荊州都督,鎮宛城,至曹真死後,始與亮於關中相抗禦耳。魏甞遣宣帝自宛由西城伐蜀,值霖雨,不果。此之前後,無復有於陽平交兵事。就如沖言,宣帝旣舉二十萬衆,已知亮兵少力弱,若疑其有伏兵,正可設防持重,何至便走乎?案魏延傳云:「延每隨亮出,輒欲請精兵萬人,與亮異道會于潼關,亮制而不許;延常謂亮為怯,歎己才用之不盡也。」亮尚不以延為萬人別統,豈得如沖言,頓使將重兵在前,而以輕弱自守乎?且沖與扶風王言,顯彰宣帝之短,對子毀父,理所不容,而云「扶風王慨然善沖之言」,故知此書舉引皆虛。
反論すると、調べてみると陽平は漢中にあるよ。諸葛亮が初めて陽平に駐屯したとき、司馬懿はまだ荊州都督で、宛城に駐屯していたんだ。曹真が亡くなった後、初めて諸葛亮と関中で戦うことになったんだ。魏はかつて司馬懿を宛から西城を通って蜀を攻めさせたけど、大雨に見舞われて実行できなかったんだ。このような事情を考えれば、これまでに陽平での戦いはなかったはず。
もし郭沖の言うとおりでも、司馬懿が20万の軍勢を率いていて、諸葛亮の兵が少なくて弱いとすでに知っていたのなら、伏兵を疑ったとしても、守りを固めて慎重に構えるべきで、いきなり退却するなんてあるのかな?
「魏延伝」によると、魏延はいつも諸葛亮と一緒に出陣して、よく1万人の精鋭を率いて諸葛亮とは別の道を通って潼関で合流しようと提案したけど、諸葛亮はこれを許さなかったよ。魏延はいつも「諸葛亮は臆病で、自分の才能が十分に発揮されない」と嘆いていたんだって。諸葛亮が魏延にすら1万人の別働隊を許さなかったのに、どうして郭沖の言うように諸葛亮が重兵を前線に出して自分はわずかな兵で後ろを守ったなんて言えるの?
さらに、郭沖が司馬駿(司馬懿の子)に言ったことは、明らかに司馬懿を非難する内容で、父をけなす発言を子がすることは道理に反するよ。なのに、「司馬駿は郭沖の言葉をとてもほめた」とあるのは、この記述がすべて偽りであるとわかるよね。
解釈違いに立ち向かう裴松之さんの熱いお言葉。