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正史『三国志』「蜀書劉璋伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「蜀書劉璋伝」をゆるゆる翻訳するよ!
劉(りゅう)璋(しょう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 蜀書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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張魯を倒したい

本文

璋,字季玉,旣襲焉位,而張魯稍驕恣,不承順璋,璋殺魯母及弟,遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯,數為所破。魯部曲多在巴西,故以羲為巴西太守,領兵禦魯。(註1)

劉(りゅう)璋(しょう)は、字(あざな)は季(き)玉(ぎょく)だよ。劉(りゅう)璋(しょう)は父の劉(りゅう)焉(えん)の地位を継いだよ。でも、張(ちょう)魯(ろ)はだんだん思い上がって自分勝手になって、劉(りゅう)璋(しょう)の命令に従わなくなったんだ。そこで、劉(りゅう)璋(しょう)は、張(ちょう)魯(ろ)の母と弟を殺したから、劉(りゅう)璋(しょう)と張(ちょう)魯(ろ)はお互いに深く憎み合う敵同士となったの。劉(りゅう)璋(しょう)は何度も龐(ほう)羲(ぎ)たちを送って張(ちょう)魯(ろ)を攻めたけど、そのたびに張(ちょう)魯(ろ)に打ち破られたんだ。張(ちょう)魯(ろ)の部下は巴(は)西(せい)にたくさんいたから、劉(りゅう)璋(しょう)は龐(ほう)羲(ぎ)を巴(は)西(せい)太(たい)守(しゅ)に任命して、兵を率いて張(ちょう)魯(ろ)を防がせたよ。

(註1)

英雄記曰:龐羲與璋有舊,又免璋諸子於難,故璋厚德羲,以羲為巴西太守,遂專權勢。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、龐(ほう)羲(ぎ)は、もともと劉(りゅう)璋(しょう)と古くから親しい関係だよ。それに、劉(りゅう)璋(しょう)の子供たちを危険な状況から助け出したこともあったんだって。だから、劉(りゅう)璋(しょう)は龐(ほう)羲(ぎ)の恩を深く感じて、とても厚く信頼していたの。こうして龐(ほう)羲(ぎ)は、大きな権力を一人で握るようになったんだ。

本文

羲與璋情好攜隙,趙韙稱兵內向,衆散見殺,皆由璋明斷少而外言入故也。(註2)(註3)

その後、龐(ほう)羲(ぎ)と劉(りゅう)璋(しょう)の仲は悪くなっちゃった。趙(ちょう)韙(い)は兵を率いて劉(りゅう)璋(しょう)に反乱を起こして、成(せい)都(と)へ向かって軍を進めたよ。でも、趙(ちょう)韙(い)の兵はやがて散り散りになって、趙(ちょう)韙(い)も殺されたんだ。
これらの出来事は、劉(りゅう)璋(しょう)が物事を自分で判断して決断する力が足りなくて、周りの人たちの言葉をそのまま信じたせいなんだ。

(註2)

英雄記曰:先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。趙韙素得人心,璋委任之。

『英(えい)雄(ゆう)記(き)』によると、これより前、南(なん)陽(よう)や三(さん)輔(ぽ)の人たちが戦乱を逃れて益(えき)州へ数万家も移り住んできたよ。劉(りゅう)璋(しょう)は、その人たちを集めて兵にして、「東(とう)州(しゅう)兵(へい)」と呼んだよ。でも、劉(りゅう)璋(しょう)は性格がおだやかでやさしくて、人々を厳しくまとめる力や、戦いや政治の決断力に欠けていたんだ。だから、東(とう)州(しゅう)兵(へい)は、もともと益(えき)州に住んでいた民に乱暴なことをするようになったけど、劉(りゅう)璋(しょう)はそれを止められなかったの。政治の命令もうまく行き届かなくて、益(えき)州の民は劉(りゅう)璋(しょう)に不満を持つようになったよ。趙(ちょう)韙(い)は、もともとたくさんの人たちから信頼されていたから、劉(りゅう)璋(しょう)は政治を任せていたよ。

(註2)

韙因民怨謀叛,乃厚賂荊州請和,陰結州中大姓,與俱起兵,還擊璋。蜀郡、廣漢、犍為皆應韙。璋馳入成都城守,東州人畏韙,咸同心并力助璋,皆殊死戰,遂破反者,進攻韙於江州。韙將龐樂、李異反殺韙軍,斬韙。

趙(ちょう)韙(い)は民の不満を利用して反乱を計画したよ。まず、荊(けい)州にたくさんの贈り物を送って、仲直りを伝えたよ。一方、益(えき)州の有力者とこっそりと手を結んで、一緒に兵をあげて劉(りゅう)璋(しょう)を攻めたよ。すると、蜀(しょく)郡、広(こう)漢(かん)、犍(けん)為(い)もみんな趙(ちょう)韙(い)に味方したんだ。劉(りゅう)璋(しょう)は急いで成(せい)都(と)の城へ入って、城を守ったよ。東(とう)州(しゅう)兵(へい)は、はじめは趙(ちょう)韙(い)を恐れていたんだ。でも、心を一つにして力を合わせて、劉(りゅう)璋(しょう)を助けたよ。彼らは命をかけて戦って、こうして反乱した人たちを打ち破ったよ。その後、さらに江(こう)州まで進んで趙(ちょう)韙(い)を攻めたよ。趙(ちょう)韙(い)の将の龐(ほう)楽(がく)と李(り)異(い)は反乱を起こして、趙(ちょう)韙(い)の軍を攻めて、趙(ちょう)韙(い)を討ち取ったよ。

(註3)

漢獻帝春秋曰:漢朝聞益州亂,遣五官中郎將牛亶為益州刺史;徵璋為卿,不至。

『献(けん)帝(てい)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、漢(かん)の朝廷は益(えき)州で反乱が起こったと聞くと、五(ご)官(かん)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)の牛(ぎゅう)亶(たん)を益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)に任命して送ったよ。それに、劉(りゅう)璋(しょう)を卿に任命するために呼び寄せたけど、劉(りゅう)璋(しょう)は応じなかったんだ。

本文

璋聞曹公征荊州,已定漢中,遣河內陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。(註4)璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公,曹公拜肅為廣漢太守。

劉(りゅう)璋(しょう)は、曹(そう)操(そう)が荊(けい)州に軍を進めて、さらに漢(かん)中(ちゅう)を平定したことを知ったんだ。そこで、河(か)内(だい)の出身の陰(いん)溥(ほ)を送って、曹(そう)操(そう)に敬意を表したよ。曹(そう)操(そう)は、劉(りゅう)璋(しょう)に振(しん)威(い)将(しょう)軍(ぐん)、その兄の劉(りゅう)瑁(ぼう)には平(へい)寇(こう)将(しょう)軍(ぐん)の称号を与えたよ。でも、劉(りゅう)瑁(ぼう)は精神の病気になって、その後亡くなったんだ。劉(りゅう)璋(しょう)はふたたび別(べつ)駕(が)従(じゅう)事(じ)で蜀(しょく)郡の出身の張(ちょう)粛(しゅく)を送って、300人の兵とさまざまな贈り物を曹(そう)操(そう)に届けたよ。曹(そう)操(そう)は、その功績を認めて張(ちょう)粛(しゅく)を広(こう)漢(かん)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)に任命したよ。

(註4)

臣松之案:魏臺訪「物故」之義,高堂隆荅曰:「聞之先師:物,無也;故,事也;言無復所能於事也。」

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、魏(ぎ)の尚(しょう)書(しょ)台(だい)が「物故」の意味を尋ねたら、高(こう)堂(どう)隆(りゅう)はこう答えたよ。
「私が先生から教わったところによると、『物』は『ない』という意味で、『故』は『仕事』や『役目』という意味だよ。つまり、『もう仕事や役目を果たすことができなくなった』という意味で、この言葉は『亡くなった』ことを表しているんだ」

本文

璋復遣別駕張松詣曹公,曹公時已定荊州,走先主,不復存錄松,松以此怨。會曹公軍不利於赤壁,兼以疫死。松還,疵毀曹公,勸璋自絕,(註5)因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。

劉(りゅう)璋(しょう)は、ふたたび別(べつ)駕(が)の張(ちょう)松(しょう)を曹(そう)操(そう)のもとへ使者として送ったよ。そのころ曹(そう)操(そう)はすでに荊(けい)州を平定していて、劉(りゅう)備(び)を追い出しちゃった。曹(そう)操(そう)は張(ちょう)松(しょう)を特に大切に扱わないで高く評価もしなかったんだ。張(ちょう)松(しょう)は、このことを恨みに思ったの。
その後、曹(そう)操(そう)の軍は赤(せき)壁(へき)でうまくいかなくて、疫病でたくさんの兵が死んじゃった。
張(ちょう)松(しょう)は益(えき)州に帰ると、曹(そう)操(そう)の悪いところを言って、劉(りゅう)璋(しょう)に曹(そう)操(そう)との関係を断つよう勧めたよ。そして、張(ちょう)松(しょう)は劉(りゅう)璋(しょう)にこう言ったよ。
「劉(りゅう)豫(よ)州(しゅう)(劉(りゅう)備(び))はあなたにとって身内みたいに親しい一族だから、あの人と親しく付き合うべきだよ」
劉(りゅう)璋(しょう)は、この意見がもっともだと思ったよ。そこで、法(ほう)正(せい)を送って劉(りゅう)備(び)と親しい関係を結ばせたんだ。さらに劉(りゅう)璋(しょう)は法(ほう)正(せい)と孟(もう)達(たつ)に数千人の兵を送らせて、劉(りゅう)備(び)の守りを助けさせたよ。そして、法(ほう)正(せい)はそのまま益(えき)州に帰ってきたよ。

(註5)

漢書春秋曰:張松見曹公,曹公方自矜伐,不存錄松。松歸,乃勸璋自絕。習鑿齒曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分,皆勤之於數十年之內而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎!是以君子勞謙日仄,慮以下人,功高而居之以讓,勢尊而守之以卑。情近於物,故雖貴而人不猒其重;德洽羣生,故業廣而天下愈欣其慶。夫然,故能有以富貴,保其功業,隆顯當時,傳福百世,何驕矜之有哉!君子是以知曹操之不能遂兼天下者也。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、張(ちょう)松(しょう)は曹(そう)操(そう)に会ったけど、曹(そう)操(そう)は自分の功績を誇って得意になっていたから、張(ちょう)松(しょう)を大切に扱わなくて、高く評価もしなかったんだ。張(ちょう)松(しょう)は益(えき)州に帰ると、劉(りゅう)璋(しょう)に曹(そう)操(そう)との関係を断つように勧めたよ。
習(しゅう)鑿(さく)歯(し)によると、昔、斉(せい)の桓(かん)公(こう)が、自分の功績を少し誇っただけで、九つの国が背いて離れていったんだ。曹(そう)操(そう)も、しばらく自分の功績を誇って思い上がったから、天下は三つに分かれちゃった。何十年も苦労して築き上げたものを、ほんの短い時間の思い上がりで失ってしまうなんて、惜しいよね!
だから、君子大きな功績を立てても謙虚な心を忘れなくて、いつも自分より下の立場の人のことを思いやるよ。功績が大きくても、それを自慢しないで人にゆずる心を持って、地位が高くても、へりくだった態度を守るの。そのような人は人々の気持ちに寄り添うから、高い地位にあっても、その人を重荷だと思う者はいないよ。それに、その徳はたくさんの人たちに行き渡るから、事業が大きくなればなるほど、人々はその成功をもっと喜ぶの。そうしたら、富や地位を長く保って、その功績を守って、その名声を生きているあいだだけでなくて、子孫の代まで伝えることができるんだ。なのに、どうして思い上がって自慢する必要があるの? だから私は、この出来事を見て、曹(そう)操(そう)は天下をすべて統一できないとわかるんだ。

本文

後松復說璋曰:「今州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋又從之,遣法正請先主。璋主簿黃權陳其利害,從事廣漢王累自倒縣於州門以諫,璋一無所納,勑在所供奉先主,先主入境如歸。先主至江州北,由墊江水(註6)詣涪,(註7)去成都三百六十里,是歲建安十六年也。

その後、張(ちょう)松(しょう)はふたたび劉(りゅう)璋(しょう)に説得してこう言ったよ。
「今、益(えき)州の将たちの龐(ほう)羲(ぎ)や李(り)異(い)たちは、自分たちの功績を頼みにして思い上がって、大きな力を持っているよ。そして、心の中では反乱を起こそうと考えているんだ。もし劉(りゅう)豫(よ)州(しゅう)(劉(りゅう)備(び))を味方にしなければ、外は敵が攻めてきて、内では民が反乱を起こして、きっと負けちゃうよ」
劉(りゅう)璋(しょう)は、この意見にも従ったよ。そこで、法(ほう)正(せい)を使者として送って、劉(りゅう)備(び)を益(えき)州に招いたんだ。
でも、劉(りゅう)璋(しょう)の主(しゅ)簿(ぼ)の黄(こう)権(けん)は、その利益と危険の両方を詳しく説明して反対したよ。それに、従(じゅう)事(じ)で広(こう)漢(かん)の出身の王(おう)累(るい)は、州の役所の門で自分の体を縄でつるして、命がけで劉(りゅう)璋(しょう)をいさめたんだ。それでも、劉(りゅう)璋(しょう)は二人の意見をまったく聞き入れないで、各地の役人に命令して、劉(りゅう)備(び)を手厚くもてなすように命令したよ。
劉(りゅう)備(び)は益(えき)州に入ると、まるで自分の家へ帰ってきたみたいに歓迎されたよ。劉(りゅう)備(び)は江(こう)州の北から墊(てん)江(こう)をさかのぼって涪(ふ)に向かったよ。そこは成(せい)都(と)から360里も離れた場所なんだ。この年は建(けん)安(あん)十六年(211年)だよ。

(註6)

墊音徒協反。

墊の発音は徒協の反切だよ。

(註7)

音浮。

涪の発音は浮だよ。

本文

璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光耀日,往就與會;先主所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋資給先主,使討張魯,然後分別。(註8)

劉(りゅう)璋(しょう)は歩兵と騎兵あわせて3万人以上を率いて出迎えたよ。それに、たくさんの車や幕を整えて、その美しい飾りは太陽の光に輝いていたの。劉(りゅう)璋(しょう)は自ら劉(りゅう)備(び)のもとに行って会ったよ。劉(りゅう)備(び)の将や兵たちも、劉(りゅう)璋(しょう)の部下たちも、お互いに親しく付き合って、一緒に酒を飲んで楽しんだよ。この宴は100日以上も続いたんだ。その後、劉(りゅう)璋(しょう)は劉(りゅう)備(び)に、張(ちょう)魯(ろ)を討つための食料や物資を与えたよ。そして二人は別れて、それぞれの目的地へ向かったんだ。

(註9)

吳書曰:璋以米二十萬斛,騎千匹,車千乘,繒絮錦帛,以資送劉備。

『呉(ご)書(しょ)』によると、劉(りゅう)璋(しょう)は劉(りゅう)備(び)に、米を2万石、騎馬1,000頭、車両1,000乗、絹織物などたくさんの物資を贈ったよ。

成都開城

本文

明年,先主至葭萌,還兵南向,所在皆克。十九年,進圍成都數十日,城中尚有精兵三萬人,穀帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城出降,羣下莫不流涕。

翌年、劉(りゅう)備(び)は葭(か)萌(ぼう)に着いて、軍を引き返して南へ向かって、どこへ行っても勝ったよ。
建(けん)安(あん)十九年(214年)、劉(りゅう)備(び)は成(せい)都(と)を包囲して、数十日も攻めたよ。城の中には、まだ3万人の精鋭の兵がいて、穀物と絹織物も1年は持ちこたえられるくらい残っていたんだ。役人や民も、最後まで戦おうと考えていたよ。でも、劉(りゅう)璋(しょう)はこう言ったよ。
「私たち父と子は、この益(えき)州を治めて20年以上になるよ。でも、私は民に十分な恩や徳を与えられなかったんだ。民はこの3年間ずっと戦いに耐えて、たくさんの人が野原で命を落としたんだ。これは私のせいだよ。これ以上、人々を苦しませておいて、どうして私だけが心安らかにいられるの?」
そう言って、劉(りゅう)璋(しょう)は城の門を開いて、自ら降伏したよ。この様子を見た臣下たちは、みんな涙を流したの。

本文

先主遷璋于南郡公安,盡歸其財物、故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。權復以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為御史中丞。(註9)

劉(りゅう)備(び)は、劉(りゅう)璋(しょう)を南(なん)郡の公(こう)安(あん)に移らせたよ。そして、劉(りゅう)璋(しょう)の財産をすべて返して、これまでどおり振(しん)威(い)将(しょう)軍(ぐん)の印綬も持つことを許したよ。
その後、孫(そん)権(けん)は関(かん)羽(う)を殺して、荊(けい)州を手に入れたんだ。孫(そん)権(けん)は劉(りゅう)璋(しょう)を益(えき)州(しゅう)牧(ぼく)に任命して、秭(し)帰(き)にとどまらせたよ。
劉(りゅう)璋(しょう)は亡くなったんだ。その後、南(なん)中(ちゅう)の有力者の雍(よう)闓(がい)は、益(えき)郡をおさえて反乱を起こして、呉(ご)に従ったよ。そこで孫(そん)権(けん)は、劉(りゅう)璋(しょう)の子の劉(りゅう)闡(せん)を益(えき)州(しゅう)刺(し)史(し)に任命して、交(こう)州と益(えき)州の境にとどまらせたよ。
その後、丞(じょう)相(しょう)の諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)が南(なん)中(ちゅう)を平定すると、劉(りゅう)闡(せん)は呉(ご)へ帰って、御(ぎょ)史(し)中(ちゅう)丞(じょう)となったんだ。

(註9)

吳書云闡一名緯,為人恭恪,輕財愛義,有仁讓之風,後疾終於家。

『呉(ご)書(しょ)』によると、劉(りゅう)闡(せん)は、もう一つの名は劉(りゅう)緯(い)だよ。劉(りゅう)闡(せん)は礼儀正しくて、まじめな人だよ。それに、金にこだわらないで義を大切にして、仁があって自分よりも人を立てる立派な人柄だよ。でも、病気になって、自宅で亡くなったんだ。

本文

初,璋長子循妻,龐羲女也。先主定蜀,羲為左將軍司馬,璋時從羲啟留循,先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後,分在吳、蜀。

もともと、劉(りゅう)璋(しょう)の長子の劉(りゅう)循(じゅん)の妻は、龐(ほう)羲(ぎ)の娘だよ。劉(りゅう)備(び)が蜀(しょく)を平定すると、、龐(ほう)羲(ぎ)は左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)になったよ。そのころ、劉(りゅう)璋(しょう)は龐(ほう)羲(ぎ)を通じて、劉(りゅう)循(じゅん)を蜀(しょく)に残してほしいと願い出たんだ。劉(りゅう)備(び)は、その願いを受け入れて、劉(りゅう)循(じゅん)を奉(ほう)車(しゃ)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)に任命したよ。
こうして、劉(りゅう)璋(しょう)の二人の子の家系は、一方は呉(ご)に、もう一方は蜀(しょく)に残ったんだ。

陳寿の評

本文

評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姬於室,(註10)劉歆見圖讖之文則名字改易,終於不免其身,而慶鍾二主。此則神明不可虛要,天命不可妄兾,必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土,聽相者之言則求婚吳氏,遽造輿服,圖竊神器,其惑甚矣。璋才非人雄,而據土亂世,負乘致寇,自然之理,其見奪取,非不幸也。(註11)

評すると、昔、魏(ぎ)豹(ひょう)は許(きょ)負(ふ)「薄(はく)姫(き)は将来、天子を生む」と言ったことを聞いて、薄(はく)姫(き)を妻として迎えたよ。それに、劉(りゅう)歆(きん)は図(と)讖(しん)(予言書)を見て自分の名前と字(あざな)を変えたよ。でも、二人とも自分自身の運命を変えられなくて、悲しい結末を迎えてしまったんだ。一方、そのおかげで二人の天子が生まれることになったよ。このことからわかるけど、天命を自分の都合のよいように利用できないし、天命を自分の願いだけで変えられると思ってはいけないよね。これらは、すべてはっきりしているよ。
なのに、劉(りゅう)焉(えん)は董(とう)扶(ふ)の言葉を聞くと、益(えき)州を自分のものにしたいという気持ちを抱いたんだ。さらに、人相を見る者の言葉を信じて呉(ご)氏(し)の娘と結婚して、急いで天子だけが使う乗り物や服を作らせて、皇帝の位を奪おうとしたんだ。その思い込みは、あまりにもひどいよね。
劉(りゅう)璋(しょう)は、英雄と呼べるほどの才能を持っていたわけではないよ。なのに、乱世に広い土地を支配したから、その立場がかえって敵を招くことになったんだ。これは当然で、その土地を奪われたのも、不運だったからではないよ。

魏(ぎ)豹(ひょう)と許(きょ)負(ふ)の話は、『史(し)記(き)』「外(がい)戚(せき)世(せい)家(か)」を見てね。

(註10)

孔衍漢魏春秋曰:許負,河內溫縣之婦人,漢高祖封為明雌亭侯。

孔(こう)衍(えん)の『漢(かん)魏(ぎ)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、許(きょ)負(ふ)は、河(か)内(だい)郡温(おん)県の女性で、漢(かん)の高(こう)祖(そ)(劉(りゅう)邦(ほう))は、許(きょ)負(ふ)を明(めい)雌(し)亭(てい)侯(こう)に封じたよ。

(註10)

臣松之以為今東人呼母為負,衍以許負為婦人,如為有似,然漢高祖時封皆列侯,未有鄉亭之爵,疑此封為不然。

裴(はい)松(しょう)之(し)はこう考えるよ。今の東の人たちは母を「負」と呼ぶことがあるんだって。だから、孔(こう)衍(えん)が許(きょ)負(ふ)を女性だと思ったのには、それなりの理由があるんだね。でも、漢(かん)の高(こう)祖(そ)(劉(りゅう)邦(ほう))の時代に与えられた爵位は、すべて列(れっ)侯(こう)だよ。郷(きょう)侯(こう)や亭(てい)侯(こう)の爵位はなかったんだ。だから、「明(めい)雌(し)亭(てい)侯(こう)に封じた」という記述は、正しくないのではないかと思われるね。

(註11)

張璠曰:劉璋愚弱而守善言,斯亦宋襄公、徐偃王之徒,未為無道之主也。張松、法正,雖有君臣之義不正,然固已委名附質,進不顯陳事勢,若韓嵩、劉先之說劉表,退不告絕奔亡,若陳平、韓信之去項羽,而兩端攜貳,為謀不忠,罪之次也。

張(ちょう)璠(はん)によると、劉(りゅう)璋(しょう)は愚かで気が弱いところはあったけど、人のよい意見を素直に聞く人だよ。宋(そう)の襄(じょう)公(こう)や徐(じょ)偃(えん)王(おう)みたいな、すぐれた君主ではなかったけど、悪い政治をする暴君でもなかったよ。
張(ちょう)松(しょう)や法(ほう)正(せい)は、君主と臣下という立場なのに、その道を正しく守らなかったんだ。彼らはすでに劉(りゅう)璋(しょう)に仕えていたのだから、その身も名も劉(りゅう)璋(しょう)に預けていたはず。なのに、韓(かん)嵩(すう)や劉(りゅう)先(せん)が劉(りゅう)表(ひょう)にしたように、国の状況やこれからどうすべきかを正面からはっきりと進言しなかったんだ。それに、陳(ちん)平(ぺい)や韓(かん)信(しん)が項(こう)羽(う)のもとを去るときみたいに、きちんと伝えて立ち去ることもしなかったんだ。
その代わり、二つの立場のあいだで心を揺らしながら、こっそりと別の主人のために計画を立てたよ。このような行いは、臣下として忠を欠いていて、その罪は決して軽いものではないよね。

どうして蜀書の1巻目が劉(りゅう)備(び)さんではなく劉(りゅう)焉(えん)さんと劉(りゅう)璋(しょう)さんなのかな? 劉(りゅう)備(び)さんが来る前振りとして益(えき)州の状況を説明して、劉(りゅう)備(び)さんの正統性を強調するためかな?

「蜀書劉璋伝」は以上だよ!