はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「劉璋伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉璋 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 蜀書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
張魯を倒したい
璋,字季玉,旣襲焉位,而張魯稍驕恣,不承順璋,璋殺魯母及弟,遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯,數為所破。魯部曲多在巴西,故以羲為巴西太守,領兵禦魯。(註1)
劉璋は、字は季玉だよ。劉焉の地位を継いだけど、張魯はちょっと高慢で自己中心的だったから、劉璋を受け入れなかったよ。劉璋は張魯の母と弟を殺してから敵対しちゃったの。劉璋は何度も龐羲たちに張魯を攻めさせたけど、何度も破られちゃったんだ。張魯のたくさんの部下が巴西にいたから、龐羲を巴西太守(郡の長官)にして、張魯に対抗させたんだ。
英雄記曰:龐羲與璋有舊,又免璋諸子於難,故璋厚德羲,以羲為巴西太守,遂專權勢。
『英雄記』によると、龐羲と劉璋は昔からの付き合いがあって、それに、龐羲は劉璋の子供たちが困った時に助けてあげたことがあるんだって。だから、劉璋は龐羲に対して厚い恩義を持っていて、彼を巴西太守(郡の長官)にすることにしたんだ。結果的に独占的な権力を持つようになったよ。
後羲與璋情好攜隙,趙韙稱兵內向,衆散見殺,皆由璋明斷少而外言入故也。(註2)(註3)
後になって、龐羲と劉璋の仲が悪くなっちゃった。趙韙が兵を呼び寄せて内に向かったけど、彼らの軍勢は散り散りになっちゃって、何人かは殺されちゃった。この混乱は、劉璋が部下たちに対して明確な指示が少なくて、外からうわさが入り込むことから起こったものだったんだ。
英雄記曰:先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。趙韙素得人心,璋委任之。
『英雄記』によると、これより前に、南陽や三輔の人たちが数万家も益州に移って来たんだ。彼らを兵として「東州兵」と呼んだよ。でも、劉璋の性格は穏やかで、威厳や策略に欠けていたんだ。だから、東州の人たちが元々の住民に対して侵害や暴力をしたけど、劉璋はそれを止められなくて、政令もよく欠けていたんだ。その結果、益州の人たちは彼に対して不満を抱くようになったんだ。趙韙は以前から民心を得ていて、劉璋は彼に任せていたんだ。
漢獻帝春秋曰:漢朝聞益州亂,遣五官中郎將牛亶為益州刺史;徵璋為卿,不至。
『献帝春秋』によると、漢の朝廷は益州が乱れていると聞くと、五官中郎将の牛亶を益州刺史(州の長官)として送ったよ。劉璋を呼んで卿に任命するように命令したけど、劉璋は応じなかったんだ。
璋聞曹公征荊州,已定漢中,遣河內陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。(註4)璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公,曹公拜肅為廣漢太守。
劉璋は、曹操が荊州を征服して、すでに漢中を平定したと聞いて、河内の出身の陰溥を送って、曹操に敬意を表したよ。劉璋自身は振威将軍に任命されて、兄の劉瑁は平寇将軍に任命されたよ。でも、劉瑁は狂病によって亡くなったんだ。
劉璋はふたたび別駕従事で蜀郡の出身の張粛を送って、兵士300人と様々な贈り物を曹操に贈ったよ。曹操は張粛を広漢太守(郡の長官)に任命してくれたよ。
臣松之案:魏臺訪「物故」之義,高堂隆荅曰:「聞之先師:物,無也;故,事也;言無復所能於事也。」
裴松之が調べたところ、魏の尚書台が「物故」の意味を質問したら、高堂隆はこう答えたよ。
「先師から聞いたところでは、『物』は無を意味して、『故』は事を表しているんだよ。もはやその事に関わることができないということだよ」
璋復遣別駕張松詣曹公,曹公時已定荊州,走先主,不復存錄松,松以此怨。會曹公軍不利於赤壁,兼以疫死。松還,疵毀曹公,勸璋自絕,(註5)因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。
劉璋はふたたび別駕の張松を送ったけど、張松が曹操のところに行ったときには曹操はすでに荊州を支配していて、劉備を追い出しちゃった。張松は曹操に重用されなかったから、このことに怨みを抱いたよ。
その後、曹操の軍が赤壁で苦戦して、疫病でたくさんの兵が死んじゃった。張松は益州に戻ってきて、曹操を批判して、劉璋に自分から関係を断つように勧めたよ。そして、劉璋にこう話したんだ。
「劉豫州(劉備)はあなたの血縁にある人だから、彼と交流するべきだよ」
劉璋はこれに同意して、法正を送って劉備と友好関係を結んだよ。さらに法正と孟達に数千人の兵を送らせて、劉備の守備を助けさせたよ。その後、法正は帰ったよ。
漢書春秋曰:張松見曹公,曹公方自矜伐,不存錄松。松歸,乃勸璋自絕。習鑿齒曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分,皆勤之於數十年之內而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎!是以君子勞謙日仄,慮以下人,功高而居之以讓,勢尊而守之以卑。情近於物,故雖貴而人不猒其重;德洽羣生,故業廣而天下愈欣其慶。夫然,故能有以富貴,保其功業,隆顯當時,傳福百世,何驕矜之有哉!君子是以知曹操之不能遂兼天下者也。
『漢晋春秋』によると、張松は曹操に会ったけど、曹操は自分の功績を自慢していて、張松を重視しなかったんだ。それで、張松は帰ってきて、劉璋に交流を断つよう勧めたんだって。
習鑿歯によると、昔、斉の桓公は一度功績を自慢して九つの国が反逆しちゃったんだ。曹操も一度自慢して天下を三分したよ。数十年間に勤勉してその地位を築き上げたけど、たったの一瞬で捨てちゃったんだ。それって後悔しないのかな? だから、君子は謙虚で、自分をあまり大きく見せないようにして、他の人たちのことを大切に思うんだよ。すごい功績があっても地位を譲って、権勢が高まっても謙虚さを持ち続けているんだ。情は物に近くて、どんなに高貴でも人はその重さを妬むことはないんだよ。徳は、みんなに届くんだよ。その業績が広がるほど、天下はますますその祝福を喜ぶよ。そうしたら、お金も名声も手に入って、功業を守って、その存在が隆盛して、幸福を後世にも伝えることができるんだよ。だから、どうしてわざわざ傲慢になる必要があるの? 君子はそう考えて、曹操が天下を統一できなかった理由を理解したよ。
後松復說璋曰:「今州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋又從之,遣法正請先主。璋主簿黃權陳其利害,從事廣漢王累自倒縣於州門以諫,璋一無所納,勑在所供奉先主,先主入境如歸。先主至江州北,由墊江水(註6)詣涪,(註7)去成都三百六十里,是歲建安十六年也。
その後、張松はふたたび劉璋にこう進言したよ。
「今、州内の将たちの龐羲や李異たちはみんな、自分の功績を誇って、傲慢になっているんだ。もし劉備を手に入れなければ、外は敵が攻めてきて、内では民が反乱を起こして、きっと負けちゃうよ」
劉璋はふたたび従って、法正に劉備を招かせたよ。でも、劉璋の主簿の黄権は、その利害を説いて反対したの。従事で広漢の出身の王累は、州門で立って止めて諫めたんだけど、劉璋は全然聞く耳を持たなくて、劉備を招き入れるように命令したんだ。
劉備は国に帰るかのように領地に入ったよ。劉備は江州の北に着いた後、墊江を渡って涪に向かって、成都からは360里も離れた場所に着いたよ。この年は建安16年(211年)だよ。
墊音徒協反。
「墊」の発音は「徒協」の反切だよ。
音浮。
「涪」の発音は「浮」だよ。
璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光耀日,往就與會;先主所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋資給先主,使討張魯,然後分別。
劉璋は歩兵と騎兵を3万人以上率いて、車や帳幕を整えて、立派な軍を組んで劉備のもとへやってきたよ。劉備の将や兵たちはお互いに交流して、100日以上も楽しく飲み交わしていたんだ。劉璋は劉備に兵糧を渡して、張魯を討伐させた後に別れたよ。
吳書曰:璋以米二十萬斛,騎千匹,車千乘,繒絮錦帛,以資送劉備。
『呉書』によると、劉璋は2万石の米、騎馬1,000頭、車両1,000乗、絹織物を劉備に提供したよ。
成都開城
明年,先主至葭萌,還兵南向,所在皆克。十九年,進圍成都數十日,城中尚有精兵三萬人,穀帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城出降,羣下莫不流涕。
翌年、劉備は葭萌に着いて、兵を南に向けて進軍して、どこへ行っても勝ちを収めたよ。その後、建安19年(214年)、成都を包囲して、数十日間にわたって攻めたよ。城内にはまだ3万の精鋭兵がいて、穀物と布帛が1年分残っていたよ。役人や民はみんな死闘を望んでいたんだ。
でも、劉璋はこう言ったよ。
「父と子で州に20年以上も在任していたけど、民には恩徳を与えることがなかったんだ。民は3年間も戦いに耐えて、草原が血に覆われたのは、すべて私の責任だよ。だから、どうして心が楽になれるの?」
そして、彼は城門を開いて出てきて、降伏したよ。彼の部下たちは涙を流さずにはいられなかったんだって。
先主遷璋于南郡公安,盡歸其財物、故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。權復以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為御史中丞。(註9)
劉備は劉璋を南郡の公安に移して、彼の財産と元々持っていた振威将軍の印綬をすべて返したよ。
孫権は関羽を殺して、荊州を占領して、劉璋を益州牧に任命して秭帰に駐留させたよ。劉璋が亡くなった後、南中の豪族たちは雍闓を中心に益州を反乱させて、呉についたよ。孫権はふたたび劉璋の子の劉闡を益州刺史(州の長官)に任命したよ。その領地は交州と益州の境界にあったんだ。諸葛亮が南方の土地を平定した後、雍闓は呉に帰って、御史中丞として仕えたよ。
吳書云闡一名緯,為人恭恪,輕財愛義,有仁讓之風,後疾終於家。
『呉書』によると、劉闡の別名は劉緯だよ。彼は恭敬で誠実な人だったんだって。彼は金銭を軽んじて義を重んじて、仁と寛大な気風を持っていたんだよ。でも、後に病に倒れて家で生涯を閉じたよ。
初,璋長子循妻,龐羲女也。先主定蜀,羲為左將軍司馬,璋時從羲啟留循,先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後,分在吳、蜀。
劉璋の長子の劉循は、龐羲の娘と結婚したよ。劉備が蜀を平定したとき、龐羲は左将軍司馬に任命されたよ。劉璋は龐羲に従って、劉循を成都に留めたから、劉備は彼を奉車中郎将に任命したよ。劉璋の2人の子供たちの後継者は、呉と蜀に分けて配置されたよ。
陳寿の評価
評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姬於室,(註10)劉歆見圖讖之文則名字改易,終於不免其身,而慶鍾二主。此則神明不可虛要,天命不可妄兾,必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土,聽相者之言則求婚吳氏,遽造輿服,圖竊神器,其惑甚矣。璋才非人雄,而據土亂世,負乘致寇,自然之理,其見奪取,非不幸也。(註11)
評すると、昔、魏豹は許負の言葉を聞いて、薄姫を妻として迎えたよ。劉歆は占いの文書を見て名前を変えたけど、最終的には不幸から身を免れることができなくて、2人とも悲しい結末を迎えてしまったよ。これは神明の意志を軽んじることはできないし、天命を無視することはできないから、必然の結果と言えるよ。
劉焉は董扶の言葉を聞いたらますます領土を広げたくなっちゃったの。相談者の言葉を聞くと、呉氏との結婚を求めて、急いで外交を行って、車と衣冠を急いで作って、帝位を盗む計画を立てたよ。彼の混乱はすごく深刻だったよ。
劉璋の能力は人を驚かせるほどのものではなかったよ。乱世に土地を占拠して侵略されたのは自然の道理だから、彼が敗れて奪われるのは不運ではないと言えるよ。
魏豹と許負の話は、『史記』「外戚世家」を見てね。
孔衍漢魏春秋曰:許負,河內溫縣之婦人,漢高祖封為明雌亭侯。
孔衍の『漢魏春秋』によると、許負は、河内郡温県の女性で、漢の高祖(劉邦)によって明雌亭侯に封ぜられたんだって。
臣松之以為今東人呼母為負,衍以許負為婦人,如為有似,然漢高祖時封皆列侯,未有鄉亭之爵,疑此封為不然。
裴松之の見解によると、今の東方の人たちは母を「負」と呼ぶから、孔衍は許負を女性だと思ったみたい。でも、漢の高祖(劉邦)の時代にみんなを列侯に封じた時、郷亭の爵位がなかったの。だから、この封爵には疑問が残るよ。
張璠曰:劉璋愚弱而守善言,斯亦宋襄公、徐偃王之徒,未為無道之主也。張松、法正,雖有君臣之義不正,然固已委名附質,進不顯陳事勢,若韓嵩、劉先之說劉表,退不告絕奔亡,若陳平、韓信之去項羽,而兩端攜貳,為謀不忠,罪之次也。
張璠によると、劉璋は愚かなところもあったけど、善い言葉を守ることが得意で、宋の襄公や徐偃王みたいに、決して悪い主君ではなかったよ。張松と法正は、主君と臣下の義において正しくないよ。彼らは臣下として名のある立場なのに、主君に対して率直に問題を挙げなかったんだ。これは、韓嵩や劉先が劉表に忠告したみたいに進んで事勢を明らかにしないで、陳平や韓信みたいに項羽のもとを去ることを告げないで逃亡して、両端に取り入って裏切る行為は、忠でない策略の一例だよ。このような行動は忠に背いていて、罪に当たるよね。
どうして蜀書の 1 巻目が劉備さんではなく劉焉さんと劉璋さんなのかな? 劉備さんが来る前振りとして益州の状況を説明して、劉備さんの正統性を強調するためかな?
劉璋伝は以上だよ!