正史『三国志』蜀書劉璋伝をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』蜀書劉璋伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「劉璋伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(りゅう)(しょう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 蜀書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
www.amazon.co.jp
正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

張魯を倒したい

本文

璋,字季玉,旣襲焉位,而張魯稍驕恣,不承順璋,璋殺魯母及弟,遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯,數為所破。魯部曲多在巴西,故以羲為巴西太守,領兵禦魯。(註1)

(りゅう)(しょう)は、(あざな)()(ぎょく)だよ。(りゅう)(えい)の地位を継いだけど、(ちょう)()はちょっと高慢で自己中心的だったから、(りゅう)(しょう)を受け入れなかったよ。(りゅう)(しょう)(ちょう)()の母と弟を殺してから敵対しちゃったの。(りゅう)(しょう)は何度も(ほう)()たちに(ちょう)()を攻めさせたけど、何度も破られちゃったんだ。(ちょう)()のたくさんの部下が()西(せい)にいたから、(ほう)()()西(せい)(たい)(しゅ)(郡の長官)にして、(ちょう)()に対抗させたんだ。

(註1)

英雄記曰:龐羲與璋有舊,又免璋諸子於難,故璋厚德羲,以羲為巴西太守,遂專權勢。

(えい)(ゆう)()』によると、(ほう)()(りゅう)(しょう)は昔からの付き合いがあって、それに、(ほう)()(りゅう)(しょう)の子供たちが困った時に助けてあげたことがあるんだって。だから、(りゅう)(しょう)(ほう)()に対して厚い恩義を持っていて、彼を()西(せい)(たい)(しゅ)(郡の長官)にすることにしたんだ。結果的に独占的な権力を持つようになったよ。

本文

後羲與璋情好攜隙,趙韙稱兵內向,衆散見殺,皆由璋明斷少而外言入故也。(註2)(註3)

後になって、(ほう)()(りゅう)(しょう)の仲が悪くなっちゃった。(ちょう)()が兵を呼び寄せて内に向かったけど、彼らの軍勢は散り散りになっちゃって、何人かは殺されちゃった。この混乱は、(りゅう)(しょう)が部下たちに対して明確な指示が少なくて、外からうわさが入り込むことから起こったものだったんだ。

(註2)

英雄記曰:先是,南陽、三輔人流入益州數萬家,收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。趙韙素得人心,璋委任之。

(えい)(ゆう)()』によると、これより前に、(なん)(よう)(さん)()の人たちが数万家も(えき)州に移って来たんだ。彼らを兵として「東州兵」と呼んだよ。でも、(りゅう)(しょう)の性格は穏やかで、威厳や策略に欠けていたんだ。だから、東州の人たちが元々の住民に対して侵害や暴力をしたけど、(りゅう)(しょう)はそれを止められなくて、政令もよく欠けていたんだ。その結果、(えき)州の人たちは彼に対して不満を抱くようになったんだ。(ちょう)()は以前から民心を得ていて、(りゅう)(しょう)は彼に任せていたんだ。

(註3)

漢獻帝春秋曰:漢朝聞益州亂,遣五官中郎將牛亶為益州刺史;徵璋為卿,不至。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(かん)の朝廷は(えき)州が乱れていると聞くと、()(かん)(ちゅう)(ろう)(しょう)(ぎゅう)(たん)(えき)(しゅう)()()(州の長官)として送ったよ。(りゅう)(しょう)を呼んで卿に任命するように命令したけど、(りゅう)(しょう)は応じなかったんだ。

本文

璋聞曹公征荊州,已定漢中,遣河內陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。(註4)璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公,曹公拜肅為廣漢太守。

(りゅう)(しょう)は、(そう)(そう)(けい)州を征服して、すでに(かん)(ちゅう)を平定したと聞いて、河内(かだい)の出身の(いん)()を送って、(そう)(そう)に敬意を表したよ。(りゅう)(しょう)自身は(しん)()(しょう)(ぐん)に任命されて、兄の(りゅう)(ぼう)(へい)(こう)(しょう)(ぐん)に任命されたよ。でも、(りゅう)(ぼう)は狂病によって亡くなったんだ。
(りゅう)(しょう)はふたたび(べつ)()(じゅう)()(しょく)郡の出身の(ちょう)(しゅく)を送って、兵士300人と様々な贈り物を(そう)(そう)に贈ったよ。(そう)(そう)(ちょう)(しゅく)(こう)(かん)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命してくれたよ。

(註4)

臣松之案:魏臺訪「物故」之義,高堂隆荅曰:「聞之先師:物,無也;故,事也;言無復所能於事也。」

(はい)(しょう)()が調べたところ、()(しょう)(しょ)(だい)が「物故」の意味を質問したら、(こう)(どう)(りゅう)はこう答えたよ。
「先師から聞いたところでは、『物』は無を意味して、『故』は事を表しているんだよ。もはやその事に関わることができないということだよ」

本文

璋復遣別駕張松詣曹公,曹公時已定荊州,走先主,不復存錄松,松以此怨。會曹公軍不利於赤壁,兼以疫死。松還,疵毀曹公,勸璋自絕,(註5)因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。

(りゅう)(しょう)はふたたび(べつ)()(ちょう)(しょう)を送ったけど、(ちょう)(しょう)(そう)(そう)のところに行ったときには(そう)(そう)はすでに(けい)州を支配していて、(りゅう)()を追い出しちゃった。(ちょう)(しょう)(そう)(そう)に重用されなかったから、このことに怨みを抱いたよ。
その後、(そう)(そう)の軍が(せき)(へき)で苦戦して、疫病でたくさんの兵が死んじゃった。(ちょう)(しょう)(えき)州に戻ってきて、(そう)(そう)を批判して、(りゅう)(しょう)に自分から関係を断つように勧めたよ。そして、(りゅう)(しょう)にこう話したんだ。
「劉豫州((りゅう)())はあなたの血縁にある人だから、彼と交流するべきだよ」
(りゅう)(しょう)はこれに同意して、(ほう)(せい)を送って(りゅう)()と友好関係を結んだよ。さらに(ほう)(せい)(もう)(たつ)に数千人の兵を送らせて、(りゅう)()の守備を助けさせたよ。その後、(ほう)(せい)は帰ったよ。

(註5)

漢書春秋曰:張松見曹公,曹公方自矜伐,不存錄松。松歸,乃勸璋自絕。習鑿齒曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分,皆勤之於數十年之內而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎!是以君子勞謙日仄,慮以下人,功高而居之以讓,勢尊而守之以卑。情近於物,故雖貴而人不猒其重;德洽羣生,故業廣而天下愈欣其慶。夫然,故能有以富貴,保其功業,隆顯當時,傳福百世,何驕矜之有哉!君子是以知曹操之不能遂兼天下者也。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(ちょう)(しょう)(そう)(そう)に会ったけど、(そう)(そう)は自分の功績を自慢していて、(ちょう)(しょう)を重視しなかったんだ。それで、(ちょう)(しょう)は帰ってきて、(りゅう)(しょう)に交流を断つよう勧めたんだって。
(しゅう)(さく)()によると、昔、(せい)(かん)(こう)は一度功績を自慢して九つの国が反逆しちゃったんだ。(そう)(そう)も一度自慢して天下を三分したよ。数十年間に勤勉してその地位を築き上げたけど、たったの一瞬で捨てちゃったんだ。それって後悔しないのかな? だから、君子は謙虚で、自分をあまり大きく見せないようにして、他の人たちのことを大切に思うんだよ。すごい功績があっても地位を譲って、権勢が高まっても謙虚さを持ち続けているんだ。情は物に近くて、どんなに高貴でも人はその重さを妬むことはないんだよ。徳は、みんなに届くんだよ。その業績が広がるほど、天下はますますその祝福を喜ぶよ。そうしたら、お金も名声も手に入って、功業を守って、その存在が隆盛して、幸福を後世にも伝えることができるんだよ。だから、どうしてわざわざ傲慢になる必要があるの? 君子はそう考えて、(そう)(そう)が天下を統一できなかった理由を理解したよ。

本文

後松復說璋曰:「今州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋又從之,遣法正請先主。璋主簿黃權陳其利害,從事廣漢王累自倒縣於州門以諫,璋一無所納,勑在所供奉先主,先主入境如歸。先主至江州北,由墊江水(註6)詣涪,(註7)去成都三百六十里,是歲建安十六年也。

その後、(ちょう)(しょう)はふたたび(りゅう)(しょう)にこう進言したよ。
「今、州内の将たちの(ほう)()()()たちはみんな、自分の功績を誇って、傲慢になっているんだ。もし(りゅう)()を手に入れなければ、外は敵が攻めてきて、内では民が反乱を起こして、きっと負けちゃうよ」
(りゅう)(しょう)はふたたび従って、(ほう)(せい)(りゅう)()を招かせたよ。でも、(りゅう)(しょう)(しゅ)簿()(こう)(けん)は、その利害を説いて反対したの。(じゅう)()(こう)(かん)の出身の(おう)(るい)は、州門で立って止めて諫めたんだけど、(りゅう)(しょう)は全然聞く耳を持たなくて、(りゅう)()を招き入れるように命令したんだ。
(りゅう)()は国に帰るかのように領地に入ったよ。(りゅう)()(こう)州の北に着いた後、(てん)(こう)を渡って(ふう)に向かって、(せい)()からは360里も離れた場所に着いたよ。この年は(けん)(あん)16年(211年)だよ。

(註6)

墊音徒協反。

「墊」の発音は「徒協」の反切だよ。

(註7)

音浮。

「涪」の発音は「浮」だよ。

本文

璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光耀日,往就與會;先主所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋資給先主,使討張魯,然後分別。

(りゅう)(しょう)は歩兵と騎兵を3万人以上率いて、車や帳幕を整えて、立派な軍を組んで(りゅう)()のもとへやってきたよ。(りゅう)()の将や兵たちはお互いに交流して、100日以上も楽しく飲み交わしていたんだ。(りゅう)(しょう)(りゅう)()に兵糧を渡して、(ちょう)()を討伐させた後に別れたよ。

(註9)

吳書曰:璋以米二十萬斛,騎千匹,車千乘,繒絮錦帛,以資送劉備。

()(しょ)』によると、(りゅう)(しょう)は2万石の米、騎馬1,000頭、車両1,000乗、絹織物を(りゅう)()に提供したよ。

成都開城

本文

明年,先主至葭萌,還兵南向,所在皆克。十九年,進圍成都數十日,城中尚有精兵三萬人,穀帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城出降,羣下莫不流涕。

翌年、(りゅう)()()(ぼう)に着いて、兵を南に向けて進軍して、どこへ行っても勝ちを収めたよ。その後、建安19年(214年)、(せい)()を包囲して、数十日間にわたって攻めたよ。城内にはまだ3万の精鋭兵がいて、穀物と布帛が1年分残っていたよ。役人や民はみんな死闘を望んでいたんだ。
でも、(りゅう)(しょう)はこう言ったよ。
「父と子で州に20年以上も在任していたけど、民には恩徳を与えることがなかったんだ。民は3年間も戦いに耐えて、草原が血に覆われたのは、すべて私の責任だよ。だから、どうして心が楽になれるの?」
そして、彼は城門を開いて出てきて、降伏したよ。彼の部下たちは涙を流さずにはいられなかったんだって。

本文

先主遷璋于南郡公安,盡歸其財物、故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。權復以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為御史中丞。(註9)

(りゅう)()(りゅう)(しょう)(なん)郡の(こう)(あん)に移して、彼の財産と元々持っていた(しん)()(しょう)(ぐん)の印綬をすべて返したよ。
(そん)(けん)(かん)()を殺して、(けい)州を占領して、(りゅう)(しょう)(えき)(しゅう)(ぼく)に任命して()()に駐留させたよ。(りゅう)(しょう)が亡くなった後、南中の豪族たちは(よう)(がい)を中心に(えき)州を反乱させて、呉についたよ。(そん)(けん)はふたたび(りゅう)(しょう)の子の(りゅう)(せん)(えき)(しゅう)()()(州の長官)に任命したよ。その領地は(こう)州と(えき)州の境界にあったんだ。(しょ)(かつ)(りょう)が南方の土地を平定した後、(よう)(がい)は呉に帰って、(ぎょ)()(ちゅう)(じょう)として仕えたよ。

(註9)

吳書云闡一名緯,為人恭恪,輕財愛義,有仁讓之風,後疾終於家。

()(しょ)』によると、(りゅう)(せん)の別名は(りゅう)()だよ。彼は恭敬で誠実な人だったんだって。彼は金銭を軽んじて義を重んじて、仁と寛大な気風を持っていたんだよ。でも、後に病に倒れて家で生涯を閉じたよ。

本文

初,璋長子循妻,龐羲女也。先主定蜀,羲為左將軍司馬,璋時從羲啟留循,先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後,分在吳、蜀。

(りゅう)(しょう)の長子の(りゅう)(じゅん)は、(ほう)()の娘と結婚したよ。(りゅう)()が蜀を平定したとき、(ほう)()()(しょう)(ぐん)()()に任命されたよ。(りゅう)(しょう)(ほう)()に従って、(りゅう)(じゅん)(せい)()に留めたから、(りゅう)()は彼を(ほう)(しゃ)(ちゅう)(ろう)(しょう)に任命したよ。(りゅう)(しょう)の2人の子供たちの後継者は、()(しょく)に分けて配置されたよ。

陳寿の評価

本文

評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姬於室,(註10)劉歆見圖讖之文則名字改易,終於不免其身,而慶鍾二主。此則神明不可虛要,天命不可妄兾,必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土,聽相者之言則求婚吳氏,遽造輿服,圖竊神器,其惑甚矣。璋才非人雄,而據土亂世,負乘致寇,自然之理,其見奪取,非不幸也。(註11)

評すると、昔、()(ひょう)(きょ)()の言葉を聞いて、(はく)()を妻として迎えたよ。(りゅう)(きん)は占いの文書を見て名前を変えたけど、最終的には不幸から身を免れることができなくて、2人とも悲しい結末を迎えてしまったよ。これは神明の意志を軽んじることはできないし、天命を無視することはできないから、必然の結果と言えるよ。
(りゅう)(えん)(とう)()の言葉を聞いたらますます領土を広げたくなっちゃったの。相談者の言葉を聞くと、呉氏との結婚を求めて、急いで外交を行って、車と衣冠を急いで作って、帝位を盗む計画を立てたよ。彼の混乱はすごく深刻だったよ。
(りゅう)(しょう)の能力は人を驚かせるほどのものではなかったよ。乱世に土地を占拠して侵略されたのは自然の道理だから、彼が敗れて奪われるのは不運ではないと言えるよ。

()(ひょう)(きょ)()の話は、『()()』「(がい)(せき)(せい)()」を見てね。

(註10)

孔衍漢魏春秋曰:許負,河內溫縣之婦人,漢高祖封為明雌亭侯。

(こう)(えん)の『(かん)()(しゅん)(じゅう)』によると、(きょ)()は、()(だい)(おん)県の女性で、漢の高祖((りゅう)(ほう))によって(めい)()(てい)(こう)に封ぜられたんだって。

(註10)

臣松之以為今東人呼母為負,衍以許負為婦人,如為有似,然漢高祖時封皆列侯,未有鄉亭之爵,疑此封為不然。

(はい)(しょう)()の見解によると、今の東方の人たちは母を「負」と呼ぶから、(こう)(えん)(きょ)()を女性だと思ったみたい。でも、(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))の時代にみんなを列侯に封じた時、郷亭の爵位がなかったの。だから、この封爵には疑問が残るよ。

(註11)

張璠曰:劉璋愚弱而守善言,斯亦宋襄公、徐偃王之徒,未為無道之主也。張松、法正,雖有君臣之義不正,然固已委名附質,進不顯陳事勢,若韓嵩、劉先之說劉表,退不告絕奔亡,若陳平、韓信之去項羽,而兩端攜貳,為謀不忠,罪之次也。

(ちょう)(はん)によると、(りゅう)(しょう)は愚かなところもあったけど、善い言葉を守ることが得意で、(そう)(じょう)(こう)(じょ)(えん)(おう)みたいに、決して悪い主君ではなかったよ。(ちょう)(しょう)(ほう)(せい)は、主君と臣下の義において正しくないよ。彼らは臣下として名のある立場なのに、主君に対して率直に問題を挙げなかったんだ。これは、(かん)(すう)(りゅう)(せん)(りゅう)(ひょう)に忠告したみたいに進んで事勢を明らかにしないで、(ちん)(ぺい)(かん)(しん)みたいに(こう)()のもとを去ることを告げないで逃亡して、両端に取り入って裏切る行為は、忠でない策略の一例だよ。このような行動は忠に背いていて、罪に当たるよね。

どうして蜀書の 1 巻目が(りゅう)()さんではなく(りゅう)(えん)さんと(りゅう)(しょう)さんなのかな? (りゅう)()さんが来る前振りとして(えき)州の状況を説明して、(りゅう)()さんの正統性を強調するためかな?

劉璋伝は以上だよ!

Share