はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「先主伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉備 について書かれているよ!
本文中で劉備は「先主」と書かれているけど、訳では「劉備」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
先主伝は長いから記事を分けたよ。この記事は、最期までだよ。
- 正史『三国志』蜀書先主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』蜀書先主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 2 ← この記事だよ
出典
三國志 : 蜀書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
荊州の南へ
先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。(註29)廬江雷緒率部曲數萬口稽顙。
劉備は劉琦を荊州刺史(州の長官)に任命して、さらに南の4つの郡を征したよ。武陵太守(郡の長官)の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度はみんな劉備に降伏したんだよ。廬江の出身の雷緒は、数万の部下を率いて、劉備に従うと示したよ。
三輔決錄注曰:金旋字元機,京兆人,歷位黃門郎、漢陽太守,徵拜議郎,遷中郎將,領武陵太守,為備所攻劫死。子禕,事見魏武本紀。
『三輔決録』の注によると、金旋は、字は元機で、京兆の出身だよ。彼は黄門郎や漢陽太守などの職を歴任して、後に議郎として招かれて、さらに中郎将として活動していたんだって。彼は武陵太守に任命されたけど、劉備に攻撃を受けて亡くなったよ。
彼の子の金禕については、魏武帝(曹操)の本紀に書いてあるよ。
金禕の話 → 正史『三国志』魏書武帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 7
琦病死,羣下推先主為荊州牧,治公安。(註30)權稍畏之,進妹固好。先主至京見權,綢繆恩紀。(註31)
劉琦が病死しちゃって、彼の部下たちは劉備を荊州牧に推挙して、公安を治めることになったんだ。孫権はだんだん彼を警戒するようになって、妹を送って、関係を固めようとしたよ。劉備は京に着いて、孫権と面会して、仲を深めたよ。
江表傳曰:備別立營於油江口,改名為公安。
劉備は油江口に独自の陣営を建てて、この地を「公安」に改名したよ。
山陽公載記曰:備還,謂左右曰:「孫車騎長上短下,其難為下,吾不可以再見之。」乃晝夜兼行。
『山陽公載記』によると、劉備は帰る途中で、周りの人たちにこう言ったよ。
「孫車騎(孫権)の身が長くて脚が短くて、彼を下すのは難しいな。また彼に会うことはできないよ」
劉備は昼も夜も進んだよ。
臣松之案:魏書載劉備與孫權語,與蜀志述諸葛亮與權語正同。劉備未破魏軍之前,尚未與孫權相見,不得有此說。故知蜀志為是。
裴松之が調べたところ、『魏書』に載っている劉備と孫権の対話は、『蜀志』に載っている諸葛亮と孫権の対話と同じだよ。劉備はまだ魏の軍を破っていなくて、孫権と会っていないから、この話は事実ではないと考えられるよ。だから、『蜀志』の記述が正しいと思うよ。
權遣使云欲共取蜀,或以為宜報聽許,吳終不能越荊有蜀,蜀地可為己有。荊州主簿殷觀進曰:「若為吳先驅,進未能克蜀,退為吳所乘,即事去矣。今但可然贊其伐蜀,而自說新據諸郡,未可與動,吳必不敢越我而獨取蜀。如此進退之計,可以收吳、蜀之利。」先主從之,權果輟計。遷觀為別駕從事。(註32)
孫権は使者を送って、一緒に蜀を攻めるつもりだと伝えたよ。ある人はこう主張したよ。
「これを聞き入れるのがいいと思うよ。最終的に呉は荊州を越えて蜀を制することはできなくて、蜀の地は自分たちのものになるよ」
荊州の主簿の殷観はこう進言したよ。
「もし私たちが呉の先駆けになったら、蜀を手に入れられるとは限らないし、引き返したら呉に乗っ取られることになっちゃう。このままでは大きな成果が得られないよ。今は蜀を攻めることを支持して、私たちは郡を新しく手に入れたばかりだから動けないって主張すべきだよ。呉は私たちを越えて独自に蜀を攻めることはできないからね。このような進退の策略によって、呉と蜀の利益を取ろうよ」
劉備はこれに従って、孫権は計画を中止して、殷観を別駕従事に昇進させたよ。
獻帝春秋曰:孫權欲與備共取蜀,遣使報備曰:「米賊張魯居王巴、漢,為曹操耳目,規圖益州。劉璋不武,不能自守。若操得蜀,則荊州危矣。今欲先攻取璋,進討張魯,首尾相連,一統吳、楚,雖有十操,無所憂也。」
『献帝春秋』によると、孫権は蜀を劉備と協力して攻めたいと思っていて、使者を送って劉備に伝えたよ。
「米賊の張魯は王として巴と漢を占拠していて、曹操の耳と目となって、益州を狙っているよ。劉璋は武力に乏しくて、自分を守り切れないんだ。もし曹操が蜀を手に入れちゃったら、荊州も危険にさらされちゃうよ。今、私たちはまず劉璋を攻めて、次に張魯を討つことを計画しているよ。呉と楚で力を合わせれば、10人の曹操が来ても、私たちは何も心配いらないよ」
備欲自圖蜀,拒荅不聽,曰:「益州民富彊,土地險阻,劉璋雖弱,足以自守。張魯虛偽,未必盡忠於操。今暴師於蜀、漢,轉運於萬里,欲使戰克攻取,舉不失利,此吳起不能定其規,孫武不能善其事也。曹操雖有無君之心,而有奉主之名,議者見操失利於赤壁,謂其力屈,無復遠志也。
劉備は自分で蜀を手に入れたくて、孫権の提案に反対して、こう言ったよ。
「益州は、民は豊かで強くて、土地は険しいよ。劉璋は弱いかもしれないけど、自分を守るには十分だよ。張魯は偽っていて、必ずしも曹操に忠があるわけではないかも。今、蜀と漢に軍を差し向けて、遠く離れた地で軍を動かしているよ。戦いに挑んでも、必ずしも成功するとは限らないよ。これは、呉起の智略でも定められなくて、孫武(孫子)の戦略でもうまくいかないんだ。曹操は主に仕えようとしない心を持っているかもしれないけど、名義上は主君に仕えるという立場だよ。一部の議論する人は、曹操は赤壁で負けたから、彼の力が衰えて、遠く大きな目標を持っていないと見なしているんだ。
今操三分天下已有其二,將欲飲馬於滄海,觀兵於吳會,何肯守此坐須老乎?今同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也。」權不聽,遣孫瑜率水軍住夏口。備不聽軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾當被髮入山,不失信於天下也。」使關羽屯江陵,張飛屯秭歸,諸葛亮據南郡,備自住潺陵。權知備意,因召瑜還。
でも、今のところ、曹操はすでに天下の三分の二を手に入れていて、青くて広い海で馬に水を飲ませて、呉と会稽で兵を見せつけようとしているよ。彼は、この地に留まって老いることを望むはずがないよね。今、同盟関係に何の理由もなく争って、曹操に対して利益を借りて、敵がその隙に乗ることを許すのは、長期的な計画とは言えないよ」
でも、孫権はこれを聞き入れなくて、孫瑜に水軍を率いて夏口に駐留させたんだ。劉備は軍を進めないことに決めて、孫瑜にこう言ったよ。
「もしあなたが蜀を取るつもりなら、私は髪を剃って山の中に隠れる覚悟だよ。天下に対して私の信を保つためにね」
劉備は、関羽を江陵に駐留させて、張飛に秭歸を守らせて、諸葛亮に南郡を治めさせて、劉備は潺陵に滞在したよ。孫権は劉備の考えを知って、孫瑜を呼び戻したんだ。
益州を手に入れる
十六年,益州牧劉璋遙聞曹公將遣鍾繇等向漢中討張魯,內懷恐懼。別駕從事蜀郡張松說璋曰:「曹公兵彊無敵於天下,若因張魯之資以取蜀土,誰能禦之者乎?」璋曰:「吾固憂之而未有計。」松曰:「劉豫州,使君之宗室而曹公之深讎也,善用兵,若使之討魯,魯必破。魯破,則益州彊,曹公雖來,無能為也。」璋然之,遣法正將四千人迎先主,前後賂遺以巨億計。正因陳益州可取之策。(註33)
建安16年(211年)、益州牧の劉璋は、遠くから曹操が鍾繇たちに漢中で張魯を討たせることを聞いて、内心怖がっていたんだ。益州の別駕従事で蜀郡の出身の張松は、劉璋を説得したよ。
「曹操は天下で最も強い兵を持っているんだ。もし、張魯の力を利用して蜀の地を取ろうとするなら、それにどう抵抗できるの?」
劉璋はこう答えたよ。
「私もそれを心配しているんだけど、まだ対策は持っていないんだ」
張松は続けてこう言ったよ。
「劉豫州(劉備)はあなたの親戚で、曹操にとっての深い敵でもあるんだ。彼は兵をうまく使うよ。もし彼を張魯の討伐に利用したら、張魯は必ず負けるよ。張魯が破れれば、益州は強くなって、曹操でも何もできなくなるよ」
劉璋はそのとおりだと思って、法正に4,000人を率いて劉備を迎えさせたよ。劉璋は前後に、たくさんの財貨を贈り物として差し上げたんだ。法正はこの時、益州を取る策を劉備に伝えたよ。
吳書曰:備前見張松,後得法正,皆厚以恩意接納,盡其殷勤之歡。因問蜀中闊狹,兵器府庫人馬衆寡,及諸要害道里遠近,松等具言之,又畫地圖山川處所,由是盡知益州虛實也。
『呉書』によると、劉備は初めに張松に会って、その後に法正を仲間に加えたよ。彼らをとても親しくもてなして、誠心誠意で歓迎したんだって。その後、蜀の広さと狭さ、兵器や蔵庫の資源、人や馬の数、さらには要害や道路のことまで質問したら、張松たちは詳しく説明してくれて、地図を見せたり、山や川の配置を教えてくれたんだ。こうして益州の実情をすべて把握できたよ。
先主留諸葛亮、關羽等據荊州,將步卒數萬人入益州。至涪,璋自出迎,相見甚歡。張松令法正白先主,及謀臣龐統進說,便可於會所襲璋。先主曰:「此大事也,不可倉卒。」璋推先主行大司馬,領司隷校尉;先主亦推璋行鎮西大將軍,領益州牧。
劉備は諸葛亮、関羽たちを荊州に留めて、自分は数万の歩兵を率いて益州に向かったよ。涪に着くと、劉璋は自分から出迎えて、お互いにすごく喜んだよ。張松は法正を使者として劉備に伝えて、それに策士の龐統が「劉璋を襲撃する絶好の機会は、面会の場だよ」と進言したの。劉備はこう言ったよ。
「これは重要だね、急がないで慎重に行動しよう」
劉璋は劉備を大司馬と司隷校尉に推薦して任命したよ。劉備も劉璋を鎮西大将軍と益州牧に推薦して任命したよ。
璋增先主兵,使擊張魯,又令督白水軍。先主并軍三萬餘人,車甲器械資貨甚盛。是歲,璋還成都。先主北到葭萌,未即討魯,厚樹恩德,以收衆心。
劉璋は劉備の兵を増やして、張魯を攻撃させて、白水の軍を指揮させたよ。劉備は3万人以上の兵を率いて、車や武器、資材などはいっぱいあったよ。この年、劉璋は成都に帰ったよ。劉備は葭萌に着いたけど、すぐには張魯を討つことはしなくて、民の心を得るために厚く恩恵を築いたよ。
明年,曹公征孫權,權呼先主自救。先主遣使告璋曰:「曹公征吳,吳憂危急。孫氏與孤本為脣齒,又樂進在青泥與關羽相拒,今不往救羽,進必大克,轉侵州界,其憂有甚於魯。魯自守之賊,不足慮也。」乃從璋求萬兵及資實,欲以東行。璋但許兵四千,其餘皆給半。(註34)
翌年(212年)、曹操は孫権を討伐したよ。孫権は劉備に救援を求めてきたんだ。劉備は使者を送って劉璋にこう伝えたよ。
「曹操が呉を攻めていて、呉は危ない状況にあるんだって。孫氏と私は昔からの友だよ。それに、楽進が青泥で関羽と戦っているんだ。今、関羽を助けなきゃ。楽進が大勝しちゃったら、州の境界を侵犯するかもしれないよね。その危機は張魯よりも深刻だよね。張魯は自分を守るだけの敵だから、心配する必要はないよ」
劉璋に1万の兵と物資を求めて、東へ向かうために用意しようとしたんだ。でも、劉璋は4,000人の兵しか許さなくて、他の物資も半分だけしか提供しなかったんだ。
魏書曰:備因激怒其衆曰:「吾為益州征彊敵,師徒勤瘁,不遑寧居;今積帑藏之財而恡於賞功,望士大夫為出死力戰,其可得乎!」
『魏書』によると、劉備はとても怒って、自分の軍勢に対してこう言ったよ。
「私は益州を強力な敵から守るために戦っていて、兵たちはとてもがんばって働いて、休む間もなく戦っているよ。なのに今、劉璋は蓄えていた財産を隠し持って、功績への報酬を惜しんでいるよ。士大夫たちに戦ってもらうことを期待しているけど、それで本当にできるわけないよ!」
張松書與先主及法正曰:「今大事垂可立,如何釋此去乎!」松兄廣漢太守肅,懼禍逮己,白璋發其謀。於是璋收斬松,嫌隙始構矣。(註35)
張松は、劉備と法正に宛てた手紙でこう伝えたよ。
「今、もうすぐ大事を成し遂げられるんだ。どうしてこの機会を逃すの!」
張松の兄で広漢太守(郡の長官)の張肅は、自分への危険を恐れて、劉璋に張松の計画を告発したんだ。その結果、劉璋は張松を捕らえて斬ったよ。ここから、彼らの間に敵意が芽生えることになっちゃった。
益部耆舊雜記曰:張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮松;主簿楊脩深器之,白公辟松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松飲宴之間一看便闇誦。脩以此益異之。
『益部耆旧雑記』によると、張肅は堂々とした態度を持っていて、容姿はとても威厳があったんだって。一方で、張松は身長が低くて、自由気ままな生活を送って、規律や品行に欠けていたけど、知識が広くて、とても才能豊かだったんだって。
前に、劉璋は張松を曹操のもとに送ったけど、曹操はあまり張松をもてなさなかったんだ。主簿の楊脩は張松を高く評価して、曹操に推薦したけど、曹操は受け入れなかったよ。楊脩は曹操が執筆した兵書を張松に見せて、張松は1回読んだだけでそれを暗唱できるほどの才能を持っていたよ。これによって、楊脩はますます張松を人並み外れた才能を持っていると評価したよ。
張松さんを曹操さんのもとに送った話は、「劉璋伝」あるよ。
璋勑關戍諸將文書勿復關通先主。先主大怒,召璋白水軍督楊懷,責以無禮,斬之。乃使黃忠、卓膺勒兵向璋。先主徑至關中,質諸將并士卒妻子,引兵與忠、膺等進到涪,(註36)據其城。璋遣劉璝、冷苞、張任、鄧賢等拒先主於涪,皆破敗,退保緜竹。璋復遣李嚴督緜竹諸軍,嚴率衆降先主。
劉璋は関門の将たちに命令して、劉備との文通を禁止するようにしたよ。劉備は怒って、劉璋の白水の軍の指揮官である楊懐を呼び寄せて、無礼を責めて斬ったよ。
その後、黄忠と卓膺に兵を率いさせて劉璋に向かわせたよ。劉備はまっすぐに関の中に入って、将や兵やその家族を人質にしたよ。そして、黄忠、卓膺たちと一緒に涪に進軍して、その城を占拠したよ。劉璋は劉璝、冷苞、張任、鄧賢たちを涪で劉備に対抗させたけど、彼らはみんな敗北しちゃって、緜竹まで退却したよ。
劉璋はふたたび李厳に緜竹のそれぞれの軍を指揮させたよ。でも、李厳は兵を率いて劉備に降伏したんだ。
(註36)益部耆舊雜記曰:張任,蜀郡人,家世寒門。少有膽勇,有志節,仕州為從事。
『益部耆旧雑記』によると、張任は蜀郡の出身で、貧しい家柄だったんだって。幼い頃から勇敢で度胸があって、高潔な志を持っていたよ。彼は州の役人として仕えたよ。
先主軍益彊,分遣諸將平下屬縣,諸葛亮、張飛、趙雲等將兵泝流定白帝、江州、江陽,惟關羽留鎮荊州。先主進軍圍雒;時璋子循守城,被攻且一年。
劉備の軍勢はますます強くなって、彼は将たちに、属する郡を平定させて、諸葛亮、張飛、趙雲たちは兵を率いて川をさかのぼって、白帝、江州、江陽を制圧したよ。関羽は荊州に留まったよ。劉備は雒城を包囲して、その時、劉璋の子の劉循が城を守っていて、攻囲は約1年にわたって続けられたんだ。
蜀に入って
十九年夏,雒城破,(註37)進圍成都數十日,璋出降。(註38)(註39)蜀中殷盛豐樂,先主置酒大饗士卒,取蜀城中金銀分賜將士,還其穀帛。
建安19年(214年)、夏、劉備が雒城を破って、成都を包囲して数十日後、劉璋は出てきて降伏したよ。蜀の地はすごく豊かで楽しいものだったの。劉備は兵たちに大宴会を催して、蜀の城内の金銀を将や兵に分け与えて、彼らの穀物や織物を返してあげたんだ。
益部耆舊雜記曰:劉璋遣張任與劉璝率精兵拒捍先主於涪,為先主所破,退與璋子循守雒城。任勒兵出於鴈橋,戰復敗。禽任。先主聞任之忠勇,令軍降之,任厲聲曰:「老臣終不復事二主矣。」乃殺之。先主歎惜焉。
『益部耆旧雑記』によると、劉璋は張任と劉璝に精兵を率いらせて劉備に対抗したけど、涪で劉備に敗れたよ。彼らは撤退して劉璋の子の劉循と一緒に雒城を守ったよ。張任は雁橋から出て戦ったけどまた敗れちゃって、捕らえられたんだ。劉備は張任の忠と勇を聞いて、彼を軍の仲間になるように命令したけど、張任は堂々とした態度でこう言ったよ。
「老いた臣下は、もはや2つの主(劉璋と劉備)に仕えることはないよ」
彼はその後斬られて、劉備は彼を惜しんで嘆いたんだ。
傅子曰:初,劉備襲蜀,丞相掾趙戩曰:「劉備其不濟乎?拙於用兵,每戰則敗,奔亡不暇,何以圖人?蜀雖小區,險固四塞,獨守之國,難卒并也。」徵士傅幹曰:「劉備寬仁有度,能得人死力。諸葛亮達治知變,正而有謀,而為之相;張飛、關羽勇而有義,皆萬人之敵,而為之將:此三人者,皆人傑也。以備之略,三傑佐之,何為不濟?」
『傅子』によると、前に、劉備が蜀を攻めるとき、丞相掾の趙戩はこう言ったよ。
「劉備は成功しないと思うよ。彼は兵の使い方が下手で、毎回戦うたびに敗れているし、逃げる時間もないし。どうして人を攻略できるの? 蜀は小さな地域だけど、四方を険しい要塞に囲まれていて、自分を守れる国だから、簡単には制覇できないよ」
徵士の傅幹はこう言ったよ。
「劉備は広い仁と度量を持っていて、人の忠誠と献身を引き出せるんだ。諸葛亮は賢明で政治を知っていて、変化を理解して、公正で知略があって、彼らはお互いを補いあうの。張飛と関羽は勇猛で義に厚くて、どちらも万人を相手にできる武将で、彼らもまた劉備を支える存在だよ。この3人はみんな飛び抜けてすごい人物だよね。劉備の指導のもとで、この3人が彼を助けるなら、どうして成功しないと言えるの?」
典略曰:趙戩,字叔茂,京兆長陵人也。質而好學,言稱詩書,愛恤於人不論踈密。辟公府,入為尚書選部郎。董卓欲以所私並充臺閣,戩拒不聽。卓怒,召戩欲殺之,觀者皆為戩懼,而戩自若。及見卓,引辭正色,陳說是非,卓雖凶戾,屈而謝之。遷平陵令。
『典略』によると、趙戩は、字は叔茂で、京兆郡長陵県の出身だよ。彼は質実で学問が好きで、『詩経』や『書経』の言葉をよく使ったんだって。人に対しても優しくて、誰にでも思いやりを持って接していたんだって。
彼は公府に招かれて、尚書の選部郎として任命されたよ。かつて、董卓は自分と親しい人で尚書台を満たそうとしたけど、趙戩はこれを拒否したんだ。董卓は怒って、趙戩を呼んで殺そうとしたよ。周りの人たちはみんな趙戩のために怖がっていたけど、趙戩自身は冷静だったんだって。董卓に会った時、趙戩は堂々とした態度で意見を伝えて、是非を論じたよ。董卓は凶暴だったけど、趙戩の説得に屈して、謝罪したよ。趙戩はその後、平陵の令として任命されたんだ。
故將王允被害,莫敢近者,戩棄官收歛之。三輔亂,戩客荊州,劉表以為賔客。曹公平荊州,執戩手曰:「何相見之晚也!」遂辟為掾。後為五官將司馬,相國鍾繇長史,年六十餘卒。
王允が亡くなった時、遺体に近づく者がいなかったけど、趙戩は官職を捨てて、遺体を棺に納めたよ。三輔が乱れると、趙戩は荊州に客として滞在して、劉表に客として迎えられたよ。
後に曹操が荊州を平定して、趙戩の手を握りながら「どうして会うのが遅くなったの!」と言って、彼を公職に任命したよ。その後、趙戩は五官将(曹丕)の司馬として仕えて、相国である鍾繇の長史として活躍したよ。趙戩は60歳を超えた頃に亡くなったんだ。
先主復領益州牧,諸葛亮為股肱,法正為謀主,關羽、張飛、馬超為爪牙,許靖、麋笁、簡雍為賔友。及董和、黃權、李嚴等本璋之所授用也,吳壹、費觀等又璋之婚親也,彭羡又璋之所排擯也,劉巴者宿昔之所忌恨也,皆處之顯任,盡其器能。有志之士無不競勸。
劉備は益州牧になって、諸葛亮は股肱(君主を支える臣下)として、法正は謀主(軍事の助言をする参謀)として、関羽、張飛、馬超が爪牙(君主の命令に従って戦う武将)として、許靖、麋竺、簡雍が信頼できる親しい友人として仕えたよ。
董和、黄権、李厳たちは元々劉璋に仕えていて、呉壱、費観たちは劉璋とは親戚の関係にある人で、彭羕は劉璋に受け入れてもらえなかった人で、劉巴は前から劉璋の敵対者だったよ。彼らはみんな重要な職務に就いて、自分たちの能力を最大限に活用したよ。志のある者たちはみんな、競って勤めたよ。
二十年,孫權以先主已得益州,使使報欲得荊州。先主言:「須得涼州,當以荊州相與。」權忿之,乃遣呂蒙襲奪長沙、零陵、桂陽三郡。先主引兵五萬下公安,令關羽入益陽。是歲,曹公定漢中,張魯遁走巴西。先主聞之,與權連和,分荊州、江夏、長沙、桂陽東屬,南郡、零陵、武陵西屬,引軍還江州。
建安20年(215年)、孫権は劉備がすでに益州を手に入れていることを知って、荊州を手に入れようとして使者を送ったよ。劉備はこう言ったよ。
「涼州を手に入れるまで、荊州を共有するつもりはないよ」
孫権は怒って、呂蒙に長沙、零陵、桂陽の3郡を襲撃させたよ。劉備は5万の兵を率いて公安に進軍して、関羽に益陽へ進むように命令したよ。この年、曹操は漢中を平定して、張魯は巴西に逃げたよ。劉備はこれを聞いて、孫権と連携して、荊州を分けて、江夏、長沙、桂陽は東の領土として、南郡、零陵、武陵は西の領土としたよ。自分は軍を引いて江州に帰ったよ。
遣黃權將兵迎張魯,張魯已降曹公。曹公使夏侯淵、張郃屯漢中,數數犯暴巴界。先主令張飛進兵宕渠,與郃等戰於瓦口,破郃等,郃收兵還南鄭。先主亦還成都。
劉備は黄権に兵を率いて張魯を迎え撃たせたけど、張魯はすでに曹操に降伏していたんだ。曹操は夏侯淵と張郃を漢中に駐屯させて、何度も巴の境界を侵したんだ。劉備は張飛に命令して兵を率いて宕渠に進軍させて、瓦口で張郃たちと戦って破ったよ。張郃は兵を集めて南鄭に撤退して、劉備もまた成都に戻ったよ。
定軍山の戦い
二十三年,先主率諸將進兵漢中。分遣將軍吳蘭、雷銅等入武都,皆為曹公軍所沒。先主次于陽平關,與淵、郃等相拒。
建安23年(218年)、劉備は将たちを率いて漢中に進軍したよ。将軍の呉蘭、雷銅たちを武都に分けて送ったけど、彼らは曹操の軍に敗れちゃった。劉備は陽平関に陣を張って、夏侯淵や張郃たちと戦ったよ。
二十四年春,自陽平南渡沔水,緣山稍前,於定軍山勢作營。淵將兵來爭其地。先主命黃忠乘高鼓譟攻之,大破淵軍,斬淵及曹公所署益州刺史趙顒等。曹公自長安舉衆南征。
建安24年(219年)、春、劉備は陽平から沔水を南に渡って、山に沿って進んで、定軍山に陣地を築いたよ。夏侯淵はその地を争うために兵を率いてやってきたよ。劉備は黄忠に命令して高台から鼓を打ち鳴らさせて、大声で攻撃させたよ。そして、夏侯淵の軍に大勝利! 夏侯淵と曹操が任命した益州刺史(州の長官)の趙顒たちを斬ったよ。曹操は自ら長安から軍を率いて南へ進んだよ。
先主遙策之曰:「曹公雖來,無能為也,我必有漢川矣。」及曹公至,先主歛衆拒險,終不交鋒,積月不拔,亡者日多。夏,曹公果引軍還,先主遂有漢中。遣劉封、孟達、李平等攻申耽於上庸。
劉備は遠くから作戦を立ててこう言ったよ。
「曹操は来ても、何もできないよ。私たちは必ず漢川を手に入れるぞ!」
曹操が着いた時、劉備は軍勢を引き締めて険しい地に駐屯して、戦闘を避け続けて、数ヶ月間攻略できなかったよ。たくさんの人が亡くなったんだ。夏が終わると、曹操は軍を引いて帰って、劉備はこうして漢中を手に入れたの! 劉封、孟達、李平たちに、上庸で申耽を攻めさせたよ。
漢中王になる
秋,羣下上先主為漢中王,表於漢帝曰:「平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍長史領鎮軍將軍臣許靖、營司馬臣龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、(註40)軍師將軍臣諸葛亮、盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽、征虜將軍新亭侯臣張飛、征西將軍臣黃忠、鎮遠將軍臣賴恭、揚武將軍臣法正、興業將軍臣李嚴等一百二十人上言曰:昔唐堯至聖而四凶在朝,周成仁賢而四國作難,高后稱制而諸呂竊命,孝昭幼冲而上官逆謀,皆馮世寵,藉履國權,窮凶極亂,社稷幾危。
秋、たくさんの臣下が劉備を「漢中王」として上奏して、漢の帝(献帝)にこう述べたよ。
「平西将軍で都亭侯である臣下の馬超、左将軍の長史で鎮軍将軍である臣下の許靖、営司馬である臣下の龐羲、議曹の従事中郎で軍議中郎将である臣下の射援、軍師将軍である臣下の諸葛亮、盪寇将軍で漢寿亭侯である臣下の関羽、征虜将軍で新亭侯である臣下の張飛、征西将軍である臣下の黄忠、鎮遠将軍である臣下の頼恭、揚武将軍である臣下の法正、興業将軍である臣下の李厳たち合わせて120人が上奏するよ。
昔、唐堯はとても優れていたけど、四凶という悪い人たちが朝廷にいたんだ。周の成王は仁の心があって素晴らしいけど、四国が乱れちゃったんだ。高后(呂雉)は政治を握ったけど、呂氏が権力を奪いあったよ。昭帝(劉弗陵)は幼くして皇帝に即位して、上官氏が逆らう計画を立てたんだ。彼らはみんな、世を欺いて、国の権力を握って、混乱を極めて、国家は危機に陥ったんだ。
非大舜、周公、朱虛、博陸,則不能流放禽討,安危定傾。伏惟陛下誕姿聖德,統理萬邦,而遭厄運不造之艱。董卓首難,蕩覆京畿,曹操階禍,竊執天衡;皇后太子鴆殺見害,剥亂天下,殘毀民物。乆令陛下蒙塵憂厄,幽處虛邑。人神無主,遏絕王命,厭昧皇極,欲盜神器。
大舜、周公旦、朱虚(劉章)、博陸(霍光)みたいな偉人がいなかったら、彼らを追放して、討伐して、国家を安定させることはできなかっただろうね。陛下は生まれながらに良い姿や聖人としての徳を持っていて、すべての国を統治されているけど、不運にも大きな困難に見舞われているんだ。董卓が最初に乱を起こして、都を荒らしまわったんだ。曹操はその災いの階段を登って、天子の権力を盗んで握ったよ。皇后と太子は毒殺されて、天下は乱れに乱れて、民はひどい被害を受けたんだ。その結果、陛下は長く苦難を受けて、荒れ果てた地に幽閉されたんだ。人や祭祀も主がいなくなっちゃって、王の命令も途絶えて、皇帝の権威は曇って、帝位を盗もうとする者たちが現れちゃった。
左將軍領司隷校尉豫、荊、益三州牧宜城亭侯備,受朝爵秩,念在輸力,以殉國難。覩其機兆,赫然憤發,與車騎將軍董承同謀誅操,將安國家,克寧舊都。會承機事不密,令操游魂得遂長惡,殘泯海內。
左将軍で司隷校尉で、豫州、荊州、益州の3つの州の牧である宜城亭侯の劉備は、朝廷から爵位と官職を受けて、国難に力を尽くして、命を捧げることを決意したよ。彼は国家の危機を見据えて、憤りを燃やして、車騎将軍の董承と一緒に曹操を討つ計画を立てて、国を安定させて、古都(洛陽)をふたたび平穏に戻そうとしたんだ。でも、董承の計画は漏れちゃって、曹操に機会を与えてしまったから、彼はさらに長く悪事を続けて、天下を残酷に支配したよ。
臣等每懼王室大有閻樂之禍,小有定安之變,(註41)夙夜惴惴,戰慄累息。昔在虞書,敦序九族,周監二代,封建同姓,詩著其義,歷載長乆。漢興之初,割裂疆土,尊王子弟,是以卒折諸呂之難,而成太宗之基。
私たちはいつも、王室には大きな事では閻楽みたいな災い(閻楽が秦の二代皇帝を殺しちゃった事件)や、小さな事では定安みたいな混乱(王莽によって皇帝を退位させられた事件)が起こるのを恐れて、朝から晩まで不安で、恐れているの。
昔、『虞書』には『九族の大切にする』とあって、周は二代(夏・殷)を考えて、同族(同じ姓の人たち)を封建したよ。『詩経』はその意義を示して、歴史に永遠に残っているよ。漢が興った初めは、領土を分けて、子弟を王にしたから、最終的に呂氏の乱を鎮圧して、太宗(文帝)の基盤を築くことができたんだよ。
臣等以備肺腑枝葉,宗子藩翰,心存國家,念在弭亂。自操破於漢中,海內英雄望風蟻附,而爵號不顯,九錫未加,非所以鎮衞社稷,光昭萬世也。奉辭在外,禮命斷絕。昔河西太守梁統等值漢中興,限於山河,位同權均,不能相率,咸推竇融以為元帥,卒立效績,摧破隗嚻。今社稷之難,急於隴、蜀。操外吞天下,內殘羣寮,朝廷有蕭墻之危,而禦侮未建,可為寒心。
私たちは、劉備は王族の末裔として、宗家を守る者であると考えて、国家の安定を心から願って、乱を鎮めることを念頭に置いているよ。曹操が漢中で敗れた後、天下の英雄たちは私たちに従ってきてくれたけど、爵位や称号は得られなくて、九錫も受けられなかったんだ。これでは国家を守って、後世にわたって光を輝かせるには不十分だったの。私たちは今、朝廷の外にいて、帝の命令が途絶えているんだ。昔、河西太守(郡の長官)の梁統たちが漢の中興に貢献した時、山や川に阻まれていて、同じ地位にありながらもお互いに協力できなかったんだ。そこで、竇融を元帥に推し立てて、隗囂を打ち破って功績を立てたよ。今、国家の危機は隴と蜀よりも緊急なんだ。曹操は外で天下を制圧して、内では臣下たちをひどく扱っていて、朝廷には内乱の危機が迫っているけど、敵を防ぐための対策はまだ立てられていないよ。これはとても心配なことだよ。
臣等輒依舊典,封備漢中王,拜大司馬,董齊六軍,糾合同盟,埽滅凶逆。以漢中、巴、蜀、廣漢、犍為為國,所署置依漢初諸侯王故典。夫權宜之制,苟利社稷,專之可也。然後功成事立,臣等退伏矯罪,雖死無恨。」遂於沔陽設壇場,陳兵列衆,羣臣陪位,讀奏訖,御王冠于先主。
私たち臣下は、古い制度に従って、劉備を漢中王に封じて、大司馬に任命して、全軍を率いて、同盟をまとめて凶悪な反逆者を掃討することにしたよ。私たちは漢中、巴、蜀、広漢、犍為を国としてそこに配置する役職は漢の初期の諸侯王の制度に倣うよ。臨機応変の措置は、国家の利益にかなったものなら、独断で行ってもいいんだ。その後、功績を成し遂げたら、私たち臣下は罪を改めて身を退いて、死んでも悔いはないよ」
そして、沔陽に壇を設けたよ。兵を整えて、役人たちが列を作って、奏上が終わると、劉備は王冠を授けられたよ。
「漢中王」は、漢の初代皇帝である劉邦が名乗った称号だよ。劉備さんは彼になぞらえたんだね。
三輔決錄注曰:援字文雄,扶風人也。其先本姓謝,與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征,天子以謝服非令名,改為射,子孫氏焉。兄堅,字文固,少有美名,辟公府為黃門侍郎。獻帝之初,三輔飢亂,堅去官,與弟援南入蜀依劉璋,璋以堅為長史。劉備代璋,以堅為廣漢、蜀郡太守。援亦少有名行,太尉皇甫嵩賢其才而以女妻之,丞相諸葛亮以援為祭酒,遷從事中郎,卒官。
『三輔決録』の注によると、射援は、字は文雄で、扶風の出身だよ。彼の先祖はもともと「謝」という姓で、北地の謝と同じ一族だよ。初代の祖先の謝服は将軍として戦って、天子は謝服の名前が適切でないと考えて、「射」に変えて、その子孫はこの姓を受け継いだんだ。
兄の射堅は、字は文固で、幼い頃から優れた名声を持っていたよ。彼は公府に招かれて黄門侍郎になったよ。献帝の時代には、三輔が飢饉と混乱に見舞われちゃって、射堅は官職を辞めて、弟の射援と一緒に南へ行って劉璋の元に身を寄せたんだ。劉璋は射堅を長史に任命したよ。
劉備が劉璋に代わって、射堅を広漢と蜀郡の太守(郡の長官)に任命したよ。射援も名高い人で、太尉の皇甫嵩は彼の才能を高く評価して、娘を妻として射援に嫁がせたんだ。さらに、丞相の諸葛亮は射援を祭酒に任命して、後に従事中郎に昇進させたよ。射援はその地位にあった職務を全うした後、亡くなったよ。
趙高使閻樂殺二世。王莽廢孺子以為定安公。
秦の時代、趙高は閻楽を使って二世皇帝を殺しちゃったんだ。王莽は幼い子を廃位して、定安公として封じたよ。
先主上言漢帝曰:「臣以具臣之才,荷上將之任,董督三軍,奉辭于外,不得埽除寇難,靖匡王室,乆使陛下聖教陵遲,六合之內否而未泰,惟憂反側,疢如疾首。曩者董卓造為亂階,自是之後,羣兇縱橫,殘剥海內。賴陛下聖德威靈,人臣同應,或忠義奮討,或上天降罰,暴逆並殪,以漸冰消。
劉備は漢の皇帝に上表してこう言ったよ。
「私は平凡な臣下の才能しか持っていないのに、大将としての重責を担って、全軍を統率して、外で陛下に忠実に仕えているよ。でも、まだ敵を撃退できなくて、王室を安定させられていなくて、長らく陛下の聖なる教えが衰退して、天下は困難を迎えたままで平穏にはなっていないんだ。私はいつも心配で眠れなくて、病にかかったような思いなんだ。かつて董卓が乱を起こして、それからも、たくさんの凶悪な者たちが好き勝手に振舞って、天下を残虐に支配したよ。でも、陛下の聖人としての徳と威光によって、臣下たちは一致団結して、ある者は忠義を奮い立たせて討伐して、またある者は天の罰を受けて、暴逆者たちは次々に滅んで、氷が溶けるようにどんどん消えていったよ。
惟獨曹操乆未梟除,侵擅國權,恣心極亂。臣昔與車騎將軍董承圖謀討操,機事不密,承見陷害,臣播越失據,忠義不果。遂得使操窮凶極逆,主后戮殺,皇子鴆害。雖糾合同盟,念在奮力,懦弱不武,歷年未效。常恐殞沒,孤負國恩,寤寐永歎,夕惕若厲。
ただひとり、曹操だけがまだ討ち取られていなくて、国の権力を乱用して、勝手に振舞って極限まで乱を引き起こしているんだ。かつて、私は車騎将軍の董承と一緒に曹操を討つ計画を立てたけど、計画が漏れて董承は罠にかかって、私は逃げ惑って、拠り所を失って、忠義を果たせなかったんだ。その結果、曹操はますます凶悪な逆賊となって、皇后は殺されて、皇子も毒殺されたんだ。同盟を結んで、力を尽くすことを考えたけど、私は臆病で武勇に欠けていて、長年の努力も実を結ばなかったの。いつも死を恐れて、国の恩を裏切ることを心苦しく思って、目覚めても眠っていても永遠に嘆いて、夜ごとに危機感を抱いているよ。
今臣羣寮以為在昔虞書敦叙九族,庶明勵翼,(註42)五帝損益,此道不廢。周監二代,並建諸姬,實賴晉、鄭夾輔之福。高祖龍興,尊王子弟,大啟九國,卒斬諸呂,以安大宗。
今、私と臣下はたちは、古代の『虞書』に記された九族の結びつきを強調して、その支えとなることが勧められたことを思い起こして、五帝の教えを受け継いで、この道を守り続けるべきだと考えるよ。周の時代でも、たくさんの姫姓を封建して、晋や鄭の助けを受けて幸福をもたらしたよ。高祖(劉邦)は龍みたいに国を興して、王の子弟を尊重して、九つの国を統一して、最終的に呂氏を討ち取って、皇室を安定させたよ。
今操惡直醜正,寔繁有徒,包藏禍心,篡盜已顯。旣宗室微弱,帝族無位,斟酌古式,依假權宜,上臣大司馬漢中王。臣伏自三省,受國厚恩,荷任一方,陳力未效,所獲已過,不宜復忝高位以重罪謗。羣寮見逼,迫臣以義。
今、曹操は悪を行って、正義を侮って、たくさんの手下を持っていて、災いの心を隠して、簒奪の意図を露わにしているよ。宗室は衰えて、帝族には位がないんだ。古の制度に照らし合わせて、臨機応変に対応する必要があるんだよ。だから、私は大司馬として、漢中王の地位にあるべきだと提案されているよ。私はこのことを深く考えて、国から大きな恩を受けて、一地方を任されたけど、力を尽くしても成果がなくて、得たものはすでに過ぎたもので、さらに高位に就いて罪や批判を招くべきではないよね。でも、臣下たちは義を掲げて、私は迫られているんだ。
臣退惟寇賊不梟,國難未已,宗廟傾危,社稷將墜,成臣憂責碎首之負。若應權通變,以寧靖聖朝,雖赴水火,所不得辭,敢慮常宜,以防後悔。輒順衆議,拜受印璽,以崇國威。仰惟爵號,位高寵厚,俯思報效,憂深責重,驚怖累息,如臨于谷。
私は退いて考えると、敵が討ち取られていなくて、国の危機はまだ終わっていなくて、宗廟は傾いて、社稷(国家)は崩れようとしているんだ。これが私の大きな心配で、責任を感じて首が砕けるような重荷を感じているの。もし権力を持って変革を行って、聖なる朝廷を安定させるために行動すべきであれば、たとえ水火の中に飛び込むことになっても、辞退することはできないよ。だから、将来の後悔を防ぐために、慎重に考えて、みんなの議論に従って、印璽を受け取って、国家の威信を高めることにしたよ。私は、この高位と寵愛を仰ぎ見ながら、それに応えるための義務を思うと、深い憂いと重い責任に襲われて、息をつくたびに驚きと恐怖を感じて、まるで谷底に立っているかのような思いだよ。
盡力輸誠,獎厲六師,率齊羣義,應天順時,撲討凶逆,以寧社稷,以報萬分,謹拜章因驛上還所假左將軍、宜城亭侯印綬。」
全力を尽くして、誠意を捧げて、全軍を鼓舞して、みんなと一緒に義を掲げて、天命に従って、時勢に応じて凶悪な反逆者を討って、国家を安定させて、無限の恩に報いるために、謹んでこの上奏文を捧げて、駅を通じて左将軍と宜城亭侯の印綬をお返しするね」
鄭玄注曰:庶,衆也;勵,作也;叙,次序也。序九族而親之,以衆明作羽翼之臣也。
鄭玄の注によると、「庶」は「衆」を指していて、「勵」は「作」を意味していて、「叙」は「次序」を表しているよ。九族を序にしたのは、庶民を明らかにして、周りには羽翼みたいな臣下を作り上げるためだったんだって。
於是還治成都。拔魏延為都督,鎮漢中。(註43)時關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊。俄而孫權襲殺羽,取荊州。
そして、成都に戻ったよ。魏延を都督に任命して、彼に漢中を守らせたんだ。この時、関羽は曹操の将軍の曹仁を攻撃して、樊で于禁を捕らえたよ。その後、孫権は関羽を襲撃して、彼を討ち取って、荊州を奪ったんだ。
典略曰:備於是起館舍,築亭障,從成都至白水關,四百餘區。
『典略』によると、劉備は宿舎を建てて、塁や柵を築いて、成都から白水関までの400以上の地区を整備したよ。
皇帝に即位する
二十五年,魏文帝稱尊號,改年曰黃初。或傳聞漢帝見害,先主乃發喪制服,追謚曰孝愍皇帝。
建安25年(220年)、曹丕が皇帝になって、元号を「黄初」に改めたよ。ある伝聞によると、漢の帝が亡くなったらしくて、劉備は喪に服して、彼に「孝愍皇帝」の諡を贈ったよ。
是後在所並言衆瑞,日月相屬,故議郎陽泉侯劉豹、青衣侯向舉、偏將軍張裔·黃權、大司馬屬殷純、益州別駕從事趙莋、治中從事楊洪、從事祭酒何宗、議曹從事杜瓊、勸學從事張爽、尹默、譙周等上言:「臣聞河圖、洛書,五經讖、緯,孔子所甄,驗應自遠。謹按洛書甄曜度曰:『赤三日德昌,九世會備,合為帝際。』洛書寶號命曰:『天度帝道備稱皇,以統握契,百成不敗。』洛書錄運期曰:『九侯七傑爭命民炊骸,道路籍籍履人頭,誰使主者玄且來。』孝經鉤命決錄曰:『帝三建九會備。』
その後、各地でたくさんの吉兆が伝えられて、議郎で陽泉侯の劉豹、青衣侯の向挙、偏将軍の張裔と黄権、大司馬属の殷純、益州別駕従事の趙莋、治中従事の楊洪、従事祭酒の何宗、議曹従事の杜瓊、権学従事の張爽、尹黙、譙周たちが上表してこう言ったよ。
「私たち臣下は、河図や洛書、五経の讖緯(予言書)は、孔子が選別したもので、その予言は遠い将来にまで当たるものであると聞いているよ。慎んで洛書を調べたところ、『洛書甄曜度』には『赤い三日(太陽)が訪れて、徳が盛んになって、九代にわたってすべてが備わって、帝位が統合される』とあるよ。『洛書寶號命』には『天は帝の道を完成させて、皇帝の称号を授けて、すべてを統治して、百の成功を収めて敗れることはない』とあるよ。それに、『洛書録運期』には『人の侯と七人の傑が命を争い、民は遺体を炊いて、人々が頭を踏んで通るような混乱が起こるだろう。でも、黒衣の主がやって来て、これを収める』とあるんだ。『孝経鉤命決録』には『帝位は三度建てられ、九度会合してすべてが整う』と記されているよ。
臣父羣未亡時,言西南數有黃氣,直立數丈,見來積年,時時有景雲祥風,從璿璣下來應之,此為異瑞。又二十二年中,數有氣如旗,從西竟東,中天而行,圖、書曰『必有天子出其方』。加是年太白、熒惑、填星,常從歲星相追。近漢初興,五星從歲星謀;歲星主義,漢位在西,義之上方,故漢法常以歲星候人主。
私たちの父がまだ亡くなる前に、西南の空に何度か黄色い気が数丈にもわたって立ち上って、長年にわたって時々、景雲や祥風が璿璣(天の星)から降りてくるのが見られたの。これは吉兆であるとされたんだって。それに、その次の22年の間に、旗みたいな形をした気が何度も現れて、西から東へと中天を横断して移動するという現象があったの。河図や洛書には『必ずその方角から天子が出る』とあるんだよ。この年、金星、火星、土星が、いつも木星を追うように動いていたの。漢が初めて興った時、五星(木星・火星・土星・金星・水星)は木星に従っていたよ。木星は義を司って、漢の位置は西にあったから、義の上方にあるとされて、漢の法では木星で君主を占っていたんだって。
當有聖主起於此州,以致中興。時許帝尚存,故羣下不敢漏言。頃者熒惑復追歲星,見在胃昴畢;昴畢為天綱,經曰『帝星處之,衆邪消亡』。聖諱豫覩,推癸期驗,符合數至,若此非一。臣聞聖王先天而天不違,後天而奉天時,故應際而生,與神合契。願大王應天順民,速即洪業,以寧海內。」
だから、聖なる君主がこの地方から起こって、中興を果たすとされているんだよ。当時、許に帝がまだ健在だったから、臣下たちはそのことを口に出せなかったの。最近、火星がふたたび木星を追って、現在は胃宿、昴宿、畢宿のあたりに見えているよ。昴宿と畢宿は天の綱(天体の基準)で、経典には『帝星がそこに位置すれば、すべての邪悪が消え去る』と記されているんだって。聖なる事象はあらかじめ見えるもので、推測した期日や証拠が次々と一致しているよ。このような兆しは1つではないよ。私たちは、聖なる王は天命に先んじて行動して、天はそれに従って、天命に後れて行動すれば天の時を受け入れると聞いているよ。だから、大王(劉備)には、天に応じて民意に従って、すぐに大業を成し遂げて、天下を安定させていただきたいと願っているの」
曹丕さんの即位の時と同じで、予言はふわふわな内容だから、いろいろな解釈ができるんだね。
太傅許靖、安漢將軍糜笁、軍師將軍諸葛亮、太常賴恭、光祿勳黃柱、少府王謀等上言:「曹丕篡弒,湮滅漢室,竊據神器,劫迫忠良,酷烈無道。人鬼忿毒,咸思劉氏。今上無天子,海內惶惶,靡所式仰。羣下前後上書者八百餘人,咸稱述符瑞,圖、讖明徵。間黃龍見武陽赤水,九日乃去。孝經援神契曰『德至淵泉則黃龍見』,龍者,君之象也。易乾九五『飛龍在天』,大王當龍升,登帝位也。
太傅の許靖、安漢将軍の麋竺、軍師将軍の諸葛亮、太常の賴恭、光禄勲の黄柱、少府の王謀たちが上表してこう言ったよ。
「曹丕は漢の王朝を奪って、滅ぼして、帝位を盗み取って不当に占拠して、忠義のある人たちを脅して、酷く無道な振る舞いをしたよ。人々も鬼神もその残虐さに怒って、みんな劉氏を思い慕っているよ。今、天子がいなくて、天下は不安に包まれていて、誰も頼りにできないんだ。臣下たちは前後に合わせて800人以上が上書して、みんなが天命の象徴をたたえて、河図・洛書の予言が明確に示されているよ。最近、黄龍が武陽の赤水に現れて、9日後に去ったこともその証だよ。『孝経』には『徳が深く淵泉に達すると黄龍が現れる』とあって、龍は君主の象徴だよ。『易経』の乾卦九五爻辞には、『飛龍在天』とあって、これは大王がまさに龍が昇るように帝位に登るべき時だということだね。
又前關羽圍樊、襄陽,襄陽男子張嘉、王休獻玉璽,璽潛漢水,伏於淵泉,暉景燭燿,靈光徹天。夫漢者,高祖本所起定天下之國號也,大王襲先帝軌迹,亦興於漢中也。今天子玉璽神光先見,璽出襄陽,漢水之末,明大王承其下流,授與大王以天子之位,瑞命符應,非人力所致。
それに、前に、関羽が樊と襄陽を包囲した時、襄陽の張嘉と王休が玉璽を献上したよ。その玉璽は漢水の淵に沈んでいたけど、その光は輝いて、霊光は天にまで達したんだって。漢は高祖(劉邦)が興した場所に由来する国号で、大王(劉備)もまた先帝の軌跡を継いで、同じく漢中から興ったの。今、天子の玉璽が神聖な光を先に示して、襄陽から出現したことは、漢水の終わりで大王がその流れを受け継いで、天子の位を授かることを示しているんだ。この吉兆と天命は人の力ではもたらされるものではないよね。
昔周有烏魚之瑞,咸曰休哉。二祖受命,圖、書先著,以為徵驗。今上天告祥,羣儒英俊並進河、洛,孔子讖、記咸悉具至。伏惟大王出自孝景皇帝中山靖王之冑,本支百世,乾祇降祚,聖姿碩茂,神武在躬,仁覆積德,愛人好士,是以四方歸心焉。考省靈圖,啟發讖、緯,神明之表,名諱昭著。宜即帝位,以纂二祖,紹嗣昭穆,天下幸甚。臣等謹與博士許慈、議郎孟光建立禮儀,擇令辰,上尊號。」
昔、周の時代には烏魚の吉兆があって、みんなは吉兆とたたえたよ。二祖(高祖と光武帝)が天命を受けた時、河図と洛書が先に現れて、それを証拠としたんだ。今、上天は吉兆を告げて、たくさんの儒者たちや賢者たちが河図と洛書を研究して、孔子の予言や記録もすべて現れているんだ。慎んで思うに、大王(劉備)は景帝(劉啓)の中山靖王(劉勝)の子孫で、その家系は長い間、天からの祝福を受けているよね。大王は聖なる姿を持っていて、武勇に優れていて、仁愛の心で徳を積んで、民や賢者を愛しているから、四方の人たちが心を寄せているの。予言書を調べて、讖緯を解読すれば、その神秘的な現象が明らかとなって、大王の名は広く知られるだろうね。どうかすぐに帝位について、二祖の業績を継いで、宗廟引き継いでね。それが天下にとっての大きな幸いだよ。私たちは慎んで、博士の許慈と議郎の孟光と一緒に、礼儀を整えて、吉日を選んで、帝位を贈るように進言するよ」
『論語』「堯曰」っぽい。
中山靖王の劉勝は、漢の景帝(劉啓)の九男だよ。『史記』「五宗世家」に彼の人柄が書いてあるよ。お墓が発掘されているよ。
即皇帝位於成都武擔之南。(註44)
そして、劉備は成都の武擔の南で皇帝に即位したよ。
蜀本紀曰:武都有丈夫化為女子,顏色美好,蓋山精也。蜀王娶以為妻,不習水土,疾病欲歸國,蜀王留之,無幾物故。蜀王發卒之武都擔土,於成都郭中葬,蓋地數畝,高十丈,號曰武擔也。
『蜀本紀』によると、武都には男性が女性に変化したという伝説があって、その容姿は美しくて、山の精霊だったとされているんだって。蜀王はこれを妻に迎えたけど、彼女は水や土に慣れなくて、病気になっちゃって故郷に帰りたいと願い出たの。でも、蜀王は彼女を留めて、やがて彼女は亡くなっちゃった。蜀王は武都の土を掘らせて、成都の城内に埋葬したよ。その埋葬地は数畝に及んで、高さは10丈もあって、武擔と呼ばれているの。
臣松之案:武擔,山名,在成都西北,蓋以乾位在西北,故就之以即阼。
裴松之の見解によると、武擔とは、成都の西北にある山の名前だよ。おそらく成都の乾(西北)の位置にあるから、この地で即位したんだね。
為文曰:「惟建安二十六年四月丙午,皇帝備敢用玄牡,昭告皇天上帝后土神祇:漢有天下,歷數無疆。曩者王莽篡盜,光武皇帝震怒致誅,社稷復存。今曹操阻兵安忍,戮殺主后,滔天泯夏,罔顧天顯。操子丕,載其凶逆,竊居神器。羣臣將士以為社稷隳廢,備宜脩之,嗣武二祖,龔行天罰。備雖否德,懼忝帝位。
文章にはこう書いてあるよ。
「建安26年(221年)、四月、丙午の日、皇帝の劉備は玄牡(黒い牡牛)を使って、皇天上帝と后土神祇に告げるよ。漢は天下を支配して、その統治は無限だよ。かつて王莽が帝位を奪ったけど、光武皇帝はとても怒ってこれを討って、社稷(国家)がふたたび存続したよ。今、曹操は兵を使って悪事を働いて、皇帝と皇后を殺して、天を欺いて秩序を滅ぼして、天命を無視しているんだ。曹操の子の曹丕は、その凶悪な逆行を受け継いで、不当に帝位を奪い取ったんだ。臣下や将や兵たちは社稷(国家)が滅びようとしていると考えて、劉備がこれを修復して、二祖(高祖と光武帝)の武徳を継いで、天罰を行うべきだと申し上げたよ。劉備は徳が足りないかもしれなくて、帝位につけないことを恐れているよ。
詢于庶民,外及蠻夷君長,僉曰『天命不可以不荅,祖業不可以乆替,四海不可以無主』。率土式望,在備一人。備畏天明命,又懼漢邦將湮于地,謹擇元日,與百寮登壇,受皇帝璽綬。脩燔瘞,告類于天神,惟神饗祚于漢家,永綏四海!」(註45)(註46)
民や異民族の長にまで意見を求めたところ、みんなが口をそろえて『天命には応じなきゃいけないし、先祖からの事業を長く絶やしてはならなくて、四海に主君がいないのは許されない』と言っているよ。天下の人たちはみんな、劉備ひとりに望みを託しているんだ。劉備は天命を畏れて、また漢の国が地に埋もれて消え去ることを心配して、慎んで吉日を選んで、百官(官僚)と一緒に壇に登って、皇帝の璽綬(印と綬)を受け取ったよ。そして、天の神に祭祀を整えて、祈りを捧げて、漢の帝室に栄るように、四海が永く平和であるように祈ったよ!」
年号に「建安」を使っているね。
魏書曰:備聞曹公薨,遣掾韓冉奉書弔,并致賻贈之禮。文帝惡其因喪求好,勑荊州刺史斬冉,絕使命。
『魏書』によると、劉備は曹操が亡くなったと聞いて、掾の韓冉を送って哀悼の意を表して、贈り物を送ったよ。曹丕は喪を利用して和を求めることを嫌って、荊州刺史(州の長官)に対して韓冉を斬るように命令して、使者を断らせたよ。
典略曰:備遣軍謀掾韓冉齎書弔,并貢錦布。冉稱疾,住上庸。上庸致其書,適會受終,有詔報荅以引致之。備得報書,遂稱制。
『典略』によると、劉備は軍謀掾の韓冉を送って曹操が亡くなったことに対して哀悼の意を表した手紙と、錦の布を贈ったよ。韓冉は病気になったから、上庸に留まったよ。上庸がその手紙を曹丕に届けたところ、ちょうど曹丕が皇帝に即位した時だったの。詔があって、劉備はそれを受け取って、そのまま劉備の統治が確立されたんだって。
夷陵の戦い
章武元年夏四月,大赦,改年。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。置百官,立宗廟,祫祭高皇帝以下。(註47)
章武元年(221年)、夏の四月、大赦が行われて、年号を「章武」に改めたよ。諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任命したよ。さまざまな官職が設置されて、宗廟が建てられて、高皇帝以下を祭ったんだ。
臣松之以為先主雖云出自孝景,而世數悠遠,昭穆難明,旣紹漢祚,不知以何帝為元祖以立親廟。于時英賢作輔,儒生在官,宗廟制度必有憲章,而載記闕略,良可恨哉!
裴松之の見解によると、劉備が景帝(劉啓)の血を引くと言われているけど、その家系は長い歴史があって、昭穆(祖先をまつる廟の順番)がよくわからないよ。漢の位を継いでいるけど、どの帝を元祖として祖先の廟を建てるべきかはわからないよ。当時、賢者や学者たちが補佐して、儒者が官位にあって、宗廟の制度には必ず憲章があるはずだけど、その詳細の記録が抜け落ちていることはすごく残念だよね。
五月,立皇后吳氏,子禪為皇太子。六月,以子永為魯王,理為梁王。
五月、皇后として呉氏が立てられて、子の劉禅が皇太子となったよ。六月、別の子である劉永が魯王に、劉理が梁王に封ぜられたよ。
車騎將軍張飛為其左右所害。初,先主忿孫權之襲關羽,將東征,秋七月,遂帥諸軍伐吳。孫權遣書請和,先主盛怒不許,吳將陸議、李異、劉阿等屯巫、秭歸;將軍吳班、馮習自巫攻破異等,軍次秭歸,武陵五谿蠻夷遣使請兵。
車騎将軍の張飛が、彼の周りの人たちに殺されちゃった。
前に、劉備は孫権が関羽を襲撃したことに腹を立てて、東への征伐を計画したよ。秋の七月、彼は軍を率いて呉を攻めたよ。孫権は和平を求める手紙を送ったけど、劉備はすごく怒って受け入れなかったの。呉の将の陸議(陸遜)、李異、劉阿たちは巫や秭帰に駐屯したよ。将軍の呉班や馮習が巫を攻略して、秭帰に進軍したよ。また、武陵や五渓の異民族は兵を借りるために使者を送ったよ。
二年春正月,先主軍還秭歸,將軍吳班、陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸。二月,先主自秭歸率諸將進軍,緣山截嶺,於夷道猇亭(註48)駐營,自佷山(註49)通武陵,遣侍中馬良安慰五谿蠻夷,咸相率響應。鎮北將軍黃權督江北諸軍,與吳軍相拒於夷陵道。
章武2年(222年)、春の正月、劉備の軍は秭帰に帰ったよ。将軍の呉班と陳式は水軍を率いて夷陵に駐屯して、長江の東西岸を取り囲んだよ。二月、劉備は秭帰から将たちを率いて進軍したよ。山に沿って、嶺を断って、夷道の猇亭に陣を張ったよ。佷山から武陵を通って、侍中の馬良に五渓の異民族をたしなめさせて、彼らはみんな兵を率いて応じたよ。鎮北将軍の黄権は江北の軍を指揮して、呉の軍勢と夷陵道で戦ったよ。
猇,許交反。
「猇」の発音は、「許」の子音に「交」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
佷,音恒。
「佷」の発音は「恒」だよ。
夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸,收合離散兵,遂棄船舫,由步道還魚復,改魚復縣曰永安。吳遣將軍李異、劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山。
夏の六月、黄気が秭帰から十数里の範囲で見られて、幅は数十丈にわたったよ。十数日後、陸議(陸遜)が劉備の軍を猇亭で破って、将軍の馮習、張南たちは全滅したよ。劉備は猇亭から秭帰に戻って、散らばった兵をまとめて、船舶を捨てて陸路で魚復に戻って、魚復県を「永安」に改名したよ。呉は将軍の李異や劉阿たちに劉備の軍を追撃させて、南山に駐屯したよ。
秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都。孫權聞先主住白帝,甚懼,遣使請和。先主許之,遣太中大夫宗瑋報命。冬十二月,漢嘉太守黃元聞先主疾不豫,舉兵拒守。
秋の八月、兵をまとめて巫に帰ったよ。司徒の許靖が亡くなったんだ。冬の十月、丞相の諸葛亮に詔を下して、南北の郊外を成都で整備するように命令したよ。
孫権は劉備が白帝に滞在していることを聞いて、とても恐れて使者を送って和平を求めたよ。劉備はこれを許可して、太中大夫の宗瑋にその旨を伝えさせたよ。冬の十二月、漢嘉太守(郡の長官)の黄元は劉備の病状が悪化していると聞いて、兵を挙げて守りを固めたんだ。
劉備の最期
三年春二月,丞相亮自成都到永安。三月,黃元進兵攻臨卭縣。遣將軍陳曶(註50)討元,元軍敗,順流下江,為其親兵所縛,生致成都,斬之。先主病篤,託孤於丞相亮,尚書令李嚴為副。夏四月癸巳,先主殂于永安宮,時年六十三。(註51)
章武3年(223年)、春の二月、丞相の諸葛亮は成都から永安に着いたよ。三月、黄元が兵を進めて臨卭を攻撃したよ。将軍の陳曶に黄元を討たせて、黄元の軍は負けて、流れに沿って長江を下ったんだ。親衛の兵に捕らえられて、生け捕りにされて成都に連行されて、斬られたよ。
劉備は病気が重くなって、諸葛亮に息子を託して、尚書令の李厳を副将にしたよ。夏の四月、癸巳の日、劉備は永安宮で亡くなって、この時63歳だったんだ。
音笏。
「曶」の発音は「笏」だよ。
諸葛亮集載先主遺詔勑後主曰:「朕初疾但下痢耳,後轉雜他病,殆不自濟。人五十不稱夭,年已六十有餘,何所復恨,不復自傷,但以卿兄弟為念。射君到,說丞相歎卿智量,甚大增脩,過於所望,審能如此,吾復何憂!勉之,勉之!勿以惡小而為之,勿以善小而不為。惟賢惟德,能服於人。汝父德薄,勿效之。可讀漢書、禮記,閑暇歷觀諸子及六韜、商君書,益人意智。聞丞相為寫申、韓、管子、六韜一通已畢,未送,道亡,可自更求聞達。」臨終時,呼魯王與語:「吾亡之後,汝兄弟父事丞相,令卿與丞相共事而已。」
『諸葛亮集』によると、劉備は遺言で後主(劉禅)にこう語ったよ。
「私は初めは下痢だけの病気だったけど、後に他の病気が重なって、ほとんど自分ではどうにもならなくなったんだ。人は50歳を超えれば早死にとは言えなくて、私はすでに60以上の年を過ごしたから、何の悔いもないよ。自分のことを嘆くこともないけど、ただあなた方兄弟のことが心にかかるんだ。射援が着いて、丞相(諸葛亮)があなたの知恵と度量をほめたと聞いて、期待以上に成長しているとのことで、とても安心したの。これならもう心配はないよ。頑張れ、頑張れ! 悪いことは小さくてもしてはならなくて、善いことは小さくてもしなければならないよ。賢さと徳があってこそ、人に受け入れられるんだ。あなたの父である私は徳が薄いから、私のようにならないようにしてね。『漢書』や『礼記』を読んで、暇があれば諸子百家や『六韜』、『商君書』などを広く読んで、人としての見識を深めてね。丞相が『申子』、『韓非子』、『管子』、『六韜』を一通り写し終えたけど、まだ送っていないとのことだよ。もしそのまま失われてしまったなら、自分で求めて学んで、知識を得るようにしてね」
亡くなる直前に、劉備は魯王(劉永)を呼び寄せて、こう語りかけたよ。
「私が亡くなった後は、あなたたち兄弟は丞相を父と思って仕えて、あなたと丞相が一緒に協力して事を進めるようにしてね」
亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹德,覆燾無疆,昊天不弔,寢疾彌留,今月二十四日奄忽升遐,臣妾號咷,若喪考妣。乃顧遺詔,事惟太宗,動容損益;百寮發哀,滿三日除服,到葬期復如禮;其郡國太守、相、都尉、縣令長,三日便除服。臣亮親受勑戒,震威神靈,不敢有違。臣請宣下奉行。」
諸葛亮は劉禅にこう言ったよ。
「思うに、大行皇帝(劉備)は仁を貫いて徳を立てて、その慈愛は限りなく広がったよ。でも、天は慈悲を示さなくて、病気が重くなって、今月24日に突然亡くなったんだ。私たち臣下たちは、まるで親を失ったように嘆き悲しんでいるの。遺言を顧みると、太宗皇帝(劉禅)にすべてを託して、行動は慎み深く益をもたらすようにとの教えがあったよ。百官(官僚)は3日間喪に服して、葬儀の日まではふたたび礼を守るべきだよ。そして、郡や国の太守(長官)、相、都尉、県の令や長たちも3日間喪に服して、その後は喪服を脱ぐことが許されるよ。私は皇帝の勅命を直接受けて、その威厳と神聖さに畏れて、決してそれに反することはできないんだ。だから、私はこれを下に宣言して、遵守することを願うよ」
五月,梓宮自永安還成都,謚曰昭烈皇帝。秋,八月,葬惠陵。(註52)
五月、棺は永安から成都に戻って、諡は「昭烈皇帝」になったよ。秋の八月、恵陵に葬られたよ。
葛洪神仙傳曰:仙人李意其,蜀人也。傳世見之,云是漢文帝時人。先主欲伐吳,遣人迎意其。意其到,先主禮敬之,問以吉凶。意其不荅而求紙筆,畫作兵馬器仗數十紙已,便一一以手裂壞之,又畫作一大人,掘地埋之,便徑去。先主大不喜。而由出軍征吳大敗還,忿恥發病死,衆人乃知意其畫作大人而埋之者,即是言先主死意。
葛洪の『神仙伝』によると、仙人の李意其は蜀の出身で。伝えによると、漢の文帝(劉恒)の時代の人物らしいよ。劉備が呉を討とうとした時、李意其を招くために使者を送ったよ。李意其が着くと、劉備は礼を尽くして迎えて、吉凶を尋ねたよ。でも、李意其は答えなくて、紙と筆を求めて、兵や馬、武器の絵を何十も描いた後、それをひとつずつ手で破って、その後、大きな人の絵を描いて、それを地面に埋めて、そのまま立ち去ったんだ。劉備は全然喜ばなかったの。その後、劉備は軍を率いて呉を攻めたけど、大敗北して、悔しさと屈辱から病にかかって、亡くなったんだ。人々はその時初めて、李意其が描いて埋めた大きな人の絵が劉備の死を暗示していたことを理解したんだって。
陳寿の評価
評曰:先主之弘毅寬厚,知人待士,蓋有高祖之風,英雄之器焉。及其舉國託孤於諸葛亮,而心神無貳,誠君臣之至公,古今之盛軌也。機權幹略,不逮魏武,是以基宇亦狹。然折而不撓,終不為下者,抑揆彼之量必不容己,非唯競利,且以避害云爾。
評すると、劉備は度量が広くて寛大で、人物を見抜いて士人を待遇できたから、まさに高祖(劉邦)の風格と英雄の器量を備えていたよ。そして、諸葛亮に国を挙げて子を託して、心に疑いが無かったのは、真に君主と臣下の関係の到達点で、古今の理想的な規範だよ。でも、策略や才略は曹操に及ばなかったから、基盤も狭くなっちゃった。それでも、困難に直面しても折れることがなくて、最後まで他の人に屈さなかったのは、彼が相手の器量が自分を受け入れないと判断して、単に利益を競うためだけでなくて、危害を避けるためでもあったんだね。
おっしゃるとおり、劉備さんは劉邦に似ているところがあるかも。容姿に特徴があること、臣下に恵まれていること、器量が広いこと、負けても人がついてくること、しぶといこと。反抗期なこと、身内を見捨てて逃げること。 似ないで良かったところもあるけどね。
先主伝は以上だよ!