はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「先主伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉備 について書かれているよ!
本文中で劉備は「先主」と書かれているけど、訳では「劉備」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
先主伝は長いから記事を分けたよ。この記事は、赤壁の戦いまでだよ。
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- 正史『三国志』蜀書先主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 2
出典
三國志 : 蜀書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
劉備の生まれ
先主姓劉,諱備,字玄德,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯。坐酎金失侯,因家焉。(註1)
先主は、姓は劉、名は備、字は玄徳だよ。彼は涿郡涿県の出身で、漢の景帝(劉啓)の子の中山靖王の劉勝の子孫だよ。劉勝の子の劉貞は、元狩6年(前117年)に涿県の陸城亭侯に封ぜられたんだって。でも、彼は上納金を出せなかったから、侯位を失って、こうして家がここあったよ。
典略曰:備本臨邑侯枝屬也。
『典略』によると、劉備は本来は、臨邑侯の家系に属していたんだって。
先主祖雄,父弘,世仕州郡。雄舉孝廉,官至東郡范令。
劉備の祖父は劉雄、父は劉弘だよ。彼らは代々、州や郡で仕えていたんだって。劉雄は孝廉に選ばれて、最終的には東郡の范県令にまで昇進したんだよ。
幼い劉備と桑の木
先主少孤,與母販履織席為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘,遙望見童童如小車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人。(註2)
劉備は幼い頃に父が亡くなって、母と一緒に靴や織物を売って生計を立てていたよ。家の東南の庭に垣根があって、その上に桑の木が立っていたよ(垣根から桑の木が生えているみたいに見えたよ)。この桑の木は高さ5丈以上あって、遠くから見ると、小さな車の蓋みたいに見えたんだ。通りかかる人たちはみんな、この木が普通ではないことに驚いて、「これは貴人が現れる予兆だよ」って言う人もいたんだって。
漢晉春秋曰:涿人李定云:「此家必出貴人。」
『漢晋春秋』によると、涿の出身の李定はこう言ったよ。
「この家から必ず貴人が出るよ」
先主少時與宗中諸小兒於樹下戲,言:「吾必當乘此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰:「汝勿妄語,滅吾門也!」年十五,母使行學,與同宗劉德然、遼西公孫瓚俱事故九江太守同郡盧植。德然父元起常資給先主,與德然等。元起妻曰:「各自一家,何能常爾邪!」起曰:「吾宗中有此兒,非常人也。」而瓚深與先主相友。瓚年長,先主以兄事之。
劉備は幼い頃、親戚の子供たちと一緒に木の下で遊んでいたよ。彼はこう言ったよ。
「私は必ず羽のついた天子の車に乗るんだ」
叔父の劉子敬は彼に言ったよ。
「無駄口を叩くな、私たちの家を滅ぼすことになっちゃうよ!」
劉備が15歳の時、母は彼を学問を修めるために送ったよ。彼は同族の劉徳然と、遼西の出身の公孫瓚と一緒に、昔の九江太守(郡の長官)で同じ郡の出身の盧植に学ぶことになったよ。
劉徳然の父の劉元起は、いつも劉備に援助をして、劉徳然と平等に扱ったよ。劉元起の妻はこう言ったよ。
「それぞれ別の家なのに、どうしていつも援助をしなければならないの?」
劉元起は答えたよ。
「私たちの同族の中で、彼は普通の人ではないからだよ」
公孫瓚は劉備ととても仲のいい友人だったみたい。公孫瓚は劉備よりも年上で、劉備は彼を兄みたいに尊敬したんだ。
先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服。身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。少語言,善下人,喜怒不形於色。好交結豪俠,年少爭附之。中山大商張世平、蘇雙等貲累千金,販馬周旋於涿郡,見而異之,乃多與之金財。先主由是得用合徒衆。
劉備は本を読むことがあまり好きではなくて、代わりに犬や馬、音楽、そして美しい服に喜びを感じていたんだって。彼の身長は7尺5寸あって、手は膝まで伸びて、自分の耳を見ることができたんだ。彼はあまり話すことはないけど、他人に対してはへりくだって、怒りや喜びを顔に表さなかったんだ。劉備は豪侠と親しくしていたよ。若者たちは競って彼についていったんだって。
中山の大商人である張世平、蘇双は、数千金もの財産を持っていて、馬の取引で涿郡で活動していたよ。彼らは劉備に興味を持って、たくさんの金銭を提供したよ。劉備は彼らの助けのおかげで、仲間を集められたんだ。
黄巾の乱
靈帝末,黃巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黃巾賊有功,除安喜尉。(註3)
霊帝の時代の末期(184年頃)に、黄巾の乱が起こったの。州や郡ごとに義勇兵たちが立ち上がって、その中で劉備は仲間を率いて校尉の鄒靖に従って黄巾賊を討伐して、功績を挙げたよ。彼はその功績によって、安喜の尉に任命されたよ。
典略曰:平原劉子平知備有武勇,時張純反叛,青州被詔,遣從事將兵討純,過平原,子平薦備於從事,遂與相隨,遇賊於野,備中創陽死,賊去後,故人以車載之,得免。後以軍功,為中山安喜尉。
『典略』によると、平原の出身の劉子平は、劉備が武勇を持っていることを知ったみたい。当時、張純という反乱者が現れて、青州が命令を受けて、従事が兵を率いて彼を討伐することになったよ。途中で平原に立ち寄った時、劉子平は劉備を推薦して、それからは彼らは一緒に行動したよ。
野原で賊に遭遇した時、劉備は傷を負ったけど、賊が去った後、親しい人たちが彼の体を車に乗せて逃げさせて、彼は難を逃れたよ。その後、軍功によって、中山の安喜の尉に任命されたの。
督郵以公事到縣,先主求謁,不通,直入縛督郵,杖二百,解綬繫其頸著馬枊(註4),棄官亡命。(註5)
督郵(郡の視察官)が公務で県にやってきた時、劉備は面会を求めたけど、断られちゃった。彼はすぐに入って、督郵を縛り上げて、杖で200回叩いて、県の尉のしるしである印綬を首にかけて、馬のつなぎに縛り付けて、官職を捨てて逃げたよ。
五葬反。
「枊」は、「五」の子音に「葬」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
典略曰:其後州郡被詔書,其有軍功為長吏者,當沙汰之,備疑在遣中。督郵至縣,當遣備,備素知之。聞督郵在傳舍,備欲求見督郵,督郵稱疾不肯見備,備恨之,因還治,將吏卒更詣傳舍,突入門,言「我被府君密教收督郵」。遂就牀縛之,將出到界,自解其綬以繫督郵頸,縛之著樹,鞭杖百餘下,欲殺之。督郵求哀,乃釋去之。
『典略』によると、その後、州や郡の役人たちは詔書を受けて、軍功によって役人に任命された人たちを審査することになったよ。劉備は自分が審査の対象になっていると疑っていたんだ。督郵が県に来ると、劉備をやめさせることになって、劉備は事前にそれを知ったよ。だから、劉備は督郵が宿舎にいることを聞きつけて、面会を求めたんだ。でも、督郵は病気と言って劉備と会おうとしなかったの。劉備は怒って、役所に戻って、その後、将や兵を連れて宿舎に向かって、門を突破して中に入って、こう言ったよ。
「私は府君(郡の長官)から督郵を逮捕するように秘密の命令を受けたんだ」
劉備は床の上で督郵を縛って、彼を外に連れ出して、綬を自ら解いて、それを彼の首に巻きつけて、木に縛り付けたよ。劉備は彼を鞭で100回以上打って、彼を殺そうとしたの。でも、督郵は必死に頼んで、劉備は最終的に彼を釈放して去ったよ。
頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功,除為下密丞。復去官。後為高唐尉,遷為令。(註6)
その頃、大将軍の何進は都尉の毌丘毅を丹楊に兵を集めに行かせたよ。劉備も彼と一緒に行動して、下邳で敵と遭遇したよ。彼は激戦を繰り広げて、功績を挙げて、下密の丞に任命されたよ。でも、また官職を辞めちゃって、その後に高唐の尉に任命されて、さらに令(県の長官)に昇進したよ。
英雄記云:靈帝末年,備甞在京師,後與曹公俱還沛國,募召合衆。會靈帝崩,天下大亂,備亦起軍從討董卓。
『英雄記』によると、霊帝の末年(189年)、劉備は都にいたんだって。その後、曹操と一緒に沛国に帰って、人を募集したよ。霊帝が亡くなると、天下は大混乱になっちゃって、劉備もまた軍を起こして董卓を討つために出兵したんだ。
為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使為青州刺史田楷以拒兾州牧袁紹。數有戰功,試守平原令,後領平原相。郡民劉平素輕先主,恥為之下,使客刺之。客不忍刺,語之而去。其得人心如此。(註7)
敵に負けちゃって、劉備は中郎将の公孫瓚のもとに逃れたの。公孫瓚は劉備を別部司馬(別動隊の長)に任命して、青州刺史(州の長官)の田楷と連携して冀州牧(州の長官)の袁紹に対抗したよ。劉備は何度か戦いで功績を挙げたから、試しに平原の令に任命されて、後に平原の相に任命されたよ。
郡の住民の劉平は前から劉備を軽蔑していて、彼の下に就くことを恥じていたから、彼は刺客に劉備を暗殺させようとしたんだ。でも、その刺客は劉備を暗殺することを拒んで、代わりに彼と話をして去って行ったの。このように、劉備は人の心をつかんでいたんだよ。
魏書曰:劉平結客刺備,備不知而待客甚厚,客以狀語之而去。是時人民飢饉,屯聚鈔暴。備外禦寇難,內豐財施,士之下者,必與同席而坐,同簋而食,無所簡擇。衆多歸焉。
『魏書』によると、劉平は刺客を使って劉備を暗殺しようとしたけど、劉備はそのことを知らなくて、刺客を親しくもてなしたよ。刺客は事情を話して去って行ったよ。
この時、民は飢饉に苦しんでいて、各地で略奪と暴力が起こっていたんだ。劉備は外からの敵を防ぎながら、内では豊かに資源を分け与えて、身分が低い人とでも必ず一緒に座って食事をして、同じ器を使って食事をして、分け隔てなく接したよ。たくさんの人が彼に従ったの。
徐州へ行く
袁紹攻公孫瓚,先主與田楷東屯齊。曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主俱救之。時先主自有兵千餘人,及幽州烏丸雜胡騎,又略得飢民數千人。旣到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史,屯小沛。
袁紹が公孫瓚を攻撃して、劉備は田楷と一緒に東の斉に駐屯したよ。
一方で、曹操は徐州を征討して、徐州牧の陶謙は使者を送って田楷に急ぎの助けを求めたよ。田楷と劉備は一緒に彼の救援に向かったの。その時、劉備は自分の兵を1,00 人以上も率いていて、さらに幽州の烏丸族や他の異民族の騎兵もいて、数千人の飢えた民を連れて行ったよ。徐州に着くと、陶謙は丹楊から来た兵4,000人を劉備に与えて、劉備は田楷と別れて陶謙のもとにいることになったんだ。陶謙は上表して劉備を豫州刺史(州の長官)に任命して、彼を小沛に駐屯させたよ。
小沛は、劉邦の生まれたところ?
謙病篤,謂別駕麋笁曰:「非劉備不能安此州也。」謙死,笁率州人迎先主,先主未敢當。下邳陳登謂先主曰:「今漢室陵遲,海內傾覆,立功立事,在於今日。彼州殷富,戶口百萬,欲屈使君撫臨州事。」先主曰:「袁公路近在壽春,此君四世五公,海內所歸,君可以州與之。」
陶謙は病気が重くなると、別駕の麋竺にこう言ったよ。
「劉備でなければ、この州を安定させることはできないよ」
陶謙が亡くなると、麋竺は州の民たちと一緒に劉備を迎え入れたけど、劉備は初めは、引き受けることをためらったよ。
下邳の出身の陳登は劉備にこう言ったよ。
「今、漢の王朝は衰退して、国中が混乱しているんだ。功を立てて事を起こす時は今日しかないよ。この州は豊かで、100万の家があるよ。あなたに州を治めてほしいって願っているんだ」
劉備はこう答えたよ。
「袁公路(袁術)は近くの寿春にいるし、彼は四世五公で、たくさんの人が頼る存在だよね。あなたは彼に州を委ねたらどうかな?」
四世五公は、4 代にわたって 5 人も三公の地位に任命されているということだね。つまり、名族だね。
登曰:「公路驕豪,非治亂之主。今欲為使君合步騎十萬,上可以匡主濟民,成五霸之業,下可以割地守境,書功於竹帛。若使君不見聽許,登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂國忘家者邪?冢中枯骨,何足介意。今日之事,百姓與能,天與不取,悔不可追。」先主遂領徐州。(註8)
陳登はこう言ったよ。
「袁公路(袁術)は驕り高ぶっていて、治める資質が無いよね。今、私はあなたに歩兵と騎兵を合わせて10万人を率いてほしいの。上では国を補佐して民を救って、五覇の事業を成し遂げて、下では領土を分け与えて国境を守って、その功績を記録に残せるよ。もしあなたが私の提案を受け入れないなら、私もあなたの意見を受けることはできないよ」
また、北海国の相の孔融は劉備にこう言ったよ。
「袁公路(袁術)は国を憂いて家を忘れるような人なの? 墓の中の枯れた骨にできるわけないよ。今日の出来事は、民は能力のある人と一緒にいたいと思っているんだ。天命が授けたものを受け入れなかったら、後悔してもしきれないよ」
こうして、劉備は徐州を統治することになったよ。
「墓の中の枯れた骨」は、袁術さんは先祖の栄光に頼ってばかりの人ということだね。袁術さんの評価はボロボロ。
劉備さんがお断りしたくなるのは仕方がないよね。北は袁紹さんと曹操さん、南は袁術さんと孫策さんがいて、強い勢力とやりあわなきゃいけなくなるから。
孔融さんとのかかわりは、「太史慈伝」にあるよ。
獻帝春秋曰:陳登等遣使詣袁紹曰:「天降灾沴,禍臻鄙州,州將殂殞,生民無主,恐懼姦雄一旦承隙,以貽盟主日昃之憂,輒共奉故平原相劉備府君以為宗主,永使百姓知有依歸。方今寇難縱橫,不遑釋甲,謹遣下吏奔告于執事。」紹荅曰:「劉玄德弘雅有信義,今徐州樂戴之,誠副所望也。」
『献帝春秋』によると、陳登たちは使者を袁紹のもとに送って、こう伝えたよ。
「災厄が天から降って、災禍が私の州にもたらされているんだ。州の指導者は亡くなって、民は主君を失っていて、悪い人たちがこの状況を利用して侵略を行うのを恐れているの。私たちは危険な時に備えて、平原の相だった劉備を宗主として仕えて、長い間にわたって民が頼れる場所を築きたいと考えているんだ。今、敵からの攻撃が起こっていて、私たちはまだ武装を解く余裕がないの。ここに私たち下級の役人を送って、あなたに事態を報告するよ」
袁紹はこう答えたよ。
「劉玄徳(劉備)は高尚で信義のある人物で、今、徐州の人たちが彼を喜んで迎え入れていることは、私の望みと同じだよ」
袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。先主與術相持經月,呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反,間迎布。布虜先主妻子,先主轉軍海西。(註9)
袁術が劉備に攻め寄せてきたから、劉備は盱眙と淮陰で彼を阻止したよ。曹操は上表して劉備を鎮東将軍に任命して、宜城亭侯に封じたよ。この年は建安元年(196年)だよ。
劉備と袁術は1ヶ月にわたって戦ったけど、呂布が隙を突いて下邳を襲撃したんだ。下邳の守将の曹豹が反乱して、呂布を迎え入れちゃった。呂布は劉備の妻と子供を捕らえて、劉備は軍を海西に移したよ。
英雄記曰:備留張飛守下邳,引兵與袁術戰於淮陰石亭,更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳,張飛欲殺之。豹衆堅營自守,使人招呂布。布取下邳,張飛敗走。備聞之,引兵還,北至下邳,兵潰。收散卒,東取廣陵,與袁術戰,又敗。
『英雄記』によると、劉備は下邳に張飛を残して守らせて、兵を率いて袁術と淮陰の石亭で戦って、どっちも勝敗があったよ。かつての陶謙の将の曹豹が下邳に残っていて、張飛は彼を殺そうとしたんだ。でも、曹豹の部下は堅い陣地を築いて自衛して、呂布を招く使者を送ったんだ。呂布が下邳を占拠して、張飛は敗走しちゃった。劉備はこれを聞いて兵を引き返して、北上して下邳に着いたけど、兵たちは壊滅しちゃった。劉備は散っていた兵をまとめて、東に向かって広陵を占領して、袁術とまた戦ったけど、敗れたよ。
楊奉、韓暹寇徐、揚閒,先主邀擊,盡斬之。先主求和於呂布,布還其妻子。先主遣關羽守下邳。
楊奉と韓暹は徐州と揚州を襲撃したけど、劉備は対抗して彼らをすべて討ち取ったよ。その後、劉備は呂布に和平を求めて、呂布は劉備の妻と子供を返したよ。劉備は関羽に下邳を守らせたよ。
下邳の戦い
先主還小沛,(註10)(註11)復合兵得萬餘人。呂布惡之,自出兵攻先主,先主敗走歸曹公。曹公厚遇之,以為豫州牧。
劉備は小沛に帰ってきて、ふたたび軍を編成して1万人以上の兵を集めたよ。呂布はこれを嫌って自分で兵を率いて劉備を攻撃して、結局、劉備は負けちゃって、曹操のもとに逃げたよ。曹操は劉備を厚くもてなして、豫州牧に任命したよ。
英雄記曰:備軍在廣陵,飢餓困踧,吏士大小自相啖食,窮餓侵逼,欲還小沛,遂使吏請降布。布令備還州,并勢擊術。具刺史車馬童僕,發遣備妻子部曲家屬於泗水上,祖道相樂。
『英雄記』によると、劉備の軍勢は広陵に駐屯していたけど、飢餓に苦しんでいて、兵や役人たちはお互いに食べ合っていたんだ。飢えに耐えられなくて、劉備は小沛に帰りたいと考えて、役人を送って呂布に降伏を願い出たよ。呂布は劉備に州へ帰って、一緒に袁術を攻撃するよう命令したよ。呂布は、刺史(州の長官)の車や馬や子供、使用人、奴隷を差し出して、劉備の妻や子供、部下、家族を泗水のほとりに移住させて、祖道を一緒に楽しんだよ。
魏書曰:諸將謂布曰:「備數反覆難養,宜早圖之。」布不聽,以狀語備。備心不安而求自託,使人說布,求屯小沛,布乃遣之。
『魏書』によると、将たちは呂布にこう進言したよ。
「劉備は何度も裏切っているし、養うのは難しいよ。早めに対処すべきだよ」
でも、呂布はこれに耳を貸さないで、劉備にこの状況を伝えたよ。劉備は不安になっちゃって、自分の安全を求めて、呂布に使者を送って小沛に滞在することを求めたんだ。呂布はこれを許可して、劉備は小沛に入ったよ。
將至沛收散卒,給其軍糧,益與兵使東擊布。布遣高順攻之,曹公遣夏侯惇往,不能救,為順所敗,復虜先主妻子送布。曹公自出東征,(註12)助先主圍布於下邳,生禽布。先主復得妻子,從曹公還許。
劉備は小沛に着いて、散った兵を集めて、曹操は彼に軍糧を供給して、さらに兵を増やして東へ呂布を攻撃したよ。呂布は高順に劉備を攻めさせたんだ。曹操は、夏侯惇に援軍を送らせたけど、劉備を救うことはできなくて、結局高順に敗れて、ふたたび劉備の妻と子供は捕らえられて呂布に送られちゃった。
曹操は東へ向かって、劉備を助けて下邳で呂布を包囲して、呂布を生け捕りにしたよ。劉備は妻と子供を取り戻して、曹操に従って許に帰ったよ。
英雄記曰:建安三年春,布使人齎金欲詣河內買馬,為備兵所鈔。布由是遣中郎將高順、北地太守張遼等攻備。九月,遂破沛城,備單身走,獲將士妻息。十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征。
『英雄記』によると、建安3年(198年)の春、呂布は使者に金を持たせて、河内で馬を買おうとしたけど、その金は劉備の兵に奪われちゃったんだって。この出来事があったから、呂布は中郎将の高順や北地太守(郡の長官)の張遼たちに劉備を攻めさせたんだ。九月には沛城を破って、劉備はひとりで逃げて、将や兵、妻や子供が捕らえられちゃった。十月には曹操が自ら呂布を討つために動いて、劉備は梁国の境界で曹操と出会って、彼に従って東に向かったよ。
表先主為左將軍,禮之愈重,出則同輿,坐則同席。袁術欲經徐州北就袁紹,曹公遣先主督朱靈、路招要擊術。未至,術病死。
曹操は劉備を左将軍に任命して、彼に対する待遇はもっと厚くなったよ。外出の時には同じ輿に乗って、座る時には同じ席に座らせたんだ。
袁術は徐州を通って北へ行って、袁紹と合流しようとしたの。曹操は劉備に朱霊と路招を指揮して袁術を攻撃するように命令したよ。でも、軍が着く前に、袁術は病死しちゃった。
曹操に反乱する
先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承(註13)辭受帝衣帶中密詔,當誅曹公。先主未發。是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄,惟使君與操耳。本初之徒,不足數也。」先主方食,失匕箸。(註14)遂與承及長水校尉种輯、將軍吳子蘭、王子服等同謀。會見使,未發。事覺,承等皆伏誅。(註15)
劉備がまだ出発する前、献帝の舅で車騎将軍の董承は、帝から帯の中に隠された密詔を受け取ったよ。その中に「曹操を討つべき」と命令があったの。劉備はまだ行動を起こしていなかったよ。この時、曹操は落ち着いて劉備にこう言ったよ。
「今、天下の英雄の中で、あなたと私だけが真の英雄だよ。袁本初(袁紹)の一味は数えるに足りないよ」
劉備は食事をしていたけど、びっくりして匙と箸を落としちゃった。それを見た董承は、長水校尉の种輯、将軍の呉子蘭、王子服たちと一緒に計画を立てたよ。劉備は徐州に出発して、まだ行動に移していなかったけど、計画が見つかっちゃって、董承たちはみんな処刑されたよ。
臣松之按:董承,漢靈帝母董太后之姪,於獻帝為丈人。蓋古無丈人之名,故謂之舅也。
裴松之が調べたところ、董承は、漢の霊帝の母である董太后の甥で、献帝にとっては義父にあたるよ。古代には義父の呼称がなかったから、彼を舅と呼ぶんだろうね。
華陽國志云:于時正當雷震,備因謂操曰:「聖人云『迅雷風烈必變』,良有以也。一震之威,乃可至於此也!」
『華陽国志』によると、当時、ちょうど雷鳴と激しい雷雨が起こっていたんだ。劉備は曹操にこう言ったよ。
「聖人は『迅雷と風烈は必ず変化をもたらす』と言ったよ。これには確かな理由があるよね。ひとつの雷鳴の威力が、まさにこれほどとは!」
『迅雷風烈必變』は『論語』「郷党」から。激しい雷や激しい風などの異変があると、これを天のいましめとして慎みの態度を取ったんだって。
獻帝起居注曰:承等與備謀未發,而備出。承謂服曰:「郭多有數百兵,壞李傕數萬人,但足下與吾同不耳!昔呂不韋之門,須子楚而後高,今吾與子由是也。」服曰:「惶懼不敢當,且兵又少。」承曰:「舉事訖,得曹公成兵,顧不足邪?」服曰:「今京師豈有所任乎?」承曰:「長水校尉种輯、議郎吳碩是吾腹心辦事者。」遂定計。
『献帝起居注』によると、董承たちが劉備との計画をまだ実行に移さないうちに、劉備は出発しちゃった。董承は王子服にこう言ったよ。
「郭汜は数百の兵しか持っていなかったけど、李傕の数万の兵を壊滅させたよ。ただ、あなたと私は同じ立場ではないと言えるの? 昔、呂不韋は子楚が現れるのを待って高貴になったよ。今、私たちとあなたとは同じような立場だよね」
王子服はこう言ったよ。
「私は恐れ多くて、受けられないよ。しかも、兵も少ないんだ」
董承はこう言ったよ。
「計画を実行すれば、曹操の軍勢を得られるよ。それで不足はないよね?」
王子服はこう言ったよ。
「今、都で私たちが任せられる人がいるの?」
董承はこう答えたよ。
「長水校尉の种輯や議郎の呉碩は私の信頼できる側近だよ」
こうして計画が決まったよ。
先主據下邳。靈等還,先主乃殺徐州刺史車冑,留關羽守下邳,而身還小沛。(註16)
劉備は下邳を占拠したよ。朱霊たちが帰ったら、劉備は徐州刺史(州の長官)の車冑を殺して、関羽を下邳に留めて自分は小沛に戻ったよ。
胡沖吳歷曰:曹公數遣親近密覘諸將有賔客酒食者,輒因事害之。備時閉門,將人種蕪菁,曹公使人闚門。旣去,備謂張飛、關羽曰:「吾豈種菜者乎?曹公必有疑意,不可復留。」其夜開後柵,與飛等輕騎俱去,所得賜遺衣服,悉封留之,乃往小沛收合兵衆。
胡沖の『呉歴』によると、曹操はよく身近な人を送り込んで将たちの客や飲食を監視して、口実をつくって殺していたんだって。劉備はこの時、門を閉じて、人々にカブを植えさせたよ。ある日、曹操の使者が門を調べたよ。曹操の使者が去った後、劉備は張飛と関羽にこう言ったよ。
「私たちは野菜を育てているわけではないよ。曹操は必ず疑いを抱いているから、ここに留まるべきではないね」
その夜、後ろの柵を開いて、張飛や関羽と一緒に軽騎兵で去ったよ。手に入れた贈り物や衣服はすべて封をして置いて、そして小沛に向かって兵を集めたよ。
臣松之案:魏武帝遣先主統諸將要擊袁術,郭嘉等並諫,魏武不從,其事顯然,非因種菜遁逃而去。如胡沖所云,何乖僻之甚乎!
裴松之が調べたところ、曹操は劉備に命令して、袁術を攻撃するように将たちを指揮させたよ。郭嘉たちは進言したけど、曹操はそれに従わなかったよ。この事実は明らかで、野菜を育てていたから疑われて逃げたわけではないよ。胡沖の説明は理にかなっていないね!
東海昌霸反,郡縣多叛曹公為先主,衆數萬人,遣孫乾與袁紹連和,曹公遣劉岱、王忠擊之,不克。五年,曹公東征先主,先主敗績。(註17)曹公盡收其衆,虜先主妻子,并禽關羽以歸。
東海の出身の昌覇(昌豨)が反乱を起こして、たくさんの郡や県が曹操に対して反乱して、劉備の下に数万人も集まったよ。劉備は孫乾を送って袁紹と連携して、曹操は劉岱と王忠を送って対抗したけど、勝てなかったの。
建安5年(200年)、曹操は劉備を討つために東へ向かって、劉備は敗れちゃった。曹操は劉備の軍勢を完全に撃破して、曹操の妻と子供を捕らえて、そして関羽を捕らえて連れ帰ったよ。
魏書曰:是時公方有急於官渡,乃分留諸將屯官渡,自勒精兵征備。備初謂公與大敵連,不得東,而候騎卒至,言曹公自來。備大驚,然猶未信。自將數十騎出望公軍,見麾旌,便棄衆而走。
『魏書』によると、この時、曹操は官渡で追い詰められていて、将たちを分けて部隊を留めて官渡を守らせて、自分は精鋭の兵を率いて劉備を討つために出征したよ。劉備は最初、曹操は大きな敵に直面しているから東へ進めないと考えていたんだ。でも、偵察の騎兵が着いて、曹操が自らやってくるという報告を受けて、劉備はとても驚いたけど、まだ信じていなかったんだ。劉備は数十人の騎兵を率いて曹操の軍勢を見に行ったよ。旗を見つけると、劉備は急いで部下を置いて逃げ出しちゃった。
先主走青州。青州刺史袁譚,先主故茂才也,將步騎迎先主。先主隨譚到平原,譚馳使白紹。紹遣將道路奉迎,身去鄴二百里,與先主相見。(註18)
劉備は青州に逃げたよ。青州刺史(州の長官)の袁譚は、劉備の昔の茂才だったから、歩兵と騎兵を率いて劉備を迎えに行ったよ。劉備は袁譚に従って平原に着いて、袁譚は使者を送って袁紹に報告したんだ。袁紹は将に迎えさせて、自分も鄴まで200里の距離を走って、劉備と会見したよ。
魏書曰:備歸紹,紹父子傾心敬重。
『魏書』によると、劉備が袁紹のもとに行ってから、袁紹と子供たちは心から敬意を持って、お互いに尊重し合っていたよ。
駐月餘日,所失亡士卒稍稍來集。曹公與袁紹相拒於官渡,汝南黃巾劉辟等叛曹公應紹。紹遣先主將兵與辟等略許下。關羽亡歸先主。
劉備は青州に滞在して1ヶ月以上経って、失われた兵たちがだんだん集まり始めたんだ。その頃、曹操と袁紹は官渡で対立していて、汝南の黄巾賊の劉辟たちは曹操に反抗して、袁紹に味方していたよ。袁紹は劉備に劉辟たちと一緒に許の周辺を襲撃させたよ。この時、関羽は劉備の元に逃げて帰って来たよ。
曹公遣曹仁將兵擊先主,先主還紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連荊州牧劉表。紹遣先主將本兵復至汝南,與賊龔都等合,衆數千人。曹公遣蔡楊擊之,為先主所殺。
曹操は曹仁に劉備を攻めさせたよ。劉備は袁紹の軍に戻ったけど、内心では袁紹から離れることを考えていたの。そこで、劉備は袁紹に、南へ行って荊州牧の劉表と連携する提案をしたよ。袁紹は劉備に本隊を率いて汝南に戻らせて、賊の龔都たちと合流させて、勢力は数千人になったよ。曹操は蔡陽に彼らを攻めさせたけど、劉備の手によって蔡陽は討たれちゃった。
荊州の新野で
曹公旣破紹,自南擊先主。先主遣麋笁、孫乾與劉表相聞,表自郊迎,以上賔禮待之,益其兵,使屯新野。荊州豪傑歸先主者日益多,表疑其心,陰禦之。(註19)(註20)(註21)
曹操が袁紹を破った後、南へ行って劉備を攻撃したよ。劉備は麋竺と孫乾を劉表のもとに使者として送って、劉表は郊外で劉備を出迎えて、客として厚くもてなして、さらに兵を加えて、新野に駐屯させたよ。でも、荊州の有力者たちが次々と劉備に寄り集まってきたから、劉表は劉備の心を疑って、警戒していたんだって。
九州春秋曰:備住荊州數年,甞於表坐起至厠,見髀裏肉生,慨然流涕。還坐,表怪問備,備曰:「吾常身不離鞍,髀肉皆消。今不復騎,髀裏肉生。日月若馳,老將至矣,而功業不建,是以悲耳。」
『九州春秋』によると、劉備は荊州に数年住んでいたよ。ある日、劉表のもとで座っていた劉備は、立ち上がってお手洗いに行って、自分の太ももの裏に肉がついているのを見つけちゃって、悲しみの涙が流れたの。劉備が座ると、劉表はびっくりして劉備に尋ねたよ。劉備はこう言ったよ。
「私はいつも馬から離れたことがなくて、太ももの肉はすべて消えていたんだ。でも今、もう馬に乗らなくなったから、太ももの裏に肉がついてきちゃった。日と月は速く過ぎ去って、老いは間近に迫っているんだ。それなのに、功績は築けていなくて、だから悲しいの」
「髀肉の嘆」だね。
世語曰:備屯樊城,劉表禮焉,憚其為人,不甚信用。曾請備宴會,蒯越、蔡瑁欲因會取備,備覺之,偽如厠,潛遁出。所乘馬名的盧,騎的盧走,墮襄陽城西檀溪水中,溺不得出。備急曰:「的盧:今日厄矣,可努力!」的盧乃一踊三丈,遂得過,乘桴渡河,中流而追者至,以表意謝之,曰:「何去之速乎!」
『世語』によると、劉備は樊城に駐屯していたよ。劉表は劉備に敬意を表していたけど、彼を警戒して、あまり信用していなかったんだって。
ある時、劉備を宴会に招待することになって、蒯越と蔡瑁はこの機会を利用して劉備を捕らえようと企んでいたんだ。劉備はその計画に気づいて、お手洗いに行くふりをして、こっそりと逃げ出したよ。劉備が乗っていた馬は「的盧」という名前だよ。的盧を走らせて、劉備は襄陽城の西にある檀溪の川の中に落ちちゃって、出られなくなっちゃった。劉備は焦ってこう言ったよ。
「的盧よ、今日は災難だな。がんばれ!」
的盧はひととびして3丈も跳び越えて、無事に乗り越えたよ。劉備は桴に乗って川を渡っていたら、川の中程で追手が来て、「どうしてこんなに速く去るの!」と言ったよ。
孫盛曰:此不然之言。備時羈旅,客主勢殊,若有此變,豈敢晏然終表之世而無釁故乎?此皆世俗妄說,非事實也。
孫盛によると、これは事実ではない話だよ。当時、劉備は他人の土地に身を寄せていて、主従関係がはっきりしていたから、もしもこんな変な事件が起きたら、劉備は平穏に余生を送って何の争いもなく終わることができるはずがないよね。これはすべて世間のでたらめな噂話で、実際の出来事ではないよ。
使拒夏侯惇、于禁等於博望。乆之,先主設伏兵,一旦自燒屯偽遁,惇等追之,為伏兵所破。
曹操は夏侯惇、于禁たちを博望で抵抗させたよ。しばらくして、劉備は伏兵を配置して、突然自分たちの陣営を焼いて、逃げたみたいに見せたよ。夏侯惇たちは追いかけたけど、伏兵によって破られたよ。
劉表のもとを去る
十二年,曹公北征烏丸,先主說表襲許,表不能用。(註22)
建安12年(207年)、曹操は烏丸(うがん)族に対して北へ征伐をしたよ。この時、劉備は劉表に許を攻撃するよう提案したけど、劉表はこれを受け入れなくて、実行されなかったよ。
漢晉春秋曰:曹公自柳城還,表謂備曰:「不用君言,故為失此大會。」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於後者,則此未足為恨也。」
『漢晋春秋』によると、曹操が柳城から帰った後、劉表は劉備にこう言ったよ。
「あなたの意見を受け入れなかったから、この大きな機会を失っちゃった」
劉備はこう答えたよ。
「今、天下は分裂して、日々戦乱が続いているよ。これからの機会に、果たして終わりがあるのかな? もしそれに備えられるなら、今回のことは恨むべきことではないよ」
曹公南征表,會表卒,(註23)(註24)子琮代立,遣使請降。先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其衆去。過襄陽,諸葛亮說先主攻琮,荊州可有。先主曰:「吾不忍也。」(註25)
曹操が劉表を討つために南へ進むと、劉表が亡くなって、彼の子の劉琮が後を継いで立つと、使者を送って降伏を申し出たんだ。
その頃、劉備は樊に駐屯していて、曹操の動きを知らなくて、宛に着いたときに初めてそのことを聞いて、仲間たちと逃げたよ。それから、劉備は襄陽を通って、諸葛亮から「劉琮を攻めて荊州を手に入れるべきだよ」と勧められたんだ。でも、劉備はこう答えたよ。
「私はそんなことをするなんて堪えられないよ」
さりげなく出て来る諸葛亮さん。
英雄記曰:表病,上備領荊州刺史。
『英雄記』によると、劉表が病気になった時、上表して劉備を荊州刺史(州の長官)にしたよ。
魏書曰:表病篤,託國於備,顧謂曰:「我兒不才,而諸將並零落,我死之後,卿便攝荊州。」備曰:「諸子自賢,君其憂病。」或勸備宜從表言,備曰:「此人待我厚,今從其言,人必以我為薄,所不忍也。」
『魏書』によると、劉表は病気が悪化して、自分の国を劉備に託したよ。劉表は劉備にこう言ったよ。
「私の子供たちは未熟で、将たちは散り散りになっているの。私が亡くなった後、あなたが荊州を治めてよ」
でも、劉備はこう言ったよ。
「あなたの子供たちはみんな優秀だよ。あなたは自分の健康を心配すべきだよ」
ある人は劉備に劉表の言葉に従うべきだと勧めたけど、劉備は答えたよ。
「彼は私に親切にしてくれたよ。今、彼の言葉に従ったら、人たちは私を薄情だと思うよね。それは私が堪えられないよ」
臣松之以為表夫妻素愛琮,捨適立庶,情計乆定,無緣臨終舉荊州以授備,此亦不然之言。
裴松之の見解によると、劉表夫妻は劉琮を愛していて、庶子を選んで嫡子を捨てたこと、その感情や計画がしっかりと確立されていたことから、亡くなる間際に荊州を劉備に託すような理由はないと考えるよ。
孔衍漢魏春秋曰:劉琮乞降,不敢告備。備亦不知,乆之乃覺,遣所親問琮。琮令宋忠詣備宣旨。是時曹公在宛,備乃大驚駭,謂忠曰:「卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎!」引刀向忠曰:「今斷卿頭,不足以解忿,亦恥大丈夫臨別復殺卿輩!」遣忠去,乃呼部曲議。或勸備劫將琮及荊州吏士徑南到江陵,備荅曰:「劉荊州臨亡託我以孤遺,背信自濟,吾所不為,死何面目以見劉荊州乎!」
孔衍の『漢魏春秋』によると、劉琮は降伏を求めていて、劉備には打ち明けなかったから、劉備は降伏を知らなかったんだ。劉備はしばらくして気づいて、親しい者を送って劉琮に問いただしたよ。劉琮は宋忠を劉備のもとに送って意志を伝えたよ。この時、曹操はすでに宛にいて、劉備はすごく驚いて、宋忠にこう言ったよ。
「あなたたちがこうした行動を起こすのに、早く私に伝えなかったよね。今、災難がやってきてから私に知らせるのはあまりにも遅すぎるよ!」
劉備は剣を手に宋忠に向かって言ったよ。
「今、あなたの首を断っても私の怒りを鎮めるには足りないし、それに、大丈夫としての面目を保つのにふさわしくないね」
宋忠を帰らせた後、劉備は部下たちと協議したよ。誰かが劉備に対して、劉琮と荊州の役人たちを強引に連れて、南の江陵に向かうように提案したよ。劉備はこう答えたよ。
「劉荊州(劉表)は死に際に私に孤児を託してくれたよ。信義に背いて成功しに行くことは、私がするべきことではないよ。死んでからどうして彼に顔向けできるの!」
乃駐馬呼琮,琮懼不能起。琮左右及荊州人多歸先主。(註26)比到當陽,衆十餘萬,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵。
劉備は馬を止めて、劉琮を呼んだよ。劉琮は恐れて起き上がれなかったんだ。劉琮の周りや荊州の人たちの多くは、劉備に忠誠を誓ったよ。
当陽に着いた時、劉備の軍勢は十数万人もいて、補給物資は数千両もあったよ。彼らは毎日十数里ずつしか進めなかったんだ。そして、関羽に数百隻の船を与えて、江陵で合流するように命令したよ。
典略曰:備過辭表墓,遂涕泣而去。
『典略』によると、劉備は劉表の墓を訪れて、涙を流しながら去っていったよ。
或謂先主曰:「宜速行保江陵,今雖擁大衆,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之?」先主曰:「夫濟大事必以人為本,今人歸吾,吾何忍棄去!」
ある人が劉備にこう言ったよ。
「はやく江陵に行って守るべきだよ。今、大勢力を持っているけど、鎧を着た兵は少ないよ。もし曹操の軍勢が来たら、どうやって対抗するつもり?」
劉備はこう答えたよ。
「大きな使命を果たすには、人が最も大切だよ。今、人が私について来てくれているから、私は彼らを捨てることはできないよ!」
長坂と赤壁
曹公以江陵有軍實,恐先主據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂。先主棄妻子,與諸葛亮、張飛、趙雲等數十騎走,曹公大獲其人衆輜重。先主斜趣漢津,適與羽舩會,得濟沔,遇表長子江夏太守琦衆萬餘人,與俱到夏口。
曹操は、江陵には軍の物資がたくさんあるから、劉備に占領されることを恐れて、補給物資を解いて、軽装の軍勢で襄陽に急いで行ったよ。劉備がすでに過ぎ去ったことを聞いた曹操は、5,000人の精鋭の騎兵を率いて急いで追いかけて、一日一夜で300里以上も進んで、当陽の長坂に着いたよ。
劉備は妻と子供を捨てて、諸葛亮、張飛、趙雲たちと数十騎を率いて逃走したよ。曹操は彼らの兵と補給物資をたくさん手に入れたよ。劉備は進路を漢津に変えて、ちょうど関羽と船で出会って、沔水を渡ったよ。劉表の長子で江夏太守(郡の長官)の劉琦も1万人以上の兵と一緒に夏口に着いたんだ。
先主遣諸葛亮自結於孫權,(註27)權遣周瑜、程普等水軍數萬與先主并力,與曹公戰于赤壁,大破之,焚其舟船。
劉備は諸葛亮を送って孫権と連携したよ。孫権は周瑜や程普たちが率いる数万の水軍を劉備と合流させて、赤壁で曹操と戦ったよ。彼らは曹操の軍に大勝利を収めて、船を焼き尽くしたよ。
江表傳曰:孫權遣魯肅弔劉表二子,并令與備相結。肅未至而曹公已濟漢津。肅故進前,與備相遇於當陽。因宣權旨,論天下事勢,致殷勤之意。且問備曰:「豫州今欲何至?」備曰:「與蒼梧太守吳巨有舊,欲往投之。」
『江表伝』によると、孫権は魯粛を送って劉表の2人の子供たちにお悔みを述べて、彼らに劉備と同盟するように伝えたよ。魯粛がまだ着いていなかった時、曹操はすでに漢津を渡っていたんだ。魯粛は急いで進んで、当陽で劉備と出会ったよ。その時に、孫権の意向を伝えて、天下の情勢について熱心に話し合ったよ。魯粛は劉備にこう質問したよ。
「あなたは今、どこに行きたいの?」
劉備はこう答えたよ。
「蒼梧太守の呉巨と古いつながりがあるから、彼のもとに身を寄せたいと思っているんだ」
肅曰:「孫討虜聦明仁惠,敬賢禮士,江表英豪咸歸附之,已據有六郡,兵精糧多,足以立事。今為君計,莫若遣腹心使自結於東,崇連和之好,共濟世業,而云欲投吳巨,巨是凡人,偏在遠郡,行將為人所併,豈足託乎?」備大喜,進住鄂縣,即遣諸葛亮隨肅詣孫權,結同盟誓。
魯粛はこう言ったよ。
「孫権は賢明で仁にあふれていて、賢者を尊重して士人を礼をもってもてなすんだ。江表の英雄たちは彼に従っていて、すでに6つの郡を支配していて、兵も豊富だよ。今、あなたのために計ると、東方に使者を送って、連携と友好関係を築くべきだよ。一緒に世の中のことを築いていけるはずだよ。それなのに、呉巨に身を寄せようとするのは、呉巨は普通の人で、遠い郡にいるだけで、他人に併合される可能性が高いから、身を託せるほどの信用はないよね」
劉備はとても喜んで、鄂県に進軍したよ。すぐに諸葛亮を魯肅と一緒に孫権のもとへ行かせて、同盟を結んで誓いを立てたよ。
先主與吳軍水陸并進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸。(註28)
劉備は呉軍と一緒に水上と陸上の両方から進軍して、南郡まで追撃したよ。この時、疫病が広がって、曹操の軍のたくさん兵が亡くなっちゃったから、曹操は軍を引き返したんだ。
江表傳曰:周瑜為南郡太守,分南岸地以給備。備別立營於油江口,改名為公安。劉表吏士見從北軍,多叛來投備。備以瑜所給地少,不足以安民,後從權借荊州數郡。
『江表伝』によると、周瑜は南郡太守(郡の長官)に任命されて、長江の南岸の地域を劉備に分け与えたよ。劉備は油江口に独自の陣営を建てて、この地を「公安」に改名したよ。劉表の役人や兵は曹操に従いたくなくて、たくさんの人が劉備の元に投降してきたんだって。劉備は周瑜から与えられた土地が少なかったから、民を安定させるには足りなかったんだ。その後、孫権から荊州の数郡を借り受けることになったよ。