正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その4

正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「文帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)() について書かれているよ!

本文中で曹丕は「文帝」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹丕」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

文帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、江陵の戦いから最後までだよ。

出典

三國志 : 魏書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

江陵から撤退する

本文

四年春正月,詔曰:「喪亂以來,兵革未戢,天下之人,互相殘殺。今海內初定,敢有私復讎者皆族之。」築南巡臺于宛。三月丙申,行自宛還洛陽宮。癸卯,月犯心中央大星。(註44)丁未,大司馬曹仁薨。是月大疫。

黄初4年(223年)、春の正月、詔を下してこう言ったよ。
「世が乱れてから、武力衝突が収まらないで、天下の人たちはお互いに殺し合っているの。今、国内は初めて安定したから、私的に復讐する者はみんな家族ごと滅ぼすよ」
南巡台を(えん)に築いたよ。三月の丙申の日、(えん)から洛陽宮に行幸したよ。癸卯の日、月が心宿(さそり座)の中央の大星をかすめたんだ。丁未の日、(だい)()()(そう)(じん)が亡くなったよ。この月、流行病が発生したんだ。

(註44)

魏書載丙午詔曰:「孫權殘害民物,朕以寇不可長,故分命猛將三道並征。今征東諸軍與權黨呂範等水戰,則斬首四萬,獲船萬艘。大司馬據守濡須,其所禽獲亦以萬數。中軍、征南攻圍江陵,左將軍張郃等舳艫直渡,擊其南渚,賊赴水溺死者數千人,又為地道攻城,城中外雀鼠不得出入,此几上肉耳!

()(しょ)』によると、丙午の日、詔を下してこう言ったよ。
(そん)(けん)は民や資産を残虐に扱っているよ。私は敵対行為が長引いてはならないと考えたから、猛将たちに命令を分けて三方面に並んで行軍させたよ。今、((そう)(きゅう)が指揮する)征東の軍が(そん)(けん)とその仲間の(りょ)(はん)たちと水戦をしたけど、首を4万も斬って、船を1万艘も捕らえたよ。(だい)()()(そう)(じん))は(じゅ)(しゅ)を守って、その捕らえたものも1万に及んだよ。中軍と征南の軍は(こう)(りょう)を攻めて包囲して、()(しょう)(ぐん)(ちょう)(こう)たちは船で直接長江を渡って、その南の渚を攻撃して、敵は水に飛び込んで数千人が溺れ死んだよ。それに、地道を掘って城を攻めて、城の中と外は雀や鼠ですら出入りできなかったんだ。これはまさに食卓の上の肉といえるね!

(註44)

而賊中癘氣疾病,夾江塗地,恐相染污。昔周武伐殷,旋師孟津,漢祖征隗嚻,還軍高平,皆知天時而度賊情也。且成湯解三面之網,天下歸仁。今開江陵之圍,以緩成死之禽。且休力役,罷省繇戍,畜養士民,咸使安息。」

一方で敵の軍内では病気が広がって、長江のほとりを汚して、これに触れると汚染される恐れがあるよ。昔、(しゅう)()(おう)(いん)を討って、(もう)(しん)で師を帰らせたよ。(かん)の祖((りゅう)(しゅう))は(かい)(ごう)を征伐したけど、(こう)(へい)で軍を帰したよ。これはみんな、天の時を知って、敵の情勢を見極めたからだよ。昔、(せい)(とう)は三面の網を解いて、天下はその仁に帰したね。今、(こう)(りょう)の包囲を解いて、死にかけた禽を緩めることにしよう。そして、兵を休ませて、戦う兵を緩和して、士人を養って、みんなを安心させよう」

病気持って帰ったのかな。

本文

夏五月,有鵜鶘鳥集靈芝池,詔曰:「此詩人所謂污澤也。曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,今豈有賢智之士處于下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁德茂才、獨行君子,以荅曹人之刺。」(註45)

夏の五月、霊芝池にペリカンが集まったんだって。詔を下してこう言ったよ。
「これは『()(きょう)』が言うところの汚沢(汚れた沢をすくうこと)だね。『()(きょう)』の曹風の詩『(こう)(じん)』には『恭公が君子を遠くにして小人を近くにするのを非難する』とあるけど、今、賢明で知恵のある者が下位にいるのかな? そうでなければ、どうしてこの鳥たちがやってくるの? 天下に広く優れた徳や才能を持つ人たち、独立した君子たちを広く募って、曹風の詩への答えにしようよ」

(註45)

魏書曰:辛酉,有司奏造二廟,立太皇帝廟,大長秋特進侯與高祖合祭,親盡以次毀;特立武皇帝廟,四時享祀,為魏太祖,萬載不毀也。

()(しょ)』によると、辛酉の日、役人たちが2つの廟を造ることを奏上したよ。ひとつは、太皇帝((そう)(すう))の廟で、(だい)(ちょう)(しゅう)(とく)(しん)(こう)(そう)(とう))と(こう)()(そう)(せつ))を合わせて祭って、近しい関係が尽きたら、順序に従って廃止すること。もうひとつは、武皇帝((そう)(そう))の廟で、四季に祭祀を行って、()(たい)()として、永きにわたって廃しないことだよ。

曹彰、賈詡の死

本文

六月甲戌,任城王彰薨于京都。甲申,太尉賈詡薨。太白晝見。是月大雨,伊、洛溢流,殺人民,壞廬宅。(註46)

六月、甲戌の日、(じん)(じょう)(おう)(そう)(しょう)が都((らく)(よう))で亡くなったよ。甲申の日、(たい)()()()が亡くなったよ。金星が昼間に見えたんだって。この月、大雨が降って、()(すい)(らく)(すい)が氾濫して、たくさんの人たちが亡くなって、家屋が壊れたんだ。

(註46)

魏書曰:七月乙未,大軍當出,使太常以特牛一告祠于郊。

()(しょ)』によると、七月の乙未の日、大軍が出陣することになって、(たい)(じょう)に特別な牛を1頭用意させて郊外で祭祀をするように命令したよ。

(註46)

臣松之按:魏郊祀奏中,尚書盧毓議祀厲殃事云:「具犧牲祭器,如前後師出告郊之禮。」如此,則魏氏出師,皆告郊也。

(はい)(しょう)()が調べたところ、()の郊祀の奏上書には、(しょう)(しょ)()(いく)が厲殃(災い)の祭りについて、「犠牲と祭器を用意して、前後の軍が出陣するときに郊外で告げるのが礼だよ」と述べているよ。このように、()の一族が出陣するときは、みんな郊外で告げるんだって。

本文

秋八月丁卯,以廷尉鍾繇為太尉。(註47)辛未,校獵于熒陽,遂東巡。論征孫權功,諸將已下進爵增戶各有差。九月甲辰,行幸許昌宮。(註48)

秋の八月、丁卯の日、(てい)()(しょう)(よう)(たい)()に任命したよ。辛未の日、(けい)(よう)で狩りを行って、そのまま東に巡幸したよ。(そん)(けん)を征伐した功績を調べて、将たち以下にそれぞれの功績に応じて爵位を進めて戸数を増やしたよ。九月、甲辰の日、許昌宮に行幸したよ。

(註47)

魏書曰:有司奏改漢氏宗廟安世樂曰正世樂,嘉至樂曰迎靈樂,武德樂曰武頌樂,昭容樂曰昭業樂,雲翹舞曰鳳翔舞,育命舞曰靈應舞,武德舞曰武頌舞,文昭舞曰大昭舞,五行舞曰大武舞。

()(しょ)』によると、役人たちが(かん)の王朝の宗廟で演奏される曲の名称を変更することを奏上したよ。安世楽を正世楽、嘉至楽を迎霊楽、武徳楽を武頌楽、昭容楽を昭業楽、雲翹舞を鳳翔舞、育命舞を霊応舞、武徳舞を武頌舞、文昭舞を大昭舞、五行舞を大武舞と改めたよ。

(註48)

魏書曰:十二月丙寅,賜山陽公夫人湯沐邑,公女曼為長樂郡公主,食邑各五百戶。是冬,甘露降芳林園。臣松之按:芳林園即今華林園,齊王芳即位,改為華林。

()(しょ)』によると、十二月の丙寅の日、(さん)(よう)(こう)(けん)(てい))の夫人((そう)(そう)の娘)に湯沐邑を与えて、彼の娘である劉曼(りゅうまん)(ちょう)(らく)郡の公主となって、それぞれ500戸の領地が授けられたよ。この冬には甘露が芳林園に降り注いだんだって。

(註48)

臣松之按:芳林園即今華林園,齊王芳即位,改為華林。

(はい)(しょう)()が調べたところ、芳林園は現在の華林園だよ。(せい)(おう)(そう)(ほう)が皇帝に即位すると、その名前が華林に変更されたんだって。

皇帝の名を避けるために変えたんだね。

広陵へ行く

本文

五年春正月,初令謀反大逆乃得相告,其餘皆勿聽治;敢妄相告,以其罪罪之。三月,行自許昌還洛陽宮。夏四月,立太學,制五經課試之法,置春秋穀梁博士。五月,有司以公卿朝朔望日,因奏疑事,聽斷大政,論辨得失。

黄初5年(224年)、春の正月、初めて謀反や大逆は告発できるけど、それ以外は告発を受け付けないで、無闇に告発する者はその罪(密告された者の罪)で罰する命令を下したよ。三月、(そう)()は自ら(きょ)(しょう)から洛陽宮に帰ったよ。
夏の四月、太学を立てて、五経の試験の方法を定めて、春秋穀梁博士を置いたよ。五月、役人たちは公卿たちに、月初めや15日に朝廷に参上したとき、政務を審議して、疑わしい事項を報告して、政治の決定を行って、得失を議論させたよ。

本文

秋七月,行東巡,幸許昌宮。八月,為水軍,親御龍舟,循蔡、頴,浮淮,幸壽春。揚州界將吏士民,犯五歲刑已下,皆原除之。九月,遂至廣陵,赦青、徐二州,改易諸將守。冬十月乙卯,太白晝見。行還許昌宮。(註49)

秋の七月、(そう)()は東へ巡幸して、許昌宮に行幸したよ。八月、水軍を編成して、自ら龍舟に乗って、蔡河と潁水をたどって淮水を渡って、寿(じゅ)(しゅん)に行幸したよ。(よう)州の境界にいる将や兵、役人や民で、5年以下の罪を犯した者はみんな赦されることになったんだ。九月、(こう)(りょう)に着いて、(せい)州と(じょ)州を赦して、各地の将を改めて置いたよ。
冬の十月、金星が昼間に見える出来事があったよ。(そう)()は許昌宮に帰ったよ。

(註49)

魏書載癸酉詔曰:「近之不綏,何遠之懷?今事多而民少,上下相弊以文法,百姓無所措其手足。昔泰山之哭者,以為苛政甚於猛虎,吾備儒者之風,服聖人之遺教,豈可以目翫其辭,行違其誡者哉?廣議輕刑,以惠百姓。」

()(しょ)』によると、癸酉の日の詔にはこうあるよ。
「近くの者が安らかでないのに、どうして遠くの者が心を寄せるの? 今は事が多くて民が少なくて、上下が法律によって困惑していて、民は手足を置くところがないんだ。昔、(たい)(ざん)で泣いた者は、民を苦しめる政治は猛虎よりもひどいと言ったね。私は儒者の流儀を理解して、聖人たちの教えに従っているよ。どうしてその言葉を目で見て楽しんだり、その戒めに背いたりできるの? 刑罰を軽くすることを広く議論して、民に恩恵を与えようよ」

本文

十一月庚寅,以兾州饑,遣使者開倉廩振之。戊申晦,日有食之。

十一月、庚寅の日、()州で飢饉が発生して、使者に倉庫を開かせて食糧を供給させたよ。戊申の晦日に、日食が起こったよ。

本文

十二月,詔曰:「先王制禮,所以昭孝事祖,大則郊社,其次宗廟,三辰五行,名山大川,非此族也,不在祀典。叔世衰亂,崇信巫史,至乃宮殿之內,戶牖之間,無不沃酹,甚矣其惑也。自今,其敢設非祀之祭,巫祝之言,皆以執左道論,著于令典。」是歲穿天淵池。

十二月、詔を下してこう言ったよ。
「先王が礼を制定したのは、孝を明らかにして祖先を祭るためだよ。最も大切なのは天地を祀る郊社で、次に先祖を祀る宗廟だよ。三辰(太陽・月・星)と五行、名山と大川は、祭祀の典には含まれないよ。世の末期は衰退して、迷信がはびこって、巫や史が崇拝されて、宮殿の中や戸や窓の間にも、あらゆる場所で酒を注いでいたね。これはすごく惑って乱れていたね。これからは、あえて非礼な祭りや巫や祝詞が行われることがあれば、左道(邪道)を執る者として令典に記してね」
そして、この年には天淵池が掘られたよ。

ふたたび呉を攻める

本文

六年春二月,遣使者循行許昌以東盡沛郡,問民所疾苦,貧者振貸之。(註50)

黄初6年(225年)、春の二月、使者を送って(きょ)(しょう)から東にある(はい)郡まで見て回らせて、民の苦しみや困窮を尋ねて、貧しい人たちには援助を与えたよ。

(註50)

魏略載詔曰:「昔軒轅建四面之號,周武稱『予有亂臣十人』,斯蓋先聖所以體國君民,亮成天工,多賢為貴也。今內有公卿以鎮京師,外設牧伯以監四方,至於元戎出征,則軍中宜有柱石之賢帥,輜重所在,又宜有鎮守之重臣,然後車駕可以周行天下,無內外之慮。

()(りゃく)』によると、詔を下してこう言ったよ。
「昔、(けん)(えん)は四方を統治する役割を果たして、(しゅう)()(おう)は『私には10人の有能な臣下がいる』と言ったよ。これは先の聖人たちが、国家と民を治めるために、たくさんの賢人が必要だから、賢人を重んじたことを示しているよ。
今、内には公卿が都を鎮めて、外には牧伯(州郡の長官)が四方を監督しているよ。皇帝が出征するときには、軍の中には柱石みたいな優れた指揮官が必要だし、軍の補給物資の管理には重要な臣下が必要だよ。そうすれば、天子の車は国内外の心配なく天下を巡ることができるよね。

(註50)

吾今當征賊,欲守之積年。其以尚書令潁鄉侯陳羣為鎮軍大將軍,尚書僕射西鄉侯司馬懿為撫軍大將軍。若吾臨江授諸將方略,則撫軍當留許昌,督後諸軍,錄後臺文書事;鎮軍隨車駕,當董督衆軍,錄行尚書事;皆假節鼓吹,給中軍兵騎六百人。吾欲去江數里,築宮室,往來其中,見賊可擊之形,便出奇兵擊之;若或未可,則當舒六軍以遊獵,饗賜軍士。」

今、私は敵を討とうとしていて、それには長い間その地を守り抜く必要があるんだ。だから、(しょう)(しょ)(れい)(えい)(きょう)(こう)(ちん)(ぐん)(ちん)(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)に、(しょう)(しょ)(ぼく)()西(せい)(きょう)(こう)()()()()(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)に任命するよ。もし私が長江に臨んで将たちに策を授けるときは、()()()(きょ)(しょう)に留まって、後方の軍を指揮して、後台(宮廷の文書事務)を管理してね。(ちん)(ぐん)は天子の車に付き従って、各軍を指揮して、(しょう)(しょ)の事務を管理してね。彼らには節と鼓吹(軍楽隊)を与えて、中軍の騎兵600人を与えるよ。
私は長江から数里離れたところに宮殿を築いて、そこを行き来しながら、敵を撃つ絶好の機会があれば奇兵を出撃させるよ。もし機会が無かったら、全軍を伸ばして狩猟をして、兵たちにもてなすね」

本文

三月,行幸召陵,通討虜渠。乙巳,還許昌宮。并州刺史梁習討鮮卑軻比能,大破之。辛未,帝為舟師東征。五月戊申,幸譙。壬戌,熒惑入太微。

三月、(しょう)(りょう)に行幸して、討虜渠(運河)を通じさせたよ。乙巳の日、許昌宮に戻ったよ。(へい)(しゅう)()()(州の長官)の(りょう)(しゅう)(せん)()族の()()(のう)を討って、大勝利を収めたんだ。辛未の日、(そう)()は水軍を率いて東へ向かったよ。五月、戊申の日、(しょう)に行幸したよ。壬戌の日には、火星が太微に入ったんだって。

本文

六月,利成郡兵蔡方等以郡反,殺太守徐質。遣屯騎校尉任福、步兵校尉段昭與青州刺史討平之;其見脅略及亡命者,皆赦其罪。

六月、()(せい)郡の兵の(さい)(ほう)たちが郡をあげて反乱して、(たい)(しゅ)(郡の長官)の(じょ)(しつ)を殺しちゃった。(そう)()(とん)()(こう)()(じん)(ふく)()(へい)(こう)()(だん)(しょう)を送って、(せい)(しゅう)()()(州の長官)と一緒に反乱を鎮圧したよ。脅されて従った者や逃亡した者は、罪を赦されたんだ。

本文

秋七月,立皇子鑒為東武陽王。八月,帝遂以舟師自譙循渦入淮,從陸道幸徐。九月,築東巡臺。冬十月,行幸廣陵故城,臨江觀兵,戎卒十餘萬,旌旗數百里。(註51)

秋の七月、皇子の(そう)(かん)(とう)()(よう)(おう)に立てたよ。八月、(そう)()は水軍を率いて(しょう)を出発して、渦水から淮水に進んで、陸路を進んで(じょ)州に行幸したよ。九月、東巡台を築いたよ。
冬の十月、(こう)(りょう)の古城に行って、長江に沿って軍の演習を観覧したよ。兵の数は10万を超えて、軍旗が数百里にわたっていたんだって。

(註51)

魏書載帝於馬上為詩曰:「觀兵臨江水,水流何湯湯!戈矛成山林,玄甲曜日光。猛將懷暴怒,膽氣正從橫。誰云江水廣,一葦可以航,不戰屈敵虜,戢兵稱賢良。古公宅岐邑,實始翦殷商。孟獻營虎牢,鄭人懼稽顙。充國務耕殖,先零自破亡。興農淮泗間,築室都徐方。量宜運權略,六軍咸恱康;豈如東山詩,悠悠多憂傷。」

()(しょ)』によると、(そう)()は馬上で詩を詠んだよ。
「兵を観て長江に臨むと、水は勢いよくどんどん流れているよ! 槍や矛が山や林みたいに、黒い鎧が日光に輝くよ。猛将たちは激しい怒りを抱いて、強い気概にあふれているよ。誰が言ったのかな、長江の水は広いけど、1本の葦で編んだ船(小舟)で渡れるって。戦わないで敵を従わせて、兵を出さなければ賢良と言われるんだ。(しゅう)()(こう)()(ゆう)()(ざん))に身を寄せて、(いん)を初めて討伐したよね。()(もう)(けん)()は虎牢を築いて、(てい)の人たちは畏れおののいて降参したよね。(ちょう)(じゅう)(こく)は農業を奨励して、(せん)(れい)(きょう))族は自ら破滅したよ。淮水と泗水の間で農業を興して、(じょ)州に住宅を築いたよ。正しい計略を使えば、全軍はみんなよろこぶよ。(『()(きょう)』の)東山の詩みたいに、どうして憂いを抱えることがあるのかな」

本文

是歲大寒,水道冰,舟不得入江,乃引還。十一月,東武陽王鑒薨。十二月,行自譙過梁,遣使以太牢祀故漢太尉橋玄。

この年はすごく寒くて、水路が凍って、船が長江に入れなくなっちゃった。だから、引き返すことになったんだ。十一月、(とう)()(よう)(おう)(そう)(かん)が亡くなったよ。十二月、(そう)()(しょう)を過ぎて(りょう)に行って、使者を送って太牢を捧げて、かつての(かん)(たい)()である(きょう)(げん)を祀ったよ。

曹丕の死

本文

七年春正月,將幸許昌,許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入。壬子,行還洛陽宮。三月,築九華臺。夏五月丙辰,帝疾篤,召中軍大將軍曹真、鎮軍大將軍陳羣、征東大將軍曹休、撫軍大將軍司馬宣王,並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛、昭儀已下歸其家。丁巳,帝崩于嘉福殿,時年四十。(註52)六月戊寅,葬首陽陵。自殯及葬,皆以終制從事。(註53)(註54)(註55)

黄初7年(226年)、春の正月、(そう)()は許昌に行幸するつもりだったけど、許昌城の南の門が理由もなく崩れ落ちちゃった。(そう)()はこれを不吉と感じて、(きょ)(しょう)に入ることをやめたよ。壬子の日、(そう)()は洛陽宮に戻ったよ。三月、九華台を築いたよ。
夏の五月、(そう)()は重い病気になっちゃって、(ちゅう)(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)(ちん)(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)(ちん)(ぐん)(せい)(とう)(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(きゅう)()(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)()()()を呼び寄せて、遺詔に基づいて後継者を補佐するようにと命令したんだ。後宮の淑媛や昭儀以下の宮女を家に帰らせたよ。丁巳の日、(そう)()は嘉福殿で亡くなって、その時は40歳だったよ。六月、戊寅の日、(そう)()は首陽陵に葬られたよ。棺に納められてから葬るまで、すべて遺言の制度に従って行ったよ。

(註52)

魏書曰:殯於崇華前殿。

()(しょ)』によると、(そう)()は崇華前殿で棺に納められたんだって。

(註53)

魏氏春秋曰:明帝將送葬,曹真、陳羣、王朗等以暑熱固諫,乃止。

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)(えい)は葬儀に参列しようとしたけど、(そう)(しん)(ちん)(ぐん)(おう)(ろう)たちが暑さを理由に強く諫めたから、やめたんだって。

(註54)

孫盛曰:夫窀穸之事,孝子之極痛也,人倫之道,於斯莫重。故天子七月而葬,同軌畢至。夫以義感之情,猶盡臨隧之哀,況乎天性發中,敦禮者重之哉!魏氏之德,仍世不基矣。昔華元厚葬,君子以為棄君於惡,羣等之諫,棄孰甚焉!

(そん)(せい)によると、葬儀のことは、孝行な子にとって最も悲しいことで、人としての道徳の中でも最も重んじられるものだよ。だから、天子は7ヶ月を経て葬儀をして、同じ国の人たちがみんな集まるよ。このように義理を尽くす感情でさえ、葬送の悲しみを引き起こすの。ましてや、天性から発する本当の感情であれば、礼儀を重んじる人にとってはなおさら重く受け止められるよ! 魏氏の徳は、代々続かなくて、基礎がなかったんだ。昔、()(げん)は厚く葬ったけど、君子はこれを悪いことだと考えたよ。(ちん)(ぐん)たちの諫めはそれ以上にひどいものだよ!

曹植の詩(文帝誄)

(註55)

鄄城侯植為誄曰:「惟黃初七年五月七日,大行皇帝崩,嗚呼哀哉!于時天震地駭,崩山隕霜,陽精薄景,五緯錯行,百姓呼嗟,萬國悲悼,若喪考妣,恩過墓唐,擗踊郊野,仰想穹蒼,僉曰何辜,早世殞喪,嗚呼哀哉!

(けん)(じょう)(こう)(そう)(しょく)(そう)()の弟)は悼んでこう言ったよ。
「黄初7年(226年)、5月7日、大行皇帝((そう)())が亡くなったよ。ああ、なんて悲しいことなの! その時、天は震えて、地は揺れて、山が崩れて、霜が降りて、太陽は薄くなって、五緯(木星・火星・土星・金星・水星)が乱れて動いたよ。人々は悲しみの声を上げて、すべての国が悲しみに暮れて、まるで両親を亡くしたかのようだったんだ。その恩徳は(ぎょう)の墓の上を越えて、原野で胸を手で叩いて地面を足で踏んで悲しんで、天を仰いで皇帝の死を嘆いたよ。みんなが『何の罪があって、こんなにも早く世を去らねばならなかったの』と嘆いているよ。ああ、悲しいことなの!

大行皇帝は、皇帝が諡号を贈られる前に与えられる称号だよ。

(註55)

悲夫大行,忽焉光滅,永棄萬國,雲往雨絕。承問荒忽,惛懵哽咽,袖鋒抽刃,歎自僵斃,追慕三良,甘心同穴。感惟南風,惟以鬱滯,終於偕沒,指景自誓。

悲しいことに、大行皇帝((そう)())が亡くなられて、突然その光が消えて、永遠にすべての国を捨てて、雲が去って、雨が途絶えたんだ。その知らせを聞いて、私は取り乱して、混乱で息を詰まらせて涙が溢れて、袖の内から剣を抜いて自分も彼に倣って死にたいと嘆いたんだ。三良(古の賢人)を思って、彼と一緒に墓に入ることを願ったんだ。南風を感じて思うと(『()(きょう)』「(がい)(ふう)」から)、ただ落ち込んでしまって、一緒に死を迎えようと決意したんだ。

三良は、()(しゃ)()(えん)(そく)(ちゅう)(こう)(かん)()だよ。(しん)(ぼく)(こう)に殉死した臣下だよ。『()(きょう)』にあるよ。

(註55)

考諸先記,尋之哲言,生若浮寄,惟德可論,朝聞夕逝,孔志所存。皇雖一沒,天祿永延,何以述德?表之素旃。何以詠功?宣之管絃。

先人の記録を考えて、賢人の言葉を思い出すと、人の一生はまるで浮かぶ木の葉のように儚いもので、ただ徳だけが語り継がれるべきものだと知ったよ。朝に真理を聞くことができたら夕方には亡くなってもいいとは、(こう)()の志がそうだったよね。皇帝が亡くなられても、天の恵みは永遠に続くの。その徳をどう表現すればよいの? 白い旗で表すよ。その功績をどう詠うべきなの? 管弦の音楽で伝えるよ。

(註55)

乃作誄曰:皓皓太素,兩儀始分,中和產物,肈有人倫,爰曁三皇,寔秉道真,降逮五帝,繼以懿純,三代製作,踵武立勳。季嗣不維,網漏于秦,崩樂滅學,儒坑禮焚,二世而殲,漢氏乃因,弗求古訓,嬴政是遵,王綱帝典,闃爾無聞。

だから、弔辞を作ったよ。
広大な宇宙が白々と広がって、陰陽が分かれて、中庸の力によって万物が生まれて、人間の道が始まったよ。そして三皇の時代になって、道の真理を体得し、五帝がこれを受け継いで、さらに純粋な徳の道を守ったよ。三代(()(いん)(しゅう))にわたって儀式や音楽などの制度が作られて、その遺産は偉業として続いたよ。
でも、後の世代がこれを守らないで、(しん)の時代になって、礼楽は破壊されて、学問が衰えて、儒者が穴に埋められて、礼が焼き払われたんだ。(しん)は2代で滅んで、(かん)の王朝がこれに続いたけど、古の教えを求めないで、(えい)(せい)(しん)の始皇帝)の道に従ったよ。天子の統治や、帝の法律は、静かに消えてしまって、何も残らなかったの。

(註55)

末光幽昧,道究運遷,乾坤迴歷,簡聖授賢,乃眷大行,屬以黎元。龍飛啟祚,合契上玄,五行定紀,改號革年,明明赫赫,受命于天。

わずかな光は暗くなって、道は尽きて、運命は変わって、天地は巡って、聖人が選ばれて、賢者に任されたよ。そして、天が我が帝を特別に選んで、民に与えられたよ。我が帝は即位して新たな運命を開いて、天上の道と一致して、五行が定められて、年号が改まったよ。輝かしく、天命を受けたんだ。

(註55)

仁風偃物,德以禮宣;祥惟聖質,嶷在幼妍。庻幾六典,學不過庭,潛心無罔,亢志青冥。才秀藻朗,如玉之瑩,聽察無嚮,瞻覩未形。其剛如金,其貞如瓊,如氷之絜,如砥之平。

仁の風が万物を覆って、徳が礼によって広まったよ。神聖なしるしを持つ帝は、幼い頃に早くも才知を発揮したんだ。六典(治国の法。治典、教典、礼典、政典、刑典、事典)を学んで、師長の教えを受ける前に、心を潜めて無駄なことを避けて、志は青天を目指したよ。才能が優れていて、言葉は清らかで鮮やかで、玉みたいに輝いていたよ。聞こえなくても見抜いて、形のないものも見通したの。彼の剛直さは金みたいで、貞節さは美しい玉みたいで、人格は氷みたいに清らかで、公正は砥石みたいに平らだったの。

(註55)

爵公無私,戮違無輕,心鏡萬機,攬照下情。思良股肱,嘉昔伊呂,搜揚側陋,舉湯代禹;拔才巖穴,取士蓬戶,唯德是縈,弗拘禰祖。宅土之表,道義是圖,弗營厥險,六合是虞。

爵を与える時には私心がなくて、功績に応じて賞を与えて、誤ったことには厳しく罰して、その心は鏡のように清らかで、万事を見通して、下々の者の気持ちまで理解していたんだよ。君主を支える臣下を求めて、昔の()(いん)(りょ)(しょう)をたたえて、才能を隠れた場所からも発掘して、()()に代わって(いん)(とう)を立てたみたいに、優れた人材を選んだよ。険しい山からも才人を見つけ出して、草庵に住む士人をも取り立てて、ただ徳を重んじて、先祖に縛られることはなかったんだ。

(註55)

齊契共遵,下以純民,恢折規矩,克紹前人。科條品制,襃貶以因。乘殷之輅,行夏之辰。金根黃屋,翠葆龍鱗,紼冕崇麗,衡紞惟新,尊肅禮容,矚之若神。

民と契約を結んで、一緒に道を守って、純粋な民を大切にして、規則を整えて、前人の業績を継いだよ。協力して同じ法に従って、下に向かって善い品行で民に教えて、法を広めて、先賢の遺業を継いだよ。規律や制度を整え、賞と罰を公平に行ったよ。(いん)の時代の車に乗って、()の時代の暦で物事を進めたよ。金根車(天子の乗る車)と黄屋(天子の乗る車の覆い)で、翠色の羽で飾られた服を身に着けて、頭には崇高で美しい冠を被って、冠の紐は新しくて、厳かで礼儀正しい姿は神々しいほどだったんだ。

(註55)

方牧妙舉,欽於恤民,虎將荷節,鎮彼四鄰;朱旗所勦,九壤被震,疇克不若?孰敢不臣?縣旌海表,萬里無塵。虜備凶徹,鳥殪江岷,權若涸魚,乾腊矯鱗,肅慎納貢,越裳效珍,條支絕域,侍子內賔。德儕先皇,功侔太古。

地方の役人を選び出して、民を憐れむことに専念して、勇敢な将が命を受けて四方を守って、征伐に赴く地には赤い旗を立てて、国の全土はすべて震え上がったよ。誰がこれに並べるの? あえて降伏しない人がいるの? 軍旗が海の果てにまで及んで、万里の地が平穏で塵一つないほどだよ。敵の(りゅう)()は凶悪だけど、野鳥みたいに岷江で狩られて、(そん)(けん)は水がなくなった轍の魚みたいに、すぐに干からびて鱗を剥がれて無力になるよ。北方の(しゅく)(しん)国は貢物を納めて、南方の(えつ)(しょう)国は珍しい品々を献上して、遠く離れた(じょう)()国も、一族を朝廷に送って天子に仕えているね。恩徳は先の皇帝((そう)(そう))に、功勲は太古の時代に並ぶほどだよね。

(註55)

上靈降瑞,黃初叔祜:河龍洛龜,淩波游下;平鈞應繩,神鸞翔舞;數莢階除,系風扇暑;皓獸素禽,飛走郊野;神鍾寶鼎,形自舊土;雲英甘露,瀸塗被宇;靈芝冒沼,朱華陰渚。回回凱風,祁祁甘雨,稼穡豐登,我稷我黍。家佩惠君,戶蒙慈父。圖致太和,洽德全義。

天が吉兆をもたらして、黄初の時代に吉兆が現れたよ。黄河には龍が、洛水には亀が現れて、波を越えて下流に泳いでいったの。天地は均衡を保っていて、神聖な鳳凰が空を舞ったよ。たくさんの豆が階段の間に生え出して、風が暑さを払ったよ。白い獣や鳥が郊外を飛び走って、神聖な鐘や宝鼎が古代の土地にその姿を見せたの。雲のような美しい花と甘露が地を潤して、宮殿を覆ったよ。沼地には霊芝が生えて、朱色の草が川を覆ったよ。心地よい風が吹いて、豊かな雨が降って、稲や粟が豊かに実ったよ。家々は慈悲深い君主に感謝して、すべての戸が慈愛に満ちた父の恩恵を受けているんだね。太和の理想を目指して、徳が広く行き渡って、正義が完全に達成されたんだ。

(註55)

將登介山,先皇作儷。鐫石紀勳,兼錄衆瑞,方隆封禪,歸功天地,賔禮百靈,勳命視規,望祭四嶽,燎封奉柴,肅于南郊,宗祀上帝。三牲旣供,夏禘秋甞,元侯佐祭,獻璧奉璋。鸞輿幽藹,龍旂太常,爰迄太廟,鍾鼓鍠鍠,頌德詠功,八佾鏘鏘。皇祖旣饗,烈考來享,神具醉止,降茲福祥。

介山((かい)()(すい)が母を連れて隠遁した山)に登る時には、先代の皇帝を伴って、その功績を記した石碑を刻んで、数々の吉兆を記録したんだ。封禅の儀式を盛大に行って、その功績を天地に捧げて、百の神々に礼を尽くしたんだ。勲章の授与は規則に従って、四嶽に対する祭りをして、燎祭や柴祭で天に祈って、南郊での祭祀をして、上帝に宗祀を捧げたよ。3匹の供物が供えられて、夏と秋に先祖に捧げられて、重臣や役人たちは祭祀に協力して、璧を献上して、璋を捧げたよ。鳳凰の飾りをつけた車は静かに進んで、儀仗隊と太常を従えて太廟に到着すると、鐘や鼓が響き渡って、徳をたたえて、功績を歌う歌が流れて、八佾の舞が鐘の音と共に鳴り響いたんだ。先祖はすでに祭品を召し上がって、亡き父が来て楽しんで、神々がすべての供物を受け入れて、ここに祝福と吉兆をもたらしたの。

(註55)

天地震蕩,大行康之;三辰暗昧,大行光之;皇紘絕維,大行綱之;神器莫統,大行當之;禮樂廢弛,大行張之;仁義陸沈,大行揚之;潛龍隱鳳,大行翔之;疏狄遐康,大行匡之。

天地が揺れ動いたとき、大行皇帝((そう)())がこれを鎮めて、三辰(太陽・月・星)が暗くなったとき、大行皇帝が光をもたらしたの。王冠の帯が途絶えたとき、大行皇帝がその綱を繋いだよ。政治を統べる者がいないとき、大行皇帝がそれを担ったよ。礼と音楽が廃れて衰えたとき、大行皇帝がこれを復興したよ。仁と義が地に落ちたとき、大行皇帝がこれを掲げたよ。潜んでいた龍や隠れていた鳳凰(隠遁した才能ある人たち)を、大行皇帝が飛び立たせたよ(才能を発揮させたよ)。遠くの国々との関係が疎遠になったとき、大行皇帝がこれを正したよ。

(註55)

在位七載,元功仍舉,將永太和,絕迹三五,宜作物師,長為神主,壽終金石,等筭東父,如何奄忽,摧身后土,俾我棾棾,靡瞻靡顧。嗟嗟皇穹,胡寧忍務?嗚呼哀哉!

7年間の治世で、大きな功績を次々と成し遂げて、永遠の太和を築こうとして、その功勲は三皇や五帝を遥かに超えて、あらゆるものの模範となる存在になったよ。永遠に主君として崇められるべきで、その寿命は金石のように長くて、(とう)(おう)()みたいに尊ばれるべきなんだ。でも、突然に天に召されて、その身を大地に帰したのかな。私はひとり、悲しみに暮れて、どこにも頼るものがないの。ああ、天帝よ、どうして私にこのように耐えられないことをするの? ああ、哀しいことだよ!

(註55)

明監吉凶,體遠存亡,深垂典制,申之嗣皇。聖上虔奉,是順是將,乃剏玄宇,基為首陽,擬迹穀林,追堯慕唐,合山同陵,不樹不疆,塗車芻靈,珠玉靡藏。百神警侍,來賔幽堂,耕禽田獸,望魂之翔。

吉や凶を明確に見極めて、遠く離れた生と死のことを心に留めて、深く典制を定めて、それを次の皇帝に引き継いだよ。聖なる上帝はこれを敬虔に受け入れて、順応し、行動に移したんだ。そして玄宇を創って、首陽山を基礎として、谷林の墓を模して、(ぎょう)への追慕と敬慕を表現したね。山林と一体となって、陵墓を同じ場所にして、樹木を植えないで、土を盛らなかったんだ。泥で作った車と草で編んだ人馬を葬送の品として、金玉や宝石は使われないよ。百の神々が警戒しつつ守って、幽堂に集まったよ。耕す鳥や田を耕す獣が、その魂の飛翔を待ち望んだの。

(註55)

於是,俟大隧之致功兮,練元辰之淑禎,潛華體於梓宮兮,馮正殿以居靈。顧望嗣之號咷兮,存臨者之悲聲,悼晏駕之旣修兮,感容車之速征。

だから、墓道の完成に力を捧げる間、吉兆の日を慎重に選んで、遺体を棺に納めて、正殿にて霊を祀ったよ。振り返って新しい君主が大声で悲しみに暮れているのを見て、周りには別れを惜しむ者の嘆き声が溢れていたよ。逝去の儀式が整えられたことを悼んで、霊車が急いで出発するのを悲しく感じたんだ。

(註55)

浮飛魂於輕霄兮,就黃墟以滅形,背三光之昭晰兮,歸玄宅之冥冥。嗟一往之不反兮,痛閟闥之長扃。咨遠臣之眇眇兮,成凶諱以怛驚,心孤絕而靡告兮,紛流涕而交頸。

霊魂は軽やかに空へと飛び去って、黄泉の地へと赴いて、形は消えていっちゃった。三光(太陽・月・星)の明るい光を背にして、あの世の暗い闇へと帰っていくんだ。ああ、一度去ったら戻らないことの悲しさよ。永遠に閉ざされた扉の痛みよ。遠くにいる臣下たちは深い悲しみを抱えて、突然の不幸に驚いて、心は孤独に耐えられなくて、涙を流してお互いに首を交えたよ。

(註55)

思恩榮以橫奔兮,閡闕塞之嶢崢,顧衰絰以輕舉兮,迫關防之我嬰。欲高飛而遙憩兮,憚天網之遠經,遙投骨於山足兮,報恩養於下庭。

恩義を思い出して、名誉のために急いで奔走するも、高くそびえる障害に阻まれたんだ。喪服をまといながらも軽やかに立ち上がろうとするけど、関門や防壁に囲まれている自分を感じたんだ。高く遠くへ飛んで行って休みたいのに、朝廷の支配の広がりが恐ろしくて思いとどまったよ。山の麓に骨を投げ打って、地上での恩義に報いたいと願ったよ。

(註55)

慨拊心而自悼兮,懼施重而命輕,嗟微驅之是效兮,甘九死而忘生,幾司命之役籍兮,先黃髮而隕零,天蓋高而察卑兮,兾神明之我聽。獨鬱伊而莫愬兮,追顧景而憐形,奏斯文以寫思兮,結翰墨以敷誠。嗚呼哀哉!」

胸を叩いて自らの無力さを嘆いて、重い責務に恐れを抱きながらも、命の軽さを感じたよ。わずかな努力でもその効果があることを願って、九死に一生を得る覚悟で生を忘れたよ。運命の神に先立たれて、老いていく前に命を落とすかもしれないと恐れたけど、天は高くて、低い者をも見守っていることを信じて、神明が私の願いを聞き入れてくれることを望んだよ。孤独に鬱屈して、誰にも訴えることができなくて、過去を振り返って自分の姿を憐れんだの。こうして、この文章を綴って、思いを表現して、誠意を文字に込めたよ。ああ、哀しいことだよ!」

曹丕は文学が大好き

本文

初,帝好文學,以著述為務,自所勒成垂百篇。又使諸儒撰集經傳,隨類相從,凡千餘篇,號曰皇覽。(註56)(註57)

(そう)()は文学が好きで、著述を主な仕事として、自分の手でたくさんの文章を書いたよ。それに、儒学者たちに経典や伝記を集めさせて、関連するものをまとめたものが1,000篇くらいあって、これを『(こう)(らん)』と呼んだよ。

(註56)

魏書曰:帝初在東宮,疫癘大起,時人彫傷,帝深感歎,與素所敬者大理王朗書曰:「生有七尺之形,死為一棺之土,唯立德揚名,可以不朽,其次莫如著篇籍。疫癘數起,士人彫落,余獨何人,能全其壽?」

()(しょ)』によると、(そう)()が東宮にいた頃(太子だった時)、病気が大流行しちゃって、人たちは傷ついていたよ。(そう)()は深く嘆き悲しんで、尊敬している(だい)()(おう)(ろう)に手紙を書いたよ。
「人は生きている時は7尺の体を持っていて、死んだら1つの棺の土になるよね。ただ徳を立てて名声を高めたら、不朽の存在になれるよ。その次には、著作を残すことが重要だよ。病気が何度も流行して、学者たちが亡くなっていく中で、私はひとりだけ、どうして自分の寿命を全うできるの?」

(註56)

故論撰所著典論、詩賦,蓋百餘篇,集諸儒於肅城門內,講論大義,侃侃無倦。常嘉漢文帝之為君,寬仁玄默,務欲以德化民,有賢聖之風。時文學諸儒,或以為孝文雖賢,其於聦明,通達國體,不如賈誼。

だから、(そう)()は『(てん)(ろん)』や、詩賦をたくさん作ったんだよ。彼は肅門内に儒学者たちを集めて、大義について論じて、熱心に議論を交わしたの。彼はいつも(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))の治世の、広い徳があって清く静かで、民を徳で教えを広めようと努めた賢聖の風を讃えたよ。当時の文学者や儒学者の中には、(ぶん)(てい)は賢明だけど、聡明さや国家の理解においては()()にはかなわないって考える人もいたんだって。

(註56)

帝由是著太宗論曰:「昔有苗不賔,重華舞以干戚,尉他稱帝,孝文撫以恩德,吳王不朝,錫之几杖以撫其意,而天下賴安;乃弘三章之教,愷悌之化,欲使曩時累息之民,得闊步高談,無危懼之心。若賈誼之才敏,籌畫國政,特賢臣之器,管、晏之姿,豈若孝文大人之量哉?」

そこで、(そう)()(たい)(そう)(かん)(ぶん)(てい)の廟号)の功績を論じた『(たい)(そう)(ろん)』を著したよ。その中でこう言っているよ。
「昔、三苗(民族の名前)は王朝に従おうとしなくて、(ちょう)()(しゅん))は干戚を舞って彼らに近づいたよ。()()は自分を帝と称したけど、(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))は恩徳で彼を慰めたよ。()の王は朝廷に参じなかったけど、彼の心を慰めるために杖を与えて、その結果、天下は安定したよ。さらに、三つの教えや穏やかな美徳を広めて、以前の苦しんでいた人たちが広々と自由に話し合って、心配することなく歩みを広げることを望んでいたんだ。()()の才能や国政を考える力は確かに優れているけど、賢臣の器として、(かん)(ちゅう)(あん)()みたいな風格を持つ人よりも、(かん)(ぶん)(てい)の大きな度量に及ぶことはできないよ!」

(註56)

三年之中,以孫權不服,復班太宗論於天下,明示不願征伐也。他日又從容言曰:「顧我亦有所不取於漢文帝者三:殺薄昭;幸鄧通;慎夫人衣不曳地,集上書囊為帳帷。以為漢文儉而無法,舅后之家,但當養育以恩而不當假借以權,旣觸罪法,又不得不害矣。」其欲秉持中道,以為帝王儀表者如此。

3年の間、(そん)(けん)が従わないから、ふたたび『(たい)(そう)(ろん)』を天下に示して、征伐を望んでいないことを明らかにしたよ。別の日には、彼は落ち着いてこう言ったよ。
(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))について、私も3つの点で異議があるよ。(はく)(しょう)を殺したこと、(とう)(つう)と仲の良い関係にあったこと、(しん)()(じん)の衣服が地を引きずらない短さだったことや、上書を入れた袋を集めて帳幕にしたことだよ。彼は倹約すぎるところがあるよね。舅や后の家は恩で育てるべきで、権力を利用するべきではないよ。罪に触れたから、害を与えなきゃならなかったんだ」
彼は中道を守って、帝王の模範はこのようなものであると考えたよ。

(註57)

胡沖吳歷曰:帝以素書所著典論及詩賦餉孫權,又以紙寫一通與張昭。

()(ちゅう)の『()(れき)』によると、(そう)()は自分が著した『(てん)(ろん)』や詩賦を絹の布に書いて(そん)(けん)に贈ったよ。また、紙に一通書いて(ちょう)(しょう)にも贈ったよ。

陳寿の評価

本文

評曰:文帝天資文藻,下筆成章,博聞彊識,才藝兼該;(註58)(註59)若加之曠大之度,勵以公平之誠,邁志存道,克廣德心,則古之賢主,何遠之有哉!

評すると、(そう)()は天賦の才能と文学の才覚に恵まれて、筆を持つとすぐに文章が完成して、広い知識があって、多彩な才能を兼ね備えているよ。もし彼が広い視野を持って、公正な態度で励んで、道を重んじて、広い心を持っていたなら、古代の賢明な君主たちにも引けを取らない存在だったよ!

皇帝としてはあまり良くない評価だよね。以下、(そう)()さんの熱い自分語り。

(註58)

典論帝自敘曰:初平之元,董卓殺主鴆后,盪覆王室。是時四海旣困中平之政,兼惡卓之凶逆,家家思亂,人人自危。山東牧守咸以春秋之義,「衞人討州吁于濮」,言人人皆得討賊。於是大興義兵,名豪大俠,富室彊族,飄揚雲會,萬里相赴;兖、豫之師戰於滎陽,河內之甲軍於孟津。卓遂遷大駕,西都長安。

(てん)(ろん)』で、(そう)()自身がこう述べているよ。
(しょ)(へい)の初めの頃(190年頃)、(とう)(たく)が皇帝を殺して、后を毒殺して、王室を混乱させたよ。この時、四方の人たちは(ちゅう)(へい)の年号の間(184~189年)からの政治に苦しんでいて、さらに(とう)(たく)の暴虐を憎んでいたよ。家は秩序の乱れを思って、人々は自分たちの安全を心配していたよ。山東の牧守(州郡の長官)たちはみんな『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』の義に則って、「(えい)の人の(しゅう)()(ぼく)で討った」ことを引き合いに出して、誰もが敵を討つべきだと言ったんだ。だから、大規模な義兵が興って、名高い豪傑や富裕な家、強力な一族が集まって、遠くからも万里の距離を越えて駆けつけたよ。(えん)州と()州の軍は(けい)(よう)で戦って、()(だい)の軍は(もう)(しん)で戦ったよ。ついに(とう)(たく)は大駕(天子の乗り物)を動かして、西の都の(ちょう)(あん)に移ったんだ。

(註58)

而山東大者連郡國,中者嬰城邑,小者聚阡陌,以還相吞滅。會黃巾盛於海、岱,山寇暴於并、兾,乘勝轉攻,席卷而南,鄉邑望煙而奔,城郭覩塵而潰,百姓死亡,暴骨如莽。

でも山東では、大きい勢力は郡国を連ねて、中くらいの勢力は城や邑にこもって、小さな勢力は田や畦に集まって、お互いに滅ぼし合っていたんだ。黄巾の乱が海や(たい)(ざん)で勢力を増して、山賊は(へい)州や()州で暴れて、勝利に乗って攻めに転じて南へ行って、村々は煙を見ただけで逃げ惑って、城郭は塵を見て崩れ去って、たくさんの民が亡くなって、屍があたり一面に広がっていたよ。

(註58)

余時年五歲,上以世方擾亂,教余學射,六歲而知射,又教余騎馬,八歲而能騎射矣。以時之多故,每征,余常從。

私はこの時5歳で、世が混乱しているから、父((そう)(そう))は私に弓を教えてくれたの。6歳で弓を身につけて、さらに馬に乗ることも教わって、8歳で馬に乗って弓を射ることができるようになったよ。大変な時期だったけど、父が出征するたびに私もいつも従ったの。

(註58)

建安初,上南征荊州,至宛,張繡降。旬日而反,亡兄孝廉子脩、從兄安民遇害。時余年十歲,乘馬得脫。夫文武之道,各隨時而用,生於中平之季,長於戎旅之間,是以少好弓馬,于今不衰;逐禽輒十里,馳射常百步,日多體健,心每不猒。

(けん)(あん)初年(196年)、父((そう)(そう))が南に(けい)州へ遠征して、(えん)に着くと、(ちょう)(しゅう)が降伏したよ。10日ほど後に(ちょう)(しゅう)はふたたび反乱して、兄で孝廉の()(しゅう)(そう)(こう))と従兄の(そう)(あん)(みん)が殺されたんだ。私はこの時10歳で、馬に乗って難を逃れたよ。文と武の道は、それぞれ時に応じて使うもので、私は中平の末期に生まれて、戦乱の中で成長してきたから、若い頃から弓や馬に親しんできたし、今も衰えないよ。鳥獣を追うと10里先まで走って、馬上から100歩先まで射ることができるの。日々体も健康で、心も満たされているよ。

(註58)

建安十年,始定兾州,濊、貊貢良弓,燕、代獻名馬。時歲之暮春,句芒司節,和風扇物,弓燥手柔,草淺獸肥,與族兄子丹獵於鄴西,終日手獲麞鹿九,雉兔三十。

建安10年(205年)、()州がようやく安定して、(わい)(はく)(異民族)から優れた弓が献上されて、(えん)(だい)からは名馬が献上されたよ。時は年の春の暮れで、句芒(春の神)は季節を司って、あたたかな風が物を扇いで、弓は引き締まって手は柔らかくて、草は浅くて獣は肥えていたよ。私は族兄である()(たん)(そう)(しん))と一緒に(ぎょう)の西で狩りをして、1日でシカを9頭、キジとウサギを30匹手に入れたんだよ。

(註58)

後軍南征次內蠡,尚書令荀彧奉使犒軍,見余談論之末,彧言:「聞君善左右射,此實難能。」余言:「執事未覩夫項發口縱,俯馬蹄而仰月支也。」彧喜笑曰:「乃爾!」余曰:「埒有常徑,的有常所,雖每發輒中,非至妙也。若馳平原,赴豐草,要狡獸,截輕禽,使弓不虛彎,所中必洞,斯則妙矣。」時軍祭酒張京在坐,顧彧拊手曰「善」。

後に軍が南へ遠征して、(きょく)()に着いた時、(しょう)(しょ)(れい)(じゅん)(いく)が使者として軍を慰労に来たんだ。私の話の聞いて最後に(じゅん)(いく)はこう言ったよ。
「あなたは左右のどっちでも弓を引くことが得意だと聞いているけど、これは本当に難しいことだよね」
私はこう答えたよ。
「あなたは、身を伏せたり仰ぎ見ながら的を射抜く姿を見たことがない?」
(じゅん)(いく)は喜んで笑って、「なるほどね!」と言ったよ。私は続けてこう言ったよ。
「柵にはいつも定まった道があるし、的もいつも定まった位置があるよ。毎回命中するのは素晴らしいけど、至高の妙技ではないよ。広い平原を駆けて、草の豊かな場所に赴いて、素早い獣を狩って、軽い鳥を追って、弓が空しく引かれることなく、命中すれば必ず貫通する、これが真の技と言えるよ」
この時、(ぐん)(さい)(しゅ)(ちょう)(けい)が座っていて、(じゅん)(いく)に向かって手を叩きながら「お見事!」と言ったよ。

(註58)

余又學擊劔,閱師多矣,四方之法各異,唯京師為善。桓、靈之閒,有虎賁王越善斯術,稱於京師。河南史阿言昔與越遊,具得其法,余從阿學之精熟。甞與平虜將軍劉勳、奮威將軍鄧展等共飲,宿聞展善有手臂,曉五兵,又稱其能空手入白刃。

私はまた、剣術も学んで、たくさんの先生から教わったよ。各地の技法は異なるみたいだけど、都の技法が最も優れているよ。(かん)(てい)(れい)(てい)の時代に、()(ほん)(皇帝の近衛兵)の(おう)(えつ)がこの技に優れていて、都で有名だったよ。()(なん)()()は昔、(おう)(えつ)と一緒に学んでいた頃、その技法を十分に習ったんだって。私も()()からその技法を学んだよ。昔、(へい)(りょ)(しょう)(ぐん)(りゅう)(くん)(ふん)()(しょう)(ぐん)(とう)(てん)たちと一緒に酒を飲んでいる時に、(とう)(てん)が腕力に優れていて、様々な武器を心得ていること、さらには素手で白刃に立ち向かえると聞いたんだ。

(註58)

余與論劔良久,謂言將軍法非也,余顧甞好之,又得善術,因求與余對。時酒酣耳熱,方食芋蔗,便以為杖,下殿數交,三中其臂,左右大笑。展意不平,求更為之。余言吾法急屬,難相中面,故齊臂耳。

私は彼と剣について長く語ったけど、彼の技法がよくないと考えたの。私は前からその技法が好きだし、優れた技を身につけていたから、彼と対戦してみることにしたよ。ちょうど酒が回って耳が熱くなっていて、さとうきびを食べていたから、それを杖として使って、殿の下で数回交戦したよ。3度彼のひじを打ったら、周りの人たちは大笑いしたよ。(とう)(てん)は不満そうで、もっと手合わせするように要求したけど、私は「自分の技法は素早く攻めるもので、相手の顔を狙うのが難しいから、腕を狙っただけだ」と言ったよ。

(註58)

展言願復一交,余知其欲突以取交中也,因偽深進,展果尋前,余却脚鄛,正截其顙,坐中驚視。余還坐,笑曰:「昔陽慶使淳于意去其故方,更授以祕術,今余亦願鄧將軍捐棄故伎,更受要道也。」一坐盡歡。

(とう)(てん)はもう一度対戦を願い出て、私は彼が交戦中に突進して狙ってくると考えたよ。そこで、私はわざと深く進んだよ。(とう)(てん)も本当に前進してきたから、私は脚を引いて、正確に彼の額を打ったよ。彼は驚いて私を見たんだ。私は元の座席に戻って、笑ってこう言ったよ。
「昔、(よう)(けい)(じゅん)()()に彼の古い技を捨てさせて、代わりに秘術を授けたみたいに、今度は私も鄧将軍に古い技を捨てさせて、新たな道を受け入れてほしいと思うんだ」
座席のみんなは喜んでいたよ。

(註58)

夫事不可自謂己長,余少曉持複,自謂無對;俗名雙戟為坐鐵室,鑲楯為蔽木戶;後從陳國袁敏學,以單攻複,每為若神,對家不知所出,先曰若逢敏於狹路,直決耳!

事柄というものは自分が一番優れていると思い込んではいけないよ。私は若い頃、2重の武器を扱うことを得意だと思っていて、自分には敵う人がいないと思っていたんだ。一般的には、双戟を『鉄の座敷』、楯を『木の戸』と呼ぶよ。後に、(ちん)国の(えん)(びん)から学んで、ひとつの武器で2重の武器を攻撃する技を身につけたよ。彼と戦うたびに、まるで神みたいな技だと思ったよ。相手がどこから攻撃してくるかわからなかったんだ。もしも(えん)(びん)と狭い道で出会ったら、まっすぐに打つだけだよ!

(註58)

余於他戲弄之事少所喜,唯彈棊略盡其巧,少為之賦。昔京師先工有馬合鄉侯、東方安世、張公子,常恨不得與彼數子者對。上雅好詩書文籍,雖在軍旅,手不釋卷,每每定省從容,常言人少好學則思專,長則善忘,長大而能勤學者,唯吾與袁伯業耳。余是以少誦詩、論,及長而備歷五經、四部,史、漢、諸子百家之言,靡不畢覽。

私は他の遊びにはあまり興味がなくて、ただ弾棊(碁石をはじく遊び)は技巧を尽くして、時には詩を詠んだよ。昔、都には()(ごう)(きょう)(こう)(とう)(ほう)(あん)(せい)、そして(ちょう)(こう)()という碁が上手な人たちいたけど、彼らと一緒に対戦できないことをいつも残念に思っていたんだ。父は詩書や文籍が好きで、軍に従っていても手から書物を離さなかったんだ。自分を省みて、「人は若い時に学ぶことに専念して、年を重ねるとより忘れやすくなるものだけど、成長しても学問に熱心な人は、私と(えん)(はく)(ぎょう)(えん)())しかいない」っていつも言っていたんだ。だから私は幼い頃から『()(きょう)』や『(ろん)()』を暗唱して、成長してからは『()(きょう)』、『()()』、『()()』、『(かん)(じょ)』、諸子百家の著作など、あらゆるものを読み尽くしたよ。

(てん)(ろん)』が残っていたら他にも話があったのかな。

(註59)

博物志曰:帝善彈棊,能用手巾角。時有一書生,又能低頭以所冠著葛巾角撇棊。

(はく)(ぶつ)()』によると、(そう)()は弾棊が上手で、手ぬぐいの端を使っていたんだって。ある時、学生がいて、帽子をかぶったまま下を向いて葛巾の端を使って碁石を投げることができたよ。

文帝紀は以上だよ!
他の伝や書にも(そう)()さんの話があるから読んでみたいな。

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