正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その3

正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「文帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)() について書かれているよ!

本文中で曹丕は「文帝」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹丕」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

文帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、墓について決めるまでだよ。

出典

三國志 : 魏書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

禅譲の儀式

本文

乃為壇於繁陽。庚午,王升壇即阼,百官陪位。事訖,降壇,視燎成禮而反。改延康為黃初,大赦。(註24)(註25)(註26)

それから、(はん)(よう)で壇を作ったよ。
庚午の日、(そう)()は壇に登って、皇帝に即位したよ。周りには百官(官僚)がいたよ。儀式が終わると、(そう)()は壇から降りて、燎祭(火を使って天を祭る)を見て礼をして戻ったんだ。元号を(えい)(こう)から「(こう)(しょ)」に改めて、大赦を行ったよ。

(註24)

獻帝傳曰:辛未,魏王登壇受禪,公卿、列侯、諸將、匈奴單于、四夷朝者數萬人陪位,燎祭天地、五嶽、四瀆,曰:「皇帝臣丕敢用玄牡昭告于皇皇后帝:漢歷世二十有四,踐年四百二十有六,四海困窮,王綱不立,五緯錯行,靈祥並見,推術數者,慮之古道,咸以為天之歷數,運終茲世,凡諸嘉祥民神之意,比昭有漢數終之極,魏家受命之符。

(けん)(てい)(でん)』によると、辛未の日、(そう)()が壇に登って、禅譲を受けたよ。公卿、列侯、将たち、(きょう)()の単于、異民族からの使者たち数万人が集まっていて、天地、()(がく)()(とく)の燎祭(という祭祀)をしたよ。そして、こう言ったよ。
「皇帝に仕える臣下である(そう)()は、あえて玄牡(生贄に使う黒い牛)を使って、天帝に告げるよ。(かん)は歴代24代、426年以上もの間続いたけど、最近では国の人たちは苦しんで、朝廷の秩序が乱れて、五緯(木星・火星・土星・金星・水星)も乱れたよ。不思議な兆候が次々と現れたから、占い師たちは古代の王朝の変遷を考えて、天が(かん)の運命を終わらせて、新しい王朝が始まる兆しを感じていると言うんだ。すべての良い兆しは民と神の意志で、そして(かん)の天道が終わりに達していることは明らかで、()の家が天命を受ける兆しだと示したんだ。

(註24)

漢主以神器宜授於臣,憲章有虞,致位于丕。丕震畏天命,雖休勿休。羣公庶尹六事之人,外及將士,洎于蠻夷君長,僉曰:『天命不可以辭拒,神器不可以久曠,羣臣不可以無主,萬機不可以無統。』丕祇承皇象,敢不欽承。卜之守龜,兆有大橫,筮之三易,兆有革兆,謹擇元日,與羣寮登壇受帝璽綬,告類于爾大神;唯爾有禪,尚饗永吉,兆民之望,祚于有魏世享。」

(かん)の帝((けん)(てい))は皇位を私に授けるのがふさわしいとして、(ゆう)()(しゅん))の例にならって、(そう)()に位を譲ったよ。私は天命を畏れて、その資格が無いと思ったんだ。公、役人、六卿、外は将士、異民族の長まで、みんなこう言ったよ。
『天命を拒むことはできないし、皇位は長く空けてはならないよ。臣下たちは主なくしてはならないし、国は君主なしでは成り立たないよ』
私はただ天の意志を受けて、慎んで受け取らないわけにはいかないんだ。占い師が亀の甲羅を見て、大きな変化があることを示して、『連山』、『帰蔵』、『周易』の3つの占いの書でも、革命の兆しがあることを示したんだって。慎重に元日を選んで、たくさんの臣下と一緒に壇に登って、皇帝の印綬を受け取って、天への祭りをするよ。天の神はどうかこの禅譲を受け入れて、永遠に祝福をもたらしてね。民の望みを叶えて、()の世が永く続きますように」

『三国志』では庚午、『献帝伝』では辛未となっているね。受禅表では辛未だよ。

(註24)

遂制詔三公:「上古之始有君也,必崇恩化以美風俗,然百姓順教而刑辟厝焉。今朕承帝王之緒,其以延康元年為黃初元年,議改正朔,易服色,殊徽號,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不當得赦,皆赦除之。」

そして、詔によって(さん)(こう)に命令したよ。
(いん)(しゅう)の時代の初めに君主がいたとき、必ず恩恵による教えで人を導いて、風紀を整えたよ。そのおかげで、人々は教えに従って、罰せられることもなかったの。今、私は帝王の継承を受けたから、延康元年を黄初元年として、暦や服の色を変えて、国の名前を新しくして、律令と度量衡を統一して、土行に従うことを議論してね。そして、天下に大赦を宣言して、罪を許すよ。特に死罪以下の者は、許すべきでない者もみんな許すよ」

(註25)

魏氏春秋曰:帝升壇禮畢,顧謂羣臣曰:「舜、禹之事,吾知之矣。」

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(そう)()は壇を登って、儀式が終わると、臣下たちに向かってこう言ったよ。
(しゅん)()のことを、私は知ったんだ」

(註26)

干竇搜神記曰:宋大夫邢史子臣明於天道,周敬王之三十七年,景公問曰:「天道其何祥?」對曰:「後五年五月丁亥,臣將死;死後五年五月丁卯,吳將亡;亡後五年,君將終;終後四百年,邾王天下。」俄而皆如其言。所云邾王天下者,謂魏之興也。邾,曹姓,魏亦曹姓,皆邾之後。其年數則錯,未知邢史失其數邪,將年代久遠,注記者傳而有謬也?

(かん)(ぽう)の『(そう)(じん)()』によると、(春秋時代の)(そう)(たい)()(けい)()()(しん)は天道に通じていたんだって。(しゅう)(けい)(おう)の37年に、(けい)(こう)が彼に尋ねたよ。
「天道はどんな吉凶を示すの?」
彼は答えたよ。
「5年後の五月の丁亥の日に、私は死ぬと思うよ。死んだ5年後の五月の丁卯の日に、()は滅びるよ。亡んだ5年後に、君主は終わるんだ。終わった後400年して、(ちゅう)の王が天下を治めるだろう」
そして、すべて彼の言ったとおりになったんだ。
(ちゅう)の王が天下を治めるというのは、()の興隆のことを指しているよ。(ちゅう)は曹姓で、()も曹姓で、どっちも(ちゅう)の子孫だよ。でも、年数は間違っているね。(けい)()()(しん)が数を間違えたのか、それとも年代が遠いから、注記者が伝えるうちに誤りが生じたのかも?

魏王朝の成立

本文

黃初元年十一月癸酉,以河內之山陽邑萬戶奉漢帝為山陽公,行漢正朔,以天子之禮郊祭,上書不稱臣,京都有事于太廟,致胙;封公之四子為列侯。追尊皇祖太王曰太皇帝,考武王曰武皇帝,尊王太后曰皇太后。賜男子爵人一級,為父後及孝悌力田人二級。

黄初(こうしょ)元年(220年)、十一月の癸酉の日、()(だい)山陽(さんよう)の万戸の領地を(かん)の帝((けん)(てい))に献上して、彼を(さん)(よう)(こう)として、(かん)の暦に従って、天子と同じ礼儀で祭祀を行ったよ。彼は皇帝に書状を送る時に「臣」という言葉を使わないで、都で太廟の行事があれば供え物を献上したよ。(さん)(よう)(こう)の4人の子供たちは列侯に封ぜられたよ。
皇帝の先祖である太王((そう)(すう))に「(たい)(じょう)(こう)」、考武王((そう)(そう))に「()(こう)(てい)」の尊号を贈って、王太后に「(こう)(たい)(ごう)」の尊号を贈ったよ。男子には爵位を一級ずつ授けて、父の後を継いだ人や孝を尽くした人や力を尽くして田畑を耕した人には二級ずつ授けたよ。

本文

以漢諸侯王為崇德侯,列侯為關中侯。以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。封爵增位各有差。改相國為司徒,御史大夫為司空,奉常為太常,郎中令為光祿勳,大理為廷尉,大農為大司農。郡國縣邑,多所改易。更授匈奴南單于呼廚泉魏璽綬,賜青蓋車、乘輿、寶劔、玉玦。十二月,初營洛陽宮,戊午幸洛陽。(註27)(註28)(註29)

(かん)の諸侯王を「(すう)(とく)(こう)」、列侯を「(かん)(ちゅう)(こう)」としたんだ。(えい)(いん)(はん)(よう)(てい)を「(はん)(しょう)県」としたよ。爵位と位階にはそれぞれ違いをつけたよ。(しょう)(こく)を「()()」に、(ぎょ)()(たい)()を「()(くう)」に、(ほう)(じょう)を「(たい)(じょう)」に、(ろう)(ちゅう)(れい)を「(こう)(ろく)(くん)」に、(だい)()を「(てい)()」に、(だい)(のう)を「(だい)()(のう)」に改めたよ。郡や国、県や邑など、たくさんの地名が変更されたんだ。
(きょう)()の南単于の()(ちゅう)(せん)()の印綬を授けて、青蓋の車や乗輿、宝剣や玉玦を贈ったよ。
十二月、洛陽宮を建てて、戊午の日には(らく)(よう)に行幸したよ。

(註27)

臣松之案:諸書記是時帝居北宮,以建始殿朝羣臣,門曰承明,陳思王植詩曰「謁帝承明廬」是也。至明帝時,始於漢南宮崇德殿處起太極、昭陽諸殿。

(はい)(しょう)()が調べたところ、たくさんの書に書いてあるけど、この時期、(そう)()は北宮に住んでいて、建始殿で大勢の臣下に会っていたんだって。その門は「承明」っていうんだって。(ちん)()(おう)(そう)(しょく)が詩に書いた「帝に謁見する承明の廬」は、この門を指しているよ。(めい)(てい)(そう)(えい))の時代になると、(かん)の南宮の崇徳殿の場所に太極殿や昭陽殿などが建てられ始めたんだよ。

(註28)

魏書曰:以夏數為得天,故即用夏正,而服色尚黃。

()(しょ)』によると、()の暦法は天命を得ていると考えたから、()の暦を採用して、服の色は黄色を尊いとしたよ。

(註29)

魏略曰:詔以漢火行也,火忌水,故「洛」去「水」而加「隹」。魏於行次為土,土,水之牡也,水得土而乃流,土得水而柔,故除「隹」加「水」,變「雒」為「洛」。

()(りゃく)』によると、詔によって、(かん)は火行で、火は水を嫌うから、「洛」の字から「水」を取り除いて「隹」を加えたんだ。()は土行だから、土と水は相互に影響し合う関係にあるよ。水が土を得ると流れて、土が水を得ると柔らかくなるよ。だから、「隹」を取り除いて、「水」を加えて、「雒」を「洛」に変えたんだ。

五行説に基づいているよ。(かん)は火徳だったから「雒陽」だったけど、()は土(火の次は土)だから「洛陽」にしたよ。
現代の感覚だとちょっとわかりにくいけど、彼らはすごくまじめに考えて決めているんだよね。()以降の歴史でも、王朝が変わるときは五行説を考えて制度などを決めているよ。

本文

是歲,長水校尉戴陵諫不宜數行弋獵,帝大怒;陵減死罪一等。

この年、(ちょう)(すい)(こう)()(たい)(りょう)が、頻繁に狩猟を行うべきではないと諫めたから、(そう)()はすごく怒っちゃった。(たい)(りょう)は死刑を避けられたけど、罰を受けたんだ。

本文

二年春正月,郊祀天地、明堂。甲戌,校獵至原陵,遣使者以太牢祠漢世祖。乙亥,朝日于東郊。(註30)

黄初2年(221年)、春の正月、天地と明堂を祀ったよ。甲戌の日、原陵((りゅう)(しゅう)の墓)で狩りをして、使者に太牢を捧げさせて、(かん)(せい)()(りゅう)(しゅう))を祀ったよ。乙亥の日、東郊で朝日を迎えたよ。

(註30)

臣松之以為禮天子以春分朝日,秋分夕月;尋此年正月郊祀,有月無日,乙亥朝日,則有日無月,蓋文之脫也。案明帝朝日夕月,皆如禮文,故知此紀為誤者也。

(はい)(しょう)()の見解としては、礼では天子は春分の日に朝日を、秋分の日に夕月を祀るべきだよ。でも、この年の正月の郊祀では、月はあるけど日はなくて、乙亥の日に朝日を拝んだときには、日はあるけど月はなかったんだって。これは文章が抜けたのかも。考えられるのは、明帝((そう)(えい))の時代には朝日や夕月の祭りが礼のとおりに行われていて、本紀(文帝紀)が間違っている可能性があるよ。

本文

初令郡國口滿十萬者,歲察孝廉一人;其有秀異,無拘戶口。辛巳,分三公戶邑,封子弟各一人為列侯。壬午,復潁川郡一年田租。(註31)改許縣為許昌縣。以魏郡東部為陽平郡,西部為廣平郡。(註32)

命令を下して、もし郡や国の人口が10万人に満たない場合でも、毎年1人の優秀な人を「孝廉」として選ぶことになったよ。でも、とても才能がある人がいれば、人口の制限に関係なく選ばれたよ。
辛巳の日、(さん)(こう)の家や土地を分け与えて、その子弟をそれぞれ列侯として封じたよ。そして、壬午の日、(えい)(せん)郡に1年間の田租という税を免除したんだ。(きょ)県を(きょ)(しょう)県に改めたよ。そして、()郡を東部と西部に分けて(よう)(へい)郡と(こう)(へい)郡としたよ。

(註31)

魏書載詔曰:「潁川,先帝所由起兵征伐也。官渡之役,四方瓦解,遠近顧望,而此郡守義,丁壯荷戈,老弱負糧。昔漢祖以秦中為國本,光武恃河內為王基,今朕復於此登壇受禪,天以此郡翼成大魏。」

()(しょ)』によると、詔を下してこう言ったよ。
(えい)(せん)は、先帝((そう)(そう))が兵を起こして征伐したところだよ。(かん)()の戦いの時、四方が混乱して、遠くや近くは見守っていただけだったけど、この郡は義を守って、若者たちは武器を担いで、老人や子供は食糧を背負っていたんだ。昔、(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))は(しん)(ちゅう)を国の基本として、(こう)()(てい)(りゅう)(しゅう))は()(だい)を王の基盤にしたよ。今、私はここで壇に登って禅譲を受けたのは、この郡が偉大な()という国を成し遂げるために、天がこの場所を選んだからなんだ」

(そう)(そう)さんが(えい)(せん)の東の(しょう)の出身だね。彼を支えた人たちも、(えい)(せん)の出身者が多いよ。

(註32)

魏略曰:改長安、譙、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界郯,為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。

()(りゃく)』によると、(ちょう)(あん)(しょう)(きょ)(しょう)(ぎょう)(らく)(よう)を五都としたよ。石碑を立てて、西は()(よう)に、北は(たい)(こう)(さん)に沿って、東北は(よう)(へい)に、南は()(よう)に、東は(たん)に、境界を定めたよ。国中の人たちを移動させることを命令して、5年間は税金を免除して、その後もさらに免除を増やしたの。

(ちょう)(あん)(りゅう)(ほう)が建国した(かん)(前漢)の都。(しょう)(そう)(そう)さんの出身地。(きょ)(しょう)(そう)(そう)さんが(けん)(てい)を迎え入れて遷都した場所。(ぎょう)(そう)(そう)さんの()(こう)()(おう)としての政治の中心地。(らく)(よう)(りゅう)(しゅう)が中興した(かん)(後漢)の都で、()の都。

孔子を理想化する

本文

詔曰:「昔仲尼資大聖之才,懷帝王之器,當衰周之末,無受命之運,在魯、衞之朝,教化乎洙、泗之上,悽悽焉,遑遑焉,欲屈己以存道,貶身以救世。于時王公終莫能用之,乃退考五代之禮,脩素王之事,因魯史而制春秋,就太師而正雅頌,俾千載之後,莫不宗其文以述作,仰其聖以成謀,咨!可謂命世之大聖,億載之師表者也。

詔を下してこう言ったよ。
「昔、(ちゅう)()(こう)())は聖人で、帝王にふさわしい才能があったよ。でも、彼が生まれたのは(しゅう)が衰退する時代で、天命を受ける運に恵まれなかったんだ。()(えい)の国の朝廷にいて、洙水や泗水で教えを広めていたけど、彼は悲しみに満ちて、焦りに駆られて、自分の考えや信念を守って、身を貶めても世を救おうとしたよ。その時、王や公たちは誰も彼を使えなかったんだ。そこで彼は昔の礼を研究して、位の無い王の事跡を修めて、()の歴史に基づいて『(しゅん)(じゅう)』を作ったよ。それに、太師になって雅楽と頌詩を整えたよ。そのおかげで、千年経った後でも、人たちは彼の教えや文章を参考にしたり作品について話しているよ。彼の聖人としての徳を仰いで、計画を成し遂げているね! ああ、彼こそまさに世に言うべき聖人で、億年にもわたって模範となるべき存在だと言えるよ。

本文

遭天下大亂,百祀墮壞,舊居之廟,毀而不脩,襃成之後,絕而莫繼,闕里不聞講頌之聲,四時不覩蒸甞之位,斯豈所謂崇禮報功,盛德百世必祀者哉!其以議郎孔羨為宗聖侯,邑百戶,奉孔子祀。」令魯郡脩起舊廟,置百戶吏卒以守衞之,又於其外廣為室屋以居學者。

天下が大乱に陥って100年が経って、いろいろな廟が荒れ果てて、((こう)()の)かつての住まいの廟も破壊されて修復されないままで、後継者が途絶えちゃって、祭祀が行われなくなったの。里では賛美の声が聞こえないし、季節の儀式も行われないし、これでは礼を重んじて功を報いて、徳を盛んにして百世に必ず祀るなんて言えないよ! そこで、()(ろう)(こう)(せん)(そう)(せい)(こう)に任命して、百戸の領地を与えて、(こう)()の祭祀を整えさせるよ」
()郡に命令して、古い廟を修復させて、百戸の役人や兵を置いて守らさせて、さらにその外側に広い建物を建てて、学ぶ者たちの住居としたよ。

甄氏が亡くなる

本文

三月,加遼東太守公孫恭為車騎將軍。初復五銖錢。夏四月,以車騎將軍曹仁為大將軍。五月,鄭甘復叛,遣曹仁討斬之。六月庚子,初祀五嶽四瀆,咸秩羣祀。(註33)

三月、(りょう)(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(こう)(そん)(きょう)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に昇進させたよ。初めて()(しゅ)(せん)を復活させたよ。
夏の四月、(そう)(じん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)から(だい)(しょう)(ぐん)に任命したよ。五月、(てい)(かん)がふたたび反乱を起こしたから、(そう)(じん)を送って討ち取ったんだ。六月、庚子の日、初めて五嶽と四瀆の祭祀をして、すべての祭祀に秩序を整えたよ。

(註33)

魏書:甲辰,以京師宗廟未成,帝親祠武皇帝于建始殿,躬執饋奠,如家人之禮。

()(しょ)』によると、甲辰の日、都の宗廟がまだ完成していなかったから、(そう)()は建始殿で武皇帝((そう)(そう))を祀って、自分で供え物を捧げて、家人の礼みたいにしたよ。

本文

丁卯,夫人甄氏卒。戊辰晦,日有食之,有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱,豈禹、湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職,後有天地之眚,勿復劾三公。」

丁卯の日、夫人の(しん)()が亡くなったんだ。戊辰の晦に日食が起こったよ。
役人が(たい)()に職を辞めるように奏上したよ。詔を下してこう言ったよ。
「災いが起こるのは、元首を責めるためで、君主を支え続ける臣下に罪を問うものではないんだ。古代の英雄たちである()(とう)が自分自身を責めるような義があるの? 役人たちはそれぞれの仕事に専念して、今後、天災があっても、(さん)(こう)を責めることはないように」

于禁の帰還

本文

秋八月,孫權遣使奉章,并遣于禁等還。丁巳,使太常邢貞持節拜權為大將軍,封吳王,加九錫。冬十月,授楊彪光祿大夫。(註34)(註35)

秋の八月、(そん)(けん)が使者を送って上奏して、()(きん)たちを返したよ。丁巳の日、(たい)(じょう)(けい)(てい)に節を持たせて(そん)(けん)(だい)(しょう)(ぐん)に任命して、()(おう)に封じて、(きゅう)(しゃく)を授けたよ。冬の十月、(よう)(ひょう)(こう)(ろく)(たい)()の位が授けられたよ。

(註34)

魏書曰:己亥,公卿朝朔旦,并引故漢太尉楊彪,待以客禮,詔曰:「夫先王制几杖之賜,所以賔禮黃耇襃崇元老也。昔孔光、卓茂皆以淑德高年,受茲嘉錫。公故漢宰臣,乃祖已來,世著名節,年過七十,行不踰矩,可謂老成人矣,所宜寵異以章舊德。其賜公延年杖及馮几;謁請之日,便使杖入,又可使著鹿皮冠。」彪辭讓不聽,竟著布單衣、皮弁以見。

()(しょ)』によると、己亥の日、公卿たちは一日に朝廷に臨んで、かつての(かん)(たい)()(よう)(ひょう)を招いて、客の礼でもてなしたよ。詔を下してこう言ったよ。
「先王が杖と机を与えたのは、年長者に礼を尽くして、元老を崇めるためだよ。昔、(こう)(こう)(たく)()は美徳を持っていて、尊敬される年長者たちがこの褒美を受けたよ。あなたは昔の(かん)の宰臣で、先祖から今に至るまで、世に名を広めて、年は70を越えていて、道徳的な行動を守っていて、老成人と言えるし、褒美を与えるべきだよね。延年杖と(ひょう)()を授けるよ。面会する日には杖を持ち込ませて、さらに鹿皮冠を着けさせるよ」
(よう)(ひょう)は辞退しようとしたけど聞き入れられなくて、結局は布の単衣と皮の冠を身に着けて、謁見したよ。

(註35)

續漢書曰:彪見漢祚將終,自以累世為三公,恥為魏臣,遂稱足攣,不復行。積十餘年,帝即王位,欲以為太尉,令近臣宣旨。彪辭曰:「甞以漢朝為三公,值世衰亂,不能立尺寸之益,若復為魏臣,於國之選,亦不為榮也。」帝不奪其意。

(ぞく)(かん)(じょ)』によると、(よう)(ひょう)(かん)の祝福が終わりに近づいているのを感じていたんだ。彼は代々(さん)(こう)になっていて、()の臣下になるのは恥だと思って、足がひきつって動けないとして、出仕しなくなったんだって。10年以上が経って、(そう)()が王位につくと、彼は(よう)(ひょう)(たい)()にしようとして、近臣にこの旨を伝えさせたよ。(よう)(ひょう)は辞退してこう言ったよ。
「昔、(かん)の朝廷で(さん)(こう)になったけど、その時は世が衰えて乱れていたから、私は一尺の利益も立てられなかったんだ。だから、もし()の臣下になるとしても、たとえ国の選抜でも、ためになることはないと思うよ」
(そう)()は彼の意志を奪わなかったよ。

(註35)

黃初四年,詔拜光祿大夫,秩中二千石,朝見位次三公,如孔光故事。彪上章固讓,帝不聽,又為門施行馬,致吏卒,以優崇之。年八十四,以六年薨。子脩,事見陳思王傳。

黄初4年(223年)、詔によって(よう)(ひょう)(こう)(ろく)(たい)()に任命されて、俸禄は二千石になったよ。朝廷では(さん)(こう)と同じように大切に扱われて、(こう)(こう)の例みたいだね。(よう)(ひょう)は辞退しようと上奏したけど、(そう)()は聞き入れなかったんだ。それに、彼の門に行馬(馬のつなぎ)が作られて、役人が彼を訪ねて優遇したよ。(よう)(ひょう)は84歳で亡くなって、子の(よう)(しゅう)については「(ちん)()(おう)(そう)(しょく))伝」にあるよ。

本文

以穀貴,罷五銖錢。(註36)己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。

穀物が高騰したから、五銖銭を廃止したよ。己卯の日、(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(じん)(だい)()()に任命したよ。十二月、東に巡幸したよ。この年に陵雲台(楼閣)を築いたよ。

(註36)

魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。

()(しょ)』によると、十一月の辛未の日、(ちん)西(せい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)はたくさんの将やそれぞれの州や郡の兵を指揮して、反乱した()族の()(げん)()()(すい)(ほう)(しょう)たちを攻撃して討ち破ったよ。敵の首級は5万以上、生け捕りにした者は10万人、羊は111万匹、牛は8万頭も捕まえて、こうして()西(せい)は平定されたよ。

(註36)

帝初聞胡決水灌顯美,謂左右諸將曰:「昔隗嚻灌略陽,而光武因其疲弊,進兵滅之。今胡決水灌顯美,其事正相似,破胡事今至不久。」旬日,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」

(そう)()()族が(けん)()を水攻めしていることを聞いて、周囲の将たちにこう言ったよ。
「昔、(かい)(ごう)(りゃく)(よう)を水攻めして、そのとき(こう)()(てい)(りゅう)(しゅう))はその疲弊に乗じて兵を進めて滅ぼしたね。今回も同じような状況だよ。()族が(けん)()に水攻めを仕掛けてきたけど、私たちは彼らを破ることは今にも近いだろうね」
数日後、()族が破れたとの報告が届くと、(そう)()は大笑いしてこう言ったよ。
「私は戦略を帷幕の中で立てて、将たちは遠くの地で奮戦したね。その連携はまるで符と契とが合うみたいにぴったりだったね。前後の戦いで勝って、たくさんの捕虜を捕らえたけど、今までにこれほどのことはなかったよ」

夷陵の戦いの報告を受ける

本文

三年春正月丙寅朔,日有蝕之。庚午,行幸許昌宮。詔曰:「今之計考,古之貢士也;十室之邑,必有忠信,若限年然後取士,是呂尚、周晉不顯於前世也。其令郡國所選,勿拘老幼;儒通經術,吏達文法,到皆試用。有司糾故不以實者。」(註37)

黄初3年(222年)、春の正月、丙寅の朔日に日食があったんだ。庚午の日、(そう)()は許昌宮に行幸したよ。詔を下してこう言ったよ。
「今の人材の選出は、古代の貢士みたいだよね。10戸の小さな村でも、忠誠や信義を守る者がいるものだけど、もし年齢で制限してから選ぶとしたら、(りょ)(しょう)(たい)(こう)(ぼう))や(しゅう)(しん)みたいな人は、前の時代に出てこなかったかもしれないね。郡や国が選ぶ人たちは、年齢に縛られずに、儒者は経典に詳しくて、役人は学問や法に詳しくて、みんな試用されるようになるべきだよ。不正な行動があったら、役人が摘発するよ」

(註37)

魏書曰:癸亥,孫權上書,說:「劉備支黨四萬人,馬二三千匹,出秭歸,請往埽撲,以克捷為效。」帝報曰:「昔隗嚻之弊,禍發栒邑,子陽之禽,變起扞關,將軍其亢厲威武,勉蹈奇功,以稱吾意。」

()(しょ)』によると、癸亥の日、(そん)(けん)は上書してこう言ったよ。
(りゅう)()は4万の兵と2,000から3,000の馬を率いて()()に出兵したよ。私はこれを討つために出兵するよ。(りゅう)()を早く滅ぼせれば、それが功績だよ」
(そう)()はこう答えたよ。
「昔、(かい)(ごう)(しゅん)(ゆう)で災いを招いて、()(よう)(こう)(そん)(じゅつ))は(かん)(かん)で変事を起こしたよ。だから、将軍は立派な武を発揮してすごい功績を立てて、私の期待に応えてね」

本文

二月,鄯善、龜茲、于闐王各遣使奉獻,詔曰:「西戎即叙,氐、羌來王,詩、書美之。頃者西域外夷並款塞內附,(註38)其遣使者撫勞之。」是後西域遂通,置戊己校尉。

二月、(ぜん)(ぜん)()()()(てん)の王たちがそれぞれ使者を送って献物をしたよ。詔を下してこう言ったよ。
「西方の異民族について、(てい)族、(きょう)族の王が来てくれて、これは詩や書で美しいとされているよ。最近では西域の異民族もみんな私たちの国に従って、使者を送ってきてくれているんだ。だから、彼らの使者たちをねぎらってね」
その後、西域との交流が開かれて、()()(こう)()を置いたよ。

(註38)

應劭漢書注曰:款,叩也;皆叩塞門來服從。

(おう)(しょう)の『(かん)(じょ)』の注によると、「款」は「叩く」を意味していて、みんな門を叩いて服従して来たんだって。

本文

三月乙丑,立齊公叡為平原王,帝弟鄢陵公彰等十一人皆為王。初制封王之庶子為鄉公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯。甲戌,立皇子霖為河東王。甲午,行幸襄邑。夏四月戊申,立鄄城侯植為鄄城王。癸亥,行還許昌宮。五月,以荊、揚、江表八郡為荊州,孫權領牧故也;荊州江北諸郡為郢州。

三月、乙丑の日、皇子で(せい)(こう)(そう)(えい)(へい)(げん)(おう)に立てたよ。(そう)()の弟で(えん)(りょう)(こう)(そう)(しょう)たち合わせて11人が王に封ぜられたよ。初めて封ぜられた王の庶子は郷公、その後継者は亭侯、公の庶子は亭伯にする制度を作ったよ。甲戌の日、皇子の(そう)(りん)()(とう)(おう)に封じたよ。甲午の日、(じょう)(ゆう)に行幸したよ。
夏の四月、戊申の日、(けん)(じょう)(こう)(そう)(しょく)(けん)(じょう)(おう)に立てたよ。癸亥の日、(きょ)(しょう)に帰ったんだ。五月、(けい)州、(よう)州、(こう)(ひょう)の8つの郡を(けい)州として、(そん)(けん)が領地の(ぼく)のままだったよ。(けい)州の江北の郡は「(えい)州」としたんだ。

本文

閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂羣臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!『苞原隰險阻而為軍者,為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」後七日,破備書到。(註39)

閏月、(そん)(けん)()(りょう)(りゅう)()を破ったよ。それより前に、(そう)()は、(りゅう)()が軍を東下させて(そん)(けん)と戦って、柵や陣地を700里以上にわたって構築したと聞いて、臣下たちにこう言ったよ。
(りゅう)()は兵を知らないね、どうして700里もの陣地で敵に対抗できるの! 『平野や湿地や険しい場所で軍を組む者は、敵に捕らえられる』、これは兵の忌むことだよね。(そん)(けん)の上書は、今に着くだろうね」
7日後、(りゅう)()を破ったという報告が届いたよ。

本文

秋七月,兾州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。八月,蜀大將黃權率衆降。

秋の七月、()州で大きなイナゴの被害が発生して、人々は飢えに苦しんでいたんだ。そこで、(しょう)(しょ)()()に節を持たせて、倉庫を開いて食糧を分け与えたよ。八月、(しょく)の大将の(こう)(けん)が軍勢を率いて降伏してきたよ。

(註39)

魏書曰:權及領南郡太守史郃等三百一十八人,詣荊州刺史奉上所假印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車。權等詣行在所,帝置酒設樂,引見於承光殿。權、郃等人人前自陳,帝為論說軍旅成敗去就之分,諸將無不喜恱。賜權金帛、車馬、衣裘、帷帳、妻妾,下及偏裨皆有差。拜權為侍中鎮南將軍,封列侯,即日召使驂乘;及封史郃等四十二人皆為列侯,為將軍郎將百餘人。

()(しょ)』によると、(こう)(けん)(なん)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の()(こう)たち318人と一緒に、(けい)(しゅう)()()(州の長官)のところに行って、自分たちが持っていた印綬、槍戟、旗鼓、牙門、鼓車を献上したよ。(こう)(けん)たちは(そう)()の行在地(許昌)に着くと、(そう)()はみんなを招いて、大きな宴会を開いて、承光殿で面会したよ。(こう)(けん)()(こう)たちは一人ひとり順番に進み出て(そう)()は戦争のことや彼らの将来のことについて話して、将たちはみんなとても喜んでいたよ。(こう)(けん)には金や銀、車や馬、衣服、帳幕、妻や側室が贈られたよ。下級の人たちにもそれぞれに与えたよ。(こう)(けん)()(ちゅう)(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)に任命されて、列侯に封ぜられて、その日のうちに天子の馬車で迎えられたんだ。()(こう)たち42人も列侯に封ぜられて、将軍や郎将になった人は100人以上もいたんだって。

女性は政治に関わるな?

本文

九月甲午,詔曰:「夫婦人與政,亂之本也。自今以後,羣臣不得奏事太后,后族之家不得當輔政之任,又不得橫受茅土之爵;以此詔傳後世,若有背違,天下共誅之。」(註40)

九月、甲午の日、詔を下してこう言ったよ。
「女性が政治に参加すると、秩序の乱れの原因になるんだ。今後、臣下たちは太后に意見を奏上することはできないし、后の一族も政治に関わることもできないよ。それに、勝手に領地や爵位を受けることもできないよ。この命令を後世に伝えて、もし逆らう人がいたら、天下の人たちは協力して罰を与えてね」

(註40)

孫盛曰:夫經國營治,必憑俊喆之輔,賢達令德,必居參亂之任,故雖周室之盛,有婦人與焉。然則坤道承天,南面罔二,三從之禮,謂之至順,至於號令自天子出,奏事專行,非古義也。

(そん)(せい)によると、国家を治めるには、必ずとても賢くて優れた才能のある人たちの補佐が必要で、賢人や徳の高い人たちは、乱れを治める重要な役職に就かなければならないよ。だから、(しゅう)の王朝の繁栄の時期でさえ、女性が政治に参加していたんだ。坤の道は天によって受け継がれて、南面(君主の座)も1つの存在で、三従の礼(守るべき3のこと)も、最も尊ばれているよ。命令は天子から出るべきで、奏上されることや政治が勝手に決められることは、古代の義に反するよ。

(註40)

昔在申、呂,實匡有周。苟以天下為心,惟德是杖,則親疏之授,至公一也,何至后族而必斥遠之哉?二漢之季世,王道陵遲,故令外戚憑寵,職為亂階。於此,自時昏道喪,運祚將移,縱無王、呂之難,豈乏田、趙之禍乎?而後世觀其若此,深懷酸毒之戒也。至於魏文,遂發一概之詔,可謂有識之爽言,非帝者之宏議。

昔、(しん)(こう)(りょ)(こう)(しゅう)を補佐したよ。もし天下を心にかけて、ただ徳を頼りにするなら、関係が親しいかに関わらないで、公平に任命すべきだよね。どうして皇后の一族を遠ざけなきゃいけないの? ふたつの漢の時代の末期には、王道が衰えていく中で、外戚が帝の寵愛を頼りにして政治に関わって、乱のきっかけになっちゃった。この時期は、自らの道を見失って、運命が移り変わろうとしていたね。(おう)(もう)(りょ)(こう)みたいな災いがなくても、(でん)()(ちょう)()のような禍は避けられなかっただろうね。後の時代の人たちはこのような歴史を振り返って、苦い教訓を心に留めるべきだよ。
(そう)()はその後、一律の詔を出したけど、これは見識のある人の率直な言葉と言えるもので、帝王の広い議論ではないよ。

本文

庚子,立皇后郭氏。賜天下男子爵人二級;鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。

庚子の日、皇后に(かく)()を立てたよ。全国の男子は爵位を二級ずつ賜って、未亡人や孤児、重い病に苦しむ者や、自分で生きていけない人たちは穀物を賜ったよ。

墓は質素に

本文

冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「禮,國君即位為椑,(註41)存不忘亡也。(註42)昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,(註43)故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寑殿,造園邑,通神道。

冬の十月、甲子の日、(しゅ)(よう)(ざん)の東に寿陵(生前の墓)を設けることを提案して、制度を定めてこう言ったよ。
「『(らい)()』によると、国の君主が即位するときは椑を作って、生きている間に死を忘れないようにするんだ。昔、(ぎょう)は穀林に埋葬されて、樹を植えたよ。()(かい)(けい)に埋葬されて、農民は畝を変えなかったよ。だから、山や林に埋葬すると、山や林とひとつになるよ。木を植える制度は(いん)(しゅう)の時代には存在しないし、私もそれをしないことにするよ。墓は山を利用して、自然のままにして、土を盛ったり木を植えたりしないで、寝殿も立てないし、庭園や街を造って墓道を通すこともしないよ。

(註41)

椑音扶歷反。

「椑」の発音は、「扶」の子音に「歴」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。

(註42)

臣松之按:禮,天子諸侯之棺,各有重數;棺之親身者曰椑。

(はい)(しょう)()が調べたところ、礼において、天子や諸侯の棺はそれぞれ重さと数が決まっていて、棺の中で、直接身を置くものを「椑」っていうんだって。

(註43)

呂氏春秋:堯葬於穀林,通樹之;舜葬於紀,市廛不變其肆;禹葬會稽,不變人徒。

(りょ)()(しゅん)(じゅう)』によると、(ぎょう)は穀林に葬られて、そこに木が植えられたよ。(しゅん)は紀に葬られて、市場の店はそのままにしたよ。()会稽(かいけい)に葬られて、人たちの生活は変えなかったよ。

本文

夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。

埋葬っていうのは、隠すことで、人に見られないようにするんだ。骨には痛みもかゆみもないし、墓は精神が住む家ではないよ。葬儀は死者を汚さないために行うんだ。棺は骨が朽ちるくらいのもの、衣類は肉が朽ちるだけの簡素なもので十分だよ。だから、私は墓を手の付いていない丘に作って、後代の人たちにその場所を知られないようにしたいんだ。

本文

無施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉,無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。宋公厚葬,君子謂華元、樂莒不臣,以為棄君於惡。

葦や炭(乾燥剤)を施さないで、金、銀、銅、鉄を収めないで、瓦の器を使って、泥で作った車や、草の人形を使って、古の方法に従ってね。棺は漆を塗って、三つの隙間を合わせて、口に含ませるものには珠玉を含まないで、宝石を付けた衣服や箱を使わないでね。こういうのは愚かで俗っぽいことだよね。()(そん)は玉を集めたとき、(こう)()は階級を経て救って、骸を中原に晒すようなものだって言ったよ。(そう)(ぶん)(こう)を厚く葬ったとき、君子が()(げん)(がく)(きょ)を臣下として尽くしてないと言ったのは、君主の悪を放置したからだと考えたからだよ。

この部分は、『日本書紀』に引用されているよ。『日本書紀』の卷第二十五(孝徳天皇)の「甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。~」の後に続く文章。武帝紀にある(そう)(そう)さんの命令と一緒に引用されているよ。

本文

漢文帝之不發,霸陵無求也;光武之掘,原陵封樹也。霸陵之完,功在釋之;原陵之掘,罪在明帝。是釋之忠以利君,明帝愛以害親也。忠臣孝子,宜思仲尼、丘明、釋之之言,鑒華元、樂莒、明帝之戒,存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。

(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))が墓を発掘されなかったのは、覇陵には求めるものがなかったからだよ。(こう)()(てい)(りゅう)(しゅう))が墓を発掘されたのは、原陵には土が盛られていて樹が植えられていたからだよ。覇陵が完全なのは、(ちょう)(しゃく)()のおかげで、原陵が掘られたのは、(めい)(てい)(りゅう)(そう))の罪だね。(ちょう)(しゃく)()は忠実だから君主に利益をもたらして、一方で(めい)(てい)(りゅう)(そう))の愛情は親に害を与えちゃったね。忠臣や孝子は、(ちゅう)()(こう)())、()(きゅう)(めい)(ちょう)(しゃく)()の言葉を考えて、()(げん)(がく)(きょ)(めい)(てい)(りゅう)(そう))の戒めを反省すべきだよ。これによって、君主や親を落ち着かせて、魂と霊が万世にわたって危険にさらされないようにしてね。これが賢明な忠と孝だよ。古から今に至るまで、滅びない国は無いし、掘られない墓も無いんだ。

「滅びない国は無い」なんて、皇帝が言ったらダメでしょ! (そう)()さん、意外と自分に自信が無かったのかな?

本文

喪亂以來,漢氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉匣金縷,骸骨并盡,是焚如之刑也,豈不重痛哉!禍由乎厚葬封樹。『桑、霍為我戒』,不亦明乎?其皇后及貴人以下,不隨王之國者,有終沒皆葬澗西,前又以表其處矣。

乱が起こってから、(かん)の墓はすべて発掘されちゃった。玉の箱や金の糸を焼いて取って、骸骨もすべて消えちゃった。これは焚かれるような刑罰みたいで、なんて悲しいことなの! この禍いは、厚い埋葬、木を植えたり土を盛ったりしたせいだよ。『(厚い埋葬をした)(そう)()(よう)(かく)()は私の戒めとなる』と言ったのは、明らかだよね。皇后や貴人以下、王に従って国に行かない者たちは、亡くなったら(かん)西(せい)の前に葬って、その場所を示してね。

『桑、霍為我戒』は、『(かん)(じょ)』「(ちょう)(とう)(でん)」にあるよ。

本文

蓋舜葬蒼梧,二妃不從,延陵葬子,遠在嬴、博,魂而有靈,無不之也,一澗之閒,不足為遠。若違今詔,妄有所變改造施,吾為戮尸地下,戮而重戮,死而重死。臣子為蔑死君父,不忠不孝,使死者有知,將不福汝。其以此詔藏之宗廟,副在尚書、祕書、三府。」

(しゅん)(そう)()に葬られたけど、2人の妃は従わなかったよ。(えん)(りょう)()(さつ))は子を遠くの(えい)(はく)に葬ったよ。魂や霊があれば、どこにでも行けるんだ。一澗の間は、遠いとは言えないよ。もし今の詔に反して、勝手に変えたり、作ったり、施したりする者がいたら、私は地下で遺体に罰を受けて、罰して重ねて罰して、死んだ上でさらに死なせるんだ。臣下や子供が君主や父のために死を軽んじるのは、忠や孝に欠けているよ。もし死者が知ることができるようになったら、あなたには幸福がないだろうね。この詔を宗廟に置いて、尚書、秘書、(さん)(こう)の役所にも置いてね」

(そう)()さんのお墓はまだ見つかっていないよ。どこにあるのかな?

本文

是月,孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征,諸軍兵並進,權臨江拒守。十一月辛丑,行幸宛。庚申晦,日有食之。是歲,穿靈芝池。

この月、(そん)(けん)がまた反乱を起こしちゃった。(えい)州を(けい)州に戻したよ。(そう)()(きょ)(しょう)を出発して、南へ遠征して、軍の兵は一斉に進軍したよ。(そん)(けん)は長江に臨んで防衛したよ。十一月、辛丑の日、(そう)()(えん)に行幸したよ。庚申の晦日、日食があったんだ。この年、霊芝池を掘ったよ。

続き → 正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 4

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