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正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹(そう)丕(ひ) について書かれているよ!

本文中で曹(そう)丕(ひ)さんは「文帝」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹(そう)丕(ひ)」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

長いから記事を分けたよ。この記事は、墓について決めるまでだよ。

出典

三國志 : 魏書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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禅譲の儀式

本文

乃為壇於繁陽。庚午,王升壇即阼,百官陪位。事訖,降壇,視燎成禮而反。改延康為黃初,大赦。(註24)(註25)(註26)

そこで、繁(はん)陽(よう)に壇(儀式の場所)を作ったよ。
庚午の日、曹(そう)丕(ひ)は壇に登って、正式に皇帝に即位したよ。朝廷の役人たちもそばに並んで見守っていたよ。儀式が終わると、曹(そう)丕(ひ)は壇から降りて、燎祭(火を使って天を祭る)をして、決まりどおりの礼をして戻ったんだ。
年号を延(えん)康(こう)から黄(こう)初(しょ)に改めて、大赦をしてたくさんの人の罪を許したよ。

(註24)

獻帝傳曰:辛未,魏王登壇受禪,公卿、列侯、諸將、匈奴單于、四夷朝者數萬人陪位,燎祭天地、五嶽、四瀆,曰:「皇帝臣丕敢用玄牡昭告于皇皇后帝:漢歷世二十有四,踐年四百二十有六,四海困窮,王綱不立,五緯錯行,靈祥並見,推術數者,慮之古道,咸以為天之歷數,運終茲世,凡諸嘉祥民神之意,比昭有漢數終之極,魏家受命之符。

『献(けん)帝(てい)伝(でん)』によると、辛未の日、曹(そう)丕(ひ)が壇に登って、帝位をゆずり受けたよ。公(こう)卿(けい)や列(れっ)侯(こう)、将たち、匈(きょう)奴(ど)の単(ぜん)于(う)(部族の王)、異民族の使者たち、何万人もの人たちがその場に並んだよ。そして、天と地、五(ご)嶽(がく)、四(し)瀆(とく)に向かって燎祭(火を使って天を祭る)をして、こう言ったよ。
「皇帝の臣下の曹(そう)丕(ひ)は、黒い雄牛を供えて、偉大なる天の神々に伝えるよ。漢(かん)は代々続いて24代、426年のあいだ天下を治めてきたよ。でも今では、国の人たちは苦しんで、治の決まりもうまく働かなくなっているんだ。5つの星(木星・火星・土星・金星・水星)の動きも乱れて、めでたいしるしや不思議な出来事が次々と現れているよ。占いや昔からの考え方に照らして考える人たちはみんな、天の運命はこの時代で終わると見ているんだって。こうしたたくさんのよいしるしや、人々や神々の思いは、すべて漢(かん)の運命が尽きたことを示し、魏(ぎ)の家が新しく天命を受けるしるしだよ。

(註24)

漢主以神器宜授於臣,憲章有虞,致位于丕。丕震畏天命,雖休勿休。羣公庶尹六事之人,外及將士,洎于蠻夷君長,僉曰:『天命不可以辭拒,神器不可以久曠,羣臣不可以無主,萬機不可以無統。』丕祇承皇象,敢不欽承。卜之守龜,兆有大橫,筮之三易,兆有革兆,謹擇元日,與羣寮登壇受帝璽綬,告類于爾大神;唯爾有禪,尚饗永吉,兆民之望,祚于有魏世享。」

漢(かん)の皇帝(献(けん)帝(てい))は「天下を治める帝位は、臣下である曹(そう)丕(ひ)に渡すのがよい」と考えて、有(ゆう)虞(ぐ)(舜(しゅん))の時代のやり方にならって、私に位をゆずったよ。私は天命をおそれて、「良いことでも気をゆるめてはいけない」と考えたんだ。公、役人、六(りく)卿(けい)、さらに外にいる将や兵たち、異民族の長まで、みんなこう言ったよ。
『天命は断れないし、帝位は長く空けてはならないよ。たくさんの臣下には主君がいなくてはならないし、国の大切な仕事にもまとめる人がいなければならないんだ』
私は天の意志を受けて、どうして敬って受けないことができるのかな。占いで亀の甲を使うと、大きなよいしるしが現れて、『連(れん)山(ざん)』、『帰(き)蔵(ぞう)』、『周(しゅう)易(えき)』の3つの占いの書でも、王朝が変わるというしるしが出たんだって。そこで、よい日を選んで、たくさんの臣下と一緒に壇に登って、皇帝の印綬を受け取って、天の神に告げたよ。天の神よ、どうかこの禅(ぜん)譲(じょう)を受け入れて、長くよい運が続きますように。民の願いとして、魏(ぎ)の国が長く栄え続けますように」

『三国志』本文では庚午、『献帝伝』では辛未となっているね。受禅表では辛未だよ。

(註24)

遂制詔三公:「上古之始有君也,必崇恩化以美風俗,然百姓順教而刑辟厝焉。今朕承帝王之緒,其以延康元年為黃初元年,議改正朔,易服色,殊徽號,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不當得赦,皆赦除之。」

そして、三(さん)公(こう)詔を下してこう言ったよ。
「昔、はじめて君主があらわれたときは、まず大きな恩と教えによって、人々の暮らしや風習をよくしたよ。そのおかげで、民は教えに従って、罰せられることもなかったの。今、私(曹(そう)丕(ひ))は代々の帝王の後を継いだよ。そこで、延(えん)康(こう)元年を黄(こう)初(しょ)元年に改めるよ。それに、暦を改めて、服の色を変えて、しるしや呼び名を新しくして、音律や長さ、重さの基準もそろえるよ。そして、土の徳を受け継ぐよ。さらに、天下に大赦をして罪を許すよ。死刑にあたるような重い罪より下の者や、普通は許されない者も、すべて罪を許すよ」

(註25)

魏氏春秋曰:帝升壇禮畢,顧謂羣臣曰:「舜、禹之事,吾知之矣。」

『魏(ぎ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、曹(そう)丕(ひ)は壇に登って礼を終えると、ふり返ってたくさんの臣下にこう言ったよ。
「舜(しゅん)や禹(う)のことが、今ではよくわかったよ」

(註26)

干竇搜神記曰:宋大夫邢史子臣明於天道,周敬王之三十七年,景公問曰:「天道其何祥?」對曰:「後五年五月丁亥,臣將死;死後五年五月丁卯,吳將亡;亡後五年,君將終;終後四百年,邾王天下。」俄而皆如其言。所云邾王天下者,謂魏之興也。邾,曹姓,魏亦曹姓,皆邾之後。其年數則錯,未知邢史失其數邪,將年代久遠,注記者傳而有謬也?

干(かん)宝(ぽう)の『捜(そう)神(じん)記(き)』によると、(春秋時代の)宋(そう)の大(たい)夫(ふ)の邢(けい)史(し)子(し)臣(しん)は天の道理に詳しいよ。周(しゅう)の敬(けい)王(おう)の三十七年、景(けい)公(こう)が彼にこう尋ねたよ。
「天の道理には、どんなしるしがあるの?」
邢(けい)史(し)子(し)臣(しん)はこう答えたよ。
「5年後の五月の丁亥の日、私は死ぬと思うよ。その5年後の五月の丁卯の日、呉(ご)が滅びるよ。さらにその5年後、あなたは亡くなるんだ。その後400年経つと、邾(ちゅう)の王が天下を治めるだろうね」
すると、すべて彼の言ったとおりになったんだ。
ここでいう「邾(ちゅう)の王が天下を治める」とは、魏(ぎ)が興ることを指しているよ。邾(ちゅう)は曹(そう)という姓で、魏(ぎ)も曹(そう)姓で、どちらも邾(ちゅう)の子孫だからだよ。でも、年数はちょっとずれているね。邢(けい)史(し)子(し)臣(しん)が年数を間違えたのか、それとも時代が長くたつうちに、書き伝える人が間違えたのかは、はっきりしていないんだ。

魏の王朝の成立

本文

黃初元年十一月癸酉,以河內之山陽邑萬戶奉漢帝為山陽公,行漢正朔,以天子之禮郊祭,上書不稱臣,京都有事于太廟,致胙;封公之四子為列侯。追尊皇祖太王曰太皇帝,考武王曰武皇帝,尊王太后曰皇太后。賜男子爵人一級,為父後及孝悌力田人二級。

黄(こう)初(しょ)元年(220年)、十一月、癸酉の日、河(か)内(だい)の山(さん)陽(よう)邑(ゆう)の1万戸の領地を漢(かん)の帝(献(けん)帝(てい))に与えて、彼を山(さん)陽(よう)公(こう)としたよ。漢(かん)の暦をそのまま使わせて、天子と同じような礼で郊外の祭りを許したよ。手紙を書くときには自分を「臣」とへりくだって書かなくてもよいとされたよ。さらに、都で先祖をまつる太廟の行事があるときには、供え物を分け与えられたよ。山(さん)陽(よう)公(こう)の4人の子供たちは列(れっ)侯(こう)に封ぜられたよ。
先祖をたたえて、太(たい)王(おう)(曹(そう)嵩(すう))に太(たい)皇(こう)帝(てい)、父の武(ぶ)王(おう)(曹(そう)操(そう))に武(ぶ)皇(こう)帝(てい)、王太后に皇太后の尊号を贈ったよ。さらに、成人した男性には身分を1つ上げて、家をついで父の後を守る人や、親孝行で兄弟仲がよくて、よく働く人には、身分を2つ上げたよ。

本文

以漢諸侯王為崇德侯,列侯為關中侯。以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。封爵增位各有差。改相國為司徒,御史大夫為司空,奉常為太常,郎中令為光祿勳,大理為廷尉,大農為大司農。郡國縣邑,多所改易。更授匈奴南單于呼廚泉魏璽綬,賜青蓋車、乘輿、寶劔、玉玦。十二月,初營洛陽宮,戊午幸洛陽。(註27)(註28)(註29)

漢(かん)の諸侯王は崇(すう)徳(とく)侯(こう)として、列(れっ)侯(こう)は関(かん)中(ちゅう)侯(こう)としたよ。潁(えい)陰(いん)の繁(はん)陽(よう)亭(てい)を繁(はん)昌(しょう)県に改めたよ。それぞれの功績に応じて領地と爵位を授けたよ。
相(しょう)国(こく)は司(し)徒(と)、御(ぎょ)史(し)大(たい)夫(ふ)は司(し)空(くう)、奉(ほう)常(じょう)は太(たい)常(じょう)、郎(ろう)中(ちゅう)令(れい)は光(こう)禄(ろく)勲(くん)、大(だい)理(り)は廷(てい)尉(い)、大(だい)農(のう)は大(だい)司(し)農(のう)に改めたよ。
郡や国、県や邑など、たくさんの地名が変更されたんだ。
南(みなみ)匈(きょう)奴(ど)の単(ぜん)于(う)(部族の王)の呼(こ)廚(ちゅう)泉(せん)に魏(ぎ)の印綬を新たに授けて青い屋根のついた車や、天子が乗る車、宝の剣、玉(ぎょく)玦(けつ)なども贈ったよ。
十二月、はじめて洛(らく)陽(よう)宮(きゅう)を造り始めて、戊午の日に洛(らく)陽(よう)へ行ったよ。

(註27)

臣松之案:諸書記是時帝居北宮,以建始殿朝羣臣,門曰承明,陳思王植詩曰「謁帝承明廬」是也。至明帝時,始於漢南宮崇德殿處起太極、昭陽諸殿。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、いろいろな書物によると、このとき曹(そう)丕(ひ)は北宮に住んでいて、建(けん)始(し)殿(でん)でたくさんの臣下に会っていたんだって。その門は承(しょう)明(めい)というんだ。陳(ちん)思(し)王(おう)の曺(そう)植(しょく)の詩にも「承(しょう)明(めい)廬(ろ)で皇帝に会った」とあって、この門を指しているよ。曹(そう)叡(えい)の時代になってはじめて漢(かん)の南宮の崇(すう)徳(とく)殿(でん)の場所に、太(たい)極(きょく)殿(でん)や昭(しょう)陽(よう)殿(でん)などの宮殿が建てられたよ。

(註28)

魏書曰:以夏數為得天,故即用夏正,而服色尚黃。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、夏(か)の暦が天の考えに合っているとされたから、それを使って、服の色は黄色を大切にしたよ。

(註29)

魏略曰:詔以漢火行也,火忌水,故「洛」去「水」而加「隹」。魏於行次為土,土,水之牡也,水得土而乃流,土得水而柔,故除「隹」加「水」,變「雒」為「洛」。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、詔によって、漢(かん)は火の性質で、火は水を嫌うから、「洛」という字から「水」の部分を取りのぞいて、「隹」を加えて、「雒」の字にしていたよ。魏(ぎ)は土の性質にあたって、土は水をおさえるはたらきを持っているけど、水は土があってこそ流れて、土も水があってこそやわらかくなるよ。だから、「隹」を取りのぞいて、ふたたび「水」を加えて、「雒」の字を「洛」に変えたんだ。

五行説に基づいているよ。漢(かん)は火の徳だったから「雒陽」だったけど、魏(ぎ)は土(火の次は土)だから「洛陽」にしたよ。
現代の感覚だとちょっとわかりにくいけど、彼らはすごくまじめに考えて決めているんだよね。魏(ぎ)以降の歴史でも、王朝が変わるときは五行説を考えて制度などを決めているよ。

本文

是歲,長水校尉戴陵諫不宜數行弋獵,帝大怒;陵減死罪一等。

この年、長(ちょう)水(すい)校(こう)尉(い)の戴(たい)陵(りょう)は、「何度も狩りに出かけるのはよくない」といさめたよ。曹(そう)丕(ひ)はすごく怒ったけど、戴(たい)陵(りょう)の罪は死刑より一段軽いものに減らされたよ。

本文

二年春正月,郊祀天地、明堂。甲戌,校獵至原陵,遣使者以太牢祠漢世祖。乙亥,朝日于東郊。(註30)

黄(こう)初(しょ)二年(221年)、春の正月、郊外で天と地をまつる儀式や、明堂での祭りをしたよ。
甲戌の日、狩りの途中で原(げん)陵(りょう)(劉(りゅう)秀(しゅう)の墓)に行って、使者に太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて漢(かん)の世(せい)祖(そ)(劉(りゅう)秀(しゅう))をまつったよ。
乙亥の日、東の郊外で朝日をまつる儀式をしたよ。

(註30)

臣松之以為禮天子以春分朝日,秋分夕月;尋此年正月郊祀,有月無日,乙亥朝日,則有日無月,蓋文之脫也。案明帝朝日夕月,皆如禮文,故知此紀為誤者也。

裴(はい)松(しょう)之(し)はこう考えるよ。礼では天子は春分に太陽をまつって、秋分に月をまつるんだよ。でも、この年の正月の郊外の祭りに月のことは書かれているのに太陽のことはなくて、乙亥の日の朝日はあるのに月のことがないんだ。これは、文章が抜けているのかも。
曹(そう)叡(えい)の時代には、太陽や月をまつる儀式はすべて礼のとおりに行われていたよ。だから、この記録には間違いがあるとわかるんだ。

本文

初令郡國口滿十萬者,歲察孝廉一人;其有秀異,無拘戶口。辛巳,分三公戶邑,封子弟各一人為列侯。壬午,復潁川郡一年田租。(註31)改許縣為許昌縣。以魏郡東部為陽平郡,西部為廣平郡。(註32)

はじめに、命令を下して、「もし郡や国で人口が10万人に達したところは、毎年、孝廉を1人を選んで推薦する」としたよ。とてもすぐれた人がいれば、人口の数に関係なく推薦してよいとしたよ。
辛巳の日、三(さん)公(こう)の領地を分けて、その子供や一族の中から、それぞれ1人をそれぞれ列(れっ)侯(こう)として封じたよ。
壬午の日、潁(えい)川(せん)郡に一年分の田畑から税を免除したんだ。許(きょ)県を許(きょ)昌(しょう)県に改めたよ。そして、魏(ぎ)郡を東部と西部に分けて陽(よう)平(へい)郡と広(こう)平(へい)郡としたよ。

(註31)

魏書載詔曰:「潁川,先帝所由起兵征伐也。官渡之役,四方瓦解,遠近顧望,而此郡守義,丁壯荷戈,老弱負糧。昔漢祖以秦中為國本,光武恃河內為王基,今朕復於此登壇受禪,天以此郡翼成大魏。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、曹(そう)丕(ひ)は詔を下してこう言ったよ。
「潁(えい)川(せん)は、先帝(曹(そう)操(そう))が兵を起こして戦いを始めた大切な場所だよ。官(かん)渡(と)の戦いでは、天下がばらばらになって、人々が様子をうかがっていたけど、この郡はだけは義を守って、若くて強い者は武器を持って、老いた者や子供は食糧を運んだよ。
昔、漢(かん)の高(こう)祖(そ)(劉(りゅう)邦(ほう))は関(かん)中(ちゅう)を国の土台として、光(こう)武(ぶ)帝(てい)(劉(りゅう)秀(しゅう))は河(か)内(だい)をもとに王としての基礎を築いたよ。今、私もこの地で壇に登って、帝位を受けたよ。これは天が、この郡が偉大な魏(ぎ)を助けて、完成させたんだね」

曹(そう)操(そう)さんが潁(えい)川(せん)の東の譙(しょう)の出身だね。彼を支えた人たちも、潁(えい)川(せん)の出身者が多いよ。

(註32)

魏略曰:改長安、譙、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界郯,為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、長(ちょう)安(あん)、譙(しょう)、許(きょ)昌(しょう)、鄴(ぎょう)、洛(らく)陽(よう)を5つの都としたよ。
石碑を立てて、その範囲を決めたよ。西は宜(ぎ)陽(よう)まで、北は太(たい)行(こう)山(さん)に沿って、東北は陽(よう)平(へい)まで、南は魯(ろ)陽(よう)にそって、東は郯(たん)までを、中(ちゅう)都(と)の地域としたよ。天下の人々に、この中都の地域へ移り住むことを許したよ。5年間は税を免除して、さらにその後はさらに免除の期間をもっと長くしたんだって。

  • 長(ちょう)安(あん)は劉(りゅう)邦(ほう)が建国した漢(かん)(前漢)の都。
  • 譙(しょう)は曹(そう)操(そう)さんの出身地。
  • 許(きょ)昌(しょう)は曹(そう)操(そう)さんが献(けん)帝(てい)を迎え入れた場所。
  • 鄴(ぎょう)は曹(そう)操(そう)さんの魏(ぎ)公(こう)、魏(ぎ)王(おう)としての政治の中心地。
  • 洛(らく)陽(よう)は劉(りゅう)秀(しゅう)が立て直した漢(かん)(後漢)の都で、漢(かん)から正式に受け継いだ魏(ぎ)の都。

孔子を理想とする

本文

詔曰:「昔仲尼資大聖之才,懷帝王之器,當衰周之末,無受命之運,在魯、衞之朝,教化乎洙、泗之上,悽悽焉,遑遑焉,欲屈己以存道,貶身以救世。于時王公終莫能用之,乃退考五代之禮,脩素王之事,因魯史而制春秋,就太師而正雅頌,俾千載之後,莫不宗其文以述作,仰其聖以成謀,咨!可謂命世之大聖,億載之師表者也。

曹(そう)丕(ひ)は詔を下してこう言ったよ。
「昔、仲(ちゅう)尼(じ)(孔(こう)子(し))はとてもすぐれた才能を持っていて、帝王になれるくらいの力を胸に持っていたよ。でも、彼が生まれたのは周(しゅう)が衰えた時代で、天からその地位を受ける運にめぐまれなかったんだ。魯(ろ)や衛(えい)の国の朝廷にいて、洙(しゅ)水(すい)や泗(し)水(すい)のほとりで教えを広めたけど、心はいつも不安で落ち着かなくて、どうにかして自分を低くしてでも正しい道を守って、世の中を救おうとしていたよ。でもそのときの王や公たちは誰も孔(こう)子(し)を使わなかったんだ。そこで彼は古い時代の礼を調べて、位の無い王のことを修めて、魯(ろ)の歴史をもとにして『春(しゅん)秋(じゅう)』を作ったよ。太(たい)師(し)(音楽をつかさどる役人)に学んで『詩(し)経(きょう)』の雅(が)や頌(しょう)を正しく整えたよ。そのおかげで、後の長い年月にわたって、人々はみなその文章を手本として書物を作って、そのすぐれた知恵をあおいで物事を決めるようになったよ。ああ、彼こそまさに時代を導く偉大な聖人で、はるか未来にわたっての手本となる人物であると言えるね。

本文

遭天下大亂,百祀墮壞,舊居之廟,毀而不脩,襃成之後,絕而莫繼,闕里不聞講頌之聲,四時不覩蒸甞之位,斯豈所謂崇禮報功,盛德百世必祀者哉!其以議郎孔羨為宗聖侯,邑百戶,奉孔子祀。」令魯郡脩起舊廟,置百戶吏卒以守衞之,又於其外廣為室屋以居學者。

天下が大きく乱れて、先祖をまつるたくさんの祭りはすたれて、昔からあった孔(こう)子(し)の廟もこわれたまま修理されなかったんだ。褒(ほう)成(せい)侯(こう)(孔(こう)子(し)の子孫に与えられていた地位)の後継者が途絶えたんだ。孔(こう)子(し)の故郷の闕(けつ)里(り)では、教えを語り合う声も聞こえなくて、四季の祭りでお供えもなくなっていたんだ。これでは礼を大切にして功績を報いて、すぐれた徳をもつ人を代々まつる、いうあり方とは言えないよ! そこで、議(ぎ)郎(ろう)の孔(こう)羨(せん)を宗(そう)聖(せい)侯(こう)に任命して、100戸の領地を与えて、孔(こう)子(し)の祭りを受け継いでね」
さらに魯(ろ)郡に命令して、古い廟を修復させて、百戸の地位の役人や兵を置いて守らせたよ。さらにその外側に広い建物を建てて、学ぶ人たちが住めるようにしたよ。

甄氏が亡くなる

本文

三月,加遼東太守公孫恭為車騎將軍。初復五銖錢。夏四月,以車騎將軍曹仁為大將軍。五月,鄭甘復叛,遣曹仁討斬之。六月庚子,初祀五嶽四瀆,咸秩羣祀。(註33)

三月、遼(りょう)東(とう)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の公(こう)孫(そん)恭(きょう)を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。
このときからふたたび五(ご)銖(しゅ)銭(せん)を使うようにしたよ。
夏の四月、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)仁(じん)を大(だい)将(しょう)軍(ぐん)にしたよ。五月、鄭(てい)甘(かん)がふたたび反乱を起こしたから、曹(そう)仁(じん)を送ってこれを討ち取ったよ。六月、庚子の日、はじめて五(ご)嶽(がく)と四(し)瀆(とく)をまつって、さまざまな祭りの順序や決まりを整えたよ。

(註33)

魏書:甲辰,以京師宗廟未成,帝親祠武皇帝于建始殿,躬執饋奠,如家人之禮。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、甲辰の日、都の宗廟(先祖の廟)がまだ完成していなかったから、曹(そう)丕(ひ)は自ら建(けん)始(し)殿(でん)で武(ぶ)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)操(そう))をまつったよ。自分で供え物を捧げて、家族が先祖をまつるときのような、丁寧で親しい形の礼だったよ。

本文

丁卯,夫人甄氏卒。戊辰晦,日有食之,有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱,豈禹、湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職,後有天地之眚,勿復劾三公。」

丁卯の日、夫人の甄(しん)氏(し)が亡くなったんだ。戊辰の晦(かい)(月の終わりの日)、日食が起こったんだ。役人たちは「太(たい)尉(い)の責任として、辞めさせるべきだ」と上奏したよ。曹(そう)丕(ひ)は詔を下してこう言ったよ。
「このような天の異変は、もともと君主をいさめるために起こるものだよ。なのに、君主を支え続ける臣下に負わせるのは、禹(う)や湯(とう)が自分の罪を自分で引き受けたという考え方に合わないよね? これからは、朝廷の役人たちはそれぞれの仕事をしっかりして、今後、天や地の災いが起きても、二度と三(さん)公(こう)を責めないでね」

于禁が帰ってくる

本文

秋八月,孫權遣使奉章,并遣于禁等還。丁巳,使太常邢貞持節拜權為大將軍,封吳王,加九錫。冬十月,授楊彪光祿大夫。(註34)(註35)

秋の八月、孫(そん)権(けん)が使者を送って上奏して、于(う)禁(きん)たちを帰したよ。丁巳の日、太(たい)常(じょう)の邢(けい)貞(てい)に節を持たせて、孫(そん)権(けん)を大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命し、呉(ご)王(おう)に封じて、九(きゅう)錫(しゃく)を授けたよ。冬の十月、楊(よう)彪(ひょう)に光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の位を授けたよ。

(註34)

魏書曰:己亥,公卿朝朔旦,并引故漢太尉楊彪,待以客禮,詔曰:「夫先王制几杖之賜,所以賔禮黃耇襃崇元老也。昔孔光、卓茂皆以淑德高年,受茲嘉錫。公故漢宰臣,乃祖已來,世著名節,年過七十,行不踰矩,可謂老成人矣,所宜寵異以章舊德。其賜公延年杖及馮几;謁請之日,便使杖入,又可使著鹿皮冠。」彪辭讓不聽,竟著布單衣、皮弁以見。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、己亥の日、公卿たちは朝廷に集まって、かつての漢(かん)の太(たい)尉(い)の楊(よう)彪(ひょう)を招いて、客として丁寧にもてなしたよ。曹(そう)丕(ひ)は詔を下してこう言ったよ。
「昔の天子が杖と机を与えたのは、立派な年長者に礼を尽くしてうやまうためだよ。昔、孔(こう)光(こう)や卓(たく)茂(も)はすぐれた徳と高い年齢によって、このようなすばらしい賞を受けたよ。あなた(楊(よう)彪(ひょう))はもともと漢(かん)の大臣で、先祖から代々、名声と正しい心で知られてきたよ。すでに70歳を超えて、そのふるまいも礼を外れていない、まさに経験豊かな立派な人で、特別に大切にして、その昔からの徳を表すべきだよ。そこで、あなたに延(えん)年(ねん)杖(じょう)と馮(ひょう)几(き)を授けるよ。宮中に来て願い出るときには、そのまま杖を持って入っていいよ。さらに鹿(ろく)皮(ひ)冠(かん)をかぶることも許すよ」
楊(よう)彪(ひょう)は辞退したけど聞き入れられなくて、布の単衣と皮の冠を身につけて、皇帝に会ったよ。

(註35)

續漢書曰:彪見漢祚將終,自以累世為三公,恥為魏臣,遂稱足攣,不復行。積十餘年,帝即王位,欲以為太尉,令近臣宣旨。彪辭曰:「甞以漢朝為三公,值世衰亂,不能立尺寸之益,若復為魏臣,於國之選,亦不為榮也。」帝不奪其意。

『続(ぞく)漢(かん)書(じょ)』によると、楊(よう)彪(ひょう)は漢(かん)の運が終わろうとしているのを見て、自分の家は代々三(さん)公(こう)だったから、魏(ぎ)の臣下になるのを恥ずかしいと思ったんだ。そこで、「足が曲がって歩けない」と言って、もう出仕しなくなったんだって。
それから10年以上が経って、曹(そう)丕(ひ)が王に即位すると、楊(よう)彪(ひょう)を太(たい)尉(い)にしようとして、近くの臣下にその気持ちを伝えさせたよ。でも、楊(よう)彪(ひょう)は辞退してこう言ったよ。
「私はかつて漢(かん)の時代に三(さん)公(こう)をつとめたけど、世の中が乱れていたから、ちょっとの功績もあげられなかったんだ。だから、もし魏(ぎ)の臣下になっても、国に選ばれるような人物とは言えないし、栄誉とも思えないよ」
曹(そう)丕(ひ)はその気持ちを無理に変えさせなかったよ。

(註35)

黃初四年,詔拜光祿大夫,秩中二千石,朝見位次三公,如孔光故事。彪上章固讓,帝不聽,又為門施行馬,致吏卒,以優崇之。年八十四,以六年薨。子脩,事見陳思王傳。

黄(こう)初(しょ)四年(223年)、詔によって楊(よう)彪(ひょう)は光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)に任命されて、位は二千石で、朝廷での席次は三(さん)公(こう)と同じとされて、孔(こう)光(こう)の例にならったよ。楊(よう)彪(ひょう)は上表して強く辞退したけど、曹(そう)丕(ひ)は聞き入れなかったんだ。さらに、彼の家の門に行馬(乗り物を止めるためのしるし)を置いて、役人や兵をつけて、特別に手厚くもてなしたよ。
楊(よう)彪(ひょう)は84歳で、黄(こう)初(しょ)六年(225年)に亡くなったんだ。
その子の楊(よう)脩(しゅう)については「陳(ちん)思(し)王(おう)(曹(そう)植(しょく))伝」に書かれているよ。

本文

以穀貴,罷五銖錢。(註36)己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。

穀物の値段が高くなったから、五(ご)銖(しゅ)銭(せん)を使わなくしたよ。
己卯の日、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)仁(じん)を大(だい)司(し)馬(ば)に任命したよ。十二月、東に巡幸したよ。この年、陵(りょう)雲(うん)台(だい)を築いたよ。

(註36)

魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、十一月、辛未の日、鎮(ちん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)真(しん)はたくさんの将やそれぞれの州や郡の兵を率いて、反乱を起こした胡(こ)の治(ち)元(げん)多(た)、蘆(ろ)水(すい)、封(ほう)賞(しょう)たちを討ち破ったよ。5万以上の敵を討ち取って、10万人を生け捕りにして、羊は111万匹、牛は8万頭も手に入れて、こうして河(か)西(せい)は平定されたよ。

(註36)

帝初聞胡決水灌顯美,謂左右諸將曰:「昔隗嚻灌略陽,而光武因其疲弊,進兵滅之。今胡決水灌顯美,其事正相似,破胡事今至不久。」旬日,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」

曹(そう)丕(ひ)は、はじめに胡(こ)(異民族)が水をせき止めて顕(けん)美(び)を水攻めにしたと聞くと、周りの将たちにこう言ったよ。
「昔、隗(かい)囂(ごう)が略(りゃく)陽(よう)を水で攻めたとき、光(こう)武(ぶ)帝(てい)(劉(りゅう)秀(しゅう))は、その疲れをついて軍を進めて、これを滅ぼしたんだ。今、胡(こ)が水をせき止めて顕(けん)美(び)を攻めているのは、そのときとまったく同じだよ。胡(こ)を破るのも、もうすぐだろうね」
それから10日後、胡(こ)が破ったという知らせの文書が届いたよ。曹(そう)丕(ひ)は大笑いしてこう言ったよ。
「私は帷幕の中で戦略を立てて、将たちは万里も離れた遠い地の外で力いっぱい戦ったよ。その結果がぴったり合うのは、まるで割り符がぴったり合うようなものだね。これまで戦いで勝って、敵を捕らえたことは何度もあるけど、こんなに見事にうまくいったことはなかったよ」

夷陵の戦い

本文

三年春正月丙寅朔,日有蝕之。庚午,行幸許昌宮。詔曰:「今之計考,古之貢士也;十室之邑,必有忠信,若限年然後取士,是呂尚、周晉不顯於前世也。其令郡國所選,勿拘老幼;儒通經術,吏達文法,到皆試用。有司糾故不以實者。」(註37)

黄(こう)初(しょ)三年(222年)、春の正月、丙寅の朔(さく)(月の初めの日)、日食が起こったんだ。庚午の日、曹(そう)丕(ひ)は許(きょ)昌(しょう)宮(きゅう)に行ったよ。そして、詔を下してこう言ったよ。
「今の人の選び方は、昔の貢(こう)士(し)みたいだよね。たとえ10戸の小さな村でも、忠や信義を守る者がいるものだよ。もし年齢でしばってから人を選ぶようでは、呂(りょ)尚(しょう)(太公望)や周(しゅう)晋(しん)みたいな人は、昔に出てこなかったかもしれないね。これからは、郡や国が選ぶ人たちは、年が若いか年を取っているかにこだわってはならないんだ。儒者は経書に詳しくて、役人であれば法律や文書にくわしい者は、来た者はみんな試しに使ってみてね。もし、役人が事実にもとづかないで人を選んだり報告したりした場合は、きびしく取り締まってね」

(註37)

魏書曰:癸亥,孫權上書,說:「劉備支黨四萬人,馬二三千匹,出秭歸,請往埽撲,以克捷為效。」帝報曰:「昔隗嚻之弊,禍發栒邑,子陽之禽,變起扞關,將軍其亢厲威武,勉蹈奇功,以稱吾意。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、癸亥の日、孫(そん)権(けん)は上書してこう言ったよ。
「劉(りゅう)備(び)は4万の兵と2,000から3,000匹の馬を率いて秭(し)歸(き)から出たよ。どうか私が出向いてこれを討ち払って、勝利で応えたいんだ」
曹(そう)丕(ひ)はこう答えたよ。
「昔、隗(かい)囂(ごう)の弱ったことは栒(しゅん)邑(ゆう)で災いとなって、子(し)陽(よう)(公(こう)孫(そん)述(じゅつ))が捕らえられたのも扞(かん)関(かん)での出来事からだったよ。だから、あなたは立派な武をしっかりとふるって、力を尽くしてすぐれた功績をあげて、私の期待に応えてね」

本文

二月,鄯善、龜茲、于闐王各遣使奉獻,詔曰:「西戎即叙,氐、羌來王,詩、書美之。頃者西域外夷並款塞內附,(註38)其遣使者撫勞之。」是後西域遂通,置戊己校尉。

二月、鄯(ぜん)善(ぜん)、亀(き)茲(じ)、于(う)闐(てん)の王たちがそれぞれ使者を送って貢ぎ物を捧げたよ。曹(そう)丕(ひ)は詔を下してこう言ったよ。
「昔、西の異民族がよく治まって、氐(てい)や羌(きょう)が来て王に従ったことは、『詩(し)経(きょう)』や『書(しょ)経(きょう)』でもほめたたえられているよ。最近、西域の外の異民族もみんな私たちの国に従って、使者を送ってきてくれているんだ。だから、彼らをねぎらって、いたわってね」
その後、西域との行き来は順調になって、戊(ぼ)己(き)校(こう)尉(い)を置いたよ。

(註38)

應劭漢書注曰:款,叩也;皆叩塞門來服從。

応(おう)劭(しょう)の『漢(かん)書(じょ)』の注によると、款とは叩くことで、つまり、関所の門をたたいて来て従うという意味だよ。

本文

三月乙丑,立齊公叡為平原王,帝弟鄢陵公彰等十一人皆為王。初制封王之庶子為鄉公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯。甲戌,立皇子霖為河東王。甲午,行幸襄邑。夏四月戊申,立鄄城侯植為鄄城王。癸亥,行還許昌宮。五月,以荊、揚、江表八郡為荊州,孫權領牧故也;荊州江北諸郡為郢州。

三月、乙丑の日、斉(せい)公(こう)の曹(そう)叡(えい)を平(へい)原(げん)王(おう)にしたよ。曹(そう)丕(ひ)の弟で鄢(えん)陵(りょう)公(こう)の曹(そう)彰(しょう)たち11人もみんな王に封ぜられたよ。このときはじめて制度を定めて、王の庶子は郷(きょう)公(こう)、王の後継ぎの庶子は亭(てい)侯(こう)、公の庶子は亭(てい)伯(はく)としたよ。
甲戌の日、皇子の曹(そう)霖(りん)を河(か)東(とう)王(おう)にしたよ。
甲午の日、曹(そう)丕(ひ)は襄(じょう)邑(ゆう)に行ったよ。
夏の四月、戊申の日、鄄(けん)城(じょう)侯(こう)の曹(そう)植(しょく)を鄄(けん)城(じょう)王(おう)にしたよ。癸亥の日、曹(そう)丕(ひ)は許(きょ)昌(しょう)宮(きゅう)に帰ったんだ。
五月、荊(けい)州、揚(よう)州、江(こう)表(ひょう)の8つの郡をまとめて荊(けい)州にしたよ。これは、孫(そん)権(けん)が牧(ぼく)のままだったからだよ。荊(けい)州のうち長江の北にある郡は、郢(えい)州としたよ。

本文

閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂羣臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!『苞原隰險阻而為軍者,為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」後七日,破備書到。(註39)

閏月、孫(そん)権(けん)は夷(い)陵(りょう)で劉(りゅう)備(び)を打ち破ったよ。
前に、曹(そう)丕(ひ)は、劉(りゅう)備(び)が東へ軍を進めて、孫(そん)権(けん)と戦っていて、その陣が700里にわたって柵を立てて続いていると聞いて、たくさんの臣下にこう言ったよ。
「劉(りゅう)備(び)は戦いのやり方をよくわかっていないんだね。どうして700里も続く陣で敵を防げるの! 『平野や湿地や険しい場所で広く陣を広げる軍は、かえって敵に捕らえられてしまう』というよ。これは戦いではしてはいけないことだよ。孫(そん)権(けん)の上書は、もうすぐ着くだろうね」
7日後、劉(りゅう)備(び)を破ったという知らせの手紙が届いたよ。

本文

秋七月,兾州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。八月,蜀大將黃權率衆降。

秋の七月、冀(き)州で大きないなごの被害が起こって、人々は食べ物に困っていたんだ。そこで、尚(しょう)書(しょ)の杜(と)畿(き)に節を持たせて、倉庫を開いて食糧を分け与えさせたよ。
八月、蜀(しょく)の大将の黄(こう)権(けん)が兵を率いて降伏してきたよ。

(註39)

魏書曰:權及領南郡太守史郃等三百一十八人,詣荊州刺史奉上所假印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車。權等詣行在所,帝置酒設樂,引見於承光殿。權、郃等人人前自陳,帝為論說軍旅成敗去就之分,諸將無不喜恱。賜權金帛、車馬、衣裘、帷帳、妻妾,下及偏裨皆有差。拜權為侍中鎮南將軍,封列侯,即日召使驂乘;及封史郃等四十二人皆為列侯,為將軍郎將百餘人。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、黄(こう)権(けん)は南(なん)郡(ぐん)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の史(し)郃(こう)たち318人と一緒に、荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)のもとに行って、自分たちが持っていた印綬、武器や旗、牙門(部隊の指揮官のしるし)、鼓(こ)車(しゃ)(太鼓を積んだ車)などを差し出したよ。
黄(こう)権(けん)たちは曹(そう)丕(ひ)のいる場所(許(きょ)昌(しょう))に行って、曹(そう)丕(ひ)はみんなを招いて酒宴と音楽を用意して、承(しょう)光(こう)殿(でん)で彼らに会ったよ。黄(こう)権(けん)と史(し)郃(こう)たちは一人ひとり前に出て事情を話したよ。曹(そう)丕(ひ)は戦いの勝ち負けや進むか退くかの判断について説明して、将たちはみんなとても喜んだよ。
曹(そう)丕(ひ)は黄(こう)権(けん)に、金や絹織物、車や馬、衣服や毛皮、帳幕、さらに妻や側室を与えたよ。部下たちにも、それぞれの立場に応じて賞を与えたよ。そして、黄(こう)権(けん)を侍(じ)中(ちゅう)と鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)に任命して、列(れっ)侯(こう)に封じて、その日のうちに天子の馬車で迎えたんだ。史(し)郃(こう)たち42人も列(れっ)侯(こう)に封じて、さらに100人以上を将や郎(ろう)将(しょう)に任命したよ。

女性は政治に関わるな?

本文

九月甲午,詔曰:「夫婦人與政,亂之本也。自今以後,羣臣不得奏事太后,后族之家不得當輔政之任,又不得橫受茅土之爵;以此詔傳後世,若有背違,天下共誅之。」(註40)

九月、甲午の日、詔を下してこう言ったよ。
「もともと女性が政治に関わることは、乱れのもとになるんだ。これからは、臣下たちは太后に政治のことを上奏してはいけないよ。それに、太后の一族も政治を助ける役目についてはならないし、勝手に土地や爵位を受け取ってはならないよ。この命令は後の時代まで伝えて、もしそむく人がいたら、天下の人たちは協力して罰を与えてね」

(註40)

孫盛曰:夫經國營治,必憑俊喆之輔,賢達令德,必居參亂之任,故雖周室之盛,有婦人與焉。然則坤道承天,南面罔二,三從之禮,謂之至順,至於號令自天子出,奏事專行,非古義也。

孫(そん)盛(せい)によると、そもそも国を治めるには、すぐれた賢い人の助けが必要で、徳の高い人は重要な仕事に就くべきだよ。だから、周(しゅう)の王朝がさかえていたときでさえ、女性が政治にかかわることもあったよ。でも本来の考えでは、女性は天の道に従って、君主に仕えて逆らわないで、三従(父・夫・子に従うこと)の礼を守るのが、いちばんよいあり方とされているよ。命令は天子から出されるべきで、女性が政治の決定を自分でするのは、昔の正しいやり方ではなんだ。

(註40)

昔在申、呂,實匡有周。苟以天下為心,惟德是杖,則親疏之授,至公一也,何至后族而必斥遠之哉?二漢之季世,王道陵遲,故令外戚憑寵,職為亂階。於此,自時昏道喪,運祚將移,縱無王、呂之難,豈乏田、趙之禍乎?而後世觀其若此,深懷酸毒之戒也。至於魏文,遂發一概之詔,可謂有識之爽言,非帝者之宏議。

昔、申(しん)侯(こう)や呂(りょ)侯(こう)は周(しゅう)を助けたよ。もし天下のことを最も大切だと考えて、徳のある人を頼りにするなら、親しいかどうかに関係なくて、公平に人を任命すべきだよね。どうして太后の一族だからといって、必ず遠ざけなければならないの?
漢(かん)の時代の終わりごろ、王の道がどんどん衰えていく中で、外戚(皇后の一族)がえこひいきされて政治に関わったから、それが乱れのもとになったんだ。でも、この時代がすでに乱れていて、国の運命が変わろうとしていたからで、たとえ王(おう)莽(もう)や呂(りょ)后(こう)みたいな大きな争いがなかったとしても、田(でん)氏(し)や趙(ちょう)氏(し)みたいな別の災いが起こらなかったとは言えないよ。でも後の時代の人たちは、このような出来事を見て、深く恐れや警戒の気持ちを持つようになったんだ。
曹(そう)丕(ひ)はその後、このような事情から一律に禁じる詔を出して、これは見識ある率直な言葉ではあるけど、皇帝として広い考えに立った立派な判断とは言えないよ。

本文

庚子,立皇后郭氏。賜天下男子爵人二級;鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。

庚子の日、郭(かく)氏(し)を皇后に立てたよ。天下の成人した男子の身分を2つ上げて、さらに、配偶者を亡くした人、重い病に苦しむ人貧しくて自分で生活できない人には、穀物を与えたよ。

墓は質素に

本文

冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「禮,國君即位為椑,(註41)存不忘亡也。(註42)昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,(註43)故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寑殿,造園邑,通神道。

冬の十月、甲子の日、首(しゅ)陽(よう)山(ざん)の東を寿陵(生前の墓)と定めたよ。亡くなった後の決まり(終(しゅう)制(せい))を決めてこう言ったよ。
「礼では、国の君主は即位したときから棺を作って、生きているうちから死を忘れないようにするんだ。昔、堯(ぎょう)は穀(こく)林(りん)に葬られたけど、そこには前と同じように木を植えたよ。禹(う)は会(かい)稽(けい)に葬られたけど、民は移らないで畑を変えなかったよ。だから、山や林に葬るなら、そのまま自然の山や林に合わせるのがいいよ。土を盛ったり木を植えたりして墓を大きく見せるやり方は、古い時代のものではないし、私もそうしないよ。墓は山の形をそのまま使って、土を盛ったり木を植えたりしないで、墓のための寝殿や町も作らないし、墓の道も設けないよ。

(註41)

椑音扶歷反。

椑の発音は、扶の子音に歴の母音と声調を加えたものだよ(反切)。

(註42)

臣松之按:禮,天子諸侯之棺,各有重數;棺之親身者曰椑。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、礼では、天子や諸侯の棺は、それぞれ重ねる数が決まっているよ。その中で、体にいちばん近い棺のことを椑というんだって。

(註43)

呂氏春秋:堯葬於穀林,通樹之;舜葬於紀,市廛不變其肆;禹葬會稽,不變人徒。

『呂(りょ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、堯(ぎょう)は穀(こく)林(りん)に葬られて、そこには前と同じように木を植えたよ。舜(しゅん)は紀(き)に葬られたけど、市場や店はもとのままで、変わらなかったよ。禹(う)は会(かい)稽(けい)に葬られたけど、人々の仕事や暮らしも変わらなかったよ。

本文

夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。

そもそも葬るということは、隠すという意味で、人に見えないようにするためだよ。骨には痛みもかゆみも感じないし、墓は魂が住む家でもないよ。礼では墓での祭りをしないのは、生きている者と亡くなった者の区別を乱さないためだよ。棺や外の箱(槨(かく))は骨が自然に朽ちるのに十分であればよくて、衣服や布団は体が朽ちるのに足りるだけでいいんだ。だから私はこのような小さな土の丘で、作物も育たない場所を選んで、後の時代になっても、その場所がどこなのかわからないようにしたいの。

本文

無施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉,無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。宋公厚葬,君子謂華元、樂莒不臣,以為棄君於惡。

葦や炭(乾燥剤)を使わないで、金、銀、銅、鉄などの宝物も一緒に入れないでね。すべて瓦の器だけを使って、泥で作った車や、草の人形を使って、昔の方法に従ってね。棺は、合わせ目に三度くらい漆を塗るだけでいいよ。口に入れるものとして珠や玉(ぎょく)を使ってはいけないよ。宝石を付けた服や箱を使うのも、愚かな風習だよね。
季(き)孫(そん)は璵(よ)や璠(はん)という宝玉を使って遺体を葬ろうとしたけど、孔(こう)子(し)は階段をかけ上がってそれを止めて、野原に死体をさらすようなもの、とたとえたよ。宋(そう)の文(ぶん)公(こう)が手厚すぎる葬りをしたとき、君子は華(か)元(げん)や楽(がく)莒(きょ)が主君に忠でなかったと批判して、『それは主君を悪い状態に置くことになる』と考えたよ。

この部分は、『日本書紀』に引用されているよ。『日本書紀』の卷第二十五(孝徳天皇)の「甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。~」の後に続く文章。「魏書武帝紀」にある曹(そう)操(そう)さんの命令と一緒に引用されているよ。

本文

漢文帝之不發,霸陵無求也;光武之掘,原陵封樹也。霸陵之完,功在釋之;原陵之掘,罪在明帝。是釋之忠以利君,明帝愛以害親也。忠臣孝子,宜思仲尼、丘明、釋之之言,鑒華元、樂莒、明帝之戒,存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。

漢(かん)の文(ぶん)帝(てい)の墓(覇(は)陵(りょう))があばかれなかったのは、特別に宝物を求めなかったからだよ。光(こう)武(ぶ)帝(てい)(劉(りゅう)秀(しゅう))の墓(原(げん)陵(りょう))が掘り返されたのは、土を盛ったり木を植えたりして目立つようにしていたからだよ。覇(は)陵(りょう)が守られたのは、張(ちょう)釈(しゃく)之(し)が進言して簡単な葬りにしたおかげで、原(げん)陵(りょう)が掘られたのは、明(めい)帝(てい)の責任だね。つまり、張(ちょう)釈(しゃく)之(し)は忠によって君主に利益をもたらして、明(めい)帝(てい)は親を思う気持ちがかえって害を与えたんだ。忠臣や孝行者は、仲(ちゅう)尼(じ)(孔(こう)子(し))や左(さ)丘(きゅう)明(めい)、張(ちょう)釈(しゃく)之(し)の言葉を考えて、華(か)元(げん)、楽(がく)莒(きょ)、明(めい)帝(てい)の例を教訓として、どうすれば君主や親を安らかに保てるかを考えるべきだよ。そうすれば、魂が長い年月にわたって危険にさらされることもなくなるよ。これこそが、すぐれた人の忠や孝だね。昔から今まで、滅びない国はなくて、掘り返されなかった墓もないんだ。

「滅びない国は無い」なんて、皇帝が言ったらダメでしょ! 曹(そう)丕(ひ)さん、意外と自分に自信が無かったのかな?

本文

喪亂以來,漢氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉匣金縷,骸骨并盡,是焚如之刑也,豈不重痛哉!禍由乎厚葬封樹。『桑、霍為我戒』,不亦明乎?其皇后及貴人以下,不隨王之國者,有終沒皆葬澗西,前又以表其處矣。

戦乱や混乱が続いてから、漢(かん)の皇帝の墓はどれも掘り返されないものはないよ。とうとう玉(ぎょく)の箱や金の糸まで焼いて取り出して、骨まですべて失われちゃった。これはまるで火あぶりの刑みたいで、なんて悲しいの! このような災いは、手厚すぎる葬りや、大きく目立つ墓を作ったせいだよ。『(立派な葬式をした)桑(そう)弘(く)羊(よう)と霍(かく)禹(う)は私の戒めとなる』と言ったのは、とてもはっきりした教えではないかな? 皇后や貴人たちで、王に従って国に行かない者たちは、亡くなったときにはすべて澗(かん)西(せい)に葬って、あらかじめその場所も決めておいたんだ。

『桑、霍為我戒』は、『漢(かん)書(じょ)』「張(ちょう)湯(とう)伝(でん)」を見てね。

本文

蓋舜葬蒼梧,二妃不從,延陵葬子,遠在嬴、博,魂而有靈,無不之也,一澗之閒,不足為遠。若違今詔,妄有所變改造施,吾為戮尸地下,戮而重戮,死而重死。臣子為蔑死君父,不忠不孝,使死者有知,將不福汝。其以此詔藏之宗廟,副在尚書、祕書、三府。」

舜(しゅん)は蒼(そう)梧(ご)に葬られたけど、2人の妃はそれに従って一緒には葬られなかったよ。延(えん)陵(りょう)(季(き)札(さつ))は子供を遠くの嬴(えい)、博(はく)に葬ったよ。でも、魂に霊があるなら、どこへでも行けるんだ。1つの谷をはさんだ程度の距離なんて、遠いとは言えないよ。
もしこの詔にそむいて、勝手に変えたり新しく作り加えたりする者がいたら、私は地下でその遺体を罰して、何度でも罰して、死んでもなお罰するだろうね。臣下や子供が亡くなった君主や父母をないがしろにするのは、忠や孝に欠けているよ。もし死者に知る心があるなら、そのような者に幸いはないだろうね。この詔を宗廟(先祖の廟)に置いて、尚(しょう)書(しょ)、秘(ひ)書(しょ)、三(さん)公(こう)の役所にも置いてね」

曹(そう)丕(ひ)さんの墓はまだ見つかっていないよ。どこにあるのかな?

本文

是月,孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征,諸軍兵並進,權臨江拒守。十一月辛丑,行幸宛。庚申晦,日有食之。是歲,穿靈芝池。

この月、孫(そん)権(けん)がふたたびそむいたんだ。郢(えい)州をもとの荊(けい)州に戻したよ。曹(そう)丕(ひ)は許(きょ)昌(しょう)から南へ軍を進めて、各地の軍もいっせいに進んだよ。孫(そん)権(けん)は長江のほとりに出て、守りを固めたんだ。
十一月、辛丑の日、曹(そう)丕(ひ)は宛(えん)に行ったよ。庚申の晦(かい)(月の終わりの日)、日食が起こったんだ。この年、霊(れい)芝(し)池(ち)を掘ったよ。

続き → 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その4