
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹丕 について書かれているよ!
本文中で曹丕さんは「文帝」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹丕」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、禅譲を受けるまでだよ。
- 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
- 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その3
- 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その4
出典
三國志 : 魏書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹丕の生まれ
文皇帝諱丕,字子桓,武帝太子也。中平四年冬,生于譙。(註1)(註2)
文皇帝の名は丕で、字は子桓だよ。曹操の太子だよ。中平四年(187年)、冬、譙で生まれたよ。
魏書曰:帝生時,有雲氣青色而圜如車盖當其上,終日,望氣者以為至貴之證,非人臣之氣。年八歲,能屬文。有逸才,遂博貫古今經傳諸子百家之書。善騎射,好擊劔。舉茂才,不行。
『魏書』によると、曹丕が生まれたとき、青い雲のような気が空にあらわれて、車の屋根のような丸い形でその上にかかって、一日中消えなかったんだって。気を見る人は、これをとても高い身分になるしるしで、普通の臣下の身分ではないと考えたよ。
曹丕は8歳のときにはもう文章を書くことができたよ。とてもすぐれた才能を持っていて、昔から今までの経書とその注釈書、そしてさまざまな学者の本を広く読んで理解したよ。それに、馬に乗って弓を射ることが上手で、剣で戦うことも好きだよ。茂才に推挙されたけど、応じなかったよ。
獻帝起居注曰:建安十五年,為司徒趙溫所辟。太祖表「溫辟臣子弟,選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免溫官。
『献帝起居注』によると、建安十五年(210年)、司徒の趙温に招かれたよ。でも、曹操は上表してこう言ったよ。
「趙温が私や子供を使うということは、人の登用や推挙が本当の実力に基づいていないということだよね」
そして、侍中で光禄勲の郗慮に節を持たせて詔を授けて、趙温を辞めさせたんだ。
建安十六年,為五官中郎將、副丞相。二十二年,立為魏太子。(註3)
建安十六年(211年)、曹丕は五官中郎将となって、丞相の補佐をしたよ。
建安二十二年(217年)、魏の太子に立てられたよ。
魏略曰:太祖不時立太子,太子自疑。是時有高元呂者,善相人,乃呼問之,對曰:「其貴乃不可言。」問:「壽幾何?」元呂曰:「其壽,至四十當有小苦,過是無憂也。」後無幾而立為王太子,至年四十而薨。
『魏略』によると、曹操はなかなか太子を決めなかったから、曹丕は不安になっていたんだ。このとき高元呂という占いの名人がいて、曹丕は彼を呼んで尋ねたよ。高元呂はこう答えたよ。
「身分の高さは、とても言葉では言い表せないよ」
曹丕はさらに質問したよ。
「寿命はどれくらいなの?」
高元呂はこう答えたよ。
「寿命は40歳のときにちょっと苦しいことがあるけど、それを過ぎれば心配いらないよ」
曹丕はその後すぐに王太子に立てられたけど、40歳で亡くなったんだ。
魏王になる
太祖崩,嗣位為丞相、魏王。(註4)
曹操が亡くなると、その後を継いで丞相と魏王になったよ。
袁宏漢紀載漢帝詔曰:「魏太子丕:昔皇天授乃顯考以翼我皇家,遂攘除羣凶,拓定九州,弘功茂績,光于宇宙,朕用垂拱負扆二十有餘載。天不憖遺一老,永保余一人,早世潛神,哀悼傷切。丕奕世宣明,宜秉文武,紹熈前緒。
袁宏の『漢紀』によると、漢の皇帝は詔を下してこう言ったよ。
「魏の太子の曹丕に伝えるよ。昔、天の意志はあなたの父(曹操)に力を与えて、私の皇家を助けさせたよ。そしてたくさんの悪い人たちを滅ぼして、国の広い地域を平定して、大きな功績をあげて、その名は世界中に広まったよ。私は20年以上にわたって、ただ座って何もしないで過ごしていたんだ。でも天はその大切な人(曹操)を長く生かしてはくれなかったんだ。私は心から深く悲しんでいるの。あなたは、代々のすぐれた家の後を受け継いで、文と武の力を持って、先人の仕事を受けついで発展させるのにふさわしいよ。
今使使持節御史大夫華歆奉策詔授丕丞相印綬、魏王璽紱,領兾州牧。方今外有遺虜,遐夷未賔,旗鼓猶在邊境,干戈不得韜刃,斯乃播揚洪烈,立功垂名之秋也。豈得脩諒闇之禮,究曾、閔之志哉?其敬服朕命,抑弭憂懷,旁祗厥緒,時亮庶功,以稱朕意。於戲,可不勉與!」
今、使者として使持節で御史大夫の華歆に詔を授けて、丞相の印と魏王の印を授けて、冀州牧(州の長官)にするよ。
今はまだ、外に討たれていない敵が残っていて、遠くの異民族もまだ従っていなくて、旗や太鼓はまだ国境にあって、武器をしまうことはできないんだ。このようなときこそ、大きな功績を広めて、名声を築く時期だよ。どうして長く深く喪に服して、曾子や閔子騫みたいに振る舞えるの? どうか私の命令をうやまって受けて、悲しみをおさえて、父(曹操)の仕事を継いで、たくさんの仕事をうまく進めて、私の気持ちにかなうようにしてね。ああ、しっかりと励んでね!」
尊王后曰王太后。改建安二十五年為延康元年。
王后を尊んで、王太后と呼ぶようにしたよ。
建安二十五年(220年)を、延康元年に改めたよ。
元年二月(註5)壬戌,以大中大夫賈詡為太尉,御史大夫華歆為相國,大理王朗為御史大夫。置散騎常侍、侍郎各四人,其宦人為官者不得過諸署令;為金策著令,藏之石室。
延康元年(220年)、二月、壬戌の日、大中大夫の賈詡を太尉、御史大夫の華歆を相国、大理の王朗を御史大夫に任命したよ。散騎常侍と侍郎をそれぞれ4人ずつ置いたよ。宦官で官職についている者は、その地位は各役所の署令(長官)を越えてはならないと決めたよ。さらに、命令文を作って、それを石室に大切に保管したよ。
魏書載庚戌令曰:「關津所以通商旅,池苑所以御災荒也。設禁重稅,非所以便民;其除池籞之禁,輕關津之稅,皆復什一。」辛亥,賜諸侯王將相已下大將粟萬斛,帛千匹,金銀各有差等。遣使者循行郡國,有違理掊克暴虐者,舉其罪。
『魏書』によると、庚戌の日、曹丕は命令してこう言ったよ。
「関所や渡し場は、人や商人が行き来するためのものだよ。池や庭園は、ききんなどの災いに備えるためのものだよ。なのに、重い禁止や高い税をかけるのは、人々のためにならないよね。だから、池や狩り場の禁止をやめて、関所の税を軽くして、すべて10分の1の税に戻すよ」
辛亥の日、諸侯、王、将、相やそれ以下の大将に、1万斛の粟、1,000匹の絹織物、金銀をそれぞれの身分に応じて与えたよ。各地の郡や国に使者を送って、道理に反して人々から金や物をむりやり取り立てたり、乱暴でひどい政治をしている者がいれば、その罪を報告させたよ。
いろいろな予兆
初,漢熹平五年,黃龍見譙,光祿大夫橋玄問太史令單颺:「此何祥也?」颺曰:「其國後當有王者興,不及五十年,亦當復見。天事恒象,此其應也。」內黃殷登默而記之。至四十五年,登尚在。三月,黃龍見譙,登聞之曰:「單颺之言,其驗茲乎!」(註6)
昔、漢の熹平五年(176年)、黄龍が譙に現れたんだって。光禄大夫の橋玄が太史令(記録官)の単颺に尋ねたよ。
「これはどんなめでたいしるしなの?」
単颺はこう答えたよ。
「この国には新しい王が現れて、50年も経たないうちに黄龍がまた現れると思うよ。天の出来事にはいつも決まった形があって、これもそのしるしだね」
内黄の出身の殷登はこの話を黙って記録したよ。それから45年経ったけど、殷登はまだ生きていたよ。三月、黄龍がふたたび譙で現れたのを聞いた殷登はこう言ったよ。
「単颺の言ったことは、まさにこれが当たったんだ!」
魏書曰:王召見登,謂之曰:「昔成風聞楚丘之繇而敬事季友,鄧晨信少公之言而自納光武。登以篤老,服膺占術,記識天道,豈有是乎!」賜登穀二百斛,遣歸家。
『魏書』によると、曹丕は殷登を呼び出して会って、こう言ったよ。
「昔、成風(魯の荘公の妻)は楚丘の占いを聞いて季友をうやまって仕えたよ。鄧晨は少公の言葉を信じて、光武帝(劉秀)を受け入れたよ。あなたは年をとって経験も深くて、占いをよく知っていて、天の道理を覚えていて、本当にこんなことがあるんだね!」
そして、殷登に穀物200斛を与えて、家に帰らせたよ。
已卯,以前將軍夏侯惇為大將軍。濊貃、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉獻。(註7)
已卯の日、前将軍の夏侯惇を大将軍に任命したよ。
濊貊、扶余の単于(部族の王)、焉耆、于闐の王たちは、それぞれ使者を送って貢ぎ物を捧げたよ。
魏書曰:丙戌,令史官奏修重、黎、羲、和之職,欽若昊天,歷象日月星辰以奉天時。臣松之案:魏書有是言而不聞其職也。
『魏書』によると、丙戌の日、曹丕は命令してこう言ったよ。
「史官(記録官)に命令して、重、黎、羲、和と言った昔の役目を立て直させて、天をうやまって太陽・月・星の動きを観察して、季節や時を正しく知って、天の時に従うようにしてね」
裴松之が調べたところ、『魏書』にはこのように書かれているけど、実際にどんな役目だったのかは詳しくわからないんだって。
丁亥令曰:「故尚書僕射毛玠、奉常王脩、涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐、萬潛、中尉徐奕、國淵等,皆忠直在朝,履蹈仁義,並早即世,而子孫陵遲,惻然愍之,其皆拜子男為郎中。」
丁亥の日、曹丕は命令してこう言ったよ。
「昔、尚書僕射の毛玠、奉常の王脩、涼茂、郎中令の袁渙、少府の謝奐、万潜、中尉の徐奕、国淵たちは、みんな忠を尽くして正しい人で、朝廷で仁と義を守っていたよ。でも、みんな早く亡くなって、その子や孫たちはどんどん衰えていっているんだ。それをとても悲しんでいるの。だから、彼らの子や孫たちを郎中に任命するよ」
夏四月丁巳,饒安縣言白雉見。(註8)庚午,大將軍夏侯惇薨。(註9)(註10)
夏の四月、丁巳の日、饒安で「白い雉が現れた」と報告があったよ。庚午の日、大将軍の夏侯惇が亡くなったんだ。
魏書曰:賜饒安田租,勃海郡百戶牛酒,大酺三日;太常以太牢祠宗廟。
『魏書』によると、饒安では田畑の税を免除して、勃海郡では100戸に牛と酒を与えて、3日間の大きなお祝いを開いたよ。そして、太常は太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて宗廟(先祖の廟)にまつったよ。
魏書曰:王素服幸鄴東城門發哀。
『魏書』によると、曹丕はつつましい服を着て、鄴の東の城門に行って、悲しみを表したよ。
孫盛曰:在禮,天子哭同姓於宗廟門之外。哭於城門,失其所也。
孫盛によると、礼の決まりでは、天子は同じ一族の人のために泣くときは、宗廟(先祖の廟)の門の外でするべきで、城門では場所が違うよね。
五月戊寅,天子命王追尊皇祖太尉曰太王,夫人丁氏曰太王后,封王子叡為武德侯。(註11)
五月、戊寅の日、天子は曹丕に命令して、亡くなった先祖をたたえて、祖父で太尉の曹嵩に太王、その夫人の丁氏に太王后の尊号を贈ったよ。曹丕の子の曹叡を武徳侯に封じたよ。
魏略曰:以侍中鄭稱為武德侯傅,令曰:「龍淵、太阿出昆吾之金,和氏之璧由井里之田;礱之以砥礪,錯之以他山,故能致連城之價,為命世之寶。學亦人之砥礪也。稱篤學大儒,勉以經學輔侯,宜旦夕入侍,曜明其志。」
『魏略』によると、侍中の鄭称を曹叡の傅(教育係)にしたよ。曹丕は命令してこう言ったよ。
「名剣の龍淵や太阿は、昆吾の金から作られて、和氏の璧は井里の田から出たものだよ。これらの宝物を研ぐために、別の山の硬い石を使うから、こうして城をいくつもつなげたくらいの高い値打ちを持つ宝となったよ。学びも、人にとっての研ぎ石だよ。鄭称は学問に熱心に取り組んで、すぐれた学者たちの教えを学んでいるよ。これからは経書の学びによって曹叡を助けて、朝から晩までそばにいて、その志を明るく輝かせてね」
是月,馮翊山賊鄭甘、王照率衆降,皆封列侯。(註12)
この月、馮翊の山賊の鄭甘と王照は、仲間を率いて降伏したよ。二人とも列侯に封ぜられたよ。
魏書曰:初,鄭甘、王照及盧水胡率其屬來降,王得降書以示朝曰:「前欲有令吾討鮮卑者,吾不從而降;又有欲使吾及今秋討盧水胡者,吾不聽,今又降。昔魏武侯一謀而當,有自得之色,見譏李悝。吾今說此,非自是也,徒以為坐而降之,其功大於動兵革也。」
『魏書』によると、まず、鄭甘、王照、盧水胡は仲間を率いてが降伏したよ。曹丕はその降伏の手紙を受け取って、朝廷で人々に見せてこう言ったよ。
「前に、私に鮮卑を討つように命令があったけど、私はそれに従わないで、彼らは降伏してきたよ。今年の秋、盧水胡を討たせようとする者もいたけど、これも私は聞かないで、彼らは降伏してきたよ。
昔、戦国時代の魏の武侯は一つの計画を成功させて、自分の力を誇るような様子を見せたから、李悝に批判されたんだ。私は今この話をしているけど、自分が正しいと言いたいわけではないよ。ただ、戦わないで相手を降伏させることは、兵を動かすよりも大きな功績だと思うの」
酒泉黃華、張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進,斬之。華降。(註13)
酒泉の出身の黄華や、張掖の出身の張進たちは、それぞれ太守(郡の長官)を捕らえて反乱を起こしたんだ。金城太守の蘇則は張進を討ち取ったよ。黄華は降伏したよ。
華後為兖州刺史,見王淩傳。
その後、黄華は兗州刺史(州の長官)に任命されたよ。「王淩伝」に書いてあるよ。
六月辛亥,治兵于東郊,(註14)庚午,遂南征。(註15)
六月、辛亥の日、東の郊外で兵を整えて、庚午の日、南へ兵を進めたよ。
魏書曰:公卿相儀,王御華蓋,視金鼓之節。
『魏書』によると、公卿たちが礼にしたがって並んで、曹丕は華蓋(貴族の車)に乗って、金鼓の合図に合わせて軍の動きを見ていたよ。
魏略曰:王將出征,度支中郎將新平霍性上踈諫曰:「臣聞文王與紂之事,是時天下括囊無咎,凡百君子,莫肯用訊。今大王體則乾坤,廣開四聦,使賢愚各建所規。伏惟先王功無與比,而今能言之類,不稱為德。故聖人曰『得百姓之歡心』。兵書曰『戰,危事也』是以六國力戰,彊秦承弊,豳王不爭,周道用興。愚謂大王且當委重本朝而守其雌,抗威虎卧,功業可成。
『魏略』によると、曹丕は軍を進めようとすると、度支中郎将で新平の出身の霍性がいさめてこう言ったよ。
「私は、周の文王と殷の紂王のことを聞いているよ。そのとき天下の人々は口を閉ざして、誰も進んで意見を言おうとしなかったんだ。君子もみんな問いたださなかったみたい。でも今、あなたは天地のように広い心を持って、四方の民の声を聞いて、賢い人もそうでない人も、みんながそれぞれの意見を言えるよね。前の王(曹操)の功績は比べるものがないくらい大きいのに、今は正しいことを言える人が少なくて、その徳にふさわしい状態とは言えないんだ。だから、聖人は『人々の心からの喜びを得ることが大切だ』と言ったんだね。それに『兵書』には『戦いは危険なことだ』と書かれているんだ。だから、(春秋戦国時代の)6つの国が力を尽くして戦って、強い秦はそれを引き継いで弱っていったけど、豳王は争わなかったから、周の道が栄えたよ。私の意見では、あなたは今は漢の朝廷の中心をしっかり守って、むやみに戦わないで、強さを内に秘めて虎がじっとしているみたいにしていれば、大きな功績を成しとげられるよ。
而今刱基,便復起兵,兵者凶器,必有凶擾,擾則思亂,亂出不意。臣謂此危,危於累卵。昔夏啟隱神三年,易有『不遠而復』,論有『不憚改』。誠願大王揆古察今,深謀遠慮,與三事大夫筭其長短。臣沐浴先王之遇,又初改政,復受重任,雖知言觸龍鱗,阿諛近福,竊感所誦,危而不持。」奏通,帝怒,遣刺姦就考,竟殺之。旣而悔之,追原不及。
でも今、魏の国の土台を作ったばかりなのに、すぐにまた兵を挙げようとしているよ。戦いというものは不吉な道具で、必ず悪い混乱を生むんだ。混乱すれば人の心は乱れて、思いがけない争いが起こるよ。私はこれを、まるで卵を積み重ねるみたいにとても危ないと思っているの。
昔、夏の啓が3年のあいだ姿を現さなかったよ。『易経』には『すぐにまた戻る(間違いを犯してもよい方向に戻る)』とあるし、『論語』には『間違いを犯しても、恐れないで正す』とあるよ。どうかあなたは、昔のことと今のことをよく考えて、深く計画して、遠くまで見通して、三事大夫(三公)と一緒にその良い点と悪い点をよく計算してほしいんだ。私は前の王(曹操)から大きな恩を受けて、また今、新しい政治(曹丕が政治を始めたとき)のもとで重い役目をいただいたよ。正しいことを言えば龍の鱗に触れたみたいに怒るとわかっているし、気に入られようと思えば身の安全が得られることも知っているよ。それでも学んできたことに感じるところがあって、危ないと思っているけど、何も言わずにいることはできなかったんだ」
上奏が届くと、曹丕は怒って、刺姦(刑罰の監察官)を送って罪を調べさせて、霍性を処刑したよ。でも、後になって悔やんだけど、もう取り返しはつかなかったんだ。
秋七月庚辰,令曰:「軒轅有明臺之議,放勛有衢室之問,皆所以廣詢于下也。(註16)百官有司,其務以職盡規諫,將率陳軍法,朝士明制度,牧守申政事,縉紳考六藝,吾將兼覽焉。」
秋の七月、庚辰の日、曹丕は命令してこう言ったよ。
「軒轅(黄帝)が明台(朝廷)で人々の意見を聞いて、放勛(堯)が衢室(政治を聞く部屋)で民の相談を聞いたよ。これらはすべて、広く下の人々の意見を聞くためだよ。だから、朝廷の役人はそれぞれの仕事にしっかり取り組んで、遠慮しないで意見やいさめを出してね。将たちは軍の決まりを整えて、朝廷の役人たちは制度を明らかにして、牧(州の長官)や太守(郡の長官)たちは政治を正しくしてね。また、身分の高い人たちは六芸をよく学んでね。私はそれらすべてを広く見ていこうと思うよ」
管子曰:黃帝立明臺之議者,上觀於兵也;堯有衢室之問者,下聽於民也;舜有告善之旌,而主不蔽也;禹立建鼓於朝,而備訴訟也;湯有總街之廷,以觀民非也;武王有靈臺之囿,而賢者進也:此古聖帝明王所以有而勿失,得而勿忘也。
『管子』によると、黄帝が明台(朝廷)で話し合いをしたのは、上に立つ者が兵をよく見るためだよ。堯が衢室(政治を聞く部屋)で問いかけたのは、下の人々の声を広く聞くためだよ。舜がよいことを知らせるための旗を立てたのは、主君がその意見をさえぎらないようにするためだよ。禹が朝廷に建鼓(太鼓)を置いたのは、民が訴えを起こせるようにするためだよ。湯が街の中央に庭を設けたのは、人々の批判を見るためだよ。武王が霊台(天を観測するための台)の庭園を持ったのは、すぐれた人が進み出るようにするためだよ。これらはすべて、昔の聖人で賢い王たちが、大切に持ち続けて、手に入れたら決して忘れなかったやり方だね。
孟達がやって来る
孫權遣使奉獻。蜀將孟達率衆降。武都氐王楊僕率種人內附,居漢陽郡。(註17)
孫権は使者を送って貢ぎ物を捧げたよ。蜀の将の孟達が部下を率いて降伏してきたよ。武都の氐の王の楊僕も仲間を率いて従ってきたから、彼らを漢陽郡に住まわせたよ。
魏略載王自手筆令曰:「吾前遣使宣國威靈,而達即來。吾惟春秋襃儀父,即封拜達,使還領新城太守。近復有扶老攜幼首向王化者。吾聞夙沙之民自縛其君以歸神農,豳國之衆襁負其子而入酆、鎬,斯豈驅略迫脅之所致哉?乃風化動其情而仁義感其衷,歡心內發使之然也。以此而推,西南將萬里無外,權、備將與誰守死乎?」
『魏略』によると、曹丕が自分の手で命令を書いて、こう言ったよ。
「私は前に使者を送って、国の力と威厳を知らせたよ。すると、孟達はすぐにこちらに来てくれたよ。私は『春秋』で邾儀父がほめられていることを思って、すぐに孟達を新城太守(郡の長官)としてもとの地位に戻してあげたよ。
最近、年をとった人や子供を連れて、自ら進んで私たちの国の教えに従おうとする者も現れているんだって。私は聞いたことがあるよ。夙沙(古代の氏族)の民は、自ら彼らの君主を縛って神農に差し出したよ。豳国の人たちは、子供を背負って酆や鎬に移り住んだよ。これらは、むりやり追い立てられたり、おどされたりして起こったことなの? よい教えが人々の心を動かして、仁や義の心がその内面にしみこんで、喜んで従う気持ちが自然にわき起こったからだね。このことから考えると、西や南の万里も離れた遠い地まで、すべて私たちの国の外ではなくなるだろうね。孫権や劉備は、いったい誰と一緒に最後まで戦うのかな?」
甲午,軍次于譙,大饗六軍及譙父老百姓于邑東。(註18)(註19)
甲午の日、譙に軍を進めてとどまったよ。そして、譙の東で、全軍の兵と、譙の年長者や民を集めて、大きな宴会を開いたよ。
魏書曰:設伎樂百戲,令曰:「先王皆樂其所生,禮不忘其本。譙,霸王之邦,真人本出,其復譙租稅二年。」三老吏民上壽,日夕而罷。丙申,親祠譙陵。
『魏書』によると、音楽やいろいろな見世物を用意して、曹丕は命令してこう言ったよ。
「昔の天子はみんな、自分たちが生まれ育った土地を大切にしたよ。礼では、そのもとを忘れてはならないよ。譙は覇王の故郷で、偉人がここから生まれているよ。そこで、譙では土地からの税を2年間免除するよ」
老人や役人、民たちは長寿を祝う言葉をささげて、その宴は朝から夕方まで続いたよ。丙申の日、譙の陵でまつったよ。
孫盛曰:昔者先王之以孝治天下也,內節天性,外施四海,存盡其敬,亡極其哀,思慕諒闇,寄政冢宰,故曰「三年之喪,自天子達于庶人」。夫然,故在三之義惇,臣子之恩篤,雍熈之化隆,經國之道固,聖人之所以通天地,厚人倫,顯至教,敦風俗,斯萬世不易之典,百王服膺之制也。
孫盛によると、昔の天子は孝で天下を治めたよ。内では人としての自然な心を正しくおさえて、外ではその心を広く世の中すべてに行きわたらせたよ。親が生きているときには敬いを尽くして、亡くなったあとは深く悲しんだよ。そして喪に服しているあいだは、政治を宰相に任せたよ。だから、「3年の喪は、天子から一般の人たちまで同じ」と言われるんだ。そうすることで、3年の喪の意味は重くて、人としての心も深くなって、世の中はおだやかでよく治まって、国を治める道もしっかりと安定したよ。これこそ、聖人が天地の道にかなわせて、人と人との関係を大切にして、正しい教えをはっきり示して、よい風習を育てるためのものだよ。これは、どんな時代になっても変わらない大切な決まりで、たくさんの王たちが心にとめて守ってきた制度だね。
是故喪禮素冠,鄶人著庶見之譏,宰予降朞,仲尼發不仁之歎,子頹忘戚,君子以為樂禍,魯侯易服,春秋知其不終,豈不以墜至痛之誠心,喪哀樂之大節者哉?故雖三季之末,七雄之弊,猶未有廢縗斬於旬朔之閒,釋麻杖於反哭之日者也。
だから、喪の礼では白い絹の冠を被る決まりがあるのに、鄶の人がそれを変えたときには、人々から批判されたんだ。宰予は喪の期間を短くようとして、仲尼(孔子)に「仁がない」と嘆かれたんだ。子頹は悲しみを忘れたから、君子から「災いを楽しんでいるようだ」と思われたんだ。魯侯も喪の服を早く変えたから、『春秋』では「最後まできちんとやり通していない」と判断したよ。これらはすべて、深い悲しみの心を失って、喪における大切なけじめ(悲しむべきときとそうでないときの区別)を守らなかったからではないかな? だから、たとえ三代(夏・殷・周)の終わりごろや、戦国の七雄の時代でも、わずか10日や1ヶ月のあいだで重い喪服を捨てたり、葬式の後すぐに杖を捨てたりするようなことはしていなかったよ。
逮于漢文,變易古制,人道之紀,一旦而廢,縗素奪於至尊,四海散其遏密,義感闕於羣后,大化墜於君親;雖心存貶約,慮在經綸,至於樹德垂聲,崇化變俗,固以道薄於當年,風穨於百代矣。
漢の文帝の時代になると、昔からの決まりが変えられちゃった。人として守るべき大切な決まりも、あっという間にすたれたんだ。重い喪服を身につけることも、最もえらい立場の人からなくなって、天下の人たちも静かに悲しむ心を失っていったんだ。義に心を動かす力はたくさんの王たちの中で弱まって、よい教えは、君主と親への大切な心からも遠ざかってしまったの。たしかに文帝は、無駄を省いてつつましくしようと考えて、国をうまく治めようとする思いもあったよ。でも、徳を積んで名を後の世に残して、よい教えで世の中の風習を高めて変えていくという点では、その時代でもすでに道はうすれて、後の長い時代にわたって風習もくずれていったんだ。
且武王載主而牧野不陣,晉襄墨縗而三帥為俘,應務濟功,服其焉害。魏王旣追漢制,替其大禮,處莫重之哀而設饗宴之樂,居貽厥之始而墜王化之基,及至受禪,顯納二女,忘其至恤以誣先聖之典,天心喪矣,將何以終!是以知王齡之不遐,卜世之期促也。
さらに、周の武王は父の位牌を車にのせたまま牧野の戦いに出たけど、陣形を整えないうちに勝ったよ。晋の襄公も、喪服を着たまま戦って、敵の3人の将を捕らえたよ。つまり、その時に必要なことをして功績をあげるのなら、喪に服していることが邪魔になるわけではないんだ。
でも曹丕はすでに漢の制度を受け継いで、大切な礼を変えて、深い悲しみの中にいるはずなのに、宴会を開いて楽しんで、国のはじまりという大切な時に、王としての正しい教えの土台をくずしちゃった。さらに、帝位を受け継いだときには、2人の女性を迎え入れて、昔の聖人たちの決まりをないがしろにしたんだ。これでは天の心も離れてしまうだろうね。どうしてよい終わりを迎えられるの! だからこそ、曹丕の寿命は長くはなくて、国の続く期間も短いだろうとわかるよね。
八月,石邑縣言鳳皇集。
八月、石邑県で「鳳凰が集まった」と報告があったよ。
冬十一月癸卯,令曰:「諸將征伐,士卒死亡者或未收斂,吾甚哀之;其告郡國給槥(註20)櫝殯斂,送致其家,官為設祭。」(註21)丙午,行至曲蠡。
冬の十一月、癸卯の日、曹丕は命令してこう言ったよ。
「将たちが戦いに出て、兵の中には戦場で亡くなっても、まだきちんと弔われていない者がいるんだ。私はそれをとても悲しく思うよ。そこで、各地の郡や国に知らせて、槥(小さな棺)を用意して、遺体をおさめてきちんと弔って、その家族のもとへ送り届けるようにしてね。それに、役所が代わりに祭り(供養)もしてね」
丙午の日、曲蠡に着いたよ。
槥音衞
槥の発音は衛だよ。
漢書高祖八月令曰:「士卒從軍死,為槥。」應劭曰:「槥,小棺也,今謂之櫝。」應璩百一詩曰:「槥車在道路,征夫不得休。」陸機大墓賦曰:「觀細木而悶遲,覩洪櫝而念槥。」
『漢書』によると、高祖(劉邦)の八月の命令として「兵が戦いで亡くなったときには、槥を用意してね」と書かれているよ。
応劭は説明してこう言ったよ。
「槥は小さな棺で、今でいう櫝だよ」
応璩は『百一詩』でこう言ったよ。
「棺をのせた車が道にあって、兵は休めない」
陸機は『大墓賦』でこう言ったよ。
「細かな木を見ると悲しくなって、大きな櫝を見ると棺を思い起こす」
禅譲を受ける
漢帝以衆望在魏,乃召羣公卿士,(註22)告祠高廟。
漢の皇帝(献帝)は、人々の期待が魏に集まっているのを見て、臣下や公卿を呼び集めて、高祖(劉邦)の廟に報告したよ。
袁宏漢紀載漢帝詔曰:「朕在位三十有二載,遭天下蕩覆,幸賴祖宗之靈,危而復存。然仰瞻天文,俯察民心,炎精之數旣終,行運在乎曹氏。是以前王旣樹神武之績,今王又光曜明德以應其期,是歷數昭明,信可知矣。夫大道之行,天下為公,選賢與能,故唐堯不私於厥子,而名播於無窮。朕羨而慕焉,今其追踵堯典,禪位于魏王。」
袁宏の『漢紀』によると、漢の皇帝(献帝)は詔を下してこう言ったよ。
「私は即位して32年のあいだ、天下の大きな乱れにあってきたけど、幸いにも先祖の皇帝の力のおかげで、危機を乗り越えて生き残ることができたよ。でも、天の動きを見上げて、民の心を見てみると、火の徳(漢)の天命はすでに終わって、これからは曹氏のもとに天命が移るとわかるんだ。これまで前の王(曹操)はすでに大きな武の功績をあげて、今の王(曹丕)もその明るい徳によってこの時にふさわしく応えているよ。こうして運命の流れははっきりとしていて、まちがいなく知ることができるよ。そもそも大きな正しい道が行われるとき、天下はみんなのものだよ。すぐれた人を選んで任せるべきで、だから昔の唐の堯は自分の子にこだわらないで、自分の子を王位に立てなかったから、その名はいつまでも伝えられているよ。私はそれをうらやましく思って、あこがれているの。そこで今、堯のやり方にならって、帝位を魏王の曹丕にゆずるよ」
使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位,冊曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位于虞舜,舜亦以命禹,天命不于常,惟歸有德。漢道陵遲,世失其序,降及朕躬,大亂茲昏,羣兇肆逆,宇內顛覆。賴武王神武,拯茲難于四方,惟清區夏,以保綏我宗廟,豈予一人獲乂,俾九服實受其賜。
御史大夫の張音を使者として送って、節に持たせて皇帝の印綬を奉げさせて、曹丕に天子の位を譲ったよ。(献帝は)命令してこう言ったよ。
「魏王(曹丕)に告げるよ。昔、帝堯は虞舜に王位を譲って、舜もまた禹に譲ったよ。天命はいつも同じところにあるのではなくて、ただ徳のある者のもとに帰るものだよ。漢の時代はどんどん衰えて、世の秩序は乱れて、ついには私の時代にまでなって、大きな混乱となったんだ。たくさんの悪い人たちが勝手なことをして、天下はひっくり返るくらい乱れたんだ。でも、武王(曹操)の大きな武の力によって、この困難は四方でしずめられて、中原はきれいに整えられたよ。おかげで、宗廟(先祖の廟)も守られているよ。これは私一人の力で国が治まったのではなくて、広い天下の人々がその恩を受けているんだ。
今王欽承前緒,光于乃德,恢文武之大業,昭爾考之弘烈。皇靈降瑞,人神告徵,誕惟亮采,師錫朕命,僉曰爾度克恊于虞舜,用率我唐典,敬遜爾位。於戲!天之歷數在爾躬,允執其中,天祿永終;君其祗順大禮,饗茲萬國,以肅承天命。」(註23)
今、曹丕は前の王の後を受け継いで、その徳を明るく輝かせて、文と武の大きな事業を広げて、あなたの父のあげたすばらしい功績をはっきりと示しているよ。天の神のしるしも現れて、人々や神々もそれを認めているんだ。『あなたなら虞舜のようにうまく国を治められる』と言っているよ。私は昔の唐(堯)のやり方にならって、うやまってあなたに位をゆずるよ。ああ、天命は今やあなたの身にあって、その真ん中の正しい道をしっかり守れば、天からのめぐみは長く続くだろうね。どうか、この大切な礼にしたがい、たくさんの国々を治めて、天命をつつしんで受け継いでね」
『論語』「堯曰」に則っているよ。
『献帝伝』による禅譲までのやりとり → 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
本文の続き → 正史『三国志』「魏書文帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その3
