正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その1

正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「文帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)() について書かれているよ!

本文中で曹丕は「文帝」「王(魏王)」と書かれているけど、訳では「曹丕」と書くよ。

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

文帝紀は長いから記事を分けたよ。この記事は、禅譲を受けるまでだよ。

出典

三國志 : 魏書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

曹丕の生まれ

本文

文皇帝諱丕,字子桓,武帝太子也。中平四年冬,生于譙。(註1)(註2)

(ぶん)(こう)(てい)の名は()で、(あざな)()(かん)だよ。彼は武帝((そう)(そう))の太子だよ。中平4年(187年)の冬、(しょう)で生まれたよ。

(註1)

魏書曰:帝生時,有雲氣青色而圜如車盖當其上,終日,望氣者以為至貴之證,非人臣之氣。年八歲,能屬文。有逸才,遂博貫古今經傳諸子百家之書。善騎射,好擊劔。舉茂才,不行。

()(しょ)』によると、(そう)()が生まれたとき、青い色の円形の雲みたい気が、車の蓋みたいに上に広がっていたんだって。気象を観察する人たちは、これがとても特別で、臣下の持つものではない気象だと考えたんだって。彼は8歳の時、文章を書けて、とても優れた才能を持っていたよ。彼は古今の経典や諸子百家の本をたくさん学んだよ。それに、馬に乗って弓を射ることが得意で、剣の扱いもとても上手なの。茂才に推挙されたけど、ならなかったよ。

(註2)

獻帝起居注曰:建安十五年,為司徒趙溫所辟。太祖表「溫辟臣子弟,選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免溫官。

(けん)(てい)()(きょ)(ちゅう)』によると、建安15年(210年)、()()(ちょう)(おん)に招かれたよ。(そう)(そう)は上表してこう言ったよ。
(ちょう)(おん)が私や子弟を登用することは、選挙が本当の実力に基づいていないということだよね」
それで、()(ちゅう)(こう)(ろく)(たい)()()(りょ)に節を持たせて、(ちょう)(おん)の職を解かせたよ。

本文

建安十六年,為五官中郎將、副丞相。二十二年,立為魏太子。(註3)

(けん)(あん)16年(211年)、()(かん)(ちゅう)(ろう)(しょう)(ふく)(じょう)(しょう)に任命されたよ。建安22年(217年)、()の太子に立てられたよ。

(註3)

魏略曰:太祖不時立太子,太子自疑。是時有高元呂者,善相人,乃呼問之,對曰:「其貴乃不可言。」問:「壽幾何?」元呂曰:「其壽,至四十當有小苦,過是無憂也。」後無幾而立為王太子,至年四十而薨。

()(りゃく)』によると、(そう)(そう)は適切な時期に太子を立てなかったから、(そう)()は自信を持てずにいたんだって。この時、(こう)(げん)(りょ)という占いの名人がいて、(そう)()は彼を呼んで相談したよ。(こう)(げん)(りょ)はこう答えたよ。
「尊さは言葉では言い表せないほどだよ」
(そう)()はさらに質問したよ。
「寿命はどれくらいなの?」
(こう)(げん)(りょ)はこう答えたよ。
「寿命は40歳までに少し苦しいことがあるけど、それを過ぎれば心配いらないよ」
その後、すぐに王太子に立てられて、40歳で亡くなったんだ。

魏王になる

本文

太祖崩,嗣位為丞相、魏王。(註4)

(そう)(そう)が亡くなると、その後を継いで(じょう)(しょう)()(おう)になったよ。

(註4)

袁宏漢紀載漢帝詔曰:「魏太子丕:昔皇天授乃顯考以翼我皇家,遂攘除羣凶,拓定九州,弘功茂績,光于宇宙,朕用垂拱負扆二十有餘載。天不憖遺一老,永保余一人,早世潛神,哀悼傷切。丕奕世宣明,宜秉文武,紹熈前緒。

(えん)(こう)の『(かん)()』によると、帝は詔を下してこう言ったよ。
()の太子である(そう)()に伝えるよ。昔、皇天(天の意思)があなたの亡き父((そう)(そう))を授けて、我が皇家を支えてきたから、悪い人たちを滅ぼして、国の全土を平定して、その功績を広く宇宙に輝かせたよ。私は20年以上にわたって、ただ座って何しないで過ごしていたんだ。でも、天は一老((そう)(そう))を留めて私を永く守ろうとはしないで、彼は早くに亡くなられたから心から深く悲しんでいるの。あなたは世に宣言して、文武を尊んで、前代の栄光を引き継ぐべきだよ。

(註4)

今使使持節御史大夫華歆奉策詔授丕丞相印綬、魏王璽紱,領兾州牧。方今外有遺虜,遐夷未賔,旗鼓猶在邊境,干戈不得韜刃,斯乃播揚洪烈,立功垂名之秋也。豈得脩諒闇之禮,究曾、閔之志哉?其敬服朕命,抑弭憂懷,旁祗厥緒,時亮庶功,以稱朕意。於戲,可不勉與!」

今、使者に節を持たせて、(ぎょ)()(たい)()()(きん)に詔を授けて、(そう)()(じょう)(しょう)の印綬と()(おう)の印綬を授けて、()(しゅう)(ぼく)(州の長官)も委ねるよ。今はまだ、外に討たれていない敵対勢力が残っていて、遠くの異民族はまだ服従していないから、辺境ではまだ軍旗と太鼓が振られたままで、武器を隠すことができない状況なんだ。今は、大きな志を広めて、功績を立てて、名声を築く時期だよ。どうして哀悼の礼を尽くして、(そう)()(びん)()(けん)の志を全うできるの? 私の命令に敬意を表して、心の憂いを和らげて、先代の行いを引き継いで、時には功績を上げるよう努めて、私の意志に応えてね。ああ、努力しなきゃいけないよ!」

本文

尊王后曰王太后。改建安二十五年為延康元年。

王后を尊んで王太后と呼んだよ。建安25年(220年)を経て、(えい)(こう)元年という年号に変わったよ。

本文

元年二月(註5)壬戌,以大中大夫賈詡為太尉,御史大夫華歆為相國,大理王朗為御史大夫。置散騎常侍、侍郎各四人,其宦人為官者不得過諸署令;為金策著令,藏之石室。

延康元年(220年)、二月の壬戌の日、(たい)(ちゅう)(たい)()()()(たい)()に、(ぎょ)()(たい)()()(きん)(しょう)(こく)に、(だい)()(おう)(ろう)(ぎょ)()(たい)()に任命したよ。(さん)()(じょう)()()(ろう)をそれぞれ4人ずつ置いて、宦官で官職についている者は、位が署令を越えて就任することは許されなかったよ。金策を作成して、その命令を石の部屋に保管したよ。

(註5)

魏書載庚戌令曰:「關津所以通商旅,池苑所以御災荒也。設禁重稅,非所以便民;其除池籞之禁,輕關津之稅,皆復什一。」辛亥,賜諸侯王將相已下大將粟萬斛,帛千匹,金銀各有差等。遣使者循行郡國,有違理掊克暴虐者,舉其罪。

()(しょ)』によると、庚戌の日、命令を下してこう言ったよ。
「関所や渡し場という場所は商業と旅行の大事な場所で、池や庭園は災害と荒廃を防ぐためのものなんだって。厳しい法令や重い税を設けるのは、人々にとって便利な方法ではないんだ。だから、庭園に関する禁令を取りやめて、関所や渡し場にかかる税を減らして、どちらも10分の1に戻すよ」
辛亥の日、諸侯、王、将、相やそれ以下の大将に対して、粟を万斛、絹布を1,000匹、金銀はそれぞれ違う量で与えたんだ。それぞれ郡や国に使者を送って、法に違反したり、悪いことをした人に対してはその罪を告発するように命令したよ。

いろいろな予兆

本文

初,漢熹平五年,黃龍見譙,光祿大夫橋玄問太史令單颺:「此何祥也?」颺曰:「其國後當有王者興,不及五十年,亦當復見。天事恒象,此其應也。」內黃殷登默而記之。至四十五年,登尚在。三月,黃龍見譙,登聞之曰:「單颺之言,其驗茲乎!」(註6)

昔、(かん)()(へい)5年(176年)、黄龍が(しょう)に現れたんだって。(こう)(ろく)(たい)()(きょう)(げん)(たい)()(れい)(記録官)の(ぜん)(よう)に尋ねたよ。
「これは何の吉兆かな?」
(ぜん)(よう)はこう答えたよ。
「この国に将来、新しい王が現れて、50年も経たないうちに黄龍がまた現れると思うよ。天の出来事はいつも予兆を示していて、この黄龍もそのひとつだと思うよ」
(ない)(こう)の出身の(いん)(とう)は黙ってこれを記録したよ。それから45年経ったけど、(いん)(とう)は元気だったよ。三月、黄龍がふたたび(しょう)で現れたのを聞いた(いん)(とう)はこう言ったよ。
(ぜん)(よう)の言葉が実現しているね!」

(註6)

魏書曰:王召見登,謂之曰:「昔成風聞楚丘之繇而敬事季友,鄧晨信少公之言而自納光武。登以篤老,服膺占術,記識天道,豈有是乎!」賜登穀二百斛,遣歸家。

()(しょ)』によると、(そう)()(いん)(とう)を招いて、彼にこう言ったよ。
「昔、(せい)(ふう)()(そう)(こう)の妻)は()(きゅう)の占いを聞いて()(ゆう)を尊敬して、(とう)(しん)(しょう)(こう)の言葉を信じて(こう)()(りゅう)(しゅう))を受け入れたよ。あなたは年を取っていて、占いのことをよく知っていて、天道を覚えているよね。こんなことがあるんだね!」
そして、(いん)(とう)に穀物を200斛与えて、家に帰すことになったよ。

本文

已卯,以前將軍夏侯惇為大將軍。濊貃、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉獻。(註7)

已卯の日、(ぜん)(しょう)(ぐん)()(こう)(とん)(だい)(しょう)(ぐん)に任命したよ。(わい)(はく)()()の単于、(えん)()()(てん)の王たちは、それぞれ使者を送って献上したよ。

(註7)

魏書曰:丙戌,令史官奏修重、黎、羲、和之職,欽若昊天,歷象日月星辰以奉天時。臣松之案:魏書有是言而不聞其職也。

()(しょ)』によると、丙戌の日、(そう)()が役人に命令して、(ちょう)(れい)()()の職務を整えて、昊天を尊敬して、天の流れに従って太陽や月、星々の動きを詳しく記録したよ。
(はい)(しょう)()が調べたところ、『()(しょ)』にはこのような記述があるけど、その職務を聞いたことはないんだ。

(註7)

丁亥令曰:「故尚書僕射毛玠、奉常王脩、涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐、萬潛、中尉徐奕、國淵等,皆忠直在朝,履蹈仁義,並早即世,而子孫陵遲,惻然愍之,其皆拜子男為郎中。」

丁亥の日、命令を下してこう言ったよ。
「昔、(しょう)(しょ)(ぼく)()(もう)(かい)(ほう)(じょう)(おう)(しゅう)(りょう)()(ろう)(ちゅう)(れい)(えん)(かん)(しょう)()(しゃ)(かん)(ばん)(せん)(ちゅう)()(じょ)(えき)(こく)(えん)たちは、みんな朝廷に忠を尽くして仕えて、仁と義を守っていたよ。でも、早くに世を去っちゃった。その子孫たちが功績を受けるのが遅れていることをとても悲しんでいるよ。だから、彼らの子孫たちそれぞれを(ろう)(ちゅう)として任命するよ」

本文

夏四月丁巳,饒安縣言白雉見。(註8)庚午,大將軍夏侯惇薨。(註9)(註10)

夏の四月、丁巳の日に、(じょう)(あん)で白い雉が目撃されたという報告があったよ。庚午の日、(だい)(しょう)(ぐん)()(こう)(とん)が亡くなったよ。

(註8)

魏書曰:賜饒安田租,勃海郡百戶牛酒,大酺三日;太常以太牢祠宗廟。

()(しょ)』によると、(じょう)(あん)では田畑の税が免除されて、(ぼっ)(かい)郡では100戸に牛と酒を与えられて、3日間にわたる大きなお祝いが開かれたよ。また、(たい)(じょう)は太牢を使って宗廟に祭祀を捧げたよ。

(註9)

魏書曰:王素服幸鄴東城門發哀。

()(しょ)』によると、(そう)()は喪服で(ぎょう)の東城門を訪れて、悲しみを表したよ。

(註10)

孫盛曰:在禮,天子哭同姓於宗廟門之外。哭於城門,失其所也。

(そん)(せい)によると、礼では、天子は同じ姓を持つ人の死に対しては、宗廟の門の外で大きな声を上げて泣くべきだけど、城門では場所が違うよね。

本文

五月戊寅,天子命王追尊皇祖太尉曰太王,夫人丁氏曰太王后,封王子叡為武德侯。(註11)

五月、戊寅の日、天子は命令して、(そう)()の祖父で(たい)()である(そう)(すう)に「太王」、彼の夫人である(てい)()に「太王后」という尊号を贈ったよ。(そう)()の子である(そう)(えい)()(とく)(こう)に封じたよ。

(註11)

魏略曰:以侍中鄭稱為武德侯傅,令曰:「龍淵、太阿出昆吾之金,和氏之璧由井里之田;礱之以砥礪,錯之以他山,故能致連城之價,為命世之寶。學亦人之砥礪也。稱篤學大儒,勉以經學輔侯,宜旦夕入侍,曜明其志。」

()(りゃく)』によると、()(ちゅう)(てい)(しょう)(そう)(えい)()(教育係)に任命して、命令を出したよ。
(りゅう)(えん)(たい)()(宝剣)は(こん)()の金から生み出されて、和氏(かし)(へき)は井里の田から作られたよ。これらの宝物を研ぐために、別の山の硬い石を使うから、連なる城と同じような価値が生まれて、時代を彩る宝物となるんだ。学びもまた人の研ぎ石だよ。(てい)(しょう)は学問に熱心に取り組んで、偉大な儒者たちの教えを学んで、経典の勉強を励んで、(そう)(えい)を支えるために努力して、朝から晩まで彼の側に仕えて、彼の志を輝かせるべきだよ」

本文

是月,馮翊山賊鄭甘、王照率衆降,皆封列侯。(註12)

この月、(ひょう)(よく)の山賊の(てい)(かん)(おう)(しょう)が率いる一団が降伏して、彼らはみんな列侯に封ぜられたよ。

(註12)

魏書曰:初,鄭甘、王照及盧水胡率其屬來降,王得降書以示朝曰:「前欲有令吾討鮮卑者,吾不從而降;又有欲使吾及今秋討盧水胡者,吾不聽,今又降。昔魏武侯一謀而當,有自得之色,見譏李悝。吾今說此,非自是也,徒以為坐而降之,其功大於動兵革也。」

()(しょ)』によると、最初に、(てい)(かん)(おう)(しょう)()(すい)()の率いる部族が降伏したよ。(そう)()は彼らの降伏の手紙を手に入れて、朝廷に見せてこう言ったよ。
「前に、私に(せん)()族を討つように命令があったけど、私は従わないで降伏させたよ。そして今秋、()(すい)()を討つように命令があったけど、これも聞かないで降伏させたよ。昔、戦国時代の()()(こう)が一計をめぐらして成功した時、彼は自分の成功に喜んで、()(かい)から非難を受けたよね。私が今これを言うのは、自分の正当性を主張するためではないよ。ただ座って降伏させることが、兵を動かすよりも大きな功績であると考えているからだよ」

本文

酒泉黃華、張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進,斬之。華降。(註13)

(しゅ)(せん)(こう)()(ちょう)(えき)(ちょう)(しん)たちは、それぞれ太守(郡の長官)に対して反乱を起こしたよ。(きん)(じょう)(たい)(しゅ)()(そく)(ちょう)(しん)を討って、斬ったよ。(こう)()は降伏したんだ。

本文

(註13)華後為兖州刺史,見王淩傳。

後に(こう)()(えん)(しゅう)()()(州の長官)に任命されたよ。「(おう)(りょう)伝」にあるよ。

本文

六月辛亥,治兵于東郊,(註14)庚午,遂南征。(註15)

六月、辛亥の日、東郊で軍を整えて、庚午には南征に出発したよ。

(註14)

魏書曰:公卿相儀,王御華蓋,視金鼓之節。

()(しょ)』によると、公卿や宰相たちが儀式を整えて、(そう)()は華蓋(貴族の車)に乗って、金鼓の節を視察したよ。

(註15)

魏略曰:王將出征,度支中郎將新平霍性上踈諫曰:「臣聞文王與紂之事,是時天下括囊無咎,凡百君子,莫肯用訊。今大王體則乾坤,廣開四聦,使賢愚各建所規。伏惟先王功無與比,而今能言之類,不稱為德。故聖人曰『得百姓之歡心』。兵書曰『戰,危事也』是以六國力戰,彊秦承弊,豳王不爭,周道用興。愚謂大王且當委重本朝而守其雌,抗威虎卧,功業可成。

()(りゃく)』によると、(そう)()は戦いに出ることを進めようとしていたけど、(たく)()(ちゅう)(ろう)(しょう)(しん)(へい)の出身の(かく)(せい)が諫めてこう言ったよ。
「私は(しゅう)(ぶん)(おう)(いん)(ちゅう)のことを聞いたことがあるよ。その時代は、天下の人たちが袋の口を括るみたいに口を閉ざして、過失を恐れていたから、君子はみんな問いたださなかったみたい。今、あなたが天下を治める立場にいるから、四方の民の声を聞いて、賢者も愚者も、みんながそれぞれの意見を言えるよね。先王((そう)(そう))の功績を比べることはできないけど、今、言葉を語る人たちも、美徳であるとたたえていないんだ。だから、聖人は『民の喜ぶ心を得る』と言ったんだ。『兵書』には『戦は危険なこと』と書かれているんだ。だから、6つの国が力を尽くして戦って、(しん)が力を蓄える一方で他の国が衰退して、(ひん)(おう)が争わなかったから、(しゅう)の政道が興ったんだよ。私の考えは愚かかもしれないけど、あなたは今は(かん)の朝廷に責任を委ねてその落ち着いた態度を守って、強さを抑えて虎がじっとしているみたいにしていれば、功績を挙げられるよ。

(註15)

而今刱基,便復起兵,兵者凶器,必有凶擾,擾則思亂,亂出不意。臣謂此危,危於累卵。昔夏啟隱神三年,易有『不遠而復』,論有『不憚改』。誠願大王揆古察今,深謀遠慮,與三事大夫筭其長短。臣沐浴先王之遇,又初改政,復受重任,雖知言觸龍鱗,阿諛近福,竊感所誦,危而不持。」奏通,帝怒,遣刺姦就考,竟殺之。旣而悔之,追原不及。

でも、今、()の国がまさに基盤を築き上げたばかりなのに、ふたたび兵を挙げたよね。武器は不吉だから、必ず混乱を引き起こすよ。混乱が起きると、人々は必ず不安になって、その不安から予測できない問題が生じるよ。私はこれを、まるで卵の上に卵を積み重ねるみたいに危険だと思うんだ。昔、()(けい)が3年間姿を現さなかった時、『(えき)(きょう)』には『すぐにまた戻る(間違いを犯しても良い方向に戻る)』とあるし、『(ろん)()』の『(がく)()』には『間違いを犯しても、恐れずに修正する』とあるんだ。本当にお願い申し上げるよ。過去を省みて今の状況を総合的に考えて、深い知恵と広い視野を持って、(さん)()(たい)()(さん)(こう))と一緒にその利点と欠点を計算してほしいんだ。私は先王((そう)(そう))からたくさんの恵みを受けて、また、政権を改革したときに((そう)()が政治を始めたときに)重要な任務を受けることになったから、龍鱗(逆鱗)に触れたり福に近づく言葉を知っているけど、私は自分の心に従って行動して、危険だけどそれをあえて伝えるよ」
上奏が届くと、(そう)()は怒って、()(かん)(刑罰の監察官)を送って調査させて、(かく)(せい)を処刑したんだ。でも、後になってその判断を悔やんで、許したけど、遅すぎたんだ。

本文

秋七月庚辰,令曰:「軒轅有明臺之議,放勛有衢室之問,皆所以廣詢于下也。(註16)百官有司,其務以職盡規諫,將率陳軍法,朝士明制度,牧守申政事,縉紳考六藝,吾將兼覽焉。」

秋の七月、庚辰の日、命令を下してこう言ったよ。
(けん)(えん)(こう)(てい))が明台(朝廷)の話し合いをする制度を作って、(ほう)(くん)(ぎょう))が()(しつ)(政治を聞く帝の部屋)で民の相談を聞く制度を作ったのは、広く人々から聞くためだよ。百官や役人たちは、自分の仕事をきちんとやって、提案をするべきだよ。将たちは軍法を教えて、朝廷の役人は制度を説明して、牧守たちは政治を実行して、身分の高い人たちは六芸を学んでね。私はこれらをすべて確認するよ」

(註16)

管子曰:黃帝立明臺之議者,上觀於兵也;堯有衢室之問者,下聽於民也;舜有告善之旌,而主不蔽也;禹立建鼓於朝,而備訴訟也;湯有總街之廷,以觀民非也;武王有靈臺之囿,而賢者進也:此古聖帝明王所以有而勿失,得而勿忘也。

管子(かんし)』によると、(こう)(てい)が明台(朝廷)で話し合いをしたのは、上の兵を見るためだよ。(ぎょう)()(しつ)を作ったのは、下の人々の声を広く聞くためだよ。(しゅん)は善いことを伝える旗を持って、主が隠れないようにしたよ。()が朝廷に建鼓(太鼓)を立てたのは、民の訴えに備えるためだよ。(とう)(そう)(がい)の庭を持っていたのは、人々の批判を見るためだよ。武王(ぶおう)(れい)(だい)(天を観測するための台)の園を持ったのは、賢者の進言を受けるためだよ。これらは古代の聖なる帝や賢明な王たちが秩序を保って、大切なことを忘れないようにするためのものだよ。

孟達がやってくる

本文

孫權遣使奉獻。蜀將孟達率衆降。武都氐王楊僕率種人內附,居漢陽郡。(註17)

(そん)(けん)は使者を送って貢物を献上したよ。(しょく)の将の(もう)(たつ)が部下を率いて降伏してきたよ。()()(てい)(おう)(よう)(ぼく)も同族の人たちを率いて服従してきたから、彼らを(かん)(よう)郡に住まわせたよ。

(註17)

魏略載王自手筆令曰:「吾前遣使宣國威靈,而達即來。吾惟春秋襃儀父,即封拜達,使還領新城太守。近復有扶老攜幼首向王化者。吾聞夙沙之民自縛其君以歸神農,豳國之衆襁負其子而入酆、鎬,斯豈驅略迫脅之所致哉?乃風化動其情而仁義感其衷,歡心內發使之然也。以此而推,西南將萬里無外,權、備將與誰守死乎?」

()(りゃく)』によると、(そう)()が自分の手で書いた命令にはこうあるよ。
「私は前に、使者を送って国の威厳を示したら、(もう)(たつ)はすぐに来てくれたよ。私は春秋時代の(ちゅう)()()(ちゅう)(こく))をたたえて、すぐに(もう)(たつ)(しん)(じょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命したよ。最近、老若男女が王の教えに従って、従う人たちがいるよ。(しゅく)()(古代の氏族)の人たちが自ら彼らの君主を縛って(しん)(のう)に従ったという話を聞いたよ。(ひん)国の人たちが子供を抱えて(ほう)(こう)に入ったということも聞いたよ。これらは決して強制や脅迫によるものではないよ。むしろ、良い方向に導く風習や文化、そして仁や義が彼らの心を動かして、心の内から喜びを感じて、自ら進んでそうさせたんだよね。これを考えると、西南地方ははるか遠くにわたってすべて従ったんだ。(そん)(けん)(りゅう)()は誰と一緒に守り抜くのかな?」

本文

甲午,軍次于譙,大饗六軍及譙父老百姓于邑東。(註18)(註19)

甲午の日、軍は(しょう)に進軍したよ。そして、(しょう)の東で全軍の兵と、(しょう)の長老や民を招いて、大きな宴会を開いたよ。

(註18)

魏書曰:設伎樂百戲,令曰:「先王皆樂其所生,禮不忘其本。譙,霸王之邦,真人本出,其復譙租稅二年。」三老吏民上壽,日夕而罷。丙申,親祠譙陵。

()(しょ)』によると、いろいろな芸能を用意して、命令を下してこう言ったよ。
「先代の王たちはみんな、自分たちが生まれ育った場所を愛して、礼をもって出身を忘れなかったよ。(しょう)は覇王の故郷で、偉人がここから生まれているよ。だから、(しょう)では租税を2年間免除するよ」
老人や役人たちが祭り上げて、日夜を通してお祝いをしたよ。丙申の日、譙陵に祠を建てたよ。

(註19)

孫盛曰:昔者先王之以孝治天下也,內節天性,外施四海,存盡其敬,亡極其哀,思慕諒闇,寄政冢宰,故曰「三年之喪,自天子達于庶人」。夫然,故在三之義惇,臣子之恩篤,雍熈之化隆,經國之道固,聖人之所以通天地,厚人倫,顯至教,敦風俗,斯萬世不易之典,百王服膺之制也。

(そん)(せい)によると、昔の王たちは孝によって天下を治めたよ。内では天性の節を守って、外では四方に施して、生きている者には最大限の敬意を払って、亡くなった者には極限の哀悼を捧げたよ。思慕の心から喪に服し、政治を宰相に委ねたよ。だから、「3年の喪は、天子から庶人にまで及ぶ」と言われるんだ。そうすることで、3年の義が厚くなって、臣子の恩情が深まって、社会の風紀が盛んになって、国家の道が固くなるよ。これは聖人が天地を通じて、人としての道を大切にして、最高の教えを明らかにして、良い風習を広めるためのもので、永遠に変わらない規範で、どんな王でも守るべき制度だよ。

(註19)

是故喪禮素冠,鄶人著庶見之譏,宰予降朞,仲尼發不仁之歎,子頹忘戚,君子以為樂禍,魯侯易服,春秋知其不終,豈不以墜至痛之誠心,喪哀樂之大節者哉?故雖三季之末,七雄之弊,猶未有廢縗斬於旬朔之閒,釋麻杖於反哭之日者也。

だから、喪の儀礼は素冠(白い絹の冠)を被って、(かい)の人たちはそのことで非難を受けたんだ。(さい)()は喪の期間を短くして、(ちゅう)()(こう)())はその仁の無いことを嘆いたよ。()(たい)は喪を忘れて、君子はそれを楽しみや災いとしたよ。魯侯は喪服を変えて、春秋はその終わりを知ったよ。これは、心からの悲しみを失って、喪の哀しみを軽視したことによるのではないかな? だから、たとえ三代(()(いん)(しゅう))の末期や戦国の七雄の衰退でも、10日や1ヶ月の間に喪服を捨てたり、喪の杖を反哭の日に放棄することはなかったの。

(註19)

逮于漢文,變易古制,人道之紀,一旦而廢,縗素奪於至尊,四海散其遏密,義感闕於羣后,大化墜於君親;雖心存貶約,慮在經綸,至於樹德垂聲,崇化變俗,固以道薄於當年,風穨於百代矣。

(かん)の文帝の時代になると、古代の制度を変えたよ。人の倫理や道徳の原則が一度に廃れたよ。喪服は皇帝から奪われて、国の人たちはその統制を失って、義は臣下たちの間で後退して、偉大な教えは君主と親との間で失われちゃった。たとえ心は質素を守る意思があって、政治を行うための計画があっても、徳を立てて声望を残して文化を尊重して風習を変えることは難しかったんだ。道は当時においては薄くて、風紀は百代にわたって衰えちゃったの。

(註19)

且武王載主而牧野不陣,晉襄墨縗而三帥為俘,應務濟功,服其焉害。魏王旣追漢制,替其大禮,處莫重之哀而設饗宴之樂,居貽厥之始而墜王化之基,及至受禪,顯納二女,忘其至恤以誣先聖之典,天心喪矣,將何以終!是以知王齡之不遐,卜世之期促也。

(しゅう)()(おう)は君主を奉じて(ぼく)()の戦いに挑んだけど、戦わないで勝ったよ。(しん)(じょう)(こう)は喪服を着て三軍の指揮官となったけど、捕虜にはならなかったよ。重要な任務を果たして、成功を収めるために喪服を着ることは何の害もなかったんだ。(そう)()はすでに(かん)の制度を受け継いで、重要な礼を廃したんだ。重い哀しみの中で宴会の楽しみを設けて、始めから王道の基礎を失ったんだ。禅譲を受けたとき、2人の女性を受け入れて、最高の哀悼を忘れて先聖の典を汚したよ。天の心を失って、どのようにして終わるのかな! こうしたことから、(そう)()の寿命が長くないこと、そして王朝の命運が短いことがわかるよね。

本文

八月,石邑縣言鳳皇集。

八月、石邑県で鳳凰が集まったという報告があったよ。

本文

冬十一月癸卯,令曰:「諸將征伐,士卒死亡者或未收斂,吾甚哀之;其告郡國給槥(註20)櫝殯斂,送致其家,官為設祭。」(註21)丙午,行至曲蠡。

冬の十一月、癸卯の日、命令を下してこう言ったよ。
「将たちが遠征に出て、戦いで亡くなった兵たちの遺体がまだ収容されていないことがあって、私はそのことをとても悲しく思うの。郡や国に告げて棺を提供して、葬儀を行って、遺族のもとへ送り届けて、官が祭りを設けるようにするよ」
丙午の日、(きょく)()に着いたよ。

(註20)

槥音衞

槥の発音は衞だよ。

(註21)

漢書高祖八月令曰:「士卒從軍死,為槥。」應劭曰:「槥,小棺也,今謂之櫝。」應璩百一詩曰:「槥車在道路,征夫不得休。」陸機大墓賦曰:「觀細木而悶遲,覩洪櫝而念槥。」

(かん)(じょ)』によると、(こう)()(りゅう)(ほう))の八月の令にはこう記されているよ。
「兵が軍で戦死した場合、小さな棺を用意してね」
(おう)(しょう)は「槥は小さな棺で、今でいう(ひつぎ)と言うよ」と述べているよ。
(おう)(きょ)は詩で「道路に櫝の車があって、出征する兵は休めないよ」と詠んでいるよ。
(りく)()は『大墓賦』で「細かな木を見ると悲しくなって、大きな櫝を見ると棺を思い起こす」と述べているよ。

禅譲を受ける

本文

漢帝以衆望在魏,乃召羣公卿士,(註22)告祠高廟。

(かん)の帝((けん)(てい))は、たくさんの人が()に期待していることを知って、臣下や公卿たちを呼び集めて、(こう)()(りゅう)(ほう))の廟に報告の祭祀を行ったよ。

(註22)

袁宏漢紀載漢帝詔曰:「朕在位三十有二載,遭天下蕩覆,幸賴祖宗之靈,危而復存。然仰瞻天文,俯察民心,炎精之數旣終,行運在乎曹氏。是以前王旣樹神武之績,今王又光曜明德以應其期,是歷數昭明,信可知矣。夫大道之行,天下為公,選賢與能,故唐堯不私於厥子,而名播於無窮。朕羨而慕焉,今其追踵堯典,禪位于魏王。」

(えん)(こう)の『(かん)()』によると、(かん)の帝((けん)(てい))は詔を下してこう言ったよ。
「私は即位して32年が経って、天下が混乱していたけど、幸いにも祖先の霊に守られたおかげで、危機を乗り越えて生き残ることができたよ。でも、星を見上げて天の動きを見て、民の心を観察してみると、炎精((かん))の時代が終わって、運命は(そう)()の手にあると悟ったよ。だから、先代の王((そう)(そう))が神武の業績を築いて、今の王((そう)())が素晴らしい徳を放ってその時代にふさわしいよ。天道は明らかで確かなものだよね。大道の行き先は、天下はみんなのものであって、賢者や能力のある人たちを選ぶべきだよね。唐の(ぎょう)も私情を持たなくて、自分の子を王位に立てなかったから、彼の名声は広まったんだ。私はそれを羨んで尊敬しているよ。今、(ぎょう)の教えにならって、魏王の(そう)()に帝位を譲るよ」

本文

使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位,冊曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位于虞舜,舜亦以命禹,天命不于常,惟歸有德。漢道陵遲,世失其序,降及朕躬,大亂茲昏,羣兇肆逆,宇內顛覆。賴武王神武,拯茲難于四方,惟清區夏,以保綏我宗廟,豈予一人獲乂,俾九服實受其賜。

使者として(ぎょ)()(たい)()(ちょう)(おん)が節を持って璽綬(皇帝の印綬)を奉じさせて、禅位の儀式を行わせたよ。帝の冊にはこう書かれているよ。
()(おう)(そう)())に告げるよ。昔、(てい)(ぎょう)()(しゅん)に王位を譲って、(しゅん)もまた天命を()に譲ったよ。天命はいつも同じではなくて、ただ徳のある人に託されるんだ。(かん)の時代は衰退して、世の秩序が乱れちゃって、その乱れが私にも及んで、大きな混乱が起こったよ。悪い人たちが逆らって、国内に乱れが広がっちゃった。でも、幸いにも武王((そう)(そう))の神武のおかげで、四方の困難に勝って、中原を清めて、宗廟を安定できたんだ。これは私だけの力ではなくて、天が賜物を受けさせてくれたんだよ。

本文

今王欽承前緒,光于乃德,恢文武之大業,昭爾考之弘烈。皇靈降瑞,人神告徵,誕惟亮采,師錫朕命,僉曰爾度克恊于虞舜,用率我唐典,敬遜爾位。於戲!天之歷數在爾躬,允執其中,天祿永終;君其祗順大禮,饗茲萬國,以肅承天命。」(註23)

今、(そう)()は前の王たちと同じように、素晴らしい徳を示して、文と武の偉大な業績を広めて、先祖の偉大な功績を示しているよ。皇帝の霊が良い兆しを示して、人や神がしるしを告げて、すべての人が認めているよ。あなたなら()(しゅん)みたいに徳行で超えられるよ。唐の伝統((ぎょう)の教え)に従って、あなたに帝位を譲るよ。天命はあなたの手にあって、十分に中庸の道を心がけてね。天の恵みを永く受けられるように。どうか、国の重要な儀式を守って、すべての国に祭りを捧げて、天命に従うことを」

(ろん)()』「堯曰」に則っているよ。

『献帝伝』による禅譲までのやりとり → 正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2

本文の続き → 正史『三国志』魏書文帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 3

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