はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「呉主伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
孫権 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
呉主伝は長いから記事を分けたよ。この記事は皇帝になってから最後までだよ。
- 正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 2
- 正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 3 ← この記事だよ
出典
三國志 : 吳書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
皇帝に即位する
黃龍元年春,公卿百司皆勸權正尊號。夏四月,夏口、武昌並言黃龍、鳳凰見。丙申,南郊即皇帝位,(註44)是日大赦,改年。追尊父破虜將軍堅為武烈皇帝,母吳氏為武烈皇后,兄討逆將軍策為長沙桓王。吳王太子登為皇太子。將吏皆進爵加賞。初,興平中,吳中童謠曰:「黃金車,班蘭耳,闓昌門,出天子。」(註45)
黄龍元年(229年)、春、公卿や百官たちはみんな、孫権に正式に皇帝になるように勧めたよ。夏の四月、夏口と武昌から黄龍や鳳凰が現れたと伝えられたの。丙申の日、南郊で即位して、その日に大赦を行って、年号を「黄龍」に改めたよ。父で破虜将軍の孫堅に「武烈皇帝」、母の呉氏に「武烈皇后}」、兄で討逆将軍の孫策に「長沙桓王」の尊号を贈ったよ。呉王太子の孫登を皇太子に立てたよ。将や兵たちはみんな、爵位を進められて褒賞を与えられたんだ。
前に、興平の年号の間(194~195年)、呉の民の童謡で「黄金の車、色が混ざり合って鮮やかな耳、昌門を開いて、天子が現れる」と歌われていたんだって。
童謡は「耳」と「子」で韻を踏んでいるんだと思う。
(註44)吳錄載權告天文曰:「皇帝臣權敢用玄牡昭告于皇皇后帝:漢享國二十有四世,歷年四百三十有四,行氣數終,祿祚運盡,普天弛絕,率土分崩。孽臣曹丕遂奪神器,丕子叡繼世作慝,淫名亂制。權生於東南,遭值期運,承乾秉戎,志在平世,奉辭行罰,舉足為民。
『呉録』によると、孫権は天帝に告げてこう言ったよ。
「皇帝に仕える臣下である孫権は、あえて玄牡(生贄に使う黒い牛)を使って天帝に告げるよ。漢の朝廷は24代にわたって国を治めて、その歴史は434年にも及んだけど、天命の周期が終わって、国家の運命も尽きたんだ。天地が衰退して、全土が崩壊したんだ。その隙に乗じた反逆者である曹丕は帝位を奪って、彼の子である曹叡がそれを継いで悪事をして、名を汚して制度を乱したよ。孫権は東南で生まれて、時の運に恵まれて、天命を受けて軍を統率して、平和な時代を目指しているよ。天命に従ってを討つことを誓って、民のために立ち上がっているよ。
羣臣將相,州郡百城,執事之人,咸以為天意已去於漢,漢氏已絕祀於天,皇帝位虛,郊祀無主。休徵嘉瑞,前後雜沓,歷數在躬,不得不受。權畏天命,不敢不從,謹擇元日,登壇燎祭,即皇帝位。惟爾有神饗之,左右有吳,永終天祿。」
臣下や将軍たち、州や郡の城を治める人たちはみんな、天命がすでに漢の朝廷から去って、漢の血統は天において途絶えたと考えているよ。皇帝の位は空席となって、郊外での祭祀に主がいないんだ。めでたいしるしや予兆が次々と現れて、天命は私にあることが示されているよ。それを無視することはできないよね。孫権は天命を畏れて、従わないわけにはいかないんだ。慎重に吉日を選び、壇に登って、燎祭(という祭祀)をして、皇帝の位に就いたよ。どうか神々よ、これを受け入れてね。左右には呉があって、天の恵みが永遠に続くように」
昌門,吳西郭門,夫差所作。
昌門は、呉の西の城門で、春秋時代の呉王の夫差が建てたものだよ。
五月,使校尉張剛、管篤之遼東。六月,蜀遣衞尉陳震慶權踐位。權乃參分天下,豫、青、徐、幽屬吳,兖、兾、并、涼屬蜀。
五月、校尉の張剛と管篤を遼東に行かせたよ。
六月、蜀が衛尉の陳震を送って、孫権の即位を祝ったよ。こうして、孫権は天下を分けることに蜀を参加させて、豫州、青州、徐州、幽州を呉の領土に、兗州、冀州、并州、涼州を蜀の領土にすると決めたよ。
其司州之土,以函谷關為界,造為盟曰:「天降喪亂,皇綱失叙,逆臣承釁,劫奪國柄,始於董卓,終於曹操,窮凶極惡,以覆四海,至令九州幅裂,普天無統,民神痛怨,靡所戾止。及操子丕,桀逆遺醜,荐作姦回,偷取天位,而叡么麼,尋丕凶蹟,阻兵盜土,未伏厥誅。
司州の土地は、函谷関を境にしたよ。盟約を作ったよ。その盟約にはこう記されているよ。
「天が混乱を降らせて、皇室の秩序が乱れたよ。反逆者たちはこの機に乗じて国の権力を奪い取ったんだ。これは董卓から始まって、曹操まで広がって、悪いことを極めてどこにでも広まったんだ。とうとう国の全土は分かれて、天下は統一されなくて、民も神も痛みと恨みを抱いて、止むところがなかったんだ。曹操の子である曹丕は、その暴虐な父の後を継いで、さらに悪事を重ねて、帝位を盗み取ったんだ。曹叡は卑劣にも曹丕の悪行を引き継いで、軍を起こして土地を盗んだけど、まだ罰を受けていないよ。
昔共工亂象而高辛行師,三苗干度而虞舜征焉。今日滅叡,禽其徒黨,非漢與吳,將復誰在?夫討惡翦暴,必聲其罪,宜先分製,奪其土地,使士民之心,各知所歸。是以春秋晉侯伐衞,先分其田以畀宋人,斯其義也。
昔、共工が天の秩序を乱した時、高辛(嚳)が軍を起こして、三苗が乱を起こした時には虞舜がこれを討ったよ。今日、曹叡を滅ぼして、彼らを捕らえるのは、漢(蜀)と呉以外に誰が成し遂げるの? 悪を討って、暴を断つには、その罪を公にしなければならないんだ。まずは領土を分割して奪い取って、士民がそれぞれの帰る場所を知るようにするべきだよ。春秋時代に晋の侯が衛を討つ時、まずその領地を宋の人たちに分け与えたことが、その正しい行いの例だよ。
且古建大事,必先盟誓,故周禮有司盟之官,尚書有告誓之文,漢之與吳,雖信由中,然分土裂境,宜有盟約。諸葛丞相德威遠著,翼戴本國,典戎在外,信感陰陽,誠動天地,重復結盟,廣誠約誓,使東西士民咸共聞知。故立壇殺牲,昭告神明,再歃加書,副之天府。天高聽下,靈威棐諶,司慎司盟,羣臣羣祀,莫不臨之。
それに、古から大事を成す時には必ず先に盟約や誓いを立てるの。だから『周礼』には盟約を司る官職があって、『尚書』には誓いを告げる文が残っているよ。漢(蜀)と呉が信義を交わす時も、心からの信頼があっても、土地を分けて境界を定めるためには盟約が必要だよ。
諸葛亮丞相はその徳と威が広く知られていて、国を守って支えて、外で軍事を司って、信義は天地を動かして、陰陽にまで感動を与えるほどだよね。改めて盟約を結んで、誠意ある誓いを広めて、東西の人たちがそれを知るようにするべきなんだ。祭壇を立てて、犠牲を神々に捧げて、誓約を文書に記して、これを天にも報告するよ。天帝は高くともその声を聞いて、神々の威光も信頼を寄せて、盟約を司る者たちや臣下たち、祭祀に従う者たちもみんなこのことを目の当たりにするんだ。
自今日漢、吳旣盟之後,勠力一心,同討魏賊,救危恤患,分災共慶,好惡齊之,無或攜貳。若有害漢,則吳伐之;若有害吳,則漢伐之。各守分土,無相侵犯。傳之後葉,克終若始。凡百之約。皆如載書。信言不豔,實居于好。有渝此盟,創禍先亂,違貳不恊,慆慢天命,明神上帝是討是督,山川百神是糾是殛,俾墜其師,無克祚國。于爾大神,其明鑒之!」
これからは、漢(蜀)と呉は盟約を結んで、力を合わせて心をひとつにして、一緒に魏の賊を討って、危機を救って、困っている人たちを助けて、幸せや悲しみを分かち合って、決して分裂することのないようにするよ。もし漢(蜀)に危害を加える人がいたら、呉がこれを討つよ。もし呉に危害を加える人がいたら、漢(蜀)がこれを討つよ。お互いに領土を守って、侵し合うことはないよ。この約束は子孫に伝えて、始めたときの誓いを守って、最後まで成し遂げるんだ。すべての約束は、書に記されたとおりだよ。言葉は飾らなくて、実際の誠意に基づくものなんだ。もしこの盟約に背いて、災いを引き起こして、先に乱を起こして、お互いに仲が悪くなって、天命を軽んじるなら、明神と天帝がこれを討って、山や川の神々がこれを罰してその軍勢を滅ぼして、国を繁栄させることはできないだろうね。神よ、この誓いを明らかに見届けてね」
蜀の代表、諸葛亮なんだ……劉禅じゃないんだ……。
「有渝此盟~」は『春秋左氏伝』から取っているっぽい。
秋九月,權遷都建業,因故府不改館,徵上大將軍陸遜輔太子登,掌武昌留事。
秋の九月、孫権は都を建業に移したよ。その時、旧府を変更しないでそのまま使って、大将軍に陸遜を任命して、太子の孫登を助けさせて、武昌の留守を任せたよ。
夷洲と亶洲を探索する
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。
黄龍2年(230年)、春の正月、魏は合肥新城を建てたよ。詔によって、都講祭酒を任命して、子供たちに教育をするようにしたよ。
そして、将軍の衛温と諸葛直に1万人の兵を率いて海上に行かせて、夷洲と亶洲を探索させたよ。亶洲は海にあって、長老たちの伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を送って、数千人の少年や少女を連れて、蓬萊や神の棲む山や不老不死の秘薬を求めてこの島に入ったけど、帰らないで留まっちゃったと言われているんだって。この地域には数万の家があると伝えられていて、その中には時々、会稽に布を売りに来る人がいる一方で、会稽郡東県の人が海路で亶洲に流れ着くこともあるみたい。この地は遠いから、着けなくて、夷洲から数千人を連れて戻るだけだったんだ。
三年春二月,遣太常潘濬率衆五萬討武陵蠻夷。衞溫、諸葛直皆以違詔無功,下獄誅。夏,有野蠶成繭,大如卵。由拳野稻自生,改為禾興縣。中郎將孫布詐降以誘魏將王淩,淩以軍迎布。冬十月,權以大兵潛伏於阜陵俟之,淩覺而走。會稽南始平言嘉禾生。十二月丁卯,大赦,改明年元也。
黄龍3年(231年)、春の二月、太常の潘濬に5万の兵を率いて武陵の異民族を討たせたよ。衛温と諸葛直は詔に反して功績がなかったから、牢獄に入れられて処刑されたんだ。
夏、野生の蚕が繭を作って、卵ほどの大きさに成長したよ。由拳という地域では野生の稲が自生したから、「禾興」県に改称したよ。中郎将の孫布が降伏を偽って魏の将軍の王淩を誘導して、王淩が軍を率いて孫布を迎えたよ。
冬の十月、孫権が大軍を隠して阜陵に潜伏したけど、王淩はそれに気付いて逃げちゃった。会稽の南の始平では、初めて嘉禾(穀物)が収穫されたと報告されたんだって。十二月の丁卯の日、大赦が行われて、翌年を元年とすることが決定したよ。
公孫淵との交渉
嘉禾元年春正月,建昌侯慮卒。三月,遣將軍周賀、校尉裴潛乘海之遼東。秋九月,魏將田豫要擊,斬賀于成山。冬十月,魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒、閬中令孫綜稱藩於權,并獻貂馬。權大恱,加淵爵位。(註46)(註47)
嘉禾元年(232年)、春の正月、建昌侯の孫慮が亡くなったよ。三月、将軍の周賀と校尉の裴潜を海路で遼東に行かせたよ。
秋の九月、魏の将軍の田豫が攻めて、成山で周賀を斬ったんだ。冬の十月、魏の遼東太守(郡の長官)の公孫淵が校尉の宿舒と閬中の令の孫綜を送って、孫権に従って、貂や馬を献上したよ。孫権はとても喜んで、公孫淵に爵位を授けたよ。
江表傳曰:是冬,羣臣以權未郊祀,奏議曰:「頃者嘉瑞屢臻,遠國慕義,天意人事,前後備集,宜脩郊祀,以承天意。」權曰:「郊祀當於土中,今非其所,於何施此?」重奏曰:「普天之下,莫非王土;王者以天下為家。昔周文、武郊於酆、鎬,非必土中。」
『江表伝』によると、この冬、臣下たちは孫権がまだ郊祀(という祭祀)をしていないことを議論したよ。彼らはこう言ったよ。
「最近、縁起の良いことがたくさんあって、遠くの国がその義を慕って、天の意志と人の行いが前後して集まっているよ。だから、郊祀をして、天の意志に沿うべきだよ」
孫権はこう言ったよ。
「郊祀は中心部で行うべきだけど、今の場所は適切ではないよ。どうすればいいの?」
彼らはふたたび上奏してこう言ったよ。
「天下はすべて王の土地で、王は天下を家とするんだ。古代、周の文王や武王は酆や鎬京で郊祀をしたけど、必ずしも中心地ではなかったんだ」
權曰:「武王伐紂,即阼於鎬京,而郊其所也。文王未為天子,立郊於酆,見何經典?」復奏曰:「伏見漢書郊祀志,匡衡奏從甘泉河東郊於酆。」權曰:「文王性謙讓,處諸侯之位,明未郊也。經傳無明文,匡衡俗儒意說,非典籍正義,不可用也。」
孫権はこう言ったよ。
「武王が紂を討つ時に鎬京で即位して、その場所で郊祀をしたよ。文王がまだ天子でなかった時、酆で郊祀をしたよね。何の経典で見られるの?」
また彼らは上奏してこう言ったよ。
「『漢書』の郊祀志によると、匡衡は甘泉と河東の酆で郊祀をするように上奏したんだ」
孫権はこう言ったよ。
「文王は謙虚な性格で、諸侯の立場にあってまだ天子ではない時、酆で郊祀を行うことはなかったんだ。経典にはそのような明確な文は無いし、匡衡の意見は俗学的で、正統な教義ではないから、採用できないよ」
洛陽で郊祀をやるべきだけど得られてないからできない、って言いたいみたい。
志林曰:吳王糾駮郊祀之奏,追貶匡衡,謂之俗儒。凡在見者,莫不慨然,以為統盡物理,達於事宜。至於稽之典籍,乃更不通。毛氏之說云:「堯見天因邰而生后稷,故國之於邰,命使事天。」故詩曰:「后稷肇祀,庶無罪悔,以迄于今。」言自后稷以來皆得祭天,猶魯人郊祀也。是以棫樸之作,有積燎之薪。文王郊酆,經有明文,匡衡豈俗,而枉之哉?
『志林』によると、呉王(孫権)が郊祀に関する上奏を批判して、匡衡を俗学者と非難したんだ。それを聞いた人たちはみんな、孫権が物事の道理を尽くして、適切な処置に達していると感じたんだ。でも、古典を詳しく調べると、その主張はますます理解できないんだ。毛氏の説(『毛詩正義』)によると、「堯は天からの命に従って邰に行って后稷が生まれたから、国家は邰に天を祭るように命令した」とあるよ。『詩経』には、「后稷は祭祀を始めて、罪も悔いもなくて、今日まで続いている」とあるよ。この言葉から、后稷以降はみんな天に祭祀を捧げることができるようになったよ。それは魯の人たちが郊祀をしたことと同じだね。だから『詩経』「棫樸」には、積燎の薪とあるんだ。文王が酆で郊祀をした時、経典には明確な文言があるのに、匡衡が俗学者とされるのはおかしいよね。
文王雖未為天子,然三分天下而有其二,伐崇戡黎,祖伊奔告。天旣棄殷,乃眷西顧,太伯三讓,以有天下。文王為王,於義何疑?然則匡衡之奏,有所未盡。桉世宗立甘泉、汾陰之祠,皆出方士之言,非據經典者也。方士以甘泉、汾陰黃帝祭天地之處,故孝武因之,遂立二畤。漢治長安,而甘泉在北,謂就乾位,而衡云:「武帝居甘泉,祭於南宮」,此旣誤矣。祭汾陰在水之脽,呼為澤中,而衡云「東之少陽」,失其本意。此自吳事,於傳無非,恨無辯正之辭,故矯之云。
周の文王は天子にはならなかったけど、天下の3分の2を支配して、崇を討って黎を討伐したよ。祖伊は逃げ帰って報告して、天はすでに殷を見限って、西(文王)に目を向けたんだ。太伯は3度も辞退したけど、結果として天下を得たよ。文王が王になることに、何の疑いがあるの? このように、匡衡についての上奏には言い尽くされていない点があるんだ。
世宗(漢の武帝(劉徹))が甘泉と汾陰に祭壇を立てたのは、すべて方士の言葉に基づいていて、経典には基づいていなかったんだ。方士たちは、甘泉と汾陰を黄帝が天地を祭った場所として言ったんだ。だから、武帝はそれに従って、2つの祭壇を立てたよ。漢の王朝が長安を都にしていた時、甘泉は北にあるから、それは乾の位に近いとされたよ。でも、匡衡は「武帝は甘泉にいて、南宮で祭祀をした」と述べていて、これは明らかな誤りだよ。それに、汾陰の祭祀は水の中州で行われて、「澤中(水のたまっている場所)」と呼ばれていたのに、匡衡が「東の少陽」と言ったのも、本来の意味を見失っているんだ。
この件は呉の事例に過ぎなくて、『江表伝』に誤りはないけど、正しく反論する言葉がないから、このように訂正したの。
脽,音誰,見漢書音義。
「脽」の発音は「誰」だよ。『漢書音義』に書いてあるよ。
公孫淵に裏切られる
二年春正月,詔曰:「朕以不德,肇受元命,夙夜兢兢,不遑假寢。思平世難,救濟黎庶,上荅神祇,下慰民望。是以眷眷,勤求俊傑,將與勠力,共定海內,苟在用心,與之偕老。今使持節督幽州領青州牧遼東太守燕王,乆脅賊虜,隔在一方,雖乃心於國,其路靡緣。
嘉禾2年(233年)、春の正月、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が足りないけど、天命を受けて、昼も夜も心を引き締めて、休むことなく緊張し続けているよ。世を平和にすることの難しさを思って、民を救って、神々に応えて、民の期待に応えるために努めているんだ。だから、いつも賢明な人を探し求めて、一緒に力を合わせて天下を平定しようとしてきたの。心を尽くして一緒に老いる覚悟なんだ。今、節を持たせて、幽州と青州の牧で、遼東太守を兼任する燕王(公孫淵)を任命したけど、彼は長い間賊や異民族に脅かされて、ひとつの地で孤立しているんだ。心は国に向けられているけど、道は通じていないよ。
今因天命,遠遣二使,款誠顯露,章表殷勤,朕之得此,何喜如之!雖湯遇伊尹,周獲呂望,世祖未定而得河右,方之今日,豈復是過?普天一統,於是定矣。書不云乎,『一人有慶,兆民賴之』。其大赦天下,與之更始,其明下州郡,咸使聞知。特下燕國,奉宣詔恩,令普天率土備聞斯慶。」
今、天命に従って、遠くから2人の使者(宿舒と孫綜)を送って、誠意を尽くして、その忠誠を明らかにしたよ。その上表がすごく丁寧で、私がこのような栄誉を得たことは、とても嬉しいことだよ! 昔、湯王が伊尹を得たり、周王が呂望(太公望)を得た時、または世祖(劉秀)が天下を定める前に黄河の西方を手に入れたことと比べても、今日の私たちの状況はこれらに劣るものではないよ。天下がひとつになることが、これで決まったの。
『書経』には『ひとりが成功すると、みんなに幸せが広がる』とあるよ。だから、天下に大赦をして、新たな始まりを告げるよ。特に州や郡の下の、みんなに知らせるようにしてね。特に燕国には、詔勅の恩典を授けて、全土にこの喜びを広めるようにしてね」
三月,遣舒、綜還,使太常張彌、執金吾許晏、將軍賀達等將兵萬人,金寶珍貨,九錫備物,乘海授淵。(註48)
三月、宿舒と孫綜を帰らせて、太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達たちに1万人の兵と金銭や財宝、九錫の道具を持たせて、海路で公孫淵に授けるように命令したよ。
江表傳載權詔曰:「故魏使持節車騎將軍遼東太守平樂侯:天地失序,皇極不建,元惡大憝,作害于民,海內分崩,羣生堙滅,雖周餘黎民,靡有孑遺,方之今日,亂有甚焉。朕受歷數,君臨萬國,夙夜戰戰,念在弭難,若涉淵水,罔知攸濟。
『江表伝』によると、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「昔の魏の使持節で車騎将軍で遼東太守である平楽侯のあなたに告げるよ。天地の秩序が乱れて、皇帝の権威は確立されなくて、元凶である大悪人が民に害を与えていて、天下は分かれて、たくさんの人たちが滅びつつあるんだ。まるで周の時代の残された黎の民でさえも、今では1人も生き残ることがないような状態だよ。今日の混乱は、さらにひどいものとなっているよ。私は天命を受けて、たくさんの国を担っているから、日夜慎重に国を治めて、混乱を鎮めることを考え続けているの。それは、まるで深い淵を渡るみたいで、何が助けとなるのか全然見えないんだ。
是以把旄杖鉞,翦除凶虐,自東徂西,靡遑寧處,苟力所及,民無災害。雖賊虜遺種,未伏辜誅,猶繫囚枯木,待時而斃。惟將軍天姿特達,兼包文武,觀時覩變,審於去就,踰越險阻,顯致赤心,肇建大計,為天下先,元勳巨績,侔於古人。雖昔竇融背棄隴右,卒占西河,以定光武,休名美實,豈復是過?欽嘉雅尚,朕實欣之。
だから、私は軍旗を掲げて、斧鉞を持って軍を率いて、悪い人たちを排除して、東から西へと進んで、休む間もなかったんだ。私の力が及ぶ限り、民に災害を及ぼすことはなかったよ。賊や異民族の残党がまだ罪を受け入れなくて刑罰を逃れているけど、枯れ木に縛られた囚人みたいに、時が来れば自然に滅びるだろうね。
あなたは天賦の才能に恵まれていて、文武両道を兼ね備えていて、時代の変化を見極めて、進退を慎重に判断して、険しい道を乗り越えて誠の心を示して、大きな計画を立て、天下の先駆けとなったね。その功績と偉業は、古の英雄たちに匹敵するものだよ。昔、竇融は隴右を背にして西河を占領して、光武帝(劉秀)の基盤を固めたけど、その名声と実績を考えれば、まさにそれを上回るほどのものだよね? あなたの高貴な品格と行動を私は心から尊敬して、心から喜んでいるの。
自古聖帝明王,建化垂統,以爵襃德,以祿報功;功大者祿厚,德盛者禮崇。故周公有挾輔之勞,太師有鷹揚之功,並啟土宇,兼受備物。今將軍規萬年之計,建不世之略,絕僭逆之虜,順天人之肅,濟成洪業,功無與比,齊魯之事,奚足言哉!
古から、聖帝や明王たちは、徳をもって教え導いて、後の世に統治の模範を残してきたよ。爵位は徳をたたえるために授けられて、禄は功績に報いるために与えられたよ。功績が大きい者には厚く禄が与えられて、徳が盛んな者には高い礼が尽くされるよ。だから、周公旦は王を助けた功績があって、太師(太公望)は軍を率いた功績があって、彼らは領地を開いて、豊かな物資を持っていたんだね。
今、あなたは万年にわたる計画を立てて、永遠に続く戦略を築いて、反逆者を倒して、天と人の心に従って秩序を整えて、偉大な事業を成し遂げたよ。その功績は並ぶものがないほどで、斉や魯の事なんて言うまでもないくらいだよね。
詩不云乎,『無言不讎,無德不報』。今以幽、青二州十七郡七十縣,封君為燕王,使持節守太常張彌授君璽綬策書、金虎符第一至第五、竹使符第一至第十。錫君玄土,苴以白茅,爰契爾龜,用錫冢社。方有戎事,典統兵馬,以大將軍曲蓋麾幢,督幽州、青州牧遼東太守如故。
『詩経』にも、『言葉には必ず答えがあるし、徳には必ず報いがある』とあるよ。今、幽州と青州の2州、合計17郡70県をあなたに封じて、あなたを燕王にするよ。使持節で太常の張弥を送って、あなたに印綬と詔書、金虎符第一から第五、竹使符第一から第十を授けるよ。あなたに玄土を贈って、白茅でそれを覆って、亀に刻んで、社を設けるよ。戦いがある場合には、あなた兵馬の指揮を執って、大将軍の傘と旗の下に、幽州と青州の牧、遼東太守として前と同じように統治してね。
今加君九錫,其敬聽後命。以君三世相承,保綏一方,寧集四郡,訓及異俗,民夷安業,無或攜貳,是用錫君大輅、戎輅、玄牡二駟。君務在勸農,嗇人成功,倉庫盈積,官民俱豐,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。君正化以德,敬下以禮,敦義崇謙,內外咸和,是用錫君軒縣之樂。
今、あなたには九賜を授けるよ。これらを大切にして後の命令を聞いてね。あなたは3世代にわたって家を継いで、ひとつの地域を守って、4つの郡を安定させて、異なる文化に教えを導いて、民や異民族が安心して生業を営んで、分裂や反乱を起こさないようにしてきたよね。だから、あなたに大輅(天子の乗る車)と戎輅(軍事に使う車)をそれぞれ1台と、黒い馬8頭を授けるよ。
あなたは農業を奨励して、貧しい人にも成功を助けて、倉庫を満たして、役人も民も豊かにしたよね。だから、あなたに衮冕(天子の礼服)と、赤舄(赤い履物)を授けるよ。
あなたは徳によって政治を正して、礼によって下を敬って、義を重んじて謙遜を崇めて、内にも外にも和をもたらしたね。だから、あなたに軒縣の楽器を授けるよ。
君宣導休風,懷保邊遠,遠人迴面,莫不影附,是用錫君朱戶以居,君運其才略,官方任賢,顯直措枉,羣善必舉,是用錫君虎賁之士百人。君戎馬整齊,威震遐方,糾虔天刑,彰厥有罪,是用錫君鈇鉞各一。
あなたは良い風習を広めて、遠くの人たちを守ったから、遠くの人たちもあなたに心を寄せて、みんなが影みたいに従っているね。だから、あなたに赤い戸を授けて住めるようにするよ。
あなたはその才能と計略を発揮して、賢人を任命して、不正を取り除いて、優れた人を必ず採用するよね。だから、あなたに100人の虎賁(帝の護衛)の兵を授けるよ。
あなたは軍馬を整えて、威光を遠くまで及ぼして、天の刑罰を厳正に実行して、罪を明らかにしたよね。だから、あなたに鉄と斧を1つずつ授けるよ。
君文和於內,武信於外,禽討逆節,折衝掩難,是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君忠勤有効,溫恭為德,明允篤誠,感于朕心,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。欽哉!敬茲訓典,寅亮天工,相我國家,永終爾休。」
あなたは内では文を和らげて、外では武を信じて、反逆者を捕らえ、困難を打ち破ったよ。だから、赤い弓1本、赤い矢100本、黒い弓10本、黒い矢1,000本を授けるよ。
あなたは忠実で、その労が実を結んで、温和で礼儀正しくて、誠実で誠意ある姿勢は、私の心に感動を与えたんだ。だから、あなたに秬鬯の酒を1つと珪瓚(玉製の杯)を授けるよ。
つつしんでこの教えを大切にして、天命に従って、我が国を助けて、あなたの栄光が永遠に続くことを願うよ」
舉朝大臣,自丞相雍已下皆諫,以為淵未可信,而寵待太厚,但可遣吏兵數百護送舒、綜,權終不聽。(註49)淵果斬彌等,送其首于魏,沒其兵資。權大怒,欲自征淵,(註50)尚書僕射薛綜等切諫乃止。是歲,權向合肥新城,遣將軍全琮征六安,皆不克還。(註51)
朝廷の大臣たちは、丞相の顧雍はじめとしてみんなは諫めてこう言ったよ。
「公孫淵はまだ信用できないのに、彼に対する待遇が厚すぎるよ。宿舒や孫綜を守るために数百の兵を送るだけで十分だよ」
でも、孫権は最後まで聞き入れなかったんだ。結局、公孫淵は張弥たちを斬って、その首を魏に送って、兵や資材を没収しちゃった。これに孫権はとても怒って、自ら公孫淵を討とうとしたけど、尚書僕射の薛綜たちが強く止めたから、思いとどまったよ。その年、孫権は合肥新城へ進軍して、将軍の全琮に六安を攻撃させたけど、どれも成功しなくて、引き返したんだ。
臣松之以為權愎諫違衆,信淵意了,非有攻伐之規,重複之慮。宣達錫命,乃用萬人,是何不愛其民,昏虐之甚乎?此役也,非惟闇塞,寔為無道。
裴松之の見解によると、孫権は臣下の意見を聞かなくて、たくさんの人の意見に逆らって、公孫淵の意向を盲目的に信じたことは、攻撃の計画もなくて、無駄な行動を繰り返しているよね。なのに、九錫を与えて、1万の兵を動かしたことは、どうしてこれほどまでに民を惜しまなかったの? 彼のやり方は本当にひどいよね。こんなことをするなんて、孫権はただ無知であるだけでなくて、理にかなっていないよ。
江表傳載權怒曰:「朕年六十,世事難易,靡所不嘗,近為鼠子所前却,令人氣踴如山。不自截鼠子頭以擲于海,無顏復臨萬國。就令顛沛,不以為恨。」
『江表伝』によると、孫権は怒ってこう言ったよ。
「私は60歳になって、世の中の難しいことも簡単なこともすべて経験してきたよ。でも最近、鼠の子たちに前進を阻まれて、屈辱を感じたんだ。怒りは山のように高まっているよ。自分の手で鼠の子たちの首を切り落として、海に投げ捨てなければ、すべての国にふたたび姿を現すことはできないんだ。そのためなら、たとえ苦難に直面しても、それを恨むことはないよ」
吳書曰:初,張彌、許晏等俱到襄平,官屬從者四百許人。淵欲圖彌、晏,先分其人衆,置遼東諸縣,以中使秦旦、張羣、杜德、黃彊等及吏兵六十人,置玄菟郡。玄菟郡在遼東北,相去二百里,太守王贊領戶二百,兼重可三四百人。旦等皆舍於民家,仰其飲食。
『呉書』によると、最初、張弥や許晏たちは襄平に着いて、役人や従者が約400人いたよ。公孫淵は張弥や許晏を狙っていたよ。まず彼らの部下を分けて、遼東のそれぞれの県に置いたんだ。そして、中使の秦旦や張羣、杜徳、黄彊たちと役人と兵60人を、玄菟郡に行かせたよ。玄菟郡は遼東の北にあって、距離は約200里で、太守の王賛が200戸を管理していて、合わせて300〜400人の人たちを統治していたんだ。秦旦たちはみんな民家に泊まって、飲食を頼っていたよ。
積四十許日,旦與彊等議曰:「吾人遠辱國命,自棄於此,與死亡何異?今觀此郡,形勢甚弱。若一旦同心,焚燒城郭,殺其長吏,為國報恥,然後伏死,足以無恨。孰與偷生苟活長為囚虜乎?」彊等然之。
約40日が経った後、秦旦と黄彊たちは議論したよ。
「私たちは遠く離れた国の命令を軽んじて、この地に自ら身を捨てたんだ。これは死ぬことと何が違うの? 今、この郡の状況を見ると、とても弱いね。みんなが心を合わせて、城壁を焼いて、長吏(行政官)を殺して、国の恥を晴らせるなら、その後に死んでも恨みは残らないんだ。それに比べて、生き延びて囚人として生きて長く捕虜のままでいるのは、どちらが良いの?」
黄彊たちは同意したよ。
於是陰相約結,當用八月十九日夜發。其日中時,為部中張松所告,贊便會士衆閉城門。旦、羣、德、彊等皆踰城得走。時羣病疽創著膝,不及輩旅,德常扶接與俱,崎嶇山谷。行六七百里,創益困,不復能前,卧草中,相守悲泣。
そして、彼らは陰でこっそりと結んで、8月19日の夜に行動することに決めたよ。その日の昼間、部下の一人である張松がこれを知らせて、王賛はすぐに仲間たちを集めて城門を閉じたよ。秦旦、張羣、杜徳、黄彊たちはみんな、城壁を越えて逃げ出したんだ。その時、張羣は膝に腫物があって、他の者たちに追いつけなくて、杜徳が張羣を助けながら、山や谷を進んだよ。彼らは600から700里を歩いて、傷が悪くなっちゃって、もはや前に進めなくなって、草の中に横たわって、お互いに悲しんだの。
羣曰:「吾不幸創甚,死亡無日,卿諸人宜速進道,兾有所達。空相守,俱死於窮谷之中,何益也?」德曰:「萬里流離,死生共之,不忍相委。」於是推旦、彊使前,德獨留守羣,捕菜果食之。旦、彊別數日,得達句驪王宮,因宣詔於句驪王宮及其主簿,詔言有賜為遼東所攻奪。宮等大喜,即受詔,命使人隨旦還迎羣、德。其年,宮遣皁衣二十五人送旦等還,奉表稱臣,貢貂皮千枚,鶡雞皮十具。旦等見權,悲喜不能自勝。
張羣はこう言ったよ。
「私は不幸にも重い傷を負っていて、死ぬ日は遠くないよ。みんなは急いで道を進むべきだよ。一緒に座り続けても、結局は貧しい谷で死ぬだけだよ。何の利益もないよね」
杜徳はこう言ったよ。
「何千里もの放浪の中で、生死を共にするんだから、お互いに見捨てることはできないよ」
そこで、秦旦と黄彊は前に進むように勧めて、杜徳は張羣を残して留まって、野菜や果物を捕って食べたよ。
秦旦と黄彊は数日後に別れて、句驪の王の宮のもとに着いて、宮とその主簿に詔を伝えて、遼東に攻められて物を取られたことを報告したよ。宮はとても喜んで、すぐに詔を受け入れて、使者に黄彊たちを迎えに行かせて、張羣と杜徳を連れてきたんだ。その年、宮は黒衣(役人)25人と秦旦たちを呉に送って、謙遜の意を表して、貂の皮1,000枚と雉の皮10具を献上したよ。秦旦たちは孫権を見て、喜びと悲しみを抑えられなかったんだ。
權義之,皆拜校尉。間一年,遣使者謝宏、中書陳恂拜宮為單于,加賜衣物珍寶。恂等到安平口,先遣校尉陳奉前見宮,而宮受魏幽州刺史諷旨,令以吳使自效。奉聞之,倒還。宮遣主簿笮咨、帶固等出安平,與宏相見。宏即縛得三十餘人質之,宮於是謝罪,上馬數百匹。宏乃遣咨、固奉詔書賜物歸與宮。是時宏舩小,載馬八十匹而還。
孫権はこれを評価して、彼らをみんな校尉にしたよ。1年後、使者の謝宏と中書の陳恂を送って、宮を単于に封じて、衣服や宝物を授けたよ。陳恂たちは安平口に着いて、先に送られた校尉の陳奉が宮を訪ねたけど、宮は魏の幽州刺史(州の長官)の命令を受けて、呉の使者を殺すように求められていたんだ。陳奉はこれを聞いて引き返したよ。宮は主簿の笮咨や帯固たちを安平に送って、謝宏と会見したよ。謝宏は30人以上の人質を捕らえて、宮は謝って、馬を100匹を献上したよ。謝宏は笮咨と帯固に詔書を持たせて、物品を宮に返還させたんだ。この時、謝宏の船は小さくて、馬を80匹積んで帰ったよ。
合肥新城の戦い
三年春正月,詔曰:「兵乆不輟,民困於役,歲或不登。其寬諸逋,勿復督課。」夏五月,權遣陸遜、諸葛瑾等屯江夏、沔口,孫韶、張承等向廣陵、淮陽,權率大衆圍合肥新城。是時蜀相諸葛亮出武功,權謂魏明帝不能遠出,而帝遣兵助司馬宣王拒亮,自率水軍東征。未至壽春,權退還,孫韶亦罷。
嘉禾3年(234年)、春の正月、詔を下してこう言ったよ。
「兵は長い間戦っても終わらなくて、民は従軍に疲れていて、時には収穫も不作だったんだ。逃げ出した人たちには寛大に接するようにして、検査や課税を強化しないようにしてね」
夏の五月、孫権は陸遜や諸葛瑾たちを江夏や沔口に、孫韶や張承たちを広陵や淮陽に向かわせて、自ら大軍を率いて合肥新城を包囲したよ。この時、蜀の相である諸葛亮が武功を出したから、孫権は曹叡が遠く出向かないと判断したよ。でも、曹叡は兵を送って司馬懿と一緒に諸葛亮を阻止して、水軍を率いて東へ向かったんだ。寿春に着く前に、孫権は退却して、孫韶もまた引き上げたよ。
諸葛亮さんについては、同年にあった五丈原の戦いのことかな。
秋八月,以諸葛恪為丹陽太守,討山越。九月朔,隕霜傷穀。冬十一月,太常潘濬平武陵蠻夷,事畢,還武昌。詔復曲阿為雲陽,丹徒為武進。廬陵賊李桓、羅厲等為亂。
秋の八月、諸葛恪を丹陽太守に任命して、山越族を討伐させたよ。九月の初め、霜が降って穀物に被害があったの。冬の十一月、太常の潘濬が武陵の異民族を平定して、任務を終えて武昌に帰ったよ。詔が出て、曲阿をふたたび「雲陽」に、丹徒を「武進」に戻したよ。廬陵の反乱者である李桓や羅厲たちが反乱を起こしちゃった。
四年夏,遣呂岱討桓等。秋七月,有雹。魏使以馬求易珠璣、翡翠、瑇瑁,權曰:「此皆孤所不用,而可得馬,何苦而不聽其交易?」
嘉禾4年(235年)、夏、呂岱に李桓たちを討たせたよ。秋の七月、雹が降ったんだ。魏の使者が馬と引き換えに真珠、翡翠、玳瑁(ウミガメ)求めたけど、孫権はこう言ったよ。
「これらは私が必要としないけど、馬が手に入るなら、どうして交易を拒否するの?」
制度を定める
五年春,鑄大錢,一當五百。詔使吏民輸銅,計銅畀直。設盜鑄之科。三月,武昌言甘露降於禮賔殿。輔吳將軍張昭卒。中郎將吾粲獲李桓,將軍唐咨獲羅厲等。自十月不雨,至於夏。冬十月,彗星見于東方。鄱陽賊彭旦等為亂。
嘉禾5年(236年)、春、大銭を鋳造して、1枚で500枚の小銭に相当したんだって。詔によって、役人や民に銅を提供させて、その銅の重さを計り直すことにしたよ。そして、貨幣の偽造を行う者に処罰を科す制度を作ったよ。三月、武昌で甘露が礼賓殿に降ったという報告があったんだって。
輔呉将軍の張昭が亡くなったんだ。中郎将の吾粲が李桓を捕らえて、将軍の唐咨が羅厲たちを捕らえたよ。昨年の十月から雨が降らなくて、夏まで続いたんだ。冬の十月、東の空に彗星が現れたよ。鄱陽の賊である彭旦たちが乱を起こしたんだ。
前故設科,長吏在官,當須交代,而故犯之,雖隨糾坐,猶已廢曠。方事之殷,國家多難,凡在官司,宜各盡節,先公後私,而不恭承,甚非謂也。中外羣僚,其更平議,務令得中,詳為節度。」
前に規則を定めて、長吏(行政官)が職にある場合には交代が必要だけど、それに違反すると、たとえその後に責任を問われたとしても、すでに職務を怠っている状態だよ。国がたくさんの困難に直面している今、官職にある人はすべて公務に専念して、公のことを優先して私事を後回しにすべきなんだ。それを守らないのは、適切ではないよね。内外の官僚たちには、改めて公平に議論をして、適切な対応を取るように努めて、詳しく計画を立てて節度を保つことが求められるよ」
親の喪に服するために官職をやめてはならないという法律を作ったよ。儒教の礼法では、親が亡くなったら 3 年間、喪に服さなければならなくて、その間は休職になるよ。でも休職したらもちろん職務に支障が出るから、法律で禁止しようということだね。
顧譚議,以為「奔喪立科,輕則不足以禁孝子之情,重則本非應死之罪,雖嚴刑益設,違奪必少。若偶有犯者,加其刑則恩所不忍,有減則法廢不行。愚以為長吏在遠,苟不告語,勢不得知。比選代之間,若有傳者,必加大辟,則長吏無廢職之負,孝子無犯重之刑。」
顧譚は議論して、こう提案したよ。
「家族の喪に服すことに規則を設けるのは、軽かったら孝行な子の気持ちを抑えるには不十分で、重かったら本来死刑に値しない罪を犯したことになるよ。厳しい刑罰を増やしても、違反者が減ることはあるかもしれないけど、もし偶然に違反者が出た場合、重い刑を科すとその人に対する情に堪えられないかもしれないし、刑を減らすと法が廃れることにつながるかもしれないよ。私は、長吏(行政官)が遠くにいて知らせが行かない場合、彼らは状況を把握できないと考えるよ。選んだり交代する間に、もし違反者が出た場合は、必ず重い処罰を課して、その結果、長吏は職務を怠ることがなくて、孝行な子も重い刑罰を犯さずに済むようになるだろうね」
將軍胡綜議,以為「喪紀之禮,雖有典制,苟無其時,所不得行。方今戎事軍國異容,而長吏遭喪,知有科禁,公敢干突,苟念聞憂不奔之恥,不計為臣犯禁之罪,此由科防本輕所致。忠節在國,孝道立家,出身為臣,焉得兼之?故為忠臣不得為孝子。宜定科文,示以大辟,若故違犯,有罪無赦。以殺止殺,行之一人,其後必絕。」
将軍の胡綜は議論して、こう提案したよ。
「喪の礼は、たとえ規定があっても、時期が合わなければ実行できないよね。今、戦いがあって国の状況が違うから、長吏(行政官)が喪に服する場合、法令があることを知りながら、それに反して喪に駆けつけることを強行するのは、葬式に行かなかったことが恥になることを悩でのことだよ。でも、これは法が軽すぎるから引き起こされるものなんだ。忠節は国家に尽くして、孝道は家庭で守るものだよ。身を奉じて臣下となるのだから、両立させることはできないんだ。だから、忠義のある臣下になるなら孝行な子にはなれないの。規定を厳しく定めて、重い刑罰を示すべきで、故意に違反した者には赦しなく罪を課すべきだよ。一度厳しく実行すれば、後の人は同様の違反をしなくなるだろうね」
丞相雍奏從大辟。其後吳令孟宗喪母奔赴,已而自拘於武昌以聽刑。陸遜陳其素行,因為之請,權乃減宗一等,後不得以為比,因此遂絕。二月,陸遜討彭旦等,其年,皆破之。冬十月,遣衞將軍全琮襲六安,不克。諸葛恪平山越事畢,北屯廬江。
丞相の顧雍が重い刑罰を提案したよ。
その後、呉の令の孟宗が家族の喪に行って、後に自分から武昌に拘禁されて刑を待ったよ。陸遜が彼の素行を説明して、彼を弁護したから、孫権は孟宗の処罰を軽減したけど、その後、同じような恩恵は受けることはなかったんだって。二月、陸遜が彭旦たちを討って、その年に彼らをすべて破ったよ。冬の十月、衛将軍の全琮が六安を襲撃したけど、失敗しちゃった。そして、諸葛恪は山越族を平定して、その任務を終えた後、廬江に駐屯したんだ。
赤烏元年春,鑄當千大錢。夏,呂岱討廬陵賊,畢,還陸口。秋八月,武昌言麒麟見。有司奏言麒麟者太平之應,宜改年號。詔曰:「間者赤烏集於殿前,朕所親見,若神靈以為嘉祥者,改年宜以赤烏為元。」
赤烏元年(238年)、春、大銭を鋳造して、1枚で1,000枚の小銭に相当したんだって。夏、呂岱が廬陵の賊を討って、その任務を終えると陸口に帰ってきたよ。秋の八月、武昌で麒麟が目撃されたんだって。役人たちは麒麟の出現を太平の前兆と考えて、年号を変えるべきだと上奏したよ。そこで、詔を下してこう言ったよ。
「先日、赤い烏が殿の前に集まって、私が自分で親しく見たことから、その神秘的な出来事を喜びとみなして、新しい年号は『赤烏』にしよう」
羣臣奏曰:「昔武王伐紂,有赤烏之祥,君臣觀之,遂有天下,聖人書策載述最詳者,以為近事旣嘉,親見又明也。」於是改年。步夫人卒,追贈皇后。
臣下たちは上奏してこう言ったよ。
「昔、武王が紂を討つ時、赤い鳥の吉兆があって、君主や臣下がそれを見て、天下を統一したんだ。聖人たちの書物には、この出来事が最も詳しく記されていて、近い出来事が喜ばしいし、自分で目撃したことでも明らかだよね」
そして、年号を「赤烏」に改めたよ。
歩夫人が亡くなって、皇后の尊号を贈られたよ。
初,權信任校事呂壹,壹性苛慘,用法深刻。太子登數諫,權不納,大臣由是莫敢言。後壹姦罪發露伏誅,權引咎責躬,乃使中書郎袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。
前に、孫権は校事の呂壱を使っていたよ。彼は厳格な性格で、法を厳しく執行していたよ。太子の孫登は何度も指摘したけど、孫権はそれを受け入れなかっらんだ。だから、大臣たちも誰も意見を言えなくなっちゃった。後に呂壱の悪い行動が明るみに出て処刑されると、孫権は自分の過ちを認めて反省して、中書郎の袁礼に将たちに謝罪を告げさせて、同時に時勢に応じて何を改めるべきかを尋ねたよ。
禮還,復有詔責數諸葛瑾、步隲、朱然、呂岱等曰:「袁禮還,云與子瑜、子山、義封、定公相見,並以時事當有所先後,各自以不掌民事,不肯便有所陳,悉推之伯言、承明。伯言、承明見禮,泣涕懇惻,辭旨辛苦,至乃懷執危怖,有不自安之心。聞此悵然,深自刻怪。何者?夫惟聖人能無過行,明者能自見耳。人之舉厝,何能悉中,獨當己有以傷拒衆意,忽不自覺,故諸君有嫌難耳;不爾,何緣乃至於此乎?
袁礼が帰った後、ふたたび詔を下して、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱たちを責めたよ。
「袁礼が戻ってきて、子瑜(諸葛瑾)、子山(歩隲)、義封(朱然)、定公(呂岱)と会ったことを報告したよ。彼らは時勢について先か後かを定めるべきだと考えたけど、彼らは自分は民政を担当していないから、自分たちで意見を述べようとしなくて、すべて伯言(陸遜)や承明(潘濬)に押し付けたみたいなんだ。伯言や承明が袁礼に会った時、涙を流して悲しみを示して、懇切に語って、とても苦しい言葉で、危機感と不安を抱いていることを訴えたんだって。このことを聞いて私は自分を深く責めたんだ。なぜなら、聖人だけが過ちを犯さなくて、賢者だけが自らの過ちに気づけるからだよ。人が行う事はすべて正しいわけではないし、私が独りよがりに行動して、みんな意見を軽視していたから、彼らが不満や難色を示していたの。そうでなければ、どうしてこのような事態になったの?
自孤興軍五十年,所役賦凡百皆出於民。天下未定,孽類猶存,士民勤苦,誠所貫知。然勞百姓,事不得已耳。與諸君從事,自少至長,髮有二色,以謂表裏足以明露,公私分計,足用相保。盡言直諫,所望諸君;拾遺補闕,孤亦望之。昔衞武公年過志壯,勤求輔弼,每獨歎責。(註52)
私は軍を興してから50年、税や兵役はすべて民から出ているよ。天下がまだ安定していなくて、敵もまだ残っていて、民が苦労していることを心から理解しているよ。でも、民に苦労をかけるのもやむを得ない事情だったんだ。私は若い頃からずっとみんなと一緒に務めてきて、今では髪にも白いものが混じるほどだね。私たちの関係は内も外も誠実で明朗で、私的なことと公のことは十分に分別しあって保たれているよ。私はみんなの率直な助言を期待しているの。そして、足りない部分を補って、欠けたところを拾うことも望んでいるよ。昔、衛の武公は年を重ねても志を強く持って、協力を求めていつもひとりで嘆いて、自分を反省していたんだ。
且布衣韋帶,相與交結,分成好合,尚汚垢不異。今日諸君與孤從事,雖君臣義存,猶謂骨肉不復是過。榮福喜戚,相與共之。忠不匿情,智無遺計,事統是非,諸君豈得從容而已哉!同船濟水,將誰與易?齊桓諸侯之霸者耳,有善管子未嘗不歎,有過未嘗不諫,諫而不得,終諫不止。
そして、粗末な服と革の帯を締めて(庶民として)、お互いに親しい友人同士として交流し友情を築いて、汚れた姿で過ごしていた仲間がいたものだよ。今、みんなと私が一緒に活動しているのは、君主と臣下の関係があっても、まるで血を分けた兄弟みたいで、それ以上の関係ではないよ。栄光や幸福、喜びや悲しみは、お互いに分かち合うものだよね。忠義を尽くして感情を隠さないで、知恵を尽くして計略を漏らさないことが大切なんだ。物事の是非を明らかにするのに、みんながただ穏やかに見過ごすだけで済むわけがないよ。同じ船に乗って川を渡るのに、誰か他に替わる者がいるの? 斉の桓公は諸侯の覇者となったけど、管仲の優れた行いにはいつも感動して、過ちがあれば必ず指摘したんだ。指摘して聞き入れられなくても、諫めることを止めることはなかったんだ。
今孤自省無桓公之德,而諸君諫諍未出於口,仍執嫌難。以此言之,孤於齊桓良優,未知諸君於管子何如耳?乆不相見,因事當笑。共定大業,整齊天下,當復有誰?凡百事要所當損益,樂聞異計,匡所不逮。」
今の私には、桓公みたいな徳はないことを自覚しているけど、みんなはまだ管仲みたいに諫めないし、まだ遠慮して難色を示しているみたいだね。このことから考えると、私は桓公より優れているわけではなくて、みんなが管仲に及ぶかどうかもわからないんだ。久しく会ってないけど、この機会にお互いに笑い合いたいね。一緒に大業を成し遂げて、天下を整えるために、他に誰がいるの? あらゆる事について、何を改善すべきかを一緒に考えて、異なる意見を聞いて、私の足りない部分を補ってほしいの」
江表傳曰:權又云:「天下無粹白之狐,而有粹白之裘,衆之所積也。夫能以駮致純,不惟積乎?故能用衆力,則無敵於天下矣;能用衆智,則無畏於聖人矣。」
『江表伝』によると、孫権はこう言ったよ。
「天下には真っ白な狐はいないけど、真っ白な毛皮はあるのは、たくさんの毛を集めたからだよ。様々なものを集めて純白を得られるのは、積み重ねによるものなんだ。だから、もしたくさんの力を集められれば、天下に敵はないよ。たくさんの知恵を使えば、聖人にすら恐れることはないよ」
公孫淵が滅んだ後
二年春三月,(註53)遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東,擊魏守將張持、高慮等,虜得男女。(註54)零陵言甘露降。夏五月,城沙羡。冬十月,將軍蔣祕南討夷賊。祕所領都督廖式殺臨賀太守嚴綱等,自稱平南將軍,與弟潛共攻零陵、桂陽,及搖動交州、蒼梧、鬱林諸郡,衆數萬人。遣將軍呂岱、唐咨討之,歲餘皆破。
赤烏2年(239年)、春の三月、孫権は羊衜、鄭冑を使者として、そして将軍の孫怡を遼東に送ったよ。彼らは魏の将軍である張持や高慮たちを攻撃して、男女を捕虜として連れ帰ったよ。零陵では甘露が降ったとの報告があったんだって。
夏の五月、沙羡に城壁を築いたよ。冬の十月、将軍の蒋秘が南の異民族を討ったけど、彼の配下で都督の廖式が、臨賀太守の厳綱たちを殺して、自ら平南将軍を名乗ったんだ。廖式は弟の廖潜と一緒に零陵や桂陽を攻めて、さらに交州や蒼梧、鬱林などにまで動揺を広げたんだ。数万の兵を率いていたけど、孫権は将軍の呂岱や唐咨たちに彼らを討たせて、1年以上の戦いの末にすべて平定したよ。
江表傳載權正月詔曰:「郎吏者,宿衞之臣,古之命士也。間者所用頗非其人。自今選三署皆依四科,不得以虛辭相飾。」
『江表伝』によると、正月、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「郎吏とは、宮殿を守る臣下で、古代から命令で選ばれた人たちだよ。最近、選ばれた人の中には適任ではない人もいたんだ。今後、三署の選択にはすべて4つの試験に従うこととして、偽りの言葉でごまかすことは許されないよ」
文士傳曰:冑字敬先,沛國人。父札,才學博達,權為驃騎將軍,以札為從事中郎,與張昭、孫邵共定朝儀。冑其少子,有文武姿局,少知名,舉賢良,稍遷建安太守。呂壹賔客於郡犯法,冑收付獄,考竟。壹懷恨,後密譖冑。權大怒,召冑還,潘濬、陳表並為請,得釋。後拜宣信校尉,往救公孫淵,已為魏所破,還遷執金吾。子豐,字曼季,有文學操行,與陸雲善,與雲詩相往反。司空張華辟,未就,卒。
『文士伝』によると、鄭冑は、字は敬先で、沛国の出身だよ。父の鄭札は、学識が豊富で、孫権が驃騎将軍に任命された時、鄭札は中郎に任命されて、張昭、孫邵と一緒に朝廷の儀式を定めたよ。
鄭冑は、若い頃から文武両道で、名声を得ていたよ。賢良として登用されて、後に建安太守になったよ。呂壱は郡内の客に対して違法行為を犯して、鄭冑は彼を拘束して取り調べたよ。でも、呂壱は恨みを抱いて、後に鄭冑を密告したんだ。孫権はすごく怒って、鄭冑を呼び出したけど、潘濬、陳表が事情を説明して、鄭冑は釈放されたよ。その後、鄭冑は宣信校尉に任命されて、公孫淵を救援したけど、すでに魏に敗れていたんだって。帰った後は執金吾に任命されたよ。
鄭冑の子である鄭豊は、字は曼季で、文学と品行に優れていて、陸雲と仲が良くて、詩作で彼と対立したよ。司空の張華に召し出されたけど、その前に亡くなったよ。
臣松之聞孫怡者,東州人,非權之宗也。
裴松之の見解によると、孫怡は聞いたことがあるけど、彼は東州の出身で、孫権の親族ではないんだって。
三年春正月,詔曰:「蓋君非民不立,民非穀不生。頃者以來,民多征役,歲又水旱,年穀有損,而吏或不良,侵奪民時,以致饑困。自今以來,督軍郡守,其謹察非法,當農桑時,以役事擾民者,舉正以聞。」夏四月,大赦,詔諸郡縣治城郭,起譙樓,穿壍發渠,以備盜賊。冬十一月,民饑,詔開倉廩以振貧窮。
赤烏3年(240年)、春の正月、詔を下してこう言ったよ。
「そもそも、君主は民がいなければ立てないよ。民は穀物がなければ生きられないよ。最近、民はたくさんの税と労役に苦しんでいて、さらに水害や干ばつが続いて、穀物の収穫に減っちゃった。それに、役人の中には不正な人がいて、民の農作業の時間を奪って、飢えや貧しさを広げているんだ。今後は、督軍や郡の太守は不正を厳しく監察して、農作業や養蚕の時期に役務で民を乱す者がいたら、ちゃんとした処罰をして報告してね」
夏の四月、大赦が行われて、郡や県は城壁を修理して、展望塔を建てて、土塁を築いて、水路を整備して、盗賊に備えたよ。冬の十一月、民が飢えて困っているから、詔を出して、倉庫や穀物の貯蔵所を開いて貧しい人たちを支援するように命令したよ。
芍陂の戦いと孫登の死
四年春正月,大雪,平地深三尺,鳥獸死者大半。夏四月,遣衞將軍全琮略淮南,決芍陂,燒安城邸閣,收其人民。威北將軍諸葛恪攻六安。琮與魏將王淩戰于芍陂,中郎將秦晃等十餘人戰死。車騎將軍朱然圍樊,大將軍諸葛瑾取柤中。(註55)
赤烏4年(241年)、春の正月、大雪が降って、平野では3尺もの深さに積もったよ。そのせいで、たくさんの鳥や獣が亡くなったんだ。
夏の四月、衛将軍の全琮が淮南を攻めて、芍陂を決壊させて、安城の城壁や貯蔵庫を焼き払って、住民を捕らえたよ。威北将軍の諸葛恪は六安を攻めたよ。全琮は魏の将の王淩と芍陂で戦って、中郎将の秦晃たち十数人が戦死しちゃった。車騎将軍の朱然は樊包囲して、大将軍の諸葛瑾は柤中を攻略したよ。
漢晉春秋曰:零陵太守殷禮言於權曰:「今天棄曹氏,喪誅累見,虎爭之際而幼童莅事。陛下身自御戎,取亂侮亡,宜滌荊、揚之地,舉彊羸之數,使彊者執戟,羸者轉運,西命益州軍于隴右,授諸葛瑾、朱然大衆指事襄陽,陸遜、朱桓別征壽春,大駕入淮陽,歷青、徐。
『漢晋春秋』によると、零陵太守の殷礼が孫権にこう語ったよ。
「今、天命は曹氏を見放して、何度も喪と誅伐が続いて、虎が争う中で幼い子が政治をしているんだ。あなたが自分で軍を率いて、混乱を取り除いて、滅びようとしている国を攻めるべきだよ。荊州と揚州の地を打ち払って、強い人や弱い人の数を調べて、強い人たちには武器を授けて、弱い人たちには物資を運ばせよう。西では益州の軍(蜀)を隴右に行かせて、諸葛瑾と朱然に襄陽を攻めさせて、陸遜と朱桓には別々に寿春を攻めさせて、あなた自身は淮陽に入って、青州と徐州を攻めるべきだよ。
襄陽、壽春困於受敵,長安以西務對蜀軍,許、洛之衆勢必分離;掎角瓦解,民必內應,將帥對向,或失便宜;一軍敗績,則三軍離心,便當秣馬脂車,陵蹈城邑,乘勝逐北,以定華夏。若不悉軍動衆,循前輕舉,則不足大用,易於屢退。民疲威消,時往力竭,非出兵之策也。」權弗能用之。
襄陽や寿春は私たちの攻撃に苦しんで、長安より西では蜀の軍勢とぶつかるから、許昌や洛陽の兵は必ず分かれるよ。もし各地の軍勢が連携できなくて、民が内部で応じれば、軍の指揮官は適切な判断を失うかも。一軍が敗北すれば、三軍の士気も揺らいで、その隙に馬や車を整えて、都市を征服して、勝利の勢いに乗じて敵を追撃して、中原を平定できるだろうね。でも、もし全軍を動かさないで軽率に行動するなら、大きな成果を上げることはできなくて、撤退を重ねやすくなっちゃうんだ。民が疲れて、国力が消耗する中で、時を失って力尽きるだけで、これでは兵を出す策とは言えないよね」
孫権は彼の提案を採用しなかったんだ。
五月,太子登卒。是月,魏太傅司馬宣王救樊。六月,軍還。閏月,大將軍瑾卒。秋八月,陸遜城邾。
五月、太子の孫登が亡くなったんだ。この月、魏の太傅である司馬懿が樊を救援したよ。六月には、軍が帰ってきたよ。閏月、大将軍の諸葛瑾が亡くなったんだ。秋の八月、陸遜が邾に城を築いたよ。
孫和を太子にする
五年春正月,立子和為太子,大赦,改禾興為嘉興。百官奏立皇后及四王,詔曰:「今天下未定,民物勞瘁,且有功者或未錄,饑寒者尚未恤,猥割土壤以豐子弟,崇爵位以寵妃妾,孤甚不取。其釋此議。」
赤烏5年(242年)、春の正月、子の孫和を太子に立てて、大赦を行って、禾興を「嘉興」に改称したよ。百官(官僚)は皇后と四王を立てること(孫権の4人の子を王にすること)を上奏したけど、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「今、天下が安定していなくて、民は苦しんでいて、功績のある人もまだ賞をもらっていないし、飢えや寒さをしのぐ人もまだ救われていないの。軽々しく土地を分けて子弟を富ませて、爵位を高めて側室を愛することは、私はとても好ましくないと思うよ。この議論は取りやめるようにね」
三月,海鹽縣言黃龍見。夏四月,禁進獻御,減太官膳。秋七月,遣將軍聶友、校尉陸凱以兵三萬討珠崖、儋耳。是歲大疫,有司又奏立后及諸王。八月,立子霸為魯王。
三月、海鹽県で黄龍が目撃されたんだって。夏の四月、献上される品物を制限して、太官の食事を減らしたよ。秋の七月、将軍の聶友と校尉の陸凱に3万の兵を率いて珠崖と儋耳を討たせたよ。
この年は病が大流行して、役人たちはふたたび后と諸王を立てることを上奏したよ。八月、子の孫覇を魯王に立てたよ。
司馬懿を迎え撃つ
六年春正月,新都言白虎見。諸葛恪征六安,破魏將謝順營,收其民人。冬十一月,丞相顧雍卒。十二月,扶南王范旃遣使獻樂人及方物。是歲,司馬宣王率軍入舒,諸葛恪自皖遷于柴桑。
赤烏6年(243年)、春の正月、新都で白虎が目撃されたんだって。諸葛恪は六安を攻めて、魏の将の謝順の陣営を破って、民を捕らえたよ。冬の十一月、丞相の顧雍が亡くなったんだ。十二月、扶南王の范旃が使者を送って、音楽家やさまざまな物品を献上したよ。
この年、司馬懿は軍を率いて舒に入って、諸葛恪は皖から柴桑へ移ったよ。
蜀の動きが怪しい?
七年春正月,以上大將軍陸遜為丞相。秋,宛陵言嘉禾生。是歲,步隲、朱然等各上疏云:「自蜀還者,咸言背盟與魏交通,多作舟舩,繕治城郭。又蔣琬守漢中,聞司馬懿南向,不出兵乘虛以掎角之,反委漢中,還近成都。事已彰灼,無所復疑,宜為之備。」
赤烏7年(244年)、春の正月、大将軍の陸遜が丞相に就任したよ。秋には、宛陵で穀物が豊作だったと報告があったよ。この年、歩隲や朱然たちは上奏してこう言ったよ。
「蜀から戻ってきた人たちはみんな、蜀が盟約を破って魏と内通して、船をたくさん造って、城壁を修繕していると報告しているんだ。それに、蒋琬が漢中を守っている間、司馬懿が南へ行ったと聞いても、彼は隙を突いて援軍を出さないで、かえって漢中を捨てて成都近くに戻ったんだ。このことはすでに明らかで、疑う余地はないから、備えを整えるべきだよ」
權揆其不然,曰:「吾待蜀不薄,聘享盟誓,無所負之,何以致此?又司馬懿前來入舒,旬日便退,蜀在萬里,何知緩急而便出兵乎?昔魏欲入漢川,此閒始嚴,亦未舉動,會聞魏還而止,蜀寧可復以此有疑邪?又人家治國,舟船城郭,何得不獲?今此閒治軍,寧復欲以禦蜀邪?人言苦不可信,朕為諸君破家保之。」蜀竟自無謀,如權所籌。(註56)
孫権はこれを否定して、こう言ったよ。
「私は蜀に対して薄情ではなくて、礼を尽くして、盟約を誓って、蜀に負うものはないよ。なのに、どうしてこんなことが起こるの? それに、司馬懿が前に舒に進攻してきたけど、10日も経たないうちに退却したよね。蜀は遠く離れた地にあるのに、彼らがどうして急を知ってすぐに兵を出せたの? 昔、魏が漢川に進攻しようとした時も、この地域で警戒を厳重にしたけど、実際に動くことはなくて、魏が退却するとすぐに治まったんだ。蜀がまたこれで疑われるべきなの? さらに、人が国を治めて、船や城壁を整備するのは当然のことだよ。今、この地域で軍を整えているのは、蜀を防ぐためというわけではないよね? 人々の言うことは必ずしも信じられるものではなくて、私はあなたたちを守るために最善を尽くすよ」
結局、蜀に策は無くて、孫権の言ったとおりだったよ。
江表傳載權詔曰:「督將亡叛而殺其妻子,是使妻去夫,子棄父,甚傷義教,自今勿殺也。」
『江表伝』によると、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「将が亡命して反乱を起こしたからといってその妻や子を殺すことは、妻を夫から離して、子が父を捨てることになって、道徳に大きな傷を与えるよ。今後、それをしないでね」
孫権暗殺計画?
八年春二月,丞相陸遜卒。夏,雷霆犯宮門柱,又擊南津大橋楹。茶陵縣鴻水溢出,流漂居民二百餘家。秋七月,將軍馬茂等圖逆,夷三族。(註57)八月,大赦。遣校尉陳勳將屯田及作士三萬人鑿句容中道,自小其至雲陽西城,通會巿,作邸閣。
赤烏8年(245年)、春の二月、丞相の陸遜が亡くなったんだ。夏には、雷が宮殿の門の柱に直撃して、さらに南津の大橋の柱にも打ったんだって。茶陵県では、大雨によって鴻水が氾濫して、200軒以上の住民が流されちゃった。
秋の七月、将軍の馬茂たちが反乱を企てたから、彼の一族は滅ぼされたよ。八月、大赦が行われたよ。校尉の陳勲に屯田や、技術者3万人を率いて句容の中道に運河を掘らせて、小其から雲陽の西城まで通して、市を結んで、貯蔵庫を建てたよ。
吳歷曰:茂本淮南鍾離長,而為王淩所失,叛歸吳,吳以為征西將軍、九江太守、外部督,封侯,領千兵。權數出苑中,與公卿諸將射。茂與兼符節令朱貞、無難督虞欽、牙門將朱志等合計,伺權在苑中,公卿諸將在門未入,令貞持節稱詔,悉收縛之;茂引兵入苑擊權,分據宮中及石頭塢,遣人報魏。事覺,皆族之。
『呉歴』によると、馬茂はもともと淮南の鍾離の長だったけど、王淩に敗れて、呉に降伏したよ。呉は彼を征西将軍、九江太守、外部督として任命して、侯に封じて、1,000人の兵を指揮させたんだよ。
孫権はよく庭に出て、公卿や将たちと射撃をしたよ。その時、馬茂は兼符節令の朱貞、無難督の虞欽、牙門将の朱志たちと一緒に計画を立てて、孫権が庭にいる間に、公卿や将たちが門に入っていない隙を狙ったの。朱貞に詔を持っていると偽って符節を持たせて、彼ら全員を拘束して縛り上げるように命令して、馬茂は兵を率いて庭に入って孫権を襲撃して、宮殿と石頭塢(砦)を占拠して、魏に報告する使者を送るつもりだったんだ。でも、この事が見つかっちゃって、彼らはみんな一族ごと処刑されたんだ。
九年春二月,車騎將軍朱然征魏柤中,斬獲千餘。夏四月,武昌言甘露降。秋九月,以驃騎步隲為丞相,車騎朱然為左大司馬,衞將軍全琮為右大司馬,鎮南呂岱為上大將軍,威北將軍諸葛恪為大將軍。(註58)
赤烏9年(246年)、春の二月、車騎将軍の朱然が魏の柤中を攻めて、1,000人以上を捕らえたよ。夏の四月、武昌で甘露が降ったんだって。秋の九月、驃騎将軍の歩隲が丞相に任命されて、車騎将軍の朱然が左大司馬、衛将軍の全琮が右大司馬、鎮南将軍の呂岱が上大将軍、威北将軍の諸葛恪が大将軍にそれぞれ任命されたよ。
江表傳曰:是歲,權詔曰:「謝宏往日陳鑄大錢,云以廣貨,故聽之。今聞民意不以為便,其省息之,鑄為器物,官勿復出也。私家有者,勑以輸藏,計畀其直,勿有所枉也。」
『江表伝』によると、この年、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「謝宏は、前に大銭を鋳造して流通を広げようと提案したから、許可したよ。でも、今では民の意見としては便利ではないと聞いているの。だから、この鋳造を中止して、代わりに器物を造ってね。役人が大銭を発行することはだめだよ。個人で所持しているものについては、命令を出して納めさせて、価値に応じて補償して、不当に扱うことがないようにしてね」
諸葛誕を騙せなかった
十年春正月,右大司馬全琮卒。(註59)二月,權適南宮。三月,改作太初宮,諸將及州郡皆義作。(註60)夏五月,丞相步隲卒。冬十月,赦死罪。
赤烏10年(247年)、春の正月、右大司馬の全琮が亡くなったんだ。二月、孫権は南宮に行ったよ。三月、太初宮の改築が行われて、将や、州や県の人たちがみんな、労役を果たしたんだって。夏の五月、丞相の歩隲が亡くなったんだ。冬の十月、死刑囚に恩赦が与えられたよ。
江表傳曰:是歲權遣諸葛壹偽叛以誘諸葛誕,誕以步騎二萬迎壹於高山。權出涂中,遂至高山,潛軍以待之。誕覺而退。
『江表伝』によると、この年、孫権は諸葛壱に偽りの反逆者として諸葛誕をおびき寄せさせて、諸葛誕は歩兵と騎兵2万を率いて諸葛壱を高山で迎えたよ。孫権は涂中を出発して、高山に着いて、軍を潜ませて待ったよ。でも、諸葛誕はこれに気づいて退却したんだ。
江表傳載權詔曰:「建業宮乃朕從京來所作將軍府寺耳,材柱率細,皆以腐朽,常恐損壞。今未復西,可徙武昌宮材瓦,更繕治之。」有司奏言曰:「武昌宮已二十八歲,恐不堪用,宜下所在通更伐致。」權曰:「大禹以卑宮為美,今軍事未已,所在多賦,若更通伐,妨損農桑。徙武昌材瓦,自可用也。」
『江表伝』によると、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「建業宮は私が京から来たときに作った将軍の役所で、材木や柱は細くて、腐って崩れそうで、いつも損傷を心配しているんだ。今回の西への遠征がまだ終わっていないから、武昌宮の材木や瓦を移して、修理を行ったほうがいいよ」
でも、役人たちはこう進言したよ。
「武昌宮はすでに28年も経っていて、材料は使用に耐えられない恐れがあるよ。だから、場所を変えて新しい材木を伐採するように命令をするべきだよ」
孫権は答えてこう言ったよ。
「大禹は質素な宮殿を美しいと考えていたんだって。それに、軍事はまだ完了していなくて、大きな負担をかけているよ。新しい材木を伐採することは農業に支障が出るかも。だから、武昌宮の材木や瓦を移して使ってね」
天変地異が起きる
十一年春正月,朱然城江陵。二月,地仍震。(註61)三月,宮成。夏四月,雨雹,雲陽言黃龍見。五月,鄱陽言白虎仁。(註62)詔曰:「古者聖王積行累善,脩身行道,以有天下,故符瑞應之,所以表德也。朕以不明,何以臻茲?書云『雖休勿休』,公卿百司,其勉脩所職,以匡不逮。」
赤烏11年(248年)、春の正月、朱然が江陵に城壁を築いたよ。二月、地震があったんだ。三月、宮殿が完成したよ。夏の四月、雨と雹が降って、雲陽では黄龍が現れたという報告があったんだって。五月、鄱陽で白虎が現れてそれが仁だという報告があったんだって。孫権は詔を下してこう言ったよ。
「古の聖王たちは良い行いを積み重ねて、徳を磨いて、身を修めて道を行うことによって天下を治めたよ。そして、めでたい兆しが現れて、その素晴らしい徳を示すこととなったの。私みたいに徳が及ばない人に、どうしてこのような兆しが訪れるの? 『書経』に『休むことなく努力せよ』とあるし、公卿や百官たちは、それぞれの職務を励んで、私の足りないところを補うよう努めるべきだよ」
江表傳載權詔曰:「朕以寡德,過奉先祀,莅事不聦,獲譴靈祇,夙夜祗戒,若不終日。羣僚其各厲精,思朕過失,勿有所諱。」
『江表伝』によると、孫権は詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が足りなくて、受け継いだ先祖の祭祀を間違えちゃうし、政治についても聡明さが足りなくて、だから神々からも非難を受けているんだ。だから、日々、懸命に戒めていて、ほとんど一日中その思いにあるの。臣下たちも、それぞれが心を引き締めて、私の間違いを考えて、何でも隠さないで率直に言ってほしいんだ」
瑞應圖曰:白虎仁者,王者不暴虐,則仁虎不害也。
『瑞応図』によると、「白虎の仁」とは、王者が残忍でない限り、仁のある虎が害を与えないという意味だよ。
十二年春三月,左大司馬朱然卒。四月,有兩烏銜鵲墮東館。丙寅,驃騎將軍朱據領丞相,燎鵲以祭。(註63)
赤烏12年(249年)、春の三月、左大司馬の朱然が亡くなったんだ。四月、東館に2羽の烏が鵲をくわえて落ちたという出来事があったんだって。丙寅の日、驃騎将軍の朱拠が丞相を代行して、鵲を焼いて祭ったよ。
吳錄曰:六月戊戌,寶鼎出臨平湖。八月癸丑,白鳩見於章安。
『呉録』によると、六月の戊戌の日には、宝鼎が臨平湖から出てきたよ。そして、八月の癸丑の日には、章安で白鳩が目撃されたんだって。
やっと後継者を立てる
十三年夏五月,日至,熒惑入南斗,秋七月,犯魁第二星而東。八月,丹楊、句容及故鄣、寧國諸山崩,鴻水溢。詔原逋責,給貸種食。
赤烏13年(250年)、夏の五月、夏至の日に火星が南斗に入って、秋の七月には、火星が魁の第二星に近づいて、さらに東へ移動したよ。八月、丹楊や句容、そして故鄣や寧国の山々が崩れて、大洪水が起きちゃった。詔を下して、未納の税などを免除して、種子と食料を供給することを命令したよ。
廢太子和,處故鄣。魯王霸賜死。冬十月,魏將文欽偽叛以誘朱異,權遣呂據就異以迎欽。異等持重,欽不敢進。十一月,立子亮為太子。
太子の孫和を廃位して、故鄣に移したよ。魯王の孫覇は処刑されたんだ。
冬の十月、魏の将の文欽が偽りの反乱を計画して、朱異を誘い出そうとしたよ。孫権は呂拠を朱異のもとに送って、文欽を迎えさせたよ。朱異たちは慎重に対処したから、文欽は進軍しなかったんだ。
十一月、子の孫亮を太子に立てたよ。
突然の処刑に見えるけど、後継者問題で荒れた結果だね……。
遣軍十萬,作堂邑涂塘以淹北道。十二月,魏大將軍王昶圍南郡,荊州刺史王基攻西陵,遣將軍戴烈、陸凱往拒之,皆引還。(註64)是歲,神人授書,告以改年、立后。
10万の兵を送って、堂邑の涂塘で、北方の道路を防いだよ。十二月、魏の大将軍の王昶が南郡を包囲して、荊州刺史(州の長官)の王基が西陵を攻めたよ。将軍の戴烈と陸凱にこれを迎撃させたけど、どっちも撤退しちゃった。この年、神みたいな人から書を授かって、新しい年号と皇后を立てることを告げられたよ。
庾闡揚都賦注曰:烽火以炬置孤山頭,皆緣江相望,或百里,或五十、三十里,寇至則舉以相告,一夕可行萬里。孫權時合暮舉火於西陵,鼓三竟,達吳郡南沙。
庾闡の『揚都賦』の注によると、烽火(信号の火)を孤山の頂上に置いて、長江に沿ってお互いに対決したよ。距離は100里、50里、30里など様々で、敵が来たらこれを掲げてお互いに知らせ合うんだ。一晩で万里もの距離を伝えられるよ。孫権の時代、西陵で火を掲げて、3度鼓を打って、その信号は南沙まで伝わったんだって。
諸葛恪に託す
太元元年夏五月,立皇后潘氏,大赦,改年。初臨海羅陽縣有神,自稱王表。(註65)周旋民閒,語言飲食與人無異,然不見其形。又有一婢,名紡績。是月,遣中書郎李崇齎輔國將軍羅陽王印綬迎表。表隨崇俱出,與崇及所在郡守令長談論,崇等無以易。所歷山川,輒遣婢與其神相聞。
太元元年(251年)、夏の五月、皇后に潘氏が立てられて、大赦が行われて、新しい元号が制定されたよ。
前に、臨海郡羅陽県に神が現れて、自分を王表と名乗ったよ。この神は民の間を行き来して、話や食事をする姿は人と変わらなかったけど、姿を見せることはなかったんだって。それに、ひとりの侍女がいて、名は紡績だよ。この月、中書郎の李崇が輔国将軍と羅陽王の印綬を持って、王表を迎えに行ったよ。王表は李崇と一緒に現れて、李崇とその地の太守、令や長たちと話し合ったけど、李崇たちは王表を説得できなかったんだ。王表が通った山や川では、侍女がその神の言葉を聞いたよ。
吳錄曰:羅陽今安固縣。
『呉録』によると、羅陽は今の安固県だよ。
秋七月,崇與表至,權於蒼龍門外為立第舍,數使近臣齎酒食往。表說水旱小事,往往有驗。(註66)秋八月朔,大風,江海涌溢,平地深八尺,吳高陵松柏斯拔,郡城南門飛落。冬十一月,大赦。權祭南郊還,寢疾。(註67)十二月,驛徵大將軍恪,拜為太子太傅。詔省徭役,減征賦,除民所患苦。
秋の七月、李崇と王表が着いて、孫権は蒼龍門の外に宿舎を建てて、何度も側近に酒や食事を運ばせたよ。王表が語る水害や干ばつなどの予言は、たくさん的中したんだって。
秋の八月の初め、大風が吹いて、長江や海が荒れて水があふれて、平地でも水が深さ8尺に達したんだ。呉の高陵(孫堅の墓)では松や柏が倒れて、郡の城の南門も飛ばされちゃった。冬の十一月、大赦が行われて、孫権は南郊で祭祀をした後に病気になっちゃった。十二月、大将軍の諸葛恪を急報で呼び出して、太子太傅(太子の教育係)に任命したよ。そして、詔によって労役を減らして、税を減らして、民の苦しみを除く処置をしたよ。
孫盛曰:盛聞國將興,聽於民;國將亡,聽於神。權年老志衰,讒臣在側,廢適立庶,以妾為妻,可謂多涼德矣。而偽設符命,求福妖邪,將亡之兆,不亦顯乎!
孫盛によると、国が栄える時は、民の声を聞いて、国が衰える時は、神の声を聞くんだって。孫権は年をとってから、志が衰えて、悪口を言う人のそばにいて、正妻を捨てて、庶子を太子に立てて、側室を妻として、徳の少ない行いをしたよ。うそのお告げを使って、邪悪な幸せを求めることは、国が滅びる前兆なのかも!
吳錄曰:權得風疾。
『呉録』によると、孫権は風疾になったんだ。
現代で言う脳卒中かな?
孫権の死
二年春正月,立故太子和為南陽王,居長沙;子奮為齊王,居武昌;子休為琅邪王,居虎林。二月,大赦,改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福,表亡去。夏四月,權薨,時年七十一,謚曰大皇帝。秋七月,葬蔣陵。(註68)
太元2年(252年)、春の正月、太子だった孫和を南陽王に立てて、長沙に住まわせたよ。そして、子の孫奮を斉王にして、武昌に住まわせたよ。子の孫休を琅邪王にして、虎林に住まわせたよ。二月、大赦が行われて、元号を「神鳳」に改めたよ。皇后の潘氏が亡くなったんだ。将や役人たちが王表を訪ねて幸福を願ったけど、王表は去ってしまったんだ。
夏の四月、孫権が亡くなって、この時71歳で、諡は「大皇帝」だよ。秋の七月、葬儀が蒋陵で執り行われたよ。
傅子曰:孫策為人明果獨斷,勇蓋天下,以父堅戰死,少而合其兵將以報讎,轉鬬千里,盡有江南之地,誅其名豪,威行鄰國。及權繼其業,有張子布以為腹心,有陸議、諸葛瑾、步隲以為股肱,有呂範、朱然以為爪牙,分任受職,乘閒伺隙,兵不妄動,故戰少敗而江南安。
傅子によると、孫策は賢くて勇敢な性格で、その武勇は天下を覆いつくすほどだったよ。父の孫堅が亡くなった後、若い頃から復讐のために軍をまとめて、千里にわたって戦って、江南の地をほぼ制圧したよ。そして、豪族たちを打ち破って、周りの国からも恐れられたんだ。後に、孫権が彼の後を継ぐと、彼には張昭が腹心(信頼できる相談相手)として、陸遜や諸葛瑾、歩騭が股肱(君主を支える臣下)として、呂蒙や朱然が爪牙(君主の命令に従って戦う武将)として手助けをしたよ。彼らはそれぞれの役割を持っていて、機を見て戦略を立てて隙を突いて、兵を無闇に動かさないで、だから戦いが少なくても江南は安定したの。
陳寿の評価
評曰:孫權屈身忍辱,任才尚計,有句踐之奇英,人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。然性多嫌忌,果於殺戮,曁臻末年,彌以滋甚。至于讒說殄行,胤嗣廢斃,(註69)豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉?其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。(註70)
評すると、孫権は身を屈して屈辱に耐えて、優れた才能を大切にして計略を使って、句踐みたいな傑出した英雄で、人並み外れた存在だよ。だから、彼は江表を自分たちの領土として、鼎立する偉業を成し遂げたよ。でも、彼は疑い深い性格で、結果として殺戮が起きて、晩年にはますます悪化していったんだ。悪い言葉によって、後継者は次々と廃位されたんだ。これは、どうして後の世に繁栄をもたらして子孫に安泰を残すと言えるの? その後、後に葉(子孫)が衰えて、結果として国を滅ぼすことになったけど、それもまた彼の行為が原因のひとつだったのではないかな。
『詩経』「大雅」の「詒厥孫謀、以燕翼子。」から。
馬融注尚書曰:殄,絕也,絕君子之行。
『尚書』の馬融の注によると、「殄」とは、絶つことで、君子の行いを絶つことを指しているよ。
臣松之以為孫權橫廢無罪之子,雖為兆亂,然國之傾覆,自由暴皓。若權不廢和,皓為世適,終至滅亡,有何異哉?此則喪國由於昏虐,不在於廢黜也。設使亮保國祚,休不早死,則皓不得立。皓不得立,則吳不亡矣。
裴松之の見解によると、孫権が無実の子を無理に廃位したことは確かに乱の兆しを生んだけど、国が傾いて滅びたのは孫晧の暴虐によるものだよ。もし孫権が孫和を廃位しなくても、孫晧が後継者になっていたら、最終的には国が滅ぶことに変わりはなかっただろうね。このように、国を滅ぼした原因は孫権の無道な行いにあって、廃位によるものではないと考えられるよ。もし孫亮が国を守って、孫休が早死しなかったら、孫晧は立つことはなかっただろうね。孫晧立たなければ、呉も滅びなかったと思うよ。
呉主伝は以上だよ!