正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その1

正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「呉主伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そん)(けん) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

呉主伝は長いから記事を分けたよ。この記事は、九錫を賜るまでだよ。

出典

三國志 : 吳書二 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

孫権はどんな人?

本文

孫權字仲謀。兄策旣定諸郡,時權年十五,以為陽羨長。(註1)

(そん)(けん)は、(あざな)(ちゅう)(ぼう)だよ。兄の(そん)(さく)はたくさんの郡を制圧したけど、その時、(そん)(けん)はまだ15歳で、(よう)(せん)(ちょう)を任されたよ。

(註1)

江表傳曰:堅為下邳丞時,權生,方頤大口,目有精光,堅異之,以為有貴象。及堅亡,策起事江東,權常隨從。性度弘朗,仁而多斷,好俠養士,始有知名,侔於父兄矣。每參同計謀,策甚奇之,自以為不及也。每請會賔客,常顧權曰:「此諸君,汝之將也。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、父の(そん)(けん)()()(じょう)として仕えていた頃、(そん)(けん)は生まれたばかりで、あごが張って大きな口をして、目は輝いていたんだって。(そん)(けん)はこれを不思議に思って、将来有望だと考えたよ。
(そん)(けん)が亡くなった後、(そん)(さく)は江東で行動を始めて、(そん)(けん)はいつも彼に従っていたんだ。(そん)(けん)の性格は度量が広くて明るくて、思いやりがあって、決断力もあって、侠を愛して士人を育てていたよ。名が知られ始めた時から、名声が父や兄に並ぶ存在になったよ。彼はいつも計画に参加して、(そん)(さく)は彼に驚いて、自分ではかなわないと感じていたみたい。客を招いて宴会を開くと、いつも(そん)(さく)(そん)(けん)を振り返ってこう言っていたよ。
「この人が、あなたの将だよ」

本文

郡察孝廉,州舉茂才,行奉義校尉。漢以策遠脩職貢,遣使者劉琬加錫命。琬語人曰:「吾觀孫氏兄弟雖各才秀明達,然皆祿祚不終,惟中弟孝廉,形貌奇偉,骨體不恒,有大貴之表,年又最壽,爾試識之。」

郡は(そん)(けん)を孝廉に推挙して、州は茂才に推挙して、(そん)(けん)(ほう)()(こう)()を代行したよ。(かん)の王朝は、(そん)(さく)が遠くにいるのに貢物をしたから、その功績によって、使者として(りゅう)(えん)を送って、褒美を与えたよ。(りゅう)(えん)は人々にこう言ったよ。
「私は(そん)()の兄弟を見てきたよ。それぞれ優れた才能を持っていて、明晰だけど、みんな幸福が長くは続かないみたい。でも、次男の孝廉((そん)(けん))は容姿が異彩を放っていて、体格は普通ではないんだ。すごい貴人の風格があるように見えるし、寿命も最も長いと思うよ。みんな、彼を試してみるべきだよ」

本文

建安四年,從策征廬江太守劉勳。勳破,進討黃祖於沙羡。

(けん)(あん)4年(199年)、(そん)(さく)に従って()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(りゅう)(くん)を討ったよ。(りゅう)(くん)を破って、その後(こう)()()()で攻めたよ。

兄の後を継ぐ

本文

五年,策薨,以事授權,權哭未及息。策長史張昭謂權曰:「孝廉,此寧哭時邪?且周公立法而伯禽不師,非欲違父,時不得行也。(註2)況今姦宄競逐,豺狼滿道,乃欲哀親戚,顧禮制,是猶開門而揖盜,未可以為仁也。」

建安5年(200年)、(そん)(さく)が亡くなって、事を(そん)(けん)に引き継いだよ。(そん)(けん)は泣き止む間もなく涙を流していたんだ。すると、(そん)(さく)(ちょう)()(ちょう)(しょう)(そん)(けん)にこう言ったよ。
「孝廉((そん)(けん))よ、この時に泣いている場合かな? (しゅう)(こう)(たん)は法を定めたけど、(はく)(きん)(しゅう)(こう)(たん)の子)がそれに従わなかったのは、これは父に逆らう意図ではなくて、時勢に従った行動だったんだ。今、悪い人たちが競い合って、残酷な人たちが道にあふれているよ。親族を悼むことや礼ばかりを気にしているのは、まるで門を開いて盗人を迎え入れるようなものだから、仁の行いとは言えないよ」

(註2)

臣松之桉禮記曾子問曰:「子夏三年之喪,金革之事無避也者,禮與?初有司與?」孔子曰:「吾聞諸老聃曰,昔者魯公伯禽有為為之也。」

(はい)(しょう)()が調べたところ、『(らい)()』で(そう)()は質問したよ。
()()が三年の喪に服している時、戦いのことを避けなかったのは、礼に適っているの? 最初から役人がそれを行うべきだったの?」
(こう)()はこう答えたよ。
「私は(ろう)(たん)から聞いたことがあるよ。昔、()の公の(はく)(きん)がそのようにしたことがあるんだって」

(註2)

鄭玄注曰:「周人卒哭而致事。時有徐戎作難,伯禽卒哭而征之,急王事也。」昭所云「伯禽不師」,蓋謂此也。

(じょう)(げん)の注によると、「周の人たちは喪にも関わらず大事に尽くすよ。(じょ)()(じょ)州あたりに住む民族)が乱を起こした時、(はく)(きん)は喪にも関わらずこれを征伐したよ。それは王の急務だったんだ」とあるよ。
(ちょう)(しょう)が言う「伯禽不師」とは、おそらくこれを指しているんだと思うよ。

本文

乃改易權服,扶令上馬,使出巡軍。是時惟有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵,然深險之地猶未盡從,而天下英豪布在州郡,賔旅寄寓之士以安危去就為意,未有君臣之固。

そして、(ちょう)(しょう)(そん)(けん)の服を喪服から変えさせて、彼を馬に乗せて、軍を出して巡回させたよ。この時、(かい)(けい)()郡、(たん)(よう)()(しょう)()(りょう)の地域があるだけで、もっと深くの地はまだ完全に従っていなくて、天下の英雄たちは州や郡に広がっていたんだ。客や旅行者たちは安定や行く末について心配していて、主君と臣下の主従関係がしっかりしているわけではなかったんだ。

本文

張昭、周瑜等謂權可與共成大業,故委心而服事焉。曹公表權為討虜將軍,領會稽太守,屯吳,使丞之郡行文書事。待張昭以師傅之禮,而周瑜、程普、呂範等為將率。招延俊秀,聘求名士,魯肅、諸葛瑾等始為賔客。分部諸將,鎮撫山越,討不從命。(註3)

(ちょう)(しょう)(しゅう)()たちは(そん)(けん)と一緒に大業を達成できると考えて、心を託して仕えたよ。(そう)(そう)(そん)(けん)(とう)(りょ)(しょう)(ぐん)にして、(かい)(けい)(たい)(しゅ)(郡の長官)にも任命したよ。(そん)(けん)()郡にとどまって、(じょう)にその地域の郡の文書業務をさせたよ。(ちょう)(しょう)を師として尊重して、(しゅう)()(てい)()(りょ)(はん)たちを将として任命したよ。優れた人たちを招き入れて、名の知られた士人を丁重にもてなして、()(しゅく)(しょ)(かつ)(きん)たちが客として参加したよ。それぞれの将を配下に置いて、(さん)(えつ)(異民族)を安定させて、命令に従わない人たちを討伐したよ。

(註3)

江表傳曰:初策表用李術為廬江太守,策亡之後,不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有德見歸,無德見叛,不應復還。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、前に、(そん)(さく)()(じゅつ)()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命したよ。でも、(そん)(さく)が亡くなった後、()(じゅつ)(そん)(けん)に仕えることを拒んで、たくさんの亡命者や反逆者を受け入れたの。(そん)(けん)は手紙を送って彼を呼び戻すように求めたけど、()(じゅつ)は返事をしてこう答えたよ。
「徳があれば従うし、徳がないなら逆らうんだ。私は従わないよ」

(註3)

權大怒,乃以狀白曹公曰:「嚴刺史昔為公所用,又是州舉將,而李術凶惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲醜類。今欲討之,進為國朝掃除鯨鯢,退為舉將報塞怨讎,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,復詭說求救。明公所居,阿衡之任,海內所瞻,願勑執事,勿復聽受。」

(そん)(けん)はすごく怒って、その事情を曹操に訴えたよ。
「厳刺史((げん)(しょう))は前にあなたが任命した者で、州が推薦した将でもあるよ。でも、()(じゅつ)はとても残酷で悪い人で、(かん)の制度を無視して州の役人をひどく扱って、道に背いたことをしているんだ。早く彼を処罰して、悪い人たちを懲らしめるべきだよ。今、彼を討つことは、進んで国のために悪党を掃討して、退いて州の将として恨みを晴らすことになるよ。これは天下における正義で、誰もが喜んで望むところなんだ。()(じゅつ)は必ず処罰を怖がって、言い訳をして助けを求めるだろうね。あなたは高い地位にあって国の重任を担っていて、国内の人たちはあなたを尊敬しているよ。どうか部下に厳しく命令して、そのような偽りの言葉に耳を貸さないようにしてね」

(註3)

是歲舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而吞之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。

この年、(そん)(けん)は軍を挙げて()(じゅつ)(かん)(じょう)で攻撃したよ。()(じゅつ)は門を閉ざして自衛して、(そう)(そう)に助けを求めたけど、(そう)(そう)は援軍を送らなかったよ。食糧が尽きて、女性たちは時には泥を丸めて飲み込むほどだったんだ。こうして、(かん)(じょう)を攻めて滅ぼして、()(じゅつ)の首をさらして、彼の部下3万人以上を移住させたよ。

周りの人たちが亡くなる

本文

七年,權母吳氏薨。

建安7年(202年)、(そん)(けん)の母である()()が亡くなったよ。

本文

八年,權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇復動。還過豫章,使呂範平鄱陽、會稽,程普討樂安,太史慈領海昏,韓當、周泰、呂蒙等為劇縣令長。

建安8年(203年)、(そん)(けん)(こう)()を攻撃して、(こう)()の舟軍を破ったよ。でも、城がまだ陥落していないうちに、山賊がふたたび活動し始めたんだ。()(しょう)に引き返して、(りょ)(はん)()(よう)(かい)(けい)を平定させて、(てい)()には(らく)(あん)を攻撃させたよ。(たい)()()には(かい)(こん)を管理させて、(かん)(とう)(しゅう)(たい)(りょ)(もう)たちを安定していない県の(れい)(ちょう)に任命したよ。

本文

九年,權弟丹楊太守翊為左右所害,以從兄瑜代翊。(註4)

建安9年(204年)、(そん)(けん)の弟で(たん)(よう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(そん)(よく)は、周りの人たちに殺されちゃったの。だから、従兄の(そん)()(そん)(よく)の地位を引き継いだよ。

(註4)

吳錄曰:是時權大會官僚,沈友有所是非,令人扶出,謂曰:「人言卿欲反。」友知不得脫,乃曰:「主上在許,有無君之心者,可謂非反乎?」遂殺之。

()(ろく)』によると、この時、(そん)(けん)は官僚を集めて大きな会議を開いたよ。(しん)(ゆう)が何かを主張すると、人々は彼を連れ出してこう伝えたよ。
「人々はあなたが反乱を企んでいると言っているんだ」
(しん)(ゆう)は自分が逃げられないと理解して、こう言ったよ。
「天子が(きょ)にいるのに、心から忠誠を持っていない者は、反逆者ではないとは言えないの?」
そして、(しん)(ゆう)は殺されたんだ。

(註4)

友字子正,吳郡人。年十一,華歆行風俗,見而異之,因呼曰:「沈郎,可登車語乎?」友逡巡却曰:「君子講好,會宴以禮,今仁義陵遲,聖道漸壞,先生銜命,將以裨補先王之教,整齊風俗,而輕脫威儀,猶負薪救火,無乃更崇其熾乎!」歆慙曰:「自桓、靈以來,雖多英彥,未有幼童若此者。」弱冠博學,多所貫綜,善屬文辭。兼好武事,注孫子兵法。

(しん)(ゆう)は、(あざな)()(せい)で、()郡の出身だよ。11歳の時、()(きん)が風習を巡視する中で、彼の非凡さを見て驚いて声をかけたよ。
「沈郎((しん)(ゆう))、車に乗って話をしようよ?」
(しん)(ゆう)はためらいながら後ずさりして、こう言ったよ。
「君子たちは礼をもって和を話して、礼宴を開くときも礼を守るよ。でも、今では仁義がおろそかにされていて、聖なる教えが次第に乱れていっているんだ。先生は命を受けて、先王の教えを補って、風紀を整えることを目指しているけど、もし軽率に礼を欠いてしまったら、薪を背負って火を消そうとするようなもので、かえって火の勢いを増すことになるのではないかな」
()(きん)は恥じ入ってこう言ったよ。
(かん)(てい)(れい)(てい)の時代から、たくさんの英雄がいたけど、幼い子供の中には、このように優れた者はいなかったよ」
(しん)(ゆう)は成人するまでに広く学んで、たくさんのことを理解して、文章を書くことが得意だったよ。それに、武術にも興味があって、『孫子兵法』にも注釈をつけたよ。

(註4)

又辯於口,每所至,衆人皆默然,莫與為對,咸言其筆之妙,舌之妙,刀之妙,三者皆過絕於人。權以禮聘,旣至,論王霸之略,當時之務,權斂容敬焉。陳荊州宜并之計,納之。正色立朝,清議峻厲,為庸臣所譖,誣以謀反。權亦以終不為己用,故害之,時年二十九。

(しん)(ゆう)は口が達者で、彼の議論する人はみんな黙り込んで、誰も彼に対抗できなかったよ。彼の筆、舌、そして剣の巧みさは、どれも人々を驚かせるほど優れていたんだ。(そん)(けん)は礼を尽くして彼を招いて、彼が着いた後、王道と覇道の戦略を論じて、当時の国の任務について話して、(そん)(けん)は彼の言葉を真摯に受け止めたよ。(けい)州を取るための提案についても受け入れたんだ。彼は厳格な態度で議論をしたよ。でも、役に立たない者たちによって中傷されて、反逆の陰謀をでっち上げられて、(そん)(けん)もまた彼を使わなくなって、最終的に彼を処刑しちゃった。当時、彼は29歳だったよ。

本文

十年,權使賀齊討上饒,分為建平縣。

建安10年(205年)、(そん)(けん)()(せい)(じょう)(じょう)を討たせて、(けん)(ぺい)県を立てたよ。

仇を討って赤壁へ

本文

十二年,西征黃祖,虜其人民而還。

建安12年(207年)、(そん)(けん)(こう)()を征伐して、その民を捕らえて連れ帰ったよ。

本文

十三年春,權復征黃祖,祖先遣舟兵拒軍,都尉呂蒙破其前鋒,而淩統、董襲等盡銳攻之,遂屠其城。祖挺身亡走,騎士馮則追梟其首,虜其男女數萬口。

建安13年(208年)、春、(そん)(けん)はふたたび(こう)()を攻撃して、(こう)()は舟軍を送って抵抗したけど、()()(りょ)(もう)が敵の前衛部隊を破って、その後は(りょう)(とう)(とう)(しゅう)たちが総力を挙げて攻め立てて、こうしてその城を攻めて滅ぼしたよ。(こう)()は逃げたけど、騎兵の(ふう)(そく)が追いかけて、彼の首を斬ってさらして、男女数万人を捕虜にしたよ。

本文

是歲,使賀齊討黟、歙,(註5)分歙為始新、新定、(註6)犂陽、休陽縣,(註7)以六縣為新都郡。荊州牧劉表死,魯肅乞奉命弔表二子,且以觀變。肅未到,而曹公已臨其境,表子琮舉衆以降。

この年、(そん)(けん)()(せい)()(しょう)を討たせて、(しょう)()(しん)(しん)(てい)(れい)(よう)(きゅう)(よう)の4つの県に分けて、これら6つの県を(しん)()郡としたよ。
(けい)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(ひょう)が亡くなると、()(しゅく)は命令に従って(りゅう)(ひょう)の2人の子に弔問に行って、同時に情勢を観察したよ。()(しゅく)が着く前に、(そう)(そう)がすでにその境に侵攻していて、(りゅう)(ひょう)の子である(りゅう)(そう)は大勢を率いて(そう)(そう)に降伏しちゃった。

(註5)

黟音伊。歙音攝。

「黟」の発音は「伊」だよ。「歙」の発音は「攝」だよ。

(註6)

吳錄曰:晉改新定為遂安。

()(ろく)』によると、(しん)(しん)(てい)を「(すい)(あん)」に改称したんだって。

(註7)

吳錄曰:晉改休陽為海寧。

()(ろく)』によると、(しん)(きゅう)(よう)を「(かい)(ねい)」に改称したんだって。

本文

劉備欲南濟江,肅與相見,因傳權旨,為陳成敗。備進住夏口,使諸葛亮詣權,權遣周瑜、程普等行。是時曹公新得表衆,形勢甚盛,諸議者皆望風畏懼,多勸權迎之。(註8)

(りゅう)()は長江を南へ渡ることを望んでいたよ。()(しゅく)は彼と面会して、(そん)(けん)の意向を伝えて、その成功と失敗を説明したよ。(りゅう)()()(こう)に進んで、(しょ)(かつ)(りょう)(そん)(けん)のもとに送って、(そん)(けん)(しゅう)()(てい)()たちを送ったよ。この時、(そう)(そう)(りゅう)(ひょう)の勢力を新たに手に入れていて、その勢力はとても強力だったから、議論する人たちは恐れを抱いて、(そん)(けん)(そう)(そう)を迎えるように勧めていたんだ。

本文

江表傳載曹公與權書曰:「近者奉辭伐罪,旄麾南指,劉琮束手。今治水軍八十萬衆,方與將軍會獵於吳。」權得書以示羣臣,莫不嚮震失色。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そう)(そう)(そん)(けん)の間でやりとりされた手紙には、こう書かれているよ。
「皇帝の命令を受けて罪のある人を討っていて、旗を南に向けているの。(りゅう)(そう)とは手を結んだよ。今、私は80万の水軍を指揮して、これから将軍((そん)(けん))と一緒に()で狩りを楽しむ予定!」
(そん)(けん)がこの手紙を臣下に示したら、誰もがびっくりして、色を失っちゃった。

本文

惟瑜、肅執拒之議,意與權同。瑜、普為左右督,各領萬人,與備俱進,遇於赤壁,大破曹公軍。公燒其餘船引退,士卒饑疫,死者大半。

(しゅう)()()(しゅく)だけは対抗する提案をして、意見を(そん)(けん)と合わせたよ。(しゅう)()(てい)()を左右の督に任命して、それぞれ1万人を率いて、(りゅう)()と一緒に進軍したよ。そして、(せき)(へき)で会って集まったよ。そして、(そう)(そう)の軍を打ち負かしたの。(そう)(そう)は残りの船を焼いて撤退したんだ。彼の兵たちは飢えや疫病に苦しんで、たくさんの死者が出たんだって。

本文

備、瑜等復追至南郡,曹公遂北還,留曹仁、徐晃於江陵,使樂進守襄陽。時甘寧在夷陵,為仁黨所圍,用呂蒙計,留凌統以拒仁,以其半救寧,軍以勝反。

(りゅう)()(しゅう)()たちは一緒に(なん)郡まで追撃して、(そう)(そう)は北に退却したよ。(そう)(そう)(こう)(りょう)には(そう)(じん)(じょ)(こう)を残して、(じょう)(よう)(がく)(しん)に守らせたよ。この時、(かん)(ねい)()(りょう)にいて、(そう)(じん)の仲間たちに包囲されていたよ。(りょ)(もう)の計略を使って、(りょう)(とう)()(りょう)に留めて(そう)(じん)に対抗させて、その半数の兵力で(かん)(ねい)を助けて、勝利したよ。

本文

權自率衆圍合肥,使張昭攻九江之當塗。昭兵不利,權攻城踰月不能下。曹公自荊州還,遣張喜將騎赴合肥。未至,權退。

(そん)(けん)は自分で兵を率いて(がっ)()を包囲して、(ちょう)(しょう)を送って(きゅう)(こう)(とう)()を攻撃したよ。でも、(ちょう)(しょう)の軍は不利で、(そん)(けん)も城攻めに1ヶ月以上費やしたけど成功しなかったんだ。その間、(そう)(そう)(けい)州から帰って、(ちょう)()に騎兵を率いて(がっ)()に向かわせたけど、着く前に(そん)(けん)は撤退したよ。

荊州での戦い

本文

十四年,瑜、仁相守歲餘,所殺傷甚衆。仁委城走。權以瑜為南郡太守。劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。備領荊州牧,屯公安。

建安14年(209年)、(しゅう)()(そう)(じん)はお互いに1年以上も守りを固めて、たくさんの死傷者を出したんだ。(そう)(じん)は城を捨てて逃げたよ。
(そん)(けん)(しゅう)()(なん)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命したよ。(りゅう)()が上表して、(そん)(けん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命されて(じょ)(しゅう)(ぼく)も兼任したよ。それに、(りゅう)()(けい)(しゅう)(ぼく)に任命されて、(こう)(あん)に駐屯したよ。

本文

十五年,分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡,以魯肅為太守,屯陸口。

建安15年(210年)、()(しょう)を分けて()(よう)郡に、(ちょう)()を分けて(かん)(しょう)郡にしたよ。()(しゅく)(かん)(しょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命して、(りく)(こう)に駐屯させたよ。

本文

十六年,權徙治秣陵。明年,城石頭,改秣陵為建業。聞曹公將來侵,作濡須塢。

建安16年(211年)、(そん)(けん)は政務の場所を(まつ)(りょう)に移したよ。翌年、(せき)(とう)(じょう)を築いて、(まつ)(りょう)を「(けん)(ぎょう)」に改称したよ。(そう)(そう)が侵攻してくると聞いて、(じゅ)(しゅ)()(砦)を築いたよ。

(せき)(とう)(じょう)は、現在も南京に残っているよ。

濡須口の戦い

本文

十八年正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。(註9)(註10)

建安18年(213年)、正月、(そう)(そう)(じゅ)(しゅ)を攻めたよ。(そん)(けん)の軍と1ヶ月以上、向かい合って戦ったよ。(そう)(そう)(そん)(けん)の軍の整った様子に感心して、撤退したよ。

(註9)

吳歷曰:曹公出濡須,作油船,夜渡洲上。權以水軍圍取,得三千餘人,其沒溺者亦數千人。權數挑戰,公堅守不出。權乃自來,乘輕船,從灞須口入公軍。諸將皆以為是挑戰者,欲擊之。公曰:「此必孫權欲身見吾軍部伍也。」

()(れき)』によると、(そう)(そう)(じゅ)(しゅ)を出て、油船を作って、夜に洲を渡らせたよ。(そん)(けん)は水軍を使って包囲して、3,000人以上を捕らえて、溺れ死んだ人も数千人いたんだ。(そん)(けん)は何度も挑んだけど、(そう)(そう)は堅く守って、出てこなかったよ。そこで、(そん)(けん)は自ら出向いて、軽船に乗って、(じゅ)(しゅ)(こう)から曹操の軍に入ったよ。将たちはこれを挑戦と見て攻撃しようとしたけど、(そう)(そう)はこう言ったよ。
「これは間違いなく、(そん)(けん)が私の軍の部隊を見ようとしているんだ」

(註9)

勑軍中皆精嚴,弓弩不得妄發。權行五六里,迴還作鼓吹。公見舟船器仗軍伍整肅,喟然歎曰:「生子當如孫仲謀,劉景升兒子若豚犬耳!」權為牋與曹公,說:「春水方生,公宜速去。」別紙言:「足下不死,孤不得安。」曹公語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。

軍のみんなに厳しく命令して、弓矢を乱射させなかったよ。(そん)(けん)は5、6里進んだ後、引き返して鼓を鳴らしたよ。(そう)(そう)は船や兵器、軍の整った姿を見て、ため息をつきながらこう言ったよ。
「人の子は(そん)(ちゅう)(ぼう)(そん)(けん))みたいになるべきだよ。(りゅう)(けい)(しょう)(りゅう)(ひょう))の子なんかは豚や犬みたいだな!」
(そん)(けん)(そう)(そう)に手紙を送ってこう伝えたよ。
「春の水が生まれたばかりだから(川の水が増えるから)、すぐに去るべきだよ」
さらに、別の手紙にはこう書かれていたよ。
「あなたが死なないと、私は安心できないの」
(そう)(そう)は将たちにこう言ったよ。
(そん)(けん)は私を欺いていないよ」
そして、軍を引き返したんだ。

(註10)

魏略曰:權乘大船來觀軍,公使弓弩亂發,箭著其船,船偏重將覆,權因迴船,復以一面受箭,箭均船平,乃還。

()(りゃく)』によると、(そん)(けん)が大きな船に乗って軍を見物に来ると、(そう)(そう)は弓矢を乱射させたよ。矢が彼の船に命中して、船が傾いて転覆しそうになっちゃった。そこで(そん)(けん)は船を引き返して、また一面で矢を受けたよ。矢が船に均等に当たって船が平衡を取り戻して、やっと引き返したよ。

(さん)(ごく)()(えん)()』の「(そう)(せん)(しゃく)(せん)」の元ネタだね。『(さん)(ごく)()(えん)()』では(しょ)(かつ)(りょう)さんの手柄になっちゃってるけどね。

本文

初,曹公恐江濵郡縣為權所略,徵令內移。民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵戶十餘萬皆東渡江,江西遂虛,合肥以南惟有皖城。

前に、(そう)(そう)は長江沿いの郡や県が(そん)(けん)に略奪されることを恐れて、民に内陸への移住を命令したよ。民は驚いて、()(こう)(きゅう)(こう)()(しゅん)(こう)(りょう)の数十万戸がみんな長江の東に渡ったよ。長江の西は誰もいなくなって、(がっ)()より南は(かん)(じょう)しか残らなかったんだって。

合肥の戦い

本文

十九年五月,權征皖城。閏月,克之,獲廬江太守朱光及參軍董和,男女數萬口。是歲劉備定蜀。權以備已得益州,令諸葛瑾從求荊州諸郡。備不許,曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州與吳耳。」

建安19年(214年)、五月、(そん)(けん)(かん)(じょう)を攻めたよ。閏月、(かん)(じょう)を征服したよ。()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(しゅ)(こう)(さん)(ぐん)(とう)()を捕らえて、数万人の男女を捕らえたよ。
この年、(りゅう)()(しょく)を制圧したよ。(そん)(けん)(りゅう)()(えき)州を手に入れたことを知って、(しょ)(かつ)(きん)を送って(けい)州の郡を求めたよ。でも、(りゅう)()はこれを許さなくて、こう言ったよ。
「私は今、(りょう)州を狙っていて、(りょう)州を手に入れた後で、(けい)州を()に譲るね」

本文

權曰:「此假而不反,而欲以虛辭引歲。」遂置南三郡長吏,關羽盡逐之。權大怒,乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡,使魯肅以萬人屯巴丘(註11)以禦關羽。權住陸口,為諸軍節度。

(そん)(けん)はこう言ったよ。
「これは偽りで、裏切りではないけど、言い訳を使って時間を引き延ばそうとしているんだ」
そして、南の3つの郡に(ちょう)()(行政官)を任命したけど、(かん)()に完全に追い返されちゃった。(そん)(けん)はすごく怒って、(りょ)(もう)(せん)()(たん)(じょ)(ちゅう)(そん)()たち2万の兵を率いて(ちょう)()(れい)(りょう)桂陽(けいよう)の3つの郡を取らせたよ。()(しゅく)には1万の兵を率いて()(きゅう)に駐屯させて、(かん)()に備えたよ。(そん)(けん)自身は(りく)(こう)に滞在して、全軍の指揮を執ったよ。

(註11)

巴丘今曰巴陵。

()(きゅう)は今の()(りょう)だよ。

本文

蒙到,二郡皆服,惟零陵太守郝普未下。會備到公安,使關羽將三萬兵至益陽,權乃召蒙等使還助肅。蒙使人誘普,普降,盡得三郡將守,因引軍還,與孫皎、潘璋并魯肅兵並進,拒羽於益陽。

(りょ)(もう)が着くと、(ちょう)()(けい)(よう)の2つの郡は降伏したけど、(れい)(りょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(かく)()だけがまだ抵抗していたよ。その間に、(りゅう)()(こう)(あん)に着いて、(かん)()は3万の兵を率いて(えき)(よう)に着いたよ。(そん)(けん)はそれを知って、(りょ)(もう)たちを呼び戻して()(しゅく)を支援させようとしたよ。(りょ)(もう)は使者を送って(かく)()を誘って降伏させて、3つの郡の守将をすべて捕らえたよ。軍を引き上げて(そん)(こう)(はん)(しょう)()(しゅく)の軍と合流して、(えき)(よう)(かん)()に対抗したよ。

本文

未戰,會曹公入漢中,備懼失益州,使使求和。權令諸葛瑾報,更尋盟好,遂分荊州長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備。備歸,而曹公已還。

戦いが始まる前に、(そう)(そう)(かん)(ちゅう)に入るという情報が伝わったから、(りゅう)()(えき)州を失うことを恐れて使者を送って和平を求めたよ。(そん)(けん)諸葛瑾(しょかつきん)に報告させて、同盟をふたたび求めたよ。こうして、(けい)州の(ちょう)()(こう)()(けい)(よう)より東は(そん)(けん)に属して、(なん)郡、(れい)(りょう)()(りょう)より西は(りゅう)()に属することになったよ。(りゅう)()(えき)州に帰ると、(そう)(そう)はすでに撤退していたんだって。

本文

權反自陸口,遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與凌統、甘寧等在津北為魏將張遼所襲,統等以死扞權,權乘駿馬越津橋得去。(註12)(註13)

(そん)(けん)(りく)(こう)に戻って、(がっ)()を征伐しようとしたけど、(がっ)()はまだ陥落していなくて、軍を撤退させたんだ。兵たちはみんな帰って、(そん)(けん)(りょう)(とう)(かん)(ねい)たちと一緒に渡し場の北にいるときに、()の将である(ちょう)(りょう)に襲撃されちゃった。(りょう)(とう)たちが身を挺して(そん)(けん)を守ったから、(そん)(けん)は駿馬に乗って渡し場の橋を渡って、逃れることができたんだ。

(註12)

獻帝春秋曰:張遼問吳降人:「向有紫髯將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人荅曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍歎恨。

(けん)(てい)(しゅん)(じゅう)』によると、(ちょう)(りょう)()の降伏した人にこう尋ねたよ。
「前に、紫色のひげの将軍がいて、上半身が長くて、下半身が短くて、馬を乗りこなして、射撃が巧みな人物は誰?」
降伏した人はこう答えたよ。
「それは(そん)(けん)だよ」
(ちょう)(りょう)(がく)(しん)が会って、その情報を早く知らなかったことについて話して、すぐに追いかけたけど、彼を捕らえることはできなかったよ。軍のみんなは、そのことを悔しがったの。

(註13)

江表傳曰:權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超渡。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直為親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)は駿馬に乗って、渡し場の橋に着いたよ。橋の南はすでに撤去されていて、1丈くらいの間隔に板がなかったんだ。(こく)()(そん)(けん)の馬の後ろに立って、(そん)(けん)が鞍を持って、(こく)()が後ろで鞭を使って馬の勢いを助けて、(そん)(けん)は川を渡ったよ。(そん)(けん)が難を逃れられたから、すぐに(こく)()()(てい)(こう)に封じたよ。(こく)()はもともとは側で給使する人で、近い監視役として任命されていたよ。彼は誠実で率直で、言葉が曲がったことを言わなかったんだ。(そん)(けん)は彼を愛して信頼したんだって。

本文

二十一年冬,曹公次于居巢,遂攻濡須。

建安21年(216年)、冬、(そう)(そう)(きょ)(そう)に着いて、その後、(じゅ)(しゅ)を攻撃したよ。

本文

二十二年春,權令都尉徐詳詣曹公請降,公報使脩好,誓重結婚。

建安22年(217年)、春、(そん)(けん)()()(じょ)(しょう)(そう)(そう)のもとへ降伏を請うように命令して、(そう)(そう)は使者を送って和睦して、婚姻の誓いを立てたよ。

本文

二十三年十月,權將如吳,親乘馬射虎於庱亭。(註14)馬為虎所傷,權投以雙戟,虎却廢,常從張世擊以戈,獲之。

建安23年(218年)、十月、(そん)(けん)()に向かう途中、自ら馬に乗って、(りょう)(てい)で虎を狩ったよ。馬は虎に傷つけられちゃったけど、(そん)(けん)は双戟を投げて、虎が後ずさりしたところを、いつも従っていた(ちょう)(せい)が戈で攻撃して捕らえたよ。

(註14)

庱音攄陵反。

「庱」の発音は、「攄」の子音に「陵」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。

関羽を討つ

本文

二十四年,關羽圍曹仁於襄陽,曹公遣左將軍于禁救之。會漢水暴起,羽以舟兵盡虜禁等步騎三萬送江陵,惟城未拔。權內憚羽,外欲以為己功,牋與曹公,乞以討羽自效。曹公且欲使羽與權相持以鬬之,驛傳權書,使曹仁以弩射示羽。羽猶豫不能去。

建安24年(219年)、(かん)()(じょう)(よう)(そう)(じん)を包囲したよ。(そう)(そう)()(しょう)(ぐん)()(きん)を送って救援させたよ。でも、漢水が氾濫して、(かん)()は舟軍を使って()(きん)たち3万人の歩兵と騎兵を(こう)(りょう)に送って、ただ城を落とすことはできなかったんだ。
(そん)(けん)(かん)()を心の中で恐れていたけど、外面上は自分が功績を挙げたいと思って、(そう)(そう)に手紙を送って、(かん)()を討つために自分が力を尽くしたいと願い出たよ。(そう)(そう)(かん)()(そん)(けん)をお互いに戦わせようとしたよ。使者が(そん)(けん)に手紙を届けて、(そう)(じん)に矢を射って手紙を(かん)()に示すように指示したよ。(かん)()はためらって動けなかったの。

本文

閏月,權征羽,先遣呂蒙襲公安,獲將軍士仁。蒙到南郡,南郡太守麋芳以城降。蒙據江陵,撫其老弱,釋于禁之囚。

閏月、(そん)(けん)(かん)()を討つために、先に(りょ)(もう)(こう)(あん)に送って襲撃して、将軍の()(じん)を捕らえたよ。(りょ)(もう)(なん)郡に着くと、(なん)(ぐん)(たい)(しゅ)(郡の長官)の()(ほう)が城を挙げて降伏したよ。(りょ)(もう)(こう)(りょう)を占拠して、老人や子供たちを慰めて、捕らえられていた()(きん)を釈放したよ。

本文

陸遜別取宜都,獲秭歸、枝江、夷道,還屯夷陵,守峽口以備蜀。關羽還當陽,西保麥城。權使誘之。羽偽降,立幡旗為象人於城上,因遁走,兵皆解散,尚十餘騎。權先使朱然、潘璋斷其徑路。

(りく)(そん)()()を別から攻めて、()()()(こう)()(どう)を手に入れて、その後、()(りょう)に帰って、三峡の出入り口を守って(しょく)に備えたよ。
一方、(かん)()(とう)(よう)に戻って、西の(ばく)(じょう)を守っていたよ。(そん)(けん)が降伏するように誘ったら(かん)()は偽って降伏して、城の上に旗と人形を立てて、そのまま逃げ出して、兵はみんな散って、十数騎だけが残ったよ。(そん)(けん)(しゅ)(ぜん)(はん)(しょう)に彼らの行く手を断たせたんだ。

本文

十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。是歲大疫,盡除荊州民租稅。曹公表權為驃騎將軍,假節、領荊州牧,封南昌侯。權遣校尉梁寓奉貢于漢,及令王惇市馬,又遣朱光等歸。(註15)

十二月、(はん)(しょう)()()である()(ちゅう)が、(かん)()とその子の(かん)(ぺい)()(とく)(ちょう)(るい)たちを(しょう)(きょう)で捕らえたよ。こうして、(けい)州を平定したよ。この年は病気が流行して、(けい)州の民からの税を免除したんだ。(そう)(そう)(そん)(けん)(ひょう)()(しょう)(ぐん)に任命して、(けい)(しゅう)(ぼく)として、(なん)(しょう)(こう)に封じたよ。(そん)(けん)(こう)()(りょう)(ぐう)を送って朝廷に貢物を捧げたよ。(おう)(とん)に馬を売買するように命令して、また(しゅ)(こう)たちを送り返させたんだよ。

(註15)

魏略曰:梁寓字孔儒,吳人也。權遣寓觀望曹公,曹公因以為掾,尋遣還南。

()(りゃく)』によると、(りょう)(ぐう)は、(あざな)(こう)(じゅ)で、()の出身だよ。(そん)(けん)(りょう)(ぐう)を送って(そう)(そう)を視察させたけど、(そう)(そう)は彼を(じょう)として受け入れて、その後すぐに彼を南に送り返したよ。

九錫を賜る

本文

二十五年春正月,曹公薨,太子丕代為丞相魏王,改年為延康。秋,魏將梅敷使張儉求見撫納。南陽陰、酇、筑陽、(註16)山都、中盧五縣民五千家來附。冬,魏嗣王稱尊號,改元為黃初。二年四月,劉備稱帝於蜀。(註17)

建安25年(220年)、春の正月、(そう)(そう)が亡くなって、太子の(そう)()(じょう)(しょう)として()(おう)に即位して、年号を建安から「(えん)(こう)」に改めたよ。秋には、()の将軍の(ばい)()が使者の(ちょう)(けん)を送って、受け入れを求めてきたよ。(なん)(よう)(いん)(さん)(ちく)(よう)(さん)()(ちゅう)()の5つの県から5,000家の民が降伏してきたよ。
冬に、(そう)()が皇帝になると、元号を「(こう)(しょ)」に改めたよ。
黄初2年(221年)、四月、(りゅう)()(しょく)で皇帝に即位したよ。

(註16)

筑音逐。

「筑」の発音は「逐」だよ。

(註17)

魏略曰:權聞魏文帝受禪而劉備稱帝,乃呼問知星者,己分野中星氣何如,遂有僭意。而以位次尚少,無以威衆,又欲先卑而後踞之,為卑則可以假寵,後踞則必致討,致討然後可以怒衆,衆怒然後可以自大,故深絕蜀而專事魏。

()(りゃく)』によると、(そん)(けん)は、(そう)()が禅譲を受けて、(りゅう)()が皇帝になったことを聞くと、占星術師に自分の星の位置や勢いがどのようなものかを尋ねて、そこから思いあがった考えが芽生えたよ。でも、自分の地位はまだ低くて、人々を威圧するには不十分だとわかっていたんだ。だからまずは謙虚にして、後に力を示そうと考えたんだ。謙虚に振る舞えば気に入られるし、後に力を示せば攻撃を受けて、攻撃を受けたら人々の怒りを買って、その怒りを利用して自分を大きくできると考えたんだって。だから、(そん)(けん)(しょく)との関係を断って、()に専念したよ。

本文

權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨六縣為武昌郡。五月,建業言甘露降。

(そん)(けん)(こう)(あん)から(がく)を都にして、その名を()(しょう)に改めて、()(しょう)()()(じん)(よう)(よう)(しん)(さい)(そう)()()の6つの県を()(しょう)郡としたよ。五月、(けん)(ぎょう)で甘露が降っていると伝えられたんだって。

本文

八月,城武昌,下令諸將曰:「夫存不忘亡,安必慮危,古之善教。昔儁不疑漢之名臣,於安平之世而刀劒不離於身,蓋君子之於武備,不可以已。況今處身疆畔,豺狼交接,而可輕忽不思變難哉?頃聞諸將出入,各尚謙約,不從人兵,甚非備慮愛身之謂。夫保己遺名,以安君親,孰與危辱?宜深警戒,務崇其大,副孤意焉。」

八月、()(しょう)に城壁を作って、将たちに命令してこう言ったよ。
「そもそも、存続しているときに滅亡を忘れないで、安泰であるときに危機を心配することは、昔からの大切な教えとされているんだよ。昔、(かん)の名臣である(しゅん)()()は、平穏な時代なのに、いつも刀剣を手放さなかったの。君子が武備を怠ることは許されないんだ。今、私たちは国境に身を置いて、外には敵が周囲にいるこの状況で、危機を軽んじて何も考えないわけにはいかないよね。最近、将たちが出入りする時、謙虚さや簡素さを重んじて、兵を従えないという話を耳にしたんだけど、それでは備えを怠っていて、身を守ることにはならないんだ。自らを守って、名誉を残して、君主や両親を安泰にすることと、危険にさらされて屈辱を受けることと、どちらが良いの? 注意深く行動して、大いなる目的を尊重して、私の期待に応えてね」

本文

自魏文帝踐阼,權使命稱藩,及遣于禁等還。十一月,策命權曰:「蓋聖王之法,以德設爵,以功制祿;勞大者祿厚,德盛者禮豐。故叔旦有夾輔之勳,太公有鷹揚之功,並啟土宇,并受備物,所以表章元功,殊異賢哲也。

(そう)()が皇帝に即位してから、(そん)(けん)は使者を送って、国を守る臣下を称して、()(きん)たちを帰らせたよ。十一月、(そう)()(そん)(けん)に命令してこう言ったよ。
「聖なる王の法では、徳によって爵位を授けて、功績によって報酬を与えるんだよ。功労が大きい者にはたくさんの報酬が与えられて、徳が高い者には良い待遇が与えられるよ。たとえば、(しゅう)(こう)(たん)は王を助けた功績があって、(たい)(こう)(りょ)(しょう))は敵を打ち払った功績があったから、それぞれ領地を開いて、豊かな物を受けたの。これは、その功績を示して、賢者を特別にたたえた例だよ。

本文

近漢高祖受命之初,分裂膏腴以王八姓,斯則前世之懿事,後王之元龜也。朕以不德,承運革命,君臨萬國,秉統天機,思齊先代,坐而待旦。惟君天資忠亮,命世作佐,深覩歷數,達見廢興,遠遣行人,浮于潛漢。(註18)

近い時代、(かん)(こう)()劉邦(りゅう\ほう))が天命を受けた(建国した)時には、豊かな土地を分け与えて8つの姓を王に封じたよ。これは前の時代の美しい出来事にならったことで、後の王たちの模範とすべき規範だよ。私は徳がないから、革命の運命を受けて、すべての国を統治して、天命を継いでいるけど、先代の君主たちにならおうと努めて、夜を徹して国家の未来を考えているよ。あなたは生まれ持った忠と賢明さがあって、世に仕える賢者で、歴史を深く理解して、王朝の盛衰を見極めているよね。あなたが送った使者が遠くから漢水を渡って来たよ。

(註18)

禹貢曰:沲、潛旣道,注曰:「水自江出為沲,漢為潛。」

(しょ)(きょう)』「()(こう)」によると、沲と潜はすでに開かれているよ。注によると「長江から出る水は沲、漢水は潜となる」とあるよ。

本文

望風影附,抗疏稱藩,兼納纖絺南方之貢,普遣諸將來還本朝,忠肅內發,款誠外昭,信著金石,義蓋山河,朕甚嘉焉。今封君為吳王,使使持節太常高平侯貞,授君璽綬策書、金虎符第一至第五、左竹使符第一至第十,以大將軍使持節督交州,領荊州牧事,錫君青土,苴以白茅,對揚朕命,以尹東夏。其上故驃騎將軍南昌侯印綬符策。

遠くから従って、上奏して藩属を称して、さらに南方からの貢物である絹を捧げて、()の将たちを朝廷に帰したこと、内に忠誠を抱いて、外には誠意を示して、その信頼は金や石みたいに固くて、義は山河を覆うほどで、私はとても喜んでいるよ。今、あなたを()(おう)に封じて、(たい)(じょう)(こう)(へい)(こう)(けい)(てい)を使者として節を持たせて、あなたに王の印綬と勅書、金虎符を第一から第五まで、左竹使符を第一から第十までを授けるよ。そして、(だい)(しょう)(ぐん)として、節を持たせて(こう)州を監督させて、(けい)(しゅう)(ぼく)を兼任させるよ。それに、青い土を白い草で包んで授けよう。私の命令を伝えて、東南の統治を委ねるものだよ。(ひょう)()(しょう)(ぐん)(なん)(しょう)(こう)の印綬と勅書は前のものだから返してね。

本文

今又加君九錫,其敬聽後命。以君綏安東南,綱紀江外,民夷安業,無或攜貳,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。君務財勸農,倉庫盈積,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。君化民以德,禮教興行,是用錫君軒縣之樂。君宣導休風,懷柔百越,是用錫君朱戶以居。

今、さらにあなたに九錫を授けるから、今後の命令を敬って受けてね。あなたは東南を安定させて、江南の規律を整えて、民や異民族も安心して生活を送っていて、疑う心を抱く者はいないよ。だから、大輅(天子の乗る車)と戎輅(軍事に使う車)をそれぞれ1台と、黒い馬8頭を授けるよ。
あなたは財政を重んじて、農業を奨励して、倉庫を満たしているよ。だから、(こん)(べん)(天子の礼服)と、(せき)(せき)(赤い履物)を授けるよ。あなたは徳で民を教えて導いて、礼と教育を広めているよ。だから、軒縣の楽器を授けるよ。
あなたは穏やかな風習を広めて、百越(異民族)をなだめているよ。だから、赤い戸を授けるから住まいとしてね。

本文

君運其才謀,官方任賢,是用錫君納陛以登。君忠勇並奮,清除姦慝,是用錫君虎賁之士百人。君振威陵邁,宣力荊南,梟滅凶醜,罪人斯得,是用錫君鈇鉞各一。君文和於內,武信于外,是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君以忠肅為基,恭勤為德,是用錫君秬鬯一卣,圭瓚副焉。欽哉!敬敷訓典,以服朕命,以勗相我國家,永終爾顯烈。」(註19)

あなたは才と知を尽くして、官職に賢者を任命して使っているよ。だから、あなたに登壇するための段を授けるよ。あなたは忠と勇を発揮して、悪を清めているよ。だから、あなたに()(ほん)(帝の護衛)の兵100人を授けるよ。
あなたは威を振りかざして、(けい)州の南で力を発揮して、悪い人たちを討って、罪人を捕らえているよね。だから、あなたに鉄斧を1つずつ授けるよ。
あなたは内では文と和を重視して、外では武力を示しているよ。だから、赤い弓1本、赤い矢100本、黒い弓10本、黒い矢1,000本を授けるよ。あなたは君は忠誠と慎みを基礎として、謹んで勤勉だね。だから、あなたに(しゅく)(ちょう)の酒を1つと(けい)(さん)(玉製の杯)を授けるよ。素晴らしいね! あなたは慎んで受けて、教えを広めて、私の命令を守って、国家を助けて、永遠にその功績をたたえられるように」

(註19)

江表傳曰:權羣臣議,以為宜稱上將軍九州伯,不應受魏封。權曰:「九州伯,於古未聞也。昔沛公亦受項羽拜為漢王,此蓋時宜耳,復何損邪?」遂受之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)は臣下たちと議論したよ。彼らは、「(そん)(けん)(じょう)(しょう)(ぐん)(きゅう)(しゅう)(はく)と名乗るべきで、()からの封爵を受けるべきではない」と主張したよ。でも、(そん)(けん)はこう言ったよ。
「『(きゅう)(しゅう)(はく)』という称号は、古代にも聞いたことがないな。昔、(はい)(こう)(りゅう)(ほう))も(こう)()から(かん)(おう)に封ぜられたけど、これはその時の適切な判断に過ぎなくて、それが何の害になるの?」
こうして、()からの封爵を受け入れたよ。

(註19)

孫盛曰:「昔伯夷、叔齊不屈有周,魯仲連不為秦民。夫以匹夫之志,猶義不辱,況列國之君參分天下,而可二三其節,或臣或否乎?余觀吳、蜀,咸稱奉漢,至於漢代,莫能固秉臣節,君子是以知其不能克昌厥後,卒見吞於大國也。向使權從羣臣之議,終身稱漢將,豈不義悲六合,仁感百世哉!」

(そん)(せい)によると、昔、(はく)()(しゅく)(せい)(しゅう)に屈しなかったよ。()(ちゅう)(れん)(しん)の民にならなかったよ。たとえ一介の志士であっても、義をもって屈辱を拒んだの。ましてや、天下を三分する国の君主が、その節を守れなくて、臣下として従うかどうかを迷うなどということがあってよいの? 私は()(しょく)を見てみると、みんなが(かん)に従うことを称しているけど、(かん)の王朝が滅びると、誰も臣下としての節義を固く守れなかったよね。だから、君子はこれを見て、彼らが後の世に繁栄をもたらすことができないと知っていたの。結局、彼らは大国に呑み込まれちゃった。もし(そん)(けん)が臣下たちの議論に従って、一生(かん)の将として名乗っていたら、その義は天下に悲しみを与えて、その仁は百世にわたって感動を与えたのではないかな!

本文

是歲,劉備帥軍來伐,至巫山、秭歸,使使誘導武陵蠻夷,假與印傳,許之封賞。於是諸縣及五谿民皆反為蜀。權以陸遜為督,督朱然、潘璋等以拒之。

この年、(りゅう)()は軍を率いて侵攻して、()(ざん)()()まで進軍して、()(りょう)の異民族を誘導して、印綬を与えて、封賞を約束したよ。すると、県や()(けい)の民はみんな(しょく)に寝返っちゃった。(そん)(けん)(りく)(そん)を督(指揮官)として、(しゅ)(ぜん)(はん)(しょう)たちを指揮して彼らに対抗させたよ。

本文

遣都尉趙咨使魏。魏帝問曰:「吳王何等主也?」咨對曰:「聦明仁智,雄略之主也。」帝問其狀,咨曰:「納魯肅於凡品,是其聦也;拔呂蒙於行陣,是其明也;獲于禁而不害,是其仁也;取荊州而兵不血刃,是其智也;據三州虎視於天下,是其雄也;屈身於陛下,是其略也。」(註20)帝欲封權子登,權以登年幼,上書辭封,重遣西曹掾沈珩陳謝,并獻方物。(註21)立登為王太子。(註22)

()()(ちょう)()()に送ったよ。(そう)()はこう尋ねたよ。
()(おう)(そん)(けん))はどんな君主なの?」
(ちょう)()はこう答えたよ。
「聡明で仁徳に富んで、雄略のある君主だよ」
(そう)()がその詳細を尋ねると、(ちょう)()はこう答えたよ。
()(しゅく)を平民の中から取り立てたことから、彼の聡明さがうかがえるよ。(りょ)(もう)を戦陣から引き抜いたことから、彼の明察さがうかがえるよ。()(きん)を捕らえても傷つけなかったことから、彼の仁徳がうかがえるよ。(1けい)州を取るのに一滴の血も流さなかったのは、彼の知恵がうかがえるよ。3つの州を拠点にして、天下を狙っている姿勢から、彼の雄大さがうかがえるよ。あなたに身を屈したことから、その巧みさがうかがえるよ」
(そう)()(そん)(けん)の子である(そん)(とう)を封じようとしたけど、(そん)(けん)(そん)(とう)が幼いから、封じることを辞退する上書を提出したよ。さらに西(せい)(そう)(えん)(しん)(こう)を送って謝って、贈り物を献上したよ。その後、(そん)(とう)を王太子に立てたよ。

本文

(註20)吳書曰:咨字德度,南陽人,博聞多識,應對辯捷,權為吳王,擢至中大夫,使魏。魏文帝善之,嘲咨曰:「吳王頗知學乎?」荅曰:「吳王浮江萬艘,帶甲百萬,任賢使能,志存經略,雖有餘閑,博覽書傳歷史,藉採奇異,不效書生尋章擿句而已。」帝曰:「吳可征不?」咨對曰:「大國有征伐之兵,小國有備禦之固。」又曰:「吳難魏不?」咨曰:「帶甲百萬,江、漢為池,何難之有?」又曰:「吳如大夫者幾人?」咨曰:「聦明特達者八九十人,如臣之比,車載斗量,不可勝數。」咨頻載使,北人敬異。權聞而嘉之,拜騎都尉。咨言曰:「觀北方終不能守盟,今日之計,朝廷承漢四百之際,應東南之運,宜改年號,正服色,以應天順民。」權納之。

()(しょ)』によると、(ちょう)()は、(あざな)(とく)()で、(なん)(よう)の出身だよ。博識で聡明で、口が達者だよ。(そん)(けん)()(おう)になると、(ちょう)()(ちゅう)(たい)()に昇進させて()に使者として送ったよ。(そう)()は彼を気に入って、からかって(ちょう)()にこう言ったよ。
()(おう)(そん)(けん))は学問をよく知っているの?」
(ちょう)()はこう答えたよ。
「彼は長江に1万隻の船を浮かべて、甲冑を着けた兵が100万人いるよ。賢者を任用して、有能な者を使いこなして、志は国の統治にあるよ。たとえ余暇があったとしても、書物や伝記や歴史を広く読んで、奇抜なものを採り入れているけど、学者みたいにすでにある言葉を探したり引用したりすることはしないよ」
(そう)()はこう言ったよ。
()を討伐できるかな?」
(ちょう)()はこう答えたよ。
「大国には討伐する兵があって、小国には備え守る堅固さがあるよ」
また、(そう)()はこう言ったよ。
()()を脅威としていないの?」
(ちょう)()はこう言ったよ。
「100万の兵を甲冑で固めて、長江と漢水を池としているよ。何の苦しみがあるの?」
(そう)()はこう言ったよ。
()にはあなたみたいな人が何人いるの?」
(ちょう)()はこう言ったよ。
「聡明で特出した者は80から90人くらいで、私みたいな人は車に積んでも量りにかけても、数えきれないほどいるよ」
(ちょう)()は何回も使者として往来して、北方の人たちは彼を敬意を持って受け止めたよ。(そん)(けん)はこれを聞いて喜んで、彼を()()()に任命したよ。(ちょう)()はこう言ったよ。
「北方(())は結局は同盟を守れないだろうね。今日の計画は、朝廷が(かん)の400年の歴史を受け継いで、東南の運命に応じるべきだよ。年号を改めて、服の色を正すべきだよ。天の意志に従って民に応えるべきだよ」
(そん)(けん)はこれを受け入れたよ。

(註21)

吳書曰:珩字仲山,吳郡人,少綜經藝,尤善春秋內、外傳。權以珩有智謀,能專對,乃使至魏。魏文帝問曰:「吳嫌魏東向乎?」珩曰:「不嫌。」曰:「何以?」曰:「信恃舊盟,言歸于好,是以不嫌。若魏渝盟,自有豫備。」

()(しょ)』によると、(しん)(こう)は、(あざな)(ちゅう)(ざん)で、()郡の出身だよ。若い頃から学問に親しんで、特に『春秋』の内伝(『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』)と外伝(『(こく)()』)に優れていたよ。(そん)(けん)(しん)(こう)が知恵と計略に長けていると考えて、彼を()に送ったよ。(そう)()(しん)(こう)に尋ねたよ。
()()が江東に向かうのを疑っているの?」
(しん)(こう)はこう答えたよ。
「疑っていないよ」
(そう)()はまた尋ねたよ。
「どうして?」
(しん)(こう)はこう言ったよ。
「昔の同盟を信じて、良い関係を望むからだよ。だから、不信感はないんだ。もし()が同盟を破るのなら、自分たちにはそれに備える方法もあるよ」

(註21)

又問:「聞太子當來,寧然乎?」珩曰:「臣在東朝,朝不坐,宴不與,若此之議,無所聞也。」文帝善之,乃引珩自近,談語終日。珩隨事響應,無所屈服。珩還言曰:「臣密參侍中劉曄,數為賊設姦計,終不乆愨。臣聞兵家舊論,不恃敵之不我犯,恃我之不可犯,今為朝廷慮之。且當省息他役,惟務農桑以廣軍資;脩繕舟車,增作戰具,令皆兼盈;撫養兵民,使各得其所;擥延英俊,獎勵將士,則天下可圖矣。」以奉使有稱,封永安鄉侯,官至少府。

さらに(そう)()は尋ねたよ。
()の太子((そん)(とう))が来ると聞いたけど、本当?」
(しん)(こう)はこう答えたよ。
「私は東宮にいるけど、朝議には加わらないし、宴席にも招かれないんだ。そのような議論については何も聞いていないよ」
(そう)()はこれに喜んで、(しん)(こう)を自分の近くに引き寄せて、一日中話したよ。(しん)(こう)は丁寧に対応して、屈しない態度を貫いたよ。
(しん)(こう)は帰ってきてこう言ったよ。
「私がこっそりと侍中(じちゅう)(りゅう)(よう)を観察したけど、彼はよく敵に悪い作戦を提案しているから、忠誠を長く保つことはできないだろうね。私は兵法の古い教えを聞いたことがあるよ。それは、敵が私たちを攻めてこないことを信じるのではなくて、私たちが敵に攻められないようにすることを頼りにするべきというものだよ。今、私は朝廷のためにこのことを心配しているんだ。まずは他の労役を省いて、農業と養蚕を奨励して軍資を広げるべきだよ。そして、船や車を修繕して、武器を増産して、それらをすべて十分に備えるようにすべきだよ。兵や民を手厚く扱って、それぞれが自分の役割を得るようにして、英俊な人材を引き入れて、将や兵を奨励するなら、天下を手中に収めることもできるかも」
こうして、彼は使者としての功績をたたえられて、(えい)(あん)(きょう)(こう)に封ぜられて、官位は(しょう)()まで昇進したよ。

(註22)

江表傳曰:是歲魏文帝遣使求雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、瑇瑁、孔雀、翡翠、鬪鴨、長鳴雞。羣臣奏曰:「荊、揚二州,貢有常典,魏所求珍玩之物非禮也,宜勿與。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、この年、(そう)()は使者を送って、雀頭香、大貝、明珠(美しい玉)、象牙、犀角(サイの角)、玳瑁(ウミガメ)、孔雀、翡翠、(トウ)(オウ)(ナガ)(ナキ)(ドリ)などの珍しいものを求めたよ。臣下たちはこう上奏したよ。
(けい)州と(よう)州は、貢納に定めがあるんだ。()が求める珍しい品物は礼に合わないから、与えない方がいいよ」

(註22)

權曰:「昔惠施尊齊為王,客難之曰:『公之學去尊,今王齊,何其倒也?』惠子曰:『有人於此,欲擊其愛子之頭,而石可以代之,子頭所重而石所輕也,以輕代重,何為不可乎?』方有事於西北,江表元元,恃主為命,非我愛子邪?彼所求者,於我瓦石耳,孤何惜焉?彼在諒闇之中,而所求若此,寧可與言禮哉!」皆具以與之。

(そん)(けん)はこう言ったよ。
「昔、(けい)()(せい)を王として尊んだ時、ある客がそれを非難してこう言ったんだ。
『あなたの学問は尊ぶことを避けるものだったのに、今、(せい)を王として尊んでいるのはどうして? まるで逆さまだよね?』
すると、(けい)()はこう答えたよ。
『ここに人がいて、愛する子供の頭を叩こうとする者がいるとするよ。そのとき、石で代わることができるなら、子供の頭は重くて、大切で、石は軽くて価値がないよ。重きを軽きで代えることが、どうしていけないの?』
今、西と北で事が起ころうとしていて、江南の民は主に命を頼っているよ。それはまさに私の愛する子供みたいなものだよ。彼らが求めているのは、私にとっては瓦や石に過ぎないよ。どうして惜しむことがあるの? 彼らは喪中なのに、それでもこんなものを求めるんだ。そんな状況で、どうして礼について語ることができるの?」
彼らは貢物をすべて持参したよ。

続き → 正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 2

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