はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「後主伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉禅について書かれているよ!
本文中で劉禅は「後主」と書かれているけど、訳では「劉禅」と書くよ。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 蜀書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
劉禅の生まれ
後主諱禪,字公嗣,先主子也。建安二十四年,先主為漢中王,立為王太子。及即尊號,冊曰:「惟章武元年五月辛巳,皇帝若曰:太子禪,朕遭漢運艱難,賊臣篡盜,社稷無主,格人羣正,以天明命,朕繼大統。今以禪為皇太子,以承宗廟,祗肅社稷。使使持節丞相亮授印緩,敬聽師傅,行一物而三善皆得焉,可不勉與!」(註1)
劉禅は、字は公嗣で、劉備の子だよ。建安 24 年(219 年)、劉備が漢中王になると、劉禅は王太子に立てられたよ。太子に任命する時、劉備はこう言ったよ。
「章武元年(221年)、五月、辛巳の日、皇帝はこう語るよ。太子の劉禅よ、私は漢の運命が困難に直面して、反逆者が朝廷を奪って、国家は主を失った時、正しい人たちは天命を明らかにして、私は帝位を継承することになったよ。今、あなたを皇太子として、祖先の廟を継いで、国家を敬って守る役目を任せるね。丞相の諸葛亮に節を持たせて、印綬を授けさせるよ。教育係の教えに従って、1つの行動で3つの善行を達成できるようになろうね。がんばろう!」
禮記曰:行一物而三善者,惟世子而已,其齒於學之謂也。鄭玄曰:物猶事也。
『礼記』によると、1つの行動で3つの善行を成し遂げる者は、ただ世子(太子)だけが、学問の場で同列に立つことなんだって。鄭玄によると、物は事と同じだよ。太子だけが民に三善(父と子、主君と臣下、年上の者と年下の者の道)を伝えることができるんだね。
劉禅の幼名の阿斗は「劉封伝」に書いてあるよ。
皇帝に即位する
三年夏四月,先主殂于永安宮。五月,後主襲位於成都,時年十七。尊皇后曰皇太后。大赦,改元。是歲魏黃初四年也。(註2)
章武3年(223年)、夏の四月、劉備が永安宮で亡くなったんだ。五月、劉禅が成都で皇帝に即位したよ。この時、劉禅は17歳だよ。皇后を尊んで皇太后と呼んで、大赦を行って、元号を「建興」に改めたよ。この年は魏の黄初4年(223年)だよ。
魏略曰:初備在小沛,不意曹公卒至,遑遽棄家屬,後奔荊州。禪時年數歲,竄匿,隨人西入漢中,為人所賣。及建安十六年,關中破亂,扶風人劉括避亂入漢中,買得禪,問知其良家子,遂養為子,與娶婦,生一子。初禪與備相失時,識其父字玄德。
『魏略』によると、昔、劉備が小沛にいたけど、偶然にも曹操が来たから、急いで家族を捨てて逃げて、その後、荊州へ向かったんだ。この時、劉禅は数歳で、身を隠して人に付き従ってに連れられて西の漢中に入って、誰かに売られたんだって。
建安16年(211年)、関中で戦乱が起きて、扶風の出身の劉括が乱を避けて漢中に入って、劉禅を買い取ったよ。劉括は劉禅が立派な家の子であることを知って、養子として育てて、さらに妻を迎えさせて、1人の子をもうけさせたよ。もともと劉禅が劉備とはぐれた時、父の字が玄徳であることを覚えていたの。
比舍人有姓簡者,及備得益州而簡為將軍,備遣簡到漢中,舍都邸。禪乃詣簡,簡相檢訊,事皆符驗。簡喜,以語張魯,魯為洗沐送詣益州,備乃立以為太子。初備以諸葛亮為太子太傅,及禪立,以亮為丞相,委以諸事,謂亮曰:「政由葛氏,祭則寡人。」亮亦以禪未閑於政,遂總內外。
その頃、舎人(役人)に簡という姓の人がいたよ。劉備が益州を手に入れると、簡は将軍に任命されたよ。劉備は彼を漢中に送って、公邸に泊めたよ。劉禅は簡のもとを訪れて、簡が事情を詳しく調べたら、すべての事が正しかったんだって。簡は喜んで、そのことを張魯に話して、劉禅を沐浴させて益州に送ったんだ。そして、劉備は劉禅を太子に立てたよ。
最初は劉備が諸葛亮を太子太傅(教育係)に任命していたけど、劉禅が太子になると、諸葛亮を丞相に任命して、国の内政と外政を彼に委ねたよ。劉禅は諸葛亮にこう言ったよ。
「政治はあなたに任せるけど、祭祀は私がやるよ」
諸葛亮も、劉禅が政治にまだ不慣れであると考えて、国の内政と外政のすべてを取り仕切ることとなったんだ。
臣松之案:二主妃子傳曰「後主生於荊州」,後主傳云「初即帝位,年十七」,則建安十二年生也。十三年敗於長阪,備棄妻子走,趙雲傳曰「雲身抱弱子以免」,即後主也。如此,備與禪未甞相失也。又諸葛亮以禪立之明年領益州牧,其年與主簿杜微書曰「朝廷今年十八」,與禪傳相應,理當非虛。
裴松之が調べたところ、「二主妃子伝」には「劉禅は荊州で生まれた」とあって、「後主伝」では「劉禅が皇帝に即位する時、17歳だった」とあるから、建安12年(207年)に生まれたと考えられるよ。建安13年に長阪で敗れて、劉備は妻や子を捨てて逃げたんだ。「趙雲伝」には、「趙雲は幼い子を抱いて逃げた」とあって、その子が劉禅であると考えられるよ。だから、劉備と劉禅が別れたことはないよ。それに、諸葛亮は劉禅が皇帝になった翌年に益州牧に任命されて、その年に主簿の杜微に宛てた手紙には「朝廷は今年は18歳だよ」と記されていて、劉禅の伝と一致しているから、これは空想ではないはずだよね。
而魚豢云備敗於小沛,禪時年始生,及奔荊州,能識其父字玄德,計當五六歲。備敗於小沛時,建安五年也,至禪初立,首尾二十四年,禪應過二十矣。以事相驗,理不得然。此則魏略之妄說,乃至二百餘言,異也!又案諸書記及諸葛亮集,亮亦不為太子太傅。
でも、魚豢の『魏略』では、劉備が小沛で敗れて、その時に劉禅は生まれたばかりで、荊州へ逃げた時に父の字が玄徳であることを知っていたと言っているけど、その時に劉禅は5歳か6歳くらいになるよね。劉備が小沛で敗れたのは建安5年(200年)で、劉禅が初めて皇帝になるまでには24年が過ぎているから、劉禅は20歳を超えているはずだよね。事実を検証すると、この説明は成り立たないよ。
これは『魏略』の誤った伝承で、200以上もの言葉があるのは、おかしいよね! さらに、いろいろな書や『諸葛亮集』を調べたけど、諸葛亮が太子太傅に任命されたことはなかったんだ。
呉と友好関係を結ぶ
建興元年夏,牂牁太守朱襃擁郡反。(註3)先是,益州郡有大姓雍闓反,流太守張裔於吳,據郡不賔,越嶲夷王高定亦背叛。是歲,主皇后張氏。遣尚書郎鄧芝固好於吳,吳王孫權與蜀和親使聘,是歲通好。
建興元年(223年)、夏、牂牁太守(郡の長官)の朱褒が郡で反乱を起こしたんだ。これより前に、益州の郡では有力な豪族の雍闓が反乱を起こして、太守の張裔を呉に追放したよ。そして郡を占拠して、劉禅に従わなかったんだ。越嶲の異民族の王である高定も背いたんだ。
この年、劉禅の皇后に張氏が立てられたよ。劉禅は尚書郎の鄧芝を呉に送って友好を深める交渉をして、呉王の孫権は蜀との友好関係を結ぶために使者を送って、この年、両国は友好関係を結んだよ。
魏氏春秋曰:初,益州從事常房行部,聞襃將有異志,收其主簿案問,殺之。襃怒,攻殺房,誣以謀反。諸葛亮誅房諸子,徙其四弟於越嶲,欲以安之。襃猶不悛改,遂以郡叛應雍闓。
『魏氏春秋』によると、前に、益州の従事である常房は各地を巡ってみた時、朱褒が反逆の意図を抱いていると聞いたんだ。そこで、その主簿(書記官)を捕まえて尋問して、処刑したんだ。朱褒は怒って、常房を攻めて殺して、さらに謀反の罪をなすりつけたよ。諸葛亮はこれを聞いて常房の子供たちを処刑して、その4人の弟たちを越嶲に追放させて、事態を安定させようとしたけど、朱褒はやっぱり改心しなくて、結局、郡を挙げて反乱を起こして雍闓に応じたんだ。
臣松之案:以為房為襃所誣,執政所宜澄察,安有妄殺不辜以恱姦慝?斯殆妄矣!
裴松之が調べたところ、常房が朱褒に濡れ衣を着せられたのだから、政務を司る者(諸葛亮たち)が正しく調べて明らかにするべきだよね。どうして無実の人たちをむやみに殺して悪い人たちを喜ばせることがあるの? これはたぶん、誤りだよ!
二年春,務農殖穀,閉關息民。
建興2年(224年)、春、農業と穀物の生産に力を注いで、関を閉じて民を安定させたよ。
南中へ
三年春三月,丞相亮南征四郡,四郡皆平。改益州郡為建寧郡,分建寧、永昌郡為雲南郡,又分建寧、牂牁為興古郡。十二月,亮還成都。
建興3年(225年)、春の三月、丞相の諸葛亮は南に遠征して4つの郡を平定したよ。益州郡を建寧郡に改名して、建寧郡と永昌郡を分けて雲南郡として、さらに建寧郡と牂牁郡を分けて興古郡としたよ。十二月、諸葛亮は成都に帰ったよ。
四年春,都護李嚴自永安還住江州,築大城。(註4)
建興4年(226年)、春、都護の李厳が永安から帰って、江州に行って大きな城を築いたよ。
今巴郡故城是。
今、巴郡の旧城がそこにあるよ。
北伐へ
五年春,丞相亮出屯漢中,營沔北陽平石馬。(註5)
建興5年(227年)、春、丞相の諸葛亮は漢中に駐屯して、沔水の北にある陽平の石馬に陣営を置いたよ。
諸葛亮集載禪三月下詔曰:「朕聞天地之道,福仁而禍淫;善積者昌,惡積者喪,古今常數也。是以湯、武脩德而王,桀、紂極暴而亡。曩者漢祚中微,網漏凶慝,董卓造難,震蕩京畿。曹操階禍,竊執天衡,殘剥海內,懷無君之心。子丕孤豎,敢尋亂階,盜據神器,更姓改物,世濟其凶。當此之時,皇極幽昧,天下無主,則我帝命隕越于下。
『諸葛亮集』によると、三月、劉禅は詔を下してこう言ったよ。
「私は、天地の道理とは、仁をする人には福があって、悪いことをする人には災いあるもので、良いことを積み重ねる人は栄えるし、悪いことをする人は滅びるんだと聞いているよ。これは昔から今まで続く変わらない法則だよね。だから、殷の湯王や周の武王は徳を修めて王となって、夏の桀や殷の紂はひどい悪事を働いたから滅んでしまったんだ。
昔、漢の王朝の統治は衰えて、中原は混乱して、悪い人たちが罪を犯しても罰せられないことがあったんだ。董卓は乱を引き起こして、都の周りを不安定にしたの。曹操はその混乱を利用して、帝の権威を盗み取って、天下を荒らしまわって、民を虐げることで君主への忠誠を持たない心を抱いていたよ。彼の子である曹丕は、たったひとりの卑しい存在なのに、その乱の跡を追って、帝位を盗み取って、王朝を変えて、万物を改変して、その凶行を代々受け継いだよ。まさにこの時、帝の治世の道は暗く覆われて、天下には主君がいなくなっちゃった。そこで、帝の命運は地に墜ちて、私に与えられたんだよ。
昭烈皇帝體明叡之德,光演文武,應乾坤之運,出身平難,經營四方,人鬼同謀,百姓與能。兆民欣戴。奉順符讖,建位易號,丕承天序,補弊興衰,存復祖業,膺誕皇綱,不墜于地。萬國未定,早世遐殂。朕以幼冲,繼統鴻基,未習保傅之訓,而嬰祖宗之重。
昭烈皇帝(劉備)は、賢くて優れた徳を持っていて、文武の道を輝かしく広めて、彼は天地の運命に応じて、身をもって困難を乗り越えて、四方を治めて、人と霊の協力を得て、民と一緒に力を尽くしたよ。民たちは喜んで敬ったよ。天命と予言に従って、帝位を立てて、国号を改めたよ。天の道を継いで、乱れを正して、衰退を復興させて、祖先の事業を守って復活させたの。そして皇帝の統治の規範を受け継いで、それを地に落とすことはなかったよ。
でも、すべての国がまだ安定していないうちに、早くして亡くなったんだ。私はまだ幼くて、帝位を引き継いだけど、保傅(教育係)の教えをまだ十分に学んでいないうちに、先祖の重い責務を負うことになったんだ。
六合壅否,社稷不建,永惟所以,念在匡救,光載前緒,未有攸濟,朕甚懼焉。是以夙興夜寐,不敢自逸,每從菲薄以益國用,勸分務穡以阜民財,授方任能以參其聽,斷私降意以養將士。欲奮劒長驅,指討凶逆,朱旗未舉,而丕復隕喪,斯所謂不燃我薪而自焚也。殘類餘醜,又支天禍,恣睢河、洛,阻兵未弭。
天地は塞がれていて、国の基盤がまだしっかりと築かれていない状態で、いつもその理由を深く考えて、これを救って正すことを心に念じてきたよ。でも、先人の事業を光り輝かせて受け継ごうとする中で、まだ成果を得られなくて、私はとても恐れているんだ。だから、私は早朝から夜遅くまで励んで、自分を怠らないで、いつも質素な生活を送って、国の財政を助けてきたよ。民の財産を増やすために農業を勧めて、才能のある人たちに職務を任せて意見を聞き入れて、私的な利益を捨てて、将や兵を育てているよ。私は剣を振って進撃して、凶悪な賊を討伐しようと望んではいたけど、朱い軍旗を掲げることもないうちに、曹丕は滅び去ったよ。これは、『私の薪を燃やさないで自分で焼かれる』ということだね。残った敵はまだ災いを引き起こして、黄河と洛水で勝手に振舞って、戦乱を収めることはまだできていないんだ。
諸葛丞相弘毅忠壯,忘身憂國,先帝託以天下,以勗朕躬。今授之以旄鉞之重,付之以專命之權,統領步騎二十萬衆,董督元戎,龔行天罰,除患寧亂,克復舊都,在此行也。昔項籍總一彊衆,跨州兼土,所務者大,然卒敗垓下,死於東城,宗族焚如,為笑千載,皆不以義,陵上虐下故也。今賊效尤,天人所怨,奉時宜速,庶憑炎精祖宗威靈相助之福,所向必克。
諸葛丞相(諸葛亮)は志が広くてしっかりとしていて、勇敢で忠義に厚い人で、自らの身を振り返らないで国を心配しているよ。先帝(劉備)は彼に天下を託して、私にも励むように言い残したよ。今、彼には軍を指揮する責任を授けて、指揮権を与えて、20万の歩兵と騎兵を率いさせて、その任を全うして、天の裁きを行って患いを除いて、乱を鎮めて、昔の都を取り戻すことをこの遠征に期待するよ。
昔、項籍(項羽)は強大な軍勢を率いて州を跨いで領土を支配したけど、大事を成すことにばかり気を取られて、最後は垓下で敗れて、東城で亡くなったんだ。その家族は焼き払われて、みんなの笑い者となったよね。これは義を持っていなくて、上に君臨して下を虐げたことが原因だよ。今、賊もそれと同じ道をたどっていて、天と人に憎まれているよね。この時を逃さないで速やかに行動すれば、火徳(漢)と祖先の威光と霊が助けてくれるだろうね。どこへ行っても必ず勝利するよ。
吳王孫權同恤灾患,潛軍合謀,掎角其後。涼州諸國王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十餘人詣受節度,大軍北出,便欲率將兵馬,奮戈先驅。天命旣集,人事又至,師貞勢并,必無敵矣。夫王者之兵,有征無戰,尊而且義,莫敢抗也,故鳴條之役,軍不血刃,牧野之師,商人倒戈。今旍麾首路,其所經至,亦不欲窮兵極武。
呉王の孫権も同じように災いや苦しみを心配して、こっそりと軍を動かして協力して計画を立てて、敵の後ろをけん制しているよ。それに涼州の国々の王たちはそれぞれ、月支、康居の侯である支富、康植たち20人以上が使者を送ってきているよ。大軍が北に進軍する時には、彼らも将や兵を率いて先陣を切って、武器を振るうことを望んでいるんだ。
天命がすでに集まって、人間の努力もまた整ったよ。軍の勢いが正しければ必ず敵なしとなるだろうね。王者の軍というものは、征伐するだけで戦わないのが理想で、その威厳と義で、誰も抗うことはができないよ。だから、鳴條の戦いでは、刃を血で染めることなく軍が勝利して、牧野の戦いでは、殷の人が武器を投げ捨てて降伏したよね。今、旗が先頭に掲げられて、進軍する所では、極限まで武力を振るうことは望まないよ。
有能棄邪從正,簞食壺漿以迎王師者,國有常典,封寵大小,各有品限。及魏之宗族、支葉、中外,有能規利害、審逆順之數,來詣降者,皆原除之。昔輔果絕親於智氏,而蒙全宗之福,微子去殷,項伯歸漢,皆受茅土之慶。此前世之明驗也。若其迷沈不反,將助亂人,不式王命,戮及妻孥,罔有攸赦。廣宣恩威,貸其元帥,弔其殘民。他如詔書律令,丞相其露布天下,使稱朕意焉。」
邪道を捨てて正道に従って、簡素な食事や水で天子の軍を歓迎する者には、国家の定められた典礼があって、その功績に応じて位階や恩賞が与えられるよ。そして、魏の宗族や一族、近縁遠縁を問わないで、利害をわきまえて道理に背くか従うかの理を理解して降伏してきた人には、みんなその罪を許すよ。
昔、輔果(知果)は智氏に近親の絆を断ち切って正道に従って、一族を守る幸運を受けたよ。微子(微子啓)は殷を去って、項伯は漢に従って、ぐたりともそれぞれ領地を受ける栄誉を得たよ。これは、古代の人たちの良い例だよね。でも、迷い込んで帰らない人や乱を助ける人、王命に従わない人には、妻や子と一緒に処刑されて、許しはないんだ。広く恩徳と威を広めて、指導者には生命を許して、残された民には哀れみを示すべきだよね。それ以外のことは詔や法令に基づいて、丞相(諸葛亮)がこれを天下に示して、私の意を伝えるようにしてね」
陳倉の戦い
六年春,亮出攻祁山,不克。冬,復出散關,圍陳倉,糧盡退。魏將王雙率軍追亮,亮與戰,破之,斬雙,還漢中。
建興6年(228年)、春、諸葛亮は祁山へ攻撃に出たけど、失敗しちゃった。冬、ふたたび進軍して散関を包囲して、陳倉に攻め込んだけど、食糧が尽きて退却したんだ。魏の将である王双が軍を率いて諸葛亮を追ったけど、諸葛亮は彼と戦って打ち破って、王双を討ち取って、漢中に帰ったよ。
七年春,亮遣陳式攻武都、陰平,遂克定二郡。冬,亮徙府營於南山下原上,築漢、樂二城。是歲,孫權稱帝,與蜀約盟,共交分天下。
建興7年(229年)、春、諸葛亮は陳式に武都や陰平を攻めさせて、2つの郡を制圧したよ。冬、諸葛亮は府を南山の下の原に移して、漢城と楽城の2つの城を築いたよ。
この年、孫権は皇帝に即位して、蜀と同盟を結んで、天下を分け合うことを約束したよ。
子午の役
八年秋,魏使司馬懿由西城,張郃由子午,曹真由斜谷,(註6)欲攻漢中。丞相亮待之於城固、赤阪,大雨道絕,真等皆還。是歲,魏延破魏雍州刺史郭淮于陽谿。徙魯王永為甘陵王。梁王理為安平王,皆以魯、梁在吳分界故也。
建興8年(230年)、秋、魏は司馬懿を西城から、張郃を子午から、曹真を斜谷から、漢中を攻撃させたよ。丞相の諸葛亮は城固や赤阪で彼らを待ったけど、大雨で道が断たれたから、曹真たちはみんな引き返したよ。
この年、魏延は魏の雍州刺史(州の長官)の郭淮を陽谿で破ったよ。
魯王の劉永は甘陵王に、梁王の劉理は安平王に封ぜられたよ。これは、魯と梁が呉との境界にあったからだね。
子午道は長くて険しい道らしいよ。
「呉主伝(孫権伝)」によると、229 年に蜀と呉で領土の分割を決めているよ。→ 正史『三国志』呉書呉主伝をゆるゆる翻訳するよ! その 3
斜,余奢反。
「斜」の発音は、「余」の子音に「奢」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
祁山の戦い
九年春二月,亮復出軍圍祁山,始以木牛運。魏司馬懿、張郃救祁山。夏六月,亮糧盡退軍,郃追至青封,與亮交戰,被箭死。秋八月,都護李平廢徙梓潼郡。(註7)
建興9年(231年)、春の二月、諸葛亮はふたたび軍を率いて祁山を包囲して、はじめて木牛を使ったよ。魏の司馬懿や張郃は祁山の救援に向かったんだ。夏の六月、諸葛亮は食糧が尽きたから軍を退却したよ。張郃は諸葛亮を追いかけて青封まで追いついて、諸葛亮と戦っている間に矢に当たって死んじゃったんだ。
秋の八月、都護の李平が辞めさせられて、梓潼郡に移されたよ。
漢晉春秋曰:冬十月,江陽至江州有鳥從江南飛渡江北,不能達,墮水死者以千數。
『漢晋春秋』によると、冬の十月、江陽から江州にかけて、鳥が江南から江北に飛び渡ろうとしていたけど、目的地に着けなくて、1,000以上が水に落ちて死んじゃった。
十年,亮休士勸農於黃沙,作流馬木牛畢,教兵講武。
建興10年(232年)、諸葛亮は兵たちに休息を与えて、黄沙で農業を推し進めて、流馬や木牛を完成させて、兵に武術を教えたよ。
十一年冬,亮使諸軍運米,集於斜谷口,治斜谷邸閣。是歲,南夷劉冑反,將軍馬忠破平之。
建興11年(233年)、冬、諸葛亮はそれぞれの軍に米を運ばせて、斜谷口に集めて、斜谷の貯蔵庫を整備したよ。
この年、南の異民族の劉冑が反乱を起こして、将軍の馬忠がこれを鎮圧したよ。
諸葛亮の死
十二年春二月,亮由斜谷出,始以流馬運。秋八月,亮卒于渭濵。征西大將軍魏延與丞相長史楊儀爭權不和,舉兵相攻,延敗走;斬延首,儀率諸軍還成都。大赦。以左將軍吳壹為車騎將軍,假節督漢中。以丞相留府長史蔣琬為尚書令,總統國事。
建興12年(234年)、春の二月、諸葛亮は斜谷を通って出陣して、初めて流馬を使って物資を運んだよ。秋の八月、諸葛亮は渭水のほとりで亡くなったんだ。
征西大将軍の魏延と丞相長史の楊儀は権力を争って対立して、お互いに兵を挙げて争ったよ。魏延は敗れて逃走して、首を斬られたよ。楊儀は軍を率いて成都に帰ったよ。その後、大赦が行われたよ。左将軍の呉壱を車騎将軍に任命して、節を授けて漢中を統括させたよ。そして、丞相府の留府長史の蒋琬を尚書令に任命して、国の政治をまとめることになったよ。
十三年春正月,中軍師楊儀廢徙漢嘉郡。夏四月,進蔣琬位為大將軍。
建興13年(235年)、春の正月、中軍師の楊儀が辞めさせられて、漢嘉郡に移されたんだ。夏の四月、蒋琬が大将軍に昇進したよ。
十四年夏四月,後主至湔,(註8)登觀阪,看汶水之流,旬日還成都。徙武都氐王苻健及氐民四百餘戶於廣都。
建興14年(236年)、夏の四月、劉禅は湔に着いて、観阪に登って汶水の流れを眺めて、10日くらいで成都に戻ったよ。そして、武都の氐族の王である苻健と氐族の民の約400以上の家を広都に移住させたよ。
臣松之案:湔,縣名也,屬蜀郡,音翦。
裴松之が調べたところ、湔は県の名前だよ。蜀郡に属しているんだって。発音は「翦」だよ。
張皇后の死
十五年夏六月,皇后張氏薨。
建興15年(237年)、夏の六月、皇后の張氏が亡くなったんだ。
延熈元年春正月,立皇后張氏。大赦,改元。立子璿為太子,子瑤為安定王。冬十一月,大將軍蔣琬出屯漢中。
延熙元年(238年)、春の正月、皇后に張氏が立てられたよ。大赦が行われて、元号を「延熙」に改めたよ。そして、劉璿を太子に立てて、子の劉瑶を安定王に封じたよ。冬の十一月、大将軍の蒋琬が漢中に進軍して駐屯したよ。
二年春三月,進蔣琬位為大司馬。
延熙2年(239年)、春の三月、蒋琬が大司馬に昇進したよ。
三年春,使越嶲太守張嶷平定越嶲郡。
延熙3年(240年)、春、越嶲太守(郡の長官)の張嶷に越嶲郡を平定させたよ。
四年冬十月,尚書令費禕至漢中,與蔣琬諮論事計,歲盡還。
延熙4年(241年)、冬の十月、尚書令の費禕が漢中に着いて、蒋琬と一緒にいろいろな計画について相談して、年末に帰ったよ。
五年春正月,監軍姜維督偏軍,自漢中還屯涪縣。
延熙5年(242年)、春の正月、監軍の姜維が別働軍を率いて、漢中から帰って涪県に駐屯したよ。
六年冬十月,大司馬蔣琬自漢中還,住涪。十一月,大赦。以尚書令費禕為大將軍。
延熙6年(243年)、冬の十月、大司馬の蒋琬が漢中から帰って、涪に滞在したよ。十一月、大赦が行われたよ。そして、尚書令の費禕を大将軍に任命したよ。
興勢の役
七年閏月,魏大將軍曹爽、夏侯玄等向漢中,鎮北大將軍王平拒興勢圍,大將軍費禕督諸軍往赴救,魏軍退。夏四月,安平王理卒。秋九月,禕還成都。
延熙7年(244年)、閏月、魏の大将軍の曹爽や夏侯玄たちが漢中に向かったけど、鎮北大将軍の王平が興勢を囲って抵抗して、大将軍の費禕がそれぞれの軍を指揮して救援に駆けつけたから、魏の軍は撤退したよ。夏の四月、安平王の劉理が亡くなったんだ。秋の九月、費禕が成都に帰ったよ。
八年秋八月,皇太后薨。十二月,大將軍費禕至漢中,行圍守。
延熙8年(245年)、秋の八月、皇太后が亡くなったんだ。十二月、大将軍の費禕が漢中に着いて、包囲を指揮したよ。
九年夏六月,費禕還成都。秋,大赦。冬十一月,大司馬蔣琬卒。(註9)
延熙9年(246年)、夏の六月、費禕が成都に帰ったよ。秋には、大赦が行われたよ。冬の十一月、大司馬の蒋琬が亡くなったんだ。
魏略曰:琬卒,禪乃自攝國事。
『魏略』によると、蒋琬が亡くなると、劉禅が自分で国の政治をしたんだって。
異民族の反乱
十年,涼州胡王白虎文、治無戴等率衆降,衞將軍姜維迎逆安撫,居之于繁縣。是歲,汶山平康夷反,維往討,破平之。
延熙10年(247年)、涼州の胡族の王である白虎文や治無戴たちがたくさんの民を率いて降伏したよ。衛将軍の姜維が彼らを迎え入れて安心させて、繁県に住まわせたの。この年、汶山で平康の異民族が反乱を起こしたから、姜維がこれを討伐して、平定したよ。
十一年夏五月,大將軍費禕出屯漢中。秋,涪陵屬國民夷反,車騎將軍鄧芝往討,皆破平之。
延熙11年(248年)、夏の五月、大将軍の費禕は漢中に進軍して駐屯したよ。秋、涪陵の属国の異民族が反乱を起こして、車騎将軍の鄧芝がこれを討伐してみんな鎮圧しちゃったの。
十二年春正月,魏誅大將軍曹爽等,右將軍夏侯霸來降。夏四月,大赦。秋,衞將軍姜維出攻雍州,不克而還。將軍句安、李韶降魏。
延熙12年(249年)、春の正月、魏が大将軍の曹爽たちを処刑して、右将軍の夏侯覇が蜀に降伏してきたよ。夏、大赦を行ったよ。秋、衛将軍の姜維が雍州を攻めたけど、成功しなくて帰ったよ。そして、将軍の句安と李韶が魏に降伏しちゃった。
十三年,姜維復出西平,不克而還。
延熙13年(250年)、姜維がふたたび西平に出撃したけど、成功しなくて帰ったよ。
十四年夏,大將軍費禕還成都。冬,復北駐漢壽。大赦。
延熙14年(251年)、夏、大将軍の費禕が成都に帰ったよ。冬、ふたたび北方の漢寿に駐屯したよ。そして、大赦を行ったよ。
十五年,吳王孫權薨。立子琮為西河王。
延熙15年(252年)、呉王の孫権が亡くなったんだ。劉禅は子の劉琮を西河王に立てたよ。
十六年春正月,大將軍費禕為魏降人郭循所殺于漢壽。夏四月,衞將軍姜維復率衆圍南安,不克而還。
延熙16年(253年)、春の正月、大将軍の費禕が魏からの投降者である郭循に漢寿で殺されちゃった。夏の四月、衛将軍の姜維がふたたびたくさんの兵を率いて南安を包囲したけど、成功しなくて撤退したよ。
狄道の戦い
十七年春正月,姜維還成都。大赦。夏六月,維復率衆出隴西。冬,拔狄道、河間、臨洮三縣民,居于緜竹、繁縣。
延熙17年(254年)、春の正月、姜維が成都に帰ったよ。大赦を行ったよ。夏の六月、姜維がふたたびたくさんの兵を率いて隴西に出たよ。冬、狄道、河間、臨洮の3つの県の民を、緜竹と繁県に住まわせたよ。
十八年春,姜維還成都。夏,復率諸軍出狄道,與魏雍州刺史王經戰于洮西,大破之。經退保狄道城,維却住鍾題。
延熙18年(255年)、春、姜維が成都に帰ったよ。夏、ふたたび軍を率いて狄道に出撃して、魏の雍州刺史の王経と洮西で戦って、大勝利を収めたよ。王経は狄道城に撤退して、姜維は鍾題に留まったよ。
段谷の戦い
十九年春,進姜維位為大將軍,督戎馬,與鎮西將軍胡濟期會上邽,濟失誓不至。秋八月,維為魏大將軍鄧艾所破于上邽。維退軍還成都。是歲,立子瓚為新平王。大赦。
延熙19年(256年)、春、姜維は大将軍に昇進して、軍馬の統率を任されたよ。鎮西将軍の胡済と上邽で合流する予定だったけど、胡済は誓いを破って来なかったんだ。秋の八月、姜維は魏の大将軍の鄧艾に上邽で破られちゃった。姜維は軍を退いて成都に帰ったよ。
この年、子の劉瓚を新平王に立てて、大赦を行ったよ。
諸葛誕を救援しよう
二十年,聞魏大將軍諸葛誕據壽春以叛,姜維復率衆出駱谷,至芒水。是歲大赦。
延熙20年(257年)、魏の大将軍の諸葛誕が寿春を占拠して反乱したという報告が届いて、姜維はふたたび軍を率いて駱谷を出発して、芒水に着いたよ。この年、大赦を行ったよ。
黄皓の台頭
景耀元年,姜維還成都。史官言景星見,於是大赦,改年。宦人黃皓始專政。吳大將軍孫綝廢其主亮,立琅邪王休。
景耀元年(258年)、姜維が成都に帰ったよ。史官(記録官)が景星(めでたい星)を見たとされたから、大赦を行って、元号を「景耀」に改めたの。宦官の黄皓が政治を好き勝手にし始めたんだ。
呉の大将軍の孫綝がその主である孫亮を廃位して、琅邪王の孫休を立てたよ。
二年夏六月,立子諶為北地王,恂為新興王,虔為上黨王。
景耀2年(259年)、夏の六月、子の劉諶を北地王に、劉恂を新興王に、劉虔を上党王に立てたよ。
諡を贈る
三年秋九月,追謚故將軍關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠。
景耀3年(260年)、秋の九月、かつての将軍の関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠に諡を贈ったよ。
四年春三月,追謚故將軍趙雲。冬十月,大赦。
景耀4年(261年)、春の三月、かつての将軍の趙雲に諡を贈ったよ。冬の十月、大赦を行ったよ。
五年春正月,西河王琮卒。是歲,姜維復率衆出侯和,為鄧艾所破,還住沓中。
景耀5年(262年)、春の正月、西河王の劉琮が亡くなったんだ。この年、劉禅はふたたび兵を率いて侯和へ進軍したけど、鄧艾に敗れちゃって、沓中に退却したよ。
魏に降伏する
六年夏,魏大興徒衆,命征西將軍鄧艾、鎮西將軍鍾會、雍州刺史諸葛緒數道並攻。於是遣左右車騎將軍張翼、廖化、輔國大將軍董厥等拒之。大赦。改元為炎興。冬,鄧艾破衞將軍諸葛瞻於緜竹。
景耀6年(263 年)、夏、魏はたくさんの兵を集めて、征西将軍の鄧艾、鎮西将軍の鍾会、雍州刺史の諸葛緒に命令して、複数の道から同時に攻撃させたよ。それで、左右車騎将軍の張翼と廖化、輔国大将軍の董厥たちがこれを阻止するために送られたよ。大赦を行って、元号を「炎興」に改めたよ。冬、鄧艾は衛将軍の諸葛瞻を緜竹で破ったよ。
用光祿大夫譙周策,降於艾,奉書曰:「限分江、漢,遇值深遠,階緣蜀土,斗絕一隅,干運犯冒,漸苒歷載,遂與京畿攸隔萬里。每惟黃初中,文皇帝命虎牙將軍鮮于輔,宣溫密之詔,申三好之恩,開示門戶,大義炳然,而否德暗弱,竊貪遺緒,俛仰累紀,未率大教。天威旣震,人鬼歸能之數,怖駭王師,神武所次,敢不革面,順以從命!
光禄大夫の譙周の策を使って、鄧艾に投降して、手紙を送ってこう言ったよ。
「長江と漢水を境に隔てられて、その地は遠く深くて、険しい地形から蜀の土地に連なって、人里離れた場所で、私たちは天命に逆らって、無謀にも侵略を重ねて、長年にわたって次第にその状態を深めた結果、都から遠く万里も離れてしまったんだ。
黄初の年号の間(220~226年)、曹丕は虎牙将軍の鮮于輔に温情と親密さを込めた詔を下して、3つの善い恩義を示して、門戸を開いて、大義を明らかにしたよ。なのに、その恩を受けるべ人者たちは徳を欠いて、過ちを犯して、わずかな遺産を貪り続けて、何年もの間、大義の教えに従うことがなかったの。天の威光がすでに広く渡って、人も霊もその力に従うことになったよ。天子の軍は威に恐れて、神武の力があるところでは、誰も顔色を変えて、命令に従わずにはいられないんだ!
輒勑羣帥投戈釋甲,官府帑藏一無所毀。百姓布野,餘糧棲畝,以俟后來之惠,全元元之命。伏惟大魏布德施化,宰輔伊、周,含覆藏疾。謹遣私署侍中張紹、光祿大夫譙周、駙馬都尉鄧良奉齎印緩,請命告誠,敬輸忠款,存亡勑賜,惟所裁之。輿櫬在近,不復縷陳。」
そこで、私はすぐに指導者たちに命令して、武器を投げ捨てて、鎧を脱ぎ捨てて、政府の財産や倉庫の物資を何も壊さないようにしたよ。民は野に散って、余った食料は畑に留めて置いたまま、後に訪れる恩恵を待って、命を全うできるようにしたよ。私は伏して思うに、偉大な魏は徳を広く布いて、教え導いて、宰相は伊尹や周公旦みたいに優れていて、寛容でありながらも隠された過ちを見逃さないよ。私たちは侍中の張紹、光禄大夫の譙周、駙馬都尉の鄧良を送って、印綬を持たせて、命令を受け入れて、忠誠を告げさせるよ。敬って忠誠を捧げて、存亡の命令は、あなたの裁量に従って恩を授けるようにお願いするよ。私の棺は近くにあるから、これ以上細かく述べることは控えるね」
是日,北地王諶傷國之亡,先殺妻子,次以自殺。
この日、北地王の劉諶は国の滅亡を悲しんで、最初に妻と子供を殺して、次に自ら命を絶ったんだ。(註10)
漢晉春秋曰:後主將從譙周之策,北地王諶怒曰:「若理窮力屈,禍敗必及,便當父子君臣背城一戰,同死社稷,以見先帝可也。」後主不納,遂送璽緩。是日,諶哭於昭烈之廟,先殺妻子,而後自殺,左右無不為涕泣者。
『漢晋春秋』によると、劉禅は譙周の策を受け入れようとしたけど、北地王の劉諶はすごく怒ってこう言ったよ。
「もし道理が尽きて、力が尽きて必ず敗北するなら、父と子、君主と臣下で城を背にして一戦して、国家を守る覚悟があるべきだよ。先帝(劉備)にその忠を示すべきだよ」
でも、劉禅はこれを受け入れなくて、とうとう魏に印綬を送ったよ。その日、劉諶は昭烈帝(劉備)の廟で泣きながら、まず妻と子を手にかけた後、自ら命を絶ったんだ。その場にいた者たちの中で人たちで涙を流さない者はいなかったの。
紹、良與艾相遇於雒縣。艾得書,大喜,即報書,(註11)遣紹、良先還。艾至城北,後主輿櫬自縛,詣軍壘門。艾解縛焚櫬,延請相見。(註12)
張紹と鄧良は雒県で鄧艾と出会ったよ。鄧艾は手紙を手に入れると大喜びして、すぐに返事を送って、張紹と鄧良を先に帰らせたよ。鄧艾は城の北に着くと、劉禅は棺を担いで、自分を縛って出向いて、軍の塁の門まで来たんだ。鄧艾は劉禅の身を解いて棺を焼いて、その後、面会を求めたよ。
王隱蜀記曰:艾報書云:「王綱失道,羣英並起,龍戰虎爭,終歸真主,此蓋天命去就之道也。自古聖帝,爰逮漢、魏,受命而王者,莫不在乎中土。河出圖,洛出書,聖人則之,以興洪業,其不由此,未有不顛覆者也。隗嚻憑隴而亡,公孫述據蜀而滅,此皆前世覆車之鑒也。
王隠の『蜀記』によると、鄧艾の返事にはこう書いてあるよ。
「国の統治が失われると、英雄たちが次々と立ち上がって、龍が戦い虎が争うような混乱が起こるけど、最終的に真の主君が出てくるのは、天命の移り変わりによるものだよ。古から、昔の皇帝から漢や魏まで、天命を受けた人たちは、みんな中原にいたんだ。黄河から図が出て、洛水から書が出て、聖人はこれに従って偉大な事業を興したの。このように中原を外れた者で成功を収めた者はいなくて、必ずみんな滅びているんだ。隗囂が隴に頼っても亡んで、公孫述は蜀を支配したけど滅んだよ。これらはすべて昔の失敗から学ぶべき教訓だよね。
聖上明哲,宰相忠賢,將比隆黃軒,侔功往代。銜命來征,思聞嘉響,果煩來使,告以德音,此非人事,豈天啟哉!昔微子歸周,實為上賔,君子豹變,義存大易,來辭謙冲,以禮輿櫬,皆前哲歸命之典也。全國為上,破國次之,自非通明智達,何以見王者之義乎!」
聖上(天子)は聡明で知恵があって、宰相は忠実で賢明だよ。興隆は黄帝や軒轅に並んで、功績は古の偉大な王者たちとも同じくらい成し遂げているよね。命を受けて征討に出て、良い知らせを聞きたいと願っていたけど、使者が来てくれて、徳のある言葉を伝えてくれたの。これは人の力によるものではなく、まさに天の啓示ではないかな!
昔、殷の微子(微子啓)が周に従った時、大事な客人として迎えられたよ。君子は過ちをすぐに改めるのは、義が変化の中にあるからだね。今回の使者の謙虚で慎み深い言葉や、礼を尽くして棺を背負うのは、過去の賢者たちが従った礼に従っているよ。国を傷つけないのが一番大切で、国を破ることはその次だよ。賢明で知恵に優れた者でなければ、どうして王者の義を見ることができるのかな!」
禪又遣太常張峻、益州別駕汝超受節度,遣太僕蔣顯有命勑姜維。又遣尚書郎李虎送士民簿,領戶二十八萬,男女口九十四萬,帶甲將士十萬二千,吏四萬人,米四十餘萬斛,金銀各二千斤,錦綺綵絹各二十萬匹,餘物稱此。
劉禅はさらに、太常の張峻、益州別駕の汝超に命令を受けさせて、太僕の蒋顕を送って姜維に勅命を与えたよ。
そして、尚書郎の李虎に民の戸籍簿を送らせたんだ。それによると、28万戸、男女の人口94万人、武装した将や兵12万人、役人4万人、米40万斛以上、金銀それぞれ2,000斤、錦やあや絹それぞれ20万匹、その他の物資もこれと並ぶくらいだったよ。
人口の約 10%が兵だね。
晉諸公贊曰:劉禪乘騾車詣艾,不具亡國之禮。
『晋諸公賛』によると、劉禅はロバの引く車に乗って鄧艾のもとに行ったけど、亡国の礼をしていなかったんだって。
因承制拜後主為驃騎將軍。諸圍守悉被後主勑,然後降下。艾使後主止其故宮,身往造焉。資嚴未發,明年春正月,艾見收。鍾會自涪至成都作亂。會旣死,蜀中軍衆鈔略,死喪狼藉,數日乃安集。
承制(臨時の権限)によって、劉禅は驃騎将軍に任命されたよ。それぞれの要塞はすべて劉禅の命令に従って降伏したよ。鄧艾は劉禅をその古い宮殿に留まらせて、自ら訪問したよ。鄧艾の軍勢がまだ撤退していない中で、翌年(264年)、春の正月、鄧艾が捕らえられたんだ。その後、鍾会が涪から成都に行って、反乱を起こしたよ。鍾会が亡くなると、蜀の中の兵たちは略奪をして、死傷者が次々と出て、数日後にやっと落ち着きを取り戻したんだ。
安楽県公になる
後主舉家東遷,旣至洛陽,策命之曰:「惟景元五年三月丁亥。皇帝臨軒,使太常嘉命劉禪為安樂縣公。於戲,其進聽朕命!蓋統天載物,以咸寧為大,光宅天下,以時雍為盛。故孕育羣生者,君人之道也,乃順承天者,坤元之義也。上下交暢,然後萬物恊和,庶類獲乂。
劉禅は一族を連れて東へ行って、洛陽に着いて、命令を受けたよ。
「景元5年(264年)、三月の丁亥の日、皇帝は天子の座に臨んで、太常に命令して劉禅を安楽県公に封じる詔を下したよ。さあ、進んで私の命を聞き届けてね! そもそも天を統べて万物を育むには、平和をもって最も尊いものとして、天下を安らかに治めるには、時代の調和をもって最も盛んなものとするよ。だから、あらゆる物を育むのは、君主としての務めで、天命を守るのは天地の理だよ。上と下が和らいで交わって、ようやく万物は調和して、すべての生き物が安定を得られるの。
乃者漢氏失統,六合震擾。我太祖承運龍興,弘濟八極,是用應天順民,撫有區夏。于時乃考因羣傑虎爭,九服不靜,乘間阻遠,保據庸蜀,遂使西隅殊封,方外壅隔。自是以來,干戈不戢,元元之民不得保安其性,幾將五紀。朕永惟祖考遺志,思在綏緝四海,率土同軌,故爰整六師,耀威梁、益。
昔、漢の王朝は統治を失って、天下は混乱したんだ。我が太祖(曹操)は天命に従って、立ち上がって、あらゆる方面を広く救ったよ。だから、天命に応じて民に従って、天下を統一して中原を治めたよ。その時には、群雄が虎のように激しく争って、天下が静まらなくて、混乱に乗じて遠くの地を頼りにして、益州や蜀に拠って独自に領土を構えたんだ。西の辺境が別の封土として、中央から隔絶してしまったの。それから、戦乱が絶えなくて、民は安らかに暮らして生命を守れなくて、60年くらいになったんだ。私はいつも祖先の遺志を深く思い起こして、四方を平和に治めて、天下をひとつにまとめることを願っているよ。だから、すべての軍を整えて梁州と益州に威光を示したんだ。
公恢崇德度,深秉大正,不憚屈身委質,以愛民全國為貴,降心回慮,應機豹變,履言思順,以享左右無疆之休,豈不遠歟!朕嘉與君公長饗顯祿,用考咨前訓,開國胙土,率遵舊典,鍚茲玄牡,苴以白茅,永為魏藩輔,往欽哉!公其祗服朕命,克廣德心,以終乃顯烈。」
あなたは徳と度量を広く持って、正義を深めて、自らを顧みないで身を屈して節を委ねて、民を愛して国を守ることを優先してきたよね。だから、心を落ち着かせて考えを巡らして、時勢に応じて変化を遂げて、言葉に従って応じて、周囲の人たちと無限の平和と繁栄を受けることを尊んだよ。この遠大な行いはまさに素晴らしいものだね!
私はあなたの長く栄誉を受けることを喜んで、先人の教えに倣って、国を開いて領土を授けて、古代の慣習に従うべきであると考えるよ。今ここに玄牡を授けて、白茅を捧げてその礼を行って、永遠に魏の国を守って助ける役割を果たすことを命令するものだよ。あなたは私の命令を謹んで受けて、徳を広げて、その功績を輝かせてね」
食邑萬戶,賜絹萬匹,奴婢百人,他物稱是。子孫為三都尉封侯者五十餘人。尚書令樊建、侍中張紹、光祿大夫譙周、祕書令郤正、殿中督張通並封列侯。(註13)公太始七年薨於洛陽。(註14)
彼には領地が1万戸与えられて、絹が1万匹、召使いが100人、その他の物品も同じように与えられたよ。彼の子孫は三都尉となって封侯された者は50人以上だったよ。そして、尚書令の樊建、侍中の張紹、光禄大夫の譙周、秘書令の郤正、殿中督の張通も列侯に封ぜられたよ。
劉禅は太始7年(271年)に洛陽で亡くなったんだ。
漢晉春秋曰:司馬文王與禪宴,為之作故蜀技,旁人皆為之感愴,而禪喜笑自若。王謂賈充曰:「人之無情,乃可至於是乎!雖使諸葛亮在,不能輔之乆全,而況姜維邪?」充曰:「不如是,殿下何由并之。」他日,王問禪曰:「頗思蜀否?」禪曰:「此間樂,不思蜀。」郤正聞之,求見禪曰:「若王後問,宜泣而荅曰『先人墳墓遠在隴、蜀,乃心西悲,無日不思』,因閉其目。」會王復問,對如前,王曰:「何乃似郤正語邪!」禪驚視曰:「誠如尊命。」左右皆笑。
『漢晋春秋』によると、司馬昭は劉禅と宴を開いて、その席で蜀の芸能を披露させたよ。周りの人たちはみんな感動して悲しい気持ちになっちゃったんだけど、劉禅は喜んで笑って平然としていたんだ。これを見た司馬昭は賈充にこう言ったよ。
「人の感情がここまで無情なものになるなんて! もし諸葛亮がいても、彼を長く支えることはできなかっただろうね。ましてや姜維がどうしてできるのかな」
賈充はこう答えたよ。
「もし劉禅がこのようでなかったなら、あなたはどうして蜀を併合できたのかな」
後日、司馬昭は劉禅に尋ねたよ。
「蜀のことを思い出すことはある?」
劉禅はこう答えたよ。
「ここは楽しいから、蜀を思い出すことはないよ」
これを聞いた郤正は、劉禅に会って、こう忠告したよ。
「もし後で司馬昭にふたたび同じことを尋ねられたら、涙を流しながら『先祖の墓は遠く隴と蜀にあって、そのことを思うと心が西に向かって、日ごとに悲しみに暮れているんだ』と答えて、目を閉じてね」
そして、司馬昭がふたたび同じ質問をしたから、劉禅は郤正の言うとおりに答えたんだ。司馬昭はこう言ったよ。
「どうして郤正の言葉のように答えるの!」
劉禅は驚いて見つめて、こう言ったよ。
「まさにおっしゃるとおりだね」
これを見た周りの人たちはみんな笑ったんだ。
蜀記云:謚曰思,公子恂嗣。
『蜀記』によると、諡は「思」で、公子の劉恂が後を継いだよ。
陳寿の評価
評曰:後主任賢相則為循理之君,惑閹豎則為昏闇之后,傳曰「素絲無常,唯所染之」,信矣哉!禮,國君繼體,踰年改元,而章武之三年,則革稱建興,考之古義,體理為違。又國不置史,注記無官,是以行事多遺,灾異靡書。諸葛亮雖達於為政,凡此之類,猶有未周焉。然經載十二而年名不易,軍旅屢興而赦不妄下,不亦卓乎!自亮沒後,茲制漸虧,優劣著矣。(註15)
評すると、劉禅が良い臣下を任命すると道理に従う君主となって、宦官の言葉に惑わされたときには暗愚な君主となったんだ。ある伝に「糸は一定の色を持たなくて、ただ染められた色によるだけだ」とあるけど、これは信じられるね。礼によると、国の君主が位を継いだときには、元号を改めるものだけど、章武3年に建興と改元したのは、古の礼の意義に照らせば筋が通らないんだ。
それに、この国には史官(記録官)がいなくて、記録をつける官職もなかったんだ。だから、行われた事柄のたくさんが記録に残されなくて、災害や異変も記録されていないんだ。諸葛亮は政治に詳しいけど、このような面では不十分な部分があったよ。それでも、12年間年号を変えないで、戦いが何度も起きても赦免を軽々しく出さなかったのは、実に卓越していたと言えるね。でも、諸葛亮が亡くなってから、この秩序が次第に崩れてきて、その結果、良いことと悪いことの違いがはっきりしてきたんだ。
華陽國志曰:丞相亮時,有言公惜赦者,亮荅曰:「治世以大德,不以小惠,故匡衡、吳漢不願為赦。先帝亦言吾周旋陳元方、鄭康成間,每見啟告,治亂之道悉矣,曾不語赦也。若劉景升、季玉父子,歲歲赦宥,何益於治!」
『華陽国志』によると、諸葛亮が丞相の時代、「丞相は恩赦を惜しんでいる」と言う人がいたよ。これに対して諸葛亮はこう答えたよ。
「治世は大きな徳によって成り立つもので、小さな施しによるものではないよ。だから匡衡や呉漢も赦免を望まなかったんだ。先帝(劉備)もまた、『私が陳元方(陳紀)や鄭康成(鄭玄)のところに行った時、治世と乱世を分ける道について詳しく学んだけど、赦免について話すことはなかったんだ』と言っていたよ。劉景升(劉表)や、劉季玉(劉璋)親子みたいに毎年恩赦を与えていたら、治世に何の役に立ったというの!」
臣松之以為「赦不妄下」,誠為可稱,至於「年名不易」,猶所未達。案建武、建安之號,皆乆而不改,未聞前史以為美談。「經載十二」,蓋何足云?豈別有他意,求之未至乎!亮沒後,延熈之號,數盈二十,「茲制漸虧」,事又不然也。
裴松之の見解によると、「赦免を軽々しく出さなかった」ことはほめるに値するけど、「年号を変えない」ことに関してはまだ納得しきれていないんだ。建武、建安という年号は長く変わらなかったけど、それが美談として前代の歴史に記されたとは聞いたことがないよ。「12年間続いた」ことがたたえるべきなの? それとも、他に何か意図があって、それをまだ見抜けていないの? 諸葛亮が亡くなった後、延熙の年号は20年以上続いているけど、「この秩序が次第に崩れてきて」というのは、事実とは異なっていると思うよ。
歴史書を書く側として「蜀に記録が残っていないから書けないんだけど 😡」と主張した理由は何かな?
「劉禅を悪く言われたくないから、あえてスッカスカにした」
「劉備や諸葛亮のほうが重要だから」
「畏れ多くて詳しく書けないけど、晋にいる今、それを言うと裏切りだと思われちゃうから書かないでおこう」
「晋では蜀を過小評価しないといけない」
「本当に記録が無い(諸葛亮が中心だから)」
「個人的に劉禅をあまり好きではない」
とか? これらが組み合わさって記述が少ないのかも。
劉禅が主語になることが少ない=能動的に行動していないことから、劉禅の低評価につながるのかも。
後主伝は以上だよ!