はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書」の「劉焉伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉焉 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 蜀書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!
益州へ行く
劉焉字君郎,江夏竟陵人也,漢魯恭王之後裔,章帝元和中徙封竟陵,支庶家焉。焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。(註1)
劉焉は、江夏郡竟陵県の出身で、漢の魯恭王(劉余)の子孫だよ。章帝の元和の年号の間(84~87年)に竟陵に領土をもらって、分家から生まれたんだよ。劉焉は若い頃から州や郡で仕えて、宗室の身分で中郎として選ばれたけど、後に先生の祝公の喪に服して官職を辞めちゃった。
臣松之案:祝公,司徒祝恬也。
裴松之が調べたところ、祝公は司徒の祝恬のことだよ。
居陽城山,積學教授,舉賢良方正,辟司徒府,歷雒陽令、兾州刺史、南陽太守、宗正、太常。焉覩靈帝政治衰缺,王室多故,乃建議言:「刺史、太守,貨賂為官,割剥百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」
劉焉は陽城山に住んで、学問を積み重ねて、教えを授けることに努めていたの。賢良方正に挙げられて、司徒の府に仕えることになったよ。その後、雒陽令、冀州刺史(州の長官)、南陽太守(郡の長官)、宗正、太常など、たくさんの職を任せられたんだって。劉焉は、霊帝の政治の衰退と王室のたくさんの不幸に心を痛めて、提案をしたよ。
「刺史(州の長官)や太守(郡の長官)は、贈り物をして官職を手に入れることがあって、そのために民から奪って離反を招くことがあるよ。だから、清くて名の高い重臣を選んで牧伯に任命して、国を安定させるべきだよ」
焉內求交阯牧,欲避世難。議未即行,侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂,益州分野有天子氣。」焉聞扶言,意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾,(註2)謠言遠聞,而并州殺刺史張壹,涼州殺刺史耿鄙,焉謀得施。出為監軍使者,領益州牧,封陽城侯,當收儉治罪;(註3)(註4)
劉焉は内心では交阯牧になりたくて、世の中の大変なことから逃れたいって思っていたの。計画がまだ実行されていなかった時、侍中で広漢の出身の董扶が、こっそりと劉焉に語りかけたよ。
「都はもうすぐ乱れるかも。益州では天子の気配が漂っているよ」
劉焉は董扶の言葉を聞いて、ますます益州に行くことを考えるようになったよ。後に益州刺史(州の長官)である郤倹が、重い税を課して、人々を悩ませる不正な統治をしていたよ。噂は遠くまで広がって、さらに并州では刺史の張壱が殺されちゃって、涼州では刺史の耿鄙も殺されたんだ。劉焉はこれをきっかけに郤倹を討つことを考えるようになったんだ。劉焉は監軍使者として出発して、益州牧に任命されて、陽城侯に封ぜられて、郤倹を処罰することになったよ。
儉,郤正祖也。
郤倹は郤正の祖先だよ。
續漢書曰:是時用劉虞為幽州,劉焉為益州,劉表為荊州,賈琮為兾州。虞等皆海內清名之士,或從列卿尚書以選為牧伯,各以本秩居任。舊典:傳車參駕,施赤為帷裳。
『続漢書』によると、当時、幽州(刺史)には劉虞が任命されて、益州には劉焉、荊州には劉表、冀州には賈琮がそれぞれ任命されていたんだって。劉虞やその他の牧伯たちは、国内で評判の高い人たちで、九卿や尚書などから選ばれて本来の役職に就いていたよ。
古い制度によると、先導する馬車は3頭立てで、紅色の帷裳が掲げられているんだって。
臣松之案:靈帝崩後,義軍起,孫堅殺荊州刺史王叡,然後劉表為荊州,不與焉同時也。
裴松之が調べたところ、霊帝が亡くなった後、義軍が起こって、孫堅が荊州刺史(州の長官)の王叡を殺したよ。その後、劉表が荊州刺史になったみたい。劉焉と同じ時期に任命されたわけではないんだね。
漢靈帝紀曰:帝引見焉,宣示方畧,加以賞賜,勑焉為益州刺史。前刺史劉儁、郤儉皆貪殘放濫,取受狼藉,元元無聊,呼嗟充野,焉到便收攝行法,以示萬姓,勿令漏露,使癰疽決潰,為國生梗。焉受命而行,以道路不通,住荊州東界。
『漢霊帝紀』によると、帝は劉焉を呼んで、自分の方針を示して、さらに褒美をあげたよ。そして、劉焉を益州刺史(州の長官)に任命する詔勅を出したよ。前の益州刺史の劉儁や郤倹は、貪欲で残酷でわがままな統治をして、横暴な行動を重ねていて、不正な利益を受け取って、国家の利益を無視していたんだ。民はとても悲しんだの。劉焉が赴任したら、すぐに厳格な法を施行して、みんなにちゃんと教えて守れるようにして、痛みを我慢して国家の発展のために働くことを示したよ。劉焉は命令を受けて出発したけど、道路が通じていなくて、荊州の東の境界に滞在したよ。
扶亦求為蜀郡西部屬國都尉,及太倉令會巴西趙韙去官,俱隨焉。(註5)
董扶も、蜀郡の西部に属する国の都尉になりたいと求めたよ。太倉令で巴西の出身の趙韙も役人を辞めて、ふたりとも劉焉に従って同行したよ。
陳壽益部耆舊傳曰:董扶字茂安。少從師學,兼通數經,善歐陽尚書,又事聘士楊厚,究極圖讖。遂至京師,游覽太學,還家講授,弟子自遠而至。永康元年,日有蝕之,詔舉賢良方正之士,策問得失。左馮翊趙謙等舉扶,扶以病不詣,遙於長安上封事,遂稱疾篤歸家。前後宰府十辟,公車三徵,再舉賢良方正、博士、有道皆不就,名稱尤重。
陳寿の『益部耆旧伝』によると、董扶は、字は茂安だよ。彼は幼い頃から先生に学んで、いろんな経典を勉強して、特に欧陽氏の『尚書』をよく知っていて、楊厚にも師事して予言書を極めたよ。その後、彼は都を訪れて、太学を巡り歩いて、帰って教えを説くと、遠くからも弟子が集まったんだよ。
永康元年(167年)、日食が起きたときに、詔が出されて、賢良方正の人たちを推挙して、その才能や長所を問いただして、左馮翊の趙謙たちが董扶を推薦したよ。でも、董扶は病気を理由に長安に行かないで、遠くから上奏文を送って、その後病気が重くなって故郷に帰っちゃった。前後に10回も宰府から召し出されて、3回も公車で呼び出されたけど、董扶は二度と賢良方正や博士、有道などの重要な職に就かなかったんだって。それでも彼の名声はみんなから特に重んじられたんだね。
大將軍何進表薦扶曰:「資游、夏之德,述孔氏之風,內懷焦、董消復之術。方今并、涼騷擾,西戎蠢叛,宜勑公車特召,待以異禮,諮謀奇策。」
大将軍の何進は董扶を推薦する上表をしたよ。
「董扶は子游、子夏の徳を持っていて、述べると孔子みたいで、さらに内には焦氏(焦延寿)や董氏(董仲舒)の治国術も持っているよ。今は、涼州や并州で騒動が続いていて、西方の異民族も反乱を起こしちゃった。だから、命令して公車で特別に招いて、異例の待遇をして、奇策や謀略について協議させるべきだよ」
於是靈帝徵扶,即拜侍中。在朝稱為儒宗,甚見器重。求為蜀郡屬國都尉。扶出一歲而靈帝崩,天下大亂。後去官,年八十二卒于家。始扶發辭抗論,益部少雙,故號曰致止,言人莫能當,所至而談止也。後丞相諸葛亮問秦宓以扶所長,宓曰:「董扶襃秋毫之善,貶纖芥之惡。」
そこで霊帝は董扶を呼び出して、すぐに侍中に任命したよ。朝廷では彼を「儒宗」と称えて、とても重用されたんだって。彼は蜀郡に属している国の都尉になりたいって頼んだけど、董扶が1年間在任した後、霊帝が亡くなって、天下は大混乱に陥っちゃった。
後に董扶は官職を辞めちゃって、82歳で自宅で亡くなったよ。彼は最初は発言を強く押し進めることで知られていて、口数が少ない性格だったから、「致止」って称号が付けられたよ。彼の意見に対抗できる人はいなくて、彼が話すとみんなの議論が止まるほどだったからだよ。後に、丞相の諸葛亮が秦宓に董扶の得意なことを尋ねたら、秦宓はこう答えたよ。
「董扶は秋毫の善をほめて、纖芥の悪を嘆くことに優れているんだよ」
細かいことまで気にかけて、小さな問題にも気を配って、その能力が高く評価されていたという意味だよ。
黄巾の討伐
是時梁州逆賊馬相、趙祗等於緜竹縣自號黃巾,合聚疲役之民,一二日中得數千人,先殺緜竹令李升,吏民翕集合萬餘人,便前破雒縣,攻益州殺儉,又到蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。
この時、梁州では馬相や趙祗たちが反乱を起こしちゃって、緜竹で「黄巾」と名乗ったよ。労働に疲れた民を集めて、たった1、2日で数千人の大軍を作っちゃったの。彼らは最初に緜竹令の李升を殺して、役人や市民を呼び寄せて約1万人を動員したよ。次に雒県を攻略して、益州で劉儁を殺して、さらに蜀郡や犍為にまで侵攻して、数ヶ月の間に3つの郡を破ったんだ。
相自稱天子,衆以萬數。州從事賈龍素領兵數百人在犍為東界,攝斂吏民,得千餘人,攻相等,數日破走,州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治緜竹,撫納離叛,務行寬惠,陰圖異計。
馬相は自分を天子と称して、その軍勢は数万にもなっちゃったんだって。その頃、益州従事の賈龍は数百人の兵を率いて、犍為の東の境に駐屯したよ。彼は税を収めていた役人や民から1,000人以上を集めて、馬相たちを攻めたよ。数日後には馬相たちを破って、彼らは逃走しちゃった。州の境は平和になったんだ。
その後、賈龍は部下を選んで、劉焉を出迎えたよ。劉焉は緜竹を治めて、離反した人たちを慰めて、寛大で親切な政策を実行しながら、こっそりと陰謀を巡らせたんだ。
張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。(註6)
一方で、張魯の母は鬼道が好きで、特別な魅力を持っていたの。彼女はいつも劉焉の家を訪れて、そのつながりから劉焉は張魯を督義司馬に任命して漢中に住まわせたよ。そして、桟道の連絡を断って、漢の使者を殺させたんだ。劉焉は上書を提出して、米賊(五斗米道)が道路をふさいで通れなくなっちゃったことを訴えたよ。加えて、他のことを口実にして、州の豪族の王咸や李権たち十数人を殺害して、威力と刑罰を示したよ。
益部耆舊雜記曰:李權字伯豫,為臨邛長。子福。見犍為楊戲輔臣贊。
『益部耆旧伝』によると、李権は、字は伯豫で、臨邛県長だよ。彼の子の李福は、犍為の出身の楊戯の『輔臣賛』に記載されているよ。
為太守任岐及賈龍由此反攻焉,焉擊殺岐、龍。(註7)
犍為太守(郡の長官)の任岐や賈龍は、劉焉に反抗して攻撃を仕掛けたよ。でも、劉焉は彼らを撃破して、任岐と賈龍を討ち取ったよ。
英雄記曰:劉焉起兵,不與天下討董卓,保州自守。犍為太守任岐自稱將軍,與從事陳超舉兵擊焉,焉擊破之。董卓使司徒趙謙將兵向州,說校尉賈龍,使引兵還擊焉,焉出青羌與戰,故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。
『英雄記』によると、劉焉は董卓に対して兵を起こしたけど、天下と協力して董卓を討つことはしなくて、州内に留まって自衛したんだ。一方で、犍為太守(郡の長官)の任岐は将軍を自称して、従事の陳超と一緒に兵を起こして劉焉を攻撃したけど、劉焉はこれを撃破したよ。董卓は司徒の趙謙に兵を率いさせて劉焉の領土に進軍させたよ。校尉の賈龍を説得して、彼を引き連れてふたたび劉焉に対抗させたよ。でも、劉焉は青羌族(異民族)の兵を率いて戦って、任岐や賈龍たち敵を破って殺しちゃった。
任岐や賈龍たちはみんな、蜀郡の出身だったんだって。
朝廷が任命した太守を殺すのは朝廷に対する反抗とみなされてもおかしくないよね。
益州を栄えさせる
焉意漸盛,造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。時焉子範為左中郎將,誕治書御史,璋為奉車都尉,皆從獻帝在長安,(註8)惟小子別部司馬瑁素隨焉。獻帝使璋曉諭焉,焉留璋不遣。(註9)
劉焉の権力はどんどん大きくなって、1,000 以上の輿車を造ったよ。
荊州牧の劉表は皇帝に、「劉焉は、子夏が西河で聖人の論を真似したことに似ているんだ」と伝えたよ。
この時、劉焉の子の劉範は左中郎将として、劉誕は治書御史として、劉璋は奉車都尉として、献帝のいる長安にいたよ。彼らの叔子である別部司馬の劉瑁は、劉焉の元にいたよ。献帝は劉璋を送って劉焉に説得をしたけど、劉焉は劉璋を留めて帰さなかったの。
孔子が亡くなった後、子夏が西河に行って教えを広めたんだ。けど、子夏は孔子の教えを自分の手柄のように伝えて、西河では子夏が孔子だと思われていたみたい。つまり、劉表が皇帝に伝えたのは「劉焉が漢の王朝に取って代わろうとしているかも」ということ。
英雄記曰:範父焉為益州牧,董卓所徵發,皆不至。收範兄弟三人,鏁械於郿塢,為陰獄以繫之。
『英雄記』によると、劉範の父の劉焉は益州牧に任命されていたけど、董卓が兵を集めるとき、その命令に従わないで応じなかったんだ。それで、劉範と彼の兄弟たちを捕らえて、郿塢に監禁して、獄に入れちゃったの。
典略曰:時璋為奉車都尉,在京師。焉託疾召璋,璋自表省焉,焉遂留璋不還。
『典略』によると、その当時、劉璋は奉車都尉として都にいたよ。劉焉は病を口実にして劉璋を呼び寄せたけど、劉璋は自分から上表して劉焉を訪れたよ。その結果、劉焉は劉璋を留めて帰らせなかったんだよ。
時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。範謀泄,奔槐里,騰敗,退還涼州,範應時見殺,於是收誕行刑。(註10)
その頃、征西将軍の馬騰が郿に駐屯して反乱を起こしちゃった。劉焉と劉範は馬騰と一緒に、兵を連れて長安を襲撃しようと計画したよ。でも、計画が漏れちゃって、彼は槐里に逃げたよ。馬騰は敗れて涼州に撤退して、劉範はその後すぐに殺されちゃって、劉誕は拘束されて処刑されたよ。
英雄記曰:範從長安亡之馬騰營,從焉求兵。焉使校尉孫肇將兵往助之,敗於長安。
『英雄記』によると、劉範は長安から馬騰の陣営に逃げて、劉焉のもとに兵を求めたんだって。劉焉は校尉の孫肇に兵を率いて助けに向かわせたけど、長安で敗れちゃった。
議郎河南龐羲與焉通家,乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城,車具蕩盡,延及民家。焉徙治成都,旣痛其子,又感祅灾,興平元年,癕疽發背而卒。
議郎で河南の出身の龐羲は劉焉と関係があって、劉焉の孫たちを募って蜀に入ったよ。
その当時、劉焉の所領は領地で焼失しちゃって、車両や財産が全て失われて、周りの民家にも被害が広がっちゃったの。劉焉は成都に移って治めていたけど、子供たちの死を悲しんでいたところに、さらに災害の影響を受けて、興平元年(194年)、彼は背中に発病した腫瘍のために亡くなったんだ。
州大吏趙韙等貪璋溫仁,共上璋為益州刺史,詔書因以為監軍使者,領益州牧,以韙為征東中郎將,率衆擊劉表。(註11)
州の役人の趙韙たちは、劉璋の思いやりを貪ろうと、劉璋を益州刺史(州の長官)に推薦したよ。詔書によって劉璋を監軍使者に任命して、益州牧に任命したよ。同時に、趙韙は征東中郎将に任命されて、軍を率いて劉表を攻撃するように命令されたよ。
英雄記曰:焉死,子璋代為刺史。會長安拜潁川扈瑁為刺史,入漢中。荊州別駕劉闔,璋將沈彌、婁發、甘寧反,擊璋不勝,走入荊州。璋使趙韙進攻荊州,屯朐䏰。上蠢,下如振反。
『英雄記』によると、劉焉が亡くなると、子の劉璋が益州刺史(州の長官)になったよ。その頃、長安では潁川の出身の扈瑁が刺史に任命されて、漢中にやってきたよ。荊州別駕の劉闔が、劉璋の将の沈弥、婁発、甘寧と一緒に反乱を起こして、劉璋を攻撃したけど、敗北して、荊州に逃げ込んだよ。劉璋は趙韙に荊州を攻撃させて、彼は朐䏰に駐屯したよ。上は愚鈍、下は反抗的だったんだね。
さりげなく登場する甘寧さん。甘寧伝は呉書にあるよ。
陳寿の評価
蜀書劉璋伝に併せて記載したよ。
劉焉伝は以上だよ! 巻としては劉璋伝と併せて蜀書の 1 巻目だよ。