正史『三国志』呉書孫亮伝をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』呉書孫亮伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「孫亮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そん)(りょう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 吳書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

若い帝が即位する

本文

孫亮字子明,權少子也。權春秋高,而亮最少,故尤留意。姊全公主嘗譖太子和子母,心不自安,因倚權意,欲豫自結,數稱述全尚女,勸為亮納。赤烏十三年,和廢,權遂立亮為太子,以全氏為妃。

(そん)(りょう)は、(あざな)()(めい)で、(そん)(けん)の末子だよ。(そん)(けん)の年齢が高くなって、子の中で(そん)(りょう)は最も若いから、特に注目を集めていたんだって。姉である(ぜん)(こう)(しゅ)は、前に太子の(そん)()と彼の母を中傷したことがあったから、心が落ち着かなくなっていたの。それで、(そん)(けん)に頼って、自分の地位を確保しようと考えて、(ぜん)(しょう)の美徳をたたえて、(そん)(りょう)に結婚するように勧めたよ。
赤烏13年(250年)、太子の(そん)()が廃位されて、その後、(そん)(けん)(そん)(りょう)を太子に立てて、(ぜん)()を彼の妃にしたよ。

本文

太元元年夏,亮母潘氏立為皇后。冬,權寢疾,徵大將軍諸葛恪為太子太傅,會稽太守滕胤為太常,並受詔輔太子。明年四月,權薨,太子即尊號,大赦,改。是歲,於魏嘉平四年也。

(たい)(げん)元年(251年)、夏、(そん)(りょう)の母の(はん)()が皇后に立てられたよ。冬、(そん)(けん)が病床に伏して、(だい)(しょう)(ぐん)(しょ)(かつ)(かく)を招いて(たい)()(たい)()(教育係)に任命して、(かい)(けい)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(とう)(いん)(たい)(じょう)に任命して、一緒に詔を受けて(そん)(りょう)を補佐することになったよ。翌年の四月、(そん)(けん)が亡くなったんだ。(そん)(りょう)が皇帝に即位して、大赦を行って、年号を改めたよ。この年は、魏では嘉平4年(252年)だよ。

東興の戦い

本文

閏月,以恪為帝太傅,胤為衞將軍領尚書事,上大將軍呂岱為大司馬,諸文武在位皆進爵班賞,宂官加等。冬十月,太傅恪率軍遏巢湖,(註1)城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。

閏月、(しょ)(かつ)(かく)(そん)(りょう)(たい)()に、(とう)(いん)(えい)(しょう)(ぐん)に任命して、それぞれ(しょう)(しょ)も兼任させたよ。(じょう)(だい)(しょう)(ぐん)(りょ)(たい)(だい)()()に任命したよ。そして、文武の功績に応じて位や賞与を与えて、役人にも爵を与えたんだ。冬の十月、(たい)()(しょ)(かつ)(かく)が軍を率いて(そう)()をさえぎったよ。それに、(とう)(こう)に城を築いて、将軍の(ぜん)(たん)に西城を守らせて、()()(りゅう)(りゃく)に東城を守らせたの。

(註1)

巢音祖了反。

「巣」の発音は、「祖」の子音に「了」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。

本文

十二月朔丙申,大風雷電,魏使將軍諸葛誕、胡遵等步騎七萬圍東興,將軍王昶攻南郡,毌丘儉向武昌。甲寅,恪以大兵赴敵。戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜、桓嘉等。是月,雷雨,天災武昌端門;改作端門,又災內殿。(註2)

十二月の初め、丙申の日、大風と雷と稲妻が起こったんだ。()は将軍の(しょ)(かつ)(たん)()(じゅん)たちに歩兵と騎兵を7万人も動員して(とう)(こう)を包囲させたよ。()の将軍の(おう)(ちょう)(なん)郡を攻撃して、(かん)(きゅう)(けん)()(しょう)に向かったんだ。甲寅の日、(しょ)(かつ)(かく)は大軍を率いて敵に向かったよ。戊午の日、軍は(とう)(こう)に着いて、戦いが始まって、()に大勝利を収めて、()の将軍の(かん)(そう)(かん)()たちを討ったよ。
この月、雷雨があって、()(しょう)の端門に火災があったんだ。その後、端門が改築されたけど、内殿も火災に遭っちゃった。

(註2)

臣松之案:孫權赤烏十年,詔徙武昌宮材瓦,以繕治建康宮,而此猶有端門內殿。

(はい)(しょう)()が調べたところ、(そん)(けん)の時代、赤烏10年(247年)に、詔を下して武昌宮の材木や瓦を移して、建康宮の修繕に充てられたけど、それでもまだ端門や内殿が残っていたよ。

(註2)

吳錄云:諸葛恪有遷都意,更起武昌宮。今所災者恪所新作。

()(ろく)』によると、(しょ)(かつ)(かく)は都を移す考えがあって、新しく武昌宮を建てたみたい。今回の火災は、(しょ)(かつ)(かく)が新しく作ったほうで起きたんだね。

本文

二年春正月丙寅,立皇后全氏,大赦。庚午,王昶等皆退。二月,軍還自東興,大行封賞。三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相,封富春侯。十一月,有大鳥五見于春申,明年改元。

太元2年(252年)、春の正月、丙寅の日、皇后に全氏を立てて、大赦を行ったよ。庚午の日、(おう)(ちょう)たちはみんな撤退したよ。二月、軍が(とう)(こう)から帰ってきて、盛大に封賞が行ったよ。三月、(しょ)(かつ)(かく)が軍を率いて()を攻めたよ。夏の四月、(がっ)()(しん)(じょう)を包囲したけど、病気が大流行しちゃって、兵の半数以上が亡くなったんだ。秋の八月、(しょ)(かつ)(かく)は軍を引き返したよ。
冬の十月、盛大な宴が催されたよ。()(えい)(しょう)(ぐん)(そん)(しゅん)が兵を伏せて、殿堂で(しょ)(かつ)(かく)を暗殺しちゃったんだ。その後、大赦が行われたよ。(そん)(しゅん)(じょう)(しょう)に任命して、()(しゅん)(こう)に封じたよ。十一月、(しゅん)(しん)(黄浦江?)で大きな鳥が5羽も目撃されて、翌年に元号を改めたよ。

毌丘倹・文欽の乱

本文

五鳳元年夏,大水。秋,吳侯英謀殺峻,覺,英自殺。冬十一月,星茀于斗、牛。(註3)

()(ほう)元年(254年)、夏、大洪水が発生したよ。秋、()(こう)(そん)(えい)(そん)(しゅん)を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、(そん)(えい)は自ら命を絶ったんだ。冬の十一月、流星が斗宿と牛宿に現れたよ。

(註3)

江表傳曰:是歲交阯稗草化為稻。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、この年に(こう)()では雑草が稲に変化したんだって。

本文

二年春正月,魏鎮東將軍毌丘儉、前將軍文欽以淮南之衆西入,戰于樂嘉。閏月壬辰,峻及驃騎將軍呂據、左將軍留贊率兵襲壽春,軍及東興,聞欽等敗。壬寅,兵進于橐臯,欽詣峻降,淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春,峻引軍還。

五鳳2年(255年)、春の正月、()(ちん)(とう)(しょう)(ぐん)(かん)(きゅう)(けん)(ぜん)(しょう)(ぐん)(ぶん)(きん)が反乱して、(わい)(なん)の兵を率いて西に進んで、(らく)()()と戦ったよ。閏月、壬辰の日、(そん)(しゅん)(ひょう)()(しょう)(ぐん)(りょ)(きょ)()(しょう)(ぐん)(りゅう)(さん)が兵を率いて寿(じゅ)(しゅん)を襲って、軍は(とう)(こう)まで進んだけど、(ぶん)(きん)たちが敗北したことを聞いたんだ。壬寅の日、兵が(たく)(こう)に進軍して、(ぶん)(きん)(そん)(しゅん)に降伏して、(わい)(なん)の残りの兵数万も投降したよ。()(しょ)(かつ)(たん)寿(じゅ)(しゅん)に入って、(そん)(しゅん)は軍を引き返したよ。

本文

二月,及魏將軍曹珍遇于高亭,交戰,珍敗績。留贊為誕別將蔣班所敗於菰陂,贊及將軍孫楞、蔣脩等皆遇害。三月,使鎮南將軍朱異襲安豐,不克。秋七月,將軍孫儀、張怡、林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。使衞尉馮朝城廣陵,拜將軍吳穰為廣陵太守,留略為東海太守。是歲大旱。十二月,作太廟。以馮朝為監軍使者,督徐州諸軍事,民饑,軍士怨畔。

二月、()の将軍の(そう)(ちん)(こう)(てい)で遭遇して、戦って、(そん)(ちん)は敗れたんだ。(りゅう)(さん)は、(しょ)(かつ)(たん)から独立した将軍である(しょう)(はん)によって()()で敗れて、(りゅう)(さん)や将軍の(そん)(りょう)(しょう)(しゅう)たちはみんな亡くなっちゃった。
三月、(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)(しゅ)()(あん)(ぽう)を攻めさせたけど、成功しなかったんだ。秋の七月、将軍の(そん)()(ちょう)()(りん)(じゅん)たちが(そん)(しゅん)を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、(そん)()は自ら命を絶って、(りん)(じゅん)たちは処刑されたよ。
(よう)(せん)()()(ざん)では大きな石が立ったんだって。(えい)()(ふう)(ちょう)(こう)(りょう)に城を築いて、将軍の()(じょう)(こう)(りょう)(たい)(しゅ)に任命して、(りゅう)(りゃく)(とう)(かい)(たい)(しゅ)にしたよ。この年はひどいひでりが起きたの。十二月、太廟を建てたよ。(ふう)(ちょう)(かん)(ぐん)使()(しゃ)(とく)(じょ)(しゅう)(しょ)(ぐん)()に任命したよ。でも、民は飢えに苦しんで、軍の兵たちは不満を抱いたんだ。

孫綝の台頭

本文

太平元年春二月朔,(註4)建業火。峻用征北大將軍文欽計,將征魏。八月,先遣欽及驃騎呂據、車騎劉纂、鎮南朱異、前將軍唐咨軍自江都入淮、泗。九月丁亥,峻卒,以從弟偏將軍綝為侍中、武衞將軍,領中外諸軍事,召還據等。據聞綝代峻,大怒。己丑,大司馬呂岱卒。

(たい)(へい)元年(256年)、春の二月、初めの日、(けん)(ぎょう)で火災が発生したよ。(そん)(しゅん)(せい)(ほく)(だい)(しょう)(ぐん)(ぶん)(きん)の計画を利用して、()を攻める準備をしていたよ。八月、(ぶん)(きん)(ひょう)()(しょう)(ぐん)(りょ)(きょ)(しゃ)()(しょう)(ぐん)(りゅう)(さん)(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)(しゅ)()(ぜん)(しょう)(ぐん)(とう)()たちが先に、(こう)()から淮河と泗水に入ったよ。九月、丁亥の日、(そん)(しゅん)が亡くなって、(そん)(りょう)は従弟で(へん)(しょう)(ぐん)(そん)(ちん)()(ちゅう)()(えい)(しょう)(ぐん)に任命して、中外の諸軍事を統括して、(りょ)(きょ)たちを呼び戻したよ。でも、(りょ)(きょ)(そん)(ちん)(そん)(しゅん)の後を継ぐことにすごく怒っちゃった。己丑の日、(だい)()()(りょ)(たい)が亡くなったんだ。

(註4)

吳歷曰:正月,為權立廟,稱太祖廟。

()(れき)』によると、正月には(そん)(けん)の廟を建てて、太祖廟と名付けたよ。

本文

壬辰,太白犯南斗。據、欽、咨等表薦衞將軍滕胤為丞相,綝不聽。癸卯,更以胤為大司馬,代呂岱駐武昌。據引兵還,欲討綝。綝遣使以詔書告喻欽、咨等,使取據。

壬辰の日、金星が南斗にかかったよ。(りょ)(きょ)(ぶん)(きん)(とう)()たちは、(えい)(しょう)(ぐん)(とう)(いん)(じょう)(しょう)に推薦したけど、(そん)(ちん)はこれを受け入れなかったんだ。癸卯の日、(とう)(いん)(だい)()()に任命して、(りょ)(たい)の代わりに()(しょう)にとどまらせたよ。(りょ)(きょ)は兵を率いて戻って、(そん)(ちん)を討とうとしたよ。(そん)(ちん)は使者に詔書を(ぶん)(きん)(とう)()たちに送らせて、(りょ)(きょ)を捕らえるように命令したんだ。

本文

冬十月丁未,遣孫憲及丁奉、施寬等以舟兵逆據於江都,遣將軍劉丞督步騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉,大赦,改年。辛亥,獲呂據於新州。十一月,以綝為大將軍、假節,封永康侯。孫憲與將軍王惇謀殺綝,事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。十二月,使五官中郎將刁玄告亂于蜀。

冬の十月、丁未の日、(そん)(けん)(てい)(ほう)()(かん)たちを舟兵で(こう)()に送って(りょ)(きょ)を迎え撃ったよ。それに、将軍の(りゅう)(じょう)に歩兵と騎兵を率いて(とう)(いん)を攻めさせたんだ。(とう)(いん)の兵は敗北して、壊滅しちゃった。己酉の日、大赦を行って、年号を改めたよ。辛亥の日、(しん)(しゅう)(りょ)(きょ)が捕らえられたよ。十一月、(そん)(ちん)(だい)(しょう)(ぐん)に任命して、節を与えて、(えい)(こう)(こう)に封じたよ。(そん)(けん)と将軍の(おう)(とん)(そん)(ちん)を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、(そん)(ちん)(おう)(とん)を殺して、(そん)(けん)を追い詰めて自ら命を絶たせたんだ。十二月、()(かん)(ちゅう)(ろう)(しょう)(ちょう)(げん)(しょく)に乱を告げる使者として送ったよ。

政務を執る

本文

二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。夏四月,亮臨正殿,大赦,始親政事。綝所表奏,多見難問,又科兵子弟年十八已下十五已上,得三千餘人,選大將子弟年少有勇力者為之將帥。亮曰:「吾立此軍,欲與之俱長。」日於菀中習焉。(註5)

太平2年(257年)、春の二月、甲寅の日、大雨と雷があったんだ。乙卯の日、雪が降って、すごく寒くなったの。
(ちょう)()の東部を(しょう)(とう)郡、西部を(こう)(よう)郡、(かい)(けい)の東部を(りん)(かい)郡、()(しょう)の東部を(りん)(せん)郡としたよ。
夏の四月、(そん)(りょう)が正殿に臨んで、大赦を行って、自分で政務を執り始めたよ。(そん)(ちん)が提出した報告に対して、反論することが増えてきたよ。さらに、兵の子弟の中から15から18歳の人から約3,000人を選んで、若くて勇敢な人を軍の指揮官に任命したよ。(そん)(りょう)はこう言ったよ。
「私がこの軍を立てたのは、彼らと一緒に成長したいと思ったからなんだ」
日々、彼らと訓練したよ。

(註5)

吳歷曰:亮數出中書視孫權舊事,問左右侍臣:「先帝數有特制,今大將軍問事,但令我書可邪!」亮後出西苑,方食生梅,使黃門至中藏取蜜漬梅,蜜中有鼠矢,召問藏吏,藏吏叩頭。亮問吏曰:「黃門從汝求蜜邪?」吏曰:「向求,實不敢與。」

()(れき)』によると、(そん)(りょう)はよく中書に行って、(そん)(けん)が昔にした事を見て、周りの人に聞いたりしていたよ。
「先帝((そん)(けん))はよく特別な命令(手書きの詔)を出していたけど、今は(だい)(しょう)(ぐん)(そん)(ちん))が国の政治に入って、私の『可』という書を求めるだけなの!」
後に(そん)(りょう)は西苑に出て、生の梅を食べようとして、(こう)(もん)を呼んで、宮中の蔵から蜜漬けの梅を取ってきてもらったよ。でも、蜜の中に鼠のフンが混じっていたんだ。(そん)(りょう)は蔵の役人に聞いたら、役人はひざまずいて地面にひれ伏したよ。(そん)(りょう)はこう聞いたよ。 「(こう)(もん)はあなたから蜜をもらおうとしたの?」 役人はこう言ったよ。 「もらおうとしたけど、実際にはあげていないんだ」

(註5)

黃門不服,侍中刁玄、張邠啟:「黃門、藏吏辭語不同,請付獄推盡。」亮曰:「此易知耳。」令破鼠矢,矢裏燥。亮大笑謂玄、邠曰:「若矢先在蜜中,中外當俱溼,今外溼裏燥,必是黃門所為。」黃門首服,左右莫不驚悚。

(こう)(もん)は納得しなかったよ。()(ちゅう)(ちょう)(げん)(ちょう)(ひん)はこう言ったよ。
(こう)(もん)と蔵の役人の話が違うから、彼らを獄に入れて詳しく調べよう」
(そん)(りょう)はこう言ったよ。
「これは簡単にわかるよ」
そして、(そん)(りょう)が鼠のフンを壊したら、中は乾燥していたの。(そん)(りょう)は大笑いして、(ちょう)(げん)(ちょう)(ひん)にこう言ったよ。
「もしフンが最初から蜜の中に入っていたら、外側も内側も湿っているはずだよね。でも今、外側は湿っていて、内側は乾燥しているよ。だから、きっと(こう)(もん)がやったことだね」
(こう)(もん)は罪を認めて、周りの人たちはみんな驚いたの。

(註6)

江表傳曰:亮使黃門以銀碗并蓋就中藏吏取交州所獻甘蔗餳。黃門先恨藏吏,以鼠矢投餳中,啟言藏吏不謹。亮呼吏持餳器入,問曰:「此器旣蓋之,且有掩覆,無緣有此,黃門將有恨於汝邪?」吏叩頭曰:「嘗從某求宮中莞席,宮席有數,不敢與。」亮曰:「必是此也。」覆問黃門,具首伏。即於目前加髠鞭,斥付外署。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(りょう)(こう)(もん)に銀の器と蓋を持たせて、宮中の蔵の役人に渡して交州から贈られた甘蔗(さとうきび)の餡を取って来させたよ。(こう)(もん)は前から役人を恨んでいて、餡に鼠のフンを投げ入れて、役人の不注意だと非難したんだ。(そん)(りょう)は役人に餡を持って入るように命令して、こう尋ねたよ。
「この器は蓋があって、さらに覆いもかぶせられているのに、どうしてこんなことが起きたの? (こう)(もん)があなたに恨みがあるのかな?」
役人はひざまずいて地面にひれ伏しながら、こう言ったよ。
「前に、誰かから宮中のむしろの敷物を求められたけど、数が決まっているから与えなかったの」
(そん)(りょう)はこう言ったよ。
「きっとこれが原因だね」
ふたたび(こう)(もん)に尋ねると、彼は罪を認めたよ。その場で鞭を受けて、外の署に送られたんだ。

(註6)

臣松之以為鼠矢新者,亦表裏皆溼。黃門取新矢則無以得其姦也,緣遇燥矢,故成亮之惠。然猶謂吳曆此言,不如江表傳為實也。

(はい)(しょう)()の見解によると、鼠のフンが新しいものだったら、表も裏もどちらも湿っているはずだよね。(こう)(もん)が新しいフンを取っていたら、その姦計を見破ることはできないよ。乾いたフンに偶然遭ったから、(そん)(りょう)の計らいが成功したよ。『()(れき)』のこの記述は『(こう)(ひょう)(でん)』ほど正確ではないと考えているんだ。

諸葛誕の乱

本文

五月,魏征東大將軍諸葛誕以淮南之衆保壽春城,遣將軍朱成稱臣上疏,又遣子靚、長史吳綱諸牙門子弟為質。六月,使文欽、唐咨、全端等步騎三萬救誕。朱異自虎林率衆襲夏口,夏口督孫壹奔魏。秋七月,綝率衆救壽春,次于鑊里,朱異至自夏口,綝使異為前部督,與丁奉等將介士五萬解圍。

五月、()征東大将軍(せいとうしょうぐん)(しょ)(かつ)(たん)(わい)(なん)の兵を率いて寿(じゅ)(しゅん)(じょう)を守ったんだ。彼は将軍の(しゅ)(せい)を使者として上奏して、自分の子の(しょ)(かつ)(せい)(ちょう)()(行政官)の()(こう)たちを人質として送ったよ。六月、(ぶん)(きん)(とう)()(ぜん)(たん)たちに3万の歩兵と騎兵を率いて(しょ)(かつ)(たん)を助けさせたよ。(しゅ)()()(りん)から兵を率いて()(こう)を攻めて、()(こう)(とく)(そん)(いつ)()に逃げちゃった。秋の七月、(そん)(ちん)は兵を率いて寿(じゅ)(しゅん)を救援して、次に(かく)()に着いたよ。(しゅ)()()(こう)から着いて、(そん)(ちん)(しゅ)()(ぜん)()(とく)(前衛の指揮官)に任命して、(てい)(ほう)たちと一緒に5万人の兵を率いて包囲を解いたよ。

本文

八月,會稽南部反,殺都尉。鄱陽、新都民為亂,廷尉丁密、步兵校尉鄭冑、將軍鍾離牧率軍討之。朱異以軍士乏食引還,綝大怒,九月朔己巳,殺異於鑊里。辛未,綝自鑊里還建業。甲申,大赦。十一月,全緒子禕、儀以其母奔魏。十二月,全端、懌等自壽春城詣司馬文王。

八月、(かい)(けい)の南部で反乱が起こって、()()が殺されたんだ。()(よう)(しん)()の民も反乱したから、(てい)()(てい)(みつ)()(へい)(こう)()(てい)(ちゅう)、将軍の(しょう)()(ぼく)が軍を率いて反乱を討ったよ。(しゅ)()は兵の食糧が足りなくて引き返したから、(そん)(ちん)はすごく怒って、九月の初めの己巳の日、(かく)()(しゅ)()を殺しちゃったんだ。辛未の日、(そん)(ちん)(かく)()から(けん)(ぎょう)に戻ったよ。甲申の日、大赦を行ったよ。十一月、(ぜん)(しょ)の子の(ぜん)()(ぜん)()が母のことを理由に()に逃げたんだ。十二月、(ぜん)(たん)(ぜん)(えき)たちが寿(じゅ)(しゅん)(じょう)から()()(しょう)のもとに行っちゃった。

廃位される

本文

三年春正月,諸葛誕殺文欽。三月,司馬文王克壽春,誕及左右戰死,將吏已下皆降。秋七月,封故齊王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。亮以綝專恣,與太常全尚,將軍劉丞謀誅綝。九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮為會稽王,時年十六。

太平3年(258年)、春の正月、(しょ)(かつ)(たん)(ぶん)(きん)を殺したんだ。三月、司馬昭(しばしょう)寿(じゅ)(しゅん)を攻め落として、(しょ)(かつ)(たん)とその配下は戦いで亡くなって、将や役人はみんな降伏したよ。
秋の七月、昔の(せい)(おう)(そん)(ふん)(しょう)(あん)(こう)に封ぜられたよ。州や郡に対して、宮殿の材木を伐採するように詔を下したよ。八月から暗くて40日以上も雨が降らなくて、干ばつに見舞われたんだ。
(そん)(りょう)は、(そん)(ちん)が好き勝手にしていたから、(たい)(じょう)(ぜん)(しょう)や将軍の(りゅう)(じょう)と一緒に(そん)(ちん)を討つための計画を立てたよ。九月、戊午の日、(そん)(ちん)は兵を率いて(ぜん)(しょう)を攻めて、弟の(そん)(おん)(りゅう)(じょう)を蒼龍門外で攻めさせて、大臣を宮門に集めて、(そん)(りょう)を廃位して、(かい)(けい)(おう)に降格させたんだ。この時、(そん)(りょう)は16歳だったよ。

孫亮伝は以上だよ!

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