はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「孫亮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
孫亮 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 吳書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
若い帝が即位する
孫亮字子明,權少子也。權春秋高,而亮最少,故尤留意。姊全公主嘗譖太子和子母,心不自安,因倚權意,欲豫自結,數稱述全尚女,勸為亮納。赤烏十三年,和廢,權遂立亮為太子,以全氏為妃。
孫亮は、字は子明で、孫権の末子だよ。孫権の年齢が高くなって、子の中で孫亮は最も若いから、特に注目を集めていたんだって。姉である全公主は、前に太子の孫和と彼の母を中傷したことがあったから、心が落ち着かなくなっていたの。それで、孫権に頼って、自分の地位を確保しようと考えて、全尚の美徳をたたえて、孫亮に結婚するように勧めたよ。
赤烏13年(250年)、太子の孫和が廃位されて、その後、孫権は孫亮を太子に立てて、全氏を彼の妃にしたよ。
太元元年夏,亮母潘氏立為皇后。冬,權寢疾,徵大將軍諸葛恪為太子太傅,會稽太守滕胤為太常,並受詔輔太子。明年四月,權薨,太子即尊號,大赦,改。是歲,於魏嘉平四年也。
太元元年(251年)、夏、孫亮の母の潘氏が皇后に立てられたよ。冬、孫権が病床に伏して、大将軍の諸葛恪を招いて太子太傅(教育係)に任命して、会稽太守(郡の長官)の滕胤を太常に任命して、一緒に詔を受けて孫亮を補佐することになったよ。翌年の四月、孫権が亡くなったんだ。孫亮が皇帝に即位して、大赦を行って、年号を改めたよ。この年は、魏では嘉平4年(252年)だよ。
東興の戦い
閏月,以恪為帝太傅,胤為衞將軍領尚書事,上大將軍呂岱為大司馬,諸文武在位皆進爵班賞,宂官加等。冬十月,太傅恪率軍遏巢湖,(註1)城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。
閏月、諸葛恪を孫亮の太傅に、滕胤を衛将軍に任命して、それぞれ尚書も兼任させたよ。上大将軍の呂岱を大司馬に任命したよ。そして、文武の功績に応じて位や賞与を与えて、役人にも爵を与えたんだ。冬の十月、太傅の諸葛恪が軍を率いて巣湖をさえぎったよ。それに、東興に城を築いて、将軍の全端に西城を守らせて、都尉の留略に東城を守らせたの。
巢音祖了反。
「巣」の発音は、「祖」の子音に「了」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
十二月朔丙申,大風雷電,魏使將軍諸葛誕、胡遵等步騎七萬圍東興,將軍王昶攻南郡,毌丘儉向武昌。甲寅,恪以大兵赴敵。戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜、桓嘉等。是月,雷雨,天災武昌端門;改作端門,又災內殿。(註2)
十二月の初め、丙申の日、大風と雷と稲妻が起こったんだ。魏は将軍の諸葛誕や胡遵たちに歩兵と騎兵を7万人も動員して東興を包囲させたよ。魏の将軍の王昶は南郡を攻撃して、毌丘倹は武昌に向かったんだ。甲寅の日、諸葛恪は大軍を率いて敵に向かったよ。戊午の日、軍は東興に着いて、戦いが始まって、魏に大勝利を収めて、魏の将軍の韓綜や桓嘉たちを討ったよ。
この月、雷雨があって、武昌の端門に火災があったんだ。その後、端門が改築されたけど、内殿も火災に遭っちゃった。
臣松之案:孫權赤烏十年,詔徙武昌宮材瓦,以繕治建康宮,而此猶有端門內殿。
裴松之が調べたところ、孫権の時代、赤烏10年(247年)に、詔を下して武昌宮の材木や瓦を移して、建康宮の修繕に充てられたけど、それでもまだ端門や内殿が残っていたよ。
吳錄云:諸葛恪有遷都意,更起武昌宮。今所災者恪所新作。
『呉録』によると、諸葛恪は都を移す考えがあって、新しく武昌宮を建てたみたい。今回の火災は、諸葛恪が新しく作ったほうで起きたんだね。
二年春正月丙寅,立皇后全氏,大赦。庚午,王昶等皆退。二月,軍還自東興,大行封賞。三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相,封富春侯。十一月,有大鳥五見于春申,明年改元。
太元2年(252年)、春の正月、丙寅の日、皇后に全氏を立てて、大赦を行ったよ。庚午の日、王昶たちはみんな撤退したよ。二月、軍が東興から帰ってきて、盛大に封賞が行ったよ。三月、諸葛恪が軍を率いて魏を攻めたよ。夏の四月、合肥新城を包囲したけど、病気が大流行しちゃって、兵の半数以上が亡くなったんだ。秋の八月、諸葛恪は軍を引き返したよ。
冬の十月、盛大な宴が催されたよ。武衛将軍の孫峻が兵を伏せて、殿堂で諸葛恪を暗殺しちゃったんだ。その後、大赦が行われたよ。孫峻を丞相に任命して、富春侯に封じたよ。十一月、春申(黄浦江?)で大きな鳥が5羽も目撃されて、翌年に元号を改めたよ。
毌丘倹・文欽の乱
五鳳元年夏,大水。秋,吳侯英謀殺峻,覺,英自殺。冬十一月,星茀于斗、牛。(註3)
五鳳元年(254年)、夏、大洪水が発生したよ。秋、呉侯の孫英が孫峻を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、孫英は自ら命を絶ったんだ。冬の十一月、流星が斗宿と牛宿に現れたよ。
江表傳曰:是歲交阯稗草化為稻。
『江表伝』によると、この年に交阯では雑草が稲に変化したんだって。
二年春正月,魏鎮東將軍毌丘儉、前將軍文欽以淮南之衆西入,戰于樂嘉。閏月壬辰,峻及驃騎將軍呂據、左將軍留贊率兵襲壽春,軍及東興,聞欽等敗。壬寅,兵進于橐臯,欽詣峻降,淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春,峻引軍還。
五鳳2年(255年)、春の正月、魏の鎮東将軍の毌丘倹と前将軍の文欽が反乱して、淮南の兵を率いて西に進んで、楽嘉で魏と戦ったよ。閏月、壬辰の日、孫峻と驃騎将軍の呂拠、左将軍の留賛が兵を率いて寿春を襲って、軍は東興まで進んだけど、文欽たちが敗北したことを聞いたんだ。壬寅の日、兵が橐臯に進軍して、文欽が孫峻に降伏して、淮南の残りの兵数万も投降したよ。魏の諸葛誕が寿春に入って、孫峻は軍を引き返したよ。
二月,及魏將軍曹珍遇于高亭,交戰,珍敗績。留贊為誕別將蔣班所敗於菰陂,贊及將軍孫楞、蔣脩等皆遇害。三月,使鎮南將軍朱異襲安豐,不克。秋七月,將軍孫儀、張怡、林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。使衞尉馮朝城廣陵,拜將軍吳穰為廣陵太守,留略為東海太守。是歲大旱。十二月,作太廟。以馮朝為監軍使者,督徐州諸軍事,民饑,軍士怨畔。
二月、魏の将軍の曹珍と高亭で遭遇して、戦って、曹珍は敗れたんだ。留賛は、諸葛誕から独立した将軍である蒋班によって菰陂で敗れて、留賛や将軍の孫楞、蒋脩たちはみんな亡くなっちゃった。
三月、鎮南将軍の朱異に安豊を攻めさせたけど、成功しなかったんだ。秋の七月、将軍の孫儀、張怡、林恂たちが孫峻を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、孫儀は自ら命を絶って、林恂たちは処刑されたよ。
陽羨の離里山では大きな石が立ったんだって。衛尉の馮朝が広陵に城を築いて、将軍の呉穣を広陵太守に任命して、留略を東海太守にしたよ。この年はひどいひでりが起きたの。十二月、太廟を建てたよ。馮朝を監軍使者、督徐州諸軍事に任命したよ。でも、民は飢えに苦しんで、軍の兵たちは不満を抱いたんだ。
孫綝の台頭
太平元年春二月朔,(註4)建業火。峻用征北大將軍文欽計,將征魏。八月,先遣欽及驃騎呂據、車騎劉纂、鎮南朱異、前將軍唐咨軍自江都入淮、泗。九月丁亥,峻卒,以從弟偏將軍綝為侍中、武衞將軍,領中外諸軍事,召還據等。據聞綝代峻,大怒。己丑,大司馬呂岱卒。
太平元年(256年)、春の二月、初めの日、建業で火災が発生したよ。孫峻は征北大将軍の文欽の計画を利用して、魏を攻める準備をしていたよ。八月、文欽や驃騎将軍の呂拠、車騎将軍の劉纂、鎮南将軍の朱異、前将軍の唐咨たちが先に、江都から淮河と泗水に入ったよ。九月、丁亥の日、孫峻が亡くなって、孫亮は従弟で偏将軍の孫綝を侍中、武衛将軍に任命して、中外の諸軍事を統括して、呂拠たちを呼び戻したよ。でも、呂拠は孫綝が孫峻の後を継ぐことにすごく怒っちゃった。己丑の日、大司馬の呂岱が亡くなったんだ。
吳歷曰:正月,為權立廟,稱太祖廟。
『呉歴』によると、正月には孫権の廟を建てて、太祖廟と名付けたよ。
壬辰,太白犯南斗。據、欽、咨等表薦衞將軍滕胤為丞相,綝不聽。癸卯,更以胤為大司馬,代呂岱駐武昌。據引兵還,欲討綝。綝遣使以詔書告喻欽、咨等,使取據。
壬辰の日、金星が南斗にかかったよ。呂拠、文欽、唐咨たちは、衛将軍の滕胤を丞相に推薦したけど、孫綝はこれを受け入れなかったんだ。癸卯の日、滕胤を大司馬に任命して、呂岱の代わりに武昌にとどまらせたよ。呂拠は兵を率いて戻って、孫綝を討とうとしたよ。孫綝は使者に詔書を文欽や唐咨たちに送らせて、呂拠を捕らえるように命令したんだ。
冬十月丁未,遣孫憲及丁奉、施寬等以舟兵逆據於江都,遣將軍劉丞督步騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉,大赦,改年。辛亥,獲呂據於新州。十一月,以綝為大將軍、假節,封永康侯。孫憲與將軍王惇謀殺綝,事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。十二月,使五官中郎將刁玄告亂于蜀。
冬の十月、丁未の日、孫憲や丁奉、施寛たちを舟兵で江都に送って呂拠を迎え撃ったよ。それに、将軍の劉丞に歩兵と騎兵を率いて滕胤を攻めさせたんだ。滕胤の兵は敗北して、壊滅しちゃった。己酉の日、大赦を行って、年号を改めたよ。辛亥の日、新州で呂拠が捕らえられたよ。十一月、孫綝を大将軍に任命して、節を与えて、永康侯に封じたよ。孫憲と将軍の王惇が孫綝を暗殺しようとしたけど、計画が見つかって、孫綝は王惇を殺して、孫憲を追い詰めて自ら命を絶たせたんだ。十二月、五官中郎将の刁玄を蜀に乱を告げる使者として送ったよ。
政務を執る
二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。夏四月,亮臨正殿,大赦,始親政事。綝所表奏,多見難問,又科兵子弟年十八已下十五已上,得三千餘人,選大將子弟年少有勇力者為之將帥。亮曰:「吾立此軍,欲與之俱長。」日於菀中習焉。(註5)
太平2年(257年)、春の二月、甲寅の日、大雨と雷があったんだ。乙卯の日、雪が降って、すごく寒くなったの。
長沙の東部を湘東郡、西部を衡陽郡、会稽の東部を臨海郡、豫章の東部を臨川郡としたよ。
夏の四月、孫亮が正殿に臨んで、大赦を行って、自分で政務を執り始めたよ。孫綝が提出した報告に対して、反論することが増えてきたよ。さらに、兵の子弟の中から15から18歳の人から約3,000人を選んで、若くて勇敢な人を軍の指揮官に任命したよ。孫亮はこう言ったよ。
「私がこの軍を立てたのは、彼らと一緒に成長したいと思ったからなんだ」
日々、彼らと訓練したよ。
吳歷曰:亮數出中書視孫權舊事,問左右侍臣:「先帝數有特制,今大將軍問事,但令我書可邪!」亮後出西苑,方食生梅,使黃門至中藏取蜜漬梅,蜜中有鼠矢,召問藏吏,藏吏叩頭。亮問吏曰:「黃門從汝求蜜邪?」吏曰:「向求,實不敢與。」
『呉歴』によると、孫亮はよく中書に行って、孫権が昔にした事を見て、周りの人に聞いたりしていたよ。
「先帝(孫権)はよく特別な命令(手書きの詔)を出していたけど、今は大将軍(孫綝)が国の政治に入って、私の『可』という書を求めるだけなの!」
後に孫亮は西苑に出て、生の梅を食べようとして、黄門を呼んで、宮中の蔵から蜜漬けの梅を取ってきてもらったよ。でも、蜜の中に鼠のフンが混じっていたんだ。孫亮は蔵の役人に聞いたら、役人はひざまずいて地面にひれ伏したよ。孫亮はこう聞いたよ。
「黄門はあなたから蜜をもらおうとしたの?」
役人はこう言ったよ。
「もらおうとしたけど、実際にはあげていないんだ」
黃門不服,侍中刁玄、張邠啟:「黃門、藏吏辭語不同,請付獄推盡。」亮曰:「此易知耳。」令破鼠矢,矢裏燥。亮大笑謂玄、邠曰:「若矢先在蜜中,中外當俱溼,今外溼裏燥,必是黃門所為。」黃門首服,左右莫不驚悚。
黄門は納得しなかったよ。侍中の刁玄と張邠はこう言ったよ。
「黄門と蔵の役人の話が違うから、彼らを獄に入れて詳しく調べよう」
孫亮はこう言ったよ。
「これは簡単にわかるよ」
そして、孫亮が鼠のフンを壊したら、中は乾燥していたの。孫亮は大笑いして、刁玄と張邠にこう言ったよ。
「もしフンが最初から蜜の中に入っていたら、外側も内側も湿っているはずだよね。でも今、外側は湿っていて、内側は乾燥しているよ。だから、きっと黄門がやったことだね」
黄門は罪を認めて、周りの人たちはみんな驚いたの。
江表傳曰:亮使黃門以銀碗并蓋就中藏吏取交州所獻甘蔗餳。黃門先恨藏吏,以鼠矢投餳中,啟言藏吏不謹。亮呼吏持餳器入,問曰:「此器旣蓋之,且有掩覆,無緣有此,黃門將有恨於汝邪?」吏叩頭曰:「嘗從某求宮中莞席,宮席有數,不敢與。」亮曰:「必是此也。」覆問黃門,具首伏。即於目前加髠鞭,斥付外署。
『江表伝』によると、孫亮は黄門に銀の器と蓋を持たせて、宮中の蔵の役人に渡して交州から贈られた甘蔗(さとうきび)の餡を取って来させたよ。黄門は前から役人を恨んでいて、餡に鼠のフンを投げ入れて、役人の不注意だと非難したんだ。孫亮は役人に餡を持って入るように命令して、こう尋ねたよ。
「この器は蓋があって、さらに覆いもかぶせられているのに、どうしてこんなことが起きたの? 黄門があなたに恨みがあるのかな?」
役人はひざまずいて地面にひれ伏しながら、こう言ったよ。
「前に、誰かから宮中のむしろの敷物を求められたけど、数が決まっているから与えなかったの」
孫亮はこう言ったよ。
「きっとこれが原因だね」
ふたたび黄門に尋ねると、彼は罪を認めたよ。その場で鞭を受けて、外の署に送られたんだ。
臣松之以為鼠矢新者,亦表裏皆溼。黃門取新矢則無以得其姦也,緣遇燥矢,故成亮之惠。然猶謂吳曆此言,不如江表傳為實也。
裴松之の見解によると、鼠のフンが新しいものだったら、表も裏もどちらも湿っているはずだよね。黄門が新しいフンを取っていたら、その姦計を見破ることはできないよ。乾いたフンに偶然遭ったから、孫亮の計らいが成功したよ。『呉歴』のこの記述は『江表伝』ほど正確ではないと考えているんだ。
諸葛誕の乱
五月,魏征東大將軍諸葛誕以淮南之衆保壽春城,遣將軍朱成稱臣上疏,又遣子靚、長史吳綱諸牙門子弟為質。六月,使文欽、唐咨、全端等步騎三萬救誕。朱異自虎林率衆襲夏口,夏口督孫壹奔魏。秋七月,綝率衆救壽春,次于鑊里,朱異至自夏口,綝使異為前部督,與丁奉等將介士五萬解圍。
五月、魏の征東大将軍の諸葛誕が淮南の兵を率いて寿春城を守ったんだ。彼は将軍の朱成を使者として上奏して、自分の子の諸葛靚や長吏(行政官)の呉綱たちを人質として送ったよ。六月、文欽や唐咨、全端たちに3万の歩兵と騎兵を率いて諸葛誕を助けさせたよ。朱異は虎林から兵を率いて夏口を攻めて、夏口督の孫壱は魏に逃げちゃった。秋の七月、孫綝は兵を率いて寿春を救援して、次に鑊里に着いたよ。朱異は夏口から着いて、孫綝は朱異を前部督(前衛の指揮官)に任命して、丁奉たちと一緒に5万人の兵を率いて包囲を解いたよ。
八月,會稽南部反,殺都尉。鄱陽、新都民為亂,廷尉丁密、步兵校尉鄭冑、將軍鍾離牧率軍討之。朱異以軍士乏食引還,綝大怒,九月朔己巳,殺異於鑊里。辛未,綝自鑊里還建業。甲申,大赦。十一月,全緒子禕、儀以其母奔魏。十二月,全端、懌等自壽春城詣司馬文王。
八月、会稽の南部で反乱が起こって、都尉が殺されたんだ。鄱陽と新都の民も反乱したから、廷尉の丁密や歩兵校尉の鄭冑、将軍の鍾離牧が軍を率いて反乱を討ったよ。朱異は兵の食糧が足りなくて引き返したから、孫綝はすごく怒って、九月の初めの己巳の日、鑊里で朱異を殺しちゃったんだ。辛未の日、孫綝は鑊里から建業に戻ったよ。甲申の日、大赦を行ったよ。十一月、全緒の子の全禕と全儀が母のことを理由に魏に逃げたんだ。十二月、全端や全懌たちが寿春城から司馬昭のもとに行っちゃった。
廃位される
三年春正月,諸葛誕殺文欽。三月,司馬文王克壽春,誕及左右戰死,將吏已下皆降。秋七月,封故齊王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。亮以綝專恣,與太常全尚,將軍劉丞謀誅綝。九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮為會稽王,時年十六。
太平3年(258年)、春の正月、諸葛誕が文欽を殺したんだ。三月、司馬昭が寿春を攻め落として、諸葛誕とその配下は戦いで亡くなって、将や役人はみんな降伏したよ。
秋の七月、昔の斉王の孫奮が章安侯に封ぜられたよ。州や郡に対して、宮殿の材木を伐採するように詔を下したよ。八月から暗くて40日以上も雨が降らなくて、干ばつに見舞われたんだ。
孫亮は、孫綝が好き勝手にしていたから、太常の全尚や将軍の劉丞と一緒に孫綝を討つための計画を立てたよ。九月、戊午の日、孫綝は兵を率いて全尚を攻めて、弟の孫恩に劉丞を蒼龍門外で攻めさせて、大臣を宮門に集めて、孫亮を廃位して、会稽王に降格させたんだ。この時、孫亮は16歳だったよ。
孫亮伝は以上だよ!