はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書孫皓伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
孫皓 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。
- 正史『三国志』「呉書孫皓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』「呉書孫皓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 2 ← この記事だよ
出典
三國志 : 吳書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

年号を改める
天冊元年,吳郡言掘地得銀,長一尺,廣三分,刻上有年月字,於是大赦,改年。
天冊元年(275年)、呉郡で地面を掘ると銀が見つかって、その長さは1尺、幅は3分あって、上には年月が刻まれていたよ。この出来事を受けて、大赦を行って、年号を改めたよ。
天璽元年,吳郡言臨平湖自漢末草穢壅塞,今更開通。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。又於湖邊得石函,中有小石,青白色,長四寸,廣二寸餘,刻上作皇帝字,於是改年,大赦。會稽太守車浚、湘東太守張詠不出筭緡,就在所斬之,徇首諸郡。(註25)
天璽元年(276年)、呉郡では臨平湖が漢の時代の終わり頃から汚れて塞がれていたけど、今また開通させたよ。長老たちによると、この湖が塞がると天下が乱れて、この湖が開けば天下が平和になるんだって。それに、湖のほとりで石の箱を見つけて、中には小さな石が入っていたの。その石は青白色で、長さは4寸、幅は2寸以上あって、上には皇帝の字が刻まれていたよ。そこで、年号を改めて、大赦を行ったよ。
会稽太守の車浚と湘東太守の張詠は税金を出さなかったから、その場で斬られて、首はそれぞれの郡に示されたんだ。
江表傳曰:浚在公清忠,值郡荒旱,民無資糧,表求振貸。皓謂浚欲樹私恩,遣人梟首。又尚書熊睦見皓酷虐,微有所諫,皓使人以刀環撞殺之,身無完肌。
『江表伝』によると、車浚は公正で忠実だったよ。ある時、その地域で干ばつが続いて、民は食料に困っていたんだ。車浚は支援を求めたけど、孫皓は車浚が自分の利益を図っていると考えて、使者を送って首をはねるように命令したよ。それに、尚書の熊睦は孫皓の残酷さに反対したけど、孫皓は使者を送って、熊睦を刀で斬ったよ。
秋八月,京下督孫楷降晉。鄱陽言歷陽山石文理成字,凡二十,云「楚九州渚,吳九州都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。(註26)
秋の八月、京下督の孫楷が晋に投降しちゃった。鄱陽では、歴陽山の石が文字にの形になって、全部で20の文があったよ。その中には「楚の九州の渚、呉の九州の都、揚州の士たちが天子となって、4世代にわたる治世の後、太平が始まる」と書かれていたんだって。
江表傳曰:歷陽縣有石山臨水,高百丈,其三十丈所,有七穿駢羅,穿中色黃赤,不與本體相似,俗相傳謂之石印。又云,石印封發,天下當太平。下有祠屋,巫祝言石印神有三郎。時歷陽長表上言石印發,皓遣使以太牢祭歷山。巫言,石印三郎說「天下方太平」。使者作高梯,上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟皓。皓大喜曰:「吳當為九州作都、渚乎!從大皇帝逮孤四世矣,太平之主,非孤復誰?」重遣使,以印綬拜三郎為王,又刻石立銘,襃贊靈德,以荅休祥。
『江表伝』によると、歴陽県には水辺に立つ石山があって、高さは100丈もあるよ。そのうちの30丈くらいには、7つの穴が開いていて、その中は黄色や赤色をしていて、本来の石とは異なる色合いなんだ。地元の伝承ではこれを「石印」と呼んでいるんだって。それに、「石印が発すると、天下に太平が訪れる」とも言われているみたいだよ。山の下には祠があって、祭司は石印を神として扱っていて、「石印の神には三郎がいる」と言っているよ。
この時、歴陽県の長官が石印を見つけたと報告して、孫皓は使者を送って歴山に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせたよ。巫によると、石印の三郎が「天下が太平になるだろう」と語ったと伝えたよ。使者は高い梯子を作って、上って印文を見たよ。そこには赤色で20の文字が刻まれていて、これを孫皓に報告したよ。孫皓はとても喜んでこう言ったよ。
「呉は全土に都を建てて、渚を造るべきだね! 私は大皇帝(孫権)から受け継いで、4代にわたって太平の主となるんだ。もし私でなければ、誰がそれにふさわしいの?」
さらに使者を送って、印綬で石印の三郎を王に封じて、石に碑文を刻んで、霊徳をたたえて、良い兆しに感謝することを命令したよ。
又吳興陽羨山有空石,長十餘丈,名曰石室,在所表為大瑞。乃遣兼司徒董朝、兼太常周處至陽羨縣,封襌國山。明年改元,大赦,以恊石文。
それに、呉興の陽羨山には空洞のある石があって、長さは十数丈あって、「石室」と呼ばれていて、それをとてもめでたいしるしとして上表されたよ。そこで、司徒を兼ねる董朝と太常を兼ねる周処を陽羨県に送って、国山として封じたよ。翌年には年号を改めて、大赦を行って、石文に合わせたよ。
郭馬の反乱
天紀元年夏,夏口督孫慎出江夏、汝南,燒略居民。初,騶子張俶多所譖白,累遷為司直中郎將,封侯,甚見寵愛,是歲姦情發聞,伏誅。(註27)
天紀元年(277年)、夏、夏口督の孫慎が江夏や汝南に出て、民を焼き討ちしたよ。最初は騶子(戦車や馬を担当する使用人)の張俶がたくさんの誹謗をして告発して、後に司直中郎将に昇進して、爵位を得て、とても気に入られていたけど、この年にその悪い計画が見つかっちゃって、処刑されたよ。
江表傳曰:俶父,會稽山陰縣卒也,知俶不良,上表云:「若用俶為司直,有罪乞不從坐。」皓許之。俶表正彈曲二十人,專糾司不法,於是愛惡相攻,互相謗告。彈曲承言,收繫囹圄,聽訟失理,獄以賄成。人民窮困,無所措手足。俶奢淫無厭,取小妻三十餘人,擅殺無辜,衆姦並發,父子俱見車裂。
『江表伝』によると、張俶の父は会稽郡山陰県で亡くなったよ。彼は張俶の悪事を知って、上表してこう言ったよ。
「張俶を司直に任命して使うなら、罪があっても私に責任を負わせないでほしいんだ」
孫皓はこれを許したよ。張俶は弾曲(役人による違法行為の摘発をする役人)として20人を指名して、不正な司法官を厳しく追及したよ。その結果、憎み合っている人たちは、お互いに訴え合って、告発するようになったんだ。弾曲は訴訟を受け入れて、人を牢獄に入れて、公正を欠く裁判をして、贈り物を送って判決を下したんだ。人々は困って、どうすることもできなかったの。張俶は贅沢で飽き足らずに、30人以上の愛人を取って、無実の人たちを勝手に殺して、たくさんの不正な行いをしたんだ。結局、父と子は一緒に車裂の刑に処されたよ。
二年秋七月,立成紀、宣威等十一王,王給三千兵,大赦。
天紀二年(278年)、秋の七月、成紀王や宣威王たち11人の王が立てられて、それぞれに3,000の兵を与えて、大赦を行ったよ。
三年夏,郭馬反。馬本合浦太守脩允部曲督。允轉桂林太守,疾病,住廣州,先遣馬將五百兵至郡安撫諸夷。允死,兵當分給,馬等累世舊軍,不樂離別。皓時又科實廣州戶口,馬與部曲將何典、王族、吳述、殷興等因此恐動兵民,合聚人衆,攻殺廣州督虞授。馬自號都督交廣二州諸軍事、安南將軍,興廣州刺史,述南海太守。典攻蒼梧,族攻始興。(註28)
天紀三年(279年)、夏、郭馬が反乱を起こしたよ。郭馬はもともと合浦太守だった脩允の部隊の督だったよ。脩允は後に桂林太守になったけど、病気のため広州にいたんだ。先に郭馬は、郡の治安を守るために500の兵士を送ったよ。でも、脩允が亡くなった後、兵たちを分けることになったけど、郭馬やその他の古くからの軍勢は離れ離れになることを望まなかったんだ。
この頃、孫皓は広州の人口を調べていて、郭馬とその部下の将の何典、王族、呉述、殷興たちはこのことをきっかけに兵や民の動揺を恐れて、一堂に集まって、広州督の虞授を攻めて殺しちゃったんだ。郭馬は自分を都督(指揮官)として交州と広州の軍事を監督して、安南将軍と名乗って、殷興を広州刺史、呉述を南海太守に勝手に任命したよ。何典は蒼梧を攻めて、王族は始興を攻めたよ。
漢晉春秋曰:先是,吳有說讖者曰:「吳之敗,兵起南裔,亡吳者公孫也。」皓聞之,文武職位至于卒伍有姓公孫者,皆徙於廣州,不令停江邊。及聞馬反,大懼曰:「此天亡也。」
『漢晋春秋』によると、これより前に、呉では予言者がこう言ったよ。
「呉が敗れる時、南方から兵が起こって、呉を滅ぼす者は公孫氏だよ」
孫皓はこれを聞いて、文武の地位にある者で姓が公孫である人たちをみんな、広州州に移して、長江のほとりには止まらせないようにしたよ。そして郭馬の反乱のうわさを聞くと、とても恐れて、こう言ったよ。
「これが、天が亡ぼすんだ」
八月,以軍師張悌為丞相,牛渚都督何植為司徒。執金吾滕循為司空,未拜,轉鎮南將軍,假節領廣州牧,率萬人從東道討馬,與族遇於始興,未得前。馬殺南海太守劉略,逐廣州刺史徐旗。皓又遣徐陵督陶濬將七千人從西道,命交州牧陶璜部伍所領及合浦、鬱林諸郡兵,當與東西軍共擊馬。
八月、軍師の張悌を丞相に、牛渚都督の何植を司徒を任命したよ。それに、執金吾の滕循を司空にしたけど、任命する前に、南方鎮将軍にして、節を与えて広州牧を兼ねさせて、東方から1万の兵を率いて郭馬を討つために出陣させたよ。でも、始興で王族と出会って、前進できたかったの。郭馬は南海太守の劉略を殺して、広州刺史の徐旗を追放しちゃった。孫皓はさらに、徐陵督の陶濬を将として7,000人の兵を西方から進ませたよ。彼らは、交州牧の陶璜が指揮する部隊と合浦や鬱林の郡の兵と、東西の軍と一緒に郭馬を攻撃するように命令されたよ。
有鬼目菜生工人黃耇家,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚三分。又有買菜生工人吳平家,高四尺,厚三分,如枇杷形,上廣尺八寸,下莖廣五寸,兩邊生葉綠色。東觀案圖,名鬼目作芝草,買菜作平慮草,遂以耇為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。
工人の黄耇の家には鬼目菜が生えたよ。なつめの木に寄りかかって、長さは1丈以上あって、茎の幅は4寸、厚さは3分だよ。さらに、工人の呉平の家には買菜が生えたよ。高さは4尺、厚さは3分で、枇杷の形をしていて、上部の幅は1尺8寸、下部の茎の幅は5寸で、両側に緑色の葉が生えているよ。東観の案内図によると、鬼目菜は芝草(きのこ)で、買菜がは平慮草と呼ばれているよ。そこで、黄耇は侍芝郎、呉平は平慮郎に任命されて、それぞれ銀印と青い綬が与えられたよ。
見つけた植物にちなんで侍芝郎、平慮郎って、そのままだね。
呉の滅亡
冬,晉命鎮東大將軍司馬伷向涂中,安東將軍王渾、揚州刺史周浚向牛渚,建威將軍王戎向武昌,平南將軍胡奮向夏口,鎮南將軍杜預向江陵,龍驤將軍王濬、廣武將軍唐彬浮江東下,太尉賈充為大都督,量宜處要,盡軍勢之中。陶濬至武昌,聞北軍大出,停駐不前。
冬、晋は命令して、鎮東大将軍の司馬伷を涂中へ、安東将軍の王渾と揚州刺史の周浚を牛渚へ、建威将軍の王戎を武昌へ、平南将軍の胡奮を夏口へ、鎮南将軍の杜預を江陵へ向かわせて、龍驤将軍の王濬と広武将軍の唐彬に長江を下って東へ進ませたよ。太尉の賈充は大都督として、適切な場所に軍を置いて、軍の力を最大限に活用したよ。
陶濬が武昌に着くと、北(晋)の軍が大規模に出撃していると聞いて、進軍を止めたよ。
初,皓每宴會羣臣,無不咸令沈醉。置黃門郎十人,特不與酒,侍立終日,為司過之吏。宴罷之後,各奏其闕失,迕視之咎,謬言之愆,罔有不舉。大者即加威刑,小者輒以為罪。後宮數千,而採擇無已。又激水入宮,宮人有不合意者,輒殺流之。或剥人之面,或鑿人之眼。岑昬險諛貴幸,致位九列,好興功役,衆所患苦。是以上下離心,莫為皓盡力,蓋積惡已極,不復堪命故也。(註29)
前に、孫皓は宴会のたびに臣下を集めて、命令してみんなを酔わせたんだ。黄門侍郎10人を置いて、彼らには酒を与えないで、一日中立ちながら仕事をさせて、過ちを取り締まる役人にしたよ。宴会が終わると、それぞれはその欠点や失敗、目に余る行為、誤った言葉などを報告して、何も見逃さないようにしていたんだ。大きな過ちには厳しい刑罰を与えて、小さな過ちでも罪にしたよ。後宮は数千人もいて、選別は終わらなかったよ。それに、水を宮殿に流し込んで、後宮の者の中に不満を持つ者がいると、すぐに処刑して流したんだ。顔を剥ぎ取ったり、目をくり抜くこともあったんだって。岑昬は陰険でお世辞を言って取り入って、権勢を手に入れて、位は九卿にも並ぶくらいで、過度の功績を挙げようとして、人々を悩ませたんだ。だから、上下の心が離れて、孫皓に力を尽くす人はいなくなったの。その積み重ねた悪い行いは極まっていて、天命に堪えられなかったんだね。
吳平後,晉侍中庾峻等問皓侍中李仁曰:「聞吳主披人面,刖人足,有諸乎?」仁曰:「以告者過也。君子惡居下流,天下之惡皆歸焉。蓋此事也,若信有之,亦不足能恠。昔唐、虞五刑,三代七辟,肉刑之制,未為酷虐。皓為一國之主,秉殺生之柄,罪人陷法,加之以懲,何足多罪!夫受堯誅者不能無怨,受桀賞者不能無慕,此人情也。」
呉が平定された後、晋の侍中の庾峻たちが孫皓の侍中の李仁にこう尋ねたよ。
「呉の主(孫皓)は人の顔を剥ぎ取ったり、足を切ったりしたと聞いたけど、本当なの?」
李仁はこう答えたよ。
「それはうわさに過ぎないよ。君子は下流に住むことを嫌うよ。天下の悪いことはすべてそこに戻ると言われているよ。もし実際にそういうことがあったとしても、それを非難するのは難しいよ。昔、唐(堯)や虞(舜)の時代には5つの刑があって、三代(夏・殷・周)では7つの極刑があったよ。肉刑の制度は、残酷とはされていなかったんだ。孫皓は国の主として、生死を握っているよ。罪を犯した者は法にかけられて、それに罰を加えるのは、たくさんの罪にはならないよね。堯の罰を受けた者が怨みを持たないとは限らないし、桀にほめられた者が慕わなかったわけではないよね、これが人々の感情だよ」
又問曰:「云歸命侯乃惡人橫睛逆視,皆鑿其眼,有諸乎?」仁曰:「亦無此事,傳之者謬耳。曲禮曰視天子由袷以下,視諸侯由頤以下,視大夫由衡,視士則平面,得游目五步之內;視上於衡則傲,下於帶則憂,旁則邪。以禮視瞻,高下不可不慎,況人君乎哉?視人君相迕,是乃禮所謂傲慢;傲慢則無禮,無禮則不臣,不臣則犯罪,犯罪則陷不測矣。正使有之,將有何失?」凡仁所荅,峻等皆善之,文多不悉載。
さらに庾峻たちはこう尋ねたよ。
「帰命侯(孫皓)は、目を逸らしたり、見たりする人たちを嫌って、彼らの目をくり抜いたというけど、本当なの?」
李仁はこう答えたよ。
「それも事実ではなくて、伝えられている話は誤っているんだ。『礼記』の「曲礼」には、天子を見るときは襟の合わせ目より下を見て、諸侯を見るときは顎より下を見て、大夫を見るときは肩の高さ、士人を見るときは顔の正面を平らに見て、目を遊ばせる範囲は5歩以内とあるよ。肩より上を見れば傲慢となって、帯より下を見れば憂いを示して、横目で見れば邪道となるんだって。『礼記』に従った視線は、高いものと低いものの差に気をつけるべきで、それが人君に対する場合はなおさらだよね。もし君主に対して目を合わせて睨むようなら、『礼記』に反する傲慢にあたるよ。傲慢であれば礼がないことになって、礼がなければ臣下ではないし、臣下でなければ罪を犯したことになって、罪を犯せば思いがけない罰を受けることになるんだ。たとえ本当にそういうことがあったとしても、何が問題になるの?」
李仁が答えたことに、庾峻たちはみんな満足したよ。
文はたくさんあるからすべては記されていないよ。
四年春,立中山、代等十一王,大赦。濬、彬所至,則土崩瓦解,靡有禦者。預又斬江陵督伍延,渾復斬丞相張悌、丹楊太守沈瑩等,所在戰克。(註30)(註31)(註32)(註33)
天紀四年(280年)、春、中山王、代王など11の王を立てて、大赦を行ったよ。
王濬と唐彬が着くと、敵は完全に崩れて、抵抗する人はいなかったんだ。杜預はさらに、江陵督の伍延を討ち取って、王渾はさらに丞相の張悌、丹楊太守の沈瑩たちを討ち取って、彼らはどこでも戦いに勝ったよ。
干寶晉紀曰:吳丞相軍師張悌、護軍孫震、丹楊太守沈瑩帥衆三萬濟江,圍成陽都尉張喬於楊荷橋,衆才七千,閉柵自守,舉白接告降。吳副軍師諸葛靚欲屠之,悌曰:「彊敵在前,不宜先事其小;且殺降不祥。」
干宝の『晋紀』によると、呉の丞相で軍師の張悌、護軍の孫震、丹陽太守の沈瑩は、3万の兵を率いて長江を渡って、成陽都尉の張喬を楊荷橋で包囲したよ。張喬の兵はわずか7,000で、柵を閉じて自衛して、白旗を掲げて降伏を申し出たんだ。呉の副軍師の諸葛靚は彼らをみんなを滅ぼすことを望んだけど、張悌はこう言ったよ。
「強敵が目の前にいるのに、小さなことに先に手を出すべきではないよ。それに、降伏した人を殺すのは不吉だよ」
靚曰:「此等以救兵未至而力少,故且偽降以緩我,非來伏也。因其無戰心而盡阬之,可以成三軍之氣。若舍之而前,必為後患。」悌不從,撫之而進。與討吳護軍張翰、揚州刺史周浚成陣相對。沈瑩領丹楊銳卒刀楯五千,號曰青巾兵,前後屢陷堅陣,於是以馳淮南軍,三衝不動。退引亂,薛勝、蔣班因其亂而乘之,吳軍以次土崩,將帥不能止,張喬又出其後,大敗吳軍于阪橋,獲悌、震、瑩等。
諸葛靚はこう言ったよ。
「彼らは救援が来ていなくて力が弱いから、私たちをゆるめるために降伏を装っているに違いないよ。本当に降伏するつもりはないんだよね。戦う意志がないなら、みんな殺して、全軍の士気を高めることができるよ。もし彼らを放っておいて前進したら、必ず後で問題になるかも」
でも、張悌はその提案に従わないで、彼らをなだめて進軍したよ。討呉護軍の張翰と揚州刺史の周浚の陣と向かい合っていたよ。沈瑩は丹楊の5,000人の精鋭の兵を率いて、「青巾兵」と呼んで、3回も突撃したけど突破できなかったんだ。沈瑩は撤退する途中で混乱が起きて、薛勝と蒋班がその混乱に利用して攻撃して、呉の軍は次々と崩れて、軍の指揮官たちはそれを止めることができなかったんだ。張喬も後方から攻め出て、阪橋で呉の軍を大きく打ち負かして、張悌、孫震、沈瑩たちを捕えたよ。
襄陽記曰:悌字巨先,襄陽人,少有名理,孫休時為屯騎校尉。魏伐蜀,吳人問悌曰:「司馬氏得政以來,大難屢作,智力雖豐,而百姓未服也。今又竭其資力,遠征巴蜀,兵勞民疲而不知恤,敗於不暇,何以能濟?昔夫差伐齊,非不克勝,所以危亡,不憂其本也,況彼之爭地乎!」
『襄陽記』によると、張悌は、字は巨先で、襄陽の出身だよ。若い頃から名を知られていて、孫休の時代には屯騎校尉として仕えたよ。魏が蜀を攻めると、呉の人たちは張悌にこう尋ねたよ。
「司馬氏が政権を握ってから、大きな混乱が何度も起こっているよ。彼らは知恵と力は豊かだけど、民はまだ従っていないんだ。なのに今、彼らはまた資源を使い果たして、遠く巴蜀を攻めようとしているよ。兵は疲れて、民は苦しんでるのに、その苦しみを振り返らないんだ。これでは失敗が免れなくて、どうして成功するの? 昔、夫差(呉の王)が斉を攻めた時、勝利を収めたけど、根本を顧みなかったから滅亡の危機に陥っちゃった。ましてや、司馬氏がただ土地を争っているだけの場合ではなおさらだよね!」
悌曰:「不然。曹操雖功蓋中夏,威震四海,崇詐杖術,征伐無已,民畏其威,而不懷其德也。丕、叡承之,係以慘虐,內興宮室,外懼雄豪,東西驅馳,無歲獲安,彼之失民,為日乆矣。司馬懿父子,自握其柄,累有大功,除其煩苛而布其平惠,為之謀主而救其疾,民心歸之,亦已乆矣。
張悌はこう言ったよ。
「そうではないよ。曹操はその功績が中原を覆って、威が四海に轟いたけど、策略と権術を崇めて、征伐は止まらなかったんだ。民は彼の威を恐れていて、その徳を慕うことはなかったよ。曹丕と曹叡がその後を継いで、残酷な統治をして、内では宮殿を建てて、外では強豪を警戒して、東西に駆け回って、平穏な年はなかったんだ。だから、民を失ったのは長い間続いていたの。一方で、司馬懿と彼の子たちが権力を握ってから、大きな功績を何度も挙げて、わかりにくくてひどい政策を取り除いて、平和と恩恵を広く施したよ。彼らは国の病を救う策士となって、民の心は彼らに向かっていったよ。それもまた、長い間続いているね。
故淮南三叛而腹心不擾,曹髦之死,四方不動,摧堅敵如折枯,蕩異同如反掌,任賢使能,各盡其心,非智勇兼人,孰能如之?其威武張矣,本根固矣,羣情服矣,姦計立矣。今蜀閹宦專朝,國無政令,而玩戎黷武,民勞卒弊,競於外利,不脩守備。彼彊弱不同,智筭亦勝,因危而伐,殆其克乎!若其不克,不過無功,終無退北之憂,覆軍之慮也,何為不可哉?昔楚劒利而秦昭懼,孟明用而晉人憂,彼之得志,故我之大患也。」
だから、淮南で3度反乱が起こっても中央は乱れなかったし、曹髦が死んでも四方は動じなかったよ。堅固な敵を打ち破ることは枯れ枝を折るみたいに簡単で、異なるものを除くことは手のひらを返すみたいに速かったよ。有能な者を使って、その能力を存分に発揮させたの。智勇を兼ね備えた人でなければ、誰がこれを成し遂げることができるの? その威は広がって、基盤は固まって、民の心は従って、策略もまた確立されたんだ。
今、蜀では宦官が朝廷を好き勝手にして、国には政令がなくて、戦いを軽んじて武力に頼って、民は苦しんでいて、兵は疲れ果てているんだ。ただ外の利益を競い合って、守備を整えようともしていないよ。彼らの強さと弱さは同じではなくて、計略もまた司馬氏が勝っているね。蜀の危機を利用して攻め込むと、勝てないことあるのかな! もし勝てなかったとしても、ただ功績がないだけで、敗走する心配や軍が全滅する恐れもないよね。それでどうしてできないだと言えるの? 昔、楚の剣が鋭くて秦の昭王は恐れて、孟明視が使われた時に晋の人たちは心配したんだ。彼らが志を得ることこそ、私たちにとって大きな悩みなんだ」
吳人笑其言,而蜀果降于魏。晉來伐吳,皓使悌督沈瑩、諸葛靚,率衆三萬渡江逆之。至牛渚,沈瑩曰:「晉治水軍於蜀乆矣,今傾國大舉,萬里齊力,必悉益州之衆浮江而下。我上流諸軍,無有戒備,名將皆死,幼少當任,恐邊江諸城,盡莫能禦也。晉之水軍,必至于此矣!宜畜衆力,待來一戰。若勝之日,江西自清,上方雖壞,可還取之。今渡江逆戰,勝不可保,若或摧喪,則大事去矣。」
呉の人はその言葉を笑ったけど、蜀は魏に降伏したよ。晋が呉を攻めると、孫皓は張悌に沈瑩と諸葛靚を指揮させて、3万の軍を率いて長江を渡って晋を迎え撃ったよ。牛渚に着くと、沈瑩はこう言ったよ。
「晋は長い間、蜀で水軍を整えてきたよ。今、国を挙げて大規模な行動を起こして、万里もの距離を一丸となって力を合わせて、きっと益州の全軍を長江に浮かべて下ってくるだろうね。私たちの上流の軍は、警戒していなくて、名将はすでに亡くなっていて、若く未熟な者が担っているんだ。だから、辺境や長江沿いの城がすべて防ぎきれないと恐れているの。晋の水軍は、必ずここに着くよ! だから、私たちは兵の力を蓄えて、敵を迎え撃つ準備を整えて一戦を交えるべきだよ。もし勝ったら、江西は自然に清らかになって、上流の陣地が失われても取り戻せるよ。でも、今、長江を渡って敵を攻めると、勝利は確保できないし、もし敗れたら、大局は失われてしまうんだ」
悌曰:「吳之將亡,賢愚所知,非今日也。吾恐蜀兵來至此,衆心必駭懼,不可復整。今宜渡江,可用決戰力爭。若其敗喪,則同死社稷,無所復恨。若其克勝,則北敵奔走,兵勢萬倍,便當乘威南上,逆之中道,不憂不破也。若如子計,恐行散盡,相與坐待敵到,君臣俱降,無復一人死難者,不亦辱乎!」遂渡江戰,吳軍大敗。
張悌はこう言ったよ。
「呉が滅びるのは、賢者も愚者もみんな予見していて、今日に始まった話ではないよ。私は蜀の兵がここに来たら、兵たちの心が恐怖で乱れて、ふたたび整えられなくなるのではないかと心配しているの。今こそ長江を渡って、決戦を挑んで力を尽くすべきだよ。もし敗北して滅びたとしても、国と一緒に死ぬのなら何の悔いもないよ。でも、もし勝利できたら、北の敵は逃げ出して、私たちの兵力は万倍にもなるよね。その時は威勢をかさねて南から進軍して、途中で敵を迎え撃てば、敗れる心配はないよ。もしあなたの計画に従うなら、兵が散り散りとなって、敵が来るのをただ座って待つことになっちゃう。そうしたら、君主も臣下も降伏して、死んで難に立ち向かう者は一人もいなくなっちゃう。これは恥ずかしいことだよ!」
そして、長江を渡って戦って、呉の軍は大敗しちゃったんだ。
諸葛靚與五六百人退走,使過迎悌,悌不肯去,靚自往牽之,謂曰:「且夫天下存亡有大數,豈卿一人所知,如何故自取死為?」悌垂涕曰:「仲思,今日是我死日也。且我作兒童時,便為卿家丞相所拔,常恐不得其死,負名賢知顧。今以身徇社稷,復何遁邪?莫牽曳之如是。」靚流涕放之,去百餘步,已見為晉軍所殺。
諸葛靚は500から600人と一緒に退いて、張悌を迎えに行かせたけど、張悌は行くことを拒んだよ。そこで諸葛靚が自分で張悌を引き留めに行って、こう言ったよ。
「まず、天下の存亡には大きな定めがあるんだ。それをあなただけが知っているとでもいうの? どうしてわざわざ死を選ぶの?」
張悌は涙を流しながらこう言ったよ。
「仲思(諸葛靚)、今日は私の死ぬ日なんだ。私が子供の頃、私はあなたの家の丞相(諸葛恪)に引き立てられたよ。いつも恐れていたのは、名誉ある死を得られないことだったんだ。今、私は国のために身を捧げるんだ。何を避けるというの? もう引き止めないでよ」
諸葛靚は涙を流して張悌を放して、100歩くらい離れたところで、張悌が晋の軍に殺されるのを見たんだ。
吳錄曰:悌少知名,及處大任,希合時趣,將護左右,清論譏之。
『呉録』によると、張悌は若い頃から名を知られていて、重要な役職に就くと、時流に合わせて、皇帝の側近を守って、清論では非難されたんだって。
搜神記曰:臨海松陽人柳榮從悌至楊府,榮病死船中二日,時軍已上岸,無有埋之者,忽然大呼,言「人縛軍師!人縛軍師!」聲激揚,遂活。人問之,榮曰:「上天北斗門下卒見人縛張悌,意中大愕,不覺大呼,言『何以縛張軍師。』門下人怒榮,叱逐使去。榮便去,怖懼,口餘聲發揚耳。」其日,悌戰死。榮至晉元帝時猶在。
『搜神記』によると、臨海郡松陽県の出身の柳栄は、張悌に従って楊府に行ったよ。柳栄は船の中で病死して2日間、その時軍はすでに岸に上陸していて、彼を埋葬する人はいなかったんだ。でも、突然大声で「人が軍師を縛る! 人が軍師を縛る!」と叫んだんだ。その叫び声が激しく揚がると、なんと彼は生き返ったの。人々が尋ねると、柳栄はこう答えたよ。
「私は天の北斗の門下で、人が張悌を縛っているのを見たんだ。心の中でとても驚いて、思わず大声で、『どうして張軍師(張悌)を縛るの』と叫んだの。門下の人たちは柳栄に怒って、叱って追い払ったんだ。柳栄はその場を去って、恐怖に震えながら、口からはまだ声が出ちゃったんだ」
その日、張悌は戦死したんだ。柳栄は晋の元帝(司馬睿)の時代まで生きていたよ。
三月丙寅,殿中親近數百人叩頭請皓殺岑昏,皓惶憒從之。(註34)
三月、丙寅の日、殿中の側近たち数百人が地に頭をつけて、孫皓に岑昏を殺すようにお願いしたよ。孫皓は動揺したけど、これに従ったよ。
干寶晉紀曰:皓殿中親近數百人叩頭請皓曰:「北軍日近,而兵不舉刃,陛下將如之何!」皓曰:「何故?」對曰:「坐岑昏。」皓獨言:「若爾,當以奴謝百姓。」衆因曰:「唯!」遂並起收昏。皓駱驛追止,已屠之也。
干宝の『晋紀』によると、殿中の側近たち数百人が地に頭をつけて、孫皓にこう訴えたよ。
「北の軍勢が日増しに迫っているけど、兵は刃を振るうことがないんだ。陛下はどうするつもりなの?」
孫皓はこう尋ねたよ。
「どうして?」
彼らはこう答えたよ。
「岑昏がいるからだよ」
孫皓はひとりごとのようにこう言ったよ。
「そうか。なら、私は彼の身を以って民に謝るよ」
みんなは「わかった!」と応じて、すぐに岑昏を捕らえたよ。孫皓は続いて彼らを追って止めたけど、すでに処刑されていたんだ。
戊辰,陶濬從武昌還,即引見,問水軍消息,對曰:「蜀船皆小,今得二萬兵,乘大船戰,自足擊之。」於是合衆,授濬節鉞。明日當發,其夜衆悉逃走。而王濬順流將至,司馬伷、王渾皆臨近境。
戊辰の日、陶濬は武昌から戻って、すぐに招かれて、水軍の情報を尋ねられて、こう答えたよ。
「蜀の船はすべて小さいよ。今、2万の兵で、大きな船に乗って戦ったら、自分たちだけで十分に彼らを打ち負かすことができるよ」
そこで、人を集めて、陶濬に節と鉞を授けたよ。翌日には出撃する予定だったけど、その夜、全員が逃げちゃった。そして、王濬が流れに従って近づいていて、司馬伷と王渾も国境に近づいていたよ。
皓用光祿勳薛瑩、中書令胡沖等計,分遣使奉書於濬、伷、渾曰:「昔漢室失統,九州分裂,先人因時,略有江南,遂分阻山川,與魏乖隔。今大晉龍興,德覆四海。闇劣偷安,未喻天命。至於今者,猥煩六軍,衡蓋路次,遠臨江渚,舉國震惶,假息漏刻。敢緣天朝含弘光大,謹遣私署太常張夔等奉所佩印綬,委質請命,惟垂信納,以濟元元。」(註35)
孫皓は光禄勲の薛瑩、中書令の胡沖たちの計画を使って、陶濬、司馬伷、王渾に使者を分けて手紙を送って、こう伝えたよ。
「昔、漢の王朝が統治を失って、国の全土が分裂すると、先人たちは時勢に応じて行動して、江南を手中に収めて、山や川を隔てて魏と分かれたよ。今、偉大な晋が龍みたいに興って、その徳は四海を覆っているよ。私たちは愚かで、安寧を貪って、まだ天命を理解していなかったんだ。今、無理に全軍を動かして、車が道を埋めて、遠く長江のほとりに臨んで、国のあちこちが震え上がっていて、一刻の猶予も許されない状況になっちゃった。そこで、朝廷の広大な寛容と慈悲に頼って、私たちの選んだ太常の張夔たちを送って、持っている印綬を返して、誠意をもって降伏を願うよ。どうかこれを受け入れて、広く民を救うことを願うよ」
江表傳載皓將敗,與舅何植書曰:「昔大皇帝以神武之略,奮三千之卒,割據江南,席卷交、廣,開拓洪基,欲祚之萬世。至孤末德,嗣守成緒,不能懷集黎元,多為咎闕,以違天度。闇昧之變,反謂之祥,致使南蠻逆亂,征討未克。聞晉大衆,遠來臨江,庶竭勞瘁,衆皆摧退,而張悌不反,喪軍過半。孤甚愧悵,于今無聊。
『江表伝』によると、孫皓が敗れる時に、舅の何植に手紙を送って、こう言ったよ。
「昔、大皇帝(孫権)は優れた武の戦略を使って、3,000の兵を率いて江南を支配して、交州と広州を平定して、壮大な基盤を築いて、これを万世にわたって栄えさせようとしたよ。でも、私は徳が少なくて、これを受け継いで成した事業を守るだけで、民を想うことができなくて、たくさんの過ちを犯して、天命に背いたんだ。無知による異変を、かえって吉兆だと誤解して、南の異民族の反乱を招いて、これを討伐しても成功しなかったんだ。さらに、晋の大軍が遠くから長江のほとりに迫ると聞いて、尽力して防ぐもたくさんの兵が撤退して、張悌は帰って来なくて、軍の半数以上が失われたよ。私はこれを深く恥じて、悔しくて、今は何も手につかない状況なんだ。
得陶濬表云武昌以西並復不守。不守者,非糧不足,非城不固,兵將背戰耳。兵之背戰,豈怨兵邪?孤之罪也。天文縣變於上,士民憤歎於下,觀此事勢,危如累卵,吳祚終訖,何其局哉!天匪亡吳,孤所招也。瞑目黃壤,當復何顏見四帝乎!公其勗勉奇謨,飛筆以聞。」
陶濬の上表を受けて、武昌より西はすべて守りを失ったんだって。守れなかった理由は、食糧が足りないわけではなくて、城が固くないわけでもなくて、兵や将が戦いを背いて逃げたからなんだ。兵が戦いを背くのは、兵を怨むべきなの? いや、それは私の罪だよね。天文は上に変異が現れて、民が下で怒って嘆いて、この状況を見ると、危うさは積み上げられた卵みたいで、呉の運命もついに尽きようとしているんだ。なんと窮地に追い込まれたことなの! 天が呉を亡ぼそうとしたのではなくて、私が滅亡を招いたんだ。やがて黄土の下で目を閉じるとき、四帝(歴代の君主)にどのような顔を向けるの! どうかあなたは奇策を奮い立てて、筆を走らせて報告してね」
皓又遺羣臣書曰:「孤以不德,忝繼先軌。處位歷年,政教凶勃,遂令百姓乆困塗炭,至使一朝歸命有道,社稷傾覆,宗廟無主,慙愧山積,沒有餘罪。自惟空薄,過偷尊號,才瑣質穢,任重王公,故周易有折鼎之誡,詩人有彼其之譏。自居宮室,仍抱篤疾,計有不足,思慮失中,多所荒替。邊側小人,因生酷虐,虐毒橫流,忠順被害。
孫皓はさらに臣下たちに遺言としてこう言ったよ。
「私は徳がないのに、先人の後を継ぐことを恥じながら担ってきたよ。皇帝に即位してから年月が経って、政治と教育は乱れ放題で、ついには民を長く苦しめて、国が一朝にして道を持つ君主に従って、国家は傾いて滅んで、宗廟(祖先の廟)も主を失う事態を招いたんだ。恥と過ちが山のように積もって、死んでもなお余罪が残る思いなの。
自分自身を振り返ると、空虚で浅はかなのに、尊い地位を不当に得ていたんだ。能力は乏しくて人格も劣っているのに、重い責任を王公の位に就いていたから、『周易』の折れた鼎の戒め(仕事ができないと失敗につながること)のように失敗して、『詩経』の彼其の戒め(高い地位に就くべき人が地位につかないこと)のように非難されるに値するんだ。宮殿に身を置いてからも、深刻な病を抱え続けて、計画は足りなくて、思慮は中道を失って、たくさんの荒廃を招いているんだ。だから辺境のつまらない人たちが暴虐を振るって、過酷な圧政が横行して、その害が広まって、忠誠と誠実を尽くす者たちが害されるという状況を招いてしまったの。
闇昧不覺,尋其壅蔽,孤負諸君,事已難圖,覆水不可收也。今大晉平治四海,勞心務於擢賢,誠是英俊展節之秋也。管仲極讎,桓公用之,良、平去楚,入為漢臣,舍亂就理,非不忠也。莫以移朝改朔,用損厥志。嘉勗休尚,愛敬動靜。夫復何言,投筆而已!」
暗愚で気づかなくて、妨げや隠蔽を招いちゃって、私はみんなの期待を裏切ったんだ。事はすでに取り返しがつかなくて、こぼれた水はもう回収できないよ。今、偉大な晋は四海を平定して、心を尽くして賢者を選ぶことに力を注いでいるよ。まさに英雄たちがその才を発揮するべき時だね。昔、管仲は敵だったけど桓公は彼を使ったよ。張良と陳平は楚を去って、漢の臣下となったよ。混乱を捨てて理に従うことは不忠ではないんだ。政権を移したり暦法を改めることによって志を損なうべきではないよ。どうか善を励まして、安らぎを尊んで、動静を問わないで敬意をもって行動してね。これ以上は何も言うことはないよ。筆を置いて、言葉を尽くしたよ」
壬申,王濬最先到,於是受皓之降,解縛焚櫬,延請相見。(註36)伷以皓致印綬於己,遣使送皓。皓舉家西遷,以太康元年五月丁亥集于京邑。四月甲申,詔曰:「孫皓窮迫歸降,前詔待之以不死,今皓垂至,意猶愍之,其賜號為歸命侯。進給衣服車乘,田三十頃,歲給穀五千斛,錢五十萬,絹五百匹,緜五百斤。」皓太子瑾拜中郎,諸子為王者,拜郎中。(註37)(註38)五年,皓死于洛陽。(註39)
壬申の日、王濬が最初に着いて、そして孫皓の降伏を受け入れて、彼の縛りを解いて、棺を焼いて、面会を求めたよ。司馬伷は孫皓から印綬を受け取って、使者に孫皓を送らせたよ。孫皓は家族と一緒に西へ移住して、太康元年(280年)、五月、丁亥の日に都に集まったよ。四月、甲申の日、詔を下してこう言ったよ。
「孫皓は追い詰められて降伏すると、前の詔で彼を死なせないよう取り計らうとされていたよ。今、孫皓はもうすぐ着くから、さらに彼を哀れんで、帰命侯の称号を与えるよ。衣服や車を与えて、田地30頃、年間5000斛の穀物、50万の銭、500匹の絹、500斤の綿を支給するよ」
孫皓の太子の孫瑾は中郎に任命されて、他の子供たちで王になった人は、郎中に任命されたよ。
太康五年(284年)、孫皓は洛陽で亡くなったんだ。
晉陽秋曰:濬收其圖籍,領州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬,米穀二百八十萬斛,舟船五千餘艘,後宮五千餘人。
『晋陽秋』によると、王濬はその地域の地図と資料を集めたよ。それによると、州は4つ、郡は43つ、県は313つ、戸数は52万戸、役人は32,000、兵は23万、男女の人口は230万、穀物は280万斛、舟船は5,000隻以上、後宮の女性は5,000人以上を管理していたんだって。
搜神記曰:吳以草創之國,信不堅固,邊屯守將皆質其妻子,名曰保質。童子少年,以類相與嬉游者,日有十數。永安二年三月,有一異兒,長四尺餘,年可六七歲,衣青衣,來從羣兒戲,諸兒莫之識也。皆問曰:「爾誰家小兒,今日忽來?」荅曰:「見爾羣戲樂,故來耳。」詳而視之,眼有光芒,爚爚外射。
『搜神記』によると、呉は建国当初、基盤がまだ不安定だったから、国境を守る将たちは妻や子供を人質として出して、「保質」と呼ばれていたよ。その地域では、子供や若者たちが仲間同士で集まって、毎日十数人で遊んでいたんだって。
永安二年(259年)、三月、奇妙な子供が現れたんだ。身長は4尺以上あって、年齢は6歳か7歳ぐらいで、青い服を着ていたよ。彼は仲間に加わって一緒に遊んでいたけど、他の子供たちは誰もその子を知らなかったんだ。みんなはこう尋ねたよ。
「あなたはどこの子なの? 今日はどうして突然来たの?」
その子はこう答えたよ。
「あなたたちが楽しそうに遊んでいるのを見て、私も来たの」
子供たちがその子をよく見ると、目からは光が放たれて、輝きが外へと射し出ていたんだ。
諸兒畏之,重問其故。兒乃荅曰:「爾惡我乎?我非人也,乃熒惑星也。將有以告爾:三公鉏,司馬如。」諸兒大驚,或走告大人,大人馳往觀之。兒曰:「舍爾去乎!」竦身而躍,即以化矣。仰而視之,若引一匹練以登天。大人來者,猶及見焉,飄飄漸高,有頃而沒。時吳政峻急,莫敢宣也。後五年而蜀亡,六年而晉興,至是而吳滅,司馬如矣。
子供たちは怖くなって、ふたたびその理由を尋ねたよ。すると、その子はこう答えたよ。
「あなたたちは私を恐れるの? 私は人間ではなくて、火星なんだ。あなたたちに伝えることがあるんだ。『三公は滅んで、司馬が興る』って。」
子供たちはすごくびっくりして、ある者は大人に走って知らせたよ。大人たちは急いでその場に駆けつけたよ。すると、その子はこう言ったよ。
「さよなら!」
そう言うと、身をかがめて跳び上がって、そのまま姿を消しちゃった。天を見上げると、まるで一本の練糸が天に登っているみたいだったの。駆けつけた大人たちもそれ見て、その子がふわふわと高く昇って、しばらくすると消えるのを見たんだ。
当時、呉の政治は厳しくて、誰もこの出来事を語ろうとはしなかったんだ。その5年後(264年)に蜀が滅んで、6年後(265年)に晋が興って、この予言が的中するかのように呉も滅んで、「司馬が興る」という言葉のとおりになったよ。
干寶晉紀曰:王濬治船於蜀,吳彥取其流柹以呈孫皓,曰:「晉必有攻吳之計,宜增建平兵。建平不下,終不敢渡江。」皓弗從。陸抗之克步闡,皓意張大,乃使尚廣筮并天下,遇同人之頤,對曰:「吉。庚子歲,青蓋當入洛陽。」故皓不脩其政,而恒有窺上國之志。是歲也,實在庚子。
干宝の『晋紀』によると、王濬が蜀で船を整備していると、呉彦は流れてきた木材を拾いを取って孫皓に示して、こう言ったよ。
「晋は必ず呉を攻める計略を持っているよ。建平の兵を増やすべきだよ。建平が落ちなければ、彼らは長江を渡れないよ」
でも、孫皓はこれを聞き入れなかったんだ。陸抗が歩闡に勝つと、孫皓は自信を持ったよ。そして、尚広に天下の運勢を占わせると、同人卦を得て、こう言ったよ。
「吉。庚子の年に青い蓋(皇帝の象徴)が洛陽に入るだろうね」
だから、孫皓は政治をしないで、いつも中原を伺う野心を持ち続けていたんだ。その年は実際に庚子の年だったよ。
吳錄曰:皓以四年十二月死,時年四十二,葬河南縣界。
『呉録』によると、孫皓は太康四年(283年)の十二月に亡くなって、この時42歳で、河南県の境内に埋葬されたよ。
陳寿の評価
評曰:孫亮童孺而無賢輔,其替位不終,必然之勢也。休以舊愛宿恩,任用興、布,不能拔進良才,改絃易張,雖志善好學,何益救亂乎?又使旣廢之亮不得其死,友于之義薄矣。皓之淫刑所濫,隕斃流黜者,蓋不可勝數。是以羣下人人惴恐,皆日日以兾,朝不謀夕。其熒惑、巫祝,交致祥瑞,以為至急。昔舜、禹躬稼,至聖之德,猶或矢誓衆臣,予違女弼,或拜昌言,常若不及。況皓凶頑,肆行殘暴,忠諫者誅,讒諛者進,虐用其民,窮淫極侈,宜腰首分離,以謝百姓。旣蒙不死之詔,復加歸命之寵,豈非曠蕩之恩,過厚之澤也哉!(註40)(註41)
評すると、孫亮はまだ幼くて、賢い補佐もいなかったから、その地位を長く保てないのは必然の勢いだったよ。
孫休は、過去の情愛や恩によって、濮陽興や張布を使ったけど、優れた人材を選んだり、体制を改めたりできなかったんだ。たとえ志が高くて、学問を好んでいても、乱れた状況を救うには何の役にも立たなかったんだ。それに、すでに廃位された孫亮を死に至らせたことは、兄弟の道義も薄れちゃった行いだよね。
孫皓の残虐な刑罰による犠牲者は、命を落としたり追放された者も含めて、数えきれないほどだったんだ。だから、臣下たちはみんないつも恐れて、毎日生き延びることだけを願って、朝に考えることも夕には無意味となる状況だったんだ。さらに星占いや巫術が盛んに行われて、急いで吉兆を招こうとしたよ。昔、舜や禹は自分で耕して、高い徳を持っていたけど、それでも臣下たちに対して「もし私が正しい道を外れるなら諫めてね」と誓いを立てて、良い言葉に頭を下げていたよ。聖王ですら忠言を受け入れる姿勢を持って、慎重に政治をしたの。ましてや孫皓は凶悪で、残虐非道を極めたんだ。忠義を尽くして諫める人は処刑されて、悪口を言ったり媚びを売ったりする人を昇進させて、民を虐げてその生活を極限まで苦しめて、自分は贅沢を尽くしたよ。そのような人は本来、腰を斬られて首を落とされて、民に謝罪すべきだよね。なのに、すでに死を免れる詔を受けて、さらに帰命侯の地位という栄誉を与えられるなんて、これほどまでに広大な恩情と過分な恩恵があるの!
孫盛の評価
孫盛曰:夫古之立君,所以司牧羣黎,故必仰協乾坤,覆燾萬物;若乃淫虐是縱,酷被羣生,則天殛之,勦絕其祚,奪其南面之尊,加其獨夫之戮。是故湯、武抗鉞,不犯不順之譏;漢高奮劒,而無失節之議。何者?誠四海之酷讎,而人神之所擯故也。
孫盛によると、そもそも昔、古代に君主を立てたのは、民を治めるためで、そのためには必ず天地と調和して、万物を覆い守ることが求められたよ。でも、もし君主が残酷な振る舞いをして、民を苦しめるなら、天はその君主を罰して、その王位と命運を断ち切って、尊い地位を奪って、「独夫」(暴君)の刑罰を与えるの。だから、殷の湯王や周の武王が兵を挙げたことは、不忠や反逆の非難を受けないで、漢の高祖(劉邦)も剣を振るったことも、節義を失ったとされることはなかったんだ。なぜなら、彼らが討伐した者たちは、四海にとっての深刻な敵で、人間と神々の双方から見捨てられた存在だったからだね。
況皓罪為逋寇,虐過辛、癸,梟首素旗,猶不足以謝冤魂,洿室荐社,未足以紀暴迹,而乃優以顯命,寵錫仍加,豈龔行天罰,伐罪弔民之義乎?是以知僭逆之不懲,而凶酷之莫戒。詩云:「取彼譖人,投畀豺虎。」聊譖猶然,矧僭虐乎?且神旗電掃,兵臨偽窟,理窮勢迫,然後請命,不赦之罪旣彰,三驅之義又塞,極之權道,亦無取焉。
ましてや、孫皓の罪は逃げる賊みたいで、その残虐さは辛(殷の紂)や癸(夏の桀)をも超えるくらいなんだ。彼の首をさらして、白旗を掲げても、死を遂げた霊を慰めるには足りなくて、家を汚して社を荒らしても、暴虐の跡を記録しても、まだ足りないんだ。それなのに、彼に名誉ある地位を与え、さらなる恩を加えるなんて、天罰をして、罪を討って民を慰める道義に適うものと言えるの? これでは、僭称した人の反逆が懲らしめられなくて、残虐な行いが戒められないことが明らかだよね。
『詩経』には、「誹謗する者を捕らえて、ヤマイヌや虎に投げ与えて」とあるよ。軽い誹謗でさえそうなんだから、ましてや僭称と暴虐をした人についてはどうなの? さらに、戦の旗が翻って、雷光が横切るように掃討されて、偽りの巣窟に軍勢が迫る中、道理が尽きて窮地に陥った末に、ようやく降伏を願い出たの。その罪が赦されるべきではないことは明らかで、3度の勧告を受け入れる義務も尽きているんだ。こうした状況で、特別な恩赦を与える道理なんて、全く見いだせないよ。
陸機の『弁亡論』
陸機著辨亡論,言吳之所以亡,其上篇曰:「昔漢氏失御,姦臣竊命,禍基京畿,毒徧宇內,皇綱弛紊,王室遂卑。於是羣雄蜂駭,義兵四合,吳武烈皇帝慷慨下國,電發荊南,權略紛紜,忠勇伯世。威稜則夷羿震蕩,兵交則醜虜授馘,遂掃清宗祊,蒸禋皇祖。於時雲興之將帶州,飈起之師跨邑,哮闞之羣風驅,熊羆之族霧集,雖兵以義合,同盟勠力,然皆包藏禍心,阻兵怙亂,或師無謀律,喪威稔寇,忠規武節,未有若此其著者也。
陸機の『弁亡論』によると、呉が滅んだ理由を述べているよ。上篇には、こうあるよ。
「昔、漢の王朝が統治を失って、悪い臣下(董卓)が政権を奪って、都に災いの基を作って、その毒は天下に広まったんだ。皇帝の統治の規範は乱れて、王室の権威はどんどん衰えたんだ。そこで、たくさんの英雄が立ち上がって、義兵が四方から集まったよ。呉の武烈皇帝(孫堅)はとても怒って嘆いて、荊州の南を駆け抜けたよ。彼の戦略は幅広くて、忠義と勇気は世に輝いたよ。その威は異民族を震え上がらせて、戦場では敵を打ち破って、捕虜を得たよ。そして、宗廟(祖先の廟)を清めて、皇祖の霊を祀ることができたよ。この時、雲の如く立ち上がる将が州を帯びて、嵐の如く起こる軍勢が邑を越えて、吠えたける群れは風に追われるように集まって、熊や羆のような強者たちが霧の如く集まったよ。これらの兵は義によって集まって、同盟で力を合わせたけど、その中には災いの種を秘めていて、兵を頼んで乱を利用しようとする者もいたんだ。それに、軍を統制する策略を欠いて、威信を失って賊を増長させた者もいたんだ。でも、こうした状況で、忠義の規範と武勇の模範が、このように際立った例は他になかったの。
武烈旣沒,長沙桓王逸才命世。弱冠秀發,招擥遺老,與之述業。神兵東驅,奮寡犯衆,攻無堅城之將,戰無交鋒之虜。誅叛柔服而江外厎定,飭法脩師而威德翕赫,賔禮名賢而張昭為之雄,交御豪俊而周瑜為之傑。彼二君子,皆弘敏而多奇,雅達而聦哲,故同方者以類附,等契者以氣集,而江東蓋多士矣。將北伐諸華,誅鉏干紀,旋皇輿於夷庚,反帝座于紫闥,挾天子以令諸侯,清天步而歸舊物。戎車旣次,羣凶側目,大業未就,中世而隕。
武烈皇帝(孫堅)が亡くなった後、長沙桓王(孫策)は人並外れた才能で時代に現れたよ。まだ20歳にもなっていなかったけど、優れた才能を示して、父の遺した臣下たちを招いて、彼らと一緒に大義を語り合って、その志を継いだよ。神速の軍勢を率いて東方へ進軍して、少ない兵でたくさんの敵を打ち破って、都市を攻めれば、その都市に留まる敵はいなくて、戦いになると、彼にかなう敵はいなかったの。彼は反乱を起こした敵を討って、征服した捕虜を優しく寛大に扱って、江東を安定させて、法を整えて、軍を訓練して、威厳と徳を広めて、その名声を高めたよ。彼は名のある人や賢人を丁寧に迎えて、張昭はその中の優れた人物のひとりで、豪傑とも親交を結んで、周瑜はその中の傑出した才能を持つひとりだったよ。彼ら2人の君子は、広い視野を持っていて、機知に富んでいて、品格高くて聡明だったの。だから、同じ志を持つ人が集まって、同じ理想を持つ者たちが気概によって結びついたよ。こうして、江東にはたくさんの優れた人たちが集まったよ。孫策たちは中原を攻めて、乱れた秩序を正して、皇帝の車を正しい道に戻して、帝位を宮廷に返すことを目指したよ。天子を擁して諸侯に命令を下して、天の道を清めて、古い秩序を取り戻そうとしたんだ。でも、戦車が進軍する中、敵対する者たちは恐れをなしたけど、残念ながら大いなる志業が成し遂げられる前に、孫策は途中で命を落としたんだ。
用集我大皇帝,以奇蹤襲於逸軌,叡心發乎令圖,從政咨於故實,播憲稽乎遺風,而加之以篤固,申之以節儉,疇咨俊茂,好謀善斷,束帛旅於丘園,旌命交于塗巷。故豪彥尋聲而響臻,志士希光而影騖,異人輻湊,猛士如林。
大皇帝(孫権)は、父と兄の築いた道を並はずれた功績で継承して、深い思慮から素晴らしい計画を生み出したよ。政治は先人の方法に基づいて行われて、法律は伝統的な風習に従って広められて、それを固く守って、倹約を重んじて、統治を進めたよ。才能ある俊才を招いて、優れた謀略家や明断力を持つ者を重用したよ。絹を束ねて行ったり来たりして(人材を集めて)、道に(才能を集めるために)信頼の旗を立てたよ。その結果、卓越した豪傑たちはその名声を聞いて続々と集まって、志を持つ士人たちはその輝きを目指してこぞって馳せ参じたよ。こうしてすごい才能を持つ人たちは集って、猛士たちは林のごとく立ち並んだの。
於是張昭為師傅,周瑜、陸公、魯肅、呂蒙之疇入為腹心,出作股肱;甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然之徒奮其威,韓當、潘璋、黃蓋、蔣欽、周泰之屬宣其力;風雅則諸葛瑾、張承、步隲以聲名光國,政事則顧雍、潘濬、呂範、呂岱以器任幹職,奇偉則虞翻、陸績、張溫、張惇以諷議舉正,奉使則趙咨、沈珩以敏達延譽,術數則吳範、趙達以禨祥協德,董襲、陳武殺身以衞主,駱統、劉基彊諫以補過,謀無遺筭,舉不失策。故遂割據山川,跨制荊、吳,而與天下爭衡矣。
そこで張昭が師傅(教育係)となって、周瑜、陸公(陸遜)、魯粛、呂蒙たちが中枢を担って、内では腹心の役割を果たして、外では主君を支える臣下になったよ。甘寧、淩統、程普、賀斉、朱桓、朱然たちは威を奮い立たせたよ。韓当、潘璋、黄蓋、蒋欽、周泰たちはその力を発揮したよ。教育では諸葛瑾、張承、歩隲がその名声で国を輝かせて、政治では顧雍、潘濬、呂範、呂岱がその器量で職務を遂行したよ。優れている人では虞翻、陸績、張温、張惇が諫言や正論で正しい道を示したよ。外交では趙咨、沈珩が才覚と敏捷さで名声を広めたよ。占いでは呉範、趙達が吉兆を解釈して国家の徳を補佐したよ。董襲、陳武は命をかけて主君を守って、駱統、劉基は強く諫めて過ちを補ったよ。その謀略には漏れがなくて、戦略には失策がなかったんだ。だから、ついに山や川を割拠して、荊州と呉を制圧して、天下と覇を競う存在となったの。
魏氏嘗藉戰勝之威,率百萬之師,浮鄧塞之舟,下漢陰之衆,羽楫萬計,龍躍順流,銳騎千旅,虎步原隰,謀臣盈室,武將連衡,喟然有吞江滸之志,一宇宙之氣。而周瑜驅我偏師,黜之赤壁,喪旗亂轍,僅而獲免,收迹遠遁。漢王亦馮帝王之號,率巴、漢之民,乘危騁變,結壘千里,志報關羽之敗,圖收湘西之地。而我陸公亦挫之西陵,覆師敗績,困而後濟,絕命永安。續以濡須之寇,臨川摧銳,蓬籠之戰,孑輪不反。由是二邦之將,喪氣挫鋒,勢衄財匱,而吳藐然坐乘其弊,故魏人請好,漢氏乞盟,遂躋天號,鼎峙而立。
魏の一族(曹操たち)は昔、戦いに勝った威を借りて100万もの軍を率いて、鄧塞に船を浮かべて、漢陰から兵を進めたよ。その羽のように軽快な船は万隻を数えて、龍が流れに乗るように勢いよく進んだよ。鋭い騎兵は千の部隊を成して、虎のように大地を駆け巡ったよ。謀略に長けた臣下が室内を埋めて、武勇に優れた将軍が連携を保って、一気に長江の河口を飲み込んで、天地をひとつにする勢いを持っていたんだ。でも、周瑜は少数の軍勢で彼らを迎え撃って、赤壁で撃退したよ。彼らは旗を失って車輪は乱れて、辛うじて撤退して、遠くへと逃げたよ。
それに、漢王(劉備)も帝王の名を借りて、巴と漢の民を率いて危機を利用して変化を起こして、千里にわたって陣地を築いたんだ。その目的は、関羽の敗北に報いる志と、湘西(荊州)の地を手に入れることだったんだ。でも、私たちの陸公(陸遜)もまた西陵で彼らを打ち破って、大敗を喫した敵軍は窮地に追い込まれてようやく撤退したよ。その後、劉備は永安で命を絶ったよ。
続いて、濡須口の戦いで敵の鋭鋒を打ち砕いて、臨川で勝利を収めたよ。蓬籠の戦いでは敵軍を壊滅させて、誰一人帰れなかったんだ。このようにして、2つの国(魏と蜀)の将たちは士気を失って、勢いは衰えて財政も底を尽きたよ。その隙をついて呉は悠然とその弱点を利用し続けたの。だから、魏は友好を求めて、漢(蜀)は同盟を求めたんだね。そして、呉は天命を受けた国としてその名を掲げて、魏・蜀と鼎立する一大勢力として確立したの。
西屠庸蜀之郊,北裂淮漢之涘,東苞百越之地,南括羣蠻之表。於是講八代之禮,蒐三王之樂,告類上帝,拱揖羣后。虎臣毅卒,循江而守,長戟勁鎩,望飇而奮。庶尹盡規於上,四民展業于下,化協殊裔,風衍遐圻。乃俾一介行人,撫巡外域,臣象逸駿,擾於外閑,明珠瑋寶,輝於內府,珍瑰重跡而至,奇玩應響而赴,輶軒騁於南荒,衝輣息於朔野,齊民免干戈之患,戎馬無晨服之虞,而帝業固矣。
西は庸蜀の近くを攻め滅ぼして、北は淮河と漢水の岸辺を分けて、東は百越の地を押さえて、南は異民族の地を掌握したよ。こうして八代(三皇五帝)の礼を修めて、三代(夏・殷・周)の音楽を整えて、天帝に供え物を捧げて、諸侯たちを集めて礼を尽くしたよ。虎みたいに勇猛な臣下は意気盛んで長江沿いを守って、長い戟と強い槍を手に持って、嵐を迎え撃つかのような勢いを見せたよ。地方の役人たちはその職務を尽くして上に仕えて、四民はそれぞれの業務に励んだよ。遠くの異民族まで文化が調和して、風習は遠くまで広がったんだ。そうして使者一人を送って外の地を巡らせて、外辺の安定を図って、珍しい駿馬が牧場に集って、明珠や美しい宝物が内府を輝かせたよ。希少な宝物は重んじられて、その足跡が達して、奇妙なものが次々と応じて届けられたんだ。軽車は南の荒野を駆け抜けて、堅固な車は北の原野で静かに止まったよ。民は戦いの災いから免れて、軍馬は夜明けに出動する不安もなくなったよ。こうして、皇帝の治世はますます堅固なものとなったの。
大皇旣歿,幼主莅朝,姦回肆虐。景皇聿興,虔修遺憲,政無大闕,守文之良主也。降及歸命之初,典刑未滅,故老猶存。大司馬陸公以文武熈朝,左丞相陸凱以謇諤盡規,而施績、范慎以威重顯,丁奉、鍾離斐以武毅稱,孟宗、丁固之徒為公卿,樓玄、賀劭之屬掌機事,元首雖病,股肱猶良。
大皇帝(孫権)が亡くなって、幼い君主が朝廷を治めるようになると、忠の無い人たちが思うままに横暴を振るったんだ。景皇帝(孫休)は故事を誠実に修めて、大きな欠点のない統治をして、後を引き継いだ優れた君主だったよ。そして、帰命侯(孫皓)の初めの頃、礼法や規範がまだ廃れていなくて、古い時代からの重臣たちが生きていたよ。大司馬の陸公(陸抗)は文武で朝廷を輝かせて、左丞相の陸凱は誠実で正直に進言を尽くしたよ。それに、施績と范慎は威厳と重みをもって名を高めて、丁奉と鍾離斐は武勇でたたえられたよ。孟宗や丁固たちは公卿になって、樓玄と賀劭たちは機密を掌ったよ。主君が病に伏していても、彼らのような優れた補佐役たちが朝廷を支えていたんだね。
爰及末葉,羣公旣喪,然後黔首有瓦解之志,皇家有土崩之釁,歷命應化而微,王師躡運而發,卒散於陣,民奔于邑,城池無藩籬之固,山川無溝阜之勢,非有工輸雲梯之械,智伯灌激之害,楚子築室之圍,燕人濟西之隊,軍未浹辰而社稷夷矣。雖忠臣孤憤,烈士死節,將奚救哉?夫曹、劉之將非一世之選,向時之師無曩日之衆,戰守之道抑有前符,險阻之利俄然未改,而成敗貿理,古今詭趣,何哉?彼此之化殊,授任之才異也。」
末期には、公卿たちが次々に亡くなって、民の間には国家の分裂を望む心が現れて、皇室にも崩壊の兆しが現れたんだ。天命が衰えて、天子の軍がその時運に従って進軍すると、兵たちは陣中で散って、民は邑に逃げ込んだの。城や砦には守りの堅固さがなくて、山や川にも自然の防備力がなかったんだ。(晋が)工兵の梯子のような攻城兵器を使ったわけではなくて、智伯(智瑶)のような水攻めがあったわけでもなくて、楚の成王が宋を包囲したことや、燕の人たちの西への正当のような圧倒的な兵力によるものでもなかったんだ。なのに、軍が進軍して10日も経たないうちに国家が滅亡したの。たとえ忠臣が孤独な憤りを抱いて、烈士が命を捧げて節を守っても、何を救うことができたの?
曹操や劉備の将たちは、一代で名を馳せた選りすぐりの人物たちだったけど、当時の軍はかつての規模には及ばなかったんだ。戦いや守備の方法にもかつての規律があって、地形や要害の利点も急に失われたわけではないよ。なのに、結果として勝敗が逆転して、過去と現在でその結末が異なるのはどうして? それは、治世のあり方が異なって、任命された人が優劣を分けたからだよ」
其下篇曰:「昔三方之王也,魏人據中夏,漢氏有岷、益,吳制荊、揚而奄交、廣。曹氏雖功濟諸華,虐亦深矣,其民怨矣。劉公因險飾智,功已薄矣,其俗陋夫。吳桓王基之以武,太祖成之以德,聦明睿達,懿度深遠矣。其求賢如不及,恤民如稚子,接士盡盛德之容,親仁罄丹府之愛。拔呂蒙於戎行,識潘濬於係虜。推誠信士,不恤人之我欺;量能授器,不患權之我逼。執鞭鞠躬,以重陸公之威;悉委武衞,以濟周瑜之師。
下篇には、こうあるよ。
「かつて三国の王たちが割拠していた時代、魏は中原を占領し、漢(蜀)は岷山と益州を有していて、呉は荊州と揚州を支配して交州と広州にまで勢力を広げたよ。曹氏は華夏を平定する功績を成し遂げたけど、その支配は酷くて、民の怨みを買ったんだ。劉氏は険しい地を利用して智略を巡らしたけど、功績は薄かったし、民の風紀は粗末だったよ。一方で、呉の桓王(孫策)は武力によって基盤を築いて、太祖(孫権)は徳によってそれを完成させたよ。聡明で洞察力があって、度量は広くて大きくて、慎み深くて卓越していたの。賢才を求める姿勢は慎重で、民を慈しむ心は幼子を守るようなものだったよ。士人に接するときは最高の礼儀を尽くして、仁者には心からの愛情を注いだよ。呂蒙の才能を戦場から見出して、潘濬の資質を虜囚の中から見抜いたよ。誠意をもって人に接して、相手に欺かれることを恐れないで、能力に応じて職を授けて、権勢が脅かされること心配しなかったんだ。鞭を持ってもかがんで敬意を払って、陸公(陸遜)の威光を重んじて、全ての軍事権限を委ねて周瑜の軍を成功へと導いたよ。
卑宮菲食,以豐功臣之賞;披懷虛己,以納謨士之筭。故魯肅一面而自託,士燮蒙險而效命。高張公之德而省游田之娛,賢諸葛之言而割情欲之歡,感陸公之規而除刑政之煩,奇劉基之議而作三爵之誓,屏氣跼蹐以伺子明之疾,分滋損甘以育淩統之孤,登壇慷慨歸魯肅之功,削投惡言信子瑜之節。是以忠臣競盡其謀,志士咸得肆力,洪規遠略,固不厭夫區區者也。故百官苟合,庶務未遑。
質素な宮殿に住んで、粗末な食事を摂りながらも、功績のある臣下たちへの報酬は豊かにして、心を開いて、自分を空にして、士人の計策を受け入れたよ。だから、魯粛は一度の対面で信頼を寄せて、士燮は険しい状況を越えて命を捧げたの。張公(張昭)の徳を高く評価して、狩りの楽しみを控えて、諸葛謹の賢い進言を聞いて、情欲の楽しみを断ち切ったよ。陸公(陸遜)の規則に感銘を受けて、刑罰や政治の煩雑さを除いて、劉基の奇策を取り入れて、三爵(盟約の酒杯)の誓いを立てたよ。さらに、息を潜めて子明(呂蒙)の病状を見守って、苦楽を共にして淩統の孤児を育てたよ。壇に登って(帝になって)感激しながら魯粛の功績をたたえて、投げかけられた悪言を退けて、子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じたよ。だから、忠のある臣下たちは競い合って知恵を尽くして、志のある士人たちは力を発揮したんだ。大きな計画と遠大な戦略が推し進められて、小さなことに満足することはなかったんだ。このようにして百官は心をひとつにして、雑務に追われることもなかったよ。
初都建業,羣臣請備禮秩,天子辭而不許,曰:『天下其謂朕何!』宮室輿服,蓋慊如也。爰及中葉,天人之分旣定,百度之缺粗修,雖醲化懿綱,未齒乎上代,抑其體國經民之具,亦足以為政矣。地方幾萬里,帶甲將百萬,其野沃,其民練,其財豐,其器利,東負滄海,西阻險塞,長江制其區宇,峻山帶其封域,國家之利,未見有弘於茲者矣。借使中才守之以道,善人御之有術,敦率遺憲,勤民謹政,循定策,守常險,則可以長世永年,未有危亡之患。
都を建業に定めた初め、臣下たちは礼儀や秩序を整えるように請い願ったけど、天子はそれを辞退して、許さないで、『天下の人たちは私に何と言うのかな!』と言ったんだ。宮殿や衣服は、質素なもので満足していたよ。中期では、天と人の関係はすでに定まっていて、たくさんの法の欠けは修正されたよ。たとえ文化が盛んで優れた規範があっても、古代には及ばなかったけど、それでも国家を支えて民を治めるための手段としては十分なものだったの。その領土は広大で数万里にもなって、鎧を着けた兵は100万に達したよ。土地は豊かで、民は訓練を積んでいて、財も豊かで、武器も良いものだったよ。東は大海に面していて、西は険しい地形に守られていて、長江が領土を制御して、険しい山々が国境を囲んでいるんだ。このような国の利点は、これ以上に素晴らしいものはないくらいだよね。もしも普通の才能を持つ者が道理に従って国を守って、善良な人たちが巧みに治めるなら、前の時代から遺された制度を尊重して、民を労って、政務を慎重にして、定められた策に従って堅固な要害を活用すれば、国家を長く安定させて、長い年月にわたる繁栄を受けることができて、危機や滅亡の心配はなかったのにね。
或曰,吳、蜀脣齒之國,蜀滅則吳亡,理則然矣,夫蜀蓋藩援之與國,而非吳人之存亡也。何則?其郊境之接,重山積險,陸無長轂之徑;川阨流迅,水有驚波之艱。雖有銳師百萬,啟行不過千夫;軸艫千里,前驅不過百艦。故劉氏之伐,陸公喻之長虵,其勢然也。
ある人は、呉と蜀は唇と歯のような関係にある国で、蜀が滅びれば呉も滅びるのは道理だと言ったよ。これは理にかなっているかもしれないね。でも、蜀は呉にとって国を守る勢力や支援の国に過ぎなくて、呉の存亡を直接左右するものではないよ。どうしてかな? それは、両国の境界は接しているけど、険しい山々が連なって壁となっていて、陸路は長い車輪を通せる道がなくて、川は狭くて流れは急で、水路には船が進むのが難しい場所もあるからだよ。たとえ100万の精鋭の兵がいても、実際に進軍できるのはせいぜい1,000人に過ぎなくて、千里にわたる船団を整えても、先陣を務められるのはせいぜい100隻に過ぎないんだ。だから劉備の侵攻について、陸公(陸遜)が長い蛇にたとえたの。その勢いがそうであったからにほかならないよ。
昔蜀之初亡,朝臣異謀,或欲積石以險其流,或欲機械以御其變。天子緫羣議而諮之大司馬陸公,陸公以四瀆天地之所以節宣其氣,固無可遏之理,而機械則彼我之所共,彼若棄長伎以就所屈,即荊、揚而爭舟楫之用,是天贊我也,將謹守峽口以待禽耳。逮步闡之亂,憑保城以延彊寇,重資幣以誘羣蠻。于時大邦之衆,雲翔電發,縣旌江介,築壘遵渚,襟帶要害,以止吳人之西,而巴漢舟師沿江東下。
昔、蜀が滅んだばかりの頃、朝廷の臣下たちはそれぞれ意見が分かれたよ。ある者は石を積み上げて川の流れをせき止めて、要害を作るべきだと言って、またある者は機械を用いて変事に備えるべきだと主張したよ。天子は臣下たちの議論をまとめて、大司馬の陸公(陸抗)に相談したよ。彼は4つの大河は天地の気を節制したり発散させるためのものだから、それを阻むのは理に反すると言ったよ。それに機械は敵と味方がどっちも使うものだから、もし敵が長所を捨てて、私たちの弱点に付け入ろうとするなら、荊州や揚州で船の利用を争うことになって、これは天が我々を助けることだと言ったよ。そして、峡谷の入り口をしっかりと守って、敵を待ち伏せるべきだと助言したよ。
その後、歩闡の乱が起こると、城に立てこもって強敵に対抗して、たくさんの資金を投じて周辺の異民族たちを誘い込んだよ。当時、大国の軍勢は雲のように集まって、電光のように動いて、旗を長江に掲げて、要害を押さえて呉の人が西に進むのを阻んだの。そして巴漢の水軍は長江に沿って東に進軍したんだ。
陸公以偏師三萬,北據東坑,深溝高壘,案甲養威。反虜踠跡待戮,而不敢北闚生路,彊寇敗績宵遁,喪師大半,分命銳師五千,西禦水軍,東西同捷,獻俘萬計。信哉賢人之謀,豈欺我哉!自是烽燧罕警,封域寡虞。陸公沒而潛謀兆,吳釁深而六師駭。夫太康之役,衆未盛乎曩日之師,廣州之亂,禍有愈乎向時之難,而邦家顛覆,宗廟為墟。嗚呼!人之云亡,邦國殄瘁,不其然與!
陸公(陸抗)はわずか3万の軍を率いて北の東坑を守って、深い堀と高い壁を築いて、防備を固めて、武器を整えつつ威勢を養ったよ。反逆者たちはその場で動けなくなっちゃって、討伐されるのを待つ身となって、北へ逃げる活路をうかがうこともできなかったよ。強敵は敗れて夜闇に逃げて、軍の半数以上を失ったんだ。陸公(陸抗)は精鋭5,000を分けて西で水軍を防いで、東西の戦線でどっちも勝利を収めて、1万もの捕虜を献上したよ。これこそまさに賢人の計略が真実で、決して私たちを欺くものではない証なんだ! この戦いから、烽火台は警戒を促すことはめったになくなって、国境の危険も少なかったよ。でも、陸公(陸抗)が亡くなって、陰で策略が企てられて、呉の内部での争いは深まって、全軍は驚いて混乱したんだ。太康の戦いでは、敵の軍勢はかつての大軍ほどではなくて、広州の乱も過去の困難よりも厳しいものではなかったのに、こうして国家は傾いて、宗廟(祖先の廟)は廃墟となったんだ。ああ、賢者がいなくなると、国と民は深刻な病にかかる、まさにそのとおりだよね!
「人之云亡,邦國殄瘁」は『詩経』「大雅」から。
易曰『湯武革命順乎天』,玄曰『亂不極則治不形』,言帝王之因天時也。古人有言,曰『天時不如地利』,易曰『王侯設險以守其國』,言為國之恃險也。又曰:『地利不如人和』,『在德不在險』,言守險之由人也。吳之興也,參而由焉,孫卿所謂合其參者也。及其亡也,恃險而已,又孫卿所謂舍其參者也。
『易経』には『湯と武の革命は天に従う』とあって、『太玄』には『乱が極まらなければ治は形を成さない』とあるよ。これは帝王が天命に従うことを意味しているよ。古人は『天の時は地の利に如かず』と言ったよ。『易経』には『王侯は険しい場所に要塞を設けて国を守る』とあって、国を守るためには地勢の有利さ(地利)を頼りとするべきと言っているよ。さらに、(『孟子』には)『地の利よりも人々の和が重要』、(『史記』には)『守るのは要害によるのではなくて徳による』ともあって、険しい場所を守るためには人の調和によるものだと説かれているんだ。呉が興ったのは、この3つ(天時・地利・人和)を兼ね備えていたからで、孫卿(荀子)が言う『3つを兼ね備える』状態にあたるよ。でも、呉の滅亡は、ただ地勢の有利さに頼っていただけで、これもまた孫卿(荀子)が言う『3つを捨て去る』状況にあたるんだ。
夫四州之氓非無衆也,大江之南非乏俊也,山川之嶮易守也,勁利之器易用也,先政之業易循也,功不興而禍遘者何哉?所以用之者失也。故先王達經國之長規,審存亡之至數,恭己以安百姓,敦惠以致人和,寬沖以誘俊乂之謀,慈和以結士民之愛。是以其安也,則黎元與之同慶;及其危也,則兆庶與之共患。安與衆同慶,則其危不可得也;危與下共患,則其難不足卹也。夫然,故能保其社稷而固其土宇,麥秀無悲殷之思,黍離無愍周之感矣。」
四州の民は決して少なくないし、大きな長江の南には優れた人材が欠けているわけでもないよ。山や川の険しい地形は守りやすいし、強力で鋭利な武器は用い方が簡単で、先人の政治の基盤も継承しやすいものだったよ。なのに、功績があがらないで、災いを招いたのはどうして? それは、それを使う者がを誤ったからだよ。
先代の王たちは国を治めるための長い規範を深く理解して、存亡に至る道理を慎重に見極めていたよね。自分を抑えて民を安心させて、恩恵を厚くして人々の和を得て、広くて大きくて謙虚な心で優れた人たちの策略を引き出して、慈しみと和やかさをもって士民の愛を結びつけたんだ。こうして、国が安定している時は、民も一緒に喜びを分かち合って、危機に直面した時には、民もまた一緒に困難を分かち合ったんだ。民と一緒に安定を喜べる国には危機は訪れなくて、民と一緒に困難を分かち合える国には大きな災難も恐れるに足りないよ。このようにして、国は基盤を守って、領地を固めることができるんだ。そうすれば、麦が美しく成長しても殷の滅亡を悲しむことはなくて、黍が生い茂っても周の滅亡を哀れむこともなくなるんだよ」
「呉書孫皓伝」は以上だよ!