正史『三国志』呉書孫休伝をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』呉書孫休伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「孫休伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そん)(きゅう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 吳書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

皇帝に即位する

本文

孫休字子烈,權第六子。年十三,從中書郎射慈、郎中盛冲受學。太元二年正月,封琅邪王,居虎林。四月,權薨,休弟亮承統,諸葛恪秉政,不欲諸王在濵江兵馬之地,徙休於丹楊郡。太守李衡數以事侵休,休上書乞徙他郡,詔徙會稽。居數歲,夢乘龍上天,顧不見尾,覺而異之。

(そん)(きゅう)は、(あざな)()(れつ)で、(そん)(けん)の六男だよ。13歳の時、(ちゅう)(しょ)(ろう)(しゃ)()(ろう)(ちゅう)(せい)(ちゅう)に学んだよ。
太元2年(252年)、正月に(ろう)()(おう)に封ぜられて、()(りん)に住んだよ。四月、(そん)(けん)が亡くなって、(そん)(きゅう)の弟の(そん)(りょう)が後を継いで、(しょ)(かつ)(かく)が政務を執ったよ。(しょ)(かつ)(かく)は王族が長江沿いの兵馬のいる地にいることを好まなくて、(そん)(きゅう)(たん)(よう)郡に移したんだ。(たん)(よう)(たい)(しゅ)()(こう)はよく(そん)(きゅう)を妨げて、(そん)(きゅう)は他の郡に移りたいと願ったよ。詔によって、(かい)(けい)に移ったよ。
数年後、龍に乗って天に昇る夢を見たけど、龍の尾が見えないことに気づいて、びっくりしちゃった。

本文

孫亮廢,己未,孫綝使宗正孫楷與中書郎董朝迎休。休初聞問,意疑,楷、朝具述綝等所以奉迎本意,留一日二夜,遂發。十月戊寅,行至曲阿,有老公干休叩頭曰:「事乆變生,天下喁喁,願陛下速行。」休善之,是日進及布塞亭。武衞將軍恩行丞相事,率百僚以乘輿法駕迎於永昌亭,築宮,以武帳為便殿,設御座。

太平3年(258年)に(そん)(りょう)が廃位されて、己未の日、(そん)(ちん)は、(そう)(せい)(そん)(かい)(ちゅう)(しょ)(ろう)(とう)(ちょう)を送って(そん)(きゅう)を迎えに行かせたよ。(そん)(きゅう)はこの知らせを聞いた初めは疑念を抱いたけど、(そん)(かい)(とう)(ちょう)が迎えに来た理由を詳しく説明して、1日2夜滞在した後、出発したよ。十月、戊寅の日、(きょく)()に着いたら、老人が(そん)(きゅう)の前に進み出て頭を地に叩きつけてこう言ったよ。 「事態は長引くほど変化が生じるんだ。天下はみんな期待しているよ。どうか陛下、すぐに行動してほしいんだ」
(そん)(きゅう)はその言葉を良しとして、その日のうちに()(さい)(てい)まで進んだよ。()(えい)(しょう)(ぐん)(そん)(おん)(じょう)(しょう)の職務を代わりに行って、百官(官僚)を率いて乗輿と法駕(天子の車)を永昌亭で迎えて、武帳(天幕)を便殿(臨時の宮殿)として設けて、御座を備えたよ。

本文

己卯,休至,望便殿止住,使孫楷先見恩。楷還,休乘輦進,羣臣再拜稱臣。休升便殿,謙不即御坐,止東廂。戶曹尚書前即階下讚奏,丞相奉璽符。休三讓,羣臣三請。

己卯の日、(そん)(きゅう)が着くと、便殿(臨時の宮殿)を見てそこで停まって、まずは(そん)(かい)(そん)(おん)に会うように命令したよ。(そん)(かい)が戻ると、(そん)(きゅう)(れん)(天子の車)に乗って進んで、臣下たちが2回拝礼して臣下として名乗ったよ。(そん)(きゅう)は便殿に上ったけど、謙虚に振る舞って、すぐには御座に座らないで、東側の(しょう)(部屋)に留まっていたの。
その後、()(そう)(しょう)(しょ)が前に出て段の下で上奏して、(じょう)(しょう)(そん)(おん))が印璽(皇帝の印)を捧げたよ。(そん)(きゅう)は3度辞退したけど、臣下たちが3度請い願ったよ。

本文

休曰:「將相諸侯咸推寡人,寡人敢不承受璽符。」羣臣以次奉引,休就乘輿,百官陪位,綝以兵千人迎於半野,拜于道側,休下車荅拜。即日,御正殿,大赦,改元。是歲,於魏甘露三年也。

(そん)(きゅう)はこう言ったよ。
「将や相、諸侯たちがみんな私を皇帝に推し進めてくれているよ。私がこの璽と符を受け取らないわけにはいかないんだ」
臣下たちは順番に導いて(そん)(きゅう)(れん)へ乗せて、百官たちもそれぞれの役職に従って付き従ったよ。(そん)(ちん)は1,000人の兵を率いて野原の半ばで孫休を迎えて、道端で拝礼して、(そん)(きゅう)も車から降りて拝礼を返したんだ。その日のうちに正殿に入って、大赦を行って、年号を改めたよ。この年は、()の甘露3年(258年)だよ。

臣下を任命する

本文

永安元年冬十月壬午,詔曰:「夫襃德賞功,古今通義。其以大將軍綝為丞相、荊州牧,增食五縣。武衞將軍恩為御史大夫、衞將軍、中軍督,封縣侯。威遠將軍授為右將軍、縣侯。偏將軍幹雜號將軍、亭侯。長水校尉張布輔導勤勞,以布為輔義將軍,封永康侯。董朝親迎,封為鄉侯。」

(えい)(あん)元年(258年)、冬の十月、壬午の日、詔を下してこう言ったよ。
「徳をほめたたえて、功績を認めることは、昔からの道理だよね。だから、(だい)(しょう)(ぐん)(そん)(ちん)(じょう)(しょう)(けい)(しゅう)(ぼく)に任命して、領地を5県増やすよ。()(えい)(しょう)(ぐん)(そん)(おん)(ぎょ)()(だい)()(えい)(しょう)(ぐん)(ちゅう)(ぐん)(とく)に任命して、(けん)(こう)に封じるよ。()(えん)(しょう)(ぐん)()(しょう)(ぐん)(けん)(こう)にするよ。それに、(へん)(しょう)(ぐん)(そん)(かん)(ざつ)(ごう)(しょう)(ぐん)(てい)(こう)にするよ。(ちょう)(すい)(こう)()(ちょう)()は勤勉に指導してくれたから、()()(しょう)(ぐん)に任命して、(えい)(こう)(こう)に封じるよ。(とう)(ちょう)は直接迎えてくれたから、(きょう)(こう)に封じるよ」

本文

又詔曰:「丹陽太守李衡,以往事之嫌,自拘有司。夫射鉤斬袪,在君為君,遣衡還郡,勿令自疑。」(註6)己丑,封孫皓為烏程侯,皓弟德錢唐侯,謙永安侯。(註7)

それに、また詔を下してこう言ったよ。
(たん)(よう)(たい)(しゅ)()(こう)は前の行動について疑念を抱いて、自分から司法の拘束を受けているんだ。これまでの恨みを無視して任命することは、君主になったら、君主としての責任なの。だから、()(こう)を郡に帰らせて、自分自身を疑わせないようにしてね」
己丑の日、(そん)(こう)()(てい)(こう)に、(そん)(こう)の弟の(そん)(とく)(せん)(とう)(こう)に、(そん)(けん)(えい)(あん)(こう)に封ぜられたよ。

射鉤は、詳しくは『()()』「(せい)(たい)(こう)(せい)()」や『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』「僖公二十四年」を見てね。春秋時代の(かん)(ちゅう)が、(せい)の公子を暗殺しようと矢を放ったけど、帯の留め具に当たって無事だったよ。後に、公子は斉公(つまり(かん)(こう))に即位して、(かん)(ちゅう)を宰相に任命したんだよ。
斬袪は、詳しくは『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』「僖公五年」を見てね。

(註6)

襄陽記曰:衡字叔平,本襄陽卒家子也,漢末入吳為武昌庶民。聞羊衜有人物之鑒,往干之,衜曰:「多事之世,尚書劇曹郎才也。」是時校事呂壹操弄權柄,大臣畏偪,莫有敢言,衜曰:「非李衡無能困之者。」遂共薦為郎。權引見,衡口陳壹姦短數千言,權有愧色。數月,壹被誅,而衡大見顯擢。

(じょう)(よう)()』によると、()(こう)は、(あざな)(しゅく)(へい)で、もともと(じょう)(よう)の兵の家族の出身だよ。(かん)の末期に()に入って、()(しょう)の庶民になったよ。
ある日、彼は(よう)(どう)という、人物を観る能力のある人がいると聞いて、尋ねに行ったんだ。(よう)(どう)はこう言ったよ。
「あなたは、たくさんの出来事がある世の中で、(しょう)(しょ)(げき)(そう)(ろう)の才覚に富んでいるみたいだね」
この時、(こう)()(りょ)(いつ)が権力を振るっていて、大臣たちは彼に恐れていて、口を開く者はいなかったんだって。でも、(よう)(どう)はこう言ったよ。
()(こう)以外に、彼を追い詰めることができる人はいないよ」
そこで彼を郎に推薦して、(そん)(けん)に彼を引き合わせたよ。()(こう)は数千言にも及ぶ(りょ)(いつ)の悪行を口にして、(そん)(けん)は恥じ入っちゃった。数ヶ月後、(りょ)(いつ)が処刑されて、()(こう)の名声はとても高まったの。

(註6)

後常為諸葛恪司馬,幹恪府事。恪被誅,求為丹楊太守。時孫休在郡治,衡數以法繩之。妻習氏每諫衡,衡不從。會休立,衡憂懼,謂妻曰:「不用卿言,以至於此。」遂欲奔魏。妻曰:「不可。君本庶民耳,先帝相拔過重,旣數作無禮,而復逆自猜嫌,逃叛求活,以此北歸,何面見中國人乎?」

後に(しょ)(かつ)(かく)の司馬(しば)としていつも仕えて、(しょ)(かつ)(かく)の府の事務を取り仕切ったよ。(しょ)(かつ)(かく)が処刑された後、彼は(たん)(よう)(たい)(しゅ)になったよ。その頃、(そん)(きゅう)が郡を治めていて、()(こう)は法によってよく彼を縛り付けたんだ。()(こう)の妻の(しゅう)()はいつも()(こう)を諫めていたけど、聞き入れなかったんだ。でも、(そん)(きゅう)が皇帝に即位して、()(こう)は心配したの。そして、妻にこう言ったよ。
「あなたの言葉を聞かなかったから、こんな状況になっちゃった」
彼は()に逃げようと考えたよ。でも、妻はこう言ったよ。
「それはできないよ。あなたは元々庶民だよね。先帝((そん)(けん))のおかげですごく引き立てられたよ。あなたは何度も礼を欠いていて、さらに自分を疑っているね。逃げて生き延びようとしているけど、そうして北の()に逃げても、()の人たちに顔向けできないよね」

(註6)

衡曰:「計何所出?」妻曰:「琅邪王素好善慕名,方欲自顯於天下,終不以私嫌殺君明矣。可自囚詣獄,表列前失,顯求受罪。如此,乃當逆見優饒,非但直活而已。」衡從之,果得無患,又加威遠將軍,援以棨戟。衡每欲治家,妻輙不聽,後密遣客十人於武陵龍陽汎洲上作宅,種甘橘千株。

()(こう)はこう言ったよ。
「どうすれば良いの?」
妻はこう答えたよ。
(ろう)()(おう)(そん)(きゅう))は素行が良くて、名が慕われているよ。彼は自分の名声を広めようとしていて、私怨であなたを殺すことはないと思うよ。自分を獄に入れて、前の過ちを認めて、罪を受け入れるべきだよ。そうすれば、むしろ寛大な処置を受けるだろうし、ただ生き延びるだけでなくて、名誉を守ることができるよね」
()(こう)は彼女の言葉に従って、結果として安全を得られたんだ。さらに、()(えん)(しょう)(ぐん)に昇進して、儀式用の木戟を授けられたよ。()(こう)は家のことをしようとするたびに、妻は聞き入れなかったの。
その後、()(こう)はこっそりと10人の客を()(りょう)(りゅう)(よう)にある洲に送って、そこに家を建てて、1,000本の柑橘の木を植えたよ。

(註6)

臨死,勑兒曰:「汝母惡我治家,故窮如是。然吾州里有千頭木奴,不責汝衣食,歲上一匹絹,亦可足用耳。」衡亡後二十餘日,兒以白母,母曰:「此當是種甘橘也,汝家失十戶客來七八年,必汝父遣為宅。汝父恒稱太史公言,『江陵千樹橘,當封君家』。吾荅曰:『且人患無德義,不患不富,若貴而能貧,方好耳,用此何為!』」吳末,衡甘橘成,歲得絹數千匹,家道殷足。晉咸康中,其宅止枯樹猶在。

()(こう)は死の床で子にこう言ったよ。
「あなたの母は私が家のことをするのを嫌っていたから、私たちは貧困に苦しんでいるんだ。でも、私たちの故郷には1,000人もの木でできた奴隷があって、あなたには衣食を求めることは無いけど、年に1匹の絹を献上してくれるから、充分な生活ができるはずだよ」
()(こう)が亡くなって20日以上経ったある日、子が母に話したよ。母はこう言ったよ。
「これはたぶん柑橘の木だね。あなたの家から10人の客が失って7、8年経っていて、おそらく父が建てるために送ったものだよ。父はいつも(たい)()(こう)の言葉を引用していたの。『(こう)(りょう)に1,000本の橘があるなら、爵位を封ぜられた家と同じ価値だよ』って。私はこう答えたよ。
『人は徳や義のないことを悩むけど、富んでいることを悩むことはないんだ。高貴だけど貧しく生きることができるなら、それで十分。どうしてこんなことをしているのかわからないの!』」
()の末期、()(こう)の柑橘は成熟して、年に数千匹の絹が得られて、家計は豊かになったよ。(しん)(かん)(こう)の年号の間(335~342年)にも、その家の跡と枯れ木が残っていたんだって。

(たい)()(こう)は、『()()』の作者のことだよ。『江陵千樹橘,當封君家』は、『()()』「()(しょく)(れつ)(でん)」から。

(註7)

江表傳曰:羣臣奏立皇后、太子,詔曰:「朕以寡德,奉承洪業,莅事日淺,恩澤未敷,加后妃之號,嗣子之位,非所急也。」有司又固請,休謙虛不許。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、臣下たちが皇后と太子を立てるように上奏したけど、(そん)(きゅう)は詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が乏しくて、帝の大業を受け継いで、政務を執ってから日が浅いし、恩恵が行き届いていないんだ。後妃の位と嗣子の地位を加えることは急ぐべきではないよ」
役人が固く求めたけど、(そん)(きゅう)は謙虚に受け入れなかったんだ。

孫綝の処刑

本文

十一月甲午,風四轉五復,蒙霧連日。綝一門五侯皆典禁兵,權傾人主,有所陳述,敬而不違,於是益恣。休恐其有變,數加賞賜。丙申,詔曰:「大將軍忠款內發,首建大計以安社稷,卿士內外,咸贊其議,並有勳勞。昔霍光定計,百僚同心,無復是過。亟案前日與議定策告廟人名,依故事應加爵位者,促施行之。」

十一月、甲午の日、大風が四方から吹き、5度も向きを変えて、濃霧が数日も続いたんだ。(そん)(ちん)の一族の五侯はみんな禁兵を掌握していたから、権勢は君主を上回るほどで、(そん)(ちん)が意見を言ったら、誰も敬意をもって従うばかりで反対する者はいなかったんだ。だから、彼はますます傲慢になっていったの。(そん)(きゅう)は彼が変事を起こすことを恐れて、何度も褒賞を与えたんだ。丙申の日、詔を下してこう言ったよ。
(だい)(しょう)(ぐん)(そん)(ちん))は忠を尽くして内心から誠意を発して、大計を立てて国家を安定させたよ。卿や士大夫たちもみんな、彼の提案をほめたたえて、功績をあげたよ。昔、(かく)(こう)が計画を立てて、百官は心をひとつにして、過ちは二度と繰り返されなかったよ。先日の議を一緒に定めて、廟に報告した者の名を急いで調べて、故事に基づいて爵位を加えるべき者にはすぐに施行してね」

本文

戊戌,詔曰:「大將軍掌中外諸軍事,事統煩多,其加衞將軍御史大夫恩侍中,與大將軍分省諸事。」壬子,詔曰:「諸吏家有五人三人兼重為役,父兄在都,子弟給郡縣吏,旣出限米,軍出又從,至於家事無經護者,朕甚愍之。其有五人三人為役,聽其父兄所欲留,為留一人,除其米限,軍出不從。」又曰:「諸將吏奉迎陪位在永昌亭者,皆加位一級。」

戊戌の日、詔を下してこう言ったよ。
(だい)(しょう)(ぐん)(そん)(ちん))は内外の軍事をまとめて、たくさんの事務を担当しているから、その負担が大きいんだ。だから、(えい)(しょう)(ぐん)(ぎょ)()(たい)()(そん)(おん)()(ちゅう)にして、(だい)(しょう)(ぐん)と事を分担するように命令するよ」
壬子の日、詔を下してこう言ったよ。
「役人の家庭で、5人中3人が重複して役務に就いている場合があって、父や兄が都にいる中で、子弟は郡や県の役人を務めていることもあるんだ。このような家では、すでに出された米を納めさせられて、さらに軍役にも従うから、家の事を管理する者がいない状況となっていて、私はとても心を痛めているんだ。5人中3人が役に就いている家については、父や兄の希望を聞き入れて留めて、1人を家に残すことを許すよ。その場合、米の納付を免除して、軍役にも従わなくていいよ」
それに、またこう言ったよ。
「永昌亭で迎え入れた将や役人たちには、それぞれ位を一級昇進させるよ」

本文

頃之,休聞綝逆謀,陰與張布圖計。十二月戊辰臘,百僚朝賀,公卿升殿,詔武士縛綝,即日伏誅。己巳,詔以左將軍張布討姦臣,加布為中軍督,封布弟惇為都亭侯,給兵三百人,惇弟恂為校尉。

しばらくして、(そん)(きゅう)(そん)(ちん)の反逆の計画を聞いて、こっそりと(ちょう)()と一緒に計画を立てたよ。十二月、戊辰の日(臘祭の日)、百官が朝賀のために集まって、公卿が殿に昇って、詔を下して衛兵たちに命令して(そん)(ちん)を縛って、その日に処刑したよ。
己巳の日、詔を下して、()(しょう)(ぐん)(ちょう)()に反逆者を討つように命令して、(ちょう)()(ちゅう)(ぐん)(とく)に任命して、(ちょう)()の弟の(ちょう)(とん)()(てい)(こう)に封じて、300人の兵を与えて、さらに(ちょう)(とん)の弟の(ちょう)(じゅん)(こう)()に任命したよ。

本文

詔曰:「古者建國,教學為先,所以道世治性,為時養器也。自建興以來,時事多故,吏民頗以目前趨務,去本就末,不循古道。夫所尚不惇,則傷化敗俗。其案古置學官,立五經博士,核取應選,加其寵祿,科見吏之中及將吏子弟有志好者,各令就業。一歲課試,差其品第,加以位賞。使見之者樂其榮,聞之者羨其譽。以敦王化,以隆風俗。」

詔を下してこう言ったよ。
「古代では、国を建てるときに最も大切なのは教育と学問だよ。それは、世の中を導いて、人々の本性を正して、その時代に合った人を育てるためだよ。国が興ってから、世の中にはたくさんの混乱があって、役人や民は目先の利益に追われて、根本を捨てて末節に走って、古い道に従わなくなったんだ。だから、志向が誠実さを欠けば、教え導くことがなくなって、人々の習慣が悪くなっていくんだ。そこで、古例に基づいて学官を置いて、五経博士を任命するよ。それに、適した人を選び出して、その地位と俸禄を高めるべきだね。さらに、役人や将の子弟の中から志を持って学問を好む者には、学問に励むように命令するよ。1年ごとに試験をして、その成績に応じて等級を分け、位や賞を与えるよ。こうすることで、その栄誉を見た者は喜んで、その評判を聞いた者はほめるはずだよ。これによって王道の教化を広めて、風習を高めるの」

農業を拡大する

本文

二年春正月,震電。三月,備九卿官,詔曰:「朕以不德,託于王公之上,夙夜戰戰,忘寢與食。今欲偃武脩文,以崇大化。推此之道,當由士民之贍,必須農桑。管子有言:『倉廩實,知禮節;衣食足,知榮辱。』夫一夫不耕,有受其饑,一婦不織,有受其寒;饑寒並至而民不為非者,未之有也。

「私は徳が薄いけど、王や公の上に身を託される立場となって、朝から晩まで心を引き締めて、眠ることも食べることも忘れているんだ。今、武を休めて文を修めて。教え導きたいと思っているよ。この道を推し進めるには、士人や民が十分な生活を営むことが前提で、そのためには農業と養蚕と欠かせないよね。『(かん)()』には『倉がいっぱいになることで、礼節を知って、食べ物や服が足りれば、栄誉や恥を知る』とあるよ。1人の男が耕さなければ、飢える人が出て来るし、1人の女が織らなければ、寒さに耐える人が現れるんだ。飢えと寒さが同時に来たら、民に悪いことをしないなんてことは、これまでないよね。

本文

自頃年已來,州郡吏民及諸營兵,多違此業,皆浮船長江,賈作上下,良田漸廢,見穀日少,欲求大定,豈可得哉?亦由租入過重,農人利薄,使之然乎!

近年、州や郡の役人や民、そして各地に駐屯する兵たちは、この本来の仕事(農業)から離れて、長江を行き交う船で交易をしているんだ。だから、良い農地が放置されて、収穫される穀物がどんどん減っているんだ。このような状況で安定を求めることが、どうしてできるの? これは税金が重すぎて、農民の利益が薄くなって、このような事態を招いたのではないかな。

本文

今欲廣開田業,輕其賦稅,差科彊羸,課其田畝,務令優均,官私得所,使家給戶贍,足相供養,則愛身重命,不犯科法,然後刑罰不用,風俗可整。以羣僚之忠賢,若盡心於時,雖太古盛化,未可卒致,漢文升平,庶幾可及。及之則臣主俱榮,不及則損削侵辱,何可從容俯仰而已?諸卿尚書,可共咨度,務取便佳。田桑已至,不可後時。事定施行,稱朕意焉。」

今は、農業を拡大して、税金を軽くして、富める人と貧しい人を適切に区分して税金をかけて、土地の面積に応じて税を調整して、負担を公平に分配するよう努めたいと考えているよ。こうして公的にも私的にも適切な状態を保って、家庭が十分に生計を立てられるようになれば、お互いに助け合って、生活が安定するだろうね。こうすることで、人々は自分の命を大切にして、法律を犯さなくなるし、刑罰を使う必要がなくなって、風紀を整えることができるね。
忠実で賢明な臣下たちがこのことに全力を尽くせば、古代の理想的な統治にはすぐには超えることはできないかもしれないけど、(かん)(ぶん)(てい)(りゅう)(こう))の時代の平和な時代には近づけるかも。そうなれば、臣下も民も栄えるけど、そうでなければ、国家の損失や衰退を招いて、侵害を受けることになっちゃう。それなのに、悠然と事態を見過ごすことがどうしてできるの? 公卿や(しょう)(しょ)たちは、一緒に相談して、最善の方法を見つけてね。農地の開拓はすでに迫っていて、時期を逃してはならないよ。計画が決まったら、実行して、私の意向にかなうようにしてね」

『倉廩實,知禮節;衣食足,知榮辱。』は、『(かん)()』「牧民」から。「衣食足りて礼節を知る」だね。

孫亮が亡くなる

本文

三年春三月,西陵言赤烏見。秋,用都尉嚴密議,作浦里塘。會稽郡謠言王亮當還為天子,而亮宮人告亮使巫禱祠,有惡言。有司以聞,黜為候官侯,遣之國。道自殺,衞送者伏罪。(註8)以會稽南部為建安郡,分宜都置建平郡。(註9)

永安3年(260年)、春の三月、西(せい)(りょう)で赤い鳥を見たという報告があったよ。秋、()()(げん)(みつ)が議論して、()()(とう)を建てたよ。
その後、(かい)(けい)郡では(かい)(けい)(おう)(そん)(りょう)が天子に返り咲くという噂が広まって、(そん)(りょう)の宮廷の人が、(そん)(りょう)が巫女に呪術をかけさせて悪い言葉を言わせていると報告したんだ。これが知られて、(そん)(りょう)(こう)(かん)(こう)に降格されて、領地に追放されたよ。彼は道中で自ら命を絶って、彼を護衛していた人たちも罪を認めたんだ。(かい)(けい)の南部を(けん)(あん)郡として、()()を分けて(けん)(へい)郡を置いたよ。

(註8)

吳錄曰:或云休鴆殺之。至晉太康中,吳故少府丹楊戴顒迎亮喪,葬之賴鄉。

()(ろく)』によると、(そん)(きゅう)(そん)(りょう)を毒殺したとも言われているんだって。(しん)(たい)(こう)の年号の間(280~289年)、()(しょう)()だった(たん)(よう)の出身の(たい)(ぎょう)(そん)(りょう)の棺を迎えて、郷里で葬ったんだ。

(註9)

吳歷曰:是歲得大鼎於建德縣。

()(れき)』によると、この年に(けん)(とく)県で大きな鼎が見つかったんだって。

本文

四年夏五月,大雨,水泉涌溢。秋八月,遣光祿大夫周弈、石偉巡行風俗,察將吏清濁,民所疾苦,為黜陟之詔。(註10)九月,布山言白龍見。是歲,安吳民陳焦死,埋之,六日更生,穿土中出。

永安4年(261年)、夏の五月、大雨が降って、水が湧き出して溢れちゃったの。秋の八月、(こう)(ろく)(たい)()(しゅう)(えき)(せき)()が風習を視察して、将や役人の清濁や民の苦しみを調べて、彼らの地位を昇進または降格する詔を出したよ。九月、()(ざん)で白龍が目撃されたよ。
この年、()の民の(ちん)(しょう)が亡くなって、埋葬されたけど、6日後に蘇生して、土の中から現れたんだって。

(註10)

楚國先賢傳曰:石偉字公操,南郡人。少好學,脩節不怠,介然獨立,有不可奪之志。舉茂才、賢良方正,皆不就。孫休即位,特徵偉,累遷至光祿勳。及皓即位,朝政昏亂,偉乃辭老耄痼疾乞身,就拜光祿大夫。吳平,建威將軍王戎親詣偉。太康二年,詔曰:「吳故光祿大夫石偉,秉志清白,皓首不渝,難處危亂,廉節可紀。年已過邁,不堪遠涉,其以偉為議郎,加二千石秩,以終厥世。」偉遂陽狂及盲,不受晉爵。年八十三,太熈元年卒。

()(こく)(せん)(けん)(でん)』によると、(せき)()は、(あざな)(こう)(そう)で、(なん)郡の出身だよ。若い頃から学問が好きで、節操を怠らずに修めて、揺るがないで独りで立って、奪われることのない志を持っていたよ。茂才や賢良方正に選ばれたけど、応じなかったんだ。
(そん)(きゅう)が皇帝に即位すると、特に(せき)()を選んで、後に(こう)(ろく)(くん)に昇進させたよ。(そん)(こう)が皇帝に即位すると、政治が乱れたから、(せき)()は老いや病気を理由に引退して、(こう)(ろく)(たい)()になったよ。()が平定されると、(けん)()(しょう)(ぐん)(おう)(じゅう)(せき)()を訪ねたよ。(たい)(こう)2年(281年)、詔があったよ。
()(こう)(ろく)(たい)()だった(せき)()は、清廉潔白な志を持っていて、白髪になるまでその志を変えないで、困難な時に危機を乗り越えて、その清廉さは記録に残すべきものだね。すでに高齢で、遠い旅をするのは耐えられないから、彼を()(ろう)に任命して、俸禄を二千石に増やして、その生涯を全うさせることにするよ」
そして、(せき)()は狂って目が見えなくなったふりをして、(しん)の爵位を受けることを拒んだよ。(たい)()元年(290年)に83歳で亡くなったんだって。

孫休の子供たち

本文

五年春二月,白虎門北樓災。秋七月,始新言黃龍見。八月壬午,大雨震電,水泉涌溢。乙酉,立皇后朱氏。戊子,立子𩅦為太子,大赦。(註11)

永安5年(262年)、春の二月、白虎門の北の樓で火災があったんだ。秋の七月、()(しん)で黄龍が目撃されたよ。八月の壬午の日、大雨と雷があって、水が泉から溢れちゃった。乙酉の日、(しゅ)()を皇后に立てたよ。戊子の日、子の(そん)𩅦(わん)を太子に立てて、大赦を行ったよ。

(註11)

吳錄載休詔曰:「人之有名,以相紀別,長為作字,憚其名耳。禮,名子欲令難犯易避,五十稱伯仲,古或一字。今人競作好名好字,又令相配,所行不副,此瞽字伯明者也,孤常哂之。或師友父兄所作,或自己為;師友尚可,父兄猶非,自為最不謙。

()(ろく)』によると、(そん)(きゅう)は詔を下してこう言ったよ。
「人の名前は、お互いを識別するためにあって、成長して(あざな)をつけるのは、名(諱)をはばかるためだよ。『礼記』では、子供の名は侵しにくくて避けやすいものが望ましいとされているんだ。『50歳では伯や仲という』とあるから、古代には1文字だったこともあるんだ。今、人々は良い名や字を作ることに競っていて、それらをお互いに合わせているけど、行いがそぐわないことがあるよね。これは、見えないのによく見えるという名前を付けるみたいなもので、私はいつもそれを笑っているの。(あざな)をつけたのは師や友人、父や兄である場合もあれば、自分で作ることもあるよね。師や友人が作った場合はまだしも、父や兄が作った場合は適切ではなくて、自分で作る場合はますます謙虚さに欠けているよ。

(註11)

孤今為四男作名字:太子名𩅦,𩅦音如湖水灣澳之灣,字莔,莔音如迄今之迄;次子名𩃙,𩃙音如兕觥之觥,字𧟨,𧟨音如玄礥首之礥;次子名壾,壾音如草莽之莽,字昷,昷音如舉物之舉;次子名𠅬,𠅬音如襃衣下寬大之襃,字㷏,㷏音如有所擁持之擁。此都不與世所用者同,故鈔舊文會合作之。夫書八體損益,因事而生,今造此名字,旣不相配,又字但一,庶易棄避,其普告天下,使咸聞知。」

私は今、自分の4人の子供たちのために名を考えたよ。太子は「𩅦(わん)」と名づけて、発音は湖水の「(わん)」、灣澳の「灣」と同じだよ。(あざな)は「(きつ)」で、発音は今までの「(きつ)」と同じだよ。
次男は「𩃙(こう)」と名づけて、発音は()(こう)の「(こう)」と同じだよ。(あざな)は「𧟨(けん)」で、発音は(げん)(けん)(しゅ)の「(けん)」と同じだよ。
三男は「(もう)」と名づけて、発音は(そう)(もう)の「(もう)」と同じだよ。(あざな)は「(きょ)」で、発音は(きょ)(ぶつ)の「(きょ)」と同じだよ。
四男は「𠅬(ほう)」と名づけて、発音は襃衣(礼服)の裾が広く大きい様子の「(ほう)」と同じだよ。(あざな)は「(よう)」で、発音は何かを抱える「(よう)」だよ。
この名前は世間で一般に使われている文字ではなくて、古い文を参考に作ったの。文字は8つの書体があってそれぞれが必要に応じて生み出されてきたよ。今、この名前を作る時、お互いに対応するものがなくて、字が1つだけだから、簡単に避けられることを期待しているよ。広く世に知れ渡るように天下に告げてね」

(註11)

臣松之以為傳稱「名以制義,義以出禮,禮以體政,政以正民。是以政成而民聽,易則生亂」。斯言之作,豈虛也哉!休欲令難犯,何患無名,而乃造無況之字,制不典之音,違明誥於前脩,垂嗤騃於後代,不亦異乎!是以墳土未乾而妻子夷滅。師服之言,於是乎徵矣。

(はい)(しょう)()の見解によると、『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』には「名は義を制して、義が礼を生み出して、礼が政治を体現して、政治が人々を正す。だから政治が成れば民は従って、易をもってすれば乱を生む」とあるよ。この言葉が作られたのは、決して虚しいものではないよ! (そん)(きゅう)は難しい名前を避けさせたいみたいだけど、名前が不明瞭で、意味のない文字を作って、典則に合わない音を選んだんだ。これは前代の教えに反していて、後の世で笑われるだろうね。その結果、墓の土がまだ乾かないうちに妻や子供が滅ぼされちゃったんだ。『(しゅん)(じゅう)()()(でん)』の()(ふく)の言葉が、まさにここに証明されたと言えるね。

(そん)(きゅう)さんの子供たちの名前は読みづらいし、手書きしたくないし、現代でもフォントが対応していないし(Unicode にはあるのはすごいけど)! 表示できない場合を考えて、画像でまとめてみたよ。

孫休の子供たちの名前

彼らは皇帝になれなかったのだから、避諱する意味がなくなっちゃった。もし皇帝になっていたら一般的な文字として使われるようになっていたかも?
一方で、()では帝が改名を迫られていたのだった。

本文

冬十月,以衞將軍濮陽興為丞相,廷尉丁密、光祿勳孟宗為左右御史大夫。休以丞相興及左將軍張布有舊恩,委之以事,布典宮省,興關軍國。休銳意於典籍,欲畢覽百家之言,尤好射雉,春夏之間常晨出夜還,唯此時舍書。

冬の十月、(えい)(しょう)(ぐん)(ぼく)(よう)(こう)(じょう)(しょう)に任命して、(てい)()(てい)(みつ)(こう)(ろく)(くん)(もう)(そう)をそれぞれ左右の(ぎょ)()(たい)()に任命したよ。(そん)(きゅう)は、(ぼく)(よう)(こう)()(しょう)(ぐん)(ちょう)()との間に古いつながりがあることを考えて、彼らに政治を任せたよ。(ちょう)()は宮廷の管理を担当して、(ぼく)(よう)(こう)は軍政を統括したよ。(そん)(きゅう)は古典の書物を熱心に読んで、百家の言葉をすべて読みつくそうとしたんだ。それに、射雉が好きで、春と夏にはよく朝早く出かけて夜に戻って、その間は本を読むことをやめたんだって。

本文

休欲與愽士祭酒韋曜、博士盛沖講論道藝,曜、沖素皆切直,布恐入侍,發其陰失,令己不得專,因妄飾說以拒遏之。休荅曰:「孤之涉學,羣書略徧,所見不少也;其明君闇王,姦臣賊子,古今賢愚成敗之事,無不覽也。今曜等入,但欲與論講書耳,不為從曜等始更受學也。縱復如此,亦何所損?君特當以曜等恐道臣下姦變之事,以此不欲令入耳。如此之事,孤已自備之,不須曜等然後乃解也。此都無所損,君意特有所忌故耳。」

(そん)(きゅう)は、(はか)()(さい)(しゅ)()(よう)(はか)()(せい)(ちゅう)に、学問や技術について論じ合いたいと思っていたんだ。()(よう)(せい)(ちゅう)はどちらも率直で、(ちょう)()は彼らが参加することで、自身の隠した失敗が見つかっちゃって、政治を専制できなくなることを恐れて、それを抑えるためにでたらめな議論を挟むことを説明したよ。孫休は答えてこう言ったよ。
「私が学問に取り組んできた中で、たくさんの書物を読んで、見聞も少なくないよ。その内容には、明君と暗君、悪い臣下と反逆者、過去と現在の賢者や愚者、成功の失敗の事例ついてだよ。今、()(よう)たちが参加するのは、ただ『(しょ)(きょう)』について論じて、議論を交わしたいだけなの。決して彼らの指導のもとで改めて学び直そうというわけではないよ。たとえそうだとしても、何の害があるの? あなたが()(よう)たちの参加を避けるのは、臣下による悪事や反乱を恐れるからだね。でも、そのようなことは私自身すでに備えているよ。彼らの話を聞いたからといって理解するのではないよ。これには何の損失もなくて、あなたがただ何かを恐れているからそうしているだけなの」

本文

布得詔陳謝,重自序述,又言懼妨政事。休荅曰:「書籍之事,患人不好,好之無傷也。此無所為非,而君以為不宜,是以孤有所及耳。王務學業,其流各異,不相妨也。不圖君今日在事,更行此於孤也,良所不取。」布拜表叩頭,休荅曰:「聊相開悟耳,何至叩頭乎!如君之忠誠,遠近所知。往者所以相感,今日之巍巍也。詩云:『靡不有初,鮮克有終。』終之實難,君其終之。」

(ちょう)()は詔を受けて謝って、自分の立場をふたたび述べて、学問のせいで政務に支障が出ることを心配していたんだ。(そん)(きゅう)は答えてこう言ったよ。
「書物については、人がそれを好まないのを問題とすべきで、好むこと自体には何の害もないよ。これは何も非とするべきことではないのに、あなたがそれを望ましくないと考えているから、私がそれについて触れることになったの。王の政務と学問は、その流れはそれぞれ異なっていても、お互いに妨げるものではないんだ。まさか、あなたが今日の政務に取り組む中で、私に対してそのような行いをするとは思いもよらなくて、全然納得がいかないんだ」
(ちょう)()が頭を地面につけてひれ伏したよ。(そん)(きゅう)はこう答えたよ。
「お互いの理解を深める助けとなればと思っただけで、どうしてそこまでひれ伏すの! あなたの忠誠心は遠く離れた場所でも知れ渡っているよ。これまでの心の通じ合いがあったからこそ、今日のあなたの偉業があるの。『()(きょう)』には『何事も始めにはがんばるけど、最後までがんばって終わらせるのはまれにしかない』とあるよ。終わらせるのは本当に難しいけど、どうかあなたにはそれを成し遂げてほしいんだ」

本文

初休為王時,布為左右將督,素見信愛,及至踐阼,厚加寵待,專擅國勢,多行無禮,自嫌瑕短,懼曜、沖言之,故尤患忌。休雖解此旨,心不能恱,更恐其疑懼,竟如布意,廢其講業,不復使沖等入。是歲使察戰到交阯調孔爵、大豬。(註12)

前に、(そん)(きゅう)が王に即位した時、(ちょう)()は左右の指揮を担当していて、信頼されていたよ。(そん)(きゅう)が皇帝に即位すると、(ちょう)()は彼にもっと気に入られて、国家の権力を独占して、不適切な行動が増えたんだ。自分の短所を恐れて、()(よう)(せい)(ちゅう)がそれについての言及を特に警戒していたよ。(そん)(きゅう)はこの意図を理解していたけど、心は穏やかではなかったの。さらに彼らが疑念を抱くことを恐れて、(ちょう)()の考えに従って、彼らの講義を中止して、(せい)(ちゅう)たちを入れないようにしたよ。
この年、(さっ)(せん)(民を監視するために設置した役人)が(こう)()郡に着いて、孔雀や大きな猪の調査をしたよ。

(註12)

臣松之案:察戰吳官號,今揚都有察戰巷。

(はい)(しょう)()が調べたところ、(さっ)(せん)という名前の役職が()にあって、今の(よう)()には察戦巷があるよ。

呂興の反乱

本文

六年夏四月,泉陵言黃龍見。五月,交阯郡吏呂興等反,殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業,而察戰至,恐復見取,故興等因此扇動兵民,招誘諸夷也。

永安6年(263年)、夏の四月、(せん)(りょう)で黄龍が見えたんだって。五月、(こう)()郡の役人である(りょ)(こう)たちが反乱を起こして、(たい)(しゅ)(そん)(しょ)を殺しちゃった。(そん)(しょ)は前から、1,000人以上の優れた職人を郡から(けん)(ぎょう)に送っていたよ。察戦がやってくるとふたたび取られるのを恐れて、(りょ)(こう)たちが兵や民を扇動して、各地の異民族を呼び寄せたんだ。

本文

冬十月,蜀以魏見伐來告。癸未,建業石頭小城火,燒西南百八十丈。甲申,使大將軍丁奉督諸軍向魏壽春,將軍留平別詣施績於南郡,議兵所向,將軍丁封、孫異如沔中,皆救蜀。蜀主劉禪降魏問至,然後罷。呂興旣殺孫諝,使使如魏,請太守及兵。丞相興建取屯田萬人以為兵。分武陵為天門郡。(註13)

冬の十月、(しょく)から()が攻めてくるという報告があったよ。癸未の日、(けん)(ぎょう)(せき)(とう)小城で火災が起きて、西南に180丈も燃え広がっちゃったんだ。甲申の日、(だい)(しょう)(ぐん)(てい)(ほう)(とく)(指揮官)として、軍を率いて()寿(じゅ)(しゅん)に向かわせたよ。将軍の(りゅう)(へい)を別に(なん)郡の()(せき)のもとへ送って、兵の進路について協議したよ。将軍の(てい)(ほう)(そん)()(べん)(ちゅう)に向かって、(しょく)を救援することになったよ。(しょく)の主である(りゅう)(ぜん)()に降伏したことが知らされて、その後、軍が解かれたんだ。
(りょ)(こう)(そん)(しょ)を殺して、使者を()に送って(たい)(しゅ)と兵を求めたよ。(じょう)(しょう)(ぼく)(よう)(こう)は、1万人の農民を兵として集めたよ。()(りょう)を分けて(てん)(もん)郡としたよ。

(註13)

吳歷曰:是歲青龍見於長沙,白燕見於慈胡,赤雀見於豫章。

()(れき)』によると、この年に青龍が(ちょう)()で、白い燕が()()で、赤い雀が()(しょう)で見られたんだって。

孫休が亡くなる

本文

七年春正月,大赦。二月,鎮軍陸抗、撫軍步恊、征西將軍留平、建平太守盛曼,率衆圍蜀巴東守將羅憲。夏四月,魏將新附督王稚浮海入句章,略長吏賞林及男女二百餘口。將軍孫越徼得一船,獲三十人。

永安7年(264年)、春の正月、大赦を行ったよ。二月、(ちん)(ぐん)(しょう)(ぐん)(りく)(こう)()(ぐん)(しょう)(ぐん)()(きょう)(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)(りゅう)(へい)(けん)(へい)(たい)(しゅ)(せい)(まん)が率いる軍が、(しょく)()(とう)を守る将の()(けん)を包囲したよ。夏の四月、()の将軍で(しん)()(とく)(新しく従った部隊の指揮官)の(おう)()が海上を航行して(こう)(しょう)に入って、長吏や財産や男女200人以上を捕らえたんだ。将軍の(そん)(えつ)が1隻の船を奪って、30人を捕らえたよ。

本文

秋七月,海賊破海鹽,殺司鹽校尉駱秀。使中書郎劉川發兵廬陵。豫章民張節等為亂,衆萬餘人。魏使將軍胡烈步騎二萬侵西陵,以救羅憲,陸抗等引軍退。復分交州置廣州。壬午,大赦。癸未,休薨,(註14)時年三十,謚曰景皇帝。(註15)

秋の七月、海賊が(かい)(えん)を襲撃して、()(えん)(こう)()(らく)(しゅう)を殺したんだ。(ちゅう)(しょ)(ろう)(りゅう)(せん)に兵を動かして()(りょう)に向かわせたよ。()(しょう)の民の(ちょう)(せつ)たちが反乱を起こして、その勢力は1万人にもなったんだ。()からは将軍の()(れつ)が歩兵と騎兵2万を率いて西(せい)(りょう)に進んで、()(けん)を救援したよ。(りく)(こう)たちは軍を引き上げたんだ。それに、(こう)州を分けて(こう)州を置いたよ。壬午の日、大赦を行ったよ。
癸未の日、(そん)(きゅう)が亡くなったんだ。この時30歳で、諡は「(けい)(こう)(てい)」になったよ。

本文

(註14)江表傳曰:休寢疾,口不能言,乃手書呼丞相濮陽興入,令子𩅦出拜之。休把興臂,而指𩅦以託之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(きゅう)は病床に伏していて、口で話すことができなかったんだ。だから手紙を書いて、(じょう)(しょう)(ぼく)(よう)(こう)を呼んだよ。そして、子の(そん)𩅦(わん)に拝礼させたよ。(そん)(きゅう)(ぼく)(よう)(こう)の腕を握って、子の(そん)𩅦(わん)を指差して彼に後のことを託したよ。

(註15)

葛洪抱朴子曰:吳景帝時,戍將於廣陵掘諸冢,取版以治城,所壞甚多。後發一大冢,內有重閤,戶扇皆樞轉可開閉,四周為徼道通車,其高可以乘馬。又鑄銅為人數十枚,長五尺,皆大冠朱衣,執劒列侍靈座,皆刻銅人背後石壁,言殿中將軍,或言侍郎、常侍。似公王之冢。破其棺,棺中有人,髮已班白,衣冠鮮明,面體如生人。棺中雲母厚尺許,以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人,以倚冢壁。有一玉長一尺許,形似冬瓜,從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中,皆有黃金如棗許大,此則骸骨有假物而不朽之効也。

(かつ)(こう)の『(ほう)(ぼく)()』によると、()(けい)(てい)(そん)(きゅう))の時代に、(こう)(りょう)の将軍が墳墓を掘って、城壁を修理するために板を取ったよ。壊されたものはとても多かったの。後に1つの大きな墳墓を発見したんだ。その中には重い扉があって、扉はすべて回って、開閉できたよ。周りには車が通れる道路があって、その高さは馬に乗れるくらいだったよ。さらに、銅で鋳造した人形が数十体あって、それぞれが5尺の身長で、大きな冠をかぶっていて、赤い衣を着て、剣を持って霊座に列を作っていたよ。銅像の背後の岩壁には、「殿(でん)(ちゅう)(しょう)(ぐん)」と刻まれているものもあれば、「()(ろう)」や「(じょう)()」と書かれているものもあるんだって。王公の墳墓に似ているよ。

(註15)

破其棺,棺中有人,髮已班白,衣冠鮮明,面體如生人。棺中雲母厚尺許,以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人,以倚冢壁。有一玉長一尺許,形似冬瓜,從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中,皆有黃金如棗許大,此則骸骨有假物而不朽之効也。

棺を壊したら、その中には人がいたんだ。その人の髪は白くて、衣や冠は鮮やかで、顔はまるで生きているみたいだったの。棺の中は厚い雲母で覆われていて、白玉の璧が30枚、遺体の下に敷かれていたよ。兵たちは一緒に遺体を持ち上げて、墓の壁に寄りかからせたよ。その中には長さ約1尺の玉があって、冬瓜みたいな形をしていて、死体の懐から地面に転がり落ちたんだ。両耳や鼻の穴には、大きさがなつめくらいの黄金があったよ。これは骨が腐らないようにする効果のある物だよ。

孫休伝は以上だよ!

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