はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書孫皓伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
孫皓 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。
- 正史『三国志』「呉書孫皓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 1 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「呉書孫皓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 2
出典
三國志 : 吳書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

皇帝に即位する
孫皓字元宗,權孫,和子也,一名彭祖,字皓宗。孫休立,封皓為烏程侯,遣就國。西湖民景養相皓當大貴,皓陰喜而不敢泄。
孫皓は、字は元宗で、彼は孫権の孫で、孫和の子だよ。別の名は彭祖で、字は皓宗だよ。孫休が皇帝に即位すると、孫皓は烏程侯に封ぜられて、領地に帰るように命令されたよ。西湖の民の景養は、孫皓が将来的に大きな成功を収めるだろうと考えて、孫皓は内心喜んでいたけど、それを明かすことはできなかったんだ。
休薨,是時蜀初亡,而交阯攜叛,國內震懼,貪得長君。左典軍萬彧昔為烏程令,與皓相善,稱皓才識明斷,是長沙桓王之疇也,又加之好學,奉遵法度,屢言之於丞相濮陽興、左將軍張布。興、布說休妃太后朱,欲以皓為嗣。朱曰:「我寡婦人,安知社稷之慮,苟吳國無損,宗廟有賴可矣。」於是遂迎立皓,時年二十三。改元,大赦。是歲,於魏咸熈元年也。
孫休が亡くなった時、蜀が滅んだばかりで、交阯が反乱を起こして、国内は動揺して、新しい君主が望まれていたよ。左典軍の万彧は前に、烏程県令になって、孫皓と仲良くなったよ。彼は孫皓の才覚が明晰で、長沙桓王(孫策)に並ぶと言ったの。それに、孫皓の学習への情熱と法律への従順さについて、丞相の濮陽興と左将軍の張布に何度も話したよ。濮陽興と張布は、孫休の皇后の朱氏に孫皓を後継者にしようと説得したよ。朱氏は答えてこう言ったよ。
「私は夫を亡くした人で、国家のことを心配するべきではないの。呉の国が損なわれなくて、宗廟(祖先の廟)が保たれれば十分だよ」
そして、孫皓は皇帝に即位したよ。この時23歳だよ。年号を改めて、大赦を行ったよ。この年は、魏では咸熙元年(264年)だよ。
元興元年八月,以上大將軍施績、大將軍丁奉為左右大司馬,張布為驃騎將軍,加侍中,諸增位班賞,一皆如舊。九月,貶太后為景皇后,追謚父和曰文皇帝,尊母何為太后。十月,封休太子𩅦為豫章王,次子汝南王,次子梁王,次子陳王,立皇后滕氏。(註1)
元興元年(264年)、八月、大将軍の施績と大将軍の丁奉をそれぞれ左右の大司馬に、張布を騎兵将軍に任命して、侍中の地位も与えたよ。栄典や報酬もそれぞれ昔の制度のとおりに与えたよ。
九月、太后を景皇后に降格して、父の孫和に文皇帝の謚号を贈ったよ。母の何氏を太后と尊んで呼んだよ。十月、孫休の子で太子の孫𩅦を豫章王に封じて、次男を汝南王、三男を梁王、四男を陳王に封じて、皇后には滕氏を立てたよ。
江表傳曰:皓初立,發優詔,恤士民,開倉廩,振貧乏,科出宮女以配無妻,禽獸擾於苑者皆放之。當時翕然稱為明主。
『江表伝』によると、孫皓が皇帝に即位した当初、優れた詔を出して、民をねぎらって、倉庫を開いて食料を提供して、貧しい人を支援して、宮女を出して妻のいない人に嫁がせて、そして、宮殿の苑で飼われている獣や鳥を解放したよ。その時代、彼は明君として一般にほめたたえられたんだって。
孫皓の横暴
皓旣得志,麤暴驕盈,多忌諱,好酒色,大小失望。興、布竊悔之。或以譖皓,十一月,誅興、布。十二月,孫休葬定陵。封后父滕牧為高密侯,(註2)舅何洪等三人皆列侯。是歲,魏置交阯太守之郡。晉文帝為魏相國,遣昔吳壽春城降將徐紹、孫彧銜命齎書,陳事勢利害,以申喻皓。(註3)
孫皓は一度成功を収めると、横暴になって、高慢になったんだ。たくさんの疑いを抱いて、お酒や遊びに溺れて、たくさんの間違いをしたよ。濮陽興と張布は後悔して、誰かが孫皓に彼らの悪口を言って、十一月、濮陽興と張布は処刑されたんだ。十二月、孫休は定陵に葬られたよ。皇后の父の滕牧は高密侯に封ぜられて、舅の何洪など3人も列侯に封ぜられたよ。
この年、魏は交阯太守の郡を置いたよ。司馬昭は、魏の相国として、呉の寿春城で降伏した呉の将軍の徐紹と孫彧に手紙を持たせて事情や利害を述べさせて、孫皓に忠告したよ。
吳歷曰:牧本名密,避丁密,改名牧,丁密避牧,改名為固。
『呉歴』によると、滕牧は元の名前は滕密だったけど、丁密を避けて、名前を滕牧に改めたんだよ。そして、丁密が滕牧を避けるために、名前を丁固に改めたよ。
漢晉春秋載晉文王與皓書曰:「聖人稱有君臣然後有上下禮義,是故大必字小,小必事大,然後上下安服,羣生獲所。逮至末塗,純德旣毀,勦民之命,以爭彊於天下,違禮順之至理,則仁者弗由也。方今主上聖明,覆燾無外,僕備位宰輔,屬當國重。
『漢晋春秋』によると、司馬昭は孫皓へ手紙を送ってこう言ったよ。
「聖人は君臣の関係があって初めて上下の礼儀があるよ。だから、大きなものは小さなものを養って、小さなものは大きなものに奉仕しなければならないんだ。そうすることで、上下が安定して、人々が幸せを得るよ。でも、王朝の末期になると、純潔な徳が壊れて、民の命は奪われて、他の国と天下を争って、礼を無視することが至上の理になってしまうから、仁のある人は現れないよ。今、魏の君主は賢くて、内も外にも秩序があるよ。私は政治の重責を担っているよ。
唯華夏乖殊,方隅圮裂,六十餘載,金革亟動,無年不戰,暴骸喪元,困悴罔定,每用悼心,坐以待旦。將欲止戈興仁,為百姓請命,故分命偏師,平定蜀漢,役未經年,全軍獨克。于時猛將謀夫,朝臣庶士,咸以奉天時之宜,就旣征之軍,藉吞敵之勢,宜遂回旗東指,以臨吳境。
華夏が分かれて、四方が崩壊してから、60年以上経って、まだ戦乱が何度も起こって、戦いが絶えることがなくて、荒れた場所や貧しい人たちが残って、悲しい心を持って夜明けを待っているんだ。戦いをやめて、仁を興して、民のために祈るために、軍を分けて指揮して、蜀漢を平定したよ。まだ数年しか経っていないのに、すべての軍が独り立ちして勝利を収めたよ。当時、勇猛な将や智者、朝廷の官僚、一般の人たちはみんな、天の法則に従って、征服した軍を支援して、敵を倒す力を借りて、旗を東に向けて、呉の国境に臨むべきだと考えているの。
舟師汎江,順流而下,陸軍南轅,取徑四郡,兼成都之械,漕巴漢之粟,然後以中軍整旅,三方雲會,未及浹辰,可使江表厎平,南夏順軌。然國朝深惟伐蜀之舉,雖有靜難之功,亦悼蜀民獨罹其害,戰於緜竹者,自元帥以下並受斬戮,伏尸蔽地,血流丹野。一之於前,猶追恨不忍,況重之於後乎?是故旋師案甲,思與南邦共全百姓之命。
舟軍は長江を渡って、流れに乗って下って、陸では軍が南へ進んで、4つの郡を取って、成都の武器も手に入れて、巴漢の穀物を運んで、その後、中央の軍を整えて、三方面で軍勢を合流させたら、12日のうちに江表を平定して、南へ順調に進めることができるよ。でも、国の朝廷は蜀との戦いに深く悩んでいて、平定した功績があっても、蜀の民が犠牲になったことを心配しているんだ。緜竹での戦いでは、指揮官以下がみんな討ち取られて、地面は死体で覆われて、野原は血で染まったんだ。その悲劇を思うと、一度前にしたことを、まだ後悔しているのに、後にも重ねることはどれほど辛いことなの? だから、急いで兵を留めて、南方の国と協力して、民の命を守ることを考えているよ。
夫料力忖勢,度資量險,遠考古昔廢興之理,近鑒西蜀安危之効,隆德保祚,去危即順,屈己以寧四海者,仁哲之高致也;履危偷安,隕德覆祚,而不稱於後世者,非智者之所居也。今朝廷遣徐紹、孫彧獻書喻懷,若書御於前,必少留意,回慮革筭,結歡弭兵,共為一家,惠矜吳會,施及中土,豈不泰哉!此昭心之大願也,敢不承受。若不獲命,則普天率土,期於大同,雖重干戈,固不獲已也。」
人々の力量を考えて、情勢を推し量って、資源と才覚を計って、古今の興亡の理を遠く考えて、西蜀の安全と危機を近くに見据えて、徳を高めて、王朝を保って、危機を回避することは、仁と知の高い志だよ。一方で、危機を軽んじて、安易に安穏を選んで、徳を失って、地位を失う者は、後の世にたたえられることはないよ。これは賢者の行いではないんだ。今、朝廷が徐紹と孫彧を送って書を差し上げるはず。その書が皇帝の前におかれたら、注意深く読んでね。その後、計画を検討して、歓喜が交わって、兵を休めて、一緒に一家を築いて、呉と会稽に幸福が広まって、中土にも及ぶはずだよ。これは私の心からの大きな願いだよ。もし命を受けなかった場合、天下の人たちがひとつになって、戦わなければならないけど、仕方ないよね」
武昌に遷都する
甘露元年三月,皓遣使隨紹、彧報書曰:「知以高世之才,處宰輔之任,漸導之功,勤亦至矣。孤以不德,階承統緒,思與賢良共濟世道,而以壅隔未有所緣,嘉意允著,深用依依。今遣光祿大夫紀陟、五官中郎將弘璆宣明至懷。」(註4)(註5)(註6)(註7)
甘露元年(265年)、三月、孫皓は徐紹と孫彧に手紙を送ってこう言ったよ。
「高い才能を持つ人が国を導く大切な役割を果たしていると知ったよ。功績が少しずつ現れていて、とても素晴らしいと思うよ。私は徳が足りないと感じつつも、先代の統治を継いで、賢人と一緒に世の中を良くしようと思っているんだ。そのための縁がまだ得られていなかったけど、使者が来て立派な考えが明らかになって、離れたくないと思ったんだ。今、光禄大夫の紀陟、五官中郎将の弘璆を使者として送って、私の思いを伝えるね」
江表傳曰:皓書兩頭言白,稱名言而不著姓。
『江表伝』によると、孫皓の手紙は両端に言葉が白くて、名だけを言って姓を明らかにしなかったんだって。
吳錄曰:陟字子上,丹楊人。初為中書郎,孫峻使詰南陽王和,令其引分。陟密使令正辭自理,峻怒。陟懼,閉門不出。孫休時,父亮為尚書令,而陟為中書令,每朝會,詔以屏風隔其座。出為豫章太守。
『呉録』によると、紀陟は、字は子上で、丹楊の出身だよ。最初は中書郎を務めて、孫峻によって、南陽王の孫和を問い詰めて自ら命を絶たせるように命令されたよ。彼はこっそりと孫和に自分の立場を正当化するために弁護させたけど、孫峻は怒っちゃった。紀陟は恐れて門を閉ざして外に出なかったよ。
孫休の時代、父の紀亮は尚書令で、紀陟は中書令だったよ。天子に会う場ではいつも、詔によって彼の座席は屏風で隔てられたんだ。後に豫章太守に任命されたよ。
干寶晉紀曰:陟、璆奉使如魏,入境而問諱,入國而問俗。壽春將王布示之馬射,旣而問之曰:「吳之君子亦能斯乎?」陟曰:「此軍人騎士肄業所及,士大夫君子未有為之者矣。」布大慙。
干宝の『晋紀』によると、紀陟と弘璆は使者として魏に送られたよ。国境に入ると、諱を尋ねて、国内に入ると、人々の風習を尋ねたよ。寿春の将の王布は彼らに馬上で射撃を見せて、その後、彼らにこう尋ねたよ。
「呉の君子もこれをできるの?」
紀陟はこう答えたよ。
「これは軍人や騎士が練習するもので、士大夫や君子がするものではないんだ」
王布はとても恥じ入ったよ。
旣至,魏帝見之,使儐問曰:「來時吳王何如?」陟對曰:「來時皇帝臨軒,百寮陪位,御膳無恙。」晉文王饗之,百寮畢會,使儐者告曰:「某者安樂公也,某者匈奴單于也。」陟曰:「西主失土,為君王所禮,位同三代,莫不感義,匈奴邊塞難羈之國,君王懷之,親在坐席,此誠威恩遠著。」又問:「吳之戍備幾何?」對曰:「自西陵以至江都,五千七百里。」又問曰:「道里甚遠,難為堅固?」對曰:「疆界雖遠,而其險要必爭之地,不過數四,猶人雖有八尺之軀靡不受患,其護風寒亦數處耳。」文王善之,厚為之禮。
魏の帝が彼を迎えて、案内役に問わせたよ。
「来る時、呉王(孫皓)はどんな様子だったの?」
紀陟はこう答えたよ。
「皇帝は殿上にいて、百官(官僚)が列を成して側にいて、食事も問題なかったよ」
司馬昭は彼らを宴に招いて、百官(官僚)が全員集まると、案内人に告げさせたよ。
「こちらは安楽公(劉禅)で、こちらは匈奴の単于だよ」
紀陟はこう答えたよ。
「西(蜀)の主君が領土を失われたとはいえ、王(司馬昭)がこれほどまでに礼を尽くして、地位を三代(夏・殷・周)の王と同等にされていることには、誰もが感銘を受けているよ。匈奴は辺境の国で制御が難しいけど、王がこれを懐柔して、親しく席を同じくされているのは、まさに威光と恩徳が遠くにまで届いている証だね」
司馬昭はさらにこう尋ねたよ。
「呉の守備はどのくらい?」
紀陟はこう答えたよ。
「西陵から江都まで、距離は約5,700里だよ」
司馬昭はこう尋ねたよ。
「その距離がすごく長くて、守備を堅くするのは難しいよね?」
紀陟はこう答えたよ。
「国境がいくら遠くても、戦略的に重要で争いの起こる地域は多くても4ヶ所くらいだよ。人が8尺の体を持っていてどこからでも病気が入り込みそうだけど、風や寒さから身を守る箇所が数箇所に限られているのと同じ理屈だよ」
司馬昭はこれを喜んで、彼らを厚くもてなしたよ。
臣松之以為人有八尺之體靡不受患,防護風寒豈唯數處?取譬若此,未足稱能。若曰譬如金城萬雉,所急防者四門而已。方陟此對,不猶愈乎!
裴松之の見解によると、人が8尺の体を持っていてどこからでも病気が入り込みそうだけど、風や寒さから身を守る箇所が数箇所に限られているのは本当なの? このたとえは、その能力を十分に表現できていないよね。もし万雉(高さが1丈で長さが3丈あるキジ)の頑丈な城でも、実際には4つの門を守る必要があるだけだね。紀陟の答えはこれで足りるし、むしろさらに優れているんじゃないかな。
吳錄曰:皓以諸父與和相連及者,家屬皆徙東冶,唯陟以有密旨,特封子孚都亭侯。孚弟瞻,字思遠,入仕晉驃騎將軍。弘璆,曲阿人,弘咨之孫,權外甥也。璆後至中書令、太子少傅。
『呉録』によると、孫皓は諸父のうち孫和と関係を持っていた者たちの家族をすべて東冶に移住させたよ。ただし、紀陟は密命を受けていたから、特別に彼の子の紀孚を都亭侯に封じたよ。紀孚の弟の紀瞻は、字は思遠で、晋で驃騎将軍になったよ。
弘璆は曲阿の出身で、弘咨の孫で、孫権の外甥(姉の子)だよ。後に、弘璆は中書令や太子少傅になったよ。
紹行到濡須,召還殺之,徙其家屬建安,始有白紹稱美中國者故也。夏四月,蔣陵言甘露降,於是改年大赦。秋七月,皓逼殺景后朱氏,亡不在正殿,於苑中小屋治喪,衆知其非疾病,莫不痛切。又送休四子於吳小城,尋復追殺大者二人。
徐紹が濡須に着くと、呼び戻されて、処刑されたんだ。彼の家族は建安に移されたよ。前に、徐紹が中原をほめていると言った人がいたよ。
夏の四月、蒋陵が甘露が降ると言って、その後新しい年号を定めて、大赦を行ったよ。
秋の七月、孫皓が景后の朱氏を追い詰めて殺しちゃった。正殿には姿を見せないで、庭の小屋で喪を治めたから、みんなはこれが病気ではないことを知って、とても悲しんだよ。そして、孫休の4人の子供たちを呉の小城に送って、後に年長者2人を追って殺したんだ。
九月,從西陵督步闡表,徙都武昌,御史大夫丁固、右將軍諸葛靚鎮建業。陟、璆至洛,遇晉文帝崩,十一月,乃遣還。皓至武昌,又大赦。以零陵南部為始安郡,桂陽南部為始興郡。十二月,晉受禪。
九月、西陵督の歩闡は武昌に遷都するように上表して、御史大夫の丁固と右将軍の諸葛靚が建業を守ったよ。紀陟と弘璆が洛陽に着くと、司馬昭が亡くなったから、十一月に帰らされたよ。孫皓が武昌に着くと、ふたたび大赦を行ったよ。零陵の南部を始安郡、桂陽の南部を始興郡として置いたよ。十二月、晋が禅譲を受けたよ。
孫謙の反乱
寶鼎元年正月,遣大鴻臚張儼、五官中郎將丁忠弔祭晉文帝。及還,儼道病死。(註8)
宝鼎元年(266年)、正月、大鴻臚の張儼と五官中郎将の丁忠を司馬昭を弔うために送ったよ。帰る道中で、張儼は病気で亡くなったんだ。
吳錄曰:儼字子節,吳人也。弱冠知名,歷顯位,以博聞多識,拜大鴻臚。使于晉,皓謂儼曰:「今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。」對曰:「皇皇者華,蒙其榮耀,無古人延譽之美,磨厲鋒鍔,思不辱命。」旣至,車騎將軍賈充、尚書令裴秀、侍中荀勗等欲傲以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帶之好。
『呉録』によると、張儼は、字は子節で、呉の出身だよ。若い頃から名を知られて、高い地位を歴任して、博識でたくさんの知識を持っていて、大鴻臚に任命されたよ。晋へ使者として行くときに、孫皓は張儼にこう言ったよ。
「今、南北(晋と呉)が友好関係を築いていて、あなたは外交の才能があるから、相手に譲歩してね」
張儼はこう答えたよ。
「皇帝の栄光に恵まれて、古代の名声を受け継いで、使命を果たすために努力するよ」
張儼が着くと、車騎将軍の賈充や尚書令の裴秀、侍中の荀勗たちは、彼が知らないことで困らせようと接したけど、彼を屈服させることはできなかったよ。尚書僕射の羊祜や尚書の何楨は彼と親しく交流したよ。
忠說皓曰:「北方守戰之具不設,弋陽可襲而取。」皓訪羣臣,鎮西大將軍陸凱曰:「夫兵不得已而用之耳,且三國鼎立已來,更相侵伐,無歲寧居。今彊敵新并巴蜀,有兼土之實,而遣使求親,欲息兵役,不可謂其求援於我。今敵形勢方彊,而欲徼幸求勝,未見其利也。」
丁忠は孫皓にこう言ったよ。
「北方の守備は整っていないから、弋陽を奇襲して攻め取れるよ」
孫皓は臣下に意見を求めて、鎮西大将軍の陸凱はこう言ったよ。
「兵はやむを得ず使うものだよ。三国が鼎立してから、お互いに攻め合っているから、平和な時期はないんだ。今、強大な敵が巴蜀を併合して、すごく広い領土を持っているよ。しかも、使者を送って親交を求めて、兵役を緩和させようとしているよ。それなのに、私たちに援助を求めてくるとは言えないよね。敵の勢力が強まっている中で、無理に勝利を求めても利益にならないと思うよ」
車騎將軍劉纂曰:「天生五才,誰能去兵?譎詐相雄,有自來矣。若其有闕,庸可棄乎?宜遣閒諜,以觀其勢。」皓陰納纂言,且以蜀新平,故不行,然遂自絕。八月,所在言得大鼎,於是改年,大赦。以陸凱為左丞相,常侍萬彧為右丞相。
車騎将軍の劉纂はこう言ったよ。
「天は5つの才(五行)を生んで、誰が戦いを避けることができるの? 詭計や策略は古から存在しているよ。もし何か欠けているとすれば、それを捨てて置いていいの? 密偵を送り込んで、その勢いを観察するべきだよ」
孫皓は内心で劉纂の言葉を受け入れたけど、蜀が新しく平定されたばかりだったから、行動には移さなくて、自然に消えていったよ。
八月、いろいろな場所で大きな鼎があったという報告があったから、年号を「宝鼎」に改めて、大赦を行ったよ。左丞相には陸凱、右丞相には常侍の万彧を任命したよ。
冬十月,永安山賊施但等聚衆數千人,(註9)劫皓庶弟永安侯謙出烏程,取孫和陵上鼓吹曲蓋。比至建業,衆萬餘人。丁固、諸葛靚逆之於牛屯,大戰,但等敗走。獲謙,謙自殺。(註10)
冬の十月、永安の山賊の施但たちが数千人を集めて、孫皓の庶弟で永安侯の孫謙を烏程から連れ出して、孫和の墓陵の上で鼓吹(軍楽隊)や曲蓋を奪ったよ。彼らは建業に着くときには、彼らの勢力は1万人以上に達していたんだ。丁固と諸葛靚は牛屯で彼らを迎え撃って、激しい戦闘が繰り広げられて、施但たちは敗走したよ。孫謙は捕らえられて、自ら命を絶ったんだ。
吳錄曰:永安今武康縣也。
『呉録』によると、永安は、今の武康県だよ。
漢晉春秋曰:初望氣者云荊州有王氣破揚州而建業宮不利,故皓徙武昌,遣使者發民掘荊州界大臣名家冢與山岡連者以厭之。旣聞但反,自以為徙土得計也。使數百人鼓譟入建業,殺但妻子,云天子使荊州兵來破揚州賊,以厭前氣。
『漢晋春秋』によると、前に占い師が言うには、荊州には王の気があって、それが揚州を破って、建業の宮殿には不利なんだって。だから、孫皓は武昌に遷都して、使者を送って民を動員して、荊州の境界にある大臣や名家の墓や山を掘り返して、その気を抑えようとしたんだ。施但の反乱を聞くと、遷都したことは成功したと思ったよ。数百人の使者を鼓舞して建業に入って、施但の妻や子供を殺したよ。彼らは「天子が荊州の兵を使って揚州の敵を破るために来た」と嘘の報せを広めて、前の気を鎮めようとしたんだって。
分會稽為東陽郡,分吳、丹楊為吳興郡。(註11)以零陵北部為邵陵郡。十二月,皓還都建業,衞將軍滕牧留鎮武昌。
会稽を東陽郡に、呉と丹楊を分けて呉興郡にしたよ。そして、零陵の北部を邵陵郡にしたよ。十二月、孫皓は都を建業に戻して、衛将軍の滕牧に武昌を守らせたよ。
皓詔曰:「古者分土建國,所以襃賞賢能,廣樹藩屏。秦毀五等為三十六郡,漢室初興,闓立乃至百五,因事制宜,蓋無常數也。今吳郡陽羨、永安、餘杭、臨水及丹楊故鄣、安吉、原鄉、於潛諸縣,地勢水流之便,悉注烏程,旣宜立郡以鎮山越,且以藩衞明陵,奉承大祭,不亦可乎!其亟分此九縣為吳興郡,治烏程。」
孫皓は詔を下してこう言ったよ。
「昔、土地を分けて国を建てたのは、賢人たちをほめたたえて、防衛の柵を広げるためだったよ。秦は五等の爵を36郡に分けて、漢の王朝が初めて興ったときは、さらに開拓されて105郡になったよ。事に応じて制定されるから、一定の数はないんだ。今、呉郡の陽羨、永安、餘杭、臨水、それに丹楊の故鄣、安吉、原郷、於潜のそれぞれの県は、地勢と水路の便から見て、すべて烏程に注がれているよ。この地域に郡を置いて山越族を鎮めて、また明陵(孫和の墓)を護る場所として、大祭の礼を奉げるのにとてもいいね! だから、すぐにこれらの9つの県を呉興郡として、烏程を政治の場所にしてね」
顕明宮を建てる
二年春,大赦。右丞相萬彧上鎮巴丘。夏六月,起顯明宮,(註12)(註13)(註14)冬十二月,皓移居之。是歲,分豫章、廬陵、長沙為安成郡。
宝鼎二年(267年)、春、大赦を行ったよ。右丞相の万彧が巴丘を守ったよ。夏の六月、顕明宮を建てて、冬の十二月、孫皓がそこへ移ったよ。
この年、豫章、廬陵、長沙を安成郡に分けたよ。
太康三年地記曰:吳有太初宮,方三百丈,權所起也。昭明宮方五百丈,皓所作也。避晉諱,故曰顯明。
太康三年(282年)の『地記』によると、呉には太初宮という建物があったよ。これは四方が300丈の広さで、孫権が建てたものだよ。そして、昭明宮は四方が500丈もあって、孫皓が建てたよ。この建物は、晋の諱(司馬昭の諱)を避けるために、顕明と名付けられたよ。
吳歷云:顯明在太初之東。
『呉歴』によると、顕明宮は太初宮の東にあるらしいよ。
江表傳曰:皓營新宮,二千石以下皆自入山督攝伐木。又破壞諸營,大開園囿,起土山樓觀,窮極伎巧,功役之費以億萬計。陸凱固諫,不從。
『江表伝』によると、孫皓が新しい宮殿を築いたよ。二千石以下の人たちはみんな山に入って、木材を伐採する作業をしたよ。それに、たくさんの宮殿を壊して、庭園を大きく開拓して、土山や楼閣を築いて、技巧を凝らしたよ。この工事には莫大な費用がかかって、億や万にもなったんだ。陸凱は強く諫めたけど、聞き入れられなかったんだ。
交阯と合肥を攻める
三年春二月,以左右御史大夫丁固、孟仁為司徒、司空。(註15)秋九月,皓出東關,丁奉至合肥。是歲,遣交州刺史劉俊、前部督脩則等入擊交阯,為晉將毛炅等所破,皆死,兵散還合浦。
宝鼎三年(268年)、春の二月、左右の御史大夫の丁固と孟仁をそれぞれ司徒と司空に任命したよ。
秋の九月、孫皓は東関に出撃して、丁奉は合肥に着いたよ。この年、交州刺史の劉俊と前部督の脩則たちに交阯を攻めさせたけど、晋の将の毛炅たちに敗れて、みんな亡くなっちゃって、軍は散って合浦に帰ったんだ。
吳書曰:初,固為尚書,夢松樹生其腹上,謂人曰:「松字十八公也,後十八歲,吾其為公乎!」卒如夢焉。
『呉書』によると、丁固が尚書だった頃、夢の中で、松の木が彼の腹の上から生えてくるのを見たんだって。彼は誰かに「松という字は十八に公だね。18年後に、私も公になるよ!」と言ったよ。そして、夢のとおりになったの。
建衡元年春正月,立子瑾為太子,及淮陽、東平王。冬十月,改年,大赦。十一月,左丞相陸凱卒。遣監軍虞汜、威南將軍薛珝、蒼梧太守陶璜由荊州,監軍李勗、督軍徐存從建安海道,皆就合浦擊交阯。
建衡元年(269年)、春の正月、孫皓は子の孫瑾を太子に立てて、淮陽王と東平王にしたよ。冬の十月、年号を改めて、大赦を行ったよ。その翌月、左丞相の陸凱が亡くなったんだ。監軍の虞汜、威南将軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜が荊州から、監軍の李勗、督軍の徐存が建安から海路で合浦に向かって、交阯を攻めたよ。
二年春。萬彧還建業。李勗以建安道不通利,殺導將馮斐,引軍還。三月,天火燒萬餘家,死者七百人。夏四月,左大司馬施績卒。殿中列將何定曰:「少府李勗枉殺馮斐,擅徹軍退還。」勗及徐存家屬皆伏誅。秋九月,何定將兵五千人上夏口獵。都督孫秀奔晉。是歲大赦。
建衡二年(270年)、春、万彧が建業に帰ったよ。李勗は建安の道が利用できないから、先導していた将の馮斐を殺して、軍を引き返したんだ。三月、火災があって、1万以上もの家を焼いて、死者は700人にもなったんだ。夏の四月、左大司馬の施績が亡くなったんだ。殿中の列将の何定はこう言ったよ。
「少府の李勗が馮斐を無実の罪で殺して、勝手に軍を引き返したの」
李勗と徐存の家族はみんな処刑されたよ。秋の九月、何定は5,000人の兵を率いて夏口に狩りに行ったよ。都督(指揮官)の孫秀が晋に亡命しちゃった。この年、大赦を行ったよ。
交州制圧
三年春正月晦,皓舉大衆出華里,皓母及妃妾皆行,東觀令華覈等固爭,乃還。(註16)
建衡三年(271年)、春の正月の末日、孫皓はたくさんの人たちを率いて華里に出発したよ。孫皓の母や側室もみんな一緒に行こうとしたけど、東観県令の華覈たちは強く反対したから、結局引き返したよ。
江表傳曰:初丹楊刁玄使蜀,得司馬徽與劉廙論運命歷數事。玄詐增其文以誑國人曰:「黃旗紫蓋見於東南,終有天下者,荊、揚之君乎!」得中國降人,言壽春下有童謠曰「吳天子當上」。皓聞之,喜曰:「此天命也。」即載其母妻子及後宮數千,從牛渚陸道西上,云青蓋入洛陽,以順天命。行遇大雪,道塗陷壞,兵士被甲持仗,百人共引一車,寒凍殆死。兵人不堪,皆曰:「若遇敵便當倒戈耳。」皓聞之,乃還。
『江表伝』によると、丹陽の出身の刁玄は蜀に使者を送った時、司馬徽と劉廙が天の運命のことを論じたときのやりとりを手に入れたよ。刁玄は、その内容を偽って加工して、国の民を欺いて、こう言ったよ。
「黄色い旗と紫色で蓋の形の雲が東南に現れると、その後必ず天下を治める者が現れるんだ。それは荊州と揚州の君主だよ!」
彼は中原からの降伏者の中から、寿春で歌われている童謡を聞いたよ。「呉の天子は上に立つ」というものだったんだ。孫皓はこれを聞いて喜んで、「これは天命だ」と言ったよ。
その直後、彼は母や妻、子供、後宮の数千人を連れて、牛渚から陸路で西へ向かったよ。彼は、青蓋が洛陽に入るのは天命に従うためだと語ったよ。途中で大雪に遭って、道が陥没しちゃったから、兵たちは鎧を着て武器を持って、100人が1台の車を引っ張ったんだ。寒さでほとんど死にかけたんだ。兵たちは耐えられなくてこう言ったよ。
「もし敵に遭ったら、そのまま敵に寝返るしかないよ」
孫皓はこれを聞いて引き返したよ。
是歲,汜、璜破交阯,禽殺晉所置守將,九真、日南皆還屬。(註17)
この年、虞汜と陶璜は交阯を破って、晋が任命した守将を捕らえて殺して、九真と日南はすべて支配下に戻ったよ。
漢晉春秋曰:初霍弋遣楊稷、毛炅等戍,與之誓曰:「若賊圍城,未百日而降者,家屬誅;若過百日而城沒者,刺史受其罪。」稷等日未滿而糧盡,乞降於璜。璜不許,而給糧使守。吳人並諫,璜曰:「霍弋已死,無能來者,可須其糧盡,然後乃受,使彼來無罪,而我取有義,內訓吾民,外懷鄰國,不亦可乎!」稷、炅糧盡,救不至,乃納之。
『漢晋春秋』によると、霍弋が楊稷や毛炅たちを城に駐留させた時、彼らにこう誓わせたよ。
「もし敵が都市を囲んで、100日未満で降伏した場合、家族は処刑されるよ。もし100日を超えて都市が陥落した場合、刺史がその罪を負うよ」
楊稷たちは100日も経たないうちに食糧が尽きちゃったから、陶璜に投降を求めたけど、陶璜は許さなくて、代わりに食糧を与えて守らせたよ。
呉の人たちはみんな諫めたけど、陶璜はこう言ったよ。
「霍弋はすでに死んでいて、新たな助けは来ないよ。私たちは彼らの食糧が尽きるのを待って、その後に降伏を受け入れるべきだよ。そうすれば彼らが来ても罪に問われないし、私たちは義を取ったことになるよ。内で民を教育して、外で隣国と友好関係を築くことができるよ!」
楊稷と毛炅は食糧が尽きて、救援も来なかったから、降伏したよ。
華陽國志曰:稷,犍為人。炅,建寧人。稷等城中食盡,死亡者半,將軍王約反降,吳人得入城,獲稷、炅,皆囚之。孫皓使送稷下都,稷至合浦,歐血死。晉追贈交州刺史。
『華陽国志』によると、楊稷は犍為の出身で、毛炅は建寧の出身だよ。楊稷たちは城内で食糧が尽きて、半数が亡くなって、将軍の王約が反乱して投降したよ。呉の人たちが城に入って、楊稷と毛炅を捕らえたよ。孫皓は楊稷を都に送るように命令したけど、楊稷は合浦に着く前にたくさんの出血を起こして亡くなったんだ。晋は後に交州刺史の官職を贈ったよ。
初,毛炅與吳軍戰,殺前部督脩則。陶璜等以炅壯勇,欲赦之。而則子允固求殺炅,炅亦不為璜等屈,璜等怒,靣縛炅詰之,曰:「晉兵賊!」炅厲聲曰:「吳狗,何等為賊?」吳人生剖其腹,允割其心肝,罵曰:「庸復作賊?」炅猶罵不止,曰:「尚欲斬汝孫皓,汝父何死狗也!」乃斬之。晉武帝聞而哀矜,即詔使炅長子襲爵,餘三子皆關內侯。此與漢晉春秋所說不同。
毛炅は呉の軍との戦いの初め、前部督の脩則を殺したよ。陶璜たちは毛炅が勇敢だから、彼を赦そうとしたよ。
でも、脩則の子の脩允は毛炅を殺すように強く求めて、毛炅も陶璜たちに屈しなかったんだ。陶璜たちは怒って毛炅を縛って、こう問い詰めたよ。
「晋の賊兵め!」
毛炅は厳しい声で言ったよ。
「呉の犬め、どれほどの賊なのかな?」
呉の人は彼の腹を裂いて、脩允は彼の心臓を切り取って、こう罵ったよ。
「まだ賊を演じるつもり?」
毛炅はまだ罵り続けて、こう言ったよ。
「お前たちの皇帝の孫皓を斬ってやるよ。お前の父は死んだ犬め!」
そして、彼を討ち取ったんだ。司馬炎はこれを聞いて悲しんで、すぐに毛炅の長男に爵位を継がせる詔を出して、他の3人の子をみんな関内侯に任命したよ。
これは『漢晋春秋』と異なるね。
大赦,分交阯為新昌郡。諸將破扶嚴,置武平郡。以武昌督范慎為太尉。右大司馬丁奉、司空孟仁卒。(註19)西苑言鳳皇集,改明年元。
大赦を行って、交阯を分けて新昌郡にしたよ。将たちは扶厳を破って、武平郡を置いたよ。武昌の督の范慎を太尉に任命したよ。右大司馬の丁奉と司空の孟仁が亡くなったんだ。西苑で鳳皇が集まったという話があって、その次の年を年号を改めたよ。
吳錄曰:仁字恭武,江夏人也,本名宗,避皓字,易焉。少從南陽李肅學。其母為作厚褥大被,或問其故,母曰:「小兒無德致客,學者多貧,故為廣被,庶可得與氣類接也。」其讀書夙夜不懈,肅奇之,曰:「卿宰相器也。」
『呉録』によると、孟仁は、字は恭武で、江夏の出身だよ。本当の名は孟宗だったけど、孫皓の字を避けて名を変えたの。幼い頃は、南陽の出身の李肅に学んだよ。孟仁の母は厚い敷布と大きな掛け布を作ったよ。その理由を尋ねられたとき、母はこう言ったよ。
「子供は客を招くには徳が無くて、学ぶ者たちの多くは貧しいの。だから、広い布を用意して、彼らが気軽に交流できるようにしたんだよ」
孟仁は読書に夜も昼も熱心で、李肅は彼に驚いて、「あなたは将や相の器だ」と言ったよ。
初為驃騎將軍朱據軍吏,將母在營。旣不得志,又夜雨屋漏,因起涕泣,以謝其母,母曰:「但當勉之,何足泣也?」據亦稍知之,除為塩池司馬。自能結網,手以捕魚,作鮓寄母,母因以還之,曰:「汝為魚官,而以鮓寄我,非避嫌也。」遷吳令。時皆不得將家之官,每得時物,來以寄母,常不先食。及聞母亡,犯禁委官,語在權傳。特為減死一等,復使為官,蓋優之也。
彼は最初は驃騎将軍の朱拠の下で軍の役人として働いて、母を軍の陣営に連れて行ったよ。彼は志を果たせなくて、夜には屋根が雨漏りがあって、それで彼は涙を流して、母に謝ったんだ。母はこう言ったよ。
「ただ努力すればいい。泣くことはないわ」
朱拠も少しずつ孟仁を知って、彼を塩池の司馬に任命したよ。彼は網を編んで魚を捕って、母に魚の漬け物を贈ったけど、母はそれを返してこう言ったよ。
「あなたは魚を管理する役人なのに、どうして私に魚の漬け物を贈るの? 疑いを避けるものではないよね」
その後、彼は呉令に昇進したよ。彼は家族と一緒に行くことができなかったけど、時々物資を手に入れると、すぐに母に送って、自分では先に食べなかったよ。母の死を聞いて、禁令を犯して、官職を辞めたよ。この話は「孫権伝」に記されているよ。
これによって死刑を減刑されて、ふたたび役人として仕えたよ。これは彼が優遇されたということだね。
楚國先賢傳曰:宗母嗜筍,冬節將至。時筍尚未生,宗入竹林哀歎,而筍為之出,得以供母,皆以為至孝之所致感。累遷光祿勳,遂至公矣。
『楚国先賢伝』によると、孟宗の母は筍が大好きで、冬になると筍がまだ生えていなくて、孟宗が竹林に入って嘆き悲しんだら、筍が生え出して、母にあげることができたんだって。これは至孝の行動としてほめたたえられたよ。後に彼は光禄勲に昇進して、ついには公にまで昇進したよ。
重臣を次々と処刑
鳳皇元年秋八月,徵西陵督步闡。闡不應,據城降晉。遣樂鄉都督陸抗圍取闡,闡衆悉降。闡及同計數十人皆夷三族。大赦。是歲右丞相萬彧被譴憂死,徙其子弟於廬陵。(註21)何定姦穢發聞,伏誅。皓以其惡似張布,追改定名為布。(註22)(註23)
鳳皇元年(272年)、秋の八月、西陵督の歩闡が呼び出されたよ。でも、歩闡は応じなくて、晋に降伏しちゃった。楽郷都督の陸抗に歩闡を包囲させて、歩闡の部下はみんな降伏したよ。歩闡と一緒に謀った数十人はみんな一族も処刑されたんだ。そして、大赦を行ったよ。
この年、右丞相の万彧が罪を責められて、亡くなったんだ。その子弟を廬陵に移したよ。何定の陰謀が発覚したから、処刑したよ。孫皓はその悪い行いが張布に似ていると考えて、何定の名前を何布に改めたんだ。
江表傳曰:初皓游華里,彧與丁奉、留平密謀曰:「此行不急,若至華里不歸,社稷事重,不得不自還。」此語頗泄。皓聞知,以彧等舊臣,且以計忍而陰銜之。後因會,以毒酒飲彧,傳酒人私減之。又飲留平,平覺之,服他藥以解,得不死。彧自殺。平憂懣,月餘亦死。
『江表伝』によると、孫皓が華里を訪れた時、万彧は丁奉と留平と一緒にこっそりと話し合ったよ。
「この旅は急ぐ必要はないよ。もし華里に着いても戻らなかったら、国家の事は重要だから、私たちは戻らないわけにはいかないよ」
この言葉が漏れちゃった。孫皓はこれを知って、万彧たちが古くからの臣下で、それに策略に対して我慢強いのに内心で恨んでいるから、内心で怒っちゃった。後に会合があって、毒入りの酒を万彧に飲ませたけど、酒を注ぐ者がこっそりと量を減らしていたよ。そして、留平にも毒を飲ませたけど、留平はそれに気付いて、薬を飲んで解毒して、死を免れたよ。万彧は自ら命を絶ったんだ。留平は悩み苦しんで、1ヶ月くらいで亡くなったんだ。
江表傳曰:定,汝南人,本孫權給使也,後出補吏。定佞邪僭媚,自表先帝舊人,求還內侍,皓以為樓下都尉,典知酤糴事,專為威福。而皓信任,委以衆事。定為子求少府李勗女,不許。定挾忿譖勗於皓,皓尺口誅之,焚其尸。定又使諸將各上好犬,皆千里遠求,一犬至直數千匹。御犬率具纓,直錢一萬。一犬一兵,養以捕兎供廚。所獲無幾。吳人皆歸罪於定,而皓以為忠勤,賜爵列侯。
『江表伝』によると、何定は汝南の出身で、もともと孫権の使用人だったけど、後に役人になったよ。何定は狡猾で悪賢くて、お世辞を言って、取り入ったよ。彼は先帝の昔からの知り合いを自称して、宮廷の役人に戻りたいと求めたよ。孫皓は彼を樓下都尉に任命して、酒や穀物の管理を任せて、権力を振るうことにしたんだ。でも、孫皓は彼を信頼して、たくさんのことを委ねたんだ。何定は孫皓に、少府の李勗の娘を妻にしようと求めたけど、許されなかったよ。何定は怒りを抱いて、李勗のことを孫皓に悪く言ったの。孫皓はこれを信じて、李勗を斬ってその遺体を焼いたんだ。
それに、何定は、将たちに命令して良い犬を献上させたよ。これらはみんな、はるか遠くから求められたもので、1匹の犬が着くと、その価値は数千匹の上質な絹ほどになったんだって。犬を引くための紐は、1万銭になったよ。1匹の犬に1人の兵が付いて、兎を捕らえて料理したもので飼育されたよ。でも、得られたものはほとんどなかったんだって。呉の人たちはすべて何定のせいだと責めたけど、孫皓は彼を忠実だとして、列侯の爵位を授けたよ。
吳歷曰:中書郎奚熈譖宛陵令賀惠。惠,劭弟也。遣使者徐粲訊治,熈又譖粲顧護不即決斷。皓遣使就宛陵斬粲,收惠付獄。會赦得免。
『呉歴』によると、中書郎の奚熙が宛陵の令の賀恵のことを悪く言ったんだ。賀恵は賀劭の弟だよ。使者の徐粲が来て罪を調べたけど、奚熙は徐粲が賀恵を不当に守っていて、すぐに決断しないと非難したんだ。孫皓は使者を宛陵に送って徐粲を処刑して、賀恵を牢獄に入れさせたよ。でも、大赦のおかげで賀恵は罪を免れたよ。
二年春三月,以陸抗為大司馬。司徒丁固卒。秋九月,改封淮陽為魯,東平為齊,又封陳留、章陵等九王,凡十一王,王給三千兵。大赦。皓愛妾或使人至市劫奪百姓財物,司市中郎將陳聲,素皓幸臣也,恃皓寵遇,繩之以法。妾以愬皓,皓大怒,假他事燒鋸斷聲頭,投其身於四望之下。是歲,太尉范慎卒。
鳳皇二年(273年)、春の三月、陸抗を大司馬に任命したよ。司徒の丁固が亡くなったんだ。
秋の九月、淮陽王を魯王、東平王を斉王に改めて封じたよ。さらに、陳留王、章陵王など9人の王を封じて、合計11人の王になって、それぞれに3,000人の兵を与えたよ。大赦を行ったよ。
孫皓の側室が、市場に人を送って、民から財産を奪い取らせたんだ。司市中郎将の陳声は孫皓と親しい臣下だから、孫皓の権力に頼って法でこれを縛ったよ。でも、側室が孫皓に訴えたら、孫皓はすごく怒っちゃって、他の理由をでっち上げて陳声を処罰して、その頭を焼き斬って、その身を四望山の下に投げ捨てたんだ。
この年、太尉の范慎が亡くなったんだ。
三年,會稽妖言章安侯奮當為天子。臨海太守奚熈與會稽太守郭誕書,非論國政。誕但白熈書,不白妖言,送付建安作船。(註24)
鳳皇三年(274年)、会稽で、章安侯の孫奮が天子になるといううわさが広まったの。臨海太守の奚熙と会稽太守の郭誕が手紙のやりとりをしたけど、国の政治については論じなかったんだ。郭誕は奚熙に手紙を送ったけど、うわさについては触れなくて、建安に船を作るために送ったよ。
會稽邵氏家傳曰:邵疇字溫伯,時為誕功曹。誕被收,惶遽無以自明。疇進曰:「疇今自在,疇之事,明府何憂?」遂詣吏自列,云不白妖言,事由於己,非府君罪。吏上疇辭,皓怒猶盛。疇慮誕卒不免,遂自殺以證之。
『会稽邵氏家伝』によると、邵疇は、字は温伯で、その時は郭誕の功曹(人事官)を務めていたよ。郭誕は捕らえられたけど、邵疇は急いで自分の無実を明らかにする方法を見いだせなかったの。そして、邵疇は進んでこう言ったよ。
「うわさは私のせいだよ。私の行動について、郭誕は何を心配するの?」
役人のところに出頭して、うわさを否定して、自分の行動が原因で、郭誕の罪ではないと伝えたよ。役人は邵疇の言葉を上に報告したけど、孫皓の怒りはまだ強かったんだ。邵疇は郭誕が罪を免れないだろうと心配して、とうとう自ら命を絶ったんだ。
臨亡,置辭曰:「疇生長邊陲,不閑教道,得以門資,厠身本郡,踰越儕類,位極朝右,不能贊揚盛化,養之以福。今妖訛橫興,干國亂紀,疇以噂𠴲之語,本非事實,雖家誦人詠,不足有慮。天下重器,而匹夫橫議,疾其醜聲,不忍聞見,欲含垢藏疾,不彰之翰筆,鎮躁歸靜,使之自息。愚心勤勤,每執斯旨,故誕屈其所是,默以見從。此之為愆,實由於疇。謹不敢逃死,歸罪有司,唯乞天鑒,特垂清察。」吏收疇喪,得辭以聞,皓乃免誕大刑,送付建安作船。疇亡時,年四十。皓嘉疇節義,詔郡縣圖形廟堂。
亡くなる時、遺言としてこう言ったよ。
「私は辺境で生まれ育って、教えや道理に詳しくないままだけど、家柄によって地元の郡で身を立てて、同輩を超えて朝廷の高官にまでなれたよ。でも、盛んな政治を支えて福を養うことはできなかったんだ。今、妖しいうわさや嘘が流れていて、国の秩序を乱しているけど、私はうわさによる中傷が事実でないことを知っていて、人々の間で語り継がれたり歌われたりしても、気にすることはないよ。国家の大事は重くて、無責任な発言が広がるのは耳に耐えがたいことなんだ。これらの醜い言葉を聞き流して、穏やかに事態を収めようと努めて、騒ぎを静めるように努めてきたよ。だから、自分の誤りを認めて、正されるべきところを見過ごして、そのまま受け入れちゃったんだ。この過ちの責任はすべて私にあるよ。死を逃れないで罪を受けて、罪を役人に委ねるよ。ただ、天に願って、公正な判断を受けたいんだ」
役人が邵疇の遺言を受け取って、それを聞いた後、孫皓は郭誕に科せられた重い刑罰を免除して、建安に船を作るために送ったよ。邵疇が亡くなった時、彼は40歳だったよ。孫皓は邵疇の節義を褒めたたえて、郡や県に命令して彼の像を廟堂に描くように詔を出したよ。
遣三郡督何植收熈,熈發兵自衞,斷絕海道。熈部曲殺熈,送首建業,夷三族。秋七月,遣使者二十五人分至州郡,科出亡叛。大司馬陸抗卒。自改年及是歲,連大疫。分鬱林為桂林郡。
三郡督の何植に奚熙を拘束させようとしたけど、奚熙は兵を動員して自分を守って、海路を断ったよ。奚熙の部下が彼を殺して、その首を建業に送って、一族をみんな処刑したんだ。
秋の七月、州や郡に使者を25人送って、逃亡者や反逆者を摘発したよ。大司馬の陸抗が亡くなったんだ。
この年から翌年にかけて、病気が大流行したの。鬱林を分けて、桂林郡にしたよ。