正史『三国志』呉書討逆伝をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』呉書討逆伝をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書」の「討逆伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そん)(さく) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 吳書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

孫策と周瑜の出会い

本文

策字伯符。堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江、淮間人咸向之。(註1)

(そん)(さく)は、(あざな)(はく)()だよ。父の(そん)(けん)が義兵を興して、(そん)(さく)は自分の母を(じょ)に移住させたよ。(しゅう)()と友達になって、士大夫たちを集めたよ。長江と淮水の間の人たちは、みんな(そん)(さく)についてきたんだって。

(註1)

江表傳曰:堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春。策年十餘歲,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒來造焉。便推結分好,義同斷金,勸策徙居舒,策從之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(けん)(しゅ)(しゅん)に推薦されて、軍を助けて活躍して、家族は寿(じゅ)(しゅん)に残っていたんだって。(そん)(さく)は10歳になった頃、有名な人たちと交流して、評判が広まっていたんだよ。(しゅう)()(そん)(さく)と同い年で、才能があって、若い頃から優れた人物だったんだ。(しゅう)()(そん)(さく)の評判を聞いて(じょ)にやってきて、すぐに意気投合して、親友になったよ。彼らは固い絆で結ばれていて、金をも断ち切るほどの義を持って心をひとつにしたよ。(しゅう)()(そん)(さく)(じょ)への移住を勧めて、(そん)(さく)はそれに従ったよ。

「断金の交わり」だね。仲良しコンビができたんだね! 元ネタは『周易(しゅうえき)』の「二人同心,其義斷金,同心之言,其臭如蘭。」から。

本文

堅薨,還葬曲阿。已乃渡江居江都。(註2)

(そん)(けん)が亡くなって、故郷の(きょく)()で葬式をしたよ。そして、長江を渡って江都(こうと)に住むことになったよ。

(註2)

魏書曰:策當嗣侯,讓與弟匡。

()(しょ)』によると、(そん)(さく)(そん)(けん)の爵位を継いで侯になる予定だったけど、弟の(そん)(きょう)に譲ったよ。

袁術の配下で

本文

徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂範、孫河俱就景,因緣召募得數百人。興平元年,從袁術。術甚奇之,以堅部曲還策。(註3)(註4)

(じょ)(しゅう)(ぼく)(とう)(けん)は、(そん)(さく)をとても嫌っていたの。(そん)(さく)のおじ(母の弟)の()(けい)は、その時には(たん)(よう)(たい)(しゅ)だったんだよ。(そん)(さく)は母を車に乗せて(きょく)()に移り住んだよ。(りょ)(はん)(そん)()たちも()(けい)のところに来て、数百人も集めたの。
(こう)(へい)元年(194年)には、(えん)(じゅつ)に従ったよ。(えん)(じゅつ)は、(そん)(さく)をとても大切に思って、(そん)(けん)の部下だった人たちを(そん)(さく)に返したよ。

(註3)

吳歷曰:初策在江都時,張紘有母喪。策數詣紘,咨以世務,曰:「方今漢祚中微,天下擾攘,英雄儁傑各擁衆營私,未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓,功業未遂,卒為黃祖所害。策雖暗稚,竊有微志,欲從袁揚州求先君餘兵,就舅氏於丹楊,收合流散,東據吳會,報讎雪恥,為朝廷外藩。君以為何如?」

()(れき)』によると、(そん)(さく)(こう)()にいた頃、(ちょう)(こう)が母を亡くしたんだって。(そん)(さく)は何度も(ちょう)(こう)を訪ねて、世の中の事を相談したんだ。(そん)(さく)はこう言ったよ。
「今は(かん)の王朝が衰退して、天下は混乱しているよ。でも、英雄たちはそれぞれ軍勢を抱えて私利私欲に走っていて、危機を救って乱れを鎮めるほどの人物はまだ現れていないの。先代((そん)(けん))は(えん)()と一緒に(とう)(たく)を討ったけど、その功績はまだ達成されていないうちに、結局は(こう)()に命を奪われちゃった。(そん)(さく)はまだ若いけど、内に志を秘めているよ。袁揚州((えん)(じゅつ))から、父の残兵を求めて、舅(()(けい))のいる(たん)(よう)に身を寄せて、散った人たちを集めて、東方の()郡と(かい)(けい)に拠点を築いて、仇を討って、恥辱を晴らして、朝廷の外藩(外部勢力)になって貢献したいと考えているんだ。あなたはどう思う?」

(註3)

紘荅曰:「旣素空劣,方居衰絰之中,無以奉贊盛略。」策曰:「君高名播越,遠近懷歸。今日事計,決之於君,何得不紆慮啟告,副其高山之望?若微志得展,血讎得報,此乃君之勳力,策心所望也。」因涕泣橫流,顏色不變。

(ちょう)(こう)はこう答えたよ。
「私は才能が無くて、今は喪に服していて、立派な計画を支持するには無力なんだ」
(そん)(さく)はこう言ったよ。
「あなたの高い評価は広く知られていて、遠くにも心服している人がいるほどだよ。今日の計画はあなた次第だよ。どうして慎重に考えて、私の高い志に応じてくれないの? もし私の小さな願いが叶えられて、血の仇に報いることができるなら、それはあなたの功績で、私の心からの望みでもあるよ」
(そん)(さく)は涙を流しながら言葉を続けたけど、(ちょう)(こう)の顔色は変わらなかったよ。

(註3)

紘見策忠壯內發,辭令慷慨,感其志言,乃荅曰:「昔周道陵遲,齊、晉並興;王室已寧,諸侯貢職。今君紹先侯之軌,有驍武之名,若投丹楊,收兵吳會,則荊、揚可一,讎敵可報。據長江,奮威德,誅除羣穢,匡輔漢室,功業侔於桓、文,豈徒外藩而已哉?方今世亂多難,若功成事立,當與同好俱南濟也。」策曰:「一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣,以老母弱弟委付於君,策無復回顧之憂。」

(ちょう)(こう)(そん)(さく)の忠と強さに感動して、言葉が誠実だったから、彼の志を理解したよ。(ちょう)(こう)はこう言ったよ。
「昔、(しゅう)の政道が衰退して、(せい)(しん)が並んで栄えたよ。王室は安定して、諸侯は貢物を持ってきたよ。今、あなたは先代((そん)(けん))の功績を受け継いで、勇ましい武名を持っているよね。(たん)(よう)に進軍して、()郡や(かい)(けい)の兵を集めれば、(けい)州と(よう)州をひとつにできるし、復讐も果たせると思うよ。長江を拠点にして、威と徳を振りかざして、邪悪な勢力を討って、(かん)の王朝を支えることで、功績は(せい)(かん)(こう)(しん)(ぶん)(こう)と並ぶものとなって、単なる外藩ではなくなるよね。今、世は乱れてたくさんの困難があるよ。功を成し遂げて、事を立てるなら、同じ志を持つ人たちと南へ渡ってみるといいよ」
(そん)(さく)はこう言ったよ。
「私はあなたと一緒に同じ運命を共にして、永遠に固く結びついているのだと思うよ。今すぐに出発するね。年老いた母と幼い弟をあなたに託すことで、私はもう後ろを振り返る心配がなくなるんだ」

(註4)

江表傳曰:策徑到壽春見袁術,涕泣而言曰:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好;不幸遇難,勳業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君垂察其誠。」術甚貴異之,然未肯還其父兵。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)はまっすぐに寿(じゅ)(しゅん)に向かって、(えん)(じゅつ)に会ったよ。涙を流しながらこう言ったんだ。
「亡き父は昔、(ちょう)()から(とう)(たく)討伐のために出陣して、明使君((えん)(じゅつ))と(なん)(よう)で会って同盟を結んだよ。でも、不幸にも困難に遭っちゃって、その功績は果たせなかったの。(そん)(さく)は先人の古い恩に感謝して、自分もあなたに協力したいと思っているよ。あなたには、どうかこの誠意を察してほしいな」
(えん)(じゅつ)(そん)(さく)をとても大切に思っていたけれど、まだ(そん)(けん)の兵を返す決意を踏み切れなかったの。

(註4)

術謂策曰:「孤始用貴舅為丹楊太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募。」策遂詣丹楊依舅,得數百人,而為涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。於是復往見術,術以堅餘兵千餘人還策。

(えん)(じゅつ)(そん)(さく)にこう言ったよ。
「私は最初、あなたの舅(()(けい))を(たん)(よう)(たい)(しゅ)に任命して、従兄の(はく)(よう)(そん)(ふん))を()()に任命したよ。彼らがいる地域は優れた兵が集まる場所で、あなたはそこに帰って兵を募集するといいよ」
(そん)(さく)は舅の()(けい)のところに向かって、数百人の兵を集めたけど、(けい)の大将の()(ろう)に襲われて危うくやられそうになっちゃった。それからふたたび(えん)(じゅつ)のもとへ戻って、(えん)(じゅつ)(そん)(けん)の残りの兵1,000人を(そん)(さく)に返してくれたよ。

袁術に失望する

本文

太傅馬日磾杖節安集關東,在壽春以禮辟策,表拜懷義校尉,術大將喬蕤、張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎,死復何恨!」策騎士有罪,逃入術營,隱於內廄。策指使人就斬之,訖,詣術謝。術曰:「兵人好叛,當共疾之,何為謝也?」由是軍中益畏憚之。

(たい)()()(じつ)(てい)は、杖節を持って関東を安定させていたよ。彼は寿(じゅ)(しゅん)で、(そん)(さく)を迎え入れて、礼儀正しくもてなして、(かい)()(こう)()の地位を授けたよ。(えん)(じゅつ)の大将の(きょう)(ずい)(ちょう)(くん)たちもみんな、(そん)(さく)に敬意を持って接していたんだって。(えん)(じゅつ)はよくため息をつきながら言ったよ。
「孫郎((そん)(さく))みたいな子がいたら、死んでも後悔しないんだろうなぁ」
ある日、(そん)(さく)の騎兵が罪を犯して、(えん)(じゅつ)の陣営に逃げ込んで馬屋に隠れたよ。(そん)(さく)は指示して彼を斬った後、(えん)(じゅつ)のところに謝りに行ったんだ。でも、(えん)(じゅつ)はこう言ったよ。
「兵たちは裏切りが好きで、私たちは一緒にこれを恨むべきだよね。だから、謝ることなんてないよ」
それからは、軍の中ではますます畏れられるようになったよ。

本文

術初許策為九江太守,已而更用丹楊陳紀。後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與,術大怒。策昔曾詣康,康不見,使主簿接之。策常銜恨。術遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂。今若得康,廬江真卿有也。」策攻康,拔之,術復用其故吏劉勳為太守,策益失望。

(えん)(じゅつ)は、当初は(そん)(さく)(きゅう)(こう)(たい)(しゅ)に任命しようとしたけど、後に(たん)(よう)の出身の(ちん)()を任命しちゃったの。その後、(えん)(じゅつ)(じょ)州を攻めるために、()(こう)(たい)(しゅ)(りく)(こう)に3万斛の米を求めたんだけど、(りく)(こう)は応じなかったの。(えん)(じゅつ)はとっても怒っちゃった。昔、(そん)(さく)(りく)(こう)を訪ねたけど、(りく)(こう)は会ってくれなくて、(しゅ)簿()が代わりに話を聞いてくれたよ。(そん)(さく)はそのことをずっと恨んでいたんだよ。(えん)(じゅつ)は、(そん)(さく)(りく)(こう)を攻めさせて、こう言ったよ。
「前は間違えて(ちん)()を使ったけど、本来の意図が叶わなかったことをいつも後悔していたんだ。今、(りく)(こう)を手に入れると、()(こう)は本当にあなたのものになるよ」
(そん)(さく)(りく)(こう)を攻撃して、彼を撃破したよ。すると(えん)(じゅつ)は、昔の部下の(ちょう)(くん)(たい)(しゅ)に任命しちゃったの。(そん)(さく)はますます失望しちゃった。

本文

先是,劉繇為揚州刺史,州舊治壽春。壽春,術已據之,繇乃渡江治曲阿。時吳景尚在丹楊,策從兄賁又為丹楊都尉,繇至,皆迫逐之。景、賁退舍歷陽。繇遣樊能、于麋屯橫江津,張英屯當利口,以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史,更以景為督軍中郎將,與賁共將兵擊英等,連年不克。策乃說術,乞助景等平定江東。(註5)

これより前に、(りゅう)(よう)(よう)(しゅう)()()(州の長官)で、州の役所は寿(じゅ)(しゅん)にあったんだ。でも、寿(じゅ)(しゅん)はすでに(えん)(じゅつ)が占領していたから、(りゅう)(よう)は長江を渡って(きょく)()で統治することにしたよ。その頃、()(けい)はまだ(たん)(よう)にいて、(そん)(さく)の従兄の(そん)(ふん)(たん)(よう)()()だったよ。でも、(りゅう)(よう)がやってきたら、彼らを追い出しちゃったんだ。()(けい)(そん)(ふん)(れき)(よう)に退避したよ。
(りゅう)(よう)(はん)(のう)()()(おう)(こう)(しん)に、(ちょう)(えい)(とう)()(こう)に駐屯させて、(えん)(じゅつ)に対抗したよ。(えん)(じゅつ)は昔の部下で(ろう)()の出身の(けい)()(よう)(しゅう)()()に、()(けい)(ちゅう)(ろう)(しょう)に任命したよ。でも、彼らは(そん)(ふん)と一緒に(ちょう)(えい)たちを攻撃したけど、何年たっても勝利できなかったんだ。そこで、(そん)(さく)(えん)(じゅつ)を説得して、()(けい)たちの助けを借りて江東の平定することを願い出たよ。

(註5)

江表傳曰:策說術云:「家有舊恩在東,願助舅討橫江;橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君匡濟漢室。」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,故許之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)(えん)(じゅつ)にこう言ったよ。
「私の家には昔からの恩が東方にあるんだ。舅(()(けい))を助けて(おう)(こう)を制圧しよう。その後、本拠地に戻って兵を募集できれば、3万の兵を手に入れて、明使君((えん)(じゅつ))が漢の王朝を救うのを手伝えるんだ」
(えん)(じゅつ)(そん)(さく)が恨みを抱いていることを知っていたよ。でも、(りゅう)(よう)(きょく)()を占拠していて、(おう)(ろう)(かい)(けい)にいるから、(そん)(さく)が必ず成功できるとは思っていなくて、(そん)(さく)の願いを叶えることにしたよ。

本文

術表策為折衝校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賔客願從者數百人。比至歷陽,衆五六千。策母先自曲阿徙於歷陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬬,所向皆破,莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之。(註6)

(えん)(じゅつ)(そん)(さく)(せっ)(しょう)(こう)()(てん)(こう)(しょう)(ぐん)に任命したよ。兵は1,000人以上で、馬も数十頭いて、客の中には従軍を願い出た者が数百人いたよ。(れき)(よう)に着く頃には、兵は5,000から6,000人にまで成長したんだよ。
前に(そん)(さく)の母は(きょく)()から(れき)(よう)に移り住んで、(そん)(さく)はまた母を()(りょう)に移住させたよ。長江を渡り戦いを繰り広げる(そん)(さく)は、どこへ進んでも敵を打ち破って、誰も彼の勢いに立ち向かえなかったよ。軍はしっかりと整えられていて、民は(そん)(さく)を心から信頼しているよ。

(註6)

江表傳曰:策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具,是歲興平二年也。時彭城相薛禮、下邳相笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南。策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融即閉門不敢動。因渡江攻禮,禮突走,而樊能、于麋等復合衆襲奪牛渚屯。策聞之,還攻破能等,獲男女萬餘人。復下攻融,為流矢所中,傷股,不能乘馬,因自輿還牛渚營。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)は長江を渡って(りゅう)(よう)の守る(ぎゅう)(しょ)の陣営を攻めて、倉庫にあるたくさんの食糧や戦具を手に入れたよ。この年は興平(こうへい)2年(195年)だよ。
この時、(ほう)(じょう)(しょう)(せつ)(れい)()()(しょう)(さく)(ゆう)(りゅう)(よう)を頼っていて、彼を盟主としていたんだ。(せつ)(れい)(まつ)(りょう)城を占拠して、(さく)(ゆう)は南に駐屯していたよ。(そん)(さく)はまず(さく)(ゆう)を攻撃して、(さく)(ゆう)は兵を率いて戦ったけど、(そん)(さく)は500人以上を討ち取って、その後、(さく)(ゆう)は門を閉ざして動かなくなっちゃった。だから、(そん)(さく)は長江を渡って(せつ)(れい)を攻めたんだけど、(せつ)(れい)は逃げちゃって、その後はふたたび(はん)(のう)()()たちが兵を集めて(ぎゅう)(しょ)を奪い返したんだ。(そん)(さく)はこれを聞いて、引き返して(はん)(のう)たちを攻めて、男女1万人くらいを捕虜にしたよ。その後、ふたたび(さく)(ゆう)を攻撃したけど、流れ矢に当たって足に傷を負っちゃって、馬に乗れなくなったから、輿に担がれて(ぎゅう)(しょ)の陣営に戻ったんだ。

(註6)

或叛告融曰:「孫郎被箭已死。」融大喜,即遣將於茲鄉。策遣步騎數百挑戰,設伏於後,賊出擊之,鋒刃未接而偽走,賊追入伏中,乃大破之,斬首千餘級。策因往到融營下,令左右大呼曰:「孫郎竟云何!」賊於是驚怖夜遁。融聞策尚在,更深溝高壘,繕治守備。策以融所屯地勢險固,乃舍去,攻破繇別將於海陵,轉攻湖孰、江乘,皆下之。

ある者が(そん)(さく)を裏切って(さく)(ゆう)に「孫郎((そん)(さく))が矢に当たって死んじゃった」と伝えたよ。(さく)(ゆう)は大喜びして、すぐに将の()()を送ったよ。(そん)(さく)は数百人の歩兵と騎兵を選んで挑戦させて、後方に伏兵を配置したよ。敵が出てきて戦おうとしてきたけど、偽って逃げたんだ。敵は追いかけて伏兵の中に入っちゃって、これを迎え撃って大勝利! 首を1,000人以上も斬ったよ。(そん)(さく)はそのまま(さく)(ゆう)の陣営に着いて、側近たちに大声でこう言わせたよ。
「孫郎が成し遂げたぞ、どうだ!」
すると敵は驚いて夜中に逃げ出したんだ。(さく)(ゆう)(そん)(さく)がまだいることを聞いて、溝を深く掘って壁を高く築いて、守備を整えたんだ。(そん)(さく)(さく)(ゆう)が占拠している地形が険しくて固いことを考えて、その場所をあきらめて、(りゅう)(よう)の将を(かい)(りょう)で攻め破って、その後()(じゅく)(こう)(じょう)を攻めて、どっちも降伏させたんだ。

江東平定に向けて

本文

策為人,美姿顏,好笑語,性闊達聽受,善於用人,是以士民見者,莫不盡心,樂為致死。劉繇棄軍遁逃,諸郡守皆捐城郭奔走。(註7)

(そん)(さく)は容姿も美しくて、笑い話が好きだよ。広い心を持っていて、人の話を聞き入れてくれるし、人の活用も上手だよ。彼に会った人たちは彼を心から信頼して、彼のために命を捧げることを喜んでいるんだよ。
一方で、(りゅう)(よう)は軍を捨てて逃げ出しちゃって、郡の守りも城壁を捨てて逃げ回ったよ。

『三国志』の貴重なイケメンエピソード。

(註7)

江表傳曰:策時年少,雖有位號,而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至,皆失魂魄;長吏委城郭,竄伏山草。及至,軍士奉令,不敢虜略,雞犬菜茹,一無所犯,民乃大恱,競以牛酒詣軍。劉繇旣走,策入曲阿勞賜將士,遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令,告諸縣:「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者,勿彊也。」旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東,形勢轉盛。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)はまだ若くて、位を持っていたけど、人々はみんな「孫郎」と呼んでいたんだ。彼が来ることを聞いた民は、みんな慌てて、(ちょう)()(行政官)たちは城や町を捨てて山や草むらに隠れちゃった。そして(そん)(さく)がやってきた時、兵たちは命令に従って、略奪をしないで、鶏や犬、野菜を奪うこともなくて、何も悪さをしなかったんだよ。だから民はとても喜んで、牛やお酒を持って軍を歓迎したの。(りゅう)(よう)が逃げた後、(そん)(さく)(きょく)()に入って、兵たちをねぎらって、将の(ちん)(ほう)に母と弟たちを()(りょう)へ迎えに行かせたよ。
(そん)(さく)は恩の命令を出して、それぞれの県に告げたよ。
(りゅう)(よう)(さく)(ゆう)たちの故郷の仲間たちが降伏してきたら、何も問わないよ。一緒に軍に参加したい人は、労働を免除するよ。参加するのが嫌な人には、強制しないよ」
この命令を出してから 10日くらいの間に、四方から兵は2万人以上、馬は1,000頭以上集まったよ。その勢いは江東を震わせて、形勢はますます盛り上がったんだ。

本文

吳人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(註8)

呉の出身の(げん)(はく)()たち1万人以上が各地に集まっていたんだ。()(けい)たちは(げん)(はく)()たちを攻撃しようとして、(かい)(けい)まで進軍したよ。でも、(そん)(さく)はこう言ったよ。
(げん)(はく)()たちはただの盗賊で、大志は持っていないよ。だから簡単に捕まえられるさ」
それで、(そん)(さく)は軍を率いて(せっ)(こう)を渡って、(かい)(けい)を拠点に(とう)()を攻め滅ぼして、(げん)(はく)()たちを打ち破ったよ。

(註8)

吳錄曰:時有烏程鄒他、錢銅及前合浦太守嘉興王晟等,各聚衆萬餘或數千。引兵撲討,皆攻破之。策母吳氏曰:「晟與汝父有升堂見妻之分,今其諸子兄弟皆已梟夷,獨餘一老翁,何足復憚乎?」乃舍之,餘咸族誅。

()(ろく)』によると、この頃、烏程(うてい)の出身の(すう)()(せん)(どう)、そして前の(がっ)()(たい)(しゅ)嘉興(かこう)の出身の(おう)(せい)たちが、それぞれ数万や数千人の兵を集めていたよ。(そん)(さく)が兵を率いて彼らを攻撃して、みんな打ち破ったよ。(そん)(さく)の母の()()はこう言ったよ。
(おう)(せい)はあなたの父とはとっても親しくて、同じ屋根の下で妻と挨拶を交わしていた関係だったんだよ。でも今は、彼の兄弟や子供たちはみんな処刑されちゃって、ただひとり老いた男が残っているだけ。彼を恐れることなんてないよ!」
(そん)(さく)(おう)(せい)を見逃して、他の一族はみんな処刑したよ。

(註8)

策自討虎,虎高壘堅守,使其弟輿請和。許之。輿請獨與策會面約。旣會,策引白刃斫席,輿體動,策笑曰:「聞卿能坐躍,勦捷不常,聊戲卿耳!」輿曰:「我見刃乃然。」策知其無能也,乃以手戟投之,立死。輿有勇力,虎衆以其死也,甚懼。進攻破之。虎奔餘杭,投許昭於虜中。程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」乃舍之。

(そん)(さく)は自ら(げん)(はく)()を攻撃したけど、(げん)(はく)()は高い壁で守っていたよ。(げん)(はく)()は弟の(げん)輿(こう)を使者として和平を求めたよ。(そん)(さく)は許可して、(げん)輿(こう)(そん)(さく)とだけ会って約束を交わすことを求めたよ。会ってみると、(そん)(さく)は刃で席を斬りつけて、(げん)輿(こう)は驚いて身を動かしたんだ。(そん)(さく)は笑ってこう言ったよ。
「あなたは座った状態から跳ねて起きることができて、素早さがすごいって聞いているから、ちょっとからかってみただけ!」
(げん)輿(こう)はこう言ったよ。
「刃が見えるとこうなるんだ」
(そん)(さく)は彼がそんなことはできないと知っていたから、手に持った槍を彼に投げつけたよ。彼は立ったまま死んじゃったの。(げん)輿(こう)は勇敢で力強かったから、(げん)(はく)()の兵たちは彼の死を聞いてとても怯えちゃった。
(そん)(さく)は進攻を続けて、(げん)(はく)()を討ち破ったよ。(げん)(はく)()()(こう)に逃げて、(きょ)(しょう)を敵の中に投げ捨てちゃった。(てい)()(きょ)(しょう)を攻撃しようって言ったけど、(そん)(さく)はこう言ったよ。
(きょ)(しょう)は昔の主君((せい)(けん))に義を尽くして、友人((げん)(はく)())にも誠実だよ。これこそ立派な志だね!」
そして彼を見逃したんだ。

(註8)

臣松之案:許昭有義於舊君,謂濟盛憲也,事見後注。有誠於故友,則受嚴白虎也。

(はい)(しょう)()の見解としては、「(きょ)(しょう)は昔の主君に義を尽くして」とは(せい)(けん)に仕えたことを言っているんだ。後の注釈で詳しく書かれているよ。そして、「友人にも誠実」とは(げん)(はく)()に仕えていたことだよ。

本文

盡更置長吏,策自領會稽太守,復以吳景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹楊朱治為吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等為謀主。(註9)

(そん)(さく)は、すべての地方に(ちょう)()(行政官)を置いたよ。(そん)(さく)(かい)(けい)(たい)(しゅ)になって、()(けい)をふたたび(たん)(よう)(たい)(しゅ)に、(そん)(ふん)()(しょう)(たい)(しゅ)に任命したよ。さらに、()(しょう)郡を()(りょう)郡に分けて、(そん)(ふん)の弟の(そん)()()(りょう)(たい)(しゅ)に、(たん)(よう)の出身の(しゅ)()()(ぐん)(たい)(しゅ)にしたんだって。それから、(ほう)(じょう)の出身の(ちょう)(しょう)(こう)(りょう)の出身の(ちょう)(こう)(しん)(しょう)(ちん)(たん)たちが参謀として(そん)(さく)を補佐したんだよ。

(註9)

江表傳曰:策遣奉正都尉劉由、五官掾高承奉章詣許,拜獻方物。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)(ほう)(せい)()()(りゅう)()()(かん)(じょう)(こう)(しょう)に文書を持たせて(きょ)へ向かわせて、贈り物を献上したよ。

袁術討伐戦

本文

時袁術僭號,策以書責而絕之。(註10)

この頃、(えん)(じゅつ)が勝手に皇帝を名乗っちゃった。それで、(そん)(さく)は手紙を書いて、非難して、関係を完全に絶ったの。

(註10)

吳錄載策使張紘為書曰:「蓋上天垂司過之星,聖王建敢諫之鼓,設非謬之備,急箴闕之言,何哉?凡有所長,必有所短也。去冬傳有大計,無不悚懼;旋知供備貢獻,萬夫解惑。頃聞建議,復欲追遵前圖,即事之期,便有定月。益使憮然,想是流妄;設其必爾,民何望乎?

()(ろく)』によると、(そん)(さく)(ちょう)(こう)に作成させた手紙にはこう書かれているよ。
「おそらく、上天が人の過ちを戒める星を現していて、聖王も過ちを諌める太鼓を打ち鳴らしたよ。過ちの準備をして、過ちを戒める言葉を急いで求めるのはどうして? みんなは得意なこともあれば、苦手なこともあるからだよね。去年の冬に大きな計画((えん)(じゅつ)が皇帝になること)が伝えられて、みんなは心配していたけど、すぐに朝廷に貢物を献上したことを知って、みんなが疑惑から解放されたよね。でも、最近の議論((えん)(じゅつ)が皇帝になること)を聞いて、また前の計画に従って追求したいと思っていて、計画の具体的な時期も決めているんだって。それが私たちをますます不安にさせているけど、それはただの妄想だよね? もし本当にそうなるなら、民は失望しちゃうよ。

(註10)

曩日之舉義兵也,天下之士所以響應者,董卓擅廢置,害太后、弘農王,略烝宮人,發掘園陵,暴逆至此,故諸州郡雄豪聞聲慕義。神武外振,卓遂內殲。元惡旣斃,幼主東顧,俾保傅宣命,欲令諸軍振旅,然河北通謀黑山,曹操放毒東徐,劉表稱亂南荊,公孫瓚炰烋北幽,劉繇決力江滸,劉備爭盟淮隅,是以未獲承命櫜弓戢戈也。

昔、義兵を起こした時は、天下の優れた人たちがその呼びかけにすぐに応じたよ。(とう)(たく)は帝を位から追い落として、太后や(こう)(のう)(おう)を殺して、宮女たちを連れ去って、墓を荒らして、こうしたたくさんの悪事が行われたんだ。だから、州や郡の英雄たちはその呼びかけを聞いて、義に集まったんだ。神武が外から振るわれて、(とう)(たく)は内から打ち破られたよ。悪の元凶は滅んで、幼い君主は東((らく)(よう))に向いて、補佐する人に命令を宣言させて、各軍を解散させようとしたよ。でも、河北((えん)(しょう))は(こく)(さん)賊と陰謀を巡らせて、(そう)(そう)は東の(じょ)州で毒を撒いて荒らして、(りゅう)(ひょう)は南の(けい)州で乱を起こして、(こう)(そん)(さん)は北の(ゆう)州で勝手に振舞って、(りゅう)(よう)は長江のほとりで力を振るって、(りゅう)()は淮水の隅で盟主を争っているよ。だから、弓をしまって、剣をおさめる命令にまだ応えられなかったの。

(註10)

今備、繇旣破,操等饑餒,謂當與天下合謀,以誅醜類。捨而不圖,有自取之志,非海內所望,一也。

今、(りゅう)()(りゅう)(よう)はすでに打ち破られちゃって、(そう)(そう)たちは飢えに苦しんでいるよ。だから、天下で力を合わせて、悪い人たちを討つ時だと考えているよ。逆に、これを捨てて自分の野望を追い求める気持ちがあるみたいだけど、それは国内の人たちからは望まれていないことだよね。これが1つ目の理由だよ。

(註10)

昔成湯伐桀,稱有夏多罪;武王伐紂,曰殷有罪罰重哉。此二王者,雖有聖德,宜當君世;如使不遭其時,亦無由興矣。幼主非有惡於天下,徒以春秋尚少,脅於彊臣,若無過而奪之,懼未合於湯、武之事,二也。

昔々、(いん)(せい)(とう)()(けつ)を討った時、()にたくさんの罪があると言ったよ。(しゅう)()(おう)(いん)(ちゅう)を討った時、(いん)に重い罪があると言っていたんだ。彼ら2人の王は聖人としての徳を持っていたから世の君主になるべきだったけど、もしこういう時に遭わなかったら、興隆の機会もなかっただろうね。幼い君主は天下に悪意を持っているわけではなくて、ただ若いだけで、強力な臣下に脅されているんだ。彼が罪を犯していないのに帝位を奪われるのは、(せい)(とう)()(おう)のことと同じではないと恐れているんだ。これが2つ目の理由だよ。

(註10)

卓雖狂狡,至廢主自與,亦猶未也,而天下聞其桀虐,攘臂同心而疾之,以中土希戰之兵,當邊地勁悍之虜,所以斯須游魂也。今四方之人,皆玩敵而便戰鬬矣,可得而勝者,以彼亂而我治,彼逆而我順也。見當世之紛若,欲大舉以臨之,適足趣禍,三也。

(とう)(たく)は狂暴だけど、君主を廃位して自分を皇帝に立てようとはしなかったよね。でも、天下の人たちはその暴虐ぶりを聞いて怒って、力を合わせて彼に敵対したよ。中原の戦いに慣れていない兵で、国境地帯の強力で勇猛な敵に直面して、あっという間に彼を打ち破ることになったよ。今は四方の人たちが敵との戦いに慣れているよ。勝利を得られるのは、敵が乱れていて味方が治まっている場合と、相手が道理に逆らっていて自分が道理に順じている場合だよ。今の世の中はめちゃくちゃだから、大軍を動かしても災いを招くだけ。これが3番目の理由だよ。

(註10)

天下神器,不可虛干,必須天贊與人力也。殷湯有白鳩之祥,周武有赤烏之瑞,漢高有星聚之符,世祖有神光之徵,皆因民困瘁於桀、紂之政,毒苦於秦、莽之役,故能芟去無道,致成其志。今天下非患於幼主,未見受命之應驗,而欲一旦卒然登即尊號,未之或有,四也。

天下を治めるには、天からの恩恵と人々の力が必要なんだ。(いん)(せい)(とう)は白い鳩の縁起を持って、(しゅう)()(おう)は赤い鳥の吉兆を見たよ。(かん)(こう)()(りゅう)(ほう))は星が集まる現象を見たし、(せい)()(りゅう)(しゅう))は神聖な光の吉兆を受けたよ。彼らはみんな、民が(けつ)(ちゅう)の暴政に困って、(しん)(おう)(もう)の争いに苦しんでいたから、道に反する支配を除いて、自分たちの志を達成したんだよ。今、天下は幼い君主に苦しんでいるわけじゃないし、天命の兆しもまだ見られてないの。だから、いきなり皇帝の地位に即位することはありえないよ。これが4番目の理由だよ。

(註10)

天子之貴,四海之富,誰不欲焉?義不可,勢不得耳。陳勝、項籍、王莽、公孫述之徒,皆南面稱孤,莫之能濟。帝王之位,不可橫兾,五也。

天子の高貴さと天下の富は、誰もが求めるものだよね。でも、それが義に許されるものではないし、力で手に入ることはできないよ。(ちん)(しょう)(こう)(せき)(おう)(もう)(こう)(そん)(じゅつ)たちもみんな帝を名乗ったけど、誰も成功できなかったよね。帝の地位は、望んではならないよ。これが5番目の理由だよ。

(註10)

幼主岐嶷,若除其偪,去其鯁,必成中興之業。夫致主於周成之盛,自受旦、奭之美,此誠所望於尊明也。縱使幼主有他改異,猶望推宗室之譜屬,論近親之賢良,以紹劉統,以固漢宗。皆所以書功金石,圖形丹青,流慶無窮,垂聲管弦。捨而不為,為其難者,想明明之素,必所不忍,六也。

幼い君主はまだ若いけど立派だから、彼の邪魔なものを取り除けば、必ず中興の業を達成できるよ。彼を助けて(しゅう)(せい)(おう)みたいな栄光を再現して、自分は(しゅう)(こう)(たん)(しょう)(こう)(せき)みたいな美徳を受け継ぐことが、あなたに期待されることだよ。もし幼い君主が帝の位を他の人に譲るとしても、(かん)の宗室の血統を尊重して、近い親族の優れた人たちを評価して、(りゅう)()の統治を継承して、(かん)の王朝を固めることを望んでいるんだ。そうすることで、功績を金石に刻まれて、姿は図や絵に描かれて、美しい音楽を奏でられるよ。これらを放置して何もしなくて、難しいことをしようとしても、あなたのことを考えると、できないんじゃないかな。これが6番目の理由だよ。

(註10)

五世為相,權之重,勢之盛,天下莫得而比焉。忠貞者必曰宜夙夜思惟,所以扶國家之躓頓,念社稷之危殆,以奉祖考之志,以報漢室之恩。其忽履道之節而彊進取之欲者,將曰天下之人非家吏則門生也,孰不從我?四方之敵非吾匹則吾役也,誰能違我?盍乘累世之勢,起而取之哉?二者殊數,不可不詳察,七也。

あなたは5世代にわたって宰相の地位を継承して、その権力の重みと威厳は、天下の誰もが比べものにならないくらいだよね。忠ある人は、必ずこう言うよ。
『いつも早朝から深夜まで考えを巡らせて、国家の失敗を助けて、国家や社会の危機に備えて、先祖や祖国に忠を尽くして、(かん)の王朝の恩に報いよう』
でも、人の道を踏み外して、強引に自分の欲望を求める人は、こう言うんだよね。
『天下の人たちは私の家臣でなければ門下生だよ。みんな私に従うよね。四方の敵が自分にとって手ごわくないなら、みんな私のしもべだよ。みんな逆らえないよね。私たちは先祖代々の力を持っているから、それを生かして立ち上がって天下を取りにいけるよ』
これらの2つの考えは全然違うから、ちゃんとじっくり考えないとね。これが7番目の理由だよ。

(註10)

所貴於聖哲者,以其審於機宜,慎於舉措。若難圖之事,難保之勢,以激羣敵之氣,以生衆人之心,公義故不可,私計又不利,明哲不處,八也。

聖人や賢人を重視するのは、彼らが状況を洞察して、行動を慎重に選ぶからだよ。難しい問題や危険な状況で、敵を刺激して、人々の心を動かすことがあるよ。公平な正義に反することはできないし、個人的な利益も得られないよ。賢明な人はこういう状況には身を置かないんだ。これが8番目の理由だよ。

(註10)

世人多惑於圖緯而牽非類,比合文字以恱所事,苟以阿上惑衆,終有後悔者,自往迄今,未嘗無之,不可不深擇而熟思,九也。九者,尊明所見之餘耳,庶備起予,補所遺忘。忠言逆耳,幸留神聽!」

世の中の人たちは、予言書に惑わされて、本来の目的を見失うことがよくあるよ。文字や言葉をうまく使って、人を誤魔化して、仕えている人を喜ばせようとすると、結局は後悔することになるよ。これまでの歴史でもこんなことが何度もあったよ。だから深く考えて慎重に選ぶことが必要なんだ。これが9番目の理由だよ。
以上の9つ、あなたが見聞きしたことにすぎないけど、忘れられてしまったことを補うためにも、大切なことをお伝えしたいと思っているよ。忠言は耳に逆らうかもしれないけど、どうか心を開いて聞いてほしいな」

(註10)

典略云張昭之辭。臣松之以為張昭雖名重,然不如紘之文也,此書必紘所作。

(てん)(りゃく)』によると、(ちょう)(しょう)の書いたものだとしているよ。(はい)(しょう)()の見解では、(ちょう)(しょう)は名が知られているけど、文才では(ちょう)(こう)には及ばないから、この文章はきっと(ちょう)(こう)が書いたものと考えるよ。

本文

曹公表策為討逆將軍,封為吳侯。(註11)(註12)(註13)(註14)

(そう)(そう)(そん)(さく)(とう)(ぎゃく)(しょう)(ぐん)に任命して、()(こう)に封じたよ。

(註11)

江表傳曰:建安二年夏,漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰:「董卓逆亂,凶國害民。先將軍堅念在平討,雅意未遂,厥美著聞。策遵善道,求福不回。今以策為騎都尉,襲爵烏程侯,領會稽太守。」

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(けん)(あん)2年(197年)の夏、(かん)の朝廷は()(ろう)(おう)()に戊辰の日に詔書を持たせたよ。詔書にはこう書かれていたよ。
(とう)(たく)は反乱を起こして、国を荒廃させて、民を苦しめているよ。前の将軍の(そん)(けん)は、(とう)(たく)の討伐を志して、遂げられなかったけど、その立派な功績が広く知れ渡っているよ。(そん)(さく)も良い道を守って、人の幸福を求めて進んでいて、その姿勢は変わっていないよ。今、(そん)(さく)()()()に任命して、((そん)(けん)と同じ)()(てい)(こう)の爵位を与えて、(かい)(けい)(たい)(しゅ)を兼任させることにしたよ」

(註11)

又詔勑曰:「故左將軍袁術不顧朝恩,坐創凶逆,造合虛偽,欲因兵亂,詭詐百姓,始聞其言以為不然。定得使持節平東將軍領徐州牧溫侯布上術所造惑衆妖妄,知術鴟梟之性,遂其無道,脩治王宮,署置公卿,郊天祀地,殘民害物,為禍深酷。

別の詔にはこう書かれていたよ。
「昔の()(しょう)(ぐん)(えん)(じゅつ)は朝廷の恩を忘れて、悪逆非道なことをして、偽りと欺瞞を重ねて、兵乱を引き起こそうとして、民を騙そうとしているよ。初めてその言葉を聞いた時、信じられなかったんだ。けど、使()()(せつ)(へい)(とう)(しょう)(ぐん)(じょ)(しゅう)(ぼく)である(おん)(こう)(りょ)()が調べて、(えん)(じゅつ)が民を騙してでたらめなことを言っているという上表があって、事実だとわかったよ。(えん)(じゅつ)のずる賢い本性が明らかになって、彼は道から逸れて、王宮を作って、公卿を任命して、天地の祭祀をないがしろにして、民を苦しめる行為を繰り返して、とてもひどい災難が起きているんだ。

本文

(註11)布前後上策乃心本朝,欲還討術,為國效節,乞加顯異。夫縣賞俟功,惟勤是與,故便寵授,承襲前邑,重以大郡,榮耀兼至,是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行吳郡太守安東將軍陳瑀勠力一心,同時赴討。」

(りょ)()は、(そん)(さく)の朝廷に対する心に言及して、(そん)(さく)が袁術を討つために国のために奮い立っているから、特別な恩賞を与えるように求めているよ。賞を出して功績を待つなら、まじめで誠実な人に賞を与えるものだよ。だから、(そん)(さく)に恩賞を授けて、前の人((そん)(けん))が担当していた領地や大事な役職を引き継いでもらうことにしたよ。名誉と栄光が一体となって訪れるのは、あなたが力を尽くして、命を捧げる覚悟を持っている時だよ。(りょ)()と、()(ぐん)(たい)(しゅ)(あん)(とう)(しょう)(ぐん)(ちん)()とも力を合わせて、討伐に向かってね」

(註11)

策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號,及使人諷誧,誧便承制假策明漢將軍。是時,陳瑀屯海西,策奉詔治嚴,當與布、瑀參同形勢。行到錢唐,瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應,伺策軍發,欲攻取諸郡。策覺之,遣呂範、徐逸攻瑀於海西,大破瑀,獲其吏士妻子四千人。

(そん)(さく)は自分が兵を統率するために、()()()として郡を統治するだけでは物足りなくて、将軍の称号を得たいと考えたよ。そして、(おう)()に頼んで、(そん)(さく)(めい)(かん)(しょう)(ぐん)の地位を得たんだ。
この時、(ちん)()(かい)西(せい)に駐屯していて、(そん)(さく)は詔に従って兵を整えて、(りょ)()(ちん)()と一緒に任務を務めようとしたよ。(せん)(とう)に着いた時、(ちん)()(そん)(さく)を襲撃しようとこっそり企んで、()()(まん)(えん)たちに長江を渡らせたよ。彼らは30以上の印綬を持って、(たん)(よう)(せん)(じょう)(けい)(りょう)(よう)()(あん)()(きゅう)といった危険な地域の賊や指揮官の祖郎(そろう)(しょう)()、そして()郡の()(てい)の出身の(げん)(はく)()たちに内通を頼んだよ。彼らは(そん)(さく)の軍が出発するのを待って、郡を攻撃しようとしたんだ。(そん)(さく)はこれに気づいて、(りょ)(はん)(じょ)(いつ)に命令して(かい)西(せい)(ちん)()を攻撃させたよ。大勝利を収めて、彼の部下や妻や子供を含む4,000人を捕らえたんだ。

(註12)

山陽公載記曰:瑀單騎走兾州,自歸袁紹,紹以為故安都尉。

(さん)(よう)(こう)(さい)()』によると、(ちん)()はひとりで()州に逃げて、自ら(えん)(しょう)に降伏したんだ。(えん)(しょう)は彼を(あん)()()に任命したよ。

(註13)

吳錄載策上表謝曰:「臣以固陋,孤特邊陲。陛下廣播高澤,不遺細節,以臣襲爵,兼典名郡。仰榮顧寵,所不克堪。興平二年十二月二十日,於吳郡曲阿得袁術所呈表,以臣行殄寇將軍;至被詔書,乃知詐擅。雖輒捐廢,猶用悚悸。臣年十七,喪失所怙,懼有不任堂構之鄙,以忝析薪之戒,誠無去病十八建功,世祖列將弱冠佐命。臣初領兵,年未弱冠,雖駑懦不武,然思竭微命。惟術狂惑,為惡深重。臣憑威靈,奉辭伐罪,庶必獻捷,以報所受。」

()(ろく)』によると、(そん)(さく)は上表してこう言ったよ。
「私は愚かで無知であり、辺境に孤立しているんだ。陛下は広く恩恵を行き渡らせて、細かなことにも気を配って、私に爵位を継がせて、素晴らしい郡の統治を兼任させてくださったよね。こんな立派な栄誉を授けてくれたけど、私にはとても務まらないほどだよ。興平2年(195年)、12月20日、()郡の曲阿(きょくあ)で、(えん)(じゅつ)からの上表を受け取って、私は(てん)(こう)(しょう)(ぐん)に任命されたよ。でも、この詔書を受け取って初めて、これが偽りであることを知ったんだ。(てん)(こう)(しょう)(ぐん)の位はすぐに捨てたけど、心はまだ恐れて震えているよ。
私は17歳の時に頼りにしていた父を失ったんだ。私は、家を支えられないのではないかと恐れて、父の家業を継いで立派にやっていくという戒めを、うまくできないのではないか心配しているの。(かく)(きょ)(へい)が18歳で功績を挙げて、(せい)()(りゅう)(しゅう))が20歳での将として天子を補佐したみたいにはなれないんだ。私は初めて兵を兵を率いたとき、まだ20歳にもなっていなかったよ。臆病で武勇に欠けていたけど、それでも頑張る覚悟でいたんだよ。(えん)(じゅつ)は狂って惑わされていて、悪事を重ねているんだ。私は陛下の威光を頼りにして、正義の使者として罪人を退治するんだ。必ず勝利を献上して、受けた恩に報いることを願っているんだ」

(註13)

臣松之案:本傳云孫堅以初平三年卒,策以建安五年卒,策死時年二十六,計堅之亡,策應十八,而此表云十七,則為不符。張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死,此為是而本傳誤也。

(はい)(しょう)()の見解としては、『三国志』本伝によると、(そん)(けん)は初平3年(192年)に亡くなって、(そん)(さく)は建安5年(200年)に亡くなったとされているよ。(そん)(さく)の死亡時の年齢は26歳で、(そん)(けん)が亡くなった年から計算すると、(そん)(さく)は当時18歳となるけど、『(こう)(ひょう)(でん)』には17歳と記されているよ。これは本伝と合わないよね。(ちょう)(はん)の『(かん)()』や、『()(れき)』では、(そん)(けん)の死亡を初平2年(191年)としていて、この説が正しくて、本伝が間違っているんじゃないかな。

(註14)

江表傳曰:建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻。其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、建安3年(198年)に、(そん)(さく)はまた使者を送って贈り物を献上したよ。前年に献上したものと比べて倍の量を贈ったよ。その年、詔によって(そん)(さく)(とう)(ぎゃく)(しょう)(ぐん)に昇進して、改めて()(こう)に封ぜられたよ。

本文

後術死,長史楊弘、大將張勳等將其衆欲就策,廬江太守劉勳要擊,悉虜之,收其珍寶以歸。策聞之,偽與勳好盟。勳新得術衆,時豫章上繚宗民萬餘家在江東,策勸勳攻取之。勳旣行,策輕軍晨夜襲拔廬江,勳衆盡降,勳獨與麾下數百人自歸曹公。(註15)(註16)

(えん)(じゅつ)が亡くなった後、(ちょう)()(よう)(こう)や大将の(ちょう)(くん)たちは、彼らの軍勢を(そん)(さく)に渡そうとしたんだよ。でも、()(こう)(たい)(しゅ)(りゅう)(くん)が彼らを突然襲撃して、みんなを捕虜にして財宝を奪っちゃった。(そん)(さく)はこれを聞いて、偽って(りゅう)(くん)と盟約を結んだよ。(りゅう)(くん)は新たに(えん)(じゅつ)の軍勢を手に入れたよ。
この頃、江東には()(しょう)(じょう)(りょう)に、1万軒以上の宗民(宗族ごとの集団)の家があったんだ。(そん)(さく)(りゅう)(くん)にその地を攻め取るように勧めたよ。(りゅう)(くん)が行動を起こすと、(そん)(さく)は軽装の軍を率いて夜明け前に()(こう)を奇襲したんだ。すると、(りゅう)(くん)の軍勢はみんな降伏しちゃったよ。ただ、(りゅう)(くん)だけは数百人を率いて(そう)(そう)に降伏したよ。

(註15)

江表傳曰:策被詔勑,與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等并力討袁術、劉表。軍嚴當進,會術死,術從弟胤、女壻黃猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城。勳糧食少,無以相振,乃遣從弟偕告糴於豫章太守華歆。歆郡素少穀,遣吏將偕就海昏上繚,使諸宗帥共出三萬斛米以與偕。偕乃報勳,具說形狀,使勳來襲取之。勳得偕書,便潛軍到海昏邑下。宗帥知之,空壁逃匿,勳了無所得。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(そん)(さく)は詔勅を受け取って、()(くう)(そう)(そう)(えい)(しょう)(ぐん)(とう)(しょう)(えき)(しゅう)(ぼく)(りゅう)(しょう)たちと一緒に や(りゅう)(ひょう)を討伐することになったよ。軍を整えて進発しようとした時、ちょうど(えん)(じゅつ)が亡くなっちゃったの。(えん)(じゅつ)の従弟の(えん)(いん)や娘婿の(こう)()たちは(そう)(そう)を恐れて、寿(じゅ)(しゅん)を守らないで、(えん)(じゅつ)の棺桶を担いで、その妻や子供や部下のみんなを連れて、(りゅう)(くん)のいる(かん)(じょう)に逃げ込んだよ。
(りゅう)(くん)のところは食糧が少なくて、部下を支えられなかったから、(りゅう)(くん)は従弟の(りゅう)(かい)を送って、()(しょう)(たい)(しゅ)()(きん)から穀物を買おうとしたよ。でも、()(きん)の郡でも穀物は少なくて、彼は使者を送って(りゅう)(かい)を連れて(かい)(こん)(じょう)(りょう)に行かせて、宗帥たちに3万斛の米を提供させたよ。(りゅう)(かい)が来てから数ヶ月経っても、わずかに数千斛の穀物しか手に入れられなかったんだ。(りゅう)(かい)はその後、(りゅう)(くん)に事の経緯を詳しく報告して、宗帥たちを襲撃して奪い取るように提案したよ。(りゅう)(くん)(りゅう)(かい)からの手紙を受け取ってすぐに兵を動かして、(かい)(こん)の領地に着いたよ。宗帥たちはこのことを知ると、すぐに城壁を空っぽにして逃げ隠れちゃった。(りゅう)(くん)は結局何も手に入れられなかったの。

(註15)

時策西討黃祖,行及石城,聞勳輕身詣海昏,便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳,自與周瑜率二萬人步襲皖城,即克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,并術、勳妻子。上用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳。賁、輔又於彭澤破勳。

この頃、(そん)(さく)(こう)()を西方で討つ途中で、(せき)(じょう)まで進んでいたよ。(そん)(さく)(りゅう)(くん)が海昏に向かったって聞いて、従兄の(そん)(ふん)(そん)()に8,000人の兵を率いさせて(ほう)(たく)(りゅう)(くん)を待ち伏せしたよ。(そん)(さく)自身は(しゅう)()と一緒に2万人の兵を率いて(かん)(じょう)を奇襲して打ち破ったよ。
この戦闘で、(えん)(じゅつ)の百工と鼓吹(軍楽隊)など3万以上の兵が手に入ったよ。さらに、(えん)(じゅつ)(りゅう)(くん)の妻や子供を捕らえたよ。(そん)(さく)は上奏して、(じょ)(なん)の出身の()(じゅつ)()(こう)(たい)(しゅ)に任命して、3,000人の兵を与えて(かん)(じょう)を守らせたよ。捕まえた人たちはみんな東の()に移動させたの。一方、(そん)(ふん)(そん)()(ほう)(たく)(りゅう)(くん)を破ったよ。

(註15)

勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞。至沂,築壘自守,告急於劉表,求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻,大破勳。勳與偕北歸曹公,射亦遁走。策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千,來為黃祖前鋒。策與戰,大破之。

(りゅう)(くん)()(こう)に逃げちゃって、(じん)(よう)まで歩いて置馬亭に行ったけど、(そん)(さく)たちがすでに(かん)(じょう)を制圧したと聞いて、西(せい)(さい)へ逃げ込んだの。沂に着くと、塁壁を築いて自衛して、(りゅう)(ひょう)に急を伝えて、(こう)()に救援を求めたよ。 (こう)()は太子の(こう)(しゃ)に、5,000人の船団で(りゅう)(くん)を助けさせたよ。(そん)(さく)はふたたび攻撃して、(りゅう)(くん)に大勝利したよ。(りゅう)(くん)(りゅう)(かい)と一緒に北へ向かって、(そう)(そう)のもとへ逃げたんだ。(こう)(しゃ)も逃げ回ったよ。(そん)(さく)は、(りゅう)(くん)の兵を2,000人以上、船を1,000隻も手に入れたよ。そして、()(こう)(こう)()を攻めたんだ。この時、(りゅう)(ひょう)は従弟の(りゅう)()南陽(なんよう)の出身の(かん)()が率いる5,000人の長槍兵を(こう)()の前衛部隊として送ったんだ。(そん)(さく)は彼らと戦って、大勝利を収めたよ。

(註16)

吳錄載策表曰:「臣討黃祖,以十二月八日到祖所屯沙羨縣。劉表遣將助祖,並來趣臣。臣以十一日平旦部所領江夏太守行建威中郎將周瑜、領桂陽太守行征虜中郎將呂範、領零陵太守行蕩寇中郎將程普、行奉業校尉孫權、行先登校尉韓當、行武鋒校尉黃蓋等同時俱進。

()(ろく)』によると、(そん)(さく)は上表してこう述べたよ。
「私は(こう)()を討つため、12月8日に(こう)()のいる()()に着いたよ。(りゅう)(ひょう)が将を送って(こう)()を助けて、彼らは並んで私に向かってきたんだ。私は11日の朝、(こう)()(たい)(しゅ)(けん)()(ちゅう)(ろう)(しょう)(しゅう)()(けい)(よう)(たい)(しゅ)(せい)(りょ)(ちゅう)(ろう)(しょう)(りょ)(はん)(れい)(りょう)(たい)(しゅ)(とう)(こう)(ちゅう)(ろう)(しょう)(てい)()(ほう)(ぎょう)(こう)()(そん)(けん)(せん)(とう)(こう)()(かん)(とう)()(ほう)(こう)()(こう)(がい)たちと一斉に進撃したよ。

(註16)

身跨馬櫟陳,手擊急鼓,以齊戰勢。吏士奮激,踊躍百倍,心精意果,各競用命。越渡重壍,迅疾若飛。火放上風,兵激煙下,弓弩並發,流矢雨集,日加辰時,祖乃潰爛。鋒刃所截,猋火所焚,前無生寇,惟祖迸走。獲其妻息男女七人,斬虎、韓晞已下二萬餘級,其赴水溺者二萬餘口,船六千餘艘,財物山積。雖表未禽,祖宿狡猾,為表腹心,出作爪牙,表之鴟張,以祖氣息,而祖家屬部曲埽地無餘,表孤特之虜,成鬼行尸。誠皆聖朝神武遠振,臣討有罪,得效微勤。」

身は馬にまたがって、手を叩いて鼓を打ち鳴らして、戦闘の準備を整えたんだ。役人や兵たちは奮い立って、何倍もの勢いで躍動して、心身ともに集中して、一生懸命に力を尽くしたよ。敵地のたくさんの防壁を越えて、まるで飛ぶように速く進んでいったんだ。風上から火を放って、兵たちは煙の中で奮闘して、弓矢が一斉に放たれて、矢が雨のように降り注いたんだ。辰の時(午前7時~9時頃)になって、(こう)()の陣は崩れていったよ。剣が切り裂いて、炎が焼いて、その前には生きている敵はいなかったよ。ただ(こう)()だけは逃げちゃったの。彼の妻や子供たち7人を捕らえて、(りゅう)()(かん)()たち2万人以上を斬ったよ。川を渡ろうとして溺れた人たちも2万人以上いて、船は6,000隻以上もあって、財宝が山積みになっていたんだ。まだ(りゅう)(ひょう)を捕まえられていないけど、(こう)()はずる賢くて、(りゅう)(ひょう)に仕えて手先として働いていたんだよ。(りゅう)(ひょう)が横暴なのは、(こう)()の息がかかっているせいだよ。でも今は、(こう)()の家族や部下はみんな一掃されちゃって、(りゅう)(ひょう)は孤独な生ける屍みたいになったよ。これらは聖朝の神武が遠くまで力を及ぼしたおかげで、私は罪人を討つために微力だけど尽くせたよ」

本文

是時哀紹方彊,而策并江東,曹公力未能逞,且欲撫之。(註17)乃以弟女配策小弟匡,又為子章取賁女,皆禮辟策弟權、翊,又命揚州刺史嚴象舉權茂才。

この時、(えん)(しょう)の力はまだ強かったよ。(そん)(さく)が江東をまとめていたから、(そう)(そう)はまだ力を発揮できなくて、(そん)(さく)をなだめようとしていたよ。
そこで、(そう)(そう)の弟の娘が、(そん)(さく)の弟の(そん)(きょう)と結婚することになったよ。それだけではなくて、(そう)(そう)の子の(そう)(しょう)(そん)(ふん)の娘と結婚したよ。(そん)(さく)の弟の(そん)(けん)(そん)(よく)にも礼を尽くして、さらに(よう)(しゅう)()()(州の長官)の(げん)(しょう)には(そん)(けん)を茂才として推薦するように命令したよ。

(註17)

吳歷曰:曹公聞策平定江南,意甚難之,常呼「猘兒難與爭鋒也」。

()(れき)』によると、(そう)(そう)(そん)(さく)が江南を平定したと聞いて、すごく困惑して、「獰猛な子犬とは争うのは難しい」といつも言っていたんだって。

早すぎる死

本文

建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,(註18)(註19)(註20)(註21)密治兵,部署諸將。

建安5年(200年)、(そう)(そう)(えん)(しょう)(かん)()で対立して、(そん)(さく)はこの隙を突いて(きょ)に攻め込んで、(かん)の帝を迎える計画をこっそりと立てていたんだって。兵を整えて、将たちを置いたよ。

(註18)

吳錄曰:時有高岱者,隱於餘姚,策命出使會稽丞陸昭逆之,策虛己候焉。聞其善左傳,乃自玩讀,欲與論講。或謂之曰:「高岱以將軍但英武而已,無文學之才,若與論傳而或云不知者,則某言符矣。」又謂岱曰:「孫將軍為人,惡勝己者,若每問,當言不知,乃合意耳。如皆辨義,此必危殆。」岱以為然,及與論傳,或荅不知。策果怒,以為輕己,乃囚之。知友及時人皆露坐為請。策登樓,望見數里中填滿。策惡其收衆心,遂殺之。

()(ろく)』によると、当時、(こう)(たい)という人がいて、彼は()(よう)に隠れ住んでいたんだ。(そん)(さく)が彼に出仕を頼もうと、(かい)(けい)(じょう)(りく)(しょう)に迎えに行かせたよ。(そん)(さく)は謙虚に待っていたんだって。(こう)(たい)は『左伝(春秋左氏伝)』という古典をよく知っていると聞いたから、(そん)(さく)もそれを読んで、一緒に論じ合いたいと思ったんだって。でも、ある人がこう言ったんだ。
(こう)(たい)は、(そん)(さく)が武勇に優れているだけで、文学の才能はないと思っているよ。もし一緒に『左伝』について話して、『わからない』と言ったら、私の言葉とぴったり合うことになるよね」
一方で、彼は(こう)(たい)にはこう言ったんだ。
(そん)(さく)は、自分よりも優れている人が嫌いなんだよね。質問されたら『わからない』って答えると、彼の意にかなうよ。深く議論して意味を明確にすると、危険だよ」
(こう)(たい)はこの言葉に納得して、議論する時には「わからない」と答えることがあったよ。(そん)(さく)は馬鹿にされていると思って怒っちゃって、(こう)(たい)を捕らえちゃったの。(こう)(たい)の友達や知り合いたちがみんな彼を解放するように懇願したよ。(そん)(さく)は楼に登って、(こう)(たい)を解放するよう望む人たちが何里も先までも満ちているのを見たんだ。(そん)(さく)は、(こう)(たい)が人の心をつかんでいることを嫌って、(こう)(たい)を殺しちゃった。

(註18)

岱字孔文,吳郡人也。受性聦達,輕財貴義。其友士拔奇,取於未顯,所友八人,皆世之英偉也。太守盛憲以為上計,舉孝廉。許貢來領郡,岱將憲避難於許昭家,求救於陶謙。謙未即救,岱憔悴泣血,水漿不入口。感其忠壯,有申包胥之義,許為出軍,以書與貢。岱得謙書以還,而貢已囚其母。

(こう)(たい)は、(あざな)(こう)(ぶん)で、()郡の出身だよ。彼は頭が良くて、財を軽んじて義を重んじたよ。彼は優れた友人たちと交流して、まだ名を知られていない才能を見抜いて、彼と親しい8人はみんなこの時代の優れた人たちだったんだ。ある時、(たい)(しゅ)(せい)(けん)(こう)(たい)を孝廉(こうれん)に推薦したんだ。
でも、(きょ)(こう)がやってきて郡を治めるようになって、(こう)(たい)(せい)(けん)(きょ)(しょう)の家に匿って、(とう)(けん)に助けを求めたよ。(とう)(けん)はすぐに助けてくれなかったんだ。(こう)(たい)はやつれ果てて、涙と血を流して、口には水も入らなくなったんだ。(とう)(けん)(こう)(たい)の忠誠と勇気に感動して、(しん)(ほう)(しょ)の義があるとして、許可を出して出兵することを手紙で(きょ)(こう)に伝えたよ。(こう)(たい)(とう)(けん)からの手紙を受け取って帰ったら、(きょ)(こう)(こう)(たい)の母をとらえていたんだ。

(註18)

謙吳人大小皆為危竦,以貢宿忿,往必見害。岱言在君則為君,且母在牢獄,期於當往,若得入見,事自當解。遂通書自白,貢即與相見。才辭敏捷,好自陳謝,貢登時出其母。岱將見貢,語友人張允、沈䁕令豫具船,以貢必悔,當追逐之。出便將母乘船易道而逃。貢須臾遣人追之,令追者若及於船,江上便殺之,已過則止。使與岱錯道,遂免。被誅時,年三十餘。

呉の人たちはみんな心配して、(きょ)(こう)が前の恨みを抱いているから、(こう)(たい)が会うと必ず危害を受けるだろうと思っていたんだ。でも、(こう)(たい)はこう言ったよ。
「主君がいれば主君のために働くべきで、母が牢獄にいるから、私は行かなきゃならないよ。もし会いに行ければ、事態は解決するはずだよ」
(こう)(たい)は手紙で自分の状況を説明して、(きょ)(こう)と面会することになったよ。その言葉はとても鋭くて、自分から素直に謝ったから、(きょ)(こう)はすぐに(こう)(たい)の母を牢から出してあげたんだよ。
(こう)(たい)(きょ)(こう)に会うとき、(きょ)(こう)が必ず後悔して追いかけて来ると考えて、友人の(ちょう)(いん)(しん)(びん)に話してあらかじめ船を用意しておいたんだ。(こう)(たい)は母を船に乗せて、別の道を通って逃げることにしたよ。(きょ)(こう)はすぐに追手を送って、追いついたら船の上で殺すように指示して、すでに逃げていたら追跡を止めるように命令したよ。追手は(こう)(たい)とは別の道を進んだから、(こう)(たい)は無事に逃れることができたよ。
(こう)(たい)が処刑された時の年齢は30歳くらいだったよ。

(註19)

江表傳曰:時有道士琅邪于吉,先寓居東方,往來吳會,立精舍,燒香讀道書,制作符水以治病,吳會人多事之。策嘗於郡城門樓上集會諸將賔客,吉乃盛服杖小函,漆畫之,名為仙人鏵,趨度門下。諸將賔客三分之二下樓迎拜之,掌賔者禁呵不能止。策即令收之。諸事之者,悉使婦女入見策母,請救之。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、当時、(ろう)()の道士の()(きつ)という人がいたんだって。彼は東方に住んでいて、()(かい)(けい)を訪れて、精舎を建てて香を焚いて、道の書を読んで、病気を治すための符水を作っていたよ。()(かい)(けい)の人たちは彼を頼るようになったよ。
ある日、(そん)(さく)は郡の城門の楼の上に将や賓客たちを集めたよ。()(きつ)は立派な服を身に着けて、小さな箱を持ってきたんだ。それに漆を塗って装飾して、「(せん)(にん)()」と名付けて、彼は急いで門の下を通ったよ。将たちや客のうち、3分の2が楼を下りて彼を出迎えたよ。主賓が声をあげて注意しても止められなかったんだ。(そん)(さく)はすぐに彼を捕らえるように命令したよ。それから、()(きつ)を頼る人たちは、女性たちを遣って(そん)(さく)の母に面会させて、()(きつ)を助けるように懇願したよ。

(註19)

母謂策曰:「于先生亦助軍作福,醫護將士,不可殺之。」策曰:「此子妖妄,能幻惑衆心,遠使諸將不復相顧君臣之禮,盡委策下樓拜之,不可不除也。」諸將復連名通白事陳乞之,策曰:「昔南陽張津為交州刺史,舍前聖典訓,廢漢家法律,甞著絳帕頭,鼓琴燒香,讀邪俗道書,云以助化,卒為南夷所殺。此甚無益,諸君但未悟耳。今此子已在鬼籙,勿復費紙筆也。」即催斬之,縣首於巿。諸事之者,尚不謂之死而云尸解焉,復祭祀求福。

母は(そん)(さく)にこう言ったよ。
「于先生(()(きつ))も軍を助けて功徳を積んでいて、兵たちの治療をしてくれているよ。彼を殺すべきではないよね」
(そん)(さく)は答えたよ。
「この人は妖術を使って、人の心を惑わせるんだ。将たちがお互いに私への礼を忘れて、楼を下りて彼に拝礼するようになっちゃった。彼を取り除かなければならないよ」
将たちはふたたび名前を連ねて、()(きつ)を助けてほしいとお願いしたんだ。でも、(そん)(さく)はこう言ったよ。
「昔、南陽(なんよう)(ちょう)(しん)(こう)(しゅう)()()(州の長官)になった時、古代の聖典を捨てて、(かん)の法律を廃止しちゃったんだ。彼は赤い布で頭を包んで、琴を弾いて香を燃やして、邪悪な書物を読んで、自分が教えることに役立っていると言っていたけど、結局は南の異民族に殺されちゃったよ。これは全然役に立たないことで、みんなはまだそれがわかってないだけだよ。今、この人は死者の名簿の中にいるから、もう紙と筆を無駄にする必要はないよ」
そして()(きつ)をすぐに斬って、市中に首を晒したんだ。それでも()(きつ)を頼っていた人たちは、彼が死んだとは言わないで、ただ肉体を解放しただけと言って、ふたたび祭りを行って幸福を願ったよ。

(註20)

志林曰:初順帝時,琅邪宮崇詣闕上師于吉所得神書於曲陽泉水上,白素朱界,號太平青領道,凡百餘卷。順帝至建安中,五六十歲,于吉是時近已百年,年在耄悼,禮不加刑。

()(りん)』によると、(じゅん)(てい)の時代(125〜144年)に、(ろう)()(きゅう)(すう)が宮門に参って、()(きつ)(きょく)(よう)の泉水のほとりで手に入れた神の書を献上しに来たよ。その書は、白い絹に朱の線があって、「太平青領道」と名付けられたもので、全部で100巻くらいあるよ。(じゅん)(てい)から建安の時代になるまで、50から60年が経過しているから、()(きつ)はすでに100歳近くだったと考えられるよ。高齢の人に対しては、礼として刑罰を与えることはなかったんだ。

(註20)

又天子巡狩,問百年者,就而見之,敬齒以親愛,聖王之至教也。吉罪不及死,而暴加酷刑,是乃謬誅,非所以為美也。喜推考桓王之薨,建安五年四月四日。是時曹、袁相攻,未有勝負。案夏侯元讓與石威則書「袁紹破後也。書授孫賁以長沙,業張津以零、桂。」此為桓王於前亡,張津於後死,不得相讓,譬言津之死意矣。

また、天子が各地を巡り歩く時に、100歳以上の人を尋ねて、その人たちに会って、敬意をもって接して、親愛の気持ちを示すことは、聖王の素晴らしい教えだね。()(きつ)は死刑になるような罪を犯していなかったのに、過酷な刑罰を受けてしまったんだよね。それは道理に間違った処罰だったし、美しくないよね。
()()(『()(りん)』の作者)が調べたところ、(かん)(おう)(そん)(さく))が亡くなったのは、建安5年(200年)4月4日と結論付けたよ。この時、(そう)(そう)(えん)(しょう)はお互いに攻め合っていて、まだ勝敗は決まってなかったんだ。(えん)(しょう)が敗れた後に、()(こう)(げん)(じょう)()(こう)(とん))が(せき)()(そく)へ書いた手紙にはこう書かれているよ。
「書を(そん)(ふん)に渡して(ちょう)()を任せて、(ちょう)(しん)には(れい)(りょう)(けい)(よう)を任せよう」
これによると、(そん)(さく)が先に亡くなって(ちょう)(しん)が後に亡くなったから、(『(こう)(ひょう)(でん)』に書かれているように)(ちょう)(しん)の死を例えに出して()(きつ)を責めることはできないよね。

(註20)

臣松之案:太康八年,廣州大中正王範上交廣二州春秋。建安六年,張津猶為交州牧。江表傳之虛如志林所云。

(はい)(しょう)()の見解によると、太康8年(287年)に、(こう)州の(だい)(ちゅう)(せい)(おう)(はん)が『(こう)(こう)()(しゅう)(しゅん)(じゅう)』を献上したよ。建安6年(201年)は、(ちょう)(しん)はまだ(こう)(しゅう)(ぼく)であったとされているんだ。『(こう)(ひょう)(でん)』の記述は、『()(りん)』の言ったとおり、事実ではないみたいだよ。

(註21)

搜神記曰:策欲渡江襲許,與吉俱行。時大旱,所在熇厲。策催諸將士使速引船,或身自早出督切,見將吏多在吉所,策因此激怒,言:「我為不如于吉邪,而先趨務之?」便使收吉。

(そう)(じん)()』によると、(そん)(さく)は長江を渡って(きょ)を襲おうとして、()(きつ)も一緒に行くことになったんだ。その時は大きな日照りが起きていて、どこでも炎天下だったんだって。(そん)(さく)は将や兵たちに船を急いで引かせるよう指示して、自分でも早く出すように監督したよ。するとたくさんの将が()(きつ)の所に集まっていて、(そん)(さく)はこれを見て怒りを爆発させて言ったんだ。
「私は()(きつ)より劣っているの? どうして彼の方に先に行くの?」
そして()(きつ)を捕らえさせたんだ。

(註21)

至,呵問之曰:「天旱不雨,道塗艱澁,不時得過,故自早出,而卿不同憂戚,安坐船中作鬼物態,敗吾部伍,今當相除。」令人縛置地上暴之,使請雨,若能感天日中雨者,當原赦,不爾行誅。俄而雲氣上蒸,膚寸而合,比至日中,大雨總至,溪澗盈溢。將士喜恱,以為吉必見原,並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜,共藏其尸。天夜,忽更興雲覆之;明旦往視,不知所在。

(そん)(さく)()(きつ)に尋ねたよ。
「雨が降らないで日照りだから道が通りにくいんだよね。だから私は早く出発したんだよ。でも、あなたはそんな心配も苦労もしないで、船の中で安らかに座っているだけで、怪しい態度をとって、私の部隊を乱しちゃったね。今、私たちは別れる時だ」
(そん)(さく)は彼を縛って地上に晒して、こう命令したよ。
「雨を請うてみよ。もし真昼に天が雨を降らせるような奇跡が起きれば、許してやろう。そうでなければ処刑する」
すると雲がどんどん湧き上がってきて、雲と雲が重なって、昼になると大雨が降り注いで、川や渓谷が溢れたんだ。将や兵たちは喜びと感動に包まれて、()(きつ)が必ず許されると信じて祝福したよ。でも、(そん)(さく)は彼を殺しちゃったの。将や兵たちは悲しんで、彼の遺体をみんなで隠したんだ。夜になると、急に雲が現れて、その遺体を覆い隠しちゃった。翌朝、遺体の行方はわからなくなっちゃったんだって。

(註21)

案江表傳、搜神記于吉事不同,未詳孰是。

(こう)(ひょう)(でん)』と『(そう)(じん)()』には()(きつ)の出来事が異なっていて、どちらが事実なのかはっきりとわからないよ。

まじないみたいな考えが江東では流行していたのかな?

本文

未發,會為故吳郡太守許貢客所殺。先是,策殺貢,貢小子與客亡匿江邊。策單騎出,卒與客遇,客擊傷策。(註22)(註23)(註24)

でも、まだ行動を起こす前に、(そん)(さく)はかつての()(ぐん)(たい)(しゅ)(きょ)(こう)の刺客によって襲撃されちゃったの。これより前に、(そん)(さく)(きょ)(こう)を殺しちゃって、(きょ)(こう)の幼い子は刺客と一緒に逃げて、長江のほとりに隠れていたんだよ。(そん)(さく)がひとりで出かけていたら、偶然にもその刺客と出会って、傷つけられちゃった。

(註22)

江表傳曰:廣陵太守陳登治射陽,登即瑀之從兄子也。策前西征,登陰復遣間使,以印綬與嚴白虎餘黨,圖為後害,以報瑀見破之辱。策歸,復討登。軍到丹徒,須待運糧。策性好獵,將步騎數出。策驅馳逐鹿,所乘馬精駿,從騎絕不能及。初,吳郡太守許貢上表於漢帝曰:「孫策驍雄,與項籍相似,宜加貴寵,召還京邑。若被詔不得不還,若放於外必作世患。」策候吏得貢表,以示策。

(こう)(ひょう)(でん)』によると、(こう)(りょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(ちん)(とう)(しゃ)(よう)を統治していたよ。(ちん)(とう)(ちん)()の従兄弟の子だよ。(そん)(さく)が西へ向かうと、(ちん)()はこっそり使者を送って、印綬を(げん)(はく)()の残党に与えて、一緒に陰謀を巡らして、報復として(そん)(さく)を討つ計画を立てたんだ。(そん)(さく)が帰ると、(ちん)(とう)を討つために向かったよ。軍は(たん)()に着いて、補給物資の到着を待っていたんだ。
(そん)(さく)は狩りが好きで、いつも歩兵と騎兵を率いて出かけていたよ。(そん)(さく)は駿馬に乗って、猛烈な勢いで鹿を追いかけたよ。彼の乗る馬はすごく優れていて、彼に従う騎兵は追いつけなかったんだって。前に、()(ぐん)(たい)(しゅ)(きょ)(こう)が漢の皇帝に上表してこう言ったよ。
(そん)(さく)は勇猛で、(こう)(せき)に似ているよ。だから、彼を大事にして、たくさんの栄誉を与えて、都に呼んであげるべきだよ。詔を受けたら、(そん)(さく)は帰らなきゃいけないよね。もし(そん)(さく)を外に放置すると、きっと世の中に害をもたらすだろうね」
(そん)(さく)の役人が(きょ)(こう)の上表を手に入れて、それを彼に示したんだ。

(こう)(せき)は、(しん)の末期に活躍した武将だよ。(あざな)(こう)()のほうがよく知られているね。彼は(かい)(けい)で兵を挙げたんだよ。「覇王」と呼ばれたよ。
『三国志演義』第 15 回で、「人々は(そん)(さく)を『小覇王』と呼んだ」とあるのは、ここに「(こう)(せき)に似ている」とあるからかも。

(註22)

策請貢相見,以責讓貢。貢辭無表,策即令武士絞殺之。貢奴客潛民間,欲為貢報讎。獵日,卒有三人即貢客也。策問:「爾等何人?」荅云:「是韓當兵,在此射鹿耳。」策曰:「當兵吾皆識之,未嘗見汝等。」因射一人,應弦而倒。餘二人怖急,便舉弓射策,中頰。後騎尋至,皆刺殺之。

(そん)(さく)(きょ)(こう)と話すことになって、(きょ)(こう)を責めたよ。(きょ)(こう)は上表をしていないと言ったけど、それでも(そん)(さく)はすぐに武士に命じて彼を絞め殺させたんだ。(きょ)(こう)に仕える人たちは身を隠して、(きょ)(こう)の仇を討つために計画したよ。(そん)(さく)が狩りに出かけたある日、偶然にも(きょ)(こう)の仲間の3人と出会ったんだ。(そん)(さく)は聞いたよ。
「お前たちは誰?」
彼らは答えたよ。
「私たちは(かん)(とう)の兵だよ。ここで鹿を射ていたところだよ」
(そん)(さく)はこう言ったよ。
「私は(かん)(とう)の兵たちをみんな知っているけど、あなたたちを見たことはないな」
そして、(そん)(さく)は1人を射抜いたんだ。もう2人は怖がって焦って弓を引いて、矢は(そん)(さく)の頬に当ったんだ。その後、騎兵がすぐに駆けつけて、彼らを刺し殺したよ。

(註23)

九州春秋曰:策聞曹公北征柳城,悉起江南之衆,自號大司馬,將北襲許,恃其勇,行不設備,故及於難。

(きゅう)(しゅう)(しゅん)(じゅう)』によると、(そん)(さく)(そう)(そう)(りゅう)(じょう)へ北へ遠征すると聞いて、江南の兵を集めて、「(だい)()()」と自称して、北の(きょ)を襲撃しようとしたよ。彼は自分の武勇に頼っていたから、慎重さを欠いてたんだよね。だから困難にぶつかっちゃったんだよ。

(註24)

孫盛異同評曰:凡此數書,各有所失。孫策雖威行江外,略有六郡,然黃祖乘其上流,陳登間其心腹,且深險彊宗未盡歸復,曹、袁虎爭,勢傾山海,策豈暇遠師汝、潁,而遷帝於吳、越哉?斯蓋庸人之所鑒見,況策達於事勢者乎?又案袁紹以建安五年至黎陽,而策以四月遇害,而志云策聞曹公與紹相拒於官渡,謬矣。伐登之言,為有證也。

(そん)(せい)の『()(どう)(ひょう)』によると、これらの書にはいくつかの間違いがあるんだって。
(そん)(さく)の勢いは長江の外にも届いて6つの郡をほぼ制圧したと言っても、(こう)()が上流を支配していて、(ちん)(とう)が内部で対抗していたの。さらに、深い山岳や強大な勢力がまだ完全に降伏していたわけではなかったんだ。(そう)(そう)(えん)(しょう)の争いが山や海を揺るがしていたけど、(そん)(さく)(じょ)(なん)(えい)(せん)まで遠征して、帝を()(えつ)に移す余裕はないよね。これらのことは、普通の人でも見抜けるし、特に(そん)(さく)みたいな事勢に通じた人物ならなおさらそういう考えを持つはずがないんじゃないかな。それに、(えん)(しょう)が建安5年に(れい)(よう)に着いて、(そん)(さく)が4月に暗殺されたことからも、本伝の「(そう)(そう)(えん)(しょう)(かん)()で対立しているのを聞いて」という記述は間違いだよ。『(こう)(ひょう)(でん)』の「(ちん)(とう)を討つために向かった」という言葉の方が信憑性が高いよ。

(註24)

又江表傳說策悉識韓當軍士,疑此為詐,便射殺一人。夫三軍將士或有新附,策為大將,何能悉識?以所不識,便射殺之,非其論也,又策見殺在五年,柳城之役在十二年,九州春秋乖錯尤甚矣。

さらに、『(こう)(ひょう)(でん)』に(そん)(さく)は「私は(かん)(とう)の兵をみんな知っている」とあるけど、将や兵の中には新しく加わった者もいるかもしれないし、(そん)(さく)が大将だからって、すべての将や兵を知り尽くすことはできないよ。だから、知らない人を射殺するのは(そん)(さく)の行動としては的外れかもしれないね。また、(そん)(さく)が暗殺されたのは建安5年、(りゅう)(じょう)の戦いは建安12年だよ。『(きゅう)(しゅう)(しゅん)(じゅう)』の記述は誤りが多いね。

(註24)

臣松之案:傅子亦云曹公征柳城,將襲許。記述若斯,何其踈哉!然孫盛所譏,未為悉是。黃祖始被策破,魂氣未反,且劉表君臣本無兼并之志,雖在上流,何辦規擬吳會?策之此舉,理應先圖陳登,但舉兵所在,不止登而已。于時彊宗驍帥,祖郎、嚴虎之徒,禽滅已盡,所餘山越,蓋何足慮?然則策之所規,未可謂之不暇也。

(はい)(しょう)()の見解としては、『()()』には(そう)(そう)(りゅう)(じょう)を攻めて、(そん)(さく)(きょ)を襲撃する計画が書かれてるんだけど、この記述はどこまで信じられるのかな。でも、(そん)(せい)の批判に完全に同意するのはちょっと難しいな。(こう)()(そん)(さく)に敗れて反撃する勢いが戻っていなかったし、(りゅう)(ひょう)とその臣下たちは領土を統一する意志は持っていなかったんだ。(こう)()が長江の上流にいたとしても、()(かい)(けい)を支配する計画を立てる余裕はなかったかもしれないよ。(そん)(さく)の行動は、(ちん)()を撃破することも目的のひとつだったんだけど、その狙いは(ちん)()だけにとどまらなかったんだよ。当時、大きな勢力の指導者たちや(そろ)()(げん)(はく)()たちはもう退治されちゃって、山越族だけが残っていたくらいだったよ。だから、(そん)(さく)の計画に、十分な余裕がなかったとは言えないんだ。

(註24)

若使策志獲從,大權在手,淮、泗之間,所在皆可都,何必畢志江外,其當遷帝於揚、越哉?案魏武紀,武帝以建安四年已出屯官渡,乃策未死之前,乆與袁紹交兵,則國志所云不為謬也。許貢客,無聞之小人,而能感識恩遇,臨義忘生,卒然奮發,有侔古烈矣。詩云:「君子有徽猷,小人與屬。」貢客其有焉。

もし(そん)(さく)が野心的な志を持って、大きな権力を手に入れていたら、淮河と泗水の間のどこでも都を定められたのに、どうして長江の外を目指して、帝を(よう)州や(えつ)州に遷す必要があったのかな?
「武帝紀」を見ると、(そう)(そう)は建安4年(199年)にすでに(かん)()に駐屯していて、(そん)(さく)が亡くなる前に(えん)(しょう)と戦っていたことは明らかだよ。だから、『三国志』に書かれていたこと((そん)(さく)(きょ)を襲撃する計画)は間違いじゃないよね。
(きょ)(こう)の刺客は無名なのに感謝と義を胸に秘めて、立派に行動していて、古代の勇士みたいな勇敢さを持っているんだよ。『()(きょう)』には「君子は高潔な美徳を持ち、小人はその従者となる」と書かれているけど、(きょ)(こう)の刺客はまさにそのとおりだね。

本文

創甚,請張昭等謂曰:「中國方亂,夫以吳、越之衆,三江之固,足以觀成敗。公等善相吾弟!」呼權佩以印綬,謂曰:「舉江東之衆,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心,以保江東,我不知卿。」至夜卒,時年二十六。(註25)(註26)

傷はひどくて、(ちょう)(しょう)たちにお願いをしたよ。
「中原は今、乱れているけど、私たち呉と越の人たちで力を合わせて、3つの川の要所をしっかり守れば、事態の行方を見極められるよ。みんな、私の弟(孫権(そんけん))をうまく助けてくれ!」
(そん)(さく)孫権(そんけん)を呼んで、印綬を差し出しながらこう言ったよ。
「江東の兵を挙げて、戦場で機会を伺って天下を争うことについては、あなたは私のようにはできないよ。でも、賢い人物や有能な人物を活かして、みんなが力を合わせて江東を守ることについては、私はあなたにかなわないんだ」
その夜に(そん)(さく)は亡くなって、この時は26歳だったよ。

(註25)

吳歷曰:策旣被創,醫言可治,當好自將護,百日勿動。策引鏡自照,謂左右曰:「面如此,尚可復建功立事乎?」椎几大奮,創皆分裂,其夜卒。

()(れき)』によると、(そん)(さく)は傷を負った後、医者に治療はできるけど安静にして100日間は身動きしないようにって言われたんだ。(そん)(さく)は鏡を引いて自分の姿を見つめて、周りの人たちにこう言ったよ。
「こんな顔で、もう一度功績を立てることができるのかな?」
すると、彼は机を大きく打って興奮して、傷がまた裂けちゃって、その夜に亡くなっちゃったの。

(註26)

搜神記曰:策旣殺于吉,每獨坐,彷彿見吉在左右,意深惡之,頗有失常。後治創方差,而引鏡自照,見吉在鏡中,顧而弗見,如是再三,因撲鏡大叫,創皆崩裂,須臾而死。

(そう)(じん)()』によると、(そん)(さく)()(きつ)を殺した後、ひとりで座っていると、周りに()(きつ)がいるような幻覚を見たよ。彼は()(きつ)のことをとっても憎んで、心が乱れてしまったんだ。傷が治りかけている頃、鏡を引いて自分の姿を映し出したんだけど、鏡の中にまたしても()(きつ)が映ってるのを見ちゃったんだ。振り返ってもそこには誰もいなかったけど、(そん)(さく)は鏡を叩きつけて大きな声を出して、傷が全部裂けちゃった。それから(そん)(さく)はそのまま死んじゃったの。

本文

權稱尊號,追謚策曰長沙桓王,封子紹為吳侯,後改封上虞侯。紹卒,子奉嗣。孫皓時,訛言謂奉當立,誅死。

(そん)(けん)が皇帝になると、(そん)(さく)に「(ちょう)()(かん)(おう)」という諡を贈ったよ。また、(そん)(さく)の子の(そん)(しょう)()(こう)に封ぜられて、後に(じょう)()(こう)になったよ。(そん)(しょう)が亡くなると、子の(そん)(ほう)が後を継いだんだ。でも、(そん)(こう)の時代になると、(そん)(ほう)が皇帝になるという嘘の情報が流れて処刑されちゃったの。

陳寿の評価

本文

評曰:孫堅勇摯剛毅,孤微發迹,導溫戮卓,山陵杜塞,有忠壯之烈。策英氣傑濟,猛銳冠世,覽奇取異,志陵中夏。然皆輕佻果躁,隕身致敗。且割據江東,策之基兆也,而權尊崇未至,子止侯爵,於義儉矣。(註27)

評すると、(そん)(けん)は勇敢で剛毅な性格だったよ。低い身分から出発して、(とう)(たく)を倒すために(ちょう)(おん)を導いて、山陵を守ったんだ。彼は忠と勇猛さを持っていたよ。
(そん)(さく)は才気があって、活力があって、鋭い判断力を持っていて、世の中で卓越した存在だったよ。彼は独自の視点で物事を見ていたんだよ。でも、彼らは軽率で衝動的で、自分の命を危険にさらしてしまったんだ。江東を支配したのは、(そん)(さく)が基盤を築いたからだけど、(そん)(けん)の称賛は足りなくて、(そん)(さく)の子が侯爵に留まっているのは義に欠けるよね。

(註27)

孫盛曰:孫氏兄弟皆明略絕羣。創基立事,策之由也,自臨終之日,顧命委權。夫意氣之間,猶有刎頸,況天倫之篤愛,豪達之英鑒,豈吝名號於旣往,違情本之至實哉?抑將遠思虛盈之數,而慎其名器者乎?

(そん)(せい)によると、(そん)()の兄弟はみんな知略があって、比べ物にならない才能を持っていたよ。江東の基盤を築き上げて、事業を興したのは、(そん)(さく)のおかげだよ。彼は最期の日に、(そん)(けん)に託したよ。意気投合している仲の間柄にも、切っても切れない関係があって、大切な家族との絆や素晴らしい知恵も持っている(そん)(さく)が、昔の名声や称号を惜しんで本来の気持ちを違えてまで行動に移すなんて考えられないよね。それとも、将来を見越して、その名と器を大切にしたのかな?

(註27)

夫正本定名,為國之大防;杜絕疑貳,消釁之良謨。是故魯隱矜義,終致羽父之禍;宋宣懷仁,卒有殤公之哀。皆心存小善,而不達經綸之圖;求譽當年,而不思貽厥之謀。可謂輕千乘之國,蹈道則未也。

そもそも、根本を固めて名声を確立することは、国家の大きな防衛策だよ。疑いや二心を排除することは、対立を消すための賢明な戦略だよ。だからこそ、()(いん)(こう)は義を誇っていたけど、最終的に()()の災いを招いたんだ。(そう)(せん)(こう)は仁を胸に抱いていたけど、結果として(しょう)(こう)の悲劇につながったんだ。彼らは小さな善行に心を奪われて、大きな戦略(国の秩序)を理解できなかったんだ。一時の名声を追求するだけで、後に害をもたらすことを思いもしなかったんだ。彼らは千乗の国を軽く考えて、正しい道を歩めていなかったと言えるよ。

「千乘之國」は、『(ろん)()』「(がく)()」から。戦車を 1,000 台も出せる国のことだよ。「敬事而信,節用而愛人,使民以時。」が後に続くよ。

(註27)

孫氏因擾攘之際,得奮其縱橫之志,業非積德之基,邦無磐石之固,勢一則祿祚可終,情乖則禍亂塵起,安可不防微於未兆,慮難於將來?壯哉!策為首事之君,有吳開國之主;將相在列,皆其舊也,而嗣子弱劣,析薪弗荷,奉之則魯桓、田巿之難作,崇之則與夷、子馮之禍興。

(そん)()は混乱の時代に生まれて、その志を奮い立たせたよ。でも、彼らの業績は徳の積み重ねに基づいていないから、国家は不動の岩石みたいな固い基盤を持っていないよね。勢力が統一されれば長く続くかもしれないけど、情勢が変われば災いと混乱が生じちゃうかも。未然にかすかな変化を警戒して、将来を慎重に考えることは無視できないよね。
(そん)(さく)は立派な国家の建設者で、呉の創始者で、将軍や宰相はみんな、彼の古い仲間だったよ。でも、後継者は弱くて、父の家業を支えられないんだ。()(かん)(こう)(でん)巿()みたいな困難を生む人を立てると、()()(そう)(しょう)(こう))や()(ふう)(そう)(しょう)(こう))みたいな災いが生じてしまうよ。

(註27)

是以正名定本,使貴賤殊邈,然後國無陵肆之責,後嗣罔猜忌之嫌,羣情絕異端之論,不逞杜覬覦之心;於情雖違,於事雖儉,至於括囊遠圖,永保維城,可謂為之于其未有,治之于其未亂者也。陳氏之評,其未達乎!

このように(そん)(けん)(そん)(さく)の子を侯に留めておくのは、根本を固めて名声を確立して、高貴な者と卑しい者を明らかに区別することで、国家に不正な行為が生じることを防ぐためだよ。後継者は猜疑心が生まれないし、みんなが極端な論争に陥ることもないし、邪悪な野心が芽生えないようにすることが大切だよね。感情が違っていても、事柄が質素であっても、将来に備える計画を立てて、ずっと城を守ることとは、争いが始まる前に対処して、乱れる前にちゃんと治めたということだよね。(ちん)寿(じゅ)の評価は、まだその理解にたどり着いていないよ!

討逆伝は以上だよ!

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