
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「呉書討逆伝」をゆるゆる翻訳するよ!
孫策 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 吳書一 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

孫策と周瑜の出会い
策字伯符。堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江、淮間人咸向之。(註1)
孫策は、字は伯符だよ。父の孫堅が義のための兵をあげると、孫策は母を連れて舒に引っ越そうとして、周瑜と友達になったよ。二人は士大夫たちを集めたよ。長江と淮河のあたりの人たちは、みんな孫策についていったんだって。
江表傳曰:堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春。策年十餘歲,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒來造焉。便推結分好,義同斷金,勸策徙居舒,策從之。
『江表伝』によると、孫堅は朱儁に推薦されて、軍を助けて、家族を寿春に残していたよ。孫策が10歳を少し過ぎたころ、すでに名の知られた人たちと親しく付き合って、評判も広まっていたよ。周瑜は孫策と同じ年に生まれた人で、若いころから才能があって、すぐれた人だよ。周瑜は孫策の評判を聞くと、舒からやって来て孫策を訪ねたよ。そして、すぐに親しくなって、深い友情を結んだの。その仲のよさは、金も断ち切れるくらい固く結ばれているくらいなんだって。周瑜は孫策に、舒に引っ越してくるように勧めて、孫策はそれに従ったよ。
「断金の交わり」だね。仲良しコンビができたんだね! 元ネタは『周易』から。
堅薨,還葬曲阿。已乃渡江居江都。(註2)
孫堅が亡くなると、遺体を故郷の曲阿に運んで、そこに葬ったよ。そして、孫策は長江を渡って、江都に住んだよ。
魏書曰:策當嗣侯,讓與弟匡。
『魏書』によると、孫策は孫堅の爵位を継いで侯になるはずだったけど、弟の孫匡にゆずったよ。
袁術の配下で
徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂範、孫河俱就景,因緣召募得數百人。興平元年,從袁術。術甚奇之,以堅部曲還策。(註3)(註4)
徐州牧(州の長官)の陶謙は、孫策をとても警戒していたんだ。孫策の母方のおじの呉景は、そのころ丹楊太守(郡の長官)を務めていたよ。そこで、孫策は母を連れて曲阿へ移って、呂範や孫河と一緒に呉景のもとへ行って、数百人の兵を集めたよ。
興平元年(194年)、孫策は袁術に従ったんだ。袁術は孫策をすごいと思って、孫堅が率いていた兵たちを孫策に返したよ。
吳歷曰:初策在江都時,張紘有母喪。策數詣紘,咨以世務,曰:「方今漢祚中微,天下擾攘,英雄儁傑各擁衆營私,未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓,功業未遂,卒為黃祖所害。策雖暗稚,竊有微志,欲從袁揚州求先君餘兵,就舅氏於丹楊,收合流散,東據吳會,報讎雪恥,為朝廷外藩。君以為何如?」
『呉歴』によると、孫策が江都にいたころ、張紘は母を亡くしたんだ。孫策は何度も張紘を訪ねて、世の中のことについて相談したよ。そして、孫策はこう言ったよ。
「今は漢の王朝が弱くなって、天下は混乱しているよ。英雄やすぐれた人たちは、それぞれ大勢の人を集めて、自分のために勢力を作っているよ。でも、今の危険な世の中を救って、混乱をおさめることのできる人は、まだいないんだ。
父の孫堅は、袁氏と一緒に董卓を破ったよ。でも、まだ大きな仕事を成し遂げられなくて、黄祖に殺されたんだ。私はまだ若くて、物事をよくわかっていないけど、心の中に小さな願いがあるの。袁揚州(袁術)から、父が前に率いていた兵たちを分けてもらって、丹楊にいるおじ(呉景)のところへ行こうと思っているよ。そして、散り散りになっている兵たちを集めて、東の呉と会稽をおさえて、父のかたきを討って恥をそそぎたいと思うんだ。そして、朝廷を外から守る勢力になりたいと考えているよ。あなたはどう思う?」
紘荅曰:「旣素空劣,方居衰絰之中,無以奉贊盛略。」策曰:「君高名播越,遠近懷歸。今日事計,決之於君,何得不紆慮啟告,副其高山之望?若微志得展,血讎得報,此乃君之勳力,策心所望也。」因涕泣橫流,顏色不變。
張紘はこう答えたよ。
「私はもともと才能がなくて、今は母を亡くした悲しみの中にいるの。だから、あなたのすばらしい計画を手伝えないんだ」
孫策はこう言ったよ。
「あなたの高い評判は遠くまで広まっていて、遠くの人も近くの人も、あなたを頼りにしているよ。今、私がこれからどうするべきかという大事なことを、あなたに相談して決めようとしているよ。なのに、どうしてよく考えて、私にあなたのすぐれた考えを聞かせてくれないの? もし私の小さな願いを実現することができて、父のかたきを討てたら、それはあなたのおかげだよ。それこそが、私が心から望んでいることなんだ」
そう言うと、孫策は涙をたくさん流したよ。でも、張紘の顔色は変わらなかったんだ。
紘見策忠壯內發,辭令慷慨,感其志言,乃荅曰:「昔周道陵遲,齊、晉並興;王室已寧,諸侯貢職。今君紹先侯之軌,有驍武之名,若投丹楊,收兵吳會,則荊、揚可一,讎敵可報。據長江,奮威德,誅除羣穢,匡輔漢室,功業侔於桓、文,豈徒外藩而已哉?方今世亂多難,若功成事立,當與同好俱南濟也。」策曰:「一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣,以老母弱弟委付於君,策無復回顧之憂。」
張紘は、孫策の忠と勇ましい気持ちが心の中からあふれ出ていること、そして、その言葉が力強く熱のこもったものだったから、孫策の志に心を動かされたよ。そして、こう答えたよ。
「昔、周の王室の力が弱くなったとき、斉や晋などの国が力をつけたよ。その後、王室が安定すると、諸侯は王室に仕えて、決められた役目を果たしたよ。
今、あなたは父の孫堅の行いを受け継いで、勇敢で強い武勇の名声もあるよ。もし丹楊へ行って呉や会稽の兵を集めれば、荊州と揚州を一つにまとめて、父のかたきを討つこともできるだろうね。長江を拠点にして、威と徳を振りかざして、世の中を乱している悪い者たちを討って、漢の王室を助けることができれば、その功績は斉の桓公や晋の文公にも並ぶだろうね。どうして、ただ朝廷を外から守る勢力になるだけで終わるの?
今、世の中は乱れてたくさんの困難があるよ。もしあなたが功績をあげて、大きな仕事を成し遂げられたら、私もあなたと志を同じくする仲間たちと一緒に、南へ行くよ」
孫策はこう言ったよ。
「私はあなたと心を一つにして、これからも変わらない固い友情を結びたいと思っているよ。今すぐに出発するね。年老いた母と幼い弟は、あなたに任せるよ。私はもう後ろを振り返る心配がなくなるんだ」
江表傳曰:策徑到壽春見袁術,涕泣而言曰:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好;不幸遇難,勳業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君垂察其誠。」術甚貴異之,然未肯還其父兵。
『江表伝』によると、孫策はまっすぐ寿春に行って、袁術に会ったよ。そして、涙を流しながらこう言ったよ。
「亡くなった父は、昔、長沙から兵を率いて董卓を討つために出発して、南陽であなたと会ったよ。そして、一緒に戦う約束をして、親しく付き合ったよ。でも、残念なことに父は災難にあって亡くなって、大きな仕事を成し遂げられなかったんだ。私は、父が昔あなたから受けた恩を思って、自分の力で父の残した兵たちを集めて、父の志を受け継ぎたいと思っているの。どうか私の本当の心をわかってほしいんだ」
袁術は孫策をとてもすごいと思ったけど、孫堅が前に率いていた兵たちを孫策に返そうとはしなかったんだ。
術謂策曰:「孤始用貴舅為丹楊太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募。」策遂詣丹楊依舅,得數百人,而為涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。於是復往見術,術以堅餘兵千餘人還策。
袁術は孫策にこう言ったよ。
「私は最初、あなたのおじ(呉景)を丹楊太守(郡の長官)、従兄の伯陽(孫賁を都尉にしたよ。そこはすぐれた兵が集まる場所で、あなたはそこへ戻って、兵を集めるといいよ」
孫策は丹楊へ行って、おじを頼って、数百人の兵を集めたよ。でも、涇の大将の祖郎に襲われて、孫策はあやうく命を落とすところだったんだ。そこで孫策は、もう一度袁術のところへ行ったよ。すると袁術は、孫堅が前に率いていた兵のうち、1,000人くらいを孫策に返したよ。
袁術に失望する
太傅馬日磾杖節安集關東,在壽春以禮辟策,表拜懷義校尉,術大將喬蕤、張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎,死復何恨!」策騎士有罪,逃入術營,隱於內廄。策指使人就斬之,訖,詣術謝。術曰:「兵人好叛,當共疾之,何為謝也?」由是軍中益畏憚之。
太傅の馬日磾は、天子から授かった節を持って関東(函谷関の東)を安心させて、まとめる仕事をしていたよ。
馬日磾は寿春にいたとき、礼儀をもって孫策を招いて、懐義校尉に任命するように上表したよ。袁術の大将の喬蕤や張勲たちも、孫策を心から尊敬したよ。袁術はいつも感心しながら、こう言ったよ。
「孫郎(孫策)みたいな子がいたら、死んでも悔いがないよ!」
あるとき、孫策の騎兵が罪を犯して、袁術の陣営へ逃げ込んで、兵たちが使う馬小屋の中に隠れたんだ。孫策は人を送ってその兵を見つけ出して斬ったよ。その後、袁術に謝りに行ったんだ。すると、袁術はこう言ったよ。
「兵たちはよく主人を裏切って逃げるものだよ。私たちは一緒になって、そういう者を憎んで、取り締まらなければならないんだ。どうして私に謝る必要があるの?」
このことがあってから、軍の中の人たちはますます孫策を恐れるようになったよ。
術初許策為九江太守,已而更用丹楊陳紀。後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與,術大怒。策昔曾詣康,康不見,使主簿接之。策常銜恨。術遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂。今若得康,廬江真卿有也。」策攻康,拔之,術復用其故吏劉勳為太守,策益失望。
袁術は、最初は孫策を九江太守(郡の長官)に任命すると約束していたよ。でも、考えを変えて、丹楊の出身の陳紀を九江太守に任命しちゃった。
その後、袁術は徐州を攻めようとして、廬江太守の陸康に3万斛の米を求めたよ。でも、陸康は米を渡さなかったんだ。袁術はすごく怒っちゃった。
昔、孫策は陸康を訪ねたけど、陸康は孫策に直接会おうとしないで、主簿が代わりに話を聞いたんだ。だから、孫策はそのことをずっと恨んでいたんだ。袁術は孫策に陸康を攻めさせて、こう言ったよ。
「前は私は陳紀を九江太守にしちゃったけど、それは間違いだったの。自分の考えていたことを実現できなかったのが、ずっと残念だったんだ。今、もし陸康を倒せたら、廬江は本当にあなたのものになるよ」
孫策は陸康を攻めて、廬江を攻め落としたよ。でも、袁術は、昔の部下の劉勲を廬江太守に任命したんだ。孫策はますます失望しちゃった。
先是,劉繇為揚州刺史,州舊治壽春。壽春,術已據之,繇乃渡江治曲阿。時吳景尚在丹楊,策從兄賁又為丹楊都尉,繇至,皆迫逐之。景、賁退舍歷陽。繇遣樊能、于麋屯橫江津,張英屯當利口,以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史,更以景為督軍中郎將,與賁共將兵擊英等,連年不克。策乃說術,乞助景等平定江東。(註5)
これより前、劉繇は揚州刺史(州の長官)になっていて、揚州の役所は、もともと寿春にあったよ。でも、寿春はすでに袁術がおさえていたから、劉繇は長江を渡って、曲阿に役所を移したよ。
このころ、呉景はまだ丹楊にいて、孫策の従兄の孫賁も丹楊都尉を務めていたよ。劉繇がやって来ると、彼らを追い出しちゃった。二人は退いて、歴陽に住んだよ。
劉繇は、樊能と于麋に兵を率いさせて横江津にとどまらせて、張英を当利口にとどまらせて、袁術を防ごうとしたよ。袁術は、昔の部下で琅邪の出身の恵衢を揚州刺史(州の長官)、呉景を督軍中郎将に任命したよ。でも、一緒に兵を率いて、張英たちを攻撃させたけど、何年も戦っても、なかなか勝てなかったんだ。
そこで、孫策は袁術に、「呉景たちを助けるために兵を貸して、江東を平定させてほしいんだ」と願い出たよ。
江表傳曰:策說術云:「家有舊恩在東,願助舅討橫江;橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君匡濟漢室。」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,故許之。
『江表伝』によると、孫策は袁術にこう言ったよ。
「私の家は、昔から東の地方の人たちと深いつながりがあるよ。おじ(呉景)を助けて、横江を攻めさせてほしいんだ。もし横江を攻め落とせたら、そのまま故郷へ行って兵を集めたいと思うよ。3万の兵を手に入れたら、あなたが漢の王朝を立て直す手伝いをしたいんだ」
袁術は、孫策が前から抱いていた不満や恨みを知ってたよ。でも、劉繇が曲阿をおさえていて、王朗が会稽にいることも知っていたよ。だから袁術は、孫策が成功できるとは思っていなくて、孫策の願いを許したよ。
術表策為折衝校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賔客願從者數百人。比至歷陽,衆五六千。策母先自曲阿徙於歷陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬬,所向皆破,莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之。(註6)
袁術は孫策を折衝校尉にするように上表して、殄寇将軍を代行させたよ。このとき、孫策の兵は1,000人以上、騎兵も数十頭いて、孫策について行きたいという仲間も数百人いたよ。孫策が歴陽まで行くころには、兵は5,000から6,000人にまで増えていたよ。
前に、孫策の母は曲阿から歴陽に移り住んで、孫策はさらに母を阜陵へ移したよ。そして孫策は長江を渡って、各地で戦って、どこでも敵を打ち破って、誰もその勢いに立ち向かえなかったんだって。一方、軍の決まりはきちんと守られて、軍の秩序もよく整っていたから、民は孫策を慕うようになったよ。
江表傳曰:策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具,是歲興平二年也。時彭城相薛禮、下邳相笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南。策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融即閉門不敢動。因渡江攻禮,禮突走,而樊能、于麋等復合衆襲奪牛渚屯。策聞之,還攻破能等,獲男女萬餘人。復下攻融,為流矢所中,傷股,不能乘馬,因自輿還牛渚營。
『江表伝』によると、孫策は長江を渡って、劉繇の牛渚の陣営を攻めたよ。そして、倉庫にあったたくさんの食料や穀物、武器などをすべて手に入れたんだ。この年は興平二年(195年)だよ。
このとき、彭城の相の薛礼と下邳の相の笮融は劉繇を盟主として頼りにしていたよ。薛礼は秣陵の城を守って、笮融はその南にある県に兵を置いていたんだ。
孫策はまず笮融を攻めて、笮融は兵を率いて戦ったよ。孫策は500人以上を討ち取って、その後、笮融はすぐに門を閉じて外へ出ようとしなかったんだ。
そこで、孫策は長江を渡って薛礼を攻めたけど、薛礼は逃げたよ。その後、樊能や于麋たちはふたたび兵を集めて、牛渚の陣営を奪い返したんだ。孫策はこれを聞いて、引き返して樊能たちを攻めて、打ち破ったよ。そして、男女合わせて1万人以上を捕らえたよ。
その後、ふたたび進んで笮融を攻めたけど、孫策は流れ矢に当たって太ももをけがしたんだ。馬に乗れなくなったから、自分で車に乗って牛渚の陣営へ戻ったよ。
或叛告融曰:「孫郎被箭已死。」融大喜,即遣將於茲鄉。策遣步騎數百挑戰,設伏於後,賊出擊之,鋒刃未接而偽走,賊追入伏中,乃大破之,斬首千餘級。策因往到融營下,令左右大呼曰:「孫郎竟云何!」賊於是驚怖夜遁。融聞策尚在,更深溝高壘,繕治守備。策以融所屯地勢險固,乃舍去,攻破繇別將於海陵,轉攻湖孰、江乘,皆下之。
ある者が孫策を裏切って、笮融に「孫郎(孫策)は矢に当たって、もう死んでしまった」と知らせたんだ。笮融は大喜びして、すぐに将の于茲を送ったよ。
孫策は数百人の歩兵と騎兵を選んで、敵に戦いを仕掛けたよ。一方、後ろに兵を隠しておいたよ。
敵が攻めてくると、孫策の兵は、まだ敵と武器を交える前に、わざと負けたふりをして逃げたんだ。敵が追いかけてきて、隠れていた兵のいるところまで入ってくると、孫策の軍は一斉に攻撃して、敵を大きく打ち破ったよ。そして、1,000人以上を討ち取ったよ。
孫策はそのまま笮融の陣営の近くまで行って、周りの人たちに大声でこう言わせたよ。
「孫郎(孫策)はいったいどうした!」
すると敵はびっくりして、怖くなって、夜のうちに逃げ出したよ。
笮融は、孫策がまだ生きていると知って、さらに深い堀と高い壁を築いて、守りを固めたんだ。孫策は、笮融がおさえている場所は地形が険しくて、守りも固いと考えて、そこを責めるのをやめたよ。
そして、劉繇の別の将を海陵で攻めて打ち破って、さらに湖熟と江乗を攻めて、すべて降伏させたよ。
江東平定に向けて
策為人,美姿顏,好笑語,性闊達聽受,善於用人,是以士民見者,莫不盡心,樂為致死。劉繇棄軍遁逃,諸郡守皆捐城郭奔走。(註7)
孫策は、見た目が美しくて、顔立ちもすぐれているよ。よく人を笑わせ、話すことが好きだよ。性格はおおらかで、人の意見をよく聞き入れて、人を上手に使うことにもすぐれているんだ。だから、孫策に会った人たちは、みんな心から孫策に協力して、喜んで命をかけようとしたんだって。
一方、劉繇は軍を捨てて逃げたんだ。すると、たくさんの郡の太守もみんな城を捨てて逃げ出したよ。
『三国志』の貴重なイケメン。
江表傳曰:策時年少,雖有位號,而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至,皆失魂魄;長吏委城郭,竄伏山草。及至,軍士奉令,不敢虜略,雞犬菜茹,一無所犯,民乃大恱,競以牛酒詣軍。劉繇旣走,策入曲阿勞賜將士,遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令,告諸縣:「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者,勿彊也。」旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東,形勢轉盛。
『江表伝』によると、このとき孫策はまだ若くて、位や称号を持っていたけど、兵や民はみんな「孫郎」と呼んでいたんだ。民は「孫郎がやって来る」と聞くと、みんなとても恐れたよ。長吏(行政官)たちは城や町を捨てて山や草むらに隠れちゃった。
そして孫策がやって来ると、兵たちは孫策の命令を守って、人々のものを奪ったり、乱暴したりすることはなかったよ。鶏や犬、野菜を奪うこともなくて、悪いことをしなかったの。だから民はとても喜んで、競うように牛や酒を持って孫策の軍を訪れたよ。
劉繇が逃げた後、孫策は曲阿に入って、兵たちをねぎらって賞を与えたよ。そして、将の陳宝に阜陵へ送って、母と弟たちを迎えに行かせたよ。
孫策は人々に恩を与え、命令を出して、それぞれの県に知らせたよ。
「劉繇や笮融たちの故郷にいた人たちで、降伏してきた者は、何も問わないよ。一緒に軍に参加したい人は、一人だけ軍に入れば、その家族にかかる税や役目を免除するよ。軍に入りたくない者を、無理に入れることはしないよ」
この命令を出してから10日くらいのあいだに、四方から人々が雲みたいに集まってきたの。兵は2万人以上、馬は1,000頭以上に増えたよ。こうして孫策の勢力は江東に広く知れわたって、その勢いはますます強くなっていったよ。
吳人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(註8)
呉では、厳白虎たちがそれぞれ1万人以上の兵を集めて、あちこちに陣を構えていたんだ。呉景たちは、まず厳白虎たちを攻めて打ち破ってから、会稽へ向かおうとしたよ。でも、孫策はこう言ったよ。
「厳白虎たちはただの盗賊で、大きな志は持っていないよ。だからすぐに捕まえられるよ」
それで、孫策は兵を率いて浙江を渡って、会稽をおさえたよ。そして、東冶を攻め滅ぼして、厳白虎たちを攻めて打ち破ったよ。
吳錄曰:時有烏程鄒他、錢銅及前合浦太守嘉興王晟等,各聚衆萬餘或數千。引兵撲討,皆攻破之。策母吳氏曰:「晟與汝父有升堂見妻之分,今其諸子兄弟皆已梟夷,獨餘一老翁,何足復憚乎?」乃舍之,餘咸族誅。
『呉録』によると、このとき、烏程の出身の鄒他や銭銅、そして前の合浦太守(郡の長官)で嘉興の出身の王晟たちが、それぞれ1万や数千人の兵を集めていたよ。孫策は兵を率いて彼らを攻めて、みんな打ち破ったよ。孫策の母の呉氏はこう言ったよ。
「王晟はあなたの父(孫堅)とは親しくて、家に招いて妻にも会わせるくらいの仲だったの。でも今は、その息子や兄弟たちはみんな殺されて、残っているのは、ただ一人の年老いた男だけなんだ。もう、どうして恐れる必要があるの!」
そこで孫策は王晟だけは許して、一族はみんな処刑したんだ。
策自討虎,虎高壘堅守,使其弟輿請和。許之。輿請獨與策會面約。旣會,策引白刃斫席,輿體動,策笑曰:「聞卿能坐躍,勦捷不常,聊戲卿耳!」輿曰:「我見刃乃然。」策知其無能也,乃以手戟投之,立死。輿有勇力,虎衆以其死也,甚懼。進攻破之。虎奔餘杭,投許昭於虜中。程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」乃舍之。
孫策は自ら厳白虎を討とうとしたけど、厳白虎は高い壁で守りを固めていたんだ。厳白虎は弟の厳輿を使者として送って、仲よくする約束をしようとしたよ。孫策は許したよ。
厳輿は、「私一人で孫策と会って、約束をしたい」と言ったよ。そこで二人は会うと、孫策は刀を抜いて、そばにあった席を斬りつけたんだ。厳輿はびっくりして体を動かしたよ。すると、孫策は笑ってこう言ったよ。
「あなたは、座ったままでも飛び上がることができて、とてもすばやいと聞いているよ。ちょっとからかってみただけ!」
厳輿はこう言ったよ。
「刀が見えたから、体が動いただけだよ」
孫策は、厳輿がそんなことはできないと知っていたから、手に持った戟を投げつけて、厳輿をその場で殺したよ。厳輿は勇気と力のある人だったから、厳白虎の兵たちは、彼が殺されたことを知ると、とても恐れたんだ。
孫策はさらに攻撃して、厳白虎の軍を打ち破ったよ。厳白虎は余杭に逃げて、許昭のところに身を寄せたよ。程普は許昭を攻めるように言ったけど、孫策はこう言ったよ。
「許昭は昔の主君(盛憲)に義を尽くして、友人(厳白虎)にも誠実だよ。これは立派な男が持つべき志だね」
そして孫策は許昭を攻めるのをやめたよ。
臣松之案:許昭有義於舊君,謂濟盛憲也,事見後注。有誠於故友,則受嚴白虎也。
裴松之が調べたところ、「許昭は昔の主君に義を尽くして」とは許昭が盛憲を助けたことを言っているよ。このことは、後の注に書かれているよ。そして、「友人にも誠実」とは許昭が厳白虎を受け入れて、助けたことを言っているよ。
盡更置長吏,策自領會稽太守,復以吳景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹楊朱治為吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等為謀主。(註9)
孫策は、それまでの長吏(行政官)をすべて入れ替て、孫策は自ら会稽太守(郡の長官)を兼ねたよ。そして、呉景をふたたび丹楊太守、孫賁を豫章太守に任命したよ。
さらに、豫章を分けて廬陵郡にして、孫賁の弟の孫輔を廬陵太守、丹楊の出身の朱治を呉郡太守にしたんだ。
それに、彭城の出身の張昭、広陵の出身の張紘、秦松、陳端たちが参謀として孫策を助けたよ。
江表傳曰:策遣奉正都尉劉由、五官掾高承奉章詣許,拜獻方物。
『江表伝』によると、孫策は奉正都尉の劉由と五官掾の高承に文書と、この地方の特産物を持たせて許に行かせて、朝廷に捧げたよ。
袁術討伐戦
時袁術僭號,策以書責而絕之。(註10)
このとき袁術が身分を越えて自分で皇帝と名乗ると、孫策は手紙を書いて責めて、袁術との関係を断ったよ。
吳錄載策使張紘為書曰:「蓋上天垂司過之星,聖王建敢諫之鼓,設非謬之備,急箴闕之言,何哉?凡有所長,必有所短也。去冬傳有大計,無不悚懼;旋知供備貢獻,萬夫解惑。頃聞建議,復欲追遵前圖,即事之期,便有定月。益使憮然,想是流妄;設其必爾,民何望乎?
『呉録』によると、孫策が張紘に手紙を書かせてこう言ったよ。
「天は、悪いことをした人を見つけて罰するための星を空に置いているよ。昔の立派な王は、臣下が遠慮せずに意見を言えるように、太鼓を置いたよ。さらに、間違いが起きないように備えて、王の間違いをすぐに注意する言葉を大切にしたよ。これはどうして? どんな人にも、すぐれたところがあれば、必ず足りないところもあるからだよね。
去年の冬、あなたが大きな計画(袁術が皇帝になること)を立てたという話が伝わってきたとき、みんなは心配していたんだ。すぐに朝廷へ贈り物を用意して捧げるための計画だとわかって、人々の不安もなくなったよ。でも、あなたがまた前の計画を実行しようとしていると聞いたんだ。そして、実行する月まで決められたんだって。その話を聞いて、私はますますがっかりしたよ。これは、ただのうわさであってほしいと思っているよ。もし本当にそのようなことをするなら、民はいったい誰を頼りにすればいいの?
曩日之舉義兵也,天下之士所以響應者,董卓擅廢置,害太后、弘農王,略烝宮人,發掘園陵,暴逆至此,故諸州郡雄豪聞聲慕義。神武外振,卓遂內殲。元惡旣斃,幼主東顧,俾保傅宣命,欲令諸軍振旅,然河北通謀黑山,曹操放毒東徐,劉表稱亂南荊,公孫瓚炰烋北幽,劉繇決力江滸,劉備爭盟淮隅,是以未獲承命櫜弓戢戈也。
昔、義のために兵をあげたとき、天下のすぐれた人たちがそれに応じて立ち上がったのは、董卓が勝手に朝廷の役職を決めたり、人をやめさせたりして、皇太后や弘農王を殺して、宮中の女性たちをさらって、皇帝の墓を掘り返したり、ひどい悪事を重ねたからだよ。だから、各地の州や郡の英雄や力のある人たちはその知らせを聞いて義のために立ち上がろうとして、みんなの強い力によって董卓は都の中で滅ぼされたよ。大悪人である董卓がすでに死んだ後、幼い君主は東(洛陽)に向いて、臣下たちに命令を伝えさせて、軍に戦いをやめて兵を引き上げさせようとしたよ。でも、河北では袁紹たちが黒山の賊とこっそりと通じて、曹操は東の徐州で乱暴な行いをして、劉表は南の荊州で反乱を起こすような動きを見せて、公孫瓚は北の幽州で勝手に振る舞って、劉繇は長江のほとりで兵を動かして、劉備は淮河のあたりで争っていたんだ。だから、まだ朝廷の命令に従って、弓を袋にしまって、武器を片づけて戦いを終えることはできなかったんだ。
今備、繇旣破,操等饑餒,謂當與天下合謀,以誅醜類。捨而不圖,有自取之志,非海內所望,一也。
今、劉備や劉繇はすでに敗れて、曹操たちも食べ物がなくて苦しんでいるよ。このようなときこそ、天下で力を合わせて、悪い人たちを討つべきだよ。でも、そのことをやめて、自分から皇帝になろうとする考えを持つのは、世の中の人たちが望んでいることではないよね。これが1つ目の理由だよ。
昔成湯伐桀,稱有夏多罪;武王伐紂,曰殷有罪罰重哉。此二王者,雖有聖德,宜當君世;如使不遭其時,亦無由興矣。幼主非有惡於天下,徒以春秋尚少,脅於彊臣,若無過而奪之,懼未合於湯、武之事,二也。
昔、殷の成湯が夏の桀王を討ったときには、『夏にはたくさんの罪がある』と言ったよ。周の武王が殷の紂王を討ったときには、『殷には罪があるから、その罰を受けさせる』と言ったよ。この二人の王は、どちらもすぐれた徳を持っていて王になるのにふさわしい人だったよ。でも、もしそのような時代に出会わなかったなら、王になれなかっただろうね。
今の幼い皇帝には、天下の人々から恨まれるような悪いところはないよ。ただ年齢がまだ若くて、力の強い臣下たちにおさえつけられているだけなんだ。そのような皇帝に何の罪もないのに、皇帝の位を奪うのであれば、成湯や武王が王位を奪ったときの事情とは同じとは言えないよね。これが2つ目の理由だよ。
卓雖狂狡,至廢主自與,亦猶未也,而天下聞其桀虐,攘臂同心而疾之,以中土希戰之兵,當邊地勁悍之虜,所以斯須游魂也。今四方之人,皆玩敵而便戰鬬矣,可得而勝者,以彼亂而我治,彼逆而我順也。見當世之紛若,欲大舉以臨之,適足趣禍,三也。
董卓は、たしかに乱暴でずる賢い人だったよ。でも、皇帝をやめさせようとしたことについても、自分から進んでしたわけではなくて、まだ今のような状態ではなかったんだ。それでも、天下の人たちは董卓が桀王のようにひどい政治をしていると聞くと、腕まくりをして心を一つにして、董卓を憎んで討とうとしたよ。中原の兵たちは戦いに慣れていなかったけど、それでも辺境の強くて勇ましい敵と戦えたよ。だから、董卓はほんの短いあいだしか生き残れなかったんだ。
今は四方の人たちはみんな戦いに慣れているんだ。それでも勝つことができるのは、相手が乱れていて、こちらがよく治まっているからだよ。それに、相手が道理に反していて、こちらが正しい道に従っているからだよ。今の世の中がこのようにひどく乱れているのを見て、大軍を動かして天下を取ろうとするなら、それはかえって自分から災いを招くだろうね。これが3つ目の理由だよ。
天下神器,不可虛干,必須天贊與人力也。殷湯有白鳩之祥,周武有赤烏之瑞,漢高有星聚之符,世祖有神光之徵,皆因民困瘁於桀、紂之政,毒苦於秦、莽之役,故能芟去無道,致成其志。今天下非患於幼主,未見受命之應驗,而欲一旦卒然登即尊號,未之或有,四也。
天下を治めるには、必ず天の助けと、人々の力が必要なんだ。殷の成湯には白い鳩が現れるというめでたいしるしがあって、周の武王には赤い烏が現れるというめでたいしるしがあったよ。それに、漢の高祖(劉邦)には星が集まるというしるしがあって、世祖(劉秀)は神秘的な光が現れるというしるしがあったよ。彼らが天下を取ることができたのは、桀王や紂王の悪い政治によって人々が苦しんで、それに秦の始皇帝や王莽の政治によって人々がひどい苦しみを受けていたからだよ。人々は道理に反する政治を取り除いて、彼らは自分たちの志を成し遂げたんだ。
でも、今の天下は幼い皇帝がいることによって苦しんでいるわけではないし、天命のしるしもまだ見られてないの。なのに、いきなり皇帝に即位することは、これまでに例のないことだよ。これが4つ目の理由だよ。
天子之貴,四海之富,誰不欲焉?義不可,勢不得耳。陳勝、項籍、王莽、公孫述之徒,皆南面稱孤,莫之能濟。帝王之位,不可橫兾,五也。
天子という高い地位や、天下の豊かな財産を、いったい誰が欲しくないの? でも、それが義に反しているから、そうすることはできないの。陳勝、項籍、王莽、公孫述たちもみんな皇帝みたいに南を向いて座って、自分を『孤』と呼んだけど、誰もその地位を最後まで保てなかったよね。皇帝の位は、無理に望んで手に入れようとしてよいものではないんだ。これが5つ目の理由だよ。
幼主岐嶷,若除其偪,去其鯁,必成中興之業。夫致主於周成之盛,自受旦、奭之美,此誠所望於尊明也。縱使幼主有他改異,猶望推宗室之譜屬,論近親之賢良,以紹劉統,以固漢宗。皆所以書功金石,圖形丹青,流慶無窮,垂聲管弦。捨而不為,為其難者,想明明之素,必所不忍,六也。
幼い君主はすぐれた才能を持っていて、もし皇帝を苦しめている者を取り除いて、その邪魔をしている者を取り去ったら、必ず漢をもう一度盛り返せるだろうね。彼を助けて周の成王みたいな立派な政治ができるところまで導いて、自分は周公旦や召公奭みたいなすばらしい功績をあげることこそ、あなたに期待していることだよ。もし幼い君主が皇帝の位を他の人にゆずるとしても、それでも私は、皇帝の一族の劉氏の家系を調べて、皇帝に近い親族の中から、すぐれた人を選んでほしいんだ。そして、その人に皇帝の位を受け継がせて、漢の皇室を守るべきだよ。そうすれば、その功績は石に刻まれて、絵にも描かれて、いつまでも人々に伝わるだろう。そのめでたい功績は限りなく後の世に伝わって、その名声は音楽や歌にも残るだろうね。このような正しい道を捨てて、あえて難しいことをしようとするのは、あなたのすぐれた人柄から考えて、とても耐えられないと思うよ。これが6つ目の理由だよ。
五世為相,權之重,勢之盛,天下莫得而比焉。忠貞者必曰宜夙夜思惟,所以扶國家之躓頓,念社稷之危殆,以奉祖考之志,以報漢室之恩。其忽履道之節而彊進取之欲者,將曰天下之人非家吏則門生也,孰不從我?四方之敵非吾匹則吾役也,誰能違我?盍乘累世之勢,起而取之哉?二者殊數,不可不詳察,七也。
あなたは五代にわたって宰相を務めてきた家柄で、あなたの権力はとても大きくて、勢力も強くて、天下の誰も比べられないくらいだよね。忠のある人は、必ずこう言うよ。
『朝から晩までよく考えて、弱っている国を助けて、危険な状態にある漢を守らなければならないんだ。そして、先祖が残した志を受け継いで、漢の皇室から受けた恩に報いなければならないよ』
でも、正しい道を無視して、無理に天下を取ろうとする人は、きっとこう考えるだろうね。
『天下の人たちは、私の臣下か私の家に仕えてきた人たちだよ。私に従わない者なんているの? 四方の敵も、私と同じくらいの力しかないか、私に使われる者たちだよ。私に逆らえる者なんているの? 何代も続いてきた私の勢力を利用して、今こそ立ち上がって、天下を取ってしまおう』
これらの二つの考えは全然違うから、どちらが正しいのかを、よく考えて判断しなければならないよ。これが7つ目の理由だよ。
所貴於聖哲者,以其審於機宜,慎於舉措。若難圖之事,難保之勢,以激羣敵之氣,以生衆人之心,公義故不可,私計又不利,明哲不處,八也。
聖人やすぐれた知恵を持つ人が尊敬されるのは、物事をよく見きわめて、その時に何をするべきかを判断して、行動するときにも慎重だからだよ。もし、実現するのが難しいことをしようとすれば、今の地位を守ることも難しくなるよ。さらに、周りの敵を勢いづかせて、人々に反感を持たせることにもなるんだ。正しい道から考えても、してはいけないことだし、自分の利益だけを考えても得にはならないよ。だから、本当に知恵のある人は、そのようなことはしないよね。これが8つ目の理由だよ。
世人多惑於圖緯而牽非類,比合文字以恱所事,苟以阿上惑衆,終有後悔者,自往迄今,未嘗無之,不可不深擇而熟思,九也。九者,尊明所見之餘耳,庶備起予,補所遺忘。忠言逆耳,幸留神聽!」
世の中の人たちは、図讖や緯書などに書かれた不思議な予言を信じて、関係のないものまで結びつけて考えてしまうことがあるんだ。そして、文字の形や意味を無理に結びつけて、自分が仕えたい人に都合のよい意味を作り出して、その人を喜ばせようとするよ。ただ上の人に気に入られようとして、人々をだますようなことをすれば、最後には後悔するよ。このようなことは、昔から今まで、一度もなくなったことがないんだ。だから、よく選んで、十分に考えなければならないよね。これが9つ目の理由だよ。
以上の9つのことは、私が尊敬するあなたの考えをもとに、さらに付け加えたものだよ。あなたの考えを助けて、忘れていることを補えればいいな。忠から出た正しい言葉は、耳に痛く感じるものだけど、どうか、よく心に留めて聞いてほしいんだ」
典略云張昭之辭。臣松之以為張昭雖名重,然不如紘之文也,此書必紘所作。
『典略』によると、これは張昭が書いた文章らしいよ。
裴松之はこう考えるよ。張昭はたしかに名のよく知られた人だけど、文章の書き方は張紘ほどではないんだ。この手紙は、きっと張紘が書いたものだよ。
曹公表策為討逆將軍,封為吳侯。(註11)(註12)(註13)(註14)
曹操は孫策を討逆将軍に正式に任命するように上表して、呉侯に封じたよ。
江表傳曰:建安二年夏,漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰:「董卓逆亂,凶國害民。先將軍堅念在平討,雅意未遂,厥美著聞。策遵善道,求福不回。今以策為騎都尉,襲爵烏程侯,領會稽太守。」
『江表伝』によると、建安二年(197年)、夏、漢の朝廷は議郎の王誧を使者として送って、戊辰の詔書を届けて、こう言ったよ。
「董卓は反乱を起こして国を乱して、民を苦しめたんだ。前の将軍の孫堅は、董卓の討とうという志を持っていたけど、その願いを成し遂げられなかったんだ。その功績はすばらしいものとして、広く知られているよ。孫策は父のよい行いを受け継いで、正しい道を進んで、幸せを求める心を失わなかったよ。そこで、孫策を騎都尉に任命して、(父から受け継ぐ爵位として烏程侯を継がせて、会稽太守(郡の長官)を兼ねさせるよ」
又詔勑曰:「故左將軍袁術不顧朝恩,坐創凶逆,造合虛偽,欲因兵亂,詭詐百姓,始聞其言以為不然。定得使持節平東將軍領徐州牧溫侯布上術所造惑衆妖妄,知術鴟梟之性,遂其無道,脩治王宮,署置公卿,郊天祀地,殘民害物,為禍深酷。
さらに、こう書かれていたよ。
「前の左将軍の袁術は、朝廷から受けた恩を忘れて、悪いことをしようとしたんだ。そして、うその話を作り上げて、兵乱に乗じて人々をだまそうとしているんだ。初めてその話を聞いたとき、信じられなかったの。でも、使持節で平東将軍で徐州牧(州の長官)を兼ねる温侯の呂布から、袁術が作った、人々を惑わせるでたらめな文書が届けられたよ。事実だとわかったよ。こうして、袁術が、心の正しくない人だとわかったよ。袁術は道理に反する行いを続けて王宮を修理して、公卿を勝手に決めて、天をまつる祭りや、地をまつる祭りまでしたんだ。そして、人々を苦しめて、あらゆるものに害を与えて、その災いはひどいものだよね。
布前後上策乃心本朝,欲還討術,為國效節,乞加顯異。夫縣賞俟功,惟勤是與,故便寵授,承襲前邑,重以大郡,榮耀兼至,是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行吳郡太守安東將軍陳瑀勠力一心,同時赴討。」
呂布は、孫策が心から漢の朝廷のために尽くしたいと考えていて、袁術を討って国のために働きたいと思っていることを前から何度も伝えているよ。そして、その功績にふさわしい特別な賞を与えてほしいと願っていたよ。
功績をあげた者には、それにふさわしい賞を与えて、努力して働く者を大切にするのが、朝廷のやり方だよ。そこで、すぐに孫策を厚く取り立てて、父の孫堅から受け継いだ領地を受け継がせて、さらに大きな郡の会稽郡を任せたよ。名誉と賞を同時に与えたの。これは、孫策が力を尽くして、命をかけて働くべきときだよね。急いで呂布と、呉郡太守を代行する安東将軍の陳瑀と力を合わせて、心を一つにして、同じ時期に袁術を討つために出発してね」
策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號,及使人諷誧,誧便承制假策明漢將軍。是時,陳瑀屯海西,策奉詔治嚴,當與布、瑀參同形勢。行到錢唐,瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應,伺策軍發,欲攻取諸郡。策覺之,遣呂範、徐逸攻瑀於海西,大破瑀,獲其吏士妻子四千人。
孫策は自分が兵たちを率いているから、騎都尉として郡を治めるのは身分が低すぎると考えたよ。そこで、将軍の称号をもらいたいと思って、使者を通して王誧に頼んだよ。すると王誧は、正式な命令を待たないで孫策に明漢将軍の称号を与えたよ。
このとき、陳瑀は海西にとどまっていたよ。孫策は詔に従って兵を整えて、呂布や陳瑀と協力して、同じ目的のために行動することになっていたよ。
孫策が銭唐まで進むと、陳瑀はひそかに孫策を攻撃しようと計画したんだ。そして、都尉の万演たちに長江を渡らせたよ。彼らは30以上の印と割符を持って、丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙などの、山が険しくて守りやすい県の大将たちに渡したよ。祖郎、焦已、そして呉郡の烏程にいた厳白虎たちだよ。陳瑀は彼らに内側から協力させて、孫策の軍が出発するのを待って、郡を攻め取ろうとしたの。孫策はこれに気づいて、呂範と徐逸に命令して海西にいる陳瑀を攻撃させたよ。大きく打ち破って、陳瑀の役人や兵、その妻や子供たち4,000人を捕らえたんだ。
山陽公載記曰:瑀單騎走兾州,自歸袁紹,紹以為故安都尉。
『山陽公載記』によると、陳瑀は、ただ一人で馬に乗って冀州に逃げて、袁紹のもとへ戻ったんだ、袁紹は、陳瑀を故安都尉に任命したよ。
吳錄載策上表謝曰:「臣以固陋,孤特邊陲。陛下廣播高澤,不遺細節,以臣襲爵,兼典名郡。仰榮顧寵,所不克堪。興平二年十二月二十日,於吳郡曲阿得袁術所呈表,以臣行殄寇將軍;至被詔書,乃知詐擅。雖輒捐廢,猶用悚悸。臣年十七,喪失所怙,懼有不任堂構之鄙,以忝析薪之戒,誠無去病十八建功,世祖列將弱冠佐命。臣初領兵,年未弱冠,雖駑懦不武,然思竭微命。惟術狂惑,為惡深重。臣憑威靈,奉辭伐罪,庶必獻捷,以報所受。」
『呉録』によると、孫策は上表してこう言ったよ。
「私は才能も知識も乏しく、ひとり遠い地方にいる身だよ。なのに陛下は広く大きな恩恵を与えて、身分の低い者まで見捨てないで、私に父の爵位を継がせて、さらに重要な郡を治める役目まで与えてくれたよね。このような大きな栄誉と恩をいただいて、私にはとても身に余ることなんだ。
興平二年(195年)、十二月二十日、呉郡の曲阿で、袁術の上表を受け取って、その文には私を殄寇将軍を代行させると書いてあったよ。でも、正式な詔書を受け取って初めて、それが袁術が勝手に作った偽りの命令だったと知ったんだ。私はすぐにその役目を捨てたけど、それでも恐れと不安を感じているの。
私は17歳のときに頼りにしていた父を失ったんだ。だから、私は、自分には家を立派に守っていく力がないのではないかと心配していて、父の仕事を受け継ぐ者として恥をかくことにならないかと、深く恐れているんだ。
昔、霍去病が18歳で功績をあげて、世祖(劉秀)の時代にも、二十歳くらいの若い将たちが皇帝を助けて功績をあげたよ。私も初めて兵を率いたときには、まだ20歳にもなっていなかったよ。私は勇気も力も人並み以下だけど、それでも、自分の命をかけて力を尽くしたいと思っているの。ただ、袁術は道を外れて、ひどい悪事を重ねているんだ。私は陛下の威光を頼りにして、朝廷から受けた命令に従って、罪のある者を討とうとしているよ。きっと勝利の知らせを朝廷に届けて、これまでいただいた恩に報いたいと思うよ」
臣松之案:本傳云孫堅以初平三年卒,策以建安五年卒,策死時年二十六,計堅之亡,策應十八,而此表云十七,則為不符。張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死,此為是而本傳誤也。
裴松之が調べたところ、『三国志』の本文には、「孫堅は初平三年(192年)に亡くなって、孫策は建安五年(200年)に亡くなった」と書かれているよ。孫策は亡くなったとき26歳で、そうすると父の孫堅が亡くなったとき、孫策は18歳だったことになるよ。
『江表伝』には17歳と書かれているけど、これでは年齢が合わないよね。張璠の『漢紀』や『呉歴』では、どちらも「孫堅は初平二年(191年)に亡くなった」としているよ。この記録のほうが正しくて、『三国志』の本文の記述が間違っているのではないかな。
江表傳曰:建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻。其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯。
『江表伝』によると、建安三年(198年)、孫策はまた使者を送ってこの地方の特産物を朝廷に捧げたよ。前の年に捧げたものの二倍の量を贈ったよ。
その年、詔によって孫策は討逆将軍に任命されて、呉侯に改めて封ぜられたよ。
後術死,長史楊弘、大將張勳等將其衆欲就策,廬江太守劉勳要擊,悉虜之,收其珍寶以歸。策聞之,偽與勳好盟。勳新得術衆,時豫章上繚宗民萬餘家在江東,策勸勳攻取之。勳旣行,策輕軍晨夜襲拔廬江,勳衆盡降,勳獨與麾下數百人自歸曹公。(註15)(註16)
その後、袁術が亡くなると、長史の楊弘や大将の張勲たちは、袁術の兵を連れて孫策のもとへ行こうとしたよ。でも、廬江太守(郡の長官)の劉勲が彼らを攻撃して、兵をすべて捕らえて、宝物を奪って帰ったんだ。
孫策はこれを聞いて、劉勲と仲良くするふりをして、同盟を結んだよ。劉勲は新しく袁術の兵を手に入れていたんだ。そのころ、豫章の上繚には、江東に住む宗族の人たちが1万家以上いたよ。孫策は、劉勲にそこを攻めて奪い取るように勧めたよ。劉勲が出発すると、孫策は少ない兵を率いて昼も夜も急いで進んで、廬江を攻め落としたよ。すると、劉勲の兵はすべて降伏して、劉勲だけは数百人の部下を率いて逃げて、曹操のもとへ身を寄せたんだ。
江表傳曰:策被詔勑,與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等并力討袁術、劉表。軍嚴當進,會術死,術從弟胤、女壻黃猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城。勳糧食少,無以相振,乃遣從弟偕告糴於豫章太守華歆。歆郡素少穀,遣吏將偕就海昏上繚,使諸宗帥共出三萬斛米以與偕。偕乃報勳,具說形狀,使勳來襲取之。勳得偕書,便潛軍到海昏邑下。宗帥知之,空壁逃匿,勳了無所得。
『江表伝』によると、孫策は詔の命令を受けて、司空の曹操、衛将軍の董承、益州牧(州の長官)の劉璋たちと力を合わせて、袁術と劉表を討つことになったよ。軍の準備を整えて、出発しようとしていたら、ちょうど袁術が亡くなったんだ。
袁術の従弟の袁胤や娘婿の黄猗たちは、曹操を恐れて寿春を守れなかったんだ。そこで、みんなで袁術の棺を運んで、袁術の妻や子供、部下たち、男女を連れて、皖城の劉勲のもとへ行ったよ。
でも、劉勲のところは食糧が少なくて、彼らに分け与えられなかったんだ。そこで、劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華歆のもとへ送って、米を分けてもらおうとしたよ。でも、華歆の郡はもともと穀物が少ないから、使者を送って劉偕と一緒に海昏の上繚へ行かせたよ。そして、そこにいる宗族の指導者たちに、3万斛の米を出して劉偕に渡すように頼んだの。
でも、劉偕は劉勲に知らせて、現地の詳しい様子をすべて伝え、「ここを攻めて米を奪おう」と勧めたんだ。劉勲は劉偕の手紙を受け取ると、こっそりと兵を動かして、海昏の町の近くまで進んだよ。
劉勲は劉偕からの手紙を受け取ってすぐに兵を動かして、海昏の領地に着いたよ。宗族の指導者たちはそのことを知っていたから、陣営を空にして隠れたんだ。だから、劉勲は結局、何も手に入れられなかったんだ。
時策西討黃祖,行及石城,聞勳輕身詣海昏,便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳,自與周瑜率二萬人步襲皖城,即克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,并術、勳妻子。上用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳。賁、輔又於彭澤破勳。
このとき孫策は西へ向かって黄祖を討とうとしていたよ。石城まで進んだところで、劉勲が自分だけで海昏へ向かったと聞いたよ。そこで孫策は、従兄の孫賁と孫輔に8,000人の兵を率いさせて、彭沢で劉勲を待ち伏せしたよ。孫策自身は周瑜と一緒に2万人の兵を率いて、歩いて皖城を攻めたよ。すると、すぐに皖城を攻め落とせたんだ。
そして、袁術が持っていた職人たちや、鼓吹(音楽隊)、兵など3万人以上を捕らえて、さらに袁術と劉勲の妻や子供たちも捕らえたよ。
朝廷は汝南の李術を廬江太守に任命して、3,000人の兵を与えて皖城を守らせたよ。孫策は捕らえた人たちをすべて東へ移して、呉へ連れて行ったんだ。孫賁と孫輔は彭沢で劉勲を打ち破ったよ。
勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞。至沂,築壘自守,告急於劉表,求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻,大破勳。勳與偕北歸曹公,射亦遁走。策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千,來為黃祖前鋒。策與戰,大破之。
劉勲は逃げて楚江に入って、尋陽から歩いて置馬亭まで進んだよ。そこで孫策たちがすでに皖城を攻め落としたと聞くと、西塞へ逃げちゃった。沂に着くと、そこに砦を築いて守りを固めて、劉表に助けを求めて、さらに黄祖にも救援を頼んだよ。 黄祖は、太子の黄射に船の兵5,000人を率いさせて、劉勲を助けに向かわせたんだ。
孫策はふたたび劉勲を攻撃して、大きく打ち破ったよ。劉勲は劉偕と一緒に北へ向かって、曹操のもとに行ったんだ。黄射も逃げちゃった。
孫策は劉勲の兵を2,000人以上、船を1,000隻手に入れて、そのまま進んで夏口に向かって、黄祖を攻めたよ。このとき、劉表は従弟の劉虎と、南陽の出身の韓晞に長い槍を持った兵5,000人を率いさせて、黄祖の前衛として送ったんだ。孫策は彼らと戦って、大きく打ち破ったよ。
吳錄載策表曰:「臣討黃祖,以十二月八日到祖所屯沙羨縣。劉表遣將助祖,並來趣臣。臣以十一日平旦部所領江夏太守行建威中郎將周瑜、領桂陽太守行征虜中郎將呂範、領零陵太守行蕩寇中郎將程普、行奉業校尉孫權、行先登校尉韓當、行武鋒校尉黃蓋等同時俱進。
『呉録』によると、孫策は上表してこう言ったよ。
「私は黄祖を討つため、十二月八日、黄祖が沙羨県に陣を置いているところへ着いたよ。劉表は黄祖を助けるために将を送って、私の軍に向かってきたんだ。私は十一日の明け方、私が率いている江夏太守を兼ねる建威中郎将を代行する周瑜、桂陽太守を兼ねる征虜中郎将を代行する呂範、零陵太守を兼ねる蕩寇中郎将を代行する程普、奉業校尉を代行する孫権、先登校尉を代行する韓当、武鋒校尉を代行する黄蓋たちに命令して、同時に前へ進ませたよ。
身跨馬櫟陳,手擊急鼓,以齊戰勢。吏士奮激,踊躍百倍,心精意果,各競用命。越渡重壍,迅疾若飛。火放上風,兵激煙下,弓弩並發,流矢雨集,日加辰時,祖乃潰爛。鋒刃所截,猋火所焚,前無生寇,惟祖迸走。獲其妻息男女七人,斬虎、韓晞已下二萬餘級,其赴水溺者二萬餘口,船六千餘艘,財物山積。雖表未禽,祖宿狡猾,為表腹心,出作爪牙,表之鴟張,以祖氣息,而祖家屬部曲埽地無餘,表孤特之虜,成鬼行尸。誠皆聖朝神武遠振,臣討有罪,得效微勤。」
孫策は自ら馬にまたがって陣の中を走り回って、手で激しく太鼓を打って、兵たちの戦う勢いをそろえたよ。役人や兵たちは奮い立って、いつもの百倍もの力を出して、みんなが命をかけて戦おうとしたよ。深い堀を越えて、飛ぶような速さで進んだよ。火を風上から放って、兵たちは煙の中で激しく戦ったんだ。弓や弩を一斉に放つと、飛んでくる矢が雨のように集まったよ。辰の時(午前7時から9時ごろ)になると、黄祖の陣は崩れていったよ。
刃に倒される者、火に焼かれる者が続いて、前には生き残って抵抗する敵はほとんどいなくなって、黄祖だけが逃げたんだ。黄祖の妻や子供など、男女7人を捕らえたよ。劉虎や韓晞たち2万人以上を討ち取って、川へ飛び込んでおぼれた者も2万人以上いたんだ。さらに、船6,000隻以上と、山のように積まれた財宝も手に入れたよ。
まだ劉表を捕まえられていないけど、黄祖は昔からずる賢くて、劉表の信頼できる臣下として、その手足となって働いていたんだ。劉表が大きな勢力を持っていたのも、黄祖の力によるところが大きかったの。でも今は、黄祖の家族や部下は一人残らず打ち破られて、劉表はたった一人で捕らえられるのを待つような状態になったよ。まるで死んだ人が歩いているようなものだね。これらは聖なる朝廷のすぐれた武が遠くまで広がったおかげだよ。私は罪のある者を討って、ちょっとだけど力を尽くして、その恩に報いることができたよ」
是時哀紹方彊,而策并江東,曹公力未能逞,且欲撫之。(註17)乃以弟女配策小弟匡,又為子章取賁女,皆禮辟策弟權、翊,又命揚州刺史嚴象舉權茂才。
このとき、袁紹の勢力が強くなっていたんだ。一方、孫策は江東をすべて手に入れていたよ。曹操はまだ孫策と戦う力が十分ではなかったから、まず孫策を味方につけようとしたんだ。
そこで、曹操は弟の娘を、孫策の弟の孫匡の妻にしたよ。それに、曹操の子の曹彰には、孫賁の娘を妻として迎えさせたんだ。
さらに、孫策の弟の孫権と孫翊を礼を尽くして招いて、揚州刺史(州の長官)の厳象に命令して、孫権を茂才として推挙させたよ。
吳歷曰:曹公聞策平定江南,意甚難之,常呼「猘兒難與爭鋒也」。
『呉歴』によると、曹操は、孫策が江南を平定したと聞いて、とても手ごわい相手だと思ったよ。いつも「あの狂犬みたいに強い若者とは、正面から争うのは難しいな」と言っていたんだって。
早すぎる死
建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,(註18)(註19)(註20)(註21)密治兵,部署諸將。
建安五年(200年)、曹操は官渡で袁紹と向かい合って戦っていたよ。孫策はこっそりと許を攻めて漢の皇帝を迎えようと考えて、兵を集めて、将たちにそれぞれの役目を命令して、準備を進めたよ。
吳錄曰:時有高岱者,隱於餘姚,策命出使會稽丞陸昭逆之,策虛己候焉。聞其善左傳,乃自玩讀,欲與論講。或謂之曰:「高岱以將軍但英武而已,無文學之才,若與論傳而或云不知者,則某言符矣。」又謂岱曰:「孫將軍為人,惡勝己者,若每問,當言不知,乃合意耳。如皆辨義,此必危殆。」岱以為然,及與論傳,或荅不知。策果怒,以為輕己,乃囚之。知友及時人皆露坐為請。策登樓,望見數里中填滿。策惡其收衆心,遂殺之。
『呉録』によると、このとき、高岱という人がいて、余姚に隠れて暮らしていたよ。孫策は会稽丞の陸昭を使者として送って、高岱を迎えに行かせたよ。孫策は自分からへりくだって、高岱が来るのを待っていたんだって。
孫策は、高岱が『春秋左氏伝』について詳しいと聞くと、自分でも本を読んで、高岱と話し合おうとしたよ。でも、ある人がこう言ったよ。
「高岱は、あなたは武勇にすぐれているだけで、学問の才能はないと思っているよ。もし『春秋左氏伝』について話して、あなたが『わからない』と答えることがあれば、高岱の言ったことが本当だと証明されてしまうんだ」
一方、その人は高岱にもこう言ったよ。
「孫将軍(孫策)は、自分よりすぐれた人を嫌う性格なんだ。質問されたら、何を聞かれても『わからない』と答えれば、彼も満足するよ。もし何でも詳しく説明してしまったら、きっと危険な目にあうよ」
高岱は、その言葉をもっともだと思ったよ。そして孫策と話すと、質問されても「わからない」と答えることがあったんだ。
すると、孫策はやっぱり怒って、高岱が自分を馬鹿にしていると思って、彼を捕らえて牢に入れたんだ。高岱の友人や、そのころの人たちは、みんな外に座って、高岱を助けてほしいと孫策に願い出たよ。孫策が楼に上って見ると、数里先まで人がびっしり集まっていたんだ。孫策は、人々が高岱のために集まって、心を一つにしていることを嫌って、高岱を殺したんだ。
岱字孔文,吳郡人也。受性聦達,輕財貴義。其友士拔奇,取於未顯,所友八人,皆世之英偉也。太守盛憲以為上計,舉孝廉。許貢來領郡,岱將憲避難於許昭家,求救於陶謙。謙未即救,岱憔悴泣血,水漿不入口。感其忠壯,有申包胥之義,許為出軍,以書與貢。岱得謙書以還,而貢已囚其母。
高岱は、字は孔文で、呉郡の出身だよ。生まれつき頭がよくて、金にこだわらないで義を大切にしたよ。友人の士人たちの中から、まだ世間に知られていないすぐれた人を見つけて、取り立てたよ。高岱が友人として付き合った8人は、みんな当時のすぐれた人なんだって。
あるとき、呉郡太守の盛憲は、高岱を郡の上計に任命して、孝廉として推挙したよ。でも、許貢が呉郡を治めるようになると、高岱は盛憲を連れて難を避けて、許昭の家に身を寄せたよ。そして、陶謙に助けを求めたよ。
でも、陶謙はすぐには助けてくれなかったんだ。高岱は悲しんで、やせて衰えて、血の涙を流すくらい苦しんで、水や飲み物さえ口にしなかったんだ。陶謙は、高岱の忠義と勇気に心を動かされて、昔の申包胥の義があると思ったの。そこで、軍を出して助けることを約束して、許貢に手紙を送ったよ。高岱は陶謙の手紙を受け取って戻ったよ。でも、そのときにはすでに許貢が高岱の母を捕らえていたんだ。
謙吳人大小皆為危竦,以貢宿忿,往必見害。岱言在君則為君,且母在牢獄,期於當往,若得入見,事自當解。遂通書自白,貢即與相見。才辭敏捷,好自陳謝,貢登時出其母。岱將見貢,語友人張允、沈䁕令豫具船,以貢必悔,當追逐之。出便將母乘船易道而逃。貢須臾遣人追之,令追者若及於船,江上便殺之,已過則止。使與岱錯道,遂免。被誅時,年三十餘。
陶謙が呉の人たちを助けようとしたから、許貢は呉の大人も子供もみんな危険な目にあうのではないかと恐れたよ。許貢は前から高岱を恨んでいたから、高岱が行けば、きっと殺されると思われたよ。でも、高岱はこう言ったよ。
「あなたがいるなら、私はあなたの味方だよ。母が牢に入れられているから、私は行かなければならないよ。もし許貢に会えれば、きっと話をつけるよ」
そこで高岱は許貢に手紙を送って、自分の考えを説明したよ。すると許貢は高岱と会ったよ。高岱は話すのがとても上手で、すぐに自分の事情を説明して謝ったんだ。すると許貢は、その場ですぐに高岱の母を牢から出したよ。
高岱は許貢に会いに行く前、友人の張允と沈䁕に、「船を前もって用意しておいてほしいんだ。許貢はきっと後になって気が変わって、私を追ってくるだろうから」と伝えていたよ。
高岱は許貢のもとから出ると、すぐに母を連れて船に乗って、別の道を通って逃げたよ。しばらくすると、許貢は人を送って高岱を追わせたんだ。「もし船に追いついたら、川の上ですぐに高岱を殺してね。でも、もう追いつけないところまで行っていたら、追うのをやめてね」と命令したよ。追っ手は高岱とは別の道を進んだから、高岱は無事に逃げられたよ。
高岱が処刑されたとき、30歳くらいだったんだ。
江表傳曰:時有道士琅邪于吉,先寓居東方,往來吳會,立精舍,燒香讀道書,制作符水以治病,吳會人多事之。策嘗於郡城門樓上集會諸將賔客,吉乃盛服杖小函,漆畫之,名為仙人鏵,趨度門下。諸將賔客三分之二下樓迎拜之,掌賔者禁呵不能止。策即令收之。諸事之者,悉使婦女入見策母,請救之。
『江表伝』によると、このとき、琅邪の出身の道士で于吉という人がいたんだ。于吉は前から東に住んでいて、呉や会稽のあたりを行き来していたよ。そして、道士が修行する場所を建てて、香をたいて道教の書物を読んで、特別な札や水を作って病気を治していたんだ。呉や会稽の人たちの多くが、于吉を信じていたんだって。
あるとき、孫策が郡の城門の楼に将や客を集めて会っていたよ。そこへ于吉が、きちんとした服を着て、小さな箱のようなものを杖で持ってやって来たんだ。その杖は漆で塗られていて、絵が描かれていて、「仙人鏵」と呼ばれていたんだって。于吉が門の下を通ると、集まっていた将や客の3分の2くらいが楼から降りて、出迎えて礼をしたんだ。客を取り仕切る役人が止めようとしたけど、どうすることもできなかったんだ。
孫策はそれを見て、于吉を捕らえるように命令したよ。すると、于吉を信じている人たちは、みんな自分たちの妻や女性たちを孫策の母(呉氏)のところへ行かせて、「どうか于吉を助けて」と頼んだよ。
母謂策曰:「于先生亦助軍作福,醫護將士,不可殺之。」策曰:「此子妖妄,能幻惑衆心,遠使諸將不復相顧君臣之禮,盡委策下樓拜之,不可不除也。」諸將復連名通白事陳乞之,策曰:「昔南陽張津為交州刺史,舍前聖典訓,廢漢家法律,甞著絳帕頭,鼓琴燒香,讀邪俗道書,云以助化,卒為南夷所殺。此甚無益,諸君但未悟耳。今此子已在鬼籙,勿復費紙筆也。」即催斬之,縣首於巿。諸事之者,尚不謂之死而云尸解焉,復祭祀求福。
母(呉氏)は孫策にこう言ったよ。
「于先生(于吉)も軍を助けて、兵たちのために幸せを願って、病気の手当てもしているんだ。殺してはいけないよ」
孫策はこう答えたよ。
「あの者は人をだます怪しいことをして、たくさんの人の心を惑わせて、将たちまで君臣の礼を忘れさせてしまったんだ。みんな私を差し置いて楼を降りて、あの者に頭を下げているよね。だから、どうしても取り除かなければならないんだ」
将たちはふたたびみんなで名前を連ねて、孫策に事情を説明して、于吉を助けてほしいと願ったよ。でも、孫策はこう言ったよ。
「昔、南陽の張津が交州刺史(州の長官)になったとき、昔の聖人が残した教えを捨てて、漢の法や律も守らなかったんだ。赤い頭巾をかぶって、琴を弾いて、香をたいて、正しくない道教の書物を読んで、『これで人々をよく導くことができる』と言っていたんだって。でも、最後には異民族に殺されちゃった。
こんなことをしても、何の役にも立たないよね。あなたたちは、まだそのことに気づいていないだけだよ。今、あの者はすでに死ぬ運命にるから、もう紙や筆を使って助けを願う必要はないんだ」
そして、すぐに于吉を討ち取るように急がせて、その首を市場にさらしたよ。それでも、于吉を信じていた人たちは、彼が死んだとは考えなかったんだ。「于吉は死んだのではなく、尸解して仙人になった」と言って、その後も于吉をまつって、幸せを授けてもらおうとしたんだ。
志林曰:初順帝時,琅邪宮崇詣闕上師于吉所得神書於曲陽泉水上,白素朱界,號太平青領道,凡百餘卷。順帝至建安中,五六十歲,于吉是時近已百年,年在耄悼,禮不加刑。
『志林』によると、順帝の時代(125〜144年)の初めごろ、琅邪の宮崇が都の宮殿へ行って、師の于吉が曲陽の泉のほとりで手に入れたという神秘的な書物を朝廷に差し出したよ。その書物は白い布に赤い線で区切りが書かれていて、「太平青領道」と呼ばれていて、全部で100巻くらいあるんだって。
順帝の時代から建安のころまで、50から60年くらいが過ぎているよ。だから、このころには于吉はすでに100歳近くだったと考えられるよ。すごく年を取った老人だったから、礼の考え方からすれば、刑罰を加えるべきではないんだ。
又天子巡狩,問百年者,就而見之,敬齒以親愛,聖王之至教也。吉罪不及死,而暴加酷刑,是乃謬誅,非所以為美也。喜推考桓王之薨,建安五年四月四日。是時曹、袁相攻,未有勝負。案夏侯元讓與石威則書「袁紹破後也。書授孫賁以長沙,業張津以零、桂。」此為桓王於前亡,張津於後死,不得相讓,譬言津之死意矣。
それに、天子が各地を巡るときには、100歳くらいの老人がいるかを尋ねて、その人たちに会って、年齢が上であることを尊んで親しく接するのが、立派な王の大切な教えだったんだ。于吉の罪は死刑にするほどのものではなくて、それなのにひどい刑罰を加えたのは、まちがった処罰で、ほめられる行いではないよね。
虞喜(『志林』の作者)は、桓王(孫策)の死について考えてみると、建安五年(200年)四月四日と考えるよ。このとき、曹操と袁紹が戦っていて、まだ勝敗は決まっていなかったんだ。夏侯元譲(夏侯惇)が石威則に送った手紙によると、「袁紹が敗れた後、孫賁に長沙を任せて、張津には零陵と桂陽を与えよう」とあるよ。
このことから考えると、孫策が先に亡くなって、張津はその後に死んだことになるよね。二人が同時にそれぞれの地位をゆずることはできないから、(『江表伝』に書かれている)張津の死をたとえに出して于吉を責めることはできないよね。
臣松之案:太康八年,廣州大中正王範上交廣二州春秋。建安六年,張津猶為交州牧。江表傳之虛如志林所云。
裴松之が調べたところ、太康八年(287年)、広州の大中正の王範が交州と広州の春秋(歴史書)を朝廷に捧げたよ。それによると、建安六年(201年)、張津はまだ交州牧(州の長官)だったよ。『江表伝』の記述は、『志林』の言ったとおり、事実ではないところがあるらしいね。
搜神記曰:策欲渡江襲許,與吉俱行。時大旱,所在熇厲。策催諸將士使速引船,或身自早出督切,見將吏多在吉所,策因此激怒,言:「我為不如于吉邪,而先趨務之?」便使收吉。
『捜神記』によると、孫策は長江を渡って許を攻めようとして、于吉も一緒に連れて行ったよ。このとき、ひどい日照りが続いて、どこもすごく暑くて苦しかったんだ。孫策は将や兵たちに、急いで船動かすように命令したよ。自分でも早くから出て、厳しく指示を出すことがあったんだ。でも、たくさんの将が于吉のところに集まってるのを見たんだ。孫策はこれを見て怒って、こう言ったよ。
「私は于吉より劣っているの? どうしてみんな私より先にあの者のところへ行って世話をしているの?」
そして、于吉を捕らえさせたんだ。
至,呵問之曰:「天旱不雨,道塗艱澁,不時得過,故自早出,而卿不同憂戚,安坐船中作鬼物態,敗吾部伍,今當相除。」令人縛置地上暴之,使請雨,若能感天日中雨者,當原赦,不爾行誅。俄而雲氣上蒸,膚寸而合,比至日中,大雨總至,溪澗盈溢。將士喜恱,以為吉必見原,並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜,共藏其尸。天夜,忽更興雲覆之;明旦往視,不知所在。
孫策は于吉のところへ行くと、厳しく問いただしてこう言ったよ。
「ひどい日照りで雨が降らなくて、道も歩きにくくて、予定どおりに進めないんだ。だから、私は早く出ているんだよ。でも、あなたはそんな心配もしないで、船の中でのんびりして、まるで神や妖怪のようなことをして、私の部隊を乱しているんだ。今、私たちは別れるときだよ」
そして、于吉を縛って地面に置いて、日光にさらしたよ。そして、孫策は命令してこう言ったよ。
「雨を降らせてみろ。もし太陽が出ている昼間に雨を降らせることができたら、許してやるよ。できなければ、処刑する」
すると、しばらくして雲が空に広がり始めて、雲と雲が重なって厚くなっていったよ。昼になるころには、大雨が降り始め、谷や小川の水もあふれるくらいになったよ。将や兵たちは喜んで、「于吉はきっと許される」と信じて、みんなで孫策のところへ行って、于吉を助けるように願い出たよ。でも、孫策は于吉を殺したんだ。将や兵たちは悲しんで、彼の遺体をみんなで隠したよ。夜になると、突然また雲が出て、遺体の上を覆ったよ。翌朝、みんなで見に行ったけど、于吉の遺体はどこへ行ったのかわからなくなっちゃった。
案江表傳、搜神記于吉事不同,未詳孰是。
『江表伝』と『捜神記』では、于吉について書かれている内容が違っているよ。どちらが正しいのかは、はっきりわからないんだ。
まじないみたいな考えが江東では流行していたのかな?
未發,會為故吳郡太守許貢客所殺。先是,策殺貢,貢小子與客亡匿江邊。策單騎出,卒與客遇,客擊傷策。(註22)(註23)(註24)
でも、まだ行動を起こす前に、孫策はかつての呉郡太守(郡の長官)の許貢の客たちに殺されたんだ。
これより前、孫策は許貢を殺していたんだ。だから、許貢の幼い子供や客たちは、長江のほとりに逃げて隠れていたよ。孫策が一人で馬に乗って出かけたところ、偶然にその客と出会って、客たちは孫策を襲って、傷を負わせたんだ。
江表傳曰:廣陵太守陳登治射陽,登即瑀之從兄子也。策前西征,登陰復遣間使,以印綬與嚴白虎餘黨,圖為後害,以報瑀見破之辱。策歸,復討登。軍到丹徒,須待運糧。策性好獵,將步騎數出。策驅馳逐鹿,所乘馬精駿,從騎絕不能及。初,吳郡太守許貢上表於漢帝曰:「孫策驍雄,與項籍相似,宜加貴寵,召還京邑。若被詔不得不還,若放於外必作世患。」策候吏得貢表,以示策。
『江表伝』によると、広陵太守(郡の長官)の陳登は射陽を治めていたよ。陳登は、陳瑀のいとこの子だよ。
孫策が西へ軍を進めると、陳登はこっそりと間者を送って、印綬を厳白虎の残った仲間たちに渡したんだ。そして、孫策の後ろから攻撃しようとしたんだ。これは、陳瑀が孫策に破られた恥を晴らすためだよ。
孫策は戻ってくると、ふたたび陳登を討とうとしたよ。軍が丹徒まで来たところで、運んでくる食糧を待っていたんだ。
孫策は狩りが好きで、歩兵や騎兵を連れて何度も狩りに出ていたよ。孫策が鹿を追いかけて走ると、乗っていた馬はとても速くて、ついてきた騎兵たちはまったく追いつけなかったの。
前に、呉郡太守の許貢は、漢の皇帝に上表してこう言ったよ。
「孫策は勇敢で強くて、昔の項籍に似ているよ。だから、今のうちに高い地位や賞を与えて、都に呼ぶべきだよ。もし詔を受けたら、孫策は戻らなければならないよ。でも、外で自由にさせておけば、必ず後々、国にとって大きな問題を起こすだろうね」
孫策は、役人がこの許貢の上表を手に入れると、それを自分に見せるように命令したよ。
項籍は、秦の末期に活躍した武将だよ。字の項羽のほうがよく知られているね。彼は会稽で兵を挙げたんだよ。「覇王」と呼ばれたよ。
『三国志演義』第15回で、「人々は孫策を『小覇王』と呼んだ」とあるのは、ここに「項籍に似ている」とあるからかも。
策請貢相見,以責讓貢。貢辭無表,策即令武士絞殺之。貢奴客潛民間,欲為貢報讎。獵日,卒有三人即貢客也。策問:「爾等何人?」荅云:「是韓當兵,在此射鹿耳。」策曰:「當兵吾皆識之,未嘗見汝等。」因射一人,應弦而倒。餘二人怖急,便舉弓射策,中頰。後騎尋至,皆刺殺之。
孫策は許貢を呼び出して会って、許貢を責めたよ。許貢が「そんな上表は出していない」と言い張ったから、孫策は武士たちに命令して、許貢を首を絞めて殺させたんだ。
許貢に仕える人たちは、身を隠して人々の中にまぎれて、許貢のかたきを討とうとしていたよ。
ある日、孫策が狩りをしていると、3人の男がいたよ。実は、この3人こそ許貢の客たちだったんだ。孫策はこう尋ねたよ。
「お前たちは誰?」
彼らはこう答えたよ。
「韓当の兵だよ。ここで鹿を射ているだけだよ」
孫策はこう言ったよ。
「韓当の兵なら、私はみんな知っているよ。でも、あなたたちは今まで見たことがないな」
そして、孫策は一人を弓で射たよ。その矢が当たると、その男はその場に倒れたんだ。残った二人は怖くなって、焦って弓を引いて、孫策を射たよ。矢は孫策の頬に当たったんだ。その後、騎兵がすぐに駆けつけて、残りの二人を刺し殺したよ。
九州春秋曰:策聞曹公北征柳城,悉起江南之衆,自號大司馬,將北襲許,恃其勇,行不設備,故及於難。
『九州春秋』によると、孫策は、曹操が北へ軍を進めて柳城を攻めに行ったと聞いて、江南の兵を集めて自分で大司馬と名乗って、北へ進んで許を攻めようとしたよ。孫策は自分の勇気に自信があって、敵に備えることをしっかりしないまま進んだよ。だから、今回の災難にあったんだ。
孫盛異同評曰:凡此數書,各有所失。孫策雖威行江外,略有六郡,然黃祖乘其上流,陳登間其心腹,且深險彊宗未盡歸復,曹、袁虎爭,勢傾山海,策豈暇遠師汝、潁,而遷帝於吳、越哉?斯蓋庸人之所鑒見,況策達於事勢者乎?又案袁紹以建安五年至黎陽,而策以四月遇害,而志云策聞曹公與紹相拒於官渡,謬矣。伐登之言,為有證也。
孫盛の『異同評』によると、これらの書には、それぞれ間違っているところがあるんだって。孫策は、長江の外の地域で大きな力を持って、6つの郡をほぼ支配していたよ。でも、上流には黄祖がいて、陳登は孫策の内部をこっそりと乱そうとしていたんだ。それに、まだ従っていない強い一族もたくさん残っていたんだ。
さらに、曹操と袁紹が虎みたいに激しく争って、戦いの勢いが天下を大きく動かしていたよ。このような状況で、孫策がどうして遠く離れた汝南や潁川まで兵を送って、皇帝を呉や越へ移せたの? これは普通の人でも状況を考えればわかることで、ましてや孫策が世の中の状況をよく理解していた人なら、なおさらそのようなことをするはずがないよね。
それに、袁紹が建安五年(200年)に黎陽まで進んで、孫策が殺されたのは同じ年の四月だよ。『三国志』の本文では「曹操と袁紹が官渡で向かい合って戦っていると聞いた」と書かれていて、これは間違いだよね。『江表伝』の「陳登を討とうとしていた」という話については、証拠となる記録があるよ。
又江表傳說策悉識韓當軍士,疑此為詐,便射殺一人。夫三軍將士或有新附,策為大將,何能悉識?以所不識,便射殺之,非其論也,又策見殺在五年,柳城之役在十二年,九州春秋乖錯尤甚矣。
さらに、『江表伝』には、孫策は韓当の軍の兵をみんな知っていたから、三人を見て「これは偽者だ」と疑って、そのうち一人を射て殺した、と書かれているよ。でも、軍には新しく加わった将や兵もいるかもしれないし、孫策が大将だからって、どうしてすべての兵士を知っていられたの? だから、自分が知らないというだけで、その兵を射て殺すというのは、道理に合わないんだ。それに、孫策が殺されたのは建安五年(200年)で、柳城への遠征は建安十二年(207年)だよ。『九州春秋』の記述はさらにひどいね。
臣松之案:傅子亦云曹公征柳城,將襲許。記述若斯,何其踈哉!然孫盛所譏,未為悉是。黃祖始被策破,魂氣未反,且劉表君臣本無兼并之志,雖在上流,何辦規擬吳會?策之此舉,理應先圖陳登,但舉兵所在,不止登而已。于時彊宗驍帥,祖郎、嚴虎之徒,禽滅已盡,所餘山越,蓋何足慮?然則策之所規,未可謂之不暇也。
裴松之が調べたところ、『傅子』には曹操が柳城を攻めて、許を攻撃しようとした、と書かれているよ。このような記述をするなんて、すごく大まかなだね! この記述はどこまで信じられるのかな。
でも、孫盛が批判していることが、すべて正しいとは限らないよ。黄祖は孫策に敗れたばかりで、まだ立ち直っていなかったんだ。劉表とその臣下たちは、領土を統一する意志は持っていなかったんだ。黄祖が長江の上流にいたとしても、もともと呉や会稽を自分の領地にしようという考えはなかったと思うよ。たとえ長江の上流にいたとしても、どうして呉や会稽を攻め取ろうと計画できたの?
孫策がこのような行動を取ったのなら、まず陳登を攻めようとした、と考えるのが自然だよ。でも、軍を動かして攻めようとした相手は、陳登だけではなかったんだ。このとき、大きな勢力の指導者たちや勇猛な武将については、祖郎や厳白虎たちはもう退治されていたよ。残っていた山越の人たちも、それほど心配する必要はなかっただろうね。だから、孫策の計画は、「遠くへ軍を出す余裕がなかった」と決めつけられないよ。
若使策志獲從,大權在手,淮、泗之間,所在皆可都,何必畢志江外,其當遷帝於揚、越哉?案魏武紀,武帝以建安四年已出屯官渡,乃策未死之前,乆與袁紹交兵,則國志所云不為謬也。許貢客,無聞之小人,而能感識恩遇,臨義忘生,卒然奮發,有侔古烈矣。詩云:「君子有徽猷,小人與屬。」貢客其有焉。
もし孫策が自分の計画を実現して、大きな権力を手に入れていたら、淮河と泗水のあたりには、都にできる場所がどこにでもあったよ。なのに、どうして長江の外を目指して、皇帝を揚州や越へ移そうとしたのかな?
「武帝紀」を調べると、曹操は建安四年(199年)にはすでに官渡に出て陣を置いていたよ。だから、孫策が亡くなる前から、曹操は長いあいだ、袁紹と戦っていたの。だから、『三国志』に書かれていること(孫策が許を攻める計画)は間違いではないよ。
許貢の客たちは、名も知られていない身分の低い人たちだよ。でも、受けた恩を覚えていて、義のためなら自分の命を忘れて、突然奮い立って行動したよ。その姿は、古代の立派な人物たちにも並ぶといえるね。
『詩経』には「君子(立派な人)にはすぐれた計画があって、小人(つまらない人)もそれに従う」と書かれているけど、許貢の客はまさにそのようなところがあったのだろうね。
創甚,請張昭等謂曰:「中國方亂,夫以吳、越之衆,三江之固,足以觀成敗。公等善相吾弟!」呼權佩以印綬,謂曰:「舉江東之衆,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心,以保江東,我不知卿。」至夜卒,時年二十六。(註25)(註26)
傷がひどくなって、孫策は張昭たちを呼んで、こう言ったよ。
「中原は今、まさに争いが起こっているよ。私たち呉と越の人たちと、3つの大きな川に守られたこの土地があれば、天下の勝敗を見守ることができるよ。あなたたちは、私の弟(孫権)をしっかり助けてやって!」
孫策は孫権を呼んで、印綬を身につけさせて、こう言ったよ。
「江東の兵をあげて、両軍が戦う場で勝負を決めて、天下の英雄たちと力を競うことでは、あなたは私には及ばないよ。でも、すぐれた人を選んで、能力のある者を任命して、それぞれが力を尽くせるようにして江東を守ることでは、私はあなたには及ばないよ」
その夜、孫策は亡くなって、このとき26歳だったよ。
吳歷曰:策旣被創,醫言可治,當好自將護,百日勿動。策引鏡自照,謂左右曰:「面如此,尚可復建功立事乎?」椎几大奮,創皆分裂,其夜卒。
『呉歴』によると、孫策が傷を負った後、医者は「治せるけど、しっかり休んで、100日間は動いてはいけないよ」と言ったよ。孫策は鏡を取って、自分の顔を映して見て、周りの人たちにこう言ったよ。
「こんな顔で、これからまた功績をあげて、大きな仕事をできるの?」
そう言って机を強くたたいたから、傷口がすべて開いちゃって、その夜に亡くなったんだ。
搜神記曰:策旣殺于吉,每獨坐,彷彿見吉在左右,意深惡之,頗有失常。後治創方差,而引鏡自照,見吉在鏡中,顧而弗見,如是再三,因撲鏡大叫,創皆崩裂,須臾而死。
『捜神記』によると、孫策が于吉を殺した後、一人で座っていると、いつも于吉がそばにいるように見えたんだ。孫策はそれをすごく嫌って、かなり様子がおかしくなっていったんだ。
その後、傷の治療をして、傷がよくなりかけたころ、孫策は鏡を取って、自分の顔を映したよ。すると、鏡の中に于吉の姿が見えたんだ。振り返ってもそこには誰もいなかったけど、このことが何度もあったから、孫策は鏡を叩きつけて大きな声で叫んだよ。そのせいで、そのせいで傷口がすべて開いて、亡くなったんだ。
權稱尊號,追謚策曰長沙桓王,封子紹為吳侯,後改封上虞侯。紹卒,子奉嗣。孫皓時,訛言謂奉當立,誅死。
孫権が皇帝に即位すると、孫策に長沙桓王の諡を贈ったよ。それに、孫策の子の孫紹を呉侯に封じて、後に上虞侯に改めて封じたよ。
孫紹が亡くなると、子の孫奉が後を継いだんだ。でも、孫皓の時代になると、「孫奉が皇帝になる」といううわさが広まって、孫奉は処刑されたんだ。
陳寿の評
評曰:孫堅勇摯剛毅,孤微發迹,導溫戮卓,山陵杜塞,有忠壯之烈。策英氣傑濟,猛銳冠世,覽奇取異,志陵中夏。然皆輕佻果躁,隕身致敗。且割據江東,策之基兆也,而權尊崇未至,子止侯爵,於義儉矣。(註27)
評すると、孫堅は勇気があって意志が強くて、勇敢で決断力のある人だよ。低い身分から身を起こして、張温を助けて董卓を討って、皇帝の墓をふさいで守ったことには、忠誠と勇敢さを示す立派な功績があったよ。
孫策はすぐれた気力と才能だあって、勇猛さでは世の中でも抜きん出ていたよ。珍しい才能のある人物を見つけて、志は全土を支配するくらい大きなものだったの。
でも、孫堅と孫策は、どちらも軽率で、行動が速すぎるところがあって、そのため命を失って、失敗したんだ。江東を切り取って支配したことは、孫策が築いた基礎だよ。孫権が皇帝となったあとも、孫策への尊称や待遇は十分なものではなくて、子の孫紹も侯爵にとどまっているのは義に欠けるよね。
孫盛曰:孫氏兄弟皆明略絕羣。創基立事,策之由也,自臨終之日,顧命委權。夫意氣之間,猶有刎頸,況天倫之篤愛,豪達之英鑒,豈吝名號於旣往,違情本之至實哉?抑將遠思虛盈之數,而慎其名器者乎?
孫盛によると、孫氏の兄弟はみんな知恵とすぐれた計略を持っていて、世の中でも比べ物にならない才能を持っていたよ。江東の基盤を築いて、大きな仕事を始めたのは、孫策の功績だよ。そして、孫策は亡くなる直前に、弟の孫権に後を任せたんだ。
人との付き合いで生まれた友情でさえ、命をかけて助け合うほど深いものがあるよ。なのに、ましてや兄弟という最も深いつながりを持っていて、すぐれた才能と大きな器を備えた人であれば、亡くなった兄に高い称号を贈ることを惜しんで、兄弟の情に反するようなことを、どうしてするの? それとも、将来を見越して、爵位や称号をどのように与えるべきかを遠くまで考えて、あえてその称号を慎重にしたのかな?
夫正本定名,為國之大防;杜絕疑貳,消釁之良謨。是故魯隱矜義,終致羽父之禍;宋宣懷仁,卒有殤公之哀。皆心存小善,而不達經綸之圖;求譽當年,而不思貽厥之謀。可謂輕千乘之國,蹈道則未也。
そもそも、物事の正しい道筋を定めて、正しい名分をはっきりさせることは、国を守るための大切な方法だよ。疑いや対立の芽を断って、争いの原因をなくすことは、争いを防ぐためのすぐれた計略だよ。だからこそ、魯の隠公は義を大切にしていたけど、最後には羽父の災いを招いたんだ。宋の宣公は仁の心を大切にしたけど、最後には殤公が殺されるという悲しい結果になったんだ。どちらも、目の前の小さな善意だけを大切にして、国を長く治めるための大きな計画を考えていなかったんだ。その時代に人からほめられることを求めたけど、後の世代にどのような結果を残すことになるのかを考えなかったんだ。このような行いは、千乗の大きな国を軽く考えて、正しい道を歩めていなかったと言えるよ。
「千乘之國」は、『論語』「学而」から。戦車を1,000台も出せる国のことだよ。「敬事而信,節用而愛人,使民以時。」が後に続くよ。
孫氏因擾攘之際,得奮其縱橫之志,業非積德之基,邦無磐石之固,勢一則祿祚可終,情乖則禍亂塵起,安可不防微於未兆,慮難於將來?壯哉!策為首事之君,有吳開國之主;將相在列,皆其舊也,而嗣子弱劣,析薪弗荷,奉之則魯桓、田巿之難作,崇之則與夷、子馮之禍興。
孫氏は、世の中が大きく乱れていた時代に、その才能と大きな志を思う存分に発揮して勢力を築いたよ。でも、その事業は徳を積み重ねて築いたものではなくて、国には大きな危機にも揺らがないくらいの強くて頑丈な基盤がなかったんだ。人々の心が一つになっていれば、その繁栄は長く続くだろうね。でも、人々の心が離れたら、災いや争いが起こるんだ。だから、まだ問題が起こっていないうちから小さな変化を見逃さないで、将来起こるかもしれない困難に備えなければならないんだよ。
孫策は、立派で、事業を始めた君主で、呉を建国するための基礎を築いた人だよ。将軍や宰相として並んでいた人たちも、みんな孫策が前から信頼していた者たちだったよ。でも、後継者は幼くて、その役目を十分に果たせる人ではなかったんだ。薪を割った者が、その薪を背負いきれないようなものだね。もし孫紹をそのまま後継者にしていたら、魯の桓公や田巿みたいな災いが起こるかも。逆に、孫紹の地位を高くして重く扱ったら、宋の与夷(殤公)や子馮(荘公)みたいな災いが起こるかも。
是以正名定本,使貴賤殊邈,然後國無陵肆之責,後嗣罔猜忌之嫌,羣情絕異端之論,不逞杜覬覦之心;於情雖違,於事雖儉,至於括囊遠圖,永保維城,可謂為之于其未有,治之于其未亂者也。陳氏之評,其未達乎!
このように孫権が孫策の子を侯に留めて、身分の高い者と低い者との違いをはっきりさせる必要があったんだ。そうすれば、国は身分の低い者が上の者を侮って勝手なことをするという非難を受けないし、後継者も疑われたり、ねたまれたりする心配がなくなるよ。人々も異なる意見を唱えて争うことがなくなって、身のほどをわきまえない者が、身分や権力を手に入れようとする望みを抱くことも防げるよ。
このようにすれば、兄弟の情から考えると冷たく見えて、事実だけを考えても孫策への待遇が十分ではないように見えるかも。でも、将来のことを遠くまで考えて、国を長く安定させるためには、この方法が必要だったんだ。これは、まだ問題が起こっていないうちに対策を立てて、まだ国が乱れていないうちに治めるということだね。長い将来にわたって国を守るための方法としては、正しいやり方だったといえるだろうね。陳寿の評は、こうしたことを十分に理解していないのではないかな!
「呉書討逆伝」は以上だよ!


