はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書劉繇伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
劉繇、笮融、劉基 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 吳書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

劉繇
劉繇字正禮,東萊牟平人也。齊孝王少子封牟平侯,子孫家焉。繇伯父寵,為漢太尉。(註1)繇兄岱,字公山,歷位侍中,兖州刺吏。(註2)
劉繇は、字は正礼で、東萊郡牟平県の出身だよ。斉の孝王(劉将閭)の末子(劉渫?)が牟平侯に封ぜられて、その子孫が牟平に住んだよ。劉繇の伯父の劉寵は、漢の太尉になったんだって。
劉繇の兄の劉岱は、字は公山で、侍中や兗州刺史(州の長官)を歴任したよ。
續漢書曰:繇祖父本,師受經傳,博學羣書,號為通儒。舉賢良方正,為般長,卒官。寵字祖榮,受父業,以經明行脩,舉孝廉,光祿大夫察四行,除東平陵令。視事數年,以母病棄官,百姓士民攀輿拒輪,充塞道路,車不得前,乃止亭,輕服潛遁,歸脩供養。後辟大將軍府,稍遷會稽太守,正身率下,郡中大治。徵入為將作大匠。
『続漢書』によると、劉繇の祖父の劉本は、師から経書とその注釈書を学んで、広くたくさんの書を知って、通儒(学識の学者)と呼ばれていたよ。賢良方正として推薦されて、官職に就いて、在任中に亡くなったんだ。
劉寵は、字は祖栄で、父の学問を受け継いで、経典に明るくて、品行も修めて、孝廉に推挙されたよ。光禄大夫が仁、義、礼、智を審査して、東平陵県令に任命されたよ。数年間勤めた後、母が病気になったから官職を辞めたけど、民や士人が車を引き止めて、道を塞いで、進めなくなっちゃった。だから、仕方なく亭に立ち寄って、軽装でこっそりと帰って、母を看病したんだって。その後、大将軍府に招かれて、どんどん昇進して会稽太守になったよ。自身が模範となって、部下を率いて、郡をとてもよく治めたよ。その後、ふたたび呼び出されて将作大匠になったよ。
山陰縣民去治數十里有若邪中在山谷間,五六老翁年皆七八十,聞寵遷,相率共送寵,人齎百錢。寵見,勞來曰:「父老何乃自苦遠來!」皆對曰:「山谷鄙老,生未嘗至郡縣。他時吏發求不去,民閒或夜不絕狗吠,竟夕民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,吏稀至民閒,年老遭值聖化,今聞當見棄去,故勠力來送。」寵謝之,為選受一大錢,故會稽號寵為取一錢太守。其清如是。
山陰県の民で、治所から数十里離れた山谷の中にある若邪という村に住む5、6人の老人たちがいたよ。彼らはみんな70から80歳で、劉寵の転任を聞いて、一緒に劉寵を見送りに来て、それぞれが100銭を持ってきたよ。劉寵は彼らを労ってこう言ったよ。
「ご老人方、どうしてそんなに無理をして遠くから来たの!」
老人たちはこう答えたよ。
「私たちは山谷に住む田舎者で、生まれてから郡や県に行ったことがないんだ。これまで、役人が来ても逃げられなくて、夜になると犬が絶えずに吠え続けて、民は安心できなかったんだ。でも、あなたが来てからは、犬は夜に吠えなくなって、役人もほとんど民を訪れなくなったよ。年老いた私たちは、まさか素晴らしい政治に巡り会えるとは思わなかったの。今、あなたが去ると聞いて、みんなを力を合わせて見送りに来たんだ」
劉寵は彼らの厚意に感謝して、100銭のうち1枚の大銭だけを受け取ったよ。こうした清廉さから、会稽では彼を「取一銭太守」と呼ぶようになったの。彼の清廉さはこのようなものだったんだよ。
寵前後歷二郡,八居九列,四登三事。家不藏賄,無重寶器,恒菲飲食,薄衣服,弊車羸馬,號為窶陋。三去相位,輒歸本土。往來京師,常下道脫驂過,人莫知焉。寵嘗欲止亭,亭吏止之曰:「整頓傳舍,以待劉公,不可得止。」寵因過去。其廉儉皆此類也。以老病卒于家。
劉寵はこれまでに2つの郡を治めて、九卿に8回も任命されて、三公には4回もなったよ。家には財を蓄えないで、貴重な宝器も持っていなくて、いつも質素な食事をして粗末な衣服を着て、壊れそうな車や痩せた馬に乗っていたから、とても質素な人という評判だったんだ。彼は3回も宰相の職を辞めたけど、そのたびに故郷に帰ったよ。都に行く時も、いつも小道を通って、側に馬をつけないで行ったから、人々は誰も彼に気づかなかったんだ。
ある時、劉寵が亭に留まろうとしたら、亭の役人がこう言ったよ。
「公務のための宿舎を整えて、劉公を迎える準備をしているから、ここには泊まれないよ」
劉寵はそれを聞くと、そのまま去ったよ。その清廉さと倹約ぶりは一貫していたんだよ。その後、老病で、家で亡くなったんだ。
續漢書曰:繇父輿,一名方,山陽太守。岱、繇皆有雋才。英雄記稱岱孝悌仁恕,以虛己受人。
『続漢書』によると、劉繇の父の劉輿、別の名は劉方で、山陽太守だったよ。劉岱と劉繇はふたりとも優れた才能があったよ。
『英雄記』によると、劉岱は孝があって、弟への思いやり、仁愛、寛容を持っていて、自分を低くして他人を受け入れたんだって。
繇十九,從父韙為賊所劫質,繇篡取以歸,由是顯名。舉孝廉,為郎中,除下邑長。時郡守以貴戚託之,遂棄官去。州辟部濟南,濟南相中常侍子,貪穢不循,繇奏免之。平原陶丘洪薦繇,欲令舉茂才。刺史曰:「前年舉公山,柰何復舉正禮乎?」洪曰:「若明使君用公山於前,擢正禮於後,所謂御二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎!」
劉繇が19歳のとき、叔父の劉韙が賊に捕らえられて人質にされちゃったけど、劉繇は彼を奪い返して連れ帰ったから、名が広まったよ。孝廉に推挙されて、郎中となって、その後、下邑県長(県の長官)に任命されたよ。でもその時の郡守(郡の長官)が彼の高貴な親族を頼りにして劉繇を任命しようとしたから、劉繇は官職を辞めたんだ。
州に招かれて済南に呼ばれたけど、済南の相は中常侍の子で、欲深くて不正をしていたから、劉繇はその悪い行いを上奏して彼を辞めさせたよ。
平原の出身の陶丘洪は劉繇を推薦して、茂才として推挙しようとしたよ。刺史(州の長官)はこう言ったよ。
「前の年に公山(劉岱)を推挙したのに、どうしてまた正礼(劉繇)を推挙するの?」
陶丘洪はこう答えたよ。
「もしあなたが公山(劉岱)を前に使って、次に正礼(劉繇)を後に取り立てるなら、それはまるで2匹の龍に乗って、千里を駆る駿馬を走らせるようなものだよ!」
會辟司空掾,除侍御史,不就。避亂淮浦,詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南,繇畏憚,不敢之州。欲南渡江,吳景、孫賁迎置曲阿。術圖為僭逆,攻沒諸郡縣。繇遣樊能、張英屯江邊以拒之。以景、賁術所授用,乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史,與景、賁并力攻英、能等,歲餘不下。
司空の掾(属官)として招かれて、侍御史に任命されたけど、受けなかったんだ。乱を避けて淮浦に行ったけど、詔書によって揚州刺史(州の長官)に任命されたよ。その時、袁術が淮南にいたから、劉繇は恐れて揚州に行けなかったの。南へ長江を渡ろうとしたけど、呉景と孫賁が迎え撃ったから、曲阿に留まったよ。
袁術は朝廷に逆らおうとして、たくさんの郡や県を攻め落としたよ。劉繇は樊能と張英を長江のほとりに駐屯させてこれに対抗したよ。呉景と孫賁は袁術に従っていたから、劉繇は彼らを追い出したよ。そして、袁術は勝手に揚州刺史を置いて、呉景と孫賁と一緒に力を合わせて張英や樊能を攻撃したけど、1年以上も陥落しなかったよ。
漢命加繇為牧,振武將軍,衆數萬人,孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,(註3)遂泝江南保豫章,駐彭澤。笮融先至,(註4)殺太守朱皓,(註5)入居郡中。繇進討融,為融所破,更復招合屬縣,攻破融。融敗走入山,為民所殺,繇尋病卒,時年四十二。
漢の朝廷は劉繇を揚州牧、振武将軍に任命して、軍勢は数万人にもなったよ。でも、孫策が東へ渡って、張英や樊能たちを破っちゃった。劉繇は丹徒に逃れて、さらに長江を遡って南の豫章を守って、彭沢に駐屯したんだ。
笮融は先に着いて、太守(郡の長官)の朱皓を殺して郡の中に住んだよ。劉繇は進軍して笮融を攻めたけど、逆に破られたんだ。それでも郡に属する県をふたたび味方につけて、笮融を攻めて破ったよ。笮融は敗れて山に逃げ込んで、民に殺されたんだって。
劉繇はその後病にかかって亡くなったんだ。この時42歳だったよ。
袁宏漢紀曰:劉繇將奔會稽,許子將曰:「會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。不如豫章,北連豫壤,西接荊州。若收合吏民,遣使貢獻,與曹兖州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能乆也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。
袁宏の『漢紀』によると、劉繇は会稽へ逃れようとしたけど、許子将(許劭)はこう言ったよ。
「会稽は豊かで栄えていて、孫策が欲しがる場所だよ。でも、海の果てにあって孤立しているから、行くべきではないよ。それよりも豫章が良いよ。豫章は北は豫州の境に接していて、西は荊州に接しているよ。もし役人や民を集めて、使者に貢ぎ物を送らせて、曹兗州(曹操)と交流をすれば、たとえ袁公路(袁術)がその間にいても、彼は残酷な人間だから長くは持たないだろうね。あなたは王朝の命令を受けているのだから、孟徳(曹操)や景升(劉表)が必ず助けてくれるよ」
劉繇はこれに従ったよ。
笮音壯力反。
「笮」の発音は、「壯」の子音に「力」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
獻帝春秋曰:是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧命名義者也。朱文明善推誠以信人,宜使密防之。」融到,果詐殺皓,代領郡事。
『献帝春秋』によると、この年、劉繇は彭沢に駐屯して、さらに笮融に命令して朱皓を助けさせて、劉表によって任命された太守の諸葛玄を討たせたよ。許子将(許劭)は劉繇にこう言ったよ。
「笮融は出軍すると、命や名を気にしない人だよ。朱皓は誠実さで人を信じさせるのが上手だから、こっそりと警戒させるべきだね」
笮融が着くと、朱皓を殺して、郡の事務を代わりに引き受けたんだ。
笮融
笮融者,丹楊人,初聚衆數百,往依徐州牧陶謙。謙使督廣陵、彭城運漕,遂放縱擅殺,坐斷三郡委輸以自入。乃大起浮圖祠,以銅為人,黃金塗身,衣以錦采,垂銅槃九重,下為重樓閣道,可容三千餘人,悉課讀佛經,令界內及旁郡人有好佛者聽受道,復其他役以招致之,由此遠近前後至者五千餘人戶。每浴佛,多設酒飯,布席於路,經數十里,民人來觀及就食且萬人,費以巨億計。
笮融は、丹楊の出身で、初めは数百人を集めて、徐州牧の陶謙を頼ったよ。陶謙は笮融に広陵と彭城の運河での輸送を監督させたけど、笮融は身勝手にふるまって、勝手に人を殺して、3つの郡から供給される物資を自分のために奪ったんだ。
さらに、笮融は大きな仏教寺院を作って、銅で人の像を作って、黄金で身を塗って、錦や色とりどりの衣を着せたよ。寺院には銅の皿を九重に垂らして、下には何重もの楼閣や大きな道を作って、3,000人以上が入れるようにしたんだ。そして、人々に仏経を読ませて、領内や周辺の郡にいる仏教を好む人が学べるようにしたよ。仏教を好む者たちを優遇して他の労役を免除したから、遠くからも近くからもどんどん人々が集まって、5,000戸以上が彼のもとに集まったんだ。毎年仏を沐浴させる儀式のために大量の酒や食事を準備して、道の両側に数十里にわたって宴席を設けたよ。民がこれを見に来て、食事を求めて集まって、その数1万人近くにもなって、費用はとても大きくなったんだ。
まさかの仏教徒?
曹公攻陶謙,徐土搔動,融將男女萬口,馬三千匹,走廣陵,廣陵太守趙昱待以賔禮。先是,彭城相薛禮為陶謙所偪,屯秣陵。融利廣陵之衆,因酒酣殺昱,放兵大略,因載而去。過殺禮,然後殺皓。
その後、曹操が陶謙を攻撃すると、徐州は混乱したんだ。笮融は男女1万人以上、馬3,000匹を連れて広陵に逃げたよ。広陵太守の趙昱は彼を客として迎えたよ。
これより前に、彭城の相の薛礼は陶謙に迫害されて、秣陵に駐屯していたよ。笮融は広陵の民を利用しようとして、趙昱を酒に酔ったところで殺して、兵を放って略奪をして財貨を奪って去ったんだ。途中で薛礼を殺して、その後朱皓を殺したんだ。
後策西伐江夏,還過豫章,收載繇喪,善遇其家。王朗遺策書曰:「劉正禮昔初臨州,未能自達,實賴尊門為之先後,用能濟江成治,有所處定。踐境之禮,感分結意,情在終始。後以袁氏之嫌,稍更乖剌。更以同盟,還為讎敵,原其本心,實非所樂。康寧之後,常願渝平更成,復踐宿好。一爾分離,款意不昭,奄然殂隕,可為傷恨!知敦以厲薄,德以報怨,收骨育孤,哀亡愍存,捐旣往之猜,保六尺之託,誠深恩重分,美名厚實也。昔魯人雖有齊怨,不廢喪紀,春秋善之,謂之得禮,誠良史之所宜藉,鄉校之所歎聞。正禮元子,致有志操,想必有以殊異。威盛刑行,施之以恩,不亦優哉!」
その後、孫策が西へ江夏を攻めて、帰りに豫章を通って劉繇の喪を収めて、その家族を良くもてなしたよ。王朗が孫策に手紙を送ってこう言ったよ。
「劉正礼(劉繇)が昔、州に赴くと、自分自身の力では成し遂げられなくて、あなたの家に支えられたおかげで、長江を渡って政務を成功させて、治世を安定できたよ。そのときの儀礼を踏まえて、心を通わせて、信義を終始貫こうと努めてきたよ。でも、後に袁氏を嫌って、どんどん関係が悪化していったんだ。さらに同盟を結んだはずなのに、敵対することになって、本意ではない事態になっちゃった。
平穏を取り戻した後、昔のわだかまりを解いて、ふたたび友好的な関係を築きたいといつも願っていたよ。でも、一度離れて、その心情を明らかにできなくて、突然この世を去ったのはすごく悲しくて残念なんだ。あなたが徳をもって怨みに報いて、劉繇の遺骨を収めて、その子を育てて死者を悼んで、生者を憐れむことは、疑念を捨てて、孤児を保護する深い恩義で、大きな美徳だね。昔、魯の人はたとえ斉との怨みがあっても、喪に服する礼を欠かさないで、『春秋』もそれをほめたたえて、礼に適うとしたよ。これはまさに優秀な史官(記録官)が記すべきことで、郷里の人たちもこれを聞いて感心するよ。
正礼(劉繇)の長子は、高い志があってしっかりしていて、きっと素晴らしい見識を持っているはずだよ。あなたの威勢と刑罰が行き届いて、恩を施すことは、なんと素晴らしいことなの!」
劉基
繇長子基,字敬輿,年十四,居繇喪盡禮,故吏餽餉,皆無所受。(註6)姿容美好,孫權愛敬之。權為驃騎將軍,辟東曹掾,拜輔義校尉、建忠中郎。權為吳王,遷基大農。
劉繇の長子の劉基は、字は敬輿で、14歳の時に劉繇の喪に服して礼を尽くしたよ。かつての役人からの贈り物もまったく受け取らなかったんだ。容姿も美しくて、孫権は彼を敬ったんだって。
孫権が驃騎将軍になると、劉基を東曹掾にして、輔義校尉、建忠中郎に任命したよ。孫権が呉王になると、劉基は大農に昇進したよ。
『三国志』の貴重なイケメンエピソード。
吳書曰:基遭多難,嬰丁困苦,潛處味道,不以為戚。與羣弟居,常夜卧早起,妻妾希見其面。諸弟敬憚,事之猶父。不妄交游,門無雜賔。
『呉書』によると、劉基はたくさんの困難に遭って、苦しみの中で生きながら、こっそり学問を修めて、静かにその道を楽しんで、苦しみを嘆かなかったんだって。弟たちと一緒に住んで、いつも夜遅くまで起きて朝早くに起きていたよ。妻や側室は彼の顔をほとんど見なかったんだって。弟たちは彼を父のように敬っていたんだ。それに、無闇に人と交流を拡げないで、家には身元のわからない客は来なかったんだって。
權嘗宴飲,騎都尉虞翻醉酒犯忤,權欲殺之,威怒甚盛,由基諫爭,翻以得免。權大暑時,嘗於舩中宴飲,於船樓上值雷雨,權以蓋自覆,又命覆基,餘人不得也。其見待如此。徙郎中令。權稱尊號,改為光祿勳,分平尚書事。年四十九卒。後權為子霸納基女,賜第一區,四時寵賜,與全、張比。基二弟,鑠、尚,皆騎都尉。
孫権が宴会を開くと、騎都尉の虞翻が酒に酔って無礼なことをしちゃった。孫権はとても怒って虞翻を殺そうとしたけど、劉基が諫めたから、虞翻は助かったよ。
大暑の時期に孫権が船で宴会を開いて、船楼の上で雷雨に遭ったんだ。孫権は自ら傘をかぶって、さらに劉基にも傘をかぶせたけど、他の者には許さなかったんだって。このように劉基は特別な扱いを受けていたんだって。
その後、劉基は郎中令に転任して、孫権が皇帝になると、彼は光禄勲になって、尚書の政務を分担したよ。49歳で亡くなったんだ。
その後、孫権は子の孫覇に劉基の娘を嫁がせて、第一級の家を授けて、四季を通じて大切にされて贈り物を受けたり、全氏や張氏と同じくらいの待遇を得たよ。劉基の2人の弟の劉鑠と劉尚は、ふたりとも騎都尉になったよ。
陳寿の評価
「呉書士燮伝」に併せて記載したよ。
「呉書劉繇伝」は以上だよ!