はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書士燮伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
士燮 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 吳書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

士燮の若い頃
士燮字威彥,蒼梧廣信人也。其先本魯國汶陽人,至王莽之亂,避地交州。六世至燮父賜,桓帝時為日南太守。燮少游學京師,事潁川劉子奇,治左氏春秋。察孝廉,補尚書郎,公事免官。父賜喪闋後,舉茂才,除巫令,遷交阯太守。
士燮は、字は威彦で、蒼梧郡広信県の出身だよ。先祖はもともと魯国汶陽県の出身で、王莽の乱のときに交州に避難したよ。6世代目にあたる士燮の父の士賜は、桓帝の時代(147~167年)に日南太守(郡の長官)になったよ。
士燮は若い頃、都に行って勉強して、潁川の出身の劉子奇(劉陶)のもとで『春秋左氏伝』を学んだよ。孝廉として推薦されて、尚書郎に任命されたけど、公務で辞めさせられたんだ。父の士賜が亡くなった後、茂才に推挙されて、巫県令(県の長官)に任命されて、その後、交阯太守に昇進したよ。
士燮の弟
弟壹,初為郡督郵。刺史丁宮徵還京都,壹侍送勤恪,宮感之,臨別謂曰:「刺史若待罪三事,當相辟也。」後宮為司徒,辟壹。比至,宮已免,黃琬代為司徒,甚禮遇壹。董卓作亂,壹亡歸鄉里。(註1)
弟の士壱は、最初は郡の督郵(監察官)になったよ。交州刺史(州の長官)の丁宮が都に呼ばれると、士壱は熱心に見送って、丁宮はその誠実さに感動したんだって。別れの時に丁宮は士壱にこう言ったよ。
「もし私が三公になったら、必ずあなたを招くね」
その後、丁宮が司徒になると、士壱を推薦したよ。士壱が着く頃には、丁宮はすでに辞めさせられて、黄琬が代わりに司徒になっていて、士壱をとても大切に扱ったよ。でも、董卓が乱を起こすと、士壱は故郷に逃げ帰ったの。
吳書曰:琬與卓相害,而壹盡心於琬,甚有聲稱。卓惡之,乃署教曰:「司徒掾士壹,不得除用。」故歷年不遷。會卓入關,壹乃亡歸。
『呉書』によると、黄琬と董卓はお互いに敵対していて、士壱は黄琬に全力で仕えたから、とても評判が良かったの。董卓はそれを嫌って、「司徒の掾の士壱は任命してはならない」という命令を出したよ。だから、士壱は長い間昇進できなかったんだ。董卓が関中に入ると、士壱は故郷に逃げ帰ったよ。
交州刺史朱符為夷賊所殺,州郡擾亂。燮乃表壹領合浦太守,次弟徐聞令䵋領九真太守,(註2)䵋弟武,領南海太守。
交州刺史(州の長官)の朱符は異民族に殺されちゃって、州や郡が混乱したんだ。そこで士燮は、弟の士壱を合浦太守(郡の長官)に、次弟の士䵋を九真太守に、さらに士䵋の弟の士武を南海太守に任命するように上表したよ。
䵋音于鄙反,見字林。
「䵋」の発音は「于」の子音に「鄙」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。『字林』を見てね。
交州をよく治める
燮體器寬厚,謙虛下士,中國士人往依避難者以百數。耽玩春秋,為之注解。陳國袁徽與尚書令荀彧書曰:「交阯士府君旣學問優博,又達於從政,處大亂之中,保全一郡,二十餘年疆埸無事,民不失業,羈旅之徒,皆蒙其慶,雖竇融保河西,曷以加之?官事小闋,輒玩習書傳,春秋左氏傳尤簡練精微,吾數以咨問傳中諸疑,皆有師說,意思甚密。又尚書兼通古今,大義詳備。聞京師古今之學是非忿爭,今欲條左氏、尚書長義上之。」其見稱如此。
士燮は、器量が広くて厚くて、謙虚で士人を尊敬していたよ。難を逃れるために頼ってくる中原からの士人たちが数百人にもなったの。士燮は『春秋』を研究して、注釈をつけたんだって。
陳国の出身の袁徽は、尚書令の荀彧に手紙を送ってこう言ったよ。
「交阯の士府君(士燮)は学問で深く広い知識を持っていて、また政治にも詳しくて、大きな混乱の中でも1つの郡を守って、20年以上も境に問題が起こらなくて、民は職を失わないで、流れ者も彼の恩恵を受けているの。かつて竇融が河西を守ったことと比べても、どこが劣ってるの? 公務が少し空くと、彼はすぐに書や伝を研究するんだ。特に『春秋左氏伝』には詳しくて、その内容は簡潔だけどとても深いんだ。私は何度もその中の疑問について彼に相談したけど、彼はいつも明確な見解を示してくれて、その理解はとても深いものだったの。それに、彼は『書経』にも詳しくて、古今の道理を併せ持っていて、根本の義は細かく備わっていたよ。都では、古今の学者たちの派閥が、学説の是非をめぐって争っていると聞くけど、私は今、『春秋左氏伝』と『書経』の要点をまとめて朝廷に上奏したいと考えているよ」
このように、士燮はとても高く評価されていたんだよ。
燮兄弟並為列郡,雄長一州,偏在萬里,威尊無上。出入鳴鍾磬,備具威儀,笳簫鼓吹,車騎滿道,胡人夾轂焚燒香者常有數十。妻妾乘輜軿,子弟從兵騎,當時貴重,震服百蠻,尉他不足踰也。(註3)武先病沒。
士燮と彼の兄弟たちはみんな郡を治めて、1つの州を治めていたよ。彼らの勢力ははるか遠くまで及んで、その威信は最も高かったの。出入りする時には鐘や磬を鳴らして、礼儀を整えて、笳や簫、鼓などの楽器が演奏されて、車や騎馬が道にあふれていたよ。士燮の車の周りに集まって香を焚く胡人はいつも数十人いたよ。
妻や側室は輜軿(幕の付いた馬車)に乗って、子弟たちは兵や騎馬に従っていたよ。当時、彼の地位はとても高くて、南の異民族を震えさせたのは、尉他にたとえても足りないくらいだったの。でも、弟の士武は先に病気で亡くなったんだ。
葛洪神仙傳曰:燮甞病死,已三日,仙人董奉以一丸藥與服,以水含之,捧其頭,搖捎之,食頃,即開目動手,顏色漸復,半日能起坐,四日復能語,遂復常。奉字昌異,侯官人也。
葛洪の『神仙伝』によると、士燮は昔に病気で亡くなってから、すでに3日が経ったところに、仙人の董奉が現れて、1粒の薬を与えて、水と一緒に口に含ませて、士燮の頭を支えて揺り動かしたんだ。すると、しばらくして士燮は目を開けて手を動かして、顔色もどんどん戻り始めたの。半日で座れるようになって、4日後にはふたたび話せるようになって、元どおりに回復したよ。
董奉は、字は昌異で、侯官の出身だよ。
交阯太守として
朱符死後,漢遣張津為交州刺史,津後又為其將區景所殺,而荊州牧劉表遣零陵賴恭代津。是時蒼梧太守史璜死,表又遣吳巨代之,與恭俱至。漢聞張津死,賜燮璽書曰:「交州絕域,南帶江海,上恩不宣,下義壅隔,知逆賊劉表又遣賴恭闚看南土,今以燮為綏南中郎將,董督七郡,領交阯太守如故。」後燮遣吏張旻奉貢詣京都,是時天下喪亂,道路斷絕,而燮不廢貢職,特復下詔拜安遠將軍,封龍度亭侯。後巨與恭相失,舉兵逐恭,恭走還零陵。
朱符が亡くなった後、漢の朝廷は張津を交州刺史(州の長官)として送ったけど、張津も後にその将の区景に殺されちゃった。その後、荊州牧の劉表が零陵の出身の賴恭を送って張津の後任としたよ。この時、蒼梧太守(郡の長官)の史璜が亡くなったから、劉表はさらに呉巨を送って史璜から代わらせて、賴恭と一緒に行かせたよ。
漢の朝廷は張津の死を聞いて、士燮に璽書を授けてこう言ったよ。
「交州ははるか遠く離れた地にあって、南は広い川と海に面しているから、朝廷の恩義は十分に行き渡らなくて、下は義も隔てられて通じにくいんだ。今、反逆者の劉表が賴恭を送って南の地を様子を探らせていると知ったよ。今、士燮を綏南中郎将に任命して、7つの郡をまとめさせて、交阯太守を前のまま兼任させるよ」
後燮遣吏張旻奉貢詣京都,是時天下喪亂,道路斷絕,而燮不廢貢職,特復下詔拜安遠將軍,封龍度亭侯。後巨與恭相失,舉兵逐恭,恭走還零陵。
その後、士燮は役人の張旻に貢ぎ物を都に届けさせたよ。この時、天下は乱れていて、道が断たれていたけど、士燮は貢ぎ物を欠かないで贈ったんだって。その功績によって、特別にふたたび詔を受けて、安遠将軍に任命されて、龍度亭侯に封ぜられたよ。
その後、呉巨と賴恭は仲が悪くなっちゃって、呉巨が兵を挙げて賴恭を追い出して、賴恭は零陵へ逃げ戻ったんだ。
孫権との交流
建安十五年,孫權遣步隲為交州刺史。隲到,燮率兄弟奉承節度。而吳巨懷異心,隲斬之。權加燮為左將軍。建安末年,燮遣子廞入質,權以為武昌太守,燮、壹諸子在南者,皆拜中郎將。燮又誘導益州豪姓雍闓等,率郡人民使遙東附,權益嘉之,遷衞將軍,封龍編侯,弟壹偏將軍,都鄉侯。
建安十五年(210年)、孫権は歩隲を交州刺史(州の長官)として送ったよ。歩隲が着くと、士燮は兄弟たちと一緒に命令に従ったよ。でも、呉巨は反逆の心を抱いていたから、歩隲は彼を討ち取ったよ。その後、孫権は士燮を左将軍に任命したよ。
建安末年(220年)、士燮は子の士廞を孫権のもとに人質として送って、士廞は武昌太守(郡の長官)に任命されたよ。士燮や士壱の子供たちは南に留まって、中郎将に任命されたよ。さらに、士燮は益州の豪族の雍闓たちを誘って、彼らとその郡の民を率いて孫権に従わせるように促したよ。孫権はこれに喜んで、士燮を衛将軍に昇進させて、龍編侯に封じて、弟の士壱は偏将軍にして、都郷侯に封じたよ。
燮每遣使詣權,致雜香細葛,輒以千數,明珠、大貝、流離、翡翠、瑇瑁、犀、象之珍,奇物異果,蕉、邪、龍眼之屬,無歲不至。壹時貢馬凡數百匹。權輒為書,厚加寵賜,以荅慰之。燮在郡四十餘歲,黃武五年,年九十卒。
士燮は使者を孫権のもとに送って、いつも香料や細葛を毎回1,000個くらい献上したよ。それに、明珠、大貝、流離(瑠璃?)、翡翠、瑇瑁、犀、象などの珍しい品々や、珍しい果物の、蕉、邪、龍眼などを欠かさないで送ったんだよ。それに、士壱はそのとき、馬を数百匹も献上したよ。孫権はそのたびに手紙を送って、厚い賞を与えて彼らをねぎらったよ。
士燮は郡に40年以上もいて、黄武五年(226年)、90歳で亡くなったんだ。
めっちゃ長生き!
孫権による討伐
權以交阯縣遠,乃分合浦以北為廣州,呂岱為刺史;交阯以南為交州,戴良為刺史。又遣陳時代燮為交阯太守。岱留南海,良與時俱前行到合浦,而燮子徽自署交阯太守,發宗兵拒良。良留合浦。交阯桓鄰,燮舉吏也,叩頭諫徽使迎良,徽怒,笞殺鄰。鄰兄治子發又合宗兵擊徽,徽閉門城守,治等攻之數月不能下,乃約和親,各罷兵還。
孫権は交阯県が遠いと考えて、合浦より北を分けて広州として、呂岱を広州刺史(州の長官)に任命したよ。交阯より南を交州として、戴良を交州刺史に任命したよ。そして、陳時を送って士燮の後任として交阯太守(郡の長官)にしたよ。
呂岱は南海に留まって、戴良は陳時と一緒に合浦に進んだよ。一方、士燮の子の士徽は自ら交阯太守を名乗って、勢力の兵を動員して戴良に対抗したんだ。戴良は合浦に留まったよ。
交阯の出身の桓鄰は、士燮が推挙した役人で、士徽に頭を下げて戴良を迎えるように諫めたけど、士徽は怒って、桓鄰を拷問して殺したんだ。桓鄰の兄の桓治と彼の子の桓発は兵を集めて士徽を攻めたよ。士徽は城門を閉じて守って、桓治たちは数ヶ月間攻撃したけど落とせなかったんだ。そこで和睦を約束して、どちらも兵を引いたよ。
而呂岱被詔誅徽,自廣州將兵晝夜馳入,過合浦,與良俱前。壹子中郎將匡與岱有舊,岱署匡師友從事,先移書交阯,告喻禍福,又遣匡見徽,說令服罪,雖失郡守,保無他憂。岱尋匡後至,徽兄祗,弟幹、頌等六人肉袒奉迎。岱謝令復服,前至郡下。明旦早施帳幔,請徽兄弟以次入,賔客滿坐。岱起,擁節讀詔書,數徵罪過,左右因反縛以出,即皆伏誅,傳首詣武昌。(註4)
呂岱は詔を受けて士徽を討伐して、広州から兵を率いて昼も夜も急いで進軍して、合浦を通り過ぎて戴良と一緒に進んだよ。士壱の子で中郎将の士匡は呂岱と昔から知る間柄だから、呂岱は士匡を師友従事に任命して、まず交阯に手紙を送って、戦えばどうなるか、仲良くすればどうなるかを伝えたよ。そして士匡を送って士徽に会わせて、「罪を認めれば太守(郡の長官)の地位を失うだけで他の心配はないよ」と説得させたの。
呂岱は士匡の後に着いて、士徽の兄の士祗、弟の士幹、士頌たち6人が服を脱いで迎えたんだ。呂岱は彼らを許して、服を着せて、郡に着いたよ。翌朝早く、帳と幕を立てて、士徽の兄弟を順に招き入れて、客が席を満たしたよ。呂岱は立ち上がって、節を持って詔書を読み上げて、士徽の罪を数えたよ。その後、周りの人たちが士徽たちを縛り上げて連れ出して、みんな処刑されて、首は武昌に送られたよ。
孫盛曰:夫柔遠能邇,莫善於信;保大定功,莫善於義。故齊桓創基,德彰於柯會;晉文始伯,義顯於伐原。故能九合一匡,世主夏盟,令問長世,貽範百王。呂岱師友士匡,使通信誓,徽兄弟肉袒,推心委命,岱因滅之,以要功利,君子是以知孫權之不能遠略,而呂氏之祚不延者也。
孫盛によると、遠いところを従わせて、近いところを安定させるためには、信に勝るものはないよ。大きな業績を守って、成功を確定させるためには、義に勝るものはないよ。だからこそ、斉の桓公は基盤を築いて、その徳は柯の会盟ではっきりと現れたんだよ。晋の文公は覇業を始めて、その義は原を討伐して明らかに示されたよね。その結果、彼らは天下をひとつにして、天下の盟主となって、その名声は長く後の世に伝わって、模範となったね。
呂岱は士匡を師友として、信をもって士徽兄弟に伝えたよ。士徽の兄弟は服を脱いで降伏して、心を開いて命を委ねたよ。でも、呂岱はそれを利用して彼らを滅ぼして、功績と利益を求めたんだ。これによって、君子は孫権が大きな策略を持たないこと、そして呂氏の繁栄が長く続かないことがわかるね。
壹、䵋、匡後出,權原其罪,及燮質子廞,皆免為庶人。數歲,壹、䵋坐法誅。廞病卒,無子,妻寡居,詔在所月給俸米,賜錢四十萬。
士壱、士䵋、士匡は遅れて出てきたけど、孫権は彼らの罪を許して、人質で士燮の子の士廞も含めて、みんな庶民とされたよ。数年後、士壱と士䵋は法に触れて処刑されたんだ。士廞は病気で亡くなって、子供がいなかったから、妻は未亡人として暮らしたんだって。詔によって、彼女には毎月の俸禄として米が支給されて、さらに銭40万が与えられたよ。
陳寿の評価
評曰:劉繇藻厲名行,好尚臧否,至於擾攘之時,據萬里之土,非其長也。太史慈信義篤烈,有古人之分。士燮作守南越,優游終世,至子不慎,自貽凶咎,蓋庸才玩富貴而恃阻險,使之然也。
評すると、劉繇は評判が良くて、名声も高くて、物事の善悪を論じるのが好きだったんだけど、混乱の時代に広い領土を支配するのは向いてなかったんだよね。
太史慈は信義に厚くて、昔の偉人みたいに高潔な人だったの。
士燮は南越の守るためにその地位を受けて、平穏な一生を過ごしたけど、その子供たちは慎重さが足りなくて、自ら災いを招いちゃったんだ。これは、平凡な才能なのに豊かで高い身分を楽しんで、地形の険しさに頼りすぎた結果だよね。
「呉書士燮伝」は以上だよ!
どうして呉書の君主たちの次に、劉繇さん、太史慈さん、士燮さんの伝を置いたのかな? 呉の成立した初期やその周辺地域の歴史を説明するときに、当時の江東・江南の状況を説明するためかな? 孫策さんや孫権さんが統治する前、劉繇さんや士燮さんは呉の地に大きな基盤を持っていて、太史慈さんも曹操さんがスカウトするくらい有名な英雄のひとり。そんな彼らを孫策さんや孫権さんは配下にして、呉の地を治める正統性を得た、とか?