はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書董卓伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
董卓 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。この記事は、董卓が殺されるまでだよ。
- 正史『三国志』「魏書董卓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 1 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書董卓伝」をゆるゆる翻訳するよ! その 2
出典
三國志 : 魏書六 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

董卓は羌族と仲良し
董卓字仲穎,隴西臨洮人也。(註1)
董卓は、字は仲穎だよ。隴西郡臨洮県の出身だよ。
英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉。有三子:長子擢,字孟高,早卒;次即卓;卓弟旻字叔穎。
『英雄記』によると、董卓の父は董君雅で、低い官職だったけど潁川の綸氏の尉になったよ。彼には3人の子がいたよ。長子の董擢は、字は孟高で、早くに亡くなったんだ。次子が董卓だよ。董卓の弟は董旻で、字は叔穎だよ。
少好俠,甞游羌中,盡與諸豪帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與俱還,殺耕牛與相宴樂。諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓。(註2)
若い頃、義侠心にあふれた行動をしていて、羌族の地を旅して、そこの有力者たちと友好関係を結んだよ。その後、野に戻って畑を耕していたけど、羌族の有力者たちが彼の元を訪れると、董卓は彼らと一緒に帰って、耕すための牛を使って宴会を開いたよ。有力者たちはその心意気に感動して、帰った後、家畜を集めて1,000頭以上を董卓に贈ったよ。
吳書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊。胡甞出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,斬獲千計。并州刺史段熲薦卓公府,司徒袁隗辟為掾。
『呉書』によると、郡が董卓を役人として招いて、盗賊を監視させたよ。でも、胡族が出てきて略奪をして、たくさんの民を捕らえちゃった。涼州刺史の成就が董卓を従事として招いて、兵と騎兵を率いて討伐させて、大勝利して、討ち取ったり捕らえた者は1,000人になったよ。并州刺史の段熲が董卓を公府に推薦して、司徒の袁隗が掾(属官)として招いたよ。
漢桓帝末,以六郡良家子為羽林郎。卓有才武,旅力少比,雙帶兩鞬,左右馳射。為軍司馬,從中郎將張奐征并州有功,拜郎中,賜縑九千匹,卓悉以分與吏士。遷廣武令,蜀郡北部都尉,西域戊己校尉,免。徵拜并州刺史、河東太守,(註3)遷中郎將,討黃巾,軍敗抵罪。
漢の桓帝の時代の終わり頃(167年頃)、6つの郡の良家の子が羽林郎(帝の近衛騎兵)に任命されたよ。
董卓は才能と武勇に優れていて、力自慢では少しも劣らなかったの。彼は2つの弓袋を持って、馬の上から左右に射ることができたんだって。軍の司馬になって、中郎将の張奐に従って并州を征討して功績をあげて、郎中に任命されて、絹9,000匹を授かったんだ。董卓はこの絹をすべて役人や兵に分け与えたよ。
その後、広武県令や蜀郡北部都尉、西域戊己校尉に任命されては、やめさせられたんだ。ふたたび朝廷に呼ばれて并州刺史や河東太守に任命されて、中郎将に昇進したけど、黄巾の乱を討伐する時に軍が敗れて、その責任を問われたんだ。
英雄記曰:卓數討羌、胡,前後百餘戰。
『英雄記』によると、董卓は羌族や胡族と100回以上も戦ったよ。
韓遂等起涼州,復為中郎將,西拒遂。於望垣硤北為羌、胡數萬人所圍,糧食乏絕。卓偽欲捕魚,堰其還道當所渡水為池,使水渟滿數十里,默從堰下過其軍而決堰。比羌、胡聞知追逐,水已深,不得渡。時六軍上隴西,五軍敗績,卓獨全衆而還,屯住扶風。拜前將軍,封斄鄉侯,徵為并州牧。(註4)
韓遂たちが涼州で反乱を起こすと、董卓はふたたび中郎将に任命されて、西へ向かって韓遂を防いだよ。でも、望垣硤の北で羌族と胡族の数万人に囲まれて、食糧が尽きちゃった。董卓は魚を捕るふりをして、川をせき止めて、その水を貯めて池にしたよ。水が数十里にわたって満ちると、こっそりとその下流を通り抜けて、軍を越えた後でせきを切ったよ。羌族と胡族は気づいて追ってきたけど水が深くなっていて、渡れなかったの。
このとき、6つの軍は隴西に向かって、5つの軍は敗れたけど、董卓だけは全軍を無事に連れ戻して、扶風に駐屯したよ。董卓は前将軍に任命されて、斄郷侯に封ぜられて、朝廷に呼ばれて并州牧になったよ。
靈帝紀曰:中平五年,徵卓為少府,勑以營吏士屬左將軍皇甫嵩,詣行在所。卓上言:「涼州擾亂,鯨鯢未滅,此臣奮發效命之秋。吏士踊躍,戀恩念報,各遮臣車,辭聲懇惻,未得即路也。輙且行前將軍事,盡心慰卹,効力行陣。」
『霊帝紀』によると、中平五年(188年)、董卓は朝廷に呼ばれて少府に任命されて、命令を受けて役人と兵をまとめて左将軍の皇甫嵩に属させて、行在所(帝のいる場所)に行ったよ。でも、董卓は上奏してこう言ったよ。
「涼州はまだ乱れていて、敵もまだ滅んでいないんだ。今こそ私が奮い立って命を賭して尽くすべき時だよ。役人や兵たちは喜んで、恩を忘れないで報いたいと思っているよ。彼らはみんな、私の車を遮って、別れを惜しんで涙ながらに別れを伝えて来て、すぐに出発できなかったんだ。私はしばらく前将軍の仕事をして、心を尽くして兵を慰めて、戦陣に力を尽くすね」
六年,以卓為并州牧,又勑以吏兵屬皇甫嵩。卓復上言:「臣掌戎十年,士卒大小相狎彌乆,戀臣畜養之恩,樂為國家奮一旦之命,乞將之州,效力邊陲。」卓再違詔勑,會為何進所召。
中平六年(189年)、董卓は并州牧に任命されて、ふたたび役人と兵を皇甫嵩に属させるよう命令されたんだ。董卓はふたたび上奏してこういったよ。
「私は10年にわたって軍を率いてきて、兵たちは長く私と親しんでいるよ。彼らは私の恩を感じて、国家のために命を投げ打つことを喜びとしているんだ。どうか私に彼らを連れて并州に赴かせて、辺境で力を尽くさせてほしいんだ」
董卓はまた詔に従わなかったけど、その後、何進に呼び出されたよ。
権力を握る
靈帝崩,少帝即位。大將軍何進與司隷校尉袁紹謀誅諸閹官,太后不從。進乃召卓使將兵詣京師,并密令上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵,濁亂海內。昔趙鞅興晉陽之甲,以逐君側之惡。臣輙鳴鍾鼓如洛陽,即討讓等。」欲以脅迫太后。卓未至,進敗。(註5)(註6)
霊帝が亡くなって、少帝が即位したよ。大将軍の何進は司隷校尉の袁紹と一緒に宦官たちを滅ぼそうと計画を立てたけど、太后はそれに従わなかったよ。だから何進は董卓に兵を率いて都に来るように命令したよ。董卓はこっそりと上書してこう言ったよ。
「中常侍の張譲たちは、帝に気に入られているからこれを利用して国を乱しているんだ。昔、趙鞅は晋陽の兵を起こして、君主の悪を追い払ったよ。私は鐘や太鼓を鳴らして洛陽に向かって、張譲たちを討とうと思うよ」
これは太后を脅迫するための計画だったの。董卓がまだ着かないうちに、何進は敗れちゃった。
續漢書曰:進字遂高,南陽人,太后異母兄也。進本屠家子,父曰真。真死後,進以妹倚黃門得入掖庭,有寵,光和三年立為皇后,進由是貴幸。中平元年,黃巾起,拜進大將軍。
『続漢書』によると、何進は、字は遂高で、南陽の出身で、太后の異母兄だよ。何進はもともと屠畜業の家の人で、父の名は何真だよ。何真が亡くなった後、何進は妹の黄門に仕えて掖庭に入ることができたよ。妹が帝に愛されて、光和三年(180年)に皇后に立てられたから、何進もそれによって地位と恩恵を得られたんだ。中平元年(184年)、黄巾の乱が起こって、何進は大将軍に任命されたよ。
何進さんはお肉屋さん。
典略載卓表曰:「臣伏惟天下所以有逆不止者,各由黃門常侍張讓等侮慢天常,操擅王命,父子兄弟並據州郡,一書出門,便獲千金,京畿諸郡數百萬膏腴美田皆屬讓等,至使怨氣上蒸,妖賊蠭起。臣前奉詔討於扶羅,將士饑乏,不肯渡河,皆言欲詣京師先誅閹豎以除民害,從臺閣求乞資直。臣隨慰撫,以至新安。臣聞揚湯止沸,不如滅火去薪,潰癕雖痛,勝於養肉,及溺呼船,悔之無及。」
『典略』によると、董卓は上表してこう言ったよ。
「私は伏して思うに、天下に逆らう者が絶えないのは、黄門常侍の張譲たちが天の道理を侮って、王の命令を勝手に操って、彼らの父子兄弟が州や郡を支配しているからだよ。彼らの1通の手紙が出れば、家を出ただけで千金を得られるんだ。都の周りの郡の数百万もの豊かな田畑はすべて張譲たちのものとなっているんだ。だから怨みの気が天に満ちて、妖賊(宗教的な指導者)を起こさせたんだ。
私は前に、命令を受けて扶羅の地を討ったけど、将や兵たちは飢えに苦しんで、黄河を渡ろうとしなかったんだ。彼らはみんな、『まず都に赴いて、宦官たちを殺して民の害を除きたい』と訴えて、宮廷に資金や物資を求めたよ。私はこれをなだめながら新安に着いたよ。私は、湯が沸騰するのを止めるためには水をかけるよりも、火を消して薪を取り除く方が良いし、腫れ物を切るのは痛いけど、放っておいて養うよりもましだし、水に溺れてから舟を呼んでも、もう手遅れだと聞いているよ」
中常侍段珪等劫帝走小平津,卓遂將其衆迎帝于北芒,還宮。(註7)(註8)(註9)(註10)(註11)時進弟車騎將軍苗為進衆所殺,(註12)進、苗部曲無所屬,皆詣卓。卓又使呂布殺執金吾丁原,并其衆,故京都兵權唯在卓。(註13)
中常侍の段珪たちは帝を脅して小平津に逃げたよ。董卓はそのまま将や兵を率いて北芒で帝を迎えて、都へ帰ったよ。
この時、何進の弟で車騎将軍の何苗は何進の兵に殺されちゃった。何進と何苗の部隊は属するところがなくて、みんな董卓のもとに来たよ。董卓はさらに呂布に命令して執金吾の丁原を殺させて、その部隊を併せたよ。こうして都の兵の権限を持つ者は董卓だけになったんだ。
何進さん周りがグダってる。
張璠漢紀曰:帝以八月庚午為諸黃門所劫,步出穀門,走至河上。諸黃門旣投河死。時帝年十四,陳留王年九歲,兄弟獨夜步行欲還宮,闇暝,逐螢火而行,數里,得民家以露車載送。辛未,公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下。
張璠の『漢紀』によると、帝は八月の庚午の日、黄門たちに脅されて、歩いて穀門を出て黄河に向かって逃げたんだって。黄門たちはみんな、黄河に投げ込まれて死んだんだ。その時、帝は14歳、陳留王(劉協)は9歳で、兄弟はただふたりで夜道を歩いて宮殿に戻ろうとしたの。闇の中、ホタルの光を追いかけながら数里進んで、民家を見つけて露車で送ってもらったよ。
辛未の日、公卿以下の人たちは董卓と一緒に北芒の坂の下で帝を迎えたよ。
獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯,王非王,千乘萬騎走北芒。」卓時適至,屯顯陽苑。聞帝當還,率衆迎帝。
『献帝春秋』によると、これより前、童謡で「侯は侯ではなくて、王は王ではないよ。千の車と万の騎兵が北芒を走る」と歌われていたんだって。董卓はその時ちょうど顕陽苑に駐屯していたよ。帝が戻ってくると聞いて、軍を率いて帝を迎えに行ったんだ。
典略曰:帝望見卓兵涕泣。羣公謂卓曰:「有詔郤兵。」卓曰:「公諸人為國大臣,不能匡正王室,至使國家播蕩,何郤兵之有!」遂俱入城。
『典略』によると、帝は遠くから董卓の軍を見て涙を流したよ。諸侯は董卓にこう言ったよ。
「詔がある、兵を引かせろ」
董卓はこう言ったよ。
「あなたたちは国家の大臣でありながら、王室を正せなくて、国家を混乱させたんだ。どうして兵を引くことができるの!」
こうして一緒に城に入っていったんだ。
獻帝紀曰:卓與帝語,語不可了。乃更與陳留王語,問禍亂由起;王荅,自初至終,無所遺失。卓大喜,乃有廢立意。
『献帝紀』によると、董卓は帝と話をしたけど、話が通じなかったの。そこで陳留王(劉協)と話をして、混乱の始まりから終わりまでを尋ねたよ。陳留王は初めから終わりまで、漏れなく答えたよ。董卓はとても喜んで、帝を廃位して陳留王を立てる意図を持ったんだって。
英雄記曰:河南中部掾閔貢扶帝及陳留王上至雒舍止。帝獨乘一馬,陳留王與貢共乘一馬,從雒舍南行。公卿百官奉迎於北芒阪下,故太尉崔烈在前導。卓將步騎數千來迎,烈呵使避,卓罵烈曰:「晝夜三百里來,何云避,我不能斷卿頭邪?」前見帝曰:「陛下令常侍小黃門作亂乃爾,以取禍敗,為負不小邪?」又趨陳留王,曰:「我董卓也,從我抱來。」乃於貢抱中取王。英雄記曰:一本云王不就卓抱,卓與王併馬而行也。
『英雄記』によると、河南の出身で中部掾の閔貢は帝と陳留王(劉協)を助けて雒舍に着いたよ。帝は1頭の馬にひとりで乗って、陳留王は閔貢と一緒に1頭の馬に乗って、雒舍から南へ進んだよ。公卿や百官は北芒の坂の下で彼らを迎えて、かつての太尉の崔烈が先導したよ。董卓は数千の歩兵と騎兵を率いて迎えに来たけど、崔烈に道を避けるように命令されたんだ。董卓は崔烈を罵って、こう言ったよ。
「昼も夜も進んで300里を来たのに、何を避けろというの。私はあなたの首を斬れないと思う?」
董卓は帝に会ってこう言ったよ。
「陛下が常侍や小黄門に乱を起こさせたから、このような禍が生じたの。これは小さな罪ではないよ」
そして陳留王に向かって、こう言ったよ。
「私は董卓だ、私に抱かれて来なさい」
そして、閔貢が抱いていた陳留王を奪ったよ。
別の話では、陳留王は董卓に抱えられるのを拒んで、董卓は一緒に馬に乗って進んだと記されているよ。
英雄記云:苗,太后之同母兄,先嫁朱氏之子。進部曲將吳匡,素怨苗不與進同心,又疑其與宦官通謀,乃令軍中曰:「殺大將軍者,車騎也。」遂引兵與卓弟旻共攻殺苗於朱爵闕下。
『英雄記』によると、何苗は太后の同母兄で、前は朱氏の子に嫁いでいたんだって。何進の部隊の将の呉匡は、、何苗が何進と心をひとつにしないことをいつも恨んでいて、それに彼が宦官と通じていると疑っていたんだ。それで軍中に「大将軍(何進)を殺したのは車騎(何苗)だ」と言いふらしたの。そして、兵を引き連れて董卓の弟の董旻と一緒に朱爵門の下で、何苗を攻撃して殺したんだ。
九州春秋曰:卓初入洛陽,步騎不過三千,自嫌兵少,不為遠近所服;率四五日,輙夜遣兵出四城門,明日陳旌鼓而入,宣言云「西兵復入至洛中」。人不覺,謂卓兵不可勝數。
『九州春秋』によると、董卓が初めて洛陽に入ったとき、彼の歩兵と騎兵は3,000を超えないくらいだったんだ。董卓は兵が少ないことを気にしていて、遠くや近くの人たちから畏れられていなかったよ。それで、4、5日ごとに夜間に兵を4つの城門から出して、翌日に旗や太鼓を掲げて入城させて、「西の兵がふたたび洛陽に着いたよ」と宣言したの。人々はこれに気づかないで、董卓の兵が数え切れないくらいたくさんいると思い込んだよ。
先是,進遣騎都尉太山鮑信所在募兵,適至,信謂紹曰:「卓擁彊兵,有異志,今不早圖,將為所制;及其初至疲勞,襲之可禽也。」紹畏卓,不敢發,信遂還鄉里。
前に、何進は騎都尉で太山の出身の鮑信を送って各地で兵を募らせたよ。ちょうどその頃、鮑信が着くと袁紹にこう言ったよ。
「董卓は強い兵を抱えていて、悪い考えを持っているんだ。今、早く対策を立てないと、彼に制圧されちゃうかも。董卓が着いたばかりで疲れているうちに襲えば、捕らえることができるよ」
でも、袁紹は董卓を恐れて行動を起こせなかったんだ。鮑信はそのまま故郷に帰ったよ。
帝を即位させる
於是以乆不雨,策免司空劉弘而卓代之,俄遷太尉,假節鉞虎賁。遂廢帝為弘農王。尋又殺王及何太后。立靈帝少子陳留王,是為獻帝。(註14)(註15)
長い間雨が降らなかったから、司空の劉弘がやめさせられて、董卓が代わって司空になったよ。しばらくして董卓は太尉に昇進して、節と鉞と虎賁を授けられたよ。董卓はそのまま帝を廃位して弘農王にしたんだ。そして王と何太后を殺しちゃった。霊帝の少子の陳留王(劉協)を帝に立てたよ。彼が献帝だよ。
獻帝紀曰:卓謀廢帝,會羣臣於朝堂,議曰:「大者天地,其次君臣,所以為治。今皇帝闇弱,不可以奉宗廟,為天下主。欲以依伊尹、霍光故事,立陳留王,何如?」尚書盧植曰:「案尚書太甲旣立不明,伊尹放之桐宮。昌邑王立二十七日,罪過千餘,故霍光廢之。今上富於春秋,行未有失,非前事之比也。」卓怒,罷坐,欲誅植,侍中蔡邕勸之,得免。
『献帝紀』によると、董卓は帝を廃位する計画を立てて、臣下たちを朝堂に集めて議論してこう言ったよ。
「天地は大きくて、その次に君主と臣下がいて、これが治世の基盤だよ。今の皇帝は愚かで弱くて、宗廟(祖先の廟)を守って、天下の主となるにはふさわしくないんだ。伊尹や霍光の故事にならって、陳留王(劉協)を帝に立てたいと思うんだけど、どうかな?」
尚書の盧植はこう答えたよ。
「『書経』を調べたところ、太甲は王に立った後に賢明な君主でなかったから、伊尹が桐宮に追放したんだ。昌邑王(劉賀)は27日間で1,000を超える罪を犯したから、霍光が廃位したんだ。でも、今の皇帝は若くて、行いに失敗はなくて、前の例とは異なるよね」
董卓は怒って、会議から退出して、盧植を殺そうとしたけど、侍中の蔡邕が諫めたから、盧植は助かったよ。
九月甲戌,卓復大會羣臣曰:「太后逼迫永樂太后,令以憂死,逆婦姑之禮,無孝順之節。天子幼質,軟弱不君。昔伊尹放太甲,霍光廢昌邑,著在典籍,僉以為善。今太后宜如太甲,皇帝宜如昌邑。陳留王仁孝,宜即尊皇祚。」
九月、甲戌の日、董卓はふたたび臣下たちを集めてこう言ったよ。
「何太后は永楽太后(霊帝の母)を追い詰めて、悲しみによって死なせたんだよ。これは嫁と姑との礼に反していて、孝順の節もないよ。天子は幼くて、軟弱で君主としてふさわしくないんだ。昔、伊尹は太甲を追放して、霍光は昌邑王(劉賀)を廃位したんだ。これは古典に記されていて、みんながよしとしているよ。今、何太后は太甲みたいに、皇帝は昌邑王のようにすべきだよね。陳留王(劉協)は仁と孝があって、皇帝の位を継ぐにふさわしいんだ」
獻帝起居注載策曰:「孝靈皇帝不究高宗眉壽之祚,早棄臣子。皇帝承紹,海內側望,而帝天姿輕佻,威儀不恪,在喪慢惰,衰如故焉;凶德旣彰,淫穢發聞,損辱神器,忝汙宗廟。皇太后教無母儀,統政荒亂。永樂太后暴崩,衆論惑焉。三綱之道,天地之紀,而乃有闕,罪之大者。陳留王恊,聖德偉茂,規矩邈然,豐下兊上,有堯圖之表;居喪哀戚,言不及邪,岐嶷之性,有周成之懿。休聲美稱,天下所聞,宜承洪業,為萬世統,可以承宗廟。廢皇帝為弘農王。皇太后還政。」
『献帝起居注』によると、詔を下してこう言ったよ。
「孝霊皇帝は高宗(殷の王)のように長寿の天命をまっとうしないで、早くに民を見捨てて亡くなったんだ。皇帝(少帝)が後を継いで、天下は期待していたけど、皇帝は生まれつき軽薄で、ふるまいは正しくなくて、喪に服す間も怠けていて、哀悼の態度も昔のままだったんだ。その凶悪な性格が明らかとなって、乱れた行いは知れ渡って、天子の尊厳を汚して、宗廟(祖先の廟)をも汚したんだ。皇太后は母としての礼を欠いて、政治をまとめるにも混乱していたんだ。永楽太后は突然亡くなって、世間の議論は混迷したんだ。三綱(君臣・父子・夫婦の道)は天地の秩序の根本だけど、これが失われたことは、最大の罪だよ。陳留王の劉協は、聖なる徳を備えて、立派で整った品格を持っていて、規範も正しくて、謙虚でありながら上を敬う姿は、まるで堯帝の風格を備えているよ。喪に服する姿も悲しみに満ちていて、不正に関わる言葉は言わないし、その聡明さは周の成王にも劣らない美徳を持っているよ。その評判は広く天下に知れ渡っていて、まさに皇帝の業を継いで、万世の統治者として、宗廟(祖先の廟)を守るにふさわしいよ。だから、今の皇帝を廃位して弘農王として、皇太后は政務を朝廷に返上してね」
尚書讀冊畢,羣臣莫有言,尚書丁宮曰:「天禍漢室,喪亂弘多。昔祭仲廢忽立突,春秋大其權。今大臣量宜為社稷計,誠合天人,請稱萬歲。」卓以太后見廢,故公卿以下不布服,會葬,素衣而已。
尚書がこの詔を読み終えると、臣下たちは誰も言葉を発さなかったんだ。尚書の丁宮がこう言ったよ。
「天は漢の王朝に災いをもたらして、混乱と乱れはひどいものとなっているんだ。昔、祭仲は忽を廃位して突を王に立てて、『春秋』にその大きな功績が記されたよ。今、大臣たちはまさに国家のために最もふさわしい判断をすべき時で、この決断は本当に天命と人の心にかなったものだろうね。どうか万歳と言って、新たな皇帝を迎えよう」
董卓が太后を廃位したから、公卿以下の者たちは喪服を着ないで、葬儀に参列しただけで白い服を着ていたよ。
卓遷相國,封郿侯,贊拜不名,劒履上殿,又封卓母為池陽君,置家令、丞。卓旣率精兵來,適值帝室大亂,得專廢立,據有武庫甲兵、國家珍寶,威震天下。卓性殘忍不仁,遂以嚴刑脅衆,睚眦之隙必報,人不自保。(註16)(註17)
董卓は相国に昇進して、郿侯に封ぜられたよ。彼に対する礼は、名前を呼ばないで敬意を示して、剣を帯びたまま殿上に上がることを許されるくらい特別な待遇だったんだ。それに、董卓の母親は池陽君に封ぜられて、家令と丞を置いたよ。
董卓はすでに精鋭の兵を率いて都に来ていて、ちょうど帝室は大混乱になって、彼はその機に乗じて皇帝の廃立を勝手にできて、武庫の兵器や国家の財宝を手に入れて、天下にその威を轟かせたんだ。董卓の性格は残忍で仁が無くて、厳しい刑罰で人々を脅して、ほんの小さな恨みでも必ず報復して、人々は自分の安定すら保てなかったの。
魏書曰:卓所願無極,語賔客曰:「我相,貴無上也。」
『魏書』によると、董卓の望みは果てしなくて、客たちにこう言ったよ。
「私が相国で、これより上に貴い者なんていないよ」
英雄記曰:卓欲震威,侍御史擾龍宗詣卓白事,不解劒,立撾殺之,京師震動。發何苗棺,出其尸,枝解節棄於道邊。又收苗母舞陽君殺之,棄尸於苑枳落中,不復收斂。
『英雄記』によると、董卓は威を示そうとして、侍御史の擾龍宗が董卓のもとに報告しに来たとき、剣を解かないでいたから、董卓は怒って彼を打ち殺したんだ。これによって都は震れ動いたよ。
董卓は何苗の棺を開けてその遺体を取り出してバラバラにして、道端に捨てたんだって。そして、何苗の母の舞陽君を捕らえて殺して、その遺体を苑の枳落(生垣)の中に捨てて、収容も葬儀もさせなかったんだ。
甞遣軍到陽城。時適二月社,民各在其社下,悉就斷其男子頭,駕其車牛,載其婦女財物,以所斷頭繫車轅軸,連軫而還洛,云攻賊大獲,稱萬歲。入開陽城門,焚燒其頭,以婦女與甲兵為婢妾。至於姦亂宮人公主。其凶逆如此。
昔、董卓は軍を陽城に送ったよ。その時はちょうど二月の祭の日で、民はそれぞれ社の下に集まっていたの。董卓は彼らの男子の首をみんな切り落として、そこにあった牛車に乗って、婦女や財物を積み込んだよ。切り落とした首を車の轅や軸に結びつけて、車を連ねて洛陽に戻って、「敵を攻めて大きな戦果があったんだ」と言って、万歳を叫んだよ。陽城の門に入ると、その首を焼き捨てて、婦女を兵たちに下女や側室として与えたんだ。さらに宮中の女性や公主に対しても乱れたことをしたんだ。彼の凶悪で反逆的な行いはこのようなものだったんだ。
連合軍の裏で
初,卓信任尚書周毖、城門校尉伍瓊等,用其所舉韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈等出宰州郡。而馥等至官,皆合兵將以討卓。卓聞之,以為毖、瓊等通情賣己,皆斬之。(註18)(註19)
もともと、董卓は尚書の周毖や城門校尉の伍瓊たちに任せて、彼らが推薦した韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈たちを州の刺史や郡の太守に任命したよ。でも、韓馥たちが官職に着くと、みんな兵を集めて董卓を討とうとしたんだ。董卓はこれを聞いて、周毖や伍瓊たちが自分を裏切ったと考えて、彼らを斬ったんだ。
英雄記曰:毖字仲遠,武威人。瓊字德瑜,汝南人。
『英雄記』によると、周毖は、字は仲遠で、武威の出身だよ。伍瓊は、字は徳瑜で、汝南の出身だよ。
謝承後漢書曰:伍孚字德瑜,少有大節,為郡門下書佐。其本邑長有罪,太守使孚出教,就曹下督郵收之。孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府柰何令孚受教,勑外収本邑長乎?更乞授他吏。」太守奇而聽之。後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中、河南尹、越騎校尉。
謝承の『後漢書』によると、伍孚は、字は徳瑜で、若い頃から高い節義があったよ。彼は郡の門下書佐を務めていたよ。
あるとき、彼の出身地の邑長(村長)が罪を犯して、太守は伍孚にその命令文を持たせて、曹下督郵とともにその邑長を捕えさせようとしたんだ。伍孚は命令を受けないで、地に伏して太守を諫めてこう言ったよ。
「君主が君主らしくなくとも、臣下が臣下の道を捨ててはならないんだ。あなたはどうして私にこの命令を受け取らせて、自らの郷里の長を外部の役人に命じて捕らえさせるの? どうか他の役人に任せてほしいんだ」
太守はその節義に感動して、その申し出を許したよ。後に伍孚は大将軍の何進に東曹属として招かれて、どんどん昇進して侍中、河南尹、越騎校尉になったよ。
董卓作亂,百僚震慄。孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之。語闋辭去,卓送至閤中,孚因出刀刺之。卓多力,退郤不中,即収孚。卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君,吾非汝臣,何反之有?汝亂國篡主,罪盈惡大,今是吾死日,故來誅姦賊耳,恨不車裂汝於市朝以謝天下。」遂殺孚。謝承記孚字及本郡,則與瓊同,而致死事乃與孚異也,不知孚為瓊之別名,為別有伍孚也?蓋未詳之。
董卓が乱を起こすと、百官は怖くて震えたんだ。そのとき伍孚は、内に佩刀(短刀)を隠して朝服の下に小さな鎧を着込んで、董卓に会って、隙を見て刺し殺そうとしたよ。話が終わって去ろうとしたところで、董卓は門の中まで見送りに来たんだ。伍孚はそこで刀を取り出して董卓を刺そうとしたよ。でも、董卓は力が強くて、伍孚の攻撃をかわして命中しなかったから、伍孚はすぐに取り押さえられちゃった。董卓が問い詰めたよ。
「あなたは反逆するつもりなの?」
伍孚は大声でこう言ったよ。
「あなたは私の君主ではなくて、私はあなたの臣下ではないんだ。どうしてこれが反逆といえるの? あなたは国を乱して、君主を奪おうとして、罪は満ちて悪はすごく大きいよ。今日は私の死ぬ日だから悪い敵を討つために来たの。あなたを市場で車裂きにできないことが、天下に対する唯一の心残りなんだ」
そして、伍孚は殺されたんだ。
謝承は伍孚の字や出身の郡が伍瓊と同じと記されているけど、その死に方は伍孚と異なっているよ。伍孚が伍瓊の別名なのか、あるいは別の伍孚がいたのかは不明で、詳細はわかっていないの。
河內太守王匡遣泰山兵屯河陽津,將以圖卓。卓遣疑兵若將於平陰渡者,潛遣銳衆從小平北渡,繞擊其後,大破之津北,死者略盡。卓以山東豪傑並起,恐懼不寧。初平元年二月,乃徙天子都長安。焚燒洛陽宮室,悉發掘陵墓,取寶物。(註20)(註21)(註22)
河内太守の王匡は泰山の兵を河陽津に駐屯させて、董卓を攻める準備をしたよ。董卓は平陰から渡るように見せかけて、精鋭部隊をこっそりと小平の北から渡らせて背後から攻撃して、大勝利したよ。この戦いで河陽津の北でほぼ全滅させたんだ。董卓は山東の豪傑たちが次々と反乱を起こして、恐れていたんだって。
初平元年(190年)、二月、董卓は天子を長安に移したよ。洛陽の宮殿を焼き払って、陵墓をすべて掘り返して、宝物を取っちゃった。
華嶠漢書曰:卓欲遷都長安,召公卿以下大議。司徒楊彪曰:「昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉天下之民。今海內安穩,無故移都,恐百姓驚動,麋沸蟻聚為亂。」卓曰:「關中肥饒,故秦得并吞六國。今徙西京,設令關東豪彊敢有動者,以我彊兵踧之,可使詣滄海。」彪曰:「海內動之甚易,安之甚難。又長安宮室壞敗,不可卒復。」卓曰:「武帝時居杜陵南山下,有成瓦窑數千處,引涼州材木東下以作宮室,為功不難。」
華嶠『漢書』によると、董卓は都を長安に移そうとして、公卿以下の大臣たちを集めて大きな議論をしたよ。司徒の楊彪はこう言ったよ。
「昔、盤庚は5回も都を移して、そのたびに殷の民はみんな不満を抱いたよ。そこで盤庚は三篇を作って天下の民にその意を知らせたよ。今、国内は安定していて、理由もないのに都を移すと、民はびっくりして、鹿が逃げて蟻が群がるような大混乱となるだろうね」
董卓はこう言ったよ。
「関中は豊かな土地だから、秦は6つの国を併せられたんだよ。今、西の長安に都を移して、関東の有力者たちが何か企んでも、私の強い兵に彼らを抑えさせれば、遠くの海まで追いやることができるよ」
楊彪はこう言ったよ。
「世の中を動かすのは簡単だけど、安定させるのはすごく難しいんだ。それに、長安の宮殿はすでに壊れていて、すぐには復旧できないよ」
董卓はこう答えたよ。
「武帝の時代、杜陵の南山のふもとに、数千の瓦窯があったよ。涼州の材木を東から引いて来れば宮室を建てるのは難しくないよ」
卓意不得,便作色曰:「公欲沮我計邪?邊章、韓約有書來,欲令朝廷必徙都。若大兵來下,我不能復相救,公便可與袁氏西行。」彪曰:「西方自彪道徑也,顧未知天下何如耳!」議罷。卓勑司隷校尉宣璠以災異劾奏,因策免彪。
董卓は納得しないで、顔色を変えてこう言ったよ。
「あなたは私の計画を妨げようとしているの? 辺章や韓約(韓遂)から手紙が来ていて、朝廷に都を必ず移すように求めているんだ。もし大軍が来た場合、私はもうあなたを助けることはできないよ。あなたは袁氏と一緒に西に行くことになるだろうね」
楊彪はこう答えたよ。
「西の道は私の知っている道だけど、天下がどうなるかはまだわからないよ!」
議論はそこで終わったよ。董卓は司隷校尉の宣璠に災害を理由にして楊彪を処罰するように命令したから、楊彪は辞めさせられちゃった。
續漢書曰:太尉黃琬、司徒楊彪、司空荀爽俱詣卓,卓言:「昔高祖都關中,十一世後中興,更都洛陽。從光武至今復十一世,案石苞室讖,宜復還都長安。」坐中皆驚愕,無敢應者。彪曰:「遷都改制,天下大事,皆當因民之心,隨時之宜。昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉之。往者王莽篡逆,變亂五常,更始赤眉之時,焚燒長安,殘害百姓,民人流亡,百無一在。光武受命,更都洛邑,此其宜也。今方建立聖主,光隆漢祚,而無故捐宮廟,棄園陵,恐百姓驚愕,不解此意,必麋沸蟻聚以致擾亂。石苞室讖,妖邪之書,豈可信用?」
『続漢書』によると、太尉の黄琬、司徒の楊彪、司空の荀爽が一緒に董卓を訪れたよ。董卓はこう言ったよ。
「昔、高祖(劉邦)は関中に都を置いて、11代後に中興して、洛陽に都を移したよ。光武帝(劉秀)から現在までふたたび11代が経って、『石苞室讖』(予言書)によると、今こそ都を長安に戻すべきだよ」
集まった人たちはみんな驚いて、誰も答えられなかったんだ。楊彪がこう言ったよ。
「都を移して制度を改めることは、天下の大事で、民の心に従って、時勢に適うものでなければならないよ。昔、盤庚は5回も都を移すと、殷の民はみんな不満を抱いたから、三篇の文を作ってその意を天下に示したの。昔、王莽が権力を奪って、五常(仁・義・礼・智・信)を乱して、更始帝や赤眉の時代には、長安は焼き払われて、民は傷ついて、民は逃げ出して、100のうち1も残らなかったんだ。だから光武帝が天命を受けて洛陽に都を移したのは本当に道理にかなっていたの。今、まさに聖なる主が新たに即位したばかりで、漢の王朝の運命をふたたび光り輝かせようという時に、理由もないのに宮殿や廟を捨てて、陵墓を見捨てれば、民は驚いて惑って、その意図を理解できなくて、必ずや沸き立つ鹿や群がる蟻みたいに乱れ騒ぐだろうね。『石苞室讖』は妖しげな書物で、どうして信じられるの?」
卓作色曰:「楊公欲沮國家計邪?關東方亂,所在賊起。崤函險固,國之重防。又隴右取材,功夫不難。杜陵南山下有孝武故陶處,作塼瓦,一朝可辦。宮室官府,蓋何足言!百姓小民,何足與議。若有前郤,我以大兵驅之,豈得自在。」百寮恐怖失色。琬謂卓曰:「此大事。楊公之語,得無重思!」卓罷坐,即日令司隷奏彪及琬,皆免官。大駕即西。卓部兵燒洛陽城外面百里。又自將兵燒南北宮及宗廟、府庫、民家,城內埽地殄盡。又收諸富室,以罪惡沒入其財物;無辜而死者,不可勝計。
董卓は顔色を変えてこう言ったよ。
「楊公(楊彪)は国家の計画を妨げようとしているの? 関東は今乱れていて、各地で賊が起こっているんだ。崤山や函谷関は険しくて堅固で、国の重要な防衛地だよ。さらに隴西から材木を取れば、建築は手間もかからないよ。杜陵の南山のふもとには漢の武帝の古い瓦窯があって、瓦や煉瓦も1日あればまかなえるよ。宮殿や官府の建設なんて問題ないし、議論する必要はないよ。もし反対する者がいたら、兵を使って追い払ってやる。勝手なことはさせない」
百官(官僚)たちは恐怖で顔色を失っちゃった。黄琬は董卓にこう言ったよ。
「これは国家の重大なことだよ。楊公(楊彪)の言葉も、深く考えるべきではないかな」
董卓は席を立って、その日のうちに司隷に命令して楊彪と黄琬を処罰して、ふたりとも官職を辞めさせられたんだ。そして、大駕(天子の車)はすぐに西へ向かったよ。董卓の兵は洛陽の城から外まで100里を焼き払ったんだ。さらに自ら兵を率いて南北の宮殿や宗廟(祖先の廟)、府庫(倉庫)、民家までも焼き払って、城内を掃き清めるようにすべて壊滅させたよ。さらに裕福な家々の財産を罪を口実に没収して、罪がないのに殺された人は数えきれないくらいだったんだ。
獻帝紀曰:卓獲山東兵,以豬膏塗布十餘匹,用纏其身,然後燒之,先從足起。獲袁紹豫州從事李延,煑殺之。卓所愛胡,恃寵放縱,為司隷校尉趙謙所殺。卓大怒曰:「我愛狗,尚不欲令人呵之,而況人乎!」乃召司隷都官撾殺之。
『献帝紀』によると、董卓は山東の兵を捕らえて、豚の脂を布に塗って、十数枚でその身を巻いて、その後焼いたんだ。まず足から焼き始めたよ。それに、董卓は袁紹の豫州の従事の李延を捕らえて、煮て殺したんだ。董卓が愛していた異民族は、好意を頼みに好き勝手にしていたけど、司隷校尉の趙謙に殺されたよ。董卓はすごく怒って、こう言ったよ。
「私は愛する犬さえも人に叱らせたくないのに、ましてや人間をどうして許せるの!」
司隷の都官を呼び出して、打ち殺したんだ。
卓至西京,為太師,號曰尚父。乘青蓋金華車,爪畫兩轓,時人號曰竿摩車。(註23)(註24)卓弟旻為左將軍,封鄠侯;兄子璜為侍中中軍校尉典兵;宗族內外並列朝廷。(註25)
董卓は長安に着くと、太師になって、「尚父」と呼ばれたよ。彼は青い天蓋と金の飾りがついた車に乗って、車の両側には龍の爪で描かれた模様があったよ。当時の人たちはこれを「竿摩車」と呼んだよ。
董卓の弟の董旻は左将軍に任命されて、鄠侯に封ぜらたよ。兄の子の董璜は侍中、中軍校尉として兵を統率したよ。董卓の一族は内外の親族まで朝廷で高い地位に就いたんだ。
魏書曰:言其逼天子也。
『魏書』によると、董卓は天子を脅したんだって。
獻帝紀曰:卓旣為太師,復欲稱尚父,以問蔡邕。邕曰:「昔武王受命,太公為師,輔佐周室,以伐無道,是以天下尊之,稱為尚父。今公之功德誠為巍巍,宜須關東悉定,車駕東還,然後議之。」乃止。京師地震,卓又問邕。邕對曰:「地動陰盛,大臣踰制之所致也。公乘青蓋車,遠近以為非宜。」卓從之,更乘金華皂蓋車也。
『献帝紀』によると、董卓が太師になった後、さらに「尚父」と名乗ろうとして、蔡邕に尋ねたんだって。蔡邕はこう答えたよ。
「昔、周の武王が天命を受けると、太公(呂尚)が師となって周の王室を助けて、暴君を討伐したよ。だから、天下は彼を尊敬して、『尚父』と呼んだね。今、あなたの功績と徳は本当に偉大だけど、まず関東の乱をすべて平定して、天子が東に還った後で議論すべきだよ」
これを聞いた董卓はいったんその話をやめたよ。
その後、都で地震が起こって、董卓はふたたび蔡邕に尋ねたよ。蔡邕はこう答えたよ。
「地震は陰の力が強まって、大臣が礼の度を越えたから起こるんだ。あなたが青い天蓋の車に乗っているのを、人々はみんな不適切だと感じているよ」
董卓はこの意見に従って、車を金の飾りがついた黒い天蓋のものに替えたよ。
英雄記曰:卓侍妾懷抱中子,皆封侯,弄以金紫。孫女名白,時尚未笄,封為渭陽君。於郿城東起壇,從廣二丈餘,高五六尺,使白乘軒金華青蓋車,都尉、中郎將、刺史二千石在郿者,各令乘軒簪筆,為白導從,之壇上,使兄子璜為使者授印綬。
『英雄記』によると、董卓の側室が抱えている子供たちはみんな侯に封ぜられて、金印や紫綬をもらったよ。孫娘の名は董白で、その時まだ結婚適齢期前の少女だったけど、渭陽君に封ぜられたよ。郿城の東に壇を作って、その広さは2丈以上、高さは5、6尺あったよ。董白は金の飾りがついた青い天蓋の車に乗って、郡尉、中郎将、刺史たち、二千石の官位を持つ者が郿にいる場合、それぞれが筆を挿した車に乗って、董白の導き役を務めたよ。壇に登って、兄の子の董璜が使者となって印綬を授けさせたよ。
公卿見卓,謁拜車下,卓不為禮。召呼三臺尚書以下自詣卓府啟事。(註26)(註27)
公卿たちが董卓に会うときは、車の下で拝礼したけど、董卓は礼を返さなかったよ。三公や尚書以下の役人たちに、董卓の府に出向いて報告させたんだ。
山陽公載記曰:初卓為前將軍,皇甫嵩為左將軍,俱征韓遂,各不相下。後卓徵為少府并州牧,兵當屬嵩,卓大怒。及為太師,嵩為御史中丞,拜於車下。卓問嵩:「義真服未乎?」嵩曰:「安知明公乃至於是!」卓曰:「鴻鵠固有遠志,但燕雀自不知耳。」嵩曰:「昔與明公俱為鴻鵠,不意今日變為鳳皇耳。」卓笑曰:「卿早服,今日可不拜也。」
『山陽公載記』によると、董卓が前将軍になった頃、皇甫嵩は左将軍だったよ。一緒に韓遂を討って、それぞれお互いに引けを取らない状況だったの。後に董卓が朝廷に呼ばれて少府と并州牧に任命されて、兵は皇甫嵩に属すことになって、董卓はとても怒ったんだ。董卓が太師となって、皇甫嵩が御史中丞になると、皇甫嵩は車の下で拝礼したよ。董卓は皇甫嵩に問いかけたよ。
「義真(皇甫嵩)、今は従う?」
皇甫嵩はこう答えたよ。
「あなたがこの地位になるなんて、思っていなかったんだ」
董卓はこう言ったよ。
「鴻鵠はもともと大きな志を持つけど、燕雀はそれを知らないんだ」
皇甫嵩はこう言ったよ。
「昔はあなたと一緒で鴻鵠だったけど、今日あなたが鳳皇になるとは思わなかったんだ」
董卓は笑ってこう言ったよ。
「あなたが早く従っていたら、今日この拝礼は必要なかったのにね」
張璠漢紀曰:卓抵其手謂皇甫嵩曰:「義真怖未乎?」嵩對曰:「明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有?若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎?」卓默然,遂與嵩和解。
張璠の『漢紀』によると、董卓は手を皇甫嵩に当ててこう言ったよ。
「義真(皇甫嵩)、怖い?」
皇甫嵩はこう答えたよ。
「あなたが徳で朝廷を助けて、大きな喜びが来る今、何を怖がるの? もし不正な刑罰で満足しようとするなら、天下のみんなが恐れることになっちゃうね。私だけが恐れるわけではないよ」
董卓は黙って、こうして皇甫嵩と和解したよ。
築郿塢,高與長安城埒,積穀為三十年儲,(註28)云事成,雄據天下,不成,守此足以畢老。甞至郿行塢,公卿已下祖道於橫門外。(註29)
董卓は郿に塢(砦)を築いて、の高さは長安の城壁と同じくらいだったよ。彼は30年分の食糧を蓄えて、「計画が成功すれば天下を制して、失敗してもここで老後を過ごすには十分」と言ったんだって。かつて董卓が郿の塢を巡視に行くときには、公卿以下の官僚たちが横門の外まで出て見送って、道中の礼を尽くしていたんだって。
英雄記曰:郿去長安二百六十里。
郿は長安から260里離れているよ。
橫音光。
「橫」の発音は「光」だよ。
卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足,或鑿眼,或鑊煑之,未死,偃轉杯案閒,會者皆戰慄亡失匕箸,而卓飲食自若。太史望氣,言當有大臣戮死者。故太尉張溫時為衞尉,素不善卓,卓心怨之,因天有變,欲以塞咎,使人言溫與袁術交關,遂笞殺之。(註30)(註31)(註32)
董卓はあらかじめ帳幕を設けて酒宴を開いて、北地の反乱者数百人を招いて降伏させたよ。でも、宴の最中に彼らの舌を切り落としたり、手や足を斬ったり、目をくり抜いたり、煮えたぎる釜で煮たりしたんだ。彼らがまだ死なないで苦しむ様子が宴の席で見られて、参加者はみんな恐怖で震え上がって、箸を持つ手も失ったけど、董卓は平気そうに飲んだり食べたりし続けたんだ。
太史(記録官)が星を見て、近いうちに大臣が処刑されると予言したよ。かつての太尉の張温はこの時は衛尉で、彼は董卓と仲が悪くて、董卓は彼を心の底から憎んでいたの。天変地異を理由に罪を消すために、董卓は人に張温が袁術と内通していると告発させて、鞭打ちで殺したんだ。
傅子曰:靈帝時牓門賣官,於是太尉段熲、司徒崔烈、太尉樊陵、司空張溫之徒,皆入錢上千萬下五百萬以買三公。熲數征伐有大功,烈有北州重名,溫有傑才,陵能偶時,皆一時顯士,猶以貨取位,而況於劉嚻、唐珍、張顥之黨乎!
『傅子』によると、霊帝の時代には門に張り紙を出して官職を売っていたんだって。だから、太尉の段熲、司徒の崔烈、太尉の樊陵、司空の張温たちは、みんな1000万銭から500万銭を支払って、三公の地位を買ったの。
段熲は何度も戦いで大きな功績をあげて、崔烈は北の州で名声が高くて、張温は優れた才能を持っていて、樊陵は時勢に合った行動ができる人だよ。彼らはみんな、当時の有名な人たちだったのに、それでも金銭で地位を得たんだ。ましてや劉囂、唐珍、張顥たちの一派については言うまでもないよね。
風俗通曰:司隷劉嚻以黨諸常侍,致位公輔。
『風俗通』によると、司隷の劉囂は常侍たちと結託したから、公輔にまで昇進したよ。
續漢書曰:唐珍,中常侍唐衡弟。張顥,中常侍張奉弟。
『続漢書』によると、唐珍は中常侍の唐衡の弟だよ。張顥は中常侍の張奉の弟だよ。
法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,冤死者千數。百姓嗷嗷,道路以目。(註33)悉椎破銅人、鍾虡,及壞五銖錢。更鑄為小錢,大五分,無文章,肉好無輪郭,不磨鑢。於是貨輕而物貴,穀一斛至數十萬。自是後錢貨不行。
法令は厳しくて、愛憎によってひどい刑罰が加えられて、人々はお互いに偽の告発をし合って、無実の罪で死んだ者は数千人にのぼったんだ。民は苦しみのあまり泣き叫んで、道行く人たちはお互いに目を合わせてしか物を語れなかったくらい恐怖で声を出せなかったんだ。
そして董卓は、銅人像や鐘や虡(鐘を吊す楽器台)をすべて壊して、五銖銭も壊して、新たに小さな銭を鋳造したけど、大きさは5分で、何の文字も刻まれていなくて、厚いけど輪郭が無くて、輪郭もなくて、磨かれていない粗雑な貨幣だったんだ。だから、貨幣の価値は落ちて、物価は高騰して、1斛の穀物の値段は数十万にも跳ね上がったんだ。それから、貨幣は流通しなくなったの。
魏書曰:卓使司隷校尉劉嚻籍吏民有為子不孝,為臣不忠,為吏不清,為弟不順,有應此者皆身誅,財物沒官。於是愛憎互起,民多冤死。
『魏書』によると、董卓が司隷校尉の劉囂に命令して、役人や民の中で「子として孝のない者」「臣として忠のない者」「役人として正しくない者」「弟として従わない者」を調べ上げさせたよ。これらの条件にあてはまる人はすべて処刑されて、彼らの財産は没収されたんだ。だから、董卓の愛憎のせいで、たくさんの民が無実の罪で死んだよ。
董卓暗殺
三年四月,司徒王允、尚書僕射士孫瑞、卓將呂布共謀誅卓。是時,天子有疾新愈,大會未央殿。布使同郡騎都尉李肅等將親兵十餘人,偽著衞士服守掖門。布懷詔書。卓至,肅等格卓。卓驚呼布所在。布曰「有詔」,遂殺卓,夷三族。主簿田景前趨卓尸,布又殺之;凡所殺三人,餘莫敢動。(註34)
初平三年(192年)、四月、司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、董卓の将の呂布は一緒に董卓を処刑する計画を立てたよ。この時、天子は病気から回復したばかりで、未央殿で大きな会議が開かれていたよ。呂布は同じ郡の出身で騎都尉の李粛たち十数人の親兵に衛士の服を偽装させて掖門を守らせたよ。呂布は詔書を懐に入れていたよ。董卓が着くと、李粛たちは董卓を押さえつけたんだ。董卓が驚いて呂布の居場所を尋ねると、呂布は「詔がある」と答えて、そのまま董卓を殺して、董卓の一族を滅ぼしたよ。主簿の田景は董卓の遺体に駆け寄ったけど、呂布に殺されたよ。殺されたのは合わせて3人で、他の者は誰も動こうとしなかったんだ。
英雄記曰:時有謠言曰:「千里草,何青青,十日卜,猶不生。」又作董逃之歌。又有道士書布為「呂」字以示卓,卓不知其為呂布也。卓當入會,陳列步騎,自營至宮,朝服導引行其中。馬躓不前,卓心怪欲止,布勸使行,乃衷甲而入。卓旣死,當時日月清淨,微風不起。旻、璜等及宗族老弱悉在郿,皆還,為其羣下所斫射。
『英雄記』によると、当時は民の間でこんな歌が広まっていたよ。
「千里の草、なんと青々としているんだ、十日を占っても、まだ芽生えないんだ」
それに、「董逃の歌」という歌も作られたよ。
ある道士が布にを「呂」という字を書いて董卓に見せたけど、董卓はそれが呂布を示しているとは気付かなかったよ。董卓が会議に出席するために、自分の陣営から宮廷まで歩兵と騎兵を並べさせて、自らは朝服をまとって、その行列の中を進んだよ。でも、馬がつまずいて前に進まなかったから、不吉に感じて止まろうとしたんだ。でも、呂布が進むように勧めたから、甲冑を着込んで進んだよ。董卓が殺されると、その時、空は澄み渡って、日と月は清くて、微風ひとつ起こらなかったの。
董旻、董璜たち一族や老人や子供たちは郿にいて、みんな戻ってきたけど彼らの臣下たちに斬られたり射られたりして殺されたんだ。
卓母年九十,走至塢門曰「乞脫我死」,即斬首。袁氏門生故吏改殯諸袁死於郿者,斂聚董氏尸於其側而焚之。暴卓尸於市。卓素肥,膏流浸地,草為之丹。守尸吏暝以為大炷,置卓臍中以為燈,光明達旦,如是積日。後卓故部曲收所燒者灰,并以一棺棺之,葬於郿。卓塢中金有二三萬斤,銀八九萬斤,珠玉錦綺奇玩雜物皆山崇阜積,不可知數。
董卓の母は90歳で、塢(砦)の門まで走ってこう言ったよ。
「どうか私を殺さないで」
でも、すぐに首を斬られたよ。袁氏の門弟や臣下たちは、郿で死んだ袁氏の人たちを改めて葬って、董卓の一族の遺体をその側に集めて焼いたよ。そして、董卓の遺体を市場にさらしたの。董卓はもともと太っていたから、脂肪が地面に流れ出して、草が赤く染まっちゃった。遺体を見守っていた役人は夜になると、その脂肪を大きな灯芯にして董卓のへそに置いて、灯りとして使ったよ。光は夜明けまで続いて、この状態が何日も続いたんだって。その後、董卓のかつての部隊の者が焼かれた灰を集めて、ひとつの棺に入れて郿に葬ったんだ。
董卓の塢(砦)には金が2から3万斤、銀が8から9万斤あって、珠玉、錦綺、珍しい道具などが山のように積まれていて、その量は計り知れないくらいだったの。
「千里草」を組み合わせると「董」、「十日卜」を組み合わせると「卓」の文字になるよ。
長安士庶咸相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死。(註35)(註36)
長安の士人や庶民はみんな、お互いに祝ったよ。董卓に媚びを売った人たちはみんな牢獄に入れられて死んだよ。
謝承後漢書曰:蔡邕在王允坐,聞卓死,有歎惜之音。允責邕曰:「卓,國之大賊,殺主殘臣,天地所不祐,人神所同疾。君為王臣,世受漢恩,國主危難,曾不倒戈,卓受天誅,而更嗟痛乎?」便使收付廷尉。
謝承の『後漢書』によると、蔡邕は王允の席に座っていて、董卓が殺されたという知らせを聞いて、嘆き惜しむ声をあげたんだ。王允は蔡邕を責めてこう言ったよ。
「董卓は国の大賊で、君主を殺して、臣下を傷つけたから、天地に見放されて、人も神も憎む存在だよ。あなたは漢の王朝の臣下として、代々恩を受けてきたのに、国の君主が危難にあるとき、剣を取って立ち向かわなかったよね。そして今、董卓は天罰を受けたのに、どうして嘆いて悲しむの?」
そして蔡邕を廷尉に引き渡すように命令したんだ。
邕謝允曰:「雖以不忠,猶識大義,古今安危,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也?狂瞽之詞,謬出患入,願黥首為刑以繼漢史。」公卿惜邕才,咸共諫允。允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世。方今國祚中衰,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,後令吾徒並受謗議。」遂殺邕。
蔡邕は王允に謝ってこう言ったよ。
「たとえ私が忠に欠けていたとしても、大義はわきまえているよ。古から今の安全か危険を耳にして、口にすることにも慣れていて、どうして国を背いて董卓に心を寄せるようなことがあるの? つまらない狂人のような言葉が、誤って口から出ちゃって、災いを招いてしまったんだ。どうか私の額に刺青の刑を施してでも、漢の歴史を記す仕事を続けさせてほしいんだ」
公卿たちは蔡邕の才を惜しんで、みんなは王允を諫めたよ。王允はこう言ったよ。
「昔、漢の武帝は司馬遷を殺さないで史書を書かせたけど、それがかえって後の世に誹謗の書として伝わったんだ。今、国の運命は衰えて、戦乱が外に続いている中で、媚びを売るような臣下が幼い君主の側で筆を執ることは許されないよ。後に私たちがみんな誹謗を受けるだろうね」
そう言って蔡邕を殺したんだ。
臣松之以為蔡邕雖為卓所親任,情必不黨。寧不知卓之姦凶,為天下所毒,聞其死亡,理無歎惜。縱復令然,不應反言於王允之坐。斯殆謝承之妄記也。史遷紀傳,博有奇功於世,而云王允謂孝武應早殺遷,此非識者之言。但遷為不隱孝武之失,直書其事耳,何謗之有乎?王允之忠正,可謂內省不疚者矣,旣無懼於謗,且欲殺邕,當論邕應死與不,豈可慮其謗己而枉戮善人哉!此皆誣罔不通之甚者。
裴松之の見解によると、蔡邕はたしかに董卓に信頼されていたけど、その心は決して董卓の味方をしていたわけではないよ。董卓の悪事や凶暴さを知らないわけがなくて、彼が天下の害悪だったことも理解していただろうね。その死を聞いて嘆き悲しむ理由はないんだ。仮にもし本当に嘆いたとしても、王允の席でそれを言うはずがないよね。これは謝承の作り話と思われるよ。
司馬遷の『史記』は、広く世に知られる素晴らしい功績があるけど、王允が「漢の武帝は早くに司馬遷を殺すべきだった」と言ったのは、知識のある人の言葉ではないよね。司馬遷は漢の武帝の過ちを隠さないで、その事実をまっすぐに記しただけで、どこに誹謗があるというの? 王允は忠誠と正義を備えた人で、心にやましさのない者と言えるくらいだから、誹謗を恐れるはずもないよ。蔡邕を殺そうとするなら、蔡邕が処刑されるべきかどうかを話し合うべきで、「自分が後に誹謗されるのを恐れて善人をむやみに殺す」なんてあっていいはずがないよね。これらの話は、すべて間違いと誤解に満ちた、まったく道理に通らないものだよ。
張璠漢紀曰:初,蔡邕以言事見徙,名聞天下,義動志士。及還,內寵惡之。邕恐,乃亡命海濵,往來依太山羊氏,積十年。卓為太尉,辟為掾,以高第為侍御史治書,三日中遂至尚書。後遷巴東太守,卓上留拜侍中,至長安為左中郎將。卓重其才,厚遇之。每有朝廷事,常令邕具草。及允將殺邕,時名士多為之言,允悔欲止,而邕已死。
張璠の『漢紀』によると、もともと、蔡邕は政治について諫めたから地位を下げられて、その名声は天下に広まって、その義は志ある士人たちを感動させたよ。その後、都に戻ったけど、宮中の臣下たちは彼を嫌ったんだ。蔡邕は恐れて、海辺に逃げて、太山の羊氏を頼って10年間過ごしたよ。
董卓が太尉になると、蔡邕を掾として招いて、高第として侍御史治書に任命して、3日以内に尚書にまで昇進させたよ。その後、巴東太守に任命されたけど、董卓は上奏して蔡邕を留めて侍中に任命して、長安で左中郎将としたよ。董卓は蔡邕の才能を重んじて大切に扱ったの。朝廷に関わる事務があると、蔡邕に文書の草案を作らせたよ。
王允が蔡邕を殺そうとしたとき、多くの名の知られた士人たちが蔡邕を救おうと弁護しから、王允は悔いてやめようとしたけど、蔡邕はすでに殺されていたんだ。