正史『三国志』「魏書斉王紀」をゆるゆる翻訳するよ!

正史『三国志』「魏書斉王紀」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書斉王紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(ほう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

曹芳って誰?

本文

齊王諱芳,字蘭卿。明帝無子,養王及秦王詢;宮省事祕,莫有知其所由來者。(註1)

(せい)(おう)は、名は(ほう)で、(あざな)(らん)(けい)だよ。(そう)(えい)には子がいなかったから、(せい)(おう)(そう)(ほう)(しん)(おう)(そう)(じゅん)を育てたよ。宮中でこのことは秘密にされて、どこから来たのか誰も知らなかったの。

(註1)

魏氏春秋曰:或云任城王楷子。

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(じん)(じょう)(おう)(そう)(かい)の子とも言われているんだって。

皇太子になる

本文

青龍三年,立為齊王。景初三年正月丁亥朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身,繼承鴻業,煢煢在疚,靡所控告。大將軍、太尉奉受末命,夾輔朕躬,司徒、司空、冢宰、元輔總率百僚,以寧社稷,其與羣卿大夫勉勗乃心,稱朕意焉。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上,免為良人。」二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。(註2)(註3)(註4)

青龍三年(235年)、(そう)(ほう)(せい)(おう)に立てられたよ。景初三年(239年)、正月の丁亥の朔日、(そう)(えい)が重い病気になっちゃったから、そこで(そう)(ほう)を皇太子に立てたよ。その日に即位して、大赦を行ったよ。皇后を尊んで皇太后と呼んだよ。
(たい)(しょう)(ぐん)(そう)(そう)と、(たい)()()()()が政務を助けることになったよ。(そう)(えい)は詔を下してこう言ったよ。
「私は小さな身で大きな事業を受け継いだけど、病気の苦しみに悩みながらも、訴える相手もいないんだ。(そう)(そう)()()()は私の最後の命令を受け入れて、私を支えてくれたんだ。()()()(くう)(ちょう)(さい)(げん)()はたくさんの官僚を率いて国家を安定させて、臣下たちや大夫たちも心を尽くして、私の意向を果たしてね。宮殿の建設などの事業はすべて遺言の詔によって中止したよ。60歳以上の奴隷は、平民として解放するよ」
二月、西域から貢物として()(かん)()が献上されて、(そう)(そう)()()()がこれを百官(官僚)たちに示すために試しに見せたよ。

(註2)

異物志曰:斯調國有火州,在南海中。其上有野火,春夏自生,秋冬自死。有木生於其中而不消也,枝皮更活,秋冬火死則皆枯瘁。其俗常冬采其皮以為布,色小青黑;若塵垢洿之,便投火中,則更鮮明也。

()(ぶつ)()』によると、()調(ちょう)国には()州と呼ばれる場所があって、南海の中にあるんだって。その地には野生の植物が火を発することがあって、春や夏に自然発生して、秋や冬に消えるよ。その中には木が生えていて、火は消えなくて、枝や皮がさらに活気を持って、秋や冬に火が消えると枯れてしまうの。その地の風習は、いつも冬にその木の皮を収穫して布として使うんだって。色は少し青黒いよ。もし汚れちゃっても、火の中に投げると、より鮮やかになるよ。

(註3)

傅子曰:漢桓帝時,大將軍梁兾以火浣布為單衣,常大會賔客,兾陽爭酒,失杯而汙之,偽怒,解衣曰:「燒之。」布得火,煒燁赫然,如燒凡布,垢盡火滅,粲然潔白,若用灰水焉。

()()』によると、(かん)(かん)(てい)の時代に、(たい)(しょう)(ぐん)(りょう)()は火浣布を着物として着ていて、いつも大勢の客を招いて宴会を開いていたよ。ある日、(りょう)()が酒を取り合う中で杯を落として汚しちゃって、怒ったふりをして服を脱いで、「これを焼け」と言ったよ。布に火にかかると、光り輝いて、焼ける様子はまるで普通の布が焼かれるみたいだったけど、汚れがすっかり取れて、火が消えると真っ白で清潔な状態になって、まるで灰水(上澄みの水)を使ったみたいな輝きを放ったんだって。

(註4)

搜神記曰:崑崙之墟有炎火之山,山上有鳥獸草木,皆生於炎火之中,故有火浣布,非此山草木之皮枲,則其鳥獸之毛也。漢世西域舊獻此布,中間乆絕;至魏初,時人疑其無有。文帝以為火性酷烈,無含生之氣,著之典論,明其不然之事,絕智者之聽。及明帝立,詔三公曰:「先帝昔著典論,不朽之格言,其刊石于廟門之外及太學,與石經並,以永示來世。」至是西域使至而獻火浣布焉,於是刊滅此論,而天下笑之。

(そう)(じん)()』によると、(こん)(ろん)の遺跡には炎火の山があって、山の上には鳥や獣がいて、草木が生えているけど、これらはすべて炎火の中で生まれて育っているんだって。だから、火浣布があるんだ。この布は、この山の草木の皮や枝だけではなくて、鳥獣の毛からも作られているよ。
(かん)の時代、西域がこの布を古くから献上していたけど、その後しばらく途絶えたんだって。()の初めになると、人々はこれが存在しないのではないかと疑問に思ったの。(そう)()は、火が激しい性質を持っていて生命の気を含んでいないと考えて、それを『(てん)(ろん)』に書いて、火浣布が存在しないことを明らかにして、賢い人たちがこれを聴くことをやめさせたの。そして(そう)(えい)が即位すると、(さん)(こう)に命令してこう言ったよ。
「先帝((そう)())が昔、『(てん)(ろん)』を作って、不朽の格言を残したよ。それらを廟門の外や太学に刻んで、石経と一緒に後世に示すべきだよ」
そして、その後、西域から使者が来て火浣布を献上したら、この『(てん)(ろん)』を刻んでいたものを壊して、天下の人たちはそれを笑ったの。

(註4)

臣松之昔從征西至洛陽,歷觀舊物,見典論石在太學者尚存,而廟門外無之,問諸長老,云晉初受禪,即用魏廟,移此石於太學,非兩處立也。竊謂此言為不然。

(はい)(しょう)()の見解としては、昔に西征に従って(らく)(よう)に行って、古いものを見て回った中で、太学にある『(てん)(ろん)』の石が今もなお残っているのを目にしたけど、廟門の外にはその石はなかったんだ。長老たちに尋ねると、『(しん)が初めて皇帝の位を継いだ時に、()の廟をそのまま使って、この石を太学に移したから、2つの場所に石を立てたわけではない』と説明を受けたよ。でも、私はこの言説には納得できなくて、正しいとは思えないんだ。

(註5)

又東方朔神異經曰:南荒之外有火山,長三十里,廣五十里,其中皆生不燼之木,晝夜火燒,得暴風不猛,猛雨不滅。火中有鼠,重百斤,毛長二尺餘,細如絲,可以作布。常居火中,色洞赤,時時出外而色白,以水逐而沃之即死,續其毛,織以為布。

(とう)(ぼう)(さく)の『(しん)()(きょう)』によると、南の荒野の外に火山があって、その長さは30里、幅は50里もあるよ。その中には燃え尽きない木が生えていて、昼も夜も火が燃え続けているんだって。突風が来ても火が激しくならないし、豪雨が降っても火が消えないんだ。火の中には、体重が100斤もある鼠がいるよ。その鼠の毛は2尺以上もあって、細くて糸みたいだから、布として使うことができるよ。これらの鼠はいつも火の中に住んでいて、その毛色は真っ赤だけど、時々外に出て白くなるんだ。水で追い払うとすぐに死んじゃうけど、その後も毛が生え変って、それを織って布として使うよ。

帝として

本文

丁丑詔曰:「太尉體道正直,盡忠三世,南擒孟達,西破蜀虜,東滅公孫淵,功蓋海內。昔周成建保傅之官,近漢顯宗崇寵鄧禹,所以優隆儁乂,必有尊也。其以太尉為太傅,持節統兵都督諸軍事如故。」

丁丑の日、詔を下してこう言ったよ。
(たい)()()()())は道を現して、正しくて、3世代にわたって忠を尽くしているよ。南で(もう)(たつ)を捕らえて、西で(しょく)の敵を破って、東で(こう)(そん)(えん)を滅ぼして、その功績は国中に広がっているよね。昔、(しゅう)(せい)(おう)()()という官職を建てて、近い時代には(かん)(けん)(そう)(明帝)が(とう)()を尊んで使ったよ。これは、優れた人を優遇して尊重して、必ず尊ぶものだよ。だから、(たい)()(たい)()に任命して、前のまま節を持たせて兵を統率させて()(とく)(しょ)(ぐん)()とするよ」

本文

三月,以征東將軍滿寵為太尉。夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月,上始親臨朝,聽公卿奏事。八月,大赦。冬十月,以鎮南將軍黃權為車騎將軍。

三月、(せい)(とう)(しょう)(ぐん)(まん)(ちょう)(たい)()に任命したよ。
夏の六月、(りょう)(とう)(とう)(とう)県の役人や民が海を渡って(せい)郡の境界に移住したから、古い都城を解放して新しい(とう)県として、移住民を住まわせるようにしたよ。秋の七月、初めて朝廷に臨んで、(こう)(けい)の上奏を聞いたよ。八月、大赦を行ったよ。冬の十月、(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)(こう)(けん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命したよ。

暦を定める

本文

十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」

十二月、詔を下してこう言ったよ。
(れっ)()(めい)(こう)(てい)(そう)(えい))が正月に天下から去ったから、役人たちは深くその日を悲しんでいるの。そこで、()の暦を再び使うことにするよ。先帝((そう)(えい))の三統の法に反するかもしれないけど、これも礼制が変わった結果だよ。そして、()の暦は数的に天の正しい時とされていて、建寅の月を(せい)()元年の正月として、建丑の月を後の十二月とするよ」

237 年に(そう)(えい)さんが決めた暦を戻したよ。

災害に対応する

本文

正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。

(せい)()元年(240年)、春の二月、乙丑の日、()(ちゅう)(ちゅう)(しょ)(かん)(りゅう)(ほう)と、()(ちゅう)(ちゅう)(しょ)(れい)(そん)()をそれぞれ()(ゆう)(こう)(ろく)(たい)()に任命したよ。丙戌の日、(りょう)(とう)(ぶん)県と(ほく)(ほう)県の民が海を渡ったから、(せい)郡の西(せい)(あん)県、(りん)()県、(しょう)(こく)県の境界に新しく(ぶん)県と(なん)(ぽう)県を設けて、流民をそこに住まわせたよ。

本文

自去冬十二月至此月不雨。丙寅,詔令獄官亟平冤枉,理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀,各悉乃心。夏四月,車騎將軍黃權薨。秋七月,詔曰:「易稱損上益下,節以制度,不傷財,不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物,將奚以為?今出黃金銀物百五十種,千八百餘斤,銷冶以供軍用。」八月,車駕巡省洛陽界秋稼,賜高年力田各有差。

去年の冬の十二月からこの月まで雨が降らなかったの。丙寅の日、詔を下して、獄官に対して冤罪をすぐに解決して軽い罪を取り除くように命令して、臣下や(こう)(けい)、士人たちには良い提案を口にして、それぞれの意見に心を尽くすように命令したよ。夏の四月、(しゃ)()(しょう)(ぐん)(こう)(けん)が亡くなったんだ。
秋の七月、詔を下してこう言ったよ。
「『(えき)(きょう)』に言われるように、上を削って下を補うことで制度を整えて、国家の財政を損なわないで、民を傷つけないようにすることが重要なんだ。今、民は不足しているのに、宮廷では金銀などの品々をたくさん作っているよ。どうすればいいの? そこで、これらの黄金や銀の製品を150種類以上、合計1800斤以上を溶かして、軍事に充てるよ」
八月、車駕(天子の車)が(らく)(よう)の周辺の秋の作物を視て、高齢者や農民たちにそれぞれ贈り物を与えたよ。

芍陂の戦い

本文

二年春二月,帝初通論語,使太常以太牢祭孔子於辟雍,以顏淵配。

正始二年(241年)、春の二月、(そう)(ほう)が『(ろん)()』を学び始めて、(たい)(じょう)に命令して太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて、(へき)(よう)(こう)()(がん)(えん)を祀ったよ。

太牢は、牛・羊・豚などのお供え物だよ。

本文

夏五月,吳將朱然等圍襄陽之樊城,太傅司馬宣王率衆拒之。(註6)六月辛丑,退。己卯,以征東將軍王陵為車騎將軍。冬十二月,南安郡地震。

夏の五月、()の将の(しゅ)(ぜん)たちが(じょう)(よう)(はん)(じょう)を包囲したけど、(たい)()()()()が率いる軍がこれに抵抗したよ。六月、辛丑の日、撤退したよ。己卯の日、(せい)(とう)(しょう)(ぐん)(おう)(りょう)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命したよ。冬の十二月、(なん)(あん)郡で地震があったんだって。

(註6)

干寶晉紀曰:吳將全琮寇芍陂,朱然、孫倫五萬人圍樊城,諸葛瑾、步隲寇柤中;琮已破走而樊圍急。宣王曰:「柤中民夷十萬,隔在水南,流離無主,樊城被攻,歷月不解,此危事也,請自討之。」議者咸言:「賊遠圍樊城不可拔,挫於堅城之下,有自破之勢,宜長策以御之。」宣王曰:「軍志有之:將能而御之,此為縻軍;不能而任之,此為覆軍。今疆埸騷動,民心疑惑,是社稷之大憂也。」

(かん)(ぽう)の『(しん)()』によると、()の将の(ぜん)(そう)(しゃく)()を襲撃して、(しゅ)(ぜん)(そん)(りん)たち5万の兵が(はん)(じょう)を包囲したんだ。その間、(しょ)(かつ)(きん)()(しつ)()(ちゅう)を攻撃したよ。(ぜん)(そう)はすでに破れて逃げていて、(はん)(じょう)の包囲が激しくなったんだ。
()()()はこう言ったよ。
()(ちゅう)の民は10万人で、南の水を隔てていて、主を持たないで離ればなれになっているんだ。(はん)(じょう)は攻撃されていて、何ヶ月も解放されていないよ。これは危機だよ。私が自分でこれを討ちたいんだ」
議論する者たちはみんなこう言ったよ。
「遠くから敵が来て、(はん)(じょう)を包囲しているから、すぐには攻め落とせないよ。堅固な城の下では自ら勢いが破れてしまうかも。長期的な策略で対処するべきだよ」
でも、()()()はこう答えたよ。
「軍の志には、将が能力を持って指揮して、軍を律することで、軍を束ねることとされているよ。将の能力が足りないのに放置しておくと、軍は崩壊してしまうよ。今、国境が混乱して、民の心は疑念に満ちているんだ。これは国家の大きな心配だよね」

(註6)

六月,督諸軍南征,車駕送津陽城門外。宣王以南方暑溼,不宜持乆,使輕騎挑之,然不敢動。於是乃令諸軍休息洗沐,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。然等聞之,乃夜遁。追至三州口,大殺獲。

六月、()()()はたくさんの軍を指揮して南へ進めて、天子の車は(しん)(よう)の城門の外まで送られたよ。()()()は南方が暑くて湿気が多いから、長く留まるべきではないと考えて、軽騎兵に敵を探らせたけど、彼らは動けなかったんだ。そこで、()()()はすべての軍に休息を与えて、身を清めるように命令して、精鋭を選んで、先鋒を募って、号令を徹底して、攻撃の機会を示したよ。でも、敵はこの情報を聞くと、夜中に逃げちゃった。軍は彼らを三州口まで追って、たくさんの敵を討ち取ったんだ。

地震が起きる

本文

三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。

正始三年(242年)、春の正月、(とう)(へい)(おう)(そう)()が亡くなったんだ。三月、(たい)()(まん)(ちょう)も亡くなったよ。
秋の七月、甲申の日、(なん)(あん)郡で地震が起こったよ。乙酉の日、(りょう)(ぐん)(しょう)(ぐん)(しょう)(せい)(たい)()に任命したよ。冬の十二月、()郡でも地震があったよ。

曹操の臣下を祀る

本文

四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

正始四年(243年)、春の正月、(そう)(ほう)が元服して、臣下たちにそれぞれ贈り物を与えたよ。夏の四月、乙卯の日、皇后として(しん)()を立てて、大赦を行ったよ。五月の朔日、日食があったんだ。
秋の七月、詔を下して、昔の(だい)()()(そう)(しん)(そう)(きゅう)(せい)(なん)(たい)(しょう)(ぐん)()(こう)(しょう)(たい)(じょう)(かん)(かい)()(くう)(ちん)(ぐん)(たい)()(しょう)(よう)(しゃ)()(しょう)(ぐん)(ちょう)(こう)()(しょう)(ぐん)(じょ)(こう)(ぜん)(しょう)(ぐん)(ちょう)(りょう)()(しょう)(ぐん)(がく)(しん)(たい)()()(きん)()()(おう)(ろう)(ひょう)()(しょう)(ぐん)(そう)(こう)(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)()(こう)(えん)(こう)(しょう)(ぐん)(しゅ)(れい)(ぶん)(ぺい)(しつ)(きん)()(ぞう)()()(りょ)(しょう)(ぐん)()(てん)(りつ)()(しょう)(ぐん)(ほう)(とく)()(もう)(こう)()(てん)()(そう)(そう)の廟の庭に祀ると命令したよ。
冬の十二月、()国の女王の()()()が使者を送って献上したよ。

興勢の役

本文

五年春二月,詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祠孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傳、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸於太祖廟庭。(註7)己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。

正始五年(244年)、春の二月、詔を下して、(たい)(しょう)(ぐん)(そう)(そう)が軍を率いて(しょく)に遠征をしたよ。
夏の四月の朔日、日食があったんだって。五月、癸巳の日、『(しょ)(きょう)』の講義を受けて、(たい)(じょう)に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて(こう)()(がん)(えん)(へき)(よう)で祀ったよ。(たい)()()()())、(たい)(しょう)(ぐん)(そう)(そう))、そして侍講者にそれぞれの贈り物を与えたよ。丙午の日、(たたい)(しょう)(ぐん)(そう)(そう)が軍を引き返したよ。
秋の八月、(しん)(おう)(そう)(じゅん)が亡くなったんだ。九月、(せん)()族が朝廷に降伏して、(りょう)(とう)の属国を置いて、(しょう)(れい)県を置いてそこに留まらせたよ。
冬の十一月、癸卯の日、詔を下して昔の(しょう)(しょ)(れい)(じゅん)(ゆう)(そう)(そう)の廟の庭に祀ったよ。己酉の日、(しん)国をふたたび(けい)(ちょう)郡に戻すと決定したよ。十二月、()(くう)(さい)(りん)が亡くなったんだ。

(註7)

臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至於升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸,則未詳厥趣也。徐佗謀逆而許褚心動,忠誠之至遠同於日磾,且潼關之危,非褚不濟,褚之功烈有過典韋,今祀韋而不及褚,文所未達也。

(はい)(しょう)()の見解によると、()の時代の祭祀で、(じゅん)(いく)に対する扱いが不十分だったのは、彼が晩年に異議を唱えたことと、彼の地位が()の臣下ではなかったからだと思うよ。(てい)(いく)を昇進させて、(かく)()を遺して、最初に(しょう)(よう)を祀って、その後に(じゅん)(ゆう)を祀ったことについては、詳細な意図がわからないな。
(じょ)()は反逆を計画して、(きょ)(ちょ)の心を動かしたことは、忠誠が(きん)(じつ)(てい)と同じくらいであることを示しているよ。それに、(どう)(かん)の危機は、(きょ)(ちょ)がいなければ事態を切り抜けることはできなかっただろうね。(きょ)(ちょ)の功績は(てん)()をも上回っているけど、今、(てん)()を祀りながら(きょ)(ちょ)を祀らないのは、評価が足りないと思われるよ。

(じゅん)(いく)さんは(かん)の臣下という扱いなのかな。『(さん)(ごく)()』の列伝の構成としては()の臣下っぽいのだけれど。そして何も言われない()(きん)さん。

本文

六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」

正始六年(245年)、春の二月、丁卯の日、(なん)(あん)郡で地震があったんだ。丙子の日、(ひょう)()(しょう)(ぐん)(ちょう)(げん)()(くう)に任命したよ。
夏の六月、(ちょう)(げん)が亡くなったんだ。八月、丁卯の日、(たい)(じょう)(こう)(じゅう)()(くう)に任命したよ。癸巳の日、()(こう)(ろく)(たい)()(りゅう)(ほう)(ひょう)()(しょう)(ぐん)に、()(こう)(ろく)(たい)()(そん)()(えい)(しょう)(ぐん)に任命したよ。
冬の十一月、(そう)(そう)の廟で祭祀をして、前に言及した功労の臣下たち21人を初めて祀ったよ。十二月、辛亥の日、昔の()()(おう)(ろう)が作った『(えき)(でん)』を学者の課題の対象にするように命令したよ。乙亥の日、詔を下してこう言ったよ。
「明日、臣下たちを集めて大会を開くとき、(たい)()()()())は輿に乗って殿に上ってね」

高句驪の討伐

本文

七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或𤸇疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」(註8)

正始七年(246年)、春の二月、(ゆう)(しゅう)()()(かん)(きゅう)(けん)(こう)()()を討伐して、夏の五月には、(わい)(はく)族を討伐して、撃破したよ。(かん)()(けい)など数十の国々が、それぞれ部族を率いて投降してきたんだ。秋の八月、戊申の日、詔を下してこう言ったよ。
「この頃、市場で取引されている奴隷を見ると、彼らはみんな年齢が70歳以上で、病気に苦しんでいて、これは天の民の困っている状況だよ。それに、役人は彼らが力を使い果たしたとして、また売り払っているんだ。進退の余地はないよね。彼らをみんな良民として解放しよう。自立できない者がいる場合は、郡や県が支援してね」

(註8)

臣松之案:帝初即位,有詔「官奴婢六十以上免為良人」。旣有此詔,則宜遂為永制。七八年間,而復貨年七十者,且七十奴婢及𤸇疾殘病,並非可售之物,而鬻之於巿,此皆事之難解。

(はい)(しょう)()が調べたところ、(そう)(ほう)が皇帝に即位した初めの頃に「奴隷で60歳以上の人は良人として解放する」との詔があったよ。この詔があるから、永続的な制度として進めるべきだよ。でも、その後7から8年間で、ふたたび70歳以上の者が売られるようになったんだ。しかも、70歳以上の奴隷や病気を抱える人は売ることができないのに、市場で売るなんて理解が難しいね。

祭祀できない

本文

己酉,詔曰:「吾乃當以十九日親祠,而昨出已見治道,得雨當復更治,徒棄功夫。每念百姓力少役多,夙夜存心。道路但當期於通利,聞乃檛捶老小,務崇脩飾,疲困流離,以至哀歎,吾豈安乘此而行,致馨德於宗廟邪?自今已後,明申勑之。」冬十二月,講禮記通,使太常以太牢祀孔子於辟雍,以顏淵配。(註9)

己酉の日、詔を下してこう言ったよ。
「私は19日に自ら祭祀をする予定だったけど、昨日出かけて道が整備されていたのを見たよ。雨が降ったらふたたび修繕が必要になって、これまでの労力が無駄になっちゃう。いつも民の労働力は少ないのに負担が多いことを思って、私は昼も夜も心に留めているんだ。道路はただ通行の便を図るべきものなのに、今は年老いた者や幼い者までを駆り立てて鞭で打って、修繕に努めさせて、装飾にこだわりすぎて人々を疲れさせて、故郷を離れる者まで出ているんだ。その結果、人々の嘆き悲しむ声が上がっているよ。どうして私がそのような状況の中、これを利用して快適に乗り物に乗って、宗廟(祖先の廟)で功績を誇れるの? 今後はこの点について厳しく命令するね」
冬の十二月、『(らい)()』の講義を受けて、(たい)(じょう)に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて(こう)()(へき)(よう)で祀って、(がん)(えん)も併せて祀ったよ。

(註9)

習鑿齒漢晉春秋曰:是年,吳將朱然入柤中,斬獲數千;柤中民吏萬餘家渡沔。司馬宣王謂曹爽曰:「若便令還,必復致寇,宜權留之。」爽曰:「今不脩守沔南,留民沔北,非長策也。」宣王曰:「不然。凡物置之安地則安,危地則危,故兵書曰,成敗形也,安危勢也,形勢御衆之要,不可不審。設令賊二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸鈔柤中,君將何以救之?」爽不聽,卒令還。然後襲殺之。

(しゅう)(さく)()の『(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、この年、()の将の(しゅ)(ぜん)()(ちゅう)に侵入して、数千人を討ち取ったり捕らえたよ。()(ちゅう)の民や役人は1万以上の家が(べん)(すい)を渡ったよ。()()()(そう)(そう)にこう言ったよ。
「今、彼らを帰せば必ずふたたび敵を招くだろうから、彼らを留めるべきだよ」
(そう)(そう)はこう答えたよ。
「今、(べん)(すい)の南岸の防備を強化しないで民を北岸に留め置くことは、長期的な戦略とは言えないよね」
()()()はこう言ったよ。
「そうではないよ。すべてのものは安全な場所に置かれれば安定するし、危険な場所に置かれれば危険になるんだ。だから兵法には、成功と失敗の形勢を見極めること、安全と危険の勢いを考えることが重要だとあるんだ。形勢は軍隊を操る上で欠かせないもので、慎重に考えるべきだよ。例えば、敵が2万人で(べん)(すい)を封鎖して、3万人が(べん)(すい)の南の軍と対峙して、1万人が上陸して()(ちゅう)を陥れるとしたら、あなたはどのようにしてそれを救うの?」
(そう)(そう)は聞き入れなくて、彼らを帰したよ。その後、(しゅ)(ぜん)は攻撃して彼らを破ったんだ。

(註9)

袁淮言於爽曰:「吳楚之民脆弱寡能,英才大賢不出其土,比技量力,不足與中國相抗,然自上世以來常為中國患者,蓋以江漢為池,舟楫為用,利則陸鈔,不利則入水,攻之道遠,中國之長技無所用之也。孫權自十數年以來,大畋江北,繕治甲兵,精其守禦,數出盜竊,敢遠其水,陸次平土,此中國所願聞也。

(えん)(わい)(そう)(そう)にこう言ったよ。
()()の民は、体力が弱く能力も乏しいし、偉大な才人や賢者がその地から出ることも少なくて、その技量や力量を比べても、中原と対抗するには足りないんだ。でも、古代から彼らはいつも中原にとっての悩みの種となってきたよね。それは、長江や漢水を天然の防衛線として、舟をうまく使って、有利な時には陸で略奪をして、不利な時には水上に退避する戦術を使うからなの。彼らを攻めようとしても道のりが遠くて、中原の得意とする技術や戦術を活かすことができないんだ。(そん)(けん)は十数年前から、何度も長江の北で大規模な狩り(征伐)をして、鎧や武器を整えて守備を強化して、何度も侵略をして、水を遠ざけて陸地を平らげていったよ。これは中原が望んで聞きたい事態だよ。

(註9)

夫用兵者,貴以飽待飢,以逸擊勞,師不欲乆,行不欲遠,守少則固,力專則彊。當今宜捐淮、漢已南,退却避之。若賊能入居中央,來侵邊境,則隨其所短,中國之長技得用矣。若不敢來,則邊境得安,無鈔盜之憂矣。使我國富兵彊,政脩民一,陵其國不足為遠矣。

そもそも兵を使うときは、飢えた敵に満ち足りた軍で対して、疲れた敵を休養十分な軍で撃つことが重要だよ。軍を長く留めることを避けて、遠征を控えて、守備は少ない兵でも固めて、力を集中すれば強さが生まれるよ。今は、淮河と漢水より南の地域を捨てて、後退して敵を避けるべきなんだ。もし敵が中央に進入して居座って、辺境に侵攻してくるなら、敵の弱点を突くことができて、中原の得意とする技術を活用できるだろうね。もし敵が攻めて来ないなら、辺境は安定して、略奪や盗賊の心配もなくなるよね。こうして私たちの国が豊かになって、兵が強くなって、政治が整って、民がひとつになれば、敵国を征服することは遠い目標ではなくなるよ。

(註9)

今襄陽孤在漢南,賊循漢而上,則斷而不通,一戰而勝,則不攻而自服,故置之無益於國,亡之不足為辱。自江夏已東,淮南諸郡,三后已來,其所亡幾何,以近賊疆界易鈔掠之故哉!若徙之淮北,遠絕其間,則民人安樂,何鳴吠之驚乎?」遂不徙。

今、(じょう)(よう)は漢水の南に孤立していて、もし敵が漢水に沿って上流へ進んだら、断絶されて孤立無援になっちゃう。一度の戦いで勝利すれば、敵は攻撃しないでも自然に屈服するだろうね。だから、この地を維持しても国に益はなくて、失っても恥ではないんだよ。それに、(こう)()の東から南にかけて、淮水より南のそれぞれの郡について、三代((そう)(そう)(そう)()(そう)(えい))にわたって、どれだけの領地を失ったのかな。それは、敵との境に近くて略奪しやすい地だからだよ。もしこれらの民を淮水の北側に移せば、敵との距離が遠く離れて、民は安穏な生活を送れるだろうね。その結果、何を恐れて警戒の叫びを上げる必要があるのかな?」
でも、結局は移さなかったんだ。

何晏たちの提案

本文

八年春二月朔,日有蝕之。夏五月,分河東之汾北十縣為平陽郡。

正始八年(247年)、春の二月の朔日、日食があったよ。夏の五月、()(とう)(ふん)(すい)の北の10つの県を分けて、(へい)(よう)郡としたよ。

本文

秋七月,尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身,治其身者慎其所習。所習正則其身正,其身正則不令而行;所習不正則其身不正,其身不正則雖令不從。是故為人君者,所與游必擇正人,所觀覽必察正象,放鄭聲而弗聽,遠佞人而弗近,然後邪心不生而正道可弘也。

秋の七月、(しょう)(しょ)()(あん)は上奏してこう言ったよ。
「国を良く治める者は、必ずまず自らの身を正すことから始めるよ。自らの身を正すには、自らの習慣を慎重に選ぶべきだよ。習慣が正しければ身も正しくなって、身が正しければ命令を出さなくても自然と行われるようになるんだって。逆に、習慣が正しくなければ身は正されないし、身が正されなければ命令を出しても従われないんだ。だから、君主は、友人や仲間を選ぶときには必ず正しい人物を選んで、目にするものは正しい模範であるかよく見極めるべきだよ。悪い心が生まれないようにするために、(てい)の音楽を聞かないで、言葉を飾って媚びを売る人たちを避けて近づかないようにすれば、邪悪な心が生じないで、正しい道を広められるよ。

本文

季末闇主不知損益,斥遠君子,引近小人,忠良疏遠,便辟褻狎,亂生近暱,譬之社鼠;考其昏明,所積以然,故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』,言慎所近也,周公戒成王曰『其朋其朋』,言慎所與也。書云:『一人有慶,兆民賴之。』可自今以後,御幸式乾殿及游豫後園,皆大臣侍從,因從容戲宴,兼省文書,詢謀政事,講論經義,為萬世法。」

世が衰える時の愚かな君主は、物事の損益を理解しないで、君子(立派な人)を遠ざけて、小人(つまらない人)を引き寄せるんだ。忠のある人を遠ざけて、媚びへつらう者が親しくなって、乱れは親しい間柄から生じるよ。これは宗廟(祖先の廟)に潜むネズミ(国家を食い物にするたとえ)みたいだね。君主の明暗の違いを考えてみると、このような事態は積み重ねによって起こるもので、だから聖人や賢者はこのようなことを深く考えて警告しているんだ。(しゅん)()に『隣よ、隣よ』と戒めたのは、近づく相手を慎重に選べという意味で、(しゅう)(こう)(せい)(おう)に『その友、その友』と戒めたのも、交友を慎重に選べという意味だよ。『(しょ)(きょう)』には『一人(帝)が幸せであれば、たくさんの人たちが幸せになる』とあるよ。だから、これからは式乾殿で滞在したり後園で遊ぶ時には、いつも大臣たちが同席して、気楽に宴会を楽しむだけではなくて、文書を読んで、政治の相談をして、経典の義について論じ合うべきだよ。それが後の世に伝わる規範になるだろうね」

本文

冬十二月,散騎常侍諫議大夫孔晏乂奏曰:「禮,天子之宮,有斲礱之制,無朱丹之飾,宜循禮復古。今天下已平,君臣之分明,陛下但當不懈于位,平公正之心,審賞罰以使之。可絕後園習騎乘馬,出必御輦乘車,天下之福,臣子之願也。」晏乂咸因闕以進規諫。

冬の十二月、(さん)()(じょう)()(かん)()(たい)()(こう)(がい)は上奏してこう言ったよ。
「『礼』では、天子の宮殿には刻むことと磨くことの制度はあるけど、朱や丹での派手な装飾は許されていないよ。だから、『礼』に従って、古の様式に戻すべきだよ。今、天下はすでに平定されていて、君主と臣下の区別も明確だよ。陛下はただ位に怠らないで、公平で正直な心を保って、賞罰を慎重にして、秩序を保ってほしいんだ。後園で馬に乗る習慣をやめて、外出する時には必ず(れん)(天子の車)に乗るべきだよ。これは天下の幸福で、臣下たちの願いでもあるんだ」
()(あん)(こう)(がい)は他の臣下の意見も取り入れて、欠点を進言したの。

本文

九年春二月,衞將軍中書令孫資,癸巳,驃騎將軍中書監劉放,三月甲午,司徒衞臻,各遜位,以侯就第,位特進。四月,以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空,固辭不受。秋九月,以車騎將軍王淩為司空。冬十月,大風發屋折樹。

正始九年(248年)、春の二月、(えい)(しょう)(ぐん)(ちゅう)(しょ)(れい)(そん)()が、癸巳の日に、(ひょう)()(しょう)(ぐん)(ちゅう)(しょ)(かん)(りゅう)(ほう)が、三月の甲午の日、()()(えい)(しん)が、それぞれ位を譲って、侯として家に戻って、特進の地位になったよ。
四月、()(くう)(こう)(じゅう)()()になったよ。(こう)(ろく)(たい)()(じょ)(ばく)()(くう)に任命されたけど、固く辞退して受けなかったんだ。秋の九月、(しゃ)()(しょう)(ぐん)(おう)(りょう)()(くう)に任命されたよ。冬の十月、大風が吹いて、屋根や木々が折れちゃった。

高平陵の変

本文

嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。(註10)太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏収黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。(註11)

()(へい)元年(249年)、春の正月、甲午の日、車駕(天子の車)が(こう)(へい)(りょう)を訪れたよ。(たい)()()()()が上奏して、(たい)(しょう)(ぐん)(そう)(そう)と、(そう)(そう)の弟で(ちゅう)(りょう)(ぐん)(そう)()()(えい)(しょう)(ぐん)(そう)(くん)(さん)()(じょう)()(そう)(げん)の官職を辞めさせて、侯に就かせて家に帰らせたよ。そして、戊戌の日、役人が(こう)(もん)(ちょう)(とう)(てい)()に送って、その罪状を調べた結果、(そう)(そう)と一緒に不正な計画をしていたことが明らかになったんだ。(しょう)(しょ)(てい)(ひつ)(とう)(よう)()(あん)()(れい)(こう)()(ひつ)()(けい)(しゅう)()()()(しょう)(だい)()(のう)(かん)(はん)(そう)(そう)と通じていたことが発覚して、彼らはみんな処刑されちゃった。この話は「曹爽伝」に記されているよ。
丙午の日、大赦を行ったよ。丁未の日、(たい)()()()()(じょう)(しょう)に任命されたけど、最初は辞退したよ。

(註10)

孫盛魏世譜曰:高平陵在洛水南大石山,去洛城九十里。

(そん)(せい)の『()(せい)()』によると、(こう)(へい)(りょう)は洛水の南、大石山にあって、(らく)(よう)からは90里離れているんだって。

(註11)

孔衍漢魏春秋曰:詔使太常王肅冊命太傅為丞相,增邑萬戶,羣臣奏事不得稱名,如漢霍光故事。太傅上書辭讓曰:「臣親受顧命,憂深責重,憑賴天威,摧弊姦凶,贖罪為幸,功不足論。又三公之官,聖王所制,著之典禮。至於丞相,始自秦政。漢氏因之,無復變改。今三公之官皆備,橫復寵臣,違越先典,革聖明之經,襲秦漢之路,雖在異人,臣所宜正,況當臣身而不固爭,四方議者將謂臣何!」書十餘上,詔乃許之,復加九錫之禮。太傅又言:「太祖有大功大德,漢氏崇重,故加九錫,此乃歷代異事,非後代之君臣所得議也。」又辭不受。

(こう)(えん)の『(かん)()(しゅん)(じゅう)』によると、詔によって(たい)(じょう)(おう)(しゅく)(たい)()()()())を(じょう)(しょう)に任命して、領地を1万戸増やして、奏事する時には名前を挙げないという(かん)(かく)(こう)の例にならったよ。でも、()()()は上書して辞退してこう言ったよ。
「私は君主の命令を受けて、深い心配を抱えて重い責任を背負っているの。天の威光に頼って、悪い人たちを打ち破ったのは、罪をほろぼす幸運に恵まれただけで、私の功績なんて語るに足りないんだ。それに、(さん)(こう)の職は、聖王の定めたもので、典礼として定められたものだよ。(じょう)(しょう)の官職については、(しん)の始皇帝から始まって、(かん)の王朝もこれを受け継いで変えなかったよ。今、(さん)(こう)の官職がすべて揃っているのに、ふたたび気に入った臣下たちを起用して、先代の規範に逆らって、聖王の制度を改めて、(しん)(かん)の道を踏襲しているんだ。このような状況が他人に関わることであれば、私が正すべきだよ。その上、自分がその責任を負う立場なのに、固く争わないとすれば、四方の人たちは私をどう思うの!」
書を10以上も上奏して、詔によって()()()に九錫の礼を与えようとすると、()()()はさらにこう言ったよ。
(そう)(そう)は大きな功績と徳を持っていて、(かん)の王朝は彼を尊重していたから、九錫が与えられたんだ。これは歴代でも特別なことで、後の世の君主や臣下が議論できることではないよ」
さらに彼は辞退したんだ。

本文

夏四月乙丑,改年。丙子,太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯,以司空王淩為太尉。庚子,以司隷校尉孫禮為司空。

夏の四月、乙丑の日、年号を()(へい)に改めたよ。丙子の日、(たい)()(しょう)(せい)が亡くなったんだ。冬の十二月、辛卯の日、()(くう)(おう)(りょう)(たい)()に任命したよ。庚子の日、()(れい)(こう)()(そん)(れい)()(くう)に任命したよ。

本文

二年夏五月,以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月,以特進孫資為驃騎將軍。十一月,司空孫禮薨。十二月甲辰,東海王霖薨。乙未,征南將軍王昶渡江,掩攻吳,破之。

嘉平二年(250年)、夏の五月、(せい)西(せい)(しょう)(ぐん)(かく)(わい)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命したよ。冬の十月、特進の(そん)()(ひょう)()(しょう)(ぐん)に任命したよ。十一月、()(くう)(そん)(れい)が亡くなったんだ。十二月、甲辰の日、(とう)(かい)(おう)(そん)(りん)が亡くなったよ。乙未の日、(せい)(なん)(しょう)(ぐん)(おう)(ちょう)が長江を渡って、()を奇襲して、打ち破ったよ。

王淩の乱

本文

三年春正月,荊州刺史王基、新城太守州泰攻吳,破之,降者數千口。二月,置南郡之夷陵縣以居降附。三月,以尚書令司馬孚為司空。四月甲申,以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰,大赦。丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。六月,彪賜死。

嘉平三年(251年)、春の正月、(けい)(しゅう)()()(おう)()(しん)(じょう)(たい)(しゅ)(しゅう)(たい)()を攻めて、打ち破って、数千人が降伏してきたよ。二月、(なん)郡に()(りょう)県を置いて、降伏した人たちがそこに移住したんだ。三月、(しょう)(しょ)(れい)()()()()(くう)に任命したよ。四月、甲申の日、(せい)(なん)(しょう)(ぐん)(おう)(ちょう)(せい)(なん)(たい)(しょう)(ぐん)に任命したよ。壬辰の日、大赦を行ったんだ。
丙午の日、(たい)()(おう)(りょう)が帝を廃位して()(おう)(そう)(ひょう)を立てようとしている陰謀が見つかって、(たい)()()()()(おう)(りょう)を討つために東へ軍を進めたよ。五月、甲寅の日、(おう)(りょう)は自ら命を絶って、六月、(そう)(ひょう)に死を命令したよ。

本文

秋七月壬戌,皇后甄氏崩。辛未,以司空司馬孚為太尉。戊寅,太傅司馬宣王薨,以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍,錄尚書事。乙未,葬懷甄后于太清陵。庚子,驃騎將軍孫資薨。十一月,有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者,更以官為次,太傅司馬宣王功高爵尊,最在上。十二月,以光祿勳鄭冲為司空。

秋の七月、壬戌の日、皇后の(しん)()が亡くなったんだ。辛未の日、()(くう)()()()太尉(たい\い)に昇進させたよ。戊寅の日、(たい)()()()()が亡くなって、(えい)(しょう)(ぐん)()()()(ちん)()(たい)(しょう)(ぐん)に任命して、(しょう)(しょ)の政務をまとめさせたよ。乙未の日、皇后の(しん)()を太清陵に葬ったんだ。庚子の日、(ひょう)()(しょう)(ぐん)(そん)()が亡くなったよ。
十一月、役人が、(そう)(そう)の廟で祀っている功のある臣下たちを、官位に応じて順位を改めようと上奏したよ。太傅の()()()の功績が高くて位が尊いから、最も上位に位置したの。十二月、(こう)(ろく)(くん)(てい)(ちゅう)()(くう)に任命したよ。

東興の戦い

本文

四年春正月癸卯,以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月,立皇后張氏,大赦。夏五月,魚二,見于武庫屋上。(註12)

嘉平四年(252年)、春の正月、癸卯の日、(ちん)()(たい)(しょう)(ぐん)()()()(たい)(しょう)(ぐん)に昇進させたよ。二月、(ちょう)()を皇后に立てて、大赦を行ったよ。
夏の五月、魚が2匹、武庫の屋根の上で見つかったんだって。

(註12)

漢晉春秋曰:初,孫權築東興隄以遏巢湖。後征淮南,壞不復脩。是歲諸葛恪帥軍更於隄左右結山,挾築兩城,使全端、留略守之,引軍而還。諸葛誕言於司馬景王曰:「致人而不至於人者,此之謂也。今因其內侵,使文舒逼江陵,仲恭向武昌,以羈吳之上流,然後簡精卒攻兩城,比救至,可大獲也。」景王從之。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、前に、(そん)(けん)(とう)(こう)に堤を築いて(そう)()をふさいだんだ。その後、(わい)(なん)を攻めた時に破壊されて、修復されなかったんだ。この年、(しょ)(かつ)(かく)は軍を率いて堤で左右の山を結んで、両側に城を築いて(ぜん)(たん)(りゅう)(りゃく)に守らせて、軍を引き返したよ。(しょ)(かつ)(たん)()()()にこう言ったよ。
「敵を引き寄せて自らが敵に引き寄せられない者、つまり戦いで主導権を握るとはこのことだよね。今、敵が内部に攻め込んでいるから、(ぶん)(じょ)(おう)(ちょう))を(こう)(りょう)に行かせて、(ちゅう)(きょう)(かん)(きゅう)(けん))を()(しょう)に向かわせて、()の上流を制圧しよう。その後、精鋭の兵を選んで2つの城を攻撃すれば、援軍が着くまでに大きな戦果を得られるだろうね」
()()()はこのとおりにしたよ。

「致人而不至於人者」は、『(そん)()』「(きょ)(じつ)」から。

本文

冬十一月,詔征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎮南將軍毌丘儉等征吳。十二月,吳大將軍諸葛恪拒戰,大破衆軍於東關。不利而還。(註13)

冬の十一月、詔によって、(せい)(なん)(たい)(しょう)(ぐん)(おう)(ちょう)(せい)(とう)(しょう)(ぐん)()(じゅん)(ちん)(なん)(しょう)(ぐん)(かん)(きゅう)(けん)たちが()を征伐したよ。十二月、()(たい)(しょう)(ぐん)(しょ)(かつ)(かく)が戦って抵抗して、(とう)(かん)で大軍を打ち破ったの。()は不利になって撤退したんだ。

(註13)

漢晉春秋曰:毌丘儉、王昶聞東軍敗,各燒屯走。朝議欲貶黜諸將,景王曰:「我不聽公休,以至於此。此我過也,諸將何罪?」悉原之。時司馬文王為監軍,統諸軍,唯削文王爵而已。是歲,雍州刺史陳泰求勑并州并力討胡,景王從之。未集,而鴈門、新興二郡以為將遠役,遂驚反。景王又謝朝士曰:「此我過也,非玄伯之責!」於是魏人愧恱,人思其報。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、(かん)(きゅう)(けん)(おう)(ちょう)は東の軍が敗れたと聞いて、それぞれ駆けつけた兵の陣営を焼いて、逃げちゃった。朝廷の会議では将たちを降格させるかどうか検討したけど、(ちん)()(たい)(しょう)(ぐん)()()()はこう言ったよ。
「私が(こう)(きゅう)(しょ)(かつ)(たん))の進言を聞き入れなかったから、こんな事態になっちゃった。これは私の過ちだから、どうして将たちに罪はあるの?」
こうして、すべての将を許したよ。当時、()()(しょう)が監軍をしていたけど、彼の爵位を削るだけにしたよ。
この年、(よう)(しゅう)()()(ちん)(たい)が、(へい)州に向かって()族を討つ勅命を求めて、()()()はこれに従ったよ。でも、軍が集まる前に、(がん)(もん)郡と(しん)(こう)郡が遠征を拒否して、混乱しちゃった。()()()はふたたび朝廷の官僚たちに謝ってこう言ったよ。
「これは私の過ちで、(げん)(はく)(ちん)(たい))に責任はないんだ」
こうして()の人たちは恥じ入って、彼に報いたいと思ったよ。

(註13)

習鑿齒曰:司馬大將軍引二敗以為己過,過消而業隆,可謂智矣。夫民忘其敗,而下思其報,雖欲不康,其可得邪?若乃諱敗推過,歸咎萬物,常執其功而隱其喪,上下離心,賢愚解體,是楚再敗而晉再克也,謬之甚矣!君人者,苟統斯理而以御國,則朝無秕政,身靡留愆,行失而名揚,兵挫而戰勝,雖百敗可也,況於再乎!

(しゅう)(さく)()によると、()()()は2度の敗北を自分の過ちと認めたけど、その後、その過ちは取り消されて、業績はとてもすごいものになったね。これは賢い行動と言えるよ。民は自分たちの敗北を忘れなくて、報いを思い続けるよ。だから、望ましくない結果から逃げられないの。もし敗北を隠して、過ちを他人のせいにして、功績だけを強調して損失を隠したら、国内は混乱して、上下の関係は崩れて、賢者も愚者も分かれちゃう。()がふたたび敗れて、(しん)がふたたび勝つよ。これは大きな間違いだね。君主は、正しい原則に従って国を統治したら、政治に欠陥はなくて、自分の過ちもなくて、失敗しても名声が高まって、兵を間違っても戦いに勝てるし、何度も敗北しても大丈夫。2度の敗北なんてなおさらだよ!

合肥新城の戦い

本文

五年夏四月,大赦。五月,吳太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。(註14)秋七月,恪退還。(註15)(註16)

嘉平五年(253年)、夏の四月、大赦を行ったよ。五月、()(たい)()(しょ)(かつ)(かく)(がっ)()(しん)(じょう)を包囲したけど、詔によって(たい)()()()()にこれを防ぐように命令したよ。秋の七月、(しょ)(かつ)(かく)が撤退したよ。

(註14)

漢晉春秋曰:是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰:「今東西有事,二方皆急,而諸將意沮,若之何?」松曰:「昔周亞夫堅壁昌邑而吳楚自敗,事有似弱而彊,或似彊而弱,不可不察也。今恪悉其銳衆,足以肆暴,而坐守新城,欲以致一戰耳。若攻城不拔,請戰不得,師老衆疲,勢將自走,諸將之不徑進,乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪,投食我麥,非深根之寇也。且謂我并力於東,西方必虛,是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴,出其不意,殆將走矣。」景王曰:「善!」乃使郭淮、陳泰悉關中之衆,解狄道之圍;勑毌丘儉等案兵自守,以新城委吳。姜維聞淮進兵,軍食少,乃退屯隴西界。

(かん)(しん)(しゅん)(じゅう)』によると、この時、(きょう)()も出撃して(てき)(どう)を包囲したんだ。()()()()(しょう)に尋ねたよ。
「今、東と西で問題が発生しちゃって、どっちも緊急なんだけど、将たちはみんな気が滅入っているんだ。どうすればいいの?」
()(しょう)はこう答えたよ。
「昔、(しゅう)()()が堅固な城壁を築いて(しょう)(ゆう)を守って、()()は自滅したよ。物事には一見弱そうで実は強いものもあれば、強そうで実は弱いものもあるよ。これを見極めることは重要だね。
今、(しょ)(かつ)(かく)は精鋭の兵を集めて、暴虐を振るう力を持っているけど、(しん)(じょう)を守りながら、一戦で勝負をつけようとしているよ。もし城を攻め落とせなくて、戦いに応じてもらえなければ、軍は疲弊して、兵たちは消耗して、そのうち撤退するほかなくなるだろうね。将たちがすぐに前進しないで、じっくり構えることこそが公にとって有利な状況を生むの。
(きょう)()は大軍を率いて、その軍を(しょ)(かつ)(かく)に対応させる形で動かしていて、私たちの穀物を奪っているんだ。これは深く根を張る侵略者ではないよ。それに、私たちが全力を東方に向ければ、西方が手薄になると考えて、それに乗じて進軍したの。だから、今、私たちは(かん)(ちゅう)の軍に倍の道を急行させて、敵の予想を超える奇襲を仕掛ければ、彼らは恐らく敗走するよ」
()()()は「いいね!」と言って、(かく)(わい)(ちん)(たい)(かん)(ちゅう)の軍を指示して(てき)(どう)の包囲を解かせたよ。そして、(かん)(きゅう)(けん)たちには軍を守らせて、(しん)(じょう)()に委ねたよ。(きょう)()(かく)(わい)の軍が進軍していると聞いて、食糧が足りなかったから、(ろう)西(せい)の境界に退却していったんだ。

(註15)

是時,張特守新城。

この時、(ちょう)(とく)(しん)(じょう)を守っていたよ。

(註16)

魏略曰:特字子產,涿郡人。先時領牙門,給事鎮東諸葛誕,誕不以為能也,欲遣還護軍。會毌丘儉代誕,遂使特屯守合肥新城。及諸葛恪圍城,特與將軍樂方等三軍衆合有三千人,吏兵疾病及戰死者過半,而恪起土山急攻,城將陷,不可護。

()(りゃく)』によると、(ちょう)(とく)は、(あざな)()(さん)で、涿(たく)郡の出身だよ。前は()(もん)(しょう)(ぐん)として、(ちん)(とう)(しょう)(ぐん)(しょ)(かつ)(たん)に仕えていたよ。でも、(しょ)(かつ)(たん)は彼を能力がないと考えて、()(ぐん)に戻そうとしていたんだ。後に(かん)(きゅう)(けん)(しょ)(かつ)(たん)に代わって、(ちょう)(とく)(がっ)()(しんじ)(ょう)に駐屯させたよ。そして、(しょ)(かつ)(かく)が城を包囲すると、(ちょう)(とく)は将軍の(がく)(ほう)たちと一緒に合わせて3,000の兵を率いていたけど、病死や戦死者が半数を超えていたんだ。しかも、(しょ)(かつ)(かく)が土の山を築いて急襲を仕掛けてきたから、もう城は守りきれない状況だったの。

(註16)

特乃謂吳人曰:「今我無心復戰也。然魏法,被攻過百日而救不至者,雖降,家不坐也。自受敵以來,已九十餘日矣。此城中本有四千餘人,而戰死者已過半,城雖陷,尚有半人不欲降,我當還為相語之,條名別善惡,明日早送名,且持我印綬去以為信。」乃投其印綬以與之。吳人聽其辭而不取印綬。不攻。頃之,特還,乃夜徹諸屋材柵,補其缺為二重。明日,謂吳人曰:「我但有鬬死耳!」吳人大怒,進攻之,不能拔,遂引去。朝廷嘉之,加雜號將軍,封列侯,又遷安豐太守。

(ちょう)(とく)()の人たちにこう言ったよ。
「今、私はもう戦う気はないんだ。でも、()の法によると、100日以上攻められて援軍が来ない場合、たとえ降伏したとしても、家族に罰は及ばないよ。敵との戦いが始まってからすでに90日以上が経っているよ。この城にはもともと4,000人以上の兵がいたけど、戦死者は半数を超えて、城は陥落したけど、まだ降伏したくない者が半数残っているんだ。私は彼らと話し合って、賛成する人と反対する人の名前を書いて、明日早く名簿を送るよ。そして、私の印綬を信頼の印として使うね」
彼は印綬を渡したけど、()の人たちはその言葉を聞いて印綬を受け取らないで、攻撃をしなかったよ。しばらくして、(ちょう)(とく)は戻って、夜になって家屋や柵の材木を使って城壁を二重に補修したよ。翌日、彼は()の人たちにこう言ったよ。
「私はただ戦って死ぬだけだ!」
呉の人たちは怒って攻撃したけど、城は奪えなくて、撤退していったんだ。朝廷はこれをほめたたえて、彼を(ざつ)(ごう)(しょう)(ぐん)に昇進させて、列侯に封じて、さらに(あん)(ほう)(たい)(しゅ)に昇進させたよ。

本文

八月,詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡,為所執略。往歲偽大將軍費禕驅率羣衆,陰圖闚𨵦,道經漢壽,請會衆賔,脩於廣坐之中手刃擊禕,勇過聶政,功逾介子,可謂殺身成仁,釋生取義者矣。夫追加襃寵,所以表揚忠義;祚及後胤,所以獎勸將來。其追封脩為長樂鄉侯,食邑千戶,謚曰威侯;子襲爵,加拜奉車都尉;賜銀千鉼,絹千匹,以光寵存亡,永垂來世焉。」(註17)

八月、詔を下してこう言ったよ。
「かつて(ちゅう)(ろう)だった西(せい)(へい)の出身の(かく)(しゅう)は、高潔な節操を磨いて、行いを正して、その心を揺るがさなかったんだ。今、(しょく)の将の(きょう)()(かく)(しゅう)の郡を攻めて、彼を捕らえて連れ去ったんだ。前に、偽の(たい)(しょう)(ぐん)()()がたくさんの兵を率いて、こっそりと襲撃を企てて、(かん)寿(じゅ)を通って、たくさんの客を招いて集会を開いたよ。(かく)(しゅう)は大勢の人たちが見守る中で立ち上がって、自分の手で刃を使って費禕を討ち取ったよ。その勇気は(じょう)(せい)をも超えるし、功績は()(かい)()を上回るものと言えるね。まさに身を犠牲にして仁を全うして、生を捨てて義を取った者と呼べるね。(かく)(しゅう)を追悼して、名誉と恩賞を与えるのは、忠義をたたえるためだよ。その栄誉を子孫にも及ぼすことで、将来の人たちへの奨励ともなるよ。(かく)(しゅう)(ちょう)(らく)(きょう)(こう)に封じて、1,000戸の領地を与えて、謚を『()(こう)』とするよ。そして、彼の子には爵位を受け継がせて、(ほう)(しゃ)()()に任命するよ。さらに、銀千鉼と絹千匹を与えて、生者も亡者もその恩を受けて、永遠に後の世にその名を伝えてね」

(註17)

魏氏春秋曰:脩字孝先,素有業行,著名西州。姜維劫之,脩不為屈。劉禪以為左將軍,脩欲刺禪而不得親近,每因慶賀,且拜且前,為禪左右所遏,事輙不克,故殺禕焉。

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(かく)(しゅう)は、(あざな)(こう)(せん)で、品行は素晴らしくて、西の州で有名だったんだって。(きょう)()に捕らえられたときも、(かく)(しゅう)は屈さないで、(りゅう)(ぜん)は彼を()(しょう)(ぐん)に任命したよ。彼は(りゅう)(ぜん)に近づいて刺そうとしても成功しなかったんだ。(りゅう)(ぜん)がお祝いを開くたびに、(かく)(しゅう)は拝礼しながら前に進んだけど、(りゅう)(ぜん)の側には遮る者がいて、そのたびに目的を果たせなかったんだって。だから、()()を殺したの。

(註17)

臣松之以為古之舍生取義者,必有理存焉,或感恩懷德,投命無悔,或利害有機,奮發以應會,詔所稱聶政、介子是也。事非斯類,則陷乎妄作矣。魏之與蜀,雖為敵國,非有趙襄滅智之仇,燕丹危亡之急;且劉禪凡下之主,費禕中才之相,二人存亡,固無關於興喪。郭脩在魏,西州之男子耳,始獲於蜀,旣不能抗節不辱,於魏又無食祿之責,不為時主所使,而無故規規然糜身於非所,義無所加,功無所立,可謂「折柳樊圃」,其狂也且,此之謂也。

(はい)(しょう)()の見解としては、古の人たちで、生を捨てて義を貫く者には、必ずその行動に正当な理由があるはずで、恩義を感じて徳を慕って、命を投げ出しても後悔しない場合や、または利害関係が明白で、それに応じて奮い立った場合だよ。詔でたたえられた(じょう)(せい)()(かい)()もその例だね。でも、それ以外の場合には、妄りに行動する過ちに陥るものと言えるよ。
()(しょく)は敵国だけど、(ちょう)(じょう)()()()を滅ぼしたような深い恨みや、(えん)(たい)()(たん)が国の危機に瀕したような切迫した事情があるわけではないんだ。さらに、(りゅう)(ぜん)は平凡な君主で、()()は中程度の才覚を持つ宰相にすぎないから、彼らふたりの生死は、国の興亡には直接関係ないよ。(かく)(しゅう)()にいたとき、西の州の普通の男性に過ぎなくて、(しょく)に捕らえられた後も、節を守って辱めを拒むことができなかったんだ。()では禄を受けていたわけでもなくて、時の君主から特別な命令を受けていたわけでもないよ。なのに、無理な行動に自らの命を費やしたことは、義にもならないし、功績を立てることもなかったんだ。まさに『()(きょう)』の「折柳樊圃(柳を折って庭園の柵にする)」、つまり無益な狂気と言えるね。

本文

自帝即位至于是歲,郡國縣道多所置省,俄或還復,不可勝紀。

(そう)(ほう)が皇帝に即位してからこの年までの間に、たくさんの郡、国、県、道が減らされたりふたたび置かれたりしたよ。その変化は数えきれないほどたくさんあって、細かいことまで書くことはできないんだ。

本文

六年春二月己丑,鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城,城中遣士劉整出圍傳消息,為賊所得,考問所傳,語整曰:『諸葛公欲活汝,汝可具服。』整罵曰:『死狗,此何言也!我當必死為魏國鬼,不苟求活,逐汝去也。欲殺我者,便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息,或以語恪,恪遣馬騎尋圍跡索,得像還。四五人靮頭靣縛,將繞城表,勑語像,使大呼,言『大軍已還洛,不如早降。』像不從其言,更大呼城中曰:『大軍近在圍外,壯士努力!』賊以刀築其口,使不得言,像遂大呼,令城中聞知。整、像為兵,能守義執節,子弟宜有差異。」

嘉平六年(254年)、春の二月、己丑の日、(ちん)(とう)(しょう)(ぐん)(かん)(きゅう)(けん)は上奏してこう言ったよ。
「昔、(しょ)(かつ)(かく)(がっ)()(しん)(じょう)を包囲した時、城内から兵の(りゅう)(せい)が包囲を抜け出して情報を伝えようとしたけど、敵に捕まっちゃった。敵が(りゅう)(せい)問い詰めて、こう言ったよ。
『諸葛公((しょ)(かつ)(かく))はあなたを生かそうと思っているから、降伏すれば命を助けよう』
でも、(りゅう)(せい)は怒鳴ってこう言ったよ。
『死に損ないめ、何を言っているんだ! 私は必ず()国のために死ぬ鬼となるよ。命乞いなんてするものか。さっさと去れ! 私を殺すつもりなら、早く殺せ!』
そして、最後まで他の言葉を発さなかったんだ。
さらに、兵の(てい)(しょう)が城外に出て情報を伝えようとしたけど、これも(しょ)(かつ)(かく)に伝えられたんだ。(しょ)(かつ)(かく)は騎兵を送って包囲の跡をたどらせて、(てい)(しょう)を捕らえて連れ戻したよ。そして、他の4、5人と頭を押さえつけて、顔を縛り上げて城の周囲を連れ回して、(てい)(しょう)に命令してこう言わせようとしたよ。
『大軍はすでに洛陽に戻ったよ。早く降伏した方がいいよ』
でも、(てい)(しょう)はこれに従わないで、代わりに大声で城中に向かってこう叫んだよ。
『大軍は包囲のすぐ外にいるよ。壮士たちよ、奮起せよ!』
敵は刀で彼の口を傷つけて、声を出せないようにしたけど、それでも(てい)(しょう)は大声で叫び続けて、城内に知らせたよ。(りゅう)(せい)(てい)(しょう)はふたりとも兵だけど、義を守って節を全うしたよ。彼らの子弟には特別な報酬がありますように」

本文

詔曰:「夫顯爵所以襃元功,重賞所以寵烈士。整、像召募通使,越蹈重圍,冒突白刃,輕身守信,不幸見獲,抗節彌厲,揚六軍之大勢,安城守之懼心,臨難不顧,畢志傳命。昔解楊執楚,有隕無貳,齊路中大夫以死成命,方之整、像,所不能加。今追賜整、像爵關中侯,各除士名,使子襲爵,如部曲將死事科。」

詔を下してこう言ったよ。
「そもそも高い爵位は功績を表すためで、厚い恩賞は勇敢な者をほめたたえるために与えるよ。(りゅう)(せい)(てい)(しょう)は集められて情報を伝えるために、重い包囲を突破して、刃の間をかいくぐって信義を守ったよ。不運にも捕まった彼らは、節義を貫き続けて、すべての軍を鼓舞して、城を守る者たちの恐れを取り除いたよ。彼らは困難に直面しても決して逃げず、使命を果たしたんだね。昔、(かい)(よう)()に捕まったけど、死を選んで裏切らないで、それに(せい)()(ちゅう)(たい)()は死を選んで使命を成し遂げたんだ。これを(りゅう)(せい)(てい)(しょう)と比べても、彼らに勝ることはないよね。そこで今、(りゅう)(せい)(てい)(しょう)に関中侯の爵位を与えて、士から名前を除いて、子孫に爵位を受け継がせてね。それに、部曲の将として戦死した者たちの規定に準じて扱うよ」

皇帝の廃位

本文

庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄為大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。三月,廢皇后張氏。夏四月,立皇后王氏,大赦。五月,封后父奉車都尉王夔為廣明鄉侯、光祿大夫,位特進,妻田氏為宣陽鄉君。秋九月,大將軍司馬景王將謀廢帝,以聞皇太后。(註18)

庚戌の日、(ちゅう)(しょ)(れい)()(ほう)が、皇后の父で(こう)(ろく)(たい)()(ちょう)(しゅう)たちと、大臣(()()()たち)を廃位して、(たい)(じょう)()(こう)(げん)(たい)(しょう)(ぐん)に任命しようと計画したよ。この陰謀が見つかって、関わった人たちはみんな処刑されたんだ。辛亥の日、大赦を行ったよ。三月、皇后の(ちょう)()が廃位されたよ。
夏の四月、新たな皇后として(おう)()が立てられて、大赦を行ったよ。五月、皇后の父で(ほう)(しゃ)()()(おう)()(こう)(めい)(きょう)(こう)に封ぜられて、(こう)(ろく)(たい)()に任命されて、特進の地位を与えられたよ。彼の妻の(でん)()(せん)(よう)(きょう)(くん)に封ぜられたよ。
秋の九月、(たい)(しょう)(ぐん)()()()が皇帝を廃位しようと計画していることが皇太后に報告されたよ。

(註18)

世語及魏氏春秋並云:此秋,姜維寇隴右。時安東將軍司馬文王鎮許昌,徵還擊維,至京師,帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀,因文王辭,殺之,勒其衆以退大將軍。已書詔於前。文王入,帝方食栗,優人雲午等唱曰:「青頭雞,青頭雞。」青頭雞者,鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城,景王因是謀廢帝。

(せい)()』と『()()(しゅん)(じゅう)』によると、この秋、(きょう)()(ろう)(ゆう)を攻めたよ。この時、(あん)(とう)(しょう)(ぐん)()()(しょう)(きょ)(しょう)にいて、(きょう)()を討つために朝廷に呼び戻されて、都に着いたよ。(そう)(ほう)は平楽観で軍が通るのを視察したよ。(ちゅう)(りょ)(ぐん)(きょ)(いん)は周りの人たちと計画して、()()(しょう)(そう)(ほう)に別れを告げる機会を利用して彼を殺して、その兵を動かして(たい)(しょう)(ぐん)()()())に対抗しようとしたんだ。すでにそれを記した詔書を準備していたよ。
()()(しょう)が宮殿に入ると、(そう)(ほう)はちょうど栗を食べていたの。芸人の(うん)()が「青頭の鶏、青頭の鶏」と歌っていたんだ。「青頭の鶏」とは鴨のことだね。(そう)(ほう)は恐れて実行できなかったんだ。()()(しょう)は兵を率いて城に入って、()()()はこの機会を利用して帝を廃位する計画を立てたよ。

鴨は「()()(しょう)暗殺の詔書に印を押してね」の意味かな?

(註18)

臣松之案夏侯玄傳及魏略,許允此年春與李豐事相連。豐旣誅,即出允為鎮北將軍,未發,以放散官物收付廷尉,徙樂浪,追殺之。允此秋不得故為領軍而建此謀。

(はい)(しょう)()が調べたところ、「()(こう)(げん)(でん)」と『()(りゃく)』によると、(きょ)(いん)はこの年の春に()(ほう)と関わっていたみたい。()(ほう)が処刑された後、(きょ)(いん)(ほく)(ちん)(しょ)(ぐん)に任命されたけど、出陣する前に、政府の財産を捨てたことが(てい)()に報告されたから、(らく)(ろう)に移されて、追放されて殺されたんだ。この秋に(きょ)(いん)は前みたいに領軍として活動できなかったから、この計画を立てたんだと思うよ。

本文

甲戌,太后令曰:「皇帝芳春秋已長,不親萬機,耽淫內寵,沈漫女德,日延倡優,縱其醜謔;迎六宮家人留止內房,毀人倫之叙,亂男女之節;恭孝日虧,悖慠滋甚,不可以承天緒,奉宗廟。使兼太尉高柔奉策,用一元大武告于宗廟,遣芳歸藩于齊,以避皇位。」(註19)

甲戌の日、太后が命令を下してこう言ったよ。
「皇帝の(そう)(ほう)はすでに成長しているにもかかわらず、国の政治に関わらないで、後宮に溺れて、女性の徳を乱して堕落した生活を送っているんだ。毎日、俳優や芸人を呼んで、彼らの醜態や戯れを放任しているよ。それに、六宮の家人を迎えて宮中に留めて、内室に引き入れて、人と人との関係の秩序を乱して、男女の節度を乱しているの。恭順や孝行の精神は日に日に衰えて、不敬や傲慢さがいよいよ増すばかりなんだ。これでは天命を受け継いで、宗廟(祖先の廟)を守れないよ。そこで、(たい)()(こう)(じゅう)に詔を授けて、大武の礼をもって宗廟に報告させて、(そう)(ほう)(せい)に帰らせて、皇位を退かせることにしたよ」

()()()の思惑が本文には見えないのは、配慮したからかな。

(註19)

魏書曰:是日,景王承皇太后令,詔公卿中朝大臣會議,羣臣失色。景王流涕曰:「皇太后令如是,諸君其若王室何!」咸曰:「昔伊尹放太甲以寧殷,霍光廢昌邑以安漢,夫權定社稷以濟四海,二代行之於古,明公當之於今,今日之事,亦唯公命。」景王曰:「諸君所以望師者重,師安所避之?」

()(しょ)』によると、この日、()()()は皇太后の命令を受けて、(こう)(けい)や朝廷の大臣たちを集めて会議を開いたよ。臣下たちはみんな、怖くなっちゃった。()()()は涙を流しながらこう言ったよ。
「皇太后の命令はこうあるけど、みんなは王室をどうするべきだと思うの?」
みんなはこう言ったよ。
「昔、()(いん)(たい)(こう)を追放して(いん)を安定させて、(かく)(こう)(しょう)(ゆう)(おう)(りゅう)())を廃位して(かん)を安定させたよ。君主は国家の安定のために力を尽くすべきだよね。古代から2代も行われてきたことは、今日のあなたにも求められるべきだよ。今日の事柄も、あなたの命令に従うよ」
()()()はこう言ったよ。
「みんなが重い責任を期待するなら、どうして私は避けるの?」

(註19)

於是乃與羣臣共為奏永寧宮曰:「守尚書令太尉長社侯臣孚、大將軍武陽侯臣師、司徒萬歲亭侯臣柔、司空文陽亭侯臣冲、行征西安東將軍新城侯臣昭、光祿大夫關內侯臣邕、太常臣晏、衞尉昌邑侯臣偉、太僕臣嶷、廷尉定陵侯臣毓、大鴻臚臣芝、大司農臣祥、少府臣袤、永寧衞尉臣楨、永寧太僕臣閣、大長秋臣模、司隷校尉潁昌侯臣曾、河南尹蘭陵侯臣肅、城門校尉臣慮、中護軍永安亭侯臣望、武衞將軍安壽亭侯臣演、中堅將軍平原侯臣德、中壘將軍昌武亭侯臣廙、屯騎校尉關內侯臣陔、步兵校尉臨晉侯臣建、射聲校尉安陽鄉侯臣溫、越騎校尉睢陽侯臣初、長水校尉關內侯臣超、侍中臣小同、臣顗、臣酆、博平侯臣表、侍中中書監安陽亭侯臣誕、散騎常侍臣瓌、臣儀、關內侯臣芝、尚書僕射光祿大夫高樂亭侯臣毓、尚書關內侯臣觀、臣嘏、長合鄉侯臣亮、臣贊、臣騫、中書令臣康、御史中丞臣鈐、博士臣範、臣峻等稽首言:

こうして、臣下たちと一緒に(えい)(ねい)(きゅう)(かく)())に上奏してこう言ったよ。
(しゅ)(しょう)(しょ)(れい)(たい)()(ちょう)(しゃ)(こう)()()()(たい)(しょう)(ぐん)()(よう)(こう)()()()()()(ばん)(ざい)(てい)(こう)(こう)(じゅう)()(くう)(ぶん)(よう)(てい)(こう)(てい)(ちゅう)(こう)(せい)西(せい)(あん)(とう)(しょう)(ぐん)(しん)(じょう)(こう)()()(しょう)(こう)(ろく)(たい)()(かん)(だい)(こう)(そん)(よう)(たい)(じょう)(じん)(あん)(えい)()(しょう)(ゆう)(こう)(まん)()(たい)(ぼく)()(ぎょく)(てい)()(てい)(りょう)(こう)(しょう)(いく)(だい)(こう)()()()(だい)()(のう)(おう)(しょう)(しょう)()(てい)(ぼう)(えい)(ねい)(きゅう)(えい)()()(てい)?、(えい)(ねい)(きゅう)(たい)(ぼく)(ちょう)(かく)(だい)(ちょう)(しゅう)()(姓が不明。尹模? 摯模?)、()(れい)(こう)()(えい)(しょう)(こう)()(そう)()(なん)(いん)(らん)(りょう)(こう)(おう)(しゅく)(じょう)(もん)(こう)()(りょ)(姓が不明)、中護軍(ちゅうごぐん)(えい)(あん)(てい)(こう)()()(ぼう)()(えい)(しょう)(ぐん)(あん)寿(じゅ)(てい)(こう)(そう)(えん)(ちゅう)(けん)(しょう)(ぐん)(へい)(げん)(こう)(かく)(とく)(しん)(とく))、(ちゅう)(るい)(しょう)(ぐん)(しょう)()(てい)(こう)(じゅん)(よく)(とん)()(こう)()(かん)(だい)(こう)()(がい)?、()(へい)(こう)()(りん)(しん)(こう)(かく)(けん)(しゃ)(せい)(こう)()(あん)(よう)(きょう)(こう)(しん)(おん)(えっ)()(こう)()(すい)(よう)(こう)(しょ)(姓が不明)、(ちょう)(すい)(こう)()(かん)(だい)(こう)(ちょう)(姓が不明)、()(ちゅう)(てい)(しょう)(どう)(じゅん)()(ちょう)(ほう)(はく)(へい)(こう)()(ひょう)()(ちゅう)(ちゅう)(しょ)(かん)(あん)(よう)(てい)(こう)()(たん)(さん)()(じょう)()(かい)(姓が不明。司馬瓌?)、()(姓が不明。王儀?)、関内侯(かんだい)(かく)()(しょう)(しょ)(ぼく)()(こう)(ろく)(たい)()(こう)(らく)(てい)(こう)()(いく)(しょう)(しょ)(かん)(だい)(こう)(おう)(かん)()()(ちょう)(ごう)(きょう)(こう)(えん)(りょう)(さい)(さん)(ちん)(けん)(ちゅう)(しょ)(れい)(もう)(こう)御史中丞(ぎょしちゅうじょう)(けん)(姓が不明)、(はく)()(はん)(姓が不明)、()(しゅん)などが頭を下げて伝えるよ。

姓が書いていないから誰だかわからない。官職や爵位などから「魏書斉王紀」内で特定できるのは、()()()()()()(こう)(じゅう)(てい)(ちゅう)司馬昭(しばしょう)。『(さん)(ごく)()』の他の伝や『(しん)(じょ)』などから特定できるかも、と思って調べてみたよ。

  • 孫邕は『(ろん)()(しっ)(かい)』の序文に「光禄大夫關內侯臣孫邕」とある。『(ろん)()(しっ)(かい)』を作ったことは『晋書』「鄭沖伝」にある。
  • 任晏は『晋書』「任愷伝」に「任愷,字元褒,樂安博昌人也。父昊,魏太常。」とあって、任愷の父を指す?
  • 満偉は「満寵伝」に「子偉嗣。偉以格度知名,官至衞尉。」とある。満寵の子。
  • 庾嶷は「管寧伝」に「正始中,驃騎將軍趙儼、尚書黃休、郭彝、散騎常侍荀顗、鍾毓、太僕庾嶷遞薦昭曰~」、『晋書』の「庾峻伝」に「伯父嶷,中正簡素,仕魏為太僕。」とある。
  • 鍾毓は「鍾繇伝」に「爽旣誅,入為御史中丞、侍中廷尉。」とある。鍾繇の子。
  • 魯芝は『晋書』「魯芝伝」に「以綏緝有方,遷大鴻臚。」とある。
  • 王祥は『晋書』「王祥伝」に「舉秀才,除溫令,累遷大司農。」とある。
  • 鄭袤は『晋書』「鄭袤伝」に「遷少府。」とある。
  • 何楨? 『晋書』では廷尉とある。
  • 張閣は「邴原伝」に「永寧太僕東郡張閣以簡質聞。」とある。
  • 尹模は『晋書』「何曾伝」に。摯模は『晋書』「摯虞伝」に。どちらかわからない。
  • 何曾は『晋書』「何曾伝」に「遷征北將軍,進封潁昌鄕侯。」とある。
  • 王粛は「王朗伝」に「徙為河南尹。」とある。
  • 慮?
  • 司馬望は『晋書』「義陽成王望伝」に「從宣帝討王淩,以功封永安亭侯。」とある。
  • 曹演? この時代に曹演以外に「演」の名を持つ人がいない。
  • 郭徳(甄徳)は「文昭甄皇后伝」に「封德為平原侯,襲公主爵。」とある。
  • 荀廙は「夏侯尚伝」に。
  • 武陔は「胡質伝」や『晋書』「武陔伝」に。
  • 郭建は「明元郭皇后伝」に。
  • 甄温は「文昭甄皇后伝」に「領射聲校尉,德鎮軍大將軍。」とある。
  • 初?
  • 超?
  • 鄭小同は『晋書』「鄭沖伝」に「與侍中鄭小同俱被賞賜。」とある。
  • 荀顗は『晋書』「荀顗伝」に「擢拜散騎侍郎,累遷侍中。」とある。
  • 趙酆は「司馬朗伝」註に「咨字君初。子酆字子仲,晉驃騎將軍,封東平陵公。並見百官名志。」とある。趙咨の子。
  • 華表は『晋書』「華表伝」に「表年二十,拜散騎黃門郎,累遷侍中。」とある。
  • 韋誕は「劉劭伝」に「稍遷侍中中書監,以光祿大夫遜位,年七十五卒於家。」とある。
  • 瓌? 司馬瓌?
  • 儀? 王儀?
  • 郭芝は「明元郭皇后伝」に。
  • 盧毓は「盧毓伝」に。
  • 王観は「王観伝」に「賜爵關內侯,復為尚書,加駙馬都尉。」とある。
  • 傅嘏は「傅嘏伝」に「曹爽誅,為河南尹,遷尚書。」とある。
  • 袁亮は「袁渙伝」に「位至河南尹、尚書。」とある。
  • 崔賛は『晋書』「崔洪伝」に「父贊,魏吏部尚書、左僕射,以雅量見稱。」とある。崔洪の父。
  • 陳騫は『晋書』「陳騫伝」に。
  • 孟康は「杜畿伝」に。
  • 鈐?
  • 範?
  • 庾峻は『晋書』「庾峻伝」に「太常鄭袤見峻,大奇之,舉為博士。」とある。
(註19)

臣等聞天子者,所以濟育羣生,永安萬國,三祖勳烈,光被六合。皇帝即位,纂繼洪業,春秋已長,未親萬機,耽淫內寵,沈漫女色,廢捐講學,棄辱儒士,日延小優郭懷、袁信等於建始芙蓉殿前裸袒游戲,使與保林女尚等為亂,親將後宮瞻觀。

私たちは、天子というものは、たくさんの人たちを救って育てて、すべての国を永遠に安定させるために存在して、三祖の功績と威光が天下に広く行き渡るものと聞いたよ。(そう)(ほう)は皇帝に即位して偉大な事業を引き継いだけど、すでに成長しているのに、まだ政務に専心しないで、側室の愛に耽って、女性への欲望に溺れて、学問の講義を捨てて、儒学者たちを蔑ろにしているんだ。さらに、建始芙蓉殿の前で、芸人の(かく)(かい)(えん)(しん)たちを裸にして遊ばせて、保林の女官たちと乱をして、後宮の女性たちを引き連れてそれを見させたんだ。

(註19)

又於廣望觀上,使懷、信等於觀下作遼東妖婦,嬉褻過度,道路行人掩目,帝於觀上以為讌笑。於陵雲臺曲中施帷,見九親婦女,帝臨宣曲觀,呼懷、信使入帷共飲酒。懷、信等更行酒,婦女皆醉,戲侮無別。

それに、広望観の上で、(かく)(かい)(えん)(しん)たちに命令して、観の下で(りょう)(とう)の妖婦のような真似をさせて、度を超えたふざけた振る舞いをさせたんだ。その様子は道行く人たちが目を覆うほどだったけど、(そう)(ほう)は観の上からそれを宴のように楽しんで、笑っていたの。だらに、陵雲台の曲がり角に帷を設けて、親族の女性を呼び寄せたよ。(そう)(ほう)は宣曲観にいて、(かく)(かい)(えん)(しん)を呼んで帷の中で一緒に酒を飲ませたよ。彼らが代わる代わる酒を勧める中、女性たちはみんな酔って、礼儀も分別も失って、戯れ侮るような無作法な振る舞いが繰り広げられたんだ。

(註19)

使保林李華、劉勳等與懷、信等戲,清商令令狐景呵華、勳曰:『諸女,上左右人,各有官職,何以得爾?』華、勳數讒毀景。帝常喜以彈彈人,以此恚景,彈景不避首目。景語帝曰:『先帝持門戶急,今陛下日將妃后游戲無度,至乃共觀倡優,裸袒為亂,不可令皇太后聞。景不愛死,為陛下計耳。』帝言:『我作天子,不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼景,身體皆爛。

保林(女官)の()()(りゅう)(くん)たちを(かく)(かい)(えん)(しん)たちと戯れさせたよ。その時、(せい)(しょう)(れい)(女官を掌る官職)の(れい)()(けい)()()(りゅう)(くん)を叱ってこう言ったよ。
『あなたたちは皇帝のそば近くに仕える者で、それぞれ官職を持っているのに、どうしてそんなことが許されるの?』
()()(りゅう)(くん)(れい)()(けい)を何度も中傷したんだ。
(そう)(ほう)は人を弾いて遊ぶのが好きで、それによって(れい)()(けい)を怒らせていたよ。(れい)()(けい)は目を背けることなく弾かれたんだ。(れい)()(けい)(そう)(ほう)にこう言ったよ。
『先帝((そう)(えい))は宮廷の規律を厳しく守っていたよ。でも、今のあなたは日々、妃や后と度を超えた遊びを繰り返して、芸人を招いて、裸で乱行して、それを一緒に観覧しているんだ。こんなことを皇太后に知られてはならないよ。私は命を惜しむつもりはなくて、陛下のために考えて言っているだけなの』
でも、(そう)(ほう)はこう答えたよ。
『私が天子なのに、自由になれないの? 太后が私に何の関係があるの!』
そして、(そう)(ほう)は人に熱した鉄を(れい)()(けい)に押し付けさせて、(れい)()(けい)はやけどを負って、身体が焼けただれちゃった。

(註19)

甄后崩後,帝欲立王貴人為皇后。太后更欲外求,帝恚語景等:『魏家前後立皇后,皆從所愛耳,太后必違我意,知我當往不也?』後卒待張皇后疏薄。太后遭郃陽君喪,帝日在後園,倡優音樂自若,不數往定省。清商丞龐熈諫帝:『皇太后至孝,今遭重憂,水漿不入口,陛下當數往寬慰,不可但在此作樂。』帝言:『我自爾,誰能柰我何?』皇太后還北宮,殺張美人及禺婉,帝恚望,語景等:『太后橫殺我所寵愛,此無復母子恩。』數往至故處啼哭,私使暴室厚殯棺,不令太后知也。

(しん)(こう)(ごう)が亡くなった後、(そう)(ほう)(おう)()(じん)を皇后に立てようとしたよ。太后はさらに外部から皇后を迎えようと望んだけど、(そう)(ほう)は怒って、(れい)()(けい)たちにこう言ったよ。
()の家はこれまでに皇后を立ててきたけど、みんな自分の好みに従っていたよね。なのに、太后は必ず私の意に反するよ。これでは、私がどこへ行くべきかわかっているの?』
その後、(ちょう)(こう)(ごう)に冷たい態度をとるようになったんだ。太后が母の(ごう)(よう)(くん)の喪に服していた間、(そう)(ほう)は日々後園で芸人を招いて音楽を楽しんで、何事もなかったかのように振る舞って、太后のもとを訪れて慰めることもなかったんだ。(せい)(しょう)(じょう)(ほう)()(そう)(ほう)を諫めてこう言ったよ。
『皇太后は孝にあふれていて、今は深い悲しみの中にいるよ。水も食べ物も口に入れていないの。陛下((そう)(ほう))はもっとよく訪ねて、慰めるべきだよ。ただここで音楽を楽しんでいる場合ではないんだ』
(そう)(ほう)はこう言ったよ。
『私は私の好きにするんだ。誰が私に何をすることができるの?』
その後、太后は北宮に戻って、(ちょう)()(じん)()(えん)を処刑したんだ。(そう)(ほう)はこれに怒って、(れい)()(けい)たちにこう言ったよ。
『太后は横暴にも私が愛する者を殺したんだ。これではもう母と子の情はないよ』
(そう)(ほう)は何度も亡き側室たちのいた場所を訪れて涙を流して、こっそりと暴室(女官を幽閉する部屋)に立派な棺を用意して厚く葬って、太后にはそれを知らせないようにしたの。

(註19)

每見九親婦女有美色,或留以付清商。帝至後園竹間戲,或與從官攜手共行。熈白:『從官不宜與至尊相提挈。』帝怒,復以彈彈熈。日游後園,每有外文書入,帝不省,左右曰『出』,帝亦不索視。太后令帝常在式乾殿上講學,不欲,使行來,帝徑去;太后來問,輙詐令黃門荅言『在』耳。景、熈等畏恐,不敢復止,更共讇媚。帝肆行昏淫,敗人倫之叙,亂男女之節,恭孝彌頹,凶德浸盛。臣等憂懼傾覆天下,危墜社稷,雖殺身斃命不足以塞責。今帝不可以承天緒,臣請依漢霍光故事,收帝璽綬。帝本以齊王踐祚,宜歸藩于齊。使司徒臣柔持節,與有司以太牢告祀宗廟。臣謹昧死以聞。」奏可。

(そう)(ほう)は親族の女性たちの中で美しい者を見ると、留めて清商に託したよ。後園の竹林で遊んで、時には従官と手をつないで一緒に歩いたんだって。(ほう)()はこう進言したよ。
『従官が至尊((そう)(ほう))と手を携えるのはふさわしくないんだ』
(そう)(ほう)は怒って、ふたたび龐熙に向かって弾を投げつけたんだ。(そう)(ほう)は日々後園を遊び歩いて、外から文書が届いても見ないで、周りの人が『出して』と言っても、彼はそれを求めないで見もしなかったの。
太后は(そう)(ほう)に式乾殿でいつも学問を学ばせようとしたけど、彼はそれを嫌がって、行かされてもすぐに去っていったんだ。太后が来て尋ねると、彼は(こう)(もん)に偽って『陛下はここにいる』と答えさせたよ。(れい)()(けい)(ほう)()たちも恐れて止められなくて、かえって媚を売ったんだって。(そう)(ほう)はさらに好き勝手に振舞って、不道徳な行いにふけって、人と人との関係の秩序を乱して、男女の節度を壊したんだ。皇帝としての恭順や孝行はますます衰えて、凶悪な行いがますます増していったんだ。
臣下たちは天下が覆って、国家が危機に陥ることを深く心配して、身を殺して命を絶つ覚悟で責任を果たそうと考えているよ。今の皇帝はもはや天命を受け継げなくて、私は(かん)(かく)(こう)の例に倣って、皇帝の璽綬を収めてほしいと思うよ。(そう)(ほう)はもともと(せい)(おう)として即位したのだから、(せい)に戻るべきだね。()()(こう)(じゅう)に節を持たせて、役人と一緒に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて宗廟(祖先の廟)に告げさせるよ。私は死を覚悟して伝えるね」
そして、上奏は受け入れられたよ。

本文

是日遷居別宮,年二十三。使者持節送衞,營齊王宮於河內重門,制度皆如藩國之禮。(註20)

この日、(そう)(ほう)は別宮に移されたよ。この時、23歳だったよ。使者が節を持って護衛をして、()(だい)の重門で(せい)(おう)の宮殿を設営したよ。その制度や礼法はすべて藩国の礼に従っていたよ。

(註20)

魏略曰:景王將廢帝,遣郭芝入白太后,太后與帝對坐。芝謂帝曰:「大將軍欲廢陛下,立彭城王據。」帝乃起去。太后不恱。芝曰:「太后有子不能教,今大將軍意已成,又勒兵于外以備非常,但當順旨,將復何言!」太后曰:「我欲見大將軍,口有所說。」芝曰:「何可見邪?但當速取璽綬。」太后意折,乃遣傍侍御取璽綬著坐側。芝出報景王,景王甚歡。

()(りゃく)』によると、()()()(そう)(ほう)を廃位しようとしていて、(かく)()を送って太后に報告させたよ。太后は(そう)(ほう)と向かい合って座っていたよ。(かく)()(そう)(ほう)にこう言ったよ。
(たい)(しょう)(ぐん)()()())はあなたを廃位して、(ほう)(じょう)(おう)(そう)(きょ)を立てるつもりなんだ」
すると、(そう)(ほう)は立ち去ったよ。太后は怒らなかったんだ。(かく)()は続けてこう言ったよ。
「太后は子供を教育できなくて、今、()()()の意思はすでに決まっていて、そして非常時のために軍を動かしているんだ。ただ命令に従うべきだよ。それ以外の言葉はいらない!」
太后はこう言ったよ。
「私は大将軍に会って、話がしたいの」
すると、(かく)()はこう言ったよ。
「それはできないよ。今すぐに(ぎょく)()を持ってきて」
太后は意見をやめて、側近の侍従に命令して(ぎょく)()を持って来させたよ。(かく)()()()()に報告して、()()()はとても喜んだよ。

(註20)

又遣使者授齊王印綬,當出就西宮。帝受命,遂載王車,與太后別,垂涕,始從太極殿南出,羣臣送者數十人,太尉司馬孚悲不自勝,餘多流涕。王出後,景王又使使者請璽綬。太后曰:「彭城王,我之季叔也,今來立,我當何之!且明皇帝當絕嗣乎?吾以為高貴鄉公者,文皇帝之長孫,明皇帝之弟子,於禮,小宗有後大宗之義,其詳議之。」景王乃更召群臣,以皇太后令示之,乃定迎高貴鄉公。是時太常已發二日,待璽綬於溫。事定,又請璽綬。太后令曰:「我見高貴鄉公,小時識之,明日我自欲以璽綬手授之也。」

さらに、使者を送って(せい)(おう)の印綬を授けて、西宮に移させようとしたよ。(そう)(ほう)は命令を受けて、王の車に乗って、太后と別れたよ。涙を流しながら太極殿の南側を出発して、数十人の臣下たちが見送ったんだ。(たい)()()()()は悲しみに堪えきれなくて、たくさん臣下たちも涙が溢れたよ。(そう)(ほう)が出発した後、()()()はまた使者を送って(ぎょく)()を求めたよ。太后はこう言ったよ。
(ほう)(じょう)(おう)(そう)(きょ)は私の叔父だよ。彼が皇帝になったら、私はどうすればいいの? それに、(めい)(こう)(てい)(そう)(えい))の後継者は絶えるの? (こう)()(きょう)(こう)(そう)(ぼう)は、(ぶん)(こう)(てい)(そう)())の孫で、(めい)(こう)(てい)(そう)(えい))の弟の息子だよ。礼においては、直系以外の家が直系の後を継ぐことが義だと思うの。これについて詳しく議論する必要があるよ」
()()()はふたたび臣下たちを集めて、皇太后の命令を示して、(そう)(ぼう)を迎えると決めたよ。その時、(たい)(じょう)がすでに2日前に出発していて、璽綬は(おん)で待っていたよ。事が決まった後、ふたたび璽綬を求めたよ。太后はこう言ったよ。
「私は(そう)(ぼう)を幼い頃から知っているよ。明日、私自身が皇帝の印綬を手渡ししたいんだ」

曹髦を後継者にする

本文

丁丑,令曰:「東海王霖,高祖文皇帝之子。霖之諸子,與國至親,高貴鄉公髦有大成之量,其以為明皇帝嗣。」(註21)(註22)

丁丑の日、命令を下してこう言ったよ。
(とう)(かい)(おう)(そう)(りん)は、(ぶん)(こう)(てい)(そう)())の子だよ。(そう)(りん)の子供たちは、国ととても親しい関係にあるんだ。(こう)()(きょう)(こう)(そう)(ぼう)は、すごく優れた資質を持っていて、彼は(めい)(こう)(てい)(そう)(えい))の後継者にふさわしいよ」

(註21)

魏書曰:景王復與羣臣共奏永寧宮曰:「臣等聞人道親親故尊祖,尊祖故敬宗。禮,大宗無嗣,則擇支子之賢者;為人後者,為之子也。東海定王子高貴鄉公,文皇帝之孫,宜承正統,以嗣烈祖明皇帝後。率土有賴,萬邦幸甚,臣請徵公詣洛陽宮。」奏可。使中護軍望、兼太常河南尹肅持節,與少府袤、尚書亮、侍中表等奉法駕,迎公于元城。

()(しょ)』によると、司馬師はふたたび臣下たちと一緒に永寧宮に上奏してこう言ったよ。
「私たち臣下たちは、人の道として、親を尊ぶから祖を尊んで、祖を尊ぶから宗を敬うと聞いているよ。礼によると、直系の後継者がいない場合、分家の中から賢者を選ぶべきとされているよ。後継者となる者は、その家の子となるの。(とう)(かい)(てい)(おう)(そう)(りん))の子の(こう)()(きょう)(こう)(そう)(ぼう)は、(ぶん)(こう)(てい)(そう)())の孫で、正統を受け継いで、(めい)(こう)(てい)(そう)(えい))の後を嗣ぐべきだよ。これによって、天下は安定して、すべての国は幸福を得るだろうね。私たちは、(こう)()(きょう)(こう)(そう)(ぼう)を洛陽宮に招くことを願うよ」
上奏は承認されたよ。(ちゅう)()(ぐん)()()(ぼう)と、(たい)(じょう)()(なん)(いん)(おう)(しゅく)が節を持って、(しょう)()(てい)(ぼう)(しょう)(しょ)(えん)(りょう)()(ちゅう)()(ひょう)たちが法駕(天子の車)を奉じて、(げん)(じょう)(そう)(ぼう)を迎えたよ。

(註22)

魏世譜曰:晉受禪,封齊王為邵陵縣公。年四十三,泰始十年薨,謚曰厲公。

()(せい)()』によると、(しん)が禅譲を受けると、(そう)(ほう)(しょう)(りょう)(けん)(こう)に封ぜられたよ。43歳で、泰始十年(274年)に亡くなって、諡は「(れい)(こう)」とされたよ。

陳寿の評価

魏書陳留王紀」に併せて記載したよ。

「魏書斉王紀」は以上だよ!

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