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正史『三国志』「魏書斉王紀」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書斉王紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹(そう)芳(ほう) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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曹芳って誰?

本文

齊王諱芳,字蘭卿。明帝無子,養王及秦王詢;宮省事祕,莫有知其所由來者。(註1)

斉(せい)王(おう)は、名は芳(ほう)、字(あざな)は蘭(らん)卿(けい)だよ。曹(そう)叡(えい)には子供がいなかったから、斉(せい)王(おう)の曹(そう)芳(ほう)と秦(しん)王(おう)の曹(そう)詢(じゅん)を育てたよ。宮中でこのことは秘密にされていたから、曹(そう)芳(ほう)がどこから来たのか誰も知らなかったの。

(註1)

魏氏春秋曰:或云任城王楷子。

『魏(ぎ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、任(じん)城(じょう)王(おう)の曹(そう)楷(かい)の子供だと言われているんだって。

皇太子になる

本文

青龍三年,立為齊王。景初三年正月丁亥朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身,繼承鴻業,煢煢在疚,靡所控告。大將軍、太尉奉受末命,夾輔朕躬,司徒、司空、冢宰、元輔總率百僚,以寧社稷,其與羣卿大夫勉勗乃心,稱朕意焉。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上,免為良人。」二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。(註2)(註3)(註4)

青(せい)龍(りゅう)三年(235年)、曹(そう)芳(ほう)は斉(せい)王(おう)に立てられたよ。
景(けい)初(しょ)三年(239年)、正月、丁亥の朔(さく)(月の初めの日)、曹(そう)叡(えい)が重い病気になったから、曹(そう)芳(ほう)を皇太子に立てたよ。その日、曹(そう)芳(ほう)はそのまま皇帝に即位して、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。皇后を皇太后と呼ぶようにしたよ。
大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)爽(そう)と、太(たい)尉(い)の司(し)馬(ば)懿(い)が政治を助けたよ。曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「私はまだ若くて、国の大きな事業を受けついだばかりだよ。父を失った悲しみの中にいて、誰に頼ればよいのかもわからないの。曹(そう)爽(そう)と司(し)馬(ば)懿(い)は、先帝(曹(そう)叡(えい))の最後の命令を受けて、私を助け支えてくれているよ。司(し)徒(と)、司(し)空(くう)、冢(ちょう)宰(さい)、元(げん)輔(ぽ)たちもたくさんの役人をまとめて、国を安定させてくれているよ。どうか臣下や大夫たちも心を合わせて、私の願いに応えてほしいんだ。宮殿を建てる工事は、すべて遺した詔によって中止するよ。国の奴隷のうち60歳以上の人は、平民として解放するよ」
二月、西域から通訳を何人も通して火(か)浣(かん)布(ふ)という布が捧げられたよ。曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、曹(そう)爽(そう)と司(し)馬(ば)懿(い)に命令して、その布を実際に試して朝廷の役人たちに見せるようにさせたよ。

(註2)

異物志曰:斯調國有火州,在南海中。其上有野火,春夏自生,秋冬自死。有木生於其中而不消也,枝皮更活,秋冬火死則皆枯瘁。其俗常冬采其皮以為布,色小青黑;若塵垢洿之,便投火中,則更鮮明也。

『異(い)物(ぶつ)志(し)』によると、斯(し)調(ちょう)国(こく)には火(か)州という場所があって、南海の中にあるんだって。そこには野に火が出ることがあって、春や夏に自然に燃え上がって、秋や冬になると自然に消えるよ。その中には木が生えているけど燃えてなくなることはなくて、枝や皮は生き続けているんだ。でも、秋や冬に火が消えると枯れて弱っちゃうんだって。その土地の人たち、いつも冬に木の皮を採って布として使うよ。色は少し青黒いんだって。もしその布にほこりや汚れがついたら、火の中に投げると、前よりも鮮やかで美しくなるんだって。

(註3)

傅子曰:漢桓帝時,大將軍梁兾以火浣布為單衣,常大會賔客,兾陽爭酒,失杯而汙之,偽怒,解衣曰:「燒之。」布得火,煒燁赫然,如燒凡布,垢盡火滅,粲然潔白,若用灰水焉。

『傅(ふ)子(し)』によると、漢(かん)の桓(かん)帝(てい)の時代、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の梁(りょう)冀(き)は火(か)浣(かん)布(ふ)で作った服を着て、いつもたくさんの客を集めて宴会を開いていたよ。ある日、梁(りょう)冀(き)が酒を取り合う中で杯を落として汚しちゃったんだ。すると、怒ったふりをして服を脱いで、「これを焼け」と言ったよ。布に火をつけると、明るく激しく燃えているように見えて、まるで普通の布が焼えているみたいだったんだ。でも、汚れがすっかり取れて、火が消えると布はきれいで白くて美しくなって、灰水(上澄みの水)を使って洗ったみたいだったの。

(註4)

搜神記曰:崑崙之墟有炎火之山,山上有鳥獸草木,皆生於炎火之中,故有火浣布,非此山草木之皮枲,則其鳥獸之毛也。漢世西域舊獻此布,中間乆絕;至魏初,時人疑其無有。文帝以為火性酷烈,無含生之氣,著之典論,明其不然之事,絕智者之聽。及明帝立,詔三公曰:「先帝昔著典論,不朽之格言,其刊石于廟門之外及太學,與石經並,以永示來世。」至是西域使至而獻火浣布焉,於是刊滅此論,而天下笑之。

『捜(そう)神(じん)記(き)』によると、崑(こん)崙(ろん)の荒れ地には炎火の山があって、その山の上には鳥や獣がいて、草木が生えているけど、すべて炎火の中で生まれて育っているんだって。だから、火(か)浣(かん)布(ふ)は、この山の草木の皮や枝で作られたものだけではなくて、鳥や獣の毛からも作られているよ。
漢(かん)の時代、西域から使者が来て火(か)浣(かん)布(ふ)を捧げていたけど、その後しばらく途絶えたんだって。だから魏(ぎ)の時代の初めごろ、人々はこの布が本当に存在するのかと疑っていたの。曹(そう)丕(ひ)は、この布は火の激しい性質を持っていて、生きた気を含んでいないと考えて、それを『典(てん)論(ろん)』に書いて、火(か)浣(かん)布(ふ)は存在しないとして、賢い人たちが自分の考えに反することはありえないとしたよ。そして曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、三(さん)公(こう)に命令してこう言ったよ。
「先帝(曹(そう)丕(ひ))は昔、『典(てん)論(ろん)』を作って、不朽の名言を残したよ。それを廟の門の外や太学に石に刻んで、石経と一緒に後の世まで示そうとしたよ」
その後、西域から使者がやって来て火(か)浣(かん)布(ふ)を捧げたから、『典(てん)論(ろん)』に書かれたその議論は取り消されて、天下の人たちはそれを笑ったの。

(註4)

臣松之昔從征西至洛陽,歷觀舊物,見典論石在太學者尚存,而廟門外無之,問諸長老,云晉初受禪,即用魏廟,移此石於太學,非兩處立也。竊謂此言為不然。

裴(はい)松(しょう)之(し)の見解としては、西へ向かう軍に従って洛(らく)陽(よう)に行って、古いものを見て回ったよ。そのとき、『典(てん)論(ろん)』を刻んだ石が太学に残っているのを見たよ。でも、廟の門の外にはその石はなかったんだ。そこで、年長者たちに尋ねると、『晋(しん)が初めて皇帝の位を継いだとき、そのまま魏(ぎ)の廟を使ったから、この石を太学に移したんだ。2つの場所に石を立てたわけではない』と言ったよ。でも、私はこの話は正しいとは思えないんだ。

(註5)

又東方朔神異經曰:南荒之外有火山,長三十里,廣五十里,其中皆生不燼之木,晝夜火燒,得暴風不猛,猛雨不滅。火中有鼠,重百斤,毛長二尺餘,細如絲,可以作布。常居火中,色洞赤,時時出外而色白,以水逐而沃之即死,續其毛,織以為布。

東(とう)方(ほう)朔(さく)の『神(しん)異(い)経(きょう)』によると、南の荒野の外に火山があって、その長さは30里、広さは50里もあるよ。その中には燃えても灰にならない木が生えていて、昼も夜も火が燃え続けているんだって。強い風が吹いても火が激しくならないし、大雨が降っても消えないんだ。火の中には、重さが100斤もある鼠(ねずみ)がいるよ。毛の長さは2尺以上もあって、細くて糸みたいだから、布として使えるよ。この鼠(ねずみ)はいつも火の中に住んでいて、その毛の色は真っ赤だよ。ときどき外へ出て白くなるんだって。水をかけると死んじゃうから、その毛を取って織って、布を作るんだ。

司馬懿を太傅にする

本文

丁丑詔曰:「太尉體道正直,盡忠三世,南擒孟達,西破蜀虜,東滅公孫淵,功蓋海內。昔周成建保傅之官,近漢顯宗崇寵鄧禹,所以優隆儁乂,必有尊也。其以太尉為太傅,持節統兵都督諸軍事如故。」

丁丑の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「司(し)馬(ば)懿(い)は正しくてまっすぐな道を守って、3代の皇帝に忠を尽くしてきたよ。南では孟(もう)達(たつ)を捕らえて、西では蜀(しょく)の敵を破って、東では公(こう)孫(そん)淵(えん)を滅ぼして、その功績は天下に広く知られているよね。
昔、周(しゅう)の成(せい)王(おう)は保(ほ)傅(ふ)という官職を置いたよ。近い時代には漢(かん)の顕(けん)宗(そう)(明(めい)帝(てい))が鄧(とう)禹(う)を大切に使ったよ。これは、すぐれた人を大切にして高い地位を与えるためたよ。だから、太(たい)尉(い)の司(し)馬(ば)懿(い)を太(たい)傅(ふ)に任命して、節を持って軍をまとめて、都(と)督(とく)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)はこれまでどおりにするよ」

本文

三月,以征東將軍滿寵為太尉。夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月,上始親臨朝,聽公卿奏事。八月,大赦。冬十月,以鎮南將軍黃權為車騎將軍。

三月、征(せい)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の満(まん)寵(ちょう)を太(たい)尉(い)に任命したよ。
夏の六月、遼(りょう)東(とう)の東(とう)沓(とう)県の役人や民が海を渡って、斉(せい)郡の境に移り住んだよ。そこで、昔の縦(じゅう)城(じょう)の地に新しく沓(とう)県を置いて、移住してきた人たちを住まわせたよ。
秋の七月、曹(そう)芳(ほう)は初めて自ら朝廷に出て、公(こう)卿(けい)たちの上奏を聞いたよ。八月、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。冬の十月、鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の黄(こう)権(けん)を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。

暦を定める

本文

十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」

十二月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「烈(れっ)祖(そ)明(めい)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)叡(えい))は、正月に天下の人々を残して亡くなったんだ。臣下や子供たちは、いつまでもその命日を悲しく思っているの。そこで、暦はふたたび夏(か)の暦を使うことにするよ。これは、先帝(曹(そう)叡(えい))が定めた三統の義に反するかもしれないけど、礼の制度というものは、時に応じて変わるものだよ。そして、夏(か)の暦は数え方でも天の正しいあり方にかなっているよ。だから、寅の月を正(せい)始(し)元年の正月として、丑の月をその前の十二月とするよ」

237年に曹(そう)叡(えい)さんが決めた暦を戻したよ。

災害に対応する

本文

正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。

正(せい)始(し)元年(240年)、春の二月、乙丑の日、侍(じ)中(ちゅう)で中(ちゅう)書(しょ)監(かん)の劉(りゅう)放(ほう)と、侍(じ)中(ちゅう)で中(ちゅう)書(しょ)令(れい)の孫(そん)資(し)をそれぞれ左(さ)右(ゆう)光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)に任命したよ。丙戌の日、遼(りょう)東(とう)の汶(ぶん)県と北(ほく)豊(ほう)県の民が海を渡って移り住んできたよ。だから、斉(せい)郡の西(せい)安(あん)県、臨(りん)菑(し)県、昌(しょう)国(こく)県の地域を区切って、新しく汶(ぶん)県と南(なん)豊(ぽう)県を置いて、移住してきた人たちを住まわせたよ。

本文

自去冬十二月至此月不雨。丙寅,詔令獄官亟平冤枉,理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀,各悉乃心。夏四月,車騎將軍黃權薨。秋七月,詔曰:「易稱損上益下,節以制度,不傷財,不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物,將奚以為?今出黃金銀物百五十種,千八百餘斤,銷冶以供軍用。」八月,車駕巡省洛陽界秋稼,賜高年力田各有差。

去年の冬の十二月からこの月まで雨が降らなかったんだ。丙寅の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「牢の役人は、急いで無実の罪や正しくない裁きを正して、軽い罪の者はきちんと調べて助け出してね。臣下や公(こう)卿(けい)たちは正しい意見や良い考えを、心を尽くして言ってね」
夏の四月、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の黄(こう)権(けん)が亡くなったんだ。
秋の七月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「『易(えき)経(きょう)』には、『上にある者の利益を減らして、下にいる民を豊かにする』とあって、『制度によって節約をしたら、財産を無駄にしないで、民を苦しめないともあるよ。今、民は生活に苦しんでいるのに、宮殿では金銀などの品々をたくさん作っているんだ。そんなものを作って、いったい何になるの? そこで、これらの黄金や銀の150種類以上の品、合計1,800斤以上を取り出して、溶かして軍の費用にあてるよ」
八月、曹(そう)芳(ほう)は車駕(天子の車)を進めて洛陽の周りを見て回って、秋の作物を視たよ。そして、高齢の人や農業に励んだ人たちに、それぞれの身分に応じて贈り物を与えたよ。

芍陂の戦い

本文

二年春二月,帝初通論語,使太常以太牢祭孔子於辟雍,以顏淵配。

正(せい)始(し)二年(241年)、春の二月、曹(そう)芳(ほう)は初めて『論(ろん)語(ご)』を学び始めたよ。そして、太(たい)常(じょう)に命令して、辟(へき)雍(よう)で太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて、孔(こう)子(し)をまつらせたよ。それに、顔(がん)回(かい)を一緒にまつったよ。

本文

夏五月,吳將朱然等圍襄陽之樊城,太傅司馬宣王率衆拒之。(註6)六月辛丑,退。己卯,以征東將軍王陵為車騎將軍。冬十二月,南安郡地震。

夏の五月、呉(ご)の将の朱(しゅ)然(ぜん)たちが襄(じょう)陽(よう)の樊(はん)城(じょう)を包囲したんだ。そこで、太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)が軍を率いてこれを防いだよ。六月、辛丑の日、軍は退いたよ。己卯の日、征(せい)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)淩(りょう)を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。冬の十二月、南(なん)安(あん)郡で地震が起こったんだ。

(註6)

干寶晉紀曰:吳將全琮寇芍陂,朱然、孫倫五萬人圍樊城,諸葛瑾、步隲寇柤中;琮已破走而樊圍急。宣王曰:「柤中民夷十萬,隔在水南,流離無主,樊城被攻,歷月不解,此危事也,請自討之。」議者咸言:「賊遠圍樊城不可拔,挫於堅城之下,有自破之勢,宜長策以御之。」宣王曰:「軍志有之:將能而御之,此為縻軍;不能而任之,此為覆軍。今疆埸騷動,民心疑惑,是社稷之大憂也。」

干(かん)宝(ぽう)の『晋(しん)紀(き)』によると、呉(ご)の将の全(ぜん)琮(そう)が芍(しゃく)陂(ひ)に攻め込んで、朱(しゅ)然(ぜん)と孫(そん)倫(りん)たちが5万の兵で樊(はん)城(じょう)を包囲したんだ。さらに、諸(しょ)葛(かつ)瑾(きん)と歩(ほ)隲(しつ)は、柤(そ)中(ちゅう)を攻めたよ。全(ぜん)琮(そう)はすでに破られて逃げていたけど、樊(はん)城(じょう)の包囲は激しくなったんだ。そこで、司(し)馬(ば)懿(い)はこう言ったよ。
「柤(そ)中(ちゅう)には、異民族もあわせて10万人の民が水の南に取り残されていて、住む場所を失って、頼る者もいないんだ。それに、樊(はん)城(じょう)は攻められていて、何ヶ月も包囲はまだ解かれていないんだ。これはすごく危険だよ。どうか私自身に討ちに行かせてほしいんだ」
話し合いではみんなこう言ったよ。
「敵は遠くまで来て樊(はん)城(じょう)を囲んでいるけど、守りの堅い城は落とせないだろうね。強い城の前で苦しんで、そのうち自然に崩れるはず。だから、長く持ちこたえる作戦で防ぐのがいいよ」
でも、司(し)馬(ば)懿(い)はこう答えたよ。
「軍事の書には、『将に力があるのに使わなければ軍を縛ることになるし、力がない者に任せれば軍を滅ぼすことになる』とあるよ。今、国境が混乱して、民の心も不安になっているんだ。これは国家にとって大きな心配だよね」

(註6)

六月,督諸軍南征,車駕送津陽城門外。宣王以南方暑溼,不宜持乆,使輕騎挑之,然不敢動。於是乃令諸軍休息洗沐,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。然等聞之,乃夜遁。追至三州口,大殺獲。

六月、司(し)馬(ば)懿(い)はたくさんの軍を率いて南へ軍を進めたよ。曹(そう)芳(ほう)は津(しん)陽(よう)の城の門の外まで行って見送ったよ。
司(し)馬(ば)懿(い)は「南は暑くてじめじめしているから、長く軍をとどめるのはよくない」と考えたよ。そこで、軽騎兵に敵を挑発させたけど、朱(しゅ)然(ぜん)たちは動かなかったんだ。司(し)馬(ば)懿(い)は軍に休みを与えて、身を清めるように命令して、精鋭の兵を選んで、先に城へ登る者を募集したよ。さらに、命令を厳しく伝えて、「必ず攻める」という態度を敵に見せたんだ。すると、朱(しゅ)然(ぜん)たちはこれを聞いて、夜中に逃げちゃった。司(し)馬(ば)懿(い)の軍は彼らを三(さん)州(しゅう)口(こう)まで追いかけて、たくさんの敵を討ち取って捕虜にしたよ。

地震が起こる

本文

三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。

正(せい)始(し)三年(242年)、春の正月、東(とう)平(へい)王(おう)の曹(そう)徽(き)が亡くなったんだ。三月、太(たい)尉(い)の満(まん)寵(ちょう)も亡くなったんだ。
秋の七月、甲申の日、南(なん)安(あん)郡で地震が起こったよ。乙酉の日、領(りょう)軍(ぐん)将(しょう)軍(ぐん)の蒋(しょう)済(せい)を太(たい)尉(い)に任命したよ。
冬の十二月、魏(ぎ)郡でも地震が起こったんだ。

曹操の臣下をまつる

本文

四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

正(せい)始(し)四年(243年)、春の正月、曹(そう)芳(ほう)は元服して、たくさんの臣下にそれぞれの功績に応じて贈り物を与えたよ。夏の四月、乙卯の日、甄(しん)氏(し)を皇后に立てて、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。五月の朔(さく)(月の初めの日)、日食があったんだ。
秋の七月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、昔の大(だい)司(し)馬(ば)の曹(そう)真(しん)、曹(そう)休(きゅう)、征(せい)南(なん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の夏(か)侯(こう)尚(しょう)、太(たい)常(じょう)の桓(かん)階(かい)、司(し)空(くう)の陳(ちん)羣(ぐん)、太(たい)傅(ふ)の鍾(しょう)繇(よう)、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の張(ちょう)郃(こう)、左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の徐(じょ)晃(こう)、前(ぜん)将(しょう)軍(ぐん)の張(ちょう)遼(りょう)、右(う)将(しょう)軍(ぐん)の楽(がく)進(しん)、太(たい)尉(い)の華(か)歆(きん)、司(し)徒(と)の王(おう)朗(ろう)、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)洪(こう)、征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の夏(か)侯(こう)淵(えん)、後(こう)将(しょう)軍(ぐん)の朱(しゅ)霊(れい)、文(ぶん)聘(ぺい)、執(しつ)金(きん)吾(ご)の臧(ぞう)覇(は)、破(は)虜(りょ)将(しょう)軍(ぐん)の李(り)典(てん)、立(りつ)義(ぎ)将(しょう)軍(ぐん)の龐(ほう)徳(とく)、武(ぶ)猛(もう)校(こう)尉(い)の典(てん)韋(い)を曹(そう)操(そう)の廟の庭でまつるように命令したよ。
冬の十二月、倭(わ)国(こく)の女王の卑(ひ)弥(み)呼(こ)が使者を送って貢ぎ物を捧げたよ。

興勢の役

本文

五年春二月,詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祠孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傳、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸於太祖廟庭。(註7)己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。

正(せい)始(し)五年(244年)、春の二月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)爽(そう)に蜀(しょく)を討つために軍を率いさせたよ。
夏の四月の朔(さく)(月の初めの日)、日食があったんだって。五月、癸巳の日、曹(そう)芳(ほう)は『書(しょ)経(きょう)』を学び終えたよ。太(たい)常(じょう)に命令して、辟(へき)雍(よう)で太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて、孔(こう)子(し)をまつらせたよ。それに、顔(がん)淵(えん)を一緒にまつったよ。
太(たい)傅(ふ)(司(し)馬(ば)懿(い))、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)(曹(そう)爽(そう))、講義に参加した人たちに、それぞれの功績に応じて賞を与えたよ。丙午の日、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)爽(そう)は軍を率いて帰ったよ。
秋の八月、秦(しん)王(おう)の曹(そう)詢(じゅん)が亡くなったんだ。九月、鮮(せん)卑(ぴ)の人たちが従ったから、遼(りょう)東(とう)属(ぞっ)国(こく)を置いて、昌(しょう)黎(れい)県を置いて彼らを住まわせたよ。
冬の十一月、癸卯の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して昔の尚(しょう)書(しょ)令(れい)の荀(じゅん)攸(ゆう)を曹(そう)操(そう)の廟の庭でまつるように命令したよ。己酉の日、秦(しん)国(こく)をふたたび京(けい)兆(ちょう)郡にしたよ。十二月、司(し)空(くう)の崔(さい)林(りん)が亡くなったんだ。

(註7)

臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至於升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸,則未詳厥趣也。徐佗謀逆而許褚心動,忠誠之至遠同於日磾,且潼關之危,非褚不濟,褚之功烈有過典韋,今祀韋而不及褚,文所未達也。

裴(はい)松(しょう)之(し)はこう考えるよ。魏(ぎ)が廟にまつるとき、荀(じゅん)彧(いく)が加えられなかったのは、たぶん彼が晩年に意見の違いがあったこと、そして正式には魏(ぎ)の臣下ではなかったからだろうね。程(てい)昱(いく)を加えたのに郭(かく)嘉(か)を加えなかったし、先に鍾(しょう)繇(よう)をまつって、荀(じゅん)攸(ゆう)を後にしたのは、理由がよくわからないな。
徐(じょ)佗(だ)が反乱を計画したとき、許(きょ)褚(ちょ)は強く心を動かされたけど忠を守ったよ。その忠誠は、金(きん)日(じつ)磾(てい)に遠く並ぶくらい立派だと示しているよ。さらに、潼(どう)関(かん)の危機では、許(きょ)褚(ちょ)がいなければ切り抜けられなかっただろうね。許(きょ)褚(ちょ)の功績は典(てん)韋(い))よりも大きいよ。なのに、典(てん)韋(い)をまつっているのに許(きょ)褚(ちょ)をまつらないのは、私には理解できないんだ。

荀(じゅん)彧(いく)さんは漢(かん)の臣下という扱いなのかな。『三(さん)国(ごく)志(し)』の伝の構成としては魏(ぎ)の臣下っぽいのだけれど。そして何も言われない于(う)禁(きん)さん。

本文

六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」

正(せい)始(し)六年(245年)、春の二月、丁卯の日、南(なん)安(あん)郡で地震が起こったんだ。丙子の日、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の趙(ちょう)儼(げん)を司(し)空(くう)に任命したよ。
夏の六月、趙(ちょう)儼(げん)が亡くなったんだ。八月、丁卯の日、太(たい)常(じょう)の高(こう)柔(じゅう)を司(し)空(くう)に任命したよ。癸巳の日、左(さ)光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の劉(りゅう)放(ほう)を驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)、右(う)光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の孫(そん)資(し)を衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。
冬の十一月、曹(そう)操(そう)の廟で祫(こう)祭(さい)をして、前に議論されていた、新しい王朝を立てた功績のある21人の臣下たちを初めてまつったよ。十二月、辛亥の日、昔の司(し)徒(と)の王(おう)朗(ろう)が作った『易(えき)伝(でん)』について、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、学ぶ者たちが試験で使うことを許したよ。乙亥の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「明日、臣下をたくさん集めて大きな会議をするよ。太(たい)傅(ふ)(司(し)馬(ば)懿(い))は車に乗ったまま宮殿へ上がることを許すよ」

高句麗を討つ

本文

七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或𤸇疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」(註8)

正(せい)始(し)七年(246年)、春の二月、幽(ゆう)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)の毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)が高(こう)句(く)麗(り)を討って、夏の五月、濊(はい)貊(はく)も討って、みんな打ち破ったよ。すると、韓(かん)の那(な)奚(けい)など数十の国々が、それぞれ部族を率いて降伏したよ。秋の八月、戊申の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「市場で、国が売りに出している奴隷を見たんだ。彼らはみんな70歳以上で、病気や体の不自由な者もいたんだ。まさに、(『礼(らい)記(き)』の)『民の中でも最も苦しんでいる人たち』なんだ。しかも、役人は彼らの力が尽きた後で、さらに売ろうとしているんだ。これでは道理に合わないよ。だから、彼らをみんな解放して、普通の民とするよ。自分だけでは生活できない者がいるなら、郡や県が助けて、食べ物などを与えてね」

(註8)

臣松之案:帝初即位,有詔「官奴婢六十以上免為良人」。旣有此詔,則宜遂為永制。七八年間,而復貨年七十者,且七十奴婢及𤸇疾殘病,並非可售之物,而鬻之於巿,此皆事之難解。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、曹(そう)芳(ほう)が皇帝に初めて即位したとき、詔を下してこう言ったよ。
「国の奴隷で60歳以上の人は解放して普通の民とするよ」
この詔があるから、本来はその制度をずっと続けるべきだよ。でも、その後7年から8年経って、ふたたび70歳以上の者が売られていたんだ。しかも、70歳以上の奴隷や、病気や体の不自由な者たちはそもそも売ることができないのに、市場で売られていたというのは理解が難しいよ。

民を思いやる

本文

己酉,詔曰:「吾乃當以十九日親祠,而昨出已見治道,得雨當復更治,徒棄功夫。每念百姓力少役多,夙夜存心。道路但當期於通利,聞乃檛捶老小,務崇脩飾,疲困流離,以至哀歎,吾豈安乘此而行,致馨德於宗廟邪?自今已後,明申勑之。」冬十二月,講禮記通,使太常以太牢祀孔子於辟雍,以顏淵配。(註9)

己酉の日、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「私は十九日に自ら祭りをする予定だったけど、昨日道が整えられているのを見て、雨が降ったから、また作り直さなければならなくなっていたんだ。これはただ人々の苦労を無駄にしているだけだよね。私はいつも、民の力は少ないのに、仕事や役目が多すぎることを、朝も夜も心配しているの。道というものは、ただ通りやすければそれで十分だよ。でも今は、役人たちは老人や子供にまで鞭を打って働かせて、見た目ばかり立派に整えようとしているんだって。だから、人々は疲れて苦しんで、住む場所を失って、悲しんで嘆いているんだ。その結果、人々の嘆き悲しむ声が上がっているよ。私はどうして、そのような道を乗り物に乗って安心して通って、宗廟(祖先の廟)によい行いを示せるの? これから後は、このことをはっきり命令してしっかりさせてね」
冬の十二月、曹(そう)芳(ほう)は『礼(らい)記(き)』を学び終えたよ。太(たい)常(じょう)に命令して、辟(へき)雍(よう)で太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて、孔(こう)子(し)をまつらせたよ。それに、顔(がん)淵(えん)を一緒にまつったよ。

(註9)

習鑿齒漢晉春秋曰:是年,吳將朱然入柤中,斬獲數千;柤中民吏萬餘家渡沔。司馬宣王謂曹爽曰:「若便令還,必復致寇,宜權留之。」爽曰:「今不脩守沔南,留民沔北,非長策也。」宣王曰:「不然。凡物置之安地則安,危地則危,故兵書曰,成敗形也,安危勢也,形勢御衆之要,不可不審。設令賊二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸鈔柤中,君將何以救之?」爽不聽,卒令還。然後襲殺之。

習(しゅう)鑿(さく)歯(し)の『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、この年、呉(ご)の将の朱(しゅ)然(ぜん)が柤(そ)中(ちゅう)に入って、数千人を討ち取ったり捕らえたんだ。柤(そ)中(ちゅう)の1万戸以上の民や役人が沔(べん)水(すい)を渡ったよ。そこで、司(し)馬(ば)懿(い)は曹(そう)爽(そう)にこう言ったよ。
「もし今すぐ人々を帰したら、敵はまた攻めて来るだろうね。しばらくこちらにとどめておこうよ」
でも、曹(そう)爽(そう)は言ったよ。
「今、沔(べん)水(すい)の南の守りを十分に整えていないのに、民を北にとどめるのは、長く続けられる良い方法ではないんだ」
司(し)馬(ば)懿(い)はこう言ったよ。
「そうではないよ。すべてのものは、安全な場所に置けば安全で、危ない場所に置けば危険になるんだ。だから兵法には、『成功と失敗は地形によって決まって、安全と危険は情勢によって決まる』とあるよ。地形や情勢を使って人々を動かすことは、軍を率いるうえで最も大切なことで、よく考えなければならないんだ。もし敵が2万人で沔(べん)水(すい)をふさいで、さらに3万人で沔(べん)水(すい)の南の軍を押さえて、1万人で陸から柤(そ)中(ちゅう)を襲ったら、あなたはどうやって人々を救うつもりなの?」
でも、曹(そう)爽(そう)はこれを聞き入れなくて、人々を帰しちゃった。その後、朱(しゅ)然(ぜん)は攻撃してたくさんの人たちが殺されたんだ。

(註9)

袁淮言於爽曰:「吳楚之民脆弱寡能,英才大賢不出其土,比技量力,不足與中國相抗,然自上世以來常為中國患者,蓋以江漢為池,舟楫為用,利則陸鈔,不利則入水,攻之道遠,中國之長技無所用之也。孫權自十數年以來,大畋江北,繕治甲兵,精其守禦,數出盜竊,敢遠其水,陸次平土,此中國所願聞也。

袁(えん)淮(わい)は曹(そう)爽(そう)にこう言ったよ。
「呉(ご)や楚(そ)の民は、弱くて力も少ないし、すぐれた才能を持つ人や賢い者もその土地からはあまり現れないんだ。力や技術を比べれば、中原に対抗できないよ。なのに、昔から彼らはいつも中原にとっての悩みの種となってきたよね。それは、長江や漢(かん)水(すい)を堀のように利用して、舟や船をうまく使っているからだよ。有利なときには陸へ攻め込んで略奪をして、不利になると水へ逃げ込むんだ。しかもこちらから攻めようとしても道のりが遠くて、中原の得意な戦い方を十分に使えないんだ。孫(そん)権(けん)はこの十数年、何度も長江の北で大きな狩り(軍事)をして、鎧や兵を整えて守りを固めてきたよ。そして、何度も攻め込んで略奪をしているんだ。さらに、水辺から遠く離れて、陸地の平原にまで軍を進めているよ。これは中原にとって大きな警戒が必要な状況なんだ。

(註9)

夫用兵者,貴以飽待飢,以逸擊勞,師不欲乆,行不欲遠,守少則固,力專則彊。當今宜捐淮、漢已南,退却避之。若賊能入居中央,來侵邊境,則隨其所短,中國之長技得用矣。若不敢來,則邊境得安,無鈔盜之憂矣。使我國富兵彊,政脩民一,陵其國不足為遠矣。

そもそも戦いをするときに大切なのは、食糧が十分ある状態で飢えている敵を待ち受けること、そして、休んでいる軍で疲れている敵を攻めることだよ。軍は長くとどめてはいけないし、遠くまで行かせてもいけないよ。守る場所が少なければ守りは固くなって、力を一つに集めれば軍は強くなるよ。今は、淮河や漢水より南の土地をいったん捨てて、退いて敵を避けるのがいいよ。
もし敵がさらに進んで中央へ入って、国境を越えて来るなら、そのときこそ敵の弱点に合わせて戦えるよ。そうなれば、中原の得意な戦い方を十分に使えるね。もし敵が攻めて来ないなら、国境は安定して、略奪や盗賊に悩まされることもなくなるよ。こうして私たちの国が豊かになって、兵が強くなって、政治が整って、民が一つになれば、敵国を攻め滅ぼすことも、遠い話ではなくなるよ。

(註9)

今襄陽孤在漢南,賊循漢而上,則斷而不通,一戰而勝,則不攻而自服,故置之無益於國,亡之不足為辱。自江夏已東,淮南諸郡,三后已來,其所亡幾何,以近賊疆界易鈔掠之故哉!若徙之淮北,遠絕其間,則民人安樂,何鳴吠之驚乎?」遂不徙。

今、襄(じょう)陽(よう)は漢水の南に孤立していて、もし敵が漢水に沿って上流へ進んだら、道は断たれて、連絡もできなくなっちゃう。でも、一度戦って勝てば、わざわざ攻めなくても敵は自然に従うようになるよ。だから、襄(じょう)陽(よう)をそのまま置いておいても国の利益にはならなくて、失っても恥ではないんだよ
それに、江(こう)夏(か)より東にある淮(わい)南(なん)の郡では、三代(曹(そう)操(そう)、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)叡(えい))の時代から、どのくらい多くの土地や人々を失ってきたのかな。それは、敵の国境に近くて、略奪を受けやすかったからだよ。もし民を淮河の北に移して、敵とのあいだを遠く離せば、民は安心して暮らせるようになるよ。どうして犬が吠えるたびに敵の襲撃を恐れる必要があるの?」
でも、結局は人々を移さなかったんだ。

何晏たちの提案

本文

八年春二月朔,日有蝕之。夏五月,分河東之汾北十縣為平陽郡。

正(せい)始(し)八年(247年)、春の二月の朔(さく)(月の初めの日)、日食が起こったよ。
夏の五月、河(か)東(とう)の汾水(ふん\すい)の北の10つの県を分けて、平(へい)陽(よう)郡としたよ。

本文

秋七月,尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身,治其身者慎其所習。所習正則其身正,其身正則不令而行;所習不正則其身不正,其身不正則雖令不從。是故為人君者,所與游必擇正人,所觀覽必察正象,放鄭聲而弗聽,遠佞人而弗近,然後邪心不生而正道可弘也。

秋の七月、尚(しょう)書(しょ)の何(か)晏(あん)は上奏してこう言ったよ。
「国をうまく治める人は、まず自分自身を正しくしなければならないよ。自分を正しくする人は、自分がいつも何に親しんで、何を学ぶかに気をつけるよ。親しむものが正しければ、その人自身も正しくなるよ。その人自身が正しければ、細かく命令しなくても、人々は自然に従うよ。逆に、親しむものが正しくなければ、その人自身も正しくなくなるんだ。その人自身が正しくなければ、どれほど命令しても、人々は従わないんだ。だから、君主は、付き合う相手を必ず正しい人の中から選ばなければならないし、見るものや学ぶものについても、正しいものかどうかをよく確かめなければならないよ。それに、鄭(てい)の乱れた音楽は聞かないで、言葉を飾って媚びを売る人たちを遠ざけて近づけないようにするんだ。そうすれば、悪い心は生まれず、正しい道を広められるよ。

本文

季末闇主不知損益,斥遠君子,引近小人,忠良疏遠,便辟褻狎,亂生近暱,譬之社鼠;考其昏明,所積以然,故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』,言慎所近也,周公戒成王曰『其朋其朋』,言慎所與也。書云:『一人有慶,兆民賴之。』可自今以後,御幸式乾殿及游豫後園,皆大臣侍從,因從容戲宴,兼省文書,詢謀政事,講論經義,為萬世法。」

時代の終わりごろになると、愚かな君主は、何を減らして何を増やすべきかをわからなくなっちゃうんだ。そして、君子を遠ざけて、つまらない人を引き寄せるんだ。忠のあって良い人が遠ざけられて、君主に媚びを売る人たちがなれなれしく近づくようになるんだ。こうして乱れが君主のすぐそばから生まれるよ。これは宗廟(先祖の廟)に潜む鼠(ねずみ)(国を食い物にする人)みたいで、退治したくても、柱を壊すことを恐れて取り除けないの。
君主が賢いか愚かかを考えてみると、どんな人をそばに集めたかによって、そうなっているんだ。だから聖人や賢者たちは何度も繰り返してこのことを大切な心配事として教えてきたよ。舜(しゅん)は禹(う)に『隣よ、隣よ』と戒めたのは、近くに置く人には気をつけてという意味だよ。周(しゅう)公(こう)が成(せい)王(おう)に『その友、その友』と戒めたのも、仲間にする人には気をつけてという意味だよ。『書(しょ)経(きょう)』には『一人の君主が良いことをすると、たくさんの人たちが幸せになる』とあるよ。だから、これからは皇帝が式(しき)乾(けん)殿(でん)に出かけたり、後園を出歩いたりするときは、いつも重要な臣下たちがその場にいるべきだよ。そして、ゆったりと語り合ったり宴を開いたりする中で、同時に文書にも目を通して、政治について意見を求めて、経書の意味を論じ合って、後の世のお手本とするべきだよ」

本文

冬十二月,散騎常侍諫議大夫孔晏乂奏曰:「禮,天子之宮,有斲礱之制,無朱丹之飾,宜循禮復古。今天下已平,君臣之分明,陛下但當不懈于位,平公正之心,審賞罰以使之。可絕後園習騎乘馬,出必御輦乘車,天下之福,臣子之願也。」晏乂咸因闕以進規諫。

冬の十二月、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)で諫(かん)議(ぎ)大(たい)夫(ふ)の孔(こう)乂(がい)は上奏してこう言ったよ。
「礼では、天子の宮殿には木を削って整える作り方はあっても、朱や丹(赤い塗料)や美しい飾りで派手に飾らないよ。だから、礼に従って、昔の質素なやり方に戻るべきなんだ。今、天下はすでに平定されていて、君主と臣下の立場もはっきりしているよ。陛下はただ、政治をおろそかにしないで、公平で正直な心を持って、賞と罰をよく考えて人々を導いてね。後園で馬術や乗馬の遊びはやめて、外出するときには必ず輦(れん)(天子の車)に乗るべきだよ。これは天下の人たちにとっての幸せで、臣下たちの願いでもあるんだ」
何(か)晏(あん)と孔(こう)乂(がい)はこのように機会を見つけるといつも、曹(そう)芳(ほう)に忠告やいさめの言葉を伝えたよ。

本文

九年春二月,衞將軍中書令孫資,癸巳,驃騎將軍中書監劉放,三月甲午,司徒衞臻,各遜位,以侯就第,位特進。四月,以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空,固辭不受。秋九月,以車騎將軍王淩為司空。冬十月,大風發屋折樹。

正(せい)始(し)九年(248年)、春の二月、衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)で中(ちゅう)書(しょ)令(れい)の孫(そん)資(し)が、癸巳の日、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)で中(ちゅう)書(しょ)監(かん)の劉(りゅう)放(ほう)、三月の甲午の日、司(し)徒(と)の衛(えい)臻(しん)が、それぞれ位をゆずって辞めたんだ。そして、侯として家に戻って、特(とく)進(しん)の地位を与えられたよ。
四月、司(し)空(くう)の高(こう)柔(じゅう)が司(し)徒(と)になったよ。光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の徐(じょ)邈(ばく)は司(し)空(くう)に任命されたけど、固く辞退して受けなかったんだ。
秋の九月、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)淩(りょう)が司(し)空(くう)に任命されたよ。冬の十月、大風が吹いて、家の屋根が飛ばされて、木々が折れちゃった。

高平陵の変

本文

嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。(註10)太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏収黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。(註11)

嘉(か)平(へい)元年(249年)、春の正月、甲午の日、車駕(天子の車)は高(こう)平(へい)陵(りょう)へ向かったよ。太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)が上奏して、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)爽(そう)、曹(そう)爽(そう)の弟で中(ちゅう)領(りょう)軍(ぐん)の曹(そう)羲(ぎ)、武(ぶ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の曹(そう)訓(くん)、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)の曹(そう)彦(げん)の官職を辞めさせて、侯の身分のまま家に帰らせるように求めたよ。戊戌の日、役人は黄(こう)門(もん)の張(ちょう)当(とう)を廷(てい)尉(い)に送って、その罪を調べたんだ。すると張(ちょう)当(とう)は、曹(そう)爽(そう)と一緒が反乱を計画していたと言ったんだ。さらに、尚(しょう)書(しょ)の丁(てい)謐(ひつ)、鄧(とう)颺(よう)、何(か)晏(あん)、司(し)隷(れい)校(こう)尉(い)の畢(ひつ)軌(き)、荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)の李(り)勝(しょう)、大(だい)司(し)農(のう)の桓(かん)範(はん)も曹(そう)爽(そう)と協力して、悪い計画に加わっていたとされたよ。彼らは一族もみんな処刑されたんだ。この話は「曹(そう)爽(そう)伝」に書いてあるよ。
丙午の日、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。丁未の日、太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)は丞(じょう)相(しょう)に任命されたけど、辞退したからその話はやめたよ。

(註10)

孫盛魏世譜曰:高平陵在洛水南大石山,去洛城九十里。

孫(そん)盛(せい)の『魏(ぎ)世(せい)譜(ふ)』によると、高(こう)平(へい)陵(りょう)は洛水の南の大石山にあって、洛(らく)陽(よう)からは90里離れているんだって。

(註11)

孔衍漢魏春秋曰:詔使太常王肅冊命太傅為丞相,增邑萬戶,羣臣奏事不得稱名,如漢霍光故事。太傅上書辭讓曰:「臣親受顧命,憂深責重,憑賴天威,摧弊姦凶,贖罪為幸,功不足論。又三公之官,聖王所制,著之典禮。至於丞相,始自秦政。漢氏因之,無復變改。今三公之官皆備,橫復寵臣,違越先典,革聖明之經,襲秦漢之路,雖在異人,臣所宜正,況當臣身而不固爭,四方議者將謂臣何!」書十餘上,詔乃許之,復加九錫之禮。太傅又言:「太祖有大功大德,漢氏崇重,故加九錫,此乃歷代異事,非後代之君臣所得議也。」又辭不受。

孔(こう)衍(えん)の『漢(かん)魏(ぎ)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、太(たい)常(じょう)の王(おう)粛(しゅく)に司(し)馬(ば)懿(い)を丞(じょう)相(しょう)に任命する冊命(位を授ける命令)を読み上げさせたよ。さらに、領地を1万戸増やして、たくさんの臣下は上奏するときには、漢(かん)の霍(かく)光(こう)の例にならって、その名を直接呼ばなくてもよいことにしたよ。でも、司(し)馬(ば)懿(い)は上書して、辞退してこう言ったよ。
「私は先帝(曹(そう)叡(えい))から直々に後のことを託されたから、心配は深くて責任も重いんだ。天子の威光に助けられて、やっと悪人たちを打ち倒せたよ。罪を償うことができただけでも幸運で、私の功績なんて語るほどではないんだ。それに、三(さん)公(こう)の官職は、昔の立派な王たちが定めて、礼法にも記された大切な制度だよ。一方、丞(じょう)相(しょう)の官職は、秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)から始まって、漢(かん)の王朝もこれを受け継いで変えなかったよ。今、すでに三(さん)公(こう)の官職がすべてそろっているのに、さらに私を特別に扱うのは、先代の規範に逆らって、昔からの制度に反していて、立派な王の定めた正しい道を改めて、秦(しん)や漢(かん)の古い制度をそのまま真似することになるんだ。たとえ別の人のことでも、私は正すべきだと考えるよ。ましてや、自分自身のことなのに強く反対しなければ、世の中の人たちは私をどう思うの!」
司(し)馬(ば)懿(い)は10回以上も辞退の上書を送ったよ。曹(そう)芳(ほう)はやっと辞退を認めたよ。でも、曹(そう)芳(ほう)はさらに詔を下して司(し)馬(ば)懿(い)に九(きゅう)錫(しゃく)を与えようとしたんだ。すると、司(し)馬(ば)懿(い)はさらにこう言ったよ。
「太(たい)祖(そ)(曹(そう)操(そう))には大きな功績と徳があったよ。だから、漢(かん)の王朝は彼を特別に大切にして、九(きゅう)錫(しゃく)を授けたんだ。これは歴代でもめずらしい特別な出来事で、後の時代の君主と臣下が、軽々しく真似してよいものではないよ」
そして、これもまた受け取らなかったんだ。

本文

夏四月乙丑,改年。丙子,太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯,以司空王淩為太尉。庚子,以司隷校尉孫禮為司空。

夏の四月、乙丑の日、年号を嘉(か)平(へい)に改めたよ。丙子の日、太(たい)尉(い)の蒋(しょう)済(せい)が亡くなったんだ。
冬の十二月、辛卯の日、司(し)空(くう)の王(おう)淩(りょう)を太(たい)尉(い)に任命したよ。庚子の日、司(し)隷(れい)校(こう)尉(い)の孫(そん)礼(れい)を司(し)空(くう)に任命したよ。

本文

二年夏五月,以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月,以特進孫資為驃騎將軍。十一月,司空孫禮薨。十二月甲辰,東海王霖薨。乙未,征南將軍王昶渡江,掩攻吳,破之。

嘉(か)平(へい)二年(250年)、夏の五月、征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の郭(かく)淮(わい)を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。冬の十月、特(とく)進(しん)の孫(そん)資(し)を驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。十一月、司(し)空(くう)の孫(そん)礼(れい)が亡くなったんだ。十二月、甲辰の日、東(とう)海(かい)王(おう)の曹(そん)霖(りん)が亡くなったんだ。乙未の日、征(せい)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)昶(ちょう)が長江を渡って、呉(ご)を奇襲して、打ち破ったよ。

王淩の乱

本文

三年春正月,荊州刺史王基、新城太守州泰攻吳,破之,降者數千口。二月,置南郡之夷陵縣以居降附。三月,以尚書令司馬孚為司空。四月甲申,以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰,大赦。丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。六月,彪賜死。

嘉(か)平(へい)三年(251年)、春の正月、荊(けい)州(しゅう)刺(し)史(し)(州の長官)の王(おう)基(き)と、新(しん)城(じょう)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)の州(しゅう)泰(たい)が呉(ご)を攻めて、打ち破ったよ。数千人が降伏したよ。二月、南(なん)郡に夷(い)陵(りょう)県を置いて、降伏して従った人たちをそこに住まわせたよ。三月、尚(しょう)書(しょ)令(れい)の司(し)馬(ば)孚(ふ)を司(し)空(くう)に任命したよ。
四月、甲申の日、征(せい)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)昶(ちょう)を征(せい)南(なん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。壬辰の日、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
丙午の日、太(たい)尉(い)の王(おう)淩(りょう)が皇帝をやめさせて楚(そ)王(おう)の曹(そう)彪(ひょう)を皇帝に立てようと計画していたことが知られたんだ。そこで、太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)が王(おう)淩(りょう)を討つために東へ軍を進めたよ。五月、甲寅の日、王(おう)淩(りょう)は自ら命を絶って、六月、曹(そう)彪(ひょう)に死を命令したよ。

本文

秋七月壬戌,皇后甄氏崩。辛未,以司空司馬孚為太尉。戊寅,太傅司馬宣王薨,以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍,錄尚書事。乙未,葬懷甄后于太清陵。庚子,驃騎將軍孫資薨。十一月,有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者,更以官為次,太傅司馬宣王功高爵尊,最在上。十二月,以光祿勳鄭冲為司空。

秋の七月、壬戌の日、皇后の甄(しん)氏(し)が亡くなったんだ。辛未の日、司(し)空(くう)の司(し)馬(ば)孚(ふ)を太(たい)尉(い)に任命したよ。戊寅の日、太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)が亡くなったんだ。そして、衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)師(し)を撫(ぶ)軍(ぐん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命して、録(ろく)尚(しょう)書(しょ)事(じ)として政治をまとめたよ。乙未の日、甄(しん)氏(し)を太(たい)清(せい)陵(りょう)に葬ったんだ。庚子の日、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)資(し)が亡くなったんだ。十一月、役人たちは上奏してこう言ったよ。
「曹(そう)操(そう)の廟で功績のある臣下たちをまつって食事を供えるとき、これからは官位の高い順に席を決めるべきだよ。太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)懿(い)の功績がとても大きくて位も高いから、最上位に置くべきだよ」
十二月、光(こう)禄(ろく)勲(くん)の鄭(てい)冲(ちゅう)を司(し)空(くう)に任命したよ。

東興の戦い

本文

四年春正月癸卯,以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月,立皇后張氏,大赦。夏五月,魚二,見于武庫屋上。(註12)

嘉(か)平(へい)四年(252年)、春の正月、癸卯の日、撫(ぶ)軍(ぐん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)師(し)を大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。二月、張(ちょう)氏(し)を皇后に立てて、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
夏の五月、2匹の魚が武(ぶ)庫(こ)の屋根の上で見つかったんだって。

(註12)

漢晉春秋曰:初,孫權築東興隄以遏巢湖。後征淮南,壞不復脩。是歲諸葛恪帥軍更於隄左右結山,挾築兩城,使全端、留略守之,引軍而還。諸葛誕言於司馬景王曰:「致人而不至於人者,此之謂也。今因其內侵,使文舒逼江陵,仲恭向武昌,以羈吳之上流,然後簡精卒攻兩城,比救至,可大獲也。」景王從之。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、前に、孫(そん)権(けん)は東(とう)興(こう)に堤を築いて巣(そう)湖(こ)をふさいだんだ。その後、淮(わい)南(なん)に兵を出したとき、その堤は壊れたけど、修理されないままになっていたよ。この年、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は軍を率いて堤で左右の山を結んで、さらに2つの城を築いたよ。そして、全(ぜん)端(たん)と留(りゅう)略(りゃく)に守らせて、軍を引き返したんだ。
諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)は司(し)馬(ば)師(し)にこう言ったよ。
「敵を自分の思う場所へ引き寄せて、自分は敵の思いどおりには動かされないことこそ、兵法の大事な点だよ。今、敵は内側に攻め込んでいるから、文(ぶん)舒(じょ)(王(おう)昶(ちょう))を江(こう)陵(りょう)に行かせて、仲(ちゅう)恭(きょう)(毌(かん)丘(きゅう)倹(けん))を武(ぶ)昌(しょう)に向かわせて、呉(ご)の長江の上流を動けないようにするべきだよ。その後、精鋭の兵を選んで2つの城を攻めれば、呉(ご)の援軍が来る前に大きな戦果を得られるだろうね」
司(し)馬(ば)師(し)はこの意見に従ったよ。

「致人而不至於人者」は、『孫(そん)子(し)』「虚(きょ)実(じつ)」から。

本文

冬十一月,詔征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎮南將軍毌丘儉等征吳。十二月,吳大將軍諸葛恪拒戰,大破衆軍於東關。不利而還。(註13)

冬の十一月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、征(せい)南(なん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)昶(ちょう)、征(せい)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の胡(こ)遵(じゅん)、鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)たちに呉(ご)を攻めさせたよ。十二月、呉(ご)の大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)が迎え撃って、東(とう)関(かん)で大軍を打ち破ったんだ。だから、王(おう)昶(ちょう)たちはうまくいかなくて退いたんだ。

(註13)

漢晉春秋曰:毌丘儉、王昶聞東軍敗,各燒屯走。朝議欲貶黜諸將,景王曰:「我不聽公休,以至於此。此我過也,諸將何罪?」悉原之。時司馬文王為監軍,統諸軍,唯削文王爵而已。是歲,雍州刺史陳泰求勑并州并力討胡,景王從之。未集,而鴈門、新興二郡以為將遠役,遂驚反。景王又謝朝士曰:「此我過也,非玄伯之責!」於是魏人愧恱,人思其報。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)と王(おう)昶(ちょう)は東(胡(こ)遵(じゅん))の軍が敗れたと聞いて、それぞれ陣営を焼き払って退いたんだ。朝廷では将たちの位を下げてやめさせるべきだと話し合ったけど、司(し)馬(ば)師(し)はこう言ったよ。
「私が公(こう)休(きゅう)(諸(しょ)葛(かつ)誕(たん))の意見を聞かなかったから、こんな結果になっちゃった。これは私の失敗で、将たちにどんな罪があるというの?」
こうして、将たちをみんな許したよ。このとき司(し)馬(ば)昭(しょう)が監(かん)軍(ぐん)として軍をまとめていたけど、彼の爵位を少し下げただけだったんだ。
この年、雍(よう)州(しゅう)刺(し)史(し)の陳(ちん)泰(たい)が、并(へい)州ににも命令を出して力を合わせて、異民族を討ちたいと願い出たよ。司(し)馬(ば)師(し)はこれに従ったよ。でも、軍がまとまる前に、雁(がん)門(もん)郡と新(しん)興(こう)郡の人たちが遠くまで兵役に行かされると思って不安になって、反乱を起こしたんだ。司(し)馬(ば)師(し)は、また朝廷の人たちに謝ってこう言ったよ。
「これは私の過ちで、玄(げん)伯(はく)(陳(ちん)泰(たい))に責任はないんだ」
だから魏(ぎ)の人たちは恥ずかしくなって、司(し)馬(ば)師(し)の恩に報いたいと思ったよ。

(註13)

習鑿齒曰:司馬大將軍引二敗以為己過,過消而業隆,可謂智矣。夫民忘其敗,而下思其報,雖欲不康,其可得邪?若乃諱敗推過,歸咎萬物,常執其功而隱其喪,上下離心,賢愚解體,是楚再敗而晉再克也,謬之甚矣!君人者,苟統斯理而以御國,則朝無秕政,身靡留愆,行失而名揚,兵挫而戰勝,雖百敗可也,況於再乎!

習(しゅう)鑿(さく)歯(し)によると、司(し)馬(ば)師(し)は2度の敗北を自分の失敗と認めたよ。だから、人々の不満は消えて、かえってその功績や名声は高まったよ。本当に賢いやり方と言えるね。民は敗北そのものを忘れて、逆にその恩に報いたいと思うようになったんだ。こうなったら、国を栄えさせたくないと思っても、できるはずがないよね。
もし敗北を隠して、失敗を他人のせいにして、あらゆるもののせいにして、自分の功績だけを誇って損失を隠そうとしたら、上の者と下の者の心は離れて、賢い者も愚かな者もばらばらになっちゃう。これこそ、楚(そ)が何度も敗れて、晋(しん)が何度も勝った理由だね。その違いはとても大きいよ。
君主がもしこの道理をしっかり理解して国を治めれば、朝廷には悪い政治がなくなって、自分にも大きな失敗は残らないよ。たとえ失敗しても名声が高まって、兵が敗れても最後には勝てるよ。100回敗れたとしても問題ないくらいで、ましてや2度くらいの敗北なんてなおさらだよ!

合肥新城の戦い

本文

五年夏四月,大赦。五月,吳太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。(註14)秋七月,恪退還。(註15)(註16)

嘉(か)平(へい)五年(253年)、夏の四月、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
五月、呉(ご)の太(たい)傅(ふ)の諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)が合(がっ)肥(ぴ)新(しん)城(じょう)を包囲したんだ。曹(そう)芳(ほう)は詔を下して、太(たい)尉(い)の司(し)馬(ば)孚(ふ)にこれを防がせたよ。秋の七月、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は退いて帰ったよ。

(註14)

漢晉春秋曰:是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰:「今東西有事,二方皆急,而諸將意沮,若之何?」松曰:「昔周亞夫堅壁昌邑而吳楚自敗,事有似弱而彊,或似彊而弱,不可不察也。今恪悉其銳衆,足以肆暴,而坐守新城,欲以致一戰耳。若攻城不拔,請戰不得,師老衆疲,勢將自走,諸將之不徑進,乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪,投食我麥,非深根之寇也。且謂我并力於東,西方必虛,是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴,出其不意,殆將走矣。」景王曰:「善!」乃使郭淮、陳泰悉關中之衆,解狄道之圍;勑毌丘儉等案兵自守,以新城委吳。姜維聞淮進兵,軍食少,乃退屯隴西界。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、このとき姜(きょう)維(い)も兵を出して狄(てき)道(どう)を包囲したんだ。司(し)馬(ば)師(し)は虞(ぐ)松(しょう)にこう尋ねたよ。
「今、東と西の両方で戦いが起きていて、どちらも緊急なんだ。でも、将たちはみんな気落ちしているんだ。どうすればいいの?」
虞(ぐ)松(しょう)はこう答えたよ。
「昔、周(しゅう)亜(あ)夫(ふ)が昌(しょう)邑(ゆう)で堅く守って、呉(ご)と楚(そ)は自ら敗れたよ。物事には一見弱そうでも実は強いものもあれば、逆に強そうでも実は弱いものもあるよ。よく見極めなければならないんだ。
今、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は精鋭の兵を集めて、好きなように暴れられるほどの力を持っているんだ。なのに、新(しん)城(じょう)にとどまって守って、一戦で勝負をつけようとしているよ。もし城を攻め落とせなくて、戦いたくても戦えなければ、軍は疲れて、兵たちも弱っていくんだ。そうなれば、敵は自然に退くだろうね。将たちが軽々しく前進しないことは、むしろあなたにとって有利なんだよ。
それに、姜(きょう)維(い)は大軍を率いているけど、孤立した軍で諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)を助けに来て、私たちの麦を奪っているんだ。つまり、長く戦える準備をした敵ではないよ。それに、私たちが東へ力を集中しているから、西は手薄だと思って攻め込んできたの。だから、今もし、私たちが関(かん)中(ちゅう)の軍を急いで進めさせて、敵の予想を超える動きをすれば、彼らは恐らく退いていくよ」
司(し)馬(ば)師(し)はこう言ったよ。
「いいね!」
そこで、郭(かく)淮(わい)と陳(ちん)泰(たい)に命令して、関(かん)中(ちゅう)の軍をすべて動かして狄(てき)道(どう)の包囲を解かせたよ。そして、毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)たちには兵を動かさないで守りを固めるように命令して、新(しん)城(じょう)は呉(ご)に任せたままにしたよ。姜(きょう)維(い)は、郭(かく)淮(わい)が進軍していると聞いて、軍の食糧も足りなかったから、退いて隴(ろう)西(せい)の境まで下がったんだ。

(註15)

是時,張特守新城。

このとき張(ちょう)特(とく)が新(しん)城(じょう)を守っていたよ。

(註16)

魏略曰:特字子產,涿郡人。先時領牙門,給事鎮東諸葛誕,誕不以為能也,欲遣還護軍。會毌丘儉代誕,遂使特屯守合肥新城。及諸葛恪圍城,特與將軍樂方等三軍衆合有三千人,吏兵疾病及戰死者過半,而恪起土山急攻,城將陷,不可護。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、張(ちょう)特(とく)は、字(あざな)は子(し)産(さん)で、涿(たく)郡の出身だよ。前は牙(が)門(もん)将(しょう)軍(ぐん)を兼ねて、鎮(ちん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)に仕えていたよ。でも、諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)は張(ちょう)特(とく)には大した能力がないと思って、護(ご)軍(ぐん)のもとへ送り返そうとしていたんだ。ちょうどそのころ、毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)が諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)に代わって、張(ちょう)特(とく)はそのまま合(がっ)肥(ぴ)新(しん)城(じょう)を守るためにとどまったよ。そして、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)が城を包囲すると、張(ちょう)特(とく)は将軍の楽(がく)方(ほう)たちと一緒に守ったよ。3つの軍を合わせて3,000の兵を率いていたけど、役人や兵の多くが病気になって、戦死した者も多くて、半分以上が失われていたんだ。さらに、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は土の山を築いて激しく攻撃して、城はもう守りきれない状態だったんだ。

(註16)

特乃謂吳人曰:「今我無心復戰也。然魏法,被攻過百日而救不至者,雖降,家不坐也。自受敵以來,已九十餘日矣。此城中本有四千餘人,而戰死者已過半,城雖陷,尚有半人不欲降,我當還為相語之,條名別善惡,明日早送名,且持我印綬去以為信。」乃投其印綬以與之。吳人聽其辭而不取印綬。不攻。頃之,特還,乃夜徹諸屋材柵,補其缺為二重。明日,謂吳人曰:「我但有鬬死耳!」吳人大怒,進攻之,不能拔,遂引去。朝廷嘉之,加雜號將軍,封列侯,又遷安豐太守。

張(ちょう)特(とく)は呉(ご)の人たちにこう言ったよ。
「今の私は、もう戦い続ける気持ちはないんだ。でも、魏(ぎ)の法では、100日以上攻められて援軍が来ない場合、たとえ降伏しても、その家族まで罪に問われることはないよ。敵との戦いが始まってからすでに90日以上が経っているよ。この城にはもともと4,000人以上の兵がいたけど、すでに半数以上が命を落としたんだ。たとえ城が落ちても、まだ半分の者たちは降伏したがっていないよ。私はいったん戻ってみんなに話して、誰がよくて誰が悪いかを整理して、明日の朝に名簿を渡すよ。そして、私の印綬を証拠として渡すね」
そう言って、自分の印綬を投げて渡したんだ。呉(ご)の人たちはその言葉を聞いて印綬を受け取らないで、攻撃をしなかったよ。
しばらくして、張(ちょう)特(とく)は戻って、夜のうちに家の木材や柵を取り外して、壊れた場所を補強して、二重の防御を作ったよ。翌日、張(ちょう)特(とく)は呉(ご)の人たちにこう言ったよ。
「私はただ戦って死ぬだけだ!」
呉(ご)の人たちはすごく怒って攻め込んだけど、城を落とせなくて、軍を引いて去ったよ。
朝廷はこれをほめたたえて、雑(ざつ)号(ごう)将(しょう)軍(ぐん)の称号を与えて、列(れっ)侯(こう)に封じて、さらに安(あん)豊(ほう)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)に昇進させたよ。

本文

八月,詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡,為所執略。往歲偽大將軍費禕驅率羣衆,陰圖闚𨵦,道經漢壽,請會衆賔,脩於廣坐之中手刃擊禕,勇過聶政,功逾介子,可謂殺身成仁,釋生取義者矣。夫追加襃寵,所以表揚忠義;祚及後胤,所以獎勸將來。其追封脩為長樂鄉侯,食邑千戶,謚曰威侯;子襲爵,加拜奉車都尉;賜銀千鉼,絹千匹,以光寵存亡,永垂來世焉。」(註17)

八月、曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「昔の中(ちゅう)郎(ろう)で西(せい)平(へい)の出身の郭(かく)脩(しゅう)は、強い信念を持って、正しい行いを貫いて、その心を曲げなかったよ。前に、蜀(しょく)の将の姜(きょう)維(い)が郭(かく)脩(しゅう)のいた郡に攻め込んで略奪をして、彼を捕らえて連れ去ったんだ。蜀(しょく)の大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の費(ひ)禕(い)がたくさんの兵を率いて、こっそりと攻め込もうと考えていたよ。漢(かん)寿(じゅ)を通ったとき、たくさんの客を招いて宴会を開いたよ。すると郭(かく)脩(しゅう)はたくさんの人たちがいる席の中で立ち上がって、自分の手で刃を使って費(ひ)禕(い)を斬りつけて討ち取ったよ。その勇気は聶(じょう)政(せい)を上回って、功績は傅(ふ)介(かい)子(し)よりも大きいと言えるね。まさに身を犠牲にして仁を全うして、生を捨てて義を取った者と呼べるね。郭(かく)脩(しゅう)を追悼して、死後に名誉と賞を与えるのは、忠義をたたえるためだよ。それに、その恩を子孫にまで及ぼすのは、後の人たちを励ますためだよ。郭(かく)脩(しゅう)を長(ちょう)楽(らく)郷(きょう)侯(こう)に封じて、1,000戸の領地を与えて、謚を威(い)侯(こう)とするよ。そして、その子には爵位を継がせて、さらに奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)に任命するよ。さらに、銀1,000鉼と絹1,000匹を与えて、生前と死後の名誉を明るく輝かせて、その名を永く後の世まで残すよ」

(註17)

魏氏春秋曰:脩字孝先,素有業行,著名西州。姜維劫之,脩不為屈。劉禪以為左將軍,脩欲刺禪而不得親近,每因慶賀,且拜且前,為禪左右所遏,事輙不克,故殺禕焉。

『魏(ぎ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、郭(かく)脩(しゅう)は、字(あざな)は孝(こう)先(せん)で、もともと学問や人格がすぐれていて、西の州で名を知られていたんだって。姜(きょう)維(い)に捕らえられたときも、郭(かく)脩(しゅう)は決して心を曲げなかったよ。劉(りゅう)禅(ぜん)は郭(かく)脩(しゅう)を左(さ)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。郭(かく)脩(しゅう)は心の中では劉(りゅう)禅(ぜん)を討とうと考えていたんだ。でも、劉(りゅう)禅(ぜん)には近づけなかったよ。劉(りゅう)禅(ぜん)が祝いの行事を開くといつも、郭(かく)脩(しゅう)は拝礼しながら前に進んだけど、劉(りゅう)禅(ぜん)のそばに止める人がいたから、計画はいつも成功しなかったんだ。だから、郭(かく)脩(しゅう)は費(ひ)禕(い)を殺したよ。

(註17)

臣松之以為古之舍生取義者,必有理存焉,或感恩懷德,投命無悔,或利害有機,奮發以應會,詔所稱聶政、介子是也。事非斯類,則陷乎妄作矣。魏之與蜀,雖為敵國,非有趙襄滅智之仇,燕丹危亡之急;且劉禪凡下之主,費禕中才之相,二人存亡,固無關於興喪。郭脩在魏,西州之男子耳,始獲於蜀,旣不能抗節不辱,於魏又無食祿之責,不為時主所使,而無故規規然糜身於非所,義無所加,功無所立,可謂「折柳樊圃」,其狂也且,此之謂也。

裴(はい)松(しょう)之(し)はこう考えるよ。昔、自分の命を捨ててまで義を守った人たちには、必ずそうするだけの理由があったよ。ある者は受けた恩や徳に感謝して、命を投げ出しても後悔しなかったんだ。ある者は、利益や不利益が大きく関わる重要な場面で、決意を固めて行動したよ。詔でたたえられた聶(じょう)政(せい)や傅(ふ)介(かい)子(し)もまさにそのような人だね。でも、それらの場合に当てはまらないなら、ただの無謀な行動になっちゃう。
魏(ぎ)と蜀(しょく)は敵対していたけど、趙(ちょう)襄(じょう)子(し)が智(ち)伯(はく)を滅ぼしたような深い恨みがあったわけではないし(豫(よ)譲(じょう))、燕(えん)の太(たい)子(し)丹(たん)が国の滅亡の危機に追い込まれたような追い詰められた事情(荊(けい)軻(か))があったわけでもないんだ。それに、劉(りゅう)禅(ぜん)は平凡な君主で、費(ひ)禕(い)は中程度の才能を持つ宰相にすぎなかったよ。彼ら二人が生きようと死のうと、国が栄えるか滅びるかには大きく関わらないんだ。
郭(かく)脩(しゅう)はもともと魏(ぎ)の西の州の一人の男にすぎなくて、蜀(しょく)に捕らえられたときも、節義を守って屈しないことができなかったんだ。魏(ぎ)では国から俸禄を受けている立場としての責任があったわけではないんだ。このときの君主から命令を受けたわけでもないのに、理由もなくて自分の命を無駄に使っちゃった。その行動によって義が特別に高まったわけでもなくて、大きな功績をあげたわけでもないよ。まさに『詩(し)経(きょう)』の「柳を折って庭の柵にする」、つまり、ただの思い込みによる無鉄砲な行動だったと言えるね。

本文

自帝即位至于是歲,郡國縣道多所置省,俄或還復,不可勝紀。

曹(そう)芳(ほう)が皇帝に即位してからこの年まで、たくさんの郡、国、県、道が減らされたりふたたび置かれたりしたよ。その変化は数えきれないくらいたくさんあって、細かく書けないんだ。

本文

六年春二月己丑,鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城,城中遣士劉整出圍傳消息,為賊所得,考問所傳,語整曰:『諸葛公欲活汝,汝可具服。』整罵曰:『死狗,此何言也!我當必死為魏國鬼,不苟求活,逐汝去也。欲殺我者,便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息,或以語恪,恪遣馬騎尋圍跡索,得像還。四五人靮頭靣縛,將繞城表,勑語像,使大呼,言『大軍已還洛,不如早降。』像不從其言,更大呼城中曰:『大軍近在圍外,壯士努力!』賊以刀築其口,使不得言,像遂大呼,令城中聞知。整、像為兵,能守義執節,子弟宜有差異。」

嘉(か)平(へい)六年(254年)、春の二月、己丑の日、鎮(ちん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)は上奏してこう言ったよ。
「前に、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)が合(がっ)肥(ぴ)新(しん)城(じょう)を包囲したとき、城の中から兵の劉(りゅう)整(せい)が包囲を抜け出して情報を伝えるために送り出されたよ。でも、敵に捕まっちゃった。敵は何を伝えようとしていたのかを取り調べて、劉(りゅう)整(せい)にこう言ったよ。
『諸(しょ)葛(かつ)公(こう)(諸(しょ)葛(かつ)恪(かく))はあなたの命を助けようと思っているよ。 だから、すべて正直に話して』
でも、劉(りゅう)整(せい)は怒鳴ってこう言ったよ。
『死に損ないめ、この犬め! 何を言っているんだ! 私は必ず死んで魏(ぎ)の国の鬼となるよ。命乞いなんてするものか。さっさと去れ! 私を殺すつもりなら、早く殺せ!』
そして最後まで、それ以外のことは何も話さなかったよ。
さらに、兵の鄭(てい)像(しょう)も城から情報を伝えるために送り出されたよ。でも、そのことを知った者が諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)に知らせたから、諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は騎兵を送って足跡を追わせて、帰る途中の鄭(てい)像(しょう)を捕らえたんだ。敵は4、5人がかりで鄭(てい)像(しょう)の頭を押さえつけて、の髪を引っ張って、顔を縛り上げて城の周りを連れ回して、こう叫ぶように命令したよ。
『大軍はすでに洛(らく)陽(よう)に帰ったよ。だから、早く降伏したほうがいいよ』
でも、鄭(てい)像(しょう)は命令に従わなくて、代わりに大声で城内に向かってこう叫んだよ。
『大軍はすぐ城の外まで来ているよ! 強い兵たちよ、力を尽くして戦って!』
敵は刀の柄でその口を打って、声を出せないようにしたんだ。それでも鄭(てい)像(しょう)は大声で叫び続けて、城内の人々にそのことを聞かせたよ。
劉(りゅう)整(せい)と鄭(てい)像(しょう)は兵にすぎないけど、義を守って、節義を貫いたよ。だから、その子供たちは特別に大切にしてほしいんだ」

本文

詔曰:「夫顯爵所以襃元功,重賞所以寵烈士。整、像召募通使,越蹈重圍,冒突白刃,輕身守信,不幸見獲,抗節彌厲,揚六軍之大勢,安城守之懼心,臨難不顧,畢志傳命。昔解楊執楚,有隕無貳,齊路中大夫以死成命,方之整、像,所不能加。今追賜整、像爵關中侯,各除士名,使子襲爵,如部曲將死事科。」

曹(そう)芳(ほう)は詔を下してこう言ったよ。
「そもそも高い爵位を与えるのは、大きな功績をたたえるためで、手厚い賞を与えるのは、勇敢な人をたたえるためだよ。劉(りゅう)整(せい)と鄭(てい)像(しょう)は使者を募集したときに自分から名乗り出て、何重にも張られた包囲を抜けたよ。そして、敵の剣の危険を恐れないで、自分の命を軽んじてまで使命と約束を守ったよ。不運にも捕らえられてしまったけど、その節義はいっそう揺るがなかったの。彼らは軍の勢いを広く示して、城を守る人々の不安な心を落ち着かせたよ。危険を前にしても自分の身を顧みないで、最後まで使命を果たそうとしたんだね。
昔、解(かい)楊(よう)は楚(そ)に捕まったけど、志を変えないで、命を失っても裏切らなかったよ。斉(せい)の路(ろ)中(ちゅう)大(たい)夫(ふ)は自分で死を選んで使命を成し遂げたんだ。これを劉(りゅう)整(せい)や鄭(てい)像(しょう)と比べても、その忠義の上にさらに付け加えるべきものはないよ。そこで今、劉(りゅう)整(せい)と鄭(てい)像(しょう)に関(かん)中(ちゅう)侯(こう)の爵位を与えて、二人の家を兵の身分から除いて、その子に爵位を受け継がせてね。待遇は、戦死した部(ぶ)曲(きょく)将(しょう)の家族に与えられる規定と同じとしてね」

皇帝の廃位

本文

庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄為大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。三月,廢皇后張氏。夏四月,立皇后王氏,大赦。五月,封后父奉車都尉王夔為廣明鄉侯、光祿大夫,位特進,妻田氏為宣陽鄉君。秋九月,大將軍司馬景王將謀廢帝,以聞皇太后。(註18)

庚戌の日、中(ちゅう)書(しょ)令(れい)の李(り)豊(ほう)が、皇后の父で光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の張(ちょう)緝(しゅう)たちと、重要な臣下たち(司(し)馬(ば)師(し)たち)を辞めさせて政治の体制を変えて、太(たい)常(じょう)の夏(か)侯(こう)玄(げん)を大(だい)将(しょう)軍(ぐん)にしようと計画したよ。でも、この計画は見つかって、関わった人たちはみんな処刑されたんだ。
辛亥の日、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。三月、皇后の張(ちょう)氏(し)がやめさせられたんだ。
夏の四月、王(おう)氏(し)を新たに皇后に立てたよ。大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。五月、皇后の父で奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)の王(おう)夔(き)が広(こう)明(めい)郷(きょう)侯(こう)に封ぜられて、光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)に任命されて、特(とく)進(しん)の地位を与えられたよ。その妻の田(でん)氏(し)は、宣(せん)陽(よう)郷(きょう)君(くん)に封ぜられたよ。
秋の九月、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)師(し)は、皇帝をやめさせようと考えて、そのことを皇太后に報告したんだ。

(註18)

世語及魏氏春秋並云:此秋,姜維寇隴右。時安東將軍司馬文王鎮許昌,徵還擊維,至京師,帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀,因文王辭,殺之,勒其衆以退大將軍。已書詔於前。文王入,帝方食栗,優人雲午等唱曰:「青頭雞,青頭雞。」青頭雞者,鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城,景王因是謀廢帝。

『世(せい)語(ご)』と『魏(ぎ)氏(し)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、この秋、姜(きょう)維(い)が隴(ろう)右(ゆう)に攻め込んだよ。このとき安(あん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)昭(しょう)は許(きょ)昌(しょう)にいたよ。朝廷は司(し)馬(ば)昭(しょう)を呼び戻して、姜(きょう)維(い)を迎え撃たせることにしたよ。司(し)馬(ば)昭(しょう)が都に着くと、曹(そう)芳(ほう)は平(へい)楽(らく)観(かん)に出て、軍が通るのを見渡したよ。
中(ちゅう)領(りょう)軍(ぐん)の許(きょ)允(いん)は周りの人たちと相談したよ。司(し)馬(ば)昭(しょう)が曹(そう)芳(ほう)に別れを告げるあいさつする機会を利用して殺して、その軍勢を指揮して大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)師(し)を退けようと計画したんだ。そのための詔書も、すでに前もって書かれていたよ。
でも、司(し)馬(ば)昭(しょう)が宮殿に入ると、曹(そう)芳(ほう)はちょうど栗を食べていたの。優(ゆう)人(じん)(芸人)の雲(うん)午(ご)たちがこう歌ったよ。
「青い頭の鶏(にわとり)だ、青い頭の鶏(にわとり)だ」
ここでいう「青い頭の鶏(にわとり)」とは、実は「鴨(かも)」を指していたんだ。曹(そう)芳(ほう)は怖くなって、計画を実行できなかったの。司(し)馬(ば)昭(しょう)は兵を率いて城に入って、司(し)馬(ば)師(し)はこの出来事をきっかけとして、皇帝をやめさせることを決意したんだ。

鴨は押と同じ発音で、「司(し)馬(ば)昭(しょう)暗殺の詔書に印を押してね」の意味かな?

(註18)

臣松之案夏侯玄傳及魏略,許允此年春與李豐事相連。豐旣誅,即出允為鎮北將軍,未發,以放散官物收付廷尉,徙樂浪,追殺之。允此秋不得故為領軍而建此謀。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、「夏(か)侯(こう)玄(げん)伝」と『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、許(きょ)允(いん)はこの年の春に起きた李(り)豊(ほう)の事件に関わっていたんだ。李(り)豊(ほう)が処刑された後、許(きょ)允(いん)は北(ちん)鎮(ほく)将(しょう)軍(ぐん)に任命されて都から出されることになったんだ。でも、まだ赴任する前に、政府の財物を勝手に配った罪で逮捕されて、廷(てい)尉(い)へ引き渡されたんだ。その後、楽(らく)浪(ろう)に移されて、さらに追って殺されたんだ。だから、許(きょ)允(いん)はこの年の秋には、中(ちゅう)領(りょう)軍(ぐん)の職には就いていなかったよ。だから、許(きょ)允(いん)が中(ちゅう)領(りょう)軍(ぐん)としてこの計画を立てたという話は、事実ではありえないんだ。

本文

甲戌,太后令曰:「皇帝芳春秋已長,不親萬機,耽淫內寵,沈漫女德,日延倡優,縱其醜謔;迎六宮家人留止內房,毀人倫之叙,亂男女之節;恭孝日虧,悖慠滋甚,不可以承天緒,奉宗廟。使兼太尉高柔奉策,用一元大武告于宗廟,遣芳歸藩于齊,以避皇位。」(註19)

甲戌の日、皇太后は命令してこう言ったよ。
「皇帝の曹(そう)芳(ほう)は、すでに十分に成長した年齢なのに、国の大切な政治を自らしようとしないんだ。後宮の女性たちをひどくかわいがって、女性との遊びにふけっているよ。毎日、芸人たちを呼び寄せて、下品な冗談やふざけた遊びを好き勝手にさせているんだ。さらに、後宮の女性たちの親族を宮中の部屋に住まわせて、人として守るべき秩序を壊して、男女のけじめも乱しているんだ。親への孝行や年長者への敬意は日に日に失われていって、思い上がった態度や礼に反する行いはますますひどくなっているよ。このような者に、天から受け継いだ皇位を守らせて、宗廟(先祖の廟)を任せることはできないよね。そこで、太(たい)尉(い)を兼ねる高(こう)柔(じゅう)に詔を授けて、一元大武の礼で宗廟に報告するよ。そして、曹(そう)芳(ほう)を斉(せい)王(おう)として自分の領国へ帰らせて、皇位から遠ざけるよ」

司(し)馬(ば)師(し)さんの思惑が本文には見えないのは、配慮したからかな。

(註19)

魏書曰:是日,景王承皇太后令,詔公卿中朝大臣會議,羣臣失色。景王流涕曰:「皇太后令如是,諸君其若王室何!」咸曰:「昔伊尹放太甲以寧殷,霍光廢昌邑以安漢,夫權定社稷以濟四海,二代行之於古,明公當之於今,今日之事,亦唯公命。」景王曰:「諸君所以望師者重,師安所避之?」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、この日、司(し)馬(ば)師(し)は皇太后の命令を受けて、公(こう)卿(けい)や朝廷の重要な臣下を集めて話し合ったよ。すると、その場にいたたくさんの臣下はみんな顔色を失っちゃった。司(し)馬(ば)師(し)は涙を流しながらこう言ったよ。
「皇太后の命令はこうあるけど、みんなは王室のために、どうするべきだと思う?」
みんなはこう言ったよ。
「昔、伊(い)尹(いん)は太(たい)甲(こう)を追い出して殷(いん)を安定させたよ。霍(かく)光(こう)は昌(しょう)邑(ゆう)王(おう)(劉(りゅう)賀(が))をやめさせて漢(かん)を安定させたよ。国家を守って、天下の人たちを救うためには、時にはこのような決断が必要なんだ。昔の時代に2代もされてきたけど、今の時代にはあなたがその役目を担うべきだよ。今日のこの問題についても、私たちはただあなたの命令に従うだけだよ」
司(し)馬(ば)師(し)はこう言ったよ。
「みんなが私に寄せてくれる期待はとても大きいんだ。それなら、私はどうしてその責任から逃げるられるの?」

(註19)

於是乃與羣臣共為奏永寧宮曰:「守尚書令太尉長社侯臣孚、大將軍武陽侯臣師、司徒萬歲亭侯臣柔、司空文陽亭侯臣冲、行征西安東將軍新城侯臣昭、光祿大夫關內侯臣邕、太常臣晏、衞尉昌邑侯臣偉、太僕臣嶷、廷尉定陵侯臣毓、大鴻臚臣芝、大司農臣祥、少府臣袤、永寧衞尉臣楨、永寧太僕臣閣、大長秋臣模、司隷校尉潁昌侯臣曾、河南尹蘭陵侯臣肅、城門校尉臣慮、中護軍永安亭侯臣望、武衞將軍安壽亭侯臣演、中堅將軍平原侯臣德、中壘將軍昌武亭侯臣廙、屯騎校尉關內侯臣陔、步兵校尉臨晉侯臣建、射聲校尉安陽鄉侯臣溫、越騎校尉睢陽侯臣初、長水校尉關內侯臣超、侍中臣小同、臣顗、臣酆、博平侯臣表、侍中中書監安陽亭侯臣誕、散騎常侍臣瓌、臣儀、關內侯臣芝、尚書僕射光祿大夫高樂亭侯臣毓、尚書關內侯臣觀、臣嘏、長合鄉侯臣亮、臣贊、臣騫、中書令臣康、御史中丞臣鈐、博士臣範、臣峻等稽首言:

こうして、臣下たちと一緒に永(えい)寧(ねい)宮(きゅう)(郭(かく)氏(し))に上奏してこう言ったよ。
「尚(しょう)書(しょ)令(れい)を務める太(たい)尉(い)で長(ちょう)社(しゃ)侯(こう)の司(し)馬(ば)孚(ふ)、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)で武(ぶ)陽(よう)侯(こう)の司(し)馬(ば)師(し)、司(し)徒(と)で万(ばん)歳(ざい)亭(てい)侯(こう)の高(こう)柔(じゅう)、司(し)空(くう)で文(ぶん)陽(よう)亭(てい)侯(こう)の鄭(てい)冲(ちゅう)、征(せい)西(せい)安(あん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)を代行する新(しん)城(じょう)侯(こう)の司(し)馬(ば)昭(しょう)、光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)で関(かん)内(だい)侯(こう)の孫(そん)邕(よう)、太(たい)常(じょう)の任(じん)晏(あん)、衛(えい)尉(い)で昌(しょう)邑(ゆう)侯(こう)の満(まん)偉(い)、太(たい)僕(ぼく)の庾(ゆ)嶷(ぎょく)、廷(てい)尉(い)で定(てい)陵(りょう)侯(こう)の鍾(しょう)毓(いく)、大(だい)鴻(こう)臚(ろ)の魯(ろ)芝(し)、大(だい)司(し)農(のう)の王(おう)祥(しょう)、少(しょう)府(ふ)の鄭(てい)袤(ぼう)、永(えい)寧(ねい)宮(きゅう)の衛(えい)尉(い)の何(か)楨(てい)?、永(えい)寧(ねい)宮(きゅう)の太(たい)僕(ぼく)の張(ちょう)閣(かく)、大(だい)長(ちょう)秋(しゅう)の模(ぼ)(姓が不明。尹模? 摯模?)、司(し)隷(れい)校(こう)尉(い)で潁(えい)昌(しょう)侯(こう)の何(か)曾(そう)、河(か)南(なん)尹(いん)で蘭(らん)陵(りょう)侯(こう)の王(おう)粛(しゅく)、城(じょう)門(もん)校(こう)尉(い)の慮(りょ)(姓が不明)、中(ちゅう)護(ご)軍(ぐん)で永(えい)安(あん)亭(てい)侯(こう)の司(し)馬(ば)望(ぼう)、武(ぶ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)で安(あん)寿(じゅ)亭(てい)侯(こう)の曹(そう)演(えん)、中(ちゅう)堅(けん)将(しょう)軍(ぐん)で平(へい)原(げん)侯(こう)の郭(かく)徳(とく)(甄(しん)徳(とく))、中(ちゅう)塁(るい)将(しょう)軍(ぐん)で昌(しょう)武(ぶ)亭(てい)侯(こう)の荀(じゅん)廙(よく)、屯(てい)騎(き)校(こう)尉(い)で関(かん)内(だい)侯(こう)の武(ぶ)陔(がい)?、步(ほ)兵(へい)校(こう)尉(い)で臨(りん)晋(しん)侯(こう)の郭(かく)建(けん)、射(しゃ)声(せい)校(こう)尉(い)で安(あん)陽(よう)郷(きょう)侯(こう)の甄(しん)温(おん)、越(えっ)騎(き)校(こう)尉(い)で睢(すい)陽(よう)侯(こう)の初(しょ)(姓が不明)、長(ちょう)水(すい)校(こう)尉(い)で関(かん)内(だい)侯(こう)の超(ちょう)(姓が不明)、侍(じ)中(ちゅう)の鄭(てい)小(しょう)同(どう)、荀(じゅん)顗(ぎ)、趙(ちょう)酆(ほう)、博(はく)平(へい)侯(こう)の華(か)表(ひょう)、侍(じ)中(ちゅう)で中(ちゅう)書(しょ)監(かん)で安(あん)陽(よう)亭(てい)侯(こう)の韋(い)誕(たん)、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)の瓌(かい)(姓が不明。司(し)馬(ば)瓌(かい)?)、儀(ぎ)(姓が不明。王儀?)、関(かん)内(だい)侯(こう)の郭(かく)芝(し)、尚(しょう)書(しょ)僕(ぼく)射(や)で光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)で高(こう)楽(らく)亭(てい)侯(こう)の盧(ろ)毓(いく)、尚(しょう)書(しょ)で関(かん)内(だい)侯(こう)の王(おう)観(かん)、傅(ふ)嘏(か)、長(ちょう)合(ごう)郷(きょう)侯(こう)の袁(えん)亮(りょう)、崔(さい)賛(さん)、陳(ちん)騫(けん)、中(ちゅう)書(しょ)令(れい)の孟(もう)康(こう)、御(ぎょ)史(し)中(ちゅう)丞(じょう)の鈐(けん)(姓が不明)、博(はく)士(し)の範(はん)(姓が不明)、庾(ゆ)峻(しゅん)たちが頭を下げて伝えるよ。

姓が書いていないから誰だかわからないよ。官職や爵位などから「魏書斉王紀」内で特定できるのは、司(し)馬(ば)孚(ふ)、司(し)馬(ば)師(し)、高(こう)柔(じゅう)、鄭(てい)冲(ちゅう)、司馬昭(しばしょう)。『三(さん)国(ごく)志(し)』の他の伝や『晋(しん)書(じょ)』などから特定できるかも、と思って調べてみたよ。

  • 孫邕は『論(ろん)語(ご)集(しっ)解(かい)』の序文に「光禄大夫關內侯臣孫邕」とある。『論(ろん)語(ご)集(しっ)解(かい)』を作ったことは『晋書』「鄭沖伝」にある。
  • 任晏は『晋書』「任愷伝」に「任愷,字元褒,樂安博昌人也。父昊,魏太常。」とあって、任愷の父を指す?
  • 満偉は「満寵伝」に「子偉嗣。偉以格度知名,官至衞尉。」とある。満寵の子。
  • 庾嶷は「管寧伝」に「正始中,驃騎將軍趙儼、尚書黃休、郭彝、散騎常侍荀顗、鍾毓、太僕庾嶷遞薦昭曰~」、『晋書』の「庾峻伝」に「伯父嶷,中正簡素,仕魏為太僕。」とある。
  • 鍾毓は「鍾繇伝」に「爽旣誅,入為御史中丞、侍中廷尉。」とある。鍾繇の子。
  • 魯芝は『晋書』「魯芝伝」に「以綏緝有方,遷大鴻臚。」とある。
  • 王祥は『晋書』「王祥伝」に「舉秀才,除溫令,累遷大司農。」とある。
  • 鄭袤は『晋書』「鄭袤伝」に「遷少府。」とある。
  • 何楨? 『晋書』では廷尉とある。
  • 張閣は「邴原伝」に「永寧太僕東郡張閣以簡質聞。」とある。
  • 尹模は『晋書』「何曾伝」に。摯模は『晋書』「摯虞伝」に。どちらかわからない。
  • 何曾は『晋書』「何曾伝」に「遷征北將軍,進封潁昌鄕侯。」とある。
  • 王粛は「王朗伝」に「徙為河南尹。」とある。
  • 慮?
  • 司馬望は『晋書』「義陽成王望伝」に「從宣帝討王淩,以功封永安亭侯。」とある。
  • 曹演? この時代に曹演以外に「演」の名を持つ人がいない。
  • 郭徳(甄徳)は「文昭甄皇后伝」に「封德為平原侯,襲公主爵。」とある。
  • 荀廙は「夏侯尚伝」に。
  • 武陔は「胡質伝」や『晋書』「武陔伝」に。
  • 郭建は「明元郭皇后伝」に。
  • 甄温は「文昭甄皇后伝」に「領射聲校尉,德鎮軍大將軍。」とある。
  • 初?
  • 超?
  • 鄭小同は『晋書』「鄭沖伝」に「與侍中鄭小同俱被賞賜。」とある。
  • 荀顗は『晋書』「荀顗伝」に「擢拜散騎侍郎,累遷侍中。」とある。
  • 趙酆は「司馬朗伝」註に「咨字君初。子酆字子仲,晉驃騎將軍,封東平陵公。並見百官名志。」とある。趙咨の子。
  • 華表は『晋書』「華表伝」に「表年二十,拜散騎黃門郎,累遷侍中。」とある。
  • 韋誕は「劉劭伝」に「稍遷侍中中書監,以光祿大夫遜位,年七十五卒於家。」とある。
  • 瓌? 司馬瓌?
  • 儀? 王儀?
  • 郭芝は「明元郭皇后伝」に。
  • 盧毓は「盧毓伝」に。
  • 王観は「王観伝」に「賜爵關內侯,復為尚書,加駙馬都尉。」とある。
  • 傅嘏は「傅嘏伝」に「曹爽誅,為河南尹,遷尚書。」とある。
  • 袁亮は「袁渙伝」に「位至河南尹、尚書。」とある。
  • 崔賛は『晋書』「崔洪伝」に「父贊,魏吏部尚書、左僕射,以雅量見稱。」とある。崔洪の父。
  • 陳騫は『晋書』「陳騫伝」に。
  • 孟康は「杜畿伝」に。
  • 鈐?
  • 範?
  • 庾峻は『晋書』「庾峻伝」に「太常鄭袤見峻,大奇之,舉為博士。」とある。
(註19)

臣等聞天子者,所以濟育羣生,永安萬國,三祖勳烈,光被六合。皇帝即位,纂繼洪業,春秋已長,未親萬機,耽淫內寵,沈漫女色,廢捐講學,棄辱儒士,日延小優郭懷、袁信等於建始芙蓉殿前裸袒游戲,使與保林女尚等為亂,親將後宮瞻觀。

私たちは聞いているよ。天子とは、たくさんの人を助けて育てて、すべての国を長く平和に保つために存在するものだよ。三祖(曹(そう)操(そう)、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)叡(えい))の功績と徳は大きくて、その恩は天下の隅々にまで広く行き渡ったよ。皇帝の曹(そう)芳(ほう)は即位してその大きな事業を受け継いだけど、すでに十分に成長した年齢になっているのに、まだ国の政治の仕事に自分から取り組もうとしないんだ。後宮の女性たちを愛して、女性との遊びや楽しみにふけっているんだ。学問を学ぶことをやめて、儒者たちを軽んじているよ。さらに、毎日のように郭(かく)懐(かい)や袁(えん)信(しん)といった身分の低い芸人たちを、建(けん)始(し)殿(でん)の芙(ふ)蓉(よう)殿(でん)の前へ呼び寄せて、裸になってふざけ合う遊びをさせているよ。それに、保(ほ)林(りん)の女官の尚(しょう)氏(し)たちと乱れた行いをさせて、自分でも後宮の女性たちを連れてその様子を見ているんだ。

(註19)

又於廣望觀上,使懷、信等於觀下作遼東妖婦,嬉褻過度,道路行人掩目,帝於觀上以為讌笑。於陵雲臺曲中施帷,見九親婦女,帝臨宣曲觀,呼懷、信使入帷共飲酒。懷、信等更行酒,婦女皆醉,戲侮無別。

それに、広(こう)望(ぼう)観(かん)の上で、郭(かく)懐(かい)や袁(えん)信(しん)たちに、観の下で遼(りょう)東(とう)の妖婦をまねた芝居をさせたよ。そのふざけ方や下品な振る舞いは度を越していて、道を行く人たちは目を覆うくらいだったんだ。でも、皇帝の曹(そう)芳(ほう)は広(こう)望(ぼう)観(かん)の上からそれを見て、宴席の笑いものとして楽しんでいたの。
さらに、陵(りょう)雲(うん)台(だい)の宣(せん)曲(きょく)という場所に幕を張って、皇族や親族の女性たちを集めたよ。曹(そう)芳(ほう)は宣(せん)曲(きょく)観(かん)に出て、郭(かく)懐(かい)や袁(えん)信(しん)を呼んで、幕の中へ入れて女性たちと一緒に酒を飲ませたんだ。彼らが次々に酒を注いで回って、女性たちはみんな酔って、その場ではふざけ合いやからかいが行われて、身分や礼儀の区別もなくなったんだ。

(註19)

使保林李華、劉勳等與懷、信等戲,清商令令狐景呵華、勳曰:『諸女,上左右人,各有官職,何以得爾?』華、勳數讒毀景。帝常喜以彈彈人,以此恚景,彈景不避首目。景語帝曰:『先帝持門戶急,今陛下日將妃后游戲無度,至乃共觀倡優,裸袒為亂,不可令皇太后聞。景不愛死,為陛下計耳。』帝言:『我作天子,不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼景,身體皆爛。

保(ほ)林(りん)(女官)の李(り)華(か)や劉(りゅう)勲(くん)たちに、郭(かく)懐(かい)や袁(えん)信(しん)たちと遊ばせていて、清(せい)商(しょう)令(れい)(女官をつかさどる官職)の令(れい)狐(こ)景(けい)は李(り)華(か)や劉(りゅう)勲(くん)たちを叱ってこう言ったよ。
『あなたたちは皇帝のそばに仕える人たちで、それぞれ官職を持っているのに、どうしてそのようなことをしているの?』
すると、李(り)華(か)や劉(りゅう)勲(くん)は、何度も令(れい)狐(こ)景(けい)の悪口を言ったんだ。
曹(そう)芳(ほう)はもともと小さな弾を人に向かって撃つ遊びが好きなんだ。令(れい)狐(こ)景(けい)を憎むようになって、顔や頭を避けないで弾を撃ちつけたんだ。令(れい)狐(こ)景(けい)は曹(そう)芳(ほう)にこう言ったよ。
『先帝(曹(そう)叡(えい))は宮中の規律を厳しく守っていたよ。でも、今のあなたは毎日のように妃や后たちと節度なく遊んで、さらには芸人たちの見世物を一緒に見て、乱れた振る舞いまでしているんだ。このようなことは、皇太后にはとても聞かせられないよ。私は死を惜しんで言っているのではないよ。ただ陛下のためを思って伝えているの」
でも、曹(そう)芳(ほう)はこう答えたよ。
『私は天子なのに、自分の好きなようにしてはいけないの? 皇太后に何の関係があるというの!』
そして、曹(そう)芳(ほう)は人に命令して鉄を赤く焼かせて、それを令(れい)狐(こ)景(けい)の体に押し当てたんだ。令(れい)狐(こ)景(けい)はひどいやけどを負って、身体が焼けただれちゃった。

(註19)

甄后崩後,帝欲立王貴人為皇后。太后更欲外求,帝恚語景等:『魏家前後立皇后,皆從所愛耳,太后必違我意,知我當往不也?』後卒待張皇后疏薄。太后遭郃陽君喪,帝日在後園,倡優音樂自若,不數往定省。清商丞龐熈諫帝:『皇太后至孝,今遭重憂,水漿不入口,陛下當數往寬慰,不可但在此作樂。』帝言:『我自爾,誰能柰我何?』皇太后還北宮,殺張美人及禺婉,帝恚望,語景等:『太后橫殺我所寵愛,此無復母子恩。』數往至故處啼哭,私使暴室厚殯棺,不令太后知也。

甄(しん)皇(こう)后(ごう)が亡くなった後、曹(そう)芳(ほう)は王(おう)貴(き)人(じん)を皇后に立てようとしたよ。でも、皇太后は宮中の外から別の女性を選びたいと思っていたの。曹(そう)芳(ほう)は怒って、令(れい)狐(こ)景(けい)たちにこう言ったよ。
『魏(ぎ)の歴代の皇后は、これまでみんな、皇帝が愛した女性の中から選ばれてきたよ。なのに、皇太后はきっと私の望みに逆らおうとしているんだ。私が怒っているとわかっているの?』
その後、曹(そう)芳(ほう)は張(ちょう)皇(こう)后(ごう)に冷たい態度をとるようになったんだ。
皇太后が郃(ごう)陽(よう)君(くん)(郭(かく)氏(し)の母)の死に遭って、深い悲しみの中にあったとき、曹(そう)芳(ほう)は毎日のように後園で過ごして、芸人の芝居や音楽を楽しみ続けていたよ。朝と晩に皇太后のもとへ行って顔を見たり話したりすることは、ほとんどなかったんだ。清(せい)商(しょう)丞(じょう)の龐(ほう)熙(き)はいさめてこう言ったよ。
『皇太后は孝にあふれていて、今は大きな悲しみに沈んでいて、水も食べ物も口に入れていないの。陛下(曹(そう)芳(ほう))はもっとよく訪ねて、慰めるべきだよ。ここで遊びや音楽ばかり楽しんでいてはいけないよ』
でも、曹(そう)芳(ほう)はこう言ったよ。
『私は私の好きにするんだ。誰が私をどうできるというの?』
その後、皇太后は北宮に戻って、張(ちょう)美(び)人(じん)と禺(ぐ)婉(えん)を処刑したんだ。曹(そう)芳(ほう)はこれに怒って、令(れい)狐(こ)景(けい)たちにこう言ったよ。
『皇太后は私が愛していた者たちを勝手に殺したんだ。これではもう母と子の情なんてないよ』
曹(そう)芳(ほう)は何度も二人がいた場所へ行って声をあげて泣いて、こっそりと暴室(女官を幽閉する部屋)の役人に命令して、立派な棺を用意して手厚く葬って、しかもそのことを皇太后には知らせないようにしたの。

(註19)

每見九親婦女有美色,或留以付清商。帝至後園竹間戲,或與從官攜手共行。熈白:『從官不宜與至尊相提挈。』帝怒,復以彈彈熈。日游後園,每有外文書入,帝不省,左右曰『出』,帝亦不索視。太后令帝常在式乾殿上講學,不欲,使行來,帝徑去;太后來問,輙詐令黃門荅言『在』耳。

曹(そう)芳(ほう)は、皇族や親族の女性たちの中で美しい人を見つけると、そのまま宮中にとどめて清(せい)商(しょう)の役所へ預けることもあったんだ。
さらに、後園で遊ぶときには、側近の役人たちと手を取り合って歩いたんだって。龐(ほう)熙(き)はこう言ったよ。
『側近の役人が陛下(曹(そう)芳(ほう))と手を取り合うのは、ふさわしいことではないよ』
曹(そう)芳(ほう)は怒って、ふたたび龐(ほう)熙(き)に向かって弾を撃ったんだ。
曹(そう)芳(ほう)は毎日のように後園で遊んでいたよ。外から文書が届いても見ないで、周りの人が『出して』と言っても、見るように命令することさえなかったんだ。
皇太后は曹(そう)芳(ほう)にいつも式(しき)乾(けん)殿(でん)で学問の講義を受けるように命令していたよ。でも、曹(そう)芳(ほう)はそれを嫌がって、講義が始まると立ち去ったんだ。皇太后が様子をたずねると、彼は黄(こう)門(もん)に偽って『陛下はここにいる』と答えさせたよ。

(註19)

景、熈等畏恐,不敢復止,更共讇媚。帝肆行昏淫,敗人倫之叙,亂男女之節,恭孝彌頹,凶德浸盛。臣等憂懼傾覆天下,危墜社稷,雖殺身斃命不足以塞責。今帝不可以承天緒,臣請依漢霍光故事,收帝璽綬。帝本以齊王踐祚,宜歸藩于齊。使司徒臣柔持節,與有司以太牢告祀宗廟。臣謹昧死以聞。」奏可。

令(れい)狐(こ)景(けい)や龐(ほう)熙(き)たちも怒りを恐れて、もはや強くいさめられなくなって、だんだんと機嫌を取るようになったんだ。こうして曹(そう)芳(ほう)はさらに好き勝手に振る舞って、人としての秩序を壊して、男女の礼儀も乱したよ。親への孝行や敬意はさらに衰えて、悪い行いはますますひどくなったんだ。
私たち臣下は、天下が傾いて、国家が危機に陥ることを心から恐れているよ。たとえ命を失ったとしても、この責任を果たさないではいられないよ。今の皇帝は、もう天から受け継いだ皇位を守れないんだ。私たちは漢(かん)の霍(かく)光(こう)の例にならって、皇帝の印綬を取り上げることを願うよ。曹(そう)芳(ほう)はもともと斉(せい)王(おう)として即位したのだから、斉(せい)へ帰して王とするべきだよ。司(し)徒(と)の高(こう)柔(じゅう)に節を持たせて、役人と一緒に太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて宗廟(先祖の廟)に告げさせるよ。私たちは死を覚悟してこの意見を伝えるね」
そして、この上奏は受け入れられたよ。

本文

是日遷居別宮,年二十三。使者持節送衞,營齊王宮於河內重門,制度皆如藩國之禮。(註20)

この日、曹(そう)芳(ほう)は宮殿を出て、別の宮殿へ移されたよ。このとき23歳だったよ。朝廷は、節を持った使者を送って、護衛をつけて曹(そう)芳(ほう)を送り届けたよ。そして、そして、河(か)内(だい)にある重(じゅう)門(もん)に、斉(せい)王(おう)としての住まいとなる宮殿を造らせたんだ。その建物の規模や制度は、すべて諸侯王の国に定められた礼に従っていたよ。

(註20)

魏略曰:景王將廢帝,遣郭芝入白太后,太后與帝對坐。芝謂帝曰:「大將軍欲廢陛下,立彭城王據。」帝乃起去。太后不恱。芝曰:「太后有子不能教,今大將軍意已成,又勒兵于外以備非常,但當順旨,將復何言!」太后曰:「我欲見大將軍,口有所說。」芝曰:「何可見邪?但當速取璽綬。」太后意折,乃遣傍侍御取璽綬著坐側。芝出報景王,景王甚歡。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、司(し)馬(ば)師(し)は曹(そう)芳(ほう)をやめさせようとしていて、郭(かく)芝(し)を皇太后のもとに送って、そのことを伝えさせたよ。そのとき、皇太后と曹(そう)芳(ほう)は向かい合って座っていたよ。郭(かく)芝(し)は曹(そう)芳(ほう)にこう言ったよ。
「大(だい)将(しょう)軍(ぐん)(司(し)馬(ば)師(し))はあなたをやめさせて、彭(ほう)城(じょう)王(おう)の曹(そう)拠(きょ)を皇帝に立てようとしているんだ」
すると、曹(そう)芳(ほう)は立ち上がって、その場を去ったんだ。皇太后は喜ばなかったよ。郭(かく)芝(し)はこう言ったよ。
「皇太后は子がいるのに、その子を正しく導けなかったんだ。今、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)(司(し)馬(ば)師(し))の決意はすでに固まっていて、さらに、万一の事態に備えて、外には兵も置かれているよ。だから、意向に従うしかないんだ。今さら何を言うの!」
皇太后はこう言ったよ。
「私は大(だい)将(しょう)軍(ぐん)(司(し)馬(ば)師(し))に会って、直接話したいの」
郭(かく)芝(し)はこう言ったよ。
「どうして会えるの? 今はただ、早く皇帝の印綬を渡すべきだよ」
皇太后は意見をやめて、側近の女官に命令して皇帝の印綬を持って来させて、自分の座席の横に置かせたよ。郭(かく)芝(し)は退出して、このことを司(し)馬(ば)師(し)に報告したよ。司(し)馬(ば)師(し)はこれを聞いてとても喜んだの。

(註20)

又遣使者授齊王印綬,當出就西宮。帝受命,遂載王車,與太后別,垂涕,始從太極殿南出,羣臣送者數十人,太尉司馬孚悲不自勝,餘多流涕。王出後,景王又使使者請璽綬。太后曰:「彭城王,我之季叔也,今來立,我當何之!且明皇帝當絕嗣乎?吾以為高貴鄉公者,文皇帝之長孫,明皇帝之弟子,於禮,小宗有後大宗之義,其詳議之。」景王乃更召群臣,以皇太后令示之,乃定迎高貴鄉公。是時太常已發二日,待璽綬於溫。事定,又請璽綬。太后令曰:「我見高貴鄉公,小時識之,明日我自欲以璽綬手授之也。」

さらに、司(し)馬(ば)師(し)は使者を送って曹(そう)芳(ほう)に斉(せい)王(おう)の印綬を授けて、西の宮殿に移るように命令したよ。曹(そう)芳(ほう)はその命令を受け入れて、斉(せい)王(おう)の車に乗ったよ。そして皇太后に別れを告げて、涙を流したの。その後、太(たい)極(きょく)殿(でん)の南門から出発して、数十人の臣下が見送ったんだ。太(たい)尉(い)の司(し)馬(ば)孚(ふ)は悲しみを抑えきれなくて、他のたくさんの臣下たちも涙を流したよ。
曹(そう)芳(ほう)が去った後、司(し)馬(ば)師(し)はふたたび使者を送って、皇帝の印綬を渡すように求めたよ。皇太后はこう言ったよ。
「彭(ほう)城(じょう)王(おう)の曹(そう)拠(きょ)は、私にとっては夫の末の弟だよ。もし今その人を皇帝に立てるなら、私はどうすればいいの? それに、明(めい)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)叡(えい))の家系は、ここで絶えてしまうの? 私は、高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)の曹(そう)髦(ぼう)がふさわしいと思うよ。文(ぶん)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)丕(ひ))の孫で、明(めい)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)叡(えい))のおいだよ。礼では、本家に後継ぎがいないときは、分家から後継ぎを立てて本家を継がせるという考えがあるよ。このことをよく相談してね」
司(し)馬(ば)師(し)はふたたび臣下たちを集めて、皇太后の命令を見せたよ。そして、高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)の曹(そう)髦(ぼう)を迎えて皇帝に立てることが決まったよ。このとき太(たい)常(じょう)はすでに2日前に出発していて、温(おん)で皇帝の印綬を受け取ろうと待っていたんだ。皇帝を立てると決まった後、司(し)馬(ば)師(し)はふたたび皇帝の印綬を渡すように求めたよ。皇太后は命令してこう言ったよ。
「私は高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)(曹(そう)髦(ぼう))を幼い頃から知っているよ。明日、私自身の手で皇帝の印綬を授けたいんだ」

曹髦を後継ぎにする

本文

丁丑,令曰:「東海王霖,高祖文皇帝之子。霖之諸子,與國至親,高貴鄉公髦有大成之量,其以為明皇帝嗣。」(註21)(註22)

丁丑の日、皇太后は命令してこう言ったよ。
「東(とう)海(かい)王(おう)の曹(そう)霖(りん)は、高(こう)祖(そ)文(ぶん)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)丕(ひ))の子だよ。曹(そう)霖(りん)の子供たちは、皇室とすごく近い関係にあるんだ。その中でも高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)の曹(そう)髦(ぼう)は、すごくすぐれた器量を持っているよ。だから、曹(そう)髦(ぼう)を明(めい)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)叡(えい))の後継ぎとするよ」

(註21)

魏書曰:景王復與羣臣共奏永寧宮曰:「臣等聞人道親親故尊祖,尊祖故敬宗。禮,大宗無嗣,則擇支子之賢者;為人後者,為之子也。東海定王子高貴鄉公,文皇帝之孫,宜承正統,以嗣烈祖明皇帝後。率土有賴,萬邦幸甚,臣請徵公詣洛陽宮。」奏可。使中護軍望、兼太常河南尹肅持節,與少府袤、尚書亮、侍中表等奉法駕,迎公于元城。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、司(し)馬(ば)師(し)はふたたびたくさんの臣下と一緒に永(えい)寧(ねい)宮(きゅう)(皇太后の郭(かく)氏(し))に上奏してこう言ったよ。
「私たちは聞いているよ。人の道では、親族を大切にするからこそ先祖を尊んで、先祖を尊ぶからこそ宗家を敬うよ。礼では、本家に後継ぎがいない場合、分家の子孫の中からすぐれた人を選ぶよ。そして他家の後継ぎとなった者は、その家の実の子として扱われるよ。
東(とう)海(かい)定(てい)王(おう)(曹(そう)霖(りん))の子の高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)(曹(そう)髦(ぼう))は、文(ぶん)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)丕(ひ))の孫だよ。この人こそ正統を受け継いで、烈(れっ)祖(そ)明(めい)皇(こう)帝(てい)(曹(そう)叡(えい))の後継ぎとなるべきだよ。天下の人々はその恩恵を受けて、すべての国にとっても大きな幸いになるだろうね。どうか高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)(曹(そう)髦(ぼう))を洛(らく)陽(よう)宮(きゅう)に呼んでね」
上奏は受け入れられたよ。そこで、中(ちゅう)護(ご)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)望(ぼう)、太(たい)常(じょう)で河(か)南(なん)尹(いん)の王(おう)粛(しゅく)が節を持って、少(しょう)府(ふ)の鄭(てい)袤(ぼう)、尚(しょう)書(しょ)の袁(えん)亮(りょう)、侍(じ)中(ちゅう)の華(か)表(ひょう)たちが皇帝を迎えるための正式な車列を率いて、元(げん)城(じょう)に行って、曹(そう)髦(ぼう)を迎えたよ。

(註22)

魏世譜曰:晉受禪,封齊王為邵陵縣公。年四十三,泰始十年薨,謚曰厲公。

『魏(ぎ)世(せい)譜(ふ)』によると、晋(しん)が魏(ぎ)から皇帝の位を受け継ぐと、曹(そう)芳(ほう)は邵(しょう)陵(りょう)県(けん)公(こう)に封ぜられたよ。その後、泰(たい)始(し)十年(274年)に43歳で亡くなって、厲(れい)公(こう)の諡号が贈られたんだ。

陳寿の評

「魏書陳留王紀」に併せて記載したよ。

「魏書斉王紀」は以上だよ!