はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書斉王紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹芳 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹芳って誰?
齊王諱芳,字蘭卿。明帝無子,養王及秦王詢;宮省事祕,莫有知其所由來者。(註1)
斉王は、名は芳で、字は蘭卿だよ。曹叡には子がいなかったから、斉王の曹芳と秦王の曹詢を育てたよ。宮中でこのことは秘密にされて、どこから来たのか誰も知らなかったの。
魏氏春秋曰:或云任城王楷子。
『魏氏春秋』によると、任城王の曹楷の子とも言われているんだって。
皇太子になる
青龍三年,立為齊王。景初三年正月丁亥朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身,繼承鴻業,煢煢在疚,靡所控告。大將軍、太尉奉受末命,夾輔朕躬,司徒、司空、冢宰、元輔總率百僚,以寧社稷,其與羣卿大夫勉勗乃心,稱朕意焉。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上,免為良人。」二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。(註2)(註3)(註4)
青龍三年(235年)、曹芳は斉王に立てられたよ。景初三年(239年)、正月の丁亥の朔日、曹叡が重い病気になっちゃったから、そこで曹芳を皇太子に立てたよ。その日に即位して、大赦を行ったよ。皇后を尊んで皇太后と呼んだよ。
大将軍の曹爽と、太尉の司馬懿が政務を助けることになったよ。曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「私は小さな身で大きな事業を受け継いだけど、病気の苦しみに悩みながらも、訴える相手もいないんだ。曹爽と司馬懿は私の最後の命令を受け入れて、私を支えてくれたんだ。司徒、司空、冢宰、元輔はたくさんの官僚を率いて国家を安定させて、臣下たちや大夫たちも心を尽くして、私の意向を果たしてね。宮殿の建設などの事業はすべて遺言の詔によって中止したよ。60歳以上の奴隷は、平民として解放するよ」
二月、西域から貢物として火浣布が献上されて、曹爽と司馬懿がこれを百官(官僚)たちに示すために試しに見せたよ。
異物志曰:斯調國有火州,在南海中。其上有野火,春夏自生,秋冬自死。有木生於其中而不消也,枝皮更活,秋冬火死則皆枯瘁。其俗常冬采其皮以為布,色小青黑;若塵垢洿之,便投火中,則更鮮明也。
『異物志』によると、斯調国には火州と呼ばれる場所があって、南海の中にあるんだって。その地には野生の植物が火を発することがあって、春や夏に自然発生して、秋や冬に消えるよ。その中には木が生えていて、火は消えなくて、枝や皮がさらに活気を持って、秋や冬に火が消えると枯れてしまうの。その地の風習は、いつも冬にその木の皮を収穫して布として使うんだって。色は少し青黒いよ。もし汚れちゃっても、火の中に投げると、より鮮やかになるよ。
傅子曰:漢桓帝時,大將軍梁兾以火浣布為單衣,常大會賔客,兾陽爭酒,失杯而汙之,偽怒,解衣曰:「燒之。」布得火,煒燁赫然,如燒凡布,垢盡火滅,粲然潔白,若用灰水焉。
『傅子』によると、漢の桓帝の時代に、大将軍の梁冀は火浣布を着物として着ていて、いつも大勢の客を招いて宴会を開いていたよ。ある日、梁冀が酒を取り合う中で杯を落として汚しちゃって、怒ったふりをして服を脱いで、「これを焼け」と言ったよ。布に火にかかると、光り輝いて、焼ける様子はまるで普通の布が焼かれるみたいだったけど、汚れがすっかり取れて、火が消えると真っ白で清潔な状態になって、まるで灰水(上澄みの水)を使ったみたいな輝きを放ったんだって。
搜神記曰:崑崙之墟有炎火之山,山上有鳥獸草木,皆生於炎火之中,故有火浣布,非此山草木之皮枲,則其鳥獸之毛也。漢世西域舊獻此布,中間乆絕;至魏初,時人疑其無有。文帝以為火性酷烈,無含生之氣,著之典論,明其不然之事,絕智者之聽。及明帝立,詔三公曰:「先帝昔著典論,不朽之格言,其刊石于廟門之外及太學,與石經並,以永示來世。」至是西域使至而獻火浣布焉,於是刊滅此論,而天下笑之。
『搜神記』によると、崑崙の遺跡には炎火の山があって、山の上には鳥や獣がいて、草木が生えているけど、これらはすべて炎火の中で生まれて育っているんだって。だから、火浣布があるんだ。この布は、この山の草木の皮や枝だけではなくて、鳥獣の毛からも作られているよ。
漢の時代、西域がこの布を古くから献上していたけど、その後しばらく途絶えたんだって。魏の初めになると、人々はこれが存在しないのではないかと疑問に思ったの。曹丕は、火が激しい性質を持っていて生命の気を含んでいないと考えて、それを『典論』に書いて、火浣布が存在しないことを明らかにして、賢い人たちがこれを聴くことをやめさせたの。そして曹叡が即位すると、三公に命令してこう言ったよ。
「先帝(曹丕)が昔、『典論』を作って、不朽の格言を残したよ。それらを廟門の外や太学に刻んで、石経と一緒に後世に示すべきだよ」
そして、その後、西域から使者が来て火浣布を献上したら、この『典論』を刻んでいたものを壊して、天下の人たちはそれを笑ったの。
臣松之昔從征西至洛陽,歷觀舊物,見典論石在太學者尚存,而廟門外無之,問諸長老,云晉初受禪,即用魏廟,移此石於太學,非兩處立也。竊謂此言為不然。
裴松之の見解としては、昔に西征に従って洛陽に行って、古いものを見て回った中で、太学にある『典論』の石が今もなお残っているのを目にしたけど、廟門の外にはその石はなかったんだ。長老たちに尋ねると、『晋が初めて皇帝の位を継いだ時に、魏の廟をそのまま使って、この石を太学に移したから、2つの場所に石を立てたわけではない』と説明を受けたよ。でも、私はこの言説には納得できなくて、正しいとは思えないんだ。
又東方朔神異經曰:南荒之外有火山,長三十里,廣五十里,其中皆生不燼之木,晝夜火燒,得暴風不猛,猛雨不滅。火中有鼠,重百斤,毛長二尺餘,細如絲,可以作布。常居火中,色洞赤,時時出外而色白,以水逐而沃之即死,續其毛,織以為布。
東方朔の『神異経』によると、南の荒野の外に火山があって、その長さは30里、幅は50里もあるよ。その中には燃え尽きない木が生えていて、昼も夜も火が燃え続けているんだって。突風が来ても火が激しくならないし、豪雨が降っても火が消えないんだ。火の中には、体重が100斤もある鼠がいるよ。その鼠の毛は2尺以上もあって、細くて糸みたいだから、布として使うことができるよ。これらの鼠はいつも火の中に住んでいて、その毛色は真っ赤だけど、時々外に出て白くなるんだ。水で追い払うとすぐに死んじゃうけど、その後も毛が生え変って、それを織って布として使うよ。
帝として
丁丑詔曰:「太尉體道正直,盡忠三世,南擒孟達,西破蜀虜,東滅公孫淵,功蓋海內。昔周成建保傅之官,近漢顯宗崇寵鄧禹,所以優隆儁乂,必有尊也。其以太尉為太傅,持節統兵都督諸軍事如故。」
丁丑の日、詔を下してこう言ったよ。
「太尉(司馬懿)は道を現して、正しくて、3世代にわたって忠を尽くしているよ。南で孟達を捕らえて、西で蜀の敵を破って、東で公孫淵を滅ぼして、その功績は国中に広がっているよね。昔、周の成王は保傅という官職を建てて、近い時代には漢の顕宗(明帝)が鄧禹を尊んで使ったよ。これは、優れた人を優遇して尊重して、必ず尊ぶものだよ。だから、太尉を太傅に任命して、前のまま節を持たせて兵を統率させて都督諸軍事とするよ」
三月,以征東將軍滿寵為太尉。夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月,上始親臨朝,聽公卿奏事。八月,大赦。冬十月,以鎮南將軍黃權為車騎將軍。
三月、征東将軍の満寵を太尉に任命したよ。
夏の六月、遼東の東沓県の役人や民が海を渡って斉郡の境界に移住したから、古い都城を解放して新しい沓県として、移住民を住まわせるようにしたよ。秋の七月、初めて朝廷に臨んで、公卿の上奏を聞いたよ。八月、大赦を行ったよ。冬の十月、鎮南将軍の黄権を車騎将軍に任命したよ。
暦を定める
十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」
十二月、詔を下してこう言ったよ。
「烈祖明皇帝(曹叡)が正月に天下から去ったから、役人たちは深くその日を悲しんでいるの。そこで、夏の暦を再び使うことにするよ。先帝(曹叡)の三統の法に反するかもしれないけど、これも礼制が変わった結果だよ。そして、夏の暦は数的に天の正しい時とされていて、建寅の月を正始元年の正月として、建丑の月を後の十二月とするよ」
237 年に曹叡さんが決めた暦を戻したよ。
災害に対応する
正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。
正始元年(240年)、春の二月、乙丑の日、侍中で中書監の劉放と、侍中で中書令の孫資をそれぞれ左右光禄大夫に任命したよ。丙戌の日、遼東の汶県と北豊県の民が海を渡ったから、斉郡の西安県、臨菑県、昌国県の境界に新しく汶県と南豊県を設けて、流民をそこに住まわせたよ。
自去冬十二月至此月不雨。丙寅,詔令獄官亟平冤枉,理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀,各悉乃心。夏四月,車騎將軍黃權薨。秋七月,詔曰:「易稱損上益下,節以制度,不傷財,不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物,將奚以為?今出黃金銀物百五十種,千八百餘斤,銷冶以供軍用。」八月,車駕巡省洛陽界秋稼,賜高年力田各有差。
去年の冬の十二月からこの月まで雨が降らなかったの。丙寅の日、詔を下して、獄官に対して冤罪をすぐに解決して軽い罪を取り除くように命令して、臣下や公卿、士人たちには良い提案を口にして、それぞれの意見に心を尽くすように命令したよ。夏の四月、車騎将軍の黄権が亡くなったんだ。
秋の七月、詔を下してこう言ったよ。
「『易経』に言われるように、上を削って下を補うことで制度を整えて、国家の財政を損なわないで、民を傷つけないようにすることが重要なんだ。今、民は不足しているのに、宮廷では金銀などの品々をたくさん作っているよ。どうすればいいの? そこで、これらの黄金や銀の製品を150種類以上、合計1800斤以上を溶かして、軍事に充てるよ」
八月、車駕(天子の車)が洛陽の周辺の秋の作物を視て、高齢者や農民たちにそれぞれ贈り物を与えたよ。
芍陂の戦い
二年春二月,帝初通論語,使太常以太牢祭孔子於辟雍,以顏淵配。
正始二年(241年)、春の二月、曹芳が『論語』を学び始めて、太常に命令して太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて、辟雍で孔子と顔淵を祀ったよ。
太牢は、牛・羊・豚などのお供え物だよ。
夏五月,吳將朱然等圍襄陽之樊城,太傅司馬宣王率衆拒之。(註6)六月辛丑,退。己卯,以征東將軍王陵為車騎將軍。冬十二月,南安郡地震。
夏の五月、呉の将の朱然たちが襄陽の樊城を包囲したけど、太傅の司馬懿が率いる軍がこれに抵抗したよ。六月、辛丑の日、撤退したよ。己卯の日、征東将軍の王陵を車騎将軍に任命したよ。冬の十二月、南安郡で地震があったんだって。
干寶晉紀曰:吳將全琮寇芍陂,朱然、孫倫五萬人圍樊城,諸葛瑾、步隲寇柤中;琮已破走而樊圍急。宣王曰:「柤中民夷十萬,隔在水南,流離無主,樊城被攻,歷月不解,此危事也,請自討之。」議者咸言:「賊遠圍樊城不可拔,挫於堅城之下,有自破之勢,宜長策以御之。」宣王曰:「軍志有之:將能而御之,此為縻軍;不能而任之,此為覆軍。今疆埸騷動,民心疑惑,是社稷之大憂也。」
干宝の『晋紀』によると、呉の将の全琮が芍陂を襲撃して、朱然と孫倫たち5万の兵が樊城を包囲したんだ。その間、諸葛瑾と歩隲は柤中を攻撃したよ。全琮はすでに破れて逃げていて、樊城の包囲が激しくなったんだ。
司馬懿はこう言ったよ。
「柤中の民は10万人で、南の水を隔てていて、主を持たないで離ればなれになっているんだ。樊城は攻撃されていて、何ヶ月も解放されていないよ。これは危機だよ。私が自分でこれを討ちたいんだ」
議論する者たちはみんなこう言ったよ。
「遠くから敵が来て、樊城を包囲しているから、すぐには攻め落とせないよ。堅固な城の下では自ら勢いが破れてしまうかも。長期的な策略で対処するべきだよ」
でも、司馬懿はこう答えたよ。
「軍の志には、将が能力を持って指揮して、軍を律することで、軍を束ねることとされているよ。将の能力が足りないのに放置しておくと、軍は崩壊してしまうよ。今、国境が混乱して、民の心は疑念に満ちているんだ。これは国家の大きな心配だよね」
六月,督諸軍南征,車駕送津陽城門外。宣王以南方暑溼,不宜持乆,使輕騎挑之,然不敢動。於是乃令諸軍休息洗沐,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。然等聞之,乃夜遁。追至三州口,大殺獲。
六月、司馬懿はたくさんの軍を指揮して南へ進めて、天子の車は津陽の城門の外まで送られたよ。司馬懿は南方が暑くて湿気が多いから、長く留まるべきではないと考えて、軽騎兵に敵を探らせたけど、彼らは動けなかったんだ。そこで、司馬懿はすべての軍に休息を与えて、身を清めるように命令して、精鋭を選んで、先鋒を募って、号令を徹底して、攻撃の機会を示したよ。でも、敵はこの情報を聞くと、夜中に逃げちゃった。軍は彼らを三州口まで追って、たくさんの敵を討ち取ったんだ。
地震が起きる
三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。
正始三年(242年)、春の正月、東平王の曹徽が亡くなったんだ。三月、太尉の満寵も亡くなったよ。
秋の七月、甲申の日、南安郡で地震が起こったよ。乙酉の日、領軍将軍の蒋済を太尉に任命したよ。冬の十二月、魏郡でも地震があったよ。
曹操の臣下を祀る
四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
正始四年(243年)、春の正月、曹芳が元服して、臣下たちにそれぞれ贈り物を与えたよ。夏の四月、乙卯の日、皇后として甄氏を立てて、大赦を行ったよ。五月の朔日、日食があったんだ。
秋の七月、詔を下して、昔の大司馬の曹真、曹休、征南大将軍の夏侯尚、太常の桓階、司空の陳羣、太傅の鍾繇、車騎将軍の張郃、左将軍の徐晃、前将軍の張遼、右将軍の楽進、太尉の華歆、司徒の王朗、驃騎将軍の曹洪、征西将軍の夏侯淵、後将軍の朱霊、文聘、執金吾の臧覇、破虜将軍の李典、立義将軍の龐徳、武猛校尉の典韋を曹操の廟の庭に祀ると命令したよ。
冬の十二月、倭国の女王の卑弥呼が使者を送って献上したよ。
興勢の役
五年春二月,詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祠孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傳、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸於太祖廟庭。(註7)己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。
正始五年(244年)、春の二月、詔を下して、大将軍の曹爽が軍を率いて蜀に遠征をしたよ。
夏の四月の朔日、日食があったんだって。五月、癸巳の日、『書経』の講義を受けて、太常に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて孔子と顔淵を辟雍で祀ったよ。太傳(司馬懿)、大将軍(曹爽)、そして侍講者にそれぞれの贈り物を与えたよ。丙午の日、大将軍の曹爽が軍を引き返したよ。
秋の八月、秦王の曹詢が亡くなったんだ。九月、鮮卑族が朝廷に降伏して、遼東の属国を置いて、昌黎県を置いてそこに留まらせたよ。
冬の十一月、癸卯の日、詔を下して昔の尚書令の荀攸を曹操の廟の庭に祀ったよ。己酉の日、秦国をふたたび京兆郡に戻すと決定したよ。十二月、司空の崔林が亡くなったんだ。
臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至於升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸,則未詳厥趣也。徐佗謀逆而許褚心動,忠誠之至遠同於日磾,且潼關之危,非褚不濟,褚之功烈有過典韋,今祀韋而不及褚,文所未達也。
裴松之の見解によると、魏の時代の祭祀で、荀彧に対する扱いが不十分だったのは、彼が晩年に異議を唱えたことと、彼の地位が魏の臣下ではなかったからだと思うよ。程昱を昇進させて、郭嘉を遺して、最初に鍾繇を祀って、その後に荀攸を祀ったことについては、詳細な意図がわからないな。
徐佗は反逆を計画して、許褚の心を動かしたことは、忠誠が金日磾と同じくらいであることを示しているよ。それに、潼関の危機は、許褚がいなければ事態を切り抜けることはできなかっただろうね。許褚の功績は典韋をも上回っているけど、今、典韋を祀りながら許褚を祀らないのは、評価が足りないと思われるよ。
荀彧さんは漢の臣下という扱いなのかな。『三国志』の列伝の構成としては魏の臣下っぽいのだけれど。そして何も言われない于禁さん。
六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」
正始六年(245年)、春の二月、丁卯の日、南安郡で地震があったんだ。丙子の日、驃騎将軍の趙儼を司空に任命したよ。
夏の六月、趙儼が亡くなったんだ。八月、丁卯の日、太常の高柔を司空に任命したよ。癸巳の日、左光禄大夫の劉放を驃騎将軍に、右光禄大夫の孫資を衛将軍に任命したよ。
冬の十一月、曹操の廟で祭祀をして、前に言及した功労の臣下たち21人を初めて祀ったよ。十二月、辛亥の日、昔の司徒の王朗が作った『易伝』を学者の課題の対象にするように命令したよ。乙亥の日、詔を下してこう言ったよ。
「明日、臣下たちを集めて大会を開くとき、太傅(司馬懿)は輿に乗って殿に上ってね」
高句驪の討伐
七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或𤸇疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」(註8)
正始七年(246年)、春の二月、幽州刺史の毌丘倹が高句驪を討伐して、夏の五月には、濊貊族を討伐して、撃破したよ。韓の那奚など数十の国々が、それぞれ部族を率いて投降してきたんだ。秋の八月、戊申の日、詔を下してこう言ったよ。
「この頃、市場で取引されている奴隷を見ると、彼らはみんな年齢が70歳以上で、病気に苦しんでいて、これは天の民の困っている状況だよ。それに、役人は彼らが力を使い果たしたとして、また売り払っているんだ。進退の余地はないよね。彼らをみんな良民として解放しよう。自立できない者がいる場合は、郡や県が支援してね」
臣松之案:帝初即位,有詔「官奴婢六十以上免為良人」。旣有此詔,則宜遂為永制。七八年間,而復貨年七十者,且七十奴婢及𤸇疾殘病,並非可售之物,而鬻之於巿,此皆事之難解。
裴松之が調べたところ、曹芳が皇帝に即位した初めの頃に「奴隷で60歳以上の人は良人として解放する」との詔があったよ。この詔があるから、永続的な制度として進めるべきだよ。でも、その後7から8年間で、ふたたび70歳以上の者が売られるようになったんだ。しかも、70歳以上の奴隷や病気を抱える人は売ることができないのに、市場で売るなんて理解が難しいね。
祭祀できない
己酉,詔曰:「吾乃當以十九日親祠,而昨出已見治道,得雨當復更治,徒棄功夫。每念百姓力少役多,夙夜存心。道路但當期於通利,聞乃檛捶老小,務崇脩飾,疲困流離,以至哀歎,吾豈安乘此而行,致馨德於宗廟邪?自今已後,明申勑之。」冬十二月,講禮記通,使太常以太牢祀孔子於辟雍,以顏淵配。(註9)
己酉の日、詔を下してこう言ったよ。
「私は19日に自ら祭祀をする予定だったけど、昨日出かけて道が整備されていたのを見たよ。雨が降ったらふたたび修繕が必要になって、これまでの労力が無駄になっちゃう。いつも民の労働力は少ないのに負担が多いことを思って、私は昼も夜も心に留めているんだ。道路はただ通行の便を図るべきものなのに、今は年老いた者や幼い者までを駆り立てて鞭で打って、修繕に努めさせて、装飾にこだわりすぎて人々を疲れさせて、故郷を離れる者まで出ているんだ。その結果、人々の嘆き悲しむ声が上がっているよ。どうして私がそのような状況の中、これを利用して快適に乗り物に乗って、宗廟(祖先の廟)で功績を誇れるの? 今後はこの点について厳しく命令するね」
冬の十二月、『礼記』の講義を受けて、太常に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げさせて孔子を辟雍で祀って、顔淵も併せて祀ったよ。
習鑿齒漢晉春秋曰:是年,吳將朱然入柤中,斬獲數千;柤中民吏萬餘家渡沔。司馬宣王謂曹爽曰:「若便令還,必復致寇,宜權留之。」爽曰:「今不脩守沔南,留民沔北,非長策也。」宣王曰:「不然。凡物置之安地則安,危地則危,故兵書曰,成敗形也,安危勢也,形勢御衆之要,不可不審。設令賊二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸鈔柤中,君將何以救之?」爽不聽,卒令還。然後襲殺之。
習鑿歯の『漢晋春秋』によると、この年、呉の将の朱然が柤中に侵入して、数千人を討ち取ったり捕らえたよ。柤中の民や役人は1万以上の家が沔水を渡ったよ。司馬懿は曹爽にこう言ったよ。
「今、彼らを帰せば必ずふたたび敵を招くだろうから、彼らを留めるべきだよ」
曹爽はこう答えたよ。
「今、沔水の南岸の防備を強化しないで民を北岸に留め置くことは、長期的な戦略とは言えないよね」
司馬懿はこう言ったよ。
「そうではないよ。すべてのものは安全な場所に置かれれば安定するし、危険な場所に置かれれば危険になるんだ。だから兵法には、成功と失敗の形勢を見極めること、安全と危険の勢いを考えることが重要だとあるんだ。形勢は軍隊を操る上で欠かせないもので、慎重に考えるべきだよ。例えば、敵が2万人で沔水を封鎖して、3万人が沔水の南の軍と対峙して、1万人が上陸して柤中を陥れるとしたら、あなたはどのようにしてそれを救うの?」
曹爽は聞き入れなくて、彼らを帰したよ。その後、朱然は攻撃して彼らを破ったんだ。
袁淮言於爽曰:「吳楚之民脆弱寡能,英才大賢不出其土,比技量力,不足與中國相抗,然自上世以來常為中國患者,蓋以江漢為池,舟楫為用,利則陸鈔,不利則入水,攻之道遠,中國之長技無所用之也。孫權自十數年以來,大畋江北,繕治甲兵,精其守禦,數出盜竊,敢遠其水,陸次平土,此中國所願聞也。
袁淮は曹爽にこう言ったよ。
「呉と楚の民は、体力が弱く能力も乏しいし、偉大な才人や賢者がその地から出ることも少なくて、その技量や力量を比べても、中原と対抗するには足りないんだ。でも、古代から彼らはいつも中原にとっての悩みの種となってきたよね。それは、長江や漢水を天然の防衛線として、舟をうまく使って、有利な時には陸で略奪をして、不利な時には水上に退避する戦術を使うからなの。彼らを攻めようとしても道のりが遠くて、中原の得意とする技術や戦術を活かすことができないんだ。孫権は十数年前から、何度も長江の北で大規模な狩り(征伐)をして、鎧や武器を整えて守備を強化して、何度も侵略をして、水を遠ざけて陸地を平らげていったよ。これは中原が望んで聞きたい事態だよ。
夫用兵者,貴以飽待飢,以逸擊勞,師不欲乆,行不欲遠,守少則固,力專則彊。當今宜捐淮、漢已南,退却避之。若賊能入居中央,來侵邊境,則隨其所短,中國之長技得用矣。若不敢來,則邊境得安,無鈔盜之憂矣。使我國富兵彊,政脩民一,陵其國不足為遠矣。
そもそも兵を使うときは、飢えた敵に満ち足りた軍で対して、疲れた敵を休養十分な軍で撃つことが重要だよ。軍を長く留めることを避けて、遠征を控えて、守備は少ない兵でも固めて、力を集中すれば強さが生まれるよ。今は、淮河と漢水より南の地域を捨てて、後退して敵を避けるべきなんだ。もし敵が中央に進入して居座って、辺境に侵攻してくるなら、敵の弱点を突くことができて、中原の得意とする技術を活用できるだろうね。もし敵が攻めて来ないなら、辺境は安定して、略奪や盗賊の心配もなくなるよね。こうして私たちの国が豊かになって、兵が強くなって、政治が整って、民がひとつになれば、敵国を征服することは遠い目標ではなくなるよ。
今襄陽孤在漢南,賊循漢而上,則斷而不通,一戰而勝,則不攻而自服,故置之無益於國,亡之不足為辱。自江夏已東,淮南諸郡,三后已來,其所亡幾何,以近賊疆界易鈔掠之故哉!若徙之淮北,遠絕其間,則民人安樂,何鳴吠之驚乎?」遂不徙。
今、襄陽は漢水の南に孤立していて、もし敵が漢水に沿って上流へ進んだら、断絶されて孤立無援になっちゃう。一度の戦いで勝利すれば、敵は攻撃しないでも自然に屈服するだろうね。だから、この地を維持しても国に益はなくて、失っても恥ではないんだよ。それに、江夏の東から南にかけて、淮水より南のそれぞれの郡について、三代(曹操、曹丕、曹叡)にわたって、どれだけの領地を失ったのかな。それは、敵との境に近くて略奪しやすい地だからだよ。もしこれらの民を淮水の北側に移せば、敵との距離が遠く離れて、民は安穏な生活を送れるだろうね。その結果、何を恐れて警戒の叫びを上げる必要があるのかな?」
でも、結局は移さなかったんだ。
何晏たちの提案
八年春二月朔,日有蝕之。夏五月,分河東之汾北十縣為平陽郡。
正始八年(247年)、春の二月の朔日、日食があったよ。夏の五月、河東の汾水の北の10つの県を分けて、平陽郡としたよ。
秋七月,尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身,治其身者慎其所習。所習正則其身正,其身正則不令而行;所習不正則其身不正,其身不正則雖令不從。是故為人君者,所與游必擇正人,所觀覽必察正象,放鄭聲而弗聽,遠佞人而弗近,然後邪心不生而正道可弘也。
秋の七月、尚書の何晏は上奏してこう言ったよ。
「国を良く治める者は、必ずまず自らの身を正すことから始めるよ。自らの身を正すには、自らの習慣を慎重に選ぶべきだよ。習慣が正しければ身も正しくなって、身が正しければ命令を出さなくても自然と行われるようになるんだって。逆に、習慣が正しくなければ身は正されないし、身が正されなければ命令を出しても従われないんだ。だから、君主は、友人や仲間を選ぶときには必ず正しい人物を選んで、目にするものは正しい模範であるかよく見極めるべきだよ。悪い心が生まれないようにするために、鄭の音楽を聞かないで、言葉を飾って媚びを売る人たちを避けて近づかないようにすれば、邪悪な心が生じないで、正しい道を広められるよ。
季末闇主不知損益,斥遠君子,引近小人,忠良疏遠,便辟褻狎,亂生近暱,譬之社鼠;考其昏明,所積以然,故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』,言慎所近也,周公戒成王曰『其朋其朋』,言慎所與也。書云:『一人有慶,兆民賴之。』可自今以後,御幸式乾殿及游豫後園,皆大臣侍從,因從容戲宴,兼省文書,詢謀政事,講論經義,為萬世法。」
世が衰える時の愚かな君主は、物事の損益を理解しないで、君子(立派な人)を遠ざけて、小人(つまらない人)を引き寄せるんだ。忠のある人を遠ざけて、媚びへつらう者が親しくなって、乱れは親しい間柄から生じるよ。これは宗廟(祖先の廟)に潜むネズミ(国家を食い物にするたとえ)みたいだね。君主の明暗の違いを考えてみると、このような事態は積み重ねによって起こるもので、だから聖人や賢者はこのようなことを深く考えて警告しているんだ。舜は禹に『隣よ、隣よ』と戒めたのは、近づく相手を慎重に選べという意味で、周公が成王に『その友、その友』と戒めたのも、交友を慎重に選べという意味だよ。『書経』には『一人(帝)が幸せであれば、たくさんの人たちが幸せになる』とあるよ。だから、これからは式乾殿で滞在したり後園で遊ぶ時には、いつも大臣たちが同席して、気楽に宴会を楽しむだけではなくて、文書を読んで、政治の相談をして、経典の義について論じ合うべきだよ。それが後の世に伝わる規範になるだろうね」
冬十二月,散騎常侍諫議大夫孔晏乂奏曰:「禮,天子之宮,有斲礱之制,無朱丹之飾,宜循禮復古。今天下已平,君臣之分明,陛下但當不懈于位,平公正之心,審賞罰以使之。可絕後園習騎乘馬,出必御輦乘車,天下之福,臣子之願也。」晏乂咸因闕以進規諫。
冬の十二月、散騎常侍で諫議大夫の孔乂は上奏してこう言ったよ。
「『礼』では、天子の宮殿には刻むことと磨くことの制度はあるけど、朱や丹での派手な装飾は許されていないよ。だから、『礼』に従って、古の様式に戻すべきだよ。今、天下はすでに平定されていて、君主と臣下の区別も明確だよ。陛下はただ位に怠らないで、公平で正直な心を保って、賞罰を慎重にして、秩序を保ってほしいんだ。後園で馬に乗る習慣をやめて、外出する時には必ず輦(天子の車)に乗るべきだよ。これは天下の幸福で、臣下たちの願いでもあるんだ」
何晏と孔乂は他の臣下の意見も取り入れて、欠点を進言したの。
九年春二月,衞將軍中書令孫資,癸巳,驃騎將軍中書監劉放,三月甲午,司徒衞臻,各遜位,以侯就第,位特進。四月,以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空,固辭不受。秋九月,以車騎將軍王淩為司空。冬十月,大風發屋折樹。
正始九年(248年)、春の二月、衛将軍で中書令の孫資が、癸巳の日に、驃騎将軍で中書監の劉放が、三月の甲午の日、司徒の衛臻が、それぞれ位を譲って、侯として家に戻って、特進の地位になったよ。
四月、司空の高柔が司徒になったよ。光禄大夫の徐邈は司空に任命されたけど、固く辞退して受けなかったんだ。秋の九月、車騎将軍の王淩が司空に任命されたよ。冬の十月、大風が吹いて、屋根や木々が折れちゃった。
高平陵の変
嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。(註10)太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏収黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。(註11)
嘉平元年(249年)、春の正月、甲午の日、車駕(天子の車)が高平陵を訪れたよ。太傅の司馬懿が上奏して、大将軍の曹爽と、曹爽の弟で中領軍の曹羲、武衛将軍の曹訓、散騎常侍の曹彦の官職を辞めさせて、侯に就かせて家に帰らせたよ。そして、戊戌の日、役人が黄門の張当を廷尉に送って、その罪状を調べた結果、曹爽と一緒に不正な計画をしていたことが明らかになったんだ。尚書の丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉の畢軌、荊州刺史の李勝、大司農の桓範も曹爽と通じていたことが発覚して、彼らはみんな処刑されちゃった。この話は「曹爽伝」に記されているよ。
丙午の日、大赦を行ったよ。丁未の日、太傅の司馬懿が丞相に任命されたけど、最初は辞退したよ。
孫盛魏世譜曰:高平陵在洛水南大石山,去洛城九十里。
孫盛の『魏世譜』によると、高平陵は洛水の南、大石山にあって、洛陽からは90里離れているんだって。
孔衍漢魏春秋曰:詔使太常王肅冊命太傅為丞相,增邑萬戶,羣臣奏事不得稱名,如漢霍光故事。太傅上書辭讓曰:「臣親受顧命,憂深責重,憑賴天威,摧弊姦凶,贖罪為幸,功不足論。又三公之官,聖王所制,著之典禮。至於丞相,始自秦政。漢氏因之,無復變改。今三公之官皆備,橫復寵臣,違越先典,革聖明之經,襲秦漢之路,雖在異人,臣所宜正,況當臣身而不固爭,四方議者將謂臣何!」書十餘上,詔乃許之,復加九錫之禮。太傅又言:「太祖有大功大德,漢氏崇重,故加九錫,此乃歷代異事,非後代之君臣所得議也。」又辭不受。
孔衍の『漢魏春秋』によると、詔によって太常の王肅が太傅(司馬懿)を丞相に任命して、領地を1万戸増やして、奏事する時には名前を挙げないという漢の霍光の例にならったよ。でも、司馬懿は上書して辞退してこう言ったよ。
「私は君主の命令を受けて、深い心配を抱えて重い責任を背負っているの。天の威光に頼って、悪い人たちを打ち破ったのは、罪をほろぼす幸運に恵まれただけで、私の功績なんて語るに足りないんだ。それに、三公の職は、聖王の定めたもので、典礼として定められたものだよ。丞相の官職については、秦の始皇帝から始まって、漢の王朝もこれを受け継いで変えなかったよ。今、三公の官職がすべて揃っているのに、ふたたび気に入った臣下たちを起用して、先代の規範に逆らって、聖王の制度を改めて、秦と漢の道を踏襲しているんだ。このような状況が他人に関わることであれば、私が正すべきだよ。その上、自分がその責任を負う立場なのに、固く争わないとすれば、四方の人たちは私をどう思うの!」
書を10以上も上奏して、詔によって司馬懿に九錫の礼を与えようとすると、司馬懿はさらにこう言ったよ。
「曹操は大きな功績と徳を持っていて、漢の王朝は彼を尊重していたから、九錫が与えられたんだ。これは歴代でも特別なことで、後の世の君主や臣下が議論できることではないよ」
さらに彼は辞退したんだ。
夏四月乙丑,改年。丙子,太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯,以司空王淩為太尉。庚子,以司隷校尉孫禮為司空。
夏の四月、乙丑の日、年号を嘉平に改めたよ。丙子の日、太尉の蒋済が亡くなったんだ。冬の十二月、辛卯の日、司空の王淩を太尉に任命したよ。庚子の日、司隷校尉の孫礼を司空に任命したよ。
二年夏五月,以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月,以特進孫資為驃騎將軍。十一月,司空孫禮薨。十二月甲辰,東海王霖薨。乙未,征南將軍王昶渡江,掩攻吳,破之。
嘉平二年(250年)、夏の五月、征西将軍の郭淮を車騎将軍に任命したよ。冬の十月、特進の孫資を驃騎将軍に任命したよ。十一月、司空の孫礼が亡くなったんだ。十二月、甲辰の日、東海王の曹霖が亡くなったよ。乙未の日、征南将軍の王昶が長江を渡って、呉を奇襲して、打ち破ったよ。
王淩の乱
三年春正月,荊州刺史王基、新城太守州泰攻吳,破之,降者數千口。二月,置南郡之夷陵縣以居降附。三月,以尚書令司馬孚為司空。四月甲申,以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰,大赦。丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。六月,彪賜死。
嘉平三年(251年)、春の正月、荊州刺史の王基と新城太守の州泰が呉を攻めて、打ち破って、数千人が降伏してきたよ。二月、南郡に夷陵県を置いて、降伏した人たちがそこに移住したんだ。三月、尚書令の司馬孚を司空に任命したよ。四月、甲申の日、征南将軍の王昶を征南大将軍に任命したよ。壬辰の日、大赦を行ったんだ。
丙午の日、太尉の王淩が帝を廃位して楚王の曹彪を立てようとしている陰謀が見つかって、太傅の司馬懿が王淩を討つために東へ軍を進めたよ。五月、甲寅の日、王淩は自ら命を絶って、六月、曹彪に死を命令したよ。
秋七月壬戌,皇后甄氏崩。辛未,以司空司馬孚為太尉。戊寅,太傅司馬宣王薨,以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍,錄尚書事。乙未,葬懷甄后于太清陵。庚子,驃騎將軍孫資薨。十一月,有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者,更以官為次,太傅司馬宣王功高爵尊,最在上。十二月,以光祿勳鄭冲為司空。
秋の七月、壬戌の日、皇后の甄氏が亡くなったんだ。辛未の日、司空の司馬孚を太尉に昇進させたよ。戊寅の日、太傅の司馬懿が亡くなって、衛将軍の司馬師を撫軍大将軍に任命して、尚書の政務をまとめさせたよ。乙未の日、皇后の甄氏を太清陵に葬ったんだ。庚子の日、驃騎将軍の孫資が亡くなったよ。
十一月、役人が、曹操の廟で祀っている功のある臣下たちを、官位に応じて順位を改めようと上奏したよ。太傅の司馬懿の功績が高くて位が尊いから、最も上位に位置したの。十二月、光禄勲の鄭冲を司空に任命したよ。
東興の戦い
四年春正月癸卯,以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月,立皇后張氏,大赦。夏五月,魚二,見于武庫屋上。(註12)
嘉平四年(252年)、春の正月、癸卯の日、撫軍大将軍の司馬師を大将軍に昇進させたよ。二月、張氏を皇后に立てて、大赦を行ったよ。
夏の五月、魚が2匹、武庫の屋根の上で見つかったんだって。
漢晉春秋曰:初,孫權築東興隄以遏巢湖。後征淮南,壞不復脩。是歲諸葛恪帥軍更於隄左右結山,挾築兩城,使全端、留略守之,引軍而還。諸葛誕言於司馬景王曰:「致人而不至於人者,此之謂也。今因其內侵,使文舒逼江陵,仲恭向武昌,以羈吳之上流,然後簡精卒攻兩城,比救至,可大獲也。」景王從之。
『漢晋春秋』によると、前に、孫権は東興に堤を築いて巣湖をふさいだんだ。その後、淮南を攻めた時に破壊されて、修復されなかったんだ。この年、諸葛恪は軍を率いて堤で左右の山を結んで、両側に城を築いて全端と留略に守らせて、軍を引き返したよ。諸葛誕は司馬師にこう言ったよ。
「敵を引き寄せて自らが敵に引き寄せられない者、つまり戦いで主導権を握るとはこのことだよね。今、敵が内部に攻め込んでいるから、文舒(王昶)を江陵に行かせて、仲恭(毌丘倹)を武昌に向かわせて、呉の上流を制圧しよう。その後、精鋭の兵を選んで2つの城を攻撃すれば、援軍が着くまでに大きな戦果を得られるだろうね」
司馬師はこのとおりにしたよ。
「致人而不至於人者」は、『孫子』「虚実」から。
冬十一月,詔征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎮南將軍毌丘儉等征吳。十二月,吳大將軍諸葛恪拒戰,大破衆軍於東關。不利而還。(註13)
冬の十一月、詔によって、征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毌丘倹たちが呉を征伐したよ。十二月、呉の大将軍の諸葛恪が戦って抵抗して、東関で大軍を打ち破ったの。魏は不利になって撤退したんだ。
漢晉春秋曰:毌丘儉、王昶聞東軍敗,各燒屯走。朝議欲貶黜諸將,景王曰:「我不聽公休,以至於此。此我過也,諸將何罪?」悉原之。時司馬文王為監軍,統諸軍,唯削文王爵而已。是歲,雍州刺史陳泰求勑并州并力討胡,景王從之。未集,而鴈門、新興二郡以為將遠役,遂驚反。景王又謝朝士曰:「此我過也,非玄伯之責!」於是魏人愧恱,人思其報。
『漢晋春秋』によると、毌丘倹と王昶は東の軍が敗れたと聞いて、それぞれ駆けつけた兵の陣営を焼いて、逃げちゃった。朝廷の会議では将たちを降格させるかどうか検討したけど、撫軍大将軍の司馬師はこう言ったよ。
「私が公休(諸葛誕)の進言を聞き入れなかったから、こんな事態になっちゃった。これは私の過ちだから、どうして将たちに罪はあるの?」
こうして、すべての将を許したよ。当時、司馬昭が監軍をしていたけど、彼の爵位を削るだけにしたよ。
この年、雍州刺史の陳泰が、并州に向かって胡族を討つ勅命を求めて、司馬師はこれに従ったよ。でも、軍が集まる前に、雁門郡と新興郡が遠征を拒否して、混乱しちゃった。司馬師はふたたび朝廷の官僚たちに謝ってこう言ったよ。
「これは私の過ちで、玄伯(陳泰)に責任はないんだ」
こうして魏の人たちは恥じ入って、彼に報いたいと思ったよ。
習鑿齒曰:司馬大將軍引二敗以為己過,過消而業隆,可謂智矣。夫民忘其敗,而下思其報,雖欲不康,其可得邪?若乃諱敗推過,歸咎萬物,常執其功而隱其喪,上下離心,賢愚解體,是楚再敗而晉再克也,謬之甚矣!君人者,苟統斯理而以御國,則朝無秕政,身靡留愆,行失而名揚,兵挫而戰勝,雖百敗可也,況於再乎!
習鑿歯によると、司馬師は2度の敗北を自分の過ちと認めたけど、その後、その過ちは取り消されて、業績はとてもすごいものになったね。これは賢い行動と言えるよ。民は自分たちの敗北を忘れなくて、報いを思い続けるよ。だから、望ましくない結果から逃げられないの。もし敗北を隠して、過ちを他人のせいにして、功績だけを強調して損失を隠したら、国内は混乱して、上下の関係は崩れて、賢者も愚者も分かれちゃう。楚がふたたび敗れて、晋がふたたび勝つよ。これは大きな間違いだね。君主は、正しい原則に従って国を統治したら、政治に欠陥はなくて、自分の過ちもなくて、失敗しても名声が高まって、兵を間違っても戦いに勝てるし、何度も敗北しても大丈夫。2度の敗北なんてなおさらだよ!
合肥新城の戦い
五年夏四月,大赦。五月,吳太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。(註14)秋七月,恪退還。(註15)(註16)
嘉平五年(253年)、夏の四月、大赦を行ったよ。五月、呉の太傅の諸葛恪が合肥新城を包囲したけど、詔によって太尉の司馬孚にこれを防ぐように命令したよ。秋の七月、諸葛恪が撤退したよ。
漢晉春秋曰:是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰:「今東西有事,二方皆急,而諸將意沮,若之何?」松曰:「昔周亞夫堅壁昌邑而吳楚自敗,事有似弱而彊,或似彊而弱,不可不察也。今恪悉其銳衆,足以肆暴,而坐守新城,欲以致一戰耳。若攻城不拔,請戰不得,師老衆疲,勢將自走,諸將之不徑進,乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪,投食我麥,非深根之寇也。且謂我并力於東,西方必虛,是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴,出其不意,殆將走矣。」景王曰:「善!」乃使郭淮、陳泰悉關中之衆,解狄道之圍;勑毌丘儉等案兵自守,以新城委吳。姜維聞淮進兵,軍食少,乃退屯隴西界。
『漢晋春秋』によると、この時、姜維も出撃して狄道を包囲したんだ。司馬師は虞松に尋ねたよ。
「今、東と西で問題が発生しちゃって、どっちも緊急なんだけど、将たちはみんな気が滅入っているんだ。どうすればいいの?」
虞松はこう答えたよ。
「昔、周亜夫が堅固な城壁を築いて昌邑を守って、呉や楚は自滅したよ。物事には一見弱そうで実は強いものもあれば、強そうで実は弱いものもあるよ。これを見極めることは重要だね。
今、諸葛恪は精鋭の兵を集めて、暴虐を振るう力を持っているけど、新城を守りながら、一戦で勝負をつけようとしているよ。もし城を攻め落とせなくて、戦いに応じてもらえなければ、軍は疲弊して、兵たちは消耗して、そのうち撤退するほかなくなるだろうね。将たちがすぐに前進しないで、じっくり構えることこそが公にとって有利な状況を生むの。
姜維は大軍を率いて、その軍を諸葛恪に対応させる形で動かしていて、私たちの穀物を奪っているんだ。これは深く根を張る侵略者ではないよ。それに、私たちが全力を東方に向ければ、西方が手薄になると考えて、それに乗じて進軍したの。だから、今、私たちは関中の軍に倍の道を急行させて、敵の予想を超える奇襲を仕掛ければ、彼らは恐らく敗走するよ」
司馬師は「いいね!」と言って、郭淮と陳泰に関中の軍を指示して狄道の包囲を解かせたよ。そして、毌丘倹たちには軍を守らせて、新城は呉に委ねたよ。姜維は郭淮の軍が進軍していると聞いて、食糧が足りなかったから、隴西の境界に退却していったんだ。
是時,張特守新城。
この時、張特が新城を守っていたよ。
魏略曰:特字子產,涿郡人。先時領牙門,給事鎮東諸葛誕,誕不以為能也,欲遣還護軍。會毌丘儉代誕,遂使特屯守合肥新城。及諸葛恪圍城,特與將軍樂方等三軍衆合有三千人,吏兵疾病及戰死者過半,而恪起土山急攻,城將陷,不可護。
『魏略』によると、張特は、字は子産で、涿郡の出身だよ。前は牙門将軍として、鎮東将軍の諸葛誕に仕えていたよ。でも、諸葛誕は彼を能力がないと考えて、護軍に戻そうとしていたんだ。後に毌丘倹が諸葛誕に代わって、張特を合肥新城に駐屯させたよ。そして、諸葛恪が城を包囲すると、張特は将軍の楽方たちと一緒に合わせて3,000の兵を率いていたけど、病死や戦死者が半数を超えていたんだ。しかも、諸葛恪が土の山を築いて急襲を仕掛けてきたから、もう城は守りきれない状況だったの。
特乃謂吳人曰:「今我無心復戰也。然魏法,被攻過百日而救不至者,雖降,家不坐也。自受敵以來,已九十餘日矣。此城中本有四千餘人,而戰死者已過半,城雖陷,尚有半人不欲降,我當還為相語之,條名別善惡,明日早送名,且持我印綬去以為信。」乃投其印綬以與之。吳人聽其辭而不取印綬。不攻。頃之,特還,乃夜徹諸屋材柵,補其缺為二重。明日,謂吳人曰:「我但有鬬死耳!」吳人大怒,進攻之,不能拔,遂引去。朝廷嘉之,加雜號將軍,封列侯,又遷安豐太守。
張特は呉の人たちにこう言ったよ。
「今、私はもう戦う気はないんだ。でも、魏の法によると、100日以上攻められて援軍が来ない場合、たとえ降伏したとしても、家族に罰は及ばないよ。敵との戦いが始まってからすでに90日以上が経っているよ。この城にはもともと4,000人以上の兵がいたけど、戦死者は半数を超えて、城は陥落したけど、まだ降伏したくない者が半数残っているんだ。私は彼らと話し合って、賛成する人と反対する人の名前を書いて、明日早く名簿を送るよ。そして、私の印綬を信頼の印として使うね」
彼は印綬を渡したけど、呉の人たちはその言葉を聞いて印綬を受け取らないで、攻撃をしなかったよ。しばらくして、張特は戻って、夜になって家屋や柵の材木を使って城壁を二重に補修したよ。翌日、彼は呉の人たちにこう言ったよ。
「私はただ戦って死ぬだけだ!」
呉の人たちは怒って攻撃したけど、城は奪えなくて、撤退していったんだ。朝廷はこれをほめたたえて、彼を雑号将軍に昇進させて、列侯に封じて、さらに安豊太守に昇進させたよ。
八月,詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡,為所執略。往歲偽大將軍費禕驅率羣衆,陰圖闚𨵦,道經漢壽,請會衆賔,脩於廣坐之中手刃擊禕,勇過聶政,功逾介子,可謂殺身成仁,釋生取義者矣。夫追加襃寵,所以表揚忠義;祚及後胤,所以獎勸將來。其追封脩為長樂鄉侯,食邑千戶,謚曰威侯;子襲爵,加拜奉車都尉;賜銀千鉼,絹千匹,以光寵存亡,永垂來世焉。」(註17)
八月、詔を下してこう言ったよ。
「かつて中郎だった西平の出身の郭脩は、高潔な節操を磨いて、行いを正して、その心を揺るがさなかったんだ。今、蜀の将の姜維が郭脩の郡を攻めて、彼を捕らえて連れ去ったんだ。前に、偽の大将軍の費禕がたくさんの兵を率いて、こっそりと襲撃を企てて、漢寿を通って、たくさんの客を招いて集会を開いたよ。郭脩は大勢の人たちが見守る中で立ち上がって、自分の手で刃を使って費禕を討ち取ったよ。その勇気は聶政をも超えるし、功績は傅介子を上回るものと言えるね。まさに身を犠牲にして仁を全うして、生を捨てて義を取った者と呼べるね。郭脩を追悼して、名誉と恩賞を与えるのは、忠義をたたえるためだよ。その栄誉を子孫にも及ぼすことで、将来の人たちへの奨励ともなるよ。郭脩を長楽郷侯に封じて、1,000戸の領地を与えて、謚を『威侯』とするよ。そして、彼の子には爵位を受け継がせて、奉車都尉に任命するよ。さらに、銀千鉼と絹千匹を与えて、生者も亡者もその恩を受けて、永遠に後の世にその名を伝えてね」
魏氏春秋曰:脩字孝先,素有業行,著名西州。姜維劫之,脩不為屈。劉禪以為左將軍,脩欲刺禪而不得親近,每因慶賀,且拜且前,為禪左右所遏,事輙不克,故殺禕焉。
『魏氏春秋』によると、郭脩は、字は孝先で、品行は素晴らしくて、西の州で有名だったんだって。姜維に捕らえられたときも、郭脩は屈さないで、劉禅は彼を左将軍に任命したよ。彼は劉禅に近づいて刺そうとしても成功しなかったんだ。劉禅がお祝いを開くたびに、郭脩は拝礼しながら前に進んだけど、劉禅の側には遮る者がいて、そのたびに目的を果たせなかったんだって。だから、費禕を殺したの。
臣松之以為古之舍生取義者,必有理存焉,或感恩懷德,投命無悔,或利害有機,奮發以應會,詔所稱聶政、介子是也。事非斯類,則陷乎妄作矣。魏之與蜀,雖為敵國,非有趙襄滅智之仇,燕丹危亡之急;且劉禪凡下之主,費禕中才之相,二人存亡,固無關於興喪。郭脩在魏,西州之男子耳,始獲於蜀,旣不能抗節不辱,於魏又無食祿之責,不為時主所使,而無故規規然糜身於非所,義無所加,功無所立,可謂「折柳樊圃」,其狂也且,此之謂也。
裴松之の見解としては、古の人たちで、生を捨てて義を貫く者には、必ずその行動に正当な理由があるはずで、恩義を感じて徳を慕って、命を投げ出しても後悔しない場合や、または利害関係が明白で、それに応じて奮い立った場合だよ。詔でたたえられた聶政や傅介子もその例だね。でも、それ以外の場合には、妄りに行動する過ちに陥るものと言えるよ。
魏と蜀は敵国だけど、趙襄子が智氏を滅ぼしたような深い恨みや、燕の太子丹が国の危機に瀕したような切迫した事情があるわけではないんだ。さらに、劉禅は平凡な君主で、費禕は中程度の才覚を持つ宰相にすぎないから、彼らふたりの生死は、国の興亡には直接関係ないよ。郭脩は魏にいたとき、西の州の普通の男性に過ぎなくて、蜀に捕らえられた後も、節を守って辱めを拒むことができなかったんだ。魏では禄を受けていたわけでもなくて、時の君主から特別な命令を受けていたわけでもないよ。なのに、無理な行動に自らの命を費やしたことは、義にもならないし、功績を立てることもなかったんだ。まさに『詩経』の「折柳樊圃(柳を折って庭園の柵にする)」、つまり無益な狂気と言えるね。
自帝即位至于是歲,郡國縣道多所置省,俄或還復,不可勝紀。
曹芳が皇帝に即位してからこの年までの間に、たくさんの郡、国、県、道が減らされたりふたたび置かれたりしたよ。その変化は数えきれないほどたくさんあって、細かいことまで書くことはできないんだ。
六年春二月己丑,鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城,城中遣士劉整出圍傳消息,為賊所得,考問所傳,語整曰:『諸葛公欲活汝,汝可具服。』整罵曰:『死狗,此何言也!我當必死為魏國鬼,不苟求活,逐汝去也。欲殺我者,便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息,或以語恪,恪遣馬騎尋圍跡索,得像還。四五人靮頭靣縛,將繞城表,勑語像,使大呼,言『大軍已還洛,不如早降。』像不從其言,更大呼城中曰:『大軍近在圍外,壯士努力!』賊以刀築其口,使不得言,像遂大呼,令城中聞知。整、像為兵,能守義執節,子弟宜有差異。」
嘉平六年(254年)、春の二月、己丑の日、鎮東将軍の毌丘倹は上奏してこう言ったよ。
「昔、諸葛恪が合肥新城を包囲した時、城内から兵の劉整が包囲を抜け出して情報を伝えようとしたけど、敵に捕まっちゃった。敵が劉整問い詰めて、こう言ったよ。
『諸葛公(諸葛恪)はあなたを生かそうと思っているから、降伏すれば命を助けよう』
でも、劉整は怒鳴ってこう言ったよ。
『死に損ないめ、何を言っているんだ! 私は必ず魏国のために死ぬ鬼となるよ。命乞いなんてするものか。さっさと去れ! 私を殺すつもりなら、早く殺せ!』
そして、最後まで他の言葉を発さなかったんだ。
さらに、兵の鄭像が城外に出て情報を伝えようとしたけど、これも諸葛恪に伝えられたんだ。諸葛恪は騎兵を送って包囲の跡をたどらせて、鄭像を捕らえて連れ戻したよ。そして、他の4、5人と頭を押さえつけて、顔を縛り上げて城の周囲を連れ回して、鄭像に命令してこう言わせようとしたよ。
『大軍はすでに洛陽に戻ったよ。早く降伏した方がいいよ』
でも、鄭像はこれに従わないで、代わりに大声で城中に向かってこう叫んだよ。
『大軍は包囲のすぐ外にいるよ。壮士たちよ、奮起せよ!』
敵は刀で彼の口を傷つけて、声を出せないようにしたけど、それでも鄭像は大声で叫び続けて、城内に知らせたよ。劉整と鄭像はふたりとも兵だけど、義を守って節を全うしたよ。彼らの子弟には特別な報酬がありますように」
詔曰:「夫顯爵所以襃元功,重賞所以寵烈士。整、像召募通使,越蹈重圍,冒突白刃,輕身守信,不幸見獲,抗節彌厲,揚六軍之大勢,安城守之懼心,臨難不顧,畢志傳命。昔解楊執楚,有隕無貳,齊路中大夫以死成命,方之整、像,所不能加。今追賜整、像爵關中侯,各除士名,使子襲爵,如部曲將死事科。」
詔を下してこう言ったよ。
「そもそも高い爵位は功績を表すためで、厚い恩賞は勇敢な者をほめたたえるために与えるよ。劉整と鄭像は集められて情報を伝えるために、重い包囲を突破して、刃の間をかいくぐって信義を守ったよ。不運にも捕まった彼らは、節義を貫き続けて、すべての軍を鼓舞して、城を守る者たちの恐れを取り除いたよ。彼らは困難に直面しても決して逃げず、使命を果たしたんだね。昔、解楊は楚に捕まったけど、死を選んで裏切らないで、それに斉の路中大夫は死を選んで使命を成し遂げたんだ。これを劉整と鄭像と比べても、彼らに勝ることはないよね。そこで今、劉整と鄭像に関中侯の爵位を与えて、士から名前を除いて、子孫に爵位を受け継がせてね。それに、部曲の将として戦死した者たちの規定に準じて扱うよ」
皇帝の廃位
庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄為大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。三月,廢皇后張氏。夏四月,立皇后王氏,大赦。五月,封后父奉車都尉王夔為廣明鄉侯、光祿大夫,位特進,妻田氏為宣陽鄉君。秋九月,大將軍司馬景王將謀廢帝,以聞皇太后。(註18)
庚戌の日、中書令の李豊が、皇后の父で光禄大夫の張緝たちと、大臣(司馬師たち)を廃位して、太常の夏侯玄を大将軍に任命しようと計画したよ。この陰謀が見つかって、関わった人たちはみんな処刑されたんだ。辛亥の日、大赦を行ったよ。三月、皇后の張氏が廃位されたよ。
夏の四月、新たな皇后として王氏が立てられて、大赦を行ったよ。五月、皇后の父で奉車都尉の王夔が広明郷侯に封ぜられて、光禄大夫に任命されて、特進の地位を与えられたよ。彼の妻の田氏が宣陽郷君に封ぜられたよ。
秋の九月、大将軍の司馬師が皇帝を廃位しようと計画していることが皇太后に報告されたよ。
世語及魏氏春秋並云:此秋,姜維寇隴右。時安東將軍司馬文王鎮許昌,徵還擊維,至京師,帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀,因文王辭,殺之,勒其衆以退大將軍。已書詔於前。文王入,帝方食栗,優人雲午等唱曰:「青頭雞,青頭雞。」青頭雞者,鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城,景王因是謀廢帝。
『世語』と『魏氏春秋』によると、この秋、姜維が隴右を攻めたよ。この時、安東将軍の司馬昭は許昌にいて、姜維を討つために朝廷に呼び戻されて、都に着いたよ。曹芳は平楽観で軍が通るのを視察したよ。中領軍の許允は周りの人たちと計画して、司馬昭が曹芳に別れを告げる機会を利用して彼を殺して、その兵を動かして大将軍(司馬師)に対抗しようとしたんだ。すでにそれを記した詔書を準備していたよ。
司馬昭が宮殿に入ると、曹芳はちょうど栗を食べていたの。芸人の雲午が「青頭の鶏、青頭の鶏」と歌っていたんだ。「青頭の鶏」とは鴨のことだね。曹芳は恐れて実行できなかったんだ。司馬昭は兵を率いて城に入って、司馬師はこの機会を利用して帝を廃位する計画を立てたよ。
鴨は「司馬昭暗殺の詔書に印を押してね」の意味かな?
臣松之案夏侯玄傳及魏略,許允此年春與李豐事相連。豐旣誅,即出允為鎮北將軍,未發,以放散官物收付廷尉,徙樂浪,追殺之。允此秋不得故為領軍而建此謀。
裴松之が調べたところ、「夏侯玄伝」と『魏略』によると、許允はこの年の春に李豊と関わっていたみたい。李豊が処刑された後、許允は北鎮将軍に任命されたけど、出陣する前に、政府の財産を捨てたことが廷尉に報告されたから、楽浪に移されて、追放されて殺されたんだ。この秋に許允は前みたいに領軍として活動できなかったから、この計画を立てたんだと思うよ。
甲戌,太后令曰:「皇帝芳春秋已長,不親萬機,耽淫內寵,沈漫女德,日延倡優,縱其醜謔;迎六宮家人留止內房,毀人倫之叙,亂男女之節;恭孝日虧,悖慠滋甚,不可以承天緒,奉宗廟。使兼太尉高柔奉策,用一元大武告于宗廟,遣芳歸藩于齊,以避皇位。」(註19)
甲戌の日、太后が命令を下してこう言ったよ。
「皇帝の曹芳はすでに成長しているにもかかわらず、国の政治に関わらないで、後宮に溺れて、女性の徳を乱して堕落した生活を送っているんだ。毎日、俳優や芸人を呼んで、彼らの醜態や戯れを放任しているよ。それに、六宮の家人を迎えて宮中に留めて、内室に引き入れて、人と人との関係の秩序を乱して、男女の節度を乱しているの。恭順や孝行の精神は日に日に衰えて、不敬や傲慢さがいよいよ増すばかりなんだ。これでは天命を受け継いで、宗廟(祖先の廟)を守れないよ。そこで、太尉の高柔に詔を授けて、大武の礼をもって宗廟に報告させて、曹芳を斉に帰らせて、皇位を退かせることにしたよ」
司馬師の思惑が本文には見えないのは、配慮したからかな。
魏書曰:是日,景王承皇太后令,詔公卿中朝大臣會議,羣臣失色。景王流涕曰:「皇太后令如是,諸君其若王室何!」咸曰:「昔伊尹放太甲以寧殷,霍光廢昌邑以安漢,夫權定社稷以濟四海,二代行之於古,明公當之於今,今日之事,亦唯公命。」景王曰:「諸君所以望師者重,師安所避之?」
『魏書』によると、この日、司馬師は皇太后の命令を受けて、公卿や朝廷の大臣たちを集めて会議を開いたよ。臣下たちはみんな、怖くなっちゃった。司馬師は涙を流しながらこう言ったよ。
「皇太后の命令はこうあるけど、みんなは王室をどうするべきだと思うの?」
みんなはこう言ったよ。
「昔、伊尹は太甲を追放して殷を安定させて、霍光は昌邑王(劉賀)を廃位して漢を安定させたよ。君主は国家の安定のために力を尽くすべきだよね。古代から2代も行われてきたことは、今日のあなたにも求められるべきだよ。今日の事柄も、あなたの命令に従うよ」
司馬師はこう言ったよ。
「みんなが重い責任を期待するなら、どうして私は避けるの?」
於是乃與羣臣共為奏永寧宮曰:「守尚書令太尉長社侯臣孚、大將軍武陽侯臣師、司徒萬歲亭侯臣柔、司空文陽亭侯臣冲、行征西安東將軍新城侯臣昭、光祿大夫關內侯臣邕、太常臣晏、衞尉昌邑侯臣偉、太僕臣嶷、廷尉定陵侯臣毓、大鴻臚臣芝、大司農臣祥、少府臣袤、永寧衞尉臣楨、永寧太僕臣閣、大長秋臣模、司隷校尉潁昌侯臣曾、河南尹蘭陵侯臣肅、城門校尉臣慮、中護軍永安亭侯臣望、武衞將軍安壽亭侯臣演、中堅將軍平原侯臣德、中壘將軍昌武亭侯臣廙、屯騎校尉關內侯臣陔、步兵校尉臨晉侯臣建、射聲校尉安陽鄉侯臣溫、越騎校尉睢陽侯臣初、長水校尉關內侯臣超、侍中臣小同、臣顗、臣酆、博平侯臣表、侍中中書監安陽亭侯臣誕、散騎常侍臣瓌、臣儀、關內侯臣芝、尚書僕射光祿大夫高樂亭侯臣毓、尚書關內侯臣觀、臣嘏、長合鄉侯臣亮、臣贊、臣騫、中書令臣康、御史中丞臣鈐、博士臣範、臣峻等稽首言:
こうして、臣下たちと一緒に永寧宮(郭氏)に上奏してこう言ったよ。
「守尚書令、太尉長で社侯の司馬孚、大将軍で武陽侯の司馬師、司徒で万歳亭侯の高柔、司空で文陽亭侯の鄭冲、行征西安東将軍で新城侯の司馬昭、光禄大夫で関内侯の孫邕、太常の任晏、衛尉で昌邑侯の満偉、太僕の庾嶷、廷尉で定陵侯の鍾毓、大鴻臚の魯芝、大司農の王祥、少府の鄭袤、永寧宮の衛尉の何楨?、永寧宮の太僕の張閣、大長秋の模(姓が不明。尹模? 摯模?)、司隷校尉で潁昌侯の何曾、河南尹で蘭陵侯の王粛、城門校尉の慮(姓が不明)、中護軍で永安亭侯の司馬望、武衛将軍で安寿亭侯の曹演、中堅将軍で平原侯の郭徳(甄徳)、中塁将軍で昌武亭侯の荀廙、屯騎校尉で関内侯の武陔?、步兵校尉で臨晋侯の郭建、射声校尉で安陽郷侯の甄温、越騎校尉で睢陽侯の初(姓が不明)、長水校尉で関内侯の超(姓が不明)、侍中の鄭小同、荀顗、趙酆、博平侯の華表、侍中で中書監で安陽亭侯の韋誕、散騎常侍の瓌(姓が不明。司馬瓌?)、儀(姓が不明。王儀?)、関内侯の郭芝、尚書僕射で光禄大夫で高楽亭侯の盧毓、尚書で関内侯の王観、傅嘏、長合郷侯の袁亮、崔賛、陳騫、中書令の孟康、御史中丞の鈐(姓が不明)、博士の範(姓が不明)、庾峻などが頭を下げて伝えるよ。
姓が書いていないから誰だかわからない。官職や爵位などから「魏書斉王紀」内で特定できるのは、司馬孚、司馬師、高柔、鄭冲、司馬昭。『三国志』の他の伝や『晋書』などから特定できるかも、と思って調べてみたよ。
- 孫邕は『論語集解』の序文に「光禄大夫關內侯臣孫邕」とある。『論語集解』を作ったことは『晋書』「鄭沖伝」にある。
- 任晏は『晋書』「任愷伝」に「任愷,字元褒,樂安博昌人也。父昊,魏太常。」とあって、任愷の父を指す?
- 満偉は「満寵伝」に「子偉嗣。偉以格度知名,官至衞尉。」とある。満寵の子。
- 庾嶷は「管寧伝」に「正始中,驃騎將軍趙儼、尚書黃休、郭彝、散騎常侍荀顗、鍾毓、太僕庾嶷遞薦昭曰~」、『晋書』の「庾峻伝」に「伯父嶷,中正簡素,仕魏為太僕。」とある。
- 鍾毓は「鍾繇伝」に「爽旣誅,入為御史中丞、侍中廷尉。」とある。鍾繇の子。
- 魯芝は『晋書』「魯芝伝」に「以綏緝有方,遷大鴻臚。」とある。
- 王祥は『晋書』「王祥伝」に「舉秀才,除溫令,累遷大司農。」とある。
- 鄭袤は『晋書』「鄭袤伝」に「遷少府。」とある。
- 何楨? 『晋書』では廷尉とある。
- 張閣は「邴原伝」に「永寧太僕東郡張閣以簡質聞。」とある。
- 尹模は『晋書』「何曾伝」に。摯模は『晋書』「摯虞伝」に。どちらかわからない。
- 何曾は『晋書』「何曾伝」に「遷征北將軍,進封潁昌鄕侯。」とある。
- 王粛は「王朗伝」に「徙為河南尹。」とある。
- 慮?
- 司馬望は『晋書』「義陽成王望伝」に「從宣帝討王淩,以功封永安亭侯。」とある。
- 曹演? この時代に曹演以外に「演」の名を持つ人がいない。
- 郭徳(甄徳)は「文昭甄皇后伝」に「封德為平原侯,襲公主爵。」とある。
- 荀廙は「夏侯尚伝」に。
- 武陔は「胡質伝」や『晋書』「武陔伝」に。
- 郭建は「明元郭皇后伝」に。
- 甄温は「文昭甄皇后伝」に「領射聲校尉,德鎮軍大將軍。」とある。
- 初?
- 超?
- 鄭小同は『晋書』「鄭沖伝」に「與侍中鄭小同俱被賞賜。」とある。
- 荀顗は『晋書』「荀顗伝」に「擢拜散騎侍郎,累遷侍中。」とある。
- 趙酆は「司馬朗伝」註に「咨字君初。子酆字子仲,晉驃騎將軍,封東平陵公。並見百官名志。」とある。趙咨の子。
- 華表は『晋書』「華表伝」に「表年二十,拜散騎黃門郎,累遷侍中。」とある。
- 韋誕は「劉劭伝」に「稍遷侍中中書監,以光祿大夫遜位,年七十五卒於家。」とある。
- 瓌? 司馬瓌?
- 儀? 王儀?
- 郭芝は「明元郭皇后伝」に。
- 盧毓は「盧毓伝」に。
- 王観は「王観伝」に「賜爵關內侯,復為尚書,加駙馬都尉。」とある。
- 傅嘏は「傅嘏伝」に「曹爽誅,為河南尹,遷尚書。」とある。
- 袁亮は「袁渙伝」に「位至河南尹、尚書。」とある。
- 崔賛は『晋書』「崔洪伝」に「父贊,魏吏部尚書、左僕射,以雅量見稱。」とある。崔洪の父。
- 陳騫は『晋書』「陳騫伝」に。
- 孟康は「杜畿伝」に。
- 鈐?
- 範?
- 庾峻は『晋書』「庾峻伝」に「太常鄭袤見峻,大奇之,舉為博士。」とある。
臣等聞天子者,所以濟育羣生,永安萬國,三祖勳烈,光被六合。皇帝即位,纂繼洪業,春秋已長,未親萬機,耽淫內寵,沈漫女色,廢捐講學,棄辱儒士,日延小優郭懷、袁信等於建始芙蓉殿前裸袒游戲,使與保林女尚等為亂,親將後宮瞻觀。
私たちは、天子というものは、たくさんの人たちを救って育てて、すべての国を永遠に安定させるために存在して、三祖の功績と威光が天下に広く行き渡るものと聞いたよ。曹芳は皇帝に即位して偉大な事業を引き継いだけど、すでに成長しているのに、まだ政務に専心しないで、側室の愛に耽って、女性への欲望に溺れて、学問の講義を捨てて、儒学者たちを蔑ろにしているんだ。さらに、建始芙蓉殿の前で、芸人の郭懐や袁信たちを裸にして遊ばせて、保林の女官たちと乱をして、後宮の女性たちを引き連れてそれを見させたんだ。
又於廣望觀上,使懷、信等於觀下作遼東妖婦,嬉褻過度,道路行人掩目,帝於觀上以為讌笑。於陵雲臺曲中施帷,見九親婦女,帝臨宣曲觀,呼懷、信使入帷共飲酒。懷、信等更行酒,婦女皆醉,戲侮無別。
それに、広望観の上で、郭懐や袁信たちに命令して、観の下で遼東の妖婦のような真似をさせて、度を超えたふざけた振る舞いをさせたんだ。その様子は道行く人たちが目を覆うほどだったけど、曹芳は観の上からそれを宴のように楽しんで、笑っていたの。だらに、陵雲台の曲がり角に帷を設けて、親族の女性を呼び寄せたよ。曹芳は宣曲観にいて、郭懐や袁信を呼んで帷の中で一緒に酒を飲ませたよ。彼らが代わる代わる酒を勧める中、女性たちはみんな酔って、礼儀も分別も失って、戯れ侮るような無作法な振る舞いが繰り広げられたんだ。
使保林李華、劉勳等與懷、信等戲,清商令令狐景呵華、勳曰:『諸女,上左右人,各有官職,何以得爾?』華、勳數讒毀景。帝常喜以彈彈人,以此恚景,彈景不避首目。景語帝曰:『先帝持門戶急,今陛下日將妃后游戲無度,至乃共觀倡優,裸袒為亂,不可令皇太后聞。景不愛死,為陛下計耳。』帝言:『我作天子,不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼景,身體皆爛。
保林(女官)の李華や劉勲たちを郭懐や袁信たちと戯れさせたよ。その時、清商令(女官を掌る官職)の令狐景は李華や劉勲を叱ってこう言ったよ。
『あなたたちは皇帝のそば近くに仕える者で、それぞれ官職を持っているのに、どうしてそんなことが許されるの?』
李華や劉勲は令狐景を何度も中傷したんだ。
曹芳は人を弾いて遊ぶのが好きで、それによって令狐景を怒らせていたよ。令狐景は目を背けることなく弾かれたんだ。令狐景は曹芳にこう言ったよ。
『先帝(曹叡)は宮廷の規律を厳しく守っていたよ。でも、今のあなたは日々、妃や后と度を超えた遊びを繰り返して、芸人を招いて、裸で乱行して、それを一緒に観覧しているんだ。こんなことを皇太后に知られてはならないよ。私は命を惜しむつもりはなくて、陛下のために考えて言っているだけなの』
でも、曹芳はこう答えたよ。
『私が天子なのに、自由になれないの? 太后が私に何の関係があるの!』
そして、曹芳は人に熱した鉄を令狐景に押し付けさせて、令狐景はやけどを負って、身体が焼けただれちゃった。
甄后崩後,帝欲立王貴人為皇后。太后更欲外求,帝恚語景等:『魏家前後立皇后,皆從所愛耳,太后必違我意,知我當往不也?』後卒待張皇后疏薄。太后遭郃陽君喪,帝日在後園,倡優音樂自若,不數往定省。清商丞龐熈諫帝:『皇太后至孝,今遭重憂,水漿不入口,陛下當數往寬慰,不可但在此作樂。』帝言:『我自爾,誰能柰我何?』皇太后還北宮,殺張美人及禺婉,帝恚望,語景等:『太后橫殺我所寵愛,此無復母子恩。』數往至故處啼哭,私使暴室厚殯棺,不令太后知也。
甄皇后が亡くなった後、曹芳は王貴人を皇后に立てようとしたよ。太后はさらに外部から皇后を迎えようと望んだけど、曹芳は怒って、令狐景たちにこう言ったよ。
『魏の家はこれまでに皇后を立ててきたけど、みんな自分の好みに従っていたよね。なのに、太后は必ず私の意に反するよ。これでは、私がどこへ行くべきかわかっているの?』
その後、張皇后に冷たい態度をとるようになったんだ。太后が母の郃陽君の喪に服していた間、曹芳は日々後園で芸人を招いて音楽を楽しんで、何事もなかったかのように振る舞って、太后のもとを訪れて慰めることもなかったんだ。清商丞の龐熙は曹芳を諫めてこう言ったよ。
『皇太后は孝にあふれていて、今は深い悲しみの中にいるよ。水も食べ物も口に入れていないの。陛下(曹芳)はもっとよく訪ねて、慰めるべきだよ。ただここで音楽を楽しんでいる場合ではないんだ』
曹芳はこう言ったよ。
『私は私の好きにするんだ。誰が私に何をすることができるの?』
その後、太后は北宮に戻って、張美人と禺婉を処刑したんだ。曹芳はこれに怒って、令狐景たちにこう言ったよ。
『太后は横暴にも私が愛する者を殺したんだ。これではもう母と子の情はないよ』
曹芳は何度も亡き側室たちのいた場所を訪れて涙を流して、こっそりと暴室(女官を幽閉する部屋)に立派な棺を用意して厚く葬って、太后にはそれを知らせないようにしたの。
每見九親婦女有美色,或留以付清商。帝至後園竹間戲,或與從官攜手共行。熈白:『從官不宜與至尊相提挈。』帝怒,復以彈彈熈。日游後園,每有外文書入,帝不省,左右曰『出』,帝亦不索視。太后令帝常在式乾殿上講學,不欲,使行來,帝徑去;太后來問,輙詐令黃門荅言『在』耳。景、熈等畏恐,不敢復止,更共讇媚。帝肆行昏淫,敗人倫之叙,亂男女之節,恭孝彌頹,凶德浸盛。臣等憂懼傾覆天下,危墜社稷,雖殺身斃命不足以塞責。今帝不可以承天緒,臣請依漢霍光故事,收帝璽綬。帝本以齊王踐祚,宜歸藩于齊。使司徒臣柔持節,與有司以太牢告祀宗廟。臣謹昧死以聞。」奏可。
曹芳は親族の女性たちの中で美しい者を見ると、留めて清商に託したよ。後園の竹林で遊んで、時には従官と手をつないで一緒に歩いたんだって。龐熙はこう進言したよ。
『従官が至尊(曹芳)と手を携えるのはふさわしくないんだ』
曹芳は怒って、ふたたび龐熙に向かって弾を投げつけたんだ。曹芳は日々後園を遊び歩いて、外から文書が届いても見ないで、周りの人が『出して』と言っても、彼はそれを求めないで見もしなかったの。
太后は曹芳に式乾殿でいつも学問を学ばせようとしたけど、彼はそれを嫌がって、行かされてもすぐに去っていったんだ。太后が来て尋ねると、彼は黄門に偽って『陛下はここにいる』と答えさせたよ。令狐景や龐熙たちも恐れて止められなくて、かえって媚を売ったんだって。曹芳はさらに好き勝手に振舞って、不道徳な行いにふけって、人と人との関係の秩序を乱して、男女の節度を壊したんだ。皇帝としての恭順や孝行はますます衰えて、凶悪な行いがますます増していったんだ。
臣下たちは天下が覆って、国家が危機に陥ることを深く心配して、身を殺して命を絶つ覚悟で責任を果たそうと考えているよ。今の皇帝はもはや天命を受け継げなくて、私は漢の霍光の例に倣って、皇帝の璽綬を収めてほしいと思うよ。曹芳はもともと斉王として即位したのだから、斉に戻るべきだね。司徒の高柔に節を持たせて、役人と一緒に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて宗廟(祖先の廟)に告げさせるよ。私は死を覚悟して伝えるね」
そして、上奏は受け入れられたよ。
是日遷居別宮,年二十三。使者持節送衞,營齊王宮於河內重門,制度皆如藩國之禮。(註20)
この日、曹芳は別宮に移されたよ。この時、23歳だったよ。使者が節を持って護衛をして、河内の重門で斉王の宮殿を設営したよ。その制度や礼法はすべて藩国の礼に従っていたよ。
魏略曰:景王將廢帝,遣郭芝入白太后,太后與帝對坐。芝謂帝曰:「大將軍欲廢陛下,立彭城王據。」帝乃起去。太后不恱。芝曰:「太后有子不能教,今大將軍意已成,又勒兵于外以備非常,但當順旨,將復何言!」太后曰:「我欲見大將軍,口有所說。」芝曰:「何可見邪?但當速取璽綬。」太后意折,乃遣傍侍御取璽綬著坐側。芝出報景王,景王甚歡。
『魏略』によると、司馬師は曹芳を廃位しようとしていて、郭芝を送って太后に報告させたよ。太后は曹芳と向かい合って座っていたよ。郭芝は曹芳にこう言ったよ。
「大将軍(司馬師)はあなたを廃位して、彭城王の曹拠を立てるつもりなんだ」
すると、曹芳は立ち去ったよ。太后は怒らなかったんだ。郭芝は続けてこう言ったよ。
「太后は子供を教育できなくて、今、司馬師の意思はすでに決まっていて、そして非常時のために軍を動かしているんだ。ただ命令に従うべきだよ。それ以外の言葉はいらない!」
太后はこう言ったよ。
「私は大将軍に会って、話がしたいの」
すると、郭芝はこう言ったよ。
「それはできないよ。今すぐに玉璽を持ってきて」
太后は意見をやめて、側近の侍従に命令して玉璽を持って来させたよ。郭芝は司馬師に報告して、司馬師はとても喜んだよ。
又遣使者授齊王印綬,當出就西宮。帝受命,遂載王車,與太后別,垂涕,始從太極殿南出,羣臣送者數十人,太尉司馬孚悲不自勝,餘多流涕。王出後,景王又使使者請璽綬。太后曰:「彭城王,我之季叔也,今來立,我當何之!且明皇帝當絕嗣乎?吾以為高貴鄉公者,文皇帝之長孫,明皇帝之弟子,於禮,小宗有後大宗之義,其詳議之。」景王乃更召群臣,以皇太后令示之,乃定迎高貴鄉公。是時太常已發二日,待璽綬於溫。事定,又請璽綬。太后令曰:「我見高貴鄉公,小時識之,明日我自欲以璽綬手授之也。」
さらに、使者を送って斉王の印綬を授けて、西宮に移させようとしたよ。曹芳は命令を受けて、王の車に乗って、太后と別れたよ。涙を流しながら太極殿の南側を出発して、数十人の臣下たちが見送ったんだ。太尉の司馬孚は悲しみに堪えきれなくて、たくさん臣下たちも涙が溢れたよ。曹芳が出発した後、司馬師はまた使者を送って玉璽を求めたよ。太后はこう言ったよ。
「彭城王の曹拠は私の叔父だよ。彼が皇帝になったら、私はどうすればいいの? それに、明皇帝(曹叡)の後継者は絶えるの? 高貴郷公の曹髦は、文皇帝(曹丕)の孫で、明皇帝(曹叡)の弟の息子だよ。礼においては、直系以外の家が直系の後を継ぐことが義だと思うの。これについて詳しく議論する必要があるよ」
司馬師はふたたび臣下たちを集めて、皇太后の命令を示して、曹髦を迎えると決めたよ。その時、太常がすでに2日前に出発していて、璽綬は温で待っていたよ。事が決まった後、ふたたび璽綬を求めたよ。太后はこう言ったよ。
「私は曹髦を幼い頃から知っているよ。明日、私自身が皇帝の印綬を手渡ししたいんだ」
曹髦を後継者にする
丁丑,令曰:「東海王霖,高祖文皇帝之子。霖之諸子,與國至親,高貴鄉公髦有大成之量,其以為明皇帝嗣。」(註21)(註22)
丁丑の日、命令を下してこう言ったよ。
「東海王の曹霖は、文皇帝(曹丕)の子だよ。曹霖の子供たちは、国ととても親しい関係にあるんだ。高貴郷公の曹髦は、すごく優れた資質を持っていて、彼は明皇帝(曹叡)の後継者にふさわしいよ」
魏書曰:景王復與羣臣共奏永寧宮曰:「臣等聞人道親親故尊祖,尊祖故敬宗。禮,大宗無嗣,則擇支子之賢者;為人後者,為之子也。東海定王子高貴鄉公,文皇帝之孫,宜承正統,以嗣烈祖明皇帝後。率土有賴,萬邦幸甚,臣請徵公詣洛陽宮。」奏可。使中護軍望、兼太常河南尹肅持節,與少府袤、尚書亮、侍中表等奉法駕,迎公于元城。
『魏書』によると、司馬師はふたたび臣下たちと一緒に永寧宮に上奏してこう言ったよ。
「私たち臣下たちは、人の道として、親を尊ぶから祖を尊んで、祖を尊ぶから宗を敬うと聞いているよ。礼によると、直系の後継者がいない場合、分家の中から賢者を選ぶべきとされているよ。後継者となる者は、その家の子となるの。東海定王(曹霖)の子の高貴郷公の曹髦は、文皇帝(曹丕)の孫で、正統を受け継いで、明皇帝(曹叡)の後を嗣ぐべきだよ。これによって、天下は安定して、すべての国は幸福を得るだろうね。私たちは、高貴郷公の曹髦を洛陽宮に招くことを願うよ」
上奏は承認されたよ。中護軍の司馬望と、太常で河南尹の王粛が節を持って、少府の鄭袤、尚書の袁亮、侍中の華表たちが法駕(天子の車)を奉じて、元城で曹髦を迎えたよ。
魏世譜曰:晉受禪,封齊王為邵陵縣公。年四十三,泰始十年薨,謚曰厲公。
『魏世譜』によると、晋が禅譲を受けると、曹芳は邵陵県公に封ぜられたよ。43歳で、泰始十年(274年)に亡くなって、諡は「厲公」とされたよ。
陳寿の評価
「魏書陳留王紀」に併せて記載したよ。
「魏書斉王紀」は以上だよ!