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正史『三国志』「魏書陳留王紀」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書陳留王紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹(そう)奐(かん) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

出典

三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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皇帝になる

本文

陳留王諱奐,字景明,武帝孫,燕王宇子也。甘露三年,封安次縣常道鄉公。高貴鄉公卒,公卿議迎立公。六月甲寅,入于洛陽,見皇太后,是日即皇帝位於太極前殿,大赦,改年,賜民爵及穀帛各有差。

陳(ちん)留(りゅう)王(おう)は、名は奐(かん)、字(あざな)は景(けい)明(めい)だよ。曹(そう)操(そう)の孫で、燕(えん)王(おう)の曹(そう)宇(う)の子だよ。
甘(かん)露(ろ)三年(258年)、安(あん)次(じ)県の常(じょう)道(どう)郷(きょう)公(こう)に封ぜられたよ。曹(そう)髦(ぼう)が亡くなると、公(こう)卿(けい)たちは話し合って、曹(そう)奐(かん)を迎えて皇帝に立てることを決めたよ。
六月、甲寅の日、曹(そう)奐(かん)は洛(らく)陽(よう)に入って、皇太后に会ったよ。そして、その日に太(たい)極(きょく)前(ぜん)殿(でん)で皇帝に即位したよ。大赦をしてたくさんの人の罪を許して、年号を改めたよ。そして、民に爵位を一つずつ授けて、穀物や帛(絹の布)をそれぞれの功績や身分に応じて与えたんだ。

司馬昭を晋公にする

本文

景元元年夏六月丙辰,進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,增封二郡,并前滿十,加九錫之禮,一如前詔;諸羣從子弟,其未有侯者皆封亭侯,賜錢千萬,帛萬匹,文王固讓乃止。己未,故漢獻帝夫人節薨,帝臨于華林園,使使持節追謚夫人為獻穆皇后。及葬,車服制度皆如漢氏故事。癸亥,以尚書右僕射王觀為司空,冬十月,觀薨。

景(けい)元(げん)元年(260年)、夏の六月、丙辰の日、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)昭(しょう)の位を進めて相(しょう)国(こく)にして、晋(しん)公(こう)に封じたよ。それに、新たに2つの郡を領地として加えて、これまでの領地と合わせて10郡としたよ。さらに、九(きゅう)錫(しゃく)の礼を与えて、その内容は前の詔のとおりとしたよ。司(し)馬(ば)昭(しょう)の一族の子や弟たちのうち、まだ侯の位を持っていない者は、すべて亭(てい)侯(こう)に封ぜられたよ。1,000万の銭と1万匹の帛(絹の布)を与えようとしたけど、司(し)馬(ば)昭(しょう)が固く辞退したからやめたよ。
己未の日、漢(かん)の献(けん)帝(てい)の夫人の曹(そう)節(せつ)が亡くなったんだ。曹(そう)奐(かん)は華(か)林(りん)園(えん)に行って弔って、使(し)持(じ)節(せつ)を送って夫人に献(けん)穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)の諡号を贈ったよ。そして埋葬するときには、車や衣服などの制度は、すべて漢(かん)の昔からの決まりどおりにしたよ。癸亥の日、尚(しょう)書(しょ)右(う)僕(ぼく)射(や)の王(おう)観(かん)を司(し)空(くう)に任命したよ。冬の十月、王(おう)観(かん)は亡くなったんだ。

本文

十一月,燕王上表賀冬至,稱臣。詔曰:「古之王者,或有所不臣,王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者,降其私親,況所繼者重邪!若便同之臣妾,亦情所未安。其皆依禮典處,當務盡其宜。」

十一月、燕(えん)王(おう)(曹(そう)宇(う))が冬至を祝うための上表をして、その中で自分を臣と書いたんだ。曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「昔の王は、臣下として扱わない相手がいたんだって。あなたもその意味に従うのがいいよ。これからは、上表に臣と書かないでね。それに、返事も同じようにしてね。
そもそも直系を継ぐ者は、自分の実の親との関係でさえ礼に従って一歩引いた立場に置くよ。なのに、ましてや帝位を継いだ家との関係を軽く扱えるの? もし燕(えん)王(おう)(曹(そう)宇(う))を普通の臣下や後宮の者たちと同じように扱うなら、それは人の情としても納得できないんだ。これらのことは、すべて礼の決まりに従って、それぞれに最もふさわしい形となるようにしてね」

本文

有司奏,以為「禮莫崇於尊祖,制莫大於正典。陛下稽德期運,撫臨萬國,紹大宗之重,隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬,正位藩服,躬秉虔肅,率蹈恭德以先萬國;其於正典,闡濟大順,所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制,奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表,可聽如舊式。中詔所施,或存好問,準之義類,則『燕覿之敬』也,可少順聖敬,加崇儀稱,示不敢斥,宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至於制書,國之正典,朝廷所以辨章公制,宣昭軌儀於天下者也,宜循法,故曰『制詔燕王』。

役人は上奏してこう言ったよ。
「礼で最も大切なのは祖先を尊ぶことで、制度で最も大切なのは正しい決まりを守ることだよ。陛下(曹(そう)奐(かん))は徳を広く示して、天命に応じてすべての国を治めて、皇室の本家を受け継いで、三祖(曹(そう)操(そう)、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)叡(えい))の築いた国の基礎を栄えさせているね。
燕(えん)王(おう)(曹(そう)宇(う))は皇族として特に尊い立場で、諸侯の王として正しい地位に就いているよ。自ら慎み深く振る舞って、礼儀を大切にする立派な行いをして、天下の人々の手本となっているんだ。
このようなことは、国家の正しい制度に関わることで、人の考えだけで決められるものではないよ。だから、今の朝廷は特別な制度によって燕(えん)王(おう)を敬って、普通の臣下とは違う礼で仕えるのがよいと考えるよ。私たちが相談した結果、燕(えん)王(おう)が朝廷へ送る上表は、これまでどおりの形式のままがいいと考えるよ。皇帝から燕(えん)王(おう)へ詔を下すときには、陛下が親しくどうしているか尋ねる気持ちを表すために、昔の『燕(えん)覿(てき)の礼』にならって、敬意をさらに表した呼び方に改めるのがいいだろうね。燕(えん)王(おう)を呼び捨てにすることを避けて、『皇帝、敬って大王の侍(じ)御(ぎょ)に尋ねる』という書き方にするのがいいよ。でも、正式な詔は国の最も大切な公文書で、朝廷の正式な制度を明らかにして、その決まりを天下に示すためのものだよね。だから、こちらはこれまでの制度どおりにして、『制詔、燕(えん)王(おう)に下す』という書き方にするのがよいと考えるよ。

本文

凡詔命、制書、奏事、上書諸稱燕王者,可皆上平。其非宗廟助祭之事,皆不得稱王名,奏事、上書、文書及吏民皆不得觸王諱,以彰殊禮,加于羣后。上遵王典尊祖之制,俯順聖敬烝烝之心,二者不愆,禮實宜之,可普告施行。」

すべての詔や命令、正式な文書、上奏、上書などで燕(えん)王(おう)(曹(そう)宇(う))について記すときは、すべて敬意を表す書き方を使うよ。それに、宗廟(先祖の廟)で祭りを手伝う場合を除いて、だれも燕(えん)王(おう)の名前を直接呼んではならないよ。上奏、上書、文書、役人や民はみんな王の諱(いみな)を口にしたり書いたりしてはならないんだ。
これは、燕(えん)王(おう)に特別な礼を示して、ほかの諸侯よりも高い待遇だと明らかにするためだよ。こうしたら、上は先祖を尊ぶという昔からの制度に従うことができて、下は燕(えん)王(おう)を深く敬う気持ちにもかなうことになるんだ。この二つの大切なことは、どちらも損なわれないし。礼の決まりから見ても、このようにするのが最もふさわしいと考えるよ。どうか、この内容を広く天下に知らせて、実行してね」

本文

十二月甲申,黃龍見華陰縣井中。甲午,以司隷校尉王祥為司空。

十二月、甲申の日、黄(こう)龍(りゅう)が華(か)陰(いん)県の井戸の中に現れたんだって。甲午の日、司(し)隷(れい)校(こう)尉(い)の王(おう)祥(しょう)を司(し)空(くう)に任命したよ。

本文

二年夏五月朔,日有蝕之。秋七月,樂浪外夷韓、濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅,趙王幹薨。甲寅,復命大將軍進爵晉公,加位相國,備禮崇錫,一如前詔;又固辭乃止。

景(けい)元(げん)二年(261年)、夏の五月の朔(さく)(月の初めの日)、日食が起こったんだ。
秋の七月、楽(らく)浪(ろう)の外に住む異民族の韓(かん)と濊(わい)貊(はく)は、それぞれの仲間を率いて朝廷を訪れて、貢ぎ物を捧げたよ。
八月、戊寅の日、趙(ちょう)王(おう)の曹(そう)幹(かん)が亡くなったんだ。甲寅の日、曹(そう)奐(かん)は、司(し)馬(ば)昭(しょう)の爵位を晋(しん)公(こう)に進めて、相(しょう)国(こく)の位を与えて、最高の礼と手厚い賞を授けることを、前の詔のとおり命令したよ。でも、司(し)馬(ば)昭(しょう)が固く辞退したからやめたよ。

本文

三年春二月,青龍見於軹縣井中。夏四月,遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢,獻其國弓三十張,長三尺五寸,楛矢長一尺八寸,石砮三百枚,皮骨鐵雜鎧二十領,貂皮四百枚。冬十月,蜀大將姜維寇洮陽,鎮西將軍鄧艾拒之,破維於侯和,維遁走。是歲,詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。

景(けい)元(げん)三年(262年)、春の二月、青(せい)龍(りゅう)が軹(し)県の井戸の中に現れたんだって。
夏の四月、遼(りょう)東(とう)郡から「粛(しゅく)慎(しん)国(こく)が使者を送って、通訳を何人も介して朝廷へ貢ぎ物を捧げたよ。粛(しゅく)慎(しん)国(こく)の弓30張、長さは3尺5寸で、楛(こ)矢(し)(楛という木でできた矢)、長さ1尺8寸、石の矢じり300枚、皮と骨と鉄を組み合わせて作った鎧20領、貂(てん)の皮400枚だよ」と報告があったんだ。
冬の十月、蜀(しょく)の大将の姜(きょう)維(い)が洮(とう)陽(よう)を攻めたんだ。鎮(ちん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の鄧(とう)艾(がい)がこれを迎え撃って、侯(こう)和(か)で姜(きょう)維(い)を打ち破ったよ。姜(きょう)維(い)は敗れて逃げちゃった。
この年、曹(そう)奐(かん)は詔を下して、かつての軍(ぐん)祭(さい)酒(しゅ)の郭(かく)嘉(か)を曹(そう)操(そう)の廟の庭でまつるように命令したよ。

蜀を攻める

本文

四年春二月,復命大將軍進位爵賜一如前詔,又固辭乃止。

景(けい)元(げん)四年(263年)、春の二月、曹(そう)奐(かん)は、ふたたび司(し)馬(ば)昭(しょう)の位を進めて、爵位を上げて、賞を授けるように、前の詔と同じ内容で命令したよ。でも、司(し)馬(ば)昭(しょう)が固く辞退したからやめたよ。

本文

夏五月,詔曰:「蜀,蕞爾小國,土狹民寡,而姜維虐用其衆,曾無廢志;往歲破敗之後,猶復耕種沓中,刻剥衆羌,勞役無已,民不堪命。夫兼弱攻昧,武之善經,致人而不至於人,兵家之上略。蜀所恃賴,唯維而已,因其遠離巢窟,用力為易。今使征西將軍鄧艾督帥諸軍,趣甘松、沓中以羅取維,雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都、高樓,首尾踧討。若禽維,便當東西並進,掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。

夏の五月、曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「蜀(しょく)はすごく小さな国で、土地が狭くて民も少ないよ。なのに、姜(きょう)維(い)はたくさんの兵を無理に使い続けて、少しも戦いをあきらめようとしないんだ。去年に負けた後も、沓(とう)中(ちゅう)で農耕を続けていて、羌(きょう)から厳しく物資を取り立てて、終わりのない重い仕事をさせているんだ。だから、民は苦しみに耐えられなくなっているんだ。
そもそも弱い国を従えて、道理を知らない者を討つことは、武の道の基本だね。自分から敵に向かうのではなくて、敵をこちらの思う場所へ誘い出して戦うことは、兵法の最もすぐれた方法だよ。蜀(しょく)が頼りにしているのは、ただ姜(きょう)維(い)一人だけだよね。今、姜(きょう)維(い)は本拠地から遠く離れているから、この機会に攻めるのは簡単だよ。
そこで、征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の鄧(とう)艾(がい)に軍を率いさせて、甘(かん)松(しょう)と沓(とう)中(ちゅう)に進ませて、姜(きょう)維(い)を包囲して捕らえさせよう。同時に、雍(よう)州(しゅう)刺(し)史(し)の諸(しょ)葛(かつ)緒(しょ)に軍を率いさせて、武(ぶ)都(と)と高(こう)楼(ろう)に進ませて、、前後から姜(きょう)維(い)を攻めさせるよ。もし姜(きょう)維(い)を捕らえれば、そのまま東西の軍が力を合わせて攻め込んで、巴(は)蜀(しょく)を完全に平定できるよ」
さらに、鎮(ちん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の鍾(しょう)会(かい)にも命令して、駱(らく)谷(こく)から蜀(しょく)を攻めさせたよ。

本文

秋九月,太尉高柔薨。冬十月甲寅,復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯,立皇后卞氏,十一月,大赦。

秋の九月、太(たい)尉(い)の高(こう)柔(じゅう)が亡くなったんだ。
冬の十月、甲寅の日、曹(そう)奐(かん)は、司(し)馬(ば)昭(しょう)の位をさらに進めて、爵位を上げて、賞を与えることを、前の詔と同じ内容で命令したよ。癸卯の日、卞(べん)氏(し)を皇后に立てたよ。十一月、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。

本文

自鄧艾、鍾會率衆伐蜀,所至輙克。是月,蜀主劉禪詣艾降,巴蜀皆平。十二月庚戌,以司徒鄭沖為太保。壬子,分益州為梁州。癸丑,特赦益州士民,復除租賦之半。

鄧(とう)艾(がい)と鍾(しょう)会(かい)が軍を率いて蜀(しょく)を攻めて、行く先々で勝ったよ。この月、蜀(しょく)の君主の劉(りゅう)禅(ぜん)は鄧(とう)艾(がい)のもとへ行って降伏したんだ。こうして巴(は)蜀(しょく)はすべて平定されたよ。
十二月、庚戌の日、司(し)徒(と)の鄭(てい)沖(ちゅう)を太(たい)保(ほ)に任命したよ。壬子の日、益(えき)州を分けて梁(りょう)州を置いたよ。癸丑の日、特別に益(えき)州の役人や民を許して、さらに土地からの税の半分を免除したよ。

本文

五年乙卯,以征西將軍鄧艾為太尉,鎮西將軍鍾會為司徒。皇太后崩。

景(けい)元(げん)五年(264年)、乙卯の日、征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の鄧(とう)艾(がい)を太(たい)尉(い)、鎮(ちん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の鍾(しょう)会(かい)を司(し)徒(と)に任命したよ。この年、皇太后が亡くなったんだ。

司馬昭を晋王にする

本文

咸熈元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。甲子,行幸長安。壬申,使使者以璧幣祀華山。是月,鍾會反於蜀,為衆所討;鄧艾亦見殺。二月辛卯,特赦諸在益土者。庚申,葬明元郭后。三月丁丑,以司空王祥為太尉,征北將軍何曾為司徒,尚書左僕射荀顗為司空。己卯,進晉公爵為王,封十郡,并前二十。(註1)

咸(かん)熙(き)元年(264年)、春の正月、壬戌の日、鄧(とう)艾(がい)を罪人を運ぶための檻車に乗せて、朝廷へ呼び出したよ。甲子の日、曹(そう)奐(かん)は長(ちょう)安(あん)に行ったよ。壬申の日、使者を送って玉(ぎょく)璧(へき)や絹を持たせて華(か)山(ざん)をまつらせたよ。
この月、鍾(しょう)会(かい)が蜀(しょく)で反乱を起こしたんだ。でも、たくさんの兵に討たれて殺されたよ。鄧(とう)艾(がい)も殺されたんだ。
二月、辛卯の日、益(えき)州にいる人たちを特別に許したよ。庚申の日、明(めい)元(げん)郭(かく)皇(こう)后(ごう)を埋葬したよ。三月、丁丑の日、司(し)空(くう)の王(おう)祥(しょう)を太(たい)尉(い)、征(せい)北(ほく)将(しょう)軍(ぐん)の何(か)曾(そう)を司(し)徒(と)、尚(しょう)書(しょ)左(さ)僕(ぼく)射(や)の荀(じゅん)顗(ぎ)を司(し)空(くう)に任命したよ。己卯の日、晋(しん)公(こう)の司(し)馬(ば)昭(しょう)の爵位を晋(しん)王(おう)に進めて、さらに10郡を封じて、領地はこれまでと合わせて20郡になったよ。

(註1)

漢晉春秋曰:晉公旣進爵為王,太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。顗曰:「相王尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」祥曰:「相國位勢,誠為尊貴,然要是魏之宰相,吾等魏之三公;公、王相去,一階而已,班列大同,安有天子三公可輙拜人者!損魏朝之望,虧晉王之德,君子愛人以禮,吾不為也。」及入,顗遂拜,而祥獨長揖。王謂祥曰:「今日然後知君見顧之重!」

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、司(し)馬(ば)昭(しょう)が晋(しん)公(こう)から晋(しん)王(おう)になると、太(たい)尉(い)の王(おう)祥(しょう)、司(し)徒(と)の何(か)曾(そう)、司(し)空(くう)の荀(じゅん)顗(ぎ)は、みんなで司(し)馬(ば)昭(しょう)を訪ねたよ。荀(じゅん)顗(ぎ)はこう言ったよ。
「晋(しん)王(おう)(司(し)馬(ば)昭(しょう))はすごく尊い立場になったよね。何(か)侯(こう)(何(か)曾(そう))をはじめ朝廷の臣下たちは、すでに十分な敬意を示しているよ。今日、私たちもそろって拝礼するのが当然で、迷う必要はないんだ」
王(おう)祥(しょう)はこう言ったよ。
「相(しょう)国(こく)(司(し)馬(ば)昭(しょう))の立場と権威がすごく尊いことは、そのとおりだよ。でも、彼は魏(ぎ)の宰(さい)相(しょう)で、私たちは魏(ぎ)の三(さん)公(こう)だよ。爵位の違いは、わずか一段階だけだし、官位の序列はほぼ同じなんだ。どうして天子の三(さん)公(こう)が、簡単に人に拝礼していいの? そのようなことをしたら、魏(ぎ)の朝廷の威信を損なって、晋(しん)王(おう)(司(し)馬(ば)昭(しょう))の徳も傷つけてしまうんだ。君子は礼によって人を大切にするものだよ。私はそのようなことはしないよ」
彼らが司(し)馬(ば)昭(しょう)の前へ進むと、荀(じゅん)顗(ぎ)は拝礼したけど、王(おう)祥(しょう)はただ深く立ったまま両手を組んで礼をするだけだったんだ。これを見た司(し)馬(ば)昭(しょう)は王(おう)祥(しょう)にこう言ったよ。
「今日になって初めて、あなたが私を思いやってくれている気持ちが、これほどまでに深いものだったとわかったよ」

本文

丁亥,封劉禪為安樂公。夏五月庚申,相國晉王奏復五等爵。甲戌,改年。癸未,追命舞陽宣文侯為晉宣王,舞陽忠武侯為晉景王。六月,鎮西將軍衞瓘上雍州兵於成都縣獲璧玉印各一,印文似「成信」字,依周成王歸禾之義,宣示百官,藏于相國府。(註2)

丁亥の日、劉(りゅう)禅(ぜん)を安(あん)楽(らく)公(こう)に封じたよ。夏の五月、庚申の日、相(しょう)国(こく)の司(し)馬(ば)昭(しょう)が昔の五等爵(公・侯・伯・子・男)の制度を復活させるよう上奏したよ。甲戌の日、年号を咸(かん)熙(き)に改めたよ。癸未の日、舞(ぶ)陽(よう)宣(せん)文(ぶん)侯(こう)の司(し)馬(ば)懿(い)に晋(しん)宣(せん)王(おう)、舞(ぶ)陽(よう)忠(ちゅう)武(ぶ)侯(こう)の司(し)馬(ば)師(し)に晋(しん)景(けい)王(おう)という王号を贈ったよ。
六月、鎮(ちん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の衛(えい)瓘(かん)は、雍(よう)州の兵が成(せい)都(と)県で玉(ぎょく)璧(へき)一つと玉(ぎょく)印(いん)一つを見つけたと報告したよ。その玉(ぎょく)印(いん)に刻まれていた文字は、「成(せい)信(しん)」と読めるみたいで、周(しゅう)の成(せい)王(おう)が禾(いね)が捧げられたことにならって、朝廷の役人たちに示したよ。そして、その玉(ぎょく)璧(へき)と玉(ぎょく)印(いん)は相(しょう)国(こく)の役所に納められたよ。

(註2)

孫盛曰:昔公孫述自以起成都,號曰成。二玉之文,殆述所作也。

孫(そん)盛(せい)によると、昔、公(こう)孫(そん)述(じゅつ)は成(せい)都(と)で兵をあげて、国を成(せい)としたんだ。この二つの玉(ぎょく)に刻まれていた文字は、公(こう)孫(そん)述(じゅつ)が作らせたものだろうね。

本文

初,自平蜀之後,吳寇屯逼永安,遣荊、豫諸軍掎角赴救。七月,賊皆遁退。八月庚寅,命中撫軍司馬炎副貳相國事,以同魯公拜後之義。

もともと、蜀(しょく)を平定した後、呉(ご)は永(えい)安(あん)の近くまで軍を進めてとどまって、国境を脅かしていたんだ。だから、荊(けい)州と豫(よ)州の軍を送って、助け合いながら永(えい)安(あん)を助けに向かわせたよ。七月、呉(ご)はすべて退いたよ。
八月、庚寅の日、中(ちゅう)撫(ぶ)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)炎(えん)に、相(しょう)国(こく)の仕事を助けて政治をするように酩酊したよ。これは魯(ろ)公(こう)(周(しゅう)公(こう)旦(たん)の子の伯(はく)禽(きん))が正式に任命された後、その子が政治を助けた例にならったものだよ。

鍾会の反乱

本文

癸巳,詔曰:「前逆臣鍾會構造反亂,聚集征行將士,劫以兵威,始吐姦謀,發言桀逆,逼脅衆人,皆使下議,倉卒之際,莫不驚懾。相國左司馬夏侯和、騎士曹屬朱撫時使在成都,中領軍司馬賈輔、郎中羊琇各參會軍事;和、琇、撫皆抗節不撓,拒會凶言,臨危不顧,詞指正烈。

癸巳の日、曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「前に、そむいた臣下の鍾(しょう)会(かい)は反乱をたくらんで、蜀(しょく)へ行っていた将や兵たちを集めて、武力で脅して従わせようとしたんだ。そして初めてその悪だくみを明らかにして、反逆の言葉を口にして、人々を無理やり従わせようとしたんだ。みんなはその場で意見を言うように強いられたけど、突然のことだったから、びっくりして恐れちゃった。相(しょう)国(こく)の左(さ)司(し)馬(ば)の夏(か)侯(こう)和(か)や、騎(き)士(し)曹(そう)属(ぞく)の朱(しゅ)撫(ぶ)は、ちょうど成(せい)都(と)にいて、中(ちゅう)領(りょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)の賈(か)輔(ほ)、郎(ろう)中(ちゅう)の羊(よう)琇(しゅう)も、それぞれ鍾(しょう)会(かい)の軍務に参加していたんだ。夏(か)侯(こう)和(か)、羊(よう)琇(しゅう)、朱(しゅ)撫(ぶ)はみんな固い節義を守って少しも屈さないで、鍾(しょう)会(かい)の反逆の言葉をきっぱりと拒んだよ。命が危ない状況だったのに、少しも恐れないで、その言葉も態度も正しくて、勇ましいものだったんだって。

本文

輔語散將王起,說『會姦逆凶暴,欲盡殺將士』,又云『相國已率三十萬衆西行討會』,欲以稱張形勢,感激衆心。起出,以輔言宣語諸軍,遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵,以彰忠義。其進和、輔爵為鄉侯,琇、撫爵關內侯。起宣傳輔言,告令將士,所宜賞異。其以起為部曲將。」

賈(か)輔(ほ)は散(さん)将(しょう)の王(おう)起(き)に、『鍾(しょう)会(かい)は反乱をたくらむひどい人で、将や士をみんな殺そうとしているんだ』と話したよ。さらに『相(しょう)国(こく)(司(し)馬(ば)昭(しょう))はすでに30万の軍を率いて西へ進んで、鍾(しょう)会(かい)を討とうとしているよ』と伝えたよ。これは、朝廷の軍勢がすごく大きいと知らせて、将や兵たちの心を奮い立たせるためだね。王(おう)起(き)は外へ出ると、賈(か)輔(ほ)の言葉を軍に広めて、将や兵たちはますます勇気を奮い起こして、戦う決意を固めたよ。このような忠義を明らかにするためにも、彼らには特別な賞を与えるべきだね。
夏(か)侯(こう)和(か)と賈(か)輔(ほ)の爵位を郷(きょう)侯(こう)に進めて、羊(よう)琇(しゅう)と朱(しゅ)撫(ぶ)には関(かん)内(だい)侯(こう)の爵位を与えるよ。王(おう)起(き)は賈(か)輔(ほ)の言葉を将や兵に伝えて励ましたよ。その功績も特に賞を与えるよ。そこで、王(おう)起(き)を部(ぶ)曲(きょく)将(しょう)に任命するね」

本文

癸卯,以衞將軍司馬望為驃騎將軍。九月戊午,以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。

癸卯の日、衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)望(ぼう)を驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。九月、戊午の日、中(ちゅう)撫(ぶ)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)炎(えん)を撫(ぶ)軍(ぐん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。

呉の降伏者を受け入れる

本文

辛未,詔曰:「吳賊政刑暴虐,賦斂無極。孫休遣使鄧句,勑交阯太守鎖送其民,發以為兵。吳將呂興因民心憤怒,又承王師平定巴蜀,即糾合豪傑,誅除句等,驅逐太守長吏,撫和吏民,以待國命。九真、日南郡聞興去逆即順,亦齊心響應,與興恊同。興移書日南州郡,開示大計,兵臨合浦,告以禍福;遣都尉唐譜等詣進乘縣,因南中都督護軍霍弋上表自陳。

辛未の日、曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「呉(ご)の敵は政治も刑罰もすごく乱れていて、税や物資の取り立ても際限がないんだ。孫(そん)休(きゅう)は使者の鄧(とう)句(く)を送って、交(こう)阯(し)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)に命令してその土地の民を縛って送り届けさせて、兵として使おうとしたんだって。呉(ご)の将の呂(りょ)興(こう)は、民がそのことにすごく怒っていることを知っていて、さらに天子の軍が巴(は)蜀(しょく)を平定したことを聞くと、すぐに有力者たちを集め集めて、鄧(とう)句(く)たちを討ち取って、太(たい)守(しゅ)や長(ちょう)吏(り)(行政官)を追い払ったよ。そして、役人や民をいたわって、国の命令を待ったんだ。
九(きゅう)真(しん)郡と日(にち)南(なん)郡は、呂(りょ)興(こう)が逆らう人を追い払うのを聞いて、すぐに同じように心をひとつにして応じたよ。呂(りょ)興(こう)は日(にち)南(なん)の州と郡に手紙を送って、自分たちの大きな計画を説明したんだ。そして、兵を合(がっ)浦(ぽ)に進めて、その土地の人に従うか逆らうかによって受ける幸せと災いを知らせたよ。さらに、都(と)尉(い)の唐(とう)譜(ふ)たちを進(しん)乗(じょう)県に送って、南(なん)中(ちゅう)都(と)督(とく)護(ご)軍(ぐん)の霍(かく)弋(よく)を通じて上表させて自分たちの事情を説明したよ。

本文

又交阯將吏各上表,言『興創造事業,大小承命。郡有山寇,入連諸郡,懼其計異,各有攜貳。權時之宜,以興為督交阯諸軍事、上大將軍、定安縣侯,乞賜褒獎,以慰邊荒』。乃心欵誠,形於辭旨。昔儀父朝魯,春秋所美;竇融歸漢,待以殊禮。今國威遠震,撫懷六合,方包舉殊裔,混一四表。興首向王化,舉衆稽服,萬里馳義,請吏帥職,宜加寵遇,崇其爵位。旣使興等懷忠感恱,遠人聞之,必皆競勸。其以興為使持節、都督交州諸軍事、南中大將軍,封定安縣侯,得以便宜從事,先行後上。」策命未至,興為下人所殺。

それに、交(こう)阯(し)の将や役人たちもそれぞれ上表してこう言ったよ。
『呂(りょ)興(こう)はこの大事業を始めて、身分の高い者も低い者もみんな命令に従っているよ。でも、郡には山賊がいて、その勢力は近くの郡にも及んでいるんだ。それに、人々の考えが一つにまとまらなくて、お互いに疑い合って離れることを心配しているの。だから、今は状況に応じた処置として、呂(りょ)興(こう)を督(とく)交(こう)阯(し)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)、上(じょう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)、定(てい)安(あん)県(けん)侯(こう)にして、その功績をほめたたえてほしいんだ。そうすれば、境の人たちも安心するだろうね』
この上表には、朝廷に心から従いたいという強い思いが、その言葉のすみずみにまで表れているよ。
昔、儀(ぎ)父(ほ)が魯(ろ)の朝廷に行ったことは、『春(しゅん)秋(じゅう)』でも立派な行いとしてたたえられているよ。それに、竇(とう)融(ゆう)が漢(かん)へ従ったときには、特別な礼で迎えられたんだ。今、すでに私たちの国の威は遠くにまで響き渡って、天下の人々をいたわって治めているよ。これからは遠い異民族の地までも包み込み、天下を一つにまとめようとしているんだ。
呂(りょ)興(こう)が真っ先に王の教えを受け入れて、民を率いて従ったよ。万里も離れた遠い地から義のために従って、役人と指揮官の職を願い出たよ。このような者には、特別な待遇を与えて、その爵位を高くするべきだよね。そうすれば、呂(りょ)興(こう)たちはますます忠義の心を深めて喜んで、遠くの人たちもこれを聞いて競って従うようになるんだ。そこで、呂(りょ)興(こう)を使(し)持(じ)節(せつ)、都(と)督(とく)交(こう)州(しゅう)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)、南(なん)中(ちゅう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に任命して、定(てい)安(あん)県(けん)侯(こう)に封じるよ。それに、その場の状況に応じて自分の判断で処置することを許して、その結果は後で朝廷へ報告すればいいよ」
でも、この任命の文書が届く前に、呂(りょ)興(こう)は部下の者に殺されちゃった。

本文

冬十月丁亥,詔曰:「昔聖帝明王,靜亂濟世,保大定功,文武殊塗,勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭,或陳師旅以威暴慢。至於愛民全國,康惠庶類,必先脩文教,示之軌儀,不得已然後用兵,此盛德之所同也。往者季漢分崩,九土顛覆,劉備、孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏,日不暇給,遂使遺寇僭逆歷世。幸賴宗廟威靈,宰輔忠武,爰發四方,拓定庸、蜀,役不浹時,一征而克。

冬の十月、丁亥の日、曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「昔の立派な帝やすぐれた王たちは、世の中の乱れをしずめて、人々を救って、大きな功績を成し遂げたよ。その方法はいろいろあるよ。ある者は、武器を持った舞をして礼によって教えて導いて、従わない者を正したよ。ある者は、軍を動かして、乱暴で従わない者を武力によって従わせたよ。でも、民を愛して、国を守って、たくさんの民を安らかに暮らさせようとするなら、まず文化や礼儀を教えて、守るべき手本を示さなければならないんだ。それでも仕方ない場合にだけ兵を使うんだ。この考え方は、すぐれた君主に共通する徳だね。
前に、漢(かん)の時代の終わりごろ、国が乱れて衰えて、天下は大きく混乱したんだ。そのすきに劉(りゅう)備(び)と孫(そん)権(けん)は国を作って、世に災いを起こしたんだ。三祖(曹(そう)操(そう)、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)叡(えい))は、中原を平和に治めるために力を尽くして、休む暇もなかったんだ。だから、蜀(しょく)や呉(ご)のような逆らう勢力は、何代にもわたって残ってしまったんだ。でも、宗廟(先祖の廟)の威と、忠義と武勇にすぐれた臣下たちの働きによって、四方から軍を起こして、庸(よう)(雍(よう)州)と蜀(しょく)を平定できたよ。しかも、この戦いは長く続かなくて、一度の兵を出すだけで勝ったね。

本文

自頃江表衰弊,政刑荒闇,巴、漢平定,孤危無援,交、荊、揚、越靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡,萬里歸命;武陵邑侯相嚴等糾合五縣,請為臣妾;豫章廬陵山民舉衆叛吳,以助北將軍為號。

最近、江(こう)表(ひょう)は国の力が衰えて、政治も刑罰も乱れて暗いんだって。巴(は)や漢(かん)が平定されたから、呉(ご)は孤立して、助けてくれる者もいないよ。交(こう)阯(し)、荊(けい)州、揚(よう)州、越(えつ)州はまるで風になびく草みたいに、次々と朝廷へ従うようになっているよ。
今、交(こう)阯(し)の将の呂(りょ)興(こう)は3つの郡を率いて、万里も離れた遠い地から従うと言ってきたよ。武(ぶ)陵(りょう)の邑(ゆう)侯(こう)相(しょう)の厳(げん)たちは5つの県を集めて、臣下となりたいと願い出たよ。さらに、豫(よ)章(しょう)と廬(ろ)陵(りょう)の山の民も呉(ご)にそむいて、『北(ほく)将(しょう)軍(ぐん)を助ける』と言って兵を挙げているんだって。

本文

又孫休病死,主帥改易,國內乖違,人各有心。偽將施績,賊之名臣,懷疑自猜,深見忌惡。衆叛親離,莫有固志,自古及今,未有亡徵若此之甚。若六軍震曜,南臨江、漢,吳會之域必扶老攜幼以迎王師,必然之理也。然興動大衆,猶有勞費,宜告喻威德,開示仁信,使知順附和同之利。

さらに、孫(そん)休(きゅう)は病気で亡くなって、国の指導者も将軍たちも入れ替わったよ。だから、国内では人々の心がまとまらなくて、それぞれが自分勝手な考えを持つようになっているんだ。呉(ご)の名将として知られる施(し)績(せき)も、自分が疑われているのではないかと不安になって、実際に周りから深く警戒されて、嫌われているの。民はお互いにそむいて、親しい者どうしも離れちゃって、一人として国を守ろうという固い決意を持っていないよ。昔から今までを見渡しても、国が滅びる前ぶれが、これほどはっきり現れた例はないよね。
もし朝廷の大軍が勢いよく進んで、南へ下って長江や漢水に着いたら、呉(ご)と会(かい)稽(けい)の人たちは、老人の手を引いて、幼い子供を連れてて、朝廷の軍を迎えるだろうね。これは必ずそうなるよ。でも、たくさんの兵を動かしたら、たくさんの人たちを苦しめて、多くの費用もかかるんだ。まずは、威と徳を広く知らせて、仁と信義を示して、人々に朝廷へ従って心を一つにすることの利益をわからせるべきだよ。

本文

相國參軍事徐紹、水曹掾孫彧,昔在壽春,並見虜獲。紹本偽南陵督,才質開壯;彧,孫權支屬,忠良見事。其遣紹南還,以彧為副,宣揚國命,告喻吳人,諸所示語,皆以事實,若其覺悟,不損征伐之計,蓋廟勝長筭,自古之道也。其以紹兼散騎常侍,加奉車都尉,封都亭侯;彧兼給事黃門侍郎,賜爵關內侯。紹等所賜妾及男女家人在此者,悉聽自隨,以明國恩,不必使還,以開廣大信。」

相(しょう)国(こく)の参(さん)軍(ぐん)事(じ)の徐(じょ)紹(しょう)と、水(すい)曹(そう)掾(えん)の孫(そん)彧(いく)は、前に寿(じゅ)春(しゅん)にいたとき、呉(ご)の軍に捕らえられたんだ。徐(じょ)紹(しょう)はもともと呉(ご)の南(なん)陵(りょう)督(とく)で、才能があって、心も広く勇気のある人だよ。孫(そん)彧(いく)は孫(そん)権(けん)の一族の者で、忠に厚くて、立派な人として知られているんだって。そこで、徐(じょ)紹(しょう)を南に帰らせて、孫(そん)彧(いく)をその補佐役として、朝廷の命令を広く伝えて、呉(ご)の人々を教えて導くよ。人々に伝える内容は、すべて事実にもとづくものにしてね。もし呉(ご)の人々がこれによって目を覚まして、朝廷へ従うなら、討つための計画の邪魔にはならないよ。まず道理を説いて人々を従わせて、それでも従わない者だけを討つというのは、朝廷が十分に考え抜いた最もいい策で、昔から行われてきた方法でもあるんだ。
そこで、徐(じょ)紹(しょう)には散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)を兼ねさせて、奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)の位を与えて、都(と)亭(てい)侯(こう)に封じるよ。孫(そん)彧(いく)には給(きゅう)事(じ)黄(こう)門(もん)侍(じ)郎(ろう)を兼ねさせて、関(かん)内(だい)侯(こう)の爵位を授けるよ。彼らに与えられている側室や家族は、みんな一緒に連れて行くことを許すよ。これは、国の恩を示すためで、家族を無理に引き留める必要はないよ。そうすることで、朝廷が広く信義を大切にしていると天下に示すんだ」

屯田をやめる

本文

丙午,命撫軍大將軍新昌鄉侯炎為晉世子。是歲,罷屯田官以均政役,諸典農皆為太守,都尉皆為令長;勸募蜀人能內移者,給廩二年,復除二十歲。安彌、福祿縣各言嘉禾生。

丙午の日、{撫軍大将軍|ぶ|ぐん|だいしょうぐん)で新(しん)昌(しょう)郷(きょう)侯(こう)の司(し)馬(ば)炎(えん)を晋(しん)の世子(後継ぎ)にしたよ。
この年、屯(とん)田(でん)官(かん)を廃止して、政治や民への負担が公平になるように改めたよ。すべての典(てん)農(のう)はすべて太(たい)守(しゅ)(郡の長官)にして、典(てん)農(のう)都(と)尉(い)を県(けん)令(れい)や県(けん)長(ちょう)(県の長官)にしたよ。
それに、蜀(しょく)から移り住む人たちには、2年間の食料を支給して、20年間の税と労役を免除したんだ。
安(あん)弥(び)県と福(ふく)禄(ろく)県では、いい稲が生えたという報告があったんだって。

曹(そう)操(そう)さんが屯田で置いた役人を、行政の担当に移したよ。

司馬昭の死

本文

二年春二月甲辰,朐䏰縣獲靈龜以獻,歸之于相國府。庚戌,以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆,以至沒身,賜脩弟倚爵關內侯。夏四月,南深澤縣言甘露降。吳遣使紀陟、弘璆請和。

咸(かん)熙(き)二年(265年)、春の二月、甲辰の日、朐(く)䏰(じん)県で霊(れい)亀(き)(めずらしい亀)が見つかって、相(しょう)国(こく)の役所に捧げられたよ。   庚戌の日、虎(こ)賁(ほん)の張(ちょう)脩(しゅう)は、昔、成(せい)都(と)で鍾(しょう)会(かい)が反乱を起こしたとき、馬で急いでそれぞれの軍のもとへ行って知らせて、命を落としたんだ。この功績をたたえて、張(ちょう)脩(しゅう)の弟の張(ちょう)倚(き)に関(かん)内(だい)侯(こう)の爵位を与えたよ。
夏の四月、南(なん)深(しん)沢(たく)県で「甘露が降った」という報告があったの。呉(ご)は使者の紀(き)陟(ちょく)と弘(こう)璆(きゅう)を送って、仲よくしようと伝えたよ。

本文

五月,詔曰:「相國晉王誕敷神慮,光被四海;震燿武功,則威蓋殊荒,流風邁化,則旁洽無外。愍卹江表,務存濟育,戢武崇仁,示以威德。文告所加,承風嚮慕,遣使納獻,以明委順,方寶纖珍,歡以效意。而王謙讓之至,一皆簿送,非所以慰副初附,從其款願也。孫皓諸所獻致,其皆還送,歸之于王,以恊古義。」王固辭乃止。

五月、曹(そう)奐(かん)は詔を下してこう言ったよ。
「相(しょう)国(こく)で晋(しん)王(おう)の司(し)馬(ば)昭(しょう)は、すぐれた考えで国を治めて、そのよい政治は国内に広く行きわたっているよ。戦いでも大きな功績を立てて、その強さは遠い国々にまで知られているし、そのよい政治や教えは国のすみずみにまで広がっているよ。晋(しん)王(おう)は江(こう)表(ひょう)の人たちのことも思いやって、人々を助け育てようとしているんだ。むやみに戦おうとはせず、思いやりの心を大切にして、その力と徳を人々に示しているよ。だから、朝廷からの知らせを受けた人たちは、そのよい評判を聞いて心から従いたいと思って、使者を送って珍しい品物を捧げて、自分たちが進んで従う気持ちを表したの。でも、晋(しん)王(おう)はとても遠慮深くて、それらの品物をすべて記録しただけで受け取らないで、送り返そうとしているんだ。それでは、それでは、今ようやく朝廷に従った人たちの気持ちに応えられなくて、彼らの願いを受け入れたことにもならないよね。だから、孫(そん)皓(こう)が捧げた品物は、すべて晋(しん)王(おう)に返して、その受け取りを晋(しん)王(おう)に任せるよ。これが昔からの正しいやり方にもかなっているよね」
でも、司(し)馬(ば)昭(しょう)が固く辞退したからやめたよ。

本文

又命晉王冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車、六馬,備五時副車,置旄頭雲䍐,樂舞八佾,設鍾虡宮縣。進王妃為王后,世子為太子,王子、王女、王孫,爵命之號如舊儀。癸未,大赦。秋八月辛卯,相國晉王薨。壬辰,晉太子炎紹封襲位,總攝百揆,備物典冊,一皆如前。

それに、司(し)馬(ば)昭(しょう)に12つの旒ついた冕(べん)(天子の冠)、天子の旗を立てて、外出するときには人々に道を開けさせて、金(きん)根(こん)車(しゃ)(天子の馬車)を6頭立ての馬で引かせることも許したよ。さらに、五色の副車や、飾りの旗、雲(うん)䍐(かん)(皇帝の近くにいる兵)を置いて、八(はち)佾(いつ)の舞(天子の舞)、鐘や虡(鐘を吊す楽器台)を宮殿と同じように使うことを許したよ。さらに、晋(しん)王(おう)の妃を王后、世子を太子にして、晋(しん)王(おう)の子供や孫たちにも、これまでの決まりどおりの爵位や位を与えたんだ。癸未の日、大赦をしてたくさんの人の罪を許したよ。
秋の八月、辛卯の日、相(しょう)国(こく)で晋(しん)王(おう)の司(し)馬(ば)昭(しょう)が亡くなったんだ。壬辰の日、晋(しん)の太子の司(し)馬(ば)炎(えん)が、その爵位と領地を引き継いだよ。そして、国の政治をすべて取りしきって、身分や儀式も、それまで司(し)馬(ば)昭(しょう)に認められていたものと同じように受け継いだんだ。

本文

是月,襄武縣言有大人見,長三丈餘,迹長三尺二寸,白髮,著黃單衣,黃巾,柱杖,呼民王始語云:「今當太平。」九月乙未,大赦。戊午,司徒何曾為晉丞相。癸亥,以驃騎將軍司馬望為司徒,征東大將軍石苞為驃騎將軍,征南大將軍陳騫為車騎將軍。乙亥,葬晉文王。閏月庚辰,康居、大宛獻名馬,歸于相國府,以顯懷萬國致遠之勳。

この月、襄(じょう)武(ぶ)県で「とても大きな人が現れた」という報告があったんだ。その人は身長が3丈以上もあって、足あとの大きさは3尺2寸で、白い髪で黄色の服を着て、黄色い頭巾をかぶって、杖をついていたよ。そして、民の王(おう)始(し)に「これから世の中は平和になる」と話しかけたんだって。
九月、乙未の日、大赦をしてたくさんの人の罪を許したよ。戊午の日、司(し)徒(と)の何(か)曾(そう)を晋(しん)の丞(じょう)相(しょう)に任命したよ。癸亥の日驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)望(ぼう)を司(し)徒(と)、征(せい)東(とう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の石(せき)苞(ほう)を驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)、征征(せい)南(なん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の陳(ちん)騫(けん)を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)に任命したよ。
乙亥の日、司(し)馬(ば)昭(しょう)を埋葬したんだ。閏月、庚辰の日、康(こう)居(きょ)と大(だい)宛(えん)(西域の国)は、すぐれた馬を朝廷に捧げて、その馬は相(しょう)国(こく)の役所に納められたよ。これは、晋(しん)のよい政治が遠くの国にまで伝わって、たくさんの国が進んで従うようになったことを示すためだね。

禅譲する

本文

十二月壬戌,天祿永終,歷數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊,使使者奉皇帝璽綬冊,禪位于晉嗣王,如漢魏故事。甲子,使使者奉策。遂改次于金墉城,而終館于鄴,時年二十。(註3)

十二月、壬戌の日、天から受けていた国を治める運命は終わって、天命が晋(しん)に移るときが来たんだ。曹(そう)奐(かん)は詔を下して、公(こう)卿(けい)や役人たちに命令して、南の郊外に祭壇を築いて、儀式をさせたよ。使者を送って、皇帝の印綬とそして位をゆずることを書いた文書を持たせて、晋(しん)の司(し)馬(ば)炎(えん)に皇帝の位をゆずったよ。この儀式は、漢(かん)が魏(ぎ)にゆずったときと同じやり方で行われたんだ。
甲子の日、使者が位をゆずる文書を司(し)馬(ば)炎(えん)に届けたよ。その後、曹(そう)奐(かん)は金(きん)墉(よう)城(じょう)に移り住んで、さらに鄴(ぎょう)で一生を終えたよ。このとき20歳だったんだ。

(註3)

魏世譜曰:封帝為陳留王。年五十八,大安元年崩,謚曰元皇帝。

『魏(ぎ)世(せい)譜(ふ)』によると、曹(そう)奐(かん)は位から退いた後、陳(ちん)留(りゅう)王(おう)に封ぜられたよ。58歳で、大(たい)安(あん)元年(302年)に亡くなって、元(げん)皇(こう)帝(てい)の諡号が贈られたよ。

陳寿の評

本文

評曰:古者以天下為公,唯賢是與。後代世位,立子以適;若適嗣不繼,則宜取旁親明德,若漢之文、宣者,斯不易之常準也。明帝旣不能然,情繫私愛,撫養嬰孩,傳以大器,託付不專,必參枝族,終於曹爽誅夷,齊王替位。高貴公才慧夙成,好問尚辭,蓋亦文帝之風流也;然輕躁忿肆,自蹈大禍。陳留王恭己南面,宰輔統政,仰遵前式,揖讓而禪,遂饗封大國,作賔于晉,比之山陽,班寵有加焉。

昔は、天下はみんなのもので、すぐれた人に国を任せるという考え方だったよ。でも、後の時代になると、皇帝の位は親から子へ受け継がれるようになって、正妻の子を後継ぎとするのが決まりとなったよ。もし、その後継ぎが皇帝になれない場合には、一族の中から徳のある人を選ぶべきなんだ。漢(かん)の文(ぶん)帝(てい)や宣(せん)帝(てい)みたいな例が、その変わることのない正しい手本だね。
でも、曹(そう)叡(えい)はそのようにはしなかったんだ。曹(そう)叡(えい)は自分の子への愛情を捨てられなくて、まだ幼い子に皇帝の位を継がせたよ。しかも、政治を一人の人物に任せないで、一族の者たちにも分けて任せたよ。その結果、最後には曹(そう)爽(そう)が一族みんな滅ぼされて、斉(せい)王(おう)(曹(そう)芳(ほう))は皇帝の位を失ったんだ。
曹(そう)髦(ぼう)は、幼い頃から才能と知恵にすぐれていて、わからないことはよく質問して、学問や文章が好きだよ。その人柄は、曹(そう)丕(ひ)の気風を受け継いでいたと言えるだろうね。でも、気が短くて、すぐに腹を立てて思うままに行動したから、自ら大きな災いを招いてしまったんだ。
曹(そう)奐(かん)は、自分の立場をわきまえて皇帝の位にいて、政治は宰(さい)相(しょう)たちに任せたよ。また、それまでのやり方に従って、礼を守って皇帝の位を晋(しん)へゆずったんだ。だから、広い領地を持つ陳(ちん)留(りゅう)王(おう)に封ぜられて、晋(しん)の客として大切に扱われたよ。山(さん)陽(よう)公(こう)(漢(かん)の献(けん)帝(てい))が魏(ぎ)にゆずったときよりも、さらに手厚いものだったね。

「魏書陳留王紀」は以上だよ!