はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書陳留王紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹奐 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

皇帝になる
陳留王諱奐,字景明,武帝孫,燕王宇子也。甘露三年,封安次縣常道鄉公。高貴鄉公卒,公卿議迎立公。六月甲寅,入于洛陽,見皇太后,是日即皇帝位於太極前殿,大赦,改年,賜民爵及穀帛各有差。
陳留王は、名は奐、字は景明だよ。曹操の孫で、燕王の曹宇の子だよ。
甘露三年(258年)、安次県の常道郷公に封ぜられたよ。曹髦が亡くなった後、公卿たちが議論して曹奐を迎えて、帝に立てたんだ。六月、甲寅の日、洛陽に入って、皇太后に会って、その日に太極前殿で皇帝に即位したよ。大赦を行って、年号を改めて、民に爵位や穀物や布をそれぞれ与えたんだ。
司馬昭を晋公にする
景元元年夏六月丙辰,進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,增封二郡,并前滿十,加九錫之禮,一如前詔;諸羣從子弟,其未有侯者皆封亭侯,賜錢千萬,帛萬匹,文王固讓乃止。己未,故漢獻帝夫人節薨,帝臨于華林園,使使持節追謚夫人為獻穆皇后。及葬,車服制度皆如漢氏故事。癸亥,以尚書右僕射王觀為司空,冬十月,觀薨。
景元元年(260年)、夏の六月、丙辰の日、大将軍の司馬昭の位を相国に進めて、晋公に封じたよ。領地を2郡を増やして封じて、前の領地と合わせて10郡として、さらに九錫の礼を加えたよ。このすべては前の詔のとおりだね。司馬昭の親族や子弟でまだ侯になっていない人はみんな亭侯に封ぜられて、銭を千万と1万匹の布が与えられたよ。でも、司馬昭が固く辞退したから、やめたよ。
己未の日、昔の漢の献帝の夫人の曹節が亡くなったんだ。曹奐は華林園で哀悼して、使持節を送って夫人に「献穆皇后」の諡号を贈らせたよ。葬儀について、車や服の制度はすべて漢の王朝にならったよ。
癸亥の日、尚書右僕射の王観を司空に任命したよ。冬の十月、王観が亡くなったんだ。
十一月,燕王上表賀冬至,稱臣。詔曰:「古之王者,或有所不臣,王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者,降其私親,況所繼者重邪!若便同之臣妾,亦情所未安。其皆依禮典處,當務盡其宜。」
十一月、燕王(曹宇)が冬至を祝う上表をして、臣下と称したよ。詔を下してこう言ったよ。
「昔の王は、ある者に対しては臣下とはしなかったみたいだよ。あなたもこの道理に従うべきだよ。上表で臣と称しないでね。それに、返事も同じようにしてね。そもそも直系を継ぐ者は、自らの親族でも礼に従って格を下げるものだよ。それなのに、継承された立場が重いことを理由に特別視すべきなの? もしそれを臣下や妾と同じように扱うなら、安心できないよ。すべて礼制に従って処理して、適切に対応するように努めるべきだよ」
有司奏,以為「禮莫崇於尊祖,制莫大於正典。陛下稽德期運,撫臨萬國,紹大宗之重,隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬,正位藩服,躬秉虔肅,率蹈恭德以先萬國;其於正典,闡濟大順,所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制,奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表,可聽如舊式。中詔所施,或存好問,準之義類,則『燕覿之敬』也,可少順聖敬,加崇儀稱,示不敢斥,宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至於制書,國之正典,朝廷所以辨章公制,宣昭軌儀於天下者也,宜循法,故曰『制詔燕王』。
役人は奏上してこう言ったよ。
「礼の中で最も重んじるべきは祖先を尊ぶことで、制度の中で最も大切なのは正しい典章を定めることだよ。陛下は徳を広く示して、天命に応じてすべての国を治めて、家を継ぐ重責を担って、三祖(曹操、曹丕、曹叡)の基盤を栄えさせているね。
伏して考えると、燕王(曹宇)は皇族としての尊ぶ立場で、藩王としての位を正しく保って、謙虚な姿勢を守って恭順の徳を率先してすべての国に示したよ。だから、正しい典章を尊重して、大いなる道義を貫くことは、変えられないんだ。朝廷は燕王に対して特別な礼制を設けて、臣下の礼を免ずるべきだよ。私たちの議論によると、燕王の上奏は今までの制度のままがいいと考えるよ。詔を下す時には、相手を尊重する姿勢を示して、礼に適う表現とすべきだよ。これを『燕覿(燕王に対する敬意)』の礼を守って、陛下の敬う心を少しでも示して、称号をさらに尊んで、燕王を軽んじないようにすべきだよ。だから、詔の表現は『皇帝が大王の侍御に敬って問う』とするのがいいよ。制書(詔)とは、国家の正統な典章で、朝廷が公の制を示して天下に礼法の規範を示すためのものだよ。だから、法に従って『制詔燕王』と称するべきだよ。
凡詔命、制書、奏事、上書諸稱燕王者,可皆上平。其非宗廟助祭之事,皆不得稱王名,奏事、上書、文書及吏民皆不得觸王諱,以彰殊禮,加于羣后。上遵王典尊祖之制,俯順聖敬烝烝之心,二者不愆,禮實宜之,可普告施行。」
すべての詔、制書、上奏、上書で燕王(曹宇)についての表記は、いつも平等な形式とすべきで、宗廟(祖先の廟)の助祭に関わる場合以外では、王の名を直接称することは許されないんだ。上奏、上書、文書、役人や民はみんな王の諱を避けなきゃいけないよ。これによって、他の諸侯よりも特別な礼遇を示すんだ。上(皇帝)は王典や祖先を尊ぶ制度を守って、下(臣下)は聖なる敬意に従って誠意を尽くすという、2つの要点を損わないで実行するもので、礼に適ったものだよ。だから、この方針を広く知らせて、実施するようにしてね」
十二月甲申,黃龍見華陰縣井中。甲午,以司隷校尉王祥為司空。
十二月、甲申の日、黄龍が華陰県の井戸の中に現れたんだって。甲午の日、司隷校尉の王祥を司空に任命したよ。
二年夏五月朔,日有蝕之。秋七月,樂浪外夷韓、濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅,趙王幹薨。甲寅,復命大將軍進爵晉公,加位相國,備禮崇錫,一如前詔;又固辭乃止。
景元二年(261年)、夏の五月、朔日に日食があったよ。秋の七月、楽浪からの外国の使者たち、韓や濊貊がそれぞれの仲間を率いて朝廷に貢物を届けたよ。
八月、戊寅の日、趙王の曹幹が亡くなったんだ。甲寅の日、司馬昭の爵位を晋公に進めて、相国の地位を与えて、礼を尽くして爵位と賜物を授ける詔をまた下したけど、司馬昭が固く辞退したからやめたよ。
三年春二月,青龍見於軹縣井中。夏四月,遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢,獻其國弓三十張,長三尺五寸,楛矢長一尺八寸,石砮三百枚,皮骨鐵雜鎧二十領,貂皮四百枚。冬十月,蜀大將姜維寇洮陽,鎮西將軍鄧艾拒之,破維於侯和,維遁走。是歲,詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。
景元三年(262年)、春の二月、青龍が軹県の井戸の中に現れたんだって。
夏の四月、遼東郡から、粛慎国が使者を送って、たくさんの通訳を経て貢物を届けたとの報告があったんだ。粛慎国は自国の弓30張、長さは3尺5寸、楛矢、長さ1尺8寸、石の矢じり300枚、皮と骨と鉄を混ぜて作った鎧20領、貂の皮400枚を献上したよ。
冬の十月、蜀の大将の姜維が洮陽を攻めたけど、鎮西将軍の鄧艾がこれを迎え撃って、侯和で姜維を破って、姜維は逃げ出しちゃった。
この年、詔によって、昔の軍祭酒の郭嘉を曹操の廟の庭で祀るように命令したよ。
蜀を攻める
四年春二月,復命大將軍進位爵賜一如前詔,又固辭乃止。
景元四年(263年)、春の二月、ふたたび司馬昭の位を進めて、爵位と賜物を授けるように前の詔と同じ命令を下したけど、司馬昭が固く辞退したからやめたよ。
夏五月,詔曰:「蜀,蕞爾小國,土狹民寡,而姜維虐用其衆,曾無廢志;往歲破敗之後,猶復耕種沓中,刻剥衆羌,勞役無已,民不堪命。夫兼弱攻昧,武之善經,致人而不至於人,兵家之上略。蜀所恃賴,唯維而已,因其遠離巢窟,用力為易。今使征西將軍鄧艾督帥諸軍,趣甘松、沓中以羅取維,雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都、高樓,首尾踧討。若禽維,便當東西並進,掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。
夏の五月、詔を下してこう言ったよ。
「蜀はすごく小さな国で、土地が狭くて民も少ないよ。なのに、姜維はその民を虐げて、志を捨てなかったんだ。去年に負けた後も、また沓中で農耕を続けていて、羌族を苦しめ続けて、終わりのない労働を強いて、民は耐えられない状況なんだ。そもそも弱い国を攻めるには、その隙を突くのが兵法の重要な点で、敵を追い詰めて主導権を握るのが戦略の上策だね。蜀が頼りとするのは、姜維だけで、彼が本拠地から離れている今こそ、攻撃の好機だよ。今、征西将軍の鄧艾に軍を指揮させて、甘松や沓中に向かって、姜維を捕らえさせよう。同時に、雍州刺史の諸葛緒に軍を指揮させて、武都や高楼に向って前後から攻め立てよう。もし姜維を捕らえれば、そのまま東西から同時に攻め込んで、巴蜀を掃討しよう」
そして、鎮西将軍の鍾会に命令して駱谷から蜀に攻め込ませたよ。
秋九月,太尉高柔薨。冬十月甲寅,復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯,立皇后卞氏,十一月,大赦。
秋の九月、太尉の高柔が亡くなったんだ。冬の十月、甲寅の日、司馬昭 の位を前の詔のとおりにふたたび授けると命令したよ。癸卯の日、皇后として卞氏を立てたよ。十一月、大赦を行ったよ。
自鄧艾、鍾會率衆伐蜀,所至輙克。是月,蜀主劉禪詣艾降,巴蜀皆平。十二月庚戌,以司徒鄭沖為太保。壬子,分益州為梁州。癸丑,特赦益州士民,復除租賦之半。
鄧艾と鍾会が軍を率いて蜀を攻めて、行く先々で勝利したよ! その月、蜀の主の劉禅が鄧艾に降伏して、巴蜀はすべて平定されたよ。
十二月、庚戌の日、司徒の鄭沖を太保に任命したよ。壬子の日、益州を分けて梁州を置いたんだ。癸丑の日、特別に益州の兵や民を許して、租税を半分に減らしたの。
五年乙卯,以征西將軍鄧艾為太尉,鎮西將軍鍾會為司徒。皇太后崩。
景元五年(264年)、乙卯の日、征西将軍の鄧艾を太尉に、鎮西将軍の鍾会を司徒に任命したよ。皇太后が亡くなったんだ。
司馬昭を晋王にする
咸熈元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。甲子,行幸長安。壬申,使使者以璧幣祀華山。是月,鍾會反於蜀,為衆所討;鄧艾亦見殺。二月辛卯,特赦諸在益土者。庚申,葬明元郭后。三月丁丑,以司空王祥為太尉,征北將軍何曾為司徒,尚書左僕射荀顗為司空。己卯,進晉公爵為王,封十郡,并前二十。(註1)
咸熙元年(264年)、春の正月、壬戌の日、檻車で鄧艾が呼び出されたんだ。甲子の日、曹奐は長安に行幸したよ。壬申の日、使者に璧や布を持たせて華山を祀ったよ。
この月、鍾会が蜀で反乱を起こして、討たれたよ。鄧艾も殺されちゃった。
二月、辛卯の日、益州にいる人たちを特別に許したよ。庚申の日、明元郭后が埋葬されたよ。
三月、丁丑の日、司空の王祥を太尉に、征北将軍の何曾を司徒に、尚書左僕射の荀顗を司空に任命したよ。己卯の日、司馬昭の爵位を進めて王となって、10郡が封ぜられて、合わせて20郡になったよ。
漢晉春秋曰:晉公旣進爵為王,太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。顗曰:「相王尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」祥曰:「相國位勢,誠為尊貴,然要是魏之宰相,吾等魏之三公;公、王相去,一階而已,班列大同,安有天子三公可輙拜人者!損魏朝之望,虧晉王之德,君子愛人以禮,吾不為也。」及入,顗遂拜,而祥獨長揖。王謂祥曰:「今日然後知君見顧之重!」
『漢晋春秋』によると、司馬昭が晋公から晋王になると、太尉の王祥、司徒の何曾\か、司空の荀顗はみんな彼のもとを訪れたよ。荀顗はこう言ったよ。
「晋王(司馬昭)は尊くて重い立場にあって、何侯(何曾)をはじめとする朝廷の臣下たちもすでにみんな最大の敬意を払っているよ。今日、私たちはみんなそろって拝礼すべきで、迷うことはないよ」
王祥はこう言ったよ。
「相国(司馬昭)の地位と権勢はとても尊いのは確かだけど、彼は魏の宰相で、私たちは魏の三公だよ。彼との間にはわずか一階の違いしかなくて、官位の序列はほぼ同じだよね。どうして魏の天子の三公が軽々しく人に拝礼するの? それは魏の朝廷の威厳を損なって、晋王(司馬昭)の徳も傷つけることになっちゃうよ。君子は礼によって人を敬うものだよね。私は拝礼しないよ」
彼らが司馬昭の元へ入ると、荀顗は拝礼したけど、王祥は深く礼をするだけにとどめたんだ。これを見た司馬昭は王祥にこう言ったよ。
「今日になって初めて、あなたが私を本当に大切に思っているとわかったの」
丁亥,封劉禪為安樂公。夏五月庚申,相國晉王奏復五等爵。甲戌,改年。癸未,追命舞陽宣文侯為晉宣王,舞陽忠武侯為晉景王。六月,鎮西將軍衞瓘上雍州兵於成都縣獲璧玉印各一,印文似「成信」字,依周成王歸禾之義,宣示百官,藏于相國府。(註2)
丁亥の日、劉禅を安楽公に封じたよ。夏の五月、庚申の日、相国の司馬昭が五等爵(公・侯・伯・子・男)の復活を上奏したよ。甲戌の日、年号を「咸熙」に改めたよ。癸未の日、司馬懿を舞陽宣文侯に、司馬師を舞陽忠武侯に封じると命令したよ。
六月、鎮西将軍の衛瓘が雍州の兵を成都県に送って、玉璧と玉印をそれぞれ1つずつ手に入れたよ。印の文は「成信」の字みたいで、周の{成王|せい|おう]が禾(稲)を返したことに倣って、これを百官に示して、相国の府に収めたんだって。
孫盛曰:昔公孫述自以起成都,號曰成。二玉之文,殆述所作也。
孫盛によると、昔、公孫述は自ら成都で起ち上がって、「成」と名乗ったんだ。2つの玉の文字は、恐らく公孫述が作ったものだろうね。
初,自平蜀之後,吳寇屯逼永安,遣荊、豫諸軍掎角赴救。七月,賊皆遁退。八月庚寅,命中撫軍司馬炎副貳相國事,以同魯公拜後之義。
蜀を平定した後、呉の敵が永安に迫って、荊州と豫州の軍に救援に向かわせたんだ。七月、敵はすべて退却したよ。
八月、庚寅の日、中撫軍の司馬炎を相国の職務を補佐させて、これは魯公(周公旦の子の伯禽)を後に任命した道理に従ったんだって。
鍾会の反乱について
癸巳,詔曰:「前逆臣鍾會構造反亂,聚集征行將士,劫以兵威,始吐姦謀,發言桀逆,逼脅衆人,皆使下議,倉卒之際,莫不驚懾。相國左司馬夏侯和、騎士曹屬朱撫時使在成都,中領軍司馬賈輔、郎中羊琇各參會軍事;和、琇、撫皆抗節不撓,拒會凶言,臨危不顧,詞指正烈。
癸巳の日、詔を下してこう言ったよ。
「前、そむいた臣下の鍾会は反乱を企てて、遠征した将や兵を集めて、兵の威で脅して、初めてそのわるだくみを明かしたんだ。彼は反逆の言葉を口にして、人々を脅して議論に加わらせたけど、みんなびっくりして恐れちゃった。相国の左司馬の夏侯和や、騎士曹属の朱撫は、ちょうど成都にいて、中領軍の司馬の賈輔や、郎中の羊琇も軍事に参加していたんだって。夏侯和、羊琇、朱撫はみんな節を守って屈さないで、鍾会の凶悪な言葉に抵抗して、危機にあっても身を顧みないで、毅然とした態度で正義を貫いたよ。
輔語散將王起,說『會姦逆凶暴,欲盡殺將士』,又云『相國已率三十萬衆西行討會』,欲以稱張形勢,感激衆心。起出,以輔言宣語諸軍,遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵,以彰忠義。其進和、輔爵為鄉侯,琇、撫爵關內侯。起宣傳輔言,告令將士,所宜賞異。其以起為部曲將。」
賈輔は散将の王起に、『鍾会は反逆で凶暴だから、将や士をみんな殺そうとしているんだ』と語って、さらに『相国(司馬昭)はすでに30万の軍を率いて西に進んで、鍾会を討とうとしているよ』と伝えて、形勢をおおげさに言って士気を高めたよ。王起は出て、賈輔の言葉を軍に広めて、将や兵の士気を奮い立たせたの。これらの功績を広めて、忠義をたたえるために、夏侯和と賈輔に郷侯の爵位を、羊琇と朱撫には関内侯の爵位を与えるよ。王起には、賈輔の言葉を将や兵に伝えて励ました功績をほめて、部曲将に任命するね」
癸卯,以衞將軍司馬望為驃騎將軍。九月戊午,以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。
癸卯の日、衛将軍の司馬望を驃騎将軍に任命したよ。九月、戊午の日、中撫軍の司馬炎を撫軍大将軍に任命したよ。
呉の降伏者を受け入れる
辛未,詔曰:「吳賊政刑暴虐,賦斂無極。孫休遣使鄧句,勑交阯太守鎖送其民,發以為兵。吳將呂興因民心憤怒,又承王師平定巴蜀,即糾合豪傑,誅除句等,驅逐太守長吏,撫和吏民,以待國命。九真、日南郡聞興去逆即順,亦齊心響應,與興恊同。興移書日南州郡,開示大計,兵臨合浦,告以禍福;遣都尉唐譜等詣進乘縣,因南中都督護軍霍弋上表自陳。
辛未の日、詔を下してこう言ったよ。
「呉の敵の政治は刑罰がひどくて、税の取り立ても際限なく続いているんだ。孫休は使者の鄧句を送って、交阯太守にその民を縛って送るように命令して、兵として使おうとしたんだって。
呉の将の呂興は民の激しい怒りを利用して、さらに天子の軍が巴蜀を平定した情勢を受けて、豪傑たちを集めて、鄧句たちを責めて殺して、太守や長吏(行政官)を追い払って、役人と民を和らげて、国の命令を待ったんだ。九真郡や日南郡は呂興が逆らう人を追い払うのを聞いて、心をひとつにして応じたよ。呂興は日南の州と郡に手紙を送って、大計を示して、兵を合浦に進めて、その土地の人に災いと幸せを告げたよ。さらに、都尉の唐譜たちを進乗県に送って、南中都督護軍の霍弋を通じて上表させたよ。
又交阯將吏各上表,言『興創造事業,大小承命。郡有山寇,入連諸郡,懼其計異,各有攜貳。權時之宜,以興為督交阯諸軍事、上大將軍、定安縣侯,乞賜褒獎,以慰邊荒』。乃心欵誠,形於辭旨。昔儀父朝魯,春秋所美;竇融歸漢,待以殊禮。今國威遠震,撫懷六合,方包舉殊裔,混一四表。興首向王化,舉衆稽服,萬里馳義,請吏帥職,宜加寵遇,崇其爵位。旣使興等懷忠感恱,遠人聞之,必皆競勸。其以興為使持節、都督交州諸軍事、南中大將軍,封定安縣侯,得以便宜從事,先行後上。」策命未至,興為下人所殺。
そして、交阯の将や役人たちもそれぞれ上表して、『呂興は新たに基盤を築いて、いろいろな命令に従っているよ。でも、郡には山賊が入って、周りの郡とも連携してて、その計略に恐れて、各地で動揺が広がっているんだ。現状に適した対応として、呂興を都督交阯諸軍事、上大将軍に任命して、定安県侯にして、賞を与えて、辺境の民を慰めてほしいんだ』と言っているよ。彼らの心からの忠誠は、言葉の端々にも表れているね。
昔、儀父が魯の朝廷に行ったことは、『春秋』に美しく記されているし、竇融が漢に投降すると、特別な礼遇を受けたんだよ。今はすでに国の威は遠くにまで響き渡って、天下を安定させて、四方を統一しようとしているよ。呂興が王の教えを受け入れて、民を率いて従ったことは、万里を越えて義を掲げて、役人と指揮官の職を求めているのだから、これにふさわしい恩恵と爵位を与えるべきだよね。そうすれば、彼らの忠誠が報われて、喜びを感じるだけでなくて、遠くの人たちもこれを聞いて競って従うようになるね。そこで、呂興を節を与えて、都督交州諸軍事、南中大将軍に任命して、定安県侯に封じて、必要に応じて行動を取って、その後に正式な報告を上げることを許すよ」
でも、この命令が届く前に、呂興は部下に殺されちゃった。
冬十月丁亥,詔曰:「昔聖帝明王,靜亂濟世,保大定功,文武殊塗,勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭,或陳師旅以威暴慢。至於愛民全國,康惠庶類,必先脩文教,示之軌儀,不得已然後用兵,此盛德之所同也。往者季漢分崩,九土顛覆,劉備、孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏,日不暇給,遂使遺寇僭逆歷世。幸賴宗廟威靈,宰輔忠武,爰發四方,拓定庸、蜀,役不浹時,一征而克。
冬の十月、丁亥の日、詔を下してこう言ったよ。
「昔の聖帝や賢明な王たちは、乱を静めて世を救って、国家を守って、大きな功績を成し遂げたよ。文で治めることと武で治めることは異なる方法だけど、その功績は同じだったよ。時には武器を振るって礼を知らない者を教えて、時には軍を動かして横暴や慢心を戒めたよ。でも、民を愛して、国家を安定させて、広く庶民に恩恵を施すためには、まず学問や教育を修めて、法と秩序を示して、やむを得ない時だけ兵を使うのが、偉大な徳を持つ者の共通する点なんだ。
前、漢の末期には分裂が起こって、国の全土が崩壊しちゃって、劉備と孫権はその隙を突いて災いを引き起こしたんだ。三祖(曹操、曹丕、曹叡)は中原を安定させるのに手いっぱいで、彼らの勢力が代を重ねてつけ上がるのを許しちゃったんだ。でも、宗廟(祖先の廟)の威と忠義ある臣下の武功によって、四方に号令を発して、庸(雍州)と蜀を平定できたよ。その戦いは短期間で終わって、一度の遠征で勝利を収めたね!
自頃江表衰弊,政刑荒闇,巴、漢平定,孤危無援,交、荊、揚、越靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡,萬里歸命;武陵邑侯相嚴等糾合五縣,請為臣妾;豫章廬陵山民舉衆叛吳,以助北將軍為號。
最近、江表は衰えて、政治と刑罰が乱れて秩序が失われているんだって。巴や漢が平定されて、呉は孤立していて、援軍も無いんだ。交阯、荊州、揚州、越州はみんな風になびくように従いつつあるよ。今、交阯の偽将の呂興は3つの郡を率いて遠くから従うと申し出たよ。武陵邑侯の相厳たちは5つの県を集めて、臣下となると願い出たよ。豫章と廬陵の山の民も呉に反乱を起こして、「北将軍を助ける」との名目で決起しているんだって。
又孫休病死,主帥改易,國內乖違,人各有心。偽將施績,賊之名臣,懷疑自猜,深見忌惡。衆叛親離,莫有固志,自古及今,未有亡徵若此之甚。若六軍震曜,南臨江、漢,吳會之域必扶老攜幼以迎王師,必然之理也。然興動大衆,猶有勞費,宜告喻威德,開示仁信,使知順附和同之利。
さらに、孫休が病死して、主が交代して、国内は混乱して、人々は心もバラバラになっているんだ。偽将の施績は呉の名高い臣下だけど、疑心暗鬼に陥っていて、深く忌み嫌われているんだって。民も親戚も離れて、決意を持つ者もいなくて、古今を通じて、これほど滅亡の兆しが明確に表れている例はないよね。もし魏がすべての軍を動かして南へ進んで、長江と漢水に進めば、呉と会稽の人たちが老いた人も若い人も天子の軍を迎えるのは必然だね。でも、たくさんの兵を動かすには労力と費用がかかるから、まず威と徳を示して、仁と信を開いて、従う利益を彼らに知らせるべきだよ。
相國參軍事徐紹、水曹掾孫彧,昔在壽春,並見虜獲。紹本偽南陵督,才質開壯;彧,孫權支屬,忠良見事。其遣紹南還,以彧為副,宣揚國命,告喻吳人,諸所示語,皆以事實,若其覺悟,不損征伐之計,蓋廟勝長筭,自古之道也。其以紹兼散騎常侍,加奉車都尉,封都亭侯;彧兼給事黃門侍郎,賜爵關內侯。紹等所賜妾及男女家人在此者,悉聽自隨,以明國恩,不必使還,以開廣大信。」
相国の参軍事の徐紹と、水曹掾の孫彧は、前に寿春で捕虜になったよ。徐紹はもともと呉の南陵督で、才知に優れていて、意志も強いよ。孫彧は孫権の親族で、忠のある良い行いが認められているんだって。そこで、徐紹を南に帰らせて、副官として孫彧を付けて、国の命令を広めて、呉の人たちに告知させるよ。彼らが語ることはすべて事実に基づくもので、呉の民が悟れば、征伐の計画を損なうことはないんだ。これは、戦略を細かく立てて勝利を確実にするという古代からの策略なの。そこで、徐紹には散騎常侍を兼ねさせて、奉車都尉の官位を与えて、都亭侯に封じるよ。孫彧には給事黄門侍郎を兼ねさせて、関内侯の爵位を授けるよ。彼らに与えた側室や、彼らの家族がいる場合、みんな一緒に連れて行くことを許して、国の恩を示すよ。彼らを無理に留める必要はなくて、これによって誠意を広く知らしめるべきだよ」
屯田をやめる
丙午,命撫軍大將軍新昌鄉侯炎為晉世子。是歲,罷屯田官以均政役,諸典農皆為太守,都尉皆為令長;勸募蜀人能內移者,給廩二年,復除二十歲。安彌、福祿縣各言嘉禾生。
丙午の日、撫軍大将軍で新昌郷侯の司馬炎を晋の世子に任命したよ。
この年、屯田官を廃止して、政務と労役を公平にするために調整をしたんだ。すべての典農官を太守にして、典農都尉を県令や県長にしたよ。それに、蜀から移住できる人たちを募集して、2年間の食料を支給して、20年間の税と労役を免除したよ。安彌県と福禄県では、良い稲が育ったとの報告があったんだって。
曹操さんが屯田で置いた役人を、行政の担当に移したよ。
司馬昭の死
二年春二月甲辰,朐䏰縣獲靈龜以獻,歸之于相國府。庚戌,以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆,以至沒身,賜脩弟倚爵關內侯。夏四月,南深澤縣言甘露降。吳遣使紀陟、弘璆請和。
咸熙二年(265年)、春の二月、甲辰の日、朐䏰県で霊亀が見つかって、相国の府に献上されたよ。庚戌の日、虎賁の張脩が昔、成都で馬を駆けて陣営に鐘会の反逆を知らせて、命を失うまで尽力したから、張脩の弟の張倚に関内侯の爵位を与えたよ。
夏の四月、南深澤県で甘露が降ったとの報告があったの。呉は使者の紀陟と弘璆を送って、和議を求めてきたよ。
五月,詔曰:「相國晉王誕敷神慮,光被四海;震燿武功,則威蓋殊荒,流風邁化,則旁洽無外。愍卹江表,務存濟育,戢武崇仁,示以威德。文告所加,承風嚮慕,遣使納獻,以明委順,方寶纖珍,歡以效意。而王謙讓之至,一皆簿送,非所以慰副初附,從其款願也。孫皓諸所獻致,其皆還送,歸之于王,以恊古義。」王固辭乃止。
五月、詔を下してこう言ったよ。
「相国の晋王(司馬昭)は天子の意図を広めて、その恩恵は四海に及んでいるよ。武功を輝かせれば、その威光は遠く異国にまで届いて、良い風習を広めれば、その影響は隅々まで行き渡っているよ。彼は江表の人たちを憐れんで救って、助けて育てることに努めて、武を抑えて仁を尊んで、威徳を示しているよ。文書が届くと、人々はこれを受け入れて心から慕って、使者を送って貢物を納めて、忠誠を示しているよ。その貢物は珍しい宝物や細工品で、心からの敬意を表すものだね。でも、晋王(司馬昭)は謙遜して、すべてを受け取らないで送り返しているんだ。それでは、最初に忠誠を示した人たちの心を慰めることができないの。だから、孫皓が献上した品をすべて送り返して、晋王(司馬昭)に返して、昔からの義を守るべきだよ」
でも、司馬昭が固く辞退したから、やめたよ。
又命晉王冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車、六馬,備五時副車,置旄頭雲䍐,樂舞八佾,設鍾虡宮縣。進王妃為王后,世子為太子,王子、王女、王孫,爵命之號如舊儀。癸未,大赦。秋八月辛卯,相國晉王薨。壬辰,晉太子炎紹封襲位,總攝百揆,備物典冊,一皆如前。
それに、司馬昭に12の旒の冕(天子の冠)、天子の旗を授けて、外出時には警護と通行の合図をして、金根車(天子の馬車)と6頭の馬をつけて、五色の副車を備えて、旄頭と雲䍐(帝の近くにいる兵)を置いて、八佾の楽舞(天子の祭礼舞)をして、鐘や虡(鐘を吊す楽器台)を宮廷の台に置くように命令したよ。さらに、王妃を王后に、世子を太子にして、王子、王女、王孫の爵位や称号も従来の儀礼に従って授けたよ。癸未の日、大赦を行ったよ。
秋の八月、辛卯の日、相国の司馬昭が亡くなったんだ。壬辰の日、晋の太子の司馬炎が領地と王位を引き継いだよ。彼はすべての政務をまとめて、物品や典冊(儀式・記録に関する書物)の制度はすべて前のとおりに整えられたよ。
是月,襄武縣言有大人見,長三丈餘,迹長三尺二寸,白髮,著黃單衣,黃巾,柱杖,呼民王始語云:「今當太平。」九月乙未,大赦。戊午,司徒何曾為晉丞相。癸亥,以驃騎將軍司馬望為司徒,征東大將軍石苞為驃騎將軍,征南大將軍陳騫為車騎將軍。乙亥,葬晉文王。閏月庚辰,康居、大宛獻名馬,歸于相國府,以顯懷萬國致遠之勳。
この月、襄武県で大きな人が現れたとの報告があったんだ。その大人は高さ3丈以上、足跡の長さは3尺2寸で、白髪に黄の単衣をまとって、黄巾を巻いて、杖を持って、「今こそ太平が訪れる」と民の王始に話しかけたんだって。
九月、乙未の日、大赦を行ったよ。戊午の日、司徒の何曾が晋の丞相になったよ。癸亥の日、驃騎将軍の司馬望を司徒に、征東大将軍の石苞を驃騎将軍に、征南大将軍の陳騫を車騎将軍に任命したよ。
乙亥の日、司馬昭の葬儀が行われたんだ。閏月、庚辰の日、康居と大宛(西域の国)から名馬が献上されて、相国の府に収められたよ。これは、すべて国からの敬意と遠くの地からの功績を示すものだね。
禅譲する
十二月壬戌,天祿永終,歷數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊,使使者奉皇帝璽綬冊,禪位于晉嗣王,如漢魏故事。甲子,使使者奉策。遂改次于金墉城,而終館于鄴,時年二十。(註3)
十二月、壬戌の日、天の福が永く終わって、天命が晋に移る時が来たんだ。詔を下して、公卿や士人たちに儀式を整えて南郊に壇を設けさせて、使者に皇帝の璽綬と詔書を授けさせて、晋の司馬炎に帝位を譲るように命令したよ。これは漢や魏の故事に従ったものだよ。甲子の日、使者に詔を授けさせたよ。
その後、曹奐は金墉城に移って、最終的には鄴の宮殿で過ごしたよ。この時、20歳だったんだ。
魏世譜曰:封帝為陳留王。年五十八,大安元年崩,謚曰元皇帝。
『魏世譜』によると、曹奐を陳留王に封じたよ。年は58歳で、大安元年(302年)に亡くなって、諡は「元皇帝」とされたよ。
陳寿の評価
評曰:古者以天下為公,唯賢是與。後代世位,立子以適;若適嗣不繼,則宜取旁親明德,若漢之文、宣者,斯不易之常準也。明帝旣不能然,情繫私愛,撫養嬰孩,傳以大器,託付不專,必參枝族,終於曹爽誅夷,齊王替位。高貴公才慧夙成,好問尚辭,蓋亦文帝之風流也;然輕躁忿肆,自蹈大禍。陳留王恭己南面,宰輔統政,仰遵前式,揖讓而禪,遂饗封大國,作賔于晉,比之山陽,班寵有加焉。
古の時代には、天下は公のもので、ただ賢者にこれを与えたよ。後の時代になると、位を世襲する制度が定まって、正統の子を後継者とするようになったよ。もし正統の後継者が継ぐことができない場合は、傍系の親族から徳の明らかな者を選ぶべきで、これは漢の文帝や宣帝の例のように、変わらない基準だよ。
曹叡はこの道理に従えなくて、私情に囚われて幼子を育てて、皇帝の位を託したよ。託す相手が1人に絞られなくて、曹氏一族の者にも関わらせたから、最終的には曹爽が殺されて、曹芳は廃位に追い込まれたんだ。
曹髦は幼い頃から才気と知恵が優れていて、学問や文辞を好んで、その資質は曹丕の風格を受け継いでいたと言えるね。でも、軽率で感情的になりやすくて、我を抑えられなかったから、自ら大きな災厄を招いたんだ。
曹奐はつつしみ深く皇位に即いて、宰相たちが政務を執る中で、過去の例に従って、謙譲の礼で禅譲を受け入れたよ。そして、大国の封を受けて、晋の客として迎えられたよ。山陽公(漢の献帝)が魏に禅譲したときと比べても、受けた恩恵がさらに増したと言えるね。
「魏書陳留王紀」は以上だよ!