
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹叡 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。
- 正史『三国志』「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1
- 正史『三国志』「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2 ← この記事だよ
出典
三國志 : 魏書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

献帝を弔う
二年春二月乙未,太白犯熒惑。癸酉,詔曰:「鞭作官刑,所以糾慢怠也,而頃多以無辜死。其減鞭杖之制,著于令。」三月庚寅,山陽公薨,帝素服發哀,遣使持節典護喪事。己酉,大赦。夏四月,大疫。崇華殿災。丙寅,詔有司以太牢告祠文帝廟。追謚山陽公為漢孝獻皇帝,葬以漢禮。(註26)
青龍二年(234年)、春の二月、乙未の日、太白(金星)が熒惑(火星)に入ったよ。癸酉の日、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「鞭打ちの刑は怠けたり命令に従わなかったりする者を正すためのものだよ。でも、最近は罪のない者までたくさん死なせてしまっているんだ。そこで、鞭や杖の刑を軽くして、その決まりを書き加えてね」
三月、庚寅の日、山陽公(献帝)が亡くなったんだ。曹叡は白い喪服を着て悲しみを表して、使者に節を持たせて葬儀を取り仕切らせたよ。己酉の日、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
夏の四月、大きな疫病が流行したんだ。それに、崇華殿が火事で焼けちゃった。丙寅の日、曹叡は役人たちに命令して、太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて曹丕の廟に報告の祭りをさせたよ。山陽公に漢孝献皇帝の謚号を贈って、漢の時代の礼に従って葬ったよ。
獻帝傳曰:帝變服,率羣臣哭之,使使持節行司徒太常和洽弔祭,又使持節行大司空大司農崔林監護喪事。詔曰:「蓋五帝之事尚矣,仲尼盛稱堯、舜巍巍蕩蕩之功者,以為禪代乃大聖之懿事也。山陽公深識天祿永終之運,禪位文皇帝以順天命。先帝命公行漢正朔,郊天祀祖以天子之禮,言事不稱臣,此舜事堯之義也。昔放勛殂落,四海如喪考妣,遏密八音,明喪葬之禮同於王者也。今有司奏喪禮比諸侯王,此豈古之遺制而先帝之至意哉?今謚公漢孝獻皇帝。」
『献帝伝』によると、曹叡は喪服に着替えて、たくさんの臣下を率いて献帝の死を悲しんで泣いたよ。そして、使持節で司徒と太常を代行する和洽を使者として弔問と祭りをさせたよ。さらに使持節で大司空と大司農を代行する崔林に葬儀を監督させたよ。曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「五帝の時代のことは、とても尊いものだよ。仲尼(孔子)が堯や舜の大きな功績を強くほめたのは、位をゆずることが聖人のすぐれた行いだからだよ。
山陽公(献帝)は漢の天命が終わる運命を深く理解して、文皇帝(曹丕)に位をゆずって天命に従ったよ。先帝(曹丕)は山陽公に漢の暦を使わせて、天と先祖を天子の礼で祭らせたよ。それに、上奏するときも臣下とは名乗らせなかったよ。これは、昔に舜が堯に仕えた時の道にかなうものだね。
昔、放勲(堯)が亡くなると、天下の人たちは父と母を失ったように悲しんで、音楽も止めたよ。これは、喪に服す礼は王者と同じだったことを示しているよね。でも今、役人たちは『山陽公の喪に服す礼は諸侯王と同じでいい』と上奏しているんだ。それが昔からの制度で、先帝(曹丕)の本当の気持ちなの? 今、山陽公に漢孝献皇帝の謚号を贈るよ」
使太尉具以一太牢告祠文帝廟,曰:「叡聞夫禮也者,反本請吉,不忘厥初,是以先代之君,尊尊親親,戚有尚焉。今山陽公寢疾棄國,有司建言喪紀之禮視諸侯王。叡惟山陽公昔知天命永終於己,深觀歷數允在聖躬,傳祚禪位,尊我民主,斯乃陶唐懿德之事也。黃初受終,命公于國行漢正朔,郊天祀祖禮樂制度率乃漢舊,斯亦舜、禹明堂之義也。上考遂初,皇極攸建,允熈克讓,莫明于茲。
曹叡は、太尉に太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を使って曹丕の廟に報告の祭りをさせて、祝文を書いてこう言ったよ。
「曹叡は聞いているよ。礼というものは、物事の始まりに立ち返って、その最初の心を忘れないためのものだよ。だから昔の君主たちは、身分の高い者を敬って、親族を大切にして、とくに深い思いやりを示したよ。
今、山陽公(献帝)は病気で亡くなって国を去ったんだ。役人たちは『喪に服す礼は諸侯王と同じにすべき』と上奏しているよ。でも、曹叡は思うよ。山陽公は昔、漢の天命が自分の代で終わると知って、天下の運命が聖なる人に移ることを深く見抜いていたよ。そして国をゆずって、位を禅譲して、私たちの君主を大切にしたよ。これは、陶唐(堯)のすぐれた徳と同じような立派な行いだね。
黄初元年(220年)に天命を受け継いだ後も、先帝(曹丕)は山陽公に国で漢の暦を使わせて、天と先祖を祭る礼や音楽、制度も、すべて漢の昔のままにさせたよね。これも、舜や禹が明堂で示した道にかなうものだね。
その始まりをよく考えると、天下の正しい秩序が築かれて、お互いにゆずり合う美しい徳が立派に示されていたんだね。これほど明らかなことはないよ。
蓋子以繼志嗣訓為孝,臣以配命欽述為忠,故詩稱『匪棘其猶,聿追來孝』,書曰『前人受命,茲不忘大功』。叡敢不奉承徽典,以昭皇考之神靈。今追謚山陽公曰孝獻皇帝,冊贈璽紱。命司徒、司空持節弔祭護喪,光祿、大鴻臚為副,將作大匠、復土將軍營成陵墓,及置百官羣吏,車旗服章喪葬禮儀,一如漢氏故事;喪葬所供羣官之費,皆仰大司農。立其後嗣為山陽公,以通三統,永為魏賔。」
そもそも、子が父の志を受け継いで、その教えを守ることが孝で、臣下が天命を受けた君主の意思を敬って受け継ぐことが忠だよ。だから、『詩経』には『いばらがまだ尖っていても、父祖の志を受け継いで、その孝を追い続ける』とあるし、『書経』には『前の人が受けた天命と大きな功績を忘れてはならない』と書かれているんだ。
曹叡も、どうして先人たちの立派な制度を受け継がないでいられるの? 亡き父の霊を明らかに示したいと思うよ。だから今、山陽公に孝献皇帝の謚号を贈って、冊書(正式な任命の文書)と皇帝の印綬を授けるね。司徒と司空に節を持たせて、弔問と葬儀の監督をさせて、光禄勲と大鴻臚にそれを助けさせるよ。将作大匠と復土将軍に陵墓を築かせるよ。さらに、百官や役人たちを置いて、車や旗、服装、葬儀の礼なども、すべて漢の昔の制度どおりにするよ。葬儀に必要な役人たちの費用は、すべて大司農に任せるよ。また、その子孫を山陽公に立てて、三統(王朝のつながり)を保たせて、永遠に魏の客として扱うね」
於是贈冊曰:「嗚呼,昔皇天降戾于漢,俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都,劫遷大駕。于時六合雲擾,姦雄熛起。帝自西京,徂唯求定,臻茲洛邑。疇咨聖賢,聿改乘轅,又遷許昌,武皇帝是依。歲在玄枵,皇師肇征,迄于鶉尾,十有八載,羣寇殲殄,九域咸乂。惟帝念功,祚茲魏國,大啟土宇。
そこで、曹叡は冊書(正式な任命の文書)を贈ってこう言ったよ。
「ああ、昔、天は漢に災いを下して、反逆した臣下の董卓に凶悪な行いをさせたんだ。董卓は都を焼き払って、皇帝をむりやり別の場所へ移したんだ。そのとき天下は大混乱となり、たくさんの英雄たちが各地で立ち上がったよ。皇帝は西京(長安)から、安定した場所を求めて移って、ついに洛邑(洛陽)にたどり着いたよ。そして賢い人々に相談しながら、さらに移動して許昌に移って、武皇帝(曹操)を頼りとしたんだ。歳星(木星)が玄枵に入ってから、皇帝の軍は討伐を始めて、鶉尾の年になるまで18年にわたって戦い続けたよ。こうして、たくさんの敵は滅ぼされて、天下のすべての地域が平和になったね。皇帝は武皇帝の功績を思って、魏の国を与えて、大きな領土を開かせたよ。
爰及文皇帝,齊聖廣淵,仁聲旁流,柔遠能邇,殊俗向義,乾精承祚,坤靈吐曜,稽極玉衡,允膺歷數,度于軌儀,克猒帝心。乃仰欽七政,俯察五典,弗采四嶽之謀,不俟師錫之舉,幽贊神明,承天禪位。祚逮朕躬,統承洪業。
そして文皇帝(曹丕)の時代になると、その聖なる徳と深い知恵は広く行きわたって、仁の評判は四方へ広がったよ。遠くの国の人たちにはやさしく接して、近くの人たちには親しく向き合ったから、異なる習慣を持つ人たちまでもが正しい道へ従うようになったよ。天の気は皇位を受け継ぐしるしを示して、大地もまた光り輝くめでたいしるしを現したんだ。さらに天の運行を調べて、玉衡(星の位置を測るもの)を考え合わせると、まさに天命は文皇帝(曹丕)に与えられていることが明らかだったんだ。その行いは礼や制度にもよくかなっていて、皇帝の心にも十分にかなっていたよ。
そこで文皇帝(曹丕)は、天の動きを敬って見上げて、昔の教えをよく調べたよ。しかも、四嶽(古代の大臣たち)の相談を待たないで、それに人々が正式に位をゆずるようすすめるのを待つこともなかったよ。神々の助けを受けながら、天の命令に従って皇位をゆずられたんだね。そしてその皇位は、今、私の身に受け継がれて、大きな事業を引き継ぐことになったよ。
蓋聞昔帝堯,元愷旣舉,凶族未流,登舜百揆,然後百揆時序,內平外成,授位明堂,退終天祿,故能冠德百王,表功高嶽。自往迄今,彌歷七代,歲曁三千,而大運來復,庸命底績,纂我民主,作建皇極。念重光,紹咸池,繼韶夏,超羣后之遐蹤,邈商、周之慙德,可謂高朗令終,昭明洪烈之懿盛者矣。
昔の堯の時代、すぐれた賢人たちを活かしても、まだ悪い一族は完全にはおさまっていなかったんだ。でも、舜が多くの政治を任されるようになると、政治は整って、内も外も平和になったよ。そして明堂で正式に帝位を受け継いで、最後には天命を全うしたんだ。だから、堯は歴代の王たちの中でも特にすぐれた徳を持つ者とされて、その功績は高い山のように大きいと言われているよ。
それから今まで7つの王朝が移り変わって、だいたい3,000年が過ぎたよ。そして今、ふたたび大きな天命の巡りが訪れて、立派な功績を成し遂げて、私たちの君主が天下を受け継いで、天下の中心となる皇位を築いたんだ。それに、先人たちの光り輝く功績を思って、咸池という音楽を受け継いで、韶夏という昔の立派な音楽も引き継いだよ。その功績は、昔の王たちの遠い足跡をも超えて、殷や周の王たちでさえ恥じ入るくらいの徳だったの。本当に明るくて立派な終わりを迎えて、大きな功績をはっきりと世に示した、すばらしく盛んな政治だったと言えるね。
非夫漢、魏與天地合德,與四時合信,動和民神,格于上下,其孰能至於此乎?朕惟孝獻享年不永,欽若顧命,考之典謨,恭述皇考先靈遺意,闡崇弘謚,奉成聖美,以章希世同符之隆,以傳億載不朽之榮。魂而有靈,嘉茲弘休。嗚呼哀哉!」
もし漢と魏が、天地と同じ徳を持って、四季のめぐりのように確かな信義を備えて、民や神を調和させて、天と地のすべてにその力を及ぼしていなければ、どうしてこのような大きなことを成し遂げられたの?
私は、孝献皇帝は長生きできなかったけど、その遺した命令をうやまって、昔の書物や教えをよく考えて、亡き父の遺志を慎んで受け継ぎたいんだ。そして、立派な謚をさらに高めて、その聖なる美徳を完成させて、めったにない大きな栄光を世に明らかにして、永遠に朽ちない名誉として後の世へ伝えたいんだ。もし魂に霊があるなら、この大きな栄誉を喜んでくれるだろうね。ああ、なんて悲しいの!」
八月壬申,葬于山陽國,陵曰禪陵,置園邑。葬之日,帝制錫衰弁絰,哭之慟。適孫桂氏鄉侯康,嗣立為山陽公。
八月、壬申の日、孝献皇帝は山陽国に葬られたよ。その陵墓は禅陵と名づけられて、墓を守るための村も置かれたよ。葬儀の日、曹叡は喪服と弔いの冠を身につけて、声をあげて泣いて悲しんだの。孫にあたる桂氏郷侯の劉康が後を継いで、新しい山陽公となったよ。
蜀と呉が攻めてくる
是月,諸葛亮出斜谷,屯渭南,司馬宣王率諸軍拒之。詔宣王:「但堅壁拒守以挫其鋒,彼進不得志,退無與戰,乆停則糧盡,虜略無所獲,則必走矣。走而追之,以逸待勞,全勝之道也。」(註27)
この月、諸葛亮は斜谷から兵を出して、渭水の南に陣を置いたよ。対して、司馬懿はたくさんの軍を率いてこれを防いだよ。曹叡は司馬懿に詔を下してこう言ったよ。
「ただ堅い守りをして城壁を守って、敵の勢いを弱めるべきだよ。敵は進んでも思うように戦えないし、退こうとしても戦う相手がいないよ。長くその場にとどまれば、食糧が尽きて、奪っても得られるものもなくなるから、敵は必ず逃げ出すだろうね。そして敵が逃げたところを追いかければ、こちらは疲れていなくて、相手は疲れている。これこそ、完全に勝つための方法だよ」
魏氏春秋曰:亮旣屢遣使交書,又致巾幗婦人之飾,以怒宣王。宣王將出戰,辛毗杖節奉詔,勒宣王及軍吏已下,乃止。宣王見亮使,唯問其寢食及其事之煩簡,不問戎事。使對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十已上,皆親覽焉;所啖食不過數升。」宣王曰:「亮體斃矣,其能久乎?」
『魏氏春秋』によると、諸葛亮は、何度も使者を送って手紙をやり取りして、さらに女性の頭巾や飾りまで送りつけて、司馬懿を怒らせようとしたよ。司馬懿は怒って出撃しようとしたけど、辛毗が節を持って、詔を伝えに来たよ。辛毗は、司馬懿や軍の役人たちを止めたんだ。
司馬懿は諸葛亮の使者に会って、戦いについては何も尋ねないで、ただ「普段どのように寝起きしているの?」「仕事は多いの? 少ないの?」と聞いたよ。使者はこう答えたよ。
「諸葛公(諸葛亮)は朝早くから夜遅くまで働いているよ。20回以上の鞭打ち刑になるようなことでも、すべて自分で目を通しているんだ。食事はわずか数升くらいしか食べないんだ」
司馬懿はこう言ったよ。
「諸葛亮は、もう体を疲れ果てさせているよ。長くは持たないだろうね」
五月,太白晝見。孫權入居巢湖口,向合肥新城,又遣將陸議、孫韶各將萬餘人入淮、沔。六月,征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵縣據略陽,終以破隗囂,先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。縱權攻新城,必不能拔。勑諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」
五月、太白(金星)が昼に見えたんだ。
孫権は巣湖口に入って、合肥新城に向かったよ。さらに、将の陸議(陸遜)と孫韶にも、それぞれ1万人以上の兵を率いさせて、淮河や沔水へ入らせたんだ。
六月、征東将軍の満寵が軍を進めて、これを防ごうとしたよ。満寵は、「合肥新城の守りを引きあげて、敵を寿春まで引き寄せて戦うべきだよ」と言ったけど、曹叡は聞き入れなくて、こう言ったよ。
「昔、漢の光武帝(劉秀)は兵を送って略陽をおさえて、ついには隗囂を打ち破ったよ。それに、先帝(曹丕)も東では合肥を置いて、南では襄陽を守って、西には祁山を固めたんだ。敵が来ると、必ずこの3つの城の下で打ち破ったよ。そこが必ず争うべき重要な土地だからだね。たとえ孫権が合肥新城を攻めても、必ず落とせないよ。将たちにしっかり守るように命令してね。私自身も向かうけど、着くころには孫権は逃げているだろうね」
秋七月壬寅,帝親御龍舟東征,權攻新城,將軍張頴等拒守力戰,帝軍未至數百里,權遁走,議、韶等亦退。羣臣以為大將軍方與諸葛亮相持未解,車駕可西幸長安。帝曰:「權走,亮膽破,大將軍以制之,吾無憂矣。」遂進軍幸壽春,錄諸將功,封賞各有差。八月己未,大曜兵,饗六軍,遣使者持節犒勞合肥、壽春諸軍。辛巳,行還許昌宮。
秋の七月、壬寅の日、曹叡は龍舟に乗って東へ軍を進めたよ。そのころ孫権は合肥新城を攻めていたけど、将軍の張頴たちがしっかり守って激しく戦ったよ。曹叡の軍はまだ数百里も離れているうちに、孫権は逃げて、陸議や孫韶たちも同じように退却したよ。
たくさんの臣下は「大将軍(司馬懿)は今、まだ諸葛亮とにらみ合っていて、まだ勝負ついていないんだ。だから、曹叡は西の長安に向かうべき」と考えたんだ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「孫権が逃げたから、諸葛亮も恐れているはず。大将軍(司馬懿)が彼を抑えるから、私は心配していないよ」
そしてそのまま軍を進めて寿春に行って、将たちの功績を記録して、それぞれの功績に応じて賞を与えたよ。
八月、己未の日、大規模な軍事演習をして、全軍の兵をねぎらう宴を開いたよ。さらに、使者に節を持たせて、合肥や寿春の軍をねぎらわせたよ。辛巳の日、曹叡は許昌宮に帰ったよ。
司馬宣王與亮相持,連圍積日,亮數挑戰,宣王堅壘不應。會亮卒,其軍退還。
司馬懿は諸葛亮と長くにらみ合って、お互いに包囲したままの日々が続いていたんだ。諸葛亮は何度も戦いをしかけたけど、司馬懿の陣はしっかり守って、戦いに応じなかったんだ。諸葛亮が亡くなって、その軍は退いて帰ったよ。
冬十月乙丑,月犯鎮星及軒轅。戊寅,月犯太白。十一月,京都地震,從東南來,隱隱有聲,搖動屋瓦。十二月,詔有司刪定大辟,減死罪。
冬の十月、乙丑の日、月が鎮星(土星)と軒轅の星に近づいたよ。戊寅の日、月が太白(金星)に近づいたんだ。十一月、都で地震が起こったよ。揺れは東南から来たみたいで、低くうなるような音が響いて、屋根の瓦が揺れたんだって。
十二月、曹叡は詔を下して、役人たちに死刑に関する法を見直して整理させて、死罪を減らしたよ。
宮殿を改築する
三年春正月戊子,以大將軍司馬宣王為太尉。己亥,復置朔方郡。京都大疫。丁巳,皇太后崩。乙亥,隕石于壽光縣。三月庚寅,葬文德郭后,營陵于首陽陵澗西,如終制。(註28)
青龍三年(235年)、春の正月、戊子の日、大将軍の司馬懿を太尉に任命したよ。己亥の日、朔方郡をふたたび置いたよ。都では大きな疫病が流行したんだ。丁巳の日、皇太后が亡くなったんだ。乙亥の日、寿光県に隕石が落ちたよ。
三月、庚寅の日、文徳郭后(郭氏)を葬ったよ。陵墓は首陽陵(曹丕の墓)の谷の西に築かれて、亡くなった後の決まり(終制)に従ったよ。
顧愷之啟蒙注曰:魏時人有開周王冢者,得殉葬女子,經數日而有氣,數月而能語;年可二十。送詣京師,郭太后愛養之。十餘年,太后崩,哀思哭泣,一年餘而死。
顧愷之の『啓蒙注』によると、魏の時代、ある人が周の王の墓を掘って開けたんだ。王と一緒に埋葬された女性が見つかったよ。数日後、彼女は息を吹き返して、数ヶ月後には話せるようになったんだって。その女性は20歳ぐらいに見えたんだ。彼女は都に送られて、郭太后に大切に育てられたよ。でも10年以上が経って、郭太后が亡くなると、その女性は悲しんで泣き続けたんだ。そして1年後くらいに、その女性も亡くなったよ。
是時,大治洛陽宮,起昭陽、太極殿,築緫章觀。百姓失農時,直臣楊阜、高堂隆等各數切諫,雖不能聽,常優容之。(註29)
このとき、曹叡は洛陽宮を大きく整えたよ。昭陽殿や太極殿を建てて、緫章観という高い建物も作ったよ。だから、民は農業をする時間を失ったんだ。楊阜や高堂隆たちが「こんな大工事を続けるべきではないよ」と何度も強くいさめたけど、曹叡は聞き入れなかったんだ。それでも、曹叡は彼らを罰しないで、丁寧に扱ったよ。
魏略曰:是年起太極諸殿,築緫章觀,高十餘丈,建翔鳳於其上;又於芳林園中起陂池,楫櫂越歌;又於列殿之北立八坊,諸才人以次序處其中,貴人夫人以上轉南附焉,其秩石擬百官之數。帝常游宴在內,乃選女子知書可付信者六人,以為女尚書,使典省外奏事,處當畫可,自貴人以下至尚保,及給掖庭灑掃,習伎歌者,各有千數。
『魏略』によると、この年、曹叡は太極殿などたくさんの建物を建てて、緫章観を築いたよ。その高さは十数丈もあって、上には飛ぶ鳳凰の飾りを置いたよ。それに、芳林園の中には大きな池を作って、船を浮かべて、こぎ手たちに歌を歌わせたんだって。
さらに、たくさん並ぶ宮殿の北側には八坊という建物群を作って、才能のある女性たちを順番に住まわせたよ。貴人や夫人たちは、その南側に移されたよ。彼女たちの位の数は、役人たちの位にならって決められていたよ。
曹叡はいつも宮殿の中で遊びや宴会をしていて、文字を読める女性の中から、信頼できる6人を選んで、女尚書に任命したよ。彼女たちは、外から届く報告を管理し、どう処理するかを決めていたの。それに、貴人より下の女性たちから、宮中を守る役目の者、後宮の掃除をする者、歌や芸を練習する者まで、それぞれ1,000人以上もいたんだって。
通引穀水過九龍殿前,為玉井綺欄,蟾蜍含受,神龍吐出。使博士馬均作司南車,水轉百戲。首建巨獸,魚龍曼延,弄馬倒騎,備如漢西京之制,築閶闔諸門闕外罘罳。
穀水の流れを引いて、九龍殿の前を通らせて、美しい玉の井戸や飾り付きの手すりを作って、ヒキガエルの形をした像が水を飲み込んで、神龍の像が水を吐き出すようにしたよ。
さらに、曹叡は博士の馬均に命令して、司南車といういつも南を指す特別な車や、水転百戯という水の力で動くさまざまな見世物を作らせたんだ。
そこには巨大な獣や、魚や龍がくねくねと動く仕掛け、馬の芸、逆さ乗りなどの芸もあって、漢の長安の豪華な仕組みをまねしたよ。宮廷の正門や他の門の外にも美しい装飾をしたよ。さらに、閶闔門などの門や、その外側の柵も築いたよ。
歲太子舍人張茂以吳、蜀數動,諸將出征,而帝盛興宮室,留意於玩飾,賜與無度,帑藏空竭;又錄奪士女前已嫁為吏民妻者,還以配士,旣聽以生口自贖,又簡選其有姿首者內之掖庭,乃上書諫曰:「臣伏見詔書,諸士女嫁非士者,一切錄奪,以配戰士,斯誠權時之宜,然非大化之善者也。臣請論之。陛下,天之子也,百姓吏民,亦陛下之子也。禮,賜君子小人不同日,所以殊貴賤也。吏屬君子,士為小人,今奪彼以與此,亦無以異於奪兄之妻妻弟也,於父母之恩偏矣。
太子舎人(太子の身近に仕える者)の張茂は上書して意見をしたよ。
呉や蜀が何度も攻めてきたから、将たちがに兵を出していたんだ。でも、曹叡は宮殿を建てるのに熱心で、ぜいたくな飾りに心を向けて、賞を限りなく与えていたよ。だから、国の財産庫は空になりかけていたんだ。
それに、役人や民の妻となっていた女性たちまで取り上げて、兵たちの妻にしようとしていたよ。しかも、金や奴隷を出せば身請けできることにした一方で、美しい女性は選び出して後宮へ入れていたんだ。
だから、張茂は上書してこう言ったよ。
「私は詔を読んで、兵ではない人に嫁いだ女性をすべて取り上げて戦う兵たちの妻にするという命令を知ったよ。これは、今の非常時には役立つ方法かもしれないけど、、国を正しく治める立派なやり方ではないんだ。私は、このことについて意見を伝えるね。陛下は天の子で、民や役人もまた、陛下の子だよ。礼の教えでは、身分の高い人と低い人への賞を同じ日に与えないのは、身分の違いをはっきりさせるためだよ。役人は身分の高い者、兵は低い者とされているよ。なのに今、あちらから妻を奪ってこちらへ与えるのでは、『兄の妻を奪って弟の妻にする』のと変わらないよね。それでは、父母が子を平等に愛する道にもそむいてしまうんだ。
又詔書聽得以生口年紀、顏色與妻相當者自代,故富者則傾家盡產,貧者舉假貸貰,貴買生口以贖其妻;縣官以配士為名而實內之掖庭,其醜惡者乃出與士。得婦者未必有懽心,而失妻者必有憂色,或窮或愁,皆不得志。夫君有天下而不得萬姓之懽心者,尠不危殆。
さらに詔書では、年齢や顔立ちが妻と同じくらいの奴隷を差し出せば、その妻の代わりにしてよいと定められているんだ。だから、金のある人たちは家の財産をほとんど使い果たして、貧しい人たちは借金までして、妻を取り戻すために高い値段で奴隷を買ったよ。でも、県の役人は、兵に妻を与えるためと言いながら、実際には美しい女性を後宮へ入れていたんだ。そして、見た目のよくない女性だけを兵たちに与えていたの。妻をもらった兵たちも、必ずしも喜んではいないんだ。一方、妻を奪われた人たちは、深く悲しんで、苦しんでいるよ。ある者は貧しさに苦しんで、ある者は悲しみに沈んで、みんなが心の中に不満を抱えているよ。そもそも、天下を治める君主なのに、たくさんの民の喜びを得られない者で、国が危うくならなかった例はほとんどないよね。
且軍師在外數千萬人,一日之費非徒千金,舉天下之賦以奉此役,猶將不給,況復有宮庭非員無錄之女,椒房母后之家賞賜橫興,內外交引,其費半軍。昔漢武帝好神仙,信方士,掘地為海,封土為山,賴是時天下為一,莫敢與爭者耳。自衰亂以來,四五十載,馬不捨鞍,士不釋甲,每一交戰,血流丹野,創痍號痛之聲于今未已。
しかも、外には何千万もの軍勢がいて戦っているよ。軍の一日分の費用だけでも千金以上も必要で、天下中から集めた税を使っても、まだ足りないくらいなんだ。なのに宮中には決まった役目も記録もない女性たちが大勢いて、皇后やその一族への賞も次々に贈られていて、宮中と外の人々が結びついて利益を得ていて、その出費は軍の費用の半分にもなるくらいだよ。
昔、漢の武帝は仙人や不老不死の術を好んで、方士たちの言葉を信じたよ。そして、地面を掘って海を作って、土を盛って山を築いたんだ。でも、このときは天下が統一されていて、武帝に逆らう者はいなかったからこそ、大きな問題にならなかったんだ。
世の中が乱れてからすでに40から50年が経ったけど、人々は馬から鞍を外す暇もなくて、兵たちは鎧を脱ぐこともなかったよ。戦いが起こるたびに、血が赤く野を染めて、たくさんの人が傷ついて苦しんで叫ぶ声は、今になってもまだやんでいないんだ。
猶彊寇在疆,圖危魏室。陛下不兢兢業業,念崇節約,思所以安天下者,而乃奢靡是務,中尚方純作玩弄之物,炫燿後園,建承露之盤,斯誠快耳目之觀,然亦足以騁寇讎之心矣。惜乎,舍堯舜之節儉,而為漢武之侈事,臣竊為陛下不取也。
今もまだ強い敵が国境に迫っていて、魏の国を脅かそうとしているの。このようなときだから、陛下(曹叡)は慎重に政治をして、ぜいたくを控えて、どうすれば天下が安定するかを考えるべきだよ。でも、実際にはぜいたくばかりに心を奪われているように見えるよ。宮中の尚方では遊びや飾りのための品物ばかりを作らせて、それらで後宮を華やかに飾り立てているよね。承露盤という露を受ける大きな皿(漢の武帝によって造られた盤)まで作らせたんだ。
確かにこれらは見る人の目と耳を楽しませるものだけど、同時に敵の思いを強めることにもなるんだ。本当に残念だよ。堯や舜のような質素で節約を大切にする政治を捨てて、漢の武帝みたいなぜいたくな政治をまねているなんて。私は、それは陛下の取るべき道ではないと思っているよ。
願陛下沛然下詔,萬幾之事有無益而有損者悉除去之,以所除無益之費,厚賜將士父母妻子之飢寒者,問民所疾而除其所惡,實倉廩,繕甲兵,恪恭以臨天下。如是,吳賊面縛,蜀虜輿櫬,不待誅而自服,太平之路可計日而待也。
どうか陛下(曹叡)、大きな決意をもって詔を出してほしいんだ。そして、たくさんの政治の中で、役に立たないばかりか害になるものは、すべて取りやめてね。
そのような無駄な出費をやめてできた金で、戦っている将や兵たちの父や母、妻や子のうち、飢えや寒さに苦しむ人たちを手厚く助けてほしいんだ。そして、民が何に苦しんでいるのかを尋ねて、その人々が嫌がっていることを取り除いてね。倉庫には食料を満たして、武器や鎧を整えて、慎み深く天下に向き合ってほしいんだ。このようにすれば、呉の敵は縄で手を縛って降伏して、蜀の敵も棺を車に乗せて降伏して、戦わないでも相手は自ら従ってくるだろうね。太平の世は指折り数えて待てるくらい近くなるはず。
陛下可無勞神思於海表,軍師高枕,戰士備員。今羣公皆結舌,而臣所以不敢不獻瞽言者,臣昔上要言,散騎奏臣書,以聽諫篇為善,詔曰:『是也』,擢臣為太子舍人;且臣作書譏為人臣不能諫諍,今有可諫之事而臣不諫,此為作書虛妄而不能言也。臣年五十,常恐至死無以報國,是以投軀沒身,冒昧以聞,惟陛下裁察。」書通,上顧左右曰:「張茂恃鄉里故也。」以事付散騎而已。茂字彥林,沛人。
そうなれば陛下(曹叡)は、遠い海の向こうの敵国についてまで心を悩ませる必要はなくなるし、軍を率いる将たちも安心して休むことができるし、兵たちも十分に備えを整えられるよ。
今、たくさんの公卿が恐れて口を閉ざしているけど、それでも私が、つたない意見を伝えるのには理由があるよ。私は前に、政治について大切な意見を書いて提出したよ。散騎侍郎が私の書を取り上げて、『いさめをよく聞くことについて書かれた部分がすばらしい』と言ったよ。すると陛下は『そのとおりだね』と言って、私を特別に選んで太子舎人(太子の身近に仕える者)にしてくれたよ。
それに私は前に、臣下なのに主君を正しくいさめない者を批判する文章まで書いたよ。なのに今、いさめるべきことがあるのに私が何も言わなければ、あの文章は口先だけの偽りだったことになっちゃうし、言うべきことを言えない人になってしまうんだ。私は50歳で、国に恩返しもできないまま死んでしまうのではないかと、いつも恐れているの。だから、自分の身を危険にさらしてでも、失礼を承知で伝えたよ。どうか陛下、判断してね」
この上書が届くと、曹叡は周りを見回してこう言ったよ。
「張茂は、私と同じ故郷だから遠慮しないで言ってくるんだ」
そして、その件を散騎侍郎に任せて、特別な対応はしなかったんだ。
張茂は、字は彦林で、沛の出身だよ。
秋七月,洛陽崇華殿災,八月庚午,立皇子芳為齊王,詢為秦王。丁巳,行還洛陽宮。命有司復崇華,改名九龍殿。冬十月己酉,中山王衮薨。壬申,太白晝見。十一月丁酉,行幸許昌宮。(註30)(註31)(註32)(註33)
秋の七月、洛陽の崇華殿が火事になっちゃった。
八月、庚午の日、皇子の曹芳を斉王、曹詢を秦王に立てたよ。丁巳の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。命令を下して、役人たちに崇華殿を立て直させて、その名を九龍殿に改めたよ。
冬の十月、己酉の日、中山王の曹袞が亡くなったんだ。壬申の日、太白(金星)が昼に見えたんだって。
十一月、丁酉の日、曹叡は許昌宮に行ったよ。
魏氏春秋曰:是歲張掖郡刪丹縣金山玄川溢涌,寶石負圖,狀象靈龜,廣一丈六尺,長一丈七尺一寸,圍五丈八寸,立于川西。有石馬七,其一仙人騎之,其一羈絆,其五有形而不善成。有玉匣關蓋於前,上有玉字,玉玦二,璜一。麒麟在東,鳳鳥在南,白虎在西,犧牛在北,馬自中布列四面,色皆蒼白。其南有五字,曰「上上三天王」;又曰「述大金,大討曹,金但取之,金立中,大金馬一匹在中,大吉開壽,此馬甲寅述水」。凡「中」字六,「金」字十;又有若八卦及列宿孛彗之象焉。
『魏氏春秋』によると、この年、張掖郡刪丹県にある金山の玄川があふれたんだ。すると、そこから不思議な宝石が現れたよ。その宝石には図があって、霊亀(めずらしい亀)みたいなんだって。大きさは幅が1丈6尺、長さが1丈7尺1寸、周囲が5丈8寸で、川の西に立っていたよ。
それに、石でできた馬が7つあったよ。そのうち1つには仙人が乗っていて、別の1つには繋がれた跡があって、残りの5つも馬の形をしているけど、はっきりとは作られていないんだ。
さらに前には、ふたのついた玉の箱があって、その上には玉でできた文字が刻まれてるよ。玉玦という玉の輪が2つ、璜という半円形の玉が1つあるよ。東に麒麟、南に鳳凰、西に白虎、北に牛があって、中央には馬が置かれていて、四方を囲むように並んでいるよ。その色はすべて青白いんだって。
その南には5つの文字があって、「上上三天王」と書かれているよ。それに、「述大金、曹を大きく討つ。金はただこれを取る。金は中央に立つ。大金の馬一匹が中央にあって、大吉にして長寿が開かれる。この馬は甲寅に水を述べる」といった文字もあるよ。特に「中」の字は6回、「金」の字は10回も出てきたよ。さらに、その宝石には八卦のような模様や、星座、ほうき星のような形も描かれているんだって。
世語曰:又有一雞象。
『世語』によると、鶏のようなものもあったよ。
搜神記曰:初,漢元、成之世,先識之士有言曰,魏年有和,當有開石於西三千餘里,繫五馬,文曰「大討曹」。及魏之初興也,張掖之柳谷,有開石焉,始見於建安,形成於黃初,文備於太和,周圍七尋,中高一仞,蒼質素章,龍馬、麟鹿、鳳皇、仙人之象,粲然咸著,此一事者,魏、晉代興之符也。
『搜神記』によると、昔、漢の元帝(前49~33年)から成帝(前33~前7)の時代、先のことをよく見通せる人たちは、こう言ったよ。
「魏の時代に和という年号のころになると、西の3,000里くらいの地で石が現れるよ。その医師には5頭の馬が繋がれていて、『曹を大きく討つ』という文字が現れるだろうね」
そして、魏の時代が始まると、張掖の柳谷にその石が現れたんだ。建安の年号の間(196~220年)に初めて現れて、黄初の年号の間(220~226年)に形が整って、太和の年号の間(227~233年)に模様や文字がすべてそろったんだって。
その石は周囲が7尋、中央の高さが1仞、青色の石肌に白い模様が浮かび上がって、龍や馬、麒麟や鹿、鳳凰、仙人などの姿が、はっきりと美しく現れていたんだ。そして、この不思議な出来事は、魏と晋が交代して栄える前ぶれだった、とされているんだって。
至晉泰始三年,張掖太守焦勝上言,以留郡本國圖校今石文,文字多少不同,謹具圖上。桉其文有五馬象,其一有人平上幘,執戟而乘之,其一有若馬形而不成,其字有「金」,有「中」,有「大司馬」,有「王」,有「大吉」,有「正」,有「開壽」,其一成行,曰「金當取之」。
晋の泰始三年(267年)、張掖太守(郡の長官)の焦勝は上奏してこう言ったよ。
「郡に昔から伝わっていた図と、今ある石の文字を比べてみたところ、文字の数や内容に違いがあるよ。そこで、詳しい図を作って提出するね」
その石の文様には、5頭の馬の姿があるよ。そのうちの1つには人が乗っていて、その人は平上幘という頭巾をかぶって、戟を持って馬に乗っていたよ。
また別の1つは馬の形をしているけど、はっきり完成してはいないんだ。
石に刻まれていた文字は、「金」「中」「大司馬」「王」「大吉」「正」「開寿」などだよ。さらに、一列に並んだ文字として、「金はまさにこれを取るべし」と書かれていたよ。
漢晉春秋曰:氐池縣大柳谷口夜激波涌溢,其聲如雷,曉而有蒼石立水中,長一丈六尺,高八尺,白石畫之,為十三馬,一牛,一鳥,八卦玉玦之象,皆隆起,其文曰「大討曹,適水中,甲寅」。帝惡其「討」也,使鑿去為「計」,以蒼石窒之,宿昔而白石滿焉。至晉初,其文愈明,馬象皆煥徹如玉焉。
『漢晋春秋』によると、氐池県の大柳谷口で、夜に激しい波がわき上がり、水があふれ出したんだ、その音は雷みたいだったんだって。夜が明けると、水の中に青い大きな石が立ってたよ。その石は、長さが1丈6尺、高さが8尺で、白い石の模様で絵が描かれているんだ。そこには、13頭の馬、1頭の牛、1羽の鳥、さらに八卦や玉玦の形などが浮かび上がっており、すべて盛り上がるように刻まれていたよ。
文字には「曹を大きく討つ、水の中に至る、甲寅」と書かれているよ。
曹叡は「討」の文字を嫌って、それを「計」に彫り直させて、その上を青い石でふさがせたよ。でも、一晩経つと、また白い石の文字がいっぱいに浮かび上がってきたの。
そして晋の初めごろ、その文字はさらにくっきりと現れて、馬の姿も玉のように美しく輝いて見えたんだって。
罪は慎重に裁くべし
四年春二月,太白復晝見,月犯太白,又犯軒轅一星,入太微而出。夏四月,置崇文觀,徵善屬文者以充之。五月乙卯,司徒董昭薨。丁巳,肅慎氏獻楛矢。
青龍四年(236年)、春の二月、太白(金星)がまた昼に見えて、さらに月が太白に近づいて、また軒轅の第一星にも近づいて、太微に入って出ていったよ。
夏の四月、崇文観を置いて、文章を作るのが得意な人々を広く集めて、そこに入れたよ。
五月、乙卯の日、司徒の董昭が亡くなったんだ。丁巳の日、粛慎氏が楛矢(楛という木でできた矢)を捧げたよ。
六月壬申,詔曰:「有虞氏畫象而民弗犯,周人刑錯而不用。朕從百王之末,追望上世之風,邈乎何相去之遠?法令滋章,犯者彌多,刑罰愈衆,而姦不可止。往者桉大辟之條,多所蠲除,思濟生民之命,此朕之至意也。而郡國斃獄,一歲之中尚過數百,豈朕訓導不醇,俾民輕罪,將苛法猶存,為之陷穽乎?
六月、壬申の日、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「有虞氏(舜)の時代には、罪を絵で示すだけで、人々は罪を犯さなかったよ。周の時代には、刑罰を使わなくても世の中がよく治まっていたんだって。
私は、たくさんの王たちより後の時代に生きる者として、遠い昔の理想の政治を思い浮かべて、その時代とはなんて遠く離れてしまったの。法と命令はますます細かく増えているのに、罪を犯す者はかえって多くなっているし、刑罰も重く数多くなっているのに、悪事を止められないんだ。
前に、私は死刑にあたる法を調べて、多くを軽くしたり取りやめたりしたよ。民の命を救いたいと考えたからで、それが私の本当の願いだったの。なのに、郡や国で牢獄で死ぬ人は、1年のうちに数百人を超えているんだ。これは私の教えが足りなくて、民に罪を軽く考えさせたからなの? それとも、厳しい法がまだ残っていて、その結果として人々を落とし穴にはめるように苦しませてしまうからなの?
有司其議獄緩死,務從寬簡,及乞恩者,或辭未出而獄以報斷,非所以究理盡情也。其令廷尉及天下獄官,諸有死罪具獄以定,非謀反及手殺人,亟語其親治,有乞恩者,使與奏當文書俱上,朕將思所以全之。其布告天下,使明朕意。」
役人は裁判をするときには、死刑をできるだけ軽くする方法を考えて、なるべくゆるやかでわかりやすいやり方を取ってね。恩赦を願い出る者については、願いが言い終わる前に判決が決まっちゃうことがあるんだ。これでは、事情や気持ちを十分に調べたことにはならないよね。だから、廷尉や天下の牢の役人に命令するよ。死刑にあたる事件については、取り調べをきちんと終えて判決を定めた後でも、反乱の計画を立てたり自分の手で人を殺した罪でないかぎり、すぐにその家族へ知らせるようにしてね。そして、恩赦を願う者がいる場合には、その願いを書いた文書を、判決書と一緒に朝廷へ送らせてね。私は、その者の命を助ける方法がないか、よく考えるつもりだよ。このことを天下に広く知らせて、私の考えを人々に明らかにしてね」
秋七月,高句驪王宮斬送孫權使胡衞等首,詣幽州。甲寅,太白犯軒轅大星。冬十月己卯,行還洛陽宮。甲申,有星孛于大辰,乙酉,又孛于東方。十一月己亥,彗星見,犯宦者天紀星。十二月癸巳,司空陳羣薨。乙未,行幸許昌宮。
秋の七月、高句麗の王の宮は、孫権の使者の胡衛たちを討ち取って、その首を幽州に送り届けたよ。甲寅の日、太白(金星)が軒轅の大星に近づいたんだ。
冬の十月、己卯の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。甲申の日、大辰のあたりにほうき星のような星が現れたよ。乙酉の日には東でも東の空にほうき星が現れたよ。
十一月、己亥の日、彗星が現れて、宦者に関係するとされた天紀星に近づいたんだ。
十二月、癸巳の日、司空の陳羣が亡くなったんだ。乙未の日、曹叡は許昌宮に行ったよ。
制度を定める
景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。(註34)於是有司奏,以為魏得地統,宜以建丑之月為正。三月,定歷改年為孟夏四月。(註35)
景初元年(237年)、春の正月、壬辰の日、山茌県で「黄龍が現れた」と報告があったよ。役人たちは上奏して、「魏は土の徳を受け継いだ国だから、丑の月を一年の始まりとするべきだよ」と提案したよ。三月、暦を定め直して、初めの夏の四月を新しい年の始まりとしたよ。
茌音仕狸反。
茌の発音は、仕の子音に狸の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲,正朔自宜改變,以明受命之運。及即位,優游者久之,史官復著言宜改,乃詔三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石博議,議者或不同。
『魏書』によると、曹丕が皇帝に即位すると、漢から帝位をゆずられて即位したから、漢の暦をそのまま変えないで使っていたよ。でも、曹叡はまだ皇太子で東宮にいたころ、論文を書いてこう考えたよ。
「五帝や三王は同じ祖先を持っていても、礼の制度をそのまま受け継いではいないよ。だから、暦や年の始まりも変えるべきで、こうして新たに天命を受けたことを明らかにするべきだよ」
曹叡が皇帝に即位した後もしばらくそのままにしていたけど、史官(記録官)たちがふたたび「暦を変えよう」と意見したよ。三公、特進、九卿、中郎将、大夫、博士、議郎、千石、六百石の地位の役人など、たくさんの役人たちに広く話合わせたよ。でも、意見は一つにはまとまらなかったんだ。
帝據古典,甲子詔曰:「夫太極運三辰五星於上,元氣轉三統五行於下,登降周旋,終則又始。故仲尼作春秋,於三微之月,每月稱王,以明三正迭相為首。今推三統之次,魏得地統,當以建丑之月為正月。考之羣藝,厥義章矣。其改青龍五年三月為景初元年四月。」
曹叡は古典を根拠にして、甲子の日、詔を下してこう言ったよ。
「太極は上では三辰(太陽・月・星)と五星(木星・火星・土星・金星・水星)を運んで、下では天地の気が三統(夏、殷、周の暦)と五行を巡らせているよ。それらは上がったり下がったり、巡り続けて、終わればまた始まるんだ。だから、仲尼(孔子)は『春秋』を作って、三微(朔・望・晦)の月には『王』の字を書いて、3つの暦の始まりが交代で使われると明らかにしたよ。今、3つの暦の順序を考えると、魏は地統(殷の暦)を受け継いでいるよ。だから、丑の月を正月とするべきだよ。たくさんの書物を調べても、その意味ははっきりしているね。そこで、青龍五年(237年)の三月を、景初元年の四月に改めるよ」
服色尚黃,犧牲用白,戎事乘黑首白馬,建大赤之旂,朝會建大白之旗。(註36)改大和歷曰景初歷。其春夏秋冬孟仲季月雖與正歲不同,至於郊祀、迎氣、礿祠、蒸甞、巡狩、蒐田、分至啟閉、班宣時令、中氣早晚、敬授民事,皆以正歲斗建為歷數之序。
服の色は黄色を尊んで、いけにえには白いものを使うと決めたよ。軍事では、黒い首の白い馬に乗って、大きな赤い旗を立てたよ。朝廷へ集まる場には、大きな白い旗を立てたよ。
これまでの大和暦を景初暦に改めたよ。春夏秋冬の初めの月、次の月、その次の月の順番は、夏の暦の最初の月とは違うよ。郊祀という天を祭る儀式、季節を迎える祭り、先祖を祭る行事、季節の命令を出すこと、昼夜の長さを測ること、門の開閉、役割の分担、人々へ農業の時期を教えることなどは、すべて夏の暦の順序に従ったよ。
夏、殷、周の王朝が使った3種類の暦があるよ。夏暦は一月、殷暦では十二月、周暦では十一月がそれぞれ正月となるよ。夏暦は人統、殷暦は地統、周暦は天統、あわせて三統というよ。「王朝の交代で暦も変えるべき」と主張したのが前漢時代の董仲舒だよ。曹丕さんは漢の時代の暦をそのまま使うと言って暦を変えなかったの。曹叡さんが殷暦を採用して十二月を正月としたけど、不便なことが増えるのは想像できるね。
服の黄色は五行の土の色。魏は土の徳だから黄色にしたんだね。。犠牲の色の白色、戦事で乗る馬の白色は殷の色。旗の赤色は周の色。
臣松之桉:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。
裴松之が調べたところ、魏は五行では土の徳を持つと考えられていたよ。だから、服の色は黄色を好んだよ。殷の時代には、丑の月を年の始まりとしていたから、いけにえや旗なども、すべて殷の礼のやり方に従ったんだね。
禮記云:「夏后氏尚黑,故戎事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」鄭玄云:「夏后氏以建寅為正,物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」周禮巾車職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大赤即戎。
『礼記』によると、夏后氏(禹)は黒を尊んだから、戦いでは黒い馬に乗って、いけにえにも黒いものを使ったよ。殷の人たちは白を尊んだから、戦いでは白い馬に乗って、いけにえにも白いものを使ったよ。周の人たちは赤色を尊んだから、戦いでは赤い馬に乗って、いけにえにも騂(赤茶)色のものを使ったよ。
鄭玄は説明してこう言ったよ。
「夏后氏(禹)は寅の月を年の始まりとしていて、そのころあらゆる物は生まれ始めて、色は黒とされたよ。殷は丑の月を年の始まりとしていて、そのころ草木の芽が出始めて、色は白とされた。周は子の月を年の始まりとして、そのころ草木が芽吹き始めて、色は赤とされたよ。『翰』とは白い馬で、『易経』にも『白馬翰如』とあるんだ」
さらに『周礼』の巾車の職には、朝廷では大赤の旗を立てて、戦いでは大白の旗を使うと書かれているよ。つまり、周では朝廷で正しい色の赤い旗を使って、戦いでは前の時代(殷)の旗を使ったことを示しているよ。
でも、今の魏は殷の礼を採用して、周の決まりを変えたんだ。だから、朝廷では大白の旗を立てて、戦いでは大赤の旗を使うようになったよ。
五月己巳,行還洛陽宮。己丑,大赦。六月戊申,京都地震。己亥,以尚書令陳矯為司徒,尚書右僕射衞臻為司空。丁未,分魏興之魏陽、錫郡之安富、上庸為上庸郡。省錫郡,以錫縣屬魏興郡。
五月、己巳の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。己丑の日、大赦をして、たくさんの罪人を許したよ。
六月、戊申の日、都で地震が起こったんだ。己亥の日、尚書令の陳矯を司徒、尚書右僕射の衛臻を司空に任命したよ。丁未の日、魏興の魏陽と、錫郡の安富と上庸を分けて、新しく上庸郡を置いたよ。錫郡は廃止されて、錫県は魏興郡に属することになったよ。
有司奏:武皇帝撥亂反正,為魏太祖,樂用武始之舞。文皇帝應天受命,為魏高祖,樂用咸熈之舞。帝制作興治,為魏烈祖,樂用章武之舞。三祖之廟萬世不毀,其餘四廟親盡迭毀,如周后稷、文、武廟祧之制。(註37)
役人は上奏してこう言ったよ。
「武皇帝(曹操)は乱れた世を立て直して、正しい道へ戻したよ。魏の太祖となって、音楽には『武始の舞』を使ったよ。次に、文皇帝(曹丕)は天命を受けて、魏の高祖となって、『咸熙の舞』を使ったよ。今の皇帝(曹叡)は制度を整えて、政治を盛んにしたよ。魏の烈祖となって、『章武の舞』を使うよ。この三祖の廟は永遠に壊さないで残して、それ以外の4つの廟は親族関係が遠くなれば順に取り壊すんだ。これは周の后稷、文王、武王の廟の制度と同じだよ」
孫盛曰:夫謚以表行,廟以存容,皆於旣沒然後著焉,所以原始要終,以示百世也。未有當年而逆制祖宗,未終而豫自尊顯。昔華樂以厚斂致譏,周人以豫凶違禮,魏之羣司,於是乎失正。
孫盛によると、諡号はその人の行いを表すためのもので、廟はその人をまつるためのものだよ。どちらも、人が亡くなったあとにはじめて定めるものなんだ。これは、その人の生涯の始まりから終わりまでをきちんと見定めて、後の世に示すためだよ。なのに、生きているうちから先に先祖として定めたり、まだ人生が終わっていないのに自らを高く尊んだりした例は、これまでなかったんだ。昔、華元や楽莒は手厚すぎる葬儀をして非難されたよ。それに、周の人たちは生きているうちから葬式の準備をすることを礼に反すると考えたよ。なのに、魏の役人たちは、このとき正しい道を失ってしまったの。
公孫淵の反乱
秋七月丁卯,司徒陳矯薨。孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡,荊州刺史胡質等擊之,然退走。初,權遣使浮海與高句驪通,欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑、烏丸屯遼東南界,璽書徵公孫淵。淵發兵反,儉進軍討之,會連雨十日,遼水大漲,詔儉引軍還。
秋の七月、丁卯の日、司徒の陳矯が亡くなったんだ。
孫権は将の朱然たち2万人を送って江夏郡を包囲させたよ。でも、荊州刺史(州の長官)の胡質たちがこれを攻撃して、朱然たちは退いたよ。
前に、孫権は使者を海から高句麗へ送って、連絡を取っていて、遼東を攻めようとしていたんだ。魏は幽州刺史(州の長官)の毌丘倹に命令して、たくさんの軍と鮮卑と烏丸の兵を率いて、遼東の南の境にととめさせたよ。そして、皇帝の印を押した正式な文書を送って、公孫淵を呼び出したよ。でも、公孫淵は兵をあげて反乱を起こしたんだ。毌丘倹はこれを討つために軍を進めたけど、ちょうど10日間も雨が降り続いて、遼水が大きく増水しちゃった。だから、曹叡は毌丘倹に帰るように詔を出したよ。
右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督王護留等居遼東,率部衆隨儉內附。己卯,詔遼東將吏士民為淵所脅略不得降者,一切赦之。辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。
右北平の烏丸の単于(部族の王)の寇婁敦や遼西の烏丸の都督王の護留たちが遼東に住んでいたけど、自分たちの部族を率いて毌丘倹に従って、魏に降伏したよ。
己卯の日、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「遼東の将や役人、兵や民で、公孫淵に脅されたり無理やり従わされたりして、降伏できなかった者たちは、すべて罪を許すよ」
辛卯の日、太白(金星)が昼に見えたんだって。
公孫淵は毌丘倹が軍を引き返した後、自ら燕王と名乗って、百官を置いて、年号を紹漢元年と定めたんだ。
皇后の死
詔青、兖、幽、兾四州大作海船。九月,兾、兖、徐、豫四州民遇水,遣侍御史循行沒溺死亡及失財產者,在所開倉振救之。庚辰,皇后毛氏卒。冬十月丁未,月犯熒惑。癸丑,葬悼毛后于愍陵。乙卯,營洛陽南委粟山為圜丘。(註38)
曹叡は詔を下して、青州、兗州、幽州、冀州の4つの州に命令して、大きく海船を作らせたよ。
九月、冀州、兗州、徐州、豫州の4つの州で民が洪水の被害に遭ったんだ。そこで侍御史を送って、水害でおぼれて亡くなった者や財産を失った者たちを調べさせて、その土地の倉を開いて助けさせたよ。
庚辰の日、皇后の毛氏が亡くなったんだ。
冬の十月、丁未の日、月が熒惑(火星)に近づいたんだ。癸丑の日、毛氏を愍陵に葬ったよ。乙卯の日、洛陽の南にある委粟山に圜丘(天をまつる場所)を築いたよ。
魏書載詔曰:「蓋帝王受命,莫不恭承天地以章神明,尊祀世統以昭功德,故先代之典旣著,則禘郊祖宗之制備也。昔漢氏之初,承秦滅學之後,采摭殘缺,以備郊祀,自甘泉后土、雍宮五畤,神祇兆位,多不見經,是以制度無常,一彼一此,四百餘年,廢無禘祀。
『魏書』によると、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「そもそも帝王が天命を受けて国を治めるときには、必ず天地をうやまって、神々の力を明らかにして、また先祖を尊んで祭って、その功績や徳を示してきたよ。だから、昔の時代には決まりや制度がきちんと定められて、禘や郊祀といった、先祖や天地を祭る制度も整えられていたんだ。
昔、漢の王朝の初めごろ、ちょうど秦が学問を滅ぼした後の時代で、失われないで残っていたわずかな知識を集めて、なんとか祭りの制度を整えたよ。だから甘泉の后土(大地の神)や雍宮の五畤(天地をまつる場所)といった神々を祭る場所や祭壇の位置には、古い経典に見えないものも多かったんだ。制度には決まりがなくて、あれこれと変わり続けて、400年以上も正式な禘はされなくなっていたの。
古代之所更立者,遂有闕焉。曹氏繫世,出自有虞氏,今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;地郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配;宗祀皇考高祖文皇帝於明堂,以配上帝。」至晉泰始二年,并圜丘、方丘二至之祀於南北郊。
昔の時代に改めて作られた祭りは、途絶えてしまったものもあるよ。曹氏は有虞氏(舜)の家系から出ているよ。そこで、圜丘(天をまつる場所)では始祖の帝舜を祭って、圜丘で祭る天を『皇皇帝天』と呼ぶよ。方丘(地をまつる場所)で祭る地の神は『皇皇后地』と呼んで、帝舜の妃の伊氏を一緒に祭るよ。天郊の祭りでは『皇天之神』を祭り、太祖武皇帝(曹操)を一緒に祭るよ。地郊の祭りでは『皇地之祇』を祭って、武宣后(卞氏)を一緒に祭るよ。さらに宗廟の祭りでは、亡き父の高祖文皇帝(曹丕)を明堂で祭って、上帝と一緒に祭るよ」
晋の泰始二年(266年)、圜丘と方丘の冬至と夏至の祭りは、南郊と北郊の祭りにまとめられたんだ。
十二月壬子冬至,始祀。丁巳,分襄陽臨沮、宜城、旍陽、邔(註39)四縣,置襄陽南部都尉。己未,有司奏文昭皇后立廟京都。分襄陽郡之鄀葉縣屬義陽郡。(註40)(註41)(註42)
十二月、壬子の日、冬至となって、祭りがはじまったよ。丁巳の日、襄陽の臨沮、宜城、旍陽、邔の4つの県を分けて、襄陽南部都尉を置いたよ。己未の日、役人が上奏して「文昭皇后の廟を都に建てるべきだよ」と言ったよ。襄陽郡の鄀葉県は義陽郡に属することになったよ。
邔音其己反
邔の発音は、其の子音に己の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
魏略曰:是歲,徙長安諸鐘簴、駱駝、銅人、承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁仲,列坐於司馬門外。又鑄黃龍、鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置內殿前。起土山於芳林園西北陬,使公卿羣僚皆負土成山,樹松竹雜木善草於其上,捕山禽雜獸置其中。
『魏略』によると、この年、長安にあったたくさんの鐘架(鐘をつるす台)、駱駝、銅人、承露盤(漢の武帝によって造られた盤)などが移されたよ。でも、承露盤は運ぶ途中で壊れちゃった。銅人は重すぎて運びきれなくて、覇城に置かれたままにしたんだ。さらに大量の銅を使って新しく2体の銅人を造ったよ。それは「翁仲」と呼ばれて、司馬門の外に並べて置かれたよ。
それに、黄龍と鳳凰もそれぞれ1体ずつ造ったよ。龍は高さ4丈、鳳凰は高さ3丈以上で、宮殿の前に置かれたよ。
さらに、芳林園の北西の隅に山を築いて、公卿や臣下たちに土を運ばせて山を完成させたたよ。その上に松や竹、さまざまな木や美しい草を植えて、さらに山の鳥やいろいろな獣を捕まえて放したの。
漢晉春秋曰:帝徙盤,盤折,聲聞數十里,金狄或泣,因留於霸城。
『漢晋春秋』によると、曹叡が承露盤を運ばせたとき、盤は途中で折れて、その音が数十里先まで聞こえたんだって。金属で作られた像(銅人)が泣いたとも言われていて、それらはそのまま覇城に置かれたままになったよ。
魏略載司徒軍議掾河東董尋上書諫曰:「臣聞古之直士,盡言於國,不避死亡。故周昌比高祖於桀、紂,劉輔譬趙后於人婢。天生忠直,雖白刃沸湯,往而不顧者,誠為時主愛惜天下也。建安以來,野戰死亡,或門殫戶盡,雖有存者,遺孤老弱。
『魏略』によると、司徒の軍議掾で河東の出身の董尋が上書していさめてこう言ったよ。
「私は、昔の正直な臣下たちは、国のためなら命を惜しまないで、思っていることをすべて君主に言ったと聞いているよ。周昌は高祖(劉邦)を夏の桀王や殷の紂王にたとえてまでいさめたよ。劉輔は趙皇后を女の召使いにたとえて批判したよ。天は忠義と正直さを持つ者を生むよ。彼らはたとえ刀の刃や煮えたぎる湯の中へ進むことになっても、振り返らないで進むんだ。それは、今の君主を助けて、天下を大切に思っているからだね。建安のの年号より後、戦いでたくさんの人が死んで、家ごと滅んで、一族が絶えてしまった家もあるんだ。たとえ生き残った者でも、親を失った子供や老人や幼い子たちばかりなんだ。
若今宮室狹小,當廣大之,猶宜隨時,不妨農務,況乃作無益之物,黃龍、鳳皇,九龍、承露盤,土山、淵池,此皆聖明之所不興也,其功參倍於殿舍。三公九卿侍中尚書,天下至德,皆知非道而不敢言者,以陛下春秋方剛,心畏雷霆。
もし今の宮殿が狭くて小さいなら、広く建て直すことも必要だけど、時期を考え、農業のさまたげにならないようにするべきだよ。なのに今は、役に立たないものばかりを作っているよね。黄龍や鳳凰、九龍、承露盤、土山や深い池など、これらは立派ですぐれた君主なら決して盛んに作ったりしないものだよ。しかも、その工事の手間や費用は、普通の宮殿や建物の3倍以上にもなっているんだ。三公、九卿、侍中、尚書たちは、天下の徳の高い人たちで、彼らもこれは正しい道ではないとわかっているけど、口に出して言えないんだ。それは、陛下(曹叡)がまだ若くて気力に満ちていて、その威厳を雷みたいに恐れているからだよ。
今陛下旣尊羣臣,顯以冠冕,被以文繡,載以華輿,所以異於小人;而使穿方舉土,面目垢黑,沾體塗足,衣冠了鳥,毀國之光以崇無益,甚非謂也。孔子曰:『君使臣以禮,臣事君以忠。』無忠無禮,國何以立!
今、陛下(曹叡)はたくさんの臣下を高い位につけて、立派な冠や礼服を与えて、刺繍がされた服をまとわせて、美しい車に乗せているよね。それは、身分の低い人々とは違うことを示すためだよ。でも、そのような臣下たちに穴を掘らせ、土を運ばせているんだ。だから顔が泥で黒く汚れて、体や足も泥まみれになって、衣服や冠は鳥の巣みたいに乱れちゃった。これは国の威光を傷つけてまで、役に立たないことを大きくしているようなもので、正しいことではないよ。孔子は『君主が臣下に礼をもって接すれば、臣下は忠をもって君主に仕える』と言ったよ。礼も忠義も失ったら、国はどうして成り立つの!
故有君不君,臣不臣,上下不通,心懷鬱結,使陰陽不和,災害屢降,凶惡之徒因閒而起,誰當為陛下盡言是者乎?又誰當干萬乘以死為戲乎?臣知言出必死,而臣自比於牛之一毛,生旣無益,死亦何損?秉筆流涕,心與世辭。臣有八子,臣死之後,累陛下矣!」將奏,沐浴。旣通,帝曰:「董尋不畏死邪!」主者奏收尋,有詔勿問。後為貝丘令,清省得民心。
だから、君主が君主らしくなくて、臣下が臣下らしくなくて、上と下の心も通じ合わなくなっているんだ。人々の心には苦しみや不満が積もって、そのせいで陰陽の調和も乱れて、災害が何度も起こっているし、さらに悪い人たちが隙を見て立ち上がっているんだ。このようなとき、いったい誰が陛下(曹叡)のために本当のことを言うの? それに、誰が天子に逆らう危険をおかして、命を捨てることを遊びのようにできるの? 私は、自分の言葉を伝えたら必ず殺されるとわかっているよ。でも、私は自分なんて牛の毛一本にも満たない存在で、生きていても大きな役には立たないし、死んだからといって何を失うの? 私は筆を持ちながら涙を流し、これで世の中に別れを告げるつもりだよ。私には8人の子供がいるから、私が死んだ後、その子たちは陛下の力に頼るよ」
董尋は上奏しようとして、身を清めたよ。その上書が曹叡に届けられると、曹叡はこう言ったよ。
「董尋は死を恐れないの!」
役人たちは董尋を捕らえようとしたけど、曹叡は詔を下して「罪を問うな」と命令したよ。その後、董尋は貝丘県令(県の長官)になって、清らかな政治をして民の心を得たんだって。
襄平の戦い
二年春正月,詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。(註43)(註44)(註45)
景初二年(238年)、春の正月、曹叡は詔を下して、太尉の司馬懿に軍を率いて遼東(公孫淵)を討たせたよ。
干竇晉紀曰:帝問宣王:「度淵將何計以待君?」宣王對曰:「淵棄城預走,上計也;據遼水拒大軍,其次也;坐守襄平,此為成禽耳。」帝曰:「然則三者何出?」對曰:「唯明智審量彼我,乃預有所割棄,此旣非淵所及,又謂今往縣遠,不能持久,必先拒遼水,後守也。」帝曰:「往還幾日?」對曰:「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣。」
干宝の『晋紀』によると、曹叡は司馬懿にこう尋ねたよ。
「公孫淵は、どのような作戦であなたを迎え撃つと思う?」
司馬懿はこう答えたよ。
「公孫淵が城を捨てて前もって逃げるのが、最もいい策だよ。遼水を守って大軍を防ぐのは、その次の策だよ。もし襄平の城に閉じこもって守るなら、それは捕らえられるのを待つだけだね」
曹叡はこう尋ねたよ。
「それなら、この3つのうち、どれを選ぶのかな?」
司馬懿はこう答えたよ。
「自分と相手の力をよく見極めて、本当に賢い者だけが、あらかじめ捨てるべきものを捨てられるよ。でも、公孫淵にはできないだろうね。彼は『軍は遠くから来るから、長く戦い続けられない』と考えているはず。だから、まず遼水で防いで、城にこもるだろうね」
曹叡はこう尋ねたよ。
「行って帰るまで、どのくらいの日数がかかるの?」
司馬懿はこう答えたよ。
「行くのに100日、攻めるのに100日、帰るのに100日で、そのうちの60日は休みとすると、1年で十分だよ」
魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰:「臣聞先王制法,必於全慎,故建官授任,則置假輔,陳師命將,則立監貳,宣命遣使,則設介副,臨敵交刃,則參御右,蓋以盡謀思之功,防安危之變也。是以在險當難,則權足相濟,隕缺不預,則手足相代,其為固防,至深至遠。
『魏名臣奏』によると、散騎常侍の何曾は上表してこう言ったよ。
「私は、昔の天子は法や制度を定めるとき、必ず十分に注意を払っていたと聞いているよ。だから、役人を置いて仕事を任せるときには、必ず補佐役も置いたよ。軍を出して将に命令するときには、監督役や副将も立てたよ。命令を伝える使者を送るときにも、付き添いの者をつけたよ。敵と戦って、刃を交える場面でも、戦車を助ける者や護衛する者を備えていたよ。これらはすべて、知恵や考えを十分に尽くして、危険や変事に備えるためだね。だから、危険な場面や困難な状況では、お互いに助け合えたし、誰かが倒れたり欠けたりしても、別の者が代わりを務められたよ。このような備えは、国を守る方法として、すごく深く遠い考えによるものだね。
及至漢氏,亦循舊章。韓信伐趙,張耳為貳;馬援討越,劉隆副軍。前世之迹,著在篇志。今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路迴阻,四千餘里,雖假天威,有征無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常期。人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。
漢の時代も、昔の制度は受け継がれていたよ。韓信が趙を討つとき、張耳が副将となったよ。馬援が越を討つとき、劉隆が副軍を務めたよ。このような昔の例は、歴史書にはっきり記されているんだ。
今、司馬懿は詔を受けて罪ある者を討とうとしているよ。歩兵や騎兵は数万人にもなって、しかも道は曲がりくねって険しくて、4,000里以上も離れているんだ。たとえ天子の威光を借りて軍を進めているとはいえ、必ずしも戦いが起こるとは限らないよ。敵がこっそり逃げたり、時間だけがむだに過ぎたりして、作戦がいつ終わるかもわからないの。人は金や石ではないんだ。だから、遠い先まで考えて、十分に備えるべきで、本当に副将を置くべきだよ。
今北邊諸將及懿所督,皆為僚屬,名位不殊,素無定分,卒有變急,不相鎮攝。存不忘亡,聖達所戒,宜選大臣名將威重宿著者,盛其禮秩,遣詣懿軍,進同謀略,退為副佐。雖有萬一不虞之災,軍主有儲,則無患矣。」
今、北の将たちや司馬懿の配下たちはみんな同じような立場の部下で、地位や名声にも大きな違いがなくて、普段からはっきりとした上下関係も決まっていないんだ。もしもし急な変事が起こったときには、お互いをしっかりまとめたり指揮したりできないかも。『平和なときにも、滅びる危険を忘れてはならない』というのは、昔の聖人や賢者たちが強く戒めていたことだよ。だから、重要な臣下や名将の中から威厳と名声を長く持っている人を選んで、特別に高い待遇を与えて、司馬懿の軍へ送るべきだよ。その者は、進んでは作戦を一緒に考えて、退いては副将として支える役目を果たすよ。万が一にも思いがけない災いが起こったとしても、軍には代わりとなる指導者がいるよね。だから、心配することはなくなるの」
毌丘儉志記云,時以儉為宣王副也。
『毌丘倹志記』によると、このとき毌丘倹を司馬懿の副将にしたんだって。
二月癸卯,以大中大夫韓曁為司徒。癸丑,月犯心距星,又犯心中央大星。夏四月庚子,司徒韓曁薨。壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹(註46)十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣為沛王國。庚戌,大赦。五月乙亥,月犯心距星,又犯中央大星。(註4)六月,省漁陽郡之狐奴縣,復置安樂縣。
二月、癸卯の日、大中大夫の韓曁を司徒に任命したよ。癸丑の日、月が心宿の距星に近づいて、さらに心宿の中央にある大きな星にも近づいたんだ。
夏の四月、庚子の日、司徒の韓曁が亡くなったんだ。壬寅の日、沛国の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹の10県を分けて、、新しく汝陰郡を置いたよ。宋県と陳郡の苦県を、譙郡に属することにしたよ。だらに、沛、杼秋、公丘、彭城の豊国、広戚の5県を合わせて沛王国としたよ。庚戌の日、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
五月、乙亥の日、月がふたたび心宿の距星に近づいて、さらに中央の大星にも近づいたんだ。六月、漁陽郡狐奴県を廃止して、安楽県を置いたよ。
洨音胡交反。虹音絳。
洨の発音は、胡の子音に交の母音と声調を加えたものだよ(反切)。虹の発音は、絳だよ。
魏書載戊子詔曰:「昔漢高祖創業,光武中興,謀除殘暴,功昭四海,而墳陵崩頹,童兒牧豎踐蹈其上,非大魏尊崇所承代之意也。其表高祖、光武陵四面百步,不得使民耕牧樵採。」
『魏書』によると、戊子の日、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「昔、漢の高祖(劉邦)は国を建て、光武帝(劉秀)は国を立て直したよ。彼らは悪い政治や乱暴を取り除こうと計画して、その功績は天下にはっきり示されたよ。でも、今はその陵墓は崩れて荒れていて、子供や牛飼いの者たちがその上を踏み歩いているんだ。これは偉大な魏が受け継いだ前の王朝(漢)を尊んで、大切にしようとする考えにふさわしいことではないよね。そこで、高祖(劉邦)と光武帝(劉秀)の陵墓の周り100歩の範囲では、民に農耕や放牧、木を切ることをさせてはならないよ」
秋八月,燒當羌王芒中、注詣等叛,涼州刺史率諸郡攻討,斬注詣首。癸丑,有彗星見張宿。(註48)(註49)
秋の八月、焼当の羌の王の芒中や注詣たちが反乱を起こしたんだ。そこで涼州刺史(州の長官)は、それぞれの郡を率いてこれを討って、注詣を討ち取って、その首を都に届けたよ。癸丑の日、張宿のあたりに彗星が現れたよ。
漢晉春秋曰:史官言於帝曰:「此周之分野也,洛邑惡之。」於是大脩禳禱之術以厭焉。
『漢晋春秋』によると、史官(記録官)は曹叡にこう言ったよ。
「この星の現れた場所は周の分野、つまり周に関係する土地を示しているよ。洛邑(洛陽)にとって不吉なんだ」
曹叡は、災いをしずめるための祈りやまじないを大規模にさせたよ。
魏書曰:九月,蜀陰平太守廖惇反,攻守善羌侯宕蕈營。雍州刺史郭淮遣廣魏太守王贇、南安太守游弈將兵討惇。淮上書:「贇、弈等分兵夾山東西,圍落賊表,破在旦夕。」帝曰:「兵勢惡離。」促詔淮勑弈諸別營非要處者,還令據便地。詔勑未到,弈軍為惇所破;贇為流矢所中死。
『魏書』によると、九月、蜀の陰平太守(郡の長官)の廖惇が反乱を起こして、守善羌侯の宕蕈の陣営を攻めたんだ。雍州刺史(州の長官)の郭淮は、広魏太守の王贇と南安太守の游弈に兵を率いさせて、廖惇を討たせたよ。郭淮は上書してこう言ったよ。
「王贇や游弈たちは兵を東西に分け、山をはさんで敵を包囲しているよ。敵を打ち破るのは時間の問題だよ」
でも、曹叡はこう言ったよ。
「兵の勢いが分かれるのはよくないな」
そこで急いで詔を下して、郭淮に命令して、游弈の別働隊のうち重要でない場所にいる者たちを呼び戻して、有利な場所を守らせるよう伝えたよ。でも、その命令が届く前に、游弈の軍は廖惇に敗れちゃった。さらに王贇は、流れ矢に当たって亡くなったんだ。
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。及宣王至遼東,霖雨不得時攻,羣臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。
丙寅の日、司馬懿は襄平で公孫淵を包囲して、大きく打ち破ったよ。そして、公孫淵の首を都へ送り届けて、東のそれぞれの郡を平定したよ。
冬の十一月、朝廷は公孫淵討伐の功績を記録して、太尉の司馬懿以下の諸侯にそれぞれの功績に応じて領地と爵位を与えたよ。
もともと、曹叡が司馬懿を送って公孫淵を討たせようとしたとき、4万の兵を出そうとしていたよ。でも、話し合いの中で臣下たちはみんな、「4万の兵は多すぎて、費用も大きくて、とても支えきれないよ」と言ったよ。すると、曹叡はこう言ったよ。
「4,000里もの遠征だよ。奇策を使うとはいえ、十分な力が必要だよ。費用をあまり気にするべきではないよ」
こうして本当に4万人を出発させたよ。
司馬懿が遼東に着くと、長雨のため、なかなか攻撃できなかったんだ。たくさんの臣下の中には、「公孫淵はすぐには破れそうにないんだ。司馬懿に引き返すように命令すべきだよ」という人もいたよ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「司馬懿は危機にぶつかっても変化に対応できる人だよ。公孫淵を捕らえる日は、もう数えるだけで待てるよ」
そして実際、その予想どおりになったの。
病気で倒れる
壬午,以司空衞臻為司徒,司隷校尉崔林為司空。閏月,月犯心中央大星。十二月乙丑,帝寢疾不豫。辛巳,立皇后。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨穀。以燕王宇為大將軍,甲申免,以武衞將軍曹爽代之。(註50)
壬午の日、司空の衛臻が司徒、司隷校尉の崔林が司空になったよ。閏月、月が心宿の中央にある大星に近づいたんだ。
十二月、乙丑の日、曹叡は病気になって、体調が悪くなったんだ。辛巳の日、皇后を立てて、天下の成人した男子の身分を2つ上げて、夫のいない女性や、配偶者を失った人、親のいない子供、身寄りのない人など、自分で生活できない人たちには穀物を与えたよ。
さらに、燕王の曹宇を大将軍に任命したけど、甲申の日に辞めさせて、武衛将軍の曹爽を代わりに任命したんだ。
漢晉春秋曰:帝以燕王宇為大將軍,使與領軍將軍夏侯獻、武衞將軍曹爽、屯騎校尉曹肈、驍騎將軍秦朗等對輔政。中書監劉放、令孫資久專權寵,為朗等素所不善,懼有後害,陰圖間之,而宇常在帝側,故未得有言。
『漢晋春秋』によると、曹叡は燕王の曹宇を大将軍に任命して、領軍将軍の夏侯献、武衛将軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎将軍の秦朗たちに、政治を助けさせようとしたよ。でも、中書監の劉放や、中書令の孫資は長いあいだ気に入られていて権力を独り占めしていたんだ。彼らは秦朗たちからよく思われていないんだ。だから、劉放と孫資は、「後で自分たちに害が及ぶのではないかな」と恐れて、こっそりと彼らの仲を裂こうと考えたよ。でも、曹宇はいつも曹叡のそばにいたから、まだ思うように言えなかったんだ。
甲申,帝氣微,宇下殿呼曹肈有所議,未還,而帝少間,惟曹爽獨在。放知之,呼資與謀。資曰:「不可動也。」放曰:「俱入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王耶?」
甲申の日、曹叡の病状は重くなって、弱々しくなっていたんだ。曹宇は曹肇を呼んで、相談するために宮殿を下りていたよ。彼がまだ戻っていないうちに、曹叡は少し持ち直して、その場には曹爽だけが残っていたよ。これを知った劉放は、孫資を呼んで相談したよ。孫資はこう言ったよ。
「動くべきではないよ」
劉放はこう言ったよ。
「どうせ二人とも煮えたぎる釜の中に入るのと同じ状況なのに、どうして動いてはならないと言えるの?」
そして二人はそのまま曹叡の前へ進み出て、涙を流しながらこう言ったよ。
「陛下(曹叡)の体はすごく弱っているんだ。もし万一のことがあれば、この天下を誰に任せるつもりなの?」
曹叡はこう言ったよ。
「燕王(曹宇)を使うという話を聞いていないの?」
放曰:「陛下忘先帝詔勑,藩王不得輔政。且陛下方病,而曹肈、秦朗等便與才人侍疾者言戲。燕王擁兵南面,不聽臣等入,此即豎刀、趙高也。今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存亡,而近係恩舊。委祖考之業,付二三凡士,寢疾數日,外內擁隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也。」
劉放はこう言ったよ。
「陛下(曹叡)は先帝(曹丕)の遺した詔を忘れたの? 藩王は政務を補佐してはならないと命令されていたよね。それに今、陛下が病気なのに、曹肇や秦朗たちは、陛下に仕える女官たちと冗談を言って遊んでいるんだ。燕王(曹宇)は兵を持って、自分が君主みたいに振る舞って、私たちを中へ入れようとしないんだ。これは豎刀や趙高みたいだね。
今、皇太子はまだ幼くて、政治をまとめられないし、外には強く荒々しい敵がいて、内には苦しみや不満を抱えた民がいるよ。なのに陛下は国の存亡を遠くまで考えないで、昔から親しい者への情にばかり心を向けているんだ。先祖から受け継いだ国家を、2、3人の平凡な人たちに任せようとしているんだ。陛下が寝込んで数日経つのに、宮中も外も閉ざされ、国家は危険な状態だよ。なのに陛下ご自身は、そのことに気づいていないの。これこそ、私たちが胸を痛めている理由だよ」
豎刀は、春秋時代の斉の桓公の臣下だよ。斉の桓公が亡くなった後に内乱が起こったきっかけ。管仲によると「この人を使うのはやめようね」。詳しくは『史記』「斉太公世家」、『春秋左氏伝』「桓公十七年」を見てね。
趙高は、秦の政治家だよ。秦の二世皇帝を殺した人だよ。詳しくは『史記』「秦始皇本紀」を見てね。
帝得放言,大怒曰:「誰可任者?」放、資乃舉爽代宇,又曰「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之。放、資出,曹肈入,泣涕固諫,帝使肈勑停。肈出戶,放、資趨而往,復說止帝,帝又從其言。放曰:「宜為手詔。」帝曰:「我困篤,不能。」放即上牀,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中。」於是宇、肈、獻、朗相與泣而歸第。
曹叡は劉放の言葉を聞くと、すごく怒ってこう言ったよ。
「だったら、誰なら任せられるというの?」
すると劉放と孫資は、曹宇の代わりに曹爽を推挙したよ。そして、こう言ったよ。
「詔を出して、司馬懿と一緒に政治を補佐させるべきだよ」
曹叡はこれに従ったよ。
劉放と孫資が退出すると、曹肇が中へ入って、涙を流しながら強くいさめたよ。曹叡は曹肇に命令して詔をやめさせたよ。
曹肇が戸から出ると、劉放と孫資は急いでふたたび曹叡のもとに行って、さらに説得したんだ。曹叡はふたたび彼らの言葉に従ったよ。劉放はこう言ったよ。
「自分の手で詔を書いて出すべきだよ」
曹叡はこう言ったよ。
「私は病気が重くて、できないの」
すると劉放はそのまま寝台へ上がって、曹叡の手を取って無理やり詔を書かせたよ。そして、その詔を持って外へ出ると、大声でこう言ったよ。
「詔が下ったよ。燕王の曹宇たちの官職を辞めさせて、宮中にとどまってはならないよ!」
これを聞くと、曹宇、曹肇、夏侯献、秦朗たちは、互いに涙を流しながら、帰っていったんだ。
初,青龍三年中,壽春農民妻自言為天神所下,命為登女,當營衞帝室,蠲邪納福。飲人以水,及以洗創,或多愈者。於是立館後宮,下詔稱揚,甚見優寵。及帝疾,飲水無驗,於是殺焉。
もともと、青龍三年(235年)のころ、寿春の農民の妻がこう言ったよ。
「私は天の神がこの世に送った者で、『登女』という役目を受けたよ。皇帝の家を守って、邪悪を払って、福を招くように命令されたんだ」
彼女は人々に水を飲ませたり、傷をその水で洗ったりして、治った者もたくさんいたよ。だから、後宮には彼女のための館が建てられて、曹叡は詔で彼女をほめたたえて、とても大切に扱ったよ。でも、曹叡が病気で倒れると、その水にはまったく効果がなかったの。こうして、彼女は処刑されたんだ。
曹叡の死
三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入卧內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。(註51)(註52)即日,帝崩于嘉福殿,(註53)時年三十六。(註54)癸丑,葬高平陵。(註55)(註56)
景初三年(239年)、春の正月、丁亥の日、太尉の司馬懿が帰って、河内に着いたよ。曹叡は駅馬を使って急いで司馬懿を呼び寄せて寝所の中へ招き入れたよ。そして、その手を握ってこう言ったよ。
「私は病気がすごく重いんだ。後のことをあなたに任せるよ。あなたは曹爽と一緒に幼い皇子を助けてね。私はあなたに会えたから、もう思い残すことはないよ!」
司馬懿は頭を地につけて礼をして、涙を流したよ。
その日のうちに、曹叡は嘉福殿で亡くなったんだ。このとき36歳だったよ。癸丑の日、高平陵に葬られたんだ。
魏略曰:帝旣從劉放計,召司馬宣王,自力為詔,旣封,顧呼宮中常所給使者曰:「辟邪來!汝持我此詔授太尉也。」辟邪馳去。先是,燕王為帝畫計,以為關中事重,宜便道遣宣王從河內西還,事以施行。宣王得前詔,斯須復得後手筆,疑京師有變,乃馳到,入見帝。勞問訖,乃召齊、秦二王以示宣王,別指齊王謂宣王曰:「此是也,君諦視之,勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸。
『魏略』によると、曹叡は劉放の計画に従って、司馬懿を呼び寄せたよ。そして、自ら力をふりしぼって詔を書いて、それを封じ終えると、いつも身の回りの世話をしていた使用人を呼んでこう言ったよ。
「辟邪(使用人)よ、来て! これを太尉(司馬懿)に届けて!」
辟邪は急いで走って去ったよ。
これより前、燕王の曹宇は曹叡のために計画を立てて、こう言ったよ。
「関中は重要な土地だよ。司馬懿には、そのまま河内から西に向かわせるべきだよ」
司馬懿が最初の詔を受けると、すぐにまた後から届いた直筆の命令を受け取ったよ。だから、「都に異変が起こったのでは」と疑って、急いで都に行って、曹叡に会ったよ。曹叡はねぎらいの言葉をかけた後、斉王(曹芳)と秦王(曹詢)を呼んで、司馬懿に見せたよ。そして、特に斉王を指さして、司馬懿にこう言ったよ。
「この子だよ。よく顔を見て、間違えないようにしてね」
さらに、斉王に命令して、前へ出て司馬懿の首に抱きつかせたんだ。
魏氏春秋曰:時太子芳年八歲,秦王九歲,在于御側。帝執宣王手,目太子曰:「死乃復可忍,朕忍死待君,君其與爽輔此。」宣王曰:「陛下不見先帝屬臣以陛下乎?」
『魏氏春秋』によると、このとき太子の曹芳は8歳で、秦王(曹詢)は9歳で、曹叡のそばにいたんだ。曹叡は司馬懿の手を握って、曹芳を見ながらこう言ったよ。
「死ぬこと自体は、まだ耐えられるよ。私はあなたに後を託すために、生き延びてきたんだ。どうか曹爽と一緒にこの子を助けてね」
司馬懿はこう言ったよ。
「陛下(曹叡)は、先帝(曹丕)が私に『あなたを支えて』と託したことを忘れちゃったの?」
魏書曰:殯于九龍前殿。
『魏書』によると、皇帝の棺は九龍前殿に置かれたよ。
臣松之桉:魏武以建安九年八月定鄴,文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳。時改正朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也。
裴松之が調べたところ、曹操は建安九年(204年)の八月に鄴を平定したよ。その後、曹丕は甄皇后を迎え入れたよ。つまり、曹叡は建安十年(205年)に生まれたはず。計算すると、この年の正月で34歳になるよ。このときは暦が改められていて、前年の十二月を今年の正月としていたから、無理に数えて35歳とは言えるけど、36歳は合わないよね。
魏書曰:帝容止可觀,望之儼然。自在東宮,不交朝臣,不問政事,唯潛思書籍而已。即位之後,褒禮大臣,料簡功能,真偽不得相貿,務絕浮華譖毀之端,行師動衆,論決大事,謀臣將相咸服帝之大略。性特彊識,雖左右小臣官簿性行,名跡所履,及其父兄子弟,一經耳目,終不遺忘。含垢藏疾,容受直言,聽受吏民士庶上書,一月之中至數十百封,雖文辭鄙陋,猶覽省究竟,意無猒倦。
『魏書』によると、曹叡は、姿や立ち居ふるまいがとても立派で、遠くからでも威厳に満ちているんだって。東宮にいたころ(太子だったころ)、朝廷の臣下たちと親しく交わらなくて、政治についてもあまり口を出さなかったよ。ただ静かに書物を読んで、学問について深く考えることが好きなんだって。
皇帝に即位した後は、重要な臣下たちに礼を尽くして大切にして、その才能と実力を見極めたよ。本当に力のある者と、うわべだけの者とを混同しないで、軽々しい飾り立てや、他人を悪く言う中傷をなくそうと努めたよ。軍を動かすことや国家の大事を決めるときには、参謀や将や相たちもみんな、曹叡の大きな見通しに感心していたんだ。
彼はすごく記憶力がよくて、周りの地位の低い役人や書記官であっても、その役職や人柄、これまでの行い、さらには彼らの父や兄弟、子供についても、一度耳や目に触れたことは決して忘れなかったよ。他人の欠点を許して受け入れる度量があって、率直な意見にも耳を傾けたよ。役人や民、兵や一般の人たちからの上書も受け付けて、1ヶ月のうちに数十通から数百通にもなったんだ。たとえ文章が下手で粗末なものであっても、最後まで目を通して、内容を確かめたよ。そして、それを嫌がったり飽きたりしなかったの。
孫盛曰:聞之長老,魏明帝天姿秀出,立髮垂地,口吃少言,而沉毅好斷。初,諸公受遺輔導,帝皆以方任處之,政自己出。而優禮大臣,開容善直,雖犯顏極諫,無所摧戮,其君人之量如此之偉也。然不思建德垂風,不固維城之基,至使大權偏據,社稷無衞,悲夫!
孫盛によると、年長者たちから聞いたところ、曹叡は生まれつきすぐれた才能と美しい姿を持っていたんだって。髪を伸ばすと地面に届くほど長くて、話し方は少しどもり気味で口数は少なかったけど、心は落ち着いて強くて、決断力があったんだって。最初、曹丕の)した命令を受けて大臣たちが政治を助けていたけど、曹叡は彼らに役目を与えながら、政治の決定は自分自身でしていたよ。重要な臣下たちを敬って、正直な意見を受け入れて、たとえ顔を向けて強くいさめる者がいても、罰したり殺したりしなかったよ。このように、人を治める人としての器の大きさはすごく立派だったの。
でも残念ながら、徳を築いて良い政治を後の世に残そうとは十分に考えないで、皇室を守る基盤も固めなかったんだ。だから、大きな権力が一部の者に偏って、国家を守る力が失われちゃった。本当に悲しいね!
『三国志』の貴重なイケメン。
陳寿の評
評曰:明帝沉毅斷識,任心而行,蓋有君人之至槩焉。于時百姓彫弊,四海分崩,不先聿脩顯祖,闡拓洪基,而遽追秦皇、漢武,宮館是營,格之遠猷,其殆疾乎!
評すると、曹叡は落ち着きがあって、意志が強くて、決断力と見識を持っていたよ。自分で考えて行動して、君主として大きな器を備えていたと言えるだろうね。でも、当時の民は苦しんで疲れ果てていて、天下は分裂して不安定な状態だったんだ。本来なら、まず先祖の功績を受け継いで国の基礎をしっかり整えて、大きな土台を広げるべきだよ。なのに、急いで秦の始皇帝や漢の武帝みたいに、宮殿や建物ばかりを作ったんだ。長い先を見通す考えから見れば、これは大きな誤りに近かったと言えるよ!
「明帝紀」は以上だよ!

