はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「明帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹叡 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
明帝紀は長いから記事を分けたよ。
- 正史『三国志』魏書明帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 1
- 正史『三国志』魏書明帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2 ← この記事だよ
出典
三國志 : 魏書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
献帝を弔う
二年春二月乙未,太白犯熒惑。癸酉,詔曰:「鞭作官刑,所以糾慢怠也,而頃多以無辜死。其減鞭杖之制,著于令。」月庚寅,山陽公薨,帝素服發哀,遣使持節典護喪事。己酉,大赦。夏四月,大疫。崇華殿災。丙寅,詔有司以太牢告祠文帝廟。追謚山陽公為漢孝獻皇帝,葬以漢禮。(註26)
青龍2年(234年)、春の二月、乙未の日、金星が火星に入ったよ。癸酉の日、詔を下してこう言ったよ。
「鞭打ち刑は怠惰を戒めるためのものだけど、それによって無実の人がたくさん死んでいるんだ。鞭打ちの制度をゆるめてね」
庚寅の月、山陽公(献帝)が亡くなって、曹叡は喪に服して、使者に節を持たせて喪式をさせたよ。己酉の日、大赦を行ったよ。
夏の四月、病気が大流行しちゃって、崇華殿が火災に見舞われたんだ。丙寅の日、役人に対して、太牢を捧げて曹丕の廟に祭祀するようにと詔を下したよ。山陽公に「漢孝献皇帝」の謚を贈って、漢の礼に従って葬ったよ。
獻帝傳曰:帝變服,率羣臣哭之,使使持節行司徒太常和洽弔祭,又使持節行大司空大司農崔林監護喪事。詔曰:「蓋五帝之事尚矣,仲尼盛稱堯、舜巍巍蕩蕩之功者,以為禪代乃大聖之懿事也。山陽公深識天祿永終之運,禪位文皇帝以順天命。先帝命公行漢正朔,郊天祀祖以天子之禮,言事不稱臣,此舜事堯之義也。昔放勛殂落,四海如喪考妣,遏密八音,明喪葬之禮同於王者也。今有司奏喪禮比諸侯王,此豈古之遺制而先帝之至意哉?今謚公漢孝獻皇帝。」
『献帝伝』によると、曹叡は喪服に変えて、臣下を率いてその死を哀悼して、司徒で太常の和洽に節を持たせて使者として弔祭を行わせて、さらに大司空で大司農の崔林に節を持たせて喪の儀式の監督を命令したよ。詔を下してこう言ったよ。
「五帝の業績は遠い昔のことだけど、仲尼(孔子)は堯や舜の偉大な功績をほめたたえて、禅譲は大聖人の美しい行いであるとされているよ。山陽公(献帝)は天命が尽きることを深く悟って、文皇帝(曹丕)に位を禅譲して天命に従ったよ。先帝(曹丕)は山陽公に漢の暦を使わせて、天子の礼に則って天地と祖先に祀るように命令して、事を言うときにも臣下の礼を使わなかったよ。これは舜が堯に対して行ったことと同じ意味合いだね。昔、放勲(堯)が亡くなった時、天下はまるで父母を失ったかのように喪に服して、音楽は禁じられて、喪葬の儀礼は王者と同じだったよ。今、役人が山陽公の喪礼を諸侯王に準じようと上奏しているけど、これは古の制度にかなうものでもなくて、先帝の意向とも異なるよね。今、山陽公に『漢孝献皇帝』の謚を贈るよ」
使太尉具以一太牢告祠文帝廟,曰:「叡聞夫禮也者,反本請吉,不忘厥初,是以先代之君,尊尊親親,戚有尚焉。今山陽公寢疾棄國,有司建言喪紀之禮視諸侯王。叡惟山陽公昔知天命永終於己,深觀歷數允在聖躬,傳祚禪位,尊我民主,斯乃陶唐懿德之事也。黃初受終,命公于國行漢正朔,郊天祀祖禮樂制度率乃漢舊,斯亦舜、禹明堂之義也。上考遂初,皇極攸建,允熈克讓,莫明于茲。
太尉が太牢を供えて曹丕の廟で祭祀をして、こう言ったよ。
「曹叡は、礼とは原点に立ち返って良い日を願って、初めを忘れないことだと聞いているよ。だから、先代の君主たちは、尊ぶ者を尊んで、親しい者を親しんで、親族には特別な敬意を示してきたよ。今、山陽公(献帝)が亡くなって国から去ったけど、役人たちは喪礼を諸侯王に準じてするべきだと上奏しているよ。曹叡は山陽公が前に天命が自分で終わることを知って、天命を聖徳を持つ者にあると深く悟って、帝位を譲って我が主を尊重したことこそ、陶唐(堯)の美徳だと考えるよ。黄初の時に天下を受け継いで、山陽公には漢の暦に従って、天地や祖先に祀る礼楽制度を漢の制度に基づいて行わせたのも、舜や禹の政治の理念にかなうものだと言えるよ。漢の王朝が建てられた初め、皇帝が天下を統治する制度が確立したばかりの時の意志を思って、皇位の尊厳を立てて、謙譲の徳を示すことが、この上なく明らかになったの。
蓋子以繼志嗣訓為孝,臣以配命欽述為忠,故詩稱『匪棘其猶,聿追來孝』,書曰『前人受命,茲不忘大功』。叡敢不奉承徽典,以昭皇考之神靈。今追謚山陽公曰孝獻皇帝,冊贈璽紱。命司徒、司空持節弔祭護喪,光祿、大鴻臚為副,將作大匠、復土將軍營成陵墓,及置百官羣吏,車旗服章喪葬禮儀,一如漢氏故事;喪葬所供羣官之費,皆仰大司農。立其後嗣為山陽公,以通三統,永為魏賔。」
そもそも、子が父の志を継いで教えを守ることを孝として、臣下が天命に従って謹んで述べることを忠とするよ。だから、『詩経』には『いばらがまだ尖っていても、父のように孝を追い求める』とあるし、『書経』には『先人が天命を受けた功績を忘れない』と記されているんだ。曹叡は、皇帝の霊のために、あえて受け継いで、皇考(父帝)の神霊に示さないではいられないよ。だから今、山陽公に『孝献皇帝』の謚を贈って、印綬を贈るよ。司徒と司空に節を持たせて、弔祭と喪に関する事務をさせて、光禄勲と大鴻臚が助けて、将作大匠と復土将軍に陵墓を整備させて、百官や役人たちを置いて葬式をするよ。車両や旗印、服装などの喪葬の儀礼を漢の制度に倣って行うよ。喪葬にかかる費用は、すべて大司農に委ねるよ。そして、後継者を山陽公として立てて、三統に通じて、永遠に魏の客として永く存続させるよ」
於是贈冊曰:「嗚呼,昔皇天降戾于漢,俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都,劫遷大駕。于時六合雲擾,姦雄熛起。帝自西京,徂唯求定,臻茲洛邑。疇咨聖賢,聿改乘轅,又遷許昌,武皇帝是依。歲在玄枵,皇師肇征,迄于鶉尾,十有八載,羣寇殲殄,九域咸乂。惟帝念功,祚茲魏國,大啟土宇。
だから、任命書を下してこう言ったよ。
「ああ、かつて天帝は漢に災いを降して、逆臣の董卓がその凶暴さを広めて、都を焼き払って、天子を強制的に遷都させたんだ。その時、天下は乱れて、奸雄たちが蜂起したよ。帝は西の都から出発して、ただ安定を求めて、洛陽に着いたよ。賢人たちに相談して、さらに車を改めて許昌に移って、武皇帝(曹操)はこれに従ったよ。木星が玄枵に入って、皇帝は初めて軍を起こして、鶉尾の年になるまで18年、敵は滅ぼされて、国の全土を安寧に導いたよ。帝はその功をたたえて、ここに魏国を興して、広大な土地を開かれたよ。
爰及文皇帝,齊聖廣淵,仁聲旁流,柔遠能邇,殊俗向義,乾精承祚,坤靈吐曜,稽極玉衡,允膺歷數,度于軌儀,克猒帝心。乃仰欽七政,俯察五典,弗采四嶽之謀,不俟師錫之舉,幽贊神明,承天禪位。祚逮朕躬,統承洪業。
そして文皇帝(曹丕)の時代になって、その聖なる知恵は深く広大で、仁徳の名声は広く行き渡ったよ。遠い者も和らげて近い者も親しむことができて、異民族も道義に従ったよ。天の力は帝位を支えて、地の霊は輝きを放ったよ。天文を観察して、歴史の流れに沿って、軌道を守って帝の理想を果たしたよ。かくして天の運行を尊んで、五典を守って、四岳の意見にを頼らないで、賢者の助言も待たないで、神明の奥深き力により天命を受けて位を譲られて、祝福は今、私に引き継がれて、大業を承け継いだの。
蓋聞昔帝堯,元愷旣舉,凶族未流,登舜百揆,然後百揆時序,內平外成,授位明堂,退終天祿,故能冠德百王,表功高嶽。自往迄今,彌歷七代,歲曁三千,而大運來復,庸命底績,纂我民主,作建皇極。念重光,紹咸池,繼韶夏,超羣后之遐蹤,邈商、周之慙德,可謂高朗令終,昭明洪烈之懿盛者矣。
昔、帝堯は才能のある人たちを活かして、邪悪な一族が広がることはなかったよ。舜を百官に登用してからは、百官の制度が整って、内が治まって外が成り立ったよ。舜の位は明堂に授かって、最終的には帝になったよ。だから、堯は百王の頂点に立つ徳を備えて、高山にも勝る功績を誇ることができたの。それから、彼らの時代から今まで7世代を経て、3,000年を越えて、大いなる運命がふたたび巡ってきたんだ。そして今、天命がその実を結んで、我が主に伝わって、天子の正道を確立したよ。美徳を思って、舜や禹を受け継いで、他の多くの王たちの遙かなる足跡を越えて、殷や周が及ばない徳を備えたと言えるだろうね。まさに高潔で清らかに生涯を全うして、光輝く偉業を達成した誉れ高き存在とたたえられるべきだよ。
非夫漢、魏與天地合德,與四時合信,動和民神,格于上下,其孰能至於此乎?朕惟孝獻享年不永,欽若顧命,考之典謨,恭述皇考先靈遺意,闡崇弘謚,奉成聖美,以章希世同符之隆,以傳億載不朽之榮。魂而有靈,嘉茲弘休。嗚呼哀哉!」
漢や魏も、天地と徳を合わせて、四季の誠実さと一致して、民と神の和を動かして、上下に響き渡らせられるのは、いったい誰が成し得たことなの? 私は孝献皇帝が長寿を享受されなかったことを深く悼んで、皇帝の遺命を敬って、典籍を考えて、皇帝の遺志を恭しく述べて、崇高な謚を捧げて、聖なる美徳を完成させたよ。これは、世に並ぶことのない隆盛を表して、永遠に不朽の栄光を伝えるものだよ。もし魂があるなら、その大いなる安らぎを喜ばれることだろうね。ああ、なんと哀しいことなの!」
八月壬申,葬于山陽國,陵曰禪陵,置園邑。葬之日,帝制錫衰弁絰,哭之慟。適孫桂氏鄉侯康,嗣立為山陽公。
八月、壬申の日、山陽国に葬って、その陵墓は禅陵と呼ばれて、墓地を守るための集落が設けられたよ。葬儀の日、曹叡は喪服と冠を授けて、悲しみに暮れたんだ。
孫の桂氏(劉康)が郷侯康として立って、山陽公の後を継いだよ。
蜀と呉が攻めてくる
是月,諸葛亮出斜谷,屯渭南,司馬宣王率諸軍拒之。詔宣王:「但堅壁拒守以挫其鋒,彼進不得志,退無與戰,乆停則糧盡,虜略無所獲,則必走矣。走而追之,以逸待勞,全勝之道也。」(註27)
この月に、諸葛亮が斜谷を出て渭水の南に駐屯したから、司馬懿はたくさんの軍を率いてこれを阻止したよ。詔を司馬懿に下してこう言ったよ。
「ただ堅い壁で守りを固めて、敵の勢いを弱めるべきだよ。敵は進んでも望みを達成できなくて、退いても戦う相手がいなければ、長く待てば敵の食糧が尽きて、略奪するものもなくなるから、敵は必ず退却するよ。そのときに追撃して、疲れた敵に余裕をもって臨むんだ。これが完全な勝利を得る道だよ」
魏氏春秋曰:亮旣屢遣使交書,又致巾幗婦人之飾,以怒宣王。宣王將出戰,辛毗杖節奉詔,勒宣王及軍吏已下,乃止。宣王見亮使,唯問其寢食及其事之煩簡,不問戎事。使對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十已上,皆親覽焉;所啖食不過數升。」宣王曰:「亮體斃矣,其能久乎?」
『魏氏春秋』によると、諸葛亮は何度も使者を送って手紙を交わして、それに巾幗という女性用の頭飾りを送りつけて、司馬懿を怒らせたよ。司馬懿は出撃しようとしたけど、辛毗が節杖を持って詔を捧げて、司馬懿と軍の役人たちを止めたんだ。司馬懿が諸葛亮の使者に会った時、彼の睡眠や食事、日常の忙しさについてだけを尋ねて、戦いについては何も尋ねなかったんだ。使者はこう答えたよ。
「諸葛公は朝早くから夜遅くまで働いて、罰が20以上のものはすべて自ら目を通しているんだ。食事はわずか数升くらいだよ」
司馬懿はこう言ったよ。
「諸葛亮の体はもはや限界だよ。長く持たないだろうね」
五月,太白晝見。孫權入居巢湖口,向合肥新城,又遣將陸議、孫韶各將萬餘人入淮、沔。六月,征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵縣據略陽,終以破隗囂,先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。縱權攻新城,必不能拔。勑諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」
五月、金星が昼間に見えたんだ。孫権は巣湖口に入って、合肥新城に向かって、さらに陸議(陸遜)と孫韶を送って、それぞれ1万人以上を淮水や沔水に入らせたんだ。六月、征東将軍の満寵が進軍してこれに対抗したよ。満寵は新城の守りを抜いて敵を寿春まで追い詰めようとしたけど、曹叡は聞き入れなくて、こう言ったよ。
「昔、漢の光武帝(劉秀)は兵に略陽に拠点を築いて、ついには隗囂を破ったよ。先帝(曹丕)も東に合肥を置いて、南に襄陽を守って、西には祁山を固めたんだ。敵が来ると必ずこの3つの城の下で敵を撃退したよ。これらの地は必ず争われる場所だよ。たとえ孫権が新城を攻めても、簡単には奪えないだろうね。将たちに命令してしっかり守らせて、私も自ら向かうけど、着く前には孫権は退却するかも」
秋七月壬寅,帝親御龍舟東征,權攻新城,將軍張頴等拒守力戰,帝軍未至數百里,權遁走,議、韶等亦退。羣臣以為大將軍方與諸葛亮相持未解,車駕可西幸長安。帝曰:「權走,亮膽破,大將軍以制之,吾無憂矣。」遂進軍幸壽春,錄諸將功,封賞各有差。八月己未,大曜兵,饗六軍,遣使者持節犒勞合肥、壽春諸軍。辛巳,行還許昌宮。
秋の七月、壬寅の日、曹叡は龍舟に乗って、東の方へ軍を送ったよ。孫権は新城を攻めていたよ。将軍の張頴たちは激しい戦いをして守ったけど、曹叡の軍はまだ数百里も離れたところにあったよ。孫権は逃げて、陸議(陸遜)や孫韶たちも後退したよ。臣下たちは、司馬懿がまだ諸葛亮と戦っている間、曹叡が長安に向かうべきだと考えたんだ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「孫権が退いて、諸葛亮の胆は破れたんだ。司馬懿がこれを抑えるから、私には心配がないの」
そして、そして軍を進めて寿春に着いて、将たちの功績を記録して、それぞれに封賞を与えたよ。八月の己未の日、大規模な軍事演習が行われて、全軍をもてなしたよ。そして、節を持つ使者を送って合肥や寿春の軍を労ったよ。辛巳の日、曹叡は許昌宮に帰ったよ。
司馬宣王與亮相持,連圍積日,亮數挑戰,宣王堅壘不應。會亮卒,其軍退還。
司馬懿と諸葛亮は向き合って、数日間、お互いを包囲したんだ。諸葛亮は何度も戦いを挑んだけど、司馬懿の守りはとても固かったよ。そして、諸葛亮が亡くなって、その軍は撤退したよ。
冬十月乙丑,月犯鎮星及軒轅。戊寅,月犯太白。十一月,京都地震,從東南來,隱隱有聲,搖動屋瓦。十二月,詔有司刪定大辟,減死罪。
冬の十月、乙丑の日、月が土星と軒轅の星をかすめたよ。戊寅の日には、月が金星をかすめたんだ。十一月、都で地震があって、東南から来て、かすかな音が聞こえて、屋根が揺れたの。十二月、詔を降して、役人に極刑の制度を修正させて、死刑を減刑したよ。
宮殿を改築する
三年春正月戊子,以大將軍司馬宣王為太尉。己亥,復置朔方郡。京都大疫。丁巳,皇太后崩。乙亥,隕石于壽光縣。三月庚寅,葬文德郭后,營陵于首陽陵澗西,如終制。(註28)
青龍3年(235年)、春の正月、戊子の日、大将軍の司馬懿を太尉に任命したよ。己亥の日、朔方郡をふたたび置いたよ。都では疫病が大流行しちゃった。丁巳の日、皇太后が亡くなったんだ。乙亥の日、寿光県に隕石が落ちたよ。三月の庚寅の日、文徳郭后(郭氏)を葬って、陵墓は首陽陵の西に建てられて、制度に従ったよ。
顧愷之啟蒙注曰:魏時人有開周王冢者,得殉葬女子,經數日而有氣,數月而能語;年可二十。送詣京師,郭太后愛養之。十餘年,太后崩,哀思哭泣,一年餘而死。
顧愷之の『啓蒙注』によると、魏の時代に、ある人が周の王の陵墓を開くと、王と一緒に埋葬された女性が見つかったよ。数日後、彼女は息を吹き返して、数ヶ月後には話せるようになったんだって。その女性は20歳ぐらいだったの。彼女は都に送られて、郭太后に愛され育てられたんだ。10年以上が経って、太后が亡くなって、彼女は悲しみ嘆き悲しんだ後、1年くらいで亡くなったよ。
是時,大治洛陽宮,起昭陽、太極殿,築緫章觀。百姓失農時,直臣楊阜、高堂隆等各數切諫,雖不能聽,常優容之。(註29)
この時、洛陽宮の大規模な改修が行われて、昭陽殿や太極殿を建てて、緫章観を築いたよ。民が農耕の時季を失って、楊阜や高堂隆たちが何度も声をあげて諫めたけど、聞き入れられなかったの。でも、彼らはいつも寛容に扱われたんだ。
魏略曰:是年起太極諸殿,築緫章觀,高十餘丈,建翔鳳於其上;又於芳林園中起陂池,楫櫂越歌;又於列殿之北立八坊,諸才人以次序處其中,貴人夫人以上轉南附焉,其秩石擬百官之數。帝常游宴在內,乃選女子知書可付信者六人,以為女尚書,使典省外奏事,處當畫可,自貴人以下至尚保,及給掖庭灑掃,習伎歌者,各有千數。
『魏略』によると、この年、太極殿をはじめとする殿を建てて、十数丈の高さに総章観を築いて、その上に鳳凰を飾ったよ。それに、芳林園の中に池を造って、船で越歌を奏でながら楽しんだの。さらに、列殿の北側に8つの区画が立ち並んで、才能のある女性たちが順に住んで、貴人や夫人以上の者は南側に置かれたよ。その地位は百官の数を模していたんだって。曹叡は宮中で遊ぶことが多くて、書を知っていて信頼できる女性6人を選んで、女尚書として外部の奏事を管理させて、書類の作成を担当させたよ。それに、貴人から尚保まで、後宮の掃除をする人、歌や踊りの習得をする人が1,000人くらいいたよ。
通引穀水過九龍殿前,為玉井綺欄,蟾蜍含受,神龍吐出。使博士馬均作司南車,水轉百戲。首建巨獸,魚龍曼延,弄馬倒騎,備如漢西京之制,築閶闔諸門闕外罘罳。
谷を流れる水を引き入れて九龍殿の前に流して、玉の井戸や絢爛な欄干を造って、ヒキガエルが水を受けて、神龍が水を吐き出すような装飾をしたよ。それに、博士の馬均に司南車(南を向く車)や水転百戯(水力で古代の音楽を行う仕掛け)を作らせたんだ。まず、大きな獣を建てて、魚龍曼延や弄馬倒騎という演技をしたよ。漢の長安の制度みたいに、宮廷の正門や他の門の外外にも美しい装飾をしたよ。
歲太子舍人張茂以吳、蜀數動,諸將出征,而帝盛興宮室,留意於玩飾,賜與無度,帑藏空竭;又錄奪士女前已嫁為吏民妻者,還以配士,旣聽以生口自贖,又簡選其有姿首者內之掖庭,乃上書諫曰:「臣伏見詔書,諸士女嫁非士者,一切錄奪,以配戰士,斯誠權時之宜,然非大化之善者也。臣請論之。陛下,天之子也,百姓吏民,亦陛下之子也。禮,賜君子小人不同日,所以殊貴賤也。吏屬君子,士為小人,今奪彼以與此,亦無以異於奪兄之妻妻弟也,於父母之恩偏矣。
太子舎人の張茂は、呉や蜀がたびたび動きを見せる中で、将たちが出征しているにもかかわらず、曹叡が宮殿の建築に熱心で、装飾や贈り物は度を越えて、財庫が空になっていることを批判したよ。それに、すでに嫁いで役人や民の妻となっている女性を取り戻して、ふたたび兵に嫁がせるように命令して、身代わりを許して、さらに容姿の優れた者を選んで後宮に入れたんだ。これに上奏して諫めてこう言ったよ。
「私は詔を読んで、兵でない人に嫁いだすべての女性を取り戻して兵にふたたび嫁がせるように命令したことを知ったよ。これは、一時の状況に応じた方策として理解できるけど、決して理想的な統治の方法とは言えないんだ。陛下は天の子で、民や役人もまた陛下の子だよ。礼の教えによれば、君子と小人が同じではないのは、身分の上下を区別するためだよ。役人は君子に属して、兵は小人だよ。兄の妻を奪い取って弟に与えることと変わりないよね。これは父母の恩を偏らせる行いと言えるよ。
又詔書聽得以生口年紀、顏色與妻相當者自代,故富者則傾家盡產,貧者舉假貸貰,貴買生口以贖其妻;縣官以配士為名而實內之掖庭,其醜惡者乃出與士。得婦者未必有懽心,而失妻者必有憂色,或窮或愁,皆不得志。夫君有天下而不得萬姓之懽心者,尠不危殆。
それに詔によると、女官で年齢や見た目が妻と似ている人を買って、自らの妻の代わりにすることが認められたから、富裕な者は家財をすべて使い果たして、貧しい者は借金をしてでも身代わりを買い取って、妻を取り戻そうと努めてるよ。でも、県の役人は兵に配するという名目で、実際にはこれらの女性を後宮に入れて、見た目が悪い人だけを外に出して兵に与えているの。妻を手に入れた者が必ずしも喜びを感じるわけではなくて、妻を失った者は必ず落ち込んだ顔を見せて、、貧しき者や悩む者はその望みを叶えられずにいるんだ。君主が天下を有しても、民の喜びを得られなければ、危機は避けられないだろうね。
且軍師在外數千萬人,一日之費非徒千金,舉天下之賦以奉此役,猶將不給,況復有宮庭非員無錄之女,椒房母后之家賞賜橫興,內外交引,其費半軍。昔漢武帝好神仙,信方士,掘地為海,封土為山,賴是時天下為一,莫敢與爭者耳。自衰亂以來,四五十載,馬不捨鞍,士不釋甲,每一交戰,血流丹野,創痍號痛之聲于今未已。
さらに、軍師が外に出れば千や万の兵が動員されて、1日の費用は千金にとどまらなくて、天下の税をすべてこの任務に費やしてもまだ足りないだろうね。ましてや宮廷には正式な登録のない女性がいて、皇后の一族や妃たちへの褒美が次々に贈られていて、内外の人たちとの交際にも費用がかさんで、その出費は軍費の半分にまで達しているんだ。
昔、漢の武帝(劉徹)が神仙や方士を信じて、地を掘って海を作って、土を盛って山を作ったけど、当時は天下が統一されていて誰も反抗できなかったからこそ成り立っていたの。でも、漢の衰退と混乱が始まってから40から50年が経って、馬は鞍を離せないし、兵は甲を脱ぐことがないし、戦いがあるたびに血が野を赤く染めて、傷を負った者たちの痛ましい叫び声がいまだに止んでいないんだ。
猶彊寇在疆,圖危魏室。陛下不兢兢業業,念崇節約,思所以安天下者,而乃奢靡是務,中尚方純作玩弄之物,炫燿後園,建承露之盤,斯誠快耳目之觀,然亦足以騁寇讎之心矣。惜乎,舍堯舜之節儉,而為漢武之侈事,臣竊為陛下不取也。
今もまだ強い敵が国境に迫っていて、魏の国を脅かそうとしているの。陛下(曹叡)は慎重に努めて、節約を心がけて、天下を安定させる方法を考えないで、むしろ贅沢なことに心を奪われているように見えるよ。宮中の尚方(工官)たちはただ遊び道具を作って、後宮を華やかに飾り立てて、露を受ける大きな皿(漢の武帝によって造られた盤)を造っているよ。これらは確かに目と耳を楽しませるものだけど、同時に敵の欲望を刺激するものだよ。惜しいことに、堯や舜の節約を捨て去って、漢の武帝みたいな贅沢なことをしてしまうなんて、臣下として心から陛下にはふさわしくないと考えるよ。
願陛下沛然下詔,萬幾之事有無益而有損者悉除去之,以所除無益之費,厚賜將士父母妻子之飢寒者,問民所疾而除其所惡,實倉廩,繕甲兵,恪恭以臨天下。如是,吳賊面縛,蜀虜輿櫬,不待誅而自服,太平之路可計日而待也。
どうか陛下(曹叡)が寛大に詔を下して、帝の政務で有益ではなくて害を及ぼす事柄をすべて取り去ってくれますように。無益な費用を削って、その分を将や兵やその家族である父と母や妻と子の飢えや寒さを和らげていただきたいの。そして、民が苦しむ問題を尋ねてその不満を解消して、倉庫を満たして、武具を整えて、恭しく天下に臨んでね。このようにすれば、呉の敵は自ら手を縛って、蜀の敵も棺を運ぶようにして降伏して、討伐を待たないで平定できるよ。太平の世は日を計って待てるだろうね。
陛下可無勞神思於海表,軍師高枕,戰士備員。今羣公皆結舌,而臣所以不敢不獻瞽言者,臣昔上要言,散騎奏臣書,以聽諫篇為善,詔曰:『是也』,擢臣為太子舍人;且臣作書譏為人臣不能諫諍,今有可諫之事而臣不諫,此為作書虛妄而不能言也。臣年五十,常恐至死無以報國,是以投軀沒身,冒昧以聞,惟陛下裁察。」書通,上顧左右曰:「張茂恃鄉里故也。」以事付散騎而已。茂字彥林,沛人。
陛下(曹叡)は、遠く海の向こうまで思いを巡らせる必要はなくて、軍師が安心して眠って、兵が備えとしてそこにいるだけで十分だよ。今、たくさんの公卿が黙っている中、それでも私があえて愚かな言葉を献上するのは、過去に私が提言した時、散騎侍郎が私の書を上奏して、諫言を聞いて善いとする詔が下って、私が太子舎人として任命されたからだよ。それに、私は書を作って、臣下が諫言しないことを批判してきたけど、今ここに諫言すべき事があるにもかかわらず黙っているのは、書を作りながら虚偽を言うことになって、口を閉ざす人と同じことになっちゃうからだよ。私は50歳で、死ぬまでに国に報いることができないことをいつも恐れているの。だから、この身を捧げて陛下に申し上げるよ。どうか裁きを与えてね」
上奏が通ると、曹叡は周りを見回してこう言ったよ。
「張茂は私との故郷のつながりを頼みにしているんだ」
そして散騎侍郎に役務を委ねたよ。
張茂は、字は彦林で、沛の出身だよ。
秋七月,洛陽崇華殿災,八月庚午,立皇子芳為齊王,詢為秦王。丁巳,行還洛陽宮。命有司復崇華,改名九龍殿。冬十月己酉,中山王衮薨。壬申,太白晝見。十一月丁酉,行幸許昌宮。(註30)(註31)(註32)(註33)
秋の七月、洛陽の崇華殿が火事になっちゃった。八月の庚午の日、皇子の曹芳を斉王に、曹詢を秦王に立てたよ。丁巳の日、洛陽宮に帰ったよ。命令を下して、役人に崇華殿を立て直させて、九龍殿に改称したよ。冬の十月の己酉の日、中山王の曹袞が亡くなったんだ。壬申の日、金星が昼間に見えたんだって。十一月の丁酉の日、許昌宮に行幸したよ。
魏氏春秋曰:是歲張掖郡刪丹縣金山玄川溢涌,寶石負圖,狀象靈龜,廣一丈六尺,長一丈七尺一寸,圍五丈八寸,立于川西。有石馬七,其一仙人騎之,其一羈絆,其五有形而不善成。有玉匣關蓋於前,上有玉字,玉玦二,璜一。麒麟在東,鳳鳥在南,白虎在西,犧牛在北,馬自中布列四面,色皆蒼白。其南有五字,曰「上上三天王」;又曰「述大金,大討曹,金但取之,金立中,大金馬一匹在中,大吉開壽,此馬甲寅述水」。凡「中」字六,「金」字十;又有若八卦及列宿孛彗之象焉。
『魏氏春秋』によると、この年、張掖郡刪丹県にある金山の玄川があふれて、湧き出して、宝石が河図を背負って、神秘的な亀の形で現れたんだって。その大きさは幅は1丈6尺、長さは1丈7尺1寸、周囲は5丈8寸で、川の西に立っていたよ。それに、石製の馬が7つあって、そのうち1つには仙人が乗っていて、別の1つには繋がれた跡があって、他の5つは形があるけど完全ではなかったよ。玉の箱が前にあって、蓋が付いていて、上に玉の文字が刻まれていて、玉の玦が2つ、璜(半円形の玉)が1つあるよ。東に麒麟、南に鳳凰、西に白虎、北に牛がいて、馬は中央から四方に置いてあって、すべて青白い色をしているんだ。その南には5つの文字があって、「上上三天王」と書かれているよ。それに、「述大金、大討曹、金但取之、金立中、大金馬一匹在中、大吉開寿、此馬甲寅述水」とも書かれているよ。合計して、「中」という言葉が6回、「金」という言葉が10回出てくるね。さらに、八卦や列宿の彗星のような象徴もあるんだ。
世語曰:又有一雞象。
『世語』によると、鶏をかたどったものもあったよ。
搜神記曰:初,漢元、成之世,先識之士有言曰,魏年有和,當有開石於西三千餘里,繫五馬,文曰「大討曹」。及魏之初興也,張掖之柳谷,有開石焉,始見於建安,形成於黃初,文備於太和,周圍七尋,中高一仞,蒼質素章,龍馬、麟鹿、鳳皇、仙人之象,粲然咸著,此一事者,魏、晉代興之符也。
『搜神記』によると、昔、漢の元帝(前49~33年)から成帝(前33~前7)の時代に、先見の明のある士がこう言ったよ。
「魏の時代には和があって、西に3,000里くらいの地で石が現れて、5頭の馬が繋がれていて、文字には『大討曹』と書かれているだろうね」
そして、魏の時代が始まると、張掖の柳谷にその石が出現したよ。建安の年号の間(196~220年)に初めて現れて、黄初の年号の間(220~226年)に形が整って、太和の年号の間(227~233年)に文字が刻まれたんだって。その石は周囲7丈、高さ1丈、青色の質感に白い模様があって、龍や馬、麒麟、鳳凰、仙人の像がくっきりと現れているんだ。この出来事は、魏と晋の時代の興隆を象徴しているんだ。
至晉泰始三年,張掖太守焦勝上言,以留郡本國圖校今石文,文字多少不同,謹具圖上。桉其文有五馬象,其一有人平上幘,執戟而乘之,其一有若馬形而不成,其字有「金」,有「中」,有「大司馬」,有「王」,有「大吉」,有「正」,有「開壽」,其一成行,曰「金當取之」。
晋の太始3年(267年)、張掖太守(郡の長官)の焦勝が上奏して、郡に留めてあった元々の図と現在の石の文字を比較したところ、文字は少し異なるとして、図を詳細に報告したよ。その石には5頭の馬の姿があって、そのうちの1つには平たい冠をかぶって戟を持って乗した人がいて、もう1つは馬の形をしているけど完全ではないんだ。文字には「金」「中」「大司馬」「王」「大吉」「正」「開寿」などと書かれているよ。そのうちの1行には「金はまさにこれを取るべし」と書かれていたよ。
漢晉春秋曰:氐池縣大柳谷口夜激波涌溢,其聲如雷,曉而有蒼石立水中,長一丈六尺,高八尺,白石畫之,為十三馬,一牛,一鳥,八卦玉玦之象,皆隆起,其文曰「大討曹,適水中,甲寅」。帝惡其「討」也,使鑿去為「計」,以蒼石窒之,宿昔而白石滿焉。至晉初,其文愈明,馬象皆煥徹如玉焉。
『漢晋春秋』によると、氐池県の大柳谷口で夜に波が激しく湧き出して、その音は雷みたいだったの。朝になると、石が水中に立っていて、長さ1丈6尺、高さ8尺で、白石に描かれていて、馬13頭、牛1頭、鳥1羽、八卦の玉玦の象が浮き出ていたよ。すべてが隆起していて、文字には「大討曹、適水中、甲寅」と書かれているよ。皇帝は「討」の文字を嫌って、それを「計」に彫り直させて、蒼石でそれを覆い隠したんだ。長い年月が経って、白石で埋まったよ。晋の初めになると、文字はより明確になって、馬の象はすべて玉みたいに輝いていたんだって。
罪は慎重に裁くべし
四年春二月,太白復晝見,月犯太白,又犯軒轅一星,入太微而出。夏四月,置崇文觀,徵善屬文者以充之。五月乙卯,司徒董昭薨。丁巳,肅慎氏獻楛矢。
青龍4年(236年)、春の二月、金星がまた昼間に見えて、月が金星にかかって、また軒轅の一つの星にもかかって、太微に入って出たよ。夏の四月、崇文観が置かれて、文才のある人を求めて、担当させることになったよ。五月の乙卯の日、司徒の董昭が亡くなったんだ。丁巳の日、粛慎族が楛矢(楛という木でできた矢)を献上したよ。
六月壬申,詔曰:「有虞氏畫象而民弗犯,周人刑錯而不用。朕從百王之末,追望上世之風,邈乎何相去之遠?法令滋章,犯者彌多,刑罰愈衆,而姦不可止。往者桉大辟之條,多所蠲除,思濟生民之命,此朕之至意也。而郡國斃獄,一歲之中尚過數百,豈朕訓導不醇,俾民輕罪,將苛法猶存,為之陷穽乎?
六月の壬申の日、詔を下してこう言ったよ。
「有虞氏(舜)の時代には道徳がしっかりと保たれて、人々は罪を犯すことがなくて、周の時代には刑罰の準備はされていたけど、それを使うことはなかったんだって。私は歴代の帝たちを継いで、古代の風習を追い求めているけど、その距離はあまりにも遠いように感じられるんだ。法令が増えれば増えるほど、罪を犯す者も増えて、刑罰も厳しくなる一方で悪事は止まらないんだ。前に、死罪に関する規定を多く緩めて、民の命を救おうと考えたのは、私の真心からの願いだったの。でも、郡や国での裁きでは、年間数百件を超える罪が今も存在しているんだ。これは私の教えが不十分で民が罪を軽く見ているの? それとも厳しい法律がまだ残っていて、その結果として人々が苦しむことになってしまうからなの?
有司其議獄緩死,務從寬簡,及乞恩者,或辭未出而獄以報斷,非所以究理盡情也。其令廷尉及天下獄官,諸有死罪具獄以定,非謀反及手殺人,亟語其親治,有乞恩者,使與奏當文書俱上,朕將思所以全之。其布告天下,使明朕意。」
役人は死刑を緩めて、寛大でわかりやすい審理を心掛けるようにしてね。恩赦を求める人がいる場合、よく申請内容が伝わる前に裁決が下されちゃうけど、これは理を尽くして情を尽くすための方法ではないよ。だから、廷尉や全国の司法官に命令するよ。死刑を含む罪状について、反逆や直接の殺人でない限り、親族に裁判内容を知らせて、恩赦を願う者がいる場合は、それを請願書と記録した文書を一緒に提出させてね。私はその処遇について考えるからね。この命令を天下に知らせて、私の意向を明らかにしてね」
秋七月,高句驪王宮斬送孫權使胡衞等首,詣幽州。甲寅,太白犯軒轅大星。冬十月己卯,行還洛陽宮。甲申,有星孛于大辰,乙酉,又孛于東方。十一月己亥,彗星見,犯宦者天紀星。十二月癸巳,司空陳羣薨。乙未,行幸許昌宮。
秋の七月、高句驪王の宮が孫権の使者である胡衛たちの首を斬って、幽州に送ったよ。甲寅の日、太白が軒轅の大星に近づいたんだ。冬の十月、己卯の日、洛陽宮に帰ったよ。甲申の日、大辰宿に流星が現れて、乙酉の日には東でも流星が見られたんだって。十一月の己亥の日、彗星が現れて、天紀星に近づいたんだよ。そして、十二月の癸巳の日、司空の陳羣が亡くなったんだ。乙未の日、許昌宮に行幸したよ。
制度を定める
景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。(註34)於是有司奏,以為魏得地統,宜以建丑之月為正。三月,定歷改年為孟夏四月。(註35)
景初元年(237年)、春の正月、壬辰の日、山茌県で黄龍が目撃されたよ。これを受けて、役人たちが上奏して、魏が地統を得ているから、建丑の月(十二月)を正月とするべきだと提案したよ。三月、暦法を改めて新しい年を孟夏四月と定めたよ。
茌音仕狸反。
「茌」の発音は、「仕」の子音に「狸」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲,正朔自宜改變,以明受命之運。及即位,優游者久之,史官復著言宜改,乃詔三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石博議,議者或不同。
『魏書』によると、曹丕が皇帝に即位した時、漢から禅譲を受けたこともあって、漢の暦をそのまま受け継ぐことにして、変えなかったんだ。でも、曹叡は東宮だった時、五帝や三王は同じ血筋であっても礼法を受け継がないのだから、暦も改めるべきだと論じたよ。曹叡が即位した後、この問題についてしばらくの間そのままにしていたけど、史官(記録官)はふたたび暦の変更を提案したよ。三公や特進、九卿、中郎将、大夫、博士、議郎、千石、六百石の官職たちに広く意見を求めるように詔を下したけど、意見は一致しなかったんだ。
帝據古典,甲子詔曰:「夫太極運三辰五星於上,元氣轉三統五行於下,登降周旋,終則又始。故仲尼作春秋,於三微之月,每月稱王,以明三正迭相為首。今推三統之次,魏得地統,當以建丑之月為正月。考之羣藝,厥義章矣。其改青龍五年三月為景初元年四月。」
曹叡は古典に基づいて、甲子の日に詔を下してこう言ったよ。
「太極は天で三辰(太陽・月・星)と五星(木星・火星・土星・金星・水星)を運んで、元気は地で三統(夏、殷、周の暦)と五行を巡らせているよ。それらは上昇して下降して、循環して終わればふたたび始まるよ。だから、仲尼(孔子)は『春秋』を作って、三微(朔・望・晦)の月には毎月「王」と称して、三正がお互いに交代することを明らかにしたよ。今、三統の順序を考えると、魏は地統(殷の暦)を得ているから、建丑の月を正月とすべきだよ。たくさんの学問を検討しても、その意義は明らかだね。そこで、青龍5年の三月を景初元年の四月に改めるよ」
服色尚黃,犧牲用白,戎事乘黑首白馬,建大赤之旂,朝會建大白之旗。(註36)改大和歷曰景初歷。其春夏秋冬孟仲季月雖與正歲不同,至於郊祀、迎氣、礿祠、蒸甞、巡狩、蒐田、分至啟閉、班宣時令、中氣早晚、敬授民事,皆以正歲斗建為歷數之序。
服の色は黄色を尊んで、祭祀の犠牲には白色を使って、戦事では黒い首の白い馬に乗って、大きな赤い旗を掲げて、天子に会う場には大きな白い旗を掲げるようにしたよ。大和暦を景初暦と改称したよ。春夏秋冬の月は、夏の暦の最初の月とは異なるけど、祭祀、気迎え、神の祠への祭り、調理、巡視、田畑の収穫、門の開閉、役割の分担、時の告知、気候の変化、民事の執行などはすべて、夏の暦を基準にして数えることにしたよ。
夏、殷、周の王朝が使った 3 種類の暦があるよ。夏暦は一月、殷暦では十二月、周暦では十一月がそれぞれ正月となるの。夏暦は人統、殷暦は地統、周暦は天統、あわせて三統というよ。「王朝の交代で暦も変えるべき」と主張したのが前漢時代の董仲舒だよ。曹丕は漢の時代の暦をそのまま使うと言って暦を変えなかったの。曹叡が殷暦を採用して十二月を正月としたけど不便なことが増えるのは想像できるね。
服の黄色は五行の土行の色。魏は土徳だから黄色にしたんだね。犠牲の色の白色、戦事で乗る馬の白色は殷の色。旗の赤色は周の色。
臣松之桉:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。
裴松之が調べたところ、魏は土行に該当するから、服の色は黄色を好んだよ。殷の時代には、建丑を正月としていたから、犠牲の儀式では殷の儀式に倣って旗を立てたよ。
禮記云:「夏后氏尚黑,故戎事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」鄭玄云:「夏后氏以建寅為正,物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」周禮巾車職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大赤即戎。
『礼記』によると、夏后氏(禹)は黒色を尊んで、戦事では黒い馬に乗って、犠牲には黒色を使ったよ。殷の人たちは白色を尊んで、戦事では白い馬に乗って、犠牲には白色を使ったよ。周の人たちは赤色を尊んで、戦事では赤い馬に乗って、犠牲には騂(赤茶)色を使ったよ
鄭玄によると、夏后氏(禹)は建寅を正月として、物の生まれる色は黒色だよ。殷は建丑を正月として、物の出る色は白だよ。周は建子を正月として、物の萌える色は赤だよ。『翰』とは白い馬で、『易経』には『白馬翰如』とあるよ。
『周礼』の巾車の職業には、「大赤を建てて朝とする」とあって、大白色の旗を戦に使うよ。
これは、周が朝廷で正しい色(周の色)の旗を使って、戦時には先代(殷)の旗を使ったことを示しているよ。でも、今の魏は殷の儀式を採用して、周の制度を変えたから、朝廷で大白色の旗を使って、戦いの時には大赤色の旗を使うんだよ。
五月己巳,行還洛陽宮。己丑,大赦。六月戊申,京都地震。己亥,以尚書令陳矯為司徒,尚書右僕射衞臻為司空。丁未,分魏興之魏陽、錫郡之安富、上庸為上庸郡。省錫郡,以錫縣屬魏興郡。
五月、己巳の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。己丑の日、大赦が行われたよ。六月、戊申の日、都で地震が起こったんだ。己亥の日、尚書令の陳矯を司徒に、尚書右僕射の衞臻を司空に任命したよ。丁未の日、魏興の魏陽と、錫郡の安富と上庸を上庸郡に分けたよ。錫郡は廃止されて、錫県は魏興郡に組み込まれたんだ。
有司奏:武皇帝撥亂反正,為魏太祖,樂用武始之舞。文皇帝應天受命,為魏高祖,樂用咸熈之舞。帝制作興治,為魏烈祖,樂用章武之舞。三祖之廟萬世不毀,其餘四廟親盡迭毀,如周后稷、文、武廟祧之制。(註37)
役人が上奏してこう言ったよ。
「武皇帝(曹操)は乱を収めて正しい道に戻して、魏の太祖となって、礼楽に『武始の舞』を採用したよ。次に、文皇帝(曹丕)が天命を受けて魏の高祖となって、『咸熙の舞』を採用したよ。帝(曹叡)は新たに治世を築いて魏の烈祖となって、『章武の舞』を採用したよ。この三祖の廟は永遠に崩れることなくて、それ以外の4つの廟は親族が途絶えるごとに順次壊されていくんだ。これは周の后稷、文王、武王の廟の先祖の祭祀の制度に倣ったものなんだ」
孫盛曰:夫謚以表行,廟以存容,皆於旣沒然後著焉,所以原始要終,以示百世也。未有當年而逆制祖宗,未終而豫自尊顯。昔華樂以厚斂致譏,周人以豫凶違禮,魏之羣司,於是乎失正。
孫盛によると、諡はその人の行いを表して、廟はその姿を留めるもので、どちらもその人が亡くなった後に定められるよ。これは物事の始まりを振り返って、終わりを明確にして、後の世に示すためのものだよ。だから、生前に自らの祖先や自分自身をあらかじめ自分を高めることはないんだ。昔、華元や楽莒は贅沢な葬儀で非難されて、周の人たちは凶事を前もって行って礼に反していたから批判されたんだ。魏の役人たちも同じように、正しい道を見失っちゃった。
秋七月丁卯,司徒陳矯薨。孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡,荊州刺史胡質等擊之,然退走。初,權遣使浮海與高句驪通,欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑、烏丸屯遼東南界,璽書徵公孫淵。淵發兵反,儉進軍討之,會連雨十日,遼水大漲,詔儉引軍還。
秋の七月、丁卯の日、司徒の陳矯が亡くなったんだ。孫権は将の朱然たち2万人に江夏郡を包囲させたけど、荊州刺史(州の長官)の胡質たちがこれを撃退して、朱然は退却したよ。
前に、孫権は使者を海路で送って高句驪と交流して、遼東を襲撃しようとしたんだ。魏は幽州刺史の毌丘倹に命令して軍と鮮卑族、烏丸族の兵を率いて遼東の南の境に駐屯させて、公孫淵を招く璽書を送ったよ。でも、公孫淵は兵を出して反乱を起こしたから、毌丘倹は討伐のために進軍したよ。ちょうどその頃、雨が10日も降って、遼水が増水しちゃったから、毌丘倹に帰るように詔を出したよ。
右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督王護留等居遼東,率部衆隨儉內附。己卯,詔遼東將吏士民為淵所脅略不得降者,一切赦之。辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。
右北平の烏丸族の単于の寇婁敦や遼西烏丸都督の護留たちが遼東にとどまって、自分たちの部下を率いて毌丘倹に従ったんだ。己卯の日、遼東の将や役人、士人や民で、公孫淵に脅されて降伏できなかった者は、みんな許されたよ。辛卯の日、金星が昼間に現れたんだ。公孫淵は毌丘倹が帰った後、燕王として独立して、百官を置いて、紹漢元年を宣言したんだ。
詔青、兖、幽、兾四州大作海船。九月,兾、兖、徐、豫四州民遇水,遣侍御史循行沒溺死亡及失財產者,在所開倉振救之。庚辰,皇后毛氏卒。冬十月丁未,月犯熒惑。癸丑,葬悼毛后于愍陵。乙卯,營洛陽南委粟山為圜丘。(註38)
詔を下して、青州、兗州、幽州、冀州の4つの州で海船の大規模な建造を行わせたよ。九月、冀州、兗州、徐州、豫州の4つの州で水害にあった人たちがいて、侍御史を送って溺死者や財産を失った人を探して、被災地での救援を行わせたよ。庚辰の日、皇后の毛氏が亡くなったんだ。冬の十月、丁未の日、月が火星にかかったよ。癸丑の日、毛后を悼んで愍陵に埋葬したよ。乙卯の日、洛陽の南の委粟山に圜丘(冬至に天を祭祀する場所)を築いたよ。
魏書載詔曰:「蓋帝王受命,莫不恭承天地以章神明,尊祀世統以昭功德,故先代之典旣著,則禘郊祖宗之制備也。昔漢氏之初,承秦滅學之後,采摭殘缺,以備郊祀,自甘泉后土、雍宮五畤,神祇兆位,多不見經,是以制度無常,一彼一此,四百餘年,廢無禘祀。
『魏書』によると、詔を下してこう言ったよ。
「そもそも帝王が天命を受けるとき、天地の道を謹んで承けて神明を明らかにして、代々の統治者を尊んで祭祀をして、その功績と徳を示すよ。だから、先代の典礼が定められると、祖宗を祀る『禘礼』と『郊祀』の制度も整うの。
昔、漢の王朝の初期には、秦が学問を絶やした後で、散逸した部分を集めて郊祀を整えたけど、甘泉の后土(大地の神)や雍宮の五畤(天地を祀る場所)といった祭祀の規定は多くが古典に残っていなくて、制度が安定しなくて場所もまちまちだったんだ。そして、400年の間、『禘祀』は廃されて行われなかったんだ。
古代之所更立者,遂有闕焉。曹氏繫世,出自有虞氏,今祀圜丘,以始祖帝舜配,號圜丘曰皇皇帝天;方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;地郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配;宗祀皇考高祖文皇帝於明堂,以配上帝。」至晉泰始二年,并圜丘、方丘二至之祀於南北郊。
古代に立てられた祭祀は、長い時の中で途絶えてしまったものもあるよ。曹氏は有虞氏(舜)から出た家柄だから、圜丘での祭祀で始祖である帝舜を祀って、圜丘を『皇皇帝天』と呼んでいるよ。方丘での祭祀では舜の妃である伊氏を祀って、『皇皇后地』と呼んでいるよ。天郊の祭祀では『皇天の神』として太祖である武皇帝(曹操)を祀って、地郊では『皇地の祇』として武宣后(卞氏)を祀っているよ。そして、明堂での宗祀では、高祖である文皇帝(曹丕)を祀って、天帝に捧げているよ」
晋の泰始2年(266年)、圜丘と方丘の両方の祭壇を南北の郊外に建てたよ。
十二月壬子冬至,始祀。丁巳,分襄陽臨沮、宜城、旍陽、邔(註39)四縣,置襄陽南部都尉。己未,有司奏文昭皇后立廟京都。分襄陽郡之鄀葉縣屬義陽郡。(註40)(註41)(註42)
十二月、壬子の日、冬至だから祭祀を始めたよ。丁巳の日、襄陽の臨沮、宜城、旍陽、邔の4つの県を分けて、襄陽南部都尉を置いたよ。己未の日、廟を都に建てるようにという上奏があったよ。襄陽郡の鄀葉県は義陽郡に属することになったよ。
邔音其己反
「邔」の発音は、「其」の子音に「己」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。
魏略曰:是歲,徙長安諸鐘簴、駱駝、銅人、承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁仲,列坐於司馬門外。又鑄黃龍、鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置內殿前。起土山於芳林園西北陬,使公卿羣僚皆負土成山,樹松竹雜木善草於其上,捕山禽雜獸置其中。
『魏略』によると、この年には、長安の宮殿から鐘と鐘釣り台、ラクダ、銅人像2、承露盤(漢の武帝によって造られた盤)を移動したよ。承露盤は折れて、銅人像2は重すぎて運べなかったから、覇城に残したんだ。そして、大量の銅を使って新たに銅人像2体を造って、「翁仲」と名付けて、司馬門の外に並べて置いたよ。さらに、黄龍と鳳凰をそれぞれ1体ずつを造って、龍は高さ4丈、鳳凰は高さ3丈以上で、内殿の前に置かれたよ。それに、芳林園の北西に土山を築いて、公卿や臣下たちに土を運ばせて山を完成させて、その上に松や竹、様々な木や良質な草を植えて、さらに山の鳥や様々な獣を捕らえて置いたんだ。
漢晉春秋曰:帝徙盤,盤折,聲聞數十里,金狄或泣,因留於霸城。
『漢晋春秋』によると、曹叡が承露盤を移動させた時、盤が折れて、その音が数十里先まで聞こえたんだって。金属で作られた像で涙を流したものがあって、そのまま覇城にとどまることになったんだ。
魏略載司徒軍議掾河東董尋上書諫曰:「臣聞古之直士,盡言於國,不避死亡。故周昌比高祖於桀、紂,劉輔譬趙后於人婢。天生忠直,雖白刃沸湯,往而不顧者,誠為時主愛惜天下也。建安以來,野戰死亡,或門殫戶盡,雖有存者,遺孤老弱。
『魏略』によると、司徒軍議掾で河東の出身の董尋が上書して諫めてこう言ったよ。
「私は思うに、昔の正直な士は、死を恐れないで、国のために率直に意見を尽くしたよ。例えば、周昌は高祖(劉邦)を桀や紂にたとえて、劉輔は趙皇后を召使いにたとえたんだ。天は忠直な者を生み出して、彼らはたとえ白刃や熱湯が目の前にあっても、恐れないで突き進んで、背を向けることがなかったよ。彼らは本当にその時代の主君が天下を惜しむことを望んでいたからだよ。建安の時代以降、戦争でたくさんの人が亡くなって、家や一族が尽きた者もいて、たとえ生き残った者でも、遺されたのは孤児や老人や幼い子たちばかりなんだ。
若今宮室狹小,當廣大之,猶宜隨時,不妨農務,況乃作無益之物,黃龍、鳳皇,九龍、承露盤,土山、淵池,此皆聖明之所不興也,其功參倍於殿舍。三公九卿侍中尚書,天下至德,皆知非道而不敢言者,以陛下春秋方剛,心畏雷霆。
もし今の宮殿が狭くて小さいなら、広くするのが当然だけど、適切な時期を選んで、農作業の邪魔にならないようにすべきだよ。ましてや、黄龍や鳳凰、九龍の装飾や承露盤、土山や池など、無益なものを造ることは、聖明な君主が興すべきものではないよね。これらの工事は殿舎の3倍以上の労力がかかるんだ。三公、公卿、侍中、尚書、そして天下の徳の高い人たちはみんな、道に反することと理解しているけど、口に出せないでいるんだ。なぜなら、陛下(曹叡)がまだ壮年で威厳があって、雷霆みたいな威圧を持っているからね。
今陛下旣尊羣臣,顯以冠冕,被以文繡,載以華輿,所以異於小人;而使穿方舉土,面目垢黑,沾體塗足,衣冠了鳥,毀國之光以崇無益,甚非謂也。孔子曰:『君使臣以禮,臣事君以忠。』無忠無禮,國何以立!
今、陛下(曹叡)は臣下たちを大切にして、高位の冠を授けて、文様の刺繍が施された衣をまとわせて、華やかな輿に乗せることで身分の低い者とは異なる扱いをしているよね。でも、そのような臣下たちに土を掘らせて、顔や体が泥まみれになって、衣も冠も台無しになって国の威光を損ねてまで、無益なものを築き上げるのは、すごく不適切なことだよ。孔子は『君主が臣下に礼をもって接すれば、臣下は忠をもって仕える』と言ったよ。忠も礼もなければ、どうして国が成り立つの!
故有君不君,臣不臣,上下不通,心懷鬱結,使陰陽不和,災害屢降,凶惡之徒因閒而起,誰當為陛下盡言是者乎?又誰當干萬乘以死為戲乎?臣知言出必死,而臣自比於牛之一毛,生旣無益,死亦何損?秉筆流涕,心與世辭。臣有八子,臣死之後,累陛下矣!」將奏,沐浴。旣通,帝曰:「董尋不畏死邪!」主者奏收尋,有詔勿問。後為貝丘令,清省得民心。
だから、君主が君主らしくなくて、臣下が臣下らしくなくて、上下の通じる道がなくなって、人々の心に心配が溜まると、陰陽の調和が乱れて、災害が繰り返し降りかかって、悪い人たちが隙をついて起こるの。いったい誰が陛下(曹叡)のためにこれらのことを率直に言うの? それに、誰が命を懸けて進言するの? 私は言えば必ず死を免れないことをわかっているけど、自らを牛の毛一本にも満たない存在で、生きていても役に立たないし、死んでも何の損もないと思っているんだ。筆を取って涙を流しながら、心でこの世に別れを告げているよ。私には8人の子がいるから、私が死んだ後、彼らのことをどうか陛下にお頼み申し上げるよ!」
董尋は上奏しようとして、身を清めたよ。文書が通ると、曹叡はこう言ったよ。
「董尋は死を恐れないのか!」
担当者は董尋を連れて来ようとしたけど、詔が出て問わないようにしたよ。
その後、彼は貝丘の令に任命されて、清廉で民の心を得たんだって。
襄平の戦い
二年春正月,詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。(註43)(註44)(註45)
景初2年(238年)、春の正月、詔を下して、太尉の司馬懿に軍を率いて遼東を討たせたよ。
干竇晉紀曰:帝問宣王:「度淵將何計以待君?」宣王對曰:「淵棄城預走,上計也;據遼水拒大軍,其次也;坐守襄平,此為成禽耳。」帝曰:「然則三者何出?」對曰:「唯明智審量彼我,乃預有所割棄,此旣非淵所及,又謂今往縣遠,不能持久,必先拒遼水,後守也。」帝曰:「往還幾日?」對曰:「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣。」
干宝の『晋紀』によると、曹叡が司馬懿にこう尋ねたよ。
「公孫淵はどんな計略で私たちに対抗するのかな?」
司馬懿はこう答えたよ。
「公孫淵が城を捨てて、あらかじめ逃げるのが最もいい策だよ。遼水に陣を張って大軍を拒むのが次にいい策だよ。襄平に留まって守るだけであれば、彼は捕らえられる運命に過ぎないよ」
曹叡はこう尋ねたよ。
「それなら、この3つのうち、どの策を取るのかな?」
司馬懿はこう答えたよ。
「敵と私たちをよく見極めて、あらかじめ戦略的な後退を決断できるほどの知恵があればよいけど、公孫淵はこれをできないだろうね。それに、現地が遠く補給が続かないから、まず遼水で守って、その後に守備に入ると予想するよ」
曹叡はこう尋ねたよ。
「出征して帰るまでどのくらいの日数がかかるの?」
司馬懿はこう答えたよ。
「出征は100日、攻めるのも100日、帰りも100日で、そのうちの60日は休息とすると、1年で十分だよ」
魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰:「臣聞先王制法,必於全慎,故建官授任,則置假輔,陳師命將,則立監貳,宣命遣使,則設介副,臨敵交刃,則參御右,蓋以盡謀思之功,防安危之變也。是以在險當難,則權足相濟,隕缺不預,則手足相代,其為固防,至深至遠。
『魏名臣奏』によると、散騎常侍の何曾が上表してこういったよ。
「私は聞いているけど、先王は法を定める時には必ず慎重に万全を考えたよ。役職を設けて任務を与える時には必ず補佐を置いて、軍を立てて将に命令する時には監督役を立てて、命令を伝えて使者を送る時には副使者をつけて、敵と刃を交える時には補佐役をつけたよ。これらはすべて、知恵と考えを尽くして任務を全うして、危険を未然に防ぐためのものなんだ。だから、難所や困難に直面する場合には助け合って、予期していない欠員が生じた場合でも役割を補って、守りの備えがとても深くて、遠い将来にまで及んでいたの。
及至漢氏,亦循舊章。韓信伐趙,張耳為貳;馬援討越,劉隆副軍。前世之迹,著在篇志。今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路迴阻,四千餘里,雖假天威,有征無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常期。人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。
漢の時代も、この例に従っていたんだ。韓信が趙を討つ時には張耳が補佐になったよね。馬援が越を討つ時には劉隆が副将になったよ。このような前代の事例は記録として残っているよ。
今、司馬懿は詔を受けて、罪のある人を征伐しに行って、数万の歩兵と騎兵を率いているけど、道は遠くて険しくて、4,000里以上も行軍するんだ。天の威光に頼って、戦を避けながら進んでいるけど、敵が潜んで逃げることもあって、日月が経つにつれて兵は消耗して、いつまで進軍を続ければいいのかわからなくなっちゃうね。人は金石ではないから、遠くまで考え抜いて準備を整えるためにも、確かに副将を置くべきだよ。
今北邊諸將及懿所督,皆為僚屬,名位不殊,素無定分,卒有變急,不相鎮攝。存不忘亡,聖達所戒,宜選大臣名將威重宿著者,盛其禮秩,遣詣懿軍,進同謀略,退為副佐。雖有萬一不虞之災,軍主有儲,則無患矣。」
今、北辺の将と司馬懿の配下たちはみんな部下で、地位や身分に大きな差がなくて、もとからはっきりとした役割分担がないんだ。もし急な変事があれば、お互いに指揮が取れない状況だよ。存続の中でいつも滅亡の危機を忘れないことは、聖賢が警戒するところだよね。だから、大臣や名将の中から威望があって信頼の厚い者を選んで、礼を尽くして任命して、司馬懿の軍へ送るべきだよ。彼らが一緒に戦略を練って、補佐役として控えていれば、万が一予想外の災難があったとしても、軍の指揮官に代わりがいるから、問題はないだろうね」
毌丘儉志記云,時以儉為宣王副也。
毌丘倹の『志記』によると、この時、毌丘倹を司馬懿の副将にしたらしいよ。
二月癸卯,以大中大夫韓曁為司徒。癸丑,月犯心距星,又犯心中央大星。夏四月庚子,司徒韓曁薨。壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹(註46)十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣為沛王國。庚戌,大赦。五月乙亥,月犯心距星,又犯中央大星。(註4)六月,省漁陽郡之狐奴縣,復置安樂縣。
二月、癸卯の日、大中大夫の韓曁を司徒に任命したよ。癸丑の日、月が心宿の距星にかかって、心宿の中央大星にも入ったよ。夏の四月、庚子の日、司徒の韓曁が亡くなったんだ。壬寅の日、沛国の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹の10県を分けて、汝陰郡に編入したよ。宋県と、陳郡の苦県を、譙郡に組み込んだよ。そして、沛、杼秋、公丘、彭城の豊国、広戚の5県を沛国に編入したよ。庚戌の日、大赦を行ったよ。
五月、乙亥の日、月が心宿の距星にかかって、心宿の中央大星にも入ったよ。六月、漁陽郡狐奴県を廃止して、安楽県を置いたよ。
洨音胡交反。虹音絳。
「洨」の発音は、「胡」の子音に「交」の母音と声調を加えたものだよ(反切)。「虹」の発音は、「絳」だよ。
魏書載戊子詔曰:「昔漢高祖創業,光武中興,謀除殘暴,功昭四海,而墳陵崩頹,童兒牧豎踐蹈其上,非大魏尊崇所承代之意也。其表高祖、光武陵四面百步,不得使民耕牧樵採。」
『魏書』によると、戊子の日、詔を下してこう言ったよ。
「昔、漢の高祖(劉邦)が国を興して、光武帝(劉秀)は中興を成し遂げて、残虐な勢力を除いて、天下にその功績を示したよ。でも、今は彼らの陵墓が荒れていて、子供たちがその上を踏み荒らしているの。これは偉大なる魏が尊敬すべき漢を受け継ぐ意には反するものだよ。そこで、高祖と光武帝の陵墓の周囲100歩以内には、民が農業をしたり、牧畜をしたり、木を集めたりすること禁止するように命令するよ」
秋八月,燒當羌王芒中、注詣等叛,涼州刺史率諸郡攻討,斬注詣首。癸丑,有彗星見張宿。(註48)(註49)
秋の八月、焼当の羌族の王の芒中や注詣たちが反乱を起こしたんだ。涼州刺史(州の長官)は郡を率いてこれを討伐して、注詣の首を斬ったよ。癸丑の日、張宿で彗星が観測されたんだって。
漢晉春秋曰:史官言於帝曰:「此周之分野也,洛邑惡之。」於是大脩禳禱之術以厭焉。
『漢晋春秋』によると、史官が曹叡にこう言ったよ。
「この事象は周の領域で起こったもので、洛邑(洛陽)はこれを嫌うんだ」
だから、大々的な祈祷や儀式を行って、これを鎮めようとしたよ。
魏書曰:九月,蜀陰平太守廖惇反,攻守善羌侯宕蕈營。雍州刺史郭淮遣廣魏太守王贇、南安太守游弈將兵討惇。淮上書:「贇、弈等分兵夾山東西,圍落賊表,破在旦夕。」帝曰:「兵勢惡離。」促詔淮勑弈諸別營非要處者,還令據便地。詔勑未到,弈軍為惇所破;贇為流矢所中死。
『魏書』によると、九月、蜀の陰平太守(郡の長官)である廖惇(廖化)が反乱を起こして、守善羌侯の宕蕈の陣営を攻めたんだ。雍州刺史(州の長官)の郭淮は、広魏太守の王贇と南安太守の游弈に兵を率いて廖惇を討たせたよ。郭淮は上書してこう言ったよ。
「王贇や游弈たちは兵を分けて、山を東西から挟撃して、敵の拠点を包囲するよ。敵の陣地を打ち破るのは時間の問題だよ」
曹叡は「兵の勢いが分かれるのはよくないな」と言って、郭淮に急いで命令して、游弈を重要でない場所から撤退させて、形勢に都合のいい場所に置くように命令したよ。命令が届く前に、游弈の軍は廖惇に敗れちゃって、王贇は流れ矢に当たって戦死しちゃった。
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」
丙寅の日、司馬懿は襄平で公孫淵を包囲して、大勝利を収めたよ。公孫淵の首が都に送られて、東のいくつかの郡が平定されたよ。冬の十一月、功績をたたえて、太尉の司馬懿以下の諸侯に土地や爵位を与えることを決定したよ。
当初は、曹叡は司馬懿に公孫淵を討伐させることを議論して、4万の兵を動員することにしたよ。議論する臣下たちはみんな、4万の兵は多すぎて、その軍費の調達が難しいと考えていたんだ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「4,000里の遠征だよ。奇策を使うとはいえ、力を傾けなきゃならないんだ。軍費をあまり気にするべきではないよ」
遂以四萬人行。及宣王至遼東,霖雨不得時攻,羣臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。
そして、4万人の兵を動員したよ。司馬懿が遼東に着いた時、時期外れの大雨で攻撃ができなかったから、臣下の中には公孫淵がまだ打ち破れないと考える者もいて、司馬懿に帰るよう命令するべきだという意見が出たんだ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「司馬懿は危機にぶつかっても局面を変えられるんだ。公孫淵を捕らえる日を待つだけだよ」
最終的に、すべては曹叡の計画どおりになったね。
病に倒れる
壬午,以司空衞臻為司徒,司隷校尉崔林為司空。閏月,月犯心中央大星。十二月乙丑,帝寢疾不豫。辛巳,立皇后。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨穀。以燕王宇為大將軍,甲申免,以武衞將軍曹爽代之。(註50)
壬午の日、衛臻を司徒に、崔林を司空に任命したよ。閏月、月が心宿の中央大星にかかったよ。十二月、乙丑の日、曹叡は病気で寝込んだよ。辛巳の日、皇后を立てて、天下の男子には爵位を二級授けて、未婚、寡婦、孤児、貧しい者には穀物を与えることにしたよ。燕王の曹宇を大将軍に任命して、甲申の日に解任して武衛将軍の曹爽を代わりに任命したんだ。
漢晉春秋曰:帝以燕王宇為大將軍,使與領軍將軍夏侯獻、武衞將軍曹爽、屯騎校尉曹肈、驍騎將軍秦朗等對輔政。中書監劉放、令孫資久專權寵,為朗等素所不善,懼有後害,陰圖間之,而宇常在帝側,故未得有言。
『漢晋春秋』によると、曹叡は燕王の曹宇を大将軍に任命して、領軍将軍の夏侯献、武衛将軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎将軍の秦朗たちに政務を補佐させたよ。中書監の劉放や中書令の孫資は長らく権力を握っていたんだ。彼らは秦朗たちとは仲が悪かったから、将来の危害を恐れて別れるように策を巡らしたんだ。でも、曹宇はいつも曹叡の側にいたから、彼らは言えなかったんだ。
甲申,帝氣微,宇下殿呼曹肈有所議,未還,而帝少間,惟曹爽獨在。放知之,呼資與謀。資曰:「不可動也。」放曰:「俱入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王耶?」
甲申の日、曹叡の体調が悪化して、曹宇は下殿して曹肇と協議するために出て行ったよ。彼がまだ戻らないうちに、曹叡は少し持ち直したの。その場には曹爽だけが残っていたよ。劉放はこれを知って、孫資を呼んで一緒に話し合ったんだ。孫資はこう言ったよ。
「動くべきではないよ」
劉放はこう言ったよ。
「一緒に煮えたぎる釜の中に入るのと同じ状況なのに、どうして動いてはならないと言えるの?」
思い切って曹叡の前に進み出て涙ながらにこう言ったよ。
「あなたの容態が思わしくない場合、天下を誰に任せるつもりなの?」
曹叡はこう言ったよ。
「あなたは燕王(曹宇)を使うという話を聞いていないの?」
放曰:「陛下忘先帝詔勑,藩王不得輔政。且陛下方病,而曹肈、秦朗等便與才人侍疾者言戲。燕王擁兵南面,不聽臣等入,此即豎刀、趙高也。今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存亡,而近係恩舊。委祖考之業,付二三凡士,寢疾數日,外內擁隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也。」
劉放はこう言ったよ。
「陛下(曹叡)は先帝(曹丕)の遺した詔を忘れたの? 藩王は政務を補佐することを許されていないの。さらに陛下が病気のさなかなのに、曹肇や秦朗たちは看病している人たちと冗談を言い合っているんだ。燕王(曹宇)は兵を南に向けていて、私たちが入ることを許さないの。これは豎刀や趙高みたいな振る舞いだね。今、皇太子は幼くて、政務を執ることができないし、外には強暴な敵が迫っているし、内には疲弊と不満を抱えた民がいるんだ。陛下は存亡を遠くに見ないで、親しい人たちばかりと関係を結んで恩恵を与えているよ。祖先の事業を2から3人の普通の人に委ねて、数日も病床に伏せて、内外を閉じて、国家が危機に瀕しているのに、それを知ることさえないんだ。これが私たちの心を痛める理由だよ」
豎刀は、春秋時代の斉の桓公の臣下だよ。斉の桓公が亡くなった後に内乱が起こったきっかけ。管仲によると「この人を使うのはやめようね」。詳しくは『史記』「斉太公世家」、『春秋左氏伝』「桓公十七年」を見てね。
趙高は、秦の政治家だよ。秦の二世皇帝を殺した人だよ。詳しくは『史記』「秦始皇本紀」を見てね。
帝得放言,大怒曰:「誰可任者?」放、資乃舉爽代宇,又曰「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之。放、資出,曹肈入,泣涕固諫,帝使肈勑停。肈出戶,放、資趨而往,復說止帝,帝又從其言。放曰:「宜為手詔。」帝曰:「我困篤,不能。」放即上牀,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中。」於是宇、肈、獻、朗相與泣而歸第。
曹叡は劉放の言葉を聞いて、とても怒ってこう言ったよ。
「誰を使うべきなの?」
劉放と孫資は曹爽を曹宇の代わりに推挙して、こう言ったよ。
「詔を出して、司馬懿に補佐させるのがよいだろうね」
曹叡はこれに従ったよ。劉放と孫資が退出すると、曹肇が入って泣きながら何度も諫めたから、曹叡は曹肇に命令して詔をやめさせたんだ。曹肇が退出すると、劉放と孫資が駆け寄って来て、ふたたび曹叡を説得して、曹叡はふたたび彼らの言葉に従ったよ。劉放はこう言ったよ。
「詔をその手で出すべきだよ」
曹叡はこう言ったよ。
「私は病気が重くて、できないの」
そこで、劉放は床に上がって、曹叡の手を握りしめて強引に書かせたんだ。そして、詔書を持ち出して、大声でこう言ったよ。
「命令だよ。燕王の曹宇たちの職を解任して、宮中に留まることを許さないとの詔があるよ」
そして、曹宇、曹肇、夏侯献、秦朗は涙を流しながら帰ったんだ。
初,青龍三年中,壽春農民妻自言為天神所下,命為登女,當營衞帝室,蠲邪納福。飲人以水,及以洗創,或多愈者。於是立館後宮,下詔稱揚,甚見優寵。及帝疾,飲水無驗,於是殺焉。
青龍3年(235年)の頃、寿春の農民の妻が「天の神に遣わされて、登女と命令されて、帝室を守って、邪を祓って福をもたらす役目を持っている」と言ったんだ。彼女は人々に水を飲ませたり、傷を洗ったりして、たくさんの人たちが癒されることがあったよ。だから、後宮には彼女のための館が建てられて、曹叡の詔でほめたたえられて、とても気に入られたんだ。でも、曹叡が病気で倒れると、彼女の与える水には効果がないとわかって、彼女は処刑されたんだ。
曹叡の死
三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入卧內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。(註51)(註52)即日,帝崩于嘉福殿,(註53)時年三十六。(註54)癸丑,葬高平陵。(註55)(註56)
景初3年(239年)、春の正月、丁亥の日、太尉の司馬懿が河内に帰ったよ。曹叡は馬車で迎えに行って、司馬懿を自分の部屋に案内して、彼の手を握りながらこう言ったよ。
「私の病は重いんだ。今後のことはあなたに任せるよ。あなたは曹爽と一緒に幼い皇子を助けてね。あなたに会えたことで、もう何も心残りはないよ!」
司馬懿は頭を下げて、涙を流したよ。
その日のうちに、曹叡は嘉福殿で亡くなったんだ。この時36歳だったよ。癸丑の日、高平陵に葬られたよ。
魏略曰:帝旣從劉放計,召司馬宣王,自力為詔,旣封,顧呼宮中常所給使者曰:「辟邪來!汝持我此詔授太尉也。」辟邪馳去。先是,燕王為帝畫計,以為關中事重,宜便道遣宣王從河內西還,事以施行。宣王得前詔,斯須復得後手筆,疑京師有變,乃馳到,入見帝。勞問訖,乃召齊、秦二王以示宣王,別指齊王謂宣王曰:「此是也,君諦視之,勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸。
『魏略』によると、曹叡は劉放の計画に従って、司馬懿を呼んで、自分で詔を書いたよ。詔書を完成させると、いつも仕えていた宮中の使者を呼んでこう言ったよ。
「辟邪(使用人)よ、来て! これを太尉(司馬懿)に渡すために持っていって!」
彼は急いで行ったよ。
これより前に、燕王(曹宇)は曹叡のために計画を立てて、関中の情勢は重要だから、司馬懿を河内から西に向かわせるべきだと進言したよ。司馬懿が最初の詔を受ると、しばらくしてふたたび後の直筆の指示が届いたから、都に異変があるのではと疑って、急いで宮中へ行って、曹叡に会ったよ。労をねぎらわれた後、曹叡は斉王(曹芳)と秦王(曹詢)を呼んで、司馬懿に示して、別に斉王を指して司馬懿に言ったよ。
「これだ、あなたはよく見て間違わないように」
そして、斉王に司馬懿の首に抱きつくよう教えたよ。
魏氏春秋曰:時太子芳年八歲,秦王九歲,在于御側。帝執宣王手,目太子曰:「死乃復可忍,朕忍死待君,君其與爽輔此。」宣王曰:「陛下不見先帝屬臣以陛下乎?」
『魏氏春秋』によると、この時、太子の曹芳は8歳で、秦王(曹詢)は9歳で、ふたりは曹叡の側にいたんだ。曹叡は司馬懿の手を握って、曹芳を見ながらこう言ったよ。
「死はまだ耐えられるけど、私はあなたを待つために生き延びてきたんだ。あなたは曹爽と一緒にこの子を助けてね」
司馬懿はこう言ったよ。
「陛下(曹叡)は、先帝(曹丕)があなたを私に預けたことを忘れちゃったの?」
魏書曰:殯于九龍前殿。
『魏書』によると、九龍殿の前殿に遺体を置いたよ。
臣松之桉:魏武以建安九年八月定鄴,文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳。時改正朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也。
裴松之が調べたところ、曹操は、建安9年(204年)の八月に鄴を平定して、曹丕はその後に甄皇后を迎え入れたよ。曹叡が建安10年(205年)に生まれたはず。計算すると、この年の正月で34歳になるよ。この時、暦の改正が行われたから、正月は前年の十二月にあたって、厳密には35歳となって、36歳ではないよね。
魏書曰:帝容止可觀,望之儼然。自在東宮,不交朝臣,不問政事,唯潛思書籍而已。即位之後,褒禮大臣,料簡功能,真偽不得相貿,務絕浮華譖毀之端,行師動衆,論決大事,謀臣將相咸服帝之大略。性特彊識,雖左右小臣官簿性行,名跡所履,及其父兄子弟,一經耳目,終不遺忘。含垢藏疾,容受直言,聽受吏民士庶上書,一月之中至數十百封,雖文辭鄙陋,猶覽省究竟,意無猒倦。
『魏書』によると、曹叡の容姿は立派で、遠くからでも威厳に満ちているんだって。東宮にいる頃(太子だった頃)、朝廷の臣下との交流はなくて、政務にも関わらなくて、ただ書物に没頭していたの。皇帝に即位した後は、大臣をほめたたえて礼を尽くして、その才能と実力を見極めて、本物と偽物を混ざり合わないようにして、表面的な噂や誹謗の芽を絶つことに務めたよ。軍を率いて大事を決断するときには、策士や将や相たちもみんな、曹叡の大局的な判断に感服していたんだって。彼はすごい記憶力を持っていて、周りの小官や書記官の性格や行動、名前や経歴、彼らの父や兄弟、子供などについても、一度耳や目に触れたことを忘れることはなかったよ。それに、批判や不満を受け止めて、正直な言葉を受け入れて、役人や民、兵からの上奏を聴き入れたよ。1ヶ月の間に何十から何百という手紙が寄せられて、文章が拙かったとしても、最後まで目を通して、検討してその真意を理解しようと努めたんだよ。
孫盛曰:聞之長老,魏明帝天姿秀出,立髮垂地,口吃少言,而沉毅好斷。初,諸公受遺輔導,帝皆以方任處之,政自己出。而優禮大臣,開容善直,雖犯顏極諫,無所摧戮,其君人之量如此之偉也。然不思建德垂風,不固維城之基,至使大權偏據,社稷無衞,悲夫!
孫盛によると、年長者たちから聞いた話では、曹叡は生まれながらの美しい顔立ちで、髪は立つと地面に届くほど長くて、口ごもり気味であまり話さなかったけど、冷静で決断力があったんだって。当初、諸公は遺言に基づいて曹叡を導いたけど、後に曹叡は彼らをみんな適切に置いて、政治の決定は自らするようになったよ。大臣たちを敬って、正直な意見を受け入れて、顔色を損ねるほどに意見を述べても、ひどいことをすることはなかったんだ。このように、人を治める器の大きさは素晴らしいものだったよ。でも、彼は徳を築いて風習を定めることを考えなくて、国の基盤をしっかりと守らなかったから、大きな権力が一方に偏って、国家を守る盾が失われたことは、悲しいことだね。
陳寿の評価
評曰:明帝沉毅斷識,任心而行,蓋有君人之至槩焉。于時百姓彫弊,四海分崩,不先聿脩顯祖,闡拓洪基,而遽追秦皇、漢武,宮館是營,格之遠猷,其殆疾乎!
評すると、曹叡は冷静で毅然とした決断力があって、自分の意志で行動して、人を治めるにふさわしい高い度量を備えていたよ。でも、当時の民は苦しんでいて、天下は崩壊の危機にあったんだ。なのに、彼は先祖の業績を修めて国の基盤を広げることに専念するのではなくて、急いで秦の始皇帝や漢の武帝みたいに宮殿や館の建設に力を注いでいたのは、先を見据えた遠大な考えに欠けていたのではないかな!
明帝紀は以上だよ!