
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹叡 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
長いから記事を分けたよ。
- 正史『三国志』「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その1 ← この記事だよ
- 正史『三国志』「魏書明帝紀」をゆるゆる翻訳するよ! その2
出典
三國志 : 魏書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹叡の生まれ
明皇帝諱叡,字元仲,文帝太子也。生而太祖愛之,常令在左右。(註1)
明皇帝の名は叡で、字は元仲だよ。曹丕の皇太子だよ。生まれたときから曹操にとてもかわいがられて、いつもそばにいさせてもらったんだって。
魏書曰:帝生數歲而有岐嶷之姿,武皇帝異之,曰:「我基於爾三世矣。」每朝宴會同,與侍中近臣並列帷幄。好學多識,特留意於法理。
『魏書』によると、曹叡はまだ幼いころから、すぐれた立派な姿をしていたから、曹操はそれを特別だと思って、こう言ったよ。
「私たちの国の土台は、あなたによって三代先まで安定するだろうね」
朝廷の宴会では、いつも侍中や臣下たちと並んで帷の中に座っていたよ。
学ぶことが好きで、たくさんの知識があって、特に法律や道理に強い関心を持っていたんだって。
『三国志』の貴重なイケメン。曹操さん、2代目をすぐに決めなかったから反省したのかな。
年十五,封武德侯,黃初二年為齊公,三年為平原王。以其母誅,故未建為嗣。(註2)(註3)
15歳のとき、武徳侯に封ぜられたよ。
黄初二年(221年)に斉公、黄初三年(222年)に平原王になったよ。でも、母(甄氏)が処刑されたから、正式な後継ぎにはなれなかったんだ。
魏略曰:文帝以郭后無子,詔使子養帝。帝以母不以道終,意甚不平。後不獲已,乃敬事郭后,旦夕因長御問起居,郭后亦自以無子,遂加慈愛。文帝始以帝不恱,有意欲以他姬子京兆王為嗣,故久不拜太子。
『魏略』によると、曹丕は郭皇后に子供がいなかったから、詔で命令して、曹叡を養わせたよ。でも、曹叡は、自分の母が正しい形で最期を迎えられなかったから、心の中ですごく不満を持っていたんだ。どうすることもできなくて、郭皇后に対して礼儀正しく接したよ。朝や夕方には、側近を通して体調を気づかうあいさつを続けたんだって。郭皇后もまた自分の子供がいないから、だんだんと曹叡を深くかわいがるようになったよ。
曹丕は、はじめは曹叡があまり楽しそうでない様子を見て、別の妃の子の京兆王(曹礼)を後継ぎにしようと考えていたから、長いあいだ曹叡を太子に任命しなかったんだ。
魏末傳曰:帝常從文帝獵,見子母鹿。文帝射殺鹿母,使帝射鹿子,帝不從,曰:「陛下已殺其母,臣不忍復殺其子。」因涕泣。文帝即放弓箭,以此深奇之,而樹立之意定。
『魏末伝』によると、あるとき曹叡は曹丕と一緒に狩りに出かけて、親子の鹿を見つけたよ。曹丕は母鹿を射って殺して、曹叡に子鹿を射るように命令したんだ、でも、曹叡は従わないでこう言ったよ。
「あなたがすでにその母を殺したから、私はその子まで殺すなんて耐えられないの」
そして、涙を流したよ。これを見た曹丕はすぐに弓と矢を置いて、曹叡を立派だと思って、太子に立てる決意をしたよ。
七年夏五月,帝病篤,乃立為皇太子。丁巳,即皇帝位,大赦。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。諸臣封爵各有差。(註4)
黄初七年(226年)、夏の五月、曹丕は病気が重くなって、いよいよ危ない状態になったから、曹叡は皇太子に立てられたよ。
丁巳の日、曹叡は皇帝に即位して、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。皇太后を太皇太后と呼んで、皇后を皇太后と呼ぶようにしたよ。臣下にそれぞれの功績に応じて領地と爵位を授けたよ。
世語曰:帝與朝士素不接,即位之後,羣下想聞風采。居數日,獨見侍中劉曄,語盡日。衆人側聽,曄旣出,問「何如」?曄曰:「秦始皇、漢孝武之儔,才具微不及耳。」
『世語』によると、曹叡はもともと朝廷の役人たちとあまり親しく話さなかったから、皇帝に即位した後、臣下たちはどんな人物なのかとても知りたがっていたんだ。しばらくして、曹叡は侍中の劉曄を特別に呼んで、一日中話したよ。周りの人たちはそばで聞いていたよ。劉曄が出てくると、彼らは劉曄に「どうだった?」と尋ねたよ。劉曄はこう答えたよ。
「秦の始皇帝や漢の武帝みたいな人だけど、才能はほんのちょっとだけ及ばないだろうね」
癸未,追謚母甄夫人曰文昭皇后。壬辰,立皇弟蕤為陽平王。
癸未の日、母の甄夫人に文昭皇后の謚号を贈ったよ。壬辰の日、弟の曹蕤を陽平王に立てたよ。
江夏の戦い
八月,孫權攻江夏郡,太守文聘堅守。朝議欲發兵救之,帝曰:「權習水戰,所以敢下船陸攻者,幾掩不備也。今已與聘相持,夫攻守勢倍,終不敢久也。」先時遣治書侍御史荀禹慰勞邊方,禹到,於江夏發所經縣兵及所從步騎千人乘山舉火,權退走。
八月、孫権が江夏郡を攻めたけど、江夏太守(郡の長官)の文聘はしっかり守ったよ。朝廷では「兵を出して助けよう」という意見が出たけど、曹叡はこう言ったよ。
「孫権は水の上での戦いに慣れているけど、だからこそ船を降りて陸から攻めてきたのは、不意をつこうとしたのだろうね。今、すでに文聘とにらみ合いになっているよ。攻める側は守る側よりも不利になるから、長くは続けられないはず」
その少し前に、治書侍御史の荀禹に境の地域をねぎらわせたけど、荀禹が着くと、江夏郡で通ってきたそれぞれの県の兵や、連れてきた歩兵と騎兵あわせて1,000人くらいを集めて、山の上から火をたいて大軍がいるように見せたよ。それを見た孫権は退いたんだ。
辛巳,立皇子冏為清河王。吳將諸葛瑾、張霸等寇襄陽,撫軍大將軍司馬宣王討破之,斬霸,征東大將軍曹休又破其別將於尋陽。論功行賞各有差。
辛巳の日、皇子の曹冏を清河王に立てたよ。
呉の将の諸葛瑾、張覇たちが襄陽に攻めてきたから、撫軍大将軍の司馬懿がこれを討ち破って、張覇を討ち取ったよ。さらに征東大将軍の曹休も別の敵の将を尋陽で打ち破ったよ。それぞれの功績に応じて賞を与えたよ。
冬十月,清河王冏薨。十二月,以太尉鍾繇為太傅,征東大將軍曹休為大司馬,中軍大將軍曹真為大將軍,司徒華歆為太尉,司空王朗為司徒,鎮軍大將軍陳羣為司空,撫軍大將軍司馬宣王為驃騎大將軍。
冬の十月、清河王の曹冏が亡くなったんだ。
十二月、太尉の鍾繇を太傅、征東大将軍の曹休を大司馬、中軍大将軍の曹真を大将軍、司徒の華歆を太尉、司空の王朗を司徒、鎮軍大将軍の陳羣を司空、撫軍大将軍の司馬懿を驃騎大将軍に任命したよ。
孟達の裏切り
太和元年春正月,郊祀武皇帝以配天,宗祀文皇帝於明堂以配上帝。分江夏南部,置江夏南部都尉。西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭、鹿磐討斬之。二月辛未,帝耕于藉田。辛巳,立文昭皇后寢廟於鄴。丁亥,朝日于東郊。
太和元年(227年)、春の正月、郊外での祭りで、武皇帝(曹操)を天に配してまつって、明堂で文皇帝(曹丕)を上帝に配してまつったよ。
江夏の南を分けて、新しく江夏南部都尉を置いたよ。西平の出身の麴英が反乱を起こして、臨羌県令と西都県長(県の長官)を殺したから、将軍の郝昭と鹿磐を送って、これを討ち取ったよ。
二月、辛未の日、曹叡は籍田(国のための農地)を耕したよ。辛巳の日、文昭皇后のための寝廟を鄴に建てたよ。丁亥の日、東郊で朝日をまつる儀式をしたよ。
夏四月乙亥,行五銖錢。甲申,初營宗廟。秋八月,夕月于西郊。冬十月丙寅,治兵于東郊。焉耆王遣子入侍。十一月,立皇后毛氏。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨不能自存者賜穀。十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。(註5)(註6)(註7)
夏の四月、乙亥の日、五銖銭を使うようにしたよ。甲申の日、宗廟(先祖の廟)を建てはじめたよ。
秋の八月、西の郊外で月をまつる儀式をしたよ。
冬の十月、丙寅の日、東の郊外で兵の訓練をしたよ。焉耆王が自分の子供を人質として朝廷に送ったよ。
十一月、毛氏を皇后に立てたよ。天下の成人した男子の身分を2つ上げて、夫のいない女性や、配偶者を失った人、親のいない子供、身寄りのない人など、自分で生活できない人たちには穀物を与えたよ。
十二月、皇后の父の毛嘉を列侯に封じたよ。新城太守(郡の長官)の孟達が反乱を起こしたから、詔を下して驃騎大将軍の司馬懿にこれを討たせたよ。
三輔決錄曰:伯郎,涼州人,名不令休。其注曰:伯郎姓孟,名他,扶風人。靈帝時。中常侍張讓專朝政,讓監奴典護家事。他仕不遂,乃盡以家財賂監奴,與共結親,積年家業為之破盡。衆奴皆慙,問他所欲,他曰:「欲得卿曹拜耳。」奴被恩久,皆許諾。
『三輔決録』によると、(孟達の父の)伯郎は、涼州の出身で、名は不令休だよ。
その注によると、伯郎の姓は孟で、名は他で、扶風の出身だよ。霊帝の時代に生きたんだ。このとき、中常侍の張譲の政治を思いのままにしていて、その家のことは監奴と呼ばれる召使いたちが取りしきっていたんだって。孟他は張譲に仕えようとしたけど、うまくいかなかったんだ。そこで、自分の家の財産をすべて使って、その監奴たちに贈り物をして、親しくなろうとしたよ。だから、長い年月のうちに家の財産はすべてなくなっちゃった。召使いたちはみなそれを恥ずかしく思って、「何を望んでいるの?」と尋ねたよ。孟他はこう答えたよ。
「張譲に仕えたいだけだよ」
召使いたちは長いあいだ恩を受けていたから、みんなその願いを受け入れたよ。
時賔客求見讓者,門下車常數百乘,或累日不得通。他最後到,衆奴伺其至,皆迎車而拜,徑將他車獨入。衆人悉驚,謂他與讓善,爭以珍物遺他。他得之,盡以賂讓,讓大喜。他又以蒲桃酒一斛遺讓,即拜涼州刺史。他生達,少入蜀。其處蜀事迹在劉封傳。
このとき張譲に会いたいと願う客はとてもたくさんいて、門の前にはいつも何百台もの馬車が並んで、何日も待っても中に入れないこともあったんだ。孟他は最後にやって来たけど、召使いたちは彼が来るのを見て、みな車を迎えに行って拝礼して、そのまま孟他の車だけをまっすぐ中へ通したよ。それを見た人たちはみんなびっくりして、「孟他は張譲ととても仲がよいに違いない」と思って、競って珍しい品物を孟他に贈ったんだ。孟他はそれらを受け取って、すべて張譲に贈ったから、張譲はすごく喜んだよ。さらに、孟他は蒲桃酒を1斛も張譲に贈ったよ。すると、すぐに涼州刺史(州の長官)に任命されたよ。孟他は孟達という子をもうけたよ。孟達は、若いころに蜀へ入ったんだ。
孟達が蜀でどのようなことをしたかは、「劉封伝」に書かれているよ。
魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。文帝時初即王位,旣宿知有達,聞其來,甚恱,令貴臣有識察者往觀之,還曰「將帥之才也」,或曰「卿相之器也」,王益欽達。
『魏略』によると、孟達は延康元年(220年)、自分の部下やその家族あわせて4,000戸を率いて魏に従ったよ。このとき曹丕は王に即位したばかりで、前から孟達を知っていたんだ。孟達がやって来たと聞くと、とても喜んだの。
曹丕は孟達を評価するために、身分の高い臣下たちに孟達の様子を見に行かせたよ。戻ってきた臣下はこう言ったよ。
「軍の指揮官としての才能があるよ」
さらに別の人はこう言ったよ。
「高い位の役人として立派にやっていける人だよ」
曹丕はますます孟達を尊敬するようになったよ。
逆與達書曰:「近日有命,未足達旨,何者?昔伊摯背商而歸周,百里去虞而入秦,樂毅感鴟夷以蟬蛻,王遵識逆順以去就,皆審興廢之符效,知成敗之必然,故丹青畫其形容,良史載其功勳。聞卿姿度純茂,器量優絕,當騁能明時,收名傳記。今者翻然濯鱗清流,甚相嘉樂,虛心西望,依依若舊,下筆屬辭,歡心從之。昔虞卿入趙,再見取相,陳平就漢,一覲參乘,孤今於卿,情過於往,故致所御馬物以昭忠愛。」
曹丕は孟達に手紙を書いてこう言ったよ。
「最近、命令があったけど、まだ私の考えを十分に伝えきれていないんだ。どういうこと? 昔、伊摯(伊尹)は商を離れて周に帰って、百里奚は虞を離れて秦に仕えたよ。楽毅は鴟夷(范蠡)の助けに感じて身をひるがえして、王遵は正しいことと違うことを見分けて立場を選んだよ。彼らはみんな、国が興るか衰えるかの兆しをよく見きわめて、成功や失敗がどうなるかを理解していたよ。だから、その姿は絵に描かれて、功績は歴史に記されたんだ。
あなたは生まれつきの人柄がすぐれていて、度量も広くて、すごく立派な人だと聞いているよ。これからはその才能を発揮して、よい時代に名をあげて、歴史に名を残すだろうね。今、あなたがきっぱりと態度を変えて、清らかな流れに身を投じたことを、私はとても喜んでいるよ。心をこめて西の方を見つめると、まるで昔からの親しい間柄のように感じられるよ。こうして筆をとり、言葉をつづると、自然と喜びの気持ちがわいてくるんだ。
昔、虞卿は趙に入って、ふたたび招かれると相になったよ。陳平は漢に仕えて、劉邦と一緒に車に乗ったんだ。私はあなたに対して、昔の例以上の思いを抱いているよ。そこで、私の愛馬や品物を贈って、あなたへの忠と愛情をはっきりと示すね」
又曰:「今者海內清定,萬里一統,三垂無風塵之警,中夏無狗吠之虞,以是弛罔闊禁,與世無疑,保官空虛,初無資任。卿來相就,當明孤意,慎勿令家人繽紛道路,以親駭疏也。若卿欲來相見,且當先安部曲,有所保固,然後徐徐輕騎來東。」
さらに、こう言ったよ。
「今は天下がすっかり落ち着いて、万里も離れた遠い地までもひとつにまとまっているよ。国の端々でも戦いの心配はなくて、中原でも騒ぎの不安はないよ。だから、しばりや禁止はゆるやかになって、人々のあいだにも疑いはないよ。役所の役目も今はそれほど忙しくなくて、特別な準備もいらないんだ。あなたが私のもとに来てくれるなら、私の気持ちはきっとわかるはず。ただ、家族を大勢連れて道をにぎやかにしてはいけないよ。親しい者ばかりを連れてくると、かえって他の人に疑われてしまうんだ。もしあなたが会いに来るなら、まず自分の部下たちをしっかり落ち着かせて、守りを固めてから、ゆっくりと軽装の騎兵で東へ来てね」
達旣至譙,進見閑雅,才辯過人,衆莫不屬目。又王近出,乘小輦,執達手,撫其背戲之曰:「卿得無為劉備刺客邪?」遂與同載。又加拜散騎常侍,領新城太守,委以西南之任。時衆臣或以為待之太猥,又不宜委以方任。王聞之曰:「吾保其無他,亦譬以蒿箭射蒿中耳。」
孟達が譙に着くと、進み出て落ち着いた上品な態度であいさつをして、その話しぶりや才能は人並み以上だったよ。人々はみんな彼に目を向けて、感心したんだって。
曹丕が外出して小さな車に乗っていたとき、孟達の手を取って、彼の背中を撫でながら、からかうようにこう言ったよ。
「あなたは劉備の刺客ではないよね?」
そして、そのまま同じ車に乗せたよ。
さらに孟達を散騎常侍に任命して、新城太守(郡の長官)を兼ねさせて、西南の地域を任せたよ。でも、このとき臣下の中には、「あまりにも手厚く扱いすぎだよ」「一つの地方を任せるのはよくないよ」と考える者もいたんだ。これを聞いた曹丕はこう言ったよ。
「私は彼が裏切らないと信じているよ。それは、ヨモギの矢でヨモギの中を射るようなものだね(役に立たないよ)。」
達旣為文帝所寵,又與桓階、夏侯尚親善,及文帝崩,時桓、尚皆卒,達自以羈旅久在疆場,心不自安。諸葛亮聞之,陰欲誘達,數書招之,達與相報荅。魏興太守申儀與達有隙,密表達與蜀潛通,帝未之信也。司馬宣王遣參軍梁幾察之,又勸其入朝。達驚懼,遂反。
孟達は曹丕にとても気に入られて、さらに桓階や夏侯尚とも仲よしだよ。でも、曹丕が亡くなると、そのころには桓階や夏侯尚もすでに亡くなったんだ。孟達は長いあいだよそ者として国境の地にいる自分の立場を思って、不安になっちゃった。
それを聞いた諸葛亮は、こっそりと孟達を味方に引き入れようと考えて、何度か手紙送って誘ったよ。孟達もそれに返事をしてやり取りをしたよ。
一方、魏興太守(郡の長官)の申儀は孟達と仲が悪くて、こっそりと「孟達は蜀と通じている」と報告したよ。でも、曹叡はそれを信じなかったんだ。その後、司馬懿は参軍の梁幾を送って様子を調べさせて、孟達に朝廷へ来るように勧めたよ。孟達はびっくりして怖くなって、とうとう反乱を起こしたんだ。
干寶晉紀曰:達初入新城,登白馬塞,歎曰:「劉封、申耽,據金城千里而失之乎!」
干宝の『晋紀』によると、孟達が初めて新城に入ったとき、白馬塞に登って、嘆いてこう言ったよ。
「劉封や申耽は、こんなにも広くて守りの固い土地を持っていながら、それを失ってしまったなんて!」
二年春正月,宣王攻破新城,斬達,傳其首。(註8)分新城之上庸、武陵、巫縣為上庸郡,錫縣為錫郡。
太和二年(228年)、春の正月、司馬懿は新城を攻め落として、孟達を討ち取って、その首を都に送り届けたよ。新城の上庸、武陵、巫の3つの県を上庸郡として、錫県を錫郡としたよ。
魏略曰:宣王誘達將李輔及達甥鄧賢,賢等開門內軍。達被圍旬有六日而敗,焚其首于洛陽四達之衢。
『魏略』によると、司馬懿は孟達の将の李輔や、孟達の甥の鄧賢を味方に引き入れて、の城門を開けて内に軍を入れたよ。孟達は16日にわたって包囲された後に敗れて、その首は洛陽の四方にさらされて焼かれたんだ。
街亭の戦い
蜀大將諸葛亮寇邊,天水、南安、安定三郡吏民叛應亮。(註9)遣大將軍曹真都督關右,並進兵。右將軍張郃擊亮於街亭,大破之。亮敗走,三郡平。丁未,行幸長安。(註10)
蜀の大将の諸葛亮が国境に攻めてきたよ。すると、天水、南安、安定の3つの郡の役人や民が諸葛亮に応じて反乱したんだ。
そこで、大将軍の曹真を関西の都督(指揮官)として、軍を進めたよ。右将軍の張郃は街亭で諸葛亮を攻撃して、大きく打ち破ったよ。諸葛亮は敗れて逃げて、3つの郡もふたたび平定されたよ。
丁未の日、曹叡は長安に行ったよ。
魏書曰:是時朝臣未知計所出,帝曰:「亮阻山為固,今者自來,旣合兵書致人之術;且亮貪三郡,知進而不知退,今因此時,破亮必也。」乃部勒兵馬步騎五萬拒亮。
『魏書』によると、このとき朝廷の臣下たちは、どんな作戦をとればよいのかわからなかったんだ。すると、曹叡はこう言ったよ。
「諸葛亮は山を利用して守りを固めているけど、今回は自分から攻めてきたよ。これは兵法にある、敵を自分のところへ引き寄せるやり方だね。さらに諸葛亮は3つの郡に手に入れたいと思っていて、進むことばかり考え、退くことを知らないんだ。だから今この機会に、必ず打ち破れるよ」
そして、兵を整えて、歩兵と騎兵あわせて5万の軍で、諸葛亮を迎え撃ったよ。
魏略載帝露布天下并班告益州曰:「劉備背恩,自竄巴蜀。諸葛亮棄父母之國,阿殘賊之黨,神人被毒,惡積身滅。亮外慕立孤之名,而內貪專擅之實。劉升之兄弟守空城而已。亮又侮易益土,虐用其民,是以利狼、宕渠、高定、青羌莫不瓦解,為亮仇敵。而亮反裘負薪,裏盡毛殫,刖趾適屨,刻肌傷骨,反更稱說,自以為能。行兵於井底,游步於牛蹄。
『魏略』によると、曹叡は天下に向けて知らせて、益州に知らせてこう言ったよ。
「劉備は恩にそむいて、自ら巴蜀に逃げ込んだよ。諸葛亮は生まれた地を捨てて、悪い者たちの仲間となって、人々に大きな害を与えて、悪事を重ねて、やがて自分自身も滅びるだろうね。諸葛亮は表向きには『主君の子を助ける忠臣』の名を求めているけど、心の中では権力をひとりで握ろうとしているんだ。劉禅とその兄弟は、ただ空の城を守っているだけだね。
さらに、諸葛亮は益州の土地を軽く見て、民を苦しめて使っているよ。だから、利狼、宕渠、高定、青羌などはみんなばらばらになって、諸葛亮の敵になったね。なのに諸葛亮は毛のない裏返しの皮衣を着て薪を背負うようなことをして(何も知らないで)、足の指を切り落として靴を履いて肌を刻んで骨を傷つけて(現実を無視して無理に対応して)、それをかえって自慢し、自分はできると思いこんでいるよ。彼は井戸の底で軍を動かしたり、牛のひづめの跡の中を歩き回るような、とても危ういことをしているんだ。
自朕即位,三邊無事,猶哀憐天下數遭兵革,且欲養四海之耆老,長後生之孤幼,先移風於禮樂,次講武於農隙,置亮畫外,未以為虞。而亮懷李熊愚勇之智,不思荊邯度德之戒,驅略吏民,盜利祁山。
私が皇帝に即位してから、東、西、南の境では戦いは起きていないよ。それでも天下がこれまで何度も戦いで苦しんできたことを想って、年をとった人々を大切にして、若い子供たちを育てたいと考えているよ。まずは礼や音楽で人々の心をよくして、次に農業のひまな時期に軍の訓練をして、だから、諸葛亮のことは、しばらくは心配の外に置いていたんだ。でも、諸葛亮は李熊みたいな向こう見ずな勇だけに頼る考えを持って、荊邯みたいに自分の力をよく考えるべきだという戒めを思い出そうともしないで、役人や民を無理に駆り立てて、祁山で利益を奪い取ろうとしているの。
王師方振,膽破氣奪,馬謖、高祥望旗奔敗。虎臣逐北,蹈尸涉血,亮也小子,震驚朕師。猛銳踊躍,咸思長驅。朕惟率土莫非王臣,師之所處,荊棘生焉,不欲使十室之邑忠信貞良與夫淫昏之黨,同受塗炭。故先開示,以昭國誠,勉思變化,無滯亂邦。巴蜀將吏士民諸為亮所劫迫,公卿已下皆聽束手。」
天子の軍は今、勢いがあって、敵は恐れて力を失っているよ。馬謖と高祥は旗を見て逃げ出しちゃった。勇ましい兵たちは逃げる敵を追って、死体を踏み越えて血の中を進んでいるよ。諸葛亮なんていう人は私たちの軍にびっくりしているね。兵たちはみんな勇ましく進んで、一気に攻め込もうとしているよ。でも、私は天下の人たちはみんな王の臣下だと考えているよ。軍が進むところでは、草木も荒れてしまうんだ。だから10戸くらいの小さな村に住む真面目で正しい人たちまで、悪い仲間と一緒に苦しませたくはないんだ。だから、まずこのように知らせを出して、国のまごころをはっきりと示すよ。よく考えて行動を改めて、乱れた国にとどまらないようにしてね。巴蜀の将や役人、兵や民で、諸葛亮に脅されて無理やり従った人たちで、公卿より下の者たちは、みんな武器を置いて抵抗しないことを許すよ」
李熊は、公孫述の側近だよ。諸葛亮さんの隆中対の元ネタを言った人かも。
荊邯は、公孫述の武将だよ。
夏四月丁酉,還洛陽宮。(註11)赦繫囚非殊死以下。乙巳,論討亮功,封爵增邑各有差。五月,大旱。六月,詔曰:「尊儒貴學,王教之本也。自頃儒官或非其人,將何以宣明聖道?其高選博士,才任侍中常侍者。申勑郡國,貢士以經學為先。」
夏の四月、丁酉の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。死刑になるような罪ではない罪人たちを許したよ。
乙巳の日、諸葛亮との戦いを評価して、それぞれの功績に応じて領地と爵位を授けたよ。五月、大きなひでりが起こったんだ。六月、詔を下してこう言ったよ。
「儒学を大切にして学問を重んじることは、国をよく治めるための基本だよ。でも最近、儒学を教える役人の中に、ふさわしくない者もいるんだ。これではどうして聖人の正しい教えを広められるの? そこで、すぐれた人を博士に選んで、その中から侍中や常侍といった重要な役目を任せられる人を選んでね。そして、郡や国にはあらためて命令するよ。人を推挙するときは、経学にすぐれた者を第一に選んでね」
魏略曰:是時譌言云帝已崩,從駕羣臣迎立雍丘王植。京師自卞太后羣公盡懼。及帝還,皆私察顏色。卞太后悲喜,欲推始言者,帝曰:「天下皆言,將何所推?」
『魏略』によると、このとき「曹叡はすでに亡くなって、皇帝に付き従う臣下たちが雍丘王の曹植を迎えて新しく皇帝に即位させようとしている」といううわさが広まったんだ。都では卞太后やたくさんの臣下がみんな恐れていたよ。曹叡が帰ってくると、みんなこっそりと顔色を見て様子を探ったよ。卞太后は悲しみと喜びが入り混じった気持ちになって、最初にこのうわさを広めた人を探そうとしたんだ。でも、曹叡はこう言ったよ。
「天下の人たちがみんなそう言っているんだ。誰を責めるの?」
秋九月,曹休率諸軍至皖,與吳將陸議戰於石亭,敗績。乙酉,立皇子穆為繁陽王。庚子,大司馬曹休薨。冬十月,詔公卿近臣舉良將各一人。十一月,司徒王朗薨。十二月,諸葛亮圍陳倉,曹真遣將軍費曜等拒之。(註12)遼東太守公孫恭兄子淵劫奪恭位,遂以淵領遼東太守。
秋の九月、曹休はたくさんの軍を率いて皖に着いて、石亭で呉の将の陸議(陸遜)と戦ったよ。でも、大きく敗れたんだ。乙酉の日、皇子の曹穆を繁陽王に立てたよ。庚子の日、大司馬の曹休が亡くなったんだ。
冬の十月、曹叡は、公卿や側近の臣下たちに詔を下して、「すぐれた将軍にふさわしい人をそれぞれ一人ずつ推挙してね」と言ったよ。十一月、司徒の王朗が亡くなったんだ。
十二月、諸葛亮が陳倉を包囲したんだ。曹真は将軍の費曜たちを送ってこれを防がせたよ。
遼東太守(郡の長官)の公孫恭の兄の子の公孫淵が、公孫恭の地位を奪い取ったんだ。こうして公孫淵が遼東太守を兼ねたよ。
魏略曰:先是使將軍郝昭築陳倉城;會亮至,圍昭,不能拔。昭字伯道,太原人,為人雄壯,少入軍為部曲督,數有戰功,為雜號將軍,遂鎮守河西十餘年,民夷畏服。亮圍陳倉,使昭鄉人靳詳於城外遙說之,昭於樓上應詳曰:「魏家科法,卿所練也;我之為人,卿所知也。我受國恩多而門戶重,卿無可言者,但有必死耳。卿還謝諸葛,便可攻也。」
『魏略』によると、これより前、将軍の郝昭に陳倉に城を築かせていたよ。でも、そこへちょうど諸葛亮がやって来て郝昭を包囲したけど、城を落とせなかったよ。
郝昭は、字は伯道で、太原の出身だよ。体つきがたくましくて勇ましい人で、若いころに軍へ入って、部曲督として何度も戦いで功績をあげたよ。雑号将軍になって、河西を十年以上守ったよ。民や異民族たちも、みんな郝昭を恐れて従っていたんだって。
諸葛亮が陳倉を包囲すると、郝昭と同じ郷里の靳詳を城の外から説得させたよ。郝昭は城の楼から靳詳にこう言ったよ。
「魏の国の法や決まりを、あなたもよく知っているよね。そして、私がどんな人間かも、あなたはよく知っているよね。私は国からたくさんの恩を受けていて、家の名も重くなったんだ。だから、あなたの言葉には従えないよ。私には、ただ死ぬ覚悟があるだけなんだ。帰って諸葛亮に伝えてよ、攻めたければ攻めればいいよ」
詳以昭語告亮,亮又使詳重說昭,言人兵不敵,無為空自破滅。昭謂詳曰:「前言已定矣。我識卿耳,箭不識也。」詳乃去。亮自以有衆數萬,而昭兵纔千餘人,又度東救未能便到,乃進兵攻昭,起雲梯衝車以臨城。昭於是以火箭逆射其雲梯,梯然,梯上人皆燒死。昭又以繩連石磨壓其衝車,衝車折。亮乃更為井闌百尺以付城中,以土丸填壍,欲直攀城,昭又於內築重牆。亮足為城突,欲踊出於城裏,昭又於城內穿地橫截之。晝夜相攻拒二十餘日,亮無計,救至,引退。
靳詳が郝昭の言葉を諸葛亮に伝えると、諸葛亮はふたたび靳詳に郝昭を説得させて、「人の数でも兵の力でも勝ち目はないから、無駄に自分を滅ぼすことはないよ」と伝えさせたんだ。すると郝昭は靳詳にこう言ったよ。
「前に言ったとおりだよ。私はあなたの顔は知っているけど、矢はあなたを知らないぞ」
それを聞いて靳詳は去ったんだ。
諸葛亮は、自分には数万の兵がいるけど、郝昭の兵は1,000人くらいしかいなくて、しかも東(都)からの助けもすぐには来ないと考えて、兵を進めて郝昭を攻めはじめたよ。雲梯や衝車を使って城に近づいたよ。すると郝昭は火矢を放って雲梯を焼いたよ。はしごは燃えて、上にいた兵たちはみんな焼け死んじゃった。さらに、郝昭は縄でつないだ大きな石うすを落として衝車を押しつぶして、衝車は壊れたよ。
そこで諸葛亮は、高さ100尺の井闌見張り台のような高い車)を作って、城の中を見下ろせるようにしたよ。それに、土を運んで堀を埋めて、直接城をよじ登ろうとしたんだ。
でも、郝昭は城の内側にさらに壁を築いたよ。諸葛亮は今度は地下道を掘って城内へ入りこもうとしたけど、郝昭は城の内側から地面を掘り返して、地下道を途中で切ったよ。こうして昼も夜も20日以上も戦い続けたけど、諸葛亮にはもうよい方法がなくなっちゃった。そこへ援軍が着いたから、とうとう軍を退いたんだ。
詔嘉昭善守,賜爵列侯。及還,帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕復何憂乎?」仍欲大用之。會病亡,遺令戒其子凱曰:「吾為將,知將不可為也。吾數發冢,取其木以為攻戰具,又知厚葬無益於死者也。汝必斂以時服。且人生有處所耳,死復何在邪?今去本墓遠,東西南北,在汝而已。」
曹叡は郝昭が見事に城を守ったことをほめたたえて、列侯の爵位を与えたよ。郝昭が都へ帰ると、曹叡は自ら郝昭に会ってねぎらって、そばにいた中書令の孫資に振り返ってこう言ったよ。
「あなたの故郷に、このような立派な人がいるなんて。将としてこんなにすぐれているなら、私は何を心配する必要があるの?」
そして、郝昭を大事に使おうとしたよ。でも、その後すぐに郝昭は病気で亡くなったんだ。郝昭は遺言で、子の郝凱にこう言ったよ。
「私は将になって、将というものがどれくらい大変なものかをよく知っているよ。それに、戦いに備えるために、私は何度も古い墓を掘り返したり、その木材を取り出して戦うための道具を作ったりしたんだ。どんなに墓を作って厚く葬っても、死んだ者の役には立たないことも知っているよ。だから、あなたは私を普通の服で棺に入れて、この時代のやり方に従って葬ってね。人は生きているあいだには居場所があるけど、死んだ後にどこへ行こうと何が違うというの? 今、私は故郷の墓から遠く離れているから、東でも西でも南でも北でも、どこに葬るかはあなたに任せるね」
大月氏国の使者が来る
三年夏四月,元城王禮薨。六月癸卯,繁陽王穆薨。戊申,追尊高祖大長秋曰高皇帝,夫人吳氏曰高皇后。
太和三年(229年)、夏の四月、元城王の曹礼が亡くなったんだ。
六月、癸卯の日、繁陽王の曹穆が亡くなったんだ。戊申の日、高祖で大長秋(曹騰)に高皇帝、夫人の呉氏に高皇后の尊号を贈ったよ。
秋七月,詔曰:「禮,王后無嗣,擇建支子以繼太宗,則當纂正統而奉公義,何得復顧私親哉!漢宣繼昭帝後,加悼考以皇號;哀帝以外藩援立,而董宏等稱引亡秦,或誤時朝,旣尊恭皇,立廟京都,又寵藩妾,使比長信,敘昭穆於前殿,並四位於東宮,僭差無度,人神弗祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍。自是之後,相踵行之。
秋の七月、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「礼によると、王后に後継ぎがいない場合、親族の中から後継ぎを選んで太宗のあとを継がせるんだって。その者は、正しい皇統を受け継いで、公のために行動しなければならないんだ。どうして自分の実の親ばかりを特別に大切にしていいの!
漢の宣帝が昭帝の後を継ぐと、父に悼考という皇帝の称号を贈ったよ。哀帝は外戚によって即位して、董宏たちはすでに滅んだ秦の悪い例を持ち出して朝廷を惑わせたんだ。その結果、皇帝の父を恭皇と尊んで呼んで、都に廟まで建てたんだ。さらに、外戚の側室まで特別にかわいがって、長信宮の皇太后と同じくらいに扱ったんだ。そして、昭穆(先祖の並び順)を前殿に並べて、東宮には4人もの重要な位の人を置くなんて、身分の区別を超えてしまったの。だから、人々からも神々からも助けられなくて、師丹の忠ある正しい意見を罪として退けたから丁氏や傅氏が滅びる大きな災いを招いたんだ。この後の時代でも、このようなことが次々と繰り返されるようになっちゃった。
昔魯文逆祀,罪由夏父;宋國非度,譏在華元。其令公卿有司,深以前世行事為戒。後嗣萬一有由諸侯入奉大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以干正統,謂考為皇,稱妣為后,則股肱大臣,誅之無赦。其書之金策,藏之宗廟,著于今典。」
昔、魯の文公が先祖をまつる順番を正しくしなかったとき、その罪は夏父にあるとされたよ。宋の国で礼の決まりをこえる行いがあったとき、華元が非難されたよ。だから、公卿や役人たちは、昔のこうした出来事を深く学んで、よく戒めとしてね。もし後の世で、諸侯の家から皇帝の後を継ぐ者が出たなら、その者は他家の後を継ぐ者としての道理を明らかにしなければならないよ。もし媚びへつらう悪い者たちが、その時の君主に気に入られようとして、正しくない称号を勝手に立てて、皇統を乱そうとして、実の父を皇帝と呼んで、実の母を皇后と呼ぶようなことがあれば、君主を支える重要な臣下たちが、その者を必ず処罰して、決して許してはならないよ。この命令を金策に書いて、宗廟(先祖の廟)に納めて、これからの国の決まりとして残してね」
冬十月,改平望觀曰聽訟觀。帝常言「獄者,天下之性命也」,每斷大獄,常幸觀臨聽之。
冬の十月、平望観を聴訟観に改めたよ。
曹叡はいつも「裁判は天下の人たちの命にかかわる大切なことだよ」と言っていたよ。だから、大きな事件を裁くときには、自ら聴訟観へ行って、直接その裁判を見聞きしたんだって。
初,洛陽宗廟未成,神主在鄴廟。十一月,廟始成,使太常韓曁持節迎高皇帝、太皇帝、武帝、文帝神主于鄴,十二月己丑至,奉安神主于廟。(註13)(註14)
前に、洛陽の宗廟(先祖の廟)はまだ完成していなかったから、先祖の位牌は鄴の廟に置かれていたんだ。
十一月、宗廟がやっと完成して、太常の韓曁に節を持たせて、鄴へ行かせたよ。高皇帝(曹騰)、太皇帝(曹嵩)、武帝(曹操)、文帝(曹丕)の位牌を迎えたよ。十二月、己丑の日、洛陽の廟に位牌を置いたよ。
臣松之按:黃初四年,有司奏立二廟,太皇帝大長秋與文帝之高祖共一廟,特立武帝廟,百世不毀。今此無高祖神主,蓋以親盡毀也。此則魏初唯立親廟,祀四室而已。至景初元年,始定七廟之制。
裴松之が調べたところ、黄初四年(223年)、役人が2つの廟を建てるように上奏したよ。太皇帝(曹嵩)と大長秋(曹騰)、文帝)(曹丕)と高祖(曹節)は同じ廟にまつられて、特別に武帝(曹操)の廟を立てて、「百世まで壊さない」と決められていたよ。
でも、今この廟には高祖の位牌がないんだ。これは、おそらく血のつながりが遠くなったから、まつるのをやめたのだろうね。魏の初めのころ、近い先祖だけの廟を建てて、4つの部屋でまつっていただけだったんだ。景初元年(237年)になって、ようやく七廟の決まりを定めはじめたよ。
孫盛曰:事亡猶存,祭如神在,迎遷神主,正斯宜矣。
孫盛によると、亡くなった人を、まるで生きているかのように大切にして、祭りでは神がそこにいるように敬うんだ。だから、位牌を正式に迎えて移すのは、本当に正しいことだよ。
癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。
癸卯の日、大月氏の王の波調が使者を送って、貢ぎ物を捧げたよ。波調を親魏大月氏王にしたよ。
金印を与えたのかな。
蜀へ遠征する
四年春二月壬午,詔曰:「世之質文,隨教而變。兵亂以來,經學廢絕,後生進趣,不由典謨。豈訓導未洽,將進用者不以德顯乎?其郎吏學通一經,才任牧民,博士課試,擢其高第者,亟用;其浮華不務道本者,皆罷退之。」
太和四年(230年)、春の二月、壬午の日、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「世の中の質素さや華やかさは、その時々の教えによって変わるものだよ。兵乱が続いてから、経学はすっかり衰えて、若い者たちも正しい教えによって出世を目指さなくなっちゃった。これは教え導くことが十分でなかったからなの? それとも、人を取り立てるときに徳を重んじなかったからなの? これからは、役人の中で一つでも経書をしっかり学んで、人々を治める力のある者については、博士が試験をして、その成績が特にすぐれている者はすぐに使ってね。反対に、浮ついた華やかさにばかり囚われて学問の根本を大切にしない者は、みんな辞めさせてね」
戊子,詔太傅三公:以文帝典論刻石,立于廟門之外。癸巳,以大將軍曹真為大司馬,驃騎將軍司馬宣王為大將軍,遼東太守公孫淵為車騎將軍。
戊子の日、曹叡は太傅や三公に詔を下して、曹丕の『典論』を石に刻んで、宗廟の門の外に建てさせたよ。
癸巳の日、大将軍の曹真を大司馬、驃騎大将軍の司馬懿を大将軍、遼東太守(郡の長官)の公孫淵を車騎将軍に任命したよ。
夏四月,太傅鍾繇薨。六月戊子,太皇太后崩。丙申,省上庸郡。秋七月,武宣卞后祔葬于高陵。詔大司馬曹真、大將軍司馬宣王伐蜀。八月辛巳,行東巡,遣使者以特牛祠中嶽。(註15)
夏の四月、太傅の鍾繇が亡くなったんだ。六月、戊子の日、太皇太后(卞氏)が亡くなったんだ。丙申の日、上庸郡を廃止したよ。
秋の七月、武宣卞皇后を高陵(曹操の墓)に一緒に葬ったよ。
曹叡は詔を下して、大司馬の曹真と、大将軍の司馬懿に蜀を攻めさせたよ。
八月、辛巳の日、曹叡は東へ出発して、使者を送って特別な牛を捧げて、中嶽を祭らせたよ。
魏書曰:行過繁昌,使執金吾臧霸行太尉事,以特牛祠受禪壇。
『魏書』によると、曹叡が繁昌を通ると、執金吾の臧覇に太尉を代行させて、特別な牛を捧げて、受禅壇を祭らせたんだって。
臣松之按:漢紀章帝元和三年,詔高邑縣祠即位壇,五成陌北,臘祠門戶。此雖前代已行故事,然為壇以祀天,而壇非神也,今無事於上帝,而致祀於虛壇,求之義典,未詳所據。
裴松之が調べたところ、『漢紀』によると、章帝の元和三年(86年)、高邑県にある即位壇を祭るように詔が出されたよ。五成陌の北では、年末の祭りで門や戸を祭っていたんだ。
このように、前の時代にも同じような例はあったよ。でも、本来、壇は天を祭るために作られるもので、壇そのものが神なのではないよね。今、上帝を祭るわけでもないのに、何もない壇だけを祭っているけど、礼の決まりや古い制度を調べても、どんな根拠があるのかは、はっきりわからないんだ。
乙未,幸許昌宮。九月,大雨,伊、洛、河、漢水溢,詔真等班師。冬十月乙卯,行還洛陽宮。庚申,令:「罪非殊死聽贖各有差。」十一月,太白犯歲星。十二月辛未,改葬文昭甄后于朝陽陵。丙寅,詔公卿舉賢良。
乙未の日、曹叡は許昌宮に行ったよ。九月、大雨が降って、伊水、洛水、黄河、漢水があふれたんだ。だから、曹叡は曹真たちに命令して、軍を引きあげさせたよ。
冬の十月、乙卯の日、曹叡は洛陽宮に帰ったよ。庚申の日、曹叡は命令してこう言ったよ。
「死刑にあたるほど重い罪でない場合は、罪の重さに応じて金品を納めることで罪をゆるすことを認めるよ」
十一月、太白(金星)が歳星(木星)に近づいたんだ。
十二月、辛未の日、文昭甄后(甄氏)を朝陽陵へ改めて葬ったよ。丙寅の日、公卿たちに命令して、徳と才能のある人を推挙させたよ。
祁山の戦い
五年春正月,帝耕于藉田。三月,大司馬曹真薨。諸葛亮寇天水,詔大將軍司馬宣王拒之。自去冬十月至此月不雨,辛巳,大雩。夏四月,鮮卑附義王軻比能率其種人及丁零大人兒禪詣幽州貢名馬。復置護匈奴中郎將。秋七月丙子,以亮退走,封爵增位各有差。(註16)乙酉,皇子殷生,大赦。
太和五年(231年)、春の正月、曹叡は籍田(国のための農地)を耕したよ。三月、大司馬の曹真が亡くなったんだ。
諸葛亮が天水に攻めてきたから、曹叡は大将軍の司馬懿に命令して、これを防がせたよ。
昨年の十月からこの月まで雨が降らなかったから、辛巳の日、大雩という雨ごいの祭りをしたよ。
夏の四月、鮮卑の附義王の軻比能が、自分の部族の人々や丁零の長の児禅と一緒に幽州にやって来て、名馬を捧げたよ。そして、護匈奴中郎将をふたたび置いたよ。
秋の七月、丙子の日、諸葛亮が退いたから、それぞれの功績に応じて領地と爵位を与えたよ。乙酉の日、皇子の曹殷が生まれたから、大赦をしてたくさんの人の罪を許したよ。
魏書曰:初,亮出,議者以為亮軍無輜重,糧必不繼,不擊自破,無為勞兵;或欲自芟上邽左右生麥以奪賊食,帝皆不從。前後遣兵增宣王軍,又勑使護麥。宣王與亮相持,賴得此麥以為軍糧。
『魏書』によると、諸葛亮が兵を出すと、話し合いの中には、「諸葛亮の軍には十分な荷物がなくて、食糧が続かないから、戦わなくても自然に弱っていくだろうね。わざわざ兵を苦しめて戦う必要はないよ」と言う人がいたよ。さらに、「上邽の周りに生えている麦を先に刈り取ってしまえば、敵は食べ物を得られなくなるよ」と提案する人もいたよ。でも、曹叡はどちらの意見にも従わなかったんだ。
その後、何度も兵を送って司馬懿の軍を助けて、さらに麦を守るように命令したよ。司馬懿は諸葛亮と長くにらみ合っていたけど、この麦を軍の食糧として仕えたから、軍を支えられたよ。
八月,詔曰:「古者諸侯朝聘,所以敦睦親親協和萬國也。先帝著令,不欲使諸王在京都者,謂幼主在位,母后攝政,防微以漸,關諸盛衰也。朕惟不見諸王十有二載,悠悠之懷,能不興思!其令諸王及宗室公侯各將適子一人朝。後有少主、母后在宮者,自如先帝令,申明著于令。」
八月、曹叡は詔を下してこう言ったよ。
「昔、諸侯が朝廷に来てあいさつをしていたのは、親しい者どうしの仲を深めて、国と国が仲よく協力するためだよ。でも、先帝(曹丕)は、『諸王を都に長く置いてはいけない』という命令を定めたんだ。これは、幼い皇帝が即位して、母后が政治をするような場合に、小さな問題がどんどん大きくなって国が栄えるか衰えるかに関わることを防ぐためだったんだ。私は諸王に12年間も会えなくて、長く積もった思いの中で、どうして懐かしく思わないでいられるの? そこで、諸王や皇族の公侯たちは、それぞれ自分の後継ぎとなる子を一人ずつ連れて、朝廷へ来てね。ただし、幼い皇帝や母后が宮中にいる場合は、先帝(曹丕)の命令どおりにして、その決まりをあらためてはっきり書き残しておいてね」
十一月乙酉,月犯軒轅大星。戊戌晦,日有蝕之。十二月甲辰,月犯鎮星。戊午,太尉華歆薨。
十一月、乙酉の日、月が軒轅の大星に入ったよ。戊戌の晦(月の終わりの日)、日食が起こったんだ。十二月、甲辰の日、月が鎮星(土星)に近づいたよ。戊午の日、太尉の華歆が亡くなったんだ。
国を郡にする
六年春二月,詔曰:「古之帝王,封建諸侯,所以藩屏王室也。詩不云乎,『懷德維寧,宗子維城』。秦、漢繼周,或彊或弱,俱失厥中。大魏創業,諸王開國,隨時之宜,未有定制,非所以永為後法也。其改封諸侯王,皆以郡為國。」
太和六年(232年)、春の二月、曹叡は次詔を下してこう言ったよ。
「昔の帝王は、諸侯を封じて国を与えたよ。それは、王室を守るための支えとするためだよ。『詩経』にも『徳を大切にすれば国は安らかになって、宗家の子たちは城みたいに国を守る』とあるよ。秦や漢は周の制度を受け継いだけど、諸侯は強かったり弱かったりで、どちらもつり合いを保てなかったんだ。偉大な魏が国を開いたときも、諸王に国を与えてきたけど、その時々の事情に合わせていただけで、まだ決まった制度はなかったんだ。これでは、後の世まで続く決まりとは言えないよね。そこで、これから諸侯王の国は、すべて郡を単位として与えることに改めるよ」
『懷德維寧,宗子維城』は、『詩経』「板」から。
三月癸酉,行東巡,所過存問高年鰥寡孤獨,賜穀帛。乙亥,月犯軒轅大星。夏四月壬寅,行幸許昌宮。甲子,初進新果于廟。五月,皇子殷薨,追封謚安平哀王。秋七月,以衞尉董昭為司徒。九月,行幸摩陂,治許昌宮,起景福、承光殿。冬十月,殄夷將軍田豫帥衆討吴將周賀於成山,殺賀。十一月丙寅,太白晝見。有星孛于翼,近太微上將星。庚寅,陳思王植薨。十二月,行還許昌宮。
三月、癸酉の日、曹叡は東へ出発したよ。道中では、高齢の人たちや、夫や妻を失った人、親のいない子供、身寄りのない人たちを見舞って、穀物や織物を与えたよ。乙亥の日、月が軒轅の大星に近づいたよ。
夏の四月、壬寅の日、曹叡は許昌宮に行ったよ。甲子の日、その年にとれた新しい果物を、はじめて宗廟に捧げたよ。五月、皇子の曹殷が亡くなって、安平哀王の諡を贈ったんだ。
秋の七月、衛尉の董昭を司徒に任命したよ。九月、曹叡は摩陂に行って、許昌宮を整えて、景福殿と承光殿を建てたよ。
冬の十月、殄夷将軍の田豫は軍を率いて、成山で呉の将軍の周賀を討ち取ったよ。
十一月、丙寅の日、太白(金星)が昼に見えたんだ。そして、翼の星宿のあたりにほうき星が現れて、太微に上将星が近づいたんだ。庚寅の日、陳思王の曹植が亡くなったんだ。十二月、曹叡は許昌宮に帰ったよ。
功績のある人たちをまつる
青龍元年春正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。二月丁酉,幸摩陂觀龍,於是改年;改摩陂為龍陂,賜男子爵人二級,鰥寡孤獨無出今年租賦。三月甲子,詔公卿舉賢良篤行之士各一人。夏五月壬申,詔祀故大將軍夏侯惇、大司馬曹仁、車騎將軍程昱於太祖廟庭。(註17)
青龍元年(233年)、春の正月、甲申の日、青龍が郟の摩陂の井戸の中に現れたんだって。二月、丁酉の日、曹叡は摩陂に行って、龍を見たよ。そして、元号を青龍に改めて、摩陂を龍陂に変えたよ。さらに、成人した男子の身分を2つ上げて、夫のいない女性や、配偶者を失った人、親のいない子供、身寄りのない人には、今年の土地からの税を免除したんだ。三月、甲子の日、曹叡は詔を下して公卿たちに命令して、才能があって、行いの立派な人をそれぞれ一人ずつ推挙させたよ。
夏の五月、壬申の日、曹叡は詔を下して、昔の大将軍の夏侯惇、大司馬の曹仁、車騎将軍の程昱を、太祖廟の庭でまつるように命令したよ。
魏書載詔曰:「昔先王之禮,於功臣存則顯其爵祿,沒則祭于大蒸,故漢氏功臣祠於廟庭。大魏元功之臣功勳優著,終始休明者,其皆依禮祀之。」於是以惇等配饗之。
『魏書』によると、詔を下してこう言ったよ。
「昔の天子の礼では、功績のある臣下について、まだ生きているあいだは高い位や禄を与えて、亡くなった後には大きな祭りでまつっていたよ。だから、漢の時代には功績のある臣下たちは廟の庭でまつられていたんだって。魏の国を建てるのに大きな功績をあげた臣下たちは、特にすぐれていて、生涯を通して立派だったね。だから礼に従って、みんなをまつるよ」
こうして、夏侯惇たちも皇帝の祭りにあわせて一緒にまつられることになったよ。
戊寅,北海王蕤薨。閏月庚寅朔,日有蝕之。丁酉,改封宗室女非諸王女皆為邑主。詔諸郡國山川不在祠典者勿祠。六月,洛陽宮鞠室災。
戊寅の日、北海王の曹蕤が亡くなったんだ。閏月、庚寅の朔(月の初めの日)、日食が起こったんだ。丁酉の日、皇族の女性で諸王の娘ではない人たちをみんな邑主(領地の主)に改めて封じたよ。そして、曹叡は詔を下して「それぞれの郡や県の山や川で、正式な祭りの決まりに入っていないものは、まつってはいけないよ」と命令したよ。六月、洛陽宮の鞠室(蹴鞠をする部屋)で火事になっちゃった。
異民族の脅威
保塞鮮卑大人步度根與叛鮮卑大人軻比能私通,并州刺史畢軌表,輒出軍以外威比能,內鎮步度根。帝省表曰:「步度根以為比能所誘,有自疑心。今軌出軍,適使二部驚合為一,何所威鎮乎?」促勑軌,以出軍者慎勿越塞過句注也。
国境を守っていた鮮卑の大人(部族長)の歩度根は、反乱を起こしていた鮮卑の大人(部族長)の軻比能とこっそりと連絡を取り合っていたんだ。そこで、并州刺史(州の長官)の畢軌は上表して、「軍を出して、外では軻比能を脅して、内では歩度根を落ち着かせるよ」と言ったよ。でも、曹叡はこの上表を見て、こう言ったよ。
「歩度根は軻比能に誘われただけで、不安な気持ちを持っているの。今、畢軌が軍を出したら、かえって二つの部族をびっくりさせて、力を合わせて一つにしてしまうかも。いったい何を威圧して、何を落ち着かせられるの?」
そして急いで畢軌に命令を送って、「軍を出すときは、決して国境を越えて句注より先へ進まないでね」と言ったよ。
比詔書到,軌以進軍屯陰館,遣將軍蘇尚、董弼追鮮卑。比能遣子將千餘騎迎步度根部落,與尚、弼相遇,戰於樓煩,二將敗沒。步度根部落皆叛出塞,與比能合寇邊。遣驍騎將軍秦朗將中軍討之,虜乃走漠北。
詔書が届くころには、畢軌はすでに軍を進めて陰館にとどまっていたんだ。そして将軍の蘇尚と董弼に鮮卑を追わせたよ。すると、軻比能は自分の子に1,000人以上の騎兵を率いさせて、歩度根の部族を迎えに行かせたんだ。そして蘇尚と董弼の軍と楼煩で戦ったよ。この戦いで、蘇尚と董弼は敗れて亡くなったんだ。
その後、歩度根の部族はみんなそむいて国境の外へ出て、軻比能と力を合わせて国境の地域を荒らしたんだ。曹叡は、驍騎将軍の秦朗に中軍を率いさせて、これを討たせたよ。敵は北の砂漠へ逃げていったよ。
秋九月,安定保塞匈奴大人胡薄居姿職等叛,司馬宣王遣將軍胡遵等追討,破降之。
秋の九月、安定で国境を守っていた匈奴の大人(部族長)の胡薄居姿職たちが反乱を起こしたんだ。そこで、司馬懿は、将軍の胡遵たちを送って追わせて討たせて、彼らを打ち破って降伏させたよ。
冬十月,步度根部落大人戴胡阿狼泥等詣并州降,朗引軍還。(註18)(註19)(註20)(註21)(註22)
冬の十月、歩度根の部族の大人(部族長)の戴胡阿狼泥たちが、并州に来て降伏したから、秦朗は軍を率いて帰ったよ。
魏氏春秋曰:朗字元明,新興人。
『魏氏春秋』によると、秦朗は、字は元明で、新興の出身だよ。
獻帝傳曰:朗父名宜祿,為呂布使詣袁術,術妻以漢宗室女。其前妻杜氏留下邳。布之被圍,關羽屢請於太祖,求以杜氏為妻,太祖疑其有色,及城陷,太祖見之,乃自納之。宜祿歸降,以為銍長。及劉備走小沛,張飛隨之,過謂宜祿曰:「人取汝妻,而為之長,何蚩蚩若是邪!隨我去乎?」宜祿從之數里,悔欲還,飛殺之。朗隨母氏畜于公宮,太祖甚愛之,每坐席,謂賔客曰:「豈有人愛假子如孤者乎?」
『献帝伝』によると、秦朗の父の名前は秦宜禄で、呂布の使者として袁術のもとへ行ったんだ。袁術は漢の皇室の娘を妻として彼に与えたよ。でも、秦宜禄の前の妻の杜氏は下邳に残されていたんだ。
呂布が包囲されると、関羽は何度も曹操に「杜氏を妻にしたい」とお願いしたんだ。曹操は「そんなに望むなら、きっと美しいのだろうね」と思ったよ。そして城が落ちた後、曹操が実際に杜氏を見ると、本当に美しかったから、自分の妻として迎えたんだ。
秦宜禄は降伏して、銍県長(県の長官)になったよ。
その後、劉備が小沛から逃げると、張飛もそれに従っていたよ。張飛は途中で秦宜禄に会って、こう言ったよ。
「他人に妻を取られたうえに、その相手に仕えて県長になるなんて、どうしてそんなにぼんやりしていられるの! 私と一緒に来ない?」
秦宜禄は張飛について数里進んだけど、後悔して引き返そうとしたよ。すると、張飛は秦宜禄を殺したんだ。
秦朗は母の杜氏と一緒に宮中で育てられたよ。曹操は秦朗をとてもかわいがって、宴会の席ではいつも客にこう言ったよ。
「私くらい養子をかわいがる人がいるの?」
魏略曰:朗游遨諸侯間,歷武、文之世而無尤也。及明帝即位,授以內官,為驍騎將軍、給事中,每車駕出入,朗常隨從。時明帝喜發舉,數有以輕微而致大辟者,朗終不能有所諫止,又未甞進一善人,帝亦以是親愛;每顧問之,多呼其小字阿穌,數加賞賜,為起大第於京城中。四方雖知朗無能為益,猶以附近至尊,多賂遺之,富均公侯。
『魏略』によると、秦朗は諸侯たちのあいだを行き来しながら暮らしていたけど、曹操や曹丕の時代を通して、とくに非難されることはなかったんだって。そして、曹叡が、宮中の役職を与えられて、驍騎将軍や給事中になったよ。
曹叡が出かけるときには、秦朗はいつも一緒について行ったよ。
このとき曹叡は、人の罪を細かく調べることが好きで、小さな罪でも死刑にすることがよくあったんだ。でも、秦朗は最後までそれをいさめて止めようとはしなかったし、立派な人を推挙したことも一度もなかったんだ。それでも曹叡は、秦朗を親しくかわいがっていたよ。秦朗に声をかけるとき、幼名の阿穌と呼んで、何度も賞を与えたよ。さらに、都の中に大きな家まで建ててあげたんだ。
世の中の人たちは、「秦朗には国のためになるような才能はない」と知っていたよ。でも、曹叡のそば近くにいる人だから、たくさんの人が贈り物をして取り入ろうとしたんだ。だから、秦朗は公侯たちと同じくらい豊かになったよ。
世語曰:朗子秀,勁厲能直言,為晉武帝博士。
『世語』によると、秦朗の子の秦秀は、気性が強くて、はっきり意見を言える人だよ。晋の武帝(司馬炎)の博士になったんだって。
魏略以朗與孔桂俱在佞倖篇。桂字叔林,天水人也。建安初,數為將軍楊秋使詣太祖,太祖表拜騎都尉。桂性便辟,曉博弈、蹹鞠,故太祖愛之,每在左右,出入隨從。桂察太祖意,喜樂之時,因言次曲有所陳,事多見從,數得賞賜,人多餽遺,桂由此侯服玉食。太祖旣愛桂,五官將及諸侯亦皆親之。其後桂見太祖久不立太子,而有意於臨菑侯,因更親附臨菑侯而簡於五官將,將甚銜之。及太祖薨,文帝即王位,未及致其罪。黃初元年,隨例轉拜駙馬都尉。而桂私受西域貨賂,許為人事。事發,有詔收問,遂殺之。
『魏略』によると、秦朗と孔桂は、二人とも「佞倖篇」で書かれているよ。つまり、「媚を売って皇帝に取り入った人たち」として載せられているよ。
孔桂は、字は叔林で、天水の出身だよ。建安の年号の初めごろ(196年)、孔桂は何度も将軍の楊秋の使者として曹操のもとへ行ったよ。曹操は、孔桂を騎都尉に任命するように上表したよ。
孔桂は、人にうまく取り入る性格で、賭け事や蹴鞠も得意だよ。だから、曹操は彼を気に入って、いつもそばに置いて、外に行くときも一緒に歩いたよ。孔桂は曹操の気持ちをよく見ていて、機嫌がいいときにはそれとなく自分の願いごとを話したんだ。すると多くの場合、その願いは聞き入れられて、何度も賞や贈り物を受けたよ。それに、たくさんの人が贈り物をしたから、孔桂は侯みたいに立派な衣服を着て、ごちそうを食べるような豊かな暮らしをするようになったんだ。曹操が孔桂をかわいがっていたから、五官将(曹丕)や諸侯たちもみんな彼と親しくしていたよ。
でもその後、孔桂は曹操が長いあいだ太子を決めていないことを知って、「臨菑侯(曹植)が太子に選ばれるかも」と考えたよ。そこで、孔桂は曹丕には冷たく接したから、曹丕はこれをとても恨むようになったの。曹操が亡くなって、曹丕が王に即位したよ。でも、孔桂の罪を問わなかったんだ。
黄初元年(220年)、孔桂は制度に従って駙馬都尉に任命されたよ。でも、孔桂はこっそりと西域からの品物やわいろを受け取って、「「頼みごとをかなえてあげる」と約束していたんだ。このことが見つかって、曹丕は詔を下して取り調べを命令して、こうして孔桂は処刑されたよ。
魚豢曰:為上者不虛授,處下者不虛受,然後外無伐檀之歎,內無尸素之刺,雍熈之美著,太平之律顯矣。而佞倖之徒,但姑息人主,至乃無德而榮,無功而祿,如是焉得不使中正日朘,傾邪滋多乎!以武皇帝之慎賞,明皇帝之持法,而猶有若此等人,而況下斯者乎?
魚豢によると、上に立つ者が理由もないから地位を与えないで、下にいる者も理由もないからそれを受け取らないんだ。そうしてこそ、外には『伐檀(上に立つ者に対する不満)』という不満の声がなくなって、内には『尸素(働かない者が利益を得ていること)』という批判がなくなるよ。そのようになったら、世の中が穏やかで平和なすばらしい政治がされて、太平の道もはっきり示されるだろうね。
でも、媚びを売って取り入ろうとする人たちは、ただ君主の機嫌を取るだけで、徳がないのに栄えて、功績がないのに俸禄をもらっていたんだ。このようでは、正しく公平な人々が日ごとに減って、心の曲がった者ばかりが増えていくのも当然だよね? 賞を慎重に与えた曹操や、法を厳しく守った曹叡の時代でも、このような人たちがいたんだ。ましてやそれより劣る君主なら、なおさらだよ。
十二月,公孫淵斬送孫權所遣使張彌、許晏首,以淵為大司馬樂浪公。(註23)(註24)(註25)
十二月、公孫淵が孫権の使者の張弥と許晏を討ち取ったよ。公孫淵を大司馬と楽浪公にしたよ。
世語曰:并州刺史畢軌送漢故度遼將軍范明友鮮卑奴,年三百五十歲,言語飲食如常人。奴云:「霍顯,光後小妻。明友妻,光前妻女。」
『世語』によると、并州刺史(州の長官)の畢軌は、漢の昔の度遼将軍の范明友の家にいた鮮卑の奴隷を送り届けたよ。その奴隷はなんと350歳だけど、言葉づかいや食事の様子は普通の人と変わらなかったんだって。奴隷はこう言ったよ。
「霍顕は、霍光の後の妻だよ。范明友の妻は、霍光の前の妻の娘だよ」
博物志曰:時京邑有一人失其姓名,食啖兼十許人,遂肥不能動。其父曾作遠方長吏,官徙送彼縣,令故義傳供食之;一二年中,一鄉中輒為之儉。
『博物志』によると、このとき都には、名前のわからない一人の男がいたんだ。彼は一度の食事で10人分も食べたから、太りすぎて動けなくなっちゃった。彼の父は、昔、遠い地で長吏(行政官)をしていて、役所が移るとき、その男も別の県へ送られたんだ。そこで昔から親しくしていた人たちが、代わる代わる食事を出して養っていたの。でも1、2年もすると、その村全体が彼のせいで貧しくなったんだ。
傅子曰:時太原發冢破棺,棺中有一生婦人,將出與語,生人也。送之京師,問其本事,不知也。視其冢上樹木可三十歲,不知此婦人三十歲常生於地中邪?將一朝欻生,偶與發冢者會也?
『傅子』によると、このとき太原で墓が掘り返されて、棺が壊されたんだ。すると、棺の中から生きた女性が1人いたんだって。外へ出して話をしてみると、本当に生きている人間なんだ。そこで彼女は都に送られて、どこの誰なのか事情を聞かれたけど、本人にもわからなかったんだって。その墓の上に生えていた木を見てみると、30年くらい育っているようだったんだ。この女性は、30年間もずっと地下で生きていたの? それとも、たまたまその日に急に生き返って、偶然、墓を掘った人たちに出会ったの?

