正史『三国志』魏書明帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その1

正史『三国志』魏書明帝紀をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書」の「明帝紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
(そう)(えい) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

明帝紀は長いから記事を分けたよ。

出典

三國志 : 魏書三 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

曹叡の生まれ

本文

明皇帝諱叡,字元仲,文帝太子也。生而太祖愛之,常令在左右。(註1)

(めい)(こう)(てい)の名は(えい)で、(あざな)(げん)(ちゅう)だよ。(そう)()の息子だよ。生まれたときから(そう)(そう)に愛されて、いつも側にいさせたんだって。

(註1)

魏書曰:帝生數歲而有岐嶷之姿,武皇帝異之,曰:「我基於爾三世矣。」每朝宴會同,與侍中近臣並列帷幄。好學多識,特留意於法理。

()(しょ)』によると、(そう)(えい)は数歳で立派な姿をしていたから、(そう)(そう)はこれを見て感動して、こう言ったよ。
「私の基盤はあなたで3世代目になるんだよ」
朝廷の宴会では、いつも()(ちゅう)や臣下たちと帷の列に並んだよ。学問が好きで、知識も豊富で、特に法律や理に強い関心を持っていたんだって。

『三国志』の貴重なイケメン。2 代目をすぐに決めなかったから反省したのかな。

本文

年十五,封武德侯,黃初二年為齊公,三年為平原王。以其母誅,故未建為嗣。(註2)(註3)

15歳の時、()(とく)(こう)に封ぜられて、黄初2年(221年)には(せい)(こう)に、黄初3年(222年)には(へい)(げん)(おう)になったよ。でも、母((しん)())が処刑されたちゃったから、後継者として即位することはなかったんだ。

(註2)

魏略曰:文帝以郭后無子,詔使子養帝。帝以母不以道終,意甚不平。後不獲已,乃敬事郭后,旦夕因長御問起居,郭后亦自以無子,遂加慈愛。文帝始以帝不恱,有意欲以他姬子京兆王為嗣,故久不拜太子。

()(りゃく)』によると、(そう)()(かく)(こう)(ごう)に子供がいないから、詔で(そう)(えい)を子供として養うように命令したよ。でも、(そう)(えい)は母((しん)())が正当な扱いを受けないで亡くなったことに心を痛めて、とても不満を持っていたんだ。仕方なく(かく)(こう)(ごう)を敬って、朝と夕に長御(宮廷長)を通して行動を尋ねたよ。(かく)(こう)(ごう)もまた自分の子供がいないことから、ますます彼を愛したよ。(そう)()は最初、(そう)(えい)が不満を持っているのを見て、別の妃の子供である(けい)(ちょう)(おう)(そう)(れい))を後継者にしようと考えていたから、しばらくの間、(そう)(えい)を太子に任命しなかったんだ。

(註3)

魏末傳曰:帝常從文帝獵,見子母鹿。文帝射殺鹿母,使帝射鹿子,帝不從,曰:「陛下已殺其母,臣不忍復殺其子。」因涕泣。文帝即放弓箭,以此深奇之,而樹立之意定。

()(まつ)(でん)』によると、(そう)(えい)はいつも(そう)()と一緒に狩りに出かけて、親子の鹿を見つけたよ。(そう)()は母鹿を射って殺して、(そう)(えい)に子鹿を射るように命令したけど、(そう)(えい)は従わないで、こう言ったよ。
「あなたがすでにその母を殺したから、私はその子を殺すことに堪えられないの」
そして、涙を流したよ。これを見た(そう)()はすぐに弓矢を置いて、(そう)(えい)を立派だと思って、太子に立てる決意をしたよ。

本文

七年夏五月,帝病篤,乃立為皇太子。丁巳,即皇帝位,大赦。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。諸臣封爵各有差。(註4)

黄初7年(226年)、夏の五月、(そう)()の病気が重くなって、(そう)(えい)は皇太子に立てられたよ。丁巳の日、(そう)(えい)は皇帝に即位して、大赦が行われたよ。皇太后を尊んで太皇太后と呼んで、皇后を尊んで皇太后と呼んだよ。臣下にそれぞれ爵位を授けたよ。

(註4)

世語曰:帝與朝士素不接,即位之後,羣下想聞風采。居數日,獨見侍中劉曄,語盡日。衆人側聽,曄旣出,問「何如」?曄曰:「秦始皇、漢孝武之儔,才具微不及耳。」

()()』によると、(そう)(えい)は朝廷の官僚たちと交流がなかったから、皇帝に即位した後、臣下たちは彼の人柄を知りたがっていたんだ。数日後、(そう)(えい)()(ちゅう)(りゅう)(よう)とだけ会って、一日中話したよ。周りの人たちは側で聞いていたよ。(りゅう)(よう)が出て行った後、彼らは(りゅう)(よう)に「どうだった?」と尋ねたよ。(りゅう)(よう)はこう答えたよ。
(しん)()(こう)(てい)(かん)()(てい)に並ぶ人だけど、才能はわずかに及ばないだけだね」

本文

癸未,追謚母甄夫人曰文昭皇后。壬辰,立皇弟蕤為陽平王。

癸未の日、母である(しん)()(じん)に「(ぶん)(しょう)(こう)(ごう)」の謚を贈ったよ。壬辰の日、弟の(そう)(ずい)(よう)(へい)(おう)に立てたよ。

江夏の戦い

本文

八月,孫權攻江夏郡,太守文聘堅守。朝議欲發兵救之,帝曰:「權習水戰,所以敢下船陸攻者,幾掩不備也。今已與聘相持,夫攻守勢倍,終不敢久也。」先時遣治書侍御史荀禹慰勞邊方,禹到,於江夏發所經縣兵及所從步騎千人乘山舉火,權退走。

八月、(そん)(けん)(こう)()郡を攻めて、(たい)(しゅ)(郡の長官)の(ぶん)(ぺい)が堅く守ったよ。朝廷の会議では彼を救援するために兵を送ろうとしていたけど、(そう)(えい)はこう言ったよ。
(そん)(けん)は水上の戦いに慣れていて、船を降りて陸で攻撃するのも、私たちの不意を突くためだよ。今、すでに(ぶん)(ぺい)と戦っているから、攻撃の勢いも守備側に比べて弱くて、長く持ちこたえることはできないだろうね」
前に治書侍御史(ちしょじぎょし)(じゅん)()を辺境を慰めるために送っていたけど、(じゅん)()が着いた時、通過したそれぞれの県から歩兵や騎兵1,000人を集めて、山に登って火を上げたよ。そして、(そん)(けん)は退却したよ。

本文

辛巳,立皇子冏為清河王。吳將諸葛瑾、張霸等寇襄陽,撫軍大將軍司馬宣王討破之,斬霸,征東大將軍曹休又破其別將於尋陽。論功行賞各有差。

辛巳の日、皇子の(そう)(けい)(せい)()(おう)に立てたよ。()の将の(しょ)(かつ)(きん)(ちょう)()たちが(じょう)(よう)を攻めてきたから、()(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)()()()がこれを討ち破って、(ちょう)()を斬ったよ。さらに(せい)(とう)(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(きゅう)(じん)(よう)で別の将を破ったよ。それぞれの功績に応じて賞を与えたよ。

本文

冬十月,清河王冏薨。十二月,以太尉鍾繇為太傅,征東大將軍曹休為大司馬,中軍大將軍曹真為大將軍,司徒華歆為太尉,司空王朗為司徒,鎮軍大將軍陳羣為司空,撫軍大將軍司馬宣王為驃騎大將軍。

冬の十月、(せい)()(おう)(そう)(けい)が亡くなったんだ。十二月、(たい)()(しょう)(よう)(たい)()に、(せい)(とう)(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(きゅう)(だい)()()に、(ちゅう)(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)(だい)(しょう)(ぐん)に、()()()(きん)(たい)()に、()(くう)(おう)(ろう)()()に、(ちん)(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)(ちん)(ぐん)()(くう)に、()(ぐん)(だい)(しょう)(ぐん)()()()驃騎大将軍(ひょうきしょうぐん)に任命したよ。

孟達が裏切る

本文

太和元年春正月,郊祀武皇帝以配天,宗祀文皇帝於明堂以配上帝。分江夏南部,置江夏南部都尉。西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭、鹿磐討斬之。二月辛未,帝耕于藉田。辛巳,立文昭皇后寢廟於鄴。丁亥,朝日于東郊。

(たい)()元年(227年)、春の正月、(そう)(そう)を天に配して郊祀をして、明堂で(そう)()を天帝に配して宗祀をしたよ。江夏(こうか)の南部を分けて、(こう)()(なん)()()()を置いたよ。
西(せい)(へい)の出身の(きく)(えい)が反乱を起こして、(りん)(きょう)(れい)西(せい)()(ちょう)を殺したから、将軍の(かく)(しょう)鹿(ろく)(ばん)を送って討伐して、斬ったよ。二月の辛未の日、(そう)(えい)は藉田を耕したよ。辛巳の日、文昭皇后の廟を(ぎょう)に建てたよ。丁亥の日、東郊で朝日を迎えたんだ。

本文

夏四月乙亥,行五銖錢。甲申,初營宗廟。秋八月,夕月于西郊。冬十月丙寅,治兵于東郊。焉耆王遣子入侍。十一月,立皇后毛氏。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨不能自存者賜穀。十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。(註5)(註6)(註7)

夏の四月、乙亥の日、五銖銭を発行したよ。甲申の日、初めて宗廟を建てたんだ。秋の八月、西郊で夕月の儀式をしたよ。冬の十月、丙寅の日、東郊で兵の訓練をしたよ。(えん)()(おう)が子を朝廷に送ったよ。十一月、皇后に(もう)()を立てたよ。天下の男子に爵位を二級授けて、生活に困っている孤独な人には穀物を授けたんだ。十二月、皇后の父である(もう)()を列侯に封じたよ。(しん)(じょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(もう)(たつ)が反乱を起こしたから、詔を下して(ひょう)()(しょう)(ぐん)()()()に討たせたよ。

(註5)

三輔決錄曰:伯郎,涼州人,名不令休。其注曰:伯郎姓孟,名他,扶風人。靈帝時。中常侍張讓專朝政,讓監奴典護家事。他仕不遂,乃盡以家財賂監奴,與共結親,積年家業為之破盡。衆奴皆慙,問他所欲,他曰:「欲得卿曹拜耳。」奴被恩久,皆許諾。

(さん)()(けつ)(ろく)』によると、((もう)(たつ)の父の)(はく)(ろう)は、(りょう)州の出身で、名は()(れい)(きゅう)だよ。その注によると、(はく)(ろう)の姓は(もう)で、名は()だよ。彼は()(ふう)の出身で、(れい)(てい)の時代に生きたんだ。(ちゅう)(じょう)()(ちょう)(じょう)が自分勝手に政治をしていたよ。(ちょう)(じょう)は奴隷を監督して、家事を管理させていたんだって。(もう)()は自分の立場を高められなかったから、家の財産をすべてその奴隷にあげて、(ちょう)(じょう)との関係を深めて、数年で家業は破産しちゃったんだって。他の仲間の奴隷たちは、みんな彼にどんな願いがあるか尋ねたんだ。(もう)()はこう答えたよ。
(ちょう)(じょう)に仕えたいだけだよ」
奴隷たちは長い間彼に世話になっていたから、彼の願いを叶えることに同意したよ。

(註5)

時賔客求見讓者,門下車常數百乘,或累日不得通。他最後到,衆奴伺其至,皆迎車而拜,徑將他車獨入。衆人悉驚,謂他與讓善,爭以珍物遺他。他得之,盡以賂讓,讓大喜。他又以蒲桃酒一斛遺讓,即拜涼州刺史。他生達,少入蜀。其處蜀事迹在劉封傳。

ある日、客が(ちょう)(じょう)に会いたがっていたんだ。門の前にはいつもたくさんの馬車が並んでいて、何日も通れなかったんだ。(もう)()が最後に着くと、奴隷たちは彼を待って、みんな彼の馬車に迎えに行って、彼の馬車だけを(ちょう)(じょう)に案内したよ。みんなが驚いて、彼が(ちょう)(じょう)と親しくしていると考えて、贈り物を彼に残そうと競ったよ。彼はそれを全部を受け取って、(ちょう)(じょう)に贈ったから、(ちょう)(じょう)はとても喜んだよ。そして、(もう)()は蒲桃酒1斛を(ちょう)(じょう)に贈って、その後すぐに(りょう)(しゅう)()()(州の長官)に任命されたよ。
(もう)()から(もう)(たつ)が生まれて、幼い頃に(しょく)に入ったんだ。(もう)(たつ)(しょく)での活躍は「劉封伝」に記されているよ。

(註6)

魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。文帝時初即王位,旣宿知有達,聞其來,甚恱,令貴臣有識察者往觀之,還曰「將帥之才也」,或曰「卿相之器也」,王益欽達。

()(りゃく)』によると、(もう)(たつ)は延康元年(220 年)に 4,000 以上の家を率いて魏に従ったよ。(そう)()が王位についた初めの頃、すでに(もう)(たつ)のことを知っていて、彼がやってくることを聞いてとても喜んだよ。(そう)()(もう)(たつ)を評価するために、身分の高い臣下たちに観察させたよ。彼らは帰ってきて、「軍の指揮官としての才能がある」、「高位の役人の器がある」と言って、(そう)()はますます(もう)(たつ)を尊敬するようになったよ。

(註6)

逆與達書曰:「近日有命,未足達旨,何者?昔伊摯背商而歸周,百里去虞而入秦,樂毅感鴟夷以蟬蛻,王遵識逆順以去就,皆審興廢之符效,知成敗之必然,故丹青畫其形容,良史載其功勳。聞卿姿度純茂,器量優絕,當騁能明時,收名傳記。今者翻然濯鱗清流,甚相嘉樂,虛心西望,依依若舊,下筆屬辭,歡心從之。昔虞卿入趙,再見取相,陳平就漢,一覲參乘,孤今於卿,情過於往,故致所御馬物以昭忠愛。」

(そう)()から(もう)(たつ)へ手紙を書いてこう言ったよ。
「最近、命令を下したけど、まだ真意が十分に伝わっていなみたいだね、何があったの? 昔、()()()(いん))は(いん)に背いて(しゅう)に従ったよ。(ひゃく)()(けい)()を離れて(しん)に仕えたよ。(がく)()()()(革袋)の援助に感動して新たな地位を得て、(おう)(じゅん)は正しいことと違うことを見分けて立場を選んだよ。彼らはみんな、興亡の兆しを見極めて、成功と失敗を必然として認識していたから、画家がその姿を描いて、良い史官(記録官)によって功績が記録されたの。
あなたは容姿が立派で、器量も優れていると聞いているよ。あなたは才能を活かして、伝記に名を残すにふさわしい人物だよ。今、あなたが鱗を濯いで清らかな流れとなって新たに道へ進んだことをとても喜ばしく思っているよ。心から西を望んで、憧れを思っていて、心の喜びから、筆を執って、喜んで応じるよ。昔、()(けい)(ちょう)に入って、ふたたび招かれて(しょう)になったよ。(ちん)(ぺい)(かん)に仕えて、(りゅう)(ほう)と一緒に車に乗ったんだ。私はあなたに対する思いがその時以上だから、かつて使った馬と物品を送って忠愛の証とするね」

(註6)

又曰:「今者海內清定,萬里一統,三垂無風塵之警,中夏無狗吠之虞,以是弛罔闊禁,與世無疑,保官空虛,初無資任。卿來相就,當明孤意,慎勿令家人繽紛道路,以親駭疏也。若卿欲來相見,且當先安部曲,有所保固,然後徐徐輕騎來東。」

それに、こう書いて伝えたよ。
「今や天下は清らかに安定して、万里にわたって統一されていて、辺境にも騒乱の兆しは無いし、中原には盗賊の心配がないよ。だから、厳しい禁令を緩めて、世間との隔たりもなくて、官職は空いていて、初めから任命する人が足りない状況なんだ。あなたが私のもとに来てくれることは、私の意図を理解してくれるものと期待しているよ。ただ、家族が慌てて道を騒がせて、親しい人たちに不安を与えることがないようにしてね。もしあなたが会いに来てくれるのであれば、まずは部下の安定を図って、守りを固めてから、ゆっくりと軽装の騎兵で東へ向かって来てね」

(註6)

達旣至譙,進見閑雅,才辯過人,衆莫不屬目。又王近出,乘小輦,執達手,撫其背戲之曰:「卿得無為劉備刺客邪?」遂與同載。又加拜散騎常侍,領新城太守,委以西南之任。時衆臣或以為待之太猥,又不宜委以方任。王聞之曰:「吾保其無他,亦譬以蒿箭射蒿中耳。」

(もう)(たつ)(しょう)に着くと、上品で優雅な振る舞いで、才気あふれる弁舌は人を超えていて、誰もが彼に注目したの。(そう)()は近づいて、小さな車に乗って、(もう)(たつ)の手を握って、彼の背中を撫でながら、「あなたは(りゅう)()の刺客ではないよね?」と冗談を言ったよ。そして一緒に車に乗ったんだ。さらに(さん)()(じょう)()(しん)(じょう)(たい)(しゅ)(郡の長官)に任命して、西南部の任務を委ねたよ。当時、一部の臣下は彼を待遇があまりにも行き過ぎだと考えて、それに、地方を守る任務を委ねるのは適切ではないと考えていたんだ。(そう)()はこれを聞いて、こう言ったよ。
「私は彼を信用しているよ。それは蒿で作った矢を蒿の中に放つことに等しいよ」

(註6)

達旣為文帝所寵,又與桓階、夏侯尚親善,及文帝崩,時桓、尚皆卒,達自以羈旅久在疆場,心不自安。諸葛亮聞之,陰欲誘達,數書招之,達與相報荅。魏興太守申儀與達有隙,密表達與蜀潛通,帝未之信也。司馬宣王遣參軍梁幾察之,又勸其入朝。達驚懼,遂反。

(もう)(たつ)(そう)()にとても気に入られて、(かん)(かい)()(こう)(しょう)とも仲が良かったんだ。でも、(そう)()が亡くなると、(かん)(かい)()(こう)(しょう)も亡くなって、(もう)(たつ)は不安を感じたんだ。彼は遠くの地から来て、長い間辺境で暮らしていたからね。
(しょ)(かつ)(りょう)がこれを聞くと、(もう)(たつ)をこっそりと誘ったよ。何度か手紙で招いて、(もう)(たつ)は返事をしてこれに応じたよ。でも、()(こう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(しん)()(もう)(たつ)と仲が悪くて、(しん)()はこっそりと(もう)(たつ)(しょく)とのつながりを持っていることを表明したけど、(そう)(えい)はそれを信じなかったんだ。()()()は参軍の(りょう)()に調査させて、朝廷に戻るように(もう)(たつ)に勧めたよ。(もう)(たつ)はびっくりして恐れて、とうとう反乱を起こしたんだ。

(註7)

干寶晉紀曰:達初入新城,登白馬塞,歎曰:「劉封、申耽,據金城千里而失之乎!」

(かん)(ぽう)の『(しん)()』によると、(もう)(たつ)(しん)(じょう)に初めて入ったとき、白馬塞に登って、こう嘆いたよ。
(りゅう)(ほう)(しん)(たん)は固い都市で守ったけど、それを失ったなんて!」

本文

二年春正月,宣王攻破新城,斬達,傳其首。(註8)分新城之上庸、武陵、巫縣為上庸郡,錫縣為錫郡。

太和2年(228年)、春の正月、()()()(しん)(じょう)を攻撃して制圧して、(もう)(たつ)を斬って、その首を都に送ったよ。(しん)(じょう)(じょう)(よう)()(りょう)()の3つの県を(じょう)(よう)郡として、(せき)県を(せき)郡としたよ。

(註8)

魏略曰:宣王誘達將李輔及達甥鄧賢,賢等開門內軍。達被圍旬有六日而敗,焚其首于洛陽四達之衢。

()(りゃく)』によると、()()()(もう)(たつ)を誘って、将の()()(もう)(たつ)の甥の(とう)(けん)と一緒に、城門を開けて内に軍を導いたよ。(もう)(たつ)は10日間にわたって包囲されて敗北して、その首は(らく)(よう)の四方に晒されたんだ。

街亭の戦い

本文

蜀大將諸葛亮寇邊,天水、南安、安定三郡吏民叛應亮。(註9)遣大將軍曹真都督關右,並進兵。右將軍張郃擊亮於街亭,大破之。亮敗走,三郡平。丁未,行幸長安。(註10)

(しょく)(だい)(しょう)(ぐん)(しょ)(かつ)(りょう)が国境を攻めてきたよ。(てん)(すい)(あん)(なん)(あん)(てい)の3つの郡の役人や民が(しょ)(かつ)(りょう)に応じて反乱したんだ。()(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)を関西の()(とく)(指揮官)として、軍を進めたよ。()(しょう)(ぐん)(ちょう)(こう)(がい)(てい)(しょ)(かつ)(りょう)を攻撃して、大勝利を収めたよ。(しょ)(かつ)(りょう)は敗れて逃げて、3つの郡は鎮圧されたんだ。
丁未の日、(そう)(えい)(ちょう)(あん)に行幸したよ。

(註9)

魏書曰:是時朝臣未知計所出,帝曰:「亮阻山為固,今者自來,旣合兵書致人之術;且亮貪三郡,知進而不知退,今因此時,破亮必也。」乃部勒兵馬步騎五萬拒亮。

()(しょ)』によると、この時、朝廷の臣下たちはどんな策を取るべきかわからなくて、(そう)(えい)はこう言ったよ。
(しょ)(かつ)(りょう)は山を頼りに守りを固めていたけど、今度は自分から攻めてきたよ。これはまさに兵法にあるように敵を誘い出す術だね。さらに(しょ)(かつ)(りょう)は3つの郡に手に入れたいと思っているんだ。彼は進むことをよく知っているけど、退くことを知らないみたいだね。だから、今こそこの機会を生かして、(しょ)(かつ)(りょう)を打ち破るべきだよ」
そこで5万の兵と馬を動員して(しょ)(かつ)(りょう)に対抗したよ。

(註10)

魏略載帝露布天下并班告益州曰:「劉備背恩,自竄巴蜀。諸葛亮棄父母之國,阿殘賊之黨,神人被毒,惡積身滅。亮外慕立孤之名,而內貪專擅之實。劉升之兄弟守空城而已。亮又侮易益土,虐用其民,是以利狼、宕渠、高定、青羌莫不瓦解,為亮仇敵。而亮反裘負薪,裏盡毛殫,刖趾適屨,刻肌傷骨,反更稱說,自以為能。行兵於井底,游步於牛蹄。

()(りゃく)』によると、(そう)(えい)は天下に知らせて、(えき)州にも向けてこう言ったよ。
(りゅう)()は恩に背いて、()(しょく)に逃げ込んだよ。(しょ)(かつ)(りょう)は生まれた地を捨てて、悪党の仲間になって、神も人もその毒にさらされたんだ。悪いことをして自らの身を滅ぼしたんだ。(しょ)(かつ)(りょう)は外では孤児の後見を装っているけど、内では実際は横暴を貪っているに過ぎないよ。(りゅう)(ぜん)の兄弟は空の城を守っているだけだね。さらに、(しょ)(かつ)(りょう)(えき)州の土地を侮って、民をひどく扱っているんだ。その結果、()(ろう)(とう)(きょ)(こう)(てい)(せい)(きょう)などの各地は崩れて、(しょ)(かつ)(りょう)の敵になったね。そして(しょ)(かつ)(りょう)は毛皮を裏返してその上に薪を積んで(無知で)、足の指を切り落として靴を履いて肌を刻んで骨を傷つけて(現実を無視して無理に対応して)、それでも自分をほめたたえて、自分を有能と誇っているんだ。彼は井戸の底を歩いて、牛の蹄の上を歩いているみたいだね。

(註10)

自朕即位,三邊無事,猶哀憐天下數遭兵革,且欲養四海之耆老,長後生之孤幼,先移風於禮樂,次講武於農隙,置亮畫外,未以為虞。而亮懷李熊愚勇之智,不思荊邯度德之戒,驅略吏民,盜利祁山。

私が即位してから、東、西、南の辺境も平穏だけど、それでも天下がたくさんの戦乱に苦しんでいることを心配して、まずは四方の老人を養って、後の世の若者を育てたいと思っているよ。まずは礼楽の教えを広めて、次に農業の合間に武術を訓練しようと考えているよ。だから、(しょ)(かつ)(りょう)はを防御の対象とはしていなかったんだ。でも、(しょ)(かつ)(りょう)()(ゆう)みたいな向こう見ずな勇に頼って、(けい)(かん)みたいに徳を思い計る戒めを忘れて、役人や民を無理に駆り立て、()(ざん)を狙って利を盗もうとしているんだ。

(註10)

王師方振,膽破氣奪,馬謖、高祥望旗奔敗。虎臣逐北,蹈尸涉血,亮也小子,震驚朕師。猛銳踊躍,咸思長驅。朕惟率土莫非王臣,師之所處,荊棘生焉,不欲使十室之邑忠信貞良與夫淫昏之黨,同受塗炭。故先開示,以昭國誠,勉思變化,無滯亂邦。巴蜀將吏士民諸為亮所劫迫,公卿已下皆聽束手。」

天子の軍はまさに振るわれて、敵は胆を砕かれて士気も奪われて、()(しょく)(こう)(しょう)は旗を見て逃げ出しちゃった。武勇のある将たちが逃げる敵を追いかけて、死体を踏み越えて血を浴びたよ。(しょ)(かつ)(りょう)という小さな人が私の軍を驚かせたけど、猛々しい兵たちはみんな、長く進軍を続けることを願っていたよ。私は国中の人がみんな王の臣下で、軍のある場所にはとげの生い茂る戦地とならないように、10戸ほどの小さな村の忠実で誠実な者までが悪党と同じく苦しむことを望まないよ。だから、まずは国の誠実を示して、敵に変化を促して、乱れた国に留まることのないように勧めるよ。()(しょく)の将や兵たち、民で(しょ)(かつ)(りょう)に脅されて従った人たちは、公卿以下はみんな投降を許すよ」

()(ゆう)は、(こう)(そん)(じゅつ)の側近だよ。(しょ)(かつ)(りょう)さんの隆中対の元ネタを言った人かも。
(けい)(かん)は、(こう)(そん)(じゅつ)の武将だよ。

本文

夏四月丁酉,還洛陽宮。(註11)赦繫囚非殊死以下。乙巳,論討亮功,封爵增邑各有差。五月,大旱。六月,詔曰:「尊儒貴學,王教之本也。自頃儒官或非其人,將何以宣明聖道?其高選博士,才任侍中常侍者。申勑郡國,貢士以經學為先。」

夏の四月、丁酉の日、(そう)(えい)(らく)(よう)の宮殿に戻ったよ。死刑以外の囚人に恩赦が与えられたよ。乙巳の日には、(しょ)(かつ)(りょう)を征伐した功績を論じて、それぞれの功績に応じて爵位や土地を封じたよ。五月、ひでりが起こったんだ。六月、詔を下してこう言ったよ。
「儒学を尊んで学問を重んじることは、王道の教えの基本だよ。最近、儒学を司る官職にふさわしくない人がいるけど、どうして聖人の道を明らかに伝えられるの? そこで、優れた博士を選んで、才能ある人を()(ちゅう)(じょう)()に任命するね。そして、郡や国に厳しく命令して、まず経学を重視して人材を推薦させてね」

(註11)

魏略曰:是時譌言云帝已崩,從駕羣臣迎立雍丘王植。京師自卞太后羣公盡懼。及帝還,皆私察顏色。卞太后悲喜,欲推始言者,帝曰:「天下皆言,將何所推?」

()(りゃく)』によると、この時、噂では、(そう)(えい)が亡くなって、臣下たちが(よう)(きゅう)(おう)(そう)(しょく)を迎えて即位させたと言われていたんだ。都では(べん)(たい)(こう)と臣下たちはみんな恐れていたよ。(そう)(えい)が戻ると、みんな顔色を見て様子を探ったよ。(べん)(たい)(こう)は悲しみと喜びを感じて、最初にこの噂を広めた人を探そうとしたけど、(そう)(えい)はこう言ったよ。
「天下の人たちがみんなそう言っているんだ。誰を責めるの?」

本文

秋九月,曹休率諸軍至皖,與吳將陸議戰於石亭,敗績。乙酉,立皇子穆為繁陽王。庚子,大司馬曹休薨。冬十月,詔公卿近臣舉良將各一人。十一月,司徒王朗薨。十二月,諸葛亮圍陳倉,曹真遣將軍費曜等拒之。(註12)遼東太守公孫恭兄子淵劫奪恭位,遂以淵領遼東太守。

秋の九月、(そう)(きゅう)はたくさんの軍を率いて(かん)に着いて、(せき)(てい)()の将の(りく)()(りく)(そん))と戦ったけど、負けちゃった。乙酉の日、皇子の(そう)(ぼく)(はん)(よう)(おう)に立てたよ。庚子の日、(だい)()()(そう)(きゅう)が亡くなったんだ。
冬の十月、公卿や側近たちに良い将を1人ずつ推挙するように詔を下したよ。十一月、()()(おう)(ろう)が亡くなったんだ。十二月、(しょ)(かつ)(りょう)(ちん)(そう)を包囲して、(そう)(しん)が将軍の()(よう)たちにこれを阻止させたよ。
(りょう)(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)である(こう)(そん)(きょう)の兄の子である(こう)(そん)(えん)が、(こう)(そん)(きょう)の地位を奪い取って、その後、(こう)(そん)(えん)(りょう)(とう)(たい)(しゅ)になったんだって。

(註12)

魏略曰:先是使將軍郝昭築陳倉城;會亮至,圍昭,不能拔。昭字伯道,太原人,為人雄壯,少入軍為部曲督,數有戰功,為雜號將軍,遂鎮守河西十餘年,民夷畏服。亮圍陳倉,使昭鄉人靳詳於城外遙說之,昭於樓上應詳曰:「魏家科法,卿所練也;我之為人,卿所知也。我受國恩多而門戶重,卿無可言者,但有必死耳。卿還謝諸葛,便可攻也。」

()(りゃく)』によると、これより前に、将軍の(かく)(しょう)(ちん)(そう)に城を築かせていたけど、ちょうど(しょ)(かつ)(りょう)がやってきて、(かく)(しょう)を包囲したんだ。でも、陥落させることはできなかったんだ。
(かく)(しょう)は、(あざな)(はく)(どう)で、(たい)(げん)の出身だよ。勇敢な人物で、若い頃から軍に入って、()(きょく)(とく)として何度も戦功を挙げたから、(ざつ)(ごう)(しょう)(ぐん)になったよ。()西(せい)を十数年守って、民や異民族からも恐れて敬われていたんだって。(しょ)(かつ)(りょう)(ちん)(そう)を包囲すると、(かく)(しょう)と同じ郷里の(きん)(しょう)が城の外から(かく)(しょう)を説得しに来たよ。(かく)(しょう)は城の楼から(きん)(しょう)にこう言ったよ。
()の法は、あなたがよく知っているよね。私がどんな人間かも、あなたが知っているよね。私は国からたくさんの恩を受けていて、家門も重い立場にあるんだ。あなたの言葉に耳を貸す余地はないんだ。ただ死ぬ覚悟をしているだけだ。(しょ)(かつ)(りょう)に戻って謝って、攻撃してくるがいいよ」

(註12)

詳以昭語告亮,亮又使詳重說昭,言人兵不敵,無為空自破滅。昭謂詳曰:「前言已定矣。我識卿耳,箭不識也。」詳乃去。亮自以有衆數萬,而昭兵纔千餘人,又度東救未能便到,乃進兵攻昭,起雲梯衝車以臨城。昭於是以火箭逆射其雲梯,梯然,梯上人皆燒死。昭又以繩連石磨壓其衝車,衝車折。亮乃更為井闌百尺以付城中,以土丸填壍,欲直攀城,昭又於內築重牆。亮足為城突,欲踊出於城裏,昭又於城內穿地橫截之。晝夜相攻拒二十餘日,亮無計,救至,引退。

(きん)(しょう)(かく)(しょう)の言葉を(しょ)(かつ)(りょう)に伝えたけど、(しょ)(かつ)(りょう)はふたたび(きん)(しょう)(かく)(しょう)を説得させて、「敵兵が多いから、自滅するようなことはするな」と伝えさせたんだ。(かく)(しょう)(きん)(しょう)にこう言ったよ。
「前に話したとおりだよ。あなたの顔は知っているけど、矢はお前を知らないぞ」
(きん)(しょう)はそれを聞いて立ち去ったんだ。(しょ)(かつ)(りょう)は軍は数万人いるのに、(かく)(しょう)の兵は1,000人くらいで、しかも東からの助けもすぐには来なかったから、(しょ)(かつ)(りょう)は進軍して(かく)(しょう)を攻めたよ。雲梯や衝車を使って城に迫ったよ。(かく)(しょう)は火矢で雲梯を射撃して、雲梯が崩れて、上にいた兵たちはみんな焼け死んじゃった。さらに、(かく)(しょう)は石臼を縄でつないで衝車を押しつぶしたんだ。(しょ)(かつ)(りょう)は城の中に100尺の楼を立てて、土で堀を埋めて城壁に直接登ろうとしたけど、(かく)(しょう)は城の中に厚い壁を作ったよ。(しょ)(かつ)(りょう)は城を突破しようとして、城の裏に出ようとしたけど、(かく)(しょう)は城の中を掘って横切ったよ。昼夜の攻防が20日以上も続いて、(しょ)(かつ)(りょう)は策を尽くしても助けが来ないことを知って撤退したんだ。

(註12)

詔嘉昭善守,賜爵列侯。及還,帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕復何憂乎?」仍欲大用之。會病亡,遺令戒其子凱曰:「吾為將,知將不可為也。吾數發冢,取其木以為攻戰具,又知厚葬無益於死者也。汝必斂以時服。且人生有處所耳,死復何在邪?今去本墓遠,東西南北,在汝而已。」

(そう)(えい)は詔を下して(かく)(しょう)の守りを褒めて、列侯の爵位を与えたよ。帰ってから、(そう)(えい)(かく)(しょう)をほめて、励まして、(ちゅう)(しょ)(れい)(そん)()にこう言ったよ。
「あなたの郷里に、こんなに優れた人物がいるなんて。将として優れているとはこういうことだよね。私は何を心配する必要があるの?」
そして、(かく)(しょう)を大事に使おうとしたんだ。でも、(かく)(しょう)が病気で亡くなったんだ。(かく)(しょう)は遺言として(かく)(がい)にこう言ったよ。
「私は将になって、戦を重ねてきたけど、将として生きることが難しいことも知っているんだ。それに、戦に備えるために、何度も墓を掘り返して木を取ったから、厚い葬儀は亡くなった人には役に立たないこともわかっているよ。あなたは私を質素な衣服で葬ればいいんだ。生きている人にはその人の居場所があるけど、死んだ後はどこにいるの? 今、私の墓の場所は、あなたが決めてね」

大月氏国の使者が来る

本文

三年夏四月,元城王禮薨。六月癸卯,繁陽王穆薨。戊申,追尊高祖大長秋曰高皇帝,夫人吳氏曰高皇后。

太和3年(229年)、夏の四月、(げん)(じょう)(おう)(そう)(れい)が亡くなったんだ。六月の癸卯の日、(はん)(よう)(おう)(そう)(ぼく)が亡くなったんだ。戊申の日、(こう)()(だい)(ちょう)(しゅう)(そう)(とう))が「(こう)(こう)(てい)」、夫人の()()が「(こう)(こう)(ごう)」の尊号を贈られたよ。

本文

秋七月,詔曰:「禮,王后無嗣,擇建支子以繼太宗,則當纂正統而奉公義,何得復顧私親哉!漢宣繼昭帝後,加悼考以皇號;哀帝以外藩援立,而董宏等稱引亡秦,或誤時朝,旣尊恭皇,立廟京都,又寵藩妾,使比長信,敘昭穆於前殿,並四位於東宮,僭差無度,人神弗祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍。自是之後,相踵行之。

秋の七月、詔を下してこう言ったよ。
「『(らい)()』によると、王后に後継ぎがいない場合、適切な支系の子を立てて太宗の後を継がせるべきだよ。その場合、正統を受け継いで、公の義を重んじるべきで、私的な情にとらわれることは許されないよ。(かん)(せん)(てい)(しょう)(てい)の後を継いだ時、父に(とう)(こう)という皇帝の号を贈ったよ。(あい)(てい)は外戚によって即位して、(とう)(こう)たちは亡んだ(しん)を例に出して、時勢を誤って、帝の父を(きょう)(てい)と尊んで都に廟を建てたんだ。それに、外戚の側室を気に入って、(ちょう)(しん)(こう)と並べさせて、昭穆を前殿に置いて、4つの位を東宮に並べるなんて、このような度を越えたことは、神も人も祝福しないよね。そして、()(たん)の忠正の諫言を聞かないで誹謗した罪を犯したことにして、(てい)()()()が焚かれる災いを招くことになったんだ。この後にも、このようなことが次々と繰り返されるようになっちゃった。

本文

昔魯文逆祀,罪由夏父;宋國非度,譏在華元。其令公卿有司,深以前世行事為戒。後嗣萬一有由諸侯入奉大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以干正統,謂考為皇,稱妣為后,則股肱大臣,誅之無赦。其書之金策,藏之宗廟,著于今典。」

昔、()(ぶん)(こう)が逆祀をしたのは、その罪は()()にあるし、(そう)の国で礼に反することが行われた時には、()(げん)が批判されたよ。今、公卿や役人は、前の時代の行いを深く戒めとしてね。後継者がもし万一、諸侯によって大統を受け継ぐことになれば、後継者の義を明らかにするべきだよ。もし媚びへつらう者が時の君主を惑わして、正統に反する称号を立てて、(こう)(父)を皇帝と称し、()(母)を后と称するようなことがあれば、君主を支える大臣であっても、容赦なく処罰するべきだよ。このことは金策として宗廟に保管されて、今の法典に記してね」

本文

冬十月,改平望觀曰聽訟觀。帝常言「獄者,天下之性命也」,每斷大獄,常幸觀臨聽之。

冬の十月、(へい)(ぼう)(かん)(ちょう)()(かん)と改名したよ。(そう)(えい)はいつも「裁判は天下の人たちの生死に関わるものだよ」と言って、大きな裁判の判決する時には、いつも自ら観に行ってその様子を見聞きしたんだって。

本文

初,洛陽宗廟未成,神主在鄴廟。十一月,廟始成,使太常韓曁持節迎高皇帝、太皇帝、武帝、文帝神主于鄴,十二月己丑至,奉安神主于廟。(註13)(註14)

前は、(らく)(よう)の宗廟が完成していなかったから、位牌は(ぎょう)の廟にあったんだ。十一月になってやっと廟が完成して、(たい)(じょう)(かん)()が使者として(こう)(こう)(てい)(そう)(とう))、(たい)(こう)(てい)(そう)(すう))、()(てい)(そう)(そう))、(ぶん)(てい)(そう)())の位牌を鄴まで迎えに行って、十二月の己丑の日に着いて、(らく)(よう)の廟に位牌を安置したよ。

(註13)

臣松之按:黃初四年,有司奏立二廟,太皇帝大長秋與文帝之高祖共一廟,特立武帝廟,百世不毀。今此無高祖神主,蓋以親盡毀也。此則魏初唯立親廟,祀四室而已。至景初元年,始定七廟之制。

(はい)(しょう)()が調べたところ、黄初4年(223年)に、役人が2つの廟を建てるように上奏したよ。(たい)(こう)(てい)(だい)(ちょう)(しゅう)(ぶん)(てい)(こう)()を1つの廟に祀って、特別に()(てい)の廟を立てて、永久に廃さないことにしたよ。今、この廟には(こう)()の位牌がないけど、これは近い親族がいなくなって廃れたからだと思うよ。これは()の初めの頃には近い親族の廟だけを立てて、4つの室だけ祀られていたからだね。景初元年(237年)になって初めて七廟の制度が定められたよ。

(註14)

孫盛曰:事亡猶存,祭如神在,迎遷神主,正斯宜矣。

(そん)(せい)によると、亡くなった人に仕えるのは生きる人に仕えるようにして、祭りはまるで神(霊)がそこにいるかのようにするんだ。位牌を迎えて移すことは正しいよ。

本文

癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

癸卯の日、(だい)(げつ)()の王である()調(ちょう)が使者を送って、献上してきたよ。()調(ちょう)(しん)()(だい)(げつ)()(おう)とされたよ。

金印を与えたのかな。

蜀へ遠征する

本文

四年春二月壬午,詔曰:「世之質文,隨教而變。兵亂以來,經學廢絕,後生進趣,不由典謨。豈訓導未洽,將進用者不以德顯乎?其郎吏學通一經,才任牧民,博士課試,擢其高第者,亟用;其浮華不務道本者,皆罷退之。」

太和4年(230年)、春の二月、壬午の日、詔を下してこう言ったよ。
「世の中の外面と本質は、教育に従って変わるものだよ。兵乱が起きてから、経学は衰退しちゃって、後の世代の人たちは古典や規範に基づいて進むことがなくなったんだ。これは教え導く人が行き届いていないからなの? それとも昇進する人が徳を基準に選ばれていないから? そこで、役人は経典を学んで、民を治める能力を持つ人は、博士が試験をして、優れた者をすぐに登用してね。一方、浮ついた華やかさにばかり囚われて、道の根本を務めない人はみんな解任してね」

本文

戊子,詔太傅三公:以文帝典論刻石,立于廟門之外。癸巳,以大將軍曹真為大司馬,驃騎將軍司馬宣王為大將軍,遼東太守公孫淵為車騎將軍。

戊子の日、(たい)()(さん)(こう)に詔を下して、(そう)()の『(てん)(ろん)』を刻んだ石碑を、廟門の外に建てさせたよ。
癸巳の日、(だい)(しょう)(ぐん)(そう)(しん)(だい)()()に、(ひょう)()(しょう)(ぐん)()()()(だい)(しょう)(ぐん)に、そして(りょう)(とう)(たい)(しゅ)(郡の長官)の(こう)(そん)(えん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)に任命したよ。

本文

夏四月,太傅鍾繇薨。六月戊子,太皇太后崩。丙申,省上庸郡。秋七月,武宣卞后祔葬于高陵。詔大司馬曹真、大將軍司馬宣王伐蜀。八月辛巳,行東巡,遣使者以特牛祠中嶽。(註15)

夏の四月、(たい)()(しょう)(よう)が亡くなったんだ。六月の戊子の日、太皇太后((べん)())が亡くなったんだ。丙申の日、(じょう)(よう)郡を廃止したよ。秋の七月、()(せん)(べん)(こう)(ごう)が高陵に祀られたよ。詔を下して(だい)()()(そう)(しん)(だい)(しょう)(ぐん)()()()(しょく)へ遠征させたよ。八月の辛巳の日、(そう)(えい)は東に巡幸して、使者に特別な牛を使って中嶽に祭祀を捧げさせたよ。

(註15)

魏書曰:行過繁昌,使執金吾臧霸行太尉事,以特牛祠受禪壇。

()(しょ)』によると、(はん)(しょう)を通った時、(しつ)(きん)()(ぞう)()(たい)()の職務を行わせて、特別な牛を使って受禅壇に祭祀を捧げさせたんだ。

(註15)

臣松之按:漢紀章帝元和三年,詔高邑縣祠即位壇,五成陌北,臘祠門戶。此雖前代已行故事,然為壇以祀天,而壇非神也,今無事於上帝,而致祀於虛壇,求之義典,未詳所據。

(はい)(しょう)()が調べたところ、『(かん)()』によると、(しょう)(てい)(げん)()3年(86年)に、(こう)(ゆう)県の祠に即位の壇を作って、()(せい)(はく)の北で、それぞれの家で祭祀をしたよ。これは前の時代から行われた慣習だけど、本来は壇を立てて天を祀るもので、壇そのものが神ではないんだ。今、上帝に関わる事もないのに、虚空の壇に祭祀を捧げることは、書物を求めても根拠が詳しくないよ。

本文

乙未,幸許昌宮。九月,大雨,伊、洛、河、漢水溢,詔真等班師。冬十月乙卯,行還洛陽宮。庚申,令:「罪非殊死聽贖各有差。」十一月,太白犯歲星。十二月辛未,改葬文昭甄后于朝陽陵。丙寅,詔公卿舉賢良。

乙未の日、許昌宮に行幸したよ。九月、大雨が降って、伊水、洛水、黄河、漢水が氾濫して、(そう)(しん)たちに帰るように命令したよ。冬の十月、乙卯の日、洛陽宮に帰ったよ。庚申の日、「死刑にならない罪について、賠償金を許して、それぞれ異なる基準を設けてね」と命令したよ。十一月、金星が木星に近づいたんだって。十二月の辛未の日、(ぶん)(しょう)(こう)(ごう)(しん)()を朝陽陵に改めて埋葬したよ。丙寅の日、公卿に賢良を推挙するように詔を下したよ。

祁山の戦い

本文

五年春正月,帝耕于藉田。三月,大司馬曹真薨。諸葛亮寇天水,詔大將軍司馬宣王拒之。自去冬十月至此月不雨,辛巳,大雩。夏四月,鮮卑附義王軻比能率其種人及丁零大人兒禪詣幽州貢名馬。復置護匈奴中郎將。秋七月丙子,以亮退走,封爵增位各有差。(註16)乙酉,皇子殷生,大赦。

太和5年(231年)、春の正月、(そう)(えい)は藉田を耕したよ。三月、(だい)()()(そう)(しん)が亡くなったんだ。
(しょ)(かつ)(りょう)(てん)(すい)に侵攻したから、(だい)(しょう)(ぐん)()()()にこれを防ぐように詔を下したよ。昨年の十月からこの月まで雨が降らなくて、辛巳の日に雨乞いの儀式をしたの。夏の四月、(せん)()族の()()(おう)である()()(のう)が彼の部族と(てい)(れい)族の首長である(げい)(ぜん)と一緒に(ゆう)州に来て、名馬を献上したよ。そして、()(きょう)()(ちゅう)(ろう)(しょう)をふたたび置いたよ。
秋の七月の丙子の日、(しょ)(かつ)(りょう)が退却したから、それぞれの功績に応じて封爵や位を上げたよ。乙酉の日、皇子の(そう)(いん)が生まれたから、大赦を行ったよ。

(註16)

魏書曰:初,亮出,議者以為亮軍無輜重,糧必不繼,不擊自破,無為勞兵;或欲自芟上邽左右生麥以奪賊食,帝皆不從。前後遣兵增宣王軍,又勑使護麥。宣王與亮相持,賴得此麥以為軍糧。

()(しょ)』によると、前に、(しょ)(かつ)(りょう)が出撃すると、議論があったよ。その中で、(しょ)(かつ)(りょう)の軍が補給物資を持っていないから、食糧が途絶えて、戦わないで自滅するだろうという考えがあったんだ。ある者は、(じょう)(けい)の近くで麦を収穫して敵の食糧を奪うことを提案したけど、(そう)(えい)はこれを拒否したよ。その後、()()()の軍に増援を送って、麦を守るように命令したよ。()()()(しょ)(かつ)(りょう)と戦ったけど、この麦を軍の食糧として頼ることができたの。

本文

八月,詔曰:「古者諸侯朝聘,所以敦睦親親協和萬國也。先帝著令,不欲使諸王在京都者,謂幼主在位,母后攝政,防微以漸,關諸盛衰也。朕惟不見諸王十有二載,悠悠之懷,能不興思!其令諸王及宗室公侯各將適子一人朝。後有少主、母后在宮者,自如先帝令,申明著于令。」

八月、詔を下してこう言ったよ。
「古代では、諸侯が朝廷に行くことで親睦を図って、国と国の調和を図っていたよ。先帝((そう)())は命令を定めて、幼い君主が在位して、母后が政務を補佐している時に、諸王を都に滞在させないように考えていたよ。これは小さな兆しから盛衰を制御するためだったよ。私は12年間、諸王に会えなくて、思いが募るのを抑えられないんだ。そこで、諸王や王族の公侯に、それぞれ子供を1人連れて朝廷に参上するように命令するよ。その後、幼い主君と母后が宮中にいる場合は、先帝の命令に従って、この規定を明確にしておいてね」

本文

十一月乙酉,月犯軒轅大星。戊戌晦,日有蝕之。十二月甲辰,月犯鎮星。戊午,太尉華歆薨。

十一月の乙酉の日、月が軒轅の大星に入ったよ。戊戌の晦日、日食があったの。十二月の甲辰の日、月が土星に入ったよ。戊午の日、(たい)()()(きん)が亡くなったんだ。

国を郡にする

本文

六年春二月,詔曰:「古之帝王,封建諸侯,所以藩屏王室也。詩不云乎,『懷德維寧,宗子維城』。秦、漢繼周,或彊或弱,俱失厥中。大魏創業,諸王開國,隨時之宜,未有定制,非所以永為後法也。其改封諸侯王,皆以郡為國。」

太和6年(232年)、春の二月、詔を下してこう言ったよ。
「古代の帝王は、諸侯を封建して、王室を守らせたよ。『()(きょう)』にも『徳を胸に抱くことこそ安定のもとで、宗族こそ城壁とする』とあるよ。(しん)(かん)(しゅう)の制度を継いでいるけど、諸侯は強かったり弱かったりで、どちらも中庸を保てなかったんだ。()が創業する時、諸王が国を開いて、時代に応じた対応をしていたけど、まだ定まった制度がなかったんだ。これを後の世の法とするには不十分だよね。諸侯王の封建を改めて、すべての国を郡に統一するよ」

『懷德維寧,宗子維城』は、『()(きょう)』「(はん)」から。

本文

三月癸酉,行東巡,所過存問高年鰥寡孤獨,賜穀帛。乙亥,月犯軒轅大星。夏四月壬寅,行幸許昌宮。甲子,初進新果于廟。五月,皇子殷薨,追封謚安平哀王。秋七月,以衞尉董昭為司徒。九月,行幸摩陂,治許昌宮,起景福、承光殿。

三月の癸酉の日、東に巡幸したよ。訪れた地では高齢者や未亡人、孤児などに食糧や布を与えたよ。乙亥の日、月が軒轅の大星に入ったよ。
夏の四月、壬寅の日に、許昌宮に行幸したよ。甲子の日、初めて新しい果物を宮殿に奉納したんだ。五月、皇子の(そう)(いん)が亡くなって、「(あん)(へい)(あい)(おう)」の諡を贈ったんだ。秋の七月、(えい)()(とう)(しょう)()()に任命したよ。九月、()()に行幸して、許昌宮を整えて、景福殿と承光殿を建てたよ。

本文

冬十月,殄夷將軍田豫帥衆討吴將周賀於成山,殺賀。十一月丙寅,太白晝見。有星孛于翼,近太微上將星。庚寅,陳思王植薨。十二月,行還許昌宮。

冬の十月、(てん)()(しょう)(ぐん)(でん)()が軍を率いて、(せい)(ざん)()の将軍である(しゅう)()を討って、彼を殺したよ。十一月の丙寅の日、金星が昼間に現れたの。そして、彗星が翼宿を横切って、太微垣に上将星が近づいたんだ。庚寅の日、(ちん)()(おう)(そう)(しょく)が亡くなったんだ。十二月、許昌宮に帰ったよ。

功績のある人たちを祀る

本文

青龍元年春正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。二月丁酉,幸摩陂觀龍,於是改年;改摩陂為龍陂,賜男子爵人二級,鰥寡孤獨無出今年租賦。三月甲子,詔公卿舉賢良篤行之士各一人。夏五月壬申,詔祀故大將軍夏侯惇、大司馬曹仁、車騎將軍程昱於太祖廟庭。(註17)

(せい)(りゅう)元年(233年)、春の正月、甲申の日、青龍が()()の井戸の中に現れたんだって。二月の丁酉の日、()()で龍を見たから、元号を「(せい)(りゅう)」に改めて、()()を「(りゅう)()」に改めたよ。男子に爵位を二級授けて、配偶者のいない人や、親や子供のいない人は今年の租税を免除されたよ。三月の甲子の日、公卿に賢良で実直な人物をそれぞれ1人推挙するように詔を出したよ。夏の五月の壬申の日、太祖廟の庭で、昔の(だい)(しょう)(ぐん)()(こう)(とん)(だい)()()(そう)(じん)(しゃ)()(しょう)(ぐん)(てい)(いく)を祀るように詔を出したよ。

(註17)

魏書載詔曰:「昔先王之禮,於功臣存則顯其爵祿,沒則祭于大蒸,故漢氏功臣祠於廟庭。大魏元功之臣功勳優著,終始休明者,其皆依禮祀之。」於是以惇等配饗之。

()(しょ)』によると、詔を下してこう言ったよ。
「昔の王の礼では、功績のある臣下について、まだ生きている場合は爵位や俸禄を明らかにして、亡くなった場合は儀式で追悼されたんだ。だから、(かん)の時代には功績のある臣下たちは廟庭に祠られたんだよ。()の功績のある臣下たちの中でも特に優れた人たちについては、礼に従って祀るよ」
それに基づいて、()(こう)(とん)たちに犠牲の供え物を捧げたんだ。

本文

戊寅,北海王蕤薨。閏月庚寅朔,日有蝕之。丁酉,改封宗室女非諸王女皆為邑主。詔諸郡國山川不在祠典者勿祠。六月,洛陽宮鞠室災。

戊寅の日、(ほっ)(かい)(おう)(そう)(ずい)が亡くなったんだ。閏月の庚寅の日の初め、日食があったよ。丁酉の日、宗室の女性で諸王の娘ではない人をみんな領地の主に封じたよ。そして、それぞれの郡や県の山や川で祠典に含まれないものは祀るべきでないと命令したよ。六月、洛陽宮の鞠室(蹴鞠をする部屋)で火災が発生しちゃった。

異民族の脅威

本文

保塞鮮卑大人步度根與叛鮮卑大人軻比能私通,并州刺史畢軌表,輒出軍以外威比能,內鎮步度根。帝省表曰:「步度根以為比能所誘,有自疑心。今軌出軍,適使二部驚合為一,何所威鎮乎?」促勑軌,以出軍者慎勿越塞過句注也。

()(さい)(せん)()族の首長である()()(こん)が、反乱した(せん)()族の首長である()()(のう)とこっそり通じていたから、(へい)(しゅう)()()(州の長官)の(ひつ)()は上奏して軍を出したよ。(ひつ)()は、外では()()(のう)を脅して、内では()()(こん)を鎮めようとしたよ。これに対して(そう)(えい)(ひつ)()の上表を見てこう言ったよ。
()()(こん)()()(のう)に誘われただけで、自分に疑いを抱いているだけだよ。今、(ひつ)()が軍を出すと、ふたつの部族をひとつにまとめることになっちゃって、これで脅したり鎮めることはできるの?」
そして急いで(ひつ)()に命令を下して、軍を出すときは国境を越えて()(ちゅう)を越えないように命令したよ。

本文

比詔書到,軌以進軍屯陰館,遣將軍蘇尚、董弼追鮮卑。比能遣子將千餘騎迎步度根部落,與尚、弼相遇,戰於樓煩,二將敗沒。步度根部落皆叛出塞,與比能合寇邊。遣驍騎將軍秦朗將中軍討之,虜乃走漠北。

この詔書が着いた後も、(ひつ)()は軍を率いて(いん)(かん)に駐屯して、将軍の()(しょう)(とう)(ひつ)(せん)()族を追撃させたよ。()()(のう)は息子を送って1,000人以上の騎兵を率いて()()(こん)の部族を迎えたんだ。()(しょう)(とう)(ひつ)(ろう)(はん)で戦って、ふたりは敗れて戦死しちゃったの。()()(こん)の部族はみんな国境を越えて脱走して、()()(のう)と合流して国境を侵犯したんだ。最終的に、(ぎょう)()(しょう)(ぐん)(しん)(ろう)に中軍を率いてこれを討たせて、敵は砂漠の北へと逃げていったよ。

本文

秋九月,安定保塞匈奴大人胡薄居姿職等叛,司馬宣王遣將軍胡遵等追討,破降之。

秋の九月、(あん)(てい)()(さい)(きょう)()の首長である()(はく)(きょ)姿()(しょく)たちが反乱を起こしたよ。()()()は将軍の()(じゅん)たちにこれを追って討たせて、彼らを破って降伏させたよ。

本文

冬十月,步度根部落大人戴胡阿狼泥等詣并州降,朗引軍還。(註18)(註19)(註20)(註21)(註22)

冬の十月に、()()(こん)の部族の首長である(たい)()()(ろう)(でい)たちが、(へい)州に降伏するために訪れて、(しん)(ろう)は軍を率いて帰ったよ。

(註18)

魏氏春秋曰:朗字元明,新興人。

()()(しゅん)(じゅう)』によると、(しん)(ろう)は、(あざな)(げん)(めい)で、(しん)(こう)の出身だよ。

(註19)

獻帝傳曰:朗父名宜祿,為呂布使詣袁術,術妻以漢宗室女。其前妻杜氏留下邳。布之被圍,關羽屢請於太祖,求以杜氏為妻,太祖疑其有色,及城陷,太祖見之,乃自納之。宜祿歸降,以為銍長。及劉備走小沛,張飛隨之,過謂宜祿曰:「人取汝妻,而為之長,何蚩蚩若是邪!隨我去乎?」宜祿從之數里,悔欲還,飛殺之。朗隨母氏畜于公宮,太祖甚愛之,每坐席,謂賔客曰:「豈有人愛假子如孤者乎?」

(けん)(てい)(でん)』によると、(しん)(ろう)の父の名前は(しん)()(ろく)で、彼は(りょ)()の使者として(えん)(じゅつ)のもとに行って、(えん)(じゅつ)(かん)の宗室の女性を妻として彼に与えたよ。彼の前の妻である()()()()に留まっていたんだ。
(りょ)()(そう)(そう)に包囲された時、(かん)()は何度も(そう)(そう)()()を妻にしたいと求めたけど、(そう)(そう)は彼女が美しいのではと疑っていたんだ。城が陥落した後、(そう)(そう)は彼女を見て、自分の妻として迎えたよ。(しん)()(ろく)は降伏して(ちつ)(ちょう)に任命されたよ。その後、(りゅう)()(しょう)(はい)から逃げる時、(ちょう)()がそれに従っていて、彼らは(しん)()(ろく)に会ったよ。(ちょう)()(しん)()(ろく)にこう言ったよ。
「人があなたの妻を奪って、そこの県の(ちょう)になるなんて、なんとも屈辱的なことだよね! 私について来る?」
(しん)()(ろく)はそれに従って数里行ったけど、後悔して引き返そうとしたところ、(ちょう)()に殺されたんだ。
(しん)(ろう)は母と一緒に宮廷で育てられて、(そう)(そう)は彼をとても愛していたよ。宴席があると、(そう)(そう)は客に向かってこう言っていたよ。
「私ほど養子を愛する人が他にいるの?」

(註20)

魏略曰:朗游遨諸侯間,歷武、文之世而無尤也。及明帝即位,授以內官,為驍騎將軍、給事中,每車駕出入,朗常隨從。時明帝喜發舉,數有以輕微而致大辟者,朗終不能有所諫止,又未甞進一善人,帝亦以是親愛;每顧問之,多呼其小字阿穌,數加賞賜,為起大第於京城中。四方雖知朗無能為益,猶以附近至尊,多賂遺之,富均公侯。

()(りゃく)』によると、(しん)(ろう)は諸侯の間を行ったり来たりして、(そう)(そう)(そう)()の時代を経ても特に咎められることはなかったよ。でも、(そう)(えい)が皇帝に即位すると、彼は内廷の仕事を与えられて、(ぎょう)()(しょう)(ぐん)(きゅう)()(ちゅう)になったよ。車駕(天子の車)が外出するときには、いつも(しん)(ろう)が一緒に行ったよ。
(そう)(えい)は訴訟を審理するのを好んで、小さな罪で大きな罰を与えることがあったけど、(しん)(ろう)はいつもそれを諫めることができなくて、良い人を推薦することもなかったんだ。それでも、(そう)(えい)(しん)(ろう)をとても親しい存在として大切にしていて、相談するときは彼の幼名「()()」と呼んで、よく賞を与えて、都の中心部に大きな家を建ててあげたよ。四方の人たちは、(しん)(ろう)が実際には利益をもたらさないと知っていたけど、彼が(そう)(えい)に最も近い存在だから、たくさんの贈り物を送って、公や侯と同じくらいの富を得たんだ。

(註21)

世語曰:朗子秀,勁厲能直言,為晉武帝博士。

()()』によると、(しん)(ろう)の子の(しん)(しゅう)は、勇敢で、面と向かって発言できて、(しん)()(てい)()()(えん))の(はか)()になったんだって。

(註22)

魏略以朗與孔桂俱在佞倖篇。桂字叔林,天水人也。建安初,數為將軍楊秋使詣太祖,太祖表拜騎都尉。桂性便辟,曉博弈、蹹鞠,故太祖愛之,每在左右,出入隨從。桂察太祖意,喜樂之時,因言次曲有所陳,事多見從,數得賞賜,人多餽遺,桂由此侯服玉食。太祖旣愛桂,五官將及諸侯亦皆親之。其後桂見太祖久不立太子,而有意於臨菑侯,因更親附臨菑侯而簡於五官將,將甚銜之。及太祖薨,文帝即王位,未及致其罪。黃初元年,隨例轉拜駙馬都尉。而桂私受西域貨賂,許為人事。事發,有詔收問,遂殺之。

魏略(ぎりゃく)』によると、(しん)(ろう)(こう)(けい)は両方とも「(ねい)(こう)篇」で書かれているよ。
(こう)(けい)は、(あざな)(しゅく)(りん)で、(てん)(すい)の出身だよ。建安の初め、(こう)(けい)は何度も将軍の(よう)(しゅう)の使者として(そう)(そう)のところに行って、(そう)(そう)によって()()()に任命されたんだ。(こう)(けい)は巧みに人に取り入って、賭け事や蹴鞠が得意だから、(そう)(そう)に大切にされて、いつも側近として仕えて、一緒に行動していたんだよ。(こう)(けい)(そう)(そう)の気持ちをよく理解して、機嫌が良いときにはその場に応じた話をして、その多くが受け入れられて褒美を受けて、たくさんの人から贈り物をもらって侯のように裕福な生活を送ったよ。(そう)(そう)(こう)(けい)を愛したから、五官将((そう)())や諸侯たちも彼に親しみを持って接したよ。でもその後、(こう)(けい)(そう)(そう)が太子を立てないで(りん)()(こう)(そう)(しょく))に関心を示しているのを見て、()(かん)(しょう)(そう)())には冷たく接したから、(そう)()はこれをとても恨むようになったの。(そう)(そう)が亡くなって、(そう)()が王に即位しても、(こう)(けい)の罪を訴えることはできなかったんだ。
黄初元年(220年)、(こう)(けい)は例に従って()()()()に昇進したよ。でも、西域からの賄賂をこっそりと受け取って、人々のために便宜を図る約束をしていたんだ。このことが見つかって、詔が出されて取り調べを受けて、彼は処刑されたよ。

(註22)

魚豢曰:為上者不虛授,處下者不虛受,然後外無伐檀之歎,內無尸素之刺,雍熈之美著,太平之律顯矣。而佞倖之徒,但姑息人主,至乃無德而榮,無功而祿,如是焉得不使中正日朘,傾邪滋多乎!以武皇帝之慎賞,明皇帝之持法,而猶有若此等人,而況下斯者乎?

(ぎょ)(かん)によると、上の者は見合っていないものを授けないで、下の者は能力もないのに受け取らないことで、外には『伐檀(上に対する不満)』の嘆きがなくて、内には『尸素(職務を果たさないこと)』の非難もなくなって、安らかで調和の取れた美が際立って、太平の道が明らかになるだろうね。でも、媚びを売って取り入ろうとする臣下は、ただ君主を喜ばせるためだけに動いて、徳がなくても栄えて、功績がなくても富を手に入れているんだ。このようなことでは、公正な者が日に日に減って、偏った者ばかりが増えてしまうのではないかな? 慎重に賞を与えた(そう)(そう)や、厳格に法を守った(そう)(えい)の時代でも、このような人たちがいたことを考えると、今はなおさらだよね。

本文

十二月,公孫淵斬送孫權所遣使張彌、許晏首,以淵為大司馬樂浪公。(註23)(註24)(註25)

十二月、(こう)(そん)(えん)(そん)(けん)が送った使者の(ちょう)()(きょ)(あん)の首を斬ったから、(こう)(そん)(えん)(だい)()()(らく)(ろう)(こう)に任命したよ。

(註23)

世語曰:并州刺史畢軌送漢故度遼將軍范明友鮮卑奴,年三百五十歲,言語飲食如常人。奴云:「霍顯,光後小妻。明友妻,光前妻女。」

()()』によると、(へい)(しゅう)()()(州の長官)の(ひつ)()が、(かん)()(りょう)(しょう)(ぐん)(はん)(めい)(ゆう)(せん)()族の奴隷を送り届けたよ。その奴隷はなんと350歳で、言葉や食事に関しては普通の人と同じなんだって。奴隷はこう言ったよ。
(かく)(けん)は、(かく)(こう)の後の妻だよ。(はん)(めい)(ゆう)の妻は、(かく)(こう)の前の妻の娘だよ」

(註24)

博物志曰:時京邑有一人失其姓名,食啖兼十許人,遂肥不能動。其父曾作遠方長吏,官徙送彼縣,令故義傳供食之;一二年中,一鄉中輒為之儉。

(はく)(ぶつ)()』によると、ある時、都にひとりの男性がいて、その人の名前は失ったけど、10人分の食事を食べ続けて、その結果、太りすぎて動けなくなっちゃった。彼の親は、昔に遠い地で(ちょう)()(行政官)をしていて、子をその県に送って、義理で食事を供給するように命令したよ。その結果、1から2年で、その町ではいつも節約する生活を送ることになったんだ。

(註25)

傅子曰:時太原發冢破棺,棺中有一生婦人,將出與語,生人也。送之京師,問其本事,不知也。視其冢上樹木可三十歲,不知此婦人三十歲常生於地中邪?將一朝欻生,偶與發冢者會也?

()()』によると、ある時、(たい)(げん)で墓が発掘されて、棺の中から1人の生きた女性が出てきたんだって。会話をしようとすると、生きている人なんだ。彼女は都に送られて、その出自を尋ねられたけど、自分のことがわからなかったんだって。墓の上の木々を見ると、だいたい30年くらいの年月が経過しているみたいだったけど、この女性が30年間も地中で生きていたの? それとも蘇生して、偶然発掘されたの?

続き → 正史『三国志』魏書明帝紀をゆるゆる翻訳するよ! その 2

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