
はじめに
ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書高貴郷公紀」をゆるゆる翻訳するよ!
曹髦 について書かれているよ!
曹氏は帝または王と書かれるけど、司馬昭さんによる皇帝暗殺事件が絡むから曹髦さんだけ「高貴郷公」と書かれているんだね。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹髦は学問が得意
高貴鄉公諱髦,字彥士,文帝孫,東海定王霖子也。正始五年,封歘縣高貴鄉公。少好學,夙成。齊王廢,公卿議迎立公。十月己丑,公至于玄武館,羣臣奏請舍前殿,公以先帝舊處,避止西廂;羣臣又請以法駕迎,公不聽。
高貴郷公の名は髦、字は彦士だよ。彼は曹丕の孫で、東海定王の曹霖の子だよ。
正始五年(244年)、歘県の高貴郷公に封ぜられたよ。幼いころから学ぶことが好きで、とても早くから才能をあらわしていたんだって。斉王(曹芳)が皇帝をやめさせられると、公卿たちは話し合って、曹髦を新しい皇帝として迎えると決めたよ。
十月、己丑の日、曹髦は玄武館に着いて、たくさんの臣下は前殿に住むよう願い出たけど、曹髦は「そこは先帝(曹芳)の使っていた場所だから」と言って遠慮して、西廂(西の部屋)にとどまったよ。さらに、たくさんの臣下は、皇帝が使える正式な車列を率いて曹髦を迎えようと願い出たけど、彼はそれに応じなかったんだ。
庚寅,公入于洛陽,羣臣迎拜西掖門南,公下輿將荅拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人臣也。」遂荅拜。至止車門下輿。左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后徵,未知所為!」遂步至太極東堂,見于太后。其日即皇帝位於太極前殿,百寮陪位者欣欣焉。(註1)
庚寅の日、曹髦は洛陽に入ったよ。たくさんの臣下が西掖門の南で出迎えて拝礼したから、彼は車を降りて返そうとしたよ。でも、案内役はこう伝えたよ。
「天子は儀式では拝礼しないんだよ」
でも、曹髦はこう言ったよ。
「私は人の臣下だよ」
こうして拝礼したよ。
その後、止車門まで来ると、車を降りたんだ。周りの人たちはこう言ったよ。
「これまでは皇帝の車がそのまま中へ入っていたよ」
曹髦はこう言ったよ。
「私は皇太后に呼ばれて来ただけで、何のために呼ばれたのかまだわからないんだ」
そして、歩いて太極東堂まで行って、皇太后に会ったよ。その日、太極前殿で皇帝に即位して、その場に付き従っていたたくさんの役人は、その様子を見てすごく喜んだの。
魏氏春秋曰:公神明爽儁,德音宣朗。罷朝,景王私曰:「上何如主也?」鍾會對曰:「才同陳思,武類太祖。」景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」
『魏氏春秋』によると、曹髦は賢くて頭の回転が速くて、立派な人柄だよ。その言葉ははっきりしていてわかりやすいんだって。朝廷での会議が終わった後、司馬師はこっそりとこう尋ねたよ。
「今の陛下(曹髦)は、どのような人だと思う?」
鍾会はこう答えたよ。
「その才能は陳思王(曹植)に並ぶくらいで、武勇や気質は太祖(曹操)によく似ているよ」
司馬師はこう言ったよ。
「あなたの言うとおりなら、それは国家にとって大きな幸せだね」
詔曰:「昔三祖神武聖德,應天受祚。齊王嗣位,肆行非度,顛覆厥德。皇太后深惟社稷之重,延納宰輔之謀,用替厥位,集大命于余一人。以眇眇之身,託于王公之上,夙夜祗畏,懼不能嗣守祖宗之大訓,恢中興之弘業,戰戰兢兢,如臨于谷。
曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「昔、三祖(曹操、曹丕、曹叡)は、すぐれた武の立派と高い徳を備えていて、天の意志を受けて天下を治める地位を得たよ。でも、斉王(曹芳)はその地位を受け継いだ後、道理に外れた行いを勝手に重ねて、その徳を失ったんだ。皇太后は国家の大切さを深く考えて、宰相や臣下たちの意見を受け入れて、その地位を斉王から取り上げて、大きな使命をこの私一人に託したよ。私は取るに足りない未熟な身だけど、王や公たちの上に立つことになったよ。昼も夜も慎み深く恐れて敬って、自分が先祖たちの大切な教えを受け継いで守ることができないのではないか、国を立て直す大きな事業を成し遂げられないのではないかと心配しているの。私はいつも恐れて慎んで、まるで深い谷のふちに立っているみたいな気持ちでいるんだ」
今羣公卿士股肱之輔,四方征鎮宣力之佐,皆積德累功,忠勤帝室;庶憑先祖先父有德之臣,左右小子,用保乂皇家,俾朕蒙闇,垂拱而治。蓋聞人君之道,德厚侔天地,潤澤施四海,先之以慈愛,示之以好惡,然後教化行於上,兆民聽於下。朕雖不德,昧於大道,思與宇內共臻茲路。書不云乎:『安民則惠,黎民懷之。』」大赦,改元。減乘輿服御後宮用度,及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。
今、朝廷の公卿や士大夫たちという君主を支える臣下や、各地で国を守る将たちは、みんな長年にわたって徳を積んで、功績を重ねて、皇室のために忠を尽くしてきたよ。私は、先祖や父の時代から仕えてきた徳のある臣下たちの力を借りて、彼らに支えられながら、皇室を守って治めていきたいんだ。そして私は知識や経験の乏しい身だけど、臣下たちの助けによって、口出しをたくさんしないでも国がよく治まることを願っているよ。
君主の道とは、その徳が天地に並ぶくらい厚くて、その恵みが天下の隅々まで広がることだと聞いているよ。まず人々に慈しみの心を示して、何がいいことで何が悪いことかをはっきりさせるよ。そうして上から教えて導くと、民は下でそれに従うよ。私は徳のある人とは言えなくて、大切な道理についても十分わかっているとは言えないんだ。でも、天下の人たちと一緒に、この理想の道へ進みたいと願っているよ。『書経』にも『民を安定させる者には恵みがあって、そうすれば民は心からその者を慕う』とあるよ」
そして大赦をして、たくさんの罪人を許したよ。それに、年号を正元に改めたよ。さらに、皇帝の乗り物や衣服、日用品、後宮の費用を減らして、尚方や御府が作っていた、職人たちによるぜいたくで美しいだけの実用性のない品を作るのをやめたよ。
正元元年冬十月壬辰,遣侍中持節分適四方,觀風俗,勞士民,察冤枉失職者。癸巳,假大將軍司馬景王黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劒履上殿。戊戌,黃龍見于鄴井中。甲辰,命有司論廢立定策之功,封爵、增邑、進位、班賜各有差。
正元元年(254年)、冬の十月、壬辰の日、曹髦は侍中に節を授けて各地に送ったよ。彼らは土地ごとの風習や人々の暮らしぶりを見て、兵や民をねぎらって、不当な扱いを受けている人や、正当な職を失って困っている人がいないかを調べたよ。
癸巳の日、大将軍の司馬師に黄鉞を授けたよ。さらに、名前を呼ばないで上奏することを許して、朝廷に入るときも小走りで進まなくてよくて、さらに剣を帯びたまま、くつをはいたまま宮殿に上がることも許したよ。
戊戌の日、鄴で「黄龍が井戸の中に現れた」と報告があったよ。甲辰の日、曹髦は役人に命令して、皇帝を立てたりやめさせたりすることの功績を論じさせて、それぞれの功績に応じて爵位を授けて、邑を増やして、地位を昇進させて、賞を与えると命令したよ。
毌丘倹・文欽の乱
二年春正月乙丑,鎮東將軍毌丘儉、楊州刺史文欽反。戊寅,大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。閏月己亥,破欽於樂嘉。欽遁走,遂奔吳。甲辰,安風津都尉斬儉,傳首京都。(註2)
正元二年(255年)、春の正月、乙丑の日、鎮東将軍の毌丘倹と楊州刺史の文欽が反乱を起こしたんだ。戊寅の日、大将軍の司馬師が自ら彼らを討つために兵を出したよ。癸未の日、車騎将軍の郭淮が亡くなったんだ。
閏月、己亥の日、楽嘉で文欽を打ち破ったよ。文欽は逃げて、そのまま呉に亡命したんだ。甲辰の日、安風津の都尉が毌丘倹を討ち取って、その首を都に送り届けたよ。
世語曰:大將軍奉天子征儉,至項;儉旣破,天子先還。
『世語』によると、司馬師は曹髦を連れて、毌丘倹を討つために兵を出して、項まで着いたよ。毌丘倹が敗れると、曹髦は先に帰ったよ。
臣松之檢諸書都無此事,至諸葛誕反,司馬文王始挾太后及帝與俱行耳。故發詔引漢二祖及明帝親征以為前比,知明帝已後始有此行也。案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史,璠、頒出為官長,溥,鄱陽內史。璠撰後漢紀,雖似未成,辭藻可觀。溥著江表傳,亦粗有條貫。惟頒撰魏晉世語,蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以為晉書,其中虛錯如此者,往往而有之。
裴松之がさまざまな書物を調べたところ、そのような出来事はどこにも書かれていないんだ。諸葛誕が反乱を起こしたときに初めて、司馬昭が皇太后と曹髦を連れて兵を出したよ。だから、そのときに出した詔では、漢の高祖(劉邦)、光武帝(劉秀)や明帝(劉荘)が兵を出したことを例に出したよ。これによって、明帝より後は皇帝が自分から兵を出すことが珍しくて、このときがその最初の例だったとわかるんだ。
張璠、虞溥、郭頒はみんな晋の時代の役人だよ。張璠と郭頒は地方の長官として赴任して、虞溥は鄱陽の役人だったんだ。張璠『後漢紀』を作ったよ。この書物は完成していなかったみたいだけど、文章の表現はすぐれているよ。虞溥の『江表伝』も、大まかに筋道を立てて書かれているよ。でも、郭頒の『魏晋世語』は文章には調和や美しさがほとんどなくて、内容も最も粗末で質が低いんだ。それでも、他の書物には見られない話がいくつか載っていたから、世の中には広く伝わっていたよ。
干宝や孫盛たちは、その記述をたくさん採用して晋の歴史書を書いたけど、この話のような誤りや事実でない内容がよく含まれているんだ。
壬子,復特赦淮南士民諸為儉、欽所詿誤者。以鎮南將軍諸葛誕為鎮東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳,以衞將軍司馬文王為大將軍,錄尚書事。
壬子の日、曹髦は、淮南の民に対して特別な恩赦をして、罪人を許したよ。毌丘倹や文欽の裏切りに巻き込まれた人たちを許したよ。鎮南将軍の諸葛誕を鎮東大将軍に任命したよ。
司馬師が許昌で亡くなったんだ。二月、丁巳の日、衛将軍の司馬昭を大将軍に任命して、録尚書事となったよ。
甲子,吳大將孫峻等衆號十萬至壽春,諸葛誕拒擊破之,斬吳左將軍留贊,獻捷于京都。三月,立皇后卞氏,大赦。夏四月甲寅,封后父卞隆為列侯。甲戌,以征南大將軍王昶為驃騎將軍。秋七月,以征東大將軍胡遵為衞將軍,鎮東大將軍諸葛誕為征東大將軍。
甲子の日、呉の大将の孫峻たちが10万の兵を率いて寿春まで攻めてきたんだ。諸葛誕がこれを迎え撃って撃破して、呉の左将軍の留賛を討ち取って、手に入れた捕虜や宝を都に届けたよ。
三月、皇后に卞氏を立てて、大赦をしてたくさんの罪人を許したよ。
夏の四月、甲寅の日、皇后の父の卞隆を列侯に封じたよ。甲戌の日、征南大将軍の王昶を驃騎将軍に任命したよ。秋の七月、征東大将軍の胡遵を衛将軍、鎮東大将軍の諸葛誕を征東大将軍に任命したよ。
狄道の戦い
八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭冲、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。
八月、辛亥の日、蜀の大将軍の姜維が狄道を攻めたよ。雍州刺史の王経は洮西で戦ったけど、大きく敗れたんだ。王経は狄道城へ退いて、城に立てこもって守りを固めたよ。
辛未の日、長水校尉の鄧艾に安西将軍を代行させて、征西将軍の陳泰と一緒に姜維を防がせたよ。戊辰の日、さらに太尉の司馬孚を後ろから軍を率いさせて送ったよ。
九月、庚子の日、曹髦は『書経』を学び終えたよ。経書を持って直接教えた司空の鄭冲や侍中の鄭小同たちにそれぞれの功績に応じて賞を与えたよ。甲辰の日、姜維は退いて帰ったよ。
冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,冤魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」
冬の十月、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が薄くて、国を守る力も足りないから、蜀の敵が国境で思うままに行動することを防げなかったんだ。だから、洮西の戦いでは負けて、将や兵が数千人も亡くなったんだ。ある者は戦いで命を落として、その魂は故郷へ帰れなかったし、ある者は敵に捕らえられて、遠くの異国の地へ連れ去られたんだ。私はこのことを深く悲しんで、心から痛ましく思っているの。そこで命令するよ。それぞれの郡の典農、安撫夷護軍の役人は、それぞれの遺族や家族を慰めて、生活を助けてね。その家は1年間、税や労役を免除してね。さらに、勇ましく戦って国のために命を落とした者については、これまでと同じ制度のとおりに賞を与えて、決して漏れのないようにしてね」
十一月甲午,以隴右四郡及金城連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陣戰亡,或沉溺洮水,骸骨不収,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鈎求屍喪,収斂藏埋,以慰存亡。」
十一月、甲午の日、隴右の4つの郡と金城は、何年ものあいだ敵の攻撃を受け続けていたよ。だから、一部の人たちは逃げたり、反乱を起こしたり、降伏したりしていたんだ。でも、その親族の中には故郷に残って暮らしている者もたくさんいて、罪に問われるのではないかと不安だったの。そこで、そのような人々を特別に許して、罪を問わなかったよ。
癸丑の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「前の洮西の戦いでは、将や役人、兵や民の中に、戦場で戦って命を落とした者もいれば、洮水に流されて亡くなった者もいたんだ。だから、たくさんの人の遺体が回収されないまま野原に放置されていて、私はいつも痛ましく思っているの。征西将軍の陳泰と安西将軍の鄧艾に命令するよ。それぞれの部下を送って、戦場となった場所や川辺をすみずみまで捜して、亡くなった人々の遺体や遺骨を探し出してね。そして丁寧に葬ってね。こうして生きている遺族を慰めて、亡くなった人々の魂も安らかにしてほしいんだ」
臣下たちと議論する
甘露元年春正月辛丑,青龍見軹縣井中。乙巳,沛王林薨。(註3)
甘露元年(256年)、春の正月、辛丑の日、「軹県の井戸の中に青龍が現れた」と報告があったよ。乙巳の日、沛王の曹林が亡くなったんだ。
魏氏春秋曰:二月丙辰,帝宴羣臣於太極東堂,與侍中荀顗、尚書崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令虞松等並講述禮典,遂言帝王優劣之差。帝慕夏少康,因問顗等曰:「有夏旣衰,后相殆滅,少康收集夏衆,復禹之績,高祖拔起隴畒,驅帥豪儁,芟夷秦、項,包舉宇內,斯二主可謂殊才異略,命世大賢者也。考其功德,誰宜為先?」
『魏氏春秋』によると、二月、丙辰の日、曹髦は太極東堂でたくさんの臣下を招いて宴会を開いたよ。侍中の荀顗、尚書の崔賛、袁亮、鍾毓、給事中で中書令の虞松たちと一緒に礼や昔の制度について語り合ったよ。そして、歴代の帝王たちの優劣についての議論になったよ。曹髦は夏の少康を尊敬していたから、荀顗たちにこう尋ねたよ。
「夏は衰えて、後継ぎもほとんど滅ぼされたんだ。でも、少康は夏の人たちを集めて、禹の築いた国を復活させたよ。漢の高祖(劉邦)はもともと田畑で働く平凡な人だったけど、たくさんの英雄たちを率いて秦や項羽を打ち破って、天下を統一したよね。この二人の君主は、まさに並外れた才能とすぐれた計略を持っていて、その時代を代表する偉大な賢人と言えるだろうね。その功績と徳を比べるなら、どちらがより上と考えられる?」
顗等對曰:「夫天下重器,王者天授,聖德應期,然後能受命創業。至於階緣前緒,興復舊績,造之與因,難易不同。少康功德雖美,猶為中興之君,與世祖同流可也。至如高祖,臣等以為優。」
荀顗たちはこう答えたよ。
「天下を治める地位というものは、とても重大なものなんだ。王となる者は天に選ばれて、立派な徳を持っていて、時代の求めに応じて初めてその天命を受けて、国家を建てることができるよ。でも、すでにある基盤を受け継いで国を立て直すことと、何もないところから新しく国家を築くこととでは、その難しさが同じではないんだ。少康の功績や徳は確かにすばらしいよ。でも、一度衰えた王朝を立て直した中興の君主として世祖(劉秀)と同じような君主と考えられるよね。一方、高祖(劉邦)はまったく新しく王朝を打ち立てた人だよ。だから、私たちは高祖(劉邦)のほうがよりすぐれていると考えるよ」
帝曰:「自古帝王,功德言行互有高下,未必創業者皆優,紹繼者咸劣也。湯、武、高祖雖俱受命,賢聖之分,所覺縣殊。少康、殷宗中興之美,夏啟、周成守文之盛,論德較實,方諸漢祖,吾見其優,未聞其劣;顧所遇之時殊,故所名之功異耳。少康生於滅亡之後,降為諸侯之隷,崎嶇逃難,僅以身免,能布其德而兆其謀,卒滅過、戈,克復禹績,祀夏配天,不失舊物,非至德弘仁,豈濟斯勳?漢祖因土崩之勢,仗一時之權,專任智力以成功業,行事動靜多違聖檢;為人子則數危其親,為人君則囚繫賢相,為人父則不能衞子;身沒之後,社稷幾傾,若與少康易時而處,或未能復大禹之績也。推此言之,宜高夏康而下漢祖矣。諸卿具論詳之。」
曹髦はこう言ったよ。
「古の帝王たちは、それぞれ功績や徳、言動にすぐれた点と劣った点があるよ。だから、必ずしも国を建てた人がみんなすぐれていて、それを受け継いだ者がみんな劣っているとは言えないんだ。殷の湯王、周の武王、漢の高祖(劉邦)は天命を受けて王朝を開いた人だよ。でも、その賢さや聖人としての徳には大きな違いがあるよ。
夏の少康や殷の宗(武丁)が立て直した功績、夏の啓や周の成王が昔の天子の制度を守って栄えさせたことなどを考えてみると、その徳と実際の働きを比べれば、漢の高祖よりすぐれている点は見えるし、劣っているとは思わないよ。ただ、それぞれが生きた時代や置かれた状況が違ったから、成し遂げた功績の種類が異なっているだけなんだ。
少康は国が滅んだ後に生まれて、身分も諸侯の家の召使いにまで落ちて、逃げながら生活を続けて、ようやく命を保つことができたくらいだったんだ。それでも人々に徳を広めて、立て直す計略をこっそり進めて、とうとう過や戈の勢力を滅ぼして、禹の築いた国家を取り戻したよ。そして、夏の祭りを復活させて、祖先への祭りを絶やさなかったんだ。高い徳と広い仁がなければ、どうしてこのような偉大な事業を成し遂げられたの?
一方、漢の高祖は天下が大混乱に陥った機会に乗って、その時々の権力や勢いを利用して、知恵と力を主な頼りとして事業を成功させたよ。でも、その行いには聖人の基準に合わないものも多かったんだ。子としては、何度も父親を危険な目に遭わせたし、君主としては、賢い宰相を捕らえて閉じ込めたんだ。父としては、自分の子を十分に守れなかったし、さらに彼が亡くなった後には、国家は危うく傾きかけたんだ。もし高祖が少康の立場を入れ替えたら、高祖が少康のように大禹の事業を復興できなかったかも。このように考えるなら、少康を高く評価して、高祖をそれより下に置くべきだよ。みんなはそれぞれさらに詳しく話し合ってね」
魏を中興したいってことなのかな?
翌日丁巳,講業旣畢,顗、亮等議曰:「三代建國,列土而治,當其衰弊,無土崩之勢,可懷以德,難屈以力。逮至戰國,彊弱相兼,去道德而任智力。故秦之弊可以力爭。少康布德,仁者之英也;高祖任力,智者之儁也。仁智不同,二帝殊矣。詩、書述殷中宗、高宗,皆列大雅,少康功美過於二宗,其為大雅明矣。少康為優,宜如詔旨。」
翌日の丁巳の日、経書の講義が終わると、荀顗、袁亮たちは話し合ってこう言ったよ。
「三代(夏・殷・周)は国を建てると、それぞれ諸侯に土地を与えて国を治めていたよ。だから王朝が衰えたときでも、後の秦みたいに国全体が一気に崩れ去るような状況にはならなかったよ。人々は徳によって心を引きつけることはできても、武力だけで従わせるのは難しかったよ。
でも、戦国時代になると、強い国が弱い国を次々と併合して、人々は徳よりも知恵や武力を重視するようになったんだ。だから、秦の時代の終わりごろの混乱では、武力によって天下を争えたよ。
少康が国を立て直せたのは、徳を広めたからで、まさに仁と徳を備えた人の代表と言えるね。漢の高祖(劉邦)が天下を統一できたのは、主に知恵と力を使ったからで、知略にすぐれた人の代表と言えるよ。仁と智とは同じではないから、この二人の帝王もまた、それぞれ異なる点ですぐれているよ。『詩経』や『書経』では、殷の中宗や高宗の功績がたたえられて、大雅という最も格の高い賛歌の中で語られているよ。でも、少康の功績の功績のすばらしさは、この二人の君主をも上回っているよ。だから少康が大雅にふさわしい偉大な君主だとはっきりしているよね。少康を高く評価するべきだということについては、陛下の言うとおりだよ」
贊、毓、松等議曰:「少康雖積德累仁,然上承大禹遺澤餘慶,內有虞、仍之援,外有靡、艾之助,寒浞讒慝,不德于民,澆、豷無親,外內棄之,以此有國,蓋有所因。至於漢祖,起自布衣,率烏合之士,以成帝者之業。論德則少康優,課功則高祖多,語資則少康易,校時則高祖難。」
崔賛、鍾毓、虞松たちは話し合ってこう言ったよ。
「少康は確かに徳を積んで、仁を広めたけど、その成功には助けとなる条件もあったんだ。少康は大禹の遺した恩や徳と名声を受け継いで、内では有虞氏や仍氏の支援があって、外には靡や艾の助けがあったよ。寒浞は人を陥れる悪人で、人々から徳のある人と思われていなかったよ。その子の澆や豷も人望がなくて、内からも外からも見捨てられていたよ。少康が国を取り戻せたのは、このような有利な条件があったからでもあるんだ。
対して、漢の高祖(劉邦)はもともと身分の低い平民の出身で、寄せ集めの兵を率いて、ついに皇帝となる大事業を成し遂げたの。徳の高さを論じるなら、少康のほうがすぐれているけど、実際に成し遂げた功績の大きさを比べるなら、高祖のほうが勝っているよ。それに、利用できた条件や助けの多さを考えるなら、少康のほうが恵まれていたし、反対に、その時代の困難さを比べるなら、高祖のほうが難しい状況だったと言えるんだ」
帝曰:「諸卿論少康因資,高祖創造,誠有之矣,然未知三代之世,任德濟勳如彼之難,秦、項之際,任力成功如此之易。且太上立德,其次立功,漢祖功高,未若少康盛德之茂也。且夫仁者必有勇,誅暴必用武,少康武烈之威,豈必降於高祖哉?但夏書淪亡,舊文殘缺,故勳美闕而罔載,唯有伍員粗述大略,其言復禹之績,不失舊物,祖述聖業,舊章不行,自非大雅兼才,孰能與於此,向令墳、典具存,行事詳備,亦豈有異同之論哉?」於是羣臣咸恱服。
曹髦はこう言ったよ。
「あなたたちは、少康には利用できる基盤や助けがあって、漢の高祖(劉邦)は一から新しく国を創ったと言ったけど、確かにその点はそのとおりだね。でも、三代(夏・殷・周)の時代には徳で功績を成し遂げることが考える以上に難しかったし、秦や項羽の争う時代には武力で成功することは思われているほど難しくなかったんだ。
それに、(『春秋左氏伝』に)『最も上は徳を立てること、その次が功績をあげること』とあるように、漢の高祖のすごい功績をあげたけど、その徳の豊かさでは、少康には及ばないよ。さらに、仁のある人は必ず勇があって、暴君を討つためには武力も必要だよ。少康の武勇と威勢が、高祖に必ず劣っていたと言えるの?
ただ、夏の歴史書は失われて、古い文も欠けてしまっているんだ。だから、少康の功績のすばらしさは十分に記録されていないの。伍員(伍子胥)の伝えた話に、だいたいのことが残っているだけなんだ。そこには、少康は禹の事業を立て直して、祖先からの制度や祭祀を失わなかったと書かれているよ。昔の天子の偉大な事業を受け継いで、古い制度を復活させることは、並外れた教養と才能を備えた人でなければできないよ。もし古い典籍や記録が完全に残っていて、少康の行いが詳しく伝わっていたら、そもそもどちらがすぐれているか争うような話し合いは起こらなかっだろうね」
これを聞いて、たくさんの臣下はみんな喜んで納得したよ。
中書令松進曰:「少康之事,去世乆遠,其文昧如,是以自古及今,議論之士莫有言者,德美隱而不宣。陛下旣垂心遠鑒,考詳古昔,又發德音,贊明少康之美,使顯於千載之上,宜錄以成篇,永垂于後。」帝曰:「吾學不博,所聞淺狹,懼於所論,未獲其宜;縱有可采,億則屢中,又不足貴,無乃致笑後賢,彰吾闇昧乎!」於是侍郎鍾會退論次焉。
中書令の虞松は進み出てこう言ったよ。
「少康の事績は、今からものすごく遠い昔の出来事で、伝わっている文もはっきりしないんだ。だから、古から今まで、この問題について論じた学者たちの中で、少康について詳しく語る者はほとんどいなかったんだ。少康のすぐれた徳は世に知られなくて、そのすばらしさも十分に伝えられてこなかったの。陛下(曹髦)は遠い歴史にまで心を向けて深く考えて、古代の事実を詳しく考察したよ。さらに、自ら言葉を発して、少康のすばらしい功績を明らかにして、その名声を千年の後までも輝かせたよね。どうか今回の議論を記録して、一つの文章としてまとめて、永く後の世に伝えるべきだよ」
曹髦はこう言ったよ。
「私は学問が広いわけではなくて、聞いたことも浅くて狭いんだ。だから、私が話したことも、本当に正しいかどうか自信がないの。たとえ、中には参考になる意見があったとしても、それはたまたま推測が当たっただけかも。そのようなものを貴重な意見として残す価値があるの? 後の賢者たちに笑われて、私の無知や浅はかさを明らかにするだけだよ!」
こうして、侍郎の鍾会が退くと、この話し合いを整えて文章にまとめたよ。
易について質問する
夏四月庚戌,賜大將軍司馬文王衮冕之服,赤舄副焉。
夏の四月、庚戌の日、曹髦は大将軍の司馬昭に衮冕(天子の礼服)と赤舄(赤いくつ)を与えたよ。
丙辰,帝幸太學,問諸儒曰:「聖人幽贊神明,仰觀俯察,始作八卦,後聖重之為六十四,立爻以極數,凡斯大義,罔有不備,而夏有連山,殷有歸藏,周曰周易,易之書,其故何也?」
丙辰の日、曹髦は太学に行って、学者たちにこう尋ねたよ。
「聖人は天地の道理を深くわかっていて、空を見上げて地を観察して、初めて八卦を作ったよ。その後の聖人たちはこれを重ねて発展させて、六十四卦を作って、爻を立ててその変化の数を詳しく示したよ。このように、易の教えには大切な意味がすべて備わっているんだ。でも、夏には『連山』、殷には『帰蔵』、周には『周易』という易の書物があるけど、同じ易の書物なのに、どうして違う名前で呼ばれているの?」
易博士淳于俊對曰:「包羲因燧皇之圖而制八卦,神農演之為六十四,黃帝、堯、舜通其變,三代隨時,質文各繇其事。故易者,變易也,名曰連山,似山出內雲氣,連天地也;歸藏者,萬事莫不歸藏於其中也。」帝又曰:「若使包羲因燧皇而作易,孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能荅。
易の博士の淳于俊はこう答えたよ。
「包羲(伏羲)は燧皇(燧人氏)の図をもとにして八卦を作ったよ。その後、神農はこれを発展させて六十四卦としたよ。黄帝、堯、舜がその変化をさらに明らかにしたよ。三代(夏・殷・周)はそれぞれの時代に応じて使い方が変わって、飾らないのを重んじるか、華やかさを重んじるかといった違いによって、その内容や名前にも違いが生じたんだ。だから易とは、『変化する』という意味だよ。夏の易が『連山』と呼ばれたのは、山から雲や気が立ち上って、天地へと連なっていく姿に似ているからだよ。殷の易が『帰蔵』と呼ばれたのは、あらゆるものがその中へ帰って、収められるからだよ」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「もし包羲が燧皇をもとにして易を作ったのなら、どうして孔子は『燧人氏が亡くなった後、包羲氏が現れて易を作った』と言わなかったの?」
淳于俊は答えられなかったんだ。
帝又問曰:「孔子作彖、象,鄭玄作注,雖聖賢不同,其所釋經義一也。今彖、象不與經文相連,而注連之,何也?」俊對曰;「鄭玄合彖、象於經者,欲使學者尋省易了也。」帝曰:「若鄭玄合之,於學誠便,則孔子曷為不合以了學者乎?」俊對曰:「孔子恐其與文王相亂,是以不合,此聖人以不合為謙。」帝曰:「若聖人以不合為謙,則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰:「古義弘深,聖問奧遠,非臣所能詳盡。」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「孔子は『彖伝』や『象伝』を作って、鄭玄はそれに注をつけたよ。聖人と賢者では立場に違いがあるけど、彼らが説明しようとした『易経』の意味は同じだよね。でも、今の書物では、『彖伝』や『象伝』は経文と続けて書かれていなくて、鄭玄の注釈では経文と続けて配置されているんだ。これはどうして?」
淳于俊はこう答えたよ。
「鄭玄が『彖伝』や『象伝』を経文と合わせて並べたのは、学ぶ人が『易経』の意味を調べやすくして、理解しやすくするためだよ」
曹髦はこう言ったよ。
「もし鄭玄のやり方が学ぶ人にとって本当に便利なら、どうして孔子自身が最初から経文と『彖伝』や『象伝』を合わせておかなかったの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「孔子は、それらを経文と一緒にすると、周の文王の本文と自分の解説とが混ぜられることを恐れたんだ。だから、結びつけなかったの。これは聖人が謙虚さを示したんだね」
曹髦はこう言ったよ。
「もし聖人が、あえて一緒にしなかったのを謙虚さの表れだというなら、どうして鄭玄だけは謙虚でなくてもよかったの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「古い時代の教えはすごく広くて深くて、それに陛下(曹髦)の質問はとても奥深いものだよ。私には、そのすべてを詳しく説明できないんだ」
帝又問曰:「繫辭云『黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治』,此包羲、神農之世為無衣裳。但聖人化天下,何殊異爾邪?」俊對曰:「三皇之時,人寡而禽獸衆,故取其羽皮而天下用足,及至黃帝,人衆而禽獸寡,是以作為衣裳以濟時變也。」帝又問:「乾為天,而復為金,為玉,為老馬,與細物並邪?」俊對曰:「聖人取象,或遠或近,近取諸物,遠則天地。」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「『易経』の繫辞には『黄帝、堯、舜は衣服を整えて天下はよく治まった』とあるよ。この言葉に従えば、それより前の包羲(伏羲)や神農の時代には、まだ衣服の制度がなかったことになるよね。同じ聖人の彼らが天下を教えて導いたことに、どれくらいの違いがあったの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「三皇の時代は、人は少なくて鳥や獣がたくさんいたよ。だから、人々は鳥の羽や獣の皮を利用して生活できて、それで十分だったの。黄帝の時代になると、人が増えて動物が少なくなったよ。そこで時代の変化に対応するため、衣服の制度が作られるようになったよ」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「乾は天を表すとされているよ。でも同時に金や玉、さらに老馬を表すともされているんだ。天のような大きなものと、こうした細かな物とが、どうして同じ卦で表されるの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「聖人が象(物事を象徴するしるし)を定める時には、ある時は身近な物から取って、ある時は遠大なものから取るよ。近いところではさまざまな物事にたとえて、遠いところでは天地にたとえるの」
理想の皇帝
講易畢,復命講尚書。帝問曰:「鄭玄云『稽古同天,言堯同於天也』。王肅云『堯順考古道而行之』。二義不同,何者為是?」博士庾峻對曰:「先儒所執,各有乖異,臣不足以定之。然洪範稱『三人占,從二人之言』。賈、馬及肅皆以為『順考古道』。以洪範言之,肅義為長。」帝曰:「仲尼言『唯天為大,唯堯則之』。堯之大美,在乎則天,順考古道,非其至也。今發篇開義以明聖德,而舍其大,更稱其細,豈作者之意邪?」峻對曰:「臣奉遵師說,未喻大義,至於折中,裁之聖思。」
『易経』の講義が終わると、今度は『書経』の講義になったよ。曹髦はこう尋ねたよ。
「鄭玄は『古を考えることは天に従うことで、堯が天と同じだったと言う』と説明しているよ。一方、王粛は『堯が古代の正しい道をよく調べて、それに従って政治をしたことをいう』と説明しているよ。この二つの解釈は異なっているけど、どちらが正しいの?」
博士の庾峻は答えたよ。
「昔の学者たちは、それぞれ異なる説を持っていて、意見が一致していないよ。私には、そのどちらが正しいかは決められないんだ。でも、『書経』の洪範には『3人が占って、(一致した)2人の意見に従う』とあるよ。賈逵、馬融、そして王粛も『古代の道をよく考えて、それに従った』と解釈しているんだ。この原則に従うなら、王粛の説のほうが有力だと思うよ」
すると、曹髦はこう言ったよ。
「でも、仲尼(孔子)は『ただ天だけが偉大で、堯だけがそれを手本とした』と言っているよ。堯の最大のすばらしい徳は、天を手本として政治をしたことだよ。ただ古代の道に従ったというだけでは、その偉大さを十分に表しているとは言えないんだ。今、この篇の冒頭でその言葉が使われているのは、聖人の徳をはっきりさせるためだよ。なのに、その最も重要な意味を捨てて、より小さな意味を採るのは、本当にこの文章を書いた人の意図なの?」
庾峻はこう答えたよ。
「私はただ師から受け継いだ説に従っているだけで、その深い意味までは理解できていないんだ。どの説が最もぴったりかは、陛下(曹髦)自身の考えによって判断してほしいんだ」
次及四嶽舉鯀,帝又問曰:「夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,思無不周,明無不照,今王肅云『堯意不能明鯀,是以試用』。如此,聖人之明有所未盡邪?」峻對曰:「雖聖人之弘,猶有所未盡,故禹曰『知人則哲,惟帝難之』,然卒能改授聖賢,緝熈庶績,亦所以成聖也。」
四岳(古代の大臣たち)が鯀を推挙する場面の話に移ると、曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「そもそも偉大な人物とは、その徳は天地と一致して、その知恵の明るさは日月と一致すると言われるよ。考えが行き届かないことはなく、見通せないこともないんだって。でも、王粛は『堯は鯀の本当の能力を見抜けなかったら、試しに使った』と説明しているよ。もしそうなら、聖人である堯の知恵にも、及ばないところがあったの?」
庾峻はこう答えたよ。
「たとえ聖人の知恵がどれほど広くて大きくても、それでもすべてを知り尽くすことはできないよ。だから禹は『人を見抜くことができるのは知恵だけど、それは帝ですら難しい』と言ったの。でも、堯は最終的には鯀を退けて禹を使って、たくさんの良い政治を立派に成し遂げたよ。このように、より優れた賢者へと職務を引き継がせて、国家の事業を完成させたことこそ、堯が聖人と呼ばれる理由だよ」
帝曰:「夫有始有卒,其唯聖人。若不能始,何以為聖?其言『惟帝難之』,然卒能改授,蓋謂知人,聖人所難,非不盡之言也。經云:『知人則哲,能官人。』若堯疑鯀,試之九年,官人失叙,何得謂之聖哲?」峻對曰:「臣竊觀經傳,聖人行事不能無失,是以堯失之四凶,周公失之二叔,仲尼失之宰予。」
曹髦はこう言ったよ。
「始めから終わりまで過ちがない者、それこそが聖人ではないかな。もし最初の段階で正しい人を見抜けないなら、どうして聖人と言えるの? 『人を見抜くことができる者は賢いけど、それは帝でも難しい』と言っているけど、最終的には正しく人を選び直したのだから、聖人の知恵が足りないという意味ではないよ。『書経』には『人を見抜くことができる者は賢くて、適切に人を使える』とあるよ。もし堯が鯀を疑って9年も試し続けたなら、そのあいだ官職は正しく選ばれなかったことになるんだ。どうして堯を聖人と呼べるの?」
庾峻はこう答えたよ。
「私が経書とその注釈書を読んで考えてみたけど、聖人であっても失敗が全くないわけではないよ。だから、堯は四凶を見誤って使ったし、周公は管叔鮮と蔡叔度の問題で失敗して、仲尼(孔子)も宰予(宰我)という弟子を誤って使ったんだ」
帝曰:「堯之任鯀,九載無成,汨陳五行,民用昏墊。至於仲尼失之宰予,言行之間,輕重不同也。至於周公、管、蔡之事,亦尚書所載,皆博士所當通也。」峻對曰:「此皆先賢所疑,非臣寡見所能究論。」
曹髦はこう言ったよ。
「堯が鯀を使ったけど、9年も治水は成功しなかったんだ。だから、五行の秩序は乱れて、民は苦しんだよ。このような大きな失敗と、孔子が宰予という弟子を見誤ったこととでは、その重さはまったく同じではないよ。周公と管叔鮮と蔡叔度の問題については、『書経』にも書かれていて、博士なら当然よくわかっているはず」
庾峻はこう答えたよ。
「これらはどれも昔の賢人たちが話し合って、疑問としてきた問題だよ。私のような見識の浅い者では、その真相を十分に究めて論じることはできないんだ」
次及「有鰥在下曰虞舜」,帝問曰:「當堯之時,洪水為害,四凶在朝,宜速登賢聖濟斯民之時也。舜年在旣立,聖德光明,而乆不進用,何也?」峻對曰:「堯咨嗟求賢,欲遜己位,嶽曰『否德忝帝位』。堯復使嶽揚舉仄陋,然後薦舜。薦舜之本,實由於堯,此蓋聖人欲盡衆心也。」帝曰:「堯旣聞舜而不登用,又時忠臣亦不進達,乃使獄揚仄陋而後薦舉,非急於用聖恤民之謂也。」峻對曰:「非臣愚見所能逮及。」
次に「虞舜が独身で下の身分にある」という場面の話に移ると、曹髦はこう尋ねたよ。
「堯の時代には、洪水が大きな災害となっていて、朝廷には四凶のような悪い人たちもいたんだ。そのようなときこそ、すぐれた賢人や聖人をすぐに使って民を救うべきだったはず。舜はすでに成人していて、その聖なる徳も広く明らかだったのに、どうして長いあいだ使われなかったの?」
庾峻はこう答えたよ。
「堯は賢者を求めて、自ら位をゆずろうとしたよ。でも、四岳(古代の大臣たち)は『帝位を受けるにはふさわしくないよ』と言ったよ。堯はふたたび四岳に、世に埋もれた賢者を探し出すように命令したよ。こうして舜が推薦されたよ。舜を使ったのは堯が賢者を求めたからだよ。これは聖人の堯が、自分一人の判断ではなくて、たくさんの人たちの意見を十分に聞こうとしたからなの」
すると、曹髦はこう言ったよ。
「堯は舜を知っていたのにすぐに使わなかったし、忠臣たちも進んで舜を推薦しなかったんだ。だから、わざわざ四岳に隠れた賢者を探し出させて、その後になってようやく推薦されたんだ。これでは、聖人を急いで使って民を救おうとしたとは言えないよね?」
庾峻はこう答えたよ。
「その問題については、私のような浅い見識では、とても考えられないんだ」
曹髦さんの質問攻撃! 曹芳さんのときはこういう勉強&討論好きアピールは無かったね。こんな勤勉な帝を誰かさんはひどいね~みたいな?
博士たちは王粛さんに気を遣っているのかな。
徳について
於是復命講禮記。帝問曰:「『太上立德,其次務施報』。為治何由而教化各異;皆脩何政而能致於立德,施而不報乎?」博士馬照對曰:「太上立德,謂三皇五帝之世以德化民,其次報施,謂三王之世以禮為治也。」帝曰:「二者致化薄厚不同,將主有優劣邪?時使之然乎?」照對曰:「誠由時有樸文,故化有薄厚也。」(註4)(註5)
そこでふたたび『礼記』の講義になったよ。曹髦はこう尋ねたよ。
「『最もすぐれた政治は徳を立てることで、その次は恩に報いることに努めること』とあるけど、政治をするのに、どうして教えて導く方法が異なるの? どのような政治すれば『徳を立てる』になって、人々に恩恵を施してもその見返りを求めない政治ができるの?」
博士の馬照はこう答えたよ。
「『徳を立てる』とは、三皇や五帝の時代が徳によって人たちを教えて導いた政治を指すよ。『その次は恩に報いることに努めること』とは、三王の時代(夏・殷・周)が礼を使って国を治めた政治を指すよ」
曹髦はこう言ったよ。
「すると、この二つの政治は、人々を教えて導く力の強さや深さに違いがあるということになるよね。それは君主自身の優劣によるものなのか、その時代の状況がそうさせたの?」
馬照はこう答えたよ。
「そのとおりで、古い時代の人たちは素朴で純朴だけど、後の時代になるにつれて文化や制度が発達したよ。だから、教えて導く方法にも濃淡や違いが生じたの」
帝集載帝自敘始生禎祥曰:「昔帝王之生,或有禎祥,蓋所以彰顯神異也。惟予小子,支胤末流,謬為靈祇之所相祐也,豈敢自比於前喆,聊記錄以示後世焉。其辭曰:惟正始三年九月辛未朔,二十五日乙未直成,予生。于時也,天氣清明,日月暉光,爰有黃氣,烟熅於堂,照曜室宅,其色煌煌。相而論之曰:未者為土,魏之行也;厥日直成,應嘉名也;烟熅之氣,神之精也;無災無害,蒙神靈也。齊王不弔,顛覆厥度,羣公受予,紹繼皇祚。以眇眇之身,質性頑固,未能涉道,而遵大路,臨深履冰,涕泗憂懼。古人有云,懼則不亡。伊予小子,曷敢怠荒?庶不忝辱,永奉烝甞。」
曹髦は、自分が生まれたときに現れた吉兆について、自ら文章を書いてこう言ったよ。
「昔の帝王たちが生まれたときには、めでたい前兆がよく現れたんだって。それは、その人物が特別な存在だとを示すためだよ。でも、私みたいに若くて未熟なものは、ただ皇族の末裔というだけなんだ。なのに、思いがけない神々の加護を受けたんだ。どうして自分を昔のすばらしいこうていたちと比べられるの? ただ、後の世の人たちのために記録として残しておこうと思うよ。
正始三年(242年)、九月の朔(月の初めの日)、辛未から数えて二十五日、乙未の日、私は生まれたよ。そのとき、空気は澄み渡って、太陽と月は明るく輝いていたんだって。すると黄色い気が現れて、もやみたいに堂内へ立ちこめて、家の中を明るく照らしたよ。その光はすごく鮮やかなんだって。これを見た人たちはこう解釈したよ。
『未は土を表していて、土は魏の五行の徳に当たるよ。また、この日は成に当たる日で、めでたい名にふさわしいよ。立ちのぼった気は神の精気で、災いも害もなく生まれたのは、神霊の守護を受けたからだね』
後になって、斉王(曹芳)は道を失って、正しい政治を乱したんだ。そこで、臣下たちは私を迎えて、皇帝の位を継がせたよ。私は取るに足らない小さな身で、生まれつき才能も乏しくて、頑固なところもあるんだ。まだ十分に聖人の道を理解していないのに、国家という大きな道を歩むことになったよ。だから私は、深い谷のほとりに立つみたいに、薄い氷の上を歩くみたいに、いつも涙を流しながら不安と恐れを抱いているの。昔の人は、『恐れを知る者は滅びない』と言ったよ。私みたいなつまらない人がどうして怠けたり油断したりできるの? どうか先祖に恥をかかせないで、永く先祖への祭祀を守り続けたいよ」
傅暢晉諸公贊曰:帝常與中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黃門侍郎鍾會等講宴於東堂,并屬文論。名秀為儒林丈人,沈為文籍先生,望、會亦各有名號。帝性急,請召欲速。秀等在內職,到得及時,以望在外,特給追鋒車,虎賁卒五人,每有集會,望輒奔馳而至。
傅暢の『晋諸公賛』によると、曹髦はいつも中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黄門侍郎の鍾会たちと一緒に東堂で講義や宴会を開いていたよ。彼らは学問について語り合うだけでなくて、文章を書いたり、学術的な議論をしたりもしていたよ。
曹髦は、裴秀を「儒林丈人」、王沈を「文籍先生」と呼んで、司馬望と鍾会にもそれぞれ特別な呼び名を与えたよ。
曹髦は性格がせっかちで、人を呼ぶときもすぐに来てほしいと思っていたよ。裴秀たちは宮中の官職に就いていたから、呼び出されるとすぐに駆けつけることができたよ。でも、司馬望は宮中の外で務めていたから、着くまでに時間がかかっていたんだ。そこで、曹髦は特別に、追鋒車と虎賁と(帝の護衛)の兵5人を与えて、集会や講義が開かれるといつも、司馬望は急いで馬車を走らせて駆けつけていたんだって。
各地での戦い
五月,鄴及上洛並言甘露降。夏六月丙午,改元為甘露。乙丑,青龍見元城縣界井中。秋七月己卯,衞將軍胡遵薨。
五月、鄴と上洛の両方から、甘露が降ったという報告があったよ。夏の六月、丙午の日、年号を甘露に改めたよ。乙丑の日、青龍が元城県の境内にある井戸の中に現れたよ。 秋の七月、己卯の日、衛将軍の胡遵が亡くなったんだ。
癸未,安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維於上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戰克,無如此者。今遣使者犒賜將士,大會臨饗,飲宴終日,稱朕意焉。」
癸未の日、安西将軍の鄧艾は上邽で蜀の大将の姜維を大きく打ち破ったよ。曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「兵がまだ全力を出す前に、敵の兵を大きく打ち破ったよ。討ち取ったり生け捕りにした者は万を単位として数えられるくらいなんだ。最近の戦いでも、このように大きな勝利はなかったよね。今、使者を送って将や兵をねぎらって、賞を与えるよ。それに、大きな宴会を開いて、一日中飲んだり食べたりして楽しませるよ。これが私の気持ちだよ」
八月庚午,命大將軍司馬文王加號大都督,奏事不名,假黃鉞。癸酉,以太尉司馬孚為太傅。九月,以司徒高柔為太尉。冬十月,以司空鄭沖為司徒,尚書左僕射盧毓為司空。
八月、庚午の日、曹髦は大将軍の司馬昭に大都督の称号を与えて、名前を呼ばないで上奏することを許して、さらに黄鉞を授けたよ。
癸酉の日、太尉の司馬孚を太傅に任命したよ。九月、司徒の高柔を太尉に任命したよ。
冬の十月、司空の鄭沖を司徒、尚書左僕射の盧毓を司空に任命したよ。
二年春二月,青龍見溫縣井中。三月,司空盧毓薨。
甘露二年(257年)、春の二月、青龍が温県の井戸の中に現れたよ。三月、司空の盧毓が亡くなったんだ。
夏四月癸卯,詔曰:「玄菟郡高顯縣吏民反叛,長鄭熙為賊所殺。民王簡負擔熙喪,晨夜星行,遠致本州,忠節可嘉。其特拜簡為忠義都尉,以旌殊行。」
夏の四月、癸卯の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「玄菟郡高顕県で役人や民が反乱を起こして、県長の鄭熙が賊に殺されちゃった。民の王簡は鄭熙の遺体を背負って、夜明け前から夜遅くまで休まないで急ぎ続けて、遠く離れた本州まで届けたよ。この忠と節義はほめたたえるべきだよね。特別に王簡を忠義都尉に任命して、そのすぐれた行いを広く世に示すよ」
甲子,以征東大將軍諸葛誕為司空。
甲子の日、征東大将軍の諸葛誕を司空に任命したよ。
五月辛未,帝幸辟雍,會命羣臣賦詩。侍中和逌、尚書陳騫等作詩稽留,有司奏免官,詔曰:「吾以暗昧,愛好文雅,廣延詩賦,以知得失,而乃爾紛紜,良用反仄。其原逌等。主者宜勑自今以後,羣臣皆當玩習古義,脩明經典,稱朕意焉。」
五月、辛未の日、曹髦は辟雍(大学)に行ったよ。その席で、たくさんの臣下に詩を作るように命令したよ。でも、侍中の和逌や尚書の陳騫たちは詩を作るのに時間がかかって、出すのが遅れちゃった。役人が彼らを辞めさせるように上奏したよ。曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「私は学識も乏しくて、物事を十分に理解できているわけではないんだ。だから、文学や学問を愛して、広く詩や文章を集めて、そこから政治の良し悪しを知ろうとしているの。でも、今はこのようなもめごとが起きちゃって、これは本当に私の意思に反していて心苦しいんだ。だから、和逌たちの罪は許すよ。役人は、これからはたくさんの臣下が昔の人の教えをよく学んで、経典を修めてその意味を明らかにするように指導してね。これが私の気持ちだよ」
諸葛誕の乱
乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。丙子,赦淮南將吏士民為誕所詿誤者。丁丑,詔曰:「諸葛誕造為凶亂,盪覆揚州。昔黥布逆叛,漢祖親戎,隗嚻違戾,光武西伐,及烈祖明皇帝躬征吳、蜀,皆所以奮揚赫斯,震耀威武也。今宜皇太后與朕暫共臨戎,速定醜虜,時寧東夏。」
乙亥の日、諸葛誕は朝廷からの招きに応じなくて、兵を挙げて反乱を起こしたんだ。そして、揚州刺史の楽綝を殺したよ。
丙子の日、曹髦は詔を下して、淮南の将や役人、兵や民で諸葛誕にだまされたり脅されたりして反乱に巻き込まれた者たちを許したよ。丁丑の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「諸葛誕は凶悪な反乱を起こして、揚州を混乱させたんだ。昔、黥布が反乱を起こすと、漢の高祖(劉邦)は自分で軍を率いて討ったよ。隗囂がそむいたときには、光武帝(劉秀)は西へ遠征したよ。それに、烈祖明皇帝(曹叡)も自ら呉と蜀へ遠征したよ。これらはみんな、国の威を大きく示して、武威を天下に輝かせるためなんだ。今、皇太后と私が一緒に軍を率いて、すぐにこの反乱を平定して、東の国を安定させるべきだよ」
己卯,詔曰:「諸葛誕造構逆亂,迫脅忠義,平寇將軍臨渭亭侯龐會、騎督偏將軍路蕃,各將左右,斬門突出,忠壯勇烈,所宜嘉異。其進會爵鄉侯,蕃封亭侯。」
己卯の日、曹髦はふたたび詔を下してこう言ったよ。
「諸葛誕は反乱を起こして、忠や義のある者たちを脅して従わせようとしたんだ。平寇将軍で臨渭亭侯の龐会と、騎督偏将軍の路蕃は、それぞれ部下を率いて城門を斬り開いて敵の中から脱出したよ。その忠誠は固くて、その勇気は人並み外れていて、この功績をたたえるべきだよ。だから、龐会を郷侯に爵位を進めて、路蕃を亭侯に封じるよ」
六月乙巳,詔:「吳使持節都督夏口諸軍事鎮軍將軍沙羡侯孫壹,賊之枝屬,位為上將,畏天知命,深鑒禍福,翻然舉衆,遠歸大國,雖微子去殷,樂毅遁燕,無以加之。其以壹為侍中車騎將軍、假節、交州牧、吳侯,開府辟召儀同三司,依古侯伯八命之禮,衮冕赤舄,事從豐厚。」(註6)
六月、乙巳の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「呉の使持節、都督夏口諸軍事、鎮軍将軍で、沙羡侯の孫壱は、敵の皇族の一族で、上将という高い地位だったよ。でも、彼は天命を恐れて、自分の運命を知って、幸運と災いを深く見極めたうえで、決意を固めて配下の者たちを率いて、遠くから私たちの国に従ったよ。その行いは、殷を去った微子(微子啓)や、燕を離れた楽毅に劣らないよ。だから、孫壱を侍中、車騎将軍、仮節、交州牧(州の長官)、呉侯に任命して、役人を任命できる府を開くことを許して、儀同三司としての待遇を与えるよ。そして、古の侯伯に与えられた八命の礼にならって、衮冕(天子の礼服)と赤舄(赤いくつ)を与えて、厚くもてなすよ」
臣松之以為壹畏逼歸命,事無可嘉,格以古義,欲蓋而名彰者也。當時之宜,未得遠遵式典,固應量才受賞,足以疇其來情而已。至乃光錫八命,禮同台鼎,不亦過乎!於招攜致遠,又無取焉。何者?若使彼之將守,與時無嫌,終不恱於殊寵,坐生叛心,以叛而愧,辱孰甚焉?如其憂危將及,非奔不免,則必逃死苟存,無希榮利矣,然則高位厚祿何為者哉?魏初有孟達、黃權,在晉有孫秀、孫楷;達、權爵賞比壹為輕,秀、楷禮秩優異尤甚。及至吳平,而降黜數等,不承權輿,豈不緣在始失中乎?
裴松之はこう考えるよ。孫壱は身の危険に追い詰められて降伏したのだから、特にほめたたえるべき功績があったわけではないよ。昔の人の行いと比べるなら、悪い評判を隠そうとして、かえってその名を世に知らしめてしまった者だよ。当時の状況としては、古い制度をそのまま使えなかったとしても、その人の能力に応じて賞を与えて、降伏した気持ちに報いるだけで十分だったはず。なのに、八命の礼という大きな栄誉を与えて、台鼎(三公)と同じくらいのに待遇にしたのは、やり過ぎではないかな? それに、人を招き寄せて、遠くの人たちを従わせるという意味でも効果はなかったんだ。どうしてかな?
もし孫壱が将や太守(郡の長官)としての地位を保って、当時の政権との間に何の不満もなかったなら、どれほど特別な待遇を約束されても、反逆しようという気持ちにはならなかったはずだからだよ。何も不満がないのにそむいたら、それこそ大きな恥だよね。でも、自分に危険が迫って、このままでは助からないという状況では、逃げて命をつなごうとするのは当然で、決して栄誉や利益を望んでいたわけではなかったはず。そうだったら、高い地位やたくさんの俸禄を与えることに、どんな意味があるの?
魏の初めごろには孟達や黄権がいて、晋には孫秀や孫楷がいたよ。孟達や黄権に与えられた爵位や賞は、孫壱に比べて軽かったよ。一方、孫秀と孫楷に対する礼遇や官位は、孫壱よりさらに手厚かったんだ。でも、呉が平定された後、彼らの地位は何段階も引き下げられたよ。最初に与えられた待遇がそのままではなかったんだ。これは結局、最初の賞の与え方が適切でなかったからではないかな?
甲子,詔曰:「今車駕駐項,大將軍恭行天罰,前臨淮浦。昔相國大司馬征討,皆與尚書俱行,今宜如舊。」乃令散騎常侍裴秀、給事黃門侍郎鍾會咸與大將軍俱行。秋八月,詔曰:「昔燕刺王謀反,韓誼等諫而死,漢朝顯登其子。諸葛誕創造凶亂,主簿宣隆、部曲督秦絜秉節守義,臨事固爭,為誕所殺,所謂無比干之親而受其戮者。其以隆、絜子為騎都尉,加以贈賜,光示遠近,以殊忠義。」
甲子の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「今、天子の車が項にとどまっていて、大将軍(司馬昭)は天に代わって、反乱した敵を討つために軍を率いて、すでに淮浦に進んでいるよ。昔、相国や大司馬が討伐に出たときには、いつも尚書も一緒に行ったんだって。今も昔のやり方にならうべきだよ」
そこで、散騎常侍の裴秀と給事黄門侍郎の鍾会を大将軍の司馬昭と一緒に行かせたよ。
秋の八月、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「昔、燕刺王(劉旦)が反乱をたくらむと、韓誼たちがこれをいさめて命を落としたんだ。漢の朝廷はその忠義をたたえて、彼らの子孫を高い地位に取り立てたよ。今、諸葛誕が大きな反乱を起こして、主簿の宣隆や部曲督の秦絜は節義を守って忠義を貫いたよ。諸葛誕に強く反対の意見を言ったから、諸葛誕によって殺されたんだ。これは、比干(殷の王族)みたいに君主の親族ではないのに、忠義のために殺された者たちだよ。そこで、宣隆と秦絜の子を騎都尉に任命して、さらに特別に贈り物や賞を与えるよ。このことを遠く近くの人たちに広く示して、彼らの特別にすぐれた忠義を明らかにするよ」
九月,大赦。冬十二月,吳大將全端、全懌等率衆降。
九月、大赦をしてたくさんの人の罪を許したよ。
冬の十二月、呉の大将の全端と全懌たちが軍を率いて降伏してきたよ。
三年春二月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。三月,詔曰:「古者克敵,收其屍以為京觀,所以懲昏逆而章武功也。漢孝武元鼎中,改桐鄉為聞喜,新鄉為獲嘉,以著南越之亡。大將軍親總六戎,營據丘頭,內夷羣凶,外殄寇虜,功濟兆民,聲振四海。克敵之地,宜有令名,其改丘頭為武丘,明以武平亂,後世不忘,亦京觀二邑之義也。」
甘露三年(258年)、春の二月、大将軍の司馬昭が寿春の城を攻め落として、諸葛誕を討ち取ったよ。三月、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「昔、敵に勝ったときには、その敵の兵の死体を集めて京観(高い山)を作ったんだ。これは道理にそむいた者たちを戒めて、武力の功績を世に示すためだよ。漢の武帝は元鼎の年号の間(前116~前111年)、桐郷を聞喜、新郷を獲嘉に改めたよ。これは、南越の滅亡を後の世に伝えるためだよ。
今、大将軍(司馬昭)は自ら軍を率いて、丘頭に陣を置いたよ。内はたくさんの悪人たちを平定して、外では敵の軍を討ち滅ぼしたよ。その功績によってたくさんの民は救われて、声は四海に響き渡ったよ。敵を打ち破った土地には、それにふさわしい名を与えるべきだね。だから、丘頭を武丘に改めて、これは武力によって反乱を平定したことを示して、後の世の人たちがこれを忘れないようにするよ。昔の京観を築いたことや、聞喜や獲嘉という地名を定めたことと同じなんだ」
夏五月,命大將軍司馬文王為相國,封晉公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止。
夏の五月、大将軍の司馬昭を相国として、さらに晋公に封じて、領地として8つの郡を与えて、さらに九錫を加えて授けようとしたよ。でも、司馬昭はこれまでに9回も辞退したから、ようやくこの話は打ち切られたよ。
六月丙子,詔曰:「昔南陽郡山賊擾攘,欲劫質故太守東里衮,功曹應余獨身捍衮,遂免於難。余顛沛殞斃,殺身濟君。其下司徒,署余孫倫吏,使蒙伏節之報。」(註7)
六月、丙子の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「昔、南陽郡で山賊(侯音)が騒ぎを起こして、かつての太守(郡の長官)の東里衮を人質に取ろうとしたんだ。そのとき功曹(人事官)の応余は、ただ一人で東里衮を守って、彼を危機から救ったよ。でも、応余は苦しい状況の中で命を落としたんだ。自分の命を犠牲にして主君を救ったの。そこで、司徒は、応余の孫の応倫を役人に任命して、祖父が節義を守って命を捨てたことへの報いを受けさせるようにしてね」
楚國先賢傳曰:余字子正,天姿方毅,志尚仁義,建安二十三年為郡功曹。是時吳、蜀不賔,疆埸多虞。宛將侯音扇動山民,保城以叛。余與太守東里衮當擾攘之際、迸竄得出。音即遣騎追逐,去城十里相及,賊便射衮,飛矢交流。余前以身當箭,被七創,因謂追賊曰:「侯音狂狡,造為凶逆,大軍尋至,誅夷在近。謂卿曹本是善人,素無惡心,當思反善,何為受其指揮?我以身代君,已被重創,若身死君全,隕沒無恨。」
『楚国先賢伝』によると、応余は、字は子正だよ。生まれつき性格はまっすぐで意志が強くて、仁義を大切にしていたんだって。
建安二十三年(218年)、郡の功曹(人事官)になったよ。このとき呉と蜀は従っていなくて、国境はたくさんの不安を抱えていたんだ。宛の将の侯音は山の民をあおって、城に立てこもって反乱を起こしたんだ。応余と太守の東里衮は、この大混乱の中で城から逃げ出せたよ。侯音はすぐに騎兵に追わせて、城から10里のところで追いついて、敵はすぐに東里衮に向かって矢を射たんだ。矢は雨のように飛び交う中、応余は前に進み出て、自らの体で東里衮を守って、7つも傷を受けちゃった。そして追ってきた敵に向かってこう言ったよ。
「侯音は狂っていてずる賢くて、反乱を起こしたんだ。朝廷の大軍がすぐに来て、彼らが討ち滅ぼされる日も近いよ。あなたたちは本当はいい人たちで、もともと悪事を望む心はなかったはず。今こそ正しい道に立ち返ることを考えてね。どうして侯音の命令に従うの? 私は自分の身をもって主君の代わりとなって、すでに重い傷を負っているんだ。もし私が死んで主君が助かるなら、たとえここで命を失ったとしても何の悔いもないよ」
因仰天號哭泣涕,血淚俱下。賊見其義烈,釋衮不害。賊去之後,余亦命絕。征南將軍曹仁討平音,表余行狀,并脩祭醊。太祖聞之,嗟嘆良乆,下荊州復表門閭,賜穀千斛。衮後為于禁司馬,見魏略游說傳。
そして応余は天を見上げて大声で泣き叫んで、血の混ざった涙を流したんだ。敵はその忠義と勇敢さに心を打たれて、東里衮を殺さないで解放したよ。敵が去った後、応余は命を落としたんだ。
その後、征南将軍の曹仁が侯音を討って反乱を平定すると、応余の行いや人柄を上表して、その霊をまつったよ。曹操はこれを聞くと、長いあいだ感動してため息をついたんだ。そして荊州に命令して応余の家をたたえて、1,000斛の穀物を与えたよ。
東里衮はその後、于禁の司馬になったよ。このことは、『魏略』「游説伝」に書かれているよ。
三老と五更
辛卯,大論淮南之功,封爵行賞各有差。
辛卯の日、淮南の功績(諸葛誕を討ったこと)について話し合って、それぞれの功績に応じて爵位や領地を賞として与えたよ。
秋八月甲戌,以驃騎將軍王昶為司空。丙寅,詔曰:「夫養老興教,三代所以樹風化垂不朽也,必有三老、五更以崇至敬,乞言納誨,著在惇史,然後六合承流,下觀而化。宜妙簡德行,以充其選。關內侯王祥,履仁秉義,雅志淳固。關內侯鄭小同,溫恭孝友,帥禮不忒。其以祥為三老,小同為五更。」車駕親率羣司,躬行古禮焉。(註8)(註9)(註10)(註11)(註12)(註13)
秋の八月、甲戌の日、驃騎将軍の王昶を司空に任命したよ。丙寅の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「老いた人を敬って、教育を盛んにすることは、三代(夏・殷・周)の王朝が良い風紀を築いて、それを後の世に残した理由だったよ。だから、必ず三老や五更を置いて、最高の敬意を示したよ。そして彼らの言葉を求めて、その教えを受け入れたことが歴史書にも記されているんだ。こうして天下の人たちはその教えに従って、下の者たちもそれを見習って教えが広がるの。だから、今こそ徳と行いにすぐれた人物を慎重に選んで、この役目に就けるべきだよ。関内侯の王祥は、仁を実践して義を守って、その志は高くて誠実で揺るがないよ。それに、関内侯の鄭小同は、穏やかで慎み深くて、親孝行で兄弟仲も良くて、礼に従って少しも誤ることがないんだ。だから、王祥を三老、鄭小同を五更に任命するよ」
その後、曹髦が自らたくさんの役人たちを率いて、古くから伝わる礼に従って、この儀式を自分自身でしたよ。
漢晉春秋曰:帝乞言於祥,祥對曰:「昔者明王禮樂旣備,加之以忠誠,忠誠之發,形于言行。夫大人者,行動乎天地;天且弗違,況於人乎?」祥事別見呂虔傳。小同,鄭玄孫也。
『漢晋春秋』によると、曹髦が王祥に教えを求めると、王祥はこう答えたよ。
「昔のすぐれた王たちは、礼と音楽の制度を十分に整えたうえで、さらに忠誠の心を大切にしたよ。忠誠の心が生まれると、それは言葉や行いとなって自然に現れるよ。立派なな人は、その行動が天地にまでかなうものなんだ。天でさえその人の行いに背かないのだから、ましてや人々が従わないことがあるの?」
王祥については「呂虔伝」に書いてあるよ。鄭小同は、鄭玄の孫なんだって。
玄別傳曰:「玄有子,為孔融吏,舉孝廉。融之被圍,往赴,為賊所害。有遺腹子,以丁卯日生;而玄以丁卯歲生,故名曰小同。」
『鄭玄別伝』によると、鄭玄には子がいて、その子は孔融の役人になって、孝廉に推挙されたんだって。でも、孔融が包囲されると、助けに向かったから、敵に殺されたんだ。そのとき妻はすでに身ごもっていて、父の死後に子を生んだよ。その子は、丁卯の日に生まれたよ。鄭玄自身も丁卯の日に生まれたから、その子を小同と名付けたんだ。
魏名臣奏載太尉華歆表曰:「臣聞勵俗宣化,莫先於表善,班祿敘爵,莫美於顯能,是以楚人思子文之治,復命其胤,漢室嘉江公之德,用顯其世。伏見故漢大司農北海鄭玄,當時之學,名冠華夏,為世儒宗。文皇帝旌錄先賢,拜玄適孫小同以為郎中,長假在家。小同年踰三十,少有令質,學綜六經,行著鄉邑。海、岱之人莫不嘉其自然,美其氣量。迹其所履,有質直不渝之性,然而恪恭靜默,色養其親,不治可見之美,不競人間之名,斯誠清時所宜式敘,前後明詔所斟酌而求也。臣老病委頓,無益視聽,謹具以聞。」
『魏名臣奏』によると、太尉の華歆は上奏してこう言ったよ。
「私は、よい風習を励まして、人々を正しい道へ導くには、よい人を示すことが最も大切だと聞いているよ。官位や禄を与えて爵位を定めるには、有能な人を明らかにして取り立てることほど立派なことはないよ。だから、楚の人たちは子文の政治をたたえて、その子孫にふたたび官職を授けたよ。漢の朝廷も江公の徳をたたえて、一族を世に示したよ。
私が見るに、昔の漢の大司農で北海の出身の鄭玄は、当時の学問では中原の第一人者で、学者たちの手本とされた人だったよ。文皇帝(曹丕)は昔の賢人たちをたたえて、鄭玄の孫の鄭小同を郎中に任命して、長い休みを与えて家に住まわせたんだ。鄭小同はすでに30歳を越えていて、若いころから優れた資質を持っていたよ。学問では六経を広く学んで、人柄や行いは郷里でも高く評価されているの。黄海や泰山の地域の人たちで、彼をほめない者はいなくて、その自然な人柄をたたえて、その度量の大きさをほめているよ。
その行いを見れば、誠実でまっすぐな心を決して変えない性格だとわかるよね。それに慎み深くて礼儀正しくて、静かで落ち着いていて、親によく仕えているよ。人目につくようないい徳を求めようとはしないで、世間での名声を争って求めようともしないんだ。本当にこのような人こそ、平和な時代で手本として取り立てるべき人で、これまで何度も出された詔が求めていた人でもあるよね。私は老いて病気が重くなって、もはや朝廷の役に立てる状態ではないけど、つつしんでこのことを上奏するよ」
魏氏春秋曰:小同詣司馬文王,文王有密疏,未之屏也。如廁還,謂之曰:「卿見吾疏乎?」對曰:「否。」文王猶疑而鴆之,卒。
『魏氏春秋』によると、鄭小同が司馬昭を訪ねると、司馬昭はこっそりと書いた手紙があったけど、まだそれを片付けていなかったの。司馬昭が便所に行って戻ると、鄭小同にこう尋ねたよ。
「あなたは私の手紙を見た?」
鄭小同はこう答えたよ。
「いいえ、見てないよ」
でも、司馬昭は疑って、鄭小同に毒を飲ませたんだ。こうして鄭小同は亡くなったんだ。
鄭玄注文王世子曰「三老、五更各一人,皆年老更事致仕者也」。注樂記曰「皆老人更知三德五事者也」。
鄭玄が『礼記』「文王世子」に注をつけてこう説明したよ。
「三老と五更は、それぞれ1人ずつ置かれるよ。みんな年をとって、たくさんの経験を積んで、引退した者なんだって」
『礼記』「楽記」の注によると、これらはみんな年長者で、三徳と五事をよくわかっている人たちだよ。
蔡邕明堂論云:「更」應作「叟」。叟,長老之稱,字與「更」相似,書者遂誤以為「更」。「嫂」字「女」傍「叟」,今亦以為「更」,以此驗知應為「叟」也。
蔡邕の『明堂論』によると、「更」という字は、「叟」と書くべきだよ。「叟」は年長者を呼ぶ言葉で、「更」の字と形がよく似ているから、書き写した人がまちがえて「更」にしちゃったんだろうね。
それに、「嫂」の字は「女」に「叟」を組み合わせた字だけど、今では「更」と書かれているんだ。このことから、「叟」とするのが正しいとわかるよ。
臣松之以為邕謂「更」為「叟」,誠為有似,而諸儒莫之從,未知孰是。
裴松之はこう考えるよ。蔡邕が「更」を「叟」とすべきだとするのは、たしかにもっともらしいよ。でも、たくさんの学者たちはこれに従わなかったんだ。どちらが正しいのかはわからないんだ。
井戸の中の龍
是歲,青龍、黃龍仍見頓丘、冠軍、陽夏縣界井中。
この年、青龍や黄龍が、頓丘、冠軍、陽夏県の境にある井戸の中に、何度も姿を現したんだって。
四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。(註14)
甘露四年(259年)、春の正月、二匹の黄龍が寧陵県の境にある井戸の中に現れたんだって。
漢晉春秋曰:是時龍仍見,咸以為吉祥。帝曰:「龍者,君德也。上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之。
『漢晋春秋』によると、このとき龍が何度も現れたから、みんなそれをめでたいしるしだと考えたよ。でも、曹髦はこう言ったよ。
「龍は君主の徳を表すよ。本来なら上は天にいるべきで、下は田や畑にいるべきだよ。なのに、何度も井戸の中に閉じ込められているのは、よい兆しではないんだ」
そして、曹髦は潜龍の詩を作って、自分の置かれている状況をたとえたよ。司馬昭はこれを見て不快に思ったんだって。
夏六月,司空王昶薨。秋七月,陳留王峻薨。冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。十一月癸卯,車騎將軍孫壹為婢所殺。
夏の六月、司空の王昶が亡くなったんだ。秋の七月、陳留王の曹峻が亡くなったんだ。
冬の十月、丙寅の日、新城郡を分けて上庸郡をふたたび置いたよ。十一月、癸卯の日、車騎将軍の孫壱が女の召使いに殺されちゃった。
甘露の変
五年春正月朔,日有蝕之。夏四月,詔有司率遵前命,復進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,加九錫。
甘露五年(260年)、春の正月、朔(月の初めの日)、日食が起こったんだ。
夏の四月、曹髦は詔を下して、役人たちはこれまでの命令に従って、ふたたび大将軍の司馬昭を相国に昇進させて、晋公に封じて、さらに九錫を与えたよ。
五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。(註15)(註16)(註17)(註18)(註19)(註20)
五月、己丑の日、曹髦は亡くなったんだ。このとき20歳だったよ。
いきなり亡くなったみたいに見えるけど、経緯は註で記されているよ。亡くなったという意味の字が「崩」ではなくて「卒」だね。
漢晉春秋曰:帝見威權日去,不勝其忿。乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業,謂曰:「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿等自出討之。」王經曰:「昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,為天下笑。今權在其門,為日乆矣,朝廷四方皆為之致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衞空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用,而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測,宜見重詳。」帝乃出懷中版令投地,曰:「行之決矣。正使死,何所懼?況不必死邪!」於是入白太后,沈、業奔走告文王,文王為之備。
『漢晋春秋』によると、曹髦は自分の権力が日に日に失われていくのを見て、怒りを抑えられなかったんだ。そこで、侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業を呼んでこう言ったよ。
「司馬昭の心は、道を行く人でさえ知っているよね。私は黙ってやめさせられる辱めを受けるわけにはいかないんだ。今日、あなたたちと一緒に自ら出て司馬昭を討つよ」
王経はこう答えたよ。
「昔、魯の昭公は季氏を我慢できなくて、戦って敗れて、国を追われて天下の笑いものになっちゃった。今、司馬氏の手にあって、それが長く続いているんだ。朝廷も四方の人たちもみんな彼のためなら命を捨てるくらいで、道理にかなうかどうかなんて考えていないんだ。それは一日や二日のことではないよ。しかも、兵は手薄で、武器も少なくて弱いの。あなたは何を頼りにして、このような決断をするの? 病気を治そうとして、かえって重くするようなことになっちゃうよ! 災いはどれほど大きなものになるかわからないよ。どうかもう一度よく考えてほしいんだ」
曹髦は懐から命令を書いた札を取り出して地面に投げつけて、こう言ったよ。
「これはもう決めたことだよ。たとえ死ぬとしても、何を恐れることがあるの? ましてや必ずしも死ぬとは限らないのだから!」
こうして曹髦は宮中に入って、太后にこのことを報告したよ。王沈と王業は急いで司馬昭に知らせて、司馬昭は備えを整えたんだ。
帝遂帥僮僕數百,鼓譟而出。文王弟屯騎校尉伷入,遇帝於東止車門,左右呵之,伷衆奔走。中護軍賈充又逆帝戰於南闕下,帝自用劒。衆欲退,太子舍人成濟問充曰:「事急矣。當云何?」充曰:「畜養汝等,正謂今日。今日之事,無所問也。」濟即前刺帝,刃出於背。文王聞,大驚,自投於地曰:「天下其謂我何!」太傅孚奔往,枕帝股而哭,哀甚,曰:「殺陛下者,臣之罪也。」
曹髦はそのまま身の回りの召使いや従者たち数百人を率いて、太鼓を鳴らして大声を上げながら宮中を出たよ。司馬昭の弟で屯騎校尉の司馬伷が宮中に入ろうとしていたけど、東止車門(宮城の門のひとつ)で曹髦と出会ったんだ。曹髦の周りの人たちが大声で叱りつけると、司馬伷の部下たちは逃げちゃった。
さらに、中護軍の賈充は南闕(宮殿の南門)の下で曹髦の軍を迎え撃ったんだ。曹髦は自ら剣を手にして戦ったよ。賈充の兵たちは退こうとしたけど、太子舎人(太子の身近に仕える者)の成済が賈充にこう尋ねたよ。
「事態はすごく危ないけど、どうすればいいの?」
賈充はこう答えたよ。
「あなたたちを育ててきたのは、まさに今日のためだよ。今日のことについては何も問わないよ」
すると成済はすぐには前に進み出て曹髦に剣を突き刺したよ。その刃は曹髦の背中まで貫きとおったんだ。司馬昭はこのことを聞くと、すごくびっくりして、地面に倒れてこう言ったよ。
「天下の人たちは、私のことを何と言うだろうか!」
太傅の司馬孚は急いでその場へ駆けつけて、曹髦のももに頭を乗せて声をあげて泣いて、すごく悲しみながらこう言ったよ。
「陛下を殺したのは、私の罪なんだ」
臣松之以為習鑿齒書,雖最後出,然述此事差有次第。故先載習語,以其餘所言微異者次其後。
裴松之はこう考えるよ。習鑿歯の書は、これらの記録の中ではいちばん後の時代に書かれたものだよ。でも、この事件について、順序立てて書かれているよ。だから、まず習鑿歯の説を載せて、そのほかの記録のうち内容がちょっと異なるものを、その後に続けて記すね。
世語曰:王沈、王業馳告文王,尚書王經以正直不出,因沈、業申意。
『世語』によると、王沈と王業は馬を走らせて司馬昭に知らせたよ。一方、尚書の王経は、正直な人だから、その場を立ち去らないで、王沈と王業に頼んで司馬昭に自分の意見を伝えたよ。
晉諸公贊曰:沈、業將出,呼王經。經不從,曰:「吾子行矣!」
『晋諸公賛』によると、王沈と王業が立ち去ろうとしたとき、王経を呼んだよ。でも、王経は従わないで、こう言ったよ。
「あなたたちは行ってね!」
干寶晉紀曰:成濟問賈充曰:「事急矣。若之何?」充曰:「公畜養汝等,為今日之事也。夫何疑!」濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。
干宝の『晋紀』によると、成済が賈充にこう尋ねたよ。
「事態はとても追い詰められているけど、どうすればいいの?」
賈充はこう答えたよ。
「公(司馬昭)があなたたちを育ててきたのは、まさに今日のためだよ。何をためらうの!」
成済はこう言ったよ。
「わかった」
そして、戈を抜いて曹髦の行く手をふさいで襲いかかったんだ。
魏氏春秋曰:戊子夜,帝自將宂從僕射李昭、黃門從官焦伯等下陵雲臺,鎧仗授兵,欲因際會,自出討文王。會雨,有司奏却日,遂見王經等出黃素詔於懷曰:「是可忍也,孰不可忍也!今日便當決行此事。」入白太后,遂拔劒升輦,帥殿中宿衞蒼頭官僮擊戰鼓,出雲龍門。賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手劒奮擊,衆莫敢逼。充帥厲將士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩于師。時暴雨雷霆,晦冥。
『魏氏春秋』によると、戊子の日の夜、曹髦は自ら宂従僕射の李昭、黄門の従官の焦伯たちを率いて陵雲台を下りたよ。そして、鎧や武器を取り出して兵たちに授けて、機会を利用して自分で出陣して司馬昭を討とうとしたんだ。
ちょうどそのとき雨が降り出して、役人たちは「日を改めるべきだよ」と上奏したよ。でも、曹髦は黄色い絹に書かれた詔を懐から取り出して、王経たちに見せてこう言ったよ。
「こんなことを、どうして我慢できるの! これに耐えられるなら、耐えられないことなんて何もないよ! 今日こそこのことを決行する!」
そして、曹髦は皇太后に報告して、剣を抜いて車に乗って、宮中で宿直をしていた護衛や、身分の低い役人や召使いたちを率いて戦鼓を打ち鳴らして、雲龍門から出撃したよ。
一方、賈充は宮殿の外から中へ入ってきたんだ。曹髦の軍は散り散りになっちゃった。それでも曹髦は、自分が天子であることを示しながら、自ら剣を振るって戦ったから、誰も近づけなかったんだ。そこで、賈充は将や兵たちを励まして、騎督の成倅の弟の成済が矛を持って進み出たよ。そして、成済は曹髦を刺して、曹髦は軍勢の中で亡くなったんだ。そのとき、激しい雨が吹き荒れて、雷が鳴り響いて、あたりは真っ暗になっていたんだ。
魏末傳曰:賈充呼帳下督成濟謂曰:「司馬家事若敗,汝等豈復有種乎?何不出擊!」倅兄弟二人乃帥帳下人出,顧曰:「當殺邪?執邪?」充曰:「殺之。」兵交,帝曰:「放仗!」大將軍士皆放仗。濟兄弟因前刺帝,帝倒車下。
『魏末伝』によると、賈充は帳下督の成済を呼んでこう言ったよ。
「もし司馬家の事業が失敗したら、あなたたちに生き残る道があると思うの? どうして早く出て出撃しないの!」
成倅と成済は配下の兵たちを率いて出撃したよ。そして、振り返ってこう尋ねたよ。
「殺すの? それとも捕らえるの?」
賈充はこう言ったよ。
「殺せ」
戦いが始まると、曹髦は命令してこう言ったよ。
「武器を捨てろ!」
大将軍(司馬昭)の兵たちはみんな武器を捨てたけど、成済と兄弟が前に出て、曹髦を刺したんだ。曹髦は車から地面へ倒れ落ちたよ。
皇太后令曰:「吾以不德,遭家不造,昔援立東海王子髦,以為明帝嗣,見其好書疏文章,兾可成濟,而情性暴戾,日月滋甚。吾數呵責,遂更忿恚,造作醜逆不道之言以誣謗吾,遂隔絕兩宮。其所言道,不可忍聽,非天地所覆載。吾即密有令語大將軍,不可以奉宗廟,恐顛覆社稷,死無面目以見先帝。大將軍以其尚幼,謂當改心為善,殷勤執據。而此兒忿戾,所行益甚,舉弩遙射吾宮,祝當令中吾項,箭親墮吾前。吾語大將軍,不可不廢之,前後數十。
皇太后は命令してこう言ったよ。
「私は徳がなくて、このような不幸な出来事にあってしまったんだ。昔、東海王(曹霖)の子の曹髦を迎えて皇帝として、明帝(曹叡)の後継ぎにしたよ。彼は書物や文章が好きだから、立派な君主に成長してくれることを願っていたの。でも、性格は荒々しくて激しくて、日に日にひどくなっていたんだ。私は何度も叱ったけど、彼はますます怒って、醜く道に外れた言葉を作り出して私を中傷して、とうとう私のいる宮殿と皇帝の宮殿との行き来まで絶ってしまったんだ。彼の言葉はとても聞くに耐えられないし、天地さえも受け入れられないくらいひどいよ。
そこで私はこっそりと大将軍(司馬昭)に命令してこう言ったよ。
『彼を宗廟(先祖の廟)の祭りを受け継ぐ皇帝のままにしておけないよ。国家が滅びてしまったら、私が死んでも前の皇帝たちに顔向けできないよ』
大将軍(司馬昭)はこう言ったよ。
『まだ若いのだから、いつか心を改めてよい人になるだろうね』
こうして何度も彼をかばって支えつづけたよ。でも、この子(曹髦)はますます怒って、その行いはどんどんひどくなったんだ。とうとう弩(強力な弓)を持ち出して、遠くから私の宮殿へ向けて矢を放って、祈ってこう言ったよ。
『この矢が首に当たるように』
その矢は、実際に私の目の前へ落ちてきたんだ。私は大将軍(司馬昭)に『このままではいけないよ、彼をやめさせよう』とこれまでに数十回も伝えたよ。
此兒具聞,自知罪重,便圖為弒逆,賂遺吾左右人,令因吾服藥,密行酖毒,重相設計。事已覺露,直欲因際會舉兵入西宮殺吾,出取大將軍,呼侍中王沈、散騎常侍王業、(註21)尚書王經,出懷中黃素詔示之,言今日便當施行。吾之危殆,過於累卵。
この子(曹髦)はこれらのことをすべて知って、自分の罪が重いことを悟ると、とうとう反乱を起こそうとたくらんだよ。そして私の周りの人たちにわいろを贈って、私が薬を飲む機会を利用して、こっそり毒を飲ませようとしたんだ。しかも、その計画を何度も相談して準備していたよ。でも、その計画はすでに見つかっていたよ。
すると今度は、その機会に乗じて兵を率いて、西宮へ攻め入って、さらに大将軍(司馬昭)を討ち取ろうとしたんだ。さらに侍中の王沈、散騎常侍の王業、尚書の王経を呼び出して、懐から黄色い絹に書かれた詔を取り出して見せて、『今日、この計画を実行する。』と言ったんだ。私の命は、積み重ねた卵の上に乗っているみたいに危ない状態だったんだ。
吾老寡,豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂,社稷顛覆為痛耳。賴宗廟之靈,沈、業即馳語大將軍,得先嚴警,而此兒便將左右出雲龍門,雷戰鼓,躬自拔刃,與左右雜衞共入兵陣間,為前鋒所害。此兒旣行悖逆不道,而又自陷大禍,重令吾悼心不可言。昔漢昌邑王以罪廢為庶人,此兒亦宜以民禮葬之,當令內外咸知此兒所行。又尚書王經,凶逆無狀,其收經及家屬皆詣廷尉。」
私は年老いて身寄りも少ない身だから、今さら残りの命を惜しいとは思わないよ。ただ、先帝(曹叡)の遺志を果たせなかったこと、そして国が滅びようとしていることだけが悲しくて、心を痛めているの。でも、幸いにも宗廟(先祖の廟)の神霊のおかげで、王沈と王業がすぐに馬を走らせて大将軍(司馬昭)に知らせたよ。だから、前もって警戒できたよ。
でも、この子(曹髦)はすぐに周りの人たちを率いて雲龍門から出撃して、戦鼓を鳴らして、自ら剣を抜いて、周りの護衛たちと一緒に兵たちの中へ入って、先頭の兵に殺されたんだ。
この子は道にそむいて、人として許されない行いをしたうえに、自ら大きな災いを招いたんだ。そのことは、私の悲しみをもっと深いものにしていて、とても言葉では言い表せないよ。
昔、漢の昌邑王(劉賀)は罪によって一般の人の身分とされたよ。この子(曹髦)も一般の人としての礼で葬るのがいいよ。そして宮中の者も地方の者も、この子がどのような行いをしたのかを、すべて知るようにしてね。それに、、尚書の王経は、反乱に加わるという大きな罪を犯したから、王経とその家族を捕らえて廷尉に引き渡してね」
世語曰:業,武陵人,後為晉中護軍。
『世語』によると、王業は、武陵の出身だよ。その後、晋では中護軍になったんだって。
王として葬られる
庚寅,太傅孚、大將軍文王、太尉柔、司徒沖稽首言:「伏見中令,故高貴鄉公悖逆不道,自陷大禍,依漢昌邑王罪廢故事,以民禮葬。臣等備位,不能匡救禍亂,式遏姦逆,奉令震悚,肝心悼慄。春秋之義,王者無外,而書『襄王出居于鄭』,不能事母,故絕之於位也。今高貴鄉公肆行不軌,幾危社稷,自取傾覆,人神所絕,葬以民禮,誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆,雖存大義,猶垂哀矜,臣等之心實有不忍,以為可加恩以王禮葬之。」太后從之。(註22)
庚寅の日、太傅の司馬孚、大将軍の司馬昭、太尉の王柔、司徒の鄭沖は、頭を地につけてこう言ったよ。
「私たちは、皇太后の命令を見たよ。かつての高貴郷公(曹髦)は道にそむいて、人として許されない行いをして、自ら大きな災いを招いたよ。だから、漢の昌邑王(劉賀)が罪によってやめらせられて、一般の人の身分となった前例にならって、一般の人の礼で葬るよう命じたよ。
私たちは高い役職にあるのに、国の乱れを正すことも、反逆を防ぐこともできなかったんだ。この命令を受けて、恐れと悲しみで胸がいっぱいなの。
『春秋』の教えでは、王の支配は国の内外すべてに及ぶものだよ。『書経』に『襄王が出て鄭へ出て住んだ』と書いてあるのは、母に仕える道を果たせなかったから、王の位を失ったことを示しているからだよ。
漢晉春秋曰:丁卯,葬高貴鄉公于洛陽西北三十里瀍澗之濵。下車數乘,不設旌旐,百姓相聚而觀之,曰:「是前日所殺天子也。」或掩靣而泣,悲不自勝。
『漢晋春秋』によると、丁卯の日、曹髦は洛陽の西北30里にある瀍水と澗水のほとりに葬られたよ。付き従った車は数台しかなくて、旗も立てなかったんだ。民が集まってこれを見て、こう言ったよ。
「これは先日殺された天子だ」
ある人は顔を覆って涙を流して、悲しみにたえられなかったんだ。
臣松之以為若但下車數乘,不設旌旐,何以為王禮葬乎?斯蓋惡之過言,所謂不如是之甚者。
裴松之はこう考えるよ。もし本当に付き従う車が数台しかなくて旗も立てられなかったのなら、どうしてそれを『王の礼で葬った』と言えるの? これは悪く言おうとして、事実以上に大きく書いていて、そこまでひどくはなかったという話だろうね。
使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道鄉公璜嗣明帝後。辛卯,羣公奏太后曰:「殿下聖德光隆,寧濟六合,而猶稱令,與藩國同。請自今殿下令書,皆稱詔制,如先代故事。」
使持節で中護軍を代行する中壘将軍の司馬炎が使者として、常道郷公の曹璜を北へ迎えたよ。そして、曹叡の後継ぎとしたよ。辛卯の日、臣下たちは皇太后に上奏してこう言ったよ。
「殿下の聖人としての徳はすごく輝いて、天下を安定へ導いているよ。なのに、まだ命令を出すときに『令』と呼ばれているのでは、諸侯の国の命令と同じ扱いになってしまうんだ。どうか今後は、殿下が出す文書は、すべて昔からの決まりにならって、『詔』と呼ぶことを許してね」
癸卯,大將車固讓相國、晉公、九錫之寵。太后詔曰:「夫有功不隱,周易大義,成人之美,古賢所尚,今聽所執,出表示外,以章公之謙光焉。」
癸卯の日、大将軍の司馬昭は、相国、晋公、九錫を固く辞退したよ。皇太后は詔を下してこう言ったよ。
「功績のある者の功績を隠さないことは、『周易』の大切な教えだよ。それに、人の立派な行いを成し遂げさせることは、昔の賢人たちが大切にしてきたことでもあるんだ。今は、あなたが辞退の意思を貫くことを認めて、そのことを広く内と外に知らせて、あなたの謙虚な美徳を明らかにするよ」
事件の関係者は消す
戊申,大將軍文王上言:「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;懼兵刃相接,即勑將士不得有所傷害,違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟,橫入兵陣傷公,遂至隕命;輙收濟行軍法。臣聞人臣之節,有死無二,事上之義,不敢逃難。前者變故卒至,禍同發機,誠欲委身守死,唯命所裁。然惟本謀乃欲上危皇太后,傾覆宗廟。臣忝當大任,義在安國,懼雖身死,罪責彌重。欲遵伊、周之權,以安社稷之難,即駱驛申勑,不得迫近輦輿,而濟遽入陣間,以致大變。哀怛痛恨,五內摧裂,不知何地可以隕墜?科律大逆無道,父母妻子同產皆斬。濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪。」(註23)
戊申の日、大将軍の司馬昭はこう言ったよ。
「高貴郷公(曹髦)は自ら従者や護衛の兵を率いて、剣を抜いて、鐘や太鼓を鳴らしながら、私のいる場所へ攻め寄せたんだ。私は兵たちが戦うことを恐れて、すぐに将や兵に『決して傷つけないで。この命令にそむいた者は、軍法によって処罰するよ』と命令したよ。でも、騎督の成倅の弟で、太子舎人(太子の身近に仕える者)の成済は、勝手に戦いの中へ入って、高貴郷公を傷つけて、だから高貴郷公は命を落としたんだ。そこで、すぐに成済を捕らえ、軍法に従って処罰したよ。
私は、臣下としての務めとは、主君のためには命を捨てても裏切る心はないし、主君に仕える者は危険から逃げてはならないものだと聞いているよ。あのとき突然事件が起こって、災いは一瞬のうちに迫ってきたんだ。私は本来なら、自分の命を差し出して主君を守って、死ぬことになっても陛下の命令に従うつもりだったよ。でも、高貴郷公の本当の計画は、皇太后を危険にさらして、宗廟(先祖の廟)を滅ぼすことだったんだ。
私は大きな任務を任されている者として、国を守る義務があるよ。もし私自身が死んだとしても、そのために国家を危険にさらせば、その責任はさらに重くなるんだ。そこで私は、伊尹や周公みたいに特別な手段を使って国を守った例にならって、国家の危機を救おうとしたよ。だから、何度も命令を伝えて『決して天子の車に近づいてはいけない』と言い聞かせたよ。でも、成済は突然戦いの中へ入り込んで、このような大きな事件を引き起こしたんだ。私は悲しみと痛みに耐えられなくて、体が引き裂かれる思いなんだ。いったい私はどこへ身を投げ出せばいいのかわからないの。
法では、大逆という重い罪を犯した者は、その本人だけでなくて、父、母、妻や子、兄弟まですべて斬罪にすると定められているよ。成済は残忍で道にそむいて、国家を乱して、法を踏みにじったんだ。その罪は、どれほど厳しく罰してもなお足りないくらいだよ。そこですぐに侍御史に命令して、成済の家族を捕らえて廷尉に引き渡して、その罪を正式に裁かせたよ」
君主を暗殺したことを知らないかのように、逆に賊を討った功績をたたえているみたいだ……。
魏氏春秋曰:成濟兄弟不即伏罪,袒而升屋,醜言悖慢;自下射之,乃殪。
『魏氏春秋』によると、成済兄弟は、すぐに罪を認めなくて、上半身の衣服を脱いで、屋根の上へ登って、乱暴で道にそむく言葉を大声で叫び続けたんだ。そこで下から矢を射かけられて、二人は殺されたんだ。
太后詔曰:「夫五刑之罪,莫大於不孝。夫人有子不孝,尚告治之,此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義,以謂濟不得便為大逆也。然大將軍志意懇切,發言惻愴,故聽如所奏。當班下遠近,使知本末也。」(註24)
皇太后は詔を下してこう言ったよ。
「五刑の中で、最も重いものは親に対する孝がないことだよ。普通の人でも、子が親に孝行せず、不孝な行いをしたら、その親は役所へ訴えて裁いてもらうよ。どうしてこの子(曹髦)が人の上に立つ君主でいられるの? 私は一人の女性で、大きな道理について知識が足りないけど、成済をすぐに大逆の罪にはできないと考えていたんだ。でも、大将軍(司馬昭)は、その考えがすごく真剣で、その言葉にも深い悲しみがこもっていたの。そこで私は、その上奏を受け入れるよ。この詔を朝廷から地方まで広く伝えて、この事件の初めから終わりまでの経緯を、すべての人々に知らせてね」
世語曰:初,青龍中,石苞鬻鐵於長安,得見司馬宣王,宣王知焉。後擢為尚書郎,歷青州刺史、鎮東將軍。甘露中入朝,當還,辭高貴鄉公,留中盡日。文王遣人要令過。文王問苞:「何淹留也?」苞曰:「非常人也。」明日發至滎陽,數日而難作。
『世語』によると、青龍の年号の間(233~237年)、石苞は長安で鉄を売っていたよ。司馬昭に会う機会があって、司馬昭は石苞の才能を見抜いたよ。その後、石苞は特別に選ばれて尚書郎になって、青州刺史、鎮東将軍を歴任したよ。
甘露の年号の間(256~260年)、石苞は曹髦にあいさつするために都に入ったよ。戻ることになって、曹髦に別れのあいさつをしたけど、宮中に長い間とどまって、一日中退出しなかったんだ。司馬昭は使者を送って、石苞を自分のもとへ立ち寄らせたよ。司馬昭は石苞にこう尋ねたよ。
「どうしてそんなに長く宮中にいたの?」
石苞はこう答えたよ。
「ただ者ではない人だからだよ」
翌日、石苞は出発して、滎陽に着いたよ。数日後に曹髦の事件が起こったんだ。
六月癸丑,詔曰:「古者人君之為名字,難犯而易諱。今常道鄉公諱字甚難避,其朝臣博議改易,列奏。」
六月、癸丑の日、詔を下してこう言ったよ。
「昔の君主は、その名を人がむやみに口にしたり書いたりしないようにするため、避けやすくて、それに諱として扱いやすい名前を付けるのが慣わしだったよ。でも今、常道郷公の曹璜の諱は避けて使わないようにすることがすごく難しいんだ。そこで朝廷の役人たちは十分に話し合って、別の字に改める案をまとめて上奏してね」
陳寿の評
「魏書陳留王紀」に併せて記載したよ。
「魏書高貴郷公紀」は以上だよ!


