はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書高貴郷公紀」 をゆるゆる翻訳するよ!
曹髦 について書かれているよ!
曹氏は帝または王と書かれるけど、司馬昭さんの皇帝暗殺事件が絡むから曹髦さんだけ「高貴郷公」と書かれているんだね。
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
出典
三國志 : 魏書四 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

曹髦は学問が得意
高貴鄉公諱髦,字彥士,文帝孫,東海定王霖子也。正始五年,封歘縣高貴鄉公。少好學,夙成。齊王廢,公卿議迎立公。十月己丑,公至于玄武館,羣臣奏請舍前殿,公以先帝舊處,避止西廂;羣臣又請以法駕迎,公不聽。
高貴郷公の名は髦で、字は彦士だよ。彼は曹丕の孫で、東海定王の曹霖の子だよ。
正始五年(244年)、歘県の高貴郷公に封ぜられたよ。彼は幼い頃から学問が好きで、早くから才能を発揮したんだって。斉王(曹芳)が廃位された後、公卿たちは彼を迎えて帝に立てると議論したよ。
十月、己丑の日、彼は玄武館に着いて、臣下たちは前殿に居るように求めたけど、曹髦は先帝(曹芳)のいた場所だからと言って避けて、西廂に留まったよ。臣下たちはまた、法駕(天子の車)で曹髦を迎えようと求めたけど、彼はそれに応じなかったんだ。
庚寅,公入于洛陽,羣臣迎拜西掖門南,公下輿將荅拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人臣也。」遂荅拜。至止車門下輿。左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后徵,未知所為!」遂步至太極東堂,見于太后。其日即皇帝位於太極前殿,百寮陪位者欣欣焉。(註1)
庚寅の日、曹髦は洛陽に入ったよ。臣下たちは西掖門の南で迎えて拝礼したから、彼は輿を降りて拝礼しようとしたの。案内役はこう伝えたよ。
「天子は儀式では拝礼しないんだよ」
でも、曹髦はこう言ったよ。
「私は人の臣下だ」
こうして、拝礼したよ。
止車門に着いて、輿を降りたんだ。側近たちはこう言ったよ。
「古い礼では輿に乗って入るべきだよ」
曹髦はこう言ったよ。
「私は皇太后に呼ばれて来たけど、何のためかはまだ知らないんだ」
そして、歩いて太極東堂に着いて、太后に面会したよ。その日、皇帝に即位して、太極前殿で百官(官僚)が側にいて、みんな喜びに満ちあふれていたんだって。
魏氏春秋曰:公神明爽儁,德音宣朗。罷朝,景王私曰:「上何如主也?」鍾會對曰:「才同陳思,武類太祖。」景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」
『魏氏春秋』によると、曹髦は賢くて爽やかで、明るくてよく通る声をしているんだって。彼が朝廷を出た後、司馬師はこっそりとこう尋ねたよ。
「あなたは彼をどう思う?」
鍾会はこう答えたよ。
「その才能は陳思(曹植)と同じで、武勇は太祖(曹操)に並ぶくらいだよ」
司馬師はこう言ったよ。
「あなたの言うとおりなら、国家の幸せになるね」
詔曰:「昔三祖神武聖德,應天受祚。齊王嗣位,肆行非度,顛覆厥德。皇太后深惟社稷之重,延納宰輔之謀,用替厥位,集大命于余一人。以眇眇之身,託于王公之上,夙夜祗畏,懼不能嗣守祖宗之大訓,恢中興之弘業,戰戰兢兢,如臨于谷。
詔を下してこう言ったよ。
「昔、三祖(曹操、曹丕、曹叡)は、その優れた武の素晴らしい徳に天命が応じて、天命を受けて帝位を継いだよ。でも、斉王(曹芳)が継いでから、節度を失った行いを重ねて、その徳を覆しちゃった。皇太后は国家の重さを深く思って、宰相や臣下たちの意見を受け入れて、その位を退けて、天命を私に託したんだ。私は卑しい身にもかかわらず、王や公たちの上に立つこととなったよ。昼も夜も、祖先の大きな教えを守って、中興の偉業を引き継ぐことができないのではないかと恐れているんだ。その心は、谷に臨むみたいに戦々恐々としているの。
今羣公卿士股肱之輔,四方征鎮宣力之佐,皆積德累功,忠勤帝室;庶憑先祖先父有德之臣,左右小子,用保乂皇家,俾朕蒙闇,垂拱而治。蓋聞人君之道,德厚侔天地,潤澤施四海,先之以慈愛,示之以好惡,然後教化行於上,兆民聽於下。朕雖不德,昧於大道,思與宇內共臻茲路。書不云乎:『安民則惠,黎民懷之。』」大赦,改元。減乘輿服御後宮用度,及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。
今、公卿たちが君主を支える臣下として、四方の征討や鎮守に尽力してくれる助けて、みんな徳を積んで功を重ねて、忠実に帝室に仕えているよ。先祖や父祖の代から仕える徳のある臣下たちと、側近の若い者たちの助けを得て、皇家を守って安らかに治めて、私が道理に暗くても、国を治めることができるようにしたいと考えているよ。君主たる者の道とは、徳を厚くして天地と並ぶくらいとして、その潤いを四海に施すものだと聞いているよ。まず慈愛を民に示して、好むべきことと嫌うべきことを示して、教えて導くと、民がそれを受け入れるようになるんだ。私は徳がなくて、正しい道理に暗い者だけど、天下の人たちと一緒にこの道に達したいと願っているんだ。『書経』にも『民を安定させるには恩恵を施す。そうすれば民は心からそれを慕う』とあるよ」
そして、大赦を行って、年号を改めたよ。車や衣服、後宮を減らして、尚方の百工が派手で無益なものを作ることをやめさせたよ。
正元元年冬十月壬辰,遣侍中持節分適四方,觀風俗,勞士民,察冤枉失職者。癸巳,假大將軍司馬景王黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劒履上殿。戊戌,黃龍見于鄴井中。甲辰,命有司論廢立定策之功,封爵、增邑、進位、班賜各有差。
正元元年(254年)、冬の十月、壬辰の日、侍中に節を授けて、四方を巡らせて、風紀を観察して、民を労って、無実の罪で職を失った者を調べさせたよ。癸巳の日、大将軍の司馬師に黄鉞を渡して、朝廷に入るときに小走りをしないで、上奏するときに名前を呼ばないで、剣を帯びて殿に上るようにしたよ。戊戌の日、黄龍が鄴の井戸の中に現れたんだって。甲辰の日、役人に、皇帝の廃立の功績を論じさせて、爵位を授けて、邑を増やして、地位を昇進させて、それぞれの功績に応じて賞を与えると命令したよ。
毌丘倹・文欽の乱
二年春正月乙丑,鎮東將軍毌丘儉、楊州刺史文欽反。戊寅,大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。閏月己亥,破欽於樂嘉。欽遁走,遂奔吳。甲辰,安風津都尉斬儉,傳首京都。(註2)
正元二年(255年)、春の正月、乙丑の日、鎮東将軍の毌丘倹と楊州刺史(州の長官)の文欽が反乱を起こしたんだ。戊寅の日、大将軍の司馬師が彼らを征討したよ。癸未の日、車騎将軍の郭淮が亡くなったんだ。
閏月、己亥の日、楽嘉で文欽を破ったよ。文欽は逃げて、呉に亡命したんだ。甲辰の日、安風津の都尉が毌丘倹を討ち取って、その首を都に届けたよ。
世語曰:大將軍奉天子征儉,至項;儉旣破,天子先還。
『世語』によると、司馬師は曹髦を奉じて毌丘倹を攻めて、項に着いたよ。毌丘倹がすでに負けていて、曹髦は先に帰ったよ。
臣松之檢諸書都無此事,至諸葛誕反,司馬文王始挾太后及帝與俱行耳。故發詔引漢二祖及明帝親征以為前比,知明帝已後始有此行也。案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史,璠、頒出為官長,溥,鄱陽內史。璠撰後漢紀,雖似未成,辭藻可觀。溥著江表傳,亦粗有條貫。惟頒撰魏晉世語,蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以為晉書,其中虛錯如此者,往往而有之。
裴松之が調べたところ、他の書にはこのような記述は見当たらなかったんだ。諸葛誕の反乱の時に、司馬昭が初めて太后と曹髦を連れて行動しただけだとわかるよ。だから、詔を出して漢の二祖(劉邦と劉秀)や明帝の親征を引き合いに出して前例としたことから、明帝より後にこのような行動が始まったことがわかるよ。
張璠、虞溥、郭頒はみんな晋の令史(記録官)で、張璠と郭頒は地方の長として赴任して、虞溥は鄱陽の役人だったんだ。張璠が書いた『後漢紀』は完成していないみたいだけど、その文彩は観るに値するよ。虞溥の『江表伝』も、大まかに整理されて記述されているね。でも、郭頒の『魏晋世語』は文彩が乏しくて、全く音韻が整っていないから、最もよくないんだ。それでも、時々異なる出来事が記されているから、世間に広まっているよ。干宝や孫盛たちの文章も『晋書』にたくさん取り入れられたけど、その中には偽りや誤りがよく見受けられるんだ。
壬子,復特赦淮南士民諸為儉、欽所詿誤者。以鎮南將軍諸葛誕為鎮東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳,以衞將軍司馬文王為大將軍,錄尚書事。
壬子の日、淮南の民で、毌丘倹や文欽の裏切りに巻き込まれた人たちを許したよ。鎮南将軍の諸葛誕を鎮東大将軍に任命したよ。
司馬師が許昌で亡くなったんだ。二月、丁巳の日、衛将軍の司馬昭を大将軍に任命して、尚書の政務をまとめさせたよ。
甲子,吳大將孫峻等衆號十萬至壽春,諸葛誕拒擊破之,斬吳左將軍留贊,獻捷于京都。三月,立皇后卞氏,大赦。夏四月甲寅,封后父卞隆為列侯。甲戌,以征南大將軍王昶為驃騎將軍。秋七月,以征東大將軍胡遵為衞將軍,鎮東大將軍諸葛誕為征東大將軍。
甲子の日、呉の大将の孫峻たちが10万の兵を率いて寿春に着いたよ。諸葛誕がこれを迎え撃って、撃破して、呉の左将軍の留賛を討ち取って、手に入れた捕虜や財宝を都に届けたよ。三月、皇后に卞氏を立てて、大赦を行ったよ。夏の四月、甲寅の日、皇后の父の卞隆を列侯に封じたよ。甲戌の日、征南大将軍の王昶を驃騎将軍に任命したよ。秋の七月、征東大将軍の胡遵を衛将軍に、鎮東大将軍の諸葛誕を征東大将軍に任命したよ。
狄道の戦い
八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭冲、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。
八月、辛亥の日、蜀の大将軍の姜維が狄道を攻めたよ。雍州刺史(州の長官)の王経は洮西で戦ったけど、ひどく敗れて狄道城に戻って守りを固めたんだ。辛未の日、長水校尉の鄧艾を安西将軍に任命して、征西将軍の陳泰と一緒に姜維に対抗させたよ。戊辰の日、さらに太尉の司馬孚を後続として送ったんだ。九月、庚子の日、曹髦は『書経』を学び終えて、講義を担当した司空の鄭冲や侍中の鄭小同たちにそれぞれ賞を与えたよ。甲辰の日、姜維は退却したよ。
冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,冤魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」
冬の十月、詔を下してこう言ったよ。
「私は徳が薄くて、敵を防げなくて、蜀の賊が境を侵したんだ。洮西の戦いでは負けちゃって、将や兵が数千人も亡くなったの。ある者は戦場で命を失って魂が戻らないし、ある者は敵に捕らえられて異国で苦しんでいるんだ。これを深く痛んで、心から悲しんでいるよ。それぞれの郡の典農、安撫夷の二護軍はそれぞれ軍の役人たちに命令して、その家族を慰めて、1年間税を免除してね。力戦して亡くなった人は、前の制度どおりの扱いを受けて、漏れがないようにしてね」
十一月甲午,以隴右四郡及金城連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陣戰亡,或沉溺洮水,骸骨不収,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鈎求屍喪,収斂藏埋,以慰存亡。」
十一月、甲午の日、隴右の4つの郡と金城は、毎年敵の攻撃を受けていて、一部の者は反乱や降伏をしちゃったんだ。彼らの親族は本土に残って不安を抱えていたから、特別に許したよ。
癸丑の日、詔を下してこう言ったよ。
「前の洮西の戦いに参加した者で、将や役人、兵や民が戦場で命を失ったり、洮水に溺れたり、遺体が収容されないで原野に捨てられていることを、私はいつも心から痛み悲しんでいるの。征西将軍(陳泰)と安西将軍(鄧艾)に命令して、それぞれの部下に戦場や川の付近で遺体を捜索させて、収容して埋葬して、亡くなった者も残された者も慰めてね」
臣下たちと議論する
甘露元年春正月辛丑,青龍見軹縣井中。乙巳,沛王林薨。(註3)
甘露元年(256年)、春の正月、辛丑の日、青龍が軹県の井戸の中で見られたんだって。乙巳の日、沛王の曹林が亡くなったんだ。
魏氏春秋曰:二月丙辰,帝宴羣臣於太極東堂,與侍中荀顗、尚書崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令虞松等並講述禮典,遂言帝王優劣之差。帝慕夏少康,因問顗等曰:「有夏旣衰,后相殆滅,少康收集夏衆,復禹之績,高祖拔起隴畒,驅帥豪儁,芟夷秦、項,包舉宇內,斯二主可謂殊才異略,命世大賢者也。考其功德,誰宜為先?」
『魏氏春秋』によると、二月、丙辰の日、曹髦は太極東堂で臣下たちを宴会に招いて、侍中の荀顗、尚書の崔賛、袁亮、鍾毓、給事中で中書令の虞松たちと一緒に礼典について話し合ったよ。そして、帝王の優劣の違いについて議論したよ。曹髦は夏の少康を慕って、荀顗たちにこう尋ねたよ。
「夏が衰えて、後継ぎもほとんど滅びかけていた時、少康は夏の人たちを集めて、禹の功績を復活させたよ。漢の高祖(劉邦)は田畑の地から立ち上がって、豪傑たちを率いて秦や項羽を打ち破って、天下を統一したよね。彼ら2人の君主はまさに並外れた才能と卓越した戦略を持っていて、時代を導いた偉大な賢者と言えるね。彼らの功績を比べて、どちらが優れていると思う?」
顗等對曰:「夫天下重器,王者天授,聖德應期,然後能受命創業。至於階緣前緒,興復舊績,造之與因,難易不同。少康功德雖美,猶為中興之君,與世祖同流可也。至如高祖,臣等以為優。」
荀顗たちはこう答えたよ。
「天下という重い責を担う王者は、天命によって授けられるものだよ。聖人としての徳が時に応じて発揮されたときにこそ、天命を受けて王業を創始することができるよ。でも、一から新たに築くのと、前の遺産を受け継いで復興させるのとでは、その難易度が異なるんだ。少康の功績は確かに素晴らしいけど、中興の君主として世祖(劉秀)と同じで、衰えた王朝を再興した存在と見なすのがふさわしいよ。一方で、高祖(劉邦)は一から天下を創り上げたから、私たち高祖の方がより優れていると考えるよ」
帝曰:「自古帝王,功德言行互有高下,未必創業者皆優,紹繼者咸劣也。湯、武、高祖雖俱受命,賢聖之分,所覺縣殊。少康、殷宗中興之美,夏啟、周成守文之盛,論德較實,方諸漢祖,吾見其優,未聞其劣;顧所遇之時殊,故所名之功異耳。少康生於滅亡之後,降為諸侯之隷,崎嶇逃難,僅以身免,能布其德而兆其謀,卒滅過、戈,克復禹績,祀夏配天,不失舊物,非至德弘仁,豈濟斯勳?漢祖因土崩之勢,仗一時之權,專任智力以成功業,行事動靜多違聖檢;為人子則數危其親,為人君則囚繫賢相,為人父則不能衞子;身沒之後,社稷幾傾,若與少康易時而處,或未能復大禹之績也。推此言之,宜高夏康而下漢祖矣。諸卿具論詳之。」
曹髦はこう言ったよ。
「古の帝王の功績や徳、言動にはそれぞれ優れた点や劣った点があって、必ずしも国を建てた人がみんな優れているわけではなくて、継承の君主が劣っているわけでもないよ。殷の湯王、周の武王、漢の高祖(劉邦)はみんな天命を受けて帝王となったけど、その賢聖の差は明らかに異なっているよ。少康や殷の宗(武丁)は王朝を中興させた美徳を持っていて、夏の啓や周の成王は文治を守って世が盛んになったよ。もしその徳と実績を論じて、漢の高祖を比べるなら、私は少康の方が優れていると見るよ。決して劣っているとは思えないよ。ただ、彼らが置かれた時代の違いによって、たたえられる功績の種類が異なっているだけなんだ。
少康は滅亡の後の混乱の中に生まれて、諸侯に従う身分にまで落ち込んだけど、逃げ惑いながらどうにか命を繋いだんだ。でも、そのような状況の中でも徳を広めて、遠大な計略を練って、最終的には過や戈の勢力を滅ぼして、禹の功業を復興させたよ。夏の祭祀をふたたび天に祀って、先祖の伝統を失わなかったよ。これがもし高い徳を持つ仁者でなければ、どうしてこれほどの偉業を成し遂げられたの?
一方で、漢の高祖は天下が崩れる混乱の中で、時の権力を利用して、知力と武力に頼って業を成したよ。でも、その言動にはよく聖人の規範に反するものがあったんだ。子としては何度も父母を危険に晒して、君主としては賢い相を幽閉して、父としては子を守れなかったんだ。そして、彼が亡くなった後、国家は傾きかけたよね。もし漢の高祖が少康と同じ時代に生きていたなら、大禹の功績を復興できたのかな? このことを考えれば、少康を高く評価して、漢の高祖をそれより下に置くべきだよ。みんなもこれをさらに詳しく議論してね」
魏を中興したいってことなのかな?
翌日丁巳,講業旣畢,顗、亮等議曰:「三代建國,列土而治,當其衰弊,無土崩之勢,可懷以德,難屈以力。逮至戰國,彊弱相兼,去道德而任智力。故秦之弊可以力爭。少康布德,仁者之英也;高祖任力,智者之儁也。仁智不同,二帝殊矣。詩、書述殷中宗、高宗,皆列大雅,少康功美過於二宗,其為大雅明矣。少康為優,宜如詔旨。」
翌日の丁巳の日、講義が終わると、荀顗や袁亮たちは議論してこう言ったよ。
「三代(夏・殷・周)は国を建てると、諸侯に土地を分け与えて統治したよ。衰えた時でも、決して一気に崩壊するような状況にはならなくて、道徳によって人心を収めることはできても、武力によって屈服させるのは難しかったよ。でも、戦国時代になると、強国が弱国を併呑して、道徳を捨て去って、知や武力だけを頼りにするようになったんだ。秦の乱れは武力で争うことができたよ。少康は徳を広めた仁者の英雄だったし、漢の高祖(劉邦)は武力を使って覇業を成し遂げた点で、智者の傑出した存在だね。仁と智は異なっていて、彼らの本質は明確に違っているよ。『詩経』や『書経』には、殷の中宗(太戊)や高宗(武丁)の事績が大雅として記されているけど、少康の功績は彼らを超えていて、彼が大雅にふさわしいことは明らかだね。だから、少康をより優れた存在とするのは、まさに詔のとおりだね」
贊、毓、松等議曰:「少康雖積德累仁,然上承大禹遺澤餘慶,內有虞、仍之援,外有靡、艾之助,寒浞讒慝,不德于民,澆、豷無親,外內棄之,以此有國,蓋有所因。至於漢祖,起自布衣,率烏合之士,以成帝者之業。論德則少康優,課功則高祖多,語資則少康易,校時則高祖難。」
崔賛、鍾毓、虞松たちは議論してこう言ったよ。
「少康はたしかに徳を積んで、仁を重ねたけど、彼は禹の遺した徳や功徳による幸福を受け継いで、内には虞や仍の助けがあって、外には靡や艾の助けがあったよ。寒浞はひどい人で、民に徳を施さなくて、彼の子の澆や豷は親族の情もなくて、内からも外からも見捨てられていたよ。こうした状況を背景にして少康は王位を回復して、成功には一定の要因があったといえるよ。対して、漢の高祖(劉邦)は庶民から立ち上がって、寄せ集めの兵を率いてついに帝王の業を成し遂げたよ。徳を論じれば少康が優れていて、功績を評価すれば漢の高祖が勝っていて、与えられた環境を比べれば少康は恵まれていて、時を比べれば漢の高祖のほうが難しかったよ」
帝曰:「諸卿論少康因資,高祖創造,誠有之矣,然未知三代之世,任德濟勳如彼之難,秦、項之際,任力成功如此之易。且太上立德,其次立功,漢祖功高,未若少康盛德之茂也。且夫仁者必有勇,誅暴必用武,少康武烈之威,豈必降於高祖哉?但夏書淪亡,舊文殘缺,故勳美闕而罔載,唯有伍員粗述大略,其言復禹之績,不失舊物,祖述聖業,舊章不行,自非大雅兼才,孰能與於此,向令墳、典具存,行事詳備,亦豈有異同之論哉?」於是羣臣咸恱服。
曹髦はこう言ったよ。
「あなたたちは少康は与えられた環境があって、漢の高祖(劉邦)は一から国を創ったと論じているけど、確かにそうだね。でも、三代(夏・殷・周)の時代に徳で功績を成し遂げることがそれほど難しいのか、秦や項羽の争う時代に武力で成功することがそれほど簡単か、まだわからないんだ。
それに、『最上は徳を立てること、その次が功を立てること』とあるように、漢の高祖のすごい功績をあげたけど、少康の徳の高さには及ばないんだ。さらに、仁者は必ず勇があって、暴を誅するには必ず武力を使うよ。少康の武烈の威光が、漢の高祖よりも劣るといえるの?
ただ、夏の記録は失われて、古文も断片的に残るだけなんだ。だから、少康の功績の美しさが完全には伝わっていなくて、記録にも十分に載せられていなくて、伍員(伍子胥)がその大要を簡単に伝えているだけなんだ。その言葉によると、少康は禹の業績を復興して、旧きものを失わないで、聖なる事業を受け継いだとあるよ。少康が大雅と才能を兼ね備えた者でなければ、どうしてこのような偉業を成し遂げられたの? もし古の文献や記録が完全に残っていて、その行動や事績が細かく記されていたなら、このような異論や比較の議論が生じることがあったのかな?」
こうして臣下たちはみんな喜んで納得したよ。
中書令松進曰:「少康之事,去世乆遠,其文昧如,是以自古及今,議論之士莫有言者,德美隱而不宣。陛下旣垂心遠鑒,考詳古昔,又發德音,贊明少康之美,使顯於千載之上,宜錄以成篇,永垂于後。」帝曰:「吾學不博,所聞淺狹,懼於所論,未獲其宜;縱有可采,億則屢中,又不足貴,無乃致笑後賢,彰吾闇昧乎!」於是侍郎鍾會退論次焉。
中書令の虞松は進んでこう言ったよ。
「少康の事績は、遥か昔のことで、その記録も曖昧だよね。だから、古から今まで、これを論じる学者はほとんどいなくて、その徳の美しさも埋もれて世に広まらなかったんだ。陛下(曹髦)は遠い歴史にまで心を巡らせて、古の事跡を詳しく考察して、さらに徳のある言葉を発して、少康の功績の素晴らしさを明らかにしたよ。これによって、彼の名声は千年の時を超えて輝くだろうね。ぜひこの議論を記録に残して、ひとつの書として、永く後世に伝えるべきだよ」
曹髦はこう言ったよ。
「私の学識は広くなくて、聞いたことも浅くて狭いんだ。だから、私の論じるところが的確でないのではないかと心配しているの。たとえ、いくつか参考になる意見が含まれていたとしても、偶然に的を射ることがあったからといって、それが尊ばれるべきものではないよ。後の賢者に笑われて、私の見識の浅さが晒されるのかも!」
こうして、侍郎の鍾会が退いて、議論を整理して記録したよ。
易について質問する
夏四月庚戌,賜大將軍司馬文王衮冕之服,赤舄副焉。
夏の四月、庚戌の日、大将軍の司馬昭に衮冕(天子の礼服)と、赤舄(赤い履物)を贈ったよ。
丙辰,帝幸太學,問諸儒曰:「聖人幽贊神明,仰觀俯察,始作八卦,後聖重之為六十四,立爻以極數,凡斯大義,罔有不備,而夏有連山,殷有歸藏,周曰周易,易之書,其故何也?」
丙辰の日、曹髦は太学に行幸して、儒者たちにこう尋ねたよ。
「聖人は神明の道を奥深く助けて、上を見て地を観察して、八卦を作ったよ。後の聖人たちがこれを発展させて、六十四卦として、爻を立てて数の極みを尽くしたよ。これらの大義はすべて備わっているはず。でも、夏には『連山』、殷には『帰蔵』、周には『周易』があるけど、『易』の書がこのように異なるのは、どうして?」
易博士淳于俊對曰:「包羲因燧皇之圖而制八卦,神農演之為六十四,黃帝、堯、舜通其變,三代隨時,質文各繇其事。故易者,變易也,名曰連山,似山出內雲氣,連天地也;歸藏者,萬事莫不歸藏於其中也。」帝又曰:「若使包羲因燧皇而作易,孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能荅。
易の博士の淳于俊はこう答えたよ。
「包羲(伏羲)は燧皇の図を基にして八卦を作って、神農はそれを六十四卦に展開したよ。黄帝、堯、舜はその変化を通じて理解して、三代(夏・殷・周)は時勢に応じてそれぞれの形を作って、簡素さと華美さを時代に応じて使ったんだ。だから『易』とは、『変化するもの』を意味しているよ。『連山』は、山々が連なって雲気を生じるさまが天地に通じることを表して、『帰蔵』は、あらゆるものがすべてその中に集まることを意味しているんだ」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「もし包羲(伏羲)が燧皇を基にして『易』を作ったなら、どうして孔子は『燧人氏が亡くなって、包羲氏がこれを作った』と言わなかったの?」
淳于俊は答えられなかったんだ。
帝又問曰:「孔子作彖、象,鄭玄作注,雖聖賢不同,其所釋經義一也。今彖、象不與經文相連,而注連之,何也?」俊對曰;「鄭玄合彖、象於經者,欲使學者尋省易了也。」帝曰:「若鄭玄合之,於學誠便,則孔子曷為不合以了學者乎?」俊對曰:「孔子恐其與文王相亂,是以不合,此聖人以不合為謙。」帝曰:「若聖人以不合為謙,則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰:「古義弘深,聖問奧遠,非臣所能詳盡。」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「孔子は『彖伝』や『象伝』を作って、鄭玄は注釈を加えたよ。聖人と賢人であっても、その解釈する経義は同じだよね。でも、今の『彖伝』や『象伝』は経文と直接結びついていなくて、鄭玄の注釈によってつながっているけど、これはどうして?」
淳于俊はこう答えたよ。
「鄭玄が『彖伝』や『象伝』を経文と結びつけたのは、学者が『易経』を学ぶときに、より理解しやすくするためだよ」
曹髦はこう言ったよ。
「もし鄭玄がそれを結びつけて学習が便利になるのなら、どうして孔子は学者のためにそれを結びつけなかったの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「孔子は周の文王の作った『易』と混同されることを恐れたから、結びつけなかったの。これは、聖人が結びつけないことで謙虚さを示したのだと考えるよ」
曹髦はこう言ったよ。
「もし聖人が結びつけないことで謙虚さを示したのなら、どうして鄭玄は謙虚にしなかったの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「古の義は広く深くて、あなたの質問は奥深いものだね。私の知識では詳しく説明しきれるものではないんだ」
帝又問曰:「繫辭云『黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治』,此包羲、神農之世為無衣裳。但聖人化天下,何殊異爾邪?」俊對曰:「三皇之時,人寡而禽獸衆,故取其羽皮而天下用足,及至黃帝,人衆而禽獸寡,是以作為衣裳以濟時變也。」帝又問:「乾為天,而復為金,為玉,為老馬,與細物並邪?」俊對曰:「聖人取象,或遠或近,近取諸物,遠則天地。」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「『易教』の繫辞には『黄帝、堯、舜は服の制度を定めて、天下を治めた』とあるよ。でも、包羲や神農の時代には服の制度はなかったんだ。聖人が天下を治める方法がどうして違うの?」
淳于俊はこう答えたよ。
「三皇の時代は、人が少なくて動物が多かったから、人々はその羽や皮を使うことで生活に十分事足りたんだ。黄帝の時代になると、人が増えて動物が少なくなったから、時代の変化に応じて服の制度を作ったよ」
曹髦はさらにこう尋ねたよ。
「『乾』は天を象徴するものとされているけど、同時に『金』や『玉』、さらには『老馬』をも意味するとされているんだ。これは、小さな物と大きな物が混ざっているように思えるけど、どういうこと?」
淳于俊はこう答えたよ。
「聖人が物の象を取るとき、時に遠くから取ることもあれば、近くから取ることもあるよ。近くから取る場合は身近な物から、遠くから取る場合は天地そのものを象徴とするんだ」
理想の帝
講易畢,復命講尚書。帝問曰:「鄭玄云『稽古同天,言堯同於天也』。王肅云『堯順考古道而行之』。二義不同,何者為是?」博士庾峻對曰:「先儒所執,各有乖異,臣不足以定之。然洪範稱『三人占,從二人之言』。賈、馬及肅皆以為『順考古道』。以洪範言之,肅義為長。」帝曰:「仲尼言『唯天為大,唯堯則之』。堯之大美,在乎則天,順考古道,非其至也。今發篇開義以明聖德,而舍其大,更稱其細,豈作者之意邪?」峻對曰:「臣奉遵師說,未喻大義,至於折中,裁之聖思。」
『易教』の講義が終わって、『書経』の講義に移ったよ。曹髦はこう尋ねたよ。
「鄭玄は『古を考えることは天に従うことで、言うなれば堯は天に従ったのだ』と言って、王粛は『堯は先代の道に従って、それを実行した』と言っているよ。この2つの解釈は異なるけど、どちらが正しいの?」
博士の庾峻は答えたよ。
「先の儒者たちの見解はそれぞれ異なっていて、私にはどちらが正しいかを決められないんだ。でも、『書経』の洪範には『3人が占って、(合致した)2人の意見に従う』とあるよ。賈逵、馬融、そして王粛も『先代の道に従った』と解釈しているよ。洪範に従うなら、王粛の解釈が正しいと考えるよ」
曹髦はこう言ったよ。
「仲尼(孔子)『天だけが大で、堯はその道に従った』と言っているよ。堯の優れた美徳は天に従ったところで、先代の道に従うことは、その道の最も素晴らしい部分ではないんだ。今、経典を開いて聖徳を明らかにしようとする時に、その最も重要な部分を外して、細かいことに触れるのは、作者の意図に反するのではないかな?」
庾峻はこう答えたよ。
「私は師の教えを守って、まだ大義を理解していないから、この問題については中庸を保って、あなたの思索にお任せするね」
次及四嶽舉鯀,帝又問曰:「夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,思無不周,明無不照,今王肅云『堯意不能明鯀,是以試用』。如此,聖人之明有所未盡邪?」峻對曰:「雖聖人之弘,猶有所未盡,故禹曰『知人則哲,惟帝難之』,然卒能改授聖賢,緝熈庶績,亦所以成聖也。」
四岳が鯀を推挙する場面に移ると、曹髦はまた尋ねたよ。
「人の上に立つ人は、天地とその徳を合わせて、日月とその光を同じくするものだよ。思慮は行き渡らないところがなくて、明察は照らさないところがないんだって。今、王粛は『堯は鯀を正しく理解できなかったから、試しに使った』と言っているよ。このように考えると、聖人の明察も完全ではないの?」
庾峻はこう答えたよ。
「たとえ聖人の道が広大でも、それでもすべてを知り尽くすことはできないよ。だから禹は『人を知ることが聡明だけど、帝もそれをするのは難しい』と言ったの。でも、堯は最終的には賢者に位を譲って、たくさんの良い政治をまとめ上げたことこそが、聖人としての完成でもあるよ」
帝曰:「夫有始有卒,其唯聖人。若不能始,何以為聖?其言『惟帝難之』,然卒能改授,蓋謂知人,聖人所難,非不盡之言也。經云:『知人則哲,能官人。』若堯疑鯀,試之九年,官人失叙,何得謂之聖哲?」峻對曰:「臣竊觀經傳,聖人行事不能無失,是以堯失之四凶,周公失之二叔,仲尼失之宰予。」
曹髦はこう言ったよ。
「物事には始めがあって、終わりがあるよ。それを成し遂げるのは聖人だけだよ。もし最初から誤るようでは、どうして聖人と言えるの? 『帝も人を知ることは難しい』と言っているけど、最終的には正しく人を選び直したのだから、これは『人を知ることが聖人にとって難しい』という意味で、『聖人の知が尽くされない』という意味ではないよ。経典には『人を知ることが聡明で、それによって適切に官職を授けられる』とあるよ。もし堯が鯀を疑って、9年も試し続けた結果、人の任命に失敗したなら、どうして聖人の聡明さを備えていると言えるの?」
庾峻はこう答えたよ。
「私が経書とその注釈書を調べたところ、聖人であっても失敗が全くないわけではないよ。だから堯は四凶(共工・驩兜・鯀・三苗)を見誤って使ったし、周公旦は二叔(管叔鮮、蔡叔度)を誤って、仲尼(孔子)は宰予(宰我)を誤って使ったよね」
帝曰:「堯之任鯀,九載無成,汨陳五行,民用昏墊。至於仲尼失之宰予,言行之間,輕重不同也。至於周公、管、蔡之事,亦尚書所載,皆博士所當通也。」峻對曰:「此皆先賢所疑,非臣寡見所能究論。」
曹髦はこう言ったよ。
「堯が鯀を使ったけど、9年の間に成果を上げられなくて、五行の秩序を乱して、民は苦しんだよ。仲尼(孔子)が宰予を誤ったとしても、それは単に言動の違いで、同列に論じるべきではないんだ。周公旦や管叔鮮、蔡叔度の件については、『書経』にも記されていて、博士たちはみんなもっと理解しているべきだよね」
庾峻はこう答えたよ。
「これらはすべて古の賢者たちの間でも疑問に思ったことだから、私のような見識の浅い者では結論を出せるものではないんだ」
次及「有鰥在下曰虞舜」,帝問曰:「當堯之時,洪水為害,四凶在朝,宜速登賢聖濟斯民之時也。舜年在旣立,聖德光明,而乆不進用,何也?」峻對曰:「堯咨嗟求賢,欲遜己位,嶽曰『否德忝帝位』。堯復使嶽揚舉仄陋,然後薦舜。薦舜之本,實由於堯,此蓋聖人欲盡衆心也。」帝曰:「堯旣聞舜而不登用,又時忠臣亦不進達,乃使獄揚仄陋而後薦舉,非急於用聖恤民之謂也。」峻對曰:「非臣愚見所能逮及。」
次に「虞舜が独り身の下にいる」の部分に入ると、曹髦はこう尋ねたよ。
「堯の時代、大洪水が民を苦しめて、四凶が朝廷にいたんだ。このような状況では、賢者をすぐに登用して、民を救うべき時だったはずだよね。舜はすでに成人して、その聖なる徳は光輝いていたのに、どうして長い間登用されなかったの?」
庾峻はこう答えたよ。
「堯は賢者を求めて嘆いて、自ら位を譲ろうとしたよ。でも、四岳は『徳が帝位にふさわしくない』と言ったよ。堯はふたたび四岳に世に埋もれた賢者を探し出すよう促して、舜を推薦させたよ。舜を推薦したのは堯自身で、聖人が人々の総意を尽くそうとしたためだろうね」
曹髦はこう言ったよ。
「堯は舜を知っていたのにすぐに使わなかったし、忠臣たちもすぐに選ばれなかったんだ。さらに、わざわざ四岳に隠れた賢者を探し出させてから推薦させるなんて、聖人を急いで使って民を救おうとしたやり方とは言えないよね?」
庾峻はこう答えたよ。
「それは私の浅学では及ばないんだ」
曹髦さんの質問攻撃! 曹芳さんのときはこういう勉強&討論好きアピールは無かったね。こんな勤勉な帝を誰かさんはひどいね~みたいな?
博士たちは王粛さんに気を遣っているのかな。
徳について
於是復命講禮記。帝問曰:「『太上立德,其次務施報』。為治何由而教化各異;皆脩何政而能致於立德,施而不報乎?」博士馬照對曰:「太上立德,謂三皇五帝之世以德化民,其次報施,謂三王之世以禮為治也。」帝曰:「二者致化薄厚不同,將主有優劣邪?時使之然乎?」照對曰:「誠由時有樸文,故化有薄厚也。」(註4)(註5)
続いて、ふたたび『礼記』の講義を命令したよ。曹髦がこう尋ねたよ。
「『最上は徳を立てることで、その次は施して報いを求めることだ』とあるけど、政治をするのに、どうして教えて導く方法が異なるの? どんな政策を修めれば、徳を立てて、施しても報いを求めない境地に至るの?」
博士の馬照はこう答えたよ。
「『古代は徳を立てる』とは、三皇や五帝の時代が徳をもって民を導いたことを指しているよ。『その次は施して報いを求める』とは、三王の時代(夏・殷・周)が礼をもって治めたことを指しているの」
曹髦はこう言ったよ。
「この2つの違いは、深いか浅いかの差があるけど、それは統治者の優劣によるものなのか、それとも時代の違いによるものなの?」
馬照はこう答えたよ。
「そのとおりで、時代には純朴な時期と文飾を重んじる時期があって、だから深いか浅いかの違いが生じるの」
帝集載帝自敘始生禎祥曰:「昔帝王之生,或有禎祥,蓋所以彰顯神異也。惟予小子,支胤末流,謬為靈祇之所相祐也,豈敢自比於前喆,聊記錄以示後世焉。其辭曰:惟正始三年九月辛未朔,二十五日乙未直成,予生。于時也,天氣清明,日月暉光,爰有黃氣,烟熅於堂,照曜室宅,其色煌煌。相而論之曰:未者為土,魏之行也;厥日直成,應嘉名也;烟熅之氣,神之精也;無災無害,蒙神靈也。齊王不弔,顛覆厥度,羣公受予,紹繼皇祚。以眇眇之身,質性頑固,未能涉道,而遵大路,臨深履冰,涕泗憂懼。古人有云,懼則不亡。伊予小子,曷敢怠荒?庶不忝辱,永奉烝甞。」
曹髦が自身の誕生にまつわるめでたい予兆について書き記したものにはこうあるよ。
「昔は帝王が生まれると、めでたい予兆がよく見られるんだって。神秘的な異変を明らかにするためだよ。でも、私の身はただの末裔で、誤って神々の加護を受けただけなんだ。どうして、かつての賢人たちと自らを比べることができるの? ただ、後の世のために、次のとおり記録を残すだけだよ。
正始三年(242年)、九月、辛未の朔、二十五日、乙未の直成に私は生まれたの。その時、天は清らかに晴れ渡っていて、日月は輝いて、さらに黄気が堂に満ちていて、煙のように立ち込めて室を照らして、その光はきらきらと輝いていたんだって。それを占って論じると、『未』は土を意味していて、魏の徳に当たるもので、『直成』の日もまた吉祥の名に応じているよ。煙のような気は神の精で、災いも害もなかったのは、神霊の加護によるものだね。
斉王(曹芳)は道を誤って、その規範を覆したんだ。でも、臣下たちは私を迎えて、皇位を継承することになったよ。私は小さな身でありながら、性質は愚鈍で、まだ道を究めていないし、ただ大道を歩むばかりなんだ。深淵に臨むみたいに、氷の上を歩むみたいに、戦々恐々としていて、涙を流しながら心配してばかりなんだ。古い人は『恐れ慎めば滅びることはない』と言ったよ。私のような小人(つまらない人)がどうして怠るの? 何とか恥をかかないで、永く祭祀を奉じたいと願うばかりだよ」
傅暢晉諸公贊曰:帝常與中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黃門侍郎鍾會等講宴於東堂,并屬文論。名秀為儒林丈人,沈為文籍先生,望、會亦各有名號。帝性急,請召欲速。秀等在內職,到得及時,以望在外,特給追鋒車,虎賁卒五人,每有集會,望輒奔馳而至。
傅暢の『晋諸公賛』によると、曹髦はいつも中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黄門侍郎の鍾会たちと一緒に東堂に集まって、文章の議論を交わしていたよ。裴秀には「儒林丈人」、王沈には「文籍先生」という称号を与えて、司馬望と鍾会にもそれぞれ名称を与えたよ。曹髦はいらいらしやすい性格で、すぐに人を集めようとしたよ。裴秀たちは宮廷の内の職だから、すぐに着くことができたけど、司馬望は宮廷の外の職だったから、特別に追鋒車と虎賁(帝の護衛)の兵5人を与えられて、集会があるとすばやく駆けつけていたんだって。
各地での戦い
五月,鄴及上洛並言甘露降。夏六月丙午,改元為甘露。乙丑,青龍見元城縣界井中。秋七月己卯,衞將軍胡遵薨。
五月、鄴と上洛の両方で甘露が降ったんだって。夏の六月、丙午の日、年号を甘露に改めたよ。乙丑の日、元城県の井戸の中に青い龍が現れたよ。秋の七月、己卯の日、衛将軍の胡遵が亡くなったんだ。
癸未,安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維於上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戰克,無如此者。今遣使者犒賜將士,大會臨饗,飲宴終日,稱朕意焉。」
癸未の日、安西将軍の鄧艾が上邽で、蜀の大将の姜維に大勝利したよ。詔を下してこう言ったよ。
「兵がまだ全力を出す前に、敵の兵を打ち破って、討ち取ったり生け捕りにした者は万を数えるくらいだよ。最近の戦いで、これほどの勝利はなかったよね。今、使者を送って将や兵に労いを与えて、大宴会を開いて一日中飲み食いして、私の気持ちを伝えるよ」
八月庚午,命大將軍司馬文王加號大都督,奏事不名,假黃鉞。癸酉,以太尉司馬孚為太傅。九月,以司徒高柔為太尉。冬十月,以司空鄭沖為司徒,尚書左僕射盧毓為司空。
八月、庚午の日、大将軍の司馬昭に大都督の称号を与えて、名前を呼ばないで上奏して、黄鉞を授けるように命令したよ。癸酉の日、太尉の司馬孚を太傅に任命したよ。九月、司徒の高柔を太尉に任命したよ。冬の十月、司空の鄭沖を司徒に、尚書左僕射の盧毓を司空に任命したよ。
二年春二月,青龍見溫縣井中。三月,司空盧毓薨。
甘露二年(257年)、春の二月、青龍が温県の井戸の中に現れたよ。三月、司空の盧毓が亡くなったんだ。
夏四月癸卯,詔曰:「玄菟郡高顯縣吏民反叛,長鄭熙為賊所殺。民王簡負擔熙喪,晨夜星行,遠致本州,忠節可嘉。其特拜簡為忠義都尉,以旌殊行。」
夏の四月、癸卯の日、詔を下してこう言ったよ。
「玄菟郡高顕県の役人や民が反乱を起こして、県長の鄭熙が賊に殺されちゃった。民の王簡は鄭熙の遺体を担いで、朝から夜まで星明かりの下で急いで、遺体を遠く本州まで届けてくれたよ。この忠節はほめたたえるべきだよね。特別に王簡を忠義都尉に任命して、その優れた行いを表彰するよ」
甲子,以征東大將軍諸葛誕為司空。
甲子の日、征東大将軍の諸葛誕を司空に任命したよ。
五月辛未,帝幸辟雍,會命羣臣賦詩。侍中和逌、尚書陳騫等作詩稽留,有司奏免官,詔曰:「吾以暗昧,愛好文雅,廣延詩賦,以知得失,而乃爾紛紜,良用反仄。其原逌等。主者宜勑自今以後,羣臣皆當玩習古義,脩明經典,稱朕意焉。」
五月、辛未の日、曹髦は辟雍(大学)に行幸して、臣下たちに詩を作るように命令したよ。侍中の和逌や尚書の陳騫たちが詩を作るのに遅れたから、役人が彼らを辞めさせるように上奏したよ。曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「私は無知で、文雅が好きで、詩を作るように広く求めたのは、利得と損失を知るためだったの。でも、このようなもめごとが起きちゃって、良い結果が得られなかったのは残念だな。だから、和逌たちを許すよ。今後、主な担当者は。臣下たちに古典を学んで経典を明らかにするようにしてね。これが私の意向だよ」
諸葛誕の乱
乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。丙子,赦淮南將吏士民為誕所詿誤者。丁丑,詔曰:「諸葛誕造為凶亂,盪覆揚州。昔黥布逆叛,漢祖親戎,隗嚻違戾,光武西伐,及烈祖明皇帝躬征吳、蜀,皆所以奮揚赫斯,震耀威武也。今宜皇太后與朕暫共臨戎,速定醜虜,時寧東夏。」
乙亥の日、諸葛誕が招きに応じなくて、兵を挙げて反乱を起こして、揚州刺史(州の長官)の楽綝を殺したんだ。丙子の日、淮南の将や役人、兵や民で諸葛誕に誤って従った者たちを許したよ。丁丑の日、曹髦は詔を下してこう言ったよ。
「諸葛誕は凶乱を引き起こして、揚州を混乱させたんだ。昔、黥布が反乱を起こすと、漢祖(劉邦)は自分で軍を率いたよ。隗囂が反逆すると、光武帝(劉秀)は西へ出征したよ。それに、烈祖明皇帝(曹叡)は呉と蜀を征伐したよ。これらはみんな、威武を示すためだったよ。今、皇太后と私が一緒に軍を率いて、すぐに反乱を鎮めて、東夏の平和を取り戻すべきなんだ」
己卯,詔曰:「諸葛誕造構逆亂,迫脅忠義,平寇將軍臨渭亭侯龐會、騎督偏將軍路蕃,各將左右,斬門突出,忠壯勇烈,所宜嘉異。其進會爵鄉侯,蕃封亭侯。」
己卯の日、曹髦はふたたび詔を下してこう言ったよ。
「諸葛誕は反乱を引き起こして、忠や義を脅かしたんだ。平寇将軍で臨渭亭侯の龐会と、騎督偏将軍の路蕃は、それぞれの部下を率いて門を斬って脱出して、忠実で勇敢な行動を見せたよ。この功績をたたえて、龐会を郷侯に昇進させて、路蕃を亭侯に封じるよ」
六月乙巳,詔:「吳使持節都督夏口諸軍事鎮軍將軍沙羡侯孫壹,賊之枝屬,位為上將,畏天知命,深鑒禍福,翻然舉衆,遠歸大國,雖微子去殷,樂毅遁燕,無以加之。其以壹為侍中車騎將軍、假節、交州牧、吳侯,開府辟召儀同三司,依古侯伯八命之禮,衮冕赤舄,事從豐厚。」(註6)
六月、乙巳の日、詔を下してこう言ったよ。
「呉の使持節、都督夏口諸軍事、鎮軍将軍で、沙羡侯の孫壱は、敵の皇族の一族で、上将の地位だったよ。でも、彼は天命を畏れて、深く禍いと幸せを理解して、一転して軍を率いて遠くから私たちの国に降伏したの。その行いは、殷を去った微子(微子啓)や、燕を離れた楽毅に劣らないよ。だから、孫壱を侍中、車騎将軍、仮節、交州牧、呉侯に任命して、府を開いて人を招くことを許して、儀同三司としての待遇を与えるよ。そして、古代の侯爵と伯爵が受けた『八命の礼』に基づいて、衮冕(天子の礼服)と赤舄(赤い履物)を授けて、厚くもてなすよ」
臣松之以為壹畏逼歸命,事無可嘉,格以古義,欲蓋而名彰者也。當時之宜,未得遠遵式典,固應量才受賞,足以疇其來情而已。至乃光錫八命,禮同台鼎,不亦過乎!於招攜致遠,又無取焉。何者?若使彼之將守,與時無嫌,終不恱於殊寵,坐生叛心,以叛而愧,辱孰甚焉?如其憂危將及,非奔不免,則必逃死苟存,無希榮利矣,然則高位厚祿何為者哉?魏初有孟達、黃權,在晉有孫秀、孫楷;達、權爵賞比壹為輕,秀、楷禮秩優異尤甚。及至吳平,而降黜數等,不承權輿,豈不緣在始失中乎?
裴松之の見解としては、孫壱は追い詰められて降伏しただけで、特にほめるべきではないよ。古の義に照らし合わせると、名声を隠そうとしてかえって目立たせる結果になったようなものだよね。当時の情勢を考えれば、古典に厳格に従うことは難しかったにしても、彼の才能に応じた賞を与えて、彼が来た意味を理解するくらいで十分だったんだ。なのに、彼に八命の礼を与えて、台鼎(三公)のように厚くするのはやりすぎだよね? それに、遠くの人たちを招き寄せるためにも適っていないよ。どうしてかな?
もし孫壱が将としてその地位を守って、時勢と特に対立することもなかったのなら、特別な扱いに満足して、それを理由に裏切りの心を抱くこともなかったよ。でも、もし彼が危機になって、逃げなければ生き延びられなかったのなら、それはただ死を避けるための行動で、決して栄誉や利益を望んでいたわけではなかったはず。そうだったら、どうして高い位や厚い禄を与える必要があるの?
魏の初期にも孟達や黄権が、晋には孫秀や孫楷がいたよ。孟達や黄権の爵位や賞は孫壱に比べて軽くて、孫秀や孫楷の礼遇はさらに優れていたよ。でも、呉が平定された後、彼らは相次いで降格されて、地位を保てなかったんだ。これは当初の待遇が適切でなかったからではないかな?
甲子,詔曰:「今車駕駐項,大將軍恭行天罰,前臨淮浦。昔相國大司馬征討,皆與尚書俱行,今宜如舊。」乃令散騎常侍裴秀、給事黃門侍郎鍾會咸與大將軍俱行。秋八月,詔曰:「昔燕刺王謀反,韓誼等諫而死,漢朝顯登其子。諸葛誕創造凶亂,主簿宣隆、部曲督秦絜秉節守義,臨事固爭,為誕所殺,所謂無比干之親而受其戮者。其以隆、絜子為騎都尉,加以贈賜,光示遠近,以殊忠義。」
甲子の日、詔を下してこう言ったよ。
「今、天子の車が項に留まっていて、大将軍(司馬昭)が天罰をして、軍を率いて淮浦に進んでいるよ。昔、相国や大司馬が征討に行くときは、尚書も一緒に行ったんだって。今もそれにならうべきだよ」
そこで、散騎常侍の裴秀と給事黄門侍郎の鍾会を大将軍の司馬昭と一緒に行動させたよ。
秋の八月、詔を下してこう言ったよ。
「昔、燕刺王(劉旦)が反逆を企てると、韓誼(韓義)たちが諫めて命を落としたんだ。漢の朝廷は彼らの子を表彰して使ったよ。諸葛誕が乱を引き起こしたけど、主簿の宣隆や部曲督の秦絜は義を守って、諸葛誕に対してきっぱりと抗議したから殺されたんだ。これは、比干(殷の王族)が親族なのに、処刑されたのと同じだね。そこで、宣隆や秦絜の子を騎都尉に任命して、特別に恩賞を与えて、彼らの忠義を広く世に示すよ」
九月,大赦。冬十二月,吳大將全端、全懌等率衆降。
九月、大赦を行ったよ。冬の十二月、呉の大将の全端と全懌たちが軍を率いて降伏したよ。
三年春二月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。三月,詔曰:「古者克敵,收其屍以為京觀,所以懲昏逆而章武功也。漢孝武元鼎中,改桐鄉為聞喜,新鄉為獲嘉,以著南越之亡。大將軍親總六戎,營據丘頭,內夷羣凶,外殄寇虜,功濟兆民,聲振四海。克敵之地,宜有令名,其改丘頭為武丘,明以武平亂,後世不忘,亦京觀二邑之義也。」
甘露三年(258年)、春の二月、大将軍の司馬昭が寿春城を攻め落として、諸葛誕を討ち取ったよ。三月、詔を下してこう言ったよ。
「古代から敵を討ち取った時に、その屍を使って京観(高い山)を作るのは、反逆者を懲らしめて、武功を示すためだよ。漢の武帝(劉徹)は元鼎の年号の間(前116~前111年)、桐郷を聞喜に、新郷を獲嘉に改めて、南越の滅亡を示したよ。司馬昭は自分ですべての軍を統率して、丘頭を拠点として、内は反逆者を平定して、外は敵を滅ぼして、その功績は民を救って、声は四海に響き渡ったよ。敵を討った地には立派な名を付けるべきだから、丘頭を武丘に改めて、武力で乱を平らげたことを示すよ。後の世で忘れないようにすることは、京観と、聞喜と獲嘉にの2つの領地の意義に通じるものだね」
夏五月,命大將軍司馬文王為相國,封晉公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止。
夏の五月、大将軍の司馬昭を相国として、晋公に封じて、領地として8つの郡を与えて、さらに九錫を授けたよ。でも、司馬昭はこれまでに9回も辞退したからやめたよ。
六月丙子,詔曰:「昔南陽郡山賊擾攘,欲劫質故太守東里衮,功曹應余獨身捍衮,遂免於難。余顛沛殞斃,殺身濟君。其下司徒,署余孫倫吏,使蒙伏節之報。」(註7)
六月、丙子の日、詔を下してこう言ったよ。
「昔、南陽郡で山賊(侯音)が暴れまわって、かつての太守(郡の長官)の東里衮を人質に取ろうとしたんだ。その時、功曹(人事官)の応余はただひとりで東里衮を守り抜いて、彼を危機から救ったよ。でも、応余自身は倒れて命を落として、身を犠牲にして主君を助けたの。そこで、司徒は、応余の孫の応倫を役人に任命して、祖父の忠節に報いることにしたよ」
楚國先賢傳曰:余字子正,天姿方毅,志尚仁義,建安二十三年為郡功曹。是時吳、蜀不賔,疆埸多虞。宛將侯音扇動山民,保城以叛。余與太守東里衮當擾攘之際、迸竄得出。音即遣騎追逐,去城十里相及,賊便射衮,飛矢交流。余前以身當箭,被七創,因謂追賊曰:「侯音狂狡,造為凶逆,大軍尋至,誅夷在近。謂卿曹本是善人,素無惡心,當思反善,何為受其指揮?我以身代君,已被重創,若身死君全,隕沒無恨。」
『楚国先賢伝』によると、応余は、字は子正で、性格は剛直で、志は仁義を重んじていたんだって。建安二十三年(218年)、郡の功曹に(人事官)なったよ。この時、呉と蜀は従っていなくて、国境はたくさんの不安を抱えていたんだ。
宛の将の侯音は山の民を扇動して、城を守って反乱を起こしたんだ。応余は太守(郡の長官)の東里衮と一緒に混乱の中で逃げ出したよ。侯音はすぐに騎兵に追わせて、城から10里のところで追いついたよ。敵はすぐに矢を射て東里衮を狙って、矢は雨のように飛び交ったよ。応余は前に出て身を盾にして、7つも傷を受けちゃった。そして追ってきた敵に向かってこう言ったよ。
「侯音は狂暴で、凶悪な反乱を起こしたけど、大軍がすぐに来て彼を討つはずだよ。あなたたちは本当は善良な人たちで、悪意を持っているわけではないの。今こそ善に戻るべき時だよ。どうして彼の命令に従うの? 私は身をもって主君を守って、すでに重傷を負ったんだ。私が死んで主君が助かるなら、死んでも悔いはないよ」
因仰天號哭泣涕,血淚俱下。賊見其義烈,釋衮不害。賊去之後,余亦命絕。征南將軍曹仁討平音,表余行狀,并脩祭醊。太祖聞之,嗟嘆良乆,下荊州復表門閭,賜穀千斛。衮後為于禁司馬,見魏略游說傳。
そう言って天を仰いで泣き叫んで、血の涙を流したよ。敵はその義の心を見て、東里衮を殺さないで解放したよ。敵が去った後、応余は命を落としたんだ。征南将軍の曹仁は侯音を討って平定して、応余の行動を上表して、祭祀をしたよ。曹操はこれを聞いて、しばらくの間感動して、荊州に命令して応余の家をたたえて、1,000斛の穀物を与えたよ。
東里衮は後に于禁の司馬となって、『魏略』「游説伝」にその事が記されているよ。
三老と五更
辛卯,大論淮南之功,封爵行賞各有差。
辛卯の日、淮南の功績(諸葛誕を討ったこと)について議論をして、それぞれの功績に応じて爵位や賞を与えたよ。
秋八月甲戌,以驃騎將軍王昶為司空。丙寅,詔曰:「夫養老興教,三代所以樹風化垂不朽也,必有三老、五更以崇至敬,乞言納誨,著在惇史,然後六合承流,下觀而化。宜妙簡德行,以充其選。關內侯王祥,履仁秉義,雅志淳固。關內侯鄭小同,溫恭孝友,帥禮不忒。其以祥為三老,小同為五更。」車駕親率羣司,躬行古禮焉。(註8)(註9)(註10)(註11)(註12)(註13)
秋の八月、甲戌の日、驃騎将軍の王昶を司空に任命したよ。丙寅の日、詔を下してこう言ったよ。
「老いた人を敬って、教育を興すことは、三代(夏・殷・周)の聖王が風紀を樹立して、不朽の教えを伝えてきた根本だよ。必ず三老や五更を設けて、高い敬意を示して、彼らの言葉を求めて諫めを受け入れることが必要なんだ。このことは『惇史(徳の有る人の言行録)』に明記されていて、天下がこれを受け継いで、民がそれを見習って教えが広がるの。だから、徳行に優れた者を慎重に選んで、これに任命するべきだよ。今、関内侯の王祥は、仁を実践して義を重んじて、その志は誠実で揺るぎないよ。それに、関内侯の鄭小同は、温厚で謙虚で、孝行と友愛に満ちていて、礼を欠かさないよ。だから、王祥を三老に、鄭小同を五更に任命するよ」
その後、曹髦が自ら百官を率いて、古の礼を実践したよ。
(註8)漢晉春秋曰:帝乞言於祥,祥對曰:「昔者明王禮樂旣備,加之以忠誠,忠誠之發,形于言行。夫大人者,行動乎天地;天且弗違,況於人乎?」祥事別見呂虔傳。小同,鄭玄孫也。
『漢晋春秋』によると、曹髦が王祥に意見を求めると、王祥はこう答えたよ。
「昔の賢明な王たちは、礼と音楽をすでに整えた後に、忠誠を加えたんだ。忠誠の心は言葉と行動に現れるよ。偉大な人物はその行動が天地に及ぶもので、天すらもそれに背かないのだから、人が背くはずがないよ」
王祥については「呂虔伝」に書いてあるよ。鄭小同は、鄭玄の孫なんだって。
玄別傳曰:「玄有子,為孔融吏,舉孝廉。融之被圍,往赴,為賊所害。有遺腹子,以丁卯日生;而玄以丁卯歲生,故名曰小同。」
『鄭玄別伝』によると、鄭玄には子がいて、孔融の役人になって、孝廉に推挙されたんだって。孔融が包囲された時、彼は救援に行ったけど、賊に殺されちゃった。彼には遺腹子(母が妊娠中に父が亡くなった子)がいて、丁卯の日に生まれたよ。鄭玄自身も丁卯の日に生まれたから、その子を小同と名付けたんだよ。
魏名臣奏載太尉華歆表曰:「臣聞勵俗宣化,莫先於表善,班祿敘爵,莫美於顯能,是以楚人思子文之治,復命其胤,漢室嘉江公之德,用顯其世。伏見故漢大司農北海鄭玄,當時之學,名冠華夏,為世儒宗。文皇帝旌錄先賢,拜玄適孫小同以為郎中,長假在家。小同年踰三十,少有令質,學綜六經,行著鄉邑。海、岱之人莫不嘉其自然,美其氣量。迹其所履,有質直不渝之性,然而恪恭靜默,色養其親,不治可見之美,不競人間之名,斯誠清時所宜式敘,前後明詔所斟酌而求也。臣老病委頓,無益視聽,謹具以聞。」
『魏名臣奏』によると、太尉の華歆は上奏してこう言ったよ。
「私が聞くところによると、風習を励まして教えを広めるには、まず善い行いを示すことが最も重要で、官位や禄を与えて爵位を定めるには、才能をほめたたえることが最も美しいとされているよ。だから、楚の人たちが子文の政治をたたえて、その子孫に官位を授けて、漢の王朝も江公の徳をたたえて、その家系を表彰したの。
伏して思うに、昔の漢の大司農で北海の出身の鄭玄は、当時の学問では中原の第一人者で、世の儒学者の宗師だったんだ。文皇帝(曹丕)は先賢をたたえて、鄭玄の孫の鄭小同を郎中に任命して、長期間家にとどまることを許したよ。鄭玄はすでに30歳を越えていて、若い頃から優れた資質を持っていて、六経を深く学んで、その徳行は郷里に広く知られているよ。海と岱の人たちもみんな、彼の生まれつきの才能とその器量の大きさをたたえているよ。
彼の歩んできた道を見ると、質直で揺るぎない性格で、また慎み深く静かに振る舞って、親に孝を尽くして、世間に示すような美徳を求めないで、名声を競い合うこともしないよ。まさに清らかな時代にふさわしい人で、これまでの詔でも慎重に選ばれて求められてきた人物だね。私は老いて病に伏して、もはや世の事に貢献できないけど、謹んでこのことを上奏するよ」
鄭玄注文王世子曰「三老、五更各一人,皆年老更事致仕者也」。注樂記曰「皆老人更知三德五事者也」。
鄭玄が注をつけた『礼記』「文王世子」によると、三老と五更はそれぞれ1人ずつで、みんな年老いてたくさんの経験を積んで、引退した者なんだって。『楽記』によると、みんな年老いて三徳と五事をよく知る者なんだって。
蔡邕明堂論云:「更」應作「叟」。叟,長老之稱,字與「更」相似,書者遂誤以為「更」。「嫂」字「女」傍「叟」,今亦以為「更」,以此驗知應為「叟」也。
蔡邕の『明堂論』によると、「更」は「叟」とすべきだよ。「叟」は長老の称号で、字が「更」と似ているから、書き手が誤って「更」にしちゃった。「嫂」の字は「女」の側に「叟」が付くけど、今では「更」とされているよ。このことから、「叟」とするのが正しいとわかるよ。
臣松之以為邕謂「更」為「叟」,誠為有似,而諸儒莫之從,未知孰是。
裴松之の見解としては、蔡邕が「更」を「叟」とすべきだとするのは確かに理にかなっているけど、たくさんの儒者たちはこれに従わなかったから、どっちが正しいのかはわからないんだ。
井戸の中の龍
是歲,青龍、黃龍仍見頓丘、冠軍、陽夏縣界井中。
この年、青龍と黄龍が続けて頓丘、冠軍、陽夏の県の境界の井戸の中に現れたんだって。
四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。(註14)
甘露四年(259年)、春の正月、黄龍が2度、寧陵県の境界の井戸に現れたんだって。
漢晉春秋曰:是時龍仍見,咸以為吉祥。帝曰:「龍者,君德也。上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之。
『漢晋春秋』によると、この時、龍が何度も現れて、みんなそれを良い兆しと考えたよ。でも、曹髦はこう言ったよ。
「龍は君主の徳を表すよ。天に昇らないで、地に現れないで、井戸にばかり現れるのは、良い兆しではないんだ」
そして、自分を風刺するために潜龍の詩を作ったよ。司馬昭
はそれを見て不快に思ったんだって。
夏六月,司空王昶薨。秋七月,陳留王峻薨。冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。十一月癸卯,車騎將軍孫壹為婢所殺。
夏の六月、司空の王昶が亡くなったんだ。秋の七月、陳留王の曹峻が亡くなったんだ。
冬の十月、丙寅の日、新城郡を分けて上庸郡をふたたび置いたよ。十一月、癸卯の日、車騎将軍の孫壱が召使いに殺されちゃった。
甘露の変
五年春正月朔,日有蝕之。夏四月,詔有司率遵前命,復進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,加九錫。
甘露五年(260年)、春の正月、朔の日、日食があったの。夏の四月、曹髦は詔を下して、役人たちは前の命令を遵守して、大将軍の司馬昭をふたたび相国に昇進させて、晋公に封じて、九錫を授けたよ。
五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。(註15)(註16)(註17)(註18)(註19)(註20)
五月、己丑の日、曹髦は亡くなったんだ。この時20歳だったよ。
いきなり亡くなったみたいに見えるけど、経緯は註で記されているよ。亡くなったという意味の字が「崩」ではなくて「卒」だね。
漢晉春秋曰:帝見威權日去,不勝其忿。乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業,謂曰:「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿等自出討之。」王經曰:「昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,為天下笑。今權在其門,為日乆矣,朝廷四方皆為之致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衞空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用,而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測,宜見重詳。」帝乃出懷中版令投地,曰:「行之決矣。正使死,何所懼?況不必死邪!」於是入白太后,沈、業奔走告文王,文王為之備。
『漢晋春秋』によると、曹髦は自分の威権が日に日に失われていくのを見て、怒りを抑えきれなかったの。そこで、侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業を呼んでこう言ったよ。
「司馬昭の本心は、道行く人ですら知っているほど明らかだよね。私はこのまま廃されて辱めを受けるのを黙って見ているわけにはいかないんだ。今日、あなたたちと一緒に出て討つつもりだよ」
王経はこう答えたよ。
「昔、魯の昭公は季氏を我慢できなくて、敗走して国を失って、天下の笑い者になっちゃった。今、司馬氏の手にあって、それが長く続いていて、朝廷や四方の人たちはみんな、彼に忠誠を誓って命を捧げているんだ。反逆者であるかどうかを考えずに従っているのは、もはや1日のことではないよ。しかも、兵は手薄で、武器も少なくて弱いの。あなたは一体何を頼りに、このような決断をするの? これでは病を治そうとして、かえって深刻にするようなものだよ! 何が起こるかわからないし、どうか慎重に検討してほしいんだ」
曹髦は懐から詔勅の板札を取り出して地面に投げ捨てて、こう言ったよ。
「これはすでに決定したことだよ。たとえ死ぬとしても、何を恐れることがあるの? ましてや、必ずしも死ぬとは限らないのだから!」
こうして曹髦は宮中に入って、太后にこのことを報告したよ。王沈と王業は急いで司馬昭にこのことを知らせて、司馬昭は対策を立てたよ。
帝遂帥僮僕數百,鼓譟而出。文王弟屯騎校尉伷入,遇帝於東止車門,左右呵之,伷衆奔走。中護軍賈充又逆帝戰於南闕下,帝自用劒。衆欲退,太子舍人成濟問充曰:「事急矣。當云何?」充曰:「畜養汝等,正謂今日。今日之事,無所問也。」濟即前刺帝,刃出於背。文王聞,大驚,自投於地曰:「天下其謂我何!」太傅孚奔往,枕帝股而哭,哀甚,曰:「殺陛下者,臣之罪也。」
曹髦はそのまま数百人の侍従や召使を率いて、叫びながら宮殿を出たよ。司馬昭の弟で屯騎校尉の司馬伷は、兵を率いて宮中に入って、東止車門(宮城の門のひとつ)で曹髦と遭遇したんだ。曹髦の周りの人たちが彼を怒鳴りつけると、司馬伷の部下たちは逃げ出しちゃった。
さらに、中護軍の賈充は南闕(宮殿の南門)の下で曹髦の行く手を阻んで、曹髦は自ら剣を取って戦ったよ。兵たちは退こうとしたけど、太子舎人の成済が賈充にこう尋ねたよ。
「事態は切迫しているけど、どうすればいいの?」
賈充はこう答えたよ。
「あなたたちを育ててきたのは、まさに今日のためだよ。今日のことについては何も問わないよ」
成済はすぐに曹髦のもとへ進み出て、剣を突き刺したよ。その刃は曹髦の背中を貫通したんだ。司馬昭がこのことを聞いてすごくびっくりして、地面に倒れ込んでこう言ったよ。
「天下の人たちは、私のことを何と言うだろうか!」
その場に駆けつけた太傅の司馬孚は、曹髦のももに頭を乗せて泣き崩れて、悲しみに打ちひしがれながらこう言ったよ。
「陛下(曹髦)を殺したのは、私の罪なんだ」
臣松之以為習鑿齒書,雖最後出,然述此事差有次第。故先載習語,以其餘所言微異者次其後。
裴松之の見解としては、習鑿歯の書は最も後の時代に出たものだったとしても、この事件の経過を比較的順序立てて述べているよ。だから、まず習鑿歯の記述を載せて、その後に、それとは少し異なる内容のものを続けて記すね。
世語曰:王沈、王業馳告文王,尚書王經以正直不出,因沈、業申意。
『世語』によると、王沈と王業は急いで司馬昭に報告したけど、尚書の王経は正直だから一緒に出て行かなくて、王沈と王業に自分の意見を伝えたよ。
晉諸公贊曰:沈、業將出,呼王經。經不從,曰:「吾子行矣!」
『晋諸公賛』によると、王沈と王業が出ようとした時に王経を呼んだけど、王経は従わないで、「私は行かない!」と言ったよ。
干寶晉紀曰:成濟問賈充曰:「事急矣。若之何?」充曰:「公畜養汝等,為今日之事也。夫何疑!」濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。
干宝の『晋紀』によると、成済が賈充にこう尋ねたよ。
「事態は切迫しているけど、どうすればいいの?」
賈充はこう答えたよ。
「公(司馬昭)があなたたちを育ててきたのは、まさに今日のためだよ。何をためらうの!」
成済は「そのとおりだ」と言って、戈を抜いて皇帝の車に襲いかかったんだ。
魏氏春秋曰:戊子夜,帝自將宂從僕射李昭、黃門從官焦伯等下陵雲臺,鎧仗授兵,欲因際會,自出討文王。會雨,有司奏却日,遂見王經等出黃素詔於懷曰:「是可忍也,孰不可忍也!今日便當決行此事。」入白太后,遂拔劒升輦,帥殿中宿衞蒼頭官僮擊戰鼓,出雲龍門。賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手劒奮擊,衆莫敢逼。充帥厲將士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩于師。時暴雨雷霆,晦冥。
『魏氏春秋』によると、戊子の日の夜、曹髦は自ら宂従僕射の李昭、黄門従官の焦伯(しょうはく)たちと一緒に陵雲台を下って、鎧や武器を持って、機会を利用して自分で出陣して司馬昭を討とうとしたよ。ちょうどその時、雨が降り始めて、役人が日を改めるように上奏したけど、曹髦は王経たちに黄色の絹に書かれた詔を懐から取り出して見せてこう言ったよ。
「これが耐えられるというのなら、何が耐えられないことがあるの! 今日こそこの事を決行する!」
そして、太后に報告したよ。剣を抜いて輦(天子の車)に乗って、殿中の宿衛の兵や侍従たちを率いて戦鼓を打ち鳴らして、雲龍門から出たよ。
その後、賈充が外から宮中へと入って、曹髦の軍は散り散りになっちゃった。でも曹髦はまだ天子を名乗って、剣を手にして力を振るって戦ったから、誰も近づこうとはしなかったんだ。賈充は将や兵たちを奮い立たせて、騎督の成倅の弟の成済が矛を持って進んで、曹髦を刺し殺したんだ。その時、激しい雨が吹き荒れて、雷鳴が響いて、天地は暗闇に包まれたんだって。
魏末傳曰:賈充呼帳下督成濟謂曰:「司馬家事若敗,汝等豈復有種乎?何不出擊!」倅兄弟二人乃帥帳下人出,顧曰:「當殺邪?執邪?」充曰:「殺之。」兵交,帝曰:「放仗!」大將軍士皆放仗。濟兄弟因前刺帝,帝倒車下。
『魏末伝』によると、賈充は帳下督の成済を呼んでこう言ったよ。
「もし司馬家が敗れたら、あなたたちに未来があるの? どうしてすぐに出撃しないの!」
成倅と成済の兄弟は帳下の兵を率いて出撃して、振り返ってこう尋ねたよ。
「殺すべき? それとも捕らえるべき?」
賈充は「殺せ」と命令したんだ。
戦いが始まると、曹髦は命令したよ。
「武器を捨てろ!」
大将軍(司馬昭)の兵たちはみんな武器を捨てたけど、成済と兄弟が前に出て曹髦を刺して、曹髦は車から転げ落ちたんだ。
皇太后令曰:「吾以不德,遭家不造,昔援立東海王子髦,以為明帝嗣,見其好書疏文章,兾可成濟,而情性暴戾,日月滋甚。吾數呵責,遂更忿恚,造作醜逆不道之言以誣謗吾,遂隔絕兩宮。其所言道,不可忍聽,非天地所覆載。吾即密有令語大將軍,不可以奉宗廟,恐顛覆社稷,死無面目以見先帝。大將軍以其尚幼,謂當改心為善,殷勤執據。而此兒忿戾,所行益甚,舉弩遙射吾宮,祝當令中吾項,箭親墮吾前。吾語大將軍,不可不廢之,前後數十。
皇太后は命令してこう言ったよ。
「私は徳がなくて、不幸にも家は災いに遭ったの。昔、東海王(曹霖)の子の曹髦を立てて、明帝(曹叡)の後継者にしたよ。彼が書や文章を好むのを見て、立派な君主となることを期待していたんだ。でも、彼の性格はだんだんと乱暴で凶暴になって、日に日に悪化していったんだ。私は何度も叱ったけど、彼はますます怒って、私を誹謗して、中傷するために、悪くて不道徳な言葉を作り上げて、皇帝と太后との関係を断絶させたんだ。彼の発言は聞くに耐えられないし、天地の下に許されるものではなかったの。
そこで私は大将軍(司馬昭)に『彼には宗廟(祖先の廟)を継がせられないし、国家が滅ぶことを恐れているの。もし彼が皇帝のままであれば、私が死んでも先帝(曹叡)に顔向けできないよ』と伝えたよ。大将軍(司馬昭)は『彼はまだ若いのだから、いつか心を改めて善に帰るだろう』と考えて、何度も彼を庇ったよ。でも、この子(曹髦)はますます怒って、弩を持ち出して私の宮殿に向けて放って、『必ずやあなたの首に命中させてやる』と呪ったんだ。矢は私の前に落ちたよ。私は大将軍(司馬昭)に『このままではいけないよ、彼を廃さなきゃならないんだ』とこれまでに数十回も訴えたんだ。
此兒具聞,自知罪重,便圖為弒逆,賂遺吾左右人,令因吾服藥,密行酖毒,重相設計。事已覺露,直欲因際會舉兵入西宮殺吾,出取大將軍,呼侍中王沈、散騎常侍王業、(註21)尚書王經,出懷中黃素詔示之,言今日便當施行。吾之危殆,過於累卵。
この子(曹髦)はすべてを聞いて、自らの罪の重さを悟ったから、反逆の計画を立てたんだ。彼は彼は私の側近たちを買収して、私が薬を服用する機会を狙ってこっそりと毒を盛るように指示して、何度も策略を巡らせたよ。でも、その事はすでに見つかっていて、今度は機会を捉えて兵を挙げて、西宮に侵入して私を殺して、さらに大将軍(司馬昭)を討ち取ろうとしたんだ。彼は侍中の王沈、散騎常侍の王業、尚書の王経を呼び出して、懐から黄色の布で包んだ詔書を取り出して見せて、『本日、これを実行する』と宣言したよ。私の危機は、卵を積み重ねるよりも危うい状態だったの。
吾老寡,豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂,社稷顛覆為痛耳。賴宗廟之靈,沈、業即馳語大將軍,得先嚴警,而此兒便將左右出雲龍門,雷戰鼓,躬自拔刃,與左右雜衞共入兵陣間,為前鋒所害。此兒旣行悖逆不道,而又自陷大禍,重令吾悼心不可言。昔漢昌邑王以罪廢為庶人,此兒亦宜以民禮葬之,當令內外咸知此兒所行。又尚書王經,凶逆無狀,其收經及家屬皆詣廷尉。」
私はすでに老いて独り身だから、もはや自分の命を惜しまないよ。ただ、先帝(曹叡)の遺志が遂げられないで、国家が覆ることが痛ましく思えるだけなの。でも、幸いにも宗廟(祖先の廟)の神霊のおかげで、王沈と王業がすぐに大将軍(司馬昭)に知らせて、事前に厳重な警戒を敷いたよ。でも、この子(曹髦)はすぐに周りの人たちを引き連れて雲龍門から出て、雷みたいに戦鼓を打ち鳴らして、自ら剣を抜いて戦場へ突入して、周りの護衛たちと一緒に兵の陣へ乱入して、ついに前線で討たれたんだ。彼は反逆の道を歩んで、不道徳な行いをしたうえに、自ら大きな禍(死)を招いたの。そのことが、私にとって計り知れない悲しみとなっているよ。
昔、漢の昌邑王(劉賀)は罪を犯して庶民に降格させられたけど、この子(曹髦)も庶民の礼で葬るのがふさわしいよ。内と外のすべての人が彼の行いを知るべきだよ。それに、尚書の王経は悪くて許せない行いをしたから、王経とその家族を全員捕らえて廷尉に送ってね」
世語曰:業,武陵人,後為晉中護軍。
『世語』によると、王業は、武陵の出身だよ。その後、晋では中護軍になったんだって。
後継者を立てる
庚寅,太傅孚、大將軍文王、太尉柔、司徒沖稽首言:「伏見中令,故高貴鄉公悖逆不道,自陷大禍,依漢昌邑王罪廢故事,以民禮葬。臣等備位,不能匡救禍亂,式遏姦逆,奉令震悚,肝心悼慄。春秋之義,王者無外,而書『襄王出居于鄭』,不能事母,故絕之於位也。今高貴鄉公肆行不軌,幾危社稷,自取傾覆,人神所絕,葬以民禮,誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆,雖存大義,猶垂哀矜,臣等之心實有不忍,以為可加恩以王禮葬之。」太后從之。(註22)
庚寅の日、太傅の司馬孚、大将軍の司馬昭、太尉の王柔、司徒の高沖が地面にひれ伏してこう言ったよ。
「伏して拝見すると、中令(詔勅)によれば、かつての高貴郷公(曹髦)は乱れて不道徳な行いをして、自ら大きな禍を招いたんだ。だから、漢の昌邑王(劉賀)が罪で廃位された例にならって、庶民の礼で葬ると決まったよ。でも、私たちは国家に仕えながら、禍乱を正して、反逆を止められなかったんだ。命令を受けて、心から恐れて震えているの。『春秋』の義には、王者には内も外もないはずで、『書経』には『襄王が出て鄭に移った』とあるように、母に孝を尽くせなかったから王位を断たれたこともあるよ。今、高貴郷公(曹髦)はそむいて、国家を危うくして、ついには自ら滅びを招いたよ。人と神に見放されて、庶民の礼で葬られることは確かに旧典に適っているね。でも、私たちは殿下の仁や慈しみの深さを思って、大義を守りながら、哀れみを垂れる心があるのではないかと思っているよ。私たちの心としても、実に忍び難くて、特別に恩を加えて、王の礼で葬ることを考えてほしいんだ」
太后はこれに従ったよ。
(註22)漢晉春秋曰:丁卯,葬高貴鄉公于洛陽西北三十里瀍澗之濵。下車數乘,不設旌旐,百姓相聚而觀之,曰:「是前日所殺天子也。」或掩靣而泣,悲不自勝。
『漢晋春秋』によると、丁卯の日、曹髦は洛陽の西北30里にある瀍澗の浜に葬られたんだって。車は数台だけで、旗も立てなかったんだ。民が集まってこれを見て、「これは先日殺された天子だ」と言ったよ。ある人は顔を覆って泣いて、悲しみを抑えられなかったんだって。
臣松之以為若但下車數乘,不設旌旐,何以為王禮葬乎?斯蓋惡之過言,所謂不如是之甚者。
裴松之の見解によると、もしただ車が数台だけで旗もなかったのなら、どうして王の礼で葬られたと言えるの? これは憎しみによる誇張で、実際にはそれほどひどくはなかったんだろうね。
使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道鄉公璜嗣明帝後。辛卯,羣公奏太后曰:「殿下聖德光隆,寧濟六合,而猶稱令,與藩國同。請自今殿下令書,皆稱詔制,如先代故事。」
使持節、行中護軍、中壘将軍の司馬炎に常道郷公の曹璜を北へ迎えに行かせて、曹叡の後を継がせたよ。辛卯の日、諸侯たちは太后に上奏してこう言ったよ。
「殿下の聖人としての徳は光り輝いて、天下を安定させているけど、まだ命令を出す時に藩国と同じように『令』と言っているよ。これからは殿下の命令書は、先代の例に従って、『詔制』と言ってほしいんだ」
癸卯,大將車固讓相國、晉公、九錫之寵。太后詔曰:「夫有功不隱,周易大義,成人之美,古賢所尚,今聽所執,出表示外,以章公之謙光焉。」
癸卯の日、司馬昭は相国と晋公、九錫を固く辞退したよ。太后は詔を下してこう言ったよ。
「功績を隠さないことは、『周易』の大義で、人の美徳を成し遂げることは古の賢者たちが重んじたことだよ。今、辞退を許して、その誠実さを広く示すために詔を出すよ。これによって、謙遜の美徳が一層際立つね」
事件の関係者は消す
戊申,大將軍文王上言:「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;懼兵刃相接,即勑將士不得有所傷害,違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟,橫入兵陣傷公,遂至隕命;輙收濟行軍法。臣聞人臣之節,有死無二,事上之義,不敢逃難。前者變故卒至,禍同發機,誠欲委身守死,唯命所裁。然惟本謀乃欲上危皇太后,傾覆宗廟。臣忝當大任,義在安國,懼雖身死,罪責彌重。欲遵伊、周之權,以安社稷之難,即駱驛申勑,不得迫近輦輿,而濟遽入陣間,以致大變。哀怛痛恨,五內摧裂,不知何地可以隕墜?科律大逆無道,父母妻子同產皆斬。濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪。」(註23)
戊申の日、大将軍の司馬昭はこう言ったよ。
「高貴郷公(曹髦)は自ら兵を率いて指揮して、刃を抜いて、金鼓を鳴らして私の駐留する場所へと向かったよ。兵の刃が交わるのを恐れて、すぐに将や兵に『決して傷つけないように』と命令して、もし命令に背く者があれば軍法で処罰すると厳命したんだ。でも、騎督の成倅の弟で太子舎人の成済は、戦陣に突入して公(曹髦)を傷つけて、命を落とさせたんだ。だから、すぐに成済を拘束して、軍法に従って処罰したよ。
私は、臣下の節義とは『死はあっても裏切る心はない』と聞いているよ。君主に仕える道理として、決して災難から逃れることはできないんだ。先の変事が突然起こって、災厄が一挙に噴き出すと、私も誠に身を捨てて死を覚悟して、ただ天命に従うつもりだったの。でも、この本当の計画は皇太后を危機に陥れて、宗廟(祖先の廟)を傾かせるものだったんだ。私は重要な役に就いている身で、国家を安定させる義があるよ。もし私がただ命を捨てて死ぬだけなら、かえって罪はさらに重くなることを恐れたんだ。そこで、伊尹や周公の例にならって、国家の困難を安定させるために急いで命令して、輦輿(天子の車)に迫らないように指示したよ。でも、成済はすぐに陣に突入して、大変な事態を引き起こしちゃった。その哀しみと痛恨の思いは計り知れなくて、五体が引き裂かれるような衝撃を受けて、私は一体どこへ身を投げればよいのかわからないんだ。法では、大逆や無道の罪は厳しくて、父、母、妻や子や兄弟なども同罪として処刑されるべきものだよ。成済の凶暴で反逆的な行いは、国家を混乱に陥れて、法紀を破壊するもので、死刑をもってしても償いきれるものではないんだ。そこで侍、すぐに侍御史に命令して成済の家族を捕らえて、廷尉に引き渡して、その罪を厳正に裁かせるよ」
君主を暗殺したことを知らないかのように、逆に賊を討った功績をたたえているみたいだ……。
魏氏春秋曰:成濟兄弟不即伏罪,袒而升屋,醜言悖慢;自下射之,乃殪。
『魏氏春秋』によると、成済兄弟はすぐに罪を認めなくて、上半身裸で屋根に登って、ひどい言葉を使って傲慢に振る舞ったんだ。下から矢を射られて、ついに命を落としたよ。
太后詔曰:「夫五刑之罪,莫大於不孝。夫人有子不孝,尚告治之,此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義,以謂濟不得便為大逆也。然大將軍志意懇切,發言惻愴,故聽如所奏。當班下遠近,使知本末也。」(註24)
太后は詔を下してこう言ったよ。
「五刑の中で、最大の罪は、親に対する孝が無いことだよ。一般の人でも不孝な子がいたら、治すように求めるよ。どうしてこの者(曹髦)が人の上に立つ君主でいられるの? 私は女性で大義を理解していないけど、成済がすぐに大きな反逆の罪を犯したとは思えないよ。でも、大将軍(司馬昭)の志は誠実で、その発言は切実で痛ましいものだから、その上奏を受け入れることにしたよ。これを広く知らせて、その経緯をすべての者に知らせるべきだよ」
世語曰:初,青龍中,石苞鬻鐵於長安,得見司馬宣王,宣王知焉。後擢為尚書郎,歷青州刺史、鎮東將軍。甘露中入朝,當還,辭高貴鄉公,留中盡日。文王遣人要令過。文王問苞:「何淹留也?」苞曰:「非常人也。」明日發至滎陽,數日而難作。
『世語』によると、青龍の年号の間(233~237年)、石苞は長安で鉄を売っていて、司馬昭に会う機会を得たよ。司馬昭は彼の才能を見抜いて、後に尚書郎に選んで、青州刺史(州の長官)、鎮東将軍に昇進させたんだって。
甘露の年号の間(256~260年)、石苞は朝廷に入って、帰る予定だったから、曹髦に別れを告げて、そのまま一日中宮中に留まったよ。司馬昭は使者を送って、立ち寄るように命令したんだ。司馬昭は石苞にこう尋ねたよ。
「どうして長く宮中に留まっていたの?」
石苞はこう答えたよ。
「彼がただ者ではないからだよ」
翌日、滎陽に出発したけど、数日後に曹髦の事件が起こったんだ。
六月癸丑,詔曰:「古者人君之為名字,難犯而易諱。今常道鄉公諱字甚難避,其朝臣博議改易,列奏。」
六月、癸丑の日、詔を下してこう言ったよ。
「昔の君主の名前は、犯しにくくて、避けやすかったよ。今、曹璜の名前はとても避けにくいから、朝廷の臣下たちに広く議論させて、改名を提案するように命令するよ」
陳寿の評価
「魏書陳留王紀」に併せて記載したよ。
「魏書高貴郷公紀」は以上だよ!