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正史『三国志』「蜀書二主妃子伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「蜀書二主妃子伝」をゆるゆる翻訳するよ!
甘(かん)皇(こう)后(ごう)、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)、敬(けい)哀(あい)皇(こう)后(ごう)、張(ちょう)皇(こう)后(ごう)、劉(りゅう)永(えい)、劉(りゅう)理(り)、劉(りゅう)璿(せん) について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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甘皇后伝

三國志 : 蜀書四 : 甘皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

先主甘皇后,沛人也。先主臨豫州,住小沛,納以為妄。先主數喪嫡室,常攝內事。隨先主於荊州,產後主。值曹公軍至,追及先主於當陽長阪,于時困偪,棄后及後主,賴趙雲保護,得免於難。后卒,葬于南郡。章武二年,追謚皇思夫人,遷葬於蜀,未至而先主殂隕。

劉(りゅう)備(び)の妻の甘(かん)皇(こう)后(ごう)は、沛(はい)の出身だよ。劉(りゅう)備(び)が豫(よ)州を治めて、小(しょう)沛(はい)に住んでいたときに、甘(かん)皇(こう)后(ごう)を妻として迎えたよ。劉(りゅう)備(び)は何度も正妻を亡くしたから、甘(かん)皇(こう)后(ごう)が家のことを取り仕切っていたんだって。
甘(かん)皇(こう)后(ごう)は劉(りゅう)備(び)と一緒に荊(けい)州へ行って、そこで劉(りゅう)禅(ぜん)を産んだよ。でも、曹(そう)操(そう)の軍が来ると、劉(りゅう)備(び)は当(とう)陽(よう)の長(ちょう)阪(はん)で追いつかれて、困難な状況に陥っちゃった。劉(りゅう)備(び)は甘(かん)皇(こう)后(ごう)と劉(りゅう)禅(ぜん)を置き去りにしたけど、趙(ちょう)雲(うん)が守ってくれたおかげで難を逃れたの。
その後、甘(かん)皇(こう)后(ごう)は亡くなって、南(なん)郡に葬られたんだ。章(しょう)武(ぶ)二年(222年)、皇(こう)思(し)夫(ふ)人(じん)の謚号を贈られて、蜀(しょく)に移して葬られることになったけど、着く前に劉(りゅう)備(び)が亡くなったんだ。

本文

丞相亮上言:「皇思夫人履行脩仁,淑慎其身。大行皇帝昔在上將,嬪配作合,載育聖躬,大命不融。大行皇帝存時,篤義垂恩,念皇思夫人神柩在遠飄颻,特遣使者奉迎。會大行皇帝崩,今皇思夫人神柩以到,又梓宮在道,園陵將成,安厝有期。臣輒與太常臣賴恭等議:禮記曰:『立愛自親始,教民孝也;立敬自長始,教民順也。』不忘其親,所由生也。春秋之義,母以子貴。昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后,孝和皇帝改葬其母梁貴人,尊號曰恭懷皇后,孝愍皇帝亦改葬其母王夫人,尊號曰靈懷皇后。今皇思夫人宜有尊號,以慰寒泉之思,輒與恭等案謚法,宜曰昭烈皇后。詩曰:『穀則異室,死則同穴。』(註1)故昭烈皇后宜與大行皇帝合葬,臣請太尉告宗廟,布露天下,具禮儀別奏。」制曰可。

丞(じょう)相(しょう)の諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)は上奏してこう言ったよ。
「甘(かん)皇(こう)后(ごう)は、行いを慎んで、仁徳を積んで、身を淑やかに保っていたよ。大行皇帝(劉(りゅう)備(び))が将だった頃、甘(かん)皇(こう)后(ごう)は妃として結婚して一緒に歩んできたよ。聖なる皇子(劉(りゅう)禅(ぜん))を生んだけど、天命は叶わなくて、志半ばで亡くなったんだ。大行皇帝が生きていた時には、深い義と恩を示して、甘(かん)皇(こう)后(ごう)の霊柩が遠く離れた地に留め置かれていることを気にかけて、特別に使者を送って迎えようとしたよ。でも、ちょうどその時に大行皇帝は亡くなったんだ。今、甘(かん)皇(こう)后(ごう)の霊柩が着いて、大行皇帝の棺もまだ道中にあって、陵墓は完成間近で、埋葬の日が定められようとしているよ。私は太(たい)常(じょう)の頼(らい)恭(きょう)たちと協議したよ。『礼(らい)記(き)』には、『愛は親から始まって、それによって民に孝を教える。敬は年長者から始まって、それによって民に順を教える』とあって、親を忘れないことこそが、人としての道理だね。『春(しゅん)秋(じゅう)』の教えでは、『母は子によって貴くなる』とされているよ。
昔、高(こう)皇(こう)帝(てい)(劉(りゅう)邦(ほう))は太(たい)上(じょう)の昭(しょう)霊(れい)夫(ふ)人(じん)(劉(りゅう)邦(ほう)の父の妻、劉(りゅう)邦(ほう)の母)に昭(しょう)霊(れい)皇(こう)后(ごう)の尊号を贈ったよ。孝(こう)和(わ)皇(こう)帝(てい)(劉(りゅう)肇(ちょう))は母の梁(りょう)貴(き)人(じん)を改めて葬って恭(きょう)懐(かい)皇(こう)后(ごう)としたよ。孝(こう)愍(びん)皇(こう)帝(てい)(劉(りゅう)協(きょう))も母の王(おう)夫(ふ)人(じん)を改めて葬って霊(れい)懐(かい)皇(こう)后(ごう)としたよ。
今、甘(かん)皇(こう)后(ごう)にも尊号を贈って、死者の世界で慰めとすべきだよ。頼(らい)恭(きょう)たちと諡号を定める法を調べたところ、昭(しょう)烈(れつ)皇(こう)后(ごう)とするのがふさわしいと考えるよ。『詩(し)経(きょう)』には『生きている頃は別々の家に住んでも、死んだ後は同じ墓に入る』とあるよ。だから、甘(かん)皇(こう)后(ごう)は大行皇帝と合葬されるべきだよ。私は太(たい)尉(い)に宗廟(先祖の廟)に告げるように命令して、天下に知らせて、礼儀の詳細についてはまた別に上奏するね」
制によって許可されたよ。

(註1)

禮云:上古無合葬,中古後因時方有。

『礼(らい)記(き)』によると、古代には合葬は無いけど、より後の時代には時によってはあったんだって。

穆皇后伝

三國志 : 蜀書四 : 穆皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

先主穆皇后,陳留人也。兄吳壹,少孤,壹父素與劉焉有舊,是以舉家隨焉入蜀。焉有異志,而聞善相者相后當大貴。焉時將子瑁自隨,遂為瑁納后。瑁死,后寡居。先主旣定益州,而孫夫人還吳,(註2)羣下勸先主聘后,先主疑與瑁同族,法正進曰:「論其親踈,何與晉文之於子圉乎?」於是納后為夫人。(註3)

劉(りゅう)備(び)の妻の穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)は、陳(ちん)留(りゅう)の出身だよ。兄の呉(ご)壱(いつ)は幼い頃に孤児となって、彼の父は劉(りゅう)焉(えん)と古くからの知り合いだったから、家族全員で劉(りゅう)焉(えん)について行って蜀(しょく)に入ったよ。劉(りゅう)焉(えん)には特別な志があって、優れた占い師が『穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)は将来大きな栄誉を受ける』と占ったんだって。そのとき、劉(りゅう)焉(えん)は子の劉(りゅう)瑁(ぼう)を連れていて、劉(りゅう)瑁(ぼう)の妻として穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)を迎えたよ。劉(りゅう)瑁(ぼう)亡くなって、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)は未亡人となったの。
劉(りゅう)備(び)が益(えき)州を平定して、孫(そん)夫(ふ)人(じん)が呉(ご)に帰ると、臣下たちは劉(りゅう)備(び)に穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)を迎えるように勧めたよ。劉(りゅう)備(び)は劉(りゅう)瑁(ぼう)と同じ一族だから疑ったけど、法(ほう)正(せい)がこう進言したよ。
「親しさの程度を考えれば、晋(しん)の文(ぶん)公(こう)が子(し)圉(ぎょ)を迎えたのと同じだよ」
こうして、劉(りゅう)備(び)は穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)を妻として迎えたよ。

子(し)圉(ぎょ)は、晋(しん)の懐(かい)公(こう)だよ。重(ちょう)耳(じ)(晋(しん)の文(ぶん)公(こう)、子(し)圉(ぎょ)の伯父)の妻の一人の懐(かい)嬴(えい)は、もともと子(し)圉(ぎょ)の妻だったよ。懐(かい)嬴(えい)は秦(しん)の穆(ぼく)公(こう)の娘で、子(し)圉(ぎょ)が秦(しん)に人質として送られたときに結婚したよ。でも、子(し)圉(ぎょ)が晋(しん)での権力闘争に敗れた後、懐(かい)嬴(えい)は重(ちょう)耳(じ)と結婚したんだよ。『春(しゅん)秋(じゅう)左(さ)氏(し)伝(でん)』を見てね。

(註2)

漢晉春秋云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、劉(りゅう)備(び)が益(えき)州に入ると、呉(ご)は孫(そん)夫(ふ)人(じん)を迎えに行ったよ。孫(そん)夫(ふ)人(じん)は太子(劉(りゅう)禅(ぜん))を連れて呉(ご)に帰ろうとしたけど、諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)は趙(ちょう)雲(うん)に命令して兵を指揮させて、長江を断って彼女たちを留めたよ。こうして、劉(りゅう)禅(ぜん)を連れ戻すことができたんだ。

(註3)

習鑿齒曰:夫婚姻,人倫之始,王化之本,匹夫猶不可以無禮,而況人君乎?晉文廢禮行權,以濟其業,故子犯曰,有求於人,必先從之,將奪其國,何有於妻,非無故而違禮教者也。今先主無權事之偪,而引前失以為譬,非導其君以堯、舜之道者。先主從之,過矣。

習(しゅう)鑿(さく)歯(し)によると、婚姻は、人と人との関係の始まりで、社会の基盤だよ。一般の人ですら礼を欠いてはいけないのに、まして君主はなおさらだよね。晋(しん)の文(ぶん)公(こう)は礼を破ってその場での対応をして、その結果、成功を収めたよ。だから子(し)犯(はん)(狐(こ)偃(えん))は『人に何かを求めるときは、まず従わなければならないよ。国を奪おうとしているのに、妻をどうするかは問題ではないよね』と言ったんだ。これは理由もなく礼を破ることではなかったんだ。
今、劉(りゅう)備(び)は権力に迫られるような事情もないのに、過去の失敗を引き合いに出して例にしたのは、君主に堯(ぎょう)や舜(しゅん)の道を導くものではないよ。劉(りゅう)備(び)がこれに従ったのは誤りだったと言えるよ。

本文

建安二十四年,立為漢中王后。章武元年夏五月,策曰:「朕承天命,奉至尊,臨萬國。今以后為皇后,遣使持節丞相亮授璽綬,承宗廟,母天下,皇后其敬之哉!」建興元年五月,後主即位,尊后為皇太后,稱長樂宮。壹官至車騎將軍,封縣侯。延熈八年,后薨,合葬惠陵。(註4)

建(けん)安(あん)二十四年(219年)、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)は漢(かん)中(ちゅう)王(おう)后(ごう)として立てらたよ。
章(しょう)武(ぶ)元年(221年)、夏の五月、劉(りゅう)備(び)は命令を下してこう言ったよ。
「私は天命を受けて、最高の地位を奉じて、すべての国を治めるよ。今、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)を皇后として、使者を送って丞(じょう)相(しょう)(諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう))に皇后の印綬を授けさせて、宗廟(先祖の廟)を継いで、天下の母とするよ。皇后はこれを敬ってね!」
建(けん)興(こう)元年(223年)、五月、劉(りゅう)禅(ぜん)が皇帝に即位して、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)を皇太后として、「長(ちょう)楽(らく)宮(きゅう)」と称したよ。呉(ご)壱(いつ)は車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)にまで昇進して、県(けん)侯(こう)に封ぜられたよ。
延(えん)熙(き)八年(245年)、穆(ぼく)皇(こう)后(ごう)は亡くなって、恵(けい)陵(りょう)に合葬されたんだ。

(註4)

孫盛蜀世譜曰:壹孫喬,沒李雄中三十年,不為雄屈也。

孫(そん)盛(せい)の『蜀(しょく)世(せい)譜(ふ)』によると、呉(ご)壱(いつ)の孫の呉(ご)喬(きょう)は李(り)雄(ゆう)の治世の下で30年間過ごしたけど、李(り)雄(ゆう)に屈服しなかったんだって。

李(り)雄(ゆう)は、成(せい)漢(かん)の建国者だよ。

敬哀皇后伝

三國志 : 蜀書四 : 敬哀皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

後主敬哀皇后,車騎將軍張飛長女也。章武元年,納為太子妃。建興元年,立為皇后。十五年薨,葬南陵。

劉(りゅう)禅(ぜん)の妻の敬(けい)哀(あい)皇(こう)后(ごう)は、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の張(ちょう)飛(ひ)の長女だよ。
章(しょう)武(ぶ)元年(221年)、太子妃として迎えられたよ。建(けん)興(こう)元年(223年)、皇后に立てられたよ。建興十五年(237年)に亡くなって、南(なん)陵(りょう)に葬られたんだ。

張皇后伝

三國志 : 蜀書四 : 張皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

後主張皇后,前后敬哀之妹也。建興十五年,入為貴人。延熈元年春正月,策曰:「朕統承大業,君臨天下,奉郊廟社稷。今以貴人為皇后,使行丞相事左將軍向朗持節授璽綬。勉脩中饋,恪肅禋祀,皇后其敬之哉!」咸熈元年,隨後主遷于洛陽。(註5)

劉(りゅう)禅(ぜん)の妻の張(ちょう)皇(こう)后(ごう)は、前の敬(けい)哀(あい)皇(こう)后(ごう)の妹だよ。建(けん)興(こう)十五年(237年)、貴人として迎えられたよ。延(えん)熙(き)元年(238年)、春の正月、劉(りゅう)禅(ぜん)は命令を下してこう言ったよ。
「私は大業を受け継いで、天下を治めて、郊廟(皇祖の廟)と社稷(国家)を奉じるよ。今、貴人を皇后として、丞(じょう)相(しょう)の職務を代行する左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の向(しょう)朗(ろう)に節を持たせて、皇后の印綬を授けさせるよ。皇后は、宮中の祭祀や職務に励んで、慎み深く敬って祀りをしてね。どうか、この任を敬って、誠実に務めてね!」
咸(かん)熙(き)元年(264年)、劉(りゅう)禅(ぜん)と一緒に洛(らく)陽(よう)に移ったんだ。

(註5)

漢晉春秋曰:魏以蜀宮人賜諸將之無妻者,李昭儀曰:「我不能二三屈辱。」乃自殺。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、魏(ぎ)は蜀(しょく)の宮中の女性たちを、妻のいない将たちに与えたよ。李(り)昭(しょう)儀(ぎ)は「私は二度も三度も屈辱を受けることはできない」と言って、自ら命を絶ったんだ。

劉永伝

三國志 : 蜀書四 : 劉永傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

劉永字公壽,先主子,後主庶弟也。章武元年六月,使司徒靖立永為魯王,策曰:「少子永,受茲青土。朕承天序,繼統大業,遵脩稽古,建爾國家,封于東土,奄有龜蒙,世為藩輔。嗚呼,恭朕之詔!惟彼魯邦,一變適道,風化存焉。人之好德,世茲懿美。王其秉心率禮,綏爾士民,是饗是宜,其戒之哉!」

劉(りゅう)永(えい)は、字(あざな)は公(こう)寿(じゅ)で、劉(りゅう)備(び)の子で、劉(りゅう)禅(ぜん)の異母弟だよ。
章(しょう)武(ぶ)元年(221年)、六月、司(し)徒(と)の許(きょ)靖(せい)を送って劉(りゅう)永(えい)を魯(ろ)王(おう)に立てたよ。劉(りゅう)備(び)は命令を下してこう言ったよ。
「子の劉(りゅう)永(えい)よ、この青い土(東の土地)を授けるよ。私は天の秩序を受けて、大業を継いで、古代の教えを守って、国を建てて、東の地に封じるよ。亀(き)山(ざん)と蒙(もう)山(ざん)を領有して、代々王室を守ってね。ああ、私の詔を謹んで受けてね! 魯(ろ)の国は、一度変われば正しい道に従って、良い風習と教えが今も存在しているよ。人々は徳を好んで、立派な徳が世に続いているよ。あなたは、心を正しく保って、礼を守って国を治めて、民を安心させてね。それこそが、ふさわしくて善いことなんだ。このことを深く戒めて、決して怠らないようにね!」

五行説に則って、東の土地を「青い土」と表現しているよ。実際は、魯(ろ)の国は魏(ぎ)の領土。

本文

建興八年,改封為甘陵王。初,永憎宦人黃皓,皓旣信任用事,譖構永於後主,後主稍踈外永,至不得朝見者十餘年。咸熈元年,永東遷洛陽,拜奉車都尉,封為鄉侯。

建(けん)興(こう)八年(230年)、甘(かん)陵(りょう)王(おう)に改めて封ぜられたよ。
もともと、劉(りゅう)永(えい)は宦官の黄(こう)皓(こう)を憎んでいたの。黄(こう)皓(こう)が信任を得て実権を握ると、彼は劉(りゅう)禅(ぜん)に劉(りゅう)永(えい)の悪口を言って、劉(りゅう)禅(ぜん)はだんだんと劉(りゅう)永(えい)を遠ざけるようになったから、10年以上も朝廷へ行くことを許されなかったんだ。
咸(かん)熙(き)元年(264年)、劉(りゅう)永(えい)は東へ洛(らく)陽(よう)に移されて、奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)に任命されて、郷(きょう)侯(こう)に封ぜられたよ。

劉理伝

三國志 : 蜀書四 : 劉理傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

劉理字奉孝,亦後主庶弟也,與永異母。章武元年六月,使司徒靖立理為梁王,策曰:「小子理,朕統承漢序,祗順天命,遵脩典秩,建爾于東,為漢藩輔。惟彼梁土,畿甸之邦,民狎教化,易導以禮。往悉乃心,懷保黎庶,以永爾國,王其敬之哉!」

劉(りゅう)理(り)は、字(あざな)は奉(ほう)孝(こう)で、彼もまた劉(りゅう)禅(ぜん)の異母弟だよ。劉(りゅう)永(えい)とは異母兄弟だよ。
章(しょう)武(ぶ)元年(221年)、六月、司(し)徒(と)の許(きょ)靖(せい)を送って劉(りゅう)理(り)を梁(りょう)王(おう)に立てたよ。劉(りゅう)備(び)は命令を下してこう言ったよ。
「子の劉(りゅう)理(り)よ、私は漢(かん)の秩序を受け継いで、天命を敬って従って、古の典章と制度を守っているよ。あなたを東の地に封じて、王室を守らせるよ。梁(りょう)の地は王都に近い重要な地域で、民は教えに親しんで、礼によって導きやすいよ。ゆく先々で心を尽くして、民を慈しんで守って、永くその国を治めてね。あなたは、この務めを敬って、大切に果たしてね!」

本文

建興八年,改封理為安平王。延熈七年卒,謚曰悼王。子哀王胤嗣,十九年卒。子殤王承嗣,二十年卒。景耀四年詔曰:「安平王,先帝所命。三世早夭,國嗣頹絕,朕用傷悼。其以武邑侯輯襲王位。」輯,理子也,咸熈元年,東遷洛陽,拜奉車都尉,封鄉侯。

建(けん)興(こう)八年(230年)、劉(りゅう)理(り)は安(あん)平(ぺい)王(おう)に改めて封ぜられたよ。延(えん)熙(き)七年(244年)に亡くなって、諡を悼(とう)王(おう)としたよ。子で哀(あい)王(おう)の劉(りゅう)胤(いん)が後を継いだけど、延熙十九年(256年)に亡くなったんだ。子で殤(しょう)王(おう)の劉(りゅう)承(しょう)が後を継いだけど、翌年の延熙二十年(257年)に亡くなったよ。
景(けい)耀(よう)四年(261年)、劉(りゅう)禅(ぜん)は命令を下してこう言ったよ。
「安平王(劉(りゅう)理(り))は先帝(劉(りゅう)備(び))が任命した王だよ。3世代にわたって早くに亡くなって、国の後継者が途絶えちゃったことは、私にとってとても悲しいことなんだ。だから、武(ぶ)邑(ゆう)侯(こう)の劉(りゅう)輯(しゅう)に安平王の位を継がせるよ」
劉(りゅう)輯(しゅう)は劉(りゅう)理(り)の子だよ。咸(かん)熙(き)元年(264年)、東の洛(らく)陽(よう)に移されて、奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)に任命されて、郷(きょう)侯(こう)に封ぜられたよ。

太子璿伝

三國志 : 蜀書四 : 太子璿傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

後主太子璿,字文衡。母王貴人,本敬哀張皇后侍人也。延熈元年正月策曰:「在昔帝王,繼體立嗣,副貳國統,古今常道。今以璿為皇太子,昭顯祖宗之威,命使行丞相事左將軍朗持節授印緩。其勉脩茂質,祗恪道義,諮詢典禮,敬友師傅,斟酌衆善,翼成爾德,可不務脩以自勗哉!」時年十五。景耀六年冬,蜀亡。咸熈元年正月,鍾會作亂於成都,璿為亂兵所害。(註6)

劉(りゅう)禅(ぜん)の太子の劉(りゅう)璿(せん)は、字(あざな)は文(ぶん)衡(こう)だよ。母の王(おう)貴(き)人(じん)は、もともとは敬(けい)哀(あい)張(ちょう)皇(こう)后(ごう)の侍女だったの。
延(えん)熙(き)元年(238年)、正月、劉(りゅう)禅(ぜん)は命令を下してこう言ったよ。
「昔の帝王たちは、代々王位を継いで、継承者を立てて国家の統治を補佐させることが常で、これは古代も今も変わらない道理だよ。今、劉(りゅう)璿(せん)を皇太子として、祖宗の威光を明らかにするよ。丞(じょう)相(しょう)の職務を代行する左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の向(しょう)朗(ろう)に節を持たせて印綬を授けるように命令するよ。志を高く持って、徳を修めて、道義を敬って慎んで、典礼について相談して、師傅(教育係)を敬って親しんで、たくさんの善を取り入れて、自分の徳を育むんだ。そのために努力して、自らを励ましてね!」
この時、劉(りゅう)璿(せん)は15歳だったよ。
景(けい)耀(よう)六年(263年)、冬、蜀(しょく)は滅びたんだ。咸(かん)熙(き)元年(264年)、正月、鍾(しょう)会(かい)が成(せい)都(と)で反乱を起こして、劉(りゅう)璿(せん)は兵乱によって命を落としたんだ。

(註6)

孫盛蜀世譜曰:璿弟,瑤、琮、瓚、諶、恂、璩六人。蜀敗,諶自殺,餘皆內徙。值永嘉大亂,子孫絕滅。唯永孫玄奔蜀,李雄偽署安樂公以嗣禪後。永和三年討李勢,盛參戎行,見玄於成都也。

孫(そん)盛(せい)の『蜀(しょく)世(せい)譜(ふ)』によると、劉(りゅう)璿(せん)の弟には、劉(りゅう)瑤(よう)、劉(りゅう)琮(そう)、劉(りゅう)瓚(さん)、劉(りゅう)諶(しん)、劉(りゅう)恂(じゅん)、劉(りゅう)璩(きょ)の6人がいたんだって。蜀(しょく)が敗れると、劉(りゅう)諶(しん)は自ら命を絶って、他の者たちはみんな国内に移されたよ。永(えい)嘉(か)の乱に遭って、その子孫たちはみんな滅んだの。唯一、劉(りゅう)永(えい)の孫の劉(りゅう)玄(げん)は蜀(しょく)に逃れて、李(りゆ)雄(う)が偽って安(あん)楽(らく)公(こう)として劉(りゅう)禅(ぜん)の後を継がせたんだよ。永(えい)和(わ)三年(347年)、(東(とう)晋(しん)が)李(り)勢(せい)を討つと、孫(そん)盛(せい)は軍に参加して、成(せい)都(と)で劉(りゅう)玄(げん)に会ったよ。

陳寿の評

本文

評曰:易稱有夫婦然後有父子,夫人倫之始,恩紀之隆,莫尚於此矣。是故紀錄,以究一國之體焉。

評すると、『易(えき)経(きょう)』には、「夫婦があってこそ父と子がある」とあるよ。夫婦は人と人との関係の始まりで、恩愛の秩序の中でも最も重要なものとされているんだ。だから、これを記録して、1つの国の根本を明らかにするの。

「蜀書二主妃子伝」は以上だよ!