はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「蜀書二主妃子伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
甘皇后、穆皇后、敬哀皇后、張皇后、劉永、劉理、劉璿 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

甘皇后伝
三國志 : 蜀書四 : 甘皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
先主甘皇后,沛人也。先主臨豫州,住小沛,納以為妄。先主數喪嫡室,常攝內事。隨先主於荊州,產後主。值曹公軍至,追及先主於當陽長阪,于時困偪,棄后及後主,賴趙雲保護,得免於難。后卒,葬于南郡。章武二年,追謚皇思夫人,遷葬於蜀,未至而先主殂隕。
劉備の妻の甘皇后は、沛の出身だよ。劉備が豫州を治めて、小沛に住んでいたときに、甘皇后を妻として迎えたよ。劉備は何度も正妻を亡くしたから、甘皇后が家のことを取り仕切っていたんだって。
甘皇后は劉備と一緒に荊州へ行って、そこで劉禅を産んだよ。でも、曹操の軍が来ると、劉備は当陽の長阪で追いつかれて、困難な状況に陥っちゃった。劉備は甘皇后と劉禅を置き去りにしたけど、趙雲が守ってくれたおかげで難を逃れたの。
その後、甘皇后は亡くなって、南郡に葬られたんだ。章武二年(222年)、皇思夫人の謚号を贈られて、蜀に移して葬られることになったけど、着く前に劉備が亡くなったんだ。
丞相亮上言:「皇思夫人履行脩仁,淑慎其身。大行皇帝昔在上將,嬪配作合,載育聖躬,大命不融。大行皇帝存時,篤義垂恩,念皇思夫人神柩在遠飄颻,特遣使者奉迎。會大行皇帝崩,今皇思夫人神柩以到,又梓宮在道,園陵將成,安厝有期。臣輒與太常臣賴恭等議:禮記曰:『立愛自親始,教民孝也;立敬自長始,教民順也。』不忘其親,所由生也。春秋之義,母以子貴。昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后,孝和皇帝改葬其母梁貴人,尊號曰恭懷皇后,孝愍皇帝亦改葬其母王夫人,尊號曰靈懷皇后。今皇思夫人宜有尊號,以慰寒泉之思,輒與恭等案謚法,宜曰昭烈皇后。詩曰:『穀則異室,死則同穴。』(註1)故昭烈皇后宜與大行皇帝合葬,臣請太尉告宗廟,布露天下,具禮儀別奏。」制曰可。
丞相の諸葛亮は上奏してこう言ったよ。
「甘皇后は、行いを慎んで、仁徳を積んで、身を淑やかに保っていたよ。大行皇帝(劉備)が将だった頃、甘皇后は妃として結婚して一緒に歩んできたよ。聖なる皇子(劉禅)を生んだけど、天命は叶わなくて、志半ばで亡くなったんだ。大行皇帝が生きていた時には、深い義と恩を示して、甘皇后の霊柩が遠く離れた地に留め置かれていることを気にかけて、特別に使者を送って迎えようとしたよ。でも、ちょうどその時に大行皇帝は亡くなったんだ。今、甘皇后の霊柩が着いて、大行皇帝の棺もまだ道中にあって、陵墓は完成間近で、埋葬の日が定められようとしているよ。私は太常の頼恭たちと協議したよ。『礼記』には、『愛は親から始まって、それによって民に孝を教える。敬は年長者から始まって、それによって民に順を教える』とあって、親を忘れないことこそが、人としての道理だね。『春秋』の教えでは、『母は子によって貴くなる』とされているよ。
昔、高皇帝(劉邦)は太上の昭霊夫人(劉邦の父の妻、劉邦の母)に昭霊皇后の尊号を贈ったよ。孝和皇帝(劉肇)は母の梁貴人を改めて葬って恭懐皇后としたよ。孝愍皇帝(劉協)も母の王夫人を改めて葬って霊懐皇后としたよ。
今、甘皇后にも尊号を贈って、死者の世界で慰めとすべきだよ。頼恭たちと諡号を定める法を調べたところ、昭烈皇后とするのがふさわしいと考えるよ。『詩経』には『生きている頃は別々の家に住んでも、死んだ後は同じ墓に入る』とあるよ。だから、甘皇后は大行皇帝と合葬されるべきだよ。私は太尉に宗廟(祖先の廟)に告げるように命令して、天下に知らせて、礼儀の詳細についてはまた別に上奏するね」
制によって許可されたよ。
禮云:上古無合葬,中古後因時方有。
『礼記』によると、古代には合葬は無いけど、より後の時代には時によってはあったんだって。
穆皇后伝
三國志 : 蜀書四 : 穆皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
先主穆皇后,陳留人也。兄吳壹,少孤,壹父素與劉焉有舊,是以舉家隨焉入蜀。焉有異志,而聞善相者相后當大貴。焉時將子瑁自隨,遂為瑁納后。瑁死,后寡居。先主旣定益州,而孫夫人還吳,(註2)羣下勸先主聘后,先主疑與瑁同族,法正進曰:「論其親踈,何與晉文之於子圉乎?」於是納后為夫人。(註3)
劉備の妻の穆皇后は、陳留の出身だよ。兄の呉壱は幼い頃に孤児となって、彼の父は劉焉と古くからの知り合いだったから、家族全員で劉焉について行って蜀に入ったよ。劉焉には特別な志があって、優れた占い師が『穆皇后は将来大きな栄誉を受ける』と占ったんだって。そのとき、劉焉は子の劉瑁を連れていて、劉瑁の妻として穆皇后を迎えたよ。劉瑁亡くなって、穆皇后は未亡人となったの。
劉備が益州を平定して、孫夫人が呉に帰ると、臣下たちは劉備に穆皇后を迎えるように勧めたよ。劉備は劉瑁と同じ一族であることを疑ったけど、法正がこう進言したよ。
「親しさの程度を考えれば、晋の文公が子圉を迎えたのと同じだよ」
こうして、劉備は穆皇后を妻として迎えたよ。
子圉は、晋の懐公だよ。重耳(晋の文公、子圉の伯父)の妻の一人の懐嬴は、もともと子圉の妻だったよ。懐嬴は秦の穆公の娘で、子圉が秦に人質として送られたときに結婚したよ。でも、子圉が晋での権力闘争に敗れた後、懐嬴は重耳と結婚したんだよ。『春秋左氏伝』を見てね。
漢晉春秋云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。
『漢晋春秋』によると、劉備が益州に入ると、呉は孫夫人を迎えに行ったよ。孫夫人は太子(劉禅)を連れて呉に帰ろうとしたけど、諸葛亮は趙雲に命令して兵を指揮させて、長江を断って彼女たちを留めたよ。こうして、劉禅を連れ戻すことができたんだ。
習鑿齒曰:夫婚姻,人倫之始,王化之本,匹夫猶不可以無禮,而況人君乎?晉文廢禮行權,以濟其業,故子犯曰,有求於人,必先從之,將奪其國,何有於妻,非無故而違禮教者也。今先主無權事之偪,而引前失以為譬,非導其君以堯、舜之道者。先主從之,過矣。
習鑿歯によると、婚姻は、人と人との関係の始まりで、社会の基盤だよ。一般の人ですら礼を欠いてはいけないのに、まして君主はなおさらだよね。晋の文公は礼を破ってその場での対応をして、その結果、成功を収めたよ。だから子犯(狐偃)は『人に何かを求めるときは、まず従わなければならないよ。国を奪おうとしているのに、妻をどうするかは問題ではないよね』と言ったんだ。これは理由もなく礼を破ることではなかったんだ。
今、劉備は権力に迫られるような事情もないのに、過去の失敗を引き合いに出して例にしたのは、君主に堯や舜の道を導くものではないよ。劉備がこれに従ったのは誤りだったと言えるよ。
建安二十四年,立為漢中王后。章武元年夏五月,策曰:「朕承天命,奉至尊,臨萬國。今以后為皇后,遣使持節丞相亮授璽綬,承宗廟,母天下,皇后其敬之哉!」建興元年五月,後主即位,尊后為皇太后,稱長樂宮。壹官至車騎將軍,封縣侯。延熈八年,后薨,合葬惠陵。(註4)
建安二十四年(219年)、穆皇后は漢中王后として立てらたよ。
章武元年(221年)、夏の五月、劉備は命令を下してこう言ったよ。
「私は天命を受けて、最高の地位を奉じて、すべての国を治めるよ。今、穆皇后を皇后として、使者を送って丞相(諸葛亮)に皇后の印綬を授けさせて、宗廟(祖先の廟)を継いで、天下の母とするよ。皇后はこれを敬ってね!」
建興元年(223年)、五月、劉禅が皇帝に即位して、穆皇后を皇太后として、「長楽宮」と称したよ。呉壱は車騎将軍にまで昇進して、県侯に封ぜられたよ。
延熙八年(245年)、穆皇后は亡くなって、恵陵に合葬されたんだ。
孫盛蜀世譜曰:壹孫喬,沒李雄中三十年,不為雄屈也。
孫盛の『蜀世譜』によると、呉壱の孫の呉喬は李雄の治世の下で30年間過ごしたけど、李雄に屈服しなかったんだって。
李雄は、成漢の建国者だよ。
敬哀皇后伝
三國志 : 蜀書四 : 敬哀皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
後主敬哀皇后,車騎將軍張飛長女也。章武元年,納為太子妃。建興元年,立為皇后。十五年薨,葬南陵。
劉禅の妻の敬哀皇后は、車騎将軍の張飛の長女だよ。
章武元年(221年)、太子妃として迎えられたよ。建興元年(223年)、皇后に立てられたよ。建興十五年(237年)に亡くなって、南陵に葬られたんだ。
張皇后伝
三國志 : 蜀書四 : 張皇后傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
後主張皇后,前后敬哀之妹也。建興十五年,入為貴人。延熈元年春正月,策曰:「朕統承大業,君臨天下,奉郊廟社稷。今以貴人為皇后,使行丞相事左將軍向朗持節授璽綬。勉脩中饋,恪肅禋祀,皇后其敬之哉!」咸熈元年,隨後主遷于洛陽。(註5)
劉禅の妻の張皇后は、前の敬哀皇后の妹だよ。建興十五年(237年)、貴人として迎えられたよ。延熙元年(238 年)、春の正月、劉禅は命令を下してこう言ったよ。
「私は大業を受け継いで、天下を治めて、郊廟(皇祖の廟)と社稷(国家)を奉じるよ。今、貴人を皇后として、丞相の職務を代行する左将軍の向朗に節を持たせて、皇后の印綬を授けさせるよ。皇后は、宮中の祭祀や職務に励んで、慎み深く敬って祀りをしてね。どうか、この任を敬って、誠実に務めてね!」
咸熙元年(264年)、劉禅と一緒に洛陽に移ったんだ。
漢晉春秋曰:魏以蜀宮人賜諸將之無妻者,李昭儀曰:「我不能二三屈辱。」乃自殺。
『漢晋春秋』によると、魏は蜀の宮中の女性たちを、妻のいない将たちに与えたよ。李昭儀は「私は二度も三度も屈辱を受けることはできない」と言って、自ら命を絶ったんだ。
劉永伝
三國志 : 蜀書四 : 劉永傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
劉永字公壽,先主子,後主庶弟也。章武元年六月,使司徒靖立永為魯王,策曰:「少子永,受茲青土。朕承天序,繼統大業,遵脩稽古,建爾國家,封于東土,奄有龜蒙,世為藩輔。嗚呼,恭朕之詔!惟彼魯邦,一變適道,風化存焉。人之好德,世茲懿美。王其秉心率禮,綏爾士民,是饗是宜,其戒之哉!」
劉永は、字は公寿で、劉備の子で、劉禅の異母弟だよ。
章武元年(221年)、六月、司徒の許靖を送って劉永を魯王に立てたよ。劉備は命令を下してこう言ったよ。
「子の劉永よ、この青い土(東の土地)を授けるよ。私は天の秩序を受けて、大業を継いで、古代の教えを守って、国を建てて、東の地に封じるよ。亀山と蒙山を領有して、代々王室を守ってね。ああ、私の詔を謹んで受けてね! 魯の国は、一度変われば正しい道に従って、良い風習と教えが今も存在しているよ。人々は徳を好んで、立派な徳が世に続いているよ。あなたは、心を正しく保って、礼を守って国を治めて、民を安心させてね。それこそが、ふさわしくて善いことなんだ。このことを深く戒めて、決して怠らないようにね!」
五行説に則って、東の土地を「青い土」と表現しているよ。実際は、魯の国は魏の領土。
建興八年,改封為甘陵王。初,永憎宦人黃皓,皓旣信任用事,譖構永於後主,後主稍踈外永,至不得朝見者十餘年。咸熈元年,永東遷洛陽,拜奉車都尉,封為鄉侯。
建興八年(230年)、甘陵王に改めて封ぜられたよ。
もともと、劉永は宦官の黄皓を憎んでいたの。黄皓が信任を得て実権を握ると、彼は劉禅に劉永の悪口を言って、劉禅はだんだんと劉永を遠ざけるようになったから、10年以上も朝廷へ行くことを許されなかったんだ。
咸熙元年(264年)、劉永は東へ洛陽に移されて、奉車都尉に任命されて、郷侯に封ぜられたよ。
劉理伝
三國志 : 蜀書四 : 劉理傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
劉理字奉孝,亦後主庶弟也,與永異母。章武元年六月,使司徒靖立理為梁王,策曰:「小子理,朕統承漢序,祗順天命,遵脩典秩,建爾于東,為漢藩輔。惟彼梁土,畿甸之邦,民狎教化,易導以禮。往悉乃心,懷保黎庶,以永爾國,王其敬之哉!」
劉理は、字は奉孝で、彼もまた劉禅の異母弟だよ。劉永とは異母兄弟だよ。
章武元年(221年)、六月、司徒の許靖を送って劉理を梁王に立てたよ。劉備は命令を下してこう言ったよ。
「子の劉理よ、私は漢の秩序を受け継いで、天命を敬って従って、古の典章と制度を守っているよ。あなたを東の地に封じて、王室を守らせるよ。梁の地は王都に近い重要な地域で、民は教えに親しんで、礼によって導きやすいよ。ゆく先々で心を尽くして、民を慈しんで守って、永くその国を治めてね。あなたは、この務めを敬って、大切に果たしてね!」
建興八年,改封理為安平王。延熈七年卒,謚曰悼王。子哀王胤嗣,十九年卒。子殤王承嗣,二十年卒。景耀四年詔曰:「安平王,先帝所命。三世早夭,國嗣頹絕,朕用傷悼。其以武邑侯輯襲王位。」輯,理子也,咸熈元年,東遷洛陽,拜奉車都尉,封鄉侯。
建興八年(230年)、劉理は安平王に改めて封ぜられたよ。延熙七年(244年)に亡くなって、諡を悼王としたよ。子で哀王の劉胤が後を継いだけど、延熙十九年(256年)に亡くなったんだ。子で殤王の劉承が後を継いだけど、翌年の延熙二十年(257年)に亡くなったよ。
景耀四年(261年)、劉禅は命令を下してこう言ったよ。
「安平王(劉理)は先帝(劉備)が任命した王だよ。3世代にわたって早くに亡くなって、国の後継者が途絶えちゃったことは、私にとってとても悲しいことなんだ。だから、武邑侯の劉輯に安平王の位を継がせるよ」
劉輯は劉理の子だよ。咸熙元年(264年)、東の洛陽に移されて、奉車都尉に任命されて、郷侯に封ぜられたよ。
太子璿伝
三國志 : 蜀書四 : 太子璿傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
後主太子璿,字文衡。母王貴人,本敬哀張皇后侍人也。延熈元年正月策曰:「在昔帝王,繼體立嗣,副貳國統,古今常道。今以璿為皇太子,昭顯祖宗之威,命使行丞相事左將軍朗持節授印緩。其勉脩茂質,祗恪道義,諮詢典禮,敬友師傅,斟酌衆善,翼成爾德,可不務脩以自勗哉!」時年十五。景耀六年冬,蜀亡。咸熈元年正月,鍾會作亂於成都,璿為亂兵所害。(註6)
劉禅の太子の劉璿は、字は文衡だよ。母の王貴人は、もともとは敬哀張皇后の侍女だったの。
延熙元年(238年)、正月、劉禅は命令を下してこう言ったよ。
「昔の帝王たちは、代々王位を継いで、継承者を立てて国家の統治を補佐させることが常で、これは古代も今も変わらない道理だよ。今、劉璿を皇太子として、祖宗の威光を明らかにするよ。丞相の職務を代行する左将軍の向朗に節を持たせて印綬を授けるように命令するよ。志を高く持って、徳を修めて、道義を敬って慎んで、典礼について相談して、師傅(教育係)を敬って親しんで、たくさんの善を取り入れて、自分の徳を育むんだ。そのために努力して、自らを励ましてね!」
この時、劉璿は15歳だったよ。
景耀六年(263年)、冬、蜀は滅びたんだ。咸熙元年(264年)、正月、鍾会が成都で反乱を起こして、劉璿は兵乱によって命を落としたんだ。
孫盛蜀世譜曰:璿弟,瑤、琮、瓚、諶、恂、璩六人。蜀敗,諶自殺,餘皆內徙。值永嘉大亂,子孫絕滅。唯永孫玄奔蜀,李雄偽署安樂公以嗣禪後。永和三年討李勢,盛參戎行,見玄於成都也。
孫盛の『蜀世譜』によると、劉璿の弟には、劉瑤、劉琮、劉瓚、劉諶、劉恂、劉璩の6人がいたんだって。蜀が敗れると、劉諶は自ら命を絶って、他の者たちはみんな国内に移されたよ。永嘉の乱に遭って、その子孫たちはみんな滅んだの。唯一、劉永の孫の劉玄は蜀に逃れて、李雄が偽って安楽公として劉禅の後を継がせたんだよ。永和三年(347年)、(東晋が)李勢を討つと、孫盛は軍に参加して、成都で劉玄に会ったよ。
陳寿の評価
評曰:易稱有夫婦然後有父子,夫人倫之始,恩紀之隆,莫尚於此矣。是故紀錄,以究一國之體焉。
評すると、『易経』には、「夫婦があってこそ父と子がある」とあるよ。夫婦は人と人との関係の始まりで、恩愛の秩序の中でも最も重要なものとされているんだ。だから、これを記録して、1つの国の根本を明らかにするの。
「蜀書二主妃子伝」は以上だよ!