はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「呉書妃嬪伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

孫破虜呉夫人伝
三國志 : 吳書五 : 孫破虜吳夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
孫破虜吳夫人,吳主權母也。本吳人,徙錢唐,早失父母,與弟景居。孫堅聞其才貌,欲娶之。吳氏親戚嫌堅輕狡,將拒焉,堅甚以慙恨。夫人謂親戚曰:「何愛一女以取禍乎?如有不遇,命也。」於是遂許為婚,生四男一女。(註1)
孫堅の妻の呉夫人は、孫権の母だよ。もともとは呉の出身で、後に銭唐に移り住んだよ。幼い頃に両親を亡くして、弟の呉景と一緒に暮らしていたんだって。孫堅が彼女の才能と美しさを聞いて、結婚したいと思ったよ。でも、呉氏の親戚たちは、孫堅が軽薄でずる賢いと思っていて反対したんだ。これに孫堅はとても恥ずかしく思って、悔しがったの。呉氏は親戚たちに、こう言ったよ。
「たったひとりの女の子のことで災いを招いてはいけないよ。もし何か悪いことが起こったとしても、それは天命だよ」
こうして結婚を許されて、4人の男の子と1人の女の子を生んだよ。
搜神記曰:初,夫人孕而夢月入其懷,旣而生策。及權在孕,又夢日入其懷,以告堅曰:「昔姙策,夢月入我懷,今也又夢日入我懷,何也?」堅曰:「日月者陰陽之精,極貴之象,吾子孫其興乎!」
『搜神記』によると、呉氏が妊娠すると、月が自分の懐に入る夢を見て、その後に孫策が生まれたんだって。そして、孫権を妊娠すると、今度は日が自分の懐に入る夢を見たの。彼女は孫堅にこう尋ねたよ。
「前に、孫策を妊娠していたときには、月が私の懐に入る夢を見たんだ。今度は日が入る夢を見たよ。これはどういう意味?」
孫堅はこう答えたよ。
「日と月は陰陽の精で、とても尊い象徴だよ。これは私たちの子孫が栄える前兆だね!」
景常隨堅征伐有功,拜騎都尉。袁術上景領丹楊太守,討故太守周昕,遂據其郡。孫策與孫河、呂範依景,合衆共討涇縣山賊祖郎,郎敗走。會景為劉繇所迫,復北依術,術以為督軍中郎將,與孫賁共討樊能、于麋於橫江,又擊笮融、薛禮於秣陵。時策被創牛渚,降賊復反,景攻討,盡禽之。
呉景は、いつも孫堅に従って戦いに参加して功績をあげたから、騎都尉に任命されたよ。袁術は呉景を丹楊太守に任命して、元の太守の周昕を討って、その郡を支配したよ。孫策は孫河や呂範と一緒に呉景を頼って、軍を集めて涇県の山賊の祖郎を討って、祖郎は敗走したよ。
この時、呉景は劉繇に攻められて、ふたたび北に逃れて袁術を頼ったんだ。袁術は呉景を督軍中郎将に任命して、孫賁と一緒に樊能と于麋を横江で討って、さらに笮融と薛礼を秣陵で攻撃したよ。この時、孫策は牛渚で傷を負って、降伏していた賊がふたたび反乱を起こしちゃった。呉景はこれを討って、すべて捕らえたよ。
從討劉繇,繇奔豫章,策遣景、賁到壽春報術。術方與劉備爭徐州,以景為廣陵太守。術後僭號,策以書喻術,術不納,便絕江津,不與通,使人告景。景即委郡東歸,策復以景為丹楊太守。漢遣議郎王誧(註2)銜命南行,表景為揚武將軍,領郡如故。
その後、呉景は劉繇を討つために従って、劉繇は豫章に逃げたんだ。孫策は呉景と孫賁を寿春に送って、袁術に知らせたよ。袁術はちょうど劉備と徐州を争っていて、呉景を広陵太守に任命したよ。 袁術が皇帝を勝手に名乗ると、孫策は手紙で袁術を説得したけど、袁術はこれを受け入れなかったの。孫策は江津を絶って袁術との通行を断って、そのことを呉景に知らせたよ。呉景はすぐに広陵を離れて東に帰って、孫策はふたたび呉景を丹楊太守に任命したよ。漢の朝廷は議郎の王誧を南に行かせて、呉景を揚武将軍に任命して、そのまま太守を兼ねさせたよ。
音普。
「誧」の発音は「普」だよ。
及權少年統業,夫人助治軍國,甚有補益。(註3)建安七年,臨薨,引見張昭等,屬以後事,合葬高陵。(註4)
孫権が若い頃に事業を引き継ぐと、呉氏は軍事や国政の運営を助けて、大きな役目を果たしたんだって。
建安七年(202年)、呉氏が亡くなる直前に、張昭たちを呼んで、後のことを託したよ。彼女は高陵に合葬されたんだ。
會稽典錄曰:策功曹魏騰,以迕意見譴,將殺之,士大夫憂恐,計無所出。夫人乃倚大井而謂策曰:「汝新造江南,其事未集,方當優賢禮士,捨過錄功。魏功曹在公盡規,汝今日殺之,則明日人皆叛汝。吾不忍見禍之及,當先投此井中耳。」策大驚,遽釋騰。夫人智略權譎,類皆如此。
『会稽典録』によると、孫策の功曹(人事官)の魏騰は、孫策と意見が合わなくて叱られて、殺されそうになったんだ。士大夫たちは心配して、どうしたらいいのかわからなくなっちゃった。そこで呉氏は大きな井戸のそばに立って、孫策にこう言ったよ。
「あなたは江南に来たばかりで、まだ事を成し遂げていないよ。今は賢人をよく扱って、士人を丁寧にもてなして、過ちを許して功績を記録するべき時だよ。魏功曹(魏騰)は公務に全力を尽くしているの。今日彼を殺しちゃったら、明日にはみんながあなたを裏切るだろうね。私は災いが及ぶのを見たくないから、先にこの井戸に身を投げるよ」
孫策はとてもびっくりして、急いで魏騰を解放したよ。呉氏の知恵と策略はこのように優れていたんだよ。
志林曰:按會稽貢舉簿,建安十二年到十三年闕,無舉者,云府君遭憂,此則吳后以十二年薨也。八年九年皆有貢舉,斯甚分明。
『志林』によると、会稽の推挙の簿を調べたところ、建安十二年(207年)から二十三年(208年)の間は空白で、誰も推薦されていなかったんだ。これは、喪に服していたからだよ。つまり、これは呉氏が建安十二年(207年)に亡くなったことを示しているよ。建安八年(203年)と九年(204年)には推挙があって、このことからも十分に明らかだね。
八年,景卒官,子奮授兵為將,封新亭侯,卒。(註5)子安嗣,安坐黨魯王霸死。奮弟祺,(註6)封都亭侯,卒。子纂嗣。纂妻即滕胤女也,胤被誅,并遇害。
建安八年(203年)、呉景は官職に就いたまま亡くなったんだ。子の呉奮は兵を授けられて将となって、新亭侯に封ぜられたけど、彼も亡くなったんだ。子の呉安が後を継いだけど、魯王の孫覇の仲間に加担したから処刑されたんだ。
呉奮の弟の呉祺は都亭侯に封ぜられたけど、彼も亡くなったんだ。子の呉纂が後を継いだよ。呉纂の妻は滕胤の娘で、滕胤が計画を企んで殺されたから、呉纂も同じく殺されたんだ。
吳書曰:權征荊州,拜奮吳郡都督,以鎮東方。
『呉書』によると、孫権は荊州を征伐して、呉奮を呉郡都督に任命して、東を鎮めさせたよ。
吳書曰:祺與張溫、顧譚友善,權令關平辭訟事。
『呉書』によると、呉祺は張温や顧譚と仲が良くて、孫権は訴訟の事務を担当させたよ。
呉主権謝夫人伝
三國志 : 吳書五 : 吳主權謝夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權謝夫人,會稽山陰人也。父㷡,漢尚書郎、徐令。(註7)
孫権の妻の謝夫人は、会稽郡山陰県の出身だよ。父の謝㷡は、漢の尚書郎や徐県令を務めたよ。
㷡子承撰後漢書,稱㷡幼以仁孝為行,明達有令才。㷡弟貞,履蹈法度,篤學尚義,舉孝廉,建昌長,卒官。
謝㷡の子の謝承は『後漢書』を作って、その中で謝㷡は幼いころから仁や孝を実践して、明晰で優れた才能を持っていたと言っているよ。謝㷡の弟の謝貞は法度を守って、学問に励んで、義を重んじていたんだって。孝廉に推挙されて、建昌県長に任命されたけど、官職に就いたまま亡くなったんだ。
權母吳,為權聘以為妃,愛幸有寵。後權納姑孫徐氏,欲令謝下之,謝不肯,由是失志,早卒。後十餘年,弟承拜五官郎中,稍遷長沙東部都尉、武陵太守,撰後漢書百餘卷。(註8)
孫権の母の呉氏は、孫権のために謝氏を妃として迎えて、孫権は彼女を愛したよ。でもその後、孫権は姑の孫の徐氏を妻として迎えて、謝氏に徐氏に従うように命令したんだ。謝氏これを拒んで、落ち込んで早くに亡くなったんだ。
その後10年以上が経って、弟の謝承は五官郎中に任命されて、どんどん昇進して長沙東部都尉や武陵太守になったよ。謝承は『後漢書』を100巻以上にわたって作ったの。
會稽典錄曰:承字偉平,博學洽聞,嘗所知見,終身不忘。子崇揚威將軍,崇弟勗吳郡太守,並知名。
『会稽典録』によると、謝承は、字は偉平で、博学で広く知識があって、一度聞いたことは生涯忘れなかったの。子の謝崇は揚威将軍になって、謝崇の弟の謝勗は呉郡太守になって、ふたりとも有名だったよ。
呉主権徐夫人伝
三國志 : 吳書五 : 吳主權徐夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權徐夫人,吳郡富春人也。祖父真,與權父堅相親,堅以妹妻真,生琨。琨少仕州郡,漢末擾亂,去吏,隨堅征伐有功,拜偏將軍。堅薨,隨孫策討樊能、于麋等於橫江,擊張英於當利口,而船少,欲駐軍更求。琨母時在軍中,謂琨曰:「恐州家多發水軍來逆人,則不利矣,如何可駐邪?宜伐蘆葦以為泭,佐船渡軍。」(註9)
孫権の妻の徐夫人は、呉郡富春県の出身だよ。祖父の徐真は、孫権の父の孫堅と仲が良くて、孫堅は妹を徐真に嫁がせて、徐琨が生まれたよ。
徐琨は若い頃から州や郡に仕えていたけど、漢の時代の終わり頃に天下がとても混乱していて、官職を離れたんだ。孫堅に従って戦いに参加して功績を挙げたから、偏将軍に任命されたよ。
孫堅が亡くなると、徐琨は孫策に従って、樊能や于麋を横江で討って、当利口で張英を撃破したよ。その時、船が少なくて、軍を駐留させて新たに船を求めようとしたの。徐琨の母は軍中にいて、徐琨にこう言ったよ。
「州の軍がたくさんの水軍を出して迎撃してくる恐れがあるから、それは不利だよ。どうして駐留なんてできるの? 葦を伐っていかだを作って、船を補って軍を渡るべきだよ」
泭音敷。郭璞注方言曰:「泭,水中𥱼也。」
「泭」は発音は「敷」だよ。郭璞が注をつけた『方言』によると、泭とは、水のいかだのことだよ。
琨具啟策,策即行之,衆悉俱濟,遂破英,擊走笮融、劉繇,事業克定。策表琨領丹楊太守,會吳景委廣陵來東,復為丹楊守,(註10)琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒。
徐琨はこのことを孫策に知らせて、孫策はすぐに実行したよ。軍勢はすべて渡ることができて、こうして張英を打ち破って、笮融と劉繇を撃退して、平定したよ。孫策は徐琨を丹楊太守に任命したよ。
その後、呉景が広陵を離れて東に戻って、ふたたび丹楊太守となると、徐琨は督軍中郎将として兵を率いて、廬江太守の李術を討ったよ。広徳侯に封ぜられて、平虜将軍に昇進したよ。その後、黄祖を討つ戦いに従って、流れ矢に当たって戦死したんだ。
江表傳曰:初,袁術遣從弟胤為丹楊,策令琨討而代之。會景還,以景前在丹楊,寬仁得衆,吏民所思,而琨手下兵多,策嫌其太重,且方攻伐,宜得琨衆,乃復用景,召琨還吳。
『江表伝』によると、もともと、袁術は従弟の袁胤を丹楊太守に任命したけど、孫策は徐琨に命令して討たせて、代わりに徐琨を任命したよ。
その後、呉景が戻って、呉景は丹楊にいた頃、広い心で人々の信頼を得ていて、役人や民から慕われていたの。一方、徐琨は部下の兵が多くて、孫策はその勢力が強すぎることを心配したんだ。戦闘が続いている状況では、徐琨の軍勢が必要だと考えて、孫策はふたたび呉景を丹楊太守に任命して、徐琨を呉に呼び寄せたよ。
琨生夫人,初適同郡陸尚。尚卒,權為討虜將軍在吳,聘以為妃,使母養子登。後權遷移,以夫人妬忌,廢處吳。積十餘年,權為吳王及即尊號,登為太子,羣臣請立夫人為后,權意在步氏,卒不許。後以疾卒。兄矯,嗣父琨侯,討平山越,拜偏將軍,先夫人卒,無子。弟祚襲封,亦以戰功至于蕪湖督、平魏將軍。
徐琨の娘の徐氏は、最初は呉郡の出身の陸尚に嫁いだよ。陸尚が亡くなった後、孫権が討虜将軍として呉にいた時に徐氏を妃として迎えて、母として子の孫登を育てさせたよ。でも、その後、孫権が昇進するにつれて、徐氏の嫉妬が問題になって、彼女は呉で廃位されたんだ。10年以上が過ぎて、孫権が呉王になって、皇帝になると、孫登が太子になったよ。臣下たちは徐氏を皇后に立てるように求めたけど、孫権の思いは歩夫人にあったから、最後まで許さなかったの。その後、徐氏は病気で亡くなったんだ。
兄の徐矯は父の徐琨の侯の位を継いで、山越族を討伐して平定して、偏将軍に任命されたけど、徐氏より先に亡くなって、子供はいなかったんだ。弟の徐祚は領地を受け継いで、戦いの功績によって蕪湖督や平魏将軍にまで昇進したんだ。
呉主権歩夫人伝
三國志 : 吳書五 : 吳主權步夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權步夫人,臨淮淮陰人也,與丞相隲同族。漢末,其母攜將徙廬江,廬江為孫策所破,皆東渡江,以美麗得幸於權,寵冠後庭。生二女,長曰魯班,字大虎,前配周瑜子循,後配全琮;少曰魯育,字小虎,前配朱據,後配劉纂。(註11)
孫権の妻の歩夫人は、臨淮郡淮陰県の出身で、丞相の歩隲と同じ一族だよ。漢の時代の終わり頃、彼女の母は彼女を連れて廬江に移住したよ。廬江は孫策に攻め落とされて、一家は東へ長江を渡ったんだ。歩氏はその美しさで孫権に愛されて、後宮で最も愛されたんだよ。 歩氏は2人の娘を生んだよ。長女は孫魯班で、字は大虎で、最初は周瑜の子の周循に嫁いで、後に全琮に嫁いだよ。次女は孫魯育で、字は小虎で、最初は朱拠に嫁いで、後に劉纂に嫁いだよ。
孫権さんは虎が好きなのかな。
吳歷曰:纂先尚權中女,早卒,故又以小虎為繼室。
『呉歴』によると、劉纂は最初に孫権の次女と結婚したけど、彼女は早くに亡くなったんだ。だから、孫権はふたたび小虎(孫魯育)を劉纂の後妻にしたんだよ。
夫人性不妬忌,多所推進,故乆見愛待。權為王及帝,意欲以為后,而羣臣議在徐氏,權依違者十餘年,然宮內皆稱皇后,親戚上疏稱中宮。
歩氏は嫉妬しないで、たくさんの人を推薦したから、長い間愛されて大切にされたよ。孫権が王や皇帝になると、彼は歩氏を皇后にしたいと思っていたけど、臣下たちは徐氏を推していて、孫権はこの問題で10年以上もためらっていたんだ。でも、宮内ではみんなが歩氏を皇后と呼んで、親戚も上書するときは中宮と称していたよ。
及薨,臣下緣權指,請追正名號,乃贈印綬,策命曰:「惟赤烏元年閏月戊子,皇帝曰:嗚呼皇后,惟后佐命,共承天地。虔恭夙夜,與朕均勞。內教脩整,禮義不愆。寬容慈惠,有淑懿之德。民臣縣望,遠近歸心。朕以世難未夷,大統未一,緣后雅志,每懷謙損。是以于時未授名號,亦必謂后降年有永,永與朕躬對揚天休。不寤奄忽,大命近止。朕恨本意不早昭顯,傷后殂逝,不終天祿。愍悼之至,痛于厥心。今使使持節丞相醴陵亭侯雍,奉策授號,配食先后。魂而有靈,嘉其寵榮。嗚呼哀哉!」葬於蔣陵。
歩氏が亡くなると、臣下たちは孫権の意向を汲んで、皇后の位を授けるように願ったよ。そこで印綬を贈って、詔を下してこう言ったよ。
「赤烏元年(238年)、閏月、戊子の日、皇帝は言うよ。ああ、皇后よ。皇后は天命を助けて、一緒に天と地を受け継いだよ。昼も夜も慎み敬って、私と一緒に労を分かちあったね。内での教えは整って、礼を欠かさないで、寛容で慈愛に満ちていて、淑やかな徳を持っていたよ。民や臣下はみんな、あなたを仰いで、遠くや近くの人たちが心を寄せたよ。私は天下がまだ安定していなくて、帝位もまだひとつになっていないから、皇后の謙遜な心を考えて、皇帝の称号を授けるのを遅らせたんだ。それに、皇后が長生きして、一緒に天の恵みを受けることができると信じていたんだ。でも、突然にして偉大な命が止まって、私の本意を早くに明らかにできなかったことを悔やんで、皇后の死を悲しんで、天の祝福を受けられなくて心から痛みを感じるよ。今、使持節で丞相で醴陵亭侯の歩雍に詔を授けて、皇后の称号を授けて、先の皇后と一緒に祀らせるよ。魂があれば、その愛と栄誉を喜んでね。ああ、哀しいことなの!」
歩氏は蒋陵に葬られたよ。
呉主権王夫人伝(大懿王皇后)
三國志 : 吳書五 : 吳主權王夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權王夫人,琅邪人也。(註12)
孫権の妻の王夫人は、琅邪の出身だよ。
吳書曰:夫人父名盧九。
『呉書』によると、王氏の父は王盧九だよ。
夫人以選入宮,黃武中得幸,生孫和,寵次步氏。步氏薨後,和立為太子,權將立夫人為后,而全公主素憎夫人,稍稍譖毀。及權寢疾,言有喜色,由是權深責怒,以憂死。和子皓立,追尊夫人曰大懿皇后,封三弟皆列侯。
王氏は選ばれて宮中に入って、黄武の年号の間(222~229年)、孫和を生んだよ。彼女は歩氏に次ぐくらい愛されたんだって。歩氏が亡くなった後、孫和が太子に立てられたよ。孫権は王氏を皇后に立てようとしたけど、全公主が前から王氏を憎んでいて、少しずつ悪口を言って中傷したんだ。
孫権が病床に伏している時、王氏が喜びの表情を見せたという話が伝わって、このせいで孫権はとても怒って、王氏を責め立てたの。それで心配して王氏は亡くなったんだ。
孫和の子の孫皓が皇帝に即位した後、王氏に大懿皇后の尊号を贈って、彼女の3人の弟を列侯に封じたよ。
呉主権王夫人伝(敬懐王皇后)
三國志 : 吳書五 : 吳主權王夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權王夫人,南陽人也,以選入宮,嘉禾中得幸,生孫休。及和為太子,和母貴重,諸姬有寵者,皆出居外。夫人出公安,卒,因葬焉。休即位,遣使追尊曰敬懷皇后,改葬敬陵。王氏無後,封同母弟文雍為亭侯。
孫権の妻の王夫人は、南陽の出身だよ。選ばれて宮中に入って、嘉禾の年号の間(232~238年)、孫休を生んだよ。孫和が太子になると、孫和の母が大切にされて、他の愛を受けていた姫たちはみんな、宮外に出されたんだ。王氏も公安に出されて、そこで亡くなって、その地に葬られたんだ。
孫休が皇帝に即位すると、使者を送って王氏に敬懐皇后の尊号を贈って、敬陵に改めて葬ったよ。王氏には後継者がいなかったから、同母弟の王文雍を亭侯に封じたよ。
呉主権潘夫人伝
三國志 : 吳書五 : 吳主權潘夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
吳主權潘夫人,會稽句章人也。父為吏,坐法死。夫人與姊俱輸織室,權見而異之,召充後宮。得幸有娠,夢有似龍頭授己者,己以蔽膝受之,遂生孫亮。赤烏十三年,亮立為太子,請出嫁夫人之姊,權聽許之。明年,立夫人為皇后。性險妬容媚,自始至卒,譖害袁夫人等甚衆。(註13)
孫権の妻の潘夫人は、会稽郡句章県の出身だよ。彼女の父は役人だったけど、法に触れて処刑されたんだ。潘氏と姉は一緒に織室(織物を担当する宮)に送られたけど、孫権が彼女を見て特別な存在だと思って、後宮に入れたよ。潘氏が妊娠すると、夢の中で龍の頭に似たものが自分に授けられるのを見て、それを膝で受け取ったんだって。そして孫亮を生んだよ。
赤烏十三年(250年)、孫亮が太子に立てられると、潘氏は姉を嫁がせてほしいと願い出て、孫権はこれを許して、翌年、潘氏を皇后に立てたよ。
潘氏は性格が陰険で、容姿の美しい人に嫉妬していて、亡くなるまで、彼女は袁夫人などたくさんの人たちを中傷して命を奪ったんだ。
吳錄曰:袁夫人者,袁術女也,有節行而無子。權數以諸姬子與養之,輒不育。及步夫人薨,權欲立之。夫人自以無子,固辭不受。
『呉録』によると、袁夫人は袁術の娘で、節操があったけど子供はいなかったんだ。孫権は何度か他の姫たちの子を養子にして育てさせようとしたけど、どの子も育たなかったの。歩夫人が亡くなると、孫権は袁夫人を皇后に立てようとしたよ。でも、袁夫人は自分に子供がいないから固く辞退して受けなかったんだ。
權不豫,夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏卧,共縊殺之,託言中惡。後事泄,坐死者六七人。權尋薨,合葬蔣陵。孫亮即位,以夫人姊壻譚紹為騎都尉,授兵。亮廢,紹與家屬送本郡廬陵。
孫権の病状がすぐれなかったとき、潘氏は中書令の孫弘に、漢の呂后が権力を握って朝廷の命令を独占した例について尋ねさせたよ。潘氏は孫権に付き添って看病していて疲れ果てていて、その隙をついて後宮の女たちは彼女が昏睡している間に企んで首を絞めて殺して、その死を病気によるものと偽ったんだって。その後、この事が見つかって、関わった6、7人が処刑されたよ。その後すぐに孫権が亡くなって、潘氏は蒋陵に合葬されたよ。
孫亮が皇帝に即位すると、潘氏の姉の夫の譚紹を騎都尉に任命して、兵を授けたよ。孫亮が廃位されると、譚紹とその家族は故郷の廬陵に送られたんだ。
孫亮全夫人伝
三國志 : 吳書五 : 孫亮全夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
孫亮全夫人,全尚女也。尚從祖母公主愛之,每進見輒與俱。及潘夫人母子有寵,全主自以與孫和母有隙,乃勸權為潘氏男亮納夫人,亮遂為嗣。夫人立為皇后,以尚為城門校尉,封都亭侯,代滕胤為太常、衞將軍,進封永平侯,錄尚書事。時全氏侯有五人,並典兵馬,其餘為侍郎、騎都尉,宿衞左右,自吳興,外戚貴盛莫及。
孫亮の妻の全夫人は、全尚の娘だよ。従祖母の全公主は彼女を愛して、孫権に会うときにいつも連れていたの。潘夫人とその子が愛を受けている時に、全公主は自分と孫和の母との間に対立があったから、孫権に潘夫人の子の孫亮に全氏を嫁がせるように勧めて、こうして孫亮は後継ぎになったよ。
全尚は城門校尉に任命されて、都亭侯に封ぜられたよ。さらに滕胤に代わって太常と衛将軍に任命されて、永平侯に封ぜられて、尚書の政務をまとめたよ。この時、全氏の一族で侯に封ぜられた人が5人もいて、兵や馬をまとめていたよ。その他にも侍郎や騎都尉として側を護衛する人もいたよ。全氏の勢力は呉が興ってからの外戚の中でも群を抜いていたんだね。
及魏大將諸葛誕以壽春來附,而全懌、全端、全煒、全儀等並因此際降魏,全熈謀泄見殺,由是諸全衰弱。會孫綝廢亮為會稽王,後又黜為候官侯,夫人隨之國,居候官,尚將家屬徙零陵,追見殺。(註14)
でも、魏の大将の諸葛誕が寿春で降伏すると、全懌、全端、全煒、全儀たちがこの機に乗じて魏に降伏しちゃった。全煕は反乱の計画が見つかったから殺されたんだ。こうして全氏の勢力は衰えたの。孫綝が孫亮を廃位して会稽王に封じた後、さらに侯官侯に降格させたよ。全氏は彼に従って、侯官に住んだんだ。全尚は家族と一緒に零陵に移されて、追われて殺されちゃった。
吳錄曰:亮妻惠解有容色,居候官,吳平乃歸,永寧中卒。
『呉録』によると、孫亮の妻の恵解は、容姿が美しくて、候官に住んでいたよ。呉が平定された後、ようやく帰って、永寧の年号(301~302年)の間に亡くなったんだ。
孫休朱夫人伝
三國志 : 吳書五 : 孫休朱夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
孫休朱夫人,朱據女,休姊公主所生也。(註15)
孫休の妻の朱夫人は、朱拠の娘で、孫休の姉の朱公主が産んだ子だよ。
臣松之以為休妻其甥,事同漢惠。荀恱譏之已當,故不復廣言。
裴松之の見解としては、孫休が自分の姪を妻としたことを、漢の恵帝の例と同じだと考えたよ。荀悦がこれを(『漢紀』で)批判したことは正当だから、これ以上詳しくは述べないよ。
赤烏末,權為休納以為妃。休為琅邪王,隨居丹楊。建興中,孫峻專政,公族皆患之。全尚妻即峻姊,故惟全主祐焉。初,孫和為太子時,全主譖害王夫人,欲廢太子,立魯王,朱主不聽,由是有隙。
赤烏の年号の終わり頃(251年)、孫権は孫休に朱氏を妃として迎えさせたよ。孫休が琅邪王だった時、丹楊に一緒に住んでいたの。
建興の年号の間(252~253年)、孫峻が政権を握って、皇族はみんな苦しんでいたんだ。全尚の妻は孫峻の姉だったから、全公主は孫峻の助けを得ていたの。もともと、孫和が太子だった時、全公主は王夫人の悪口を言って、太子を廃位して魯王の孫覇を立てようとしたけど、朱公主はこれに従わなかったから仲が悪くなっちゃった。
五鳳中,孫儀謀殺峻,事覺被誅。全主因言朱主與儀同謀,峻枉殺朱主。休懼,遣夫人還建業,執手泣別。旣至,峻遣還休。
五鳳の年号の間(254~256年)、孫儀が孫峻を殺そうと計画を立てたけど、見つかっちゃって、処刑されたんだ。全公主は朱公主が孫儀と一緒に計画を立てていたと訴えて、孫峻は無実の朱公主を殺したんだ。孫休は恐れて、朱氏を建業に帰して、手を取り合って泣きながら別れたよ。朱氏が着くと、孫峻は彼女を孫休の元に帰したよ。
太平中,孫亮知朱主為全主所害,問朱主死意?全主懼曰:「我實不知,皆據二子熊、損所白。」亮殺熊、損。損妻是峻妹也,孫綝益忌亮,遂廢亮,立休。
太平の年号の間(256~258年)、孫亮は朱公主が全公主に殺されたことを知って、朱公主の死の真相を問い詰めたよ。全公主は恐れてこう言ったよ。
「私は実際には知らないの。すべては2人の子、朱熊と朱損の証言どおりだよ」
孫亮は朱熊と朱損を殺したんだ。朱損の妻は孫峻の妹で、孫綝はますます孫亮を警戒して、こうして孫亮を廃位して孫休を立てたよ。
永安五年,立夫人為皇后。休卒,羣臣尊夫人為皇太后。孫皓即位月餘,貶為景皇后,稱安定宮。甘露元年七月,見逼薨,合葬定陵。(註16)
永安五年(262年)、孫休は朱氏を皇后に立てたよ。孫休が亡くなると、臣下たちは朱氏を皇太后として尊んだよ。
孫皓が皇帝に即位してから1ヶ月くらい経った頃、朱氏を景皇后として、安定宮と称したよ。甘露元年(265年)、七月、朱氏は追い詰められて亡くなって、定陵に合葬されたんだ。
搜神記曰:孫峻殺朱主,埋於石子岡。歸命即位,將欲改葬之。冢墓相亞,不可識別,而宮人頗識主亡時所著衣服,乃使兩巫各住一處以伺其靈,使察鑒之,不得相近。乆時,二人俱白:見一女人年可三十餘,上著青錦束頭,紫白袷裳,丹綈絲履,從石子岡上半岡,而以手抑膝長太息,小住須臾,進一冢上便住,徘徊良乆,奄然不見。二人之言,不謀而同,於是開冢,衣服如之。
『搜神記』によると、孫峻は朱公主を殺して、石子岡に埋めたんだって。孫皓が皇帝に即位すると、改めて葬ろうとしたんだけど、墓が並んでいて区別がつかなかったの。宮中の女性たちは朱公主が亡くなった時の服装を覚えていたよ。そこで、2人の巫女をそれぞれ別の場所に立たせて霊を観察させて、お互いに近づかないようにしたんだ。しばらくして、2人とも同じことを報告したよ。
「年齢30歳くらいの女性が見えて、青い錦の束頭をつけて、紫と白の袷を着て、赤い絹の靴を履いていたの。彼女は石子岡の上の半分の場所に立って、手を膝に置いて長い溜息をついたよ。少しの間その場に立ち止まって、次にひとつの墓の上に進んで、しばらく徘徊して、突然姿を消したんだ」
彼女たちの言葉は一致していたよ。それで墓を開けると、衣服が報告どおりだったの。
孫和何姬伝
三國志 : 吳書五 : 孫和何姬傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
孫和何姬,丹楊句容人也。父遂,本騎士。孫權甞游幸諸營,而姬觀於道中,權望見異之,命宦者召入,以賜子和。生男,權喜,名之曰彭祖,即皓也。
孫和の側室の何姫は丹楊郡句容県の出身だよ。父の何遂はもともと騎士だよ。孫権が陣営を巡っていると、道中で彼女を見かけて、彼女に特別な美しさを感じて、宦官に命令して彼女を召し入れて、子の孫和に与えたよ。彼女は男の子を産んで、孫権はとても喜んで彼に「彭祖」と名づけたの。この人が後の孫皓だよ。
太子和旣廢,後為南陽王,居長沙。孫亮即位,孫峻輔政。峻素媚事全主,全主與和母有隙,遂勸峻徙和居新都,遣使賜死,嫡妃張氏亦自殺。何姬曰:「若皆從死,誰當養孤?」遂拊育皓,及其三弟。
太子の孫和が廃位された後、彼は南陽王となって、長沙に住んだよ。孫亮が皇帝に即位して、孫峻が政務を助けたよ。孫峻は前から全公主に媚びを売っていて、全公主は孫和の母と仲が悪かったんだ。だから、全公主は孫峻に孫和を新都に移すよう勧めて、孫和に使者を送って自ら命を絶つように伝えさせたんだ。正室の張氏も自ら命を絶ったんだ。何氏はこう言ったよ。
「もしみんなが死んでしまったら、誰がこの幼い子(孫皓)を育てるの?」
こうして彼女は、孫皓と彼の3人の弟を育てたよ。
皓即位,尊和為昭獻皇帝,(註17)何姬為昭獻皇后,稱升平宮,月餘,進為皇太后。封弟洪永平侯,蔣溧陽侯,植宣城侯。洪卒,子邈嗣,為武陵監軍,為晉所殺。植官至大司徒。吳末昬亂,何氏驕僭,子弟橫放,百姓患之。故民譌言「皓乆死,立者何氏子」云。(註18)
孫皓が皇帝に即位すると、孫和を「昭献皇帝」、何氏を「昭献皇后」と尊んで、升平宮と称したよ。1ヶ月くらい経って、皇太后に昇格したよ。弟の何洪は永平侯、何蒋は溧陽侯、何植は宣城侯に封ぜられたよ。何洪が亡くなると、子の何邈が後を継いで武陵監軍となったけど、晋に殺されたんだ。何植は大司徒にまで昇進したよ。
呉の末期には混乱が続いて、何氏一族は驕り高ぶって、その子弟たちは横暴にふるまって、民はとても苦しんだんだ。だから、民の間では「孫皓はとっくに死んでいて、今立っているのは何氏の子だ」といううわさが流れたよ。
吳錄曰:皓初尊和為昭獻皇帝,俄改曰文皇帝。
『呉録』によると、孫皓は初めは孫和を「昭献皇帝」として尊んだけど、すぐに「文皇帝」に改めたんだって。
江表傳曰:皓以張布女為美人,有寵,皓問曰:「汝父所在?」荅曰:「賊以殺之。」皓大怒,棒殺之。後思其顏色,使巧工刻木作美人形象,恒置座側。問左右:「布復有女否?」荅曰:「布大女適故衞尉馮朝子純。」
『江表伝』によると、孫皓が張布の娘を美人として愛したよ。孫皓はこう尋ねたよ。
「あなたの父はどこにいるの?」
彼女はこう答えたよ。
「賊に殺されたの」
孫皓はすごく怒って彼女を棒で打ち殺したんだって。
その後、彼女の美しい顔を思い出して、技術のある工人に命令して木で彼女の像を作らせて、いつも側に置いたよ。そして周りの人たちにこう尋ねたよ。
「張布には他に娘がいるの?」
周りの人たちはこう答えたよ。
「張布の長女は昔の衛尉の馮朝の子、馮純の妻だよ」
即奪純妻入宮,大有寵,拜為左夫人,晝夜與夫人房宴,不聽朝政,使尚方以金作華燧、步搖、假髻以千數。令宮人著以相撲,朝成夕敗,輒出更作,工匠因緣偷盜,府藏為空。會夫人死,皓哀愍思念,葬于苑中,大作冢,使工匠刻柏作木人,內冢中以為兵衞,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,皓治喪於內,半年不出。
孫皓はすぐに馮純の妻を奪って後宮に入れて、とても愛して、左夫人に任命したよ。昼も夜も彼女と一緒に宴を楽しんで、朝廷での政治をしなかったんだ。尚方(道具を作る部署)に金で華燧(髪飾り)、歩揺(髪留め)、假髻を1,000点以上も作らせたよ。宮中の女性たちにそれらを着けさせて相撲をさせて、朝に作ったものを夕方には壊して、すぐに新しいものを作らせたんだ。だから工匠たちは盗みをして、国の倉庫は空っぽになっちゃった。左夫人が亡くなると、孫皓はとても悲しんで、彼女を苑中に葬って、大きな墓を作ったよ。工匠に柏の木で人形を彫らせて、墓の中に入れて兵衛として置いて、金銀や宝物も数えきれないくらい入れて葬儀をしたよ。葬儀の後、孫皓は内殿で喪に服して、半年の間、政務に出てこなかったんだ。
國人見葬太奢麗,皆謂皓已死,所葬者是也。皓舅子何都顏狀似皓,云都代立。臨海太守奚熈信譌言,舉兵欲還秣陵誅都,都叔父植時為備海督,擊殺熈,夷三族,譌言乃息,而人心猶疑。
国の人たちはあまりにも豪華な葬儀を見て、みんな「孫皓がすでに死んで、葬られたのは彼だ」と言ったよ。孫皓の舅の子の何都は孫皓に似ていたから、「彼が代わりに皇帝に立ったんだ」とうわさが流れたよ。臨海太守の奚熙はこのうわさを信じて、兵を挙げて秣陵に戻って何都を討とうとしたけど、何都の叔父で備海督の何植が奚熙を討って、彼の一族をみんな処刑したんだ。こうしてうわさは止まったけど、人々の心にはまだ疑いが残ったんだ。
孫皓滕夫人伝
三國志 : 吳書五 : 孫皓滕夫人傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
孫皓滕夫人,故太常胤之族女也。胤夷滅,夫人父牧,以踈遠徙邊郡。孫休即位,大赦,得還,以牧為五官中郎。皓旣封烏程侯,聘牧女為妃。皓即位,立為皇后,封牧高密侯,拜衞將軍,錄尚書事。
孫皓の妻の滕夫人は、昔の太常の滕胤と同族の娘だよ。滕胤の一族は滅ぼされたけど、滕氏の父の滕牧は縁が遠いから辺境の郡に移されていたんだ。孫休が皇帝に即位すると、大赦が行われて、滕牧は帰ってくることを許されて、五官中郎に任命されたよ。孫皓が烏程侯に封ぜられると、滕牧の娘を妃に迎えたよ。孫皓が皇帝に即位すると、滕氏を皇后に立てて、滕牧を高密侯に封じて、衛将軍に任命して、尚書の政務をまとめさせたよ。
後朝士以牧尊戚,頗推令諫爭。而夫人寵漸衰,皓滋不恱,皓母何恒左右之。又太史言,於運歷,后不可易,皓信巫覡,故得不廢,常供養升平宮。牧見遣居蒼梧郡,雖爵位不奪,其實裔也,遂道路憂死。長秋官僚備員而已,受朝賀表疏如故。而皓內諸寵姬,佩皇后璽紱者多矣。(註19)天紀四年,隨皓遷于洛陽。
その後、朝廷の官僚たちは、滕牧が皇族の外戚だから、その権威を恐れて彼に孫皓を諫めるように求めるようになったんだ。でも、滕氏への愛はどんどん衰えていって、孫皓はどんどん不満を抱いて、さらに、孫皓の母の何氏がいつも側に置いて滕氏を支持していたよ。それに、太史(天文官)が「運命によって、皇后を変えてはならない」と言って、孫皓は占いを信じていたから、滕氏は廃位されなくて、いつも升平宮(何氏)に孝行をしたよ。滕牧は蒼梧郡に移されて、爵位は奪われなかったけど、実権を完全に失って、滕牧は道中で心配して死んじゃったんだ。
長秋官には形式的に役人が置かれて、朝賀や上書の手続きも今までどおりだったけど、孫皓が愛するたくさんの側室たちで、皇后の印綬を持っている人も少なくなかったんだ。
天紀四年(280年)、孫皓に従って洛陽へ行ったよ。
江表傳曰:皓又使黃門備行州郡,科取將吏家女。其二千石大臣子女,皆當歲歲言名,年十五六一簡閱,簡閱不中,乃得出嫁。後宮千數,而採擇無已。
『江表伝』によると、孫皓はまた黄門を送って、州や郡を回らせて将や兵の家の娘を取り立てたよ。二千石の大臣の娘たちは、毎年名前を届け出なければならなくて、15歳から16歳になると選抜のために審査を受けさせられたんだ。その審査に合格しなければ、ようやく嫁に出すことが許されたよ。後宮には1,000人以上の女性がいたけど、選抜はずっと続けられたんだ。
陳寿の評価
評曰:易稱「正家而天下定」。詩云:「刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。」誠哉,是言也!遠觀齊桓,近察孫權,皆有識士之明,傑人之志,而嫡庶不分,閨庭錯亂,遺笑古今,殃流後嗣。由是論之,惟以道義為心、平一為主者,然後克免斯累邪!
評すると、『易経』には「家を正せば天下が定まる」とあって、『詩経』には「まずは妻を正しく導いて、それが兄弟に及び、さらに国家を治める」とあるよ。この言葉は本当に正しいね! 遠くは斉の桓公、近くは孫権を見ても、彼らはみんな、人を見抜く明察と優れた志を持っていたけど、嫡子と庶子を分けないで、後宮を乱して、昔から今の人たちに笑われて、災いが後の子孫にまで及んだね。このことから考えると、道義を心として、公平を主とする者こそ、こうした災いから免れることができるのだろうね。
「呉書妃嬪伝」は以上だよ!