はじめに
ChatGPT の力を借りて、正史『三国志』の 「魏書后妃伝」 をゆるゆる翻訳するよ!
武宣卞皇后、文昭甄皇后、文徳郭皇后、明悼毛皇后、明元郭皇后 について書かれているよ!
『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!
注意事項
- ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
- ChatGPT に意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
- 第三者による学術的な検証はしていないよ。
翻訳の詳細は「ChatGPT と協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。
真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

后妃伝(序)
三國志 : 魏書五 : 后妃傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
易稱「男正位乎外,女正位乎內;男女正,天地之大義也」。古先哲王,莫不明后妃之制,順天地之德,故二妃嬪媯,虞道克隆,任、姒配姬,周室用熈,廢興存亡,恒此之由。
『易経』「家人」によると、「男の人は外で正しい位置にいて、女の人は中で正しい位置にいて、男女ともに正しいことが、天地の大きな道理」とされていたよ。昔の偉大な王たちは、みんな后妃の制度を理解して、天地の徳に従ったよ。だから、舜の2人の妃はその道をよく守って、任氏や姒氏は姫氏と結びついて周の王朝を栄えさせたよ。国家が栄えるか滅びるかは、いつもこのような理由に基づいているんだ。
春秋說云天子十二女,諸侯九女,考之情理,不易之典也。而末世奢縱,肆其侈欲,至使男女怨曠,感動和氣,惟色是崇,不本淑懿,故風教陵遲而大綱毀泯,豈不惜哉!嗚呼,有國有家者,其可以永鑒矣!
『春秋』には、天子は12人の妻を持って、諸侯は9人の妻を持つと書かれているよ。これは情と理で考えると、変わらない法則だね。でも、後の時代になると人々は贅沢になって、欲望にふけって、男の人と女の人が不満を抱くようになっちゃった。そして、人々は欲を重視して、善良で立派な人を重視しなくなったんだ。だから、風習や教えが乱れて、社会の大切なことが失われてしまったの。これは本当に残念だね。ああ、国を持つ家は、これを永遠に教訓とすべきだよ!
漢制,帝祖母曰太皇太后,帝母曰皇太后,帝妃曰皇后,其餘內官十有四等。魏因漢法,母后之號皆如舊制,自夫人以下,世有增損。太祖建國,始命王后,其下五等:有夫人,有昭儀,有倢伃,有容華,有美人。文帝增貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人。明帝增淑妃、昭華、脩儀;除順成官。太和中始復命夫人,登其位於淑妃之上。
漢の制度では、皇帝の祖母は太皇太后、皇帝の母は皇太后、皇帝の妃は皇后と呼ばれたよ。その他の宮中の役職は14の等級に分けられていたよ。魏の王朝も漢の制度にならって、母后の称号は旧い制度と同じままで、夫人以下の称号は時代によって増減があったよ。
曹操が魏の国を建てると、まず王の妃に王后の称号を与えて、その下に五等を設けたよ。五等とは、夫人、昭儀、倢伃、容華、美人だよ。曹丕はさらに貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人を加えたんだよ。曹叡は淑妃、昭華、脩儀を加えて、順成を廃止したんだ。太和年号の間(227~233年)に初めて夫人の称号が復活して、淑妃の上位に置いたよ。
自夫人以下爵凡十二等:貴嬪、夫人,位次皇后,爵無所視;淑妃位視相國,爵比諸侯王;淑媛位視御史大夫,爵比縣公;昭儀比縣侯;昭華比鄉侯;脩容比亭侯;脩儀比關內侯;倢伃視中二千石;容華視真二千石;美人視比二千石;良人視千石。
夫人以下の爵位は全部で12の等級に分かれたよ。貴嬪と夫人は皇后の次の位で、特定の爵位には相当しないよ。淑妃は爵位が相国に相当して、諸侯王と同じ位だよ。淑媛は御史大夫に相当して、県公と同じ位だよ。昭儀は県侯、昭華は郷侯、脩容は亭侯、脩儀は関内侯に相当するよ。倢伃は中二千石、容華は真二千石、美人は二千石、良人は千石に相当するよ。
武宣卞皇后
三國志 : 魏書五 : 武宣卞皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
武宣卞皇后,琅邪開陽人,文帝母也。本倡家,(註1)年二十,太祖於譙納后為妾。後隨太祖至洛。及董卓為亂,太祖微服東出避難。袁術傳太祖凶問,時太祖左右至洛者皆欲歸,后止之曰:「曹君吉凶未可知,今日還家,明日若在,何靣目復相見也?正使禍至,共死何苦!」遂從后言。太祖聞而善之。建安初,丁夫人廢,遂以后為繼室。諸子無母者,太祖皆令后養之。(註2)(註3)
武宣卞皇后は琅邪郡開陽県の出身で、曹丕の母だよ。彼女はもともと歌手の家に生まれて、20歳のときに曹操が譙で彼女を側室として迎え入れたよ。その後、彼女は曹操に従って洛陽に行ったよ。
董卓が乱を起こすと、曹操は変装して東に避難したんだ。袁術が曹操が死んだといううわさを流すと、曹操の側近で洛陽にいた者たちはみんな帰りたがっていたんだって。でも、卞氏は彼らを止めてこう言ったよ。
「曹君(曹操)の吉凶はまだわからないよ。今日帰って、明日もし曹君が生きていたら、どんな顔でふたたび会うの? もし災いが起きたとしても、一緒に死ぬことに何の苦しみがあるの!」
彼らは彼女の言葉に従ったよ。曹操はこれを聞いて彼女をほめたよ。
建安初年(196年)、丁夫人が廃されて、卞氏が正式な妻となったよ。曹操の子供たちで母のいない者たちは、みんな彼女が育てたの。
魏書曰:后以漢延熹三年十二月己巳生齊郡白亭,有黃氣滿室移日。父敬侯怪之,以問卜者王旦,旦曰:「此吉祥也。」
『魏書』によると、卞氏は漢の延熹三年(160年)十二月、己巳の日、斉郡白亭で生まれたよ。生まれたとき、部屋中に黄色い気が満ちていて、しばらく続いたんだって。父の敬侯はこれを不思議に思って、占い師の王旦に尋ねたよ。王旦はこう答えたよ。
「これは良い兆しだよ」
魏略曰:太祖始有丁夫人,又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終,丁養子脩。子脩亡於穰,丁常言:「將我兒殺之,都不復念!」遂哭泣無節。太祖忿之,遣歸家,欲其意折。後太祖就見之,夫人方織,外人傳云「公至」,夫人踞機如故。太祖到,撫其背曰:「顧我共載歸乎!」夫人不顧,又不應。太祖却行,立於戶外,復云:「得無尚可邪!」遂不應,太祖曰:「真訣矣。」遂與絕,欲其家嫁之,其家不敢。
『魏略』によると、曹操は最初に丁夫人を妻にして、さらに劉夫人との間に子脩(曹昂)と清河長公主が生まれたよ。劉夫人は早くに亡くなったから、丁夫人が子脩を育てたよ。
子脩が穰で亡くなると、丁夫人はこう言ったよ。
「私の子を殺したのに、全く思い出しもしない!」
こうして節度なく泣き続けたの。曹操は怒って、彼女を実家に送り返して、その気持ちを折りたいと考えたんだ。
後に曹操が丁夫人を訪ねると、彼女はちょうど織物をしていたの。外の人が「曹操が来た」と伝えたけど、丁夫人は機に座ったまま動かなかったんだ。曹操が着いて彼女の背中を撫でながらこう言ったよ。
「私と一緒に帰ろうか」
でも、丁夫人は振り向かないで、何の返事もしなかったんだって。曹操はその場を去って、戸口の外に立ってふたたびこう言ったよ。
「まだ何か言いたいことがある?」
でも、丁夫人は答えなかったんだ。曹操はこう言ったよ。
「本当に別れだな」
そしてそのまま関係を断ったよ。そして彼女の家族に嫁がせるように言ったけど、家族は恐れてできなかったんだ。
初,丁夫人旣為嫡,加有子脩,丁視后母子不足。后為繼室,不念舊惡,因太祖出行,常四時使人饋遺,又私迎之,延以正坐而己下之,迎來送去,有如昔日。丁謝曰:「廢放之人,夫人何能常爾邪!」其後丁亡,后請太祖殯葬,許之,乃葬許城南。後太祖病困,自慮不起,歎曰:「我前後行意,於心未曾有所負也。假令死而有靈,子脩若問『我母所在』,我將何辭以荅!」
もともと、丁夫人は正妻で、さらに子脩(曹昂)がいたから、卞氏とその子たちを軽んじていたんだ。卞氏は後妻になった後、昔の悪事を気にしないで、曹操が外出しているときには四季折々に人を送って贈り物を送ったよ。それに、こっそり丁夫人を招いて、正式な席に座らせて自分はその下に座って、昔のように迎え入れたんだって。
丁夫人は感謝してこう言ったよ。
「廃された私に、夫人はどうしていつもこんなに親切にしてくれるの!」
その後、丁夫人が亡くなると、卞氏は曹操に葬儀をお願いして、許されたよ。丁夫人は許城の南に葬られたんだ。
後に曹操が重い病気になって、自分はもう起き上がれないだろうと考えて、嘆いてこう言ったよ。
「私はこれまでの行動で、心にやましいことはなかったよ。でも、もし死んで霊があるなら、子脩が『母はどこにいるの?』と尋ねたら、私は何と答えればよいの!」
魏書曰:后性約儉,不尚華麗,無文繡珠玉,器皆黑漆。太祖常得名璫數具,命后自選一具,后取其中者,太祖問其故,對曰:「取其上者為貪,取其下者為偽,故取其中者。」
『魏書』によると、卞氏は質素で贅沢を好まなくて、華麗な装飾や刺繍、珠玉を持たなくて、使用する器具もすべて黒漆塗りだったよ。
ある時、曹操が名高い玉飾りをいくつか手に入れて、卞氏に1つ選ばせたよ。卞氏は中くらいのものを選んだの。曹操がその理由を尋ねると、彼女はこう言ったよ。
「上等のものを選ぶと欲が深いと言われて、下等のものを選ぶと偽っていると言われるから、中くらいのものを選んだの」
文帝為太子,左右長御賀后曰:「將軍拜太子,天下莫不歡喜,后當傾府藏賞賜。」后曰:「王自以丕年大,故用為嗣,我但當以免無教導之過為幸耳,亦何為當重賜遺乎!」長御還,具以語太祖。太祖恱曰:「怒不變容,喜不失節,故是最為難。」
曹丕が太子になると、周りの女官が卞氏に祝ってこう言ったよ。
「将軍(曹丕)が太子に任命されたから、天下の人たちはみんな喜んでいるよ。あなたは国の倉庫を開いて賞を与えるべきだよ」
卞氏はこう答えたよ。
「曹操は曹丕が年長だから後継者に選んだの。私としては、教育の過ちがなかったと免れるだけでも幸いで、どうしてたくさんの賞を与える必要があるの?」
女官がこのことを曹操に伝えると、曹操は喜んでこう言ったよ。
「怒っても顔色を変えなくて、喜んでも節度を失わないのは、最も難しいね」
二十四年,拜為王后,策曰:「夫人卞氏,撫養諸子,有母儀之德。今進位王后,太子諸侯陪位,羣卿上壽,減國內死罪一等。」二十五年,太祖崩,文帝即王位,尊后曰王太后,及踐阼,尊后曰皇太后,稱永壽宮。(註4)(註5)明帝即位,尊太后曰太皇太后。
建安二十四年(219年)、王后になったよ。曹操は命令を下してこう言ったよ。
「夫人卞氏はたくさんの子供を育てて、母の模範となる徳を持っているよ。今、王后に昇進して、太子や諸侯は同席して、臣下たちは寿を祝って、国内の死刑を一等減らすよ」
建安二十五年(220年)、曹操が亡くなって、曹丕が王に即位したよ。曹丕は卞氏を王太后と尊んで呼んだよ。曹丕が皇帝に即位すると、卞氏を皇太后として、永寿宮と称したよ。曹叡が皇帝に即位すると、卞氏を太皇太后と尊んで呼んだよ。
魏書曰:后以國用不足,滅損御食,諸金銀器物皆去之。東阿王植,太后少子,最愛之。後植犯法,為有司所奏,文帝令太后弟子奉車都尉蘭持公卿議白太后,太后曰:「不意此兒所作如是,汝還語帝,不可以我故壞國法。」及自見帝,不以為言。
『魏書』によると、卞氏は国家の財政が足りないから、自分の食事を減らして、金銀の器物をすべて除いたんだって。東阿王の曹植は卞氏の末子で、彼女が最も愛していたの。でも、曹植が法を犯して、役人によってそのことが報告されたんだ。曹丕は卞氏の弟の子で奉車都尉の卞蘭に公卿の議論を卞氏に伝えさせたよ。卞氏はこう言ったよ。
「この子がそんなことをするとは思ってもいなかったんだ。あなたは帝に伝えてね。私のために国の法を壊してはいけないよ」
そして、自ら曹丕に会ったときも、そのことについては何も言わなかったんだって。
臣松之案:文帝夢磨錢,欲使文滅而更愈明,以問周宣。宣荅曰:「此陛下家事,雖意欲爾,而太后不聽。」則太后用意,不得如此書所言也。
裴松之が調べたところ、曹丕が銭を磨いて模様を磨いて消そうとしてかえって明るくなったという夢を見て、周宣に尋ねたよ。周宣はこう答えたよ。
「これはあなたの家のことだよ。あなたがそうしたいと思っても、太后(卞氏)が聞き入れないと思うよ」
だから、卞氏の意向は、この書に記されているとおりではなかったと考えられるんだ。
魏書又曰:太后每隨軍征行,見高年白首,輙住車呼問,賜與絹帛,對之涕泣曰:「恨父母不及我時也。」太后每見外親,不假以顏色,常言「居處當務節儉,不當望賞賜,念自佚也。外舍當怪吾遇之太薄,吾自有常度故也。吾事武帝四五十年,行儉日乆,不能自變為奢,有犯科禁者,吾且能加罪一等耳,莫望錢米恩貸也。」帝為太后弟秉起第,第成,太后幸第請諸家外親,設下廚,無異膳。太后左右菜食粟飯,無魚肉。其儉如此。
『魏書』よると、卞氏はいつも軍について行って、道中で白髪の老人を見かけると、すぐに車を止めて呼び寄せて話を聞いて、絹や帛を贈ったよ。そして、涙を流しながらこう言ったよ。
「父と母が私の治世にまで生きていてくれなかったのが残念なの」
卞氏は外戚に会っても、親しげな態度を見せないで、いつもこう言っていたよ。
「家にいても節約を心がけるべきで、賞を授かることを期待してはいけないよ。楽をしたいと願ってはいけないんだ。外戚の人たちは私が冷たくしていると思っているかもしれないけど、私はいつも一貫した基準を持っていの。私は曹操に仕えて4、50年、長い間倹約に努めてきたよ。今さら贅沢に変えられないの。法を犯した者には、一等重い罰を与えることはできても、お金や米を与える恩赦は期待しないでね」
曹丕は卞氏の弟の卞秉のために家を建てて、家が完成すると、卞氏はその家を訪れて、外戚を招いたよ。自ら料理をもてなして、特別な料理を用意しないで、質素な食事を出したんだ。卞氏の身近な人たちは野菜と粟飯を食べて、魚や肉はなかったよ。彼女の倹約ぶりはこのようなものだったよ。
黃初中,文帝欲追封太后父母,尚書陳羣奏曰:「陛下以聖德應運受命,創業革制,當永為後式。案典籍之文,無婦人分土命爵之制。在禮典,婦因夫爵。秦違古法,漢氏因之,非先王之令典也。」帝曰:「此議是也,其勿施行。以作著詔下藏之臺閣,永為後式。」至太和四年春,明帝乃追謚太后祖父廣曰開陽恭侯,父遠曰敬侯,祖母周封陽都君及敬侯夫人,皆贈印綬。其年五月,后崩。七月,合葬高陵。
黄初の年号の間(220~226年)、曹丕は卞氏の父と母に爵位を与えようとしたよ。尚書の陳羣が上奏してこう言ったよ。
「陛下(曹丕)はその聖なる徳で天命を受けて、天下を創って制度を改めたよ。その業績は永く後の世の模範となるべきものだね。典籍の記述を照らし合わせると、婦人に領土を分け与えて爵位を授ける制度はないよ。礼典によると、婦人は夫の爵位に従うんだって。でも、秦は古い法に反して、漢はそれを受け継いだけど、これは先王の正しい法ではないの」
曹丕はこう言ったよ。
「この意見は正しいから施行しないよ。詔書を作って尚書台に保存して、後の世の模範としよう」
太和四年(230年)、春、曹叡は卞氏の祖父の卞広に開陽恭侯、父の卞遠に敬侯の諡号を贈って、祖母の周氏を陽都君に封じて敬侯夫人にして、みんなに印綬を贈ったよ。
その年の五月、卞氏は亡くなったんだ。七月、高陵に合葬されたよ。
曹丕さんの決めたことを無視する曹叡さん。
初,太后弟秉,以功封都鄉侯,黃初七年進封開陽侯,邑千二百戶,為昭烈將軍。(註6)秉薨,子蘭嗣。少有才學,(註7)為奉車都尉、游擊將軍,加散騎常侍。蘭薨,子暉嗣。(註8)又分秉爵,封蘭弟琳為列侯,官至步兵校尉。蘭子隆女為高貴鄉公皇后,隆以后父為光祿大夫,位特進,封睢陽鄉侯,妻王為顯陽鄉君。追封隆前妻劉為順陽鄉君,后親母故也。琳女又為陳留王皇后,時琳已沒,封琳妻劉為廣陽鄉君。
前に、卞氏の弟の卞秉は、その功績によって都郷侯に封ぜられたよ。黄初七年(226年)に開陽侯に昇進して、領地には1,200戸が与えられて、昭烈将軍となったよ。卞秉が亡くなると、子の卞蘭が後を継いだよ。
卞蘭は若い頃から才能と学識があって、奉車都尉、游撃将軍を務めて、さらに散騎常侍にもなったよ。卞蘭が亡くなると、子の卞暉が後を継いだよ。それに、卞秉の爵位を分けて、卞蘭の弟の卞琳を列侯に封じて、步兵校尉まで昇進させたよ。
卞蘭の子の卞隆の娘は曹髦の皇后になって、卞隆は皇后の父として光禄大夫に任命されて、特進に昇進して、睢陽郷侯に封ぜられたよ。妻の王氏は顕陽郷君になったよ。そして、卞隆の前妻の劉氏は順陽郷君になったよ。彼女は皇后の実母だったからだよ。
さらに、卞琳の娘は曹奐の皇后になったけど、卞琳がすでに亡くなっていたから、卞琳の妻の劉氏は広陽郷君に封ぜられたよ。
魏略曰:初,卞后弟秉,當建安時得為別部司馬,后常對太祖怨言,太祖荅言:「但得與我作婦弟,不為多邪?」后又欲太祖給其錢帛,太祖又曰:「但汝盜與,不為足邪?」故訖太祖世,秉官不移,財亦不益。
『魏略』によると、もともと、卞氏の弟の卞秉は、建安の年号の間(196~220年)に別部司馬に任命されたよ。卞氏は曹操に対してよく不満を言ったんだ。曹操はこう答えたよ。
「私の義理の弟になれただけで十分ではないの?」
それに、卞氏が曹操に金銭や布を与えてほしいと頼むと、曹操はこう答えたよ。
「あなたが盗んで与えるだけで十分ではないの?」
だから、曹操の治世が終わるまで、卞秉の官職は変わらなくて、財産も増えなかったんだ。
魏略曰:蘭獻賦贊述太子德美,太子報曰:「賦者,言事類之所附也,頌者,美盛德之形容也,故作者不虛其辭,受者必當其實。蘭此賦,豈吾實哉?昔吾丘壽王一陳寶鼎,何武等徒以歌頌,猶受金帛之賜,蘭事雖不諒,義足嘉也。今賜牛一頭。」由是遂見親敬。
『魏略』によると、卞蘭は賦を献上して、曹丕の徳と美をほめたたえたよ。曹丕は返信をしてこう言ったよ。
「賦とは、事柄を述べる中で、それに似たものに託して表現するもので、頌とは、素晴らしい徳を美しく表すものだよ。だから、作り手は言葉を虚飾を加えないで、受け手はそれを実情にふさわしく受け止めるべきものだよ。卞蘭のこの賦は、本当に私の実際の姿なの? 昔、吾丘寿王が1つの宝鼎を献上すると、何武たちはただ頌を歌ってほめただけなのに、金帛を受け取ったの。卞蘭の行いは、たとえ内容が実際とは違っていたとしても、その義はとても素晴らしいね。今、牛を1頭与えるよ」
こうして、卞蘭は親しく敬われるようになったよ。
魏略曰:明帝時,蘭見外有二難,而帝留意於宮室,常因侍從,數切諫。帝雖不能從,猶納其誠欵。後蘭苦酒消渴,時帝信巫女用水方,使人持水賜蘭,蘭不肯飲。詔問其意?蘭言治病自當以方藥,何信於此?帝為變色,而蘭終不服。後渴稍甚,以至於亡。故時人見蘭好直言,謂帝靣折之而蘭自殺,其實不然。
『魏略』によると、曹叡の時代、卞蘭は外に2つの難題があるのに、曹叡が宮殿の建設に心を奪われていることに気づいて、よく侍従の場を利用して厳しく諫めたんだ。曹叡はその意見に従えなかったけど、その誠実な意見は受け入れたよ。
後に卞蘭は酒による消渇に苦しんでいたの。当時、曹叡は巫女の水の治療法を信じて、人を使ってその水を卞蘭に与えたけど、卞蘭は飲もうとしなかったんだ。詔でその理由を問われると、卞蘭はこう答えたよ。
「病気を治すには適切な薬を使うべきなのに、どうしてこんなものを信じるの?」
曹叡は怒りの表情を見せたけど、卞蘭は最後まで従わなかったの。その後、卞蘭の病状は悪化して亡くなったんだ。
だから、当時の人たちは卞蘭が率直な意見を好んで、曹叡に逆らって自ら命を絶ったと考えたけど、実際にはそうではなかったよ。
文昭甄皇后
三國志 : 魏書五 : 文昭甄皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
文昭甄皇后,中山無極人,明帝母,漢太保甄邯後也,世吏二千石。父逸,上蔡令。后三歲失父。(註9)
文昭甄皇后は、中山郡無極県の出身で、曹叡の母だよ。彼女は漢の太保の甄邯の子孫で、その家は代々二千石の役人を輩出していたんだって。父の甄逸は上蔡県令だったよ。甄氏は3歳のときに父を亡くしたんだ。
魏書曰:逸娶常山張氏,生三男五女:長男豫,早終;次儼,舉孝廉,大將軍掾、曲梁長;次堯,舉孝廉;長女姜,次脫,次道,次榮,次即后。后以漢光和五年十二月丁酉生。每寑寐,家中髣髴見如有人持玉衣覆其上者,常共怪之。逸薨,加號慕,內外益奇之。
『魏書』によると、甄逸は常山の出身の張氏と結婚して、3人の男と5人の女が生まれたよ。長男の甄豫は早くに亡くなって、次男の甄儼は孝廉に挙げられて、大将軍の掾や曲梁県長になったんだよ。三男の甄堯も孝廉に挙げられたよ。長女は甄姜、次女は甄脱、三女は甄道、四女は甄栄、五女が後に皇后となった甄氏だよ。
甄氏は漢の光和五年(182年)、十二月、丁酉の日に生まれたよ。彼女が寝ていると、家の中ではまるで誰かが玉の衣を持って覆っているような幻影が見えて、家族はいつもそれを不思議に思っていたんだ。甄逸が亡くなると、甄氏は父を慕って悲しんで、内でも外でも驚かれたよ。
後相者劉良相后及諸子,良指后曰:「此女貴乃不可言。」后自少至長,不好戲弄。年八歲,外有立騎馬戲者,家人諸姊皆上閣觀之,后獨不行。諸姊怪問之,后荅言:「此豈女人之所觀邪?」年九歲,喜書,視字輙識,數用諸兄筆硯,兄謂后言:「汝當習女工。用書為學,當作女博士邪?」后荅言:「聞古者賢女,未有不學前世成敗,以為己誡。不知書,何由見之?」
後に、占い師の劉良が甄氏と彼女の兄弟たちを占うと、劉良は甄氏を指してこう言ったよ。
「この女性の貴さは、言葉で言い表せないくらいだね」
甄氏は幼い頃から大人になるまで、遊びを好まないで、8歳のとき、外で騎馬の曲芸をしている者がいて、家族や姉たちはみんな、楼閣に上がってそれを見物したけど、彼女だけは行かなかったんだ。姉たちが不思議に思って理由を尋ねると、甄氏はこう答えたよ。
「これは女性が見るようなものではないでしょう?」
9歳のとき、甄氏は読書を好んで、文字を見ればすぐに覚えたよ。兄たちの筆と硯をよく使ったから、兄たちはこう言ったよ。
「あなたは女の手仕事を学ぶべきだよ。書を学んで女博士にでもなるつもりなの?」
甄氏はこう答えたよ。
「古の賢女は、前の世の成功と失敗を学んで、それを自分の戒めとしたと聞いているよ。書を知らなければ、どうやってそれを知ることができるの?」
後天下兵亂,加以饑饉,百姓皆賣金銀珠玉寶物,時后家大有儲穀,頗以買之。后年十餘歲,白母曰:「今世亂而多買寶物,匹夫無罪,懷璧為罪。又左右皆饑乏,不如以穀振給親族鄰里,廣為恩惠也。」舉家稱善,即從后言。(註10)
その後、天下が兵乱に巻き込まれて、さらに飢饉も重なって、民はみんな、金、銀、珠玉や宝物を売るようになっちゃった。この時、甄氏の家にはたくさんの穀物が蓄えられていて、かなりの量の宝物を買い取っていたよ。甄氏が十数歳のとき、母にこう言ったよ。
「今、世の中が乱れているのにたくさんの宝物を買うのは、『匹夫に罪が無くても、璧を得たら罪になる』ようなものだよ。それに、周りの人たちはみんな、飢えて困っているの。穀物を親族や隣人に配って、広く恩恵を施すほうが良いよ」
家族全員がその意見をほめて、甄氏の言うとおりにしたよ。
「匹夫無罪,懷璧為罪」は『春秋左氏伝』「桓公十年」から。
魏略曰:后年十四,喪中兄儼,悲哀過制,事寡嫂謙敬,事處其勞,拊養儼子,慈愛甚篤。后母性嚴,待諸婦有常,后數諫母:「兄不幸早終,嫂年少守節,顧留一子,以大義言之,待之當如婦,愛之宜如女。」母感后言流涕,便令后與嫂共止,寢息坐起常相隨,恩愛益密。
『魏略』によると、甄氏は14歳のとき、兄の甄儼が亡くなって、礼の制を越えるほど深く悲しんだよ。独り身になった兄嫁に対しては、謙虚に敬意を持って接しって、家事を手伝って、甄儼の子を愛情深く育てたよ。
甄氏の母は性格が厳格で、女性に対しても厳しく接していたんだって。甄氏は母によく諫めてこう言ったよ。
「兄は不幸にも早く亡くなって、兄嫁は若いけど節操を守っているの。ひとり子を残していて、大義から言えば、兄嫁を自分の娘みたいに愛するべきだよ」
母は甄氏の言葉に感動して涙を流して、甄氏と兄嫁を一緒に住まわせたよ。寝起きや日常生活を一緒にしたから、ふたりの間の恩愛はさらに深まったの。
建安中,袁紹為中子熈納之。熈出為幽州,后留養姑。及兾州平,文帝納后於鄴,有寵,生明帝及東鄉公主。(註11)(註12)(註13)
建安の年号の間(196~220年)、袁紹は次男の袁煕のために甄氏を妻として迎え入れたよ。袁煕が幽州に赴任すると、甄氏は姑の世話をするために残ったんだ。
その後、冀州が平定されると、曹丕は甄氏を鄴に迎え入れたよ。甄氏は愛されて、曹叡と東郷公主を生んだよ。
(註11)魏略曰:熈出在幽州,后留侍姑。及鄴城破,紹妻及后共坐皇堂上。文帝入紹舍,見紹妻及后,后怖,以頭伏姑膝上,紹妻兩手自搏。文帝謂曰:「劉夫人云何如此?令新婦舉頭!」姑乃捧后令仰,文帝就視,見其顏色非凡,稱歎之。太祖聞其意,遂為迎取。
『魏略』によると、袁煕が幽州に赴任すると、甄氏は姑の世話をするために残ったよ。鄴城が破られると、袁紹の妻と甄氏は皇堂の上に一緒に座っていたんだ。曹丕が袁紹の家に入って、袁紹の妻と甄氏を見ると、甄氏は恐怖で頭を姑の膝に伏せて、袁紹の妻は両手を地面につけて伏せていたよ。曹丕はこう言ったよ。
「劉夫人、どうしたの? その女性に顔を上げさせろ」
姑は甄氏の顔を上げさせて、曹丕は彼女の顔を見て、普通ではない美しさにびっくり。曹操はその話を聞いて、甄氏を迎え取ったんだって。
(註12)世語曰:太祖下鄴,文帝先入袁尚府,有婦人被髮垢靣,垂涕立紹妻劉後,文帝問之,劉荅「是熈妻」,顧擥髮髻,以巾拭面,姿貌絕倫。旣過,劉謂后「不憂死矣」!遂見納,有寵。
『世語』によると、曹操が鄴を攻略して、曹丕が先に袁尚の府に入ると、髪を乱して、顔を汚して、涙を垂らして立っている女性が袁紹の妻の劉氏の側にいたんだ。曹丕が尋ねると、劉氏はこう答えたよ。
「彼女は袁煕の妻だよ」
甄氏は髪を整えて、顔を拭いて、その姿は絶世の美しさだったの。それを見た劉氏は甄氏にこう言ったよ。
「もう死を恐れなくてもいいんだよ」
こうして甄氏は曹丕に迎えられて、愛されたんだって。
魏書曰:后寵愈隆而彌自挹損,後宮有寵者勸勉之,其無寵者慰誨之,每因閑宴,常勸帝,言「昔黃帝子孫蕃育,蓋由妾媵衆多,乃獲斯祚耳。所願廣求淑媛,以豐繼嗣。」帝心嘉焉。其後帝欲遣任氏,后請於帝曰:「任旣鄉黨名族,德、色,妾等不及也,如何遣之?」帝曰:「任性狷急不婉順,前後忿吾非一,是以遣之耳。」后流涕固請曰:「妾受敬遇之恩,衆人所知,必謂任之出,是妾之由。上懼有見私之譏,下受專寵之罪,願重留意!」帝不聽,遂出之。
『魏書』によると、甄氏はますます愛されるようになったけど、どんどん謙虚に振る舞うようになったの。後宮で愛を受けている人たちには励ましの言葉をかけて、愛を受けていない人たちには慰めと教えの言葉をかけたんだ。暇な時間があるたびに、甄氏は曹丕にこう勧めていたよ。
「昔、黄帝の子孫が繁栄したのは、たくさんの妾や媵(側室)を持っていたからだよ。どうか良い女性を広く探して、子孫を豊かにしてね」
曹丕はその意見を良しとしたよ。
その後、曹丕は任氏を追い出そうとしたけど、甄氏は曹丕に願い出てこう言ったよ。
「任氏は郷里でも名高い一族で、徳と美貌は、私たちより優れているよ。どうして彼女を追い出すの?」
曹丕はこう答えたよ。
「任氏は性格が短気で、優しくないんだ。これまでにも何度も私に逆らってきたから、追い出そうと思っているよ」
甄氏は涙を流しながら強く願ったよ。
「私は特別な扱いを受けていることをみんなが知っているよ。任氏が追い出されれば、それが私のせいだとされるかも。上には私が私情を挟んだとの批判を受けて、下には私が帝を独占しているという罪を負うことになるよ。どうかもう一度考え直してよ」
曹丕は聞き入れないで、こうして任氏を追い出したんだ。
十六年十月,太祖征關中,武宣皇后從,留孟津,帝居守鄴。時武宣皇后體小不安,后不得定省,憂怖,晝夜泣涕;左右驟以差問告,后猶不信,曰:「夫人在家,故疾每動,輙歷時,今疾便差,何速也?此欲慰我意耳!」憂愈甚。後得武宣皇后還書,說疾已平復,后乃懽恱。十七年正月,大軍還鄴,后朝武宣皇后,望幄座悲喜,感動左右。武宣皇后見后如此,亦泣,且謂之曰:「新婦謂吾前病如昔時困邪?吾時小小耳,十餘日即差,不當視我顏色乎!」嘆嗟曰:「此真孝婦也。」
建安十六年(211年)、十月、曹操は関中を征討するために出発して、武宣皇后(卞氏)はついて行って、孟津に留まったよ。曹丕は鄴に留守を守ったよ。この時、卞氏の体調が少し悪くて、甄氏は直接見舞いに行けなくて、不安で昼も夜も泣いていたの。周りの者たちが何度も回復したと伝えたけど、甄氏は信じなくて、こう言ったよ。
「夫人が家にいる時は、病気が発作のようによく起こって、長く続くものだったの。今すぐに治るなんておかしいよ。これは私を慰めようとしているだけでしょ!」
そして、さらに心配したんだ。その後、卞氏の手紙で病気が治ったと聞いて、ようやく喜んだよ。
建安十七年(212年)、正月、大軍が鄴に戻って、甄氏は卞氏に面会したよ。甄氏は卞氏の姿を見て、悲しみと喜びで涙を流して、周りの者たちも感動したの。卞氏も涙を流しながら、こう言ったよ。
「新婦(甄氏)は私の病が前みたいにひどいと思っていたの? 今回の病はほんの少しのことで、10日くらいで治ったの。私の顔色を見ればわかるよ!」
そして感心してこう言ったよ。
「これこそ真の孝行な妻だね」
二十一年,太祖東征,武宣皇后、文帝及明帝、東鄉公主皆從,時后以病留鄴。二十二年九月,大軍還,武宣皇后左右侍御見后顏色豐盈,怪問之曰:「后與二子別乆,下流之情,不可為念,而后顏色更盛,何也?」后笑荅之曰:「叡等自隨夫人,我當何憂!」后之賢明以禮自持如此。
建安二十一年(216年)、曹操が東へ軍を進めると、卞氏、曹丕、曹叡、そして東郷公主も一緒に従ったよ。この時、甄氏は病気だったから鄴に留まったよ。
建安二十二年(217年)、九月、大軍が戻って、卞氏の周りの女官たちが甄氏の顔色が豊かで健康そうなのを見て不思議に思って、こう質問したよ。
「あなたは2人の子と長い間別れていて、普通は悲しみに沈むはずだけど、顔色がますます良くなっているよね。どうして?」
甄氏は笑ってこう答えたよ。
「曹叡たちは夫人に従っているから、私は何も心配していないの!」
甄氏の賢明さと礼を守る姿勢はこのように表れていたよ。
延康元年正月,文帝即王位,六月,南征,后留鄴。黃初元年十月,帝踐阼。踐阼之後,山陽公奉二女以嬪于魏,郭后、李、陰貴人並愛幸,后愈失意,有怨言。帝大怒,二年六月,遣使賜死,葬于鄴。(註14)
延康元年(220年)、正月、曹丕が王に即位したよ。六月、南に軍を進めて、その間甄氏は鄴に留まったよ。
黄初元年(220年)、十月、曹丕が皇帝に即位したよ。皇帝の位に就いた後、山陽公(献帝)が2人の娘を魏に送って、彼女たちは妃となったんだ。郭皇后、李貴人、陰貴人はみんな愛されて、甄氏はますます失望して、不満を口にするようになっちゃった。曹丕はとても怒って、黄初二年(221年)、六月、使者を送って甄氏に自ら命を絶つように命令したんだ。甄氏は鄴に葬られたよ。
魏書曰:有司奏建長秋宮,帝璽書迎后,詣行在所,后上表曰:「妾聞先代之興,所以饗國乆長,垂祚後嗣,無不由后妃焉。故必審選其人,以興內教。令踐阼之初,誠宜登進賢淑,統理六宮。妾自省愚陋,不任粢盛之事,加以寢疾,敢守微志。」璽書三至而后三讓,言甚懇切。時盛暑,帝欲須秋涼乃更迎后。會后疾遂篤,夏六月丁卯,崩于鄴。帝哀痛咨嗟,策贈皇后璽綬。
『魏書』よると、役人が長秋宮(皇后の宮殿)を建てるように上奏して、曹丕は詔で甄氏を迎えて、行在所(帝のいる場所)に来るように求めたよ。甄氏は上表してこう言ったよ。
「私は、先代の興隆が長く国を治めて、後継者に祝福をもたらすためには、すべて后妃の力によるものだと聞いているよ。だから、必ず慎重に人を選んで、宮中の教えを興すべきだよ。陛下(曹丕)が即位したばかりの今こそ、まさに賢淑な人を使って、六宮を統べさせるべき時だね。私は自分の愚かさを省みて、重大な役目にふさわしくなくて、さらに病気を抱えているから、つつましやかな志を守って、辞退するね」
詔書が3度も届いても甄氏は3度辞退して、その言葉はとても懇切だったの。そのときは真夏で、曹丕は秋の涼しさを待ってふたたび甄氏を迎えようと考えたよ。でも、甄氏の病気はますます重くなって、夏の六月、丁卯の日、鄴で亡くなったんだ。曹丕は悲しんで、深い嘆きの声を上げたんだ。そして甄氏に皇帝の印綬を授けて、皇后の称号を贈ったよ。
臣松之以為春秋之義,內大惡諱,小惡不書。文帝之不立甄氏,及加殺害,事有明審。魏史若以為大惡邪,則宜隱而不言,若謂為小惡邪,則不應假為之辭,而崇飾虛文乃至於是,異乎所聞於舊史。推此而言,其稱卞、甄諸后言行之善,皆難以實論。陳氏刪落,良有以也。
裴松之の見解によると、『春秋』の教えには、大きな悪事は隠して、小さな悪事は書かないとされているよ。曹丕が甄氏を皇后に立てないで、さらに殺したことは、すでに明らかに知られている事実だよね。魏の歴史(魏書)がもしこれを大きな悪事と見なすなら、本来はそれを隠して言及しないべきであるし、もし小さな悪事と見なすなら、あえて言い訳めいた言葉を使って、虚飾で文を飾り立てるようなことはすべきでないんだ。それがこのような状態になっているのは、昔からの史書とは異なるよ。これを押し広げて考えると、卞氏、甄氏たち皇后の言葉や行動の善をたたえることは、すべて事実として論じるには難しいよね。陳寿が削除したり省略したのは、もっともだね。
明帝即位,有司奏請追謚,使司空王朗持節奉策以太牢告祠于陵,又別立寢廟。(註15)
曹叡が皇帝に即位すると、役人は謚号を送ろうと上奏して、司空の王朗に節を持たせて詔を授けて太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて、陵で祠を告げさせたよ。そして、別に寝廟を立てたよ。
魏書載三公奏曰:「蓋孝敬之道,篤乎其親,乃四海所以承化,天地所以明察,是謂生則致其養,歿則光其靈,誦述以盡其美,宣揚以顯其名者也。今陛下以聖懿之德,紹承洪業,至孝烝烝,通於神明,遭離殷憂,每勞謙讓。先帝遷神山陵,大禮旣備,至於先后,未有顯謚。伏惟先后恭讓著於幽微,至行顯於不言,化流邦國,德侔二南,故能膺神靈嘉祥,為大魏世妃。雖夙年登遐,萬載之後,永播融烈,后妃之功莫得而尚也。案謚法:『聖聞周達曰昭。德明有功曰昭。』昭者,光明之至,盛乆而不昧者也。宜上尊謚曰文昭皇后。」
『魏書』によると、三公は上奏してこう言ったよ。
「孝行と尊敬の道は親に対してしっかりとした愛情を持つことが大事なんだよ。そうすることで、国のすべてはその教えを受け入れて、天地の法則もわかるようになるんだ。これは、生きている間は養って、亡くなった後はその霊を大切にして、美徳を述べて、その名を示して広めていくことなんだ。今、陛下(曹叡)は立派な徳をもって、偉大な事業を受け継いで、高い孝の心が神明に通じているよ。悲しみに遭って、いつも謙虚に努力してきたんだ。先帝(曹丕)が神山陵に遷ると、大礼はすでに備わったけど、先后(甄氏)にはまだ謚が与えられていないんだ。
先后は、控えめで恭しくて、言葉に頼らないで行動で示してきたんだよ。その教えは国中に広まって、その徳は二南(周南と召南)に並ぶものだったよ。だから、神霊の祝福を受けて、偉大な魏の世妃になったんだ。若くして亡くなったけど、万年の後もその功績は永く伝わって、彼女の功績を上回る者は人はいないよ。
謚法によると、『聖聞周達を昭といって、徳が明らかで功績のあることを昭というよ』とあるよ。昭とは、光明の極みで、その輝きが永遠に消えないという意味なんだ。だから、文昭皇后と尊んで呼ぶのがぴったりだよね」
『聖聞周達曰昭。德明有功曰昭。』は『逸周書』「謚法解」から。
是月,三公又奏曰:「自古周人始祖后稷,又特立廟以祀姜嫄。今文昭皇后之於萬嗣,聖德至化,豈有量哉!夫以皇家世妃之尊,而克讓允恭,固推盛位,神靈遷化,而無寢廟以承享禮,非所以報顯德,昭孝敬也。稽之古制,宜依周禮,先妣別立寢廟。」並奏可之。
この月、三公はさらに上奏してこう言ったよ。
「昔、周の人たちは始祖の后稷についても、特別に廟を立てて姜嫄(后稷の母)も祀ったよ。今、文昭皇后(甄氏)が万世の後嗣に示した恩徳と聖なる徳はとても深くて広くて、計り知れないくらいだね。だから、皇族の妃としての尊い地位にいても、謙虚で慎み深くて、みずから高い地位を辞退したんだ。神霊と化して世を去ったけど、まだ専用の廟が立てられていなくて、祭礼を受ける場が設けられていないのは、その素晴らしい徳に報いて、孝と敬いを示す道としてふさわしいとは言えないよ。古い制度を考えると、『周礼』にならって、亡くなった母のために別に寝廟を立てるべきだよ」
この上奏も受け入れられたよ。
太和元年三月,以中山魏昌之安城鄉戶千,追封逸,謚曰敬侯;適孫像襲爵。四月,初營宗廟,掘地得玉璽,方一寸九分,其文曰「天子羨思慈親」,明帝為之改容,以太牢告廟。又甞夢見后,於是差次舅氏親疏高下,叙用各有差,賞賜累鉅萬;以像為虎賁中郎將。是月,后母薨,帝制緦服臨喪,百僚陪位。
太和元年(227年)、三月、中山郡魏昌県の安城郷に1,000戸を設けて、甄逸を封じて、敬侯の諡号を授けたよ。嫡孫の甄像が爵位を継いだよ。
四月、宗廟(祖先の廟)を建て始めて、地を掘ったところ玉璽が見つかったの。玉璽は1寸9分4方で、刻まれた文字には「天子羨思慈親」とあったよ。曹叡はこれに驚いて、太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて廟に告げたよ。それに、曹叡は甄氏の夢を見てから、親族を近いか遠いかによって並べて、それぞれに異なる役職を与えて、賞を万以上も与えたんだ。甄像を虎賁中郎将に任命したよ。
同じ月に甄氏の母が亡くなって、曹叡は喪服を整えて喪に臨んで、たくさんの官僚たちがその場に同席したよ。
四年十一月,以后舊陵庳下,使像兼太尉,持節詣鄴,昭告后土,十二月,改葬朝陽陵。像還,遷散騎常侍。青龍二年春,追謚后兄儼曰安城鄉穆侯。夏,吳賊寇揚州,以像為伏波將軍,持節監諸將東征,還,復為射聲校尉。三年薨,追贈衞將軍,改封魏昌縣,謚曰貞侯;子暢嗣。又封暢弟溫、𩋾、豔皆為列侯。四年,改逸、儼本封皆曰魏昌侯,謚因故。封儼世婦劉為東鄉君,又追封逸世婦張為安喜君。
太和四年(230年)、十一月、甄氏の旧陵が低い地だったから、甄像を太尉に任命して、節を持たせて鄴に赴かせて、甄氏の陵にはっきりと告げて、十二月、朝陽陵に改めて葬ったよ。甄像は戻ると、散騎常侍に任命されたよ。
青龍二年(234年)、春、甄氏の兄の甄儼に安城郷穆侯の諡号が贈られたよ。夏、呉の敵が揚州を襲撃すると、甄像は伏波将軍として節を持って、将たちを指揮して東へ軍を進めたよ。帰った後、ふたたび射声校尉に任命されたよ。
青龍三年(235年)、甄像は亡くなって、衛将軍の官職を贈られて、魏昌県に改めて封ぜられて、貞侯の諡号を贈られたよ。子の甄暢が爵位を継いだよ。そして、甄暢の弟の甄温、甄𩋾、甄豔も列侯に封ぜられたよ。
青龍四年(236年)、甄逸と甄儼を魏昌侯として、諡号はそのままにしたよ。そして、甄儼の妻の劉氏を東郷君に封じて、甄逸の妻の張氏を封じて安喜君としたよ。
景初元年夏,有司議定七廟。冬,又奏曰:「蓋帝王之興,旣有受命之君,又有聖妃恊于神靈,然後克昌厥世,以成王業焉。昔高辛氏卜其四妃之子皆有天下,而帝摯、陶唐、商、周代興。周人上推后稷,以配皇天,追述王初,本之姜嫄,特立宮廟,世世享甞,周禮所謂『奏夷則,歌中呂,舞大濩,以享先妣』者也。詩人頌之曰:『厥初生民,時維姜嫄。』言王化之本,生民所由。又曰:『閟宮有侐,實實枚枚,赫赫姜嫄,其德不回。』詩、禮所稱姬宗之盛,其美如此。
景初元年(237年)、夏、役人たちは七廟の定義を議論したよ。冬、上奏してこう言ったよ。
「そもそも帝王が興るには、天命を受けた君主がいるだけではなくて、神霊と協力する聖なる妃がいてこそ、その王朝は繁栄して、王業を成し遂げられるんだよ。昔、高辛氏(嚳)は4人の妃の子について占うと、すべてが天下を得ると出たよ。帝摯、陶唐(堯)、商(殷)、周の王朝がそれぞれ興ったよ。周の人たちはその祖先をたどって后稷を天に配する神として、王の始まりを思い起こして、その母の姜嫄にさかのぼって、特別に宮廟を立てて、代々祭祀をしていたんだって。『周礼』に『夷則を奏して、中呂を歌って、大濩を舞って、先妣(亡き母)を祀る』とあるのがこれだよ。『詩経』ではこれをたたえて『この民のはじまりは、姜嫄にある』と、王の教えの根本が、姜嫄に由来すると語っているよ。さらに、『奥深き宮殿に、静けさが満ちて、たくさんの礼が尽くされるよ。しっかりした立派な姿の姜嫄の、その徳はゆるがない』とあって、『詩経』と『礼記』の両方がたたえる姫(周)宗の隆盛、その美しさはこのようなものだよ。
大魏期運,繼于有虞,然崇弘帝道,三世彌隆,廟祧之數,實與周同。今武宣皇后、文德皇后各配無窮之祚,至於文昭皇后膺天靈符,誕育明聖,功濟生民,德盈宇宙,開諸後嗣,乃道化之所興也。寢廟特祀,亦姜嫄之閟宮也,而未著不毀之制,懼論功報德之義,萬世或闕焉,非所以昭孝示後世也。文昭廟宜世世享祀奏樂,與祖廟同,永著不毀之典,以播聖善之風。」於是與七廟議並勒金策,藏之金匱。
偉大な魏の運命は、有虞(舜)を継ぐもので、帝の道を崇めて広めて、3世代にわたってますます隆盛となって、宗廟(先祖の廟)の数は実に周の制度と同じになっているよ。今、武宣皇后(卞氏)、文徳皇后(郭氏)はそれぞれ限りない天命を受けて配されていて、文昭皇后(甄氏)は天の神符を受けて、明聖なる君主(曹叡)を生んで、民を救う功績を立てて、その徳は宇宙に満ちわたったよ。後継たちの道を切り開いたのは、まさにこの徳の教えに始まるの。このような人には、特別に寝廟を設けて祀るのが、まさに姜嫄の神廟と同じであるべきだよ。でも、まだ永久に廃されない制度を確立していないから、将来、功績に応じて報いるという義が、永く世に欠けてしまうことが心配なんだ。これは孝を示して後の世に示すべき在り方とは言えないんだ。だから、文昭皇后の廟は代々祭祀をして、音楽を奏でるべきで、先祖の廟と同じように扱って、永久に廃されることのない制度として明らかにして、その聖なる徳の風を後の世に広く伝えるべきだよ」
こうして、七廟の議論と一緒に金策に刻んで、金の箱に納めたよ。
帝思念舅氏不已。暢尚幼,景初末,以暢為射聲校尉,加散騎常侍,又特為起大第,車駕親自臨之。又於其後園為像母起觀廟,名其里曰渭陽里,以追思母氏也。嘉平三年正月,暢薨,追贈車騎將軍,謚曰恭侯;子紹嗣。
曹叡は親族を思い続けていたの。甄暢はまだ幼かったから、景初末年(239年)、甄暢を射声校尉に任命して、散騎常侍にもなったよ。そして、曹叡は特別に大きな家を建てて、その完成を車駕(天子の車)で訪れたよ。さらに、その後園に甄像の母のために廟を建てて、その里を渭陽里と名付けて、母を思い偲んだよ。
嘉平三年(251年)、正月、甄暢が亡くなって、車騎将軍の官職を贈られて、恭侯の謚号を贈られたよ。子の甄紹が後を継いだよ。
太和六年,明帝愛女淑薨,追封謚淑為平原懿公主,為之立廟。取后亡從孫黃與合葬,追封黃列侯,以夫人郭氏從弟德為之後,承甄氏姓,封德為平原侯,襲公主爵。(註16)(註17)
太和六年(232年)、曹叡の愛娘の曹淑が亡くなったんだ。曹淑は平原懿公主の謚号を贈られて、廟を建てられたよ。そして、甄氏の亡くなった従孫の甄黄と結婚させて、曹淑と合葬したよ。甄黄は列侯に封ぜられて、曹叡の夫人の郭氏の従弟の郭徳を後継者として、甄氏の姓を継承させたんだ。郭徳は平原侯に封ぜられて、平原懿公主の爵位を継いだよ。
孫盛曰:於禮,婦人旣無封爵之典,況於孩末,而可建以大邑乎?德自異族,援繼非類,匪功匪親,而襲母爵,違情背典,於此為甚。陳羣雖抗言,楊阜引事比並,然皆不能極陳先王之禮,明封建繼嗣之義,忠至之辭,猶有闕乎!詩云:「赫赫師尹,民具爾瞻。」宰輔之職,其可略哉!
孫盛によると、礼では、婦人にはもともと爵位を授かる制度はないよ。ましてや幼少の末子に対してどうして大きな領地を立て与えるなんてできるの? 郭徳は異なる一族から来た人で、縁戚関係でもないし、功績も親族関係もないのに母の爵位を継ぐというのは、情理に背いて制度に反していて、特に大きな問題だよね。陳羣はこの点に強く異議を唱えて、楊阜も過去の事例を引いて並べ立てたとはいえ、どっちも先王の礼をしっかり説明したとは言えなくて、封建と継承の義も明らかにできなかったんだ。彼らの忠誠を尽くす言葉にも、まだまだ不足があるんだよ。『詩経』に『輝く伊尹は、民はみんなこれを仰ぎ見る』とあるように、天子を助ける職は決しておろそかにできるものではないよ!
晉諸公贊曰:德字彥孫。司馬景王輔政,以女妻德。妻早亡,文王復以女繼室,即京兆長公主。景、文二王欲自結於郭后,是以頻繁為婚。德雖無才學,而恭謹謙順。甄溫字仲舒,與郭建及德等皆后族,以事宜見寵。咸熈初,封郭建為臨渭縣公,德廣安縣公,邑皆千八百戶。溫本國侯,進為輔國大將軍,加侍中,領射聲校尉,德鎮軍大將軍。泰始元年,晉受禪,加建、德、溫三人位特進。德為人貞素,加以世祖姊夫,是以遂貴當世。德暮年官更轉為宗正,遷侍中。
『晋諸公賛』によると、甄徳は、字は彦孫だよ。司馬師は政務を助けるために、娘を甄徳に嫁がせたよ。妻が早くに亡くなったから、司馬昭がふたたび娘を後妻にさせたよ。彼女が京兆長公主だよ。司馬師と司馬昭は郭氏との関係を深めたかったから、何度も結婚をさせたんだ。甄徳は才能や学識はなかったけど、慎み深くて謙虚だったよ。
甄温は、字は仲舒で、郭建や甄徳たちはみんな皇后の一族だから、気に入られたんだって。
咸熙初年(265年)、郭建は臨渭県公に、甄徳は広安県公に封ぜられて、それぞれの領地は1,800戸だったよ。甄温はもともと国侯で、輔国大将軍に昇進して、侍中になって、射声校尉を兼ねたよ。甄徳は鎮軍大将軍になったよ。
泰始元年(265年)、晋が禅譲を受けると、郭建、甄徳、甄温の3人は特進の地位を与えられたよ。甄徳は人柄がまじめで質素で、司馬炎の姉の夫だったから、当時の世でとても高い地位を得たんだって。甄徳は晩年に宗正になって、さらに侍中になったよ。
太康中,大司馬齊王攸當之藩,德與左衞將軍王濟共諫請,時人嘉之。世祖以此望德,由此出德為大鴻臚,加侍中、光祿大夫,尋疾薨,贈中軍大將軍,開府侍中如故,謚恭公,子喜嗣。喜精粹有器美,歷中書郎、右衞將軍、侍中,位至輔國大將軍,加散騎常侍。喜與國姻親,而經趙王倫、齊王冏事故,能不豫際會,良由其才短,然亦以退靜免之。
太康の年号の間(280~289年)、大司馬で斉王の司馬攸が藩国に赴くことになって、甄徳は左衛将軍の王済と一緒に諫めて引き止めようとしたよ。当時の人たちはこの行動をほめたたえたよ。司馬炎はこの出来事から甄徳を高く評価して、大鴻臚に任命して、侍中と光禄大夫を兼ねさせたよ。でも、甄徳は病気にかかって亡くなったんだ。死後、中軍大将軍の官位を贈られて、開府と侍中は前のままとされて、謚号は恭公とされたよ。子の甄喜が後を継いだよ。
甄喜は清廉で器量に優れていて、中書郎、右衛将軍、侍中を歴任して、輔国大将軍にまで昇進して、散騎常侍に任命されたよ。甄喜は皇族の親戚だったけど、趙王の司馬倫や斉王の司馬冏の事件に遭ってもかかわらないで済んだんだ。これは彼の才が足りなかったからでもあるけど、彼の慎み深くてひかえめな姿勢が災いを免れた理由でもあるんだね。
青龍中,又封后從兄子毅及像弟三人,皆為列侯。毅數上疏陳時政,官至越騎校尉。嘉平中,復封暢子二人為列侯。后兄儼孫女為齊王皇后,后父已沒,封后母為廣樂鄉君。
青龍の年号の間(233~237年)、甄氏の従兄の子の甄毅と甄像の弟3人は、みんな列侯に封ぜられたよ。甄毅はよく時の政治について上書して、官位は越騎校尉になったよ。
嘉平の年号の間(249~254年)、甄暢の2人の子供も列侯に封ぜられたよ。甄氏の兄の甄儼の孫娘は曹芳の皇后となって、彼女の父はすでに亡くなっていたから、母は広楽郷君に封ぜられたよ。
文徳郭皇后
三國志 : 魏書五 : 文德郭皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
文德郭皇后,安平廣宗人也。祖世長吏。(註18)
文徳郭皇后は、安平国広宗県の出身だよ。先祖は代々役人を務めていたんだって。
魏書曰:父永,官至南郡太守,謚敬侯。母姓董氏,即堂陽君,生三男二女:長男浮,高唐令,次女昱,次即后,后弟都,弟成。后以漢中平元年三月乙卯生,生而有異常。
『魏書』によると、郭氏の父は郭永で、南郡太守(郡の長官)まで昇進して、諡号は敬侯だよ。母の姓は董氏で、堂陽君と呼ばれたよ。郭氏には3人の兄弟と2人の姉妹がいるよ。長男は郭浮で、高唐県令だったよ。次女は郭昱で、その次が郭氏だよ。弟には郭都と郭成がいるんだ。
郭氏は漢の中平元年(184年)、三月、乙卯の日に生まれて、生まれたときから特別な特徴を持っていたんだって。
后少而父永奇之曰:「此乃吾女中王也。」遂以女王為字。早失二親,喪亂流離,沒在銅鞮侯家。太祖為魏公時,得入東宮。后有智數,時時有所獻納。文帝定為嗣,后有謀焉。太子即王位,后為夫人,及踐阼,為貴嬪。甄后之死,由后之寵也。
郭氏が幼い頃、父の郭永は彼女の優れた才能を見抜いてこう言ったよ。
「この子は私の娘の中でも特に優れているよ」
そして、「女王」という字を与えたの。郭氏は幼い頃に両親を失って、戦乱に巻き込まれて、銅鞮侯の家に預けられたよ。曹操が魏公になると、郭氏は東宮に入ることができたよ。
郭氏は知恵があって、時々意見を述べることがあったよ。曹丕が後継者に選ばれたのも、郭氏の助言があったからなんだって。曹丕が魏王になると、郭氏は夫人となって、皇帝に即位すると貴嬪となったよ。甄氏の死は、郭氏が気に入られたからなんだ。
黃初三年,將登后位,文帝欲立為后,中郎棧潛上疏曰:「在昔帝王之治天下,不唯外輔,亦有內助,治亂所由,盛衰從之。故西陵配黃,英娥降媯,並以賢明,流芳上世。桀奔南巢,禍階末喜;紂以炮烙,怡恱妲己。是以聖哲慎立元妃,必取先代世族之家,擇其令淑以統六宮,虔奉宗廟,陰教聿脩。易曰:『家道正而天下定。』由內及外,先王之令典也。春秋書宗人釁夏云,無以妾為夫人之禮。齊桓誓命于葵丘,亦曰『無以妾為妻』。今後宮嬖寵,常亞乘輿。若因愛登后,使賤人暴貴,臣恐後世下陵上替,開張非度,亂自上起也。」文帝不從,遂立為皇后。(註19)
黄初三年(222年)、郭氏が皇后の位に上がろうとして、曹丕は彼女を皇后に立てようとしたよ。でも、中郎の棧潜が上奏してこう言ったよ。
「昔の帝王が天下を治めるときには、外には補佐する大臣だけではなくて、内には助けとなる后妃も重視だったんだ。治世か乱世かの分かれ目や、盛衰の行方も、よくこれに由来していたよ。だから、西陵の女性が黄帝に嫁いで、娥皇と女英が媯氏(舜)に嫁いだように、どちらも賢く明るい女性で、後の世に名が残っているね。一方、桀は末喜のせいで南巣に逃げなきゃいけなくなったり、紂は妲己を楽しませるために火あぶりの刑を設けたりして、こうして国を滅ぼしたんだ。このようなことから、聖なる賢王たちは元妃(正室)を慎重に立てて、必ず由緒ある名家の出身者から選んで、徳のある婦人を六宮(後宮)を統べる者として、宗廟(祖先の廟)をつつしみ敬って、陰徳によって正しい教えを伝えることを求めたの。
『易経』には『家の道が正しければ、天下も安定する』とあって、内から外へと治めていくのが、昔から今まで正しい道だね。『春秋』には同じ一族の人たちが夏の礼を乱したとして、側室を正妻のように扱ったことを批判しているよ。それに、斉の桓公が葵丘で誓いを立てたときも、『側室を妻としてはならない』と言ったんだよ。でも今、後宮では、気に入られている人がいつも皇帝のすぐそばにいるんだ。もしもその愛によって正妃にまで昇進させるなら、卑しい出自の者が急に高位に上ることになるよ。これは将来、臣下が君主を軽んじるような風潮を生む恐れがあって、規範を破るきっかけとなって、上から乱れが始まる原因となるだろうね」
曹丕はこの意見に従わないで、郭氏を皇后に立てたよ。
魏書曰:后上表謝曰:「妾無皇、英釐降之節,又非姜、任思齊之倫,誠不足以假充女君之盛位,處中饋之重任。」后自在東宮,及即尊位,雖有異寵,心愈恭肅,供養永壽宮,以孝聞。是時柴貴人亦有寵,后教訓獎導之。後宮諸貴人時有過失,常彌覆之,有譴讓,輙為帝言其本末,帝或大有所怒,至為之頓首請罪,是以六宮無怨。性儉約,不好音樂,常慕漢明德馬后之為人。
『魏書』によると、郭氏は感謝して上表してこう言ったよ。
「私は舜の妃だった娥皇と女英みたいに自ら身を低くして降嫁した節操もなくて、それに太姜(周の文王の祖母)や太任(周の文王の母)みたいな思慮深くて立派な女性でもないよ。女君(皇后)という高い地位を務めるに足る人物ではなくて、中宮の重い責任を担うにもふさわしくないんだ」
郭氏は東宮にいた時から、そして皇后として高い地位に就いてからも、特別な愛を受けていたけど、ますます謙虚で慎み深くなって、永寿宮(卞氏)に仕えて孝行を尽くすことで知られたよ。
この当時、柴貴人も愛を受けていたけど、郭氏は彼女に教育をして導くように努めたよ。後宮の貴人たちが過ちを犯した時も、郭氏はそれをかばって、曹丕から叱責や追及があると、その経緯を丁寧に説明したよ。曹丕がすごく怒ったときには、郭氏は額を地に伏して謝ったたよ。だから、後宮には誰ひとりとして郭氏に恨みを抱く者がいなかったんだって。郭氏は質素で贅沢を好まなくて、音楽も好まなくて、いつも漢の明徳馬后(明帝の皇后)の人柄を理想として、慕っていたんだって。
后蚤喪兄弟,以從兄表繼永後,拜奉車都尉。后外親劉斐與他國為婚,后聞之,勑曰:「諸親戚嫁娶,自當與鄉里門戶匹敵者,不得因勢,彊與他方人婚也。」后姊子孟武還鄉里,求小妻,后止之。遂勑諸家曰:「今世婦女少,當配將士,不得因緣取以為妾也。宜各自慎,無為罰首。」(註20)
郭氏は早くに兄弟を亡くして、従兄の郭表を郭永の後継ぎとしたよ。郭表は奉車都尉に任命されたよ。郭氏の外戚の劉斐が他の国と婚姻を結ぼうとしていると聞いて、郭氏はこう言ったよ。
「親族の婚姻については、それぞれ地元の郷里と釣り合う家柄と結婚すべきで、権力を頼りに他の国の人と強引に結婚してはならないよ」
郭氏の姉の子の孟武が郷里に帰って、身分の低い妻を求めると、郭氏はこれを止めたよ。そして、家々に命令を下してこう言ったよ。
「今の世は女性が少ないから、彼女たちは将や兵たちに嫁がせるべきだよ。私的な理由で女性を側室にするために迎えることは許されないんだ。みんな、自分自身を慎んで、罰を受けることのないようにしてね」
魏書曰:后常勑戒表、武等曰:「漢氏椒房之家,少能自全者,皆由驕奢,可不慎乎!」
『魏書』によると、郭氏はいつも郭表や孟武たちを戒めてこう言ったよ。
「漢の時代、皇后の家族の中で無事に過ごせた者は少なかったんだ。それはみんな、驕りや贅沢が原因だよ。慎まなくてはならないよ!」
五年,帝東征,后留許昌永始臺。時霖雨百餘日,城樓多壞,有司奏請移止。后曰:「昔楚昭王出游,貞姜留漸臺,江水至,使者迎而無符,不去,卒沒。今帝在遠,吾幸未有是患,而便移止,柰何?」羣臣莫敢復言。六年,帝東征吳,至廣陵,后留譙宮。時表留宿衞,欲遏水取魚。后曰:「水當通運漕,又少材木,奴客不在目前,當復私取官竹木作梁遏。今奉車所不足者,豈魚乎?」
黄初五年(224年)、曹丕が東へ軍を進めると、郭氏は許昌の永始台に留まったよ。その時、大雨が100日以上も続いて、城の楼閣の多くが壊れちゃった。役人が移動を提案したけど、郭氏はこう言ったよ。
「昔、楚の昭王が出かけたとき、貞姜は漸台に留まったよ。長江の水が迫って使者が迎えに来たけど、符がなかったから去らないで、最後には亡くなったの。今、曹丕は遠くにいるけど、私は幸いにもそのような困難に遭っていないよ。それなのに移動するのはどうなの?」
臣下たちは誰も何も言えなかったんだ。
黄初六年(225年)、曹丕は東へ軍を進めて、広陵に着いたよ。郭氏は譙宮に留まったよ。この時、郭表は宿衛に留まって、水をふさいで魚を取ろうとしたんだ。郭氏はこう言ったよ。
「水は運輸に使われるべきで、(水をふさぐための)材木も少ないの。使用人がここにいない今、官の竹や木を私用して橋を作って水をふさぐのは不適切だよ。今、奉車(郭表)に足りないのは魚ではないよね」
明帝即位,尊后為皇太后,稱永安宮。太和四年,詔封表安陽亭侯,又進爵鄉侯,增邑并前五百戶,遷中壘將軍。以表子詳為騎都尉。其年,帝追謚太后父永為安陽鄉敬侯,母董為都鄉君。遷表昭德將軍,加金紫,位特進,表第二子訓為騎都尉。及孟武母卒,欲厚葬,起祠堂,太后止之曰:「自喪亂以來,墳墓無不發掘,皆由厚葬也;首陽陵可以為法。」青龍三年春,后崩于許昌,以終制營陵,三月庚寅,葬首陽陵西。(註21)(註22)(註23)
曹叡が皇帝に即位すると、郭氏は皇太后になって、永安宮と称したよ。
太和四年(230年)、郭表を安陽亭侯に封じて、さらに郷侯に爵位を進めて、領地を前の500戸に加えて増やして、中壘将軍に任命したよ。それに、郭表の子の郭詳を騎都尉にしたよ。
その年、曹叡は郭氏の父の郭永に安陽郷敬侯、母の董氏に都郷君の諡号を贈ったよ。さらに、郭表を昭徳将軍(しょうとくしょうぐん)に昇進させて、金印と紫紐と、特進の位を与えたよ。そして、郭表の次男の郭訓を騎都尉にしたよ。
孟武の母が亡くなると、厚い葬儀をして祠堂を建てようとしたけど、郭氏はこれを止めてこう言ったよ。
「乱が起ってから、墓が発掘されないことはなくて、これはすべて厚く葬ってあることが原因だよ。首陽陵を模範とすべきだよ」
青龍三年(235年)、春、郭氏は許昌で亡くなって、制度に従って陵を作って、三月、庚寅の日、首陽陵の西に葬られたよ。
魏略曰:明帝旣嗣立,追痛甄后之薨,故太后以憂暴崩。甄后臨沒,以帝屬李夫人。及太后崩,夫人乃說甄后見譖之禍,不獲大斂,被髮覆靣,帝哀恨流涕,命殯葬太后,皆如甄后故事。
『魏略』によると、曹叡が皇帝に即位した後、甄氏の死を悼んで、郭氏はその悲しみで急に亡くなったんだって。郭氏は亡くなる時、曹叡を李夫人に託したよ。郭氏が亡くなると、李夫人は甄氏が悪口のために正式な葬儀を受けられなかったことを語って、髪を下ろして汚れた顔のままだったことを曹叡に告げたんだ。曹叡はこれを悲しんで、涙を流しながら、郭氏の葬儀を甄氏の例にならうように命令したの。
漢晉春秋曰:初,甄后之誅,由郭后之寵,及殯,令被髮覆面,以糠塞口,遂立郭后,使養明帝。帝知之,心常懷忿,數泣問甄后死狀。郭后曰:「先帝自殺,何以責問我?且汝為人子,可追讎死父,為前母枉殺後母邪?」明帝怒,遂逼殺之,勑殯者使如甄后故事。
『漢晋春秋』によると、もともと、甄氏が処刑されたのは、郭氏が愛を受けたことによるものだよ。甄氏の遺体を棺に納めるとき、髪を下ろして顔を覆って、糠で口を塞ぐようにしたんだって。その後、郭氏が皇后に立てられて、曹叡を育てたよ。曹叡はこれを知って、いつも心に怒りを抱いて、よく涙を流して甄氏の死について尋ねたんだ。郭氏こう答えたよ。
「先帝(曹丕)が自ら処刑したのだから、どうして私を責めるの? それに、あなたは人の子なら、死んだ父の敵を討って、前の母(甄氏)のために後の母(郭氏)を不当に殺すつもりなの?」
曹叡は怒って、郭氏を脅して殺させたんだ。そして、遺体を納める者に命令して、甄氏のときと同じように扱わせたんだ。
魏書載哀策曰:「維青龍三年三月壬申,皇太后梓宮啟殯,將葬于首陽之西陵。哀子皇帝叡親奉冊祖載,遂親遣奠,叩心擗踊,號咷仰訴,痛靈魂之遷幸,悲容車之向路,背三光以潛翳,就黃壚而安厝。嗚呼哀哉!昔二女妃虞,帝道以彰,三母嬪周,聖善彌光,旣多受祉,享國延長。哀哀慈妣,興化閏房,龍飛紫極,作合聖皇,不虞中年,暴離災殃。愍予小子,煢煢摧傷,魂雖永逝,定省曷望?嗚呼哀哉!」
『魏書』によると、亡くなった郭氏への文にはこう記されているよ。
「青龍三年(235年)、三月、壬申の日、郭氏の棺を送って、首陽の西の陵に葬られようとしているよ。哀しみに暮れる子の皇帝の曹叡は、自ら祖先の位を捧げて、親しく弔いの儀式をしたよ。胸を打って、地を踏んで、声を上げて泣き叫んで、天に向かって訴えたよ。霊魂が旅立っていくことを痛んで、葬送の車が道を進むのを悲しんで、三光(日・月・星)を背にして、地中の墓所に静かに納められるのを見届けたんだ。ああ、哀しいことなの!
昔、2人の妃(娥皇・女英)が虞(舜)に嫁いで、その道を輝かせて、3人の母(太姜|・太任・太姒)が周に嫁いで、善い徳をもっと光り輝かせたよ。たくさんの祝福を受けて、国家の繁栄は長く続いたよね。ああ、慈しみ深い母よ、後宮にあって徳を広めて、天子の妃として紫極(天子の場所)に輝いて、聖なる皇帝と力を合わせて政治をしたよ。なのに、中年にして突然の災いに見舞われてこの世を去られたんだ。この身一人残された私は、あまりの哀しみにうちひしがれて、魂は遠く去ってしまって、もう会うことは望めないんだ。ああ、なんて哀しいことなの!」
帝進表爵為觀津侯,增邑五百,并前千戶。遷詳為駙馬都尉。四年,追改封永為觀津敬侯,世婦董為堂陽君。追封謚后兄浮為梁里亭戴侯,都為武城亭孝侯,成為新樂亭定侯,皆使使者奉策,祠以太牢。表薨,子詳嗣,又分表爵封詳弟述為列侯。詳薨,子釗嗣。
曹叡は郭表の爵位を進めて観津侯として、領地を500戸増やして合わせて1,000戸としたよ。そして、郭詳を駙馬都尉に任命したよ。
青龍四年(236年)、郭永を観津敬侯に、世婦の董氏を堂陽君(どうようくん)に改めて封じたよ。そして、郭氏の兄の郭浮を梁里亭戴侯、郭都を武城亭孝侯、郭成を新楽亭定侯に封じて、使者に詔を授けさせて、太牢(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて祀ったよ。
郭表が亡くなると、子の郭詳が後を継いで、さらに郭詳の弟の郭述が列侯に封じられたよ。郭詳が亡くなると、子の郭釗が後を継いだよ。
明悼毛皇后
三國志 : 魏書五 : 明悼毛皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
明悼毛皇后,河內人也。黃初中,以選入東宮,明帝時為平原王,進御有寵,出入與同輿輦。及即帝立,以為貴嬪。太和元年,立為皇后。后父嘉,拜騎都尉,后弟曾,郎中。
明悼毛皇后は、河内の出身だよ。黄初の年号の間(220~226年)、選ばれて東宮に入ったよ。当時、曹叡は平原王で、毛氏は特に愛されて、一緒に車に乗って出かけることがあったんだよ。曹叡が皇帝に即位すると、毛氏は貴嬪になったよ。
太和元年(227年)、毛氏は皇后に立てられたよ。毛氏の父の毛嘉は騎都尉に任命されて、弟の毛曾は郎中になったよ。
初,明帝為王,始納河內虞氏為妃,帝即位,虞氏不得立為后,太皇后卞太后慰勉焉。虞氏曰:「曹氏自好立賤,未有能以義舉者也。然后職內事,君聽外政,其道相由而成,苟不能以善始,未能令終者也。殆必由此亡國喪祀矣!」虞氏遂絀還鄴宮。進嘉為奉車都尉,曾騎都尉,寵賜隆渥。頃之,封嘉博平鄉侯,遷光祿大夫,曾駙馬都尉。嘉本典虞車工,卒暴富貴,明帝令朝臣會其家飲宴,其容止舉動甚蚩騃,語輙自謂「侯身」,時人以為笑。(註24)
もともと、曹叡が王になると、河内の出身の虞氏を妃として迎えたよ。曹叡が皇帝に即位すると、虞氏は皇后に立てられなかったの。太皇后の卞太后(卞氏)は彼女を慰めて励ましたよ。虞氏はこう言ったよ。
「曹氏はいつも身分の低い人を立てるのが好きで、義に基づいてそのようなことをした者はまだいないよね。皇后は内政をつかさどって、君主は外政を執るもので、この両者の道は互いに補い合って治まるものだよね。もしその始まりを正しく導けなければ、結末を良くすることもできないだろうね。このようにして国が滅んで、祭祀が途絶えてしまうの!」
虞氏は鄴宮に追いやられちゃった。
毛嘉は奉車都尉、毛曾は騎都尉に昇進して、大切に扱われたよ。しばらくして、毛嘉は博平郷侯に封ぜられて、光禄大夫に昇進して、毛曾は駙馬都尉に任命されたよ。毛嘉はもともと典虞都尉の車工で、いきなり豊かになったよ。曹叡は臣下たちを彼の家に招いて宴会を開かせたけど、彼の振る舞いはとてもおもしろくて、自分を侯身と称するのを人々は笑っていたんだって。
孫盛曰:古之王者,必求令淑以對揚至德,恢王化於關雎,致淳風於麟趾。及臻三季,並亂茲緒,義以情溺,位由寵昏,貴賤無章,下陵上替,興衰隆廢,皆是物也。魏自武王,曁于烈祖,三后之升,起自幽賤,本旣卑矣,何以長世?詩云:「絺兮綌兮,淒其以風。」其此之謂乎!
孫盛によると、昔の王者たちは、必ず賢くて品のある女性を求めて、至高の徳を引き立てて、『詩経』「関雎」に詠まれるように王道を広めて、「麟趾」のように自然で和やかな風習をもたらしたものだよ。でも、三代(夏・殷・周)の末期になると、道理は乱れて、情に溺れて義を忘れて、気に入っているかによって地位が決まって、身分の区別がつかなくなって、下の者が上に立って、上の者が下に落ちたんだ。国家の興亡や盛衰も、すべてこのようなありさまによって生まれたの。魏でも、曹操から曹叡まで、3人の皇后はみんな身分の低いところから立てられたよ。その出自が卑しかったなら、どうして代々の繁栄を期待できるの? 『詩経』に「細い麻布、粗い麻布、風に吹かれて寒々しい」とあるけど、これはまさにこのことを言っているんだね。
後又加嘉位特進,曾遷散騎侍郎。青龍三年,嘉薨,追贈光祿大夫,改封安國侯,增邑五百,并前千戶,謚曰節侯。四年,追封后母夏為野王君。
その後、毛嘉はさらに特進の位になって、毛曾は散騎侍郎に昇進したよ。
青龍三年(235年)、毛嘉は亡くなって、光禄大夫の官職を贈られたよ。そして、安国侯に改めて封ぜられて、領地はさらに500戸増やされて、合計で1,000戸になったよ。毛嘉は節侯の諡号を贈られたよ。
青龍四年(236年)、毛氏の母の夏氏が野王君に封ぜられたよ。
帝之幸郭元后也,后愛寵日㢮。景初元年,帝游後園,召才人以上曲宴極樂。元后曰「宜延皇后」,帝弗許。乃禁左右,使不得宣。后知之,明日,帝見后,后曰:「昨日游宴北園,樂乎?」帝以左右泄之,所殺十餘人。賜后死,然猶加謚,葬愍陵。遷曾散騎常侍,後徙為羽林虎賁中郎將、原武典農。
曹叡が郭氏を愛すると、毛氏は日に日に愛されなくなったんだ。景初元年(237年)、曹叡が庭園で遊んで、才能のある人たちを招いて音楽と宴を楽しんだよ。郭氏はこう言ったよ。
「皇后(毛氏)を招くべきだよ」
でも、曹叡は許さなかったんだ。それで、郭氏は周りの人たちに命令して、そのことを伝えないようにしたんだ。毛氏はこれを知って、翌日、曹叡が毛氏に会うと、毛氏はこう尋ねたよ。
「昨日の北園での宴は楽しかった?」
曹叡は周りの人たちが漏らしたと知って、10人以上を殺したんだ。毛氏も死ぬように命令されて、諡を与えられて、愍陵に葬られたんだ。
毛曾は散騎常侍に昇進して、その後、羽林虎賁中郎将や原武典農に任命されたよ。
明元郭皇后
三國志 : 魏書五 : 明元郭皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。
明元郭皇后,西平人也,世河右大族。黃初中,本郡反叛,遂沒入宮。明帝即位,甚見愛幸,拜為夫人。叔父立為騎都尉,從父芝為虎賁中郎將。帝疾困,遂立為皇后。齊王即位,尊后為皇太后,稱永寧宮,追封謚太后父滿為西都定侯,以立子建紹其爵。封太后母杜為郃陽君。芝遷散騎常侍、長水校尉,(註25)立,宣德將軍,皆封列侯。
明元郭皇后は西平の出身で、代々河西の豪族だったよ。黄初の年号の間(220~226年)、郡が反乱を起こして、郭氏は後宮に入れられたんだって。曹叡が皇帝に即位すると、とても愛されて、夫人になったよ。叔父の郭立は騎都尉、従父の郭芝は虎賁中郎将に任命されたよ。
曹叡が病に倒れると、郭氏は皇后に立てられたよ。曹芳が皇帝に即位すると、郭氏を尊んで皇太后として、永寧宮と称したよ。そして、郭氏の父の郭満は西都定侯に封ぜられて、その爵位は郭立の子の郭建が継いだよ。郭氏の母の杜氏は郃陽君に封ぜられたよ。郭芝は散騎常侍と長水校尉に昇進して、郭立は宣徳将軍に任命されて、ふたりとも列侯に封ぜられたんだよ。
魏略曰:諸郭之中,芝最壯直。先時自以他功封侯。
『魏略』によると、郭家の中では、郭芝が最も勇敢で正直だよ。これより前に、他の功績によって侯に封ぜられたよ。
建兄德,出養甄氏。德及建俱為鎮護將軍,皆封列侯,並掌宿衞。值三主幼弱,宰輔統政,與奪大事,皆先咨啟於太后而後施行。毌丘儉、鍾會等作亂,咸假其命而以為辭焉。景元四年十二月崩,五年二月,葬高平陵西。(註26)
郭建の兄の郭徳は、甄氏へ養子に出されたよ。郭徳と郭建はどちらも鎮護将軍となって、列侯に封ぜられて、宿衛を管理したんだ。
三主(曹芳、曹髦、曹奐)が幼いから、天子を助ける大臣が政務をまとめて、大きな決定をする前には、すべてまず皇太后に相談して、その許可を得てから実行していたんだ。毌丘倹や、鍾会たちが反乱を起こした時も、すべてその命令を借りて行動の理由としたよ。
景元四年(263年)、十二月、郭氏は亡くなって、景元五年(264年)、二月に高平陵の西に葬られたんだ。
晉諸公贊曰:建安叔始,有器局而強問,泰始中疾薨。子嘏嗣,為給事中。
『晋諸公賛』によると、郭建は、字は安叔で、器量があって、意志が強かったけど、泰始の年号の間(265~274年)に病気で亡くなったんだ。子の郭嘏が後を継いで、給事中になったよ。
陳寿の評価
評曰:魏后妃之家,雖云富貴,未有若衰漢乘非其據,宰割朝政者也。鑒往易軌,於斯為美。追觀陳羣之議,棧潛之論,適足以為百王之規典,垂憲範乎後葉矣。
評すると、魏の皇后や妃の家族は、たとえ豊かで身分が高くても、衰退した漢の時代みたいに、その地位を利用して朝廷の政治を操ることはなかったよ。過去の教訓を鑑みると、これは美徳といえるね。陳羣の議論や棧潜の論を振り返ると、これらはあらゆる時代の帝の規範として後の世に伝えられるべきだよ。
「魏書后妃伝」は以上だよ!