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正史『三国志』「魏書后妃伝」をゆるゆる翻訳するよ!

はじめに

ChatGPTの力を借りて、正史『三国志』の「魏書后妃伝」をゆるゆる翻訳するよ!
武宣卞皇后、文昭甄皇后、文徳郭皇后、明悼毛皇后、明元郭皇后 について書かれているよ!

『三国志』を気軽に楽しく読んでみよう!

注意事項

  • ふわふわ理解のゆるゆる意訳だよ。正確性や確実性は保証できないよ。
  • ChatGPTに意訳してもらったよ。出力された文章を一部加筆・修正して掲載しているよ。
  • 第三者による学術的な検証はしていないよ。

翻訳の詳細は「ChatGPTと協力して正史『三国志』をゆるゆる翻訳するよ!」を見てね。

真面目な日本語訳は書籍が出版されているから、きっちりしっかり知りたい人はそちらを読んでみてね!

Amazon.co.jp: 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) : 陳 寿, 裴 松之: 本
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www.amazon.co.jp
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后妃伝(序)

三國志 : 魏書五 : 后妃傳 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

易稱「男正位乎外,女正位乎內;男女正,天地之大義也」。古先哲王,莫不明后妃之制,順天地之德,故二妃嬪媯,虞道克隆,任、姒配姬,周室用熈,廢興存亡,恒此之由。

『易(えき)経(きょう)』「家(か)人(じん)」によると、「男は外で正しい役目を果たして、女は家の中で正しい役目を果たす。男女がそれぞれの立場を正しく守ることは、天地の大切な道理」と書かれているよ。
昔のすぐれた王たちは、みんな后や妃のきまりを良く知って、天地の道理に従ったよ。だから、娥(が)皇(こう)と女(じょ)英(えい)が虞(ぐ)(舜(しゅん))を助けたから、虞(ぐ)の国の政治は大きく栄えたよ。それに、太(たい)任(じん)と太(たい)姒(じ)は姫(き)氏(し)を支えたから、周(しゅう)も栄えたよ。国が栄えるか滅びるかは、昔からこのようなことが大きな理由となってきたんだ。

本文

春秋說云天子十二女,諸侯九女,考之情理,不易之典也。而末世奢縱,肆其侈欲,至使男女怨曠,感動和氣,惟色是崇,不本淑懿,故風教陵遲而大綱毀泯,豈不惜哉!嗚呼,有國有家者,其可以永鑒矣!

『春(しゅん)秋(じゅう)』には、「天子には12人の妻、諸侯には9人の妻がいる」と書かれているよ。これを人の道理や世の中のあり方から考えると、昔から変わることのない制度だったんだ。
でも、後の時代になると、人々はぜいたくやわがままを好んで、自分の欲望のままに振る舞うようになったよ。だから、結婚できなくてさびしい思いをする男女が増えて、世の中の調和まで乱れてしまったんだ。それに、人は見た目の美しさばかりを大切にして、心のやさしさや立派な人格を重んじなくなったよ。だから、よい教えや道徳はどんどん衰えて、国や社会を支える大切な決まりごとも失われちゃった。これは本当に残念だね。ああ、国を治める人や家を守る人は、このことをいつまでも大切な教えとして心に刻んで、手本としなければならないよ。

本文

漢制,帝祖母曰太皇太后,帝母曰皇太后,帝妃曰皇后,其餘內官十有四等。魏因漢法,母后之號皆如舊制,自夫人以下,世有增損。太祖建國,始命王后,其下五等:有夫人,有昭儀,有倢伃,有容華,有美人。文帝增貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人。明帝增淑妃、昭華、脩儀;除順成官。太和中始復命夫人,登其位於淑妃之上。

漢(かん)では、皇帝の祖母は太皇太后、皇帝の母は皇太后、皇帝の正妻は皇后と呼ばれたよ。そのほか、後宮には14つの位が定められていたよ。
魏(ぎ)では、漢(かん)の制度を受け継いだから、皇帝の母や祖母の呼び名は昔と同じだよ。でも、夫(ふ)人(じん)より下の位については、その時々で増やしたり減らしたりしたんだって。
曹(そう)操(そう)が魏(ぎ)の国を建てると、初めて王の正妻を王后と定めて、その下に5つの位を置いたよ。それは、夫(ふ)人(じん)、昭(しょう)儀(ぎ)、倢(しょう)伃(よ)、容(よう)華(か)、美(び)人(じん)だよ。曹(そう)丕(ひ)は、さらに貴(き)嬪(ひん)、淑(しゅく)媛(えん)、脩(しゅう)容(よう)、順(じゅん)成(せい)、良(りょう)人(じん)の位を新しく加えたんだ。曹(そう)叡(えい)は淑(しゅく)妃(ひ)、昭(しょう)華(か)、脩(しゅう)儀(ぎ)を加えて、順(じゅん)成(せい)の位をやめたよ。太(たい)和(わ)年号の間(227~233年)、夫(ふ)人(じん)の位があらためて置かれて、その地位は淑(しゅく)妃(ひ)よりも上と定められたんだ。

本文

自夫人以下爵凡十二等:貴嬪、夫人,位次皇后,爵無所視;淑妃位視相國,爵比諸侯王;淑媛位視御史大夫,爵比縣公;昭儀比縣侯;昭華比鄉侯;脩容比亭侯;脩儀比關內侯;倢伃視中二千石;容華視真二千石;美人視比二千石;良人視千石。

夫(ふ)人(じん)より下の位は全部で12の等級があったよ。貴(き)嬪(ひん)と夫(ふ)人(じん)は皇后すぐ下の位で、これに対応する爵位は定められていなかったよ。淑(しゅく)妃(ひ)は、政治では相(しょう)国(こく)と同じくらいの地位とされて、爵位では諸侯王と同じくらいとされたよ。淑(しゅく)媛(えん)は御(ぎょ)史(し)大(たい)夫(ふ)と同じくらいで、爵位では県(けん)公(こう)と同じくらいだよ。昭(しょう)儀(ぎ)は県(けん)侯(こう)、昭(しょう)華(か)は郷(きょう)侯(こう)、脩(しゅう)容(よう)は亭(てい)侯(こう)、脩(しゅう)儀(ぎ)は関(かん)内(だい)侯(こう)、それぞれ同じくらいの爵位とされたよ。倢(しょう)伃(よ)は中(ちゅう)二(に)千(せん)石(せき)、容(よう)華(か)は真(しん)二(に)千(せん)石(せき)、美(び)人(じん)は比(ひ)二(に)千(せん)石(せき)、良(りょう)人(じん)は千(せん)石(せき)にあたる役人と同じくらいの地位とされたよ。

武宣卞皇后

三國志 : 魏書五 : 武宣卞皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

武宣卞皇后,琅邪開陽人,文帝母也。本倡家,(註1)年二十,太祖於譙納后為妾。後隨太祖至洛。及董卓為亂,太祖微服東出避難。袁術傳太祖凶問,時太祖左右至洛者皆欲歸,后止之曰:「曹君吉凶未可知,今日還家,明日若在,何靣目復相見也?正使禍至,共死何苦!」遂從后言。太祖聞而善之。建安初,丁夫人廢,遂以后為繼室。諸子無母者,太祖皆令后養之。(註2)(註3)

武(ぶ)宣(せん)卞(べん)皇(こう)后(ごう)は琅(ろう)邪(や)郡開(かい)陽(よう)県の出身で、曹(そう)丕(ひ)の母だよ。もともとは歌や踊りを仕事とする家の出身で、20歳のとき、曹(そう)操(そう)が譙(しょう)で彼女を側室として迎え入れたよ。その後、彼女は曹(そう)操(そう)に従って洛(らく)陽(よう)に行ったよ。
董(とう)卓(たく)が乱を起こすと、曹(そう)操(そう)は身分を隠して普通の人の服を着て東へ逃げたんだ。袁(えん)術(じゅつ)が、「曹(そう)操(そう)は死んだ」といううわさを広めると、曹(そう)操(そう)に付き従って洛(らく)陽(よう)まで来ていた人たちはみんな帰ろうと思ったんだって。でも、卞(べん)氏(し)はそれを止めて、こう言ったよ。
「曹(そう)君(くん)(曹(そう)操(そう))が無事なのか、それとも亡くなったのかは、まだわからないよ。今日帰って、明日もし曹(そう)君(くん)が無事だったら、どんな顔でふたたび会うの? たとえ災いが来るとしても、一緒に死ぬのなら、何を苦しむことがあるの!」
人々は彼女の言葉に従ったよ。曹(そう)操(そう)はこれを聞いて、彼女をほめたよ。
建(けん)安(あん)の年号の初めごろ(196年)、丁(てい)夫(ふ)人(じん)が正妻の地位をやめさせられたから、卞(べん)氏(し)が正妻になったよ。曹(そう)操(そう)の子供たちで母を亡くした子供たちは、みんな曹(そう)操(そう)の命令で彼女が育てたの。

(註1)

魏書曰:后以漢延熹三年十二月己巳生齊郡白亭,有黃氣滿室移日。父敬侯怪之,以問卜者王旦,旦曰:「此吉祥也。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、卞(べん)氏(し)は漢(かん)の延(えん)熹(き)三年(160年)十二月、己巳の日、斉(せい)郡白(はく)亭(てい)で生まれたよ。生まれたとき、黄色い光のような気が部屋いっぱいに広がって、それは一日中消えなかったんだって。父の卞(べん)敬(けい)侯(こう)(卞(べん)遠(えん))はこれを不思議に思って、占い師の王(おう)旦(たん)に尋ねたよ。王(おう)旦(たん)はこう答えたよ。
「これは良い兆しだよ」

(註2)

魏略曰:太祖始有丁夫人,又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終,丁養子脩。子脩亡於穰,丁常言:「將我兒殺之,都不復念!」遂哭泣無節。太祖忿之,遣歸家,欲其意折。後太祖就見之,夫人方織,外人傳云「公至」,夫人踞機如故。太祖到,撫其背曰:「顧我共載歸乎!」夫人不顧,又不應。太祖却行,立於戶外,復云:「得無尚可邪!」遂不應,太祖曰:「真訣矣。」遂與絕,欲其家嫁之,其家不敢。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、曹(そう)操(そう)には最初、丁(てい)夫(ふ)人(じん)という正妻がいたよ。それに、劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)とのあいだに子(し)脩(しゅう)(曹(そう)昂(こう))と清(せい)河(か)長(ちょう)公(こう)主(しゅ)が生まれたよ。でも、劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)は早くに亡くなったから、丁(てい)夫(ふ)人(じん)が子(し)脩(しゅう)(曹(そう)昂(こう))を自分の子供みたいに育てたんだ。
子(し)脩(しゅう)(曹(そう)昂(こう))が穰(じょう)で亡くなると、丁(てい)夫(ふ)人(じん)はいつもこう言ったよ。
「私の子を死なせてしまったのに、少しも気にかけてくれない!」
こうして激しく声をあげて泣き続けたの。曹(そう)操(そう)は怒って、丁(てい)夫(ふ)人(じん)を実家へ帰らせたんだ。時間がたてば気持ちも落ち着くだろうと考えたの。
その後、曹(そう)操(そう)が丁(てい)夫(ふ)人(じん)に会いに行くと、ちょうど丁(てい)夫(ふ)人(じん)は機織りをしていたよ。外にいた人が「曹(そう)操(そう)が来た」と知らせたけど、丁(てい)夫(ふ)人(じん)は織り機の前に座ったまま、何も変わらない様子だったんだ。曹(そう)操(そう)が近づいて丁(てい)夫(ふ)人(じん)の背中をなでながらこう言ったよ。
「私と一緒に帰ろうか」
でも、丁(てい)夫(ふ)人(じん)は振り向かないで、返事もしなかったんだ。曹(そう)操(そう)はその場を去って、戸口に立ってふたたびこう言ったよ。
「まだやり直すことはできないかな?」
でも、丁(てい)夫(ふ)人(じん)は何も答えなかったんだ。曹(そう)操(そう)はこう言ったよ。
「本当にこれで別れるしかないんだね」
そしてそのまま関係を断ったよ。その後、曹(そう)操(そう)は丁(てい)夫(ふ)人(じん)の実家に「再婚させてもよい」と伝えたけど、その家の人たちは恐れ多いとして、だれも再婚させようとはしなかったんだ。

(註2)

初,丁夫人旣為嫡,加有子脩,丁視后母子不足。后為繼室,不念舊惡,因太祖出行,常四時使人饋遺,又私迎之,延以正坐而己下之,迎來送去,有如昔日。丁謝曰:「廢放之人,夫人何能常爾邪!」其後丁亡,后請太祖殯葬,許之,乃葬許城南。後太祖病困,自慮不起,歎曰:「我前後行意,於心未曾有所負也。假令死而有靈,子脩若問『我母所在』,我將何辭以荅!」

もともと、丁(てい)夫(ふ)人(じん)は正妻で、さらに子(し)脩(しゅう)(曹(そう)昂(こう))を育てていたから、卞(べん)氏(し)とその子供たちをあまり大切に思っていなかったんだ。卞(べん)氏(し)は正妻になった後、昔のうらみを気にしなかったよ。曹(そう)操(そう)が遠くへ出かけるといつも、季節ごとに人を送って丁(てい)夫(ふ)人(じん)へ贈り物を届けさせたよ。それに、こっそり丁(てい)夫(ふ)人(じん)を招いて、上座に案内して、自分はその下の席に座ったよ。そして、迎えるときも送り帰すときも、まるで昔と変わらないように丁寧に接したんだって。丁(てい)夫(ふ)人(じん)は感謝して、こう言ったよ。
「正妻の地位を失った私に、どうして夫人は、いつもこのようによくしてくれるの!」
その後、丁(てい)夫(ふ)人(じん)が亡くなると、卞(べん)氏(し)は曹(そう)操(そう)に、丁(てい)夫(ふ)人(じん)をきちんと弔って埋葬するようお願いしたよ。曹(そう)操(そう)もこれを認めたから、丁(てい)夫(ふ)人(じん)は許(きょ)の城の南に葬られたんだ。
その後、曹(そう)操(そう)が重い病気になって、自分はもう助からないだろうと思うようになったんだ。そしてため息をついて、こう言ったよ。
「私はこれまでの人生を振り返っても、自分の良心にそむくようなことはした覚えがないよ。でも、もし死んで霊があるなら、子(し)脩(しゅう)が『私の母はどこにいるの?』と尋ねたら、私は何と答えればよいの!」

(註3)

魏書曰:后性約儉,不尚華麗,無文繡珠玉,器皆黑漆。太祖常得名璫數具,命后自選一具,后取其中者,太祖問其故,對曰:「取其上者為貪,取其下者為偽,故取其中者。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、卞(べん)氏(し)は。質素でむだづかいをしない性格だよ。きらびやかな飾りを好まないで、美しい刺繍をした服や、真珠や玉(ぎょく)の飾りも身につけなかったんだって。普段使う道具も、黒い漆を塗った簡素なものばかり使っていたよ。
あるとき、曹(そう)操(そう)は、名高い耳飾りをいくつか手に入れたよ。そして、卞(べん)氏(し)に、好きなものを1つ選ぶように言ったんだ。卞(べん)氏(し)はその中で一番よいものでも一番劣るものでもなくて、中くらいのものを選んだの。曹(そう)操(そう)が「どうしてそれを選んだの?」と尋ねると、卞(べん)氏(し)はこう答えたよ。
「一番よいものを選べば欲深いと思われるよ。一番劣るものを選べば、わざと遠慮しているように見えてしまうんだ。だから、中くらいのものを選んだの」

本文

文帝為太子,左右長御賀后曰:「將軍拜太子,天下莫不歡喜,后當傾府藏賞賜。」后曰:「王自以丕年大,故用為嗣,我但當以免無教導之過為幸耳,亦何為當重賜遺乎!」長御還,具以語太祖。太祖恱曰:「怒不變容,喜不失節,故是最為難。」

曹(そう)丕(ひ)が太子になると、周りの女官は卞(べん)氏(し)に祝ってこう言ったよ。
「将軍(曹(そう)丕(ひ))が太子に任命されたから、天下の人たちはみんな喜んでいるよ。あなたは国にある財宝をたくさん出して、賞を与えるべきだよ」
卞(べん)氏(し)はこう答えたよ。
「曹(そう)操(そう)は曹(そう)丕(ひ)が年長だから後継ぎに選んだの。私は、子供を十分に教えて導かなかったと責められないで済んだことを幸せに思うだけだよ。どうしてたくさんの賞を与えなければならないの?」
女官がこのことを曹(そう)操(そう)に伝えると、曹(そう)操(そう)は喜んでこう言ったよ。
「怒っても顔色を変えなくて、喜んでも節度を失わないのは、最も難しいね」

本文

二十四年,拜為王后,策曰:「夫人卞氏,撫養諸子,有母儀之德。今進位王后,太子諸侯陪位,羣卿上壽,減國內死罪一等。」二十五年,太祖崩,文帝即王位,尊后曰王太后,及踐阼,尊后曰皇太后,稱永壽宮。(註4)(註5)明帝即位,尊太后曰太皇太后。

建(けん)安(あん)二十四年(219年)、卞(べん)氏(し)は王后に立てられたよ。曹(そう)操(そう)は命令を下してこう言ったよ。
「夫(ふ)人(じん)の卞(べん)氏(し)はたくさんの子供たちを育てて、母としての手本となる立派な徳を持っているよ。そこで今、その位を進めて王后とするよ。太子や諸侯はこれに付き従って、臣下たちは寿を祝ってね。国内の死刑囚については、刑を一段軽くするよ」
建(けん)安(あん)二十五年(220年)、曹(そう)操(そう)が亡くなると、曹(そう)丕(ひ)が王に即位したよ。曹(そう)丕(ひ)は卞(べん)氏(し)を王太后と尊んで呼んだよ。
曹(そう)丕(ひ)が皇帝に即位すると、卞(べん)氏(し)は皇太后と尊ばれて、永(えい)寿(じゅ)宮(きゅう)と呼ばれようになったよ。
曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、卞(べん)氏(し)は太皇太后と尊んで呼ばれたよ。

(註4)

魏書曰:后以國用不足,滅損御食,諸金銀器物皆去之。東阿王植,太后少子,最愛之。後植犯法,為有司所奏,文帝令太后弟子奉車都尉蘭持公卿議白太后,太后曰:「不意此兒所作如是,汝還語帝,不可以我故壞國法。」及自見帝,不以為言。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、卞(べん)氏(し)は、国の財政が苦しいことを考えて、自分の食事を減らして、金や銀で作られた食器や道具は、すべて使うのをやめたんだ。東(とう)阿(あ)王(おう)の曹(そう)植(しょく)は卞(べん)氏(し)の末の子供で、とくにかわいがられていたの。でも、曹(そう)植(しょく)が法に反したから、役人たちはその罪を曹(そう)丕(ひ)に上奏したよ。曹(そう)丕(ひ)は卞(べん)氏(し)の弟の子で奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)の卞(べん)蘭(らん)に、公(こう)卿(けい)たちの話し合いの結果を卞(べん)氏(し)に伝えさせたよ。卞(べん)氏(し)はこう言ったよ。
「この子がそんなことをするとは思ってもいなかったんだ。あなたは帝に伝えてね。私のために国の法を曲げてはいけないよ」
そして、卞(べん)氏(し)は曹(そう)丕(ひ)に会ったけど、このことについては何も言わなかったんだって。

(註4)

臣松之案:文帝夢磨錢,欲使文滅而更愈明,以問周宣。宣荅曰:「此陛下家事,雖意欲爾,而太后不聽。」則太后用意,不得如此書所言也。

裴(はい)松(しょう)之(し)が調べたところ、曹(そう)丕(ひ)は、銭を磨く夢を見たよ。「文がいったん消えて、さらに明るくなる」ことを意味するのではないかと思って、周(しゅう)宣(せん)に尋ねたよ。周(しゅう)宣(せん)はこう答えたよ。
「これはあなたの家のことだよ。あなたがそうしたいと思っても、太后(卞(べん)氏(し))が許さないだろうね」
そうなら、卞(べん)氏(し)の考え方は、この『魏(ぎ)書(しょ)』に書かれているようなものだったとは言えないだろうね。

(註5)

魏書又曰:太后每隨軍征行,見高年白首,輙住車呼問,賜與絹帛,對之涕泣曰:「恨父母不及我時也。」太后每見外親,不假以顏色,常言「居處當務節儉,不當望賞賜,念自佚也。外舍當怪吾遇之太薄,吾自有常度故也。吾事武帝四五十年,行儉日乆,不能自變為奢,有犯科禁者,吾且能加罪一等耳,莫望錢米恩貸也。」帝為太后弟秉起第,第成,太后幸第請諸家外親,設下廚,無異膳。太后左右菜食粟飯,無魚肉。其儉如此。

『魏(ぎ)書(しょ)』よると、卞(べん)氏(し)はいつも軍について行ったよ。道の途中で白髪になった年配の人を見かけると、車を止めてその人に声をかけて、絹の布などを贈ったよ。そして、涙を流しながらこう言ったよ。
「私の父や母は、私が今のような立場になる前に亡くなったから、この姿を見せることができなかったのが、とても残念なんだ」
卞(べん)氏(し)は外戚に会っても、特別にえこひいきしなかったよ。いつもこう言ったよ。
「暮らしでは節約を第一に考えてね。賞や贈り物をあてにしてはいけないよ。楽をして暮らそうなんて考えてもいけないよ。外戚は、私が冷たく接していると思うかもしれないけど、それには私なりの決まりがあるの。私は曹(そう)操(そう)に40年から50年も仕えて、そのあいだずっと質素な暮らしを続けてきたよ。今さらぜいたくな生活に変えられないんだ。もし法律を破る者がいれば、私はかえって普通より重い罰を与えるだろうね。お金や食べ物を与えて助けてもらえるなんて期待してはいけないよ」
曹(そう)丕(ひ)は卞(べん)氏(し)の弟の卞(べん)秉(へい)のために新しい家を建てたよ。家が完成すると、卞(べん)氏(し)はその家を訪れて、外戚を招いて宴会を開いたよ。自ら料理をもてなして、いつもと変わらない質素なものを出したんだ。卞(べん)氏(し)の周りの人たちの食事も、野菜と:のご飯だけで、魚や肉はなかったよ。彼女の質素な暮らしぶりは、このようなものだったよ。

本文

黃初中,文帝欲追封太后父母,尚書陳羣奏曰:「陛下以聖德應運受命,創業革制,當永為後式。案典籍之文,無婦人分土命爵之制。在禮典,婦因夫爵。秦違古法,漢氏因之,非先王之令典也。」帝曰:「此議是也,其勿施行。以作著詔下藏之臺閣,永為後式。」至太和四年春,明帝乃追謚太后祖父廣曰開陽恭侯,父遠曰敬侯,祖母周封陽都君及敬侯夫人,皆贈印綬。其年五月,后崩。七月,合葬高陵。

黄(こう)初(しょ)の年号の間(220~226年)、曹(そう)丕(ひ)は卞(べん)氏(し)の父と母に爵位を与えようとしたよ。でも、尚(しょう)書(しょ)の陳(ちん)羣(ぐん)は上奏してこう言ったよ。
「陛下(曹(そう)丕(ひ))は立派な徳で天命を受けて、新しい国を建てて決まりを改めたよ。その決まりは、これから先の世の手本となるべきものだよ。古い書物を調べても、女性の一族に土地や爵位を与える制度はないんだ。礼の決まりでは、女性の身分は夫の爵位によるものだよ。でも、秦(しん)は昔の制度に反して、漢(かん)もそれを受け継いだけど、これは昔の天子の正しい法ではないの」
曹(そう)丕(ひ)はこう言ったよ。
「この意見はもっともだね。そのとおりにして、このことは実行しないことにするよ。それに、この詔を書き残して宮中の書庫に保存して、後の世の手本としてね」
太(たい)和(わ)四年(230年)、春、曹(そう)叡(えい)は卞(べん)氏(し)の祖父の卞(べん)広(こう)に開(かい)陽(よう)恭(きょう)侯(こう)、父の卞(べん)遠(えん)に敬(けい)侯(こう)の諡号を贈って、祖母の周(しゅう)氏(し)を陽(よう)都(と)君(くん)に封じて敬(けい)侯(こう)夫(ふ)人(じん)の称号を贈って、それぞれに印綬を授けたよ。
その年の五月、卞(べん)氏(し)は亡くなったんだ。七月、高(こう)陵(りょう)に曹(そう)操(そう)と一緒に葬られたよ。

曹(そう)丕(ひ)さんの決めたことを無視する曹(そう)叡(えい)さん。

本文

初,太后弟秉,以功封都鄉侯,黃初七年進封開陽侯,邑千二百戶,為昭烈將軍。(註6)秉薨,子蘭嗣。少有才學,(註7)為奉車都尉、游擊將軍,加散騎常侍。蘭薨,子暉嗣。(註8)又分秉爵,封蘭弟琳為列侯,官至步兵校尉。蘭子隆女為高貴鄉公皇后,隆以后父為光祿大夫,位特進,封睢陽鄉侯,妻王為顯陽鄉君。追封隆前妻劉為順陽鄉君,后親母故也。琳女又為陳留王皇后,時琳已沒,封琳妻劉為廣陽鄉君。

もともと、卞(べん)氏(し)の弟の卞(べん)秉(へい)は、その功績によって都(と)郷(きょう)侯(こう)に封ぜられたよ。黄(こう)初(しょ)七年(226年)に開(かい)陽(よう)侯(こう)に位を進められて、1,200戸の領地が与えられて、昭(しょう)烈(れつ)将(しょう)軍(ぐん)となったよ。卞(べん)秉(へい)が亡くなると、子の卞(べん)蘭(らん)が後を継いだよ。
卞(べん)蘭(らん)は若いころから学問や才能にすぐれていて、奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)、游(ゆう)撃(げき)将(しょう)軍(ぐん)を務めて、さらに散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)にもなったよ。卞(べん)蘭(らん)が亡くなると、子の卞(べん)暉(き)が後を継いだよ。それに、卞(べん)秉(へい)の爵位を分けて、卞(べん)蘭(らん)の弟の卞(べん)琳(りん)が列(れっ)侯(こう)に封ぜられたよ。卞(べん)琳(りん)は、步(ほ)兵(へい)校(こう)尉(い)にまで昇進したよ。
卞(べん)蘭(らん)の子の卞(べん)隆(りゅう)の娘は曹(そう)髦(ぼう)の皇后になったよ。卞(べん)隆(りゅう)は皇后の父として光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)に任命されて、特進の位を与えられて、睢(すい)陽(よう)郷(きょう)侯(こう)に封ぜられたよ。その妻の王(おう)氏(し)は顕(けん)陽(よう)郷(きょう)君(くん)に封ぜられたよ。そして、卞(べん)隆(りゅう)の前の妻の劉(りゅう)氏(し)は順(じゅん)陽(よう)郷(きょう)君(くん)に封ぜられたよ。劉(りゅう)氏(し)は皇后の実母だったからだね。
さらに、卞(べん)琳(りん)の娘も曹(そう)奐(かん)の皇后になったよ。このとき卞(べん)琳(りん)はすでに亡くなっていたから、その妻の劉(りゅう)氏(し)は広(こう)陽(よう)郷(きょう)君(くん)に封ぜられたよ。

(註6)

魏略曰:初,卞后弟秉,當建安時得為別部司馬,后常對太祖怨言,太祖荅言:「但得與我作婦弟,不為多邪?」后又欲太祖給其錢帛,太祖又曰:「但汝盜與,不為足邪?」故訖太祖世,秉官不移,財亦不益。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、もともと、卞(べん)氏(し)の弟の卞(べん)秉(へい)は、建(けん)安(あん)の年号の間(196~220年)に別(べつ)部(ぶ)司(し)馬(ば)に任命されたよ。卞(べん)氏(し)は曹(そう)操(そう)に向かって、よく不満を言ったんだ。曹(そう)操(そう)はこう答えたよ。
「私の妻の弟でいられるだけでも、十分ではないの?」
それに、卞(べん)氏(し)が曹(そう)操(そう)に、弟に金や絹の布を与えてほしいと願い出たけど、曹(そう)操(そう)はこう答えたよ。
「あなたが自分のものをこっそりと与えるだけで十分ではないの?」
だから、曹(そう)操(そう)が生きているあいだ、卞(べん)秉(へい)の官職は変わらなくて、金も増えなかったんだ。

(註7)

魏略曰:蘭獻賦贊述太子德美,太子報曰:「賦者,言事類之所附也,頌者,美盛德之形容也,故作者不虛其辭,受者必當其實。蘭此賦,豈吾實哉?昔吾丘壽王一陳寶鼎,何武等徒以歌頌,猶受金帛之賜,蘭事雖不諒,義足嘉也。今賜牛一頭。」由是遂見親敬。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、卞(べん)蘭(らん)は曹(そう)丕(ひ)のすぐれた徳や立派な人柄をたたえる賦(ふ)を作って捧げたよ。曹(そう)丕(ひ)は返事をしてこう言ったよ。
「賦(ふ)というものは、物事をたとえながら、その様子を述べる文章だよ。頌(しょう)というものは、すぐれた徳をほめたたえる文章であるよ。だから、それを書く人は、事実ではないことを書いてはならなくて、それを受ける者も、本当にその内容にふさわしくなければならないんだ。卞(べん)蘭(らん)のこの賦(ふ)は、どうして本当に私にふさわしいと言えるの?
昔、吾(ご)丘(きゅう)寿(じゅ)王(おう)が1つの宝(ほう)鼎(てい)を捧げると、何(か)武(ぶ)たちはそのことをたたえる歌や文章を作って、金や絹織物を受け取ったの。卞(べん)蘭(らん)が今回したことは、必ずしもいいとは言えないけど、その義はとてもすばらしいね。今、牛を1頭与えるよ」
こうして、卞(べん)蘭(らん)は曹(そう)丕(ひ)に親しく信頼されて、大切に扱われるようになったよ。

(註8)

魏略曰:明帝時,蘭見外有二難,而帝留意於宮室,常因侍從,數切諫。帝雖不能從,猶納其誠欵。後蘭苦酒消渴,時帝信巫女用水方,使人持水賜蘭,蘭不肯飲。詔問其意?蘭言治病自當以方藥,何信於此?帝為變色,而蘭終不服。後渴稍甚,以至於亡。故時人見蘭好直言,謂帝靣折之而蘭自殺,其實不然。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、曹(そう)叡(えい)の時代、卞(べん)蘭(らん)は国の外に2つの大きな心配事があると考えていたよ。でも、曹(そう)叡(えい)は宮殿や建物を造ることばかりに関心を向けていたんだ。そこで卞(べん)蘭(らん)は、一緒にいるといつも、そのことを何度も率直にいさめたよ。曹(そう)叡(えい)はその意見を受け入れられなかったけど、卞(べん)蘭(らん)の真心だけは理解して、その誠実さを認めていたの。
その後、卞(べん)蘭(らん)は酒のせいで消(しょう)渇(かつ)という、すごくのどが渇く病気になったんだ。ちょうどそのころ、曹(そう)叡(えい)は巫女の言うことを信じて、その巫女が勧めた水による治療法を使ったよ。そこで、曹(そう)叡(えい)は人にその水を卞(べん)蘭(らん)に届けさせたよ。でも、卞(べん)蘭(らん)は飲もうとしなかったんだ。曹(そう)叡(えい)は詔を下して、「どうして飲まないの?」と尋ねたよ。卞(べん)蘭(らん)はこう答えたよ。
「病気は、きちんとした治療法や薬で治すべきものだよ。どうしてこのようなことを信じるの?」
曹(そう)叡(えい)はこの言葉を聞いて顔色を変えたけど、卞(べん)蘭(らん)は最後まで従わなかったよ。その後、病気はさらに重くなって、とうとう卞(べん)蘭(らん)は亡くなったんだ。
だから、当時の人たちは卞(べん)蘭(らん)がまっすぐ意見を伝える人だったから、「曹(そう)叡(えい)に面と向かって反対したから、自分から命を絶ったんだ」とうわさをしたんだ。でも、実際にはそうではなかったよ。

文昭甄皇后

三國志 : 魏書五 : 文昭甄皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

文昭甄皇后,中山無極人,明帝母,漢太保甄邯後也,世吏二千石。父逸,上蔡令。后三歲失父。(註9)

文(ぶん)昭(しょう)甄(しん)皇(こう)后(ごう)は、中(ちゅう)山(ざん)郡無(む)極(きょく)県の出身で、曹(そう)叡(えい)の母だよ。漢(かん)の太(たい)保(ほ)の甄(しん)邯(かん)の子孫で、一族は代々、二(に)千(せん)石(せき)の高い位の役人を務める家だよ。父の甄(しん)逸(いつ)は上(じょう)蔡(さい)県(けん)令(れい)(県の長官)を務めていたよ。でも、甄(しん)氏(し)が3歳のときに、父は亡くなったんだ。

(註9)

魏書曰:逸娶常山張氏,生三男五女:長男豫,早終;次儼,舉孝廉,大將軍掾、曲梁長;次堯,舉孝廉;長女姜,次脫,次道,次榮,次即后。后以漢光和五年十二月丁酉生。每寑寐,家中髣髴見如有人持玉衣覆其上者,常共怪之。逸薨,加號慕,內外益奇之。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、甄(しん)逸(いつ)は常(じょう)山(ざん)の出身の張(ちょう)氏(し)を妻に迎えて、3人の息子と5人の娘が生まれたよ。長男の甄(しん)豫(よ)は若いころに亡くなったんだ。次男の甄(しん)儼(げん)は孝廉に推挙されて、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の掾(えん)や曲(きょく)梁(りょう)県(けん)長(ちょう)(県の長官)になったよ。三男の甄(しん)堯(ぎょう)も孝廉に推挙されたよ。長女は甄(しん)姜(きょう)、次女は甄(しん)脱(だつ)、三女は甄(しん)道(どう)、四女は甄(しん)栄(えい)、五女が後に皇后となった甄(しん)氏(し)だよ。
甄(しん)氏(し)は漢(かん)の光(こう)和(わ)五年(182年)、十二月、丁酉の日に生まれたよ。彼女が眠っているとき、家の人たちはよく、まるで誰かが玉(ぎょく)で作られた衣を彼女の上にかけているような姿が見えたんだって。だから、家の人たちは不思議に思っていたんだ。甄(しん)逸(いつ)が亡くなると、甄(しん)氏(し)は父を慕って悲しんだの。その様子を見て、家の内や外の人たちは、この娘は普通の子ではないとますます不思議に思うようになったよ。

(註9)

後相者劉良相后及諸子,良指后曰:「此女貴乃不可言。」后自少至長,不好戲弄。年八歲,外有立騎馬戲者,家人諸姊皆上閣觀之,后獨不行。諸姊怪問之,后荅言:「此豈女人之所觀邪?」年九歲,喜書,視字輙識,數用諸兄筆硯,兄謂后言:「汝當習女工。用書為學,當作女博士邪?」后荅言:「聞古者賢女,未有不學前世成敗,以為己誡。不知書,何由見之?」

その後、人相を見る者の劉(りゅう)良(りょう)が、甄(しん)氏(し)とその兄弟たちを占って、劉(りゅう)良(りょう)は甄(しん)氏(し)を指してこう言ったよ。
「この娘の身分の高さは、とても言葉では言い表せないよ」
甄(しん)氏(し)は小さいころから大人になるまで、遊びやふざけることを好まなかったんだ。8歳のとき、外で馬に乗る曲芸をしている者がいて、家族や姉たちはみんな楼閣に上がってそれを見物したけど、甄(しん)氏(し)だけは行かなかったんだ。姉たちは不思議に思って「どうして見に行かないの?」と尋ねると、甄(しん)氏(し)はこう答えたよ。
「これは女性が見るようなものではないよね?」
9歳のとき、本を読むことが好きになって、文字を見るとすぐに覚えたよ。そして、よく兄たちの筆と硯を使っていたの。兄たちはこう言ったよ。
「あなたは女の仕事を学ぶべきだよ。本ばかり読んで勉強して、女の学者にでもなるつもりなの?」
甄(しん)氏(し)はこう答えたよ。
「昔の立派な女性たちは、昔の人たちの成功や失敗を学んで、それを自分への教えとしていたんだって。本を読めなければ、それをどうやって知ることができるの?」

本文

後天下兵亂,加以饑饉,百姓皆賣金銀珠玉寶物,時后家大有儲穀,頗以買之。后年十餘歲,白母曰:「今世亂而多買寶物,匹夫無罪,懷璧為罪。又左右皆饑乏,不如以穀振給親族鄰里,廣為恩惠也。」舉家稱善,即從后言。(註10)

その後、天下は戦いの乱に巻き込まれて、さらに飢饉も重なったんだ。民はみんな生活に困って、金、銀、真珠や玉(ぎょく)などの宝物を売るようになっちゃった。このとき、甄(しん)氏(し)の家にはたくさんの穀物が蓄えられていて、家の人たちは、その穀物と引き換えに宝物をたくさん買おうとしていたんだ。そのころ、甄(しん)氏(し)は10歳くらいだったけど、母にこう言ったよ。
「今、世の中が乱れているのにたくさんの宝物を買うのはよくないよ。『普通の人は宝玉を持っているだけで罪になる』という言葉もあるんだ。それに、周りの人たちはみんな、食べるものがなくて困っているの。穀物を分け与えて助けて、たくさんの人に恩を施したほうがいいのではないかな?」
家族はみんな、この考えはすばらしいとほめて、そのとおりにしたよ。

「匹夫無罪,懷璧為罪」は『春(しゅん)秋(じゅう)左(さ)氏(し)伝(でん)』「桓公十年」から。

(註10)

魏略曰:后年十四,喪中兄儼,悲哀過制,事寡嫂謙敬,事處其勞,拊養儼子,慈愛甚篤。后母性嚴,待諸婦有常,后數諫母:「兄不幸早終,嫂年少守節,顧留一子,以大義言之,待之當如婦,愛之宜如女。」母感后言流涕,便令后與嫂共止,寢息坐起常相隨,恩愛益密。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、甄(しん)氏(し)は14歳のとき、兄の甄(しん)儼(げん)が亡くなって、礼の決まりを超えるくらい悲しんだの。夫を亡くした兄嫁に対しては、いつもへりくだって礼儀正しく接したよ。重い仕事は自分から引き受けて、兄の子供も深い愛情で育てたんだ。
甄(しん)氏(し)の母は厳しい性格で、嫁たちにもいつも厳しく接していたんだって。甄(しん)氏(し)はよく母をいさめてこう言ったよ。
「兄は不幸にも若くして亡くなったんだ。兄嫁は若いけど、一人で夫への節を守りながら暮らしているよ。そして、残された子供はたった一人なんだ。人としての正しい道を考えるなら、兄嫁は家族の一員として大切に扱って、自分の娘のように愛するべきだよ」
母は甄(しん)氏(し)の言葉を聞いて感動して涙を流して、甄(しん)氏(し)と兄嫁を同じ部屋で暮らさせるようにしたよ。二人は寝るときも起きるときもいつも一緒で、お互いに深く思いやり合って、ますます仲がよくなったよ。

本文

建安中,袁紹為中子熈納之。熈出為幽州,后留養姑。及兾州平,文帝納后於鄴,有寵,生明帝及東鄉公主。(註11)(註12)(註13)

建(けん)安(あん)の年号の間(196~220年)、袁(えん)紹(しょう)は次子の袁(えん)煕(き)の妻として、甄(しん)氏(し)を迎えたよ。袁(えん)煕(き)が幽(ゆう)州に赴任すると、甄(しん)氏(し)は一緒に行かないで家に残って姑の世話をしたよ。
その後、冀(き)州が平定されると、曹(そう)丕(ひ)は鄴(ぎょう)で甄(しん)氏(し)を妻として迎えたよ。曹(そう)丕(ひ)は甄(しん)氏(し)を深く愛して、曹(そう)叡(えい)と東(とう)郷(きょう)公(こう)主(しゅ)が生まれたよ。

(註11)

魏略曰:熈出在幽州,后留侍姑。及鄴城破,紹妻及后共坐皇堂上。文帝入紹舍,見紹妻及后,后怖,以頭伏姑膝上,紹妻兩手自搏。文帝謂曰:「劉夫人云何如此?令新婦舉頭!」姑乃捧后令仰,文帝就視,見其顏色非凡,稱歎之。太祖聞其意,遂為迎取。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、袁(えん)煕(き)が幽(ゆう)州に赴任しているとき、甄(しん)氏(し)は残って姑の世話をしていたよ。鄴(ぎょう)の城が破られると、袁(えん)紹(しょう)の妻の劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)と甄(しん)氏(し)は、屋敷の広間に一緒に座っていたんだ。曹(そう)丕(ひ)が袁(えん)紹(しょう)の屋敷に入ると、その二人の姿を見つけたよ。甄(しん)氏(し)は怖くなって、頭を姑のひざに伏せたんだ。劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)は自分の両手を縛ったよ。曹(そう)丕(ひ)はこう言ったよ。
「劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)、どうしてそんなふうにしているの?  その女性に顔を上げさせて」
そこで劉(りゅう)夫(ふ)人(じん)は甄(しん)氏(し)の顔を上げさせたよ。曹(そう)丕(ひ)が近づいて彼女の顔を見ると、その美しさと気品は普通の人とはまったく違っていたんだ。曹(そう)操(そう)はその話を聞いて、甄(しん)氏(し)を曹(そう)丕(ひ)の妻として迎えたんだって。

(註12)

世語曰:太祖下鄴,文帝先入袁尚府,有婦人被髮垢靣,垂涕立紹妻劉後,文帝問之,劉荅「是熈妻」,顧擥髮髻,以巾拭面,姿貌絕倫。旣過,劉謂后「不憂死矣」!遂見納,有寵。

『世(せい)語(ご)』によると、曹(そう)操(そう)が鄴(ぎょう)を攻略すると、曹(そう)丕(ひ)は先に袁(えん)尚(しょう)の役所に入ったよ。そこには、髪を乱して、顔も汚れたまま、涙を流して、袁(えん)紹(しょう)の妻の劉(りゅう)氏(し)の後ろに立っている女性がいたんだ。曹(そう)丕(ひ)が「この人は誰?」と尋ねると、劉(りゅう)氏(し)はこう答えたよ。
「袁(えん)煕(き)の妻だよ」
その女性の髪を整えて、顔を拭ったよ。すると、その姿や美しさは、ほかに比べる人がいないくらい際立っていたんだ。曹(そう)丕(ひ)たちが立ち去ったあと、劉(りゅう)氏(し)は甄(しん)氏(し)にこう言ったよ。
「もう死を恐れなくてもいいんだよ」
こうして甄(しん)氏(し)は曹(そう)丕(ひ)の妻として迎えられて、愛されたんだって。

(註13)

魏書曰:后寵愈隆而彌自挹損,後宮有寵者勸勉之,其無寵者慰誨之,每因閑宴,常勸帝,言「昔黃帝子孫蕃育,蓋由妾媵衆多,乃獲斯祚耳。所願廣求淑媛,以豐繼嗣。」帝心嘉焉。其後帝欲遣任氏,后請於帝曰:「任旣鄉黨名族,德、色,妾等不及也,如何遣之?」帝曰:「任性狷急不婉順,前後忿吾非一,是以遣之耳。」后流涕固請曰:「妾受敬遇之恩,衆人所知,必謂任之出,是妾之由。上懼有見私之譏,下受專寵之罪,願重留意!」帝不聽,遂出之。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、甄(しん)氏(し)は、曹(そう)丕(ひ)にますます愛されるようになっても、少しも思い上がらないで、いつも自分を控えめにしていたんだって。後宮で愛されている女性には、さらに立派な人になるように励まして、愛を受けていない女性には、やさしく慰めて、教えて導いたよ。それに、宴会などのくつろいだ席では、よく曹(そう)丕(ひ)に向かって、こう話したよ。
「昔、黄(こう)帝(てい)の子孫がたくさん栄えたのは、たくさんの側室がいたからだよ。どうか徳のある女性を広く迎えて、皇室の後継ぎを多くしてね」
曹(そう)丕(ひ)はこの言葉を立派な考えだと感じたよ。
その後、曹(そう)丕(ひ)は任(じん)氏(し)を後宮から追い出そうとしたんだ。すると、甄(しん)氏(し)は曹(そう)丕(ひ)にお願いして、こう言ったよ。
「任(じん)氏(し)は名門の家の出身で、徳も美しさも、私たちはとても及ばないんだ。そのような人を、どうして追い出すの?」
曹(そう)丕(ひ)はこう答えたよ。
「任(じん)氏(し)は気性が激しくて、素直でおだやかな性格ではないんだ。これまで何度も私に逆らってきたから、追い出すんだ」
それでも甄(しん)氏(し)は涙を流しながら何度もお願いしてこう言ったよ。
「私は特別によくしてもらっていることは、みんな知っているよ。もし任(じん)氏(し)が追い出されたら、私のせいだと思われてしまうかも。そうなれば、あなたが私だけをひいきしていると非難されるし、私も一人だけ愛されているという罪を負うことになるんだ。どうか、もう一度考え直してほしいんだ」
でも、曹(そう)丕(ひ)は聞き入れないで、こうして任(じん)氏(し)を追い出したんだ。

(註13)

十六年十月,太祖征關中,武宣皇后從,留孟津,帝居守鄴。時武宣皇后體小不安,后不得定省,憂怖,晝夜泣涕;左右驟以差問告,后猶不信,曰:「夫人在家,故疾每動,輙歷時,今疾便差,何速也?此欲慰我意耳!」憂愈甚。後得武宣皇后還書,說疾已平復,后乃懽恱。十七年正月,大軍還鄴,后朝武宣皇后,望幄座悲喜,感動左右。武宣皇后見后如此,亦泣,且謂之曰:「新婦謂吾前病如昔時困邪?吾時小小耳,十餘日即差,不當視我顏色乎!」嘆嗟曰:「此真孝婦也。」

建(けん)安(あん)十六年(211年)、十月、曹(そう)操(そう)が関(かん)中(ちゅう)に兵を出すと、武(ぶ)宣(せん)皇(こう)后(ごう)(卞(べん)氏(し))はついて行って、孟(もう)津(しん)にとどまったよ。曹(そう)丕(ひ)は鄴(ぎょう)に残って守っていたよ。このとき、卞(べん)氏(し)は少し体の具合を悪くしちゃった。甄(しん)氏(し)はお見舞いに行けなかったから、とても心配して、不安になって、昼も夜も涙を流していたんだ。周りの者たちが何度も「卞(べん)氏(し)の加減はよくなったよ」と伝えたけど、甄(しん)氏(し)は信じなくて、こう言ったよ。
「夫人が家にいるとき、病気になると長く苦しんでいることが多かったの。それなのに今回は、こんなに早くよくなるはずがないよ。きっと私を安心させるために、そう言っているだけでしょう!」
そして、まずます心配したんだ。その後、卞(べん)氏(し)から手紙が届いて、病気はもう治ったと書かれていたから、甄(しん)氏(し)はようやく安心して喜んだよ。
建(けん)安(あん)十七年(212年)、正月、大軍が鄴(ぎょう)に戻って、甄(しん)氏(し)は卞(べん)氏(し)にあいさつに言ったよ。甄(しん)氏(し)は卞(べん)氏(し)の座る帳を見ると、悲しみと喜びが一度にこみ上げて、思わず涙を流したんだ。その姿を見て、周りにいた人たちも心を打たれたよ。卞(べん)氏(し)も涙を流しながら、こう言ったよ。
「あなたは、私の前の病気が、いつものように重いものだと思っていたの? でも、今回はほんの軽い病気で、10日くらいで治ったの。私の顔色を見れば、もう元気だとわかったでしょう!」
そして、感心してこう言ったよ。
「この人こそ、本当に親孝行な妻だね」

(註13)

二十一年,太祖東征,武宣皇后、文帝及明帝、東鄉公主皆從,時后以病留鄴。二十二年九月,大軍還,武宣皇后左右侍御見后顏色豐盈,怪問之曰:「后與二子別乆,下流之情,不可為念,而后顏色更盛,何也?」后笑荅之曰:「叡等自隨夫人,我當何憂!」后之賢明以禮自持如此。

建(けん)安(あん)二十一年(216年)、曹(そう)操(そう)が東へ軍を進めると、卞(べん)氏(し)、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)叡(えい)、そして東(とう)郷(きょう)公(こう)主(しゅ)も一緒について行ったよ。でも、甄(しん)氏(し)は病気だったから鄴(ぎょう)に残ったんだ。
建(けん)安(あん)二十二年(217年)、九月、大軍が帰ってくると、卞(べん)氏(し)の周りの女官たちは、甄(しん)氏(し)の顔色が前より健康そうで、つややかになっているのを見て、不思議に思って、こう尋ねたよ。
「あなたは2人の子供たちと長いあいだ離れていたよね。普通は心配になるはずなのに、前より元気そうだよね。どうして?」
甄(しん)氏(し)は笑ってこう答えたよ。
「曹(そう)叡(えい)たちは、夫人(卞(べん)氏(し))と一緒にいるから、私は何も心配することはないよ!」
甄(しん)氏(し)はこのように礼儀を守って、自分の気持ちをおさえて行動する、すごく立派な人だったの。

本文

延康元年正月,文帝即王位,六月,南征,后留鄴。黃初元年十月,帝踐阼。踐阼之後,山陽公奉二女以嬪于魏,郭后、李、陰貴人並愛幸,后愈失意,有怨言。帝大怒,二年六月,遣使賜死,葬于鄴。(註14)

延(えん)康(こう)元年(220年)、正月、曹(そう)丕(ひ)が王に即位したよ。六月、南へ軍を進めたけど、甄(しん)氏(し)は鄴(ぎょう)にとどまったよ。
黄(こう)初(しょ)元年(220年)、十月、曹(そう)丕(ひ)が皇帝に即位したよ。即位した後、山(さん)陽(よう)公(こう)(献(けん)帝(てい))が2人の娘を魏(ぎ)に送って、曹(そう)丕(ひ)の側室としたよ。郭(かく)皇(こう)后(ごう)、李(り)貴(き)人(じん)、陰(いん)貴(き)人(じん)もみんな愛されるようになったんだ。甄(しん)氏(し)はますますつらい立場になって、不満を口にするようになっちゃった。曹(そう)丕(ひ)はこれを聞いてとても怒って、黄(こう)初(しょ)二年(221年)、六月、使者を送って甄(しん)氏(し)に自ら命を絶つように命令したんだ。甄(しん)氏(し)は鄴(ぎょう)に葬られたよ。

(註14)

魏書曰:有司奏建長秋宮,帝璽書迎后,詣行在所,后上表曰:「妾聞先代之興,所以饗國乆長,垂祚後嗣,無不由后妃焉。故必審選其人,以興內教。令踐阼之初,誠宜登進賢淑,統理六宮。妾自省愚陋,不任粢盛之事,加以寢疾,敢守微志。」璽書三至而后三讓,言甚懇切。時盛暑,帝欲須秋涼乃更迎后。會后疾遂篤,夏六月丁卯,崩于鄴。帝哀痛咨嗟,策贈皇后璽綬。

『魏(ぎ)書(しょ)』よると、役人たちは長(ちょう)秋(しゅう)宮(きゅう)(皇后の宮殿)を建てるように上奏したよ。曹(そう)丕(ひ)は自らの印を押した手紙を送って、甄(しん)氏(し)を自分のもとへ迎えようとしたよ。でも、甄(しん)氏(し)は上表してこう言ったよ。
「私は、昔の王朝が長く栄えて、その子孫へと国が受け継がれたのは、すぐれた皇后や妃たちがいたからだと聞いているよ。だから、皇后は徳のある人物をよく選んで、後宮を正しく導かなければならないんだ。今、陛下(曹(そう)丕(ひ))が即位したばかりの今こそ、徳のある賢い女性を皇后に立てて、後宮をまとめさせるべきだよ。私は自分を振り返ると、愚かで力も足りなくて、皇后として祭りをつかさどる大切な役目を果たすことはできないんだ。しかも病気で床についているよ。どうか、このささやかな願いを許してね」
曹(そう)丕(ひ)は印を押した手紙を三度送ったけど、そのたびに甄(しん)氏(し)は辞退したんだ。その言葉は、すごく心のこもったものだったよ。そのときは暑い季節だったから、曹(そう)丕(ひ)は「秋になって涼しくなってから、あらためて迎えよう」と考えていたよ。でも、甄(しん)氏(し)の病気は重くなって、夏の六月、丁卯の日、鄴(ぎょう)で亡くなったんだ。曹(そう)丕(ひ)は深く悲しんで、何度も嘆いたよ。そして甄(しん)氏(し)に皇后の位を贈って、印綬を授けたよ。

(註14)

臣松之以為春秋之義,內大惡諱,小惡不書。文帝之不立甄氏,及加殺害,事有明審。魏史若以為大惡邪,則宜隱而不言,若謂為小惡邪,則不應假為之辭,而崇飾虛文乃至於是,異乎所聞於舊史。推此而言,其稱卞、甄諸后言行之善,皆難以實論。陳氏刪落,良有以也。

裴(はい)松(しょう)之(し)はこう考えるよ。『春(しゅん)秋(じゅう)』の教えでは、君主や国の大きな悪事はわざと書かないで、小さな悪事は記録しないことになっているんだ。曹(そう)丕(ひ)が甄(しん)氏(し)を皇后に立てないで、そのうえ死を命令したことは、事実がはっきりしている出来事だよね。魏(ぎ)の歴史(『魏(ぎ)書(しょ)』)がもしこれを大きな悪事だと考えたのなら、書かないで隠すべきだったんだ。もし小さな悪事だと考えたのなら、事実ではないもっともらしい理由を作ってまで取りつくろうべきではないよ。それが『魏(ぎ)書(しょ)』は実際にはそのような作り話を加えて、美しい言葉で飾り立てているんだ。これは、私が昔から伝え聞いてきた正しい歴史の書き方とは大きく違っているよね。このことから考えると、『魏(ぎ)書(しょ)』が、卞(べん)氏(し)や甄(しん)氏(し)たち皇后たちの立派な言動を書いている記事も、そのまま事実として信じることは難しいんだ。陳(ちん)寿(じゅ)が、このような記事を削って載せなかったのも、このような理由があったんだ。

本文

明帝即位,有司奏請追謚,使司空王朗持節奉策以太牢告祠于陵,又別立寢廟。(註15)

曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、役人は甄(しん)氏(し)に謚号を送るように上奏したよ。そこで、司(し)空(くう)の王(おう)朗(ろう)に節を持たせて詔を授けて太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて、陵墓でまつりをさせたよ。そして、甄(しん)氏(し)のために新しく廟を立てたよ。

(註15)

魏書載三公奏曰:「蓋孝敬之道,篤乎其親,乃四海所以承化,天地所以明察,是謂生則致其養,歿則光其靈,誦述以盡其美,宣揚以顯其名者也。今陛下以聖懿之德,紹承洪業,至孝烝烝,通於神明,遭離殷憂,每勞謙讓。先帝遷神山陵,大禮旣備,至於先后,未有顯謚。伏惟先后恭讓著於幽微,至行顯於不言,化流邦國,德侔二南,故能膺神靈嘉祥,為大魏世妃。雖夙年登遐,萬載之後,永播融烈,后妃之功莫得而尚也。案謚法:『聖聞周達曰昭。德明有功曰昭。』昭者,光明之至,盛乆而不昧者也。宜上尊謚曰文昭皇后。」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、三(さん)公(こう)は上奏してこう言ったよ。
「親を大切にして敬う道は、何よりも自分の父や母を深く敬って愛することから始まるよ。それによって天下の人たちはよい教えを受けて、天地の神々もその真心を見るんだ。生きているあいだは十分に親を養って、亡くなった後はその霊を手厚く敬って、その立派な行いを語って伝えて、その名を世に広く知らせることこそが、孝の道だね。
今、陛下(曹(そう)叡(えい))はすぐれた徳で偉大な事業を受け継いで、孝の心は本当に深くて、その真心は神々にまで届いているよ。でも、先帝(曹(そう)丕(ひ))を失われた深い悲しみのせいで、何事にも自身を控えて、謙虚な態度を続けているんだ。先帝の霊はすでに陵墓へ移って、葬儀もすべて終わったよ。でも、先皇后(甄(しん)氏(し))には、まだ諡号が贈られていないんだ。
思うに、先皇后は人知れず謙虚で慎み深くて、そのすぐれた行いは、あえて言葉にしなくても人々に伝わるくらいだよ。そのよい教えは国中に広まって、その徳は『詩(し)経(きょう)』の二(に)南(なん)にうたわれた理想の后妃にも並ぶくらいだよ。だから、天の神々から大きな幸運を授かって、魏(ぎ)の皇后になったんだね。若くして亡くなられたとはいえ、その立派な徳は、これから先も長く世に伝わり続けるだろうね。その功績は、歴代の皇后たちの中でも並ぶ者がいないよ。
諡名の決まりを調べると、『広く物事を知って、道理によく通じていることを昭という。徳が明らかで、大きな功績があることを昭という』とあるよ。『昭』とは、光が最も明るくて、いつまでも輝きを失わないことを意味するんだ。だから、文(ぶん)昭(しょう)皇(こう)后(ごう)と尊んで呼ぶのがぴったりだよね」

『聖聞周達曰昭。德明有功曰昭。』は『逸(しゅう)周(いつ)書(しょ)』「謚法解」から。

(註15)

是月,三公又奏曰:「自古周人始祖后稷,又特立廟以祀姜嫄。今文昭皇后之於萬嗣,聖德至化,豈有量哉!夫以皇家世妃之尊,而克讓允恭,固推盛位,神靈遷化,而無寢廟以承享禮,非所以報顯德,昭孝敬也。稽之古制,宜依周禮,先妣別立寢廟。」並奏可之。

この月、三(さん)公(こう)はさらに上奏してこう言ったよ。
「昔、周(しゅう)の人たちは始祖の后(こう)稷(しょく)をまつるだけでなくて、その母の姜(きょう)嫄(げん)のためにも特別な廟を建ててまつっていたよ。今、文(ぶん)昭(しょう)皇(こう)后(ごう)(甄(しん)氏(し))が皇室の子孫に残された恵みは、すごく大きくて、そのすぐれた徳と人々を教え導く力は、とても計り知れるものではないよ。皇后という尊い身分なのに、いつも謙虚で礼儀正しくて、自ら進んで高い地位にこだわらなかったんだ。今、その霊は天へ去ったけど、廟がないままでは、その立派な徳に報いることも、親を敬う心を明らかにすることもできないんだ。
昔の制度を調べると、『周(しゅ)礼(らい)』にならって、先に亡くなった母のためには、別に廟を建てるのがよいとされているよ。だから、文(ぶん)昭(しょう)皇(こう)后(ごう)のためにも、独立した廟を建てるべきだよ」
曹(そう)叡(えい)はこの上奏を受け入れたよ。

本文

太和元年三月,以中山魏昌之安城鄉戶千,追封逸,謚曰敬侯;適孫像襲爵。四月,初營宗廟,掘地得玉璽,方一寸九分,其文曰「天子羨思慈親」,明帝為之改容,以太牢告廟。又甞夢見后,於是差次舅氏親疏高下,叙用各有差,賞賜累鉅萬;以像為虎賁中郎將。是月,后母薨,帝制緦服臨喪,百僚陪位。

太(たい)和(わ)元年(227年)、三月、中(ちゅう)山(ざん)郡魏(ぎ)昌(しょう)県の安(あん)城(じょう)郷(きょう)の1,000戸を領地として、甄(しん)逸(いつ)をあらためて封じて、敬(けい)侯(こう)の諡号を授けたよ。嫡孫の甄(しん)像(ぞう)が爵位を継いだよ。
四月、初めて皇室の宗廟(先祖の廟)を建て始めて、その地面を掘ると、1つの玉(ぎょく)の印が見つかったよ。一辺が1寸9分くらいの大きさで、その印には、「天子羨思慈親(天子は亡き母を深く慕い続けている)」と刻まれていたんだ。
これを見た曹(そう)叡(えい)はびっくりして、太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げて宗廟で報告の祭りをしたよ。
それに、曹(そう)叡(えい)は甄(しん)氏(し)を夢の中で見たことがあったんだ。だから、母方の一族について、血縁の近い者と遠い者、身分の高い者と低い者を順に区別して、それぞれにふさわしい官職を授けたよ。さらに、賞を万以上も与えたんだ。それに、甄(しん)像(ぞう)を虎(こ)賁(ほん)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)に任命したよ。
その月、甄(しん)氏(し)の母が亡くなったんだ。曹(そう)叡(えい)は自ら細い麻布で作る喪服を着て葬儀に臨んで、朝廷の役人たちもこれに付き従ったよ。

本文

四年十一月,以后舊陵庳下,使像兼太尉,持節詣鄴,昭告后土,十二月,改葬朝陽陵。像還,遷散騎常侍。青龍二年春,追謚后兄儼曰安城鄉穆侯。夏,吳賊寇揚州,以像為伏波將軍,持節監諸將東征,還,復為射聲校尉。三年薨,追贈衞將軍,改封魏昌縣,謚曰貞侯;子暢嗣。又封暢弟溫、𩋾、豔皆為列侯。四年,改逸、儼本封皆曰魏昌侯,謚因故。封儼世婦劉為東鄉君,又追封逸世婦張為安喜君。

太(たい)和(わ)四年(230年)、十一月、曹(そう)叡(えい)は、甄(しん)氏(し)のもとの墓が低い土地にあって、ふさわしくないと考えたよ。甄(しん)像(ぞう)に太(たい)尉(い)を兼ねさせて、節を持たせて鄴(ぎょう)に行かせたよ。甄(しん)像(ぞう)は土地の神に対して正式にそのことを告げたよ。十二月、甄(しん)氏(し)の墓を朝(ちょう)陽(よう)陵(りょう)に移して葬ったよ。甄(しん)像(ぞう)は都へ戻ると、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)に昇進したよ。
青(せい)龍(りゅう)二年(234年)、春、曹(そう)叡(えい)は、甄(しん)氏(し)の兄の甄(しん)儼(げん)に安(あん)城(じょう)郷(きょう)穆(ぼく)侯(こう)の諡号を贈ったよ。夏、呉(ご)の敵が揚(よう)州へ攻め込んできたんだ。甄(しん)像(ぞう)は伏(ふく)波(は)将(しょう)軍(ぐん)に任命されて、節を持って、将たちを指揮して東へ軍を進めたよ。帰ると、ふたたび射(しゃ)声(せい)校(こう)尉(い)に任命されたよ。
青(せい)龍(りゅう)三年(235年)、甄(しん)像(ぞう)は亡くなって、衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の官職を贈られて、魏(ぎ)昌(しょう)県に改めて封ぜられて、貞(てい)侯(こう)の諡号を贈られたよ。その子の甄(しん)暢(ちょう)が爵位を継いだよ。そして、甄(しん)暢(ちょう)の弟の甄(しん)温(おん)、甄(しん)𩋾(い)、甄(しん)豔(えん)もそれぞれ列(れっ)侯(こう)に封ぜられたよ。
青(せい)龍(りゅう)四年(236年)、甄(しん)逸(いつ)と甄(しん)儼(げん)の爵位を魏(ぎ)昌(しょう)侯(こう)として、諡号はそのままにしたよ。そして、甄(しん)儼(げん)の妻の劉(りゅう)氏(し)を東(とう)郷(きょう)君(くん)、甄(しん)逸(いつ)の妻の張(ちょう)氏(し)を安(あん)喜(き)君(くん)に封じたよ。

本文

景初元年夏,有司議定七廟。冬,又奏曰:「蓋帝王之興,旣有受命之君,又有聖妃恊于神靈,然後克昌厥世,以成王業焉。昔高辛氏卜其四妃之子皆有天下,而帝摯、陶唐、商、周代興。周人上推后稷,以配皇天,追述王初,本之姜嫄,特立宮廟,世世享甞,周禮所謂『奏夷則,歌中呂,舞大濩,以享先妣』者也。詩人頌之曰:『厥初生民,時維姜嫄。』言王化之本,生民所由。又曰:『閟宮有侐,實實枚枚,赫赫姜嫄,其德不回。』詩、禮所稱姬宗之盛,其美如此。

景(けい)初(しょ)元年(237年)、夏、役人たちは皇室の祖先をまつる七廟の制度について話し合って、その内容を決めたよ。冬、上奏してこう言ったよ。
「昔から、皇帝が国を興すときには、天命を受けた君主がいるだけではなくて、神々の心にかなうすぐれた皇后もいて、初めてその王朝は長く栄えて、大きな事業を成し遂げられたんだよ。昔、高(こう)辛(しん)氏(し)(嚳(こく))は自分の4人の妃の子供たちが、それぞれ天下を治めるようになるという占いを受けたよ。帝(てい)摯(し)、陶(とう)唐(とう)(堯(ぎょう))、商(しょう)(殷(いん))、周(しゅう)が次々に国を興したよ。
周(しゅう)の人たちはその祖先をたどって后(こう)稷(しょく)を天(てん)帝(てい)と一緒にまつって、その始まりをさらにさかのぼって、その母の姜(きょう)嫄(げん)を王家の始祖として敬ったよ。これは、『周(しゅ)礼(らい)』にある『夷(い)則(そく)の音楽を演奏して、中(ちゅう)呂(りょ)の歌を歌って、大(たい)濩(かく)の舞を舞って、始祖の母をまつる』という決まりのことだよ。『詩(し)経(きょう)』ではこれをたたえて『この民のはじまりは、姜(きょう)嫄(げん)から始まった』とあるよ。これは、王家の教えが広まるもととなって、人々が栄える始まりが姜(きょう)嫄(げん)にあるという意味だね。さらに、『静かな宮殿は厳かな雰囲気に満ちて、静けさが満ちて、すべてが整えられている。偉大な姜(きょう)嫄(げん)は、その徳を決して失わなかった』とあって、『詩(し)経(きょう)』と『周(しゅ)礼(らい)』が姫(き)(周(しゅう))の繁栄をたたえているのは、このように姜(きょう)嫄(げん)のすぐれた徳があったからだよ。

本文

大魏期運,繼于有虞,然崇弘帝道,三世彌隆,廟祧之數,實與周同。今武宣皇后、文德皇后各配無窮之祚,至於文昭皇后膺天靈符,誕育明聖,功濟生民,德盈宇宙,開諸後嗣,乃道化之所興也。寢廟特祀,亦姜嫄之閟宮也,而未著不毀之制,懼論功報德之義,萬世或闕焉,非所以昭孝示後世也。文昭廟宜世世享祀奏樂,與祖廟同,永著不毀之典,以播聖善之風。」於是與七廟議並勒金策,藏之金匱。

魏(ぎ)が天命を受けて国を開いたことは、有(ゆう)虞(ぐ)(舜(しゅん))の正しい道を受け継ぐものだよ。そして皇帝の道はますます盛んになって、三代にわたって栄えたんだ。だから、宗廟(先祖の廟)の制度も、まさに周(しゅう)と同じように整えられているよ。
今、武(ぶ)宣(せん)皇(こう)后(ごう)(卞(べん)氏(し))、文(ぶん)徳(とく)皇(こう)后(ごう)(郭(かく)氏(し))は二人とも永遠に皇帝とともにまつられる尊い皇后だよ。そして、文(ぶん)昭(しょう)皇(こう)后(ごう)(甄(しん)氏(し))は天のしるしを受けて生まれて、立派な君主(曹(そう)叡(えい))を生んだよ。その功績は人々を救って、その徳は天下に満ちあふれていて、後の皇室の子孫へと続く道を開いて、よい政治や教えが栄えるもととなったんだ。このような人のために特別な廟を建ててまつることは、姜(きょう)嫄(げん)のために建てられた閟(ひ)宮(きゅう)と同じ意味を持つものだよ。でも、その廟を永遠に取り壊さないでまつり続ける制度は、まだ正式に定められていないんだ。もしこのままなら、その功績と徳に報いるという大切な教えが、後の世になって失われてしまうかも。それでは孝を明らかにして、後の世の手本を示すことにはならないよね。
そこで、文(ぶん)昭(しょう)皇(こう)后(ごう)の廟は代々まつって、音楽を奏でるべきで、先祖の廟と同じように扱って、永久に廃されることのない制度として明らかにして、その聖なる徳の風を後の世に広く伝えるべきだよ」
この上奏が認められて、七廟の制度について決めて、その内容は金策に刻んで、金の箱に入れたよ。

本文

帝思念舅氏不已。暢尚幼,景初末,以暢為射聲校尉,加散騎常侍,又特為起大第,車駕親自臨之。又於其後園為像母起觀廟,名其里曰渭陽里,以追思母氏也。嘉平三年正月,暢薨,追贈車騎將軍,謚曰恭侯;子紹嗣。

曹(そう)叡(えい)は母方の一族のことをいつまでも忘れられなかったんだ。甄(しん)暢(ちょう)はまだ幼かったから、景(けい)初(しょ)の年号の終わりごろ(239年)、曹(そう)叡(えい)は甄(しん)暢(ちょう)を射(しゃ)声(せい)校(こう)尉(い)に任命して、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)の称号を与えたよ。そして、甄(しん)暢(ちょう)のために特別に大きな屋敷を建てさせて、自ら馬車でその屋敷を訪れたんだ。さらに、その屋敷の裏庭には、甄(しん)像(ぞう)の母のために廟を建てたよ。その地域を渭(い)陽(よう)里(り)と名つけて、亡き母を深く慕う気持ちを表したんだ。
嘉(か)平(へい)三年(251年)、正月、甄(しん)暢(ちょう)が亡くなったんだ。車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の官職を贈られて、恭(きょう)侯(こう)の謚号を贈られたよ。子の甄(しん)紹(しょう)が後を継いだよ。

本文

太和六年,明帝愛女淑薨,追封謚淑為平原懿公主,為之立廟。取后亡從孫黃與合葬,追封黃列侯,以夫人郭氏從弟德為之後,承甄氏姓,封德為平原侯,襲公主爵。(註16)(註17)

太(たい)和(わ)六年(232年)、曹(そう)叡(えい)がすごくかわいがっていた娘の曹(そう)淑(しゅく)が亡くなったんだ。曹(そう)叡(えい)は、曹(そう)淑(しゅく)に平(へい)原(げん)懿(い)公(こう)主(しゅ)の謚号を贈って、廟を建てたよ。
そして、すでに亡くなっていた甄(しん)氏(し)の従孫(いとこの孫)の甄(しん)黄(こう)を曹(そう)淑(しゅく)と合葬したよ。甄(しん)黄(こう)を列(れっ)侯(こう)に封じたよ。郭(かく)夫(ふ)人(じん)の従弟の郭(かく)徳(とく)を甄(しん)黄(こう)の後継ぎとして、甄(しん)氏(し)の姓を継がせたんだ。郭(かく)徳(とく)を平(へい)原(げん)侯(こう)に封じて、平(へい)原(げん)懿(い)公(こう)主(しゅ)の爵位を継がせたよ。

(註16)

孫盛曰:於禮,婦人旣無封爵之典,況於孩末,而可建以大邑乎?德自異族,援繼非類,匪功匪親,而襲母爵,違情背典,於此為甚。陳羣雖抗言,楊阜引事比並,然皆不能極陳先王之禮,明封建繼嗣之義,忠至之辭,猶有闕乎!詩云:「赫赫師尹,民具爾瞻。」宰輔之職,其可略哉!

孫(そん)盛(せい)によると、礼では、女性に爵位を与える決まりはもともと存在しないよ。なのに、幼い子供にまで大きな領地を与えるなんて、どうして認められるの? 郭(かく)徳(とく)はもともと別の一族の人で、後継ぎになったとはいえ、本来受け継ぐべき家の血筋ではないんだ。功績があったわけでもないし、近い血縁でもない者が、母方の爵位を受け継ぐというのは、人の心にも制度にも反していて、その誤りはすごくひどいよね。陳(ちん)羣(ぐん)はこれに反対して意見を伝えて、楊(よう)阜(ふ)も昔の例を引いて論じたよ。でも、二人とも昔の天子が定めた礼の制度や、爵位を与えることと家を継がせることの本来の意味を十分に説明しきれなかったんだ。忠義から出た意見だったけど、足りなかったところがあったよね。
『詩(し)経(きょう)』に『輝かしい伊(い)尹(いん)には、民はみんなこれを仰いで見る』とあるように、天子を助ける務めは、決して軽く考えてよいものではないよ!

(註17)

晉諸公贊曰:德字彥孫。司馬景王輔政,以女妻德。妻早亡,文王復以女繼室,即京兆長公主。景、文二王欲自結於郭后,是以頻繁為婚。德雖無才學,而恭謹謙順。甄溫字仲舒,與郭建及德等皆后族,以事宜見寵。咸熈初,封郭建為臨渭縣公,德廣安縣公,邑皆千八百戶。溫本國侯,進為輔國大將軍,加侍中,領射聲校尉,德鎮軍大將軍。泰始元年,晉受禪,加建、德、溫三人位特進。德為人貞素,加以世祖姊夫,是以遂貴當世。德暮年官更轉為宗正,遷侍中。

『晋(しん)諸(しょ)公(こう)賛(さん)』によると、郭(かく)徳(とく)は、字(あざな)は彦(げん)孫(そん)だよ。司(し)馬(ば)師(し)が政治を助けていたころ、その娘を郭(かく)徳(とく)の妻にしたよ。でも、その妻は早くに亡くなったんだ。そこで、司(し)馬(ば)昭(しょう)はふたたび自分の娘を郭(かく)徳(とく)の妻にしたよ。この娘は、京(けい)兆(ちょう)長(ちょう)公(こう)主(しゅ)だよ。司(し)馬(ば)師(し)と司(し)馬(ば)昭(しょう)は皇后の郭(かく)氏(し)と親しい関係を結ぼうとしていたから、何度も結婚によって親族関係を作ったんだ。
郭(かく)徳(とく)には特別な才能や学問の力はなかったけど、礼儀正しくて、慎み深くて、人の言うことをよく聞く人物なんだって。
甄(しん)温(おん)は、字(あざな)は仲(ちゅう)舒(じょ)で、郭(かく)建(けん)や郭(かく)徳(とく)と同じで、郭(かく)氏(し)の親族だよ。だから、仕事ぶりなどを認められて、皇帝から特に大切にされたんだって。
咸(かん)熙(き)の年号の初めごろ(265年)、郭(かく)建(けん)は臨(りん)渭(い)県(けん)公(こう)、郭(かく)徳(とく)は広(こう)安(あん)県(けん)公(こう)に封ぜられて、それぞれの1,800戸の領地を与えられたよ。甄(しん)温(おん)はもともと国(こく)侯(こう)で、輔(ほ)国(こく)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に昇進して、侍(じ)中(ちゅう)にもなって、射(しゃ)声(せい)校(こう)尉(い)を兼ねたよ。郭(かく)徳(とく)は鎮(ちん)軍(ぐん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)になったよ。
泰(たい)始(し)元年(265年)、晋(しん)が魏(ぎ)から皇帝の位を受け継いたんだ。郭(かく)建(けん)、郭(かく)徳(とく)、甄(しん)温(おん)の三人は、さらに特進の位を与えられたよ。郭(かく)徳(とく)は、正直で飾り気のない人で、司(し)馬(ば)炎(えん)の姉の夫だったから、当時、とても高い地位に就くことになったんだ。郭(かく)徳(とく)は年を取ってから、宗(そう)正(せい)になって、さらに侍(じ)中(ちゅう)に昇進したよ。

(註17)

太康中,大司馬齊王攸當之藩,德與左衞將軍王濟共諫請,時人嘉之。世祖以此望德,由此出德為大鴻臚,加侍中、光祿大夫,尋疾薨,贈中軍大將軍,開府侍中如故,謚恭公,子喜嗣。喜精粹有器美,歷中書郎、右衞將軍、侍中,位至輔國大將軍,加散騎常侍。喜與國姻親,而經趙王倫、齊王冏事故,能不豫際會,良由其才短,然亦以退靜免之。

太(たい)康(こう)の年号の間(280~289年)、大(だい)司(し)馬(ば)で斉(せい)王(おう)の司(し)馬(ば)攸(ゆう)が領地へ向かうことになったよ。郭(かく)徳(とく)は左(さ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)済(せい)と一緒に、行かせないようにいさめたよ。当時の人たちは二人のこの行動をほめたたえたよ。司(し)馬(ば)炎(えん)はこのことから郭(かく)徳(とく)を高く評価して、大(だい)鴻(こう)臚(ろ)に任命して、侍(じ)中(ちゅう)と光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)を兼ねさせたよ。でも、郭(かく)徳(とく)は病気になって亡くなったんだ。死後、中(ちゅう)軍(ぐん)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の位を贈られて、開(かい)府(ふ)と侍(じ)中(ちゅう)は前のままとされて、謚号は恭(きょう)公(こう)とされたよ。子の郭(かく)喜(き)が後を継いだよ。
郭(かく)喜(き)は才能があって、立派な器量を持った人だよ。中(ちゅう)書(しょ)郎(ろう)、右(う)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)、侍(じ)中(ちゅう)を歴任して、輔(ほ)国(こく)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)にまで昇進して、さらに散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)にもなったよ。郭(かく)喜(き)は皇族の親戚だけど、趙(ちょう)王(おう)の司(し)馬(ば)倫(りん)や斉(せい)王(おう)の司(し)馬(ば)冏(けい)をめぐる争いが起きたときには、かかわらなかったんだ。これは郭(かく)喜(き)の才能がそれほど高くなかったからで、争いを避けて静かに暮らしていたことも、彼が災いを受けずにすんだ理由だよ。

本文

青龍中,又封后從兄子毅及像弟三人,皆為列侯。毅數上疏陳時政,官至越騎校尉。嘉平中,復封暢子二人為列侯。后兄儼孫女為齊王皇后,后父已沒,封后母為廣樂鄉君。

青(せい)龍(りゅう)の年号の間(233~237年)、曹(そう)叡(えい)は、甄(しん)氏(し)の従兄の子の甄(しん)毅(き)と甄(しん)像(ぞう)の弟3人を、みんな列(れっ)侯(こう)に封じたよ。甄(しん)毅(き)は政治について何度も上書したよ。その後、越(えっ)騎(き)校(こう)尉(い)にまで昇進したよ。
嘉(か)平(へい)の年号の間(249~254年)、甄(しん)暢(ちょう)の2人の子供も列(れっ)侯(こう)に封ぜられたよ。それに、甄(しん)氏(し)の兄の甄(しん)儼(ぎょう)の孫娘は曹(そう)芳(ほう)の皇后になったよ。彼女の父はすでに亡くなっていたから、その母は広(こう)楽(らく)郷(きょう)君(くん)に封ぜられたよ。

文徳郭皇后

三國志 : 魏書五 : 文德郭皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

文德郭皇后,安平廣宗人也。祖世長吏。(註18)

文(ぶん)徳(とく)郭(かく)皇(こう)后(ごう)は、安(あん)平(ぺい)国広(こう)宗(そう)県の出身だよ。先祖は代々役人を務めていたんだって。

(註18)

魏書曰:父永,官至南郡太守,謚敬侯。母姓董氏,即堂陽君,生三男二女:長男浮,高唐令,次女昱,次即后,后弟都,弟成。后以漢中平元年三月乙卯生,生而有異常。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、郭(かく)氏(し)の父は郭(かく)永(えい)で、南(なん)郡(ぐん)太(たい)守(しゅ)(郡の長官)まで昇進して、諡号は敬(けい)侯(こう)だよ。母の姓は董(とう)氏(し)で、堂(どう)陽(よう)君(くん)と呼ばれたよ。二人のあいだには、男の子が3人、女の子が2人いるんだって。
長男は郭(かく)浮(ふ)で、高(こう)唐(とう)県(けん)令(れい)(県の長官)になったよ。次の娘は郭(かく)昱(いく)で、その次が郭(かく)氏(し)だよ。その下に弟の郭(かく)都(と)がいて、さらに弟の郭(かく)成(せい)がいるんだ。
郭(かく)氏(し)は漢(かん)の中(ちゅう)平(へい)元年(184年)の三月、乙卯の日に生まれたよ。生まれたときから、普通の子供とは違うところがあったんだって。

本文

后少而父永奇之曰:「此乃吾女中王也。」遂以女王為字。早失二親,喪亂流離,沒在銅鞮侯家。太祖為魏公時,得入東宮。后有智數,時時有所獻納。文帝定為嗣,后有謀焉。太子即王位,后為夫人,及踐阼,為貴嬪。甄后之死,由后之寵也。

郭(かく)氏(し)は幼いころから、父の郭(かく)永(えい)に「この子は、私の娘たちの中でも王になるような立派な子だ」と思われていたんだ。そして、女(じょ)王(おう)という字(あざな)をつけられたよ。
郭(かく)氏(し)は早くに両親を亡くしたんだ。その後、戦いや世の中の混乱によって、あちこちをさまって、銅(どう)鞮(てい)侯(こう)の家に引き取られて暮らしていたよ。
曹(そう)操(そう)が魏(ぎ)公(こう)になると、郭(かく)氏(し)は東宮に入ったよ。郭(かく)氏(し)は知恵があって、いろいろなことを考える力があったから、何度も曹(そう)操(そう)に意見を言ったよ。曹(そう)丕(ひ)が後継ぎに選ばれたのも、郭(かく)氏(し)の助言があったからなんだって。
曹(そう)丕(ひ)が王に即位すると、郭(かく)氏(し)は夫人となったよ。曹(そう)丕(ひ)が皇帝に即位すると貴(き)嬪(ひん)となったよ。
甄(しん)氏(し)が死ぬことになったのは、郭(かく)氏(し)が曹(そう)丕(ひ)から特にかわいがられていたからなんだ。

本文

黃初三年,將登后位,文帝欲立為后,中郎棧潛上疏曰:「在昔帝王之治天下,不唯外輔,亦有內助,治亂所由,盛衰從之。故西陵配黃,英娥降媯,並以賢明,流芳上世。桀奔南巢,禍階末喜;紂以炮烙,怡恱妲己。是以聖哲慎立元妃,必取先代世族之家,擇其令淑以統六宮,虔奉宗廟,陰教聿脩。易曰:『家道正而天下定。』由內及外,先王之令典也。春秋書宗人釁夏云,無以妾為夫人之禮。齊桓誓命于葵丘,亦曰『無以妾為妻』。今後宮嬖寵,常亞乘輿。若因愛登后,使賤人暴貴,臣恐後世下陵上替,開張非度,亂自上起也。」文帝不從,遂立為皇后。(註19)

黄(こう)初(しょ)三年(222年)、曹(そう)丕(ひ)は郭(かく)氏(し)を皇后に立てようとしたよ。でも、中(ちゅう)郎(ろう)の棧(さん)潜(せん)は上奏してこう言ったよ。
「昔の帝王が天下を治めるときには、政治を助ける男性の家臣だけでなくて、宮中で帝王を助ける女性もいたよ。国がよく治まるか乱れるか、国が栄えるか衰えるかは、こうした女性の存在にも関係していたんだって。だから、昔の立派な帝王たちは、皇后を選ぶときにとても慎重だったよ。
黄(こう)帝(てい)の妻となった西(せい)陵(りょう)氏(し)や、舜(しゅん)の妻となった娥(が)皇(こう)と女(じょ)英(えい)は、どちらも賢くて立派な女性で、その名声は後の時代まで伝わっているよ。一方、夏(か)の桀(けつ)王(おう)が南(なん)巣(そう)へ逃げることになったときには、末(ばっ)喜(き)という女性が災いのきっかけになったといわれているし、殷(いん)の紂(ちゅう)王(おう)が火あぶりという残酷な刑をしたのも、妲(だっ)己(き)を喜ばせるためだったといわれているんだ。
だから、立派な君主は皇后を決めるとき、特に慎重にしなければならないよ。昔から続いている名門の家から、人格のすぐれた女性を選び、その女性に後宮の女性たちをまとめてもらって、宗廟(祖先の廟)をまつる仕事を大切にしてもらうの。そして、宮中の教育もしっかり行われるようにするんだ。
『易(えき)経(きょう)』には『家の道が正しく治まれば、天下も安定する』と書かれているよ。家の中をきちんと整えてから外の国を治めるというのは、昔の王たちが大切にしてきた決まりだね。『春(しゅん)秋(じゅう)』にも、同じ一族の人たちが夏(か)の礼を乱したとして、側室を正式な夫(ふ)人(じん)にしてはいけないという考えが書かれているよ。斉(せい)の桓(かん)公(こう)も、葵(き)丘(きゅう)で誓いを立てたとき、『側室を妻にしてはいけない』と言ったよ。
でも今、後宮で特にかわいがられている女性が、皇帝の乗り物に次ぐくらい高い扱いを受けているんだ。もし、皇帝がその女性を愛しているという理由だけで皇后にしてしまえば、身分の低かった女性が突然、とても高い身分になるよ。私は、それによって後の世の人たちが、身分の上の人を軽んじたり、身分の決まりを壊したりすることを恐れているの。そのような間違ったことが広がれば、国の乱れは上の立場にいる人たちから始まるだろうね」
でも、曹(そう)丕(ひ)はこの意見を聞き入れないで、郭(かく)氏(し)を皇后に立てたんだ。

(註19)

魏書曰:后上表謝曰:「妾無皇、英釐降之節,又非姜、任思齊之倫,誠不足以假充女君之盛位,處中饋之重任。」后自在東宮,及即尊位,雖有異寵,心愈恭肅,供養永壽宮,以孝聞。是時柴貴人亦有寵,后教訓獎導之。後宮諸貴人時有過失,常彌覆之,有譴讓,輙為帝言其本末,帝或大有所怒,至為之頓首請罪,是以六宮無怨。性儉約,不好音樂,常慕漢明德馬后之為人。

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、郭(かく)氏(し)は感謝して、上表してこう言ったよ。
「私は舜(しゅん)の妃だった娥(が)皇(こう)と女(じょ)英(えい)みたいに立派な女性ではないんだ。、それに太(たい)姜(きょう)(周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)の祖母)や太(たい)任(じん)(周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)の母)みたいな昔の賢い女性たちにも及ばないんだ。本当に私は、皇后という高い地位で、宮中を取り仕切る大切な役目を任されるのにふさわしい人ではないよ」
郭(かく)氏(し)は東宮にいたときから、そして皇后として高い位に就いてからも、特別にかわいがられていたよ。でも、身分が高くなるほど、ますます慎み深くて、まじめに振る舞ったんだって。永(えい)寿(じゅ)宮(きゅう)(卞(べん)氏(し))に仕えて孝行を尽くすことで知られたよ。
このころ、柴(さい)貴(き)人(じん)もかわいがられていたけど、郭(かく)氏(し)は柴(さい)貴(き)人(じん)にいろいろと教えてよい行いをするように励ましたよ。後宮の貴人たちがときどき失敗をすると、郭(かく)氏(し)はいつもその人たちをかばったよ。曹(そう)丕(ひ)がその女性たちを叱ったり、責めたりしすると、郭(かく)氏(し)はその出来事について、どうしてそうなったのか、最初から最後まで説明したよ。曹(そう)丕(ひ)がすごく怒ったときには、郭(かく)氏(し)が自分から額を地に伏して謝って、罪を許してもらえるようにお願いすることさえあったんだ。だから、後宮にいる女性たちには、郭(かく)氏(し)を恨む人がいなかったんだって。
郭(かく)氏(し)は、もともと質素な暮らしが好きで、音楽やぜいたくな楽しみを好まなかったよ。いつも漢(かん)の明(めい)帝(てい)の皇后だった馬(ば)皇(こう)后(ごう)の生き方を、いつもお手本にしていたよ。

本文

后蚤喪兄弟,以從兄表繼永後,拜奉車都尉。后外親劉斐與他國為婚,后聞之,勑曰:「諸親戚嫁娶,自當與鄉里門戶匹敵者,不得因勢,彊與他方人婚也。」后姊子孟武還鄉里,求小妻,后止之。遂勑諸家曰:「今世婦女少,當配將士,不得因緣取以為妾也。宜各自慎,無為罰首。」(註20)

郭(かく)氏(し)は、幼いころに兄弟を亡くしたんだ。だから、従兄の郭(かく)表(ひょう)が郭(かく)永(えい)の後を継いで、奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)に任命されたよ。郭(かく)氏(し)の親戚の劉(りゅう)斐(はい)が他の国と結婚しようとしていると聞いて、郭(かく)氏(し)は親戚たちに命令してこう言ったよ。
「親戚を結婚させるときは、もともと住んでいる地域で、家柄がつり合う相手を選ぶべきだよ。自分の権力を利用して、無理に遠い国の人と結婚させてはいけないんだ」
郭(かく)氏(し)の姉の子の孟(もう)武(ぶ)が故郷に帰って、側室を持とうとしたんだ。でも、郭(かく)氏(し)はこれをやめさせたよ。そして、家々に命令してこう言ったよ。
「今の世の中では、女性の数が少なくなっているんだ。だから、女性たちは将や兵たちと結婚させるべきだよ。権力や人とのつながりを利用して、女性を自分の側室にしてはいけないんだ。それぞれの家で十分に気をつけて、罰を受けないようにしてね」

(註20)

魏書曰:后常勑戒表、武等曰:「漢氏椒房之家,少能自全者,皆由驕奢,可不慎乎!」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、郭(かく)氏(し)は、いつも郭(かく)表(ひょう)や孟(もう)武(ぶ)たちを戒めてこう言ったよ。
「漢(かん)の時代、皇后の親族となった家の人たちで、最後まで無事に栄えた人は、あまり多くなかったんだ。それはおごったり、ぜいたくをしたりしたからだね。あなたたちも、よく気をつけてね!」

本文

五年,帝東征,后留許昌永始臺。時霖雨百餘日,城樓多壞,有司奏請移止。后曰:「昔楚昭王出游,貞姜留漸臺,江水至,使者迎而無符,不去,卒沒。今帝在遠,吾幸未有是患,而便移止,柰何?」羣臣莫敢復言。六年,帝東征吳,至廣陵,后留譙宮。時表留宿衞,欲遏水取魚。后曰:「水當通運漕,又少材木,奴客不在目前,當復私取官竹木作梁遏。今奉車所不足者,豈魚乎?」

黄(こう)初(しょ)五年(224年)、曹(そう)丕(ひ)が東へ軍を進めると、郭(かく)氏(し)は許(きょ)昌(しょう)の永(えい)始(し)台(たい)にとどまったよ。そのころ、100日以上も長い雨が降り続いて、城の楼閣の多くが壊れちゃった。役人が「別の場所へ移って暮らしたほうがいいよ」言ったけど、郭(かく)氏(し)はこう言ったよ。
「昔、楚(そ)の昭(しょう)王(おう)が出かけたとき、貞(てい)姜(きょう)は漸(ぜん)台(だい)にとどまったよ。そのとき長江の水が増えて危険になったから、昭(しょう)王(おう)は使者を送って迎えに行かせたよ。でも、貞(てい)姜(きょう)は、符を受け取っていないという理由で、その場を離れなかったんだ。そして、とうとう亡くなったんだ。
今、曹(そう)丕(ひ)は遠くにいるけど、幸い、まだそのような危険な目にはあっていないよ。なのに移動するのはどうなの?」
たくさんの臣下たちは、何も言えなかったんだ。
黄(こう)初(しょ)六年(225年)、曹(そう)丕(ひ)は呉(ご)を攻めるために東へ軍を進めて、広(こう)陵(りょう)に着いたよ。郭(かく)氏(し)は譙(しょう)の宮殿にとどまったよ。この時、郭(かく)表(ひょう)は宿衛として残って、水の流れを止めて魚を取ろうとしたんだ。すると、郭(かく)氏(し)はこう言ったよ。
「この水は、荷物や食料を運ぶために使わなければならないよ。それに、(水をふさぐための)材木も少ないの。使用人がここにいない今、また役所の竹や木を勝手に取ってきて、魚を取るための仕切りを作るつもりなの? 今、奉(ほう)車(しゃ)(郭(かく)表(ひょう))に足りないのは、魚なの?」

本文

明帝即位,尊后為皇太后,稱永安宮。太和四年,詔封表安陽亭侯,又進爵鄉侯,增邑并前五百戶,遷中壘將軍。以表子詳為騎都尉。其年,帝追謚太后父永為安陽鄉敬侯,母董為都鄉君。遷表昭德將軍,加金紫,位特進,表第二子訓為騎都尉。及孟武母卒,欲厚葬,起祠堂,太后止之曰:「自喪亂以來,墳墓無不發掘,皆由厚葬也;首陽陵可以為法。」青龍三年春,后崩于許昌,以終制營陵,三月庚寅,葬首陽陵西。(註21)(註22)(註23)

曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、郭(かく)氏(し)は皇太后になって、永(えい)安(あん)宮(きゅう)と呼ばれたよ。
太(たい)和(わ)四年(230年)、曹(そう)叡(えい)は、郭(かく)表(ひょう)を安(あん)陽(よう)亭(てい)侯(こう)に封じて、さらに郷(きょう)侯(こう)に爵位を進めて、領地はこれまでと合わせて500戸にして、中(ちゅう)壘(るい)将(しょう)軍(ぐん)に昇進させたよ。それに、郭(かく)表(ひょう)の子の郭(かく)詳(しょう)を騎(き)都(と)尉(い)にしたよ。
その年、曹(そう)叡(えい)は、郭(かく)氏(し)の父の郭(かく)永(えい)に安(あん)陽(よう)郷(きょう)敬(けい)侯(こう)、母の董(とう)氏(し)に都(と)郷(きょう)君(くん)の諡号を贈ったよ。さらに、郭(かく)表(ひょう)を昭(しょう)徳(とく)将(しょう)軍(ぐん)に昇進させて、金印と紫紐と、特進の位を与えたよ。そして、郭(かく)表(ひょう)の次男の郭(かく)訓(くん)を騎(き)都(と)尉(い)にしたよ。
孟(もう)武(ぶ)の母が亡くなると、孟(もう)武(ぶ)は母親を立派な墓に葬ってさらに墓のそばに祠を建てようとしたんだ。郭(かく)氏(し)はこれをやめさせて、こう言ったよ。
「戦いや混乱が起ってから、たくさんの立派な墓が盗掘されているんだ。それは、すべて厚く葬ったからだよ。首(しゅ)陽(よう)陵(りょう)をお手本にしてね」
青(せい)龍(りゅう)三年(235年)、春、郭(かく)氏(し)は許(きょ)昌(しょう)で亡くなったんだ。亡くなった後の決まりに従って、陵が作られたよ。三月、庚寅の日、首(しゅ)陽(よう)陵(りょう)の西に葬られたよ。

(註21)

魏略曰:明帝旣嗣立,追痛甄后之薨,故太后以憂暴崩。甄后臨沒,以帝屬李夫人。及太后崩,夫人乃說甄后見譖之禍,不獲大斂,被髮覆靣,帝哀恨流涕,命殯葬太后,皆如甄后故事。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、母の甄(しん)氏(し)が亡くなったことを、とても悲しく思ったの。郭(かく)氏(し)は心配や悲しみが重なって、急に亡くなったんだって。
甄(しん)氏(し)は亡くなる前、曹(そう)叡(えい)を李(り)夫(ふ)人(じん)に託したよ。甄(しん)氏(し)が亡くなると、李(り)夫(ふ)人(じん)は曹(そう)叡(えい)に、甄(しん)氏(し)が郭(かく)氏(し)から悪く言われて、正式な葬儀をしてもらえなくて、髪を乱したまま、顔を髪でおおわれた状態で葬られたと話したんだ。曹(そう)叡(えい)はとても悲しんで、後悔して涙を流したよ。そして、郭(かく)氏(し)の葬儀と埋葬について、甄(しん)氏(し)のときと同じようにするように命令したんだ。

(註22)

漢晉春秋曰:初,甄后之誅,由郭后之寵,及殯,令被髮覆面,以糠塞口,遂立郭后,使養明帝。帝知之,心常懷忿,數泣問甄后死狀。郭后曰:「先帝自殺,何以責問我?且汝為人子,可追讎死父,為前母枉殺後母邪?」明帝怒,遂逼殺之,勑殯者使如甄后故事。

『漢(かん)晋(しん)春(しゅん)秋(じゅう)』によると、もともと、甄(しん)氏(し)が処刑されたのは、郭(かく)氏(し)が曹(そう)丕(ひ)から特にかわいがられていたせいだよ。甄(しん)氏(し)が亡くなったときには、髪を乱したままにされて、顔を髪でおおわれて、口には糠を詰められたんだ。
その後、郭(かく)氏(し)が皇后に立てられて、曹(そう)叡(えい)を育てたよ。曹(そう)叡(えい)は母のことを知って、心の中ではずっと怒りを抱えていたんだ。そして、よく涙を流しながら、甄(しん)氏(し)がどのようにして死んだのかを尋ねたの。すると、郭(かく)氏(し)はこう答えたよ。
「先帝(曹(そう)丕(ひ))が自ら処刑したのだから、どうして私を責めるの? それに、あなたは人の子なら、亡くなった父のかたきを討って、前の母(甄(しん)氏(し))のために後の母(郭(かく)氏(し)を無実の罪で殺したことにするつもりなの?」
これを聞いて曹(そう)叡(えい)は怒って、郭(かく)氏(し)を追い詰めて殺させたんだ。そして、さらに、葬儀を担当する人たちに命令して、郭(かく)氏(し)の葬儀を甄(しん)氏(し)のときと同じやり方でさせたんだ。

(註23)

魏書載哀策曰:「維青龍三年三月壬申,皇太后梓宮啟殯,將葬于首陽之西陵。哀子皇帝叡親奉冊祖載,遂親遣奠,叩心擗踊,號咷仰訴,痛靈魂之遷幸,悲容車之向路,背三光以潛翳,就黃壚而安厝。嗚呼哀哉!昔二女妃虞,帝道以彰,三母嬪周,聖善彌光,旣多受祉,享國延長。哀哀慈妣,興化閏房,龍飛紫極,作合聖皇,不虞中年,暴離災殃。愍予小子,煢煢摧傷,魂雖永逝,定省曷望?嗚呼哀哉!」

『魏(ぎ)書(しょ)』によると、郭(かく)氏(し)の死を悲しむ文書として、こう書かれているよ。
「青(せい)龍(りゅう)三年(235年)、三月、壬申の日、郭(かく)氏(し)の棺が置かれていた宮殿から棺を運び出して、首(しゅ)陽(よう)の西にある陵墓へ葬ろうとしたよ。哀しむ子の皇帝の曹(そう)叡(えい)は、自分で葬儀の文書を捧げて、棺を墓へ運ぶ儀式にも立ち会ったんだ。そして、自分で祭りのお供えをしたよ。胸を痛めて、悲しみのあまり地面をたたいたり、体を投げ出したりしながら、大声で泣いたんだ。そして、亡くなった母の魂が遠くへ旅立ってしまうことを悲しんで、母の棺が墓へ向かって運ばれていく姿を見て、こう嘆いたよ。
三光(日・月・星)から離れて暗い墓の中へ入って、大地の下で静かに眠るんだ。ああ、なんて哀しいの!
昔、虞(ぐ)(舜(しゅん))には2人の娘が妃(娥(が)皇(こう)と女(じょ)英(えい))となって、そのおかげで帝王としての道がますます明らかになったよ。周(しゅう)には3人の母(太(たい)姜(きょう)・太(たい)任(じん)・太(たい)姒(じ))がいて、その立派な徳がもっと輝いだよ。このような立派な女性たちは、たくさんの幸せを受けて、その国も長く栄えたね。
ああ、悲しいの。私のやさしい母は、宮中でよい教えを広めて、私の父の皇帝(曹(そう)丕(ひ))と結ばれたよ。父が皇帝となって大きく栄えたとき、母も皇后としてその地位を支えたよ。なのに、まさかこんなに早く災いにあって、突然この世を去ってしまうとは思わなかったんだ。幼い私を残して、母は亡くなったんだ。私はひとりぼっちになって、悲しみで心が打ちくだかれているの。母の魂はもう遠くへ行ってしまって、これから私は、朝と晩に母のもとへ行って、顔を見たり話したりできないんだ。ああ、なんて哀しいの!」

本文

帝進表爵為觀津侯,增邑五百,并前千戶。遷詳為駙馬都尉。四年,追改封永為觀津敬侯,世婦董為堂陽君。追封謚后兄浮為梁里亭戴侯,都為武城亭孝侯,成為新樂亭定侯,皆使使者奉策,祠以太牢。表薨,子詳嗣,又分表爵封詳弟述為列侯。詳薨,子釗嗣。

曹(そう)叡(えい)は、郭(かく)表(ひょう)の爵位を進めて観(かん)津(しん)侯(こう)として、500戸の領地を増やして、これまでと合わせて1,000戸としたよ。さらに、郭(かく)詳(しょう)を駙(ふ)馬(ば)都(と)尉(い)に任命したよ。
青(せい)龍(りゅう)四年(236年)、曹(そう)叡(えい)は、郭(かく)永(えい)を観(かん)津(しん)敬(けい)侯(こう)、郭(かく)氏(し)の母の董(とう)氏(し)を堂(どう)陽(よう)君(くん)に改めて封じたよ。そして、郭(かく)氏(し)の兄の郭(かく)浮(ふ)を梁(りょう)里(り)亭(てい)戴(たい)侯(こう)、郭(かく)都(と)を武(ぶ)城(じょう)亭(てい)孝(こう)侯(こう)、郭(かく)成(せい)を新(しん)楽(らく)亭(てい)定(てい)侯(こう)に封じて、使者を送って詔を授けさせて、太(たい)牢(ろう)(牛・羊・豚を使った供え物)を捧げてまつったよ。
郭(かく)表(ひょう)が亡くなると、子の郭(かく)詳(しょう)が後を継いだよ。さらに郭(かく)詳(しょう)の弟の郭(かく)述(じゅつ)が列(れっ)侯(こう)に封ぜられたよ。郭(かく)詳(しょう)が亡くなると、子の郭(かく)釗(しょう)が後を継いだよ。

明悼毛皇后

三國志 : 魏書五 : 明悼毛皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

明悼毛皇后,河內人也。黃初中,以選入東宮,明帝時為平原王,進御有寵,出入與同輿輦。及即帝立,以為貴嬪。太和元年,立為皇后。后父嘉,拜騎都尉,后弟曾,郎中。

明(めい)悼(とう)毛(もう)皇(こう)后(ごう)は、河(か)内(だい)の出身だよ。黄(こう)初(しょ)の年号の間(220~226年)、選ばれて東宮に入ったよ。このとき、曹(そう)叡(えい)は平(へい)原(げん)王(おう)で、毛(もう)氏(し)は特にかわいがられて、外出するときも、曹(そう)叡(えい)と同じ車に乗って出かけたんだって。曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、毛(もう)氏(し)は貴(き)嬪(ひん)になったよ。
太(たい)和(わ)元年(227年)、毛(もう)氏(し)は皇后に立てられたよ。毛(もう)氏(し)の父の毛(もう)嘉(か)は騎(き)都(と)尉(い)に任命されて、弟の毛(もう)曾(そう)は郎(ろう)中(ちゅう)になったよ。

本文

初,明帝為王,始納河內虞氏為妃,帝即位,虞氏不得立為后,太皇后卞太后慰勉焉。虞氏曰:「曹氏自好立賤,未有能以義舉者也。然后職內事,君聽外政,其道相由而成,苟不能以善始,未能令終者也。殆必由此亡國喪祀矣!」虞氏遂絀還鄴宮。進嘉為奉車都尉,曾騎都尉,寵賜隆渥。頃之,封嘉博平鄉侯,遷光祿大夫,曾駙馬都尉。嘉本典虞車工,卒暴富貴,明帝令朝臣會其家飲宴,其容止舉動甚蚩騃,語輙自謂「侯身」,時人以為笑。(註24)

もともと、曹(そう)叡(えい)が王になると、河(か)内(だい)の出身の虞(ぐ)氏(し)を妃として迎えたよ。曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、虞(ぐ)氏(し)は皇后に立てられなかったんだ。太皇后の卞(べん)氏(し)が、虞(ぐ)氏(し)をなぐさめて、励ましたよ。虞(ぐ)氏(し)はこう言ったよ。
「曹(そう)氏(し)の一族は、身分の低い女性を皇后にすることが好きだよね。これまで、正しい道理に従って皇后を選んだ人はいないんだ。皇后は宮中のことを取り仕切って、皇帝は国の政治をするよ。この二つの役割は、お互いに支え合うことで、国をきちんと治められるよ。もし最初から正しい人を選ぶことができなければ、最後までうまく治めることもできないんだ。きっと、このようなことが原因となって、いつか国が滅んで、祖先をまつることもできなくなっちゃう!」
こうして虞(ぐ)氏(し)は、鄴(ぎょう)の宮殿へ戻されたんだ。
毛(もう)嘉(か)は奉(ほう)車(しゃ)都(と)尉(い)、毛(もう)曾(そう)は騎(き)都(と)尉(い)に昇進して、大切に扱われたよ。しばらくして、毛(もう)嘉(か)は博(はく)平(へい)郷(きょう)侯(こう)に封ぜられて、光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)に昇進して、毛(もう)曾(そう)は駙(ふ)馬(ば)都(と)尉(い)に任命されたよ。毛(もう)嘉(か)はもともと典(てん)虞(ぐ)都(と)尉(い)の車工だったけど、突然、とても高い身分になって、大金持ちになったんだ。曹(そう)叡(えい)は臣下たちを彼の家に招いて宴会を開かせたけど、毛(もう)嘉(か)の振る舞いはとても不器用で、身分の高い人らしい振る舞いができなかったの。自分を侯(こう)身(しん)と呼んでいたから、当時の人たちは笑っていたんだって。

(註24)

孫盛曰:古之王者,必求令淑以對揚至德,恢王化於關雎,致淳風於麟趾。及臻三季,並亂茲緒,義以情溺,位由寵昏,貴賤無章,下陵上替,興衰隆廢,皆是物也。魏自武王,曁于烈祖,三后之升,起自幽賤,本旣卑矣,何以長世?詩云:「絺兮綌兮,淒其以風。」其此之謂乎!

孫(そん)盛(せい)によると、昔の王たちは、必ず立派で心の正しい女性を皇后に選んで、その女性と力を合わせて、王としてのすぐれた徳を世の中に広めようとしたよ。『詩(し)経(きょう)』「関(かん)雎(しょ)」に歌われているように、国全体をよく治めようとしたの。そして、「麟(りん)趾(し)」に歌われているように、純粋で穏やかな世の中を作ろうとしたんだ。でも、三代(夏(か)・殷(いん)・周(しゅう))の時代の終わりごろ、この大切な考えが乱れて、個人的な感情を優先するようになって、身分の高い人が選ばれるのも、君主からかわいがられているかどうかで決まるようになったんだ。身分の高い人と低い人との区別がはっきりしなくなって、身分の低い人が身分の高い人を軽んじたり、上に立つ人が力を失ったりするようになっちゃった。国が栄えたり衰えたり、勢いを増したり滅びたりするのも、すべてこうしたことが原因だよ。
魏(ぎ)でも、曹(そう)操(そう)から曹(そう)叡(えい)の時代まで、3人の皇后が高い地位に上がったよ。でも、その三人とも、もともとは身分の低い家の出身なんだ。どうして長く続く国を作れるの? 『詩(し)経(きょう)』に「細い麻布、粗い麻布、風に吹かれて寒々しい」とあるけど、これはまさにこのことを言っているんだね。

本文

後又加嘉位特進,曾遷散騎侍郎。青龍三年,嘉薨,追贈光祿大夫,改封安國侯,增邑五百,并前千戶,謚曰節侯。四年,追封后母夏為野王君。

その後、毛(もう)嘉(か)はさらに特進の位を与えられて、毛(もう)曾(そう)は散(さん)騎(き)侍(じ)郎(ろう)に昇進したよ。
青(せい)龍(りゅう)三年(235年)、毛(もう)嘉(か)は亡くなって、光(こう)禄(ろく)大(たい)夫(ふ)の官職を贈られたよ。そして、安(あん)国(こく)侯(こう)に改めて封ぜられて、500戸の領地を増やされて、これまでと合わせて1,000戸になったよ。そして、節(せつ)侯(こう)の諡号を贈られたよ。
青(せい)龍(りゅう)四年(236年)、毛(もう)氏(し)の母の夏(か)氏(し)が野(や)王(おう)君(くん)に封ぜられたよ。

本文

帝之幸郭元后也,后愛寵日㢮。景初元年,帝游後園,召才人以上曲宴極樂。元后曰「宜延皇后」,帝弗許。乃禁左右,使不得宣。后知之,明日,帝見后,后曰:「昨日游宴北園,樂乎?」帝以左右泄之,所殺十餘人。賜后死,然猶加謚,葬愍陵。遷曾散騎常侍,後徙為羽林虎賁中郎將、原武典農。

曹(そう)叡(えい)は、もともと郭(かく)氏(し)をとてもかわいがっていたよ。でも、だんだんとその愛情は薄れていったんだ。
景(けい)初(しょ)元年(237年)、曹(そう)叡(えい)が庭で遊んでいたとき、才(さい)人(じん)以上の身分の女性たちを呼んで、宴会を開いて、とても楽しく過ごしたよ。郭(かく)氏(し)はこう言ったよ。
「皇后(毛(もう)氏(し))も呼んだほうがいいよ」
でも、曹(そう)叡(えい)は許さなかったんだ。それで、郭(かく)氏(し)は周りの人たちに命令して、毛(もう)氏(し)にそのことを伝えないようにしたんだ。毛(もう)氏(し)はこれを知って、翌日、曹(そう)叡(えい)が毛(もう)氏(し)に会うと、毛(もう)氏(し)はこう尋ねたよ。
「昨日の北園での宴は楽しかった?」
曹(そう)叡(えい)は周りの人たちが漏らしたと思って、10人以上を殺したんだ。毛(もう)氏(し)も死ぬように命令されたんだ。諡を与えられて、愍(びん)陵(りょう)に葬られたんだ。
毛(もう)曾(そう)は散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)に昇進したよ。その後、羽(う)林(りん)虎(こ)賁(ほん)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)や原(げん)武(ぶ)典(てん)農(のう)に任命されたよ。

明元郭皇后

三國志 : 魏書五 : 明元郭皇后 - 中國哲學書電子化計劃から原文を引用しているよ。

本文

明元郭皇后,西平人也,世河右大族。黃初中,本郡反叛,遂沒入宮。明帝即位,甚見愛幸,拜為夫人。叔父立為騎都尉,從父芝為虎賁中郎將。帝疾困,遂立為皇后。齊王即位,尊后為皇太后,稱永寧宮,追封謚太后父滿為西都定侯,以立子建紹其爵。封太后母杜為郃陽君。芝遷散騎常侍、長水校尉,(註25)立,宣德將軍,皆封列侯。

明(めい)元(げん)郭(かく)皇(こう)后(ごう)は、西(せい)平(へい)の出身で、家は代々河(か)西(せい)の有力者だよ。黄(こう)初(しょ)の年号の間(220~226年)、郡が反乱を起こしたから、郭(かく)氏(し)は後宮に入ったんだ。曹(そう)叡(えい)が皇帝に即位すると、郭(かく)氏(し)はとてもかわいがられて、夫(ふ)人(じん)になったよ。叔父の郭(かく)立(りつ)は騎(き)都(と)尉(い)、従父の郭(かく)芝(し)は虎(こ)賁(ほん)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)になったよ。
曹(そう)叡(えい)が病気になって、かなり弱ってくると、郭(かく)氏(し)は皇后に立てられたよ。曹(そう)芳(ほう)が皇帝に即位すると、郭(かく)氏(し)は皇太后として尊ばれて、永(えい)寧(ねい)宮(きゅう)と呼ばれたよ。そして、郭(かく)氏(し)の父の郭(かく)満(まん)は西(せい)都(と)定(てい)侯(こう)に封ぜられて、その爵位は郭(かく)立(りつ)の子の郭(かく)建(けん)が継いだよ。郭(かく)氏(し)の母の杜(と)氏(し)は郃(こう)陽(よう)君(くん)に封ぜられたよ。郭(かく)芝(し)は散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)と長(ちょう)水(すい)校(こう)尉(い)に昇進して、郭(かく)立(りつ)は宣(せん)徳(とく)将(しょう)軍(ぐん)に任命されて、ふたりとも列(れっ)侯(こう)に封ぜられたんだ。

(註25)

魏略曰:諸郭之中,芝最壯直。先時自以他功封侯。

『魏(ぎ)略(りゃく)』によると、郭(かく)氏(し)の一族の中では、郭(かく)芝(し)が最も体格がよくて、まっすぐな性格の人だよ。これより前、郭(かく)芝(し)は別の功績によって侯に封ぜられたよ。

本文

建兄德,出養甄氏。德及建俱為鎮護將軍,皆封列侯,並掌宿衞。值三主幼弱,宰輔統政,與奪大事,皆先咨啟於太后而後施行。毌丘儉、鍾會等作亂,咸假其命而以為辭焉。景元四年十二月崩,五年二月,葬高平陵西。(註26)

郭(かく)建(けん)の兄の郭(かく)徳(とく)は、甄(しん)氏(し)の家に養子として出されたよ。郭(かく)徳(とく)と郭(かく)建(けん)は、二人とも鎮(ちん)護(ご)将(しょう)軍(ぐん)となって、列(れっ)侯(こう)に封ぜられて、宿衛を管理したんだ。
三人の皇帝(曹(そう)芳(ほう)、曹(そう)髦(ぼう)、曹(そう)奐(かん))はまだ幼くて、天子を助ける臣下たちが政治を取り仕切っていたよ。の大切なことを決めるときには、まず皇太后に相談して許しをもらってから実行していたんだ。毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)や、鍾(しょう)会(かい)たちが反乱を起こしたとき、彼らはみんな、皇太后の命令を受けたという形にして、自分たちの行動を正当化しようとしたんだ。
景(けい)元(げん)四年(263年)、十二月、郭(かく)氏(し)は亡くなったんだ。景(けい)元(げん)五年(264年)、二月、高(こう)平(へい)陵(りょう)の西に葬られたんだ。

(註26)

晉諸公贊曰:建安叔始,有器局而強問,泰始中疾薨。子嘏嗣,為給事中。

『晋(しん)諸(しょ)公(こう)賛(さん)』によると、郭(かく)建(けん)は、字(あざな)は安(あん)叔(しゅく)で、器量があって、意志が強かったけど、泰(たい)始(し)の年号の間(265~274年)に病気で亡くなったんだ。子の郭(かく)嘏(か)が後を継いで、給(きゅう)事(じ)中(ちゅう)になったよ。

陳寿の評

本文

評曰:魏后妃之家,雖云富貴,未有若衰漢乘非其據,宰割朝政者也。鑒往易軌,於斯為美。追觀陳羣之議,棧潛之論,適足以為百王之規典,垂憲範乎後葉矣。

評すると、魏(ぎ)の皇后や妃たちの家は、たしかに豊かで身分が高かったよ。でも、衰えた漢(かん)の時代みたいに、本来その人が持つべきではない権力を手に入れて、朝廷の政治を自分たちの思いどおりに動かした人はいなかったよ。過去の出来事をよく見て、に政治のやり方を改めたことは、魏(ぎ)のいいところだね。陳(ちん)羣(ぐん)の意見や、棧(さん)潜(せん)の議論を振り返ると、たくさんのこれらはどちらも、後のたくさんの王にとって大切な政治の手本となるもので、後の時代の人たちに伝えるべき模範となるだろうね。

「魏書后妃伝」は以上だよ!